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人 名 辞 典 《たな》 編集:獨 澄旻
-------- たな --------------------------------------------------
たなか あかまろ
田中 阿歌麿
1869(明治 2)
1944(昭和19)
◇地理学者・湖沼学者。。田中不二麿の子。東京出身。
ブリュッセル市立大学地理学科卒業。
たなか いなぎ
田中 稲城
1856(安政 3)
1925(大正14)
◇図書館学者。初名は林蔵。
たなか うそん
田中 雨村
1888. 6.30(明治21)
1966. 5.25(昭和41)
◇小説家・邦楽評論家。本名は治之助、筆名は英十三。
たなか えいぞう
田中 栄三
1886.11. 3(明治19)
1968. 6.13(昭和43)
◇映画監督・俳優。
たなか おうじょう
田中 王城
1885. 5.30(明治18)
1939.10.26(昭和14)
◇俳人。本名は常太郎。
たなか おうどう《たなか わうだう》
田中 王堂
1867(慶応 3.12.30)
1932. 5. 9(昭和 7)
◇明治・大正期の哲学者・評論家。本名は喜一。武州中富村
(現:埼玉県所沢市)生れ。
同志社中退。1889(明治22)渡米し、神学校・ケンタッキー大
学・シカゴ大学に学ぶ。帰国後、早稲田大学・東京高等工業・
立教大学で哲学を講義。
東京帝国大学病院で死去。
(1)本名は喜一。
(2)本名は帰一。
(3)本名は喜一。
(4)本名は喜一。
(5)本名は喜一。
(6)本名は喜一。
(9)本名は喜一。
(11)本名は喜一。
(13)本名は喜一。
(16)本名は喜一。
たなか おおひで《たなか おほひで》
田中 大秀
1776(安永 5)
1847(弘化 4)
◇江戸後期の国学者。初名は弥二郎のち紀文、通称は弥兵衛、
号は千種(チグサ)園・湯津香木(ユツカツラ)園・荏野(エナ)翁・八月満。
飛騨国高山一之町生れ。薬種商田中屋弥兵衛博道の次男。
はじめ伴蒿蹊(バン・コウケイ)のち本居宣長(モトオリ・ノリナガ)に師事。
(4)生年1777。
たなか かいじ
田中 介二
1886.12.29(明治19)
1962.11.10(昭和37)
◇小説家・俳優。
たなか かくえい
田中 角栄
1918. 5. 4(大正 7)
1993.12.16(平成 5)
◇政治家(自由民主党)。新潟県生れ。政治家田中真紀子の実父。
1972. 7. 7〜1972.12.22(昭和47〜昭和47)第一次内閣。
1972.12.22〜1974.12. 9(昭和47〜昭和49)第二次内閣。
1972(昭和47)日中国交を回復。
◎1985(昭和60)JR浦佐駅東口ロータリー脇に銅像が建立。
たなか ぎいち
田中 義一
1863(文久 3. 6.22)
1929. 9.28(昭和 4)
◇明治・大正期の陸軍大将・政治家。幼名は乙熊、号は素水。
長州萩生れ。
陸士・陸大卒。
1898〜1902(明治31〜明治35)ロシアに留学。
原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行。1925(大正14)政
友会総裁。
1927(昭和 2)首相となり治安維持法の改悪して特別高等警察
制度の確立、社会主義運動の弾圧、普通選挙の実施、済南(セイナ
ン)事件(山東出兵)による対中国強行外交の推進。1928(昭和 3)
張作霖爆殺事件により、1929(昭和 4)辞職。
首相就任1927. 4.20(昭和 2)、退任1929. 7. 2(昭和 4)。
(4)生年は1864。
(6)生年は1863。
たなか きくお《たなか きくを》
田中 菊雄
1889(明治22)
1975(昭和50)
◇英文学者。
1936. 4.(昭和11)島村盛助(シマムラ・モリスケ)・土居光知(ドイ・コウチ)
と共著で『岩波英和辭典(岩波英和辞典)』を刊行。
たなか きさく
田中 喜作
1885. 2. 7(明治18)
1945. 7. 1(昭和20)
◇美術史家・浮世絵の研究家。
たなか きぬよ
田中 絹代
1910(明治43)
1977(昭和52)
◇映画女優・映画監督。下関生れ。1924(大正13)松竹に入社。
主演作は『マダムと女房』(日本初のトーキー)・『愛染かつ
ら』・『西鶴一代女』など。
(4)生年は1909。
(6)生年は1910。
たなか きょうきち
田中 恭吉
1892. 4. 5(明治25)
1915.10.23(大正 4)
◇版画家。号は未知・未知草。
たなか こうたろう
田中 貢太郎
1880. 3. 2(明治13)
1941. 2. 1(昭和16)
◇小説家・随筆家。別号は桃葉・紅蛇楼(コウタロウ)。高知県長岡
郡三里村(現:高知市)生れ。家は代々土佐藩に仕えた御船方で、
父は水先案内人。
船大工の弟子・小学校の准訓導心得・新聞社校正係を経て、
大町桂月に師事。
酒好きによる食道狭窄症と胃潰瘍のため郷里で死去。
作品は翻訳『剪燈新話』・『聊斎志異』など。
たなか こうたろう《たなか かうたらう》
田中 耕太郎
◇商法・法哲学の学者。
東京大学教授・文部大臣・参議院議員・1950〜1960(昭和25
〜昭和35)最高裁判所長官・1961(昭和36)国際司法裁判所判事
を歴任。
1960(昭和35)文化勲章を受賞。
著書は『世界法の理論』・『商法研究』・『会社法概論』な
ど。
(4)鹿児島市生れ。
(6)佐賀県出身。
たなか じゅん
田中 純
1890. 1.19(明治23)
1966. 4.20(昭和41)
◇小説家。広島市生れ。関西学院神学部を経て、1915(大正 4)
早稲田大学英文科卒業。
たなか しょうすけ
田中 勝助
生年不詳
没年不詳
◇江戸初期の貿易業者。名は勝介。京都の人。
1610(慶長15)上総国夷隅郡に漂着したフィリピン総督ドン・
ロドリゴ・ビベーロがメキシコの商船に便乗して出発する際、
徳川家康の命を受けてメキシコとの通商のため、日本人22名の
長として同行。日本人として初めて太平洋を横断する。
翌年、何ら成果なく、謝礼の使節セバスチャン・ビスカイノ
とともに帰国、浦賀に入港。
(2)田中 勝助(たなか しょうすけ)。
前ルソン総督ロドリゴがイスパニア帰国航海の途次……翌11
年5月ノビスパンメキシコの商船に便乗して帰国する際……。
翌年謝礼使ビスカイノとともに帰国……。
(4)田中 勝介(たなか かつすけ)。
一六一○年メキシコに渡航。
(6)田中 勝助(たなか しょうすけ)。
前フィリピン長官ドン・ロドリゴの帰国(1610)に際し……,
1611年帰国。
(16)田中 勝助(たなか しょうすけ)。
フィリピン総督ドン・ロドリゴ・ビベーロが…….1611(慶
長16)年……帰国。
(19)田中 勝介(たなか しょうすけ)
たなか しょうぞう《たなか しやうざう》
田中 正造
1841(天保12.12. 3)
1913. 9. 4(大正 2)
◇明治時代の政治家。下野国安蘇郡小中村(現:栃木県佐野市)
の名主の家に生れる。
1879(明治12)「栃木新聞」を発刊し、自由民権運動に参加。県
令三島通庸(ミチツネ)と衝突し下獄。
1890(明治23)第一回の衆議院議員に当選、以来6回連続当選。
足尾銅山鉱毒事件で農民のために奔走。1901.12.10(明治34)議
会開院式より帰途の明治天皇へ足尾鉱毒事件を直訴する(訴文
は幸徳秋水<シュウスイ>が起草)。
たなか しょうへい《たなか しやうへい》
田中 正平
1862(文久 2)
1945(昭和20)
◇物理学者・音楽学者。淡路島生れ。
東京帝国大学卒業。ドイツに留学しヘルムホルツの下で純正
調音階理論を研究。その理論によって純正調オルガンを製作。
たなか すいいちろう《たなか すいいちらう》
田中 萃一郎
1873. 3. 7(明治 6)
1923. 8.13(大正12)
◇明治・大正期の歴史学者。静岡県生れ。慶応義塾大学卒業、
法学博士。
1905(明治38)イギリス・ドイツに留学し東洋史・欧州政治史
を学び、1907(明治40)帰国後、慶応義塾大学教授、政治学・東
洋史学を講義。1910(明治43)慶応義塾大学に史学科創設に尽力、
三田史学会を創立。
ドーソンの『蒙古史』を翻訳。著書は『東邦近世史』など。
(2)生年は1873(明治 6)。
(4)生年は1869。
(16)生年は1873. 3. 7(明治 6)。
たなか せいじろう
田中 西二郎
1907.11.28(明治40)
1979. 1.15(昭和54)
◇英文学者。初期の筆名は佐木狷介。
たなか ただお
田中 忠夫
1894(明治27)
1964(昭和39)
◇昭和期の中国研究家。山口県生れ。山口高等商業(現:山口大
学)卒業。
山口高等商業講師・満洲鉄道社員を経て著述業に転ずる。
1922(大正11)中国に渡り、中国共産党の革命戦争に協力。日中
戦争勃発後、東京に拘置され、釈放後は南京の大使館で中国文
献の翻訳に従事させられる。
敗戦後に帰国し、南多摩の療養所で結核により病死。
たなか ちがく
田中 智学(田中 智學)
1861(文久元.11.13)
1939.11.17(昭和14)
◇宗教思想家(仏教)。本名は巴之助。江戸生れ。多田玄龍・里
舞子の3男。
日蓮宗に帰依したが、1884(明治17)立正安国会(のちの国柱
会)を結成。1922(大正11)国柱文芸会を創立。
たなか でんしえい
田中 田士英
1875. 3.13(明治 8)
1943. 2. 2(昭和18)
◇俳人。本名は英二。
たなか とつげん
田中 訥言
1767(明和 4)
1823(文政 6)
◇江戸後期の画家。名は敏、別号は痴翁・得中・過不及子。名
古屋の人。
京都に住み、土佐光貞に師事。のち平安・鎌倉時代の大和絵
を研究し、復古大和絵派の祖となる。
代表作は『四季草花図屏風』など。
たなか とよぞう
田中 豊蔵
1881(明治14)
1948(昭和23)
◇大正・昭和期の美術史家。号は倉琅子。京都生れ。東京大学
卒業。
はじめ中国文学を専攻し、のち東洋美術史に転じる。京城帝
国大学教授。
たなか はりて
棚夏 針手
1902(明治35)
没年不詳
◇詩人。本名は田中真寿、筆名は田中新珠。
[1]たなか ひさしげ
田中 久重(初代)
1799(寛政11)
1881(明治14)
◇江戸幕末・明治初期の発明家。通称は儀右衛門・近江大掾・
からくり義右衛門。筑後国久留米生れ。二代目田中久重の養父。
1834(天保 5)京都に出、のち大坂移り、大塩平八郎の乱後に
伏見に移る。雲竜水(消火ポンプ)・1847(弘化 4)須弥山儀・
1851(嘉永 4)万年時計・1852(嘉永 5)蒸気船の模型などを作る。
1854年、招かれて佐賀藩の精練所に入り、船の蒸汽罐(ボイ
ラー)・鉄砲類・品川御台場の大砲などを製作。1864年、士分
(3人扶持15石)に取り立てられる。1866(慶応 2)上海を視察。
昇水・精米などの器械を製作。
1873(明治 6)上京し、二代目久重とともに麻布に工場を設立、
工部省の電気機械を製作。
(*)1854(嘉永 7,安政元)、1864(文久 4,元治元)。
(19)「からくり儀右衛門」と称。維新後は東京新橋に田中工場
を設立、電信機械を製作。
[2]たなか ひさしげ
田中 久重(二代)
1864
1905(明治38)
◇明治時代の実業家。旧姓名は金子大吉、筑前の金子庄右衛門
の子、[1]田中久重の養子。
1873(明治 6)初代久重とともに東京麻布に工場を設立、工部
省の電気機械を製作。1878(明治11)政府に工場を買収されるが、
1882(明治15)芝に田中製作所を建て、水雷発射管・汽罐(ボイ
ラー)など海軍用機器を製造。1886(明治19)欧州を視察。
民間最大の機械工場に発展させたが、1903(明治36)製作所は
三井に移り芝浦製作所(現:東芝)となる。
(*)1864(文久 4,元治元)。
たなか ひさら
田中 比左良
1890. 8.25(明治23)
1974. 8.31(昭和49)
◇漫画家・挿絵家。本名は久三。岐阜県生れ。
松浦天竜に南画を学ぶ。
たなか ひでなか
田中 秀央
1886. 3. 2(明治19)
1974. 8. 6(昭和49)
◇ギリシア・ラテン語および文学研究者。
たなか ひでみつ
田中 英光
1913. 1.10(大正 2)
1949.11. 3(昭和24)
◇小説家。旧姓は岩崎。東京赤坂生れ。母の実家の名義だけ相
続して田中姓を名乗る。
早稲田第二高等学院。1932(昭和 7)早稲田大学経済学部本科
一年の時、ボート選手としてロス・アンジェルスのオリンピッ
クに出場。1935(昭和10)早稲田大学卒業。横浜ゴムの京城出張
所勤務。1937(昭和12)看護婦小島喜代と結婚、応召。除隊後、
再び召集。
1940.12.(昭和15)オリンピック参加の経験を描いた青春小説
『オリンポスの果実』で池谷賞を受賞。
戦後、多作となり恋愛・妻子との葛藤・アドルム中毒・傷害
事件・精神病院入院など生活が乱れる。
1947. 1.(昭和22)父が公職追放を受ける。同年10月、新宿で
山崎敬子と知り合い、妻子を疎開先においたまま同棲。1949
(昭和24)睡眠薬中毒の幻覚で山崎を包丁で刺す。
東京三鷹の善林寺の太宰治(ダザイ・オサム)の墓前で、アドルム
を飲み手首を切って自殺。持参の太宰全集に「ぼくは神の手に
“あるいは悪魔の手に”打ち倒されました」と書き留めてあっ
た。
作品は『地下室から』・『さようなら』・『酔いどれ船』な
ど。
たなか ふじまろ
田中 不二麿
1845(弘化 2)
1909(明治42)
◇江戸幕末の尊王論者・明治初期の政治家・文部行政官。名古
屋生れ。田中阿歌麿(アカマロ)の父。
欧米の教育制度を調査研究し、文部省の文部大輔として、
教育令を制定するなど学制の実施とその改革に当る。
のち外国通として司法卿・枢密顧問官・法相などを歴任。
(4)田中 不二麻呂。
(19)田中 不二麿。
たなか ふゆじ
田中 冬二
1894.10.13(明治27)
1980. 4. 9(昭和55)
◇詩人。本名は吉之助。福島生れ。
たなか へいはち
田中 平八
1834(天保 5)
1883(明治16)
◇江戸幕末・明治初期の実業家。異名は「天下の糸平」。長野県
出身。
第百十二国立銀行を創業、米商会所頭取。
たなか みちたろう《たなか みちたらう》
田中 美知太郎
1902. 1. 1(明治35)
1985.12.18(昭和60)
◇哲学者・評論家。新潟県生れ。京都大学卒業。
1945. 5.(昭和20)東京大空襲の際、焼夷弾で重傷を受ける。
1947(昭和22)京都大学助教授、1950(昭和25)同大教授。
日本文化会議理事長。
たなか ゆうかぜ
田中 夕風
1872(明治 5. 5. 2)
1952. 3.26(昭和27)
◇小説家・国文学者。本名は栄子、のち小林姓。
たなか よしとら
田中 義能
1872(明治 5. 9.12)
1946. 3. 4(昭和21)
◇神道学者。山口県玖珂(クガ)郡米川村生れ。
1903(明治36)東京帝国大学哲学科卒業、国学院講師。
1921(大正10)東京帝国大学助教授、神道講座を担当。1922
(大正11)国学院大学教授。
1926(大正15)神道学会を設立、機関紙「神道学雑誌」を創刊。
1931(昭和 6)神道青年連盟協会を設立、機関紙「神道青年」を創
刊。
たなか よしなり
田中 義成
1860
1919(大正 8)
◇明治・大正期の歴史学者。江戸生れ。
史料編纂官・東京大学教授。
著書は『南北朝時代史』など。
(*)1860(安政 7,万延元)。
たなか よりつね
田中 頼庸
1836(天保 7)
1897. 4.10(明治30)
◇江戸幕末・明治前期の国学者・大宮司。薩摩藩士田中四郎左
衛門の子。
15歳の時、政争に連坐して大島に配流。
明治初年、藩校造士館国学局初講と神社奉行を兼ねる。
1871(明治 4)神代三陵取調、1872(明治 5)神祇省に出仕。
1874(明治 7)神宮大宮司、1876(明治 9)大教正、1880(明治
13)神道事務局副管長。
祭神論争では出雲派の千家尊福(センゲ・タカトミ)と伊勢派の指導
者として対立。
1882(明治15)一派として独立した神道神宮教の管長。
たなか りょう
田中 良
1884.10.29(明治17)
1974.12.31(昭和49)
◇挿絵画家・舞台美術家。東京生れ。
東京美術学校に学び、和田英作に師事。
たなか りょうよう
田中 涼葉
1873(明治 6)
1898. 1.29(明治31)
◇小説家。本名は泰造、筆名は梅島涼葉。胸を病み死去。
たなかだて あいきつ
田中館 愛橘
1856.10.16(安政 3. 9.18)
1952. 5.21(昭和27)
◇明治〜昭和期の地球物理学者・ローマ字論者。岩手県生れ。
1882(明治15)東京大学数学物理学星学科卒業。1930(昭和 5)
田中館秀三の養父。
1891(明治24)の濃尾大地震を機として設けられた震災予防調
査会で活躍。地磁気・地震・航空などの諸方面で大きな業績を
残す。
1925(大正14)学士院選出貴族院議員。
1944(昭和19)文化勲章、受章。
(16)誕生日は 9.18。
(21)誕生日は1856.10.16(安政 3. 9.18)。
たなかだて ひでぞう
田中館 秀三
1884. 6.11(明治17)
1951. 1.29(昭和26)
◇地理学者。旧家下斗米家の子、1930(昭和 5)田中館愛橘(アイキ
ツ)の養子。
1910(明治43)から6年間イタリアに留学し、ヴェスヴィアス
火山の研究に従事。
たなはし えいそう
棚橋 影草
1899(明治32)
1970. 9. 9(昭和45)
◇俳人。本名は陽吉。
たなはし じゅんこ
棚橋 絢子
1839(天保10)
1939(昭和14)
◇婦人運動家。
たなべ かほ
田辺 花圃
⇒みやけ かほ(三宅 花圃)
たなべ きいち
田辺 機一
1856(安政 3. 8.)
1933. 5.29(昭和 8)
◇俳人。通称は善右衛門。其角堂(キカクドウ)八世を継ぎ、一子の
其角堂永湖(エイコ)にゆずったのちは老鼠堂(ロウソドウ)と号する。
たなべ げん
田辺 元
⇒たなべ はじめ(田辺 元)
たなべ じゅうじ
田部 重吉
1884. 8. 4(明治17)
1972. 9.22(昭和47)
◇明治〜昭和期の英文学者・随筆家・評論家・翻訳家・山岳紀
行家。旧姓は南日、田部家の養子、筆名は南日重吉。東京大学
英文科卒業。
田部隆次(リュウジ)の弟。
(2)田部 重治(たなべ じゅうじ)。
(3)田辺 重吉(たなべ じゅうじ)。
(5)田部 重吉(たなべ じゅうじ)。
(9)田部 重吉(たなべ じゅうじ)。
(13)田部 重治(たなべ じゅうじ)。
たなべ しゅんいち
田辺 駿一
1894. 3. 7(明治27)
1966.11.(昭和41)
◇歌人。本名は幾太郎。1928(昭和 3)館山一子(タテヤマ・カズコ)と
結婚、まもなく離婚。甲州街道烏山付近で交通事故により死去。
たなべ たいち
田辺 太一
1831(天保 2)
1915(大正 4)
◇明治時代の外交官。号は蓮舟。儒学者田辺石庵の子、三宅花
圃(カホ)の父(三宅雪嶺の岳父)。
1881(明治14)清国臨時代理公使。
たなべ なつこ
田辺 夏子
1872(明治 5. 6.10)
1946.12. 7(昭和21)
◇歌人。旧姓は伊東。
たなべ はじめ
田辺 元
1885. 2. 3(明治18)
1962. 4.29(昭和37)
◇大正・昭和期の哲学者。東京生れ。
東京帝国大学、卒業。
東北帝国大学講師・1920(大正 9)京都帝国大学助教授・1927
(昭和 2)京都帝国大学教授(西田幾多郎の後任)。
1950(昭和25)文化勲章、受章。
はじめ新カント主義の立場から科学論の研究に従事し、のち
西田幾多郎の影響をうけてマルクスの唯物弁証法とヘーゲルの
観念弁証法を統合する絶対弁証法に到達。これを『社会的存在
の論理』で西田哲学を批判して「種の論理」として戦争正当化の
論理を行った。
第二次世界大戦後は、群馬県の山荘に住み自己批判し、親鸞
(シンラン)を中心とする宗教哲学を研究して、1946(昭和21)『懺悔
道としての哲学』など宗教的境地に到る。
著書は1918(大正 7)『科学概論』・1924(大正13)『カントの
目的論』・1932(昭和 7)『ヘーゲル哲学と弁証法』・1948(昭
和23)『キリスト教の弁証』・1949〜1952(昭和24〜昭和27)
『哲学入門』(4巻)など。
たなべ へきどう
田辺 碧堂
1864(元治元.12.)
1931. 4.18(昭和 6)
◇漢詩人。名は華(カ)、字は秋穀(シュウコク)、通称は為三郎。
たなべ もいち
田辺 茂一
1905. 2.12(明治38)
1981.12.11(昭和56)
◇小説家。本名は茂一(シゲイチ)。
たなべ りゅうじ
田部 隆次
1875.10.20(明治 8)
1957.12.20(昭和32)
◇英文学者。旧姓は南日。田部重吉(ジュウジ)の兄。
たなべ れんしゅう
田辺 蓮舟
1831(天保 2. 9.16)
1915. 9.16(大正 4)
◇漢学者・外交官。本名は太一。三宅花圃(三宅雪嶺の妻)の父。
たなべ わかお
田辺 若男
1889. 5.28(明治22)
1966. 8.30(昭和41)
◇俳優。本名は富蔵。
たなべのさきまろ
田辺 福麻呂
生年不詳
没年不詳
◇奈良時代の歌人。
たなみ みしろ
田波 御白
1885.11. 8(明治18)
1913. 8.25(大正 2)
◇歌人。本名は庄蔵(ショウゾウ)、初期の別号は水韻。肺を病み、
七里ヶ浜の療養所で死去。
たに かおる
谷 馨
1906. 8.15(明治39)
1970. 7.13(昭和45)
◇歌人・国文学者。
たに かつとう
谷 活東
1877(明治10)
1906. 1. 8(明治39)
◇小説家・俳人。本名は半治(ハンジ)(一説に隼雄)、別号は
春星池。東京本所生れ。国学院中退。
たに かなえ
谷 鼎
1896. 9.16(明治29)
1960. 7.15(昭和35)
◇歌人・国文学者。初期の号は「新見はるを」。
たに かんじょう《たに かんじやう》
谷 干城
⇒たに たてき(谷 干城)
たに しげとお
谷 重遠
⇒たに しんざん(谷 秦山)
たに じちゅう
谷 時中
1598(慶長 3)
1649(慶安 2)
◇江戸初期の儒学者。名は素有、通称は大学、僧名は慈沖。土
佐の人。
農家に生れ、僧籍に入り南村梅軒に師事し、のち還俗。
儒学と医学を教授し、土佐朱子学(南学)を確立。
著書は『素有文集』など。
◎門下は野中兼山・小倉三省・山崎闇斎ら。
たに じょうじ
谷 譲次
⇒まき いつま(牧 逸馬)
たに しんざん
谷 秦山
1663(寛文 3. 3.11)
1718(享保 3. 6.30)
◇江戸中期の垂加(スイカ)神道家・暦術家・儒学者。本姓は大神
(ミワ)、名は重遠(シゲトオ)、通称は丹三郎、号は秦山(シンザン)。土
佐国長岡郡八幡村の八幡宮神職、谷神兵衛重元の3男。垣守の
父。
17歳の時、上京して山崎闇斎(アンサイ)に師事、儒学と垂加神道
を学ぶ。闇斎の没後はその弟子浅見絅斎(ケイサイ)に師事。32歳の
時、闇斎の弟子渋川春海(ハルミ)に書信で教えを請い、天文暦法
を修める。
帰藩後、南学を復興。45歳の時、継嗣問題に連坐して蟄居。
著書は『神代巻塩土伝(シオヅタエ)』・『中臣祓塩土伝』・『土
佐国式社考』・『秦山集』・『保建大記打聞(ウチキキ)』など。
◎のちの勤王運動に大きな影響を与える。
たに せんば
谷 洗馬
1885. 1.15(明治18)
1928. 8. 1(昭和 3)
◇挿絵画家。本名は栄一。東京生れ。
富岡永洗に師事、師の「永」と馬好きから永馬と号する。
1927(昭和 2)陸軍『馬術教範』の挿絵を描く。
馬の絵を得意とし、自宅に馬を飼い、三人の子供の名に馬の
字を入れた。
たに たてき
谷 干城
1837(天保 8. 2.11)
1911. 5.13(明治44)
◇明治時代の陸軍軍人(中将)・政治家・子爵。名は干城(カンジョ
ウ)とも、通称は守部、号は隈山。土佐高岡郡窪川生れ。谷万七
の子。
土佐藩藩校教授の父から武芸・漢学を学ぶ。
戊辰戦争に参加。
1877(明治10)西南戦争では熊本鎮台司令官として、政府軍が
熊本城下に来るまで52日間の籠城に成功。
1879(明治12)兵部大丞・東部監軍部長・陸軍士官学校長など
を歴任。
退役後、民権運動に反対して保守中正派を組織。第1次伊藤
内閣の農商務大臣となり欧州視察後、国粋主義・農本主義を主
張して井上馨外務大臣の条約改正・欧化主義に反対して辞職。
たに ぶんちょう《たに ぶんてう》
谷 文晁
1763(宝暦13)
1840(天保11)
◇江戸後期の文人画家。江戸の人。名は正安・子方、通称は
文五郎、別号は写山楼・無二庵主・画学斎・文阿弥など。田安
家の家臣で漢詩人谷麓谷の子。
はじめ南蘋(ナンビン)派の渡辺玄対に学び、狩野派・土佐派や
文人画・西洋画などの手法も研究する。
松平定信の寵遇を受け、定信に従って諸国を巡歴し『集古十種』
の挿絵を描く。
代表作は『名山図絵』・『本朝画纂』・『公余探勝図巻』・
『五柳先生図』・『帰去来図』、画論『文晁画談』など。
◆墓は東京都台東区の東上野6丁目の源空寺。
(19)(1763〜1840)。
(+)源空寺にある台東区教育委員会の立札では、1841(天保12.
12.14)没。
◎門人は渡辺崋山・立原杏所・高久靄匡など。
たに ゆたか
谷 豊
1911(明治44)
1942(昭和17)
◇TVドラマ『快傑ハリマオ』のモデル。福岡県生れ。
理髪業の父母とともにシンガポールに渡る。
1933(昭和 8)豊の妹静子(6歳)がクアラトレンガヌの一部中
国系住民の反日暴動で惨殺。
マラリアによりシンガポールで没。妹殺害犯の処分に手ぬる
かった英国官憲に反感。
1942(昭和17)山下奉文中将のシンガポール進攻に同行。同年
4月、軍部に祭り上げられ「快男児マレーの虎」・「皇国進軍の
殊勲者」として日本で話題となる。
◎「ハリマオ」はマレー語で「虎」。
1943(昭和18)大映映画『マライの虎』封切り。
1960年代、『快傑ハリマオ』放送。
たにかぜ かじのすけ
谷風 梶之助
1750(寛延 3. 8. 8)
1795(寛政 7. 1. 9)
◇江戸後期の力士(第4代横綱)。幼名は与四郎。陸奥国宮城郡
霞目村の人。父は弥五右衛門。
◎44場所中、14敗のみで63連勝の記録を残す。
たにかわ ことすが《たにかは ことすが》
谷川 士清
1709(宝永 6)
1776(安永 5.10.10)
◇江戸中期の国学者・神道家。名は昇、字(アザナ)は公介、通称
は養順、号は淡斎など。伊勢国安濃(アノ)郡(現:津市)生れ。恒
徳堂という屋号の医者の長男。
京都で医学を修め、松岡玄達(ゲンタツ)・松岡雄淵(ユウエン)に学
ぶ。玉木正英(マサヒデ)(葦斎)に師事し、1732(享保17)垂加(スイカ)
神道の許状を受ける。樋口宗武より万葉学を学ぶ。
帰郷して谷川塾を開き診療と教育に従事。
本居宣長と稿本を交わしていた。
著書は1751年『日本書紀通証』35巻・1775(安永 4)『倭訓栞
(ワクンノシオリ)』93巻・『勾玉考(マガタマコウ)』・『鋸屑譚(オガクズバナ
シ)』など。
(*)1751(寛延 4,宝暦元)。
◎『倭訓栞』の刊行は子孫によって1887(明治20)終結。
たにぐち きさく
谷口 喜作
1902. 6.16(明治35)
1948. 5.25(昭和23)
◇俳人。別号は(立心偏+「占」)寂。
たにぐち ぶそん
谷口 蕪村
⇒よさ ぶそん(与謝 蕪村)
たにぐち りか
谷口 梨花
1873(明治 6)
1961(昭和36)
◇鉄道省事務官・紀行文作家。本名は満雄。
たにざき じゅんいちろう《たにざき じゆんいちらう》
谷崎 潤一郎
1886. 7.24(明治19)
1965. 7.30(昭和40)
◇小説家・劇作家。東京市日本橋区蠣殻町二丁目一四番地生れ。
谷崎精二の兄。
坂本小学校高等科・府立第一中学校を経て、1905(明治38)第
一高等学校英法科に入学、文学で身を立てる決意をして文科に
転じ、1908(明治41)東京帝国大学国文科入学(中途退学)。
1915(大正 4)群馬県前橋市出身のの石川千代子と結婚。妻千
代子の妹との恋愛から結婚を望み、妻と佐藤春夫の恋愛をいっ
たん許し、妻を譲ると約束しながら土壇場で翻意したことは
「小田原事件」として知られる。1930. 5.(昭和 5)妻千代子・佐
藤春夫と連名で、千代子が長女鮎子を伴い離別して春夫に嫁ぐ
旨を発表、同年8月に千代子夫人と離婚し三者合意を声明。
1931(昭和 6)古川丁未子(トミコ)と結婚、1933(昭和 8)別居、
1934(昭和 9)離婚。同年、根津(旧姓は森田)松子と同棲、1935
(昭和10)結婚。
第二次「新思潮」同人。耽美・背徳の官能的な世界を描くが、
関東大震災を機に関西に移住し、古典的・伝統的な作品を生む。
1949(昭和24)文化勲章、受章。
作品は1910(明治43)『刺青(シセイ)』・『少年』・『痴人の愛』・
1928(昭和 3)『蓼喰ふ虫』・1933(昭和 8)『春琴抄』・1948
(昭和23)『細雪(ササメユキ)』・1949(昭和24)『少将滋幹の母』・
1956(昭和31)『鍵』・現代語訳『源氏物語』など。
(5)大正四年三〇歳のとき、彼は群馬県前橋市出身の石川千代
子と結婚し、……。
(11)大正四年三〇歳のとき、彼は群馬県前橋市出身の石川千代
子と結婚し、……。
(13)大正四年群馬県前橋市の石川千代子と結婚本所小梅町に家
を持ち、……。
◆谷崎忌[ 7.30]。
たにざき せいじ
谷崎 精二
1890.12.19(明治23)
1971.12.14(昭和46)
◇小説家・評論家・英文学者。東京日本橋蠣殻町生れ。苦学し
て1913(大正 2)早稲田大学英文科卒業。谷崎潤一郎の次弟。
たになか やすのり
谷中 安規
1897. 1.18(明治30)
1946. 9. 9(昭和21)
◇版画家。
たにもと とめり
谷本 富
1867(慶応 3)
1946(昭和21)
◇明治・大正の教育学者。香川県生れ。東京大学卒業。
1912. 9.(大正元)乃木希典(ノギ・マレスケ)の殉死を時代錯誤と毎
日新聞に発表、激しい非難を受ける。翌年、京大と兼任してい
た大谷大学・神戸高等商業学校を辞任。八月、元文部次官で東
北帝国大学総長を兼ねる京都帝国大学総長沢柳政太郎(サワヤナギ・
マサタロウ)により、大学の自治問題も絡み京大教授も辞任させられ
る(沢柳事件)。香川県教育会からも除名される。
たにもり よしおみ
谷森 善臣
1817(文化14)
1911.11.16(明治44)
◇江戸幕末・明治時代の国学者。京都生れ。
伴信友(バンノノブトモ)に師事し考証学を学び、山陵を研究。
明治維新後、神祇事務掛・制度事務局権判事・皇学所取調御
用掛・大学中博士を歴任。また国史考閲御用掛・教導局御用掛
・御系図取調御用掛を兼任。
1906(明治39)正四位。
著書は『諸陵徴』・『諸陵説』。
たにわき そぶん
谷脇 素文
1878.12.15(明治11)
1946. 4.28(昭和21)
◇漫画家。本名は清澄。
たぬま おきつぐ
田沼 意次
1719(享保 4)
1788(天明 8. 6.24)
◇江戸中期の幕府側用人・老中・遠州相良城主。田沼意知(オキト
モ)の父。
たぬま おきとも
田沼 意知
1749(寛延 2)
1784(天明 4. 3.25)
◇江戸中期の幕府若年寄。田沼意次(オキツグ)の子。
新番隊士佐野政言に斬られ、間もなく死亡。
たねだ さんとうか
種田 山頭火
1882.12. 3(明治15)
1940.10.11(昭和15)
◇俳人。本名は正一(ショウイチ)、法名は耕畝。1924(大正14)熊本
の報恩寺で出家。1925(大正15)山林独住に耐えかねて行乞流転
の旅に出る。九州・四国・中国路の各地を行脚し句と酒と旅に
生き、1940(昭和15)松山市の一草庵にて酔頓死。
(1)没日は10.11。
(3)没日は10.10。
(5)没日は10.11。
(9)没日は10.11。
(11)没日は10.11。
たねむら すえひろ《たねむら すゑひろ》
種村 季弘
1933. 3.21(昭和 8)
2004. 8.29(平成16)
◇ドイツ文学者・翻訳家・評論家。東京生れ。
1957(昭和32)東京大学文学部独文科、卒業。
出版社に勤務。
都立大学助教授。
国学院大学教授(〜2000)。
1995(平成 7)『ビンゲンのヒルデガルトの世界』で斎藤緑雨
賞・芸術選奨文部大臣賞、受賞。
1999(平成11)著作集『種村季弘のネオ・ラビリントス』(河
出書房新社)で泉鏡花文学賞、受賞。
作品は『怪物のユートピア』・『パラケルススの世界』・エッ
セー集『畸形(キケイ)の神』(青土社)・『謎のカスパール・ハウ
ザー』・『怪物の解剖学』など。
たのむら ちくでん
田能村 竹田
1777(安永 6. 6.10)
1835(天保 6. 8.29)
◇江戸後期の南画家。名は孝憲(タカノリ)、字は君彝(クンイ)、通称
は行蔵、号は竹田・九畳仙史・藍水など。
豊後竹田の岡藩藩医の家に生れる。
岡藩に仕え、1801(享和元)江戸に出て谷文晁らに師事。
のち、藩校の頭取になる。
1811〜1812(文化 8〜文化 9)藩の専売制に反対する農民一揆
が起こった際、提出した藩政改革の建白書を無視され、1813
(文化10)辞職。
以後、文人生活に専念し、しばしば大坂・京都を訪れて頼山
陽・篠崎小竹(ショウチク)・浦上玉堂・青木木米(モクベイ)・雲華上人
ら文人墨客と交遊。
作品は画帖『亦復一楽帖(マタマタイチラクジョウ)』・『船窓小戯帖』
など、著作は画論『屠赤瑣々録』・『竹田荘師友画録』・『山
中人饒舌』など。
◎門下生は高橋草坪(ソウヘイ)・田能村直入ら。
たばた しゅういちろう《たばた しういちらう》
田畑 修一郎
1903. 9. 2(明治36)
1943. 7.23(昭和18)
◇小説家。本名は修蔵。島根県田町に津和野藩士河野彌吉の三
男として生れる。母を早く失い、父が自殺した際、後妻の実家
の養子となり、田畑姓を名乗る。1925. 1.(大正14)木島松子と
結婚。民話取材先の岩手県盛岡で急性盲腸炎により死去。
(1)誕生日は 9. 2。
(3)誕生日は 9. 7。
(5)誕生日は 9. 2。
(9)誕生日は 9. 2。
(13)誕生日は 9. 7。
たぼはし きよし
田保橋 潔
1897(明治30)
1945(昭和20)
◇大正・昭和期の歴史学者。
1927(昭和 2)京城帝国大学教授。
1933(昭和 8)朝鮮総督府の朝鮮史編修に従事。
(2)1924(大正14)京城帝大予科講師となる。(*)1924年は大正13。
たまき まさひで
玉木 正英
1670(寛文10.12. 7)
1736(元文元. 7. 8)
◇江戸中期の神道家。通称は幸助・兵庫、号は葦斎など、霊社
号は五鰭(イヒレ)霊社。
たまこし ろうろう
玉腰 琅々
1884. 2. 8(明治17)
1945. 7.10(昭和20)
◇俳人。本名は藤四郎。岐阜市にて空襲をうけ死亡。
たまだ ぎょくしゅうさい
玉田 玉秀斎(二代目)
1856(安政 3)
1921(大正10)
◇講談作家。本名は加藤万次郎、初号は玉麟。
たまの せいり
玉乃 世履
1825(文政 8)
1886(明治19)
◇明治初期の大審院長。
1874(明治 7)イギリスが提訴した旧藩債務の事件を処理する。
たまの はなこ
玉野 花子
1882(明治15)
1908. 1.14(明治41)
◇歌人。雅号は白すみれ。平野万里(バンリ)の妻。
たままつ みさお《たままつ みさを》
玉松 操
1810(文化 7)
1872(明治 5. 2.15)
◇江戸幕末・明治維新期の国学者・勤王家。本名は山本真弘(マ
ナヒロ)。参議侍従山本公弘の次男。京都生れ。
8歳の時、京都醍醐寺無量院の僧となり、大僧都法印に至る。
のち僧律改革を唱えて30歳で下山。還俗して山本毅軒のち玉松
操と改める。
大国隆正(タカマサ)(野之口隆正)に国学を学び、和泉や近江坂本
で私塾を開く。
1867(慶応 3)門人三上兵部(ミカミ・ヒョウブ)の紹介で蟄居中の岩
倉具視(トモミ)の知遇を受け、王政復古の計画に参画。
1870(明治 3)大学中博士・侍読(ジドク)を兼ねる。矢野玄道
(ハルミチ)とともに新政府の文教政策を批判して1871(明治 4. 1.)
官職を辞し、翌年病没。
◎1893(明治26)贈従三位。
◎王政復古の詔勅案を起草したといわれ、「神武創業」の方針も
操の主唱であった。
たまる たくろう
田丸 卓郎
1872(明治 5. 9.29)
1932. 9.22(昭和 7)
◇理学者・ローマ字論者。
たむら あきこ
田村 秋子
1905(明治38)
1983(昭和58)
◇昭和期の新劇女優。本姓は伴田(トモダ)、旧姓は田村。神田高
等女学校卒業。1924(大正13)築地小劇場の第一回研究生。
友田恭助(キョウスケ)の妻、田村西男(ニシオ)の長女。
たむら えいたろう
田村 栄太郎
1893. 9.25(明治26)
1969.11.29(昭和44)
◇歴史家。家業は人力車宿であった。震災直後、群馬共産党事
件で検挙。農民運動史・近世交通史・やくざ研究など。
たむら しゅうさい
田村 秀哉
1874(明治 7)
1940(昭和15)
◇囲碁棋士・本因坊21世。本名は保寿。東京生れ。
1885〜1891(明治18〜明治24)方円社に所属。
1892(明治25)金玉均の紹介で本因坊秀栄の門下生となる。
1905(明治38)七段。
1908(明治41)本因坊21世を襲名し、秀哉と号する。
1914(大正 3)名人。
1924(大正13)分裂していた棋界を大倉喜七郎の助力で日本棋
院に統一。
1938(昭和13)本因坊を引退。
たむら しょうぎょ
田村 松魚
1874. 2. 4(明治 7)
1948. 3. 6(昭和23)
◇小説家。本名は昌新(マサトキ)、別号は入江新八。土佐国宿毛生
れ。1903(明治36)渡米しインディアナ大学に学び、1909(明治
42)帰国。同年、佐藤とし(田村俊子)と結婚、のち離婚。
(3)本名は昌新(マサトキ)。
(5)本名記載なし。
(9)本名は昌新(マサトシ)。
(13)本名は昌新。三五年渡米、……。
たむら たいじろう
田村 泰次郎
1911.11.30(明治44)
1983.11. 2(昭和58)
◇小説家。三重県生れ。早稲田大学仏文科に学ぶ。
たむら たてあき
田村 建顕
1656(明暦 2)
1708(宝永 5)
◇江戸初期の大名・奥州一関(イチノセキ)3万石藩主。
◎朝野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が刃傷におよんだ後、芝愛
宕下(シバアタゴシタ>)上屋敷に預けられ切腹。
たむら としこ
田村 とし子(田村 俊子)
1884. 4.25(明治17)
1945. 4.16(昭和20)
◇小説家。本名は「佐藤とし」、無名時代は佐藤露英のちに
市川華紅。田村松魚(ショウギョ)の妻で、号は田村とし子・俊・
俊子。離婚後は佐藤俊子。東京浅草蔵前の米穀商に生れる。
府立第一高等女学校を経て日本女子大学国文科中退。18歳の
とき幸田露伴に師事。一時女優として舞台に立つ。
1909(明治42)同門の田村松魚と結婚。
1911(明治44)『あきらめ』が大阪朝日新聞の懸賞小説に1等
当選。
1917(大正 6)妻子ある鈴木悦(エツ)と恋愛、翌年悦を追ってカ
ナダのバンクーバーに脱出、結婚。1936(昭和11)悦の死亡後、
帰国したが、54歳になってなお親友の夫と恋愛関係におちいり、
それを清算するため1938(昭和13)上海に渡る。
上海大使館の嘱託になって華字婦人雑誌「女声」を発行、中国
名は左俊芝。
1945. 4.13(昭和20)崑山路の外出先で脳溢血により昏倒、昏
睡状態のまま三日後に死去。
作品は『嘲弄』・『遊女』・『炮烙の刑』・『女作者』・
『木乃伊(ミイラ)の口紅』など。
(2)'38には中国に渡り,……。
(13)一三年中国に渡り、……。
(16)誕生日は 4.26。
(?)1942(昭和17)上海に渡る。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
◎1958(昭和33)田村俊子賞が設定。
たむら なりよし
田村 成義
1851(嘉永 4. 2.)
1920.11. 8(大正 9)
◇興行師。旧姓は福井。江戸日本橋生れ。
田村金太郎の養子となる。
1879(明治12)新富座顧問・1885(明治18)千歳座代表・1907
(明治40)東京歌舞伎座・市村座を経営、劇評・演出もてがける。
著書は1903(明治36)までの『続々歌舞伎年代記』。
たむら にしお
田村 西男
1879. 2.11(明治12)
1958. 1.21(昭和33)
◇小説家・劇作家・演劇評論家。本名は喜三郎。田村秋子の父。
たむら ひちょう
田村 飛鳥
1893. 2.24(明治26)
1917. 6. 3(大正 6)
◇歌人。肺結核により死去。
たむら もっこく
田村 木国
1889. 1. 1(明治22)
1964. 6. 6(昭和39)
◇俳人。本名は省三。1910(明治43)大阪朝日時代、全国中学校
野球大会(現:高校野球)を立案創始する。
たむら らんすい
田村 藍水
1718(享保 3)
1776(安永 5. 3.23)
◇江戸時代の本草学者。本姓は坂上、坂上田村麻呂の一族であ
ることから田村を姓とする。名は登、字は元台、通称は元雄。
阿部将翁に本草学を学ぶ。
国産の人参栽培にあたる。
◎門下に後藤梨春(リシュン)・平賀源内らがいる。
ためなが しゅんこう
為永 春江
1817(文化14)
1896(明治29)
◇戯作者。本名は知久況堂、別号は狂文亭。染崎延房(ノブフサ)
(二世春水)の先輩。
ためなが しゅんすい
為永 春水
1790(寛政 2)
1843(天保14.12.22)
◇江戸後期の人情本作者。本名は鷦鷯(ササキ)(佐々木)貞高、通
称は越前屋(エチゼンヤ)長次郎、号は二代目振鷺亭(シンロテイ)主人・
三鷺・二世南仙笑楚満人(ナンセンショウソマビト)・狂訓亭主人・
金竜山人(キンリュウサンジン)、講釈師として為永正輔・為永金竜。
ためなが しゅんすい
為永 春水(二世)
⇒そめざき のぶふさ(染崎延房)
ためひら しんのう
為平 親王
952(天暦 6)
1010(寛弘 7)
◇平安中期の皇子。村上天皇の第4皇子、母は右大臣藤原師輔
の娘中宮安子。妃は左大臣源高明の娘。
たやす かめのすけ
田安 亀之助
⇒とくがわ いえさと(徳川 家達)
たやす むねたけ
田安 宗武
1715(正徳 5.11.27)
1771(明和 8. 6. 4)
◇江戸中期の国学者・歌人。幼名は小次郎。徳川第8代将軍吉
宗(ヨシムネ)の次男、第9代将軍家重の弟、一橋宗尹(ムネタダ)の兄。
1731(享保16)17歳のときに田安家をたて、40万石。
(2)「徳川家重」の項:吉宗の次男宗武(田安)……。
(4)八代将軍吉宗の第三子.
(16)8代将軍吉宗の3子.
たやま かたい
田山 花袋
1871(明治 4.12.13)
1930. 5.13(昭和 5)
◇小説家・詩人。本名は録弥(ロクヤ)、別号は汲古(キュウコ)。群馬
県邑楽(オウラ)郡館林(タテバヤシ)町外伴木(サトバンギ)、城沼(ジョウヌマ)
に沿った家に生れる。
1877. 2.(明治10)警視庁に勤めていた父が西南の役に出征し、
4月戦死。1880.12.(明治13)小学校初等科三年修業。1881. 2.
(明治14)東京京橋の書店日高有倫堂の丁稚(デッチ)となる。1899.
2.(明治32)太田玉茗(ギョクメイ)の妹リサと結婚。1904. 3.(明治
37)日露戦争に従軍、九月帰国。
喉頭ガンにより死去。
(5)(明治)三二年三月友人太田玉茗の妹リサと結婚、……。
(9)誕生日は新暦1872. 1.22。
(11)(明治)三二年三月友人太田玉茗の妹リサと結婚、……。
(?)二月に結婚……。
たるい とうきち《たるゐ とうきち》
樽井 藤吉
1850(嘉永 3)
1922(大正11)
◇明治時代の政治家。大和国(現:奈良県)出身。
自由民権運動に参加。
1882. 5.(明治15)長崎県島原で小農民を中心に東洋社会党を
結成するが、結党集会を禁止され、1ヶ月足らずで解散。
1885(明治18)朝鮮の内政改革を企てた大阪事件で逮捕された
が不起訴となる。
のち衆議院議員となり、1892(明治25)大井憲太郎らと東洋自
由党を組織。1893(明治26)『大東合邦論』を著し、日韓両国の
自主的な対等合邦を説き、日韓併合を推進。やがて、辞任。
◎東洋社会党は日本の政党で最初に「社会党」の文字を使用。
たるひと しんのう《たるひと しんわう》
熾仁 親王
1835. 3.17(天保 6. 2.19)
1895. 1.15(明治28)
◇江戸幕末・明治維新期の皇族。有栖川宮9世。幼名は歓宮。
幟仁(タカヒト)親王の第1王子、母は佐伯祐子。京都生れ。
1849(嘉永 2. 2.)親王宣下。
1851(嘉永 4)親子(チカコ)内親王(のち和宮)と婚姻の内旨を受
けるが、徳川家への降嫁問題で1860年解消。
1867(慶応 3)王政復古により新政府の総裁に就任、翌(アク)る
1868(慶応 4)東征大総督となり参謀西郷隆盛(タカモリ)とともに東
下し、 3. 5駿府に入城。
1870(明治 3. 2.)徳川斉昭の11女貞子と結婚。同年4月兵部
卿。1874(明治 7)華族会館長。1875(明治 8)元老院議官。1876
(明治 9)元老院議長。
西南戦争では1877(明治10. 2.19)征討総督、同年11月凱旋し
陸軍大将。1880(明治13)左大臣、1885(明治18)内閣制度発足に
より左大臣が廃止になり参謀本部長、1886(明治19)近衛都督を
兼任。
日清戦争では1894. 9.(明治27)明治天皇に従い広島に赴き参
謀総長。翌年病死し、国葬。
(23)没日は 1.15。
(?)没日は 1.24。
(*)1860(安政 7,万延元)。
◎東京都港区麻布に有栖川宮記念公園があり、大熊氏広制作の
熾仁親王の騎馬銅像がある。
たわら とうた《たはら とうた》
俵 藤太
⇒ふじわらのひでさと(藤原 秀郷)
たわら とうた《たはら とうた》
田原 藤太
⇒ふじわらのひでさと(藤原 秀郷)
たわら とうだ《たはら とうだ》
俵 藤太
⇒ふじわらのひでさと(藤原 秀郷)
たわら とうだ《たはら とうだ》
田原 藤太
⇒ふじわらのひでさと(藤原 秀郷)
たわらや そうたつ《たはらや そうたつ》
俵屋 宗達
生年不詳
1643(寛永20)
◇江戸初期の絵師。
だん かずお
壇 一雄
1912. 2. 3(明治45)
1976. 1. 2(昭和51)
◇小説家。福岡県生れ。福岡高等学校を経て東京大学経済学科
卒業。
たん きよし
丹 潔
1896. 9.20(明治29)
1968. 1.18(昭和43)
◇小説家。
たん たいぎ
炭 太祇
1709(宝永 6)
1771(明和 8. 8. 9)
◇江戸中期の俳諧師。別号は水語・不夜庵・宮商洞・三亭、法
号は道源。
はじめ雲津水国に学び、のち紀逸に学ぶ。
◆太祇忌(不夜庵忌)[旧暦 8. 9]。
だん たくま
団 琢磨(團 琢磨)
1858(安政 5. 8. 1)
1932. 3. 5(昭和 7)
◇明治〜昭和初期の実業家。幼名は駒吉。福岡藩士神尾宅之丞
の第3子、同郷の団直静の養子。
1929(昭和 4)労働組合法案立案に反対し、これを阻止する。
血盟団の菱沼五郎により三井本館玄関で狙撃され、死亡。
だん れいこ
団 令子
1935. 3.26(昭和10)
2003.11.24(平成15)
◇女優。本名は浜田令子(ハマダ・レイコ)。
1957(昭和32)東宝に入社。
たんげ けんぞう《たんげ けんざう》
丹下 健三
1913. 9. 4(大正 2)
2005. 3.22(平成17)
◇建築家。大阪府堺市生れ。
中等学校まで愛媛県今治市で暮らす。
1938(昭和13)東京帝国大学工学部建築学科、卒業。
前川国男の建築事務所に勤務。
東京帝国大学大学院に在学し、1942(昭和17)大東亜建設記念
造営計画の1等案に当選。
1946(昭和21)東京帝国大学の助教授。
1955(昭和30)代々木国立屋内総合競技場・広島平和記念資料
館、設計。
1957(昭和32)東京都庁第1庁舎を設計。
1964(昭和39)東京カテドラル聖マリア大聖堂、設計。東京大
学の教授。
1974(昭和49)東京大学を退官して名誉教授。
1980(昭和55)文化勲章、受章。
1987(昭和62)プリツカー賞、受賞。
1991(平成 3)東京都庁舎で鈴木俊一都知事との関係が問題に
なる。
1996(平成 8)フジテレビ本社ビル、設計。
たんけい
湛慶
1173(承安 3)
1256
◇鎌倉時代の仏師。運慶の長男。
(16)没年には異説がある.
(*)1256(建長 8,康元元)。
たんごのつぼね
丹後局
⇒たかしな えいし(高階 栄子)
だんざえもん《だんざゑもん》
弾左衛門
⇒『国語辞書』だんざえもん(弾左衛門)
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