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人 名 辞 典 《とくた》 編集:獨 澄旻
-------- とくた ------------------------------------------------
とくだ かずほ
徳田 一穂
1904. 3.20(明治37)
1981. 7. 2(昭和56)
◇小説家。徳田秋声の長男。
(1)誕生日は 3.20。
(3)誕生日は 2.20。
(5)誕生日は 3.20。
(9)誕生日は 3.20。
とくだ きゅういち《とくだ きういち》
徳田 球一
1894(明治27)
1953.10.14(昭和28)
◇大正〜昭和前期の社会運動家・政治家。沖縄の雑貨商の家に
生れる。
苦学して日本大学を卒業し、弁護士となる。
1920(大正 9)日本社会主義同盟の結成に参加。
1922(大正11)堺利彦・山川均らと日本共産党を結成。
1928(昭和 3)第1回普通選挙に労働農民党から出馬し落選。
同年、三・一五事件の共産党一斉検挙で逮捕され、予防拘禁を
受けたが非転向を貫き終戦まで18年間獄中生活を送る。
1945.10.10(昭和20)志賀義雄らと釈放され、党を再建し、同
年12月1日書記長に就任。1946(昭和21)衆議院議員。
1950. 6. 6(昭和25)GHQ指令(マッカーサーから吉田茂首
相宛の書簡)で共産党中央委員24人が公職追放(レッド・パージ)
され、共産党中央委員会は機能を喪失し、地下に潜行して闘争
を行なう。
のち中国に亡命し、北京で病死。
◎大衆からは「徳球」と愛称で呼ばれていた。
◎徳田球一らは共産党の主流派、志賀義雄・宮本顕治らは反主
流派。
とくだ しゅうせい《とくだ しうせい》
徳田 秋声
1871(明治 4.12.23)
1943.11.18(昭和18)
◇小説家。本名は末雄。金沢市生れ。徳田一穂の父、娘喜代は
寺崎浩(ヒロシ)の妻。
1889(明治22)第四高等学校中退。尾崎紅葉の門下となり硯友
社で活躍。のち自然主義文学で名を馳せる。
作品は『新世帯』・『足迹』・『黴』・『爛(タダレ)』・『あ
らくれ』・『仮装人物』など、『縮図』は未完で絶筆。
(4)生年は1871。
(5)誕生日は1871(明治 4.12.23)。
(9)誕生日は新暦1872. 2. 1。
(13)誕生日は1871(明治 4.12.23)。
(16)誕生日は1871(明治 4.12.23)。
とくだ じょうじ
徳田 戯二
1898. 2.19(明治31)
1974. 8.16(昭和49)
◇小説家。本名は徳次郎。
とくだいじ きんいと
徳大寺 公純
1821(文政 4)
1883(明治16)
◇江戸幕末・明治維新期の公卿。大納言徳大寺実堅の子、実は
関白鷹司政通の子、母は権大納言輝久の娘。徳大寺実則(サネノリ)
・西園寺公望(キンモチ)・住友友純(トモイト)の父。
とくだいじ きんつぐ
徳大寺 公継
1175
1227. 2.17(嘉禄 3. 1.30)
◇鎌倉時代の公卿。左大臣実定(サネサダ)の3男、母は上西門院
女房。実基(サネモト)の父。
(*)1175(承安 5,安元元)。
とくだいじ さねあつ
徳大寺 実淳
1445(文安 2)
1533. 9.12(天文 2. 8.24)
◇室町後期の歌人。内大臣公有(キンアリ)の子。
とくだいじ さねさだ
徳大寺 実定
1139(保延 5)
1192. 2. 1(建久 3.閏12.16)
◇平安後期の公卿・歌人。法名は如円。右大臣藤原公能(キンヨシ)
の子、母は権中納言藤原俊忠の娘豪子。公継(キンツグ)の父。後
白河天皇中宮忻子・近衛二条両天皇の后多子と同母姉妹。
とくだいじ さねつね
徳大寺 実則
⇒とくだいじ さねのり(徳大寺 実則)
とくだいじ さねのり
徳大寺 実則
1840. 1.10(天保10.12. 6)
1919. 6. 4(大正 8)
◇江戸幕末の尊王攘夷派の公家・明治天皇の侍従長。京都生れ。
右大臣公純(キンイト)の長男、西園寺公望(キンモチ)・住友友純(トモイト)
の実兄。
(2)徳大寺 実則(とくだいじ さねのり)。
(23)徳大寺 実則(とくだいじ さねつね)。
とくだいじ さねもと
徳大寺 実基
1201
1273. 3. 4(文永10. 2.14)
◇鎌倉中期の公卿。左大臣公継(キンツグ)の次男、母は白拍子五
条夜叉。妻は藤原兼子の娘。
(*)1201(正治 3,建仁元)。
とくだいじ さねよし
徳大寺 実能
1096
1157.10. 6(保元 2. 9. 2)
◇平安末期の公卿。藤原実能とも。権大納言藤原公実の子、母
は但馬守藤原隆方の娘光子。
(*)1096(嘉保 3,永長元)。
とくとみ あいこ
徳富 愛子
1874. 7.18(明治 7)
1947. 2.20(昭和22)
◇随筆家。本名は藍、旧姓は原田、筆名は蘭芳・黄花。
徳富蘆花(ロカ)の妻。
とくとみ そほう
徳富 蘇峰(徳冨 蘇峰)
1863(文久 3. 1.25)
1957.11. 2(昭和32)
◇評論家・政治評論家・史論家。本名は猪一郎(イイチロウ)、号は
蘇峰・蘇峯・蘇峰学人・大江逸・大江逸郎。肥後国(熊本県)益
城(マシキ)郡杉堂村の母の実家に生れる。
徳富蘆花(ロカ)の実兄、横井小楠(ショウナン)の後妻津世子(母久子
の妹)の甥、矢島楫子(カジコ)の甥、横井時雄・海老名弾正(エビナ
・ダンジョウ)の従兄弟。
熊本洋学校を経て、同志社中退。1887(明治20)民友社をおこ
し「国民之友」を発刊。1911(明治44)貴族院議員に勅選せられる。
太平洋戦争では帝国主義の宣揚に努めたとして、戦後戦犯甲の
罪に問われたが無罪になったが公職追放。
とくとみ ろか《とくとみ ろくわ》
徳富 蘆花(徳冨 蘆花)
1868.12. 8(明治元.10.25)
1927. 9.18(昭和 2)
◇小説家。本名は健次郎。熊本県葦北郡水俣生れ。
1886. 9.(明治19)京都の同志社の三年に編入、校長の新島襄
徳富愛子(アイコ)の夫、徳富蘇峰(ソホウ)の実弟、横井小楠(ショウナン)
の後妻津世子(母久子の妹)の甥、矢島楫子(カジコ)の甥、横井時
雄・海老名弾正(エビナ・ダンジョウ)の従弟。
の義理の姪と恋愛関係になり脱走。1889. 5.(明治22)上京して
兄蘇峰が経営する民友社に入る。1894. 5.(明治27)原田愛子と
結婚。1903. 1.(明治36)民友社を退く。心臓弁膜症で死去。
出世作『不如帰』は徳富蘇峰主宰の「国民新聞」1898.11.29〜
1899. 5.24(明治31〜明治32)に連載され、1900. 1.15(明治33)
民友社から出版されたベスト・セラー。
◆蘆花祭[ 9.18]東京都世田谷区粕谷の蘆花恒春園で墓前祭・
公園会など。
◆伊香保まつり[ 9.18〜 9.20]群馬県伊香保温泉で蘆花祭。
とくなが すなお
徳永 直
1899. 1.20(明治32)
1958. 2.15(昭和33)
◇プロレタリア作家。女優徳永街子(マチコ)の父。
熊本市外黒髪村の貧農の家に生れる。
小学校を中退し印刷工場の徒弟となる。
1922(大正11)上京、博文館(後の共同印刷)に働き、1926(大
正15)一月から三月に至る共同印刷の大争議に敗れ失業。
1929(昭和 4)この争議を書いた長編『太陽のない街』を「戦
旗」に連載。
(1)誕生日は 1.20。
(3)誕生日は 3.11。
(5)誕生日は 1.20。
(9)誕生日は 1.20、自筆年譜に「私の戸籍面」での出生は明治三
二年三月一一日と記しているが、実際の戸籍には「三月九日」と
ある。
(11)誕生日は 1.20。
(13)誕生日は 3.11。
(16)誕生日は 3.11。
とくなが すみこ
徳永 寿美子
1888. 9.24(明治21)
1970. 2. 6(昭和45)
◇児童文学作家。本名は「ひさの」。前田晃(アキラ)の妻。
とくなが まちこ
徳永 街子
1934. 7.28(昭和 9)
2004.12.10(平成16)
◇女優。本名は浦林街子(ウラバヤシ・マチコ)。東京都出身。プロレタ
リア作家徳永直(スナオ)の娘、浦林亮次の妻。
演劇座のち、1975(昭和50)青年座に入団し活躍。
胃潰瘍吐血失血性ショックで死去
とくなが やすのすけ
徳永 保之助
1889. 8.10(明治22)
1925.12.13(大正14)
◇詩人。肺結核により死去。
とくのう ぶん
得能 文
1866(慶応 2. 8.27)
1945. 2. 8(昭和20)
◇哲学者。
どこう としお《どくわう としを》
土光 敏夫
1896. 9.15(明治29)
1988. 8. 4(昭和63)
◇経営者。岡山県生れ。
1960. 7. 1(昭和35)石川島播磨重工業社長。
1965(昭和40)東京芝浦電気(現:東芝)社長、1972(昭和47)会
長。
1974. 5.24〜1980(昭和49〜昭和55)第4代経団連会長。
とこなみ たけじろう
床次 竹二郎
1866. 1. 6(慶応 2.12. 1)
1935. 9. 8(昭和10)
◇政治家。鹿児島県生れ。東京大学卒業。政友会の領袖。
とさ みつおき
土佐 光起
1617(元和 3)
1691(元禄 4. 9.25)
◇江戸前期の土佐派の絵師。土佐光則(ミツノリ)の子。
とさ みつさだ
土佐 光貞
1738(元文 3)
1806(文化 3)
◇江戸中・後期の土佐派の絵師。土佐光芳の次男、光淳の弟。
とさ みつしげ
土佐 光茂
生年不詳
没年不詳
◇室町後期の土佐派の絵師。土佐光信(ミツノブ)の子、光元の父。
「とさ みつもち(土佐 光茂)」とも。
とさ みつなが
土佐 光長
⇒ときわ みつなが(常盤 光長)
とさ みつのぶ
土佐 光信
生年不詳
没年不詳
◇室町中期の絵師・土佐派中興の祖。土佐光弘の子。
とさ みつのり
土佐 光則
1583(天正11)
1638(寛永15)
◇江戸初期の土佐派の絵師。土佐光吉(ミツヨシ)の子または弟子で
土佐光茂(ミツシゲ)の三男、土佐光起(ミツオキ)の父。
とさ みつもち
土佐 光茂
⇒とさ みつしげ(土佐 光茂)
とさ みつよし
土佐 光吉
1539(天文 8)
1613(慶長18)
◇安土桃山時代の土佐派の絵師。土佐光茂(ミツシゲ)の子光元の
弟と称し光吉を名乗る。
とさ ゆきひろ
土佐 行広
生年不詳
没年不詳
◇室町初期の絵師。土佐の号が最初に正史に現れる人物。
とさか じゅん
戸坂 潤
1900. 9.27(明治33)
1945. 8. 9(昭和20)
◇哲学者・評論家。東京市生れ。
1924(大正13)京都帝国大学哲学科(数理哲学専攻)、卒業。
法政大学講師・大谷大学教授・1931〜1935(昭和 6〜昭和10)
法政大学教授(三木清の後任)。
1932.11.(昭和 7)三枝博音(サイグサ・ヒロト)・岡邦雄と唯物論研
究会を創立、月刊「唯物論研究」を発刊。
日中戦開始直後の1937(昭和12)左翼思想の持ち主として内務
省より執筆を禁止、1938(昭和13)治安維持法違反で検挙、唯物
論研究会は解散させられる。1944(昭和19)下獄、栄養失調など
により長野刑務所で獄死。
はじめ西田哲学を研究し新カント学派のの認識論哲学から出
発し、のち三木清の影響でマルク
ス主義に転じる。
著書は1929(昭和 4)『科学方法論』・『技術の哲学』・1932
(昭和 7)『イデオロギー概論』・1935(昭和10)『日本イデオロ
ギー論』・『現代哲学講話』・『科学論』など。
とさのいん《とさのゐん》
土佐院
⇒つちみかど てんのう(土御門 天皇)
とさぼう しょうしゅん
土佐房 昌俊
生年不詳
1185(文治元.10.17)
◇鎌倉初期の武士。名は渋谷金王丸、武蔵渋谷の人。
源義朝(ヨシトモ)に仕える。
源頼朝(ヨリトモ)の命を受けて、京都堀川邸に源義経(ヨシツネ)を襲
い、逆に斬られる。
とざわ こや
戸沢 姑射
1873. 6. 9(明治 6)
1955. 3.12(昭和30)
◇小説家・翻訳家・英文学者。本名は正保、別号は藐姑射(ハコヤ)
山人。父の姉の婚家先戸沢正之の養子。菊池幽芳(ユウホウ)の弟。
東京大学英文科卒、東京外語学校長。
とじ
閉
生年不詳
没年不詳
◇『平家物語』に登場する女性。近江国祇王村生れ。夫は平氏
の家人江部九郎時久、祇王(妓王)(ギオウ)・祇女(妓女)(ギジョ)
の母。
夫の死後、娘とともに京都に出て堀川の白拍子(シラビョウシ)と
なる。祇王は平清盛の寵愛を受けるが、のち祇王が推挙した白
拍子の仏御前(ホトケゴセン)に清盛の寵愛が移り、娘二人とともに
出家して嵯峨の往生院に隠れた。
◎京都市右京区嵯峨にある祇王寺は、往生院の跡地を尼寺にし
たと伝えられている。
としくら こういち
利倉 幸一
1905. 6. 7(明治38)
1985.10.26(昭和60)
◇演劇評論家。
(5)誕生日は 6. 7。
(9)誕生日は 5. 7。
とだ きんどう
戸田 欽堂
1850(嘉永 3. 7.19)
1890. 8.10(明治23)
◇小説家。幼名は唯之助のち三郎四郎氏益(ウジマス)、維新後は
欽堂、別称は鉄研・狐窟情仙・花柳粋史。大垣藩主戸田氏正の
庶子として生れ、分家戸田監物の嗣子となる。1871(明治 4)渡
米留学、洗礼を受ける。帰国後、華族銀行の秘書をしながらキ
リスト教の伝道を行う。横浜の高島別邸で死去。
とだ もすい
戸田 茂睡
1629(寛永 6. 5.19)
1706(宝永 3. 4.14)
◇江戸前期の歌人。名は恭光(ヤスミツ)、通称は茂右衛門、号は
露寒軒・梨本(ナシノモト)・隠家(カクレガ)、僧名は最忍。
どどいつぼう せんか《どどいつばう せんか》
都々逸坊 扇歌(初代)
1804
1852(嘉永 5)
◇江戸後期の芸人・俗謡都都逸の完成者。本名は岡福次郎。常
陸(ヒタチ)水戸の人。
幼時に失明。江戸に出て落語家船遊亭扇橋にに入門。
天保年間(1830〜1844)、寄席の客からなぞの題を求め、独特
の節回しで唄って謎ときをしたのが流行、一世を風靡。
後年、風刺よみ込みで幕府ににらまれ、生国に帰住。
(*)1804(享和 4,文化元)。
とね いちろう《とね いちらう》
利根 一郎
1918. 4.15(大正 7)
1991.12.16(平成 3)
◇作曲家。本名は恩田良武。
作品は『星の流れに』・『星影の小径』・『ミネソタの卵売
り』・『ガード下の靴みがき』・『若いお巡りさん』・『霧氷』
など。
とねり しんのう《とねり しんわう》
舎人 親王
676[天武 4]
735(天平 7.11.14)
◇奈良時代の皇族。天武天皇の第5皇子、母は天智天皇の娘の
新田部(ニイタベ)皇女、淳仁天皇(大炊<オオイ>王)の父。
文武天皇の時に親王となり二品に叙せられ、 718(養老 2)一
品に進む。 719(養老 3)元正天皇の詔によって、皇太子の補佐
役となる。
太安万侶(オオノヤスマロ)らとともに勅を奉じて『日本書紀』(30巻)
を編纂、 720(養老 4)完成。
同年、藤原不比等の死後、知太政官事として国政に参与。
死去に際し太政大臣が追贈。
(16)天武天皇の第5皇子.
◎淳仁天皇の時、 759(天平宝字 3)崇道尽敬(スドウジンケイ)皇帝
と追尊。
とのおか たつお
殿岡 辰雄
1904. 1.23(明治37)
1977.12.29(昭和52)
◇詩人。
とのむら しげる
外村 繁
1902.12.23(明治35)
1961. 7.28(昭和36)
◇小説家。本名は茂。滋賀県神崎郡五個荘村金堂生れ。第三高
等学校を経て東京経済学部卒業。
(13)誕生日は 3.23。
とば てんのう《とば てんわう》
鳥羽 天皇
1103(康和 5. 1.16)
1156(保元元. 7. 2)
◇第74代天皇。諱は宗仁(ムネヒト)、法諱は空覚。堀河天皇の第1
皇子、母は藤原苡子(イシ)(贈皇太后藤原茨子)。崇徳(ストク)天皇
・後白河天皇・近衛(コノエ)天皇の父。
1107(嘉承 2)堀河天皇が没して天皇に即位。1123(保安 4)崇
徳天皇に譲位し、上皇となる。1129(大治 4)白河法皇が没し、
院政を始め、崇徳・近衛・後白河の3代にわたる。
1141(永治元)出家して法皇となり、崇徳天皇を退位させ、子
の体仁(ナリヒト)親王を近衛天皇に即位させる。1155(久寿 2)近衛
天皇が夭折すると崇徳上皇の子重仁(シゲヒト)親王をさしおき、
崇徳の弟雅仁(マサヒト)親王を後白河天皇に即位させる。翌年法皇
が没すると、まもなく保元(ホウゲン)の乱となる。
天皇即位:1107(嘉承 2)、退位:1123(保安 4)。
院政開始:1129(大治 4. 7. 7)、終了(死亡):1156(保元元. 7.
2)。
とばり こがん
戸張 孤雁
1882(明治15. 2.15)
1927(昭和 2.12. 9)
◇画家・彫刻家。本名は亀吉。東京生れ。版画・挿し絵も多い。
1901(明治34)渡米、ナショナル・アカデミーなどで絵画を学
び、1906(明治39)帰国。
とばり ちくふう
登張 竹風
1873.10. 2(明治 6)
1955. 1. 6(昭和30)
◇ドイツ文学者・文芸評論家。本名は信一郎。広島県生れ。
1886(明治19)広島中学校、1890(明治23)山口高等中学校、1894
(明治27)東京帝国大学入学、1897(明治30)独文科卒業。
(1)誕生日は10. 2。
(3)誕生日は10. 8。
(5)誕生日は10. 2。
(9)誕生日は10. 2。
(11)誕生日は10. 2。
(13)誕生日は10. 8。
とぶし たへい
戸伏 太兵
1903. 1. 7(明治36)
1983. 5.18(昭和58)
◇時代考証家・武道史研究家・小説家。本名は綿谷雪(ワタタニ・キヨシ)。
(9)誕生日は 1.17。
とみおか えいせん
富岡 永洗
1864(元治元. 3.)
1905. 8. 3(明治38)
◇画家。通称は秀太郎。
とみおか てっさい
富岡 鉄斎
1836(天保 7.12.)
1924(大正13.12.31)
◇明治・大正期の日本画家。本名は猷輔、別号は百練。京都法
衣商の富岡伝兵衛の子、富岡冬野(フユノ)の祖父。
幼少より女流歌人太田垣蓮月(オオタガキ・レンゲツ)に養われる。明
治維新後、奈良県石上神社・大鳥神社宮司となる。
1881(明治14)京都に帰り、大和絵のち南画を学ぶ。のち帝室
技芸員・帝国美術院会員。
画壇への野心がなく、公開の展覧会に出品することはなかっ
た。
とみおか ふゆの
富岡 冬野
1904.12.28(明治37)
1940. 4.25(昭和15)
◇歌人。本名は青木ふゆの、富岡は母の姓、別名は松崎流子。
富岡鉄斎(テッサイ)の孫。
とみざわ ういお
富沢 有為男(富澤 有爲男)
1902. 3.29(明治35)
1970. 1.15(昭和45)
◇小説家・画家。大分市生れ。一八歳の時親戚の画家岡田三郎
助の家に託される。
とみざわ かきお
富沢 赤黄男(富澤 赤黄男)
1902. 7.14(明治35)
1962. 3. 7(昭和37)
◇俳人。本名は正三。愛媛県生れ。早稲田大学経済学部に学ぶ。
とみた あきら
富田 彬
1897. 1.25(明治30)
1971. 3.26(昭和46)
◇アメリカ文学者。
とみた けいせん
富田 渓仙(富田 溪仙)
1879.12. 9(明治12)
1936. 7. 6(昭和11)
◇大正・昭和期の日本画家。本名は鎮五郎。福岡県生れ。
とみた さいか
富田 砕花(富田 碎花)
1890.11.15(明治23)
1984.10.17(昭和59)
◇明治・大正期の詩人・歌人。本名は戒治郎。岩手県盛岡市生
れ。盛岡中学を経て日本大学に学ぶ。
(1)誕生日は11.15。
(3)誕生日は11.13。
(5)誕生日は11.15。
(9)誕生日は11.15。
(11)誕生日は11.15。
(13)誕生日は11.24。
とみた ちあき
富田 千秋
1901. 2.23(明治34)
1967. 7.18(昭和42)
◇挿絵画家。香川県生れ。東京美術学校卒業。
とみた つねお
富田 常雄
1904. 1. 1(明治37)
1967.10.16(昭和42)
◇小説家。筆名は伊皿恒夫。柔道五段。東京生れ。明治大学経
済学部卒業。父は講堂館四天王のひとりに数えられた常次郎。
代表作1942(昭和17)『姿三四郎』。
(5)誕生日は 1. 1。
(13)誕生日は 1. 2。
とみた つねじろう
富田 常次郎
1865
1937(昭和12)
◇明治時代の柔道家。8段。
1882(明治15)嘉納治五郎(カノウ・ジゴロウ)の開設した講道館の門
人第1号、四天王の一人。1904(明治37)渡米して柔道を宣伝す
る。
(*)1865(元治 2,慶応元)。
とみた もっぽ
富田 木歩
1897. 4.14(明治30)
1923. 9. 1(大正12)
◇俳人。本名は一(ハジメ)、旧号は吟波。東京向島生れ。二歳の
とき病気により下肢の自由を失う。関東大震災で死亡。
◆木歩忌[ 9. 1]関東大震災で焼死。
とみなが けんたろう《とみなが けんたらう》
富永 謙太郎
1904(明治37)
1985(昭和60)
◇挿絵画家。静岡県森町生れ。
高等小学校卒業し、上京。看板屋などに勤めながら絵を独習。
とみなが じろう《とみなが じらう》
富永 次郎
1909. 4.23(明治42)
1969. 7.14(昭和44)
◇美術評論家。富永太郎の弟。
とみなが たろう《とみなが たらう》
富永 太郎
1901. 5. 4(明治34)
1925.11.12(大正14)
◇大正時代の詩人。富永次郎の兄。東京生れ。
第二高等学校理科に入学したが、フランス語を学びボードレ
ールを読んで退学。1922(大正11)東京外語フランス語科に入学。
肺炎(肺結核)により死去。
とみなが なかもと
富永 仲基
1715(正徳 5)
1746(延享 3)
◇江戸中期の思想家。名は徳基・仲基、字は仲子・子仲(シチュウ)、
号は謙斎(ケンサイ)・南関・藍関など、通称は道明寺屋三郎兵衛(ド
ウミョウジヤ・サブロベエ)。大坂の醤油醸造業・漬物商に生れる。道明
寺屋吉左衛門(富永徳通<ノリミチ>・芳春)の第三子。
10歳ころから父徳通らの創立した懐徳堂(カイトクドウ)に入り三
宅石庵(ミヤケ・セツアン)に陽明学を学ぶ。17歳ころ『説蔽』を著し儒
教諸子を批判して「加上の法則」を説き破門。田中桐江に詩文を
学ぶ。
神・儒・仏の経典に通じ、大乗仏教が釈迦以降の歴史的所産
であることを示す。また、儒教の空虚性も指摘し、神道も批判
して、儒の文・仏の玄・神の旧風を去るという「誠の道」を唱え
る。
著書は1745(延享 2)『出定後語(シュツジョウコウゴ)』・『説蔽』
・『翁の文』など。
◎のち彼の思想は本居宣長(モトオリ・ノリナガ)・平田篤胤(ヒラタ・アツタネ)
らに影響を与える。
とみのさわ りんたろう《とみのさは りんたらう》
富ノ沢 麟太郎
1899. 3.25(明治32)
1925. 2.24(大正14)
◇小説家。本姓は富沢。仙台市生れ。早稲田大学予科中退。
とみもと けんきち
富本 憲吉
1886. 6. 5(明治19)
1963. 6. 8(昭和38)
◇陶芸家・工芸家。奈良県安堵村(現:安堵町)生れ。
東京美術学校図案科卒業後、イギリスに留学。
帰国してイギリスの陶芸家バーナード・リーチ(Bernard
Leach)との交友を機に郷里で作陶を始める。
1961(昭和36)文化勲章、受章。
◎奈良県生駒郡(イコマグン)安堵町(アンドチョウ)に富本憲吉記念館が
ある。
とみもり すけえもん《とみもり すけゑもん》
富森 助右衛門
⇒とみもり まさより(富森 正因)
とみもり まさより
富森 正因
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻・使番、禄高200石。
通称は助右衛門(スケエモン)、俳号は春帆(シュンパン)、戒名は刃勇相
剣信士。吉良家の探索中の変名は山本長左衛門(チョウザエモン)。
討ち入りでは表門隊。泉岳寺(センガクジ)へ引き揚げる途中、
吉田忠左衛門(チュウザエモン)とともに同志を代表して大目付仙石(セ
ンゴク)伯耆守久尚(ヒサナオ)邸へ赴き、内匠頭家来口上書を差し出
し自訴。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年切腹。
辞世の句は「四日は姉の忌日なれば/先立ちし人もありけり
今日の日を/終(ツイ)の旅路の思出にして」。
(?)とみのもり すけえもん(富森 助右衛門)。禄高三百石。
とみやす ふうせい
富安 風生
1885. 4.16(明治18)
1979. 2.22(昭和54)
◇俳人。本名は譲次。愛知県八名郡金沢村生れ。第一高等学校
を経て東京大学法科卒業。逓信省に入り、逓信次官・電波監理
委員長などを歴任。
(1)誕生日は 4.16。
(3)誕生日は 4.16。
(5)誕生日は 4.17。
(9)誕生日は 4.16。
(11)誕生日は 4.17。
(13)誕生日は 4.17。本名謙次。
とめのみや つねこ
東明宮 直子
⇒とくしんいん つねこ(徳信院 直子)
ともえ ごぜん《ともゑ ごぜん》
巴 御前(鞆絵 御前)
生年不詳
没年不詳
◇源(木曾)義仲(ヨシナカ)の愛妾。中原兼遠の娘、今井兼平(カネヒラ)
の妹。
武勇に優れた美女で、義仲に武将として従う。義仲の死後、
越後国友松に尼として暮らす。
義仲が源義経(ヨシツネ)・範頼(ノリヨリ)に敗れて近江に逃れるとき
の奮戦は能などで有名。
ともだ きょうすけ
友田 恭助
1899.10.30(明治32)
1937.10. 6(昭和12)
◇大正・昭和期の新劇俳優。本名は伴田五郎。東京生れ。早稲
田大学卒業。召集をうけ、上海郊外で戦死。
妻は田村秋子。
ともなが さんじゅうろう
朝永 三十郎
1871(明治 4. 2. 9)
1951. 9.18(昭和26)
◇明治・大正期の哲学者。長崎県出身。東京大学卒業。朝永振
一郎(シンイチロウ)の父。
ともなが しんいちろう《ともなが しんいちらう》
朝永 振一郎
1906. 8.31(明治39)
1979. 7. 8(昭和54)
◇昭和期の理論物理学者。朝永三十郎(サンジュウロウ)の長男。東京
生れ。
京都帝国大学理学部卒業。仁科芳雄に師事。ドイツのハイゼ
ンベルクの下で原子核理論を研究。
東京教育大学(現:筑波大学)教授。超多時間理論・繰り込み
理論などを発表。
1965(昭和40)ノーベル賞受賞。
東京教育大学学長・日本学術会議会長などを歴任。
ともの ろう《ともの らう》
伴野 朗
1936. 7.16(昭和11)
2004. 2.27(平成16)
◇作家。愛媛県松山市生れ。
1962(昭和37)朝日新聞社、入社。
1969(昭和44)サイゴン特派員。
1976(昭和51)『五十万年の死角』でデビューし、江戸川乱歩
賞を受賞。
1986. 5.(昭和61)朝日新聞上海支局長。
1989(平成元)朝日新聞社、退社。
とものこわみね
伴 健岑
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の官僚。大伴氏の一族。
842(承和 9)嵯峨上皇が重態におちいると、橘逸勢(ハヤナリ)ら
と恒貞(ツネサダ)親王(皇太子)を奉じて変を企てたと阿保(アボ)親
王に訴えられ、隠岐に流される(承和の変)。これは藤原良房の
画策といわれる。 865(貞観 7)赦されて入京するが、出雲に移
される。
ともひら しんのう《ともひら しんわう》
具平 親王
964. 7.30(応和 4. 6.19)
1009. 8.21(寛弘 6. 7.28)
◇平安後期の漢学者・歌人、村上天皇の皇子。通称は六条宮・
千種殿(チグサドノ)・後中書王(ノチノチュウショオウ)。母は代明(ヨシアキラ)親
王王女、女御荘子(ショウシ)。
二品(ニホン)中務卿に任ぜられる。
慶滋保胤(ヨシシゲノヤスタネ)に師事。諸芸に秀でて、詩歌・音律に
すぐれ、陰陽道・医術にも通達。
和歌は『拾遺集』など、詩文は『本朝文粋』などに収録され、
仏教では天台宗の重要典籍を注解し『弘決外典抄(グケツゲテンショウ)』
などを著す。
◎前中書王は兼明(カネアキラ)親王をいう。
ともまつ えんたい
友松 円諦
1895. 4. 1(明治28)
1973.11.16(昭和48)
◇大正・昭和期の仏教学者。名古屋出身。慶応義塾大学卒業。
慶応義塾大学・大正大学教授。
ともよし しんのう
朝彦 親王
⇒あさひこ しんのう(朝彦 親王)
どもん けん
土門 拳
1909(明治42)
1990(平成 2)
◇昭和期の写真家。山形県酒田市生れ。日本大学中退。
◎酒田市に土門拳記念館がある。
とやべ しゅんてい
鳥谷部 春汀
1865(慶応元. 3. 3)
1909.12.21(明治42)
◇ジャーナリスト・人物評論家。本名は銑太郎。
(9)没年は1908(明治41)、誕生日は戸籍面では 3. 8。
とやま かめたろう
外山 亀太郎
1867(慶応 3)
1918(大正 7)
◇明治・大正期の遺伝学者。東京大学卒業。
蚕(カイコ)の交配実験により、世界に先駆けて昆虫でもメンデ
ルの法則が実証されることを明らかにする。
とやま しゅうぞう
外山 脩造
1842(天保13)
1916(大正 5)
◇明治時代の銀行家。越後(新潟)生れ。
大蔵省を経て、1878(明治11)大阪の大三十二国立銀行総監役
に就任。1903(明治36)浪速銀行頭取。
とやま まさかず
外山 正一
1848(嘉永元. 9.27)
1900. 3. 8(明治33)
◇教育者・詩人。幼名は捨八、号はゝ山(チユザン)。江戸小石川
生れ。静岡藩士の子。
蕃書調所(開成所)・箕作麒祥に学び、1865(慶応元)イギリス
に留学、1868(明治元)帰国。1872(明治 5)渡米しミシガン大学
で哲学・理学を修め、1876(明治 9)帰国。以後、東京大学教授
・文学部長、貴族院議員などを歴任。
1882(明治15)井上哲次郎・矢田部良吉らと『新体詩抄』を発
行。
1897(明治30)東京帝国大学の総長。
1898(明治31)第三次伊藤博文内閣の文部大臣。
ローマ字論者でローマ字会を創立。
(2)外山 正一(とやま まさかず)。幼名は捨八。
(5)外山 正一(とやま まさかず)。幼名記載なし。
(13)外山 正一(とやま しょういち)。幼名捨吉。
(16)外山 正一(とやま まさかず)。幼名記載なし。
とよおか さいちろう《とよをか さいちらう》
豊岡 佐一郎
1897. 4. 1(明治30)
1937. 5.25(昭和12)
◇劇作家・演出家。
とよしま にげみず
豊島 逃水
1895(明治28)
1932. 5.(昭和 7)
◇歌人。
とよしま よしお《とよしま よしを》
豊島 与志雄(豐島 與志雄)
1890.11.27(明治23)
1955. 6.18(昭和30)
◇小説家・翻訳家。福島県生れ。
第一高等学校を経て東京大学仏文科に学ぶ。
1914(大正 3)久米・菊池・芥川らと第三次『新思潮』を発刊。
慶応義塾大学講師・法政大学教授・東京大学講師。
作品は翻訳『レ・ミゼラブル』・『ジャン・クリストフ』な
ど。
とよだ さきち
豊田 佐吉
1867. 3.19(慶応 3. 2.14)
1930.10.30(昭和 5)
◇明治・大正期の織機の発明家・実業家。静岡県生れ。
1890(明治23)豊田式人力織機を発明。1897(明治30)日本最初
の木製の動力織機を開発。三井物産出資で井桁商会が設立、技
師長に就任するが、自分の経営方針が取り入れられず、間もな
く辞職。1906(明治39)三井とともに豊田式織機会社を設立。間
もなく同社を辞し、欧米を視察。
第一次世界大戦で巨利を得、1918(大正 7)独力で豊田紡織株
式会社を設立。1924(大正13)自動織機を最終的に完成。1926年、
愛知県刈谷に豊田織機製作所を設立。
(*)1926(大正15,昭和元)。
とよだ さぶろう
豊田 三郎
1907. 2.12(明治40)
1959.11.18(昭和34)
◇小説家。本名は森村三郎、旧姓は豊田。森村桂(カツラ)の父。
とよだ みのる
豊田 実
1885. 9.16(明治18)
1972.11.22(昭和47)
◇英文学者。
とよとみ ひでつぐ
豊臣 秀次
1568(永禄11)
1595(文禄 4. 7.15)
◇安土・桃山時代の武将。はじめ次兵衛のち孫七郎、通称は
殺生関白。父は三好吉房、母は豊臣秀吉(ヒデヨシ)の姉瑞龍院日
秀、秀吉の甥。
はじめ宮部継潤に養われ、のち三好康長の養子となる。1583
(天正11)秀吉の命により滝川一益(カズマス)を伊勢に攻め、つい
で賤ヶ岳の戦いに従軍。1584(天正12)小牧・長久手(コマキナガクテ)
の戦に三河侵攻の総大将となり、徳川家康に敗れる。1585(天
正13. 3.)紀伊の根来衆(ネゴロシュウ)攻略、同6月四国征伐に秀吉
の名代として長宗我部元親(チョウソカベ・モトチカ)を降伏させ、その功
により、姓を三好から羽柴に改め、近江国八幡城主43万石とな
る。1587(天正15. 3.)九州征伐で5月島津義久(ヨシヒサ)を破る。
1590(天正18. 3.)北条氏政(ウジマサ)・氏直(ウジナオ)の小田原攻囲
に伊豆山中城を攻める。同年8月、陸奥の九戸政実(クノヘ・マサザネ)
を討つ(九戸の乱)。
1591(天正19)秀吉の長男鶴松が死に、秀吉の養子となり、内
大臣に任ぜられ、関白を譲られて聚楽第に入る。1593(文禄 2)
左大臣、横暴になり文禄の役に出陣せず。同年8月、秀吉に実
子秀頼が誕生し疎(ウト)んぜられ、1595(文禄 4)謀反のうわさか
ら高野山に追われ、青厳寺に入り剃髪するが従者5人とにも切
腹させられる。さらにその首を三条河原に晒され、秀次の子弟
・妻妾ら30余名も同所で斬られる。
(2)'91小田原の役後陸奥を征し……。
その養子となり左大臣関白……。
(16)'90年の小田原攻囲に伊豆山中城を攻めて功をたてた.ま
た同年九戸政実が陸奥に叛するとこれを討ち……。
秀吉の養子となり,内大臣に任じられ,関白となる.'93(文
禄 2)左大臣に進み…….
とよとみ ひでなが
豊臣 秀長
⇒はしば ひでなが(羽柴 秀長)
とよとみ ひでよし
豊臣 秀吉
1536(天文 5. 1. 1)
1598(慶長 3. 8.18)
◇戦国・安土桃山時代の武将。幼名は日吉・日吉丸(ヒヨシマル)、
のち木下藤吉郎(キノシタ・トウキチロウ)・羽柴秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)。尾張
国愛知郡中村生れ。父は弥右衛門(ヤエモン)(鉄砲伝来の1543<天文
12>に没)で『太閤素生記』では織田信長の鉄砲足軽、『フロイ
ス日本史』では貧しい百姓の伜。
1551(天文20)15歳のとき家を飛び出し奉公口を求めて放浪、
遠江国久能の城主松下加兵衛之綱(カヘエユキツナ)(今川氏の家臣)に
仕える。
1558(永禄元. 9.)18歳のとき尾張に戻り、清洲(キヨス)の織田
信長の草履取りとなり、木下藤吉郎と改名。1563(永禄 6)普請
奉行として清洲城を修築(100間を10組に分け競争で工事に当ら
せる)。1566(永禄 9)墨股(スノマタ)城築城に功をたてる。1570年、
部将の地位を得て羽柴と改姓(丹羽長秀・柴田勝家にちなむ)、
朝倉義景・浅井長政討伐に従軍。1573(天正元. 8.)浅井氏滅亡
後、その遺領を与えられ、長浜に築城。1575(天正 3)筑前守に
任ぜられる。
1576(天正 4)中国地方の平定を任ぜられ、播磨・備前・美作
(ミマサカ)・因幡(イナバ)の毛利氏の諸城を攻略する。1577(天正 5.
10.)播磨の姫路城を根拠とし、11月但馬(タジマ)・山口・岩州(イ
ワス)・竹田の諸城を降(クダ)す。ついで播磨国の上月景利(コウヅキ
・カゲトシ)の上月城、別所長治(ベッショ・ナガハル)の三木城(ミキジョウ)を
落す。1581(天正 9)姫路に帰り、信長の命を受け因幡に入り山
名豊邦(ヤマナ・トヨクニ)の鳥取城を落し、一時淡路を征する。
1582(天正10. 3.)備中に入り、清水宗治(ムネハル)の高松城を囲
んでいたが、本能寺の変を知り直ちに毛利輝元(テルモト)と和睦。
軍を返して四国征伐の援軍織田信孝(ノブタカ)・丹羽長秀(ニワ・ナガ
ヒデ)とともに山崎の戦で明智光秀を倒す。
6月18日織田信長・信忠(長男)ともに亡くなり後嗣(アトツギ)
が清洲で話し合われる(清洲会議)。山崎の弔い合戦に加わった
信長の三男信孝を柴田勝家・丹羽長秀・佐久間盛政(モリマサ)らが
推し、次男信雄(ノブオ)を滝川一益(カズマス)が推し対立。光秀追
討の勢いに乗る秀吉が、信雄は北畠家を、信孝は神戸(カンベ)家
を継いでいるからと、信忠の長男三法師丸(のち秀信)を推し、
反対するものがなく決定する。
1583(天正11. 4.20)賤ヶ谷の戦で大勝し、柴田勝家・織田信
孝を滅ぼし、滝川一益を降伏させる。同年11月、石山本願寺跡
に大坂城を起工。1584(天正12)徳川家康と結んだ織田信雄と小
牧(コマキ)・長久手(ナガクテ)に戦い、池田信輝(ノブテル)らを失い敗
れて和睦する。のち家康の子秀康を養子とし、秀吉の異父妹朝
日姫(アサヒヒメ)を家康の正室(後妻)とする。1585(天正13. 3.)紀
伊の根来衆(ネゴロシュウ)・雑賀衆(サイカシュウ)を討ち、6月長宗我部
元親(チョウソガベ・モトチカ)を降伏させて四国を平定。
同年7月四国平定の功により従一位関白となり、藤原に改姓
(関白はそれまで藤原氏以外に例がない)。同年8月前田利家(ト
シイエ)を先軍に越中富山城の佐々成政(サッサ・ナリマサ)を攻めて剃髪さ
せる。同じ8月大坂城が完成、五奉行を置き大規模な大名の配
置替えを行い、天下統一の体制を整える。
豊臣姓を賜り、1586(天正14)太政大臣となる。同年聚楽第(ジュ
ラクダイ)を着工。1587(天正15. 3.)九州征伐を行ない、薩摩島津
義久(ヨシヒサ)を討ち、九州を平定し7月に大坂に凱旋。同年10月
1日、京都の北野天満宮の境内で800以上の茶室が設ける大茶
湯を催す。聚楽第が完成し、1588(天正16. 4.)後陽成(ゴヨウゼイ)
天皇・正親町(オウギマチ)上皇が行幸(ギョウコウ)。1590(天正18. 3.)
後北条氏政(ウジマサ)を小田原に滅亡させ、7月戦わずして奥州
を平定し、天下を統一する。同年 9. 1京都に凱旋、調停に奏
上する。
1591(天正19)関白を養子秀次(ヒデツグ)(姉日秀の子)に譲り、
太閤と称する。
1592(文禄元)小西行長・加藤清正らを朝鮮に出兵させ、秀吉
自ら 3.26京都を立ち、途中厳島(イツクシマ)神社に戦勝を祈願し、
4.25肥前名護屋に至る。1593(文禄 2. 5.)明の援軍の沈惟敬
(シン・イケイ)を名護屋に迎え、講和の条件を示し、朝鮮より軍を引
き揚げる(文禄の役)。
1594(文禄 3)実子秀頼(ヒデヨリ)が生れる。1595(文禄 4)秀次
を高野山で自殺させる(石田三成の讒言といわれる)。
1596(慶長元. 9.)明使節(楊方享・沈惟敬)が来朝、講和条件
が合わずこれを返し、1597(慶長 2. 1.)再び朝鮮に軍を進めた
が、病気により軍を召還する(慶長の役)。秀吉の死後も戦いが
あり、引き上げが完了するのは年末ごろ。
太閤検地を実施し石高制の基礎を固める。刀狩り令や人払い
令を発して兵農分離を進め、身分制を確立させる。
外交面では1586(天正14)と1588(天正16)対馬の宗義智(ソウ・ヨシ
トモ)を、1589(天正17)僧玄蘇(ゲンソ)を朝鮮に遣わし、修好を求
めている。同年、琉球王尚寧(ショウネイ)の遣いが、翌年朝鮮王李
(「沿」の「三水」を「日」に替える)(リエン)の遣いが聚楽第に来るが、
明に憚(ハバカ)り修好の返答は無かった。1591(天正19. 9.)朝鮮
征伐の命を発する。さらに同年秋、原田孫七郎をフィリピン太
守に遣い、1593(文禄 2.11.)台湾に書を送り、修好を求めてい
るがともに不首尾。
(2)誕生日は1536(天文 5)(異)37。
'85……豊臣姓勅許。
'90……同年関白を辞して養子秀次に譲り,太閤となる。
(4)生年は1536。
一八五八関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、九一年関白を
養子秀次に譲って太閤と称。
(6)生年は1536。
86年太政大臣となり豊臣の姓を賜った。
(16)誕生日は1536(天文 5. 1. 1)。
'84(天正12)……翌年……関白となって豊臣氏を称した.
'91(天正19)年関白職を養子秀次に譲り,太閤と称した.
(17)生年月日について、天文五年(一五三六)正月元日説と翌六
年二月六日説とがあるが、確かな史料に「酉之御年」とみえるの
で、現在では天文六年説が支持されている。
(*)1570(永禄13,元亀元)。
1536(天文 5)は丙申(ヒノエサル)歳。
五大老:徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝。
五奉行:浅野長政,石田三成,増田長盛,長束正家,前田玄以。
とよとみ ひでより
豊臣 秀頼
1593(文禄 2. 8. 3)
1615(慶長20. 5. 8)
◇安土桃山・江戸初期の大名。幼名はお拾い・拾丸。豊臣秀吉
(ヒデヨシ)の次男、母は淀君。鎌倉東慶寺の天秀尼(テンシュウニ)の父、
夭折した鶴松の同母弟。室は第2代将軍徳川秀忠(ヒデタダ)の娘
千姫。
1600(慶長 5)関ヶ原の戦に敗れ、摂津・河内・和泉65万7千
石余の一大名となる。
1603(慶長 8)11歳で内大臣、徳川家と円満をはかるため片桐
且元(カツモト)らの尽力で徳川秀忠の長女千姫(7歳)を娶る。
1611(慶長16)徳川家康に呼ばれ、京都二条城で会見。
1614(慶長19.11.)大坂冬の陣と翌1615(慶長20. 5.)夏の陣に
敗れ、大坂城に火を放ち母淀君とともに自刃。
とよはらのときもと
豊原 時元
1068(治暦 4)頃
1123(保安 4. 6.21)
◇平安後期の笙(ショウ)の名人。時秋の父。正五位上。堀川院の
師範。
とらざわ けんぎょう《とらざは けんげう》
虎沢 検校
生年不詳
1654(承応 3)
◇江戸初期(文禄・慶長期)の三味線の演奏家・作曲家。
三味線本手(組歌)の創始者石村検校(一説に中小路)を師とし、
師とともに組歌の本手と破手(ハデ)とを定める。
門下に沢住検校・滝野検校、孫弟子に柳川流の創始者柳川検
校がいる。
とりい きよなが
鳥居 清長
1752(宝暦 2)
1815(文化12)
◇江戸後期の浮世絵師。旧姓は関口、俗称は白子屋市兵衛。浦
賀の人、一説に江戸の人。
江戸に出て書店を営み、鳥居清満の門に学ぶ。
はじめは鳥居風の役者絵を描いたが、しだいに美人画に移り、
流麗な描線と明快な色調で一世を風靡。
師清満の死後、養子となり鳥居家四代を継ぐ。
代表作は『美南見(ミナミ)十二候』・『風俗東之錦(フウゾクアヅマノ
ニシキ)』など。
とりい すねえもん《とりゐ すねゑもん》
鳥居 強右衛門
生年不詳
1575(天正 3)
◇戦国時代の武士。名は勝商(カツアキ)、通称は強右衛門。三河長
篠城主奥平貞昌(信昌)の家臣。
1575(天正 3)武田勝頼(カツヨリ)の軍が長篠城を包囲したとき、
密使として脱出し徳川家康(イエヤス)に援けを求める。帰途捕えら
れ、援軍が来ないことを告げるように命ぜられ、城前に至って
援軍の来ることを大声で伝え、磔(ハリツケ)にされる。
とりい そせん《とりゐ そせん》
鳥居 素川
1867(慶応 3. 7. 4)
1928. 3.10(昭和 3)
◇新聞記者。本名は赫雄(テルオ)。肥後生れ。
1897(明治30)大阪朝日新聞に入社。池辺三山のあと編集局長
に就任。第一次大戦下、寺内正毅内閣を攻撃し民本主義の論陣
を張る。1918(大正 7)白虹(ハッコウ)事件の筆禍により引責辞任。
とりい まこと
鳥居 忱
1855(安政 2. 5. 4)
1917(大正 6)
◇作詞家。
とりい もとただ《とりゐ もとただ》
鳥居 元忠
1539(天文 8)
1600(慶長 5)
◇安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門。忠吉の子。
徳川譜代の家臣で家康に仕え、姉川・三方ヶ原・長篠などの
戦に功を立てる。本能寺の変後、甲斐国都留郡を与えられる。
小田原の役で武蔵国岩槻城の攻略に活躍。
家康が関東に転封する際、下総国矢作4万石を与えられる。
関ヶ原戦で家康の上杉景勝征伐に当り、伏見城に留守し籠城、
石田方に囲まれて自刃。
とりい ようぞう《とりゐ えうざう》
鳥居 耀蔵
1796.12.22(寛政8.11.24)
1873.10. 3(明治 6)
◇江戸幕末の幕臣。名は忠耀(タダテル)、号は胖庵、通称は
甲斐守。林述斎の次子、母は側室前原八耀。旗本鳥居一学の養
嗣子。
1837(天保 8)目付となり、大塩平八郎の処理・蛮社の獄で洋
学を弾圧などを行う。老中水野忠邦の信任を得て、1841(天保
12)江戸町奉行。1843(天保14)印旛沼の開墾を担当、勘定奉行
勝手方。1844年、失脚して丸亀藩に預けられ、明治維新後に釈
放。
(*)1804(享和 4,文化元)、1844(天保15,弘化元)。
(2)生年は1815(文化12)、没年は1874(明治7)。林述斎の次男。
(6)生年は1804、没年は1874。林述斎の次子。
(19)生没年は(1796〜1873)。林述斎の三男。
(23)生年は寛政8.11.24(1796.12.22)、没年は明治6(1873).10.3。
林述斎の第7子。
◎渋川六蔵・後藤三右衛門とともに水野の三羽烏と呼ばれる。
取締の厳しさから、妖怪(耀甲斐)と恐れられる。
◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。墓誌による没日は
明治六年十月三日歿七十八歳。
とりい りゅうぞう《とりゐ りゆうざう》
鳥居 竜蔵
1870(明治 3)
1953(昭和28)
◇人類学者・考古学者。徳島市生れ。
東京大学人類学教室主任、1921(大正10)助教授。
1939(昭和14)北京の燕京大学に招かれ、千島・樺太・沿海州
・満州・朝鮮などを調査。
正規の大学教育を受けていなかったため、当時の評価は低かっ
た。
とりお こやた
鳥尾 小弥太
1847(弘化 4)
1905. 4.14(明治38)
◇明治期の軍人(陸軍中将)・政治家。号は得庵。長州藩士中村
敬義の長男。
戊辰戦争では鳥尾隊を組織。
軍務局長・大阪鎮台司令長官・近衛都督・貴族院議員・枢密
顧問官。
晩年は統一学舎を創設して青年教育に当る。
とりがた ういち
鳥潟 右一
1883. 4.25(明治16)
1923. 6. 5(大正12)
◇明治・大正時代の電気学者。秋田県大館町(大館市)生れ。
東京帝国大学電気工学科を卒業。
逓信技師として無線電信を研究。火花方式による無線電話を
発明、世界的に有名になる。鉱石検波器を発明。電気試験所長。
とりがた こさきち
鳥潟 小三吉
1842. 5.19(天保13. 4.10)
1909.10.15(明治42)
◇江戸幕末・明治時代の軽業師。出羽国花岡村(秋田県大館市)
生れ。
ドイツ皇帝に招かれる。
とりがた りゅうぞう
鳥潟 隆三
1878(明治11)
1952(昭和27)
◇血清細菌学の先駆者。秋田県大館町(大館市)生れ。
とりのうみ あきこ
鳥海 昭子
1929(昭和 4)
2005.10. 9(平成17)
◇歌人。本名は中込昭子(ナカゴメ・アキコ)。山形県生れ。
1955(昭和30)国学院大学卒業。
1985(昭和60)歌集『花いちもんめ』で現代歌人協会賞を受賞。
1992(平成 4)東京都文化功労賞を受賞。
心不全で死去。
とりぶっし
止利仏師
⇒くらつくりのとり(鞍作 止利)
とりやま きいち
鳥山 喜一
1887(明治20)
1959(昭和34)
◇昭和期の東洋史学者。東京生れ。東京大学卒業。
『〈支那小史〉黄河の水』が有名。
とりやま せきえん
鳥山 石燕
1712(正徳 2)
1788(天明 8)
◇江戸中期の浮世絵師。本姓は佐野、名は豊房、別号は船月堂
・零陵洞・玉樹軒・月窓。江戸の人。
狩野玉燕周信の門人。彼門人は喜多川歌麿・歌川豊春・栄松
斎長喜・恋川春町など。
[1]とるれす
トルレス
1510(永正 7)
1570(元亀元.10. 2)
◇イスパニアのキリスト教宣教師。名はCosme de Torres。イ
エズス会士。ヴァレンシア生れ。
1549(天文18)ザビエルとともに来日。ザビエルの離日後も布
教を続け、肥前天草の志岐教会で病没。
[2]とるれす
トルレス
1563(永禄 6)
1627(寛永 4. 6.)
◇イスパニアのキリスト教宣教師。名はBalthazar Torres。イ
エズス会士。グラナダ生れ。
1626(寛永 3)捕われ、翌年火刑。
とわだ みさお
十和田 操
1900. 3. 8(明治33)
1978. 1.15(昭和53)
◇小説家。本名は和田豊彦(トヨヒコ)。岐阜県生れ。1924(大正13)
明治学院文芸科卒業。
どん みげる
ドン ミゲル
⇒ちぢわ せいざえもん(千々石 清左衛門)
とんあ
頓阿
1289(正応 2)
1372(<北>応安 5. 3.13)
◇鎌倉後期〜南北朝時代の歌人。俗名は二階堂貞宗(サダムネ)、
晩年の法号は感空。下野守光貞の子。孫の尭尋の子は尭孝(ギョ
ウコウ)。
和歌を藤原(二条)為世(タメヨ)に学ぶ。西行を慕い、東山双林
寺に草庵を構える。
弟子は二条良基(ヨシモト)ら。
慶運(ケイウン)・浄弁(ジョウベン)・吉田兼好(ヨシダ・ケンコウ)とともに
「和歌四天王」と呼ばれる。
どんえ
曇恵(曇慧)
生年不詳
没年不詳
◇百済の僧侶。
『日本書紀』によれば、 554[欽明15. 2.]に百済から曇慧ら
9人が来朝、前に渡来していた道深(ドウシン)ら7人と交代した
という。
どんしょう
曇照
1187(文治 3)
1259(正嘉 3. 2.21)
◇鎌倉中期の僧侶(律宗)。名は浄業、字は法忍、号は曇照。
1214(建保 2)宋に渡り、鉄翁守一から律を学び、1228(安貞
2)帰朝。戒光寺を建立。
1233年、再び入宋、1241(仁治 2)帰朝。
(*)1233(貞永 2,天福元)。
どんちょう
曇徴
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の高麗(高句麗)の帰化僧。
610[推古18]高麗王の命により来朝。五経に通じ、彩色画が
得意で、紙・墨・碾磑(ミズウス)を伝えたとされる。
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