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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6381.03

                 人   名   辞   典    《と》       編集:獨  澄旻

-------- と ----------------------------------------------------
どい こうこく
	土居 香国
	1850(嘉永 3)
	1921.12.13(大正10)
	◇漢詩人。名は通予、字は子順、通称は寅五郎、別号は
	払珊釣者。
どい こうち《どゐ くわうち》
	土井 光知
	1886. 8.29(明治19)
	1979.11.26(昭和54)
	◇英文学者・日本文学・日本語研究家。高知生れ。
	 東京大学英文科卒業。東北大学・津田塾大学・学習院大学教
	授。
	 1936. 4.(昭和11)島村盛助(シマムラ・モリスケ)・田中菊雄(タナカ・キクオ)
	と共著で『岩波英和辭典(岩波英和辞典)』を刊行。
	 著書は『文学序説』・『文学の伝統と交流』など。
どい しげよし
	土井 重義
	1904. 9. 3(明治37)
	1967.10.15(昭和42)
	◇国文学者。
どい しゅんしょ
	土肥 春曙
	1869(明治 2.10. 6)
	1915. 3. 2(大正 4)
	◇俳優。本名は庸元。1901(明治34)川上音二郎一座の通訳兼文
	芸部員として渡欧。
どい としかつ《どゐ としかつ》
	土井 利勝
	1573
	1644. 8.12(寛永21. 7.10)
	◇江戸初期の老中・大老。幼名は松千代、通称は甚三郎。水野
	信元の子で徳川家康の従弟。土井利昌の養子。
	 1610(慶長15)下総佐倉城主(3万2千石)。1633(寛永10)下総
	古河16万石余。
	◎家光の代に酒井忠世(サカイ・タダヨ)・青山忠俊(タダトシ)とともに
	寛永の三輔といわれる。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
どい とらかず
	土井 虎賀寿
	1902. 2.19(明治35)
	1971. 3.10(昭和46)
	◇哲学者・ドイツ文学者。
どい ばんすい
	土井 晩翠
	1871(明治 4.10.23)
	1952.10.19(昭和27)
	◇詩人・英文学者。本名は林吉、姓は本来「つちい」であるが
	1934(昭和 9)に「どい(ドヰ)」と改音した(随筆集『雨の降る日
	は天気が悪い』の序)。仙台市生れ。嫡子のため生家の質屋の
	仕事の見習いをさせられていたが、念願が叶って第二高等中学
	校(後の第二高等学校)補充科二年に入学。1894(明治27)東京帝
	国大学に進み、1897(明治30)英文科卒業、郁文館の教師となる。
	1900(明治33)第二高等学校教授。
	 次女信は中野好夫の妻。
	 叙情詩『荒城の月』は滝廉太郎の作曲で知られ、詩碑が会津
	若松の鶴ヶ城趾と仙台の青葉城趾に建てられた。
	(5)昭和七年ころ、長女輝子の提案を容(イ)れて「どい」と改音、
	新聞広告で披露した。
	(11)昭和七年ころ長女輝子の提案を容れて「どい」と改音、新聞
	広告で披露した。
	(13)(昭和)一五年中野好夫に嫁した二女信子が死に、……。
とう しょうそん
	陶 晶孫
	1897.12.18(明治30)
	1952. 2.12(昭和27)
	◇小説家・評論家・医学者。佐藤操(郭沫若夫人の妹)の夫。
どうあん《だうあん》
	道安
	⇒せん どうあん(千 道安)
とうかい さんし
	東海 散士
	1852(嘉永 5.12. 2)
	1922. 9.25(大正11)
	◇政治家・小説家・ジャーナリスト。本名は柴(シバ)四朗。会
	津国安房富津(フッツ)の会津陣屋に生れる。旧会津藩士。藩校日
	新館に学び、会津落城の後、流浪し機を得て渡米、フィラデル
	ティア理財学校で経済学を専攻し、1885(明治18)帰国。
とうがさ かちょう
	唐笠 何蝶
	1902. 5.25(明治35)
	1971. 8.17(昭和46)
	◇医師・俳人。本名は唐笠学。
とうぎ かねより
	東儀 兼頼
	1632(寛永 9)
	1712(正徳 2. 4. 1)
	◇江戸前期の雅楽の笛の名手。父は兼延。京都の人。
	 山井景光とともに元禄の二家と称される。
とうぎ てつさぶろう
	東儀 哲三郎
	1884(明治17)
	1952(昭和27)
	◇明治〜昭和期の音楽家。雅楽家東儀清彰の孫。東京生れ。東
	京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業。
	 少年期から宮内省雅楽部で修業。のち東京音楽学校に入学、
	卒業後は同校の教師。
	 山田耕筰(コウサク)・小松耕輔(コウスケ)らと音楽普及会を創設。
	1921(大正10)宝塚音楽学校の指揮者。
とうぎ てってき
	東儀 鉄笛
	1869(明治 2. 7.24)
	1925. 2.14(大正14)
	◇明治・大正期の俳優・音楽家(雅楽)。本名は季治。雅楽家東
	儀季芳の子。京都生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。
	 少年期から宮内省雅楽部で修業。洋楽にも精通し、東京音楽
	学校(現:東京芸術大学)講師となる。
	 のち坪内逍遙(ショウヨウ)の文芸協会設立から幹部となり、新劇
	俳優としても活躍。協会解散後は無名会を組織。
	 『鉄道唱歌』・早稲田大学の校歌『都の西北』などを作曲。
どうきょう《だうきやう》
	道鏡
	生年不詳
	 772(亀宝 3. 4. 7)
	◇奈良末期の法相宗(ホッソウシュウ)の僧。弓削連(ユゲノムラジ)氏。河
	内国若江郡弓削郷(現:八尾市弓削町)の人。
	 義淵(ギエン)・良弁(ロウベン)に法相教学を学び、大和国葛木山
	で如意輪法(ニョイリンホウ)などを修行。
	  762(天平宝字 6)近江保良宮に在った孝謙上皇(女帝)の病気
	を如意輪宿曜(スクヨウ)秘法を用いて治療し、上皇の寵愛を受ける。
	 763(天平宝字 7)少僧都。
	 淳仁天皇は藤原仲麻呂(恵美押勝<エミノオシカツ>)の意を受けて上
	皇に道鏡のことで忠告するが、上皇は立腹して法華寺に入り出
	家する。この結果、仲麻呂は権力を失い、道鏡が台頭する。
	  764(天平宝字 8. 9.11)藤原仲麻呂の乱で、仲麻呂は敗死し、
	淳仁天皇が廃されて淡路島へ流される。同年 9.20、道鏡は大
	臣禅師となる。 765(天平神護元.閏10.)上皇は称徳天皇として
	再び即位(重祚<チョウソ>)、道鏡は太政大臣禅師に任ぜられる。翌
	年10月更に法王の位を得て専横を極め、のち 769(神護景雲 3)
	宇佐八幡の神職習宜阿曾麻呂(スゲノアソマロ)と結び神託と称して皇
	位を窺ったが、藤原百川の意をうけた和気清麻呂(ワケノキヨマロ)ら
	によって妨害される。
	  770(神護景雲 4. 8. 4)天皇が崩御。同年八月、下野国(栃
	木県)薬師寺別当に左遷。配所で没し、葬儀は庶人扱い。
	(4)没年は 773。
	(6)没年は 772。
	(16)没年は 772(亀宝 3. 4. 7)。
	(17)没年は 772(亀宝 3. 4.)。
	◎出自は俗人説、物部守屋後裔説、皇胤説などがある。
とうげ さんきち《たうげ さんきち》
	峠 三吉
	1917. 2.19(大正 6)
	1953. 3.10(昭和28)
	◇詩人。本名は三吉(ミツヨシ)。大阪市豊中生れ。
	 県立広島商業学校、卒業。
	 1945. 8. 6(昭和20)広島の翠町で被爆。
	 1953. 2.(昭和28)肺患で国立広島病院に入院、 3.10整形手
	術を受けたまま永眠。
	 作品は1952. 6.(昭和27)『原爆詩集』。
	◎広島市平和公園に詩碑がある。
とうげ みつよし《たうげ みつよし》
	峠 三吉
	⇒とうげ さんきち(峠 三吉)
どうげん《だうげん》
	道元
	1200. 1.19(正治 2. 1. 2)
	1253. 8.28(建長 5. 8.28)
	◇鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗(ソウトウシュウ)の開祖。号は希玄(キゲ
	ン)、孝明天皇から仏性伝東国師・明治天皇から承陽(ジョウヨウ)大
	師の勅諡号を受ける。内大臣源(久我)通親の子、母は太政大臣
	藤原基房の娘。京都木幡(コバタ)の松殿山荘生れ。
	 3歳で父を、8歳で母を失い、1212(建暦 2)養父で伯父の藤
	原師家の制止を振り切り、比叡山の叔父良観を訪ねる。翌年座
	主公円について出家し、仏法房道元と名乗り、のち三井寺(園
	城寺)の公胤をたずね天台宗を修める。
	 1217(建保 5)建仁寺に赴き、栄西の弟子全明(ゼンミョウ)に師事。
	 1223(貞応 2)全明とともに博多から宋に渡り、諸山を巡り曹
	洞宗天童山で長翁如浄(ニョジョウ)より印可を受ける。1228(安貞
	 2)帰国。建仁寺で著作と学問に専心するが、1230(寛喜 2)こ
	ろ寺を追われる。
	 京都深草に1233年、興聖寺を開き法を弘める。比叡山の圧力
	を避け、越前の土豪波多野義重の招きで1243(寛元元. 7.)波多
	野氏の所領の越前志比荘に移り、1244(寛元 2)傘松に大仏寺を
	開き、1246(寛元 4)大仏寺を永平寺(エイヘイジ)と改め、僧名も希
	玄に改名。
	 のち1247年、北条時頼に請われて鎌倉に行き法を説くが、寺
	院建立を辞して越前に帰る。また後嵯峨上皇より紫衣(シエ)を賜
	る。
	 1253(建長 5)病のため永平寺を弟子懐奘に譲り、旅の途中、
	弟子覚念の京都高辻西洞院で病死。
	 成仏(ジョウブツ)は修行で到達する目標ではなく、無限の修行
	が成仏であるという修証一如・只管打坐(シカンタザ)を主張する。
	 著書は『正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)』(95巻)・『普勧坐禅儀』
	(1巻)・『学道用心集』(1巻)・『永平清規(シンギ)』(2巻)・
	『永平広録』(10巻)・『傘松道詠』など。
	◆道元忌(曹洞宗開山忌)[ 8.25]。
	(*)1233(貞永 2,天福元)、1247(寛元 5,宝治元)。
	◎弟子懐奘は師の言行を『正法眼蔵随聞記(ズイモンキ)』に著す。
	◎曹洞宗では道元を高祖、瑩山(ケイザン)を太祖、併せて両祖と呼
	ぶ。
	◎父は内大臣久我通具とも。
とうごう しげのり
	東郷 茂徳
	1882.12. 7(明治15)
	1950. 7.23(昭和25)
	◇大正・昭和期の外交官・政治家。旧薩摩藩士の子。鹿児島県
	生れ。東京大学卒業。
	 外務省に出仕。1933(昭和 8)欧米局長。1934(昭和 9)欧亜局
	長。1937(昭和12)駐独大使。1938(昭和13)駐ソ大使としてノモ
	ンハン事件の処理に当る。1941(昭和16)東条英機(ヒデキ)内閣の
	外相兼拓相。1942(昭和17)大東亜省設置に反対し単独辞職。貴
	族院議員を経て、1945(昭和20)鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜
	相。
	 戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で禁固20年、A級戦犯と
	して拘禁中に病死。
とうごう せいじ
	東郷 青児
	1897(明治30)
	1978(昭和53)
	◇洋画家。鹿児島市生れ。
	 5歳のとき、一家で東京に移住。余丁町小学校に入学。青山
	学院中学を卒業。有島生馬について油絵を学ぶ。
	 1921(大正10)から7年間フランスに滞在。
とうごう へいはちろう《とうがう へいはちらう》
	東郷 平八郎
	1847(弘化 4.12.22)
	1934. 5.30(昭和 9)
	◇明治・大正期の軍人。名は実良、はじめ仲五郎、元服して
	平八郎。鹿児島藩士。
	 薩英戦争に従軍。戊辰戦争では新潟・函館に転戦。
	 1871〜1878(明治 4〜明治11)イギリス留学。
	 日清戦争では浪速艦長として豊島沖・黄海・威海衛などに出
	撃、清国船高陞を撃沈。
	 日露戦争では連合艦隊司令長官となり、日本海海戦に敵前回
	頭戦法でバルチック艦隊を破り、「東洋のネルソン」と賞賛され
	る。
	 1904(明治37)海軍大将、1905〜1909(明治38〜明治42)海軍軍
	令部長、1907(明治40)伯爵、1913. 4.(大正 2)元帥、1914〜
	1921(大正 3〜大正10)東宮御学問所総裁を歴任。1930(昭和 5)
	ロンドンの海軍軍縮会議には反対派の重鎮となる。1934(昭和
	 9)侯爵。
	 同年6月5日国葬。
	◎東京に東郷神社が建立される。
	 海軍の大御所的存在であった。
	(4)生年は1847。
	(6)生年は1847/48。
	(15)生年は1847(弘化 4)。
	(16)生年は1847(弘化 4.12.22)。
とうしゅうさい しゃらく《とうしうさい しやらく》
	東洲斎 写楽
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸後期の浮世絵師。通称は斎藤十郎兵衛。
	 胸から上だけを描く「大首絵(オオクビエ)」の技法で役者絵などを
	描く。作品は出版元蔦屋重三郎(ツタヤ・ジュウザブロウ)から売り出さ
	れ、活躍期間は1794(寛政 6. 5.)から1795(寛政 7. 2.)までで、
	出自など不詳。唯一『浮世絵類考』に「俗称は斎藤十郎兵衛、
	八丁堀に住す、阿州侯の能役者也」とある。
	 海外に流出した作品がヨーロッパの印象派たちに影響を与え
	る。日本では岡倉天心らにも評価が低かったが、明治末にドイ
	ツ人クルトがミュンヘンで著した『写楽』によって真価が認め
	られる。
とうじょう えいき《とうでう えいき》
	東条 英機
	⇒とうじょう ひでき(東条 英機)
とうじょう ぎもん《とうでう ぎもん》
	東条 義門
	1786(天明 6)
	1843(天保14)
	◇江戸後期の国語学者。若狭国(福井県)小浜の真宗妙玄寺の住
	職。
	 藤井高尚の門人。本居宣長らの研究を継承・発展させる。
	 著書は『友鏡』・『和語説略図』・『活語指南』・『山口栞』
	・『玉緒繰分(タマノオクリワケ)』・『男信(ナマシナ)』・『於乎軽重義(オ
	オキョウジュウギ)』など。
とうじょう きんだい《とうでう きんだい》
	東条 琴台
	1795(寛政 7. 6. 7)
	1878. 9.27(明治11)
	◇江戸幕末・明治初期の儒学者。幼名は信耕、通称は文左衛門。
	江戸の人。
	 亀田鵬斎・大田錦城らに学ぶ。
	 1850(嘉永 3)『伊豆七島図考』を著し、幕府に咎められる。
	 明治維新後、神祇官宣教少博士を経て文部省に出仕。
	 著書は『先哲叢談後編』・『先哲叢談続編』・『聖世紹運録』
	・『儒林小史』など。
とうじょう じゅさぶろう《とうでう じゆさぶらう》
	東條 寿三郎
	調査中
	2003.11.26(平成15)
	◇作詞家。本名は寿三郎(トシサブロウ)。福島県いわき市四倉町生
	れ。
	 作品は1951(昭和26)『上海帰りのリル』・1962(昭和37)『星
	屑の町』・『センチメンタル・トーキョー』など。
とうじょう ひでき《とうでう ひでき》
	東条 英機
	1884.12.30(明治17)
	1948.12.23(昭和23)
	◇陸軍大将・政治家。東京生れ。陸軍中将東条英教(ヒデノリ)の
	長男。
	 1915(大正 4)陸軍大学校卒業(17期生)。陸軍省副官。1919
	(大正 8)スイス、1921(大正10)ドイツ駐在。陸軍大学校教官・
	軍務局課員。1935(昭和10)関東軍憲兵隊司令官・1937(昭和12)
	関東軍参謀長・1938(昭和13)陸軍次官・航空総監兼航空本部長
	を経て、統制派の中心として1940(昭和15)第二次・第三次近衛
	文麿内閣の陸軍大臣。
	 1941.10.18〜1944. 7.21(昭和16〜昭和19)総理大臣となり陸
	軍大臣・内務大臣を兼任。1941.12. 8(昭和16)大東亜戦争(太
	平洋戦争)を真珠湾奇襲で開始。1942(昭和17)大東亜省を設置
	し、1943.11. 5(昭和18)東京の国会議事堂で大東亜会議を開催。
	1944. 2.(昭和19)内閣改造で東条は参謀総長と商工・軍需大臣
	を兼任、海軍大臣嶋田繁太郎は軍令部総長を兼任。同年七月、
	サイパン陥落を契機に重臣の倒閣運動におされ失脚、 7.18総
	辞職。
	 敗戦後、占領軍の逮捕をおそれてピストル自殺を図るが失敗。
	極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として絞首刑。
とうじょう ひでのり《とうでう ひでのり》
	東条 英教 
	1855(安政 2.11. 8)
	1913.12.16(大正 2)
	◇陸軍中将。陸奥生れ。南部藩士の長男、東条英機(ヒデキ)の父。
	 1885(明治18)陸軍大学校卒業。
	 1888〜1891(明治21〜明治24)ドイツ留学。
	 陸軍大学校教官・参謀本部編纂部長などを歴任。
	 1907(明治40)歩兵第三旅団長。
とうじょう みさお《とうでう みさを》
	東条 操
	1884.12.14(明治17)
	1966.12.18(昭和41)
	◇国語学者。東京生れ。
	 1910(明治43)東京帝国大学文科大学国文科卒業。
	 静岡高等学校・広島高等師範・東京帝国大学講師・学習院教
	授を歴任。
	 1949(昭和24)学習院大学教授。
	 1957(昭和32)紫綬褒章、受章。
	 日本の方言研究を開拓し、方言学の基礎を築く。
	 著書は1923(大正12)『南島方言資料』・1927(昭和 2)『大日
	本方言地図・国語の方言区画』・1938(昭和13)『方言と方言学』
	・『国語学新講』・1951(昭和26)『全国方言辞典』・1954(昭
	和29)『標準語引分類方言辞典』など。
どうしん
	道深
	生年不詳
	没年不詳
	◇百済の僧侶。
	 『日本書紀』によれば、 554[欽明15. 2.]に百済から曇慧(ド
	ンエ)ら9人が来朝、前に渡来していた道深ら7人と交代したと
	いう。
とうじん おきち《たうじん おきち》
	唐人 お吉
	1841(天保12)頃
	1890(明治23)
	◇江戸後期の伊豆下田の船大工の娘。本名は斎藤きち、通称は
	唐人お吉。
	 幕吏のはからいで下田奉行の命により、1857(安政 4)アメリ
	カの駐日総領事ハリスの看護のため玉泉寺に送られ、妾となる。
	 のち、身をもちくずして下田で投身自殺。
	◎十一谷義三郎(ジュウイチヤ・ギサブロウ)の1928(昭和 3)『唐人お吉』
	で有名となり、その境遇を題材として芝居・映画や小説などに
	脚色された。
とうちゅうけん くもえもん《たうちゆうけん くもゑもん》
	桃中軒 雲右衛門
	1873(明治 6)
	1916(大正 5)
	◇浪曲師。本名は岡本峰吉。茨城県出身。
	 雲右衛門節を創始。関西の吉田奈良丸(ヨシダ・ナラマル)と並び、
	浪花節台頭期に活躍した一人。『赤穂義士伝』を得意とする。
とうどう たかとら《とうだう たかとら》
	藤堂 高虎
	1556(弘治 2)
	1630(寛永 7)
	◇安土桃山時代の武将。法号は白雲。近江の人。藤堂虎高の次
	男。
	 はじめ浅井長政、羽柴秀長・秀保父子に仕え、秀保の没後は
	高野山に入る。
	 豊臣秀吉に召されて宇和島7万石の城主となり、文禄の役に
	従軍。
	 関ヶ原の戦では徳川方の東軍に属して、伊予国今治20万石と
	なる。1608(慶長13)伊勢・伊賀に移封され、22万石。のち加増
	され32万4千石。
とうどう よしただ
	藤堂 良忠
	1642(寛永19)
	1666(寛文 6)
	◇江戸前期の俳人。通称は主計・宗正、俳号は蝉吟。津藩伊賀
	上野付侍大将5千石の藤堂良清の3男。
	 松永貞徳(テイトク)、ついで北村季吟(キギン)に師事。
	 2歳年下の松尾芭蕉は良忠に小姓として仕えて、ともに俳諧
	を学び、良忠の没後に京都に出奔。
とうの よしあき
	東野 芳明
	1930(昭和 5)
	2005.11.19(平成17)
	◇美術評論家。東京生れ。
	 1954(昭和29)東京大学文学部を卒業。
	 多摩美術大学名誉教授。
	 急性心不全で死去。
とうのじょうえん
	東 常縁
	⇒とうのつねより(東 常縁)
とうのつねより
	東 常縁
	1401(応永 8)
	1494(明応 3. 4.18)
	◇室町時代の武将・歌人。本姓は平、法名は素伝・昼錦居士、
	別称は東野州(トウヤシュウ)。「とうのじょうえん(東 常縁)」とも呼
	ぶ。東下野守益之の子。
	 足利義政に仕え、美濃郡篠脇城主・左近将監・下野守。
	 応仁の乱により所領美濃国山田庄を奪われ、1469(応仁 3)上
	洛。
	 清巌正徹(セイガン・ショウテツ)・二条堯孝に歌を学ぶ。門下の飯尾
	宗祇(ソウギ)に『古今集』の秘説を伝授、「古今伝授」はここから
	始まったという。
	(2)生没年は1401〜94(応永 8〜明応 3)。
	(6)生没年は1401〜1494。
	(15)生没年は(?〜1484?,?〜文明16?,通説1401〜94は誤)。
	(16)生没年は(1401〜94,応永 8〜明応 3.4/18)。
とうのべ かおる
	東野辺 薫
	1902. 3. 9(明治35)
	1962. 6.25(昭和37)
	◇小説家。本名は野辺慎一。
どうはち
	道八
	⇒にんあみ どうはち(仁阿弥 道八<2代>)
とうふくもんいん《とうふくもんゐん》
	東福門院
	1607(慶長12.10. 4)
	1678(延宝 6. 6.15)
	◇江戸前期の後水尾天皇の中宮。名は和子(マサコ)、号は国母。
	第2代将軍徳川秀忠(ヒデタダ)の8女、母は正室北の方(浅井長
	政の三女徳子,豊臣秀吉の養女)。明正(メイショウ)天皇の母、後光
	明(ゴコウミョウ)・後西(ゴサイ)・霊元(レイゲン)天皇の養母。
	 徳川家康の代から進められていた和子入内(ジュダイ)が許され、
	1620(元和 6. 6.)14歳で後水尾(ゴミズノオ)天皇の女御となる。
	このとき土井利勝(ドイ・トシカツ)・松平正綱らが先発して準備し、
	酒井忠世(タダヨ)・板倉重宗らが従い、御附武家(オツキブケ)数十人
	が御所に入る。
	 1623(元和 9)17歳で興子(オキコ)内親王(明正天皇)を出産。1624
	年皇后に冊立(サクリツ)されて中宮となる。1626(寛永 3)高仁(タカヒ
	ト)親王を出産。13年間に5皇子6皇女をなす。
	 徳川氏で初の朝廷と姻戚関係になり、幕府の朝廷監視・干渉
	が一段と強化される。
	(*)1624(元和10,寛永元)。
どうみゃく せんせい
	銅脈 先生
	1752(宝暦 2)
	1801(享和元. 6. 2)
	◇江戸後期の狂詩家。本名は畠中頼母(ハタナカ・タノモ)、号は観斎・
	太平館主人・片屈道人。
どうもと いんしょう《だうもと いんしやう》
	堂本 印象
	1891.12.25(明治24)
	1975. 9. 5(昭和50)
	◇日本画家。本名は三之助。京都生れ。
	 京都絵画専門学校卒業。
	 第3回帝展で『調鞠図(チョウキクズ)』が特選、第4回帝展で
	『訶梨帝母(カリテイモ)』が推薦、以後無審査となる。
	 1961(昭和36)文化勲章、受章。
	 その他の代表作は『華厳』・『兎春野に遊ぶ』など。
とうやま みつる
	頭山 満
	1855(安政 2. 4.12)
	1944.10. 5(昭和19)
	◇明治〜昭和前期の国家主義者。福岡生れ。福岡藩士筒井亀策
	の子。母方の頭山家を継ぐ。
	 1875(明治 8)不平士族の矯志社に参加。
	 1876(明治 9)萩の乱に参加して入獄。
	 西南戦争後出獄して自由民権運動に参加。
	 1879(明治12)箱田六輔・平岡浩太郎らと向陽塾を組織。国会
	開設運動に活躍。
	 1881(明治14)平岡(玄洋社社長)・箱田・進藤嘉平太らと玄洋
	社を創立。のち、民権運動を離れて極端な国権論に傾き、井上
	馨(カオル)の条約改正に反対。
	 大アジア主義の立場から軍備拡張・強硬外交を唱え、松方正
	義の選挙干渉を応援、朝鮮の金玉均(ギョクキン)などアジアの亡命
	政治家を庇護、国民同盟対露同志会への参加、孫文(ソン・ブン)の
	中国革命への援助など、日露戦争の開戦機運や日韓併合・大陸
	進出のために運動。
	 大陸浪人を養い、右翼の巨頭として黒竜会などを支配し、中
	国の蒋介石(ショウ・カイセキ)・汪兆銘(オウ・チョウメイ)やフィリピンの独立
	運動指導者アギナルドに近づくなど、大正・昭和期の政界の黒
	幕として活躍。
	 静岡で没。
どうりゅう《だうりゆう》
	道隆
	⇒らんけい どうりゅう(蘭溪 道隆)
とおやま かげくに
	遠山 景晋
	1764
	1837(天保 8. 7.12)
	◇江戸中期の幕臣。通称は左衛門尉、字は孟大、号は楽土。筑
	前守永井直令の子、遠山景元(金四郎)の父。長崎奉行・作事奉
	行・勘定奉行。
	(*)1764(宝暦14,明和元)。
	(2)遠山 景晋(とおやま かげくに)。
	(23)遠山 景晋(とおやま かげみち)。
	 没日は天保8.7.22(1837.8.22)。
とおやま かげみち
	遠山 景晋
	⇒とおやま かげくに(遠山 景晋)
とおやま かげもと
	遠山 景元
	1793(寛政 5. 8.)
	1855. 4.15(安政 2. 2.29)
	◇江戸後期の町奉行。名は景元、通称は金四郎。遠山景晋(カゲ
	クニ)の子。
とおやま きんしろう
	遠山 金四郎
	⇒とおやま かげもと(遠山 景元)
とがえり はじめ
	十返 肇
	1914. 3.25(大正 3)
	1963. 8.28(昭和38)
	◇評論家・小説家。本名は一(ハジメ)。高松市生れ。妻千鶴子は
	三木蒐一(シュウイチ)の妹。
	 1931(昭和 6)日本大学芸術科卒業。舌ガンで死去。
とがわ さだお
	戸川 貞雄
	1894.12.25(明治27)
	1974. 7. 5(昭和49)
	◇小説家。菊村到(イタル)の実父。
とがわ ざんか
	戸川 残花(戸川 殘花)
	1855(安政 2.10.22)
	1924.12. 8(大正13)
	◇牧師・詩人・評論家。本名は安宅(アタカ)、通称は隼人(ハヤト)、
	別号は百合園主人。江戸牛込生れ。大学南校・慶応義塾・築地
	学校に学ぶ。
	(1)生年は1855(安政 2.10.22)、没日は12. 8。
	(3)生年は1856(安政 3.10.10)、没日は12. 8、本名は安宅(アタカ)。
	(5)生年は1855(安政 2.10.22)、没日は12. 7、本名は安宅(ヤスイ
	エ)。
	(11)生年は1855(安政 2.10.22)、没日は12. 7、本名は安宅(ヤス
	イエ)。
	(13)生年は1855(安政 2)。本名安宅。大正三年七月没した。
とがわ しゅうこつ
	戸川 秋骨
	1870(明治 3.12.18)
	1939. 7. 9(昭和14)
	◇評論家・随筆家・翻訳家・英文学者。本名は明三(メイゾウ)、
	号は棲月・蒼梧洞・早川鴎水・早川漁郎・長帆・かげろふ。
	埼玉県玉名郡岩崎村生れ。
	 1891(明治24)明治学院卒業、同期生は島崎藤村・馬場孤蝶。
	更に東京帝国大学英文科選科に学ぶ。
	(5)肥後国生れ。
	(9)号は蒼梧桐。
	(16)熊本県の生まれ.
とき あいか
	土岐 哀果
	⇒とき ぜんまろ(土岐 善麿)
とき ぜんまろ
	土岐 善麿
	1885. 6. 8(明治18)
	1980. 4.15(昭和55)
	◇歌人・随筆家・国文学者。本名は善麿、筆名は試作時代は
	湖友のち哀果(アイカ)、1918(大正 7)以降は善麿。東京市台東区
	松清町の真宗大谷派等光寺に次男として生れる。
	 府立第一中学校を経て、1908(明治41)早稲田大学英文科卒業。
	1918(大正 7)東京朝日新聞社に入社。1926年、都立日比谷図書
	館長。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
とき よりやす
	土岐 頼康
	1318(文保 2)
	1388. 2. 3(<南>元中 4,<北>嘉慶元.12.25)
	◇南北朝時代の武将。
	 1379年3月、反乱の中傷により第3代将軍足利義満の命で上
	杉憲方(ノリカタ)が美濃に出陣、のち軍兵は返される。
	(*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)。
ときえだ もとき
	時枝 誠記
	1900.12. 6(明治33)
	1967.10.27(昭和42)
	◇国語学者。
	 高木市之助に呼ばれ、京城帝国大学教授となる。
ときた えいたろう
	鴇田 英太郎
	1889. 1.19(明治32)
	1929. 7.10(昭和 4)
	◇劇作家。胃ガンにより死去。
ときわ ごぜん《ときは ごぜん》
	常盤 御前
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期の女性。源義経の母。
	 九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕(ゾウシ)。
	 源義朝との間に今若(阿野全成)・乙若(阿野円成)・牛若(源
	義経)の三子を生む。
	 平治の乱で義朝が敗死し、三子とともに大和国童門の里に隠
	れる。平氏の追及で六波羅に自首、母子の赦免を条件に清盛の
	愛人となる。
	 のち藤原長成に嫁したと伝えられる。
	◎埼玉県飯能市(ハンノウシ)にある多峯主山(トウノスヤマ)に常盤御前に
	因(チナ)む話が多く、墓があったとも言われる。
ときわ みつなが《ときは みつなが》
	常盤 光長
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期の大和絵師。
	 後白河法皇に用いられ、宮廷の絵所に仕える。
	 1173(承安 3)藤原隆信と『最勝光院御堂障子絵』を合作。
	 藤原光長(フジワラノミツナガ)、後世に土佐光長(トサ・ミツナガ)とも呼
	ぶ。
	◎散逸した『年中行事絵巻』60巻の原本や『伴大納言絵詞』の
	筆者と伝えられる。
ときわのみつなが《ときはのみつなが》
	常盤 光長
	⇒ときわ みつなが(常盤 光長)
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