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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6041.03

                 人   名   辞   典    《う》       編集:獨  澄旻

-------- う ----------------------------------------------------
う いつ
	宇 逸
	1702(元禄15)
	1872(明治 5. 7.)
	◇江戸幕末の俳人。氏は白水、名は重栄、別号は北筑失明逸人
	・心聞舎。筑前福岡の人。
うい がいおう
	宇井 (立心偏+「豈」:補助3045)翁
	1702(元禄15)
	1759(宝暦 9)
	◇江戸中期の漢学者。名は雄真、字は文翼、号は(立心偏+「豈」
	:補助3045)翁。朝鮮人金作寿の長男、母は宇井道慶の娘。紀州
	新宮の人。
	 京都の伊藤東涯に学ぶ。
うい はくじゅ《うゐ はくじゆ》
	宇井 伯寿
	1882(明治15)
	1963(昭和38)
	◇インド哲学者・仏教学者。愛知県の出身。
	 高楠順次郎に学ぶ。東北大学教授・東京大学教授。
	 1953(昭和28)文化勲章を受章。
うい もくさい
	宇井 黙斎(宇井 默齋)
	1725(享保10. 4.12)
	1781(天明元.11.22)
	◇江戸中期の漢学者。本姓は丸子、名は信卿、通称は小一郎、
	号は黙斎。
うぃりあむ あだむす
	ウィリアム・アダムス
	⇒あだむす(アダムス)
うぃりあむ あだむず
	ウィリアム・アダムズ
	⇒あだむす(アダムス)
うえ さねたけ
	上 真節
	1825(文政 8)
	1895. 1.30(明治28)
	◇明治前期の雅楽の大家。本姓は狛、初名は近節のち真節。上
	近興の子。
	 1872(明治 5)大伶人。
うえがき ほうりゅう
	上柿 芳竜
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の絵師。享保年間(1716〜1736)に活躍。
うえかわ きすい《うへかは きすい》
	上河 淇水
	1748(寛延元.11. 9)
	1817(文化14.10. 4)
	◇江戸後期の心学者。本姓は源、氏は志賀のち上河、名は正揚
	・義言、字は子鷹、通称は文次・荘兵衛・愿蔵、号は淇水・
	柿園・東海。近江国御園村の士族志賀盛言の4男。近江国神崎
	郡今田居生れ。
	 京都の手島堵庵(トアン)に心学を学ぶ。20歳のとき堵庵の養子
	となり分家上河家を継ぐ。義兄手島和庵(堵庵の長男)の没後、
	1791(寛政 3)明倫舎第三世舎主。
	 同じ心学の江戸神田参前舎大島有隣(ウリン)らと対立する。
うえかわ でんいちろう
	上川 伝一郎
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸末期の幕臣。通称は伝一郎。
	 1856(安政 3)勘定方より下田奉行支配調役。1857(安政 4)小
	十人組。
うえき うてい
	植木 雨鼎
	1786(天明 6)
	1838(天保 9)
	◇江戸後期の医者・漢学者。名は文剛、字は公賁、通称は簡修。
	植木遯窩の長男。丹波国氷上郡和田村の人。
	 大阪の岡田南涯に学ぶ。
うえき えつ
	植木 悦
	生年不詳
	1698(元禄11. 2.15)
	◇江戸前期の兵学者。幼名は常成、のち長春・悦、通称は
	由右衛門、号は升安・橘生斎・東林耕人・道可。
	 小幡景憲に兵学を学ぶ。1662(寛文 2)津藩主藤堂高久に軍学
	師として召し抱えられる。1669(寛文 9)高通が分封され伊勢久
	居藩主となり、従って久居藩士。
うえき えもり《うゑき えもり》
	植木 枝盛
	1857(安政 4. 1.20)
	1892. 1.23(明治25)
	◇政治家・評論家・自由民権運動家。土佐藩下級士族の子。
	 立志社に参加。板垣退助らと国会開設に奔走。
	 1879(明治12)に刊行した『民権自由論』は平易な口語体であ
	る。
うえき かんざん
	植木 環山
	1808(文化 5)
	1881. 3. 5(明治14)
	◇江戸幕末・明治初期の漢学者。名は友風、字は士雲、通称は
	教之助、号は環山・玉堂・班竹。
うえくさ じんいち
	植草 甚一
	1908. 8. 8(明治41)
	1979.12. 2(昭和54)
	◇エッセイスト・評論家。東京生れ。早稲田大学建築科中退。
うえじま おにつら
	上島 鬼貫
	⇒かみじま おにつら(上島 鬼貫)
うえすぎ あきさだ
	上杉 顕定
	1454(享徳 3)
	1510(永正 7)
	◇室町後期の武将。幼名は四郎。越後守護上杉相摸守房定の次
	男、民部大輔越後守護上杉房能(フサヨシ)の兄。山内上杉房顕の養
	子、[2]上杉憲房の養父。
	 1467年、養父の陣没後に関東管領を継ぎ、上野・武蔵・伊豆
	の守護に就任、新たに上野国平井城を築く。
	 顕定が長尾景春を退け長尾忠景を用いたため、1476(文明 8)
	景春は武蔵国鉢形城によって顕定に叛き、翌年武蔵五十子を攻
	め顕定は上野に背走。
	 1478(文明10)梁田政信の仲介で景春と和睦、景春は剃髪する。
	古河公方(コガクボウ)足利成氏(シゲウジ)とも和睦する。
	 1486(文明18)扇谷上杉定正の重臣太田持資の死後、定正・朝
	良・後北条氏と対抗。
	 1509(永正 6)弟の房能が守護代長尾為景に殺害され、越後に
	出兵し為景と戦う。翌年高梨政頼が為景を援け、顕定は信越の
	境長森原で討死。
	(2)(名)四郎,民部大輔・相摸守。
	(16)民部少輔と称した.長屋為景が…….(*)長尾為景の誤り。
	(*)1467(文正 2,応仁元)。
うえすぎ あきふさ
	上杉 顕房
	1435(永享 7)
	1455
	◇室町前期の武将。名は弾正少弼・修理大夫。扇谷(オウギガヤツ)
	上杉氏定の子、兄持朝(モチトモ)の養嗣子、真政の父。
	 古河公方足利成氏に攻められ、夜瀬で自殺。
	(*)1455(享徳 4,康正元)。
うえすぎ あきよし
	上杉 顕能
	生年不詳
	没年不詳
	◇南北朝時代の武将。通称は修理亮・民部大輔。上杉重能(シゲ
	ヨシ)の子。
	 1351(<南>正平 6,<北>観応 2)上杉能憲(ヨシノリ)とともに高師
	直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)兄弟を摂津国武庫川に襲撃し滅ぼす。
	能憲(ヨシノリ)は関東管領、顕能は備後守護に補任される。
うえすぎ うじのり《うへすぎ うぢのり》
	上杉 氏憲
	生年不詳
	1417(応永24. 1.10)
	◇室町前期の武将。通称は右衛門佐、法号は禅秀(ゼンシュウ)日山
	・傑山禅秀。犬懸(イヌカケ)上杉朝定(トモサダ)の子、持房・教朝(ノリ
	トモ)の父。
	 1401(応永 8)鎌倉公方足利満兼の命により[1]伊達政宗を討
	つ。1411(応永18)関東管領となり、鎌倉公方足利持氏を補佐。
	山内上杉憲基(ノリモト)と争い持氏が憲基を援けたので、1415(応
	永22)家臣越幡(小幡)の所領没収問題を契機に管領を辞職、代っ
	て憲基が就任。
	 1416(応永23)持氏の叔父満隆とその養嗣子持仲を奉じて、公
	方持氏に不満の関東の豪族千葉・岩松・那須・武田氏らを集め
	反乱(上杉禅秀の乱)。持氏を駿河に、憲基を越後に追い、鎌倉
	を制圧。幕府が持氏を支援して駿河の今川氏・越後の上杉氏な
	どが出兵。氏憲方の離反が相次ぎ、武蔵国世谷原の合戦に敗北
	し、翌年鎌倉に攻め込まれ、満隆・持仲らとともに鶴岡八幡宮
	の雪ノ下の坊で自刃。
	(2)「1伊達正宗」の項:1402上杉氏憲らの大軍に……。
	(16)1401(応永 8)年関東管領満兼の命によって伊達正宗を討っ
	て…….
うえすぎ かげかつ《うへすぎ かげかつ》
	上杉 景勝
	1555
	1623(元和 9. 3. 2)
	◇安土桃山・江戸初期の武将。幼名は顕景、通称は喜平次のち
	弾正少弼・会津中納言。長尾政景(マサカゲ)の次男、母は長尾為
	景の娘。叔父上杉謙信(ケンシン)の養子。
	 父政景の死後、謙信の養子となる。1578(天正 6)養父謙信が
	没し、同じ謙信の養子で北条氏康の子[2]景虎と争う(御館の乱)。
	翌年[2]景虎が援けを求めた武田勝頼に東上野の地と黄金1万
	両の申し出て兵を収めてさせ、[2]景虎を孤立させて滅ぼし、
	謙信の遺領の越後・加賀・能登・佐渡・越中を支配。織田信長
	に能登・越中を奪われ、北信濃を侵され、越後には反乱が起こ
	る。
	 信長の死後、1583(天正11)豊臣秀吉に仕え、1586(天正14)従
	四位下左近衛権少将兼弾正大弼、1588(天正16)正四位下参議、
	秀吉から豊臣・羽柴の称号を許される。1590(天正18)小田原征
	伐、1592(文禄元)文禄の役に功をたて、1594(文禄 3)従三位中
	納言に叙任。1597(慶長 2)豊臣氏五大老の一に列し、1598(慶
	長 3)陸奥国会津120万石を領する。
	 1600(慶長 5)関ヶ原の戦に石田三成と結んで徳川家康打倒の
	兵を挙げるが、敗れて出羽米沢30万石に移封。1614(慶長19.11.)
	大坂冬の陣、1615(慶長20. 5.)夏の陣には家康に従う。
	 1922(大正11)正三位を遺贈。
	(*)1555(天文24,弘治元)。
[1]うえすぎ かげとら《うへすぎ かげとら》
	上杉 景虎
	⇒うえすぎ けんしん(上杉 謙信)
[2]うえすぎ かげとら《うへすぎ かげとら》
	上杉 景虎
	1553(天文22)
	1579(天正 7. 3.)
	◇戦国時代の武将。幼名は国増丸、のち三郎氏秀。北条氏康の
	7男、北条氏政の弟。上杉謙信の養子。
	 初め父氏康と武田信玄の甲相同盟の人質として信玄の養子と
	なり、武田三郎と称する。1568(永禄11)北条・武田が不和にな
	り小田原に帰還。
	 1569(永禄12)越相和睦の人質として上杉謙信の養子となり、
	謙信の初名景虎を与えられる。長尾政景の娘を娶り、春日山城
	に居住。
	 1568(永禄11)上杉謙信の没後、同じ養子の上杉景勝(長尾政
	景の子)と相続をめぐり争う(御館の乱)。兄北条氏政を通じて
	援けを求めた武田勝頼は、景勝より東上野の地と黄金1万両の
	申し出に兵を収めて帰国。孤立した景虎は1569(永禄12)越後国
	鮫尾城で自殺。
うえすぎ きよかた
	上杉 清方
	生年不詳
	1441
	◇室町時代の武将。関東管領執事の越後上杉房方の4子、憲実
	(ノリザネ)の弟。
	 1440(永享12)結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)が鎌倉公方足利持氏の遺
	児春王丸・安王丸を迎えて下総国結城城で挙兵。関東管領の兄
	憲実に従い、翌年落城させ氏朝は自殺。
	(*)1441(永享13,嘉吉元)。
うえすぎ きよこ
	上杉 清子
	生年不詳
	1342
	◇南北朝時代、足利尊氏(タカウジ)・足利直義(タダヨシ)の母。将軍
	家の母として足利大方殿と称せられる。上杉頼重の娘、[1]上
	杉憲房の妹、上杉重房(シゲフサ)の孫、足利貞氏の妻。
	 従二位で没し、北朝は清子の喪により文殿庭中を停止する。
	 清子が将軍家の母となることにより、上杉氏は足利氏の姻戚
	として鎌倉幕府に勢力を持つにいたる。
	(*)1342(<南>興国 3,<北>暦応 5,<北>康永元)。
うえすぎ けんしん《うへすぎ けんしん》
	上杉 謙信
	1530(享禄 3. 1.21)
	1578(天正 6. 3.13)
	◇戦国時代の武将。越後・加賀・能登・佐渡の領主。幼名は
	虎千代(寅年生れ)、名は長尾景虎のち政虎・輝虎(テルトラ)、出家
	して謙信・弾正少弼。越後国頸城郡生れ。越後守護代長尾為景
	(タメカゲ)の次子、母は越後栖吉城主長尾為景の娘虎御前(トラゴゼ
	ン)(青岩院<セイガンイン>)。
	 1536(天文 5)父為景が没し嗣子の兄晴景が長尾家を継ぎ、虎
	千代は菩提寺林泉寺の天室光育に預けられる。翌年外敵が領国
	へ迫ったので古志栃尾城に住み、1543(天文12)中越の黒田一党
	を討滅して武名を挙げ、病弱の晴景や長尾政景と対立。
	 守護上杉定実の仲介により、1548(天文17)兄の養子となって
	家督を継ぎ、春日山城に入る。関東管領上杉憲政(ノリマサ)、信濃
	の村上義清(ヨシキヨ)らに援を求められる。義清の旧領回復を名目
	にしばしば小田原北条氏康(ウジヤス)および武田信玄と川中島で
	戦う(1553,1555,1557,1561,1564)。一般に「川中島の戦い」と称
	する戦いは1561(永禄 4. 9.10)の激戦をさす。
	 1555(天文24. 7.)川中島で信玄と5ヶ月対陣、今川義元の斡
	旋で帰国。しかし家臣の分裂反目から突如出家を決意し比叡山
	に向う。途中、家臣の代表長尾政景の要請により帰国。
	 1558年、上杉憲政(ノリマサ)が北条氏康に追われて越後に亡命し、
	1561(永禄 4)鎌倉鶴岡八幡宮で上杉の家名と関東管領を受領、
	上杉政虎と改名。同年、小田原の氏康を攻めて敗走。1562(永
	禄 5)関東管領に就任、将軍足利義輝の偏諱(ヘンキ)を受け輝虎と
	改名。
	 今川義元の没後、1568(永禄11)信玄が同盟(今川・北条・武
	田)を破り今川氏真(ウジザネ)を攻めたため、北条氏康は上杉に
	接近、翌1569(永禄12)三男(のち三郎[2]景虎)を養子に入れる。
	 1573(元亀 4)信玄が病没し、越中・能登・加賀に進出。翌年、
	薙髪(テイハツ)して不識庵謙信と号する。将軍足利義昭に応じて、
	毛利氏と結び、織田信長と対立。1577(天正 5)能登七尾を落城
	させ、織田軍を加賀国手取川で撃破。信長との決戦を目前に脳
	溢血で死亡。
	◎駿河(静岡県)の今川氏真と相摸(神奈川県)の北条氏康が武田
	領へ塩の輸送を止めたとき、謙信にも越後(新潟県)の塩の輸送
	停止の要請が来たが、「戦いは弓矢で決するもので米塩ではな
	い」と、敵に塩を送った逸話がある。
	 軍旗に「毘」の字を入れていた。
	(16)'61(永禄 4)……憲政から上杉の姓を与えられ,名を政虎
	と改め,…….'62(永禄 5)年将軍足利義輝の諱をうけて輝虎
	と称し,…….
	(17)鎌倉鶴岡八幡宮で管領職就任式を行ない上杉政虎と改名し
	て帰国した。
	(*)1558(弘治 4,永禄元)。
うえすぎ さいちろう《うへすぎ さいちらう》
	上杉 佐一郎
	1919. 4.16(大正 8)
	1996. 5.10(平成 8)
	◇部落解放同盟中央執行委員長。
	◎委員長の後任は上田卓三(タクミ)。
うえすぎ さだざね
	上杉 定実
	生年不詳
	1550(天文19)
	◇戦国時代の武将。通称は兵庫頭。上条上杉房実の子、越後守
	護職上杉房能(フサヨシ)の養子。
	 1507(永正 4)上杉房能の守護代長尾為景は定実を擁立して能
	房を追放。房能は兄上杉顕定(アキサダ)を頼り脱出の途次、越後
	国東頸城郡松之山で自害。定実は越後守護職となる。
	 のち為景に幽閉、子がなく家は断絶。
うえすぎ さだまさ《うへすぎ さだまさ》
	上杉 定正(上杉 定政)
	1443(嘉吉 3)
	1493(明応 2.10. 5)
	◇室町中期の武将。扇谷(オウギガヤツ)家の第6代当主。名は定政
	とも、通称は修理大夫。扇谷上杉持朝(モチトモ)の3子。
	 父の弟で父の養嗣子でもある上杉顕房(アキフサ)の子、1473(文
	明 5)真政が敗死し、迎えられて家督を継ぐ。
	 初め扇谷家の執事太田道灌(ドウカン)(持資)の補佐を得て兵威
	をふるう。のち扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方
	の讒言(ザンゲン)により、1486(文明18)相摸国大住郡糟谷で道灌
	を殺し、勢いが衰える。北条早雲(ソウウン)と結び顕定と対抗。
	 1493(明応 2)高見原の陣中で病没。
	(2)生年は1443(嘉吉 3)。
	(4)生年は1442。
	(16)生年は1443(嘉吉 3)。
うえすぎ しげさだ
	上杉 重定
	1720(享保 5)
	1798(寛政10)
	◇江戸中期の大名。幼名は勝政、のち第9代将軍徳川家重より
	偏諱(ヘンキ)を受て重定と改名。上杉吉憲の4男、宗房の弟、上
	杉治憲(ハルノリ)(鷹山)の養父。
	 1746(延享 3)兄宗房のあとを継ぎ、米沢藩主となる。
	 1767(明和 4)治憲に藩主を譲る。
うえすぎ しげふさ
	上杉 重房
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉時代の武将・上杉氏の祖。左衛門尉藤原清房の次子、上
	杉頼重の父、上杉清子(キヨコ)の祖父。
	 1252(建長 4)鎌倉幕府第6代将軍として宗尊親王が鎌倉に下
	向するのに従い、武士となって丹波国何鹿郡上杉庄を与えられ、
	上杉氏を称する。
	◎鎌倉明月院に鎌倉時代作の上杉重房像が伝わる。
うえすぎ しげよし《うへすぎ しげよし》
	上杉 重能
	生年不詳
	1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)
	◇南北朝時代の武将。詫間(タクマ)上杉氏の祖。勧修寺別当宮津
	入道道免の子、母は足利貞氏の妻の妹、上杉顕能(アキヨシ)の父。
	[1]上杉憲房(ノリフサ)の養子。上杉能憲(ヨシノリ)の養父。
	 足利尊氏(タカウジ)に従い、元弘の変には共に京都へ攻め上り、
	尊氏と共に帰順。尊氏と行動を共にして重用され、伊豆守護職
	・引付一番頭人となる。
	 足利直義(タダヨシ)を支えて室町幕府の政策に参画し、高師直
	(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)兄弟と対立。直義に勧めて師直の執事
	職を解くことに成功するが、1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)師
	直は尊氏に直義の政務停止を迫り、直義派の重能・畠山直宗は
	越前に配流される。直義は出家(のち鎌倉に下り尊氏により毒
	殺)。
	 同年、刺客八木光勝に江守荘で殺される。
うえすぎ しんきち《うへすぎ しんきち》
	上杉 慎吉
	1878. 8.(明治11)
	1929. 4. 7(昭和 4)
	◇憲法学者。福井県生れ。東京大学法科卒業。
	 1906(明治39)ドイツ留学。帰国後、穂積八束(ホヅミ・ヤツカ)のあ
	とを受けて東京大学で憲法学講座を担当、東京大学教授となる。
	帝国憲法の絶対主義的解釈を行ない、天皇機関説の美濃部達吉
	と論争する。
	 護憲運動に対抗し、1913(大正 2)官僚・保守的学者を集め政
	党政治を否認する桐花会を結成、東京大学学内では興国同志会
	・七生会を作り、1922(大正11)高畠素之(モトユキ)らと急進国家主
	義経倫学盟を興し、右翼団体の指導的地位を占める。
うえすぎ ぜんしゅう《うへすぎ ぜんしう》
	上杉 禅秀
	⇒うえすぎ うじのり(上杉 氏憲)
うえすぎ てるとら
	上杉 輝虎
	⇒うえすぎ けんしん(上杉 謙信)
うえすぎ ともおき《うへすぎ ともおき》
	上杉 朝興
	1488(長享 2)
	1537(天文 6)
	◇戦国時代の武将。別名は大庭五郎、通称は修理大夫。上杉朝
	憲の子、朝定(トモサダ)の父、扇谷(オウギガヤツ)上杉朝良(トモヨシ)の
	養嗣子。
	 武蔵国江戸・河越城主を継ぐ。1512(永正 9. 8.)北条早雲(ソ
	ウウン)と戦って籠城した三浦義同(ヨシアツ)を救援して早雲と戦い、
	1516(永正13. 7.)義同・義意(ヨシオキ)父子が三浦半島の新井城に
	討たれて、義同一族が自殺して敗退。1524(大永 4)北条氏綱と
	品川で戦って敗れ、江戸城を奪われて河越城に退く。1530(享
	禄 3)氏綱・氏康父子と多摩川に戦い敗退。その後も江戸城を
	回復しようとするが果たさず、河越の陣中で没する。
[1]うえすぎ ともさだ《うへすぎ ともさだ》
	上杉 朝定
	1320(元応 2)
	1352
	◇南北朝時代の武将。丹後守護。重顕の子。
	 高師直と争う。
	(*)1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文和元)。
[2]うえすぎ ともさだ《うへすぎ ともさだ》
	上杉 朝定
	1525(大永 5)
	1546(天文15. 4.20)
	◇戦国時代の武将。幼名は五郎、通称は修理大夫。扇谷(オウギガ
	ヤツ)上杉朝興(トモオキ)の子。
	 1537(天文 6)父朝興が没して武蔵国河越城主を継ぎ、扇谷上
	杉家の再興を図る。武蔵国北多摩郡に深大寺を築き、小田原攻
	めに備える。同年、北条氏綱・氏康(ウジヤス)父子に本拠河越城
	を攻め落とされ、松山城に退く。1541(天文10)氏綱が没し、扇
	谷上杉朝政が攻めるが敗退。1545(天文14)古河公方足利晴氏・
	関東管領山内上杉憲政の援けを得て、8万余騎で福島綱成の率
	いる3千の河越城を包囲する。翌年、氏康が今川氏親と争って
	いるのに乗じて川越城を攻めたが、 4.20氏康が率いる8千騎
	の援軍を得て落城寸前に降参を装った夜襲(河越の夜討)に敗れ
	て、混乱の中で戦死。
	(2)生年は1525(大永 5)。
	(16)生年は1526(大永 6)。
	◎彼の死により扇谷上杉は滅ぶ。
うえすぎ ともふさ
	上杉 朝房
	生年不詳
	1371(<南>建徳 2,<北>応安 4)
	◇南北朝時代の武将。通称は左馬助・弾正少弼。犬懸(イヌカケ)上
	杉憲藤の子、朝宗の兄で養父。
	 鎌倉公方足利基氏・氏満に仕える。上総・信濃・越後守護職。
	1368〜1370年、上杉能憲(ヨシノリ)とともに関東管領。
	(*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)、1370(<南>正平
	25,<南>建徳元,<北>応安 3)。
うえすぎ ともむね
	上杉 朝宗
	1339(<南>延元 4,<北>暦応 2)
	1414(応永21)
	◇室町前期の武将。幼名は幸若丸。犬懸(イヌカケ)上杉憲藤の子、
	兄朝房の養嗣子。
	 鎌倉公方足利氏満・満兼に仕える。1380(<南>天授 6,<北>康
	暦 2. 5.)氏満の小山義政征討に上杉憲方(ノリカタ)・木戸範季と
	ともに従軍、翌年平定。1395(応永 2)関東管領・鶴岡の惣奉行。
	 1410(応永17)兼満の埋葬の日に帰宅せず、上総国長柄山胎蔵
	寺に隠退。
うえすぎ ともよし
	上杉 朝良
	生年不詳
	1518(永正15)
	◇室町後期の武将。幼名は五郎、通称は治部少輔、法名は建芳。
	上杉朝昌の子、上杉定正(サダマサ)の養嗣子、上杉朝興(トモオキ)の
	養父。
	 1494(明応 3)定正が山内上杉顕定(アキサダ)との戦いの陣中で
	没すると、朝良は武蔵国河越に帰る。今川氏親と結び、顕定と
	対抗、武蔵国立河原などで敗退。河越・江戸城主として隠退。
うえすぎ なりさだ
	上杉 斉定
	1788(天明 8)
	1839(天保10)
	◇江戸後期の大名。幼名は宮松のち治広。上杉勝(「冫」偏+「煕」
	:補助1908と異)の子、上杉斉憲(ナリノリ)の父、上杉治憲(ハルノリ)
	(鷹山)の孫、伯父上杉治広の養嗣子。
	 幼時より祖父鷹山(ヨウザン)のもとで育てられる。1812(文化 9)
	米沢藩主。1827(文政10)子の斉憲に藩主を譲る。
うえすぎ なりのり
	上杉 斉憲
	1820(文政 3)
	1889(明治22)
	◇江戸幕末・明治維新期の大名。幼名は鶴千代・喜平次のち斉
	定、諱は斉憲、通称は弾正大弼、号は曦山。上杉斉定(ナリサダ)
	の子、茂憲(モチノリ)の父。
	 1827(文政10)米沢藩主。1853(嘉永 6)洋式精練法により大砲
	を鋳造。1857(安政 4)洋式小銃を採用、藩兵に洋式操練を行う。
	1863(文久 3.10.)上洛し京都の警護に当る。
	 1868(慶応 4. 5.)会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心とな
	るが、脱落が続き明治政府に降伏。官位・所領を奪われ、茂憲
	に家督を譲り隠居。
うえすぎ のりあき
	上杉 憲顕
	1306
	1368(<南>正平23,<北>応安元. 9.19)
	◇南北朝時代の武将。山内上杉の祖。通称は民部大輔・越後守
	・安房守。[1]上杉憲房(ノリフサ)の養嗣子、上杉能憲(ヨシノリ)・憲
	春(ノリハル)・憲方(ノリカタ)の父。
	 1334年、関東廂番。1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏
	の挙兵以後、各地を転戦。
	 1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)足利基氏(モトウジ)が鎌倉公方と
	して下向、憲顕と高師冬(コウノモロフユ)を執事とする。鎌倉府執事
	・越後・上野・伊豆の守護職。
	 1350年の尊氏と直義(タダヨシ)兄弟の争い(観応の擾乱<ジョウラン>)
	には直義を援け、基氏に退けられる。高師冬は尊氏方につき、
	翌年諏訪一族に甲斐国須沢城を攻められ自殺。1352年関東に下っ
	た直義を追って尊氏が東下、憲顕は武蔵野合戦で越後に背走。
	同年、尊氏により直義は毒殺。直義の子直冬を討とうとした尊
	氏は1358(<南>正平13,<北>延文 3)病没。
	 1363(<南>正平18,<北>貞治 2)基氏の要請により憲顕は再び
	関東に復帰し、執事として務め、基氏の没後もその子氏満を補
	佐。1368(<南>正平23,<北>応安元)宇都宮氏および武蔵平一揆
	の乱を平定中に死去。
	(*)1306(嘉元 4,徳治元)、1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>
	正慶 3,<北>建武元)、1350(<南>正平 5,<北>貞和 6,<北>観応
	元)、1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文和元)。
うえすぎ のりかた
	上杉 憲方
	1335(<南>建武 2,<北>建武 2)
	1394
	◇南北朝時代の武将。法号は道合。上杉憲顕(ノリアキ)の子、上杉
	能憲(ヨシノリ)・憲春(ノリハル)の弟。
	 1379年3月、土岐頼康(トキ・ヨリヤス)の叛乱を討伐するため美濃
	に出陣するが、中傷と判明し第3代将軍足利義満(ヨシミツ)の命に
	より軍兵を返す。
	 同月、鎌倉公方足利氏満(ウジミツ)のため諌死した兄憲春の跡
	を継いで氏満の執事となる。1380(<南>天授 6,<北>康暦 2. 5.)
	氏満の小山義政征討に上杉朝宗(トモムネ)・木戸範季とともに従軍、
	翌年平定。
	(*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)、1394(明徳 5,
	応永元)。
うえすぎ のりざね《うへすぎ のりざね》
	上杉 憲実
	1411(応永18)
	1466(寛正 7. 2. 6)
	◇室町前期の武将・関東管領。幼名は孔雀丸のち四郎、通称は
	安房守、法号は高嶺長棟庵主。越後上杉房方の3子、山内上杉
	憲基(ノリモト)の養嗣子。上杉清方(キヨカタ)・道悦の兄。上杉憲忠(ノ
	リタダ)・房顕(フサアキ)の父。
	 越後上杉家から山内上杉家を継ぐ。1419(応永26)幼少で関東
	管領に補任。
	 僧から還俗した将軍足利義教(ヨシノリ)と、将軍職を望む鎌倉公
	方足利持氏の不和を調停。1436(永享 8)信濃紛争に対する持氏
	の出兵を諌止。1438(永享10)持氏の子賢王丸(義久)の元服に際
	し、憲実は将軍の偏諱(ヘンキ)を請うよう提言するが、持氏は拒
	否。幕府に重きをなしたとして持氏と不和になり憲実は出奔し
	領国上野に帰る。幕府はこれを口実に今川範忠(ノリタダ)・小笠
	原政康に出兵させ憲実を援助(永享(エイキョウ)の乱)。幕命に従い
	主君の持氏を討伐し、持氏は鎌倉永安寺に軟禁。憲実は持氏を
	弁護したが、義教が許さなかったため、翌1439(永享11)持氏は
	鎌倉永安寺で自殺。
	 持氏の遺児春王丸・安王丸を迎えて下総国結城城で挙兵した
	結城氏朝(ウジトモ)を、弟清方とともに平定(結城合戦)。この後、
	憲実は伊豆国国清寺で出家、幕府からの要請を断り弟道悦・子
	憲忠を伴い諸国を行脚(アンギャ)。周防大寧寺で没する。
	 1439(永享11)足利学校を再興。
	(2)生年は1411(応永18)。
	(4)生年は1409。
	(6)生年は1410。
	(16)生年は1411(応永18)。
うえすぎ のりただ
	上杉 憲忠
	1433(永享 5)
	1454(享徳 3.12.27)
	◇室町前期の武将。幼名は龍若丸、通称は右京亮。山内上杉憲
	実(ノリザネ)の子、上杉房顕(フサアキ)の兄。
	 永享の乱・結城合戦の後、父憲実とともに出家し龍忠と称す
	る。
	 1446(文安 3)還俗し山内上杉氏の家督を継ぐ。1448(文安 5)
	関東管領。
	 1450(宝徳 2)足利持氏の遺児寿王丸が元服して鎌倉公方足利
	成氏となり、幕命により成氏と和睦。幕府の公方・管領体制が
	再建される。
	 山内の家宰長尾景仲や扇谷(オウギガヤツ)の家宰太田資清(道灌
	<ドウカン>の父)らによる内紛が続く。
	 憲忠を制圧しようとする成氏と反目し、憲忠は成氏邸で殺さ
	れる。
	◎関東管領には兄の跡を継いで房顕が就任。
うえすぎ のりとも
	上杉 教朝
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町前期の武将。通称は治部少輔。上杉氏憲(ウジノリ)(禅秀)
	の子、持房(モチフサ)の弟。
	 1416(応永23)禅秀の乱の翌年父氏憲は自殺するが、兄持房と
	ともに京都に逃れ、僧となる。のち還俗し、1440(永享12)結城
	合戦では、第4代将軍足利義持(ヨシモチ)の命で兄持房とともに東
	海・東山の兵を率いて関東に下向して下総の結城氏朝(ユウキ・ウジ
	トモ)を攻める。翌年、氏朝の首級を持って上洛。
	 幕府は古河公方(コガクボウ)足利成氏(シゲウジ)に対抗するため
	足利政知(堀越公方)を伊豆国堀越に下向させ、政知に伴って伊
	豆に下着。54歳の時に自害。
うえすぎ のりはる
	上杉 憲春
	生年不詳
	1379(<南>天授 5,<北>永和 5. 3. 7)
	◇南北朝時代の武将。字は高源、通称は左近将監・刑部大輔・
	大沢院、号は道珍。上杉憲顕(ノリアキ)の子、上杉能憲(ヨシノリ)の弟、
	憲方(ノリカタ)の兄。
	 鎌倉公方足利基氏・氏満に仕える。
	 1368年、父憲顕とともに武蔵国平一揆を討つ。同年、兄能憲
	とともに新田義宗・義治の軍を越後・上野に破る。
	 氏満が第3代将軍足利義満に叛こうとしたので、諌止するが
	聞き容れられず、諌書を残し持仏堂で自殺。
	(2)1378(天授 4・永和 4)能憲の死により鎌倉府執事。
	(16)1364(正平19・貞治 3)年執事となり…….
	(*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)
[1]うえすぎ のりふさ
	上杉 憲房
	生年不詳
	1336
	◇鎌倉末期・南北朝時代の武将。通称は兵庫頭・杉谷殿。上杉
	頼重の子、足利尊氏の母清子の兄。上杉憲顕(ノリアキ)・上杉重能
	(シゲヨシ)の養父。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2)上野の守護職。11月、尊氏が
	新田義貞の討伐を始め、翌年1月、新田義貞・北畠顕家の軍が
	京都に上る。この時、憲房は四条河原合戦で討死、尊氏は九州
	に背走する。
	(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
[2]うえすぎ のりふさ
	上杉 憲房
	1468(応仁 2)
	1526(大永 6)
	◇室町時代の武将。幼名は五郎通称は民部大輔、法号は道憲大
	成竜洞院。周清の子、上杉顕実の弟、上杉顕定(アキサダ)の養子。
	 1510(永正 7)養父顕定の没後、上野国平井城で長尾為景・意
	玄らと対抗する。
	 兄顕実を古河に放逐した長尾景長により、1512(永正 9)関東
	管領として迎えられる。1524(大永 4)江戸城主上杉朝興(トモオキ)
	が北条氏綱と品川で戦って敗れ、江戸城を奪われて河越城に退
	くと、兵を起して江戸城を回復。
	 平井城で病没。
うえすぎ のりまさ
	上杉 憲政
	1523(大永 3)
	1579(天正 7. 3.18)
	◇戦国時代の武将。幼名は四郎、通称は民部大輔、法号は成怡。
	[2]上杉憲房の子。
	 1530(享禄 3)上野国平井城に居て関東管領となる。
	 勢力の回復をはかる扇谷(オウギガヤツ)上杉朝定(トモサダ)・足利
	晴氏(ハルウジ)(古河公方)とともに、1545(天文14)福島綱成の率
	いる河越城を大軍で包囲するが、1546. 4.20(天文15)晴氏の夜
	襲(河越の夜討)で敗北、上野国に落ちのびる。
	 1552(天文21)北条氏康に上野国平井城を攻められる。
	 1558年、長尾景虎(上杉謙信)をたより越後に亡命。1561(永
	禄 4)鎌倉鶴岡八幡宮で上杉の家名と関東管領職を長尾景虎に
	譲り、隠退。
	 謙信の死後、ともに謙信の養子上杉景勝・[2]上杉景虎の継
	嗣争い(御館の乱)に巻きこまれ、誤って殺される。
	(2)没年は1579(天正 7)。
	(16)没日は1575(天正 3. 3/18)。
	 謙信の死後,景勝・景虎の継嗣争いに巻きこまれ,不慮の死
	をとげた.(*)上杉謙信の没年は1578(天正 6. 3.13)。
	(*)1558(弘治 4,永禄元)。
	◎彼の死により、上杉氏の正系は滅亡。
うえすぎ のりもと
	上杉 憲基
	1392(<南>元中 9,<北>明徳 3)
	1418(応永25)
	◇室町前期の武将。通称は右京亮・安房守。山内上杉憲定の子、
	上杉憲実(ノリザネ)の養父。
	 犬懸(イヌカケ)上杉氏憲(禅秀)と争い鎌倉公方足利持氏が憲基を
	援けたので、1415(応永22)家臣越幡(小幡)の所領没収問題を契
	機に氏憲は関東管領を辞職、代って憲基が就任。
	 1416(応永23)氏憲は持氏の叔父満隆とその養嗣子持仲を奉じ
	て、公方持氏に不満の関東の豪族千葉・岩松・那須・武田氏ら
	を集め反乱(禅秀の乱)。持氏は駿河に逃れ、憲基は鎌倉佐介の
	家を急襲され極楽寺口から逃れ越後に落ちのびる。幕府が持氏
	を支援して駿河の今川氏・越後の上杉氏などが出兵。やがて上
	野・越後の軍勢を率いた弟佐竹義人(義憲)らが鎌倉を回復し、
	憲基は管領に復する。
うえすぎ はるのり
	上杉 治憲
	1751(寛延 4. 7.)
	1822(文政 5. 3.11)
	◇江戸後期の米沢藩主。号は鷹山(ヨウザン)。日向国高鍋藩主秋
	月種美の次男、上杉重定(シゲサダ)の養子。
	 1760(宝暦10)米沢藩主上杉重定の養子となる。1766(明和 3)
	元服して従四位下弾正大弼に任じられ、第10代将軍徳川家治の
	偏諱(ヘンキ)を受けて治憲と称する。
	 1767(明和 4)襲封。竹俣当綱(タケマタ・マサツナ)や莅戸善政(ノゾキド・
	ヨシマサ)を重用して藩の経済を再建。節倹を励行、産業を奨励。
	学問のため興譲館を、武技修練のため武館を設立。
	◎秋田藩主佐竹義和(ヨシマサ)・白河藩主松平定信とともに江戸時
	代の名君といわれる。
	(2)生年は1751(宝暦1)。(名)幼名直丸,のち勝興と称す。
	(4)生年は1746。
	(6)生年は1751。
	(16)生年は1751(宝暦1. 7/)。幼名は松三郎,のち直松.
	(*)宝暦元年は10.27から。
うえすぎ ふさあき
	上杉 房顕
	1434(永享 6)
	1466
	◇室町前期の武将。幼名は四郎、通称は兵部少輔。山内上杉憲
	実(ノリザネ)の子、上杉憲忠(ノリタダ)の弟。
	 関東管領の兄憲忠は、鎌倉公方足利成氏(シゲウジ)と反目し、
	1454(享徳 3)成氏邸で殺される。兄の跡を継いで房顕が関東管
	領就任。各地を転戦。武蔵国五十子で陣没。
	(*)1466(寛正 7,文正元)。
うえすぎ ふさよし
	上杉 房能
	生年不詳
	1507(永正 4)
	◇室町後期の武将。名は九郎、通称は民部大輔。上杉房定の子、
	上杉顕定(アキサダ)の弟。上杉定実(サダザネ)の養父。
	 1498(明応 7)越後守護職に就任。守護代長尾為景らと反目、
	1507(永正 4)為景は従兄弟の上条上杉定実を擁立し房能を追放。
	房能は兄顕定を頼って脱出の途次、越後国東頸城郡松之山で自
	害。
うえすぎ もちとも
	上杉 持朝
	1418(応永25)
	1467
	◇室町時代の武将。幼名は竹寿丸のち三郎、通称は弾正少弼・
	修理大夫、法号は道朝。扇谷(オウギガヤツ)上杉氏定の子、上杉顕
	房(アキフサ)の兄で養父、上杉持定の弟で養嗣子。
	 上杉憲忠の弟房顕を奉じて、1457年、太田道真・道灌父子に
	命じて武蔵国河越に築城し、足利成氏(古河公方)と戦う。
	 扇谷・山内の両上杉家の古老として重んぜられる。
	(2)生年は1416(応永23)。(系)上杉(扇谷)氏定の子,兄持定の
	養嗣子。
	(16)生年は1418(応永25)。山内上杉持定の弟,扇谷上杉氏定の
	養子。
	(*)1457(康正 3,長禄元)、1467(文正 2,応仁元)。
うえすぎ もちのり
	上杉 茂憲
	1844
	1919(大正 8)
	◇明治期の沖縄県令。出羽国(山形県)米沢最後の藩主。
	 1872(明治 5)ケンブリッジ大学に留学。1882(明治15)第2代
	沖縄県令。県費留学制度を設け沖縄から東京へ留学生を送る。
	中央政府に国税の軽減を具申、1883(明治16)件令を解任。奨学
	金3千円を沖縄に寄付。
	 元老院議官。伯爵。
	(*)1844(天保15,弘化元)。
うえすぎ もちふさ
	上杉 持房
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町前期の武将。名は三郎のち持憲、通称は中務少輔、法名
	は大成常衍。上杉氏憲(ウジノリ)(禅秀)の3男、上杉教朝(ノリトモ)
	の兄。
	 1416(応永23)禅秀の乱の翌年父氏憲は自殺するが、弟教朝と
	ともに京都に逃れ、第4代将軍足利義持(ヨシモチ)の庇護を受ける。
	1440(永享12)結城合戦では、義持の命で弟教朝とともに東海・
	東山の兵を率いて関東に下向して下総の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)
	を攻める。翌年、氏朝の首級を持って上洛。
うえすぎ ようざん《うへすぎ ようざん》
	上杉 鷹山
	⇒うえすぎ はるのり(上杉 治憲)
うえすぎ よしのり
	上杉 能憲
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)
	1378(<南>天授 4,<北>永和 4)
	◇南北朝時代の武将。名は三郎、通称は左衛門尉・兵部少輔、
	法名は道(「言」偏+「煙」-「火」)。上杉憲顕(ノリアキ)の子、上杉憲春
	(ノリハル)・憲方(ノリカタ)の兄。上杉重能(シゲヨシ)の養嗣子。
	 1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)高師直(コウノモロナオ)が足利尊氏に
	迫り養父重能を越前に配流させ、重能は刺客に殺される。能憲
	は足利直義に属して尊氏・師直らと戦う。1351(<南>正平 6,
	<北>観応 2)直義軍に播磨で大敗した師直は入道出家して帰洛
	の途中、能憲により摂津国武庫川で一族15人ともとに謀殺。
	 1368〜1370年、上杉朝房(トモフサ)とともに関東管領。
	(*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)、1370(<南>正平
	25,<南>建徳元,<北>応安 3)。
うえだ あきなり《うへだ あきなり》
	上田 秋成
	1734(享保19. 6.25)
	1809(文化 6. 6.27)
	◇江戸中期の浮世草子・読本作家・国学者・歌人。幼名は
	仙次郎、通称は東作、号は漁焉(ギョエン)・和訳(ワヤク)太郎・
	剪枝畸人(センシキジン)・無腸(ムチョウ)・余斎・鶉居(ウズライ)。摂津国
	曾根崎(ソネザキ)生れ。
	 娼家の私生児として生れ、4歳で堂島の紙油商上田家の養子
	となる。20歳頃より高井几圭に師事し俳諧に遊び、小島重家に
	勧められて和歌・歌学を修める。賀茂真淵の高弟加藤宇万伎(ウ
	マキ)に国学を学ぶ。
	 1770(明和 7)都賀庭鐘に医学を学び、1775(安永 4)大坂で開
	業。1788(天明 8)医業を廃業。
	 晩年は眼をわずらい、窮乏。一人住まいを心配して引き取っ
	た羽倉家で死去。
	 代表作は『雨月(ウゲツ)物語』など。
	◆秋成忌[旧暦 6.27]。
	 墓は京都南禅寺畔の西福寺。
うえだ かずとし《うへだ かずとし》
	上田 万年(上田 萬年)
	1867(慶応 3. 1. 7)
	1937.10.26(昭和12)
	◇明治〜昭和期の言語学者・国語学者。名古屋藩士上田虎之丞
	・いね子の長男として、江戸大久保の名古屋藩下屋敷で生れる。
	円地文子(エンチ・フミコ)の実父。
	 1885(明治18)帝国大学(現:東大)文学部和漢文学科に入学。
	1888(明治21)帝国大学文科大学和文学科卒業し、大学院に入学。
	 1890. 9.(明治23)ドイツ留学を命ぜられ、1892. 8.(明治25)
	さらにフランス留学を命ぜられ、1894. 6.(明治27)帰国。同年
	7月東京大学教授。1901. 6.(明治34)文部省専門学務局長・
	1902. 4.(明治35)国語調査委員会主任委員を兼任。1912. 3.
	(明治45)東京帝国大学文科大学学長。
	 1919. 6.(大正 8)神宮皇学館長・国学院大学長。
	 1908. 3.(明治41)帝国学士院会員・貴族院議員。
	 古代日本語のハ行音がP音とする「P音考」を発表。
	◎「国語は国民の精神的血液」と主張。
うえだ けんきち
	植田 謙吉
	1875(明治 8)
	1962(昭和37)
	◇大正・昭和期の陸軍軍人・大将。大阪生れ。
	 1939(昭和14)ノモンハン事件で部下の参謀に引きずられ戦闘
	を拡大し、責任を取らされ事件途中で予備役に編入。
うえだ しげき
	上田 茂樹
	1899(明治32)
	1932(昭和 7)
	◇大正・昭和期の社会運動家。
	 1922(大正11)第1次共産党に入党。
	 1932(昭和 7)街頭で検挙され、以後消息不明。特高警察によっ
	て虐殺されたとされる。
うえだ じゅぞう
	上田 寿蔵
	1886. 3.11(明治19)
	1968.11.27(昭和43)
	◇大正・昭和期の美学者・美術史家。京都大学卒業。京都生れ。
	 京都大学助手・講師、1922(大正11)助教授。1925(大正14)欧
	州に留学。1927(昭和 2)九州大学教授。1929(昭和 4)京都大学
	教授、1946(昭和21)退職。
	(2)没年は1973(昭和48)。
うえだ すすむ
	上田 進
	1907.10.24(明治40)
	1947. 2.24(昭和22)
	◇翻訳家・評論家。本名は尾崎義一。
うえだ せいじ
	植田 清次
	1902(明治35)
	1963(昭和38)
	◇昭和期の哲学者。早稲田大学卒業。兵庫県生れ。
うえだ たくみ《うへだ たくこ》
	上田 卓三
	1938. 6.24(昭和13)
	2005. 5.26(平成17)
	◇政治家(社会党)。大阪市出身。
	 大阪市立扇町二商業高校、卒業。
	 部落解放同盟大阪府連合会執行委員長。
	 1976(昭和51)大阪4区から衆議院議員に立候補し、初当選。
	 1988(昭和63)リクルートコスモス未公開株譲渡に元秘書が関
	与し議員を辞職。
	 1990〜1993(平成 2〜平成 5)衆議院議員。
	 1994(平成 6)部落解放同盟中央本部書記長。
	 1996〜1998(平成 8〜平成10)部落解放同盟中央執行委員長。
うえだ たもつ
	上田 保
	1906. 1.19(明治39)
	1973. 4.11(昭和48)
	◇評論家・翻訳家。上田敏雄(トシオ)の弟。
うえだ ちょうしゅう
	上田 聴秋
	1852(嘉永 5. 2.24)
	1932. 1.17(昭和 7)
	◇俳人。本名は肇、号は不識庵。
うえだ ていじろう《うへだ ていじらう》
	上田 貞次郎
	1879(明治12)
	1940(昭和15)
	◇大正・昭和期の経済学者。東京生れ。
	 1902(明治35)東京高等商業学校(現:一橋大学)卒業。
	イギリス・ドイツに留学。1905(明治38)母校に奉職、
	1920(大正 9)母校が東京商科大学となり、1936(昭和
	11)東京商科大学学長。
	 1937(昭和12)学士院会員。
	(2)1937(昭和12)学長となる。
	(6)36年学長。
うえだ としお
	上田 敏雄
	1900. 7.21(明治33)
	1982. 3.30(昭和57)
	◇詩人。上田保(タモツ)の兄。
うえだ のうふ《うへだ のうふ》
	上田 農夫
	1852(嘉永 5)
	1895(明治28)
	◇明治前期、岩手県の民権活動家。岩手県人。
	 「岩手日々新聞」理事。
うえだ ひろし
	上田 広
	1905. 6.18(明治38)
	1966. 2.27(昭和41)
	◇小説家。本名は浜田昇。千葉県生れ。鉄道省教習所機械科卒
	業。
	 国鉄勤務。1937(昭和12)日華事変勃発し七月に応召、中国戦
	線を転戦しながら小説を執筆、1939(昭和14)帰還。
	 太平洋戦争開始後、昭和軍報道班員としてバターン半島攻略
	に従軍。戦後はわずかしか作品を発表していない。
	◎火野葦平(アシヘイ)・日比野士朗とともにいわゆる「兵隊作家」。
	(1)誕生日は 6. 1、本名は浜田昇。
	(3)誕生日は 6. 1、本名は浜田昇。
	(5)誕生日は 6.18、本名は浜田(「日」冠+「舛」)(ノボル)。
	(8)誕生日は 6.18、本名は浜田昇。
	(11)誕生日は 6.18、本名は浜田(「日」冠+「舛」)。
うえだ びん《うへだ びん》
	上田 敏
	1874.10.30(明治 7)
	1916. 7. 9(大正 5)
	◇欧州文学者・評論家・翻訳家・詩人・小説家。号は柳村。父
	は乙骨亘(オツコツ・ワタル)。東京市京橋区築地生れ。
	 静岡尋常中学、東京英語学校、第一高等中学校を経て、1897.
	 7.(明治30)東京帝国大学文科大学英文科卒業。
	 東京高等師範学校教授・東京帝国大学講師・京都帝国大学教
	授。尿毒症で死去。
	 代表作は訳詩集『海潮音』(1905<明治38>刊)・自伝的小説
	『うずまき』(1910<明治43>「国民新聞」連載)など。
うえだ ぼく
	上田 穆
	1902. 5.16(明治35)
	1974. 4. 4(昭和49)
	◇歌人。本名は行夫。
うえだ よしえ
	植田 義方
	1734(享保19)
	1806(文化 3)
	◇江戸中期の国学者。賀茂真淵の親戚で門下。
うえの しゅんすけ
	上野 俊介
	1912.10. 5(大正元)
	1946. 2.22(昭和21)
	◇小説家。
うえの たけお
	上野 壮夫
	1905. 6. 2(明治38)
	1979. 6. 5(昭和54)
	◇詩人・小説家。
うえの としのじょう《うへの としのじよう》
	上野 俊之丞
	1791(寛政 3)
	1852(嘉永 5. 8.17)
	◇江戸後期の科学者。名は常足、号は英乗。上野彦馬(ヒコマ)の
	父。長崎銀屋町の人。
	 蘭学を学び、砲術・測量術を修得。焔硝製錬所をつくり、各
	藩の硝石御用達となる。
	 1841(天保12)頃、長崎でオランダ人から日本で初めて写真術
	を修得。1848(嘉永元)日本で初めてカメラを輸入、薩摩藩主島
	津斉興に贈る。
	◎俊之丞が薩摩藩主島津斉彬を撮影した銀板写真は、日本人に
	よる現存する最古の写真。
	(2)生年は1791(寛政 3)、没年は1852(嘉永 5)。
	 1841(天保12)写真器を輸入,薩摩藩主島津斉興に贈った。
	(4)生年は1790、没年は1851。
	(16)生年は1791(寛政 3)、没日は1852(嘉永 5. 8.17)。
	 1831(天保 2)年には早くも写真機を輸入して…….
うえの なおてる
	上野 直昭
	1882.11.11(明治15)
	1973. 4.11(昭和48)
	◇美学者。
うえの ひこま
	上野 彦馬
	1838(天保 9. 8.27)
	1904. 5.22(明治37)
	◇江戸幕末・明治期の写真家。号は季渓。上野俊之丞(トシノジョウ)
	の子。肥前国長崎の人。
	 15歳で豊後国日田の広瀬淡窓に入門。長崎で通詞名村八右衛
	門に蘭後を学ぶ。
	 オランダ軍医ポンペの舎密試験所に入り化学・写真を学ぶ。
	堀江鍬次郎とともに蘭書をたよりに湿板写真技術を修得。1860
	年、江戸に出て、藩主らを撮影。
	 1862(文久 2.11.)日本最初の写真館上野撮影局を長崎に開き、
	坂本竜馬・高杉晋作・伊藤博文などを撮影。1874(明治 7)フラ
	ンス金星観測隊の依頼を受けて金比羅山で金星の太陽通過の天
	体写真を撮影。1877(明治10)西南戦争には官軍の写真師として
	従軍。
	◎1862(文久 2)春、下岡蓮杖(レンジョウ)も横浜で開業。
	(*)1860(安政 7,万延元)。
うえの ひでのぶ
	上野 英信
	1923. 8. 7(大正12)
	1987.11.21(昭和62)
	◇作家。本名は鋭之進。山口県生れ。1947(昭和22)京都大学支
	那文学科卒業。
うえの ようこ
	上野 葉子
	1886(明治19)
	1927(昭和 2)
	◇評論家・小説家。本名は稲葉ちづ。
うえのやま きよつぐ
	上野山 清貢
	1889. 6. 9(明治22)
	1960. 1. 1(昭和35)
	◇画家。素木(シラキ)しづの夫。
うえはら さんせん
	上原 三川
	1866(慶応 2. 8. 8)
	1907. 6.25(明治40)
	◇俳人。名は良三郎。
うえはら びん《うへはら びん》
	上原 敏
	1908. 8.26(明治41)
	1944. 7.29(昭和19)
	◇昭和前期の流行歌手。秋田県大館市大町生れ。
	 ヒット曲は『妻恋道中』・『裏町人生』など。
うえはら まさき
	上原 真佐喜(二世)
	1903.12.10(明治36)
	1996. 5.11(平成 8)
	◇山田流箏曲家。本名は林兎喜子(トキコ)。上原真佐喜(初世)の
	娘、林家の養女。
	 1970(昭和45)重要無形文化財保持者に認定。
	 1983(昭和58)芸術院会員。
うえはら ゆうさく《うへはら ゆうさく》
	上原 勇作
	1856(安政 3.11. 9)
	1933.11. 8(昭和 8)
	◇陸軍軍人・元帥。山県有朋没後の薩摩の陸軍重鎮。陸軍士官
	学校旧3期卒業。
	 1879(明治12)工兵少尉。1881〜1883(明治14〜明治16)フラン
	スに留学。陸軍士官学校・陸軍大学校の教官。日清戦争では第
	1軍参謀。日露戦争では第4軍参謀長。戦後、師団長。
	 1911. 8.(明治44)第2次西園寺公望(サイオンジ・キンモチ)内閣の陸
	軍大臣となり、2個師団増設を強硬に主張し単独辞職。内閣は
	後任の陸軍大臣を得られず、12月総辞職(大正政変の発端)。
	 1914(大正 3)教育総監。1915(大正 4)大将。1921(大正10)子
	爵・元帥。1923(大正12)参謀総長。
	(16)1912年第2次西園寺の陸相.(*)第2次西園寺内閣は1911.
	 8.30組閣、同年12.21に総辞職。
うえはら ろくしろう《えへはら ろくしらう》
	上原 六四郎
	1848
	1913(大正 2)
	◇明治の音楽理論家・尺八家・工作教育者。号は虚洞(キョドウ)。
	江戸生れ。
	 開成学校に学ぶ。
	 陸軍士官学校・音楽取調掛・東京音楽学校・高等師範学校な
	どの教官を歴任。
	 尺八家二世古童(コドウ)(竹翁)の門人で、尺八の名手。邦楽の
	音階を研究し、点符式記譜法を創案。
	 著書は『俗楽旋律考』。
	(*)1848(弘化 5,嘉永元)。
うえまつ ありのぶ
	植松 有信
	1758(宝暦 8)
	1813(文化10. 6.20)
	◇江戸後期の国学者。通称は忠兵衛。尾張名古屋生れ。植松茂
	岳(シゲオカ)の養父。
うえまつ ひさき
	植松 寿樹
	1890. 2.16(明治23)
	1964. 3.26(昭和39)
	◇歌人。東京生れ。慶応義塾大学理財科卒業。
うえむら しょうえん《うへむら しようゑん》
	上村 松園
	1875(明治 8)
	1949. 8.27(昭和24)
	◇明治〜昭和期の女流日本画家。名は常子。上田松篁(ショウコウ)
	の母。京都市祇園生れ。京都府画学校卒業。
	 1889(明治22)鈴木松年のち幸野楳嶺(コウノ・バイレイ)に師事、楳
	嶺の没後に竹内栖鳳(セイホウ)に師事、四条派の技法を学ぶ。
	 1890(明治23)15歳で第3回内国勧業博覧会で『四季美人図』
	が一等褒状を受ける。
	1942(昭和17)芸術院会員。1948(昭和23)女性で初めて文化勲章
	を受章。
	(?)本名は津禰(ツネ)。
	◎鏑木清方(カブラギ・キヨカタ)と並び近代美人画の代表。
うえむら たい
	植村 諦
	1903. 8. 6(明治36)
	1959. 7. 1(昭和34)
	◇昭和期の詩人。本名は諦聞(タイモン)。奈良県吉野生れ。
	 1923(大正12)仏教専門学校卒業。小学校教員をしながら詩作。
	水平社運動に参加して教職を追われる。1935(昭和10)検挙され
	入獄。
	 脳溢血により死去。
	(1)生年は1903(明治36)。
	(2)生年は1903(明治36)。
	(3)生年は1903(明治36)。
	(5)生年は1904(明治37)。
	(8)生年は1903(明治36)。
	(11)生年は1904(明治37)。
	(13)生年は1903(明治36)。
うえむら ばいけん
	上村 売剣
	1866(慶応 2.11.19)
	1946. 5. 7(昭和21)
	◇漢詩人。本名は才六、別号は詩命楼主人。
うえむら まさひさ《うゑむら まさひさ》
	植村 正久
	1857(安政 4.12. 1)
	1925. 1. 8(大正14)
	◇明治・大正期のキリスト教牧師・評論家。幼名は道太郎、号
	・筆名は謙堂・謙堂魚叟・雲井春香・山岐玄・山辺好文・
	飯田覚士・桔梗生・咀真生。旗本植村祷十郎の長男。上総(カズ
	サ)国武謝田村生れ。
	 一時帰農。横浜の神学校ブラウン塾に学び、1873(明治 6)洗
	礼を受け、東京一致神学校を卒業。
	 1880(明治13)下谷一致教会牧師。1887(明治20)東京麹町に一
	番町教会(のち富士見町教会)を創立。1901〜1902(明治34〜明
	治35)海老名弾正(エビナ・ダンジョウ)と福音主義の理解をめぐり論
	争。1904(明治37)日本のキリスト教を外国ミッションから独立
	するため、東京神学社を創立、校長。
	 日露戦争では内村鑑三の非戦論を批判し、自衛戦争を説く
	(海老名弾正は積極的に肯定)。『旧約聖書』を翻訳。
	(1)生年は1857(安政 4)、没日は 1.12。
	(2)生年は1858(安政 5)。(生)江戸。
	(3)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。
	(4)生年は1857。
	(5)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。
	(6)生年は1858(安政 5)。
	(8)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。
	(11)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。
	(13)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。
	(16)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。東京の人。
うえわき すすむ
	上脇 進
	1899.12.23(明治32)
	1952. 3.31(昭和37)
	◇ロシア文学者。旧姓は木原、母の弟の養子になる。
うおずみ せつろ
	魚住 折蘆
	1883. 1.27(明治16)
	1910.12. 9(明治43)
	◇評論家。本名は影雄。兵庫県生れ。東京大学哲学科卒業。
うがき かずしげ
	宇垣 一成
	1868(慶応 4. 6.)
	1956. 4.30(昭和31)
	◇陸軍軍人・政治家。岡山県出身。陸軍士官学校1期・陸軍大
	学校卒業。
	 参謀本部員・ドイツ駐在武官陸軍省軍務局軍事課長。1913
	(大正 2)山本権兵衛内閣の軍部大臣現役武官制の廃止に反対し、
	一時左遷。参謀本部総務部長・教育総監部本部長・陸軍次官を
	歴任。
	 1924(大正13)清浦奎吾(ケイゴ)・同年第1〜2次加藤高明・
	1926(大正15)第1次若槻礼次郎内閣の陸軍大臣。この間、4個
	師団を廃止(宇垣軍縮)・軍の近代化に力を入れ、軍部の反感を
	得る。1927. 4.(昭和 2)朝鮮総督代理。1929(昭和 4)浜口雄幸
	(オサチ)内閣の陸軍大臣。
	 陸軍中堅将校が対米協調外交・ロンドン軍縮会議調印の浜口
	内閣を倒し、宇垣内閣を出現させようとクーデタを計画するが、
	1931. 3.(昭和 6)計画不備と宇垣のためらいで未発(三月事件)。
	民政党の安達謙蔵らが浜口の後に宇垣を総理にしようしている
	ことを知ったためという。ここでも軍部の信望を失い、次の若
	槻礼次郎内閣では陸軍大臣を南次郎に譲り退役。
	 同年6月、朝鮮総督。満州事変では関東軍を支持。朝鮮に軍
	需工場を育成。1937. 2.(昭和12)広田弘毅(コウキ)内閣総辞職の
	後、組閣の命を受けるが軍部の反対で失敗、6月近衛文麿(フミマ
	ロ)が組閣。1938(昭和13)近衛内閣の外務兼拓務大臣、対中国和
	平工作に効果を上げられず、興亜院設置に反対し辞職。
	 太平洋戦争後、公職追放され、1952(昭和27)解除。1953(昭
	和28)全国区最高得票数で参議院議員に当選。
うきた いっけい
	浮田 一(「艸」冠+「惠」:補助5740)
	1795(寛政 7)
	1859(安政 6)
	◇江戸末期の画家。「宇喜多」とも。名は公信のち可為、通称は
	内蔵允。京都の人。秀家七世の孫。
	 古土佐風の絵を田中訥言(トツゲン)に学ぶ。
	 1853(嘉永 6)ペリー来航の際、『神風夷艦を覆す図』を描き、
	幕府を批判。尊攘派志士としてしばしば朝廷に献策、1858(安
	政 5)安政の大獄で子の可成とともに捕われ、出獄後まもなく
	死去。
	 『婚怪草紙』では和宮(カズノミヤ)降嫁を狐の嫁入りに託して風
	刺。
うきた かずたみ
	浮田 和民
	1859(安政 6.12.27)
	1945(昭和20)
	◇明治・大正期の政治学者・歴史家。幼名は栗田亀雄。熊本バ
	ンドの一人。
	(2)浮田 和民(うきた かずたみ)。1859〜1945(安政 6〜昭
	和20)。
	(8)浮田 和民(うきた かずたみ)、誕生日は1859(安政 6.12.
	28)、没日は1946.10.28(昭和21)。
	(?)浮田 和民(うきた かずみ)。
うきた なおいえ
	宇喜多 直家
	1530(享禄 3)
	1582(天正10. 1. 9)
	◇戦国時代の武将。姓は三宅、通称は和泉守、号は涼雲星友。
	興家の子、宇喜多能家(ヨシイエ)の孫、宇喜多秀家の父。
	 1534(天文 3)祖父能家が浦上宗景(ムネカゲ)に攻められて自殺
	したとき、父興家とともに備後の鞆に隠れる。
	 1543(天文12)旧主浦上氏に仕え、主家のため功を挙げる。
	1561(永禄 4)主君で宿敵宗景を讃岐に放逐し、備前を制圧。
	1569(永禄12)毛利氏に対抗、美作を収める。1574(天正 2)毛利
	氏と結び、宗景と戦う。
	 1579(天正 7)羽柴秀吉に降り、毛利氏と抗戦中、備前岡山城
	で病没。
	(2)生年は1529(享禄 2)、没年は1581(天正 9)。
	(16)生年は1530(享禄 3)、没年は1582(天正10)。
うきた ひでいえ《うきた ひでいへ》
	宇喜多 秀家
	1573
	1655(明暦元.11.20)
	◇安土桃山時代の武将。「浮田」とも。幼名は八郎、初名は氏家。
	宇喜多直家(ナオイエ)の子。
	 父直家の死後、1582(天正10)対毛利戦に従事する羽柴(豊臣)
	秀吉の推挙により織田信長から家督を許される。秀吉に養われ、
	偏諱(ヘンキ)を受けて秀家と改名、美作国を領する。
	 1585(天正13)四国攻略に参加、左近衛中将。1586(天正14)九
	州征討。1587(天正15)参議。1590(天正18)小田原の役。1594
	(文禄 3)文禄の役に参加、権中納言。1597(慶長 2)五大老に列
	し、慶長の役の進攻軍を統括。備前岡山城主57万石。
	 秀吉の没後、1600(慶長 5)関ヶ原では石田三成らに推されて
	西軍(大坂方)の謀主、敗れて薩摩に逃れる。1603(慶長 8)島津
	忠恒・前田両氏の嘆願を得て上洛し、死一等を減ぜられ駿河国
	久能山に幽閉。1606(慶長11)八丈島に配流され在島49年で死去。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
	◎秀家の子孫は、1870(明治 3)内地帰還を許され、前田家をた
	より開墾中の平尾下屋敷に寄留、秀家の墓を東光寺(板橋区)に
	安置した。
うきた よしいえ
	宇喜多 能家
	生年不詳
	1534(天文 3)
	◇室町後期の武将。通称は和泉守、号は玄仲常玖。宇喜多久家
	の子、高秀四世の孫。宇喜田興家の父、直家(ナオイエ)の祖父。
	 備前守護代浦上則宗・村宗に仕える。守護職赤松義村と主家
	浦上氏の争いに活躍し、則宗の信任を得て、備前国砥石城を守
	る。
	 1531(享禄 4)村宗の没後、村宗の子政宗・宗景が争い、宗景
	に疎んじられて攻められ、自害。
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