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人 名 辞 典 《とく》 編集:獨 澄旻
-------- とく --------------------------------------------------
とくがわ あきたけ
徳川 昭武
1853(嘉永 6)
1910(明治43)
◇江戸幕末の水戸第11代藩主。字は子明、幼名は余八麿、号は
鑾山、諡号は節公(セッコウ)。徳川斉昭(ナリアキ)の第18子、第11代藩
主慶篤(ヨシアツ)・第15代将軍慶喜(ヨシノブ)の弟。水戸生れ。
1866(慶応 2)将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣さ
れ、ナポレオン三世に謁見。
1868年、慶篤より藩主を相続。1869(明治 2)版籍奉還により
水戸藩知事となる。
1883(明治16)家督を兄慶篤の長男で養子の篤敬(アツヨシ)に譲り
松戸に隠居。
(*)1868(慶応 4,明治元)
とくがわ いえさだ《とくがは いへさだ》
徳川 家定
1824(文政 7)
1858(安政 5. 7. 6)
◇江戸幕府の第13代将軍。幼名は政之助、はじめは家祥、院号
は温恭院。第12代将軍徳川家慶(イエヨシ)の第4子、母は跡部茂右
衛門正賢の娘、妻は天璋院敬子(テンショウイン・スミコ)(篤姫)。
将軍就任1837(天保 8.10.23)、退任1858(安政 5. 7. 6)。
(2)'58年7月6日病没。
(16)記事の没日は 7. 4、将軍表の退任日は 7. 6。
とくがわ いえさと
徳川 家達
1863. 8.24(文久 3. 7.11)
1940. 6. 3(昭和15)
◇明治〜昭和期の華族・公爵・貴族院議員。幼名は亀之助、通
称は十六代様。田安慶頼(ヨシヨリ)の3男、徳川家正(イエマサ)の父。
1868年、第15代将軍徳川慶喜(ヨシノブ)が隠居し、後をついで
徳川宗家に入り第16代目となり、駿河府中城主、70万石を賜封
される。1869(明治 2)大政奉還により静岡藩知事。
1877(明治10)イギリス留学。1884(明治17)公爵。1890(明治
23)貴族院開設とともに公爵議員。1893〜1933(明治26〜昭和 8)
貴族院議長。
この間、1914(大正 3)組閣の内命を辞退。1921(大正10)ワシ
ントン軍縮会議に全権委員として出席。
1935(昭和10)「第12回国際オリンピック大会招致委員会」の会
長に就任、1940(昭和15)開催の東京オリンピックの承致に務め、
1936(昭和11)IOC委員。1938(昭和13)大会が返上され、1939
(昭和14)委員を辞任。
日本赤十字社社長・恩賜財団済生会会長、東京慈恵会・日米
協会などの名誉職を歴任。
(*)1868(慶応 4,明治元)。
(21)没日は 6. 5。
(23)没日は 6. 5。
とくがわ いえしげ《とくがは いへしげ》
徳川 家重
1712. 1.28(正徳元.12.21)
1761. 7.13(宝暦11. 6.12)
◇徳川幕府の第9代将軍。幼名は長福丸、法号は惇信院殿。第
8代将軍徳川吉宗(ヨシムネ)の長子、母は大久保忠旧の娘お須磨の
方(深徳院)、第10代将軍徳川家治(イエハル)・徳川重好(シゲヨシ,清
水家の祖)の父。江戸赤坂の紀州邸に生れる。
生来病弱なため、吉宗の次男宗武(田安)・三男宗尹(ムネタダ)
(一橋)との継嗣問題がおこる。若くから酒宴にふけり、言語も
不明瞭となり、側用人大岡忠光のみ理解できたという。吉宗が
没するまでは大御所として政務にあたっていたが、没後は忠光
が権勢を振う。
将軍就任1745(延享 2.11. 2)、退任1760(宝暦10. 5.13)。
とくがわ いえつぐ《とくがは いへつぐ》
徳川 家継
1709(宝永 6. 7. 3)
1716(正徳 6. 4.30)
◇江戸幕府の第7代将軍。幼名は鍋松丸、院号は有章院。第6
代将軍徳川家宣(イエノブ)の第4子、母は月光院(勝田玄哲の娘輝
子,お京の方)。
5歳で将軍となり、先代家宣の遺託により側用人間部詮房(マ
ナベ・アキフサ)が補佐。8歳で病没。
1715(正徳 5. 1.)正徳新令(長崎新令)により金銀の海外流失
を防止。政治は新井白石(アライ・ハクセキ)の献策によるところが多い。
将軍就任1713(正徳 3. 4. 2)、退任(死亡)1716(正徳 6. 4.
30)。
(2)家宣(イエノブ)の4男。
(4)家宣の第三子。
(16)家宣の第4子。
◎閑院宮(カンインノミヤ)家の創立により、1717(正徳 7:暦上はない)
に霊元(レイゲン)法皇の皇女吉子(ヨシコ)内親王が降家(コウカ)するこ
とになっていたが、家継の死により解消となった。
とくがわ いえつな《とくがは いへつな》
徳川 家綱
1641(寛永18. 8. 3)
1680(延宝 8. 5. 8)
◇江戸幕府の第4代将軍。第3代将軍徳川家光(イエミツ)の長子。
乳母は三沢局。
将軍就任1651(慶安 4. 8.18)、退任(死亡)1680(延宝 8. 5.
8)。
とくがわ いえなり《とくがは いへなり》
徳川 家斉
1773(安永 2.10.)
1841(天保12.閏1.30)
◇江戸幕府の第11代将軍。幼名は豊千代丸、諡号は文恭院。江
戸一橋邸生れ。一橋治済(ハルサダ)の長子、母は岩本氏。尾張第
11代藩主斉温(ナリハル)・尾張第12代藩主斉荘(ナリタカ)の実父。加賀
第12代藩主前田斉泰(ヤスナリ)に嫁した溶姫の父。
1781年、9歳のとき第10代将軍徳川家治(イエハル)の子の急死に
より養子となり、1787(天明 7)一橋家より継嗣。
田沼意次(オキツグ)を退け、はじめ白河藩主松平定信(サダノブ)
らを登用し寛政改革(財政緊縮・備荒貯蓄・文武奨励)を行わせ
る。
長ずるに及んで定信を疎んじ、1793(寛政 5. 7.)定信の辞職
をいれ、失脚後は老中水野忠成とともに自ら執政、奢侈・享楽
にはしり綱紀紊乱(コウキビンラン)。
この間、経済的発展による町人文化が向上し、江戸文化が爛
熟(文化・文政時代)。またこのころから1792(寛政 4. 9.)ロシ
ア使節ラックスマンや1804年レザノフが来航、蝦夷地の侵犯な
ど外交・国防問題が起き、対策に苦慮。
1816(文化13)右大臣、1822(文政 5)左大臣、1827(文政10)太
政大臣。
幕府財政の悪化に洪水・暴風雨などによる凶作、米価の高騰
などから幕府の威信がゆらぎ社会不安が発生。1837(天保 8. 2.)
大塩平八郎の乱が起こり、同年4月子の家慶(イエヨシ)に譲位し、
西の丸に隠居後も権力を握る(大御所時代)。
家斉の生活は子女55人、側室40人、大奥に仕える女中606人。
将軍就任1787(天明 7. 4.15)、退任1837(天保 8. 4. 2)。
(2)'41年1月30日没。
(16)没日は1841(天保12.閏1.30)。
(*)1781(安永10,天明元)、1804(享和 4,文化元)。
とくがわ いえのぶ《とくがは いへのぶ》
徳川 家宣
1663(寛文 3. 4.25)
1712(正徳 2.10.14)
◇江戸幕府の第6代将軍。名は綱豊、院号は文昭院。甲府徳川
綱重(ツナシゲ)の長子、松平清武の兄弟、第5代将軍徳川綱吉(ツナ
ヨシ)の嗣子。夫人は天英院。
新井白石などを登用していわゆる「正徳の治」を行う。
将軍就任1709(宝永 6. 5. 1)、退任(死亡)1712(正徳 2.10.
14)。
(2)生年は1663(寛文 3)。
(4)生年は1662。
(16)生年は1663(寛文 3. 4.25)。
とくがわ いえはる《とくがは いへはる》
徳川 家治
1737(元文 2. 2.22)
1786(天明 6. 9. 8)
◇江戸幕府の第10代将軍。第9代将軍徳川家重(イエシゲ)の長子。
将軍就任1760(宝暦10. 9. 2)、退任(死亡)1786(天明 6. 9.
8)。
とくがわ いえまさ
徳川 家正
1884(明治17)
1963(昭和38)
◇昭和期の公爵・外交官。徳川家達(イエサト)の長男。
とくがわ いえみつ《とくがは いへみつ》
徳川 家光
1604(慶長 9. 7.17)
1651(慶安 4. 4.20)
◇江戸幕府の第3代将軍。幼名は竹千代、諡号(シゴウ)は
大猷院。秀忠(ヒデタダ)の次子で、母は正室北の方(浅井長政の
三女徳子,豊臣秀吉の養女)。乳母の春日局(カズガノツボネ)が養育。
正室は孝子(タカコ)、第4代将軍徳川家綱(イエツナ)(長男)・亀松(次
男,5歳で夭折)・綱重(三男)・第5代将軍徳川綱吉(ツナヨシ)の父。
弟忠長と世子をめぐり確執、春日局の功績により世子となる。
1623(元和 9)将軍となるが、父秀忠が大御所として政治を総覧
し、1632(寛永 9)秀忠が没して、改革に着手。
幕政は酒井忠世・土井利勝・松平信綱らに幕政を当らせ、武
断政治を行う。しかし、春日局の政治への介入も許している。
武家諸法度を改正、参勤交代を制度化し幕藩体制の基礎を確
立。1637(寛永14)〜1638(寛永15)島原の乱(天草の乱)を平定し、
1633(寛永10)〜1639(寛永16)の鎖国令により、キリシタンを弾
圧・鎖国を断行。一方、日光東照宮の改築や大土木工事を行な
い、財政窮乏の因をつくる。
将軍就任1623(元和 9. 6.27)、退任(死亡)1651(慶安 4. 4.
20)。
◎徳川家康・秀忠は外様大名に同輩の礼をもって接していたが、
家光は1623(元和 9.10. 1)外様大名を江戸城の大広間に集め、
生れながらの将軍であるから家臣として待遇することを言い渡
している。
◎埼玉県川越市の喜多院に移築された「家光誕生の間」が現存。
とくがわ いえもち《とくがは いへもち》
徳川 家茂
1846(弘化 3.閏5.24)
1866(慶応 2. 8.20)
◇江戸幕府の第14代将軍。幼名は菊千代(キクチヨ)、初名は慶福(ヨ
シトミ)。紀伊第11代藩主斉順(ナレユキ)の子。和宮(カズノミヤ)と結婚。
1847(弘化 4. 4.)紀伊第12代藩主斉彊(ナリカツ)の養子となり、
1849(嘉永 2.閏4. 3)4歳で遺領を襲封し紀伊第13代藩主に就
任。
徳川慶喜(ヨシノブ)を退け1858(安政 5. 6.25)第13代将軍家定
(イエサダ)の養子となる。
将軍就任1858(安政 5.10.)、退任1866(慶応 2. 8.11)。
(2)'66年7月再征半ばで病没した。
◎父斉順の死後16日に誕生。
とくがわ いえやす《とくがは いへやす》
徳川 家康
1542(天文11.12.26)
1616(元和 2. 4.17)
◇江戸幕府の初代将軍。幼名は竹千代(タケチヨ)のち元信(モトノブ)
・元康(モトヤス)、院号は安国院、諡号(シゴウ)は東照大権現。三河
岡崎城主・松平広忠(ヒロタダ)の長子、母は刈谷城主水野右衛門太
夫忠政(タダマサ)の娘於大(オダイ)(伝通院)、松平定勝の異父兄。
6歳のとき、父広忠が尾張の織田信秀と戦い、今川義元(ヨシモ
ト)の援助を得るため人質として送られる途中、信秀に奪われ那
古屋の熱田天王坊に監護。8歳で人質交換により義元の駿府に
移る。1555年、14歳で元服、烏帽子親の義元から一字を貰い元
信と称する。1557(弘治 3)16歳で義元の姪にあたる関口義弘の
娘(のち築山殿<ツキヤマドノ>)と結婚。1559(永禄 2)ころ祖父清康
(キヨヤス)の一字から元康と名乗る。
1560(永禄 3)19歳のとき桶狭間(オケハザマ)の戦で義元が敗死し、
岡崎城へ帰る。1561(永禄 4)織田信長と清州(キヨス)に会見し同
盟を結び、義元の子氏真(ウジザネ)と義絶。1563(永禄 6)元康を
家康と改名。同年9月から翌1564(永禄 7. 3.)にかけて一向一
揆を鎮圧、三河全域を支配下に入れる。1566(永禄 9)勅許によ
り徳川と改姓。1568(永禄11)武田信玄と結んで遠江に出兵、
1569(永禄12)今川氏康を滅ぼす。1570年、居城を浜松に移す。
同年、信長に援軍を送り4月越前国の浅井義景、6月近江国の
朝倉長政の軍を姉川で破る。1572(元亀 3.12.)信長とともに三
方ヶ原(ミカタガハラ)で信玄と戦い大敗(信玄は翌年病没)。
1575(天正 3)信玄の子武田勝頼(カツヨリ)を長篠(ナガシノ)城外の
設楽原(シタラハラ)で破る(長篠の戦)。1582(天正10. 3.)信長と連
合し勝頼を滅ぼす(同年6月本能寺の変)。
1584(天正12)織田信雄を援けて尾張に出兵、小牧・長久手の
戦で豊臣秀吉の軍に勝利し講和。大勢を考え、1586(天正14)上
洛し秀吉と和睦し臣従。同年駿府に移る。1590(天正18)秀吉軍
の先鋒として小田原の後北条氏を滅ぼし、その功により関東八
州を与えられ、江戸を居城とする。1598(慶長 3)大老となる。
秀吉の没後、1600(慶長 5)関ヶ原の戦で勝利し、石田三成ら
反対勢力を一掃。1603(慶長 8. 2.12)征夷大将軍に任ぜられ江
戸幕府を開く。1605(慶長10)将軍職を秀忠に譲り、将軍職が世
襲であることを示す。1607(慶長12)駿府に退くが大御所として
政務は掌握しつづける。1614(慶長19)と翌年の大坂の陣で豊臣
氏を亡ぼす。1616(元和 2. 3.)太政大臣となる。
駿府で病没し、江戸の増上寺で葬儀が行われ、遺体ははじめ
久能山に葬られ、遺命により翌年日光の東照宮に改葬。
将軍就任1603(慶長 8. 2.12)、退任1605(慶長10. 4.16)。
(2)没日は 4.14。
'60(永禄 3)桶狭間(オケハザマ)の戦で義元が戦死してから岡崎
に帰り今川氏を離れる。
(6)桶狭間の戦ののた岡崎に帰り,……。
(16)没日は 4.17。
'59(永禄 2)年岡崎に帰る.この当時なお家康の本領三河は
全く今川の勢力下にあったが,義元の没後独立して,……。
(17)没日は 4.17。
永禄三年(一五六○)に桶狭間の戦いで義元が敗死すると、自
立して岡崎城に帰り、……。
(*)1555(天文24,弘治元)、1570(永禄13,元亀元)。
とくがわ いえよし《とくがは いへよし》
徳川 家慶
1793(寛政 5)
1853(嘉永 6. 6.22)
◇江戸幕府の第12代将軍。第11代将軍徳川家斉(イエナリ)の第4子。
将軍就任1837(天保 8. 4. 2)、退任(死亡)1853(嘉永 6. 6.
22)。
とくがわ かずこ
徳川 和子
⇒とうふくもんいん(東福門院)
とくがわ きよやす
徳川 清康
⇒まつだいら きよやす(松平 清康)
とくがわ ごろうた
徳川 五郎太
1711(宝永 8. 1. 9)
1713(正徳 3.10.18)
◇江戸中期の尾張第5代藩主。第4代藩主吉通(ヨシミチ)の長男。
3歳で藩主となるが、2ヶ月ほどで死去。
とくがわ しげのり
徳川 重倫
1746(延享 3. 2.28)
1829(文政12. 6. 2)
◇江戸後期の紀伊第8代藩主。幼名は粂之丞(クメノジョウ)、のち
岩千代(イワチヨ)。第7代藩主宗将(ムネノブ)の次男。第10代藩主治
宝(ハルトミ)の父。
1765(明和 2. 3.29)父宗将の遺領を襲封。狂人に近い暴虐な
性質のため、1775(安永 4. 2.)30歳で隠居させられる。
とくがわ しげよし
徳川 重好
1745(延享 2)
1795(寛政 7)
◇江戸中・後期の大名。第9代将軍徳川家重の次男。御三卿の
一つ清水家の祖。
1758(宝暦 8)江戸城清水門内に邸を与えられて清水家を創始。
とくがわ ただなが《とくがは ただなが》
徳川 忠長
1606(慶長11)
1633(寛永10.12. 6)
◇江戸前期の大名。幼名は国松、通称は駿河大納言。徳川秀忠
(ヒデタダ)の第3子、母は正室北の方(浅井長政の三女徳子,豊臣
秀吉の養女)。第3代将軍徳川家光(イエミツ)の同母弟。
平素から兄家光と合わず乱行を重ね、1631(寛永 8)大逆不道
の罪を受け、甲斐国に蟄居。1632(寛永 9)上野国高崎城に預け
られる。翌年、自刃。
◎徳川一族の藩でも取り潰しになった例。
とくがわ つぐとも
徳川 継友
1692(元禄 5. 2. 8)
1730(享保15.11.27)
◇江戸中期の尾張第6代藩主。第3代藩主綱誠(ツナナリ)の12男ま
たは13男、第4代藩主吉通(ヨシミチ)の異母弟、第7代藩主宗春(ム
ネハル)の異母兄。
とくがわ つなえだ
徳川 綱條
1656(明暦 2)
1718(享保 3)
◇江戸前期の水戸第3代藩主。諡号は粛公(シュッコウ)。高松藩主
松平頼重(ヨリシゲ)の第二子。水戸第2代藩主光圀(ミツクニ)の甥で
養子。水戸第4代藩主宗尭(ムネタカ)の養父。
1690(元禄 3)光圀が隠退し藩主に就任。
病没。
とくがわ つなしげ《とくがは つなしげ》
徳川 綱重
1644. 6.28(寛永21. 5.24)。
1678.10.29(延宝 6. 9.14)
◇江戸前期の大名・甲府徳川家の祖。幼名は長松麿、通称は甲
府殿。第3代将軍徳川家光の3男、第6代将軍徳川家宣(イエノブ)
・松平清武の父。
綱重を第5代将軍に推す動きがあったが、大老酒井忠清の反
対で成らず。
とくがわ つななり
徳川 綱誠
1652(慶安 5. 8. 2)
1699(元禄12. 6. 5)
◇江戸前期の尾張第3代藩主。第2代藩主光友(ミツトモ)の長男、
第4代藩主吉通(ヨシミチ)・第6代藩主継友(ツグトモ)・第7代藩主
宗春(ムネハル)の父。
とくがわ つなのり
徳川 綱教
1665(寛文 5. 8.26)
1705(宝永 2. 5.14)
◇江戸前期の伊予第3代藩主。幼名は長光丸・長福丸、通称は
常陸介。第2代藩主光貞(ミツサダ)の長男、第4代藩主頼職(ヨリモト)
・第5代藩主のち第8代将軍吉宗(ヨシムネ)の兄。和歌山生れ。
1685(貞享 2. 2.)第5代将軍綱吉(ツナヨシ)の娘鶴姫(ツルヒメ)と結
婚。
◎鶴姫への遠慮から側室を置かず子供がなかったため、1705
(宝永 2. 5.11)弟頼職を養子とした。
とくがわ つなよし《とくがは つなよし》
徳川 綱吉
1646(正保 3. 1. 8)
1709(宝永 6. 1.10)
◇江戸幕府の第5代将軍。幼名は徳松、諡号(シゴウ)は常憲院、
通称は犬公方(イヌクボウ)。第3代将軍徳川家光(イエミツ)の4男、母
は側室の本庄氏桂昌院(ケイショウイン)。第4代将軍徳川家綱(イエツナ)
・頼重の弟。
1651(慶安 4. 4.)父家光が病没。その直前に兄頼重とともに
別家し、十月に上州館林(タテバヤシ)十五万石が与えられる。1653
(承応 2. 8.)第4代将軍徳川家綱を烏帽子親として頼重ととも
に元服し、綱吉と改名。頼重が亡くなっていたので、1680(延
宝 8. 5.)家綱の病床で養嗣子となり、七月家綱が没し将軍に
就任。
老中堀田正俊(マサトシ)を大老に任じ、学問を好み、初期は文治
政治をして善政(天和の治)。1684年に正俊が没し、柳沢吉保(ヨ
シヤス)を重用し失政。1687(貞享 4)「生類憐(ショウルイアワレ)みの令」を
施行。荻原重秀(シゲヒデ)の進言で幕政打開策として、1695(元
禄 8)以降貨幣改鋳を実施。
1704年、兄頼重の子頼豊(家宣)を養子とする。
将軍就任1680(延宝 8. 8.23)、退任(死亡)1709(宝永 6. 1.
10)。
(2)林鳳岡の私塾を湯島に移し、聖堂を建てて……。
(4)「聖堂」の項。一六九〇将軍綱吉が林羅山の学問所であった
忍ヶ岡の先聖殿を湯島に遷して建立。
(6)1691年将軍綱吉が上野忍ヶ岡から移建。
(*)1684(天和 4,貞享元)、1704(元禄17,宝永元)。林鳳岡は林
羅山(1657<明暦 3>没)の孫。
◎東京都文京区の小石川植物園は、館林殿と呼ばれていたとき
の下屋敷跡地。
とくがわ なりあき《とくがは なりあき》
徳川 斉昭
1800(寛政12. 3.12)
1860(万延元. 8.15)
◇江戸後期の水戸第9代藩主。幼名は虎三郎・敬三郎(ケイザブロ
ウ)、字は子信、号は景山・潜竜閣、諡号は烈公(レッコウ)。第7代
藩主治紀(ハルトシ)の第3子、母は外山氏、水戸第10代藩主慶篤(ヨ
シアツ)・第15代将軍慶喜(ヨシノブ)・水戸第11代藩主昭武(アキタケ)の
父。夫人は徳川吉子(ヨシコ)。江戸小石川藩邸に生れる。
幼少に会沢安(ヤスシ)(正志斎)の指導を受ける。長兄斉脩(ナリノブ)
に子がなく、藩内に幕府からの財政援助を期待して第11代将軍
徳川家斉(イエナリ)の子を藩主に迎えようとする上層保守派があっ
たが、藤田東湖(トウコ)・会沢安(ヤスシ)・安島帯刀(アジマ・タテワキ)ら
下士改革派に擁立され、1829(文政12)斉脩の死去により第9代
藩主を継ぐ。これにより東湖らの人材を抜擢し、藩政改革に当
る。
1841(天保12. 3.)銅の欠乏分を藩内の梵鐘を集めて大砲を鋳
造し、兵制改革を行ない鉄砲隊を編成し、攘夷論を鼓吹する。
同年8月、水戸弘道館(コウドウカン)を設立し文武を奨励、外国船
が日本沿岸に出没するのを憂えて海防を唱える。
斉昭の近臣結城寅寿(ユウキ・トラカズ)の訴えにより幕府に警戒さ
れ、1844(天保15. 5.)斉昭は隠居謹慎を命ぜられ、藩政は保守
派がにぎる。
1849(嘉永 2. 3.)幕府より許しが出る。
1853(嘉永 6. 6. 3)ペリーの浦賀来航により主席老中阿部正
弘に迎えられて、海防など幕政に参与。また藩の大砲74門を幕
府に献上、幕府の委嘱により石川島造船所を起して軍艦旭日丸
を建造、藩内に反射炉を築造し釜石で製鉄させるなど、武備充
実のため尽力。彼の攘夷論は表面は強硬で現実は外交交渉によ
る和と、封建制補強の「内戦外和論」であった。しかし、日米和
親条約は「戦(イクサ)の決心なくして和するは和でなく降伏である」
として憤慨する。
1858(安政 5)直弼が大老に就任して、勅許を受けずに日米通
商条約が調印( 6.19)され(安政の仮条約)、子の一橋慶喜を退
けて家茂(イエモチ)(紀州家)を世嗣(ヨツギ)( 6.25)とする及び、徳
川慶勝(ヨシカツ)(尾張藩主)・松平慶永(ヨシナガ)(春嶽)(田安家)ら
と大老に詰問し謹慎を命ぜられる。翌年、攘夷の密勅が水戸藩
に下り、水戸に幽居され城中で病死。
◎1842(天保13)水戸偕楽園(カイラクエン)を造園。
とくがわ なりかつ
徳川 斉彊
1820(文政 3. 4.28)
1849(嘉永 2. 3. 1)
◇江戸後期の紀伊第12代藩主。幼名は恒之丞(ツネノジョウ)。第11
代将軍家斉(イエナリ)の21男。第11代藩主斉順(ナリユキ)の弟。
1846(弘化 3.閏5. 8)兄斉順の養子となり、同日遺領を襲封。
とくがわ なりたか
徳川 斉荘
1810(文化 7. 6.13)
1845(弘化 2. 7. 6)
◇江戸後期の尾張第12代藩主。将軍家斉(イエナリ)の11男、第11代
藩主斉温(ナリハル)の異母兄、田安家徳川斉匡(ナリマサ)の養子。
1836(天保 7)田安家を相続。1839(天保10)異母弟の尾張藩主
斉温の死去により襲封。
とくがわ なりとも
徳川 斉朝
1793(寛政 5. 8.23)
1850(嘉永 3. 3.30)
◇江戸後期の尾張第10代藩主。一橋徳川家第3代当主治国(ハルク
ニ)の長男、父の弟斉敦の養子、第11代藩主斉温(ナリハル)の養父。
尾張第9代藩主宗睦(ムネチカ)の嗣子が相次いで他界し、支藩高
須(タカス)家から迎えた養子までも死去したため、宗睦の養子と
なり、宗睦の死により襲封。
とくがわ なりのぶ
徳川 斉脩
1797(寛政 9)
1829(文政12)
◇江戸後期の水戸第8代藩主。諡号は哀公(アイコウ)。水戸第7代
藩主治紀(ハルトシ)の長男、水戸第9代藩主斉昭(ナリアキ)の兄。
1816(文化13)藩主を襲封。
とくがわ なりはる
徳川 斉温
1819(文政 2. 5.29)
1839(天保10. 3.20)
◇江戸後期の尾張第11代藩主。将軍家斉(イエナリ)の19男、第12代
藩主斉荘(ナリタカ)の異母弟、第10代藩主斉朝(ナリトモ)の養子。夫人
は福君(近衛家)。
とくがわ なりゆき
徳川 斉順
1801(享和元. 9. 9)
1864(元治元. 5. 8)
◇江戸後期の紀伊第11藩主。幼名は菊千代(キクチヨ)。第11代将軍
家斉(イエナリ)の7男。紀伊第10藩主治宝(ハルトミ)の娘豊姫(トヨヒメ)の
婿養子。紀伊第12藩主斉彊(ナリカツ)の兄、紀伊第13藩主慶福(ヨシト
ミ)の父。江戸城本丸生れ。
1816(文化13. 6. 3)豊姫の婿養子となる。
1824(文政 7. 6. 6)家督を相続。
(*)1864(文久 4,元治元)。
とくがわ のぶやす《とくがは のぶやす》
徳川 信康
1559(永禄 2)
1579(天正 7. 9.)
◇安土桃山時代の武将。岡崎三郎信康とも呼ばれる。徳川家康
の長子、母は家康の正室築山殿(ツキヤマドノ)。駿府生れ。
幼少時、今川氏の人質として駿府で過ごす。1567(永禄10)岡
崎に帰り、織田信長の娘を妻とする。1570年岡崎城主となる。
信康が武田勝頼に内通し信長を滅ぼす謀り事をしたと信長に迫
られ、家康の命により、母は遠江国富塚で殺害、信康は遠江国
二俣城で自害。
(*)1570(永禄13,元亀元)。
◎介錯は服部半蔵。
◆供養塔が東京都新宿区若葉の西念寺にある。
とくがわ はるさだ
徳川 治貞
1728(享保13. 2.16)
1789(寛政元.10.26)
◇江戸中・後期の紀伊第9代藩主。幼名は春千代(ハルチヨ)、旧名
は頼淳(ヨリアツ)。第6代藩主宗直(ムネナオ)の次男、第7代藩主宗将
(ムネノブ)の弟。子がなく第8代藩主重倫(シゲノリ)の次男治宝(ハルト
ミ)を養子とする。
1775(安永 4. 2. 3)第8代藩主重倫の隠居により、西条藩主
頼淳が本家紀伊藩主を相続。
(2)生年は1727(享保12)。
とくがわ はるさだ
徳川 治済
1751.12.23(宝暦元.11. 6)
1827. 3.17(文政10. 2.20)
◇江戸中期の御三卿一橋家第2代当主。幼名は豊之助。初代
宗尹(ムネタダ)の子、母は細田氏おゆかの子。
とくがわ はるとし
徳川 治紀
1773(安永 2)
1816(文化13)
◇江戸中期の水戸第7代藩主。諡号は武公(ブコウ)。第6代藩主
治保(ハルモリ)の長男。第8代藩主斉脩(ナリノブ)・第9代藩主斉昭
(ナリアキ)・第9代高松藩主松平頼恕(ヨリヒロ)の父。
1805(文化 2)藩主を襲封。
とくがわ はるとみ
徳川 治宝
1771(明和 8. 6.18)
1852(嘉永 5.12. 7)
◇江戸後期の紀伊第10代藩主。幼名は岩千代(イワチヨ)。第8代藩
主重倫(シゲノリ)の次男。第11代藩主斉順(ナリユキ)の室豊姫(トヨヒメ)
の実父。第9代藩主治貞(ハルサダ)の養子。
1789(寛政元.12. 2)養父治貞の遺領を襲封。
1823(文政 6)大規模な百姓一揆が発生、翌1824(文政 7. 6.)
城外の西浜御殿に隠居するが藩の権力を握りつづける。
とくがわ はるもり
徳川 治保
1748
1805(文化 2)
◇江戸中期の水戸第6代藩主。諡号は文公(ブンコウ)。第5代藩
主宗翰(ムネモト)の長男。第7代藩主治紀(ハルトシ)の父。
1766(明和 3)藩主に襲封。
(*)1748(延享 5,寛延元)。
とくがわ ひでただ《とくがは ひでただ》
徳川 秀忠
1579(天正 7. 4.)
1632(寛永 9. 1.24)
◇江戸幕府の第2代将軍。徳川家康の第3子。千姫(豊臣秀頼
の室)・東福門院(トウフクモンイン)・勝子(高田藩主松平光長の妻)の
父。
将軍就任1605(慶長10. 4.16)、退任1623(元和 9. 6.27)。
とくがわ ひでやす《とくがは ひでやす》
徳川 秀康
⇒ゆうき ひでやす(結城 秀康)
とくがわ まさこ《とくがは まさこ》
徳川 和子
⇒とうふくもんいん(東福門院)
とくがわ みつくに《とくがは みつくに》
徳川 光圀
1628(寛永 5. 6.10)
1700(元禄13.12. 6)
◇江戸前期の水戸第2代藩主・学者。幼名は千代松、字は子竜、
号は常山人・西山隠士・梅里、諡号(シゴウ)は義公(ギコウ)、水戸
光圀・水戸黄門(コウモン)と呼ばれる。水戸初代藩主徳川頼房(ヨリフ
サ)の第3子、母は靖定夫人谷久子。初代高松藩主頼重(ヨリシゲ)
の弟。
父頼房に堕胎を命ぜられた久子が水戸藩家老三木仁兵衛之次
(ミキ・ジンベエ・ユキツグ)の屋敷にかくまわれ、光圀が生れる。5歳
の時に認知され、水戸から江戸の小石川藩邸に移る。
1636(寛永13)元服、従五位下。1640(寛永17)従三位権中納言。
27歳の時、京都公卿近衛信尋の娘泰姫(タイヒメ)と結婚。
明の遺臣朱舜水(シュンスイ)を招き、1657(明暦 3. 1.)彰考館を
設立して、『大日本史』の編纂(ヘンサン)を開始し、水戸学の基礎
を築く。
1661(寛文元. 7.)父頼房が没し28万石の水戸藩主となり、頼
房への殉死を禁ずる。
1664(寛文 4)水戸偕楽園(カイラクエン)、修築。
1690(元禄 3)将軍綱吉に辞意を提出し、兄頼重の子綱條(ツナエ
ダ)に第3代藩主を譲り、太田郷西山に隠棲。
◎1832(天保 3)従二位権大納言、1900(明治33)正一位を追贈。
(*)黄門とは中納言の異称・唐名。
とくがわ みつさだ
徳川 光貞
1626(寛永 3.12.11)
1705(宝永 2. 8. 8)
◇江戸前期の紀伊第2代藩主。幼名は長福丸(チョウフクマル)、法号
は対山。初代藩主頼宣(ヨリノブ)の子、第3代藩主綱教(ツナノリ)・
第4代藩主頼職(ヨリモト)・第5代藩主で第8代将軍吉宗の父。和
歌山城生れ。
1632(寛永 9. 7. 7)元服。
1698(元禄11. 4.)家督を綱教に譲る。
とくがわ みつとも
徳川 光友
1625(寛永 2. 7.29)
1700(元禄13.10.16)
◇江戸前期の尾張第2代藩主。初代藩主徳川義直(ヨシナオ)の長男、
第3代藩主綱誠(ツナナリ)の父。
とくがわ むせい
徳川 無声
1894. 4.13(明治27)
1971. 8. 1(昭和46)
◇放送芸能家・俳優。本名は福原駿雄(フクハラ・トシオ)。島根県生れ。
1912(明治45)東京府立一中(現:日比谷高)卒業。第一高等学
校(現:東京大学教養学部)の受験に2度失敗。
無声映画(サイレント)時代は活弁(活動写真弁士)。
1933(昭和 8)古川緑波・大辻司郎らと「笑いの王国」を結成し、
俳優業に転向。
1954(昭和29)第3回菊池寛賞を受賞。
とくがわ むねかつ
徳川 宗勝
1705(宝永 2. 6. 2)
1761(宝暦11. 6.22/24)
◇江戸中期の尾張第8代藩主。尾張家分家の川田久保家松平友
著の長男、支藩高須(タカス)藩主松平義孝の養子、第9代藩主宗
睦(ムネチカ)の父。
高須藩主を継ぐが、1739(元文 4)尾張第7代藩主宗春(ムネハル)
が幕府から隠居謹慎を命ぜられたために襲封。
とくがわ むねたか
徳川 宗尭
1705(宝永 2)
1730(享保15)
◇江戸中期の水戸第4代藩主。諡号は成公(セイコウ)。高松第3代
藩主頼豊(ヨリトモ)の長男。水戸第3代藩主綱條(ツナエダ)の養子。
水戸第5代藩主宗翰(ムネモト)の父。
1718(享保 3)藩主に襲封。
とくがわ むねたけ《とくがは むねたけ》
徳川 宗武
⇒たやす むねたけ(田安 宗武)
とくがわ むねただ
徳川 宗尹
⇒ひとつばし むねただ(一橋 宗尹)
とくがわ むねちか
徳川 宗睦
1733(享保18. 9.20)
1799(寛政11.12.20)
◇江戸中・後期の尾張第9代藩主。第8代藩主宗勝(ムネカツ)の次
男。
1761(宝暦11)父宗勝の死により第9代藩主を継ぐ。
とくがわ むねなお
徳川 宗直
1682(天和 2. 7.25)
1757(宝暦 7. 7. 2)
◇江戸中期の紀伊第6代藩主。幼名は甚太郎(ジンタロウ)・義大夫、
のち頼致(ヨリヨシ)。伊予西条松平家初代頼純(ヨリズミ)の4男、紀
伊第7代藩主宗将(ムネノブ)・紀伊第9代藩主治貞(ハルサダ)の父。
1711(正徳元.11.22)父頼純の遺領を襲封。
1716(正徳 6. 5. 1)紀伊藩主吉宗が第8代将軍に就任したた
め紀伊藩主を継ぐ。
とくがわ むねのぶ
徳川 宗将
1720(享保 5. 2.)
1765(明和 2. 2.25)
◇江戸中期の紀伊第7代藩主。幼名は直松(ナオマツ)。第6代藩主
宗直(ムネナオ)の長男、第8代藩主重倫(シゲノリ)の父、第9代藩主
治貞(ハルサダ)の兄。
1757(宝暦 7. 8. 7)藩主を襲封。
とくがわ むねはる
徳川 宗春
1696(元禄 9)
1764(明和元.10. 8)
◇江戸中期の尾張第7代藩主。尾張第3代藩主徳川綱誠(ツナナリ)
の20男、第4代藩主吉通(ヨシミチ)・第6代藩主継友(ツグトモ)の異
母弟。
1729(享保14)奥州梁川(ヤナガワ)藩主となるが、1730(享保15.
11.27)兄継友が急死したため、翌日尾張藩主を継ぐ。
将軍吉宗の政治と対立する政策を続けたため、1739(元文 4)
隠居謹慎を命ぜられる。
とくがわ むねもと
徳川 宗翰
1728(享保13)
1766(明和 3)
◇江戸中期の水戸第5代藩主。諡号は良公(リョウコウ)。第4代藩
主宗尭(ムネタカ)の長男、第5代藩主治保(ハルモリ)の父。
1730(享保15)3歳で藩主に襲封。
とくがわ むねよし
徳川 宗敬
1897. 5.31(明治30)
1989. 5. 1(平成元)
◇昭和期の伯爵。水戸徳川家出身で、一橋家徳川達道の養子。
旧貴族院議員。東京生れ。
1933(昭和 8)襲爵。
とくがわ もちつぐ
徳川 茂承
1844(天保15. 1.13)
1906. 8.20(明治39)
◇江戸幕末の紀伊第14代藩主。旧名は孝吉(タカヨシ)・賢吉(カタヨシ)
・頼久(ヨリヒサ)。西条藩主松平頼学(ヨリサト)の7男。
第14代藩主慶福(ヨシトミ)が第14代将軍に就任したため、1858
(安政 5. 6.25)藩主に就任。
1864(元治元. 8. 6)第一次長州征伐の総督に命ぜられるが、
同月8日尾張第14代藩主慶勝(ヨシカツ)と交替。
1865(慶応元. 5.)第二次長州征伐の御先手(オサキテ)総督となる。
皇居が炎上し、1873(明治 6)赤坂中屋敷を献上。
1884. 7.(明治17)侯爵。
とくがわ もちなが
徳川 茂徳
1831(天保 2. 5. 2)
1884(明治17. 3. 6)
◇江戸幕末の大名。幼名は鎮三郎・義比。美濃国高須藩主松平
義建(ヨシタツ)の5男、尾張第14代藩主徳川慶勝(ヨシカツ)の弟、松平
容保(カタモリ)の兄。
1858(安政 5)安政の大獄で兄の尾張藩主慶勝が蟄居を命ぜら
れ、第15代藩主となる。1862(文久 2)慶勝の謹慎が解かれると
藩内が対立、1863(文久 3)慶勝の子義宜(ヨシノリ)に家督を譲る。
1866(慶応 2)一橋家を継ぐ。
(2)徳川 茂徳(とくがわ もちのり)。
(23)徳川 茂徳(とくがわ もちなが)。
とくがわ よしあつ
徳川 慶篤
1832(天保 3)
1868(慶応 4. 4.)
◇江戸幕末の水戸第10代藩主。諡号は順公(ジュンウ)。第9代藩
主斉昭(ナリアキ)の長男、第15代将軍慶喜・第11代藩主昭武(アキタケ)
の兄。
1844(天保15. 5.)父斉昭の失脚により藩主に就任。
とくがわ よしかつ
徳川 慶勝
1824(文政 7. 3.15)
1883. 8. 1(明治16)
◇江戸幕末・維新期の大名。第14・17代尾張藩主。初名は義恕
(ヨシクミ)、号は月堂。支藩美濃国高須(タカス)藩主松平義建(ヨシタツ)
の次男、徳川茂徳(モチナガ)・松平容保(カタモリ)の兄、徳川義宜(ヨシ
ノリ)の父。夫人は矩姫(カネヒメ)。
1849(嘉永 2)宗家を相続。
井伊直弼(ナオスケ)と対立し、1858(安政 5)隠居謹慎を命ぜられ
弟茂徳に相続。
第一次長州征伐で紀伊第14代藩主茂承(モチツグ)より1864(元治
元. 8. 8)総督を引き継ぐ。
1875(明治 8)第16代義宜(ヨシノリ)の死去により再相続。
とくがわ よしこ
徳川 吉子
1804(文化元. 9.25)
1893(明治26)
◇江戸幕末・維新期の水戸藩主夫人。有栖川宮織仁親王(オリヒトシ
ンノウ)の第12王女登美宮(トミノミヤ)。第10代藩主徳川慶篤(ヨシアツ)・
第15代将軍徳川慶喜(ヨシノブ)の母。
1830(天保元.12.28)水戸藩主徳川斉昭(ナリアキ)と縁組し、1831
(天保 2.12. 3)婚儀の礼をあげる。
(*)1830(文政13,天保元)。
とくがわ よしちか
徳川 義親
1886.10. 5(明治19)
1976. 9. 6(昭和51)
◇明治〜昭和期の侯爵。旧名は松平金之丞。マレー通の狩猟家
として「虎狩りの殿様」と呼ばれる。東京生れ。福井藩主松平慶
永(ヨシナガ)・勇子の6男(末子)。1908(明治41)尾張徳川家の養
子となり、侯爵を襲爵。
1911(明治44)東京大学史学科卒業、1914(大正 3)植物科卒業。
1914(大正 3)徳川生物学研究所・1927(昭和 2)徳川林政史研究
所を設立。
1925(大正14)治安維持法制定に貴族院議員として反対。貴族
院改革案を起草。慈善ダンスパーティーを黒龍会に攻撃され、
議員を辞任。1931(昭和 6)民間右翼の清水行之助に請われて三
月事件のためのクーデター決行資金を提供。1936(昭和11)二・
二六事件が起こるや、昭和天皇に伝えようとして栗原安秀中尉
に連絡しようとして失敗、反乱幇助罪容疑となるが不起訴。
日中戦争期には排英運動を推進、南進政策を支持。1942. 2.
(昭和17)日本軍はシンガポールを占領、第25軍軍政顧問として
シンガポールに赴任。マレーやスマトラの占領行政に携わる。
昭南島(シンガポールを改名)のラッフルズ博物館・植物園の長
(実質は田中館秀三<タナカダテ・ヒデゾウ>)。1944(昭和19)帰国。
敗戦後は、国体護持のため日本社会党の結成に資金を援助、
党顧問となるが公職追放となる。1956(昭和31)自民党推薦で名
古屋市長選挙に立候補し落選。
日ソ交流協会会長。
(2)'41ラッフルズ博物館館長となり……。
とくがわ よしつぐ
徳川 慶臧
1836(天保 7. 6.15)
1849(嘉永 2. 4. 7)
◇江戸後期の尾張第13代藩主。田安徳川家第3代当主斉匡(ナリマ
サ)の7男(一説に10男)、越前福井藩主松平慶永(ヨシナガ)の弟。
とくがわ よしとし《とくかは よしとし》
徳川 好敏
1884. 7.24(明治17)
1963. 4.17(昭和38)
◇日本航空界の先駆者・陸軍軍人(中将)。男爵。東京生れ。
1903(明治36)陸軍士官学校卒業。
1908(明治41)砲兵気球隊付き。
1910(明治43)臨時軍用気球研究委員となり、フランスへ派遣
されて飛行機の操縦技術を習得。
同年12.19東京の代々木練兵場で日野大尉とともにアンリ・ファ
ルマン複葉機により日本初飛行に成功。飛行時間約4分、最高
高度約70メートル、距離約3,000メートル。
1911.10.13(明治44)国産飛行機、会式一号の飛行に成功。
1938(昭和13)航空兵団司令官を最後に中将で退役。
1944(昭和19)召集されて陸軍航空士官学校校長となる。
◎会式一号はその後、国産軍用機の第一号となる。
とくがわ よしとみ
徳川 慶福
⇒とくがわ いえもち(徳川 家茂)
とくがわ よしなお《とくがは よしなほ》
徳川 義直
1600(慶長 5.11.28)
1650(慶安 3. 5. 7)
◇江戸初期の尾張徳川家の祖。名は義知のち義利、字は子敬。
徳川家康の第9子、第2代藩主光友(ミツトモ)の父。
とくがわ よしのぶ《とくがは よしのぶ》
徳川 慶喜
1837.10.28(天保 8. 9.29)
1913.11.22(大正 2)
◇江戸幕府の第15代将軍。幼名は七郎麿・昭致、字は子邦、号
は興山。水戸藩主徳川斉昭(ナリアキ)の第7子、母は有栖川宮(アリス
ガワノミヤ)王女登美宮吉子(ヨシコ)(文明夫人)、妻は一条美賀子(ミカコ)。
はじめ1847(弘化 4. 9. 1)一橋家を嗣(ツグ)ぐ。尊皇譲位・
幕政改革派(一橋派)に擁立されて、家茂(イエモチ)(第14代将軍)と
将軍継嗣を争ったが、家茂を推す井伊直弼(イイ・ナオスケ)ら南紀派
に敗れる。安政の大獄の際には蟄居(チッキョ)を命ぜられ、1860
(安政 7. 3. 3)直弼の死後許される。1862(文久 2)家茂の後見
職となり、公武合体・幕権維持を進める。
1866(慶応 2)家茂の没後、将軍に就任。小栗忠順らを用い、
フランス公使レオン・ロッシュの助言と援助を得て、欧州式の
絶対主義をめざし幕政改革に着手。
勢力の挽回ならず、松平慶永(ヨシナガ)・山内豊信らの進言を
受け、1867(慶応 3.10.14)大政奉還。12.10朝廷の使いとして
徳川慶勝(ヨシカツ)・松平慶永が慶喜の二條城に乗り込み、将軍職
・内大臣・正二位の返上と全ての幕府領地の返納を伝える。慶
勝の勧告により二條城から大坂城に移る。
12.22江戸の西の丸が放火され、逃れた犯人を薩摩屋敷は引
渡しを拒否し、さらに取締り役の酒井家に発砲する。12.24幕
府は薩摩屋敷を砲撃し焼き払う。この報らせが大坂に達し、旧
幕軍・会津桑名両藩兵が1868(慶応 4. 1. 1)「討薩の表」を捧げ
京都に入ろうとし、 1. 3鳥羽で桑名と薩摩、伏見で会津と長
門が戦い、 1. 5大坂に敗退(鳥羽伏見の戦)。 1. 6夜、慶喜・
老中板倉勝静(カツキヨ)・松平容保(カタモリ)・松平定敬(サダアキ)らは
海路江戸に逃れ、 1.12帰城。
松平兄弟・榎本武揚(エノモト・タケアキ)・大鳥圭介(オオトリ・ケイスケ)・ロッ
シュら幕臣・大名・旗本などの主戦論を聞き入れず、 2.12上野
寛永寺に謹慎し朝廷への恭順を表す。幕臣勝安芳(ヤスヨシ)(海舟)
と土佐山岡鉄太郎(鉄舟)・薩摩西郷隆盛の働きにより、 4. 4
勅使橋本実梁(サネヤナ)・西郷らが田安慶頼(ヨシヨリ)が留守を守る江
戸に入城、 4.11江戸城を明け渡し水戸弘道館に謹慎。同年、
徳川家処分決定により、田安亀之助(徳川家達<イエサト>)に宗家を
譲る。家達の封地の駿府に蟄居、1870(明治 3. 1.)許され、の
ち東京に移る。
1880. 5.(明治13)正二位に復する。1902. 6.(明治35)公爵。
将軍就任1866(慶応 2.12. 5)、退任1867(慶応 3.12. 9)。
◎新文明志向から豚肉を食べ、一橋家出身であったことから、
「豚一(ブタイチ)」とあだ名された。
とくがわ よしのぶ《とくがは よしのぶ》
徳川 義宣
1933(昭和 8)
2005.11.23(平成17)
◇尾張徳川家21代当主。堀田正恒の子、妻は三千子(徳川義知
の娘)、徳川義崇の父。
東京銀行勤務。
1961(昭和36)三千子と結婚し、徳川家に入籍。
徳川黎明会会長・徳川美術館(名古屋市)館長。
とくがわ よしのり
徳川 義宜
1858(安政 5. 5.24)
1875(明治 8.11.24)
◇江戸幕末の尾張第16代藩主。第14代藩主慶勝(ヨシカツ)の3男。
とくがわ よしみち
徳川 吉通
1689(元禄 2. 9.17)
1713(正徳 3. 7.26)
◇江戸中期の尾張第4代藩主。第3代藩主綱誠(ツナナリ)の長男、
第5代藩主五郎太(ゴロウタ)の父。
とくがわ よしむね《とくがは よしむね》
徳川 吉宗
1684(貞享元.10.21)
1751(寛延 4. 6.20)
◇江戸幕府の第8代将軍。幼名は源六(ゲンロク)・新之助、のち
頼方(ヨリカタ)、諡号(シゴウ)は有徳院。紀伊第2代藩主光貞(ミツサダ)
の第4子。第9代将軍徳川家重・田安宗武・一橋宗尹(ムネタダ)
の父。紀伊第3代藩主綱教(ツナノリ)・紀伊第4代藩主頼職(ヨリモト)
の弟。
1705(宝永 2. 9. 8)兄頼職が急死したため同年10. 6藩主に
就任。
推されて1716(享保元)将軍位を継ぐ。
享保の改革(倹約令・貨幣改鋳・学問奨励・新田開発・殖産
興業などの善政)を行い、徳川家中興の英主と称される。
将軍就任1716(享保元. 8.13)、退任1745(延享 2. 9.25)。
◆墓は上野寛永寺。
とくがわ よしより
徳川 慶頼
1822(文政 5)
1870(明治 3. 9.)
◇江戸幕末・維新期の幕政家。幼名は耕之助。田安斉匡の次男、
尾張藩主徳川斉荘の弟。
1839(天保10)兄斉荘が尾張徳川家を継いだため、田安家を継
ぐ。1858(安政 5)第14代将軍徳川家茂(イエモチ)の後見職となる。
1868(慶応 4)東征の官軍が江戸に下るに際し、第15代将軍徳川
慶喜(ヨシノブ)救済に苦慮、慶喜謹慎中は徳川家の中心として活
躍。
とくがわ よりのぶ《とくがは よりのぶ》
徳川 頼宣
1602(慶長 7. 3. 7)
1671(寛文11. 1.10)
◇江戸初期の紀伊徳川家の祖。幼名は長福丸(チョウフクマル)、のち
頼将(ヨリノブ)・頼信・頼宣、諡号(シゴウ)は南竜公(ナンリュウコウ)。徳
川家康の第10子、母は正木氏[2]お万の方(養珠院)。紀伊第2
代藩主光貞(ミツサダ)の父。徳川頼房(ヨリフサ)(水戸徳川家の祖)の
同母兄。京都伏見城生れ。
1603(慶長 8.11.)家康の5男武田信吉(ノブヨシ)の遺領常陸国
水戸20万石を継ぐ。翌1604(慶長 9.12.)5万石を加増。
1606(慶長11)元服して頼将と名乗る。
1609(慶長14.12.)駿河(スルガ)・遠江(トオトウミ)・東三河50万石
に移封、遠江横須賀城を居城とする。
1614(慶長19)大坂冬・夏の陣に従軍。
1616(元和 2)駿府城(スンプジョウ)に移る。
1617(元和 3. 1.22)加藤清正(キヨマサ)の娘と結婚。
1619(元和 5. 7.)紀伊(キイ)・伊勢(イセ)55万5千石に転封。
1621(元和 7)和歌山城を大修築。
1626(寛永 3. 8.)従二位(ジュニイ)権大納言(ゴンダイナゴン)に叙
任。
韓人李梅渓を用いて儒学を奨励し、ミカンの栽培・捕鯨の奨
励など殖産興業にも努め、藩体制を確立させる。
1667(寛文 7. 5.)隠居。
和歌山で没。
◆墓は海草郡下津町の慶徳山長保寺。
◎駿河百万石を与えられる筈であったが、家康の死で沙汰やみ
となる。
◎浪人を多数召抱え人材の登用に尽力。
1651(慶安 4. 7.)由井正雪(ユイ・ショウセツ)の乱(慶安の乱)の黒幕
ともいわれた。
とくがわ よりふさ《とくがは よりふさ》
徳川 頼房
1603(慶長 8. 8.)
1661(寛文元. 7.29)
◇江戸初期の水戸徳川家の祖。幼名は鶴千代、諡(オクリナ)は威公
(イコウ)。徳川家康の第11子(末子)、母は正木氏[2]お万の方。
徳川頼宣(ヨリノブ)(紀伊徳川家の祖)の同母弟。初代高松藩主頼
重・第2代水戸藩主徳川光圀(ミツクニ)の父。京都伏見城生れ。
1605(慶長10)常陸国下妻10万石。
1609(慶長14.12.12)常陸国水戸25万石に移封。
1611(慶長16)元服。
1614(慶長19)大坂冬の陣には駿府城(スンプジョウ)留守居役、夏
の陣には従軍。
1622(元和 8)常陸国松岡・小川の地3万石を加増。
とくがわ よりもと《とくがは よりもと》
徳川 頼職
1680(延宝 8. 1.17)
1705(宝永 2. 9. 8)
◇江戸前期の紀伊第4代藩主。幼名は長七。第2代藩主光貞(ミ
ツサダ)の三男、第3代藩主綱教(ツナノリ)の弟、第5代藩主のち第
8代将軍吉宗(ヨシムネ)の兄。
1695(元禄 8.12.)従五位下(ジュゴイノゲ)内蔵頭に叙任。
1696(元禄 9.12.)従四位下左近衛権少将に叙任。
1697(元禄10. 5.15)越前国丹生郡之内56ヶ村3万石を拝領。
1705(宝永 2. 5.11)兄綱教の養子となり、同年 5.14兄が亡
くなり、同年 6.18藩主に就任。
紀伊和歌山に到着後、間もなく病気に倒れ死去。
◆墓は海草郡下津町の慶徳山長保寺。
◎1705(宝永 2. 8. 8)父光貞、没。
とくしんいん つねこ
徳信院 直子
1830(天保元)
1893(明治26)
◇一橋家七代当主慶寿(ヨシヒサ)の正室。伏見宮貞敬親王の娘東明
宮(トメノミヤ)直子。京都生れ。徳川慶喜(ヨシノブ)の養祖母。
1841(天保12)江戸へ下り、慶寿に嫁ぐ。
1847(弘化 4. 5. 7)数え18歳で夫と死別。尾張徳川家の昌丸
(ショウマル)(数え2歳)を養子に迎えるが、二ヶ月くらいで病死し、
さらに昌丸の養子として九月一日慶喜を迎える。
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