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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6361.03

                 人   名   辞   典    《て》       編集:獨  澄旻

-------- て ----------------------------------------------------
てい かくん
	鄭 嘉訓
	1767(明和 4)
	1832(天保 3)
	◇江戸後期の書家。琉球(現:沖縄県)首里生れ。
	 薩摩藩主島津斉興に召されて書道の師をつとめる。
ていが
	定雅
	⇒にしむら ていが(西村 定雅)
ていとく
	貞徳
	⇒まつなが ていとく(松永 貞徳)
ていめい こうごう《ていめい くわうごう》
	貞明 皇后
	1884. 6.25(明治17)
	1951. 5.17(昭和26)
	◇大正天皇の皇后。名は節子(サダコ)。侯爵九条道孝の4女、迪
	宮裕仁(ミチノミヤ・ヒロヒト)親王(昭和天皇)・秩父宮雍仁(ヤスヒト)親王・
	高松宮宣仁(ノブヒト)親王・三笠宮崇仁(タカヒト)親王の生母。
	 1900. 5.10(明治33)嘉仁(ヨシヒト)親王と婚儀を挙げ、皇太子妃
	となる。
	 1951. 6. 8(昭和26)貞明皇后と追号される。
	◆陵墓は東京都八王子市長房町の多摩東陵。
でぐち おにさぶろう《でぐち おにさぶらう》
	出口 王仁三郎
	1871. 8.27(明治 4. 7.12)
	1948. 1.19(昭和23)
	◇明治〜昭和前期の宗教家。宗教法人大本教(オオモトキョウ)の聖師
	(セイシ,教祖)。本名は上田喜三郎。上田吉松と「よね」の長男、開
	祖出口なおの末娘(5女)すみ(2代教祖)の婿。京都府桑田郡曽
	我部村大字穴太(アナオ)(現:亀岡市)の生れ。
	 1899(明治32)なおと金明(キンメイ)霊学会を組織。1916(大正 5)
	皇道大本と改称、機関紙「神霊界」を発刊。
	 1900(明治33)出口すみと結婚。
	 1921. 5.(大正10)第1次大本教弾圧事件で起訴され、1927
	(昭和 2)大赦。
	 1934. 7.22(昭和 9)昭和神聖会を東京九段の軍人会館で結成、
	統管は王仁三郎、副統管は内田良平・出口宇知麿(3女八重野
	の夫)が就任した右翼団体であった。
	 1935.12. 8(昭和10)第2次大本教弾圧事件、不敬団体として
	治安維持法違反で幹部61人が検挙され本部は爆破され、昭和神
	聖会は解散。保釈出獄中に敗戦を迎え無罪となる。
	 戦後、愛善苑(アイゼンエン)として新発足。
でぐち すみ
	出口 すみ
	1883. 2. 3(明治16)
	1952. 3.31(昭和27)
	◇大本教の2代教主。出口政五郎と「なお」の5女(末娘)。京都
	府何鹿郡本宮町(現:綾部市)の生れ。
	 1900(明治33)上田喜三郎(出口王仁三郎<オニサブロウ>)と結婚。
	 1918.11.(大正 7)母なおの死去により教主に就任。
	 1935.12.(昭和10)第2次大本教弾圧事件で6年間投獄される。
	 戦後、愛善苑(アイゼンエン)として王仁三郎と再建。
でぐち なお
	出口 なお
	1837. 1.22(天保 8)
	1918.11. 6(大正 7)
	◇宗教法人大本教(オオモトキョウ)の開祖。丹波国(京都府)福知山生
	れ。祖父政五郎は藩の御上大工、父も大工。
	 19歳で豊助を婿にむかえ、夫は祖父の名の政五郎を名乗る。
	夫が土地と田畑を売ってしまい、貧乏暮らしをする。11人の子
	供を生み、3男5女を育てる。娘の「ひさ」と「よね」が発狂する。
	 1892(明治25)なおは神がかりをおこす。初め金光教に仕える
	が(*1)、のちに対立して独立し布教所をひらく。
	 1898. 8.23(明治31)上田喜三郎と出会う。世継ぎの「すみ」と
	結婚した喜三郎と対立する。
	(23)生年は1837. 1.22(天保 7.12.16)。
	(*1)当時、明治政府に公認されていた教派神道十三派に属さな
	ければ宗教として合法化されなかった。
でぐち のぶよし
	出口 延佳
	1615. 5.25(元和元. 4.28)
	1690. 2.25(元禄 3. 2.24)
	◇江戸前期の神道家。名は初め延良、通称は与三次郎・愚太夫、
	号は直庵・講古堂、姓は渡会(ワタライ)。
	 伊勢神宮外宮の神官。当時儒教が生活と行動の規範として支
	配的になったのに対応し、渡会神道(伊勢神道)に儒教の説も取
	り入れ、それまでの仏教的な習合神道から儒学思想を中心とし
	た体系的な神道を主張した。
	 著書『陽復記』・『大神宮神道或問』など。
てじま せいいち
	手島 精一
	1850. 1.11(嘉永 2.11.28)
	1918. 1.23(大正 7)
	◇明治期の工業教育指導者。
てしま とあん
	手島 堵庵
	1718. 6.12(享保 3. 5.13)
	1786. 3. 8(天明 6. 2. 9)
	◇江戸中期の石門心学者。名は信、字(アザナ)は嘉左衛門、通称
	は近江屋源右衛門、号は堵庵。京都の商家生れ。「てじま と
	あん」とも呼ぶ。手島和庵(長男)の父、上河淇水(ウエカワ・キスイ)の
	養父。
	 13歳で父と、18歳で母と死別。
	 18歳のとき、石田梅岩(バイガン)に師事。梅岩の死後は門人斎
	藤全門に教えを受ける。
	 44歳で家業を長男に譲り、心学の普及に努め、広く市民教育
	に尽力し多数の門人を擁するようになる。
	 1782(天明 2)京都に明倫舎を建設して舎主となる。また五楽
	会・修正・時習・恭敝などの講舎も起こす。
	 自己批判を中心とする精神修養を説く。
	 著書は『前訓』・『知心弁疑』・『会友大旨』・『明徳和賛』
	など。
	(2)誕生日は享保 3. 5. 3。
	◎門下には中沢道二(ドウニ)・布施松翁(フセ・ショウオウ)・上河淇水・
	薩(「土」偏+「垂」)(サッタ)徳軒などがいる。
てじま とあん
	手島 堵庵
	⇒てしま とあん(手島 堵庵)
てしろぎ すぐえもん
	手代木 直右衛門
	1826. 4.15(文政 9. 3. 9)
	1904. 6. 3(明治37)
	◇江戸幕末・明治維新期の会津藩士。会津藩士佐々木源八の子、
	伯父手代木勝富の養子。佐々木只三郎の実兄。
てずか とみお
	手塚 富雄
	⇒てづか とみお(手塚 富雄)
てづか おさむ《てづか をさむ》
	手塚 治虫
	1928.11. 3(昭和 3)
	1989. 2. 9(平成元)
	◇漫画家。本名は手塚治(オサム)。大阪生れ。
	 1946(昭和21)「毎日小学生新聞」の4コマ漫画『マアチャンの
	日記帳』でデビュー。
	 1947(昭和22)大阪大学医学部に入学。
	 1959(昭和34)医学博士。
	 1962〜1973(昭和37〜昭和48)虫プロ(のち手塚プロダクショ
	ン)を主宰。
	 1963(昭和38)国産初のテレビ・アニメ『鉄腕アトム』を制作。
	 1966(昭和41)劇場用アニメ『ジャングル大帝』を制作。
	 1967(昭和42)『ジャングル大帝』、ベネチア国際映画祭サン
	・マルコ銀獅子賞を受賞。
	 1987(昭和62)朝日賞、受賞。
	 作品は1947(昭和22)長編漫画『新宝島』、1951(昭和26)『鉄
	腕アトム』・『ジャングル大帝』・『リボンの騎士』・1967
	(昭和42)『火の鳥』・1970(昭和45)『ブラックジャック』・
	1977. 6.15〜1984.10. 3(昭和52〜昭和59)『手塚治虫漫画全集』
	(300巻・講談社)・1985(昭和60)『アドルフに告ぐ』など。
	◎兵庫県宝塚市に市立手塚治虫記念館がある。
てづか とみお
	手塚 富雄
	1903.11.29(明治36)
	1983. 2.12(昭和58)
	◇ドイツ文学者・評論家。
てづか りつぞう
	手塚 律蔵
	1822. 7.25(文政 5. 6. 8)
	1878.11.29(明治11)
	◇江戸幕末・明治前期の蘭・英学者。
てらうち まさたけ
	寺内 正毅
	1852. 3.25(嘉永 5.閏2. 5)
	1919.11. 3(大正 8)
	◇明治・大正の軍人・政治家。陸軍大将・元帥。長州出身。宇
	田多正輔の三男、母方の寺内勘右衛門の養子。
	 大阪兵学寮を経て、1871(明治 4)少尉。以後、陸軍士官学校
	長・1898(明治31)初代教育総監・参謀本部次長を歴任。
	 1902(明治35)第1次桂内閣の陸相。日露戦争をはさんで第1
	次西園寺内閣・第2次桂内閣まで以後九年間陸相に就任。韓国
	統監を兼ねて、1910(明治43)日韓併合を強行し、初代朝鮮総督。
	1916(大正 5)首相、シベリア出兵を断行、米騒動で総辞職。
	◎陸軍大臣のころから頭の格好で「ビリケン」の徒名があったが、
	組閣すると新聞や雑誌から「非立憲(ビリケン)内閣」と非難された。
てらうち まんじろう
	寺内 万次郎
	1890.11.25(明治23)
	1963.12.14(昭和38)
	◇洋画家。
てらお とおる
	寺尾 亨
	1859. 2. 1(安政 5.12.29)
	1925. 9.15(大正14)
	◇明治・大正期の国際法学者。父は寺尾喜平太、母はアイ。天
	文学者寺尾寿(ヒサシ)の弟、女優東山千栄子(姪)の養父。
てらお ひさし
	寺尾 寿
	1855(安政 2)
	1923. 8. 6(大正12)
	◇明治・大正期の天文学者。寺尾亨(トオル)の兄。
	 1888(明治21)東京天文台の初代台長。東京物理学校(現:東京
	理科大学)の創立者。
てらお ゆきお
	寺尾 幸夫
	1889. 8.30(明治22)
	1933. 1. 1(昭和 8)
	◇小説家。本名は玉虫孝五郎、号は戯象。
てらおか みねお
	寺岡 峰夫
	1909.12.13(明治42)
	1943. 1.15(昭和18)
	◇評論家。本名は寺尾博。
てらかど せいけん
	寺門 静軒
	1796(寛政 8)
	1868
	◇江戸幕末の儒学者・随筆家。名は良、字は子温、通称は
	弥五左衛門。常陸国(現:茨城県)の人。
	 山本緑陰に師事。江戸で私塾を開く。
	 天保年間に漢文の戯書『江戸繁昌記』を著して幕府の出版取
	り締まりに触れ江戸を追放。のち剃髪し無用之人と自称して諸
	国を放浪。越後国(現:新潟県)で『新潟繁昌記』を著す。
てらさか きちえもん
	寺坂 吉右衛門
	⇒てらさか のぶゆき(寺坂 信行)
てらさか のぶゆき
	寺坂 信行
	1665(寛文 5)
	1747(延享 4.10. 6)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士吉田忠左衛門兼亮(カネスケ)の足
	軽弓組、三両二分二人扶持。通称は吉右衛門(キチエモン)、戒名は
	刃道喜剣信士(高輪泉岳寺<センガクジ>)・遂道退身居士節岩了貞
	信士(麻布曹渓寺<ソウケイジ>)。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。引き揚げ先の泉岳寺前から立ち
	去り、四十七士中ただ一人生き残る。浅野内匠頭長矩(タクミノカミ・
	ナガノリ)の未亡人瑤泉院(ヨウゼイイン)と広島の浅野大学長広(ダイガク・
	ナガヒロ)に事の報告をし、翌年江戸に出て自首したときは同志の
	多くが切腹した後で、不問に付せられる。
	 忠左衛門の娘婿の姫路藩士伊藤十郎太夫に12年間奉公し、の
	ち旗本山内家に仕える。晩年を泉岳寺に近い曹渓寺で過ごす。
	 『寺坂信行筆記』を著す。
	 『仮名手本忠臣蔵』では「寺岡平右衛門」。
	◎泉岳寺の墓は萱野三平(カヤノ・サンペイ)重実(シゲザネ)の招魂碑と
	する説もある。
	 また討ち入り前に逃亡し、討ち入りは四十六士だったという
	説もある。
てらさき こうぎょう
	寺崎 広業
	1866. 4.10(慶応 2. 2.25)
	1919. 2.21(大正 8)
	◇明治・大正期の画家。幼名は忠太郎のち広業(ヒロナリ)。羽後国
	秋田生れ。
てらざき ひろし
	寺崎 浩
	1904. 3.22(明治37)
	1980.12.10(昭和55)
	◇小説家。徳田秋声(シュウセイ)の娘喜代の夫。
	(3)生年は1905(明治38)。
	(5)生年は1904(明治37)。
	(9)生年は1904(明治37)。
	(11)生年は1904(明治37)。
てらしま なおひこ《てらしま なほひこ》
	寺島 尚彦
	1930. 6. 4(昭和 5)
	2004. 3.23(平成16)
	◇作曲家。東京都出身。
	 作品は『さとうきび畑』など。
てらじま むねのり
	寺島 宗則
	1832(天保 3)
	1893(明治26)
	◇江戸幕末・明治時代の外交官・政治家。薩摩藩出身。
	 薩英戦争後、薩摩藩留学生を引率して渡欧。帰国後、蘭法医
	松木弘庵の名で幕府に仕え開成所教授。
	 明治維新後、参与・外国事務掛・神奈川府知事を歴任。外務
	卿(1873〜1879)として条約改正交渉に当たり、マリア・ルーズ
	号事件(1872)・千島樺太交換条約(1875)・日朝修好条規(1876)
	・対米関税自主権回復条約などを担当。
てらだ かなえ
	寺田 鼎
	1901. 2. 6(明治34)
	1936.12. 7(昭和11)
	◇翻訳家。
てらだ とらひこ
	寺田 寅彦
	1878.11.28(明治11)
	1935.12.31(昭和10)
	◇物理学者・随筆家。筆名は吉村冬彦、俳号は藪柑子(ヤブコウジ)
	・牛頓(ニュウトン)・木螺山人(モクラサンジン)・寅日子(トラヒコ)・照元学人。
	東京市生れ。東京大学物理学科卒業。
	◆寅彦忌(冬彦忌)[12.31]。
てらの しゅすいろう
	寺野 守水老
	1836(天保 7. 6.10)
	1907. 4.10(明治40)
	◇俳人。本名は宗教、幼名は灌頂、旧姓は青野。
てらやま しゅうじ
	寺山 修司
	1936. 1.10(昭和11)
	1983. 5. 4(昭和58)
	◇歌人・詩人・劇作家。
	(1)誕生日は1936. 1.10(昭和11)。
	(5)誕生日は1935.12.10(昭和10)。
	(9)誕生日は1936. 1.10(昭和11)、ただし実際は1935.12.10
	(昭和10)出生という。
てらやま せいせん
	寺山 星川
	1867(慶応 3. 2.15)
	1910. 3. 2(明治43)
	◇評論家・新聞記者。本名は啓介、戸籍は啓助。
てるのみや のぶひと
	光宮 宣仁
	⇒たかまつのみや のぶひと(高松宮 宣仁)
てんかい
	天海
	1536(天文 5)
	1643(寛永20.10. 2)
	◇江戸初期の僧侶(天台宗)。号は南光坊、勅諡号は慈眼(ジゲン)
	大師。会津高田の人。
	 11歳で出家し随風と号する。14歳で宇都宮の粉河寺(コガワジ)
	の皇舜に天台を学ぶ。のち比叡山・園城寺(オンジョウジ)・興福寺
	などで諸宗について学ぶ。
	 1571(元亀 2)織田信長の比叡山焼打ち後、武田信玄の招きで
	甲州に赴く。世良田の長楽寺(群馬県新田郡)・江戸崎の不動院
	(茨城県稲敷郡)を経て、1590(天正18)川越の喜多院(キタイン)無量
	寿寺で豪海(ゴウカイ)に師事し天海と改める。
	 1589(天正17)徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画。
	 1599(慶長 4)川越喜多院(27世住職)と1613(慶長18)日光山
	(二荒山)を授けられる。
	 家康の没後、崇伝(スウデン)と争って失脚させ、権現(ゴンゲン)
	号の勅許を乞い久能山(クノウザン)から日光山に改葬、輪王寺(リンノ
	ウジ)を建立。
	 また秀忠・家光にも信任され、幕政に参与。
	 上野忍岡が江戸城の鬼門であることから城の鎮護のため、
	1624(寛永元)上野東叡山寛永寺を開山。1637(寛永14)から寛永
	寺に経局を設け、天海版といわれる日本最初の『大蔵経』を刊
	行(没後の1648年完成)。
	 1633(寛永10)川越に仙波東照宮を創建。
	(4)一六二五年上野東叡山寛永寺を開山、……。
	(6)1624年江戸上野に寛永寺を開山。
	(*)1648(正保 5,慶安元)。
	◎家康を唯一神道による「明神」として祀ろうとする崇伝(スウデン)
	にたいし、天海は山王一実神道による「権現」を主張。秀忠に問
	われ「豊国大明神をご覧あれ」と答えて決着を得た。
	◎生年や出自には諸説あり、会津の蘆名修理大夫盛高の一族と
	いう。また、天海の前半生に謎が多いことから、実は明智光秀
	であるという俗説もある。
でんぎょう だいし《でんげう だいし》
	伝教 大師(傳教 大師)
	⇒さいちょう(最澄)
てんじ てんのう《てんぢ てんわう》
	天智 天皇
	 626[推古34]
	 671[天智10.12.]
	◇第38代天皇。初めは葛城皇子(カズラキノミコ)のち中大江(ナカノオオエ)
	皇子・開別皇子、諡(オクリナ)は天命開別(アメミコトハルキワケ)。
	 舒明(ジョメイ)天皇の第2皇子、母は宝皇女(皇極・斉明<サイメイ>
	天皇)。間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(オ
	オアマノミコ)(天武天皇)の同母兄。
	 皇子には建(タケル)皇子・大友(伊賀)皇子・川島皇子・施基(シキ)
	皇子ら。
	 皇女には大田皇女・(「盧」偏+「鳥」)野(ウノ)皇女(持統天皇)・
	御名部皇女・阿陪皇女(元明天皇<ゲンメイ>)・山辺皇女・大江皇
	女ら。
	  645(皇極天皇 4. 6.)中臣鎌足(ナカトミノカマタリ)・蘇我倉山田石
	川麻呂(ソガノクラヤマダノイシカワノマロ)らと謀って蘇我(ソガ)蝦夷(エミシ)・
	入鹿(イルカ)父子を滅ぼし、軽皇子が即位(孝徳天皇)し中大江は
	皇太子となり、大化の改新を断行。同年9月、古人大兄皇子(フ
	ルヒトノオオエノミコ)(父は舒明,母は蘇我馬子の娘)が謀反を企らんだと
	して殺害。 649(大化 5. 3.)蘇我日向(ヒムカ)の讒言により蘇我
	倉山田石川麻呂を攻めて自殺させ、のち石川麻呂の潔白が証明
	され日向を筑紫大宰帥に追放。
	  655[斉明元. 1.]皇極天皇が重祚(チョウソ)、中大江も再び皇太
	子。 658[斉明 4.11.]有間(アリマ)皇子を蘇我赤兄(アンエ)にそその
	かさせ、謀叛の心があるとして処刑。
	  660[斉明 6]唐と新羅に攻撃を受けた百済に 661[斉明 7]援
	兵を送る。軍を筑紫に進めた際、途中の朝倉宮で斉明天皇が病
	没、中大江が称制し全軍の指揮をとる。 663[天智 2. 8.]白村
	江で敗退し撤兵。
	 唐・新羅の来襲に備えて各地に城を造り、 667[天智 6. 3.]
	宮を飛鳥から近江の大津に移し、 668[天智 7]正式に即位。
	  671[天智10]長子大友皇子(庶腹)を太政大臣に任じずる。こ
	のため大海人皇子(のちの天武天皇)は皇太弟の地位を去る。
	  668[天智 7]近江令の制定・大学の設置・ 670[天智 9]庚午
	年籍(コウゴネンジャク)(戸籍)の整備など、中央集権・専制法治国家
	の基礎を築く。
	 即位: 668[天智 7. 1. 3]、退位: 671[天智10.12. 3]。
	(2)その皇子女に……(「盧」偏+「鳥」)野皇女(持統天皇)……。
	(4)また葛城(カズラキ)・中大江(ナカツオオエ)。
	(11)初め葛城(カツラギ)皇子のち中大江(ナカツオオエ)といった。
	(15)生年は 625[推古33]または 626[推古34]。「日本書紀」舒明
	13年条によれば46歳,「上宮聖徳法王帝説」では47歳.
	 和風諡号は天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト).名は葛城(カ
	ツラギ).中大江は通称.
てんじゅいん
	天樹院
	⇒せんひめ(千姫)
てんしゅうに
	天秀尼
	1609(慶長14)
	1645(正保 2)
	◇江戸初期の尼僧。豊臣秀頼(ヒデヨリ)の娘、母は成田助直の娘。
	 大坂落城の後、徳川家康の上意により鎌倉東慶寺の尼になる。
てんしょういん《てんしやうゐん》
	天璋院
	1836(天保 7)
	1883(明治16)
	◇江戸幕末の、第13代将軍徳川家定(イエサダ)の夫人。名は敬子
	(スミコ)のち篤姫(アツヒメ)。島津忠剛(タダタケ)の娘、薩摩藩主島津斉
	彬(ナリアキラ)の養女、近衛忠煕(タダヒロ)の養女。
	 家定の死後、落飾(ラクショク)して天璋院と称する。
	◎第14代将軍徳川家茂(イエモチ)に嫁した和宮(カズノミヤ)(静寛院宮)
	との不和が伝えられている。
てんしょういん あつひめ《てんしやうゐん あつひめ》
	天璋院 篤姫
	⇒てんしょういん(天璋院)
てんしょういん すみこ《てんしやうゐん すみこ》
	天璋院 敬子
	⇒てんしょういん(天璋院)
てんずいいん
	天瑞院
	1513(永正10)
	1592
	◇豊臣秀吉の生母。通称は大政所(オオマンドコロ)。
	 織田家の足軽木下弥右衛門に嫁し、瑞竜院日秀(秀吉の姉)と
	秀吉を生む。弥右衛門の死後、織田家の同朋竹阿弥に再婚、秀
	長・旭姫(徳川家康の妻)を生む。
	 1585(天正13)秀吉の関白就任後、大政所と称される。
	(*)1592(天正20,文禄元)。
でんずういん《でんづうゐん》
	伝通院(傳通院)
	⇒でんづういん(伝通院)
でんづういん《でんづうゐん》
	伝通院(傳通院)
	1528
	1602(慶長 7)
	◇徳川家康の生母。名は於大(オダイ)、法名は伝通院。青木政信
	の娘、三河国苅谷城主水野忠政(タダマサ)の養女、母は於富
	(華陽院)。
	 1541(天文10)三河岡崎城主松平広忠(ヒロタダ)に嫁ぎ、翌1542
	(天文11.12.26)竹千代(徳川家康)を生む。
	 忠政の没後に兄水野信元が今川氏に背き織田氏に服属したた
	め、今川氏を後ろ盾にした松平家から兄の苅谷城に帰される。
	 のち阿古屋(アコヤ)城主久松佐渡守俊勝に嫁ぎ、松平康元・勝
	俊・1560(永禄 3)定勝ら5子をもうける。
	◆墓は江戸小石川宗慶寺(伝通院)。
	(*)1528(大永 8,享禄元)。
てんむ てんのう《てんむ てんわう》
	天武 天皇
	生年不詳
	 686(朱鳥元. 9. 9)
	◇第40代天皇。諱(イミナ)は大海人皇子(オオアマノミコ)、諡(オクリナ)は
	天渟中原瀛真人(アマノヌナハラオキノマヒト)天皇。
	 舒明(ジョメイ)天皇の第3皇子、母は宝皇女(皇極・斉明<サイメイ>
	天皇)。中大兄皇子(ナカノオオエノミコ)(天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメ
	ミコ)(孝徳天皇の皇后)の同母弟。
	 額田王(ヌカタノオオキミ)(十市皇女の母、のち天智の妃)・胸形君尼
	子娘(高市皇子<タケチノミコ>の母)を娶り、中大兄の娘(姉)大田皇女
	(大津皇子<オオツノオウジ>の母)・(妹)(「慮」偏+「鳥」)野讃良皇女(草
	壁皇子<クサカベノオウジ>の母、のち持統天皇)を妃とする。
	 皇子には草壁・大津・舎人(トネリ)・長・穂積・弓削(ユゲ)・新
	田部・高市・忍壁・磯城ら。
	 皇女には大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・多基ら。
	  668[天智 7]天智天皇が即位のとき、皇太弟となる。 671
	[天智10]天智が子の大友皇子を太政大臣に任じ、危険を察し出
	家と称して10月吉野宮へ引退。
	 天智天皇が没し、翌 672[弘文元. 6.]壬申(ジンシン)の乱で大
	友を討ち、 673[天武元. 2.]大和国飛鳥の浄御原宮(キヨミハラノミヤ)
	で即位。
	 新たに八色姓(ヤクサノカバネ)を制定、位階を改定、近江律令を改
	修する飛鳥浄御原律令の編集を命じ、律令体制を強化確立する。
	また国史の編修に着手・兵制の整備・鎮護国家のための仏教の
	奨励などに努める。
	 即位: 673[天武元. 2.27]、退位(死亡): 686(朱鳥元. 9. 9)。
	(2)没年は 686(朱雀 1)。
	 (「盧」偏+「鳥」)野(ウノ)皇女(持統天皇)をたてて皇后となす。
	(4)没年は 686。
	(6)没年は 686。
	(16)没年は 686(天武15)。
	(17)朱鳥元年(六八九)九月九日に亡くなったあと、……。
	(*) 686[天武14](朱鳥元)、 689[持統 3]。
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