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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6311.03

                 人   名   辞   典    《たけ》     編集:獨  澄旻

-------- たけ --------------------------------------------------
たけい たけお
	武井 武雄
	1894(明治27)
	1983(昭和58)
	◇挿絵画家。長野県岡谷生れ。東京美術学校西洋画科卒業。
	 1924(大正13)個展で「童画」という言葉を生み出す。
たけうち うんとう
	竹内 雲涛(竹内 雲濤)
	1815(文化12)
	1863. 2. 2(文久 3.12.14)
	◇江戸後期の漢詩人。名は鵬、字は九万、号は雲涛・酔死道人。
	豊前小倉藩の医師山上準庵の次男、父の同僚医師竹内氏の養子。
たけうち えいろう
	竹内 映紫楼
	1881. 7. 2(明治14)
	没年不詳
	◇俳人。本名は栄四郎、旧号は昇龍天、別号は三屋・茨骨舎。
たけうち かつたろう
	竹内 勝太郎
	1894.10. 2(明治27)
	1935. 6.25(昭和10)
	◇詩人。京都市生れ。京都の市立清和中学校を中退。黒部渓谷
	で黒部川に墜落、激流にのまれ行方不明。
	(1)誕生日は10.20。
	(3)誕生日は10. 2。
	(5)誕生日は10. 2。
	(9)誕生日は10.20。
	(11)誕生日は10. 2。
	(13)誕生日は10. 2。
たけうち きゅういち
	竹内 久一
	1859(安政 6)
	1916. 9.24(大正 5)
	◇明治時代の彫刻家。幼名は兼五郎、号は久遠(クオン)。善次郎の
	子。江戸浅草生れ。
	 1891(明治24)東京美術学校教授。
	(2)生年は1859(安政 6)。
	(23)生年は安政4.7.9(1857.8.28)。
たけうち ぎんしゅう
	竹内 吟秋
	1831(天保 2)
	1913(大正 2)
	◇明治時代の陶工・絵付師。名は源三郎、号は皚斎(ガイサイ)・
	有節斎など。加賀藩士浅井長右衛門の長男。
たけうち けいしゅう
	武内 桂舟
	1861(文久元.10.11)
	1943.11. 3(昭和18)
	◇明治の挿絵画家。江戸紀州藩邸生れ。
	 幼時、奥絵師狩野永悳(エイトク)の養子となり、狩野正信に絵を
	学ぶ。硯友社に参加し同人の挿絵を描く。のち博文館に入社し、
	巌谷小波と組む。
	(2)生年は1863(文久 3)、没年は1943(昭和18)。本名記載なし。
	(3)没年は1941(昭和16)か。本名は銀平。
	(9)没年は1943.11. 3(昭和18)。本名は(「金」偏+「辰」)平。
	(20)生年は1861、没年は1943。本名(「金」偏+「辰」)平。
たけうち げんどう
	竹内 玄同
	1805(文化 2)
	1880. 1.12(明治13)
	◇江戸幕末・明治初期の洋方医。名は幹、幼名は麒麟太、号は
	西坡・風香、字は玄同。竹内玄立の次男、越前丸岡藩医の叔父
	竹内玄秀の養嗣子。加賀国大聖寺町生れ。
たけうち さくへい
	武内 作平
	1867(慶応 3)
	1931(昭和 6)
	◇大正・昭和初期の政党政治家。
たけうち しょういち
	竹内 正一
	1902. 6.12(明治35)
	1974. 3.10(昭和49)
	◇小説家。
たけうち しょうへい
	竹内 昌平
	生年不詳
	没年不詳
	◇昭和前期の小説家。「創作月刊」・「文学評論」・「人民文
	庫」・「勤労者文学」などに作品を発表。
たけうち しょうべえ
	竹内 正兵衛
	1819(文政 2)
	1864.12.10(元治元.11.12)
	◇江戸幕末の長州藩士。
	 1864(元治元. 7.)家老福原越後の軍の参謀として上洛。蛤御
	門の変に敗れて帰藩。第一次長州征討の際に設置された佐幕派
	藩庁により福原らとともに処刑。
たけうち しょうらん
	武内 小鸞
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸後期の女性画家。名は千賀、字は左琴。長門(現:山口県)
	の人。
たけうち せいほう
	竹内 栖鳳
	1864
	1942(昭和17)
	◇日本画家。本名は恒吉、旧号は棲鳳。京都生れ。
	 幸野楳嶺(コウノ・バイレイ)に四条派を学ぶ。ヨーロッパ遊学後、
	影響を受けて西洋画法を取り入れ、独自の洗練された画風を確
	立。
	 1937(昭和12)第一回文化勲章を受章。
	 作品は『雨霽』・『あれ夕立に』・『鯖(サバ)』・『斑猫(ハン
	ビョウ)』など。
	(*)生年は1864(文久 4,元治元)。
たけうち つな
	竹内 綱
	⇒たけのうち つな(竹内 綱)
たけうち としこ
	竹内 俊子
	1905. 9.10(明治38)
	1945. 4. 7(昭和20)
	◇童謡詩人。『赤い帽子白い帽子』・『かもめの水兵さん』な
	ど。
たけうち まこと
	竹内 真
	1903. 7. 2(明治36)
	1943.11.10(昭和18)
	◇近代文学研究家。
たけうち やすのり
	竹内 保徳
	1807(文化 4)
	1867(慶応 3. 2.)
	◇江戸幕末の幕臣。通称は清太郎。旗本竹内富蔵の子。
たけうち よしお
	武内 義雄
	1886(明治19)
	1966(昭和41)
	◇昭和期の中国哲学者。三重県生れ。
	 京都大学卒業。
	 著書は1936(昭和11)『中国哲学史』など。
たけうち よしみ
	竹内 好
	1910.10. 2(明治43)
	1977. 3. 3(昭和52)
	◇評論家・中国文学者。長野県生れ。
	 1934(昭和 9)東京大学文学部卒業。
	 東京都立大学教授。
たけおか のぶゆき《たけをか のぶゆき》
	竹岡 信幸
	1907. 7.31(明治40)
	1985. 9. 9(昭和60)
	◇作曲家。神奈川県横浜生れ。
たけこし さんさ
	竹越 三叉
	⇒たけこし よさぶろう(竹越 与三郎)
たけこし よさぶろう《たけこし よさぶらう》
	竹越 与三郎
	1865(慶応元.10.14)
	1950. 1.12(昭和25)
	◇明治・大正・昭和期の政治家・史論家・評論家。本名は与三
	郎、旧姓は清野(キヨノ)、竹越は伯父の姓、号は三叉(サンサ)。越後
	国生れ。慶応義塾卒業。「大阪公論」,「時事新報」,「国民新聞」な
	どの記者を勤めながら、『新日本史』・『二千五百年史』を著
	述。西園寺公望に認められ、公望の求めで、1894. 7.(明治27)
	雑誌「世界之日本」発行・主筆。第三次伊藤内閣の西園寺文相の
	もとで文部参事官。1902(明治35)政友会に所属し以後衆議院5
	回当選、1922(大正11)貴族院議員に勅選。1940(昭和15)枢密顧
	問官。
	(1)誕生日は10.14。
	(2)たけごし よさぶろう(竹越 与三郎)。誕生日の記載なし。
	武蔵(埼玉県)生れ。'22(大正11)貴族院議員に勅選され、……。
	(3)誕生日は10.14。
	(4)たけこし よさぶろう(竹越 与三郎)。誕生日の記載なし。
	埼玉県生れ。
	(5)誕生日は10. 5。
	(6)たけこし よさぶろう(竹越 与三郎)。誕生日の記載なし。
	埼玉県本庄の人。23年貴族院議員。
	(9)誕生日は10.14。
	(11)誕生日は10. 5。
	(13)たけごし さんさ(竹越 三叉)。誕生日は10.14。
たけさだ きょこう
	竹定 巨口
	1883. 2.23(明治16)
	1941. 9. 2(昭和16)
	◇俳人。本名は(「金」偏+「珍」-「王」)七、別号は鳥人・羊子坊。
たけした しずのじょ
	竹下 しづの女
	⇒たけした しづのじょ(竹下 しづの女)
たけした しづのじょ
	竹下 しづの女
	1887. 3.19(明治20)
	1951. 8. 3(昭和26)
	◇俳人。本名は静廼(シズノ)。
たけしば きすい
	竹柴 其水
	1847(弘化 4.10.)
	1923. 2. 7(大正12)
	◇歌舞伎狂言作者。本名は岡田新蔵、別称は熨斗進三(ノシ・シンゾ
	ウ)・竹柴進三、1887(明治20)黙阿弥の俳号其水を嗣いだ。江戸
	京橋本材木町生れ。1907(明治40)劇界を隠退。
たけしま はごろも
	武島 羽衣
	1872(明治 5.11. 2)
	1967. 2. 3(昭和42)
	◇歌人・詩人・国文学者。本名は又次郎、又二郎とも署名。東
	京生れ。
	 第一中学・第一高等学校を経て、1893(明治26)帝国大学文科
	大学(現:東京大学)国文学科に入学。
	 1895(明治28)「帝国文学」創刊の編集委員。1896(明治29)卒業。
	 日本女子大学教授。
	 御歌所寄人(オウタドコロヨリウド)。
	 著書は1896(明治29)塩井雨江(ウコウ)・大町桂月(ケイゲツ)との共
	著『美文韻文花紅葉(ハナモミジ)』、『霓裳(ゲイショウ)微吟』・『国
	歌評釈』、歌集『美しき道』など。
	 作詞は滝廉太郎作曲『花』、田中穂積(ホズミ)作曲『天然の美』
	など。
たけぞえ しんいちろう《たけぞへ しんいちらう》
	竹添 進一郎
	1842(天保13)
	1917. 3.29(大正 6)
	◇外交官・漢学者。号は井井(セイセイ)。肥後天草生れ。竹添履信
	(リシン)の祖父。
	 熊本藩士で、明治維新の際、藩の参謀として活躍。
	 天津領事を経て、1882(明治15)壬午の変(朝鮮で起きた排日
	暴動)の後、朝鮮弁理公使となる。1884.12. 4(明治17)日本軍
	を指揮し、国王を奉じた金玉均(ギョクキン)ら開化派とクーデター
	を決行(甲申政変)するが、清軍の軍事介入により失敗(日本は
	関与を否定)。
	 のち東京大学教授となり経書を講じる。
	 著書は『桟雲峡雨日記』・『左氏会箋(カイセン)』。
たけぞえ せいせい《たけぞへ せいせい》
	竹添 井井
	⇒たけぞえ しんいちろう(竹添 進一郎)
たけぞえ りしん
	竹添 履信
	1897. 3. 3(明治30)
	1934. 9.14(昭和 9)
	◇歌人・画家。筆名は嘉納登仙・二九一八。父は嘉納治五郎で、
	竹添進一郎の養嗣子。
[1]たけだ いずも《たけだ いづも》
	竹田 出雲(座本元祖)
	生年不詳
	1747(延享 4. 6. 4)
	◇江戸時代の浄瑠璃作者・竹本座の座本。浄瑠璃の名は出雲・
	千前軒・外記(ゲキ)、俳号は千前(センゼン)・奚疑(ケイギ)。[2]竹
	田出雲の父。
	 1705(宝永 2)竹本座の座本となる。竹田出雲としては三代目
	かに当り、座本としては元祖。
[2]たけだ いずも《たけだ いづも》
	竹田 出雲(座本二代目)
	1691(元禄 4)
	1756(宝暦 6.11. 4)
	◇江戸時代の浄瑠璃作者・竹本座の座本。名は清定(キヨサダ)、
	元祖出雲の生前は小出雲(コイズモ)、没後は出雲・千前軒・外記
	(ゲキ)を襲名、親方出雲と呼ばれる。[1]元祖出雲の子。
	 近松門左衛門に師事。
	 『仮名手本忠臣蔵』が有名。
	(16)没日は10.21。
たけだ おうとう
	武田 鶯塘
	1871(明治 4.10.10)
	1935. 5.31(昭和10)
	◇俳人・小説家。本名は桜桃四郎(オトシロウ)、別号は桜桃。東京
	下谷御徒町生れ。
たけだ かつより
	武田 勝頼
	1546(天文15)
	1582(天正10. 3.11)
	◇戦国・安土時代の武将。幼名は伊奈四郎。武田信玄(シンゲン)
	の子、母は諏訪頼重(スワ・ヨリシゲ)の娘。妻は美濃国岩村の遠山勘
	太郎の娘で織田信長(ノブナガ)の養女雪姫。
	 1562(永禄 5)諏訪氏を継ぎ、信濃高遠に居る。1565(永禄 8)
	雪姫を娶る。
	 1573年、信玄が病死して武田氏を継ぐ。1574(天正 2)美濃明
	智城、三河野田新城、遠江高天神城(タカテンジンジョウ)を攻める。
	 1575(天正 3)前将軍足利義昭(ヨシアキ)に応じ再び三河を侵し長
	篠城を囲むが、織田信長・徳川家康(イエヤス)の連合軍に設楽原で
	大敗し、宿将多数を失いのち振わなくなる。
	 北条氏政(ウジマサ)の妹を娶り、国勢の挽回を期する。1577(天
	正 5)信長の講和の申込を拒否し、1578(天正 6)遠江に家康と
	対陣、氏政とも義絶。1579(天正 7)江尻に家康と対陣、家康と
	和睦した氏政と駿河に戦う。1580(天正 8)駿河を侵し、家康・
	氏政らと戦う。1581(天正 9)家康に高天神城を攻められて遂に
	敗れる。信長の人質勝長を返し、韮崎に新府城を築き信長の来
	攻に備える。
	 1582(天正10)家臣木曾義昌が信長に、穴山信君が家康に通じ、
	これを討とうと2万の兵を率いて出陣するが、一族・家臣が離
	散し、甲斐国都留郡に小山信茂を頼るが拒まれ、天目山の麓で
	滝川一益(カズマス)に包囲され自刃、ここに武田氏が滅ぶ。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
	(2)武田信玄の4子。
	(16)武田信玄の第2子。
たけだ ぎょうてんし
	武田 仰天子
	1854(嘉永 7. 7.25)
	1926. 4.14(大正15)
	◇小説家。本名は穎(エイ)。大阪堂島生れ。
	(3)本名穎。生年は1854(安政元):誤、没日は 4.14。
	(5)本名頴(エイ)。生年は1854(嘉永 7)、没日は 4.14。
	(9)生年は1854(安政元):誤、没日は 4.10。
	(11)本名頴。生年は1854(嘉永 7)、没日は 4.14。
	(13)本名頴。生年は1854(安政元):誤、没年不詳。
	(*)1854は嘉永 7、11.27より安政元。
たけだ こううんさい《たけだ かううんさい》
	武田 耕雲斎
	1803(享和 3)
	1865(元治 2. 2. 4)
	◇江戸幕末の勤皇家・水戸藩士。名は正生、字は伯道、通称は
	彦九郎・伊賀・修理、号は如雲、隠居後は耕雲斎。水戸藩士跡
	部正続の長男、本家武田正房の嗣子。
	 徳川斉昭に仕え、家老に上る。
	 1864(元治元. 3.)天狗党の藤田小四郎が尊王攘夷の同志を集
	めて筑波山で挙兵し、耕雲斎は推挙されて盟主となる。藩主徳
	川慶篤(ヨシアツ)の弟で京都にいる一橋慶喜に具申しようと、同勢
	400人を具して諸藩の抵抗の少ない中山道(木曾路)を経て上洛
	の途中、加賀藩の本陣に乗り込み降伏、同志とともに越前国敦
	賀で斬られる。
	 1891(明治24)贈正四位。
たけだ こうらい
	武田 交来
	1827(文政10)
	1882.10.22(明治15)
	◇戯作者・劇作家。本名は勝次郎、別称は山閑人・松阿弥(松
	阿彌)。江戸生れ。
	(9)生年は1819(文政 2. 1.16)。
	(13)生年は1827(文政10)。
たけだ しげたろう
	武田 繁太郎
	1919. 8.20(大正 8)
	1986. 6. 8(昭和61)
	◇小説家。
たけだ しんげん
	武田 信玄
	1521(大永元)
	1573(元亀 4. 3.13)
	◇戦国時代の大名。名は晴信(ハルノブ)、幼名は太郎・勝千代、
	号は徳栄軒、法名は法性院信玄。甲斐国石水寺生れ。武田信虎
	(ノブトラ)の長子、母は大井信達の娘。武田義清・勝頼(カツヨリ)(4
	子)・信清(6男)の父。
	 1536(天文 5)元服、将軍足利義晴の偏諱を受けて晴信と改名、
	従五位下・大膳大夫。1541(天文10. 6.)父信虎を駿河の今川氏
	に追放し自立。
	 1542(天文11. 6.)諏訪大社の大祝諏訪氏の内訌に乗じ、信濃
	に出兵し妹婿諏訪頼重を滅ぼす。1544(天文13. 4.)板垣信方を
	郡代とする。箕輪の福与城を攻めて藤沢頼親を降伏させる。
	1546(天文15. 3.)佐久郡の内山城を攻めて大井貞清を追放する。
	1547(天文16. 8.)佐久郡の志賀城を攻めて笠原清繁父子と管領
	上杉憲政の援軍を敗走させる。1548(天文17. 1.)小縣郡小田原
	で村上義清(ウジキヨ)と戦い、戦傷を受け、板垣信方らは戦死。
	同年7月、小笠原長時(ナガトキ)を筑摩郡塩尻峠で撃破。さらに
	1550(天文19. 7.)長時を筑摩郡林城に撃破。1552(天文21.11.)
	長時は長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に走る。1553(天文22. 4.)
	義清を葛尾城に攻撃し越後に追う。
	 この間、1553〜1564(天文22〜永禄 7)五度、川中島で上杉謙
	信と合戦をする。
	 1554(天文23)駿河国善徳寺で北条氏康(ウジヤス)・今川義元と
	会し、三氏同盟が成立。義元敗死後、今川氏との和親を説く嫡
	子義清と対立、1567(永禄10)義清を自殺させ、高遠城主武田勝
	頼を継嗣とする。1568(永禄11)徳川家康と約し駿河に侵攻、今
	川氏真(ウジザネ)は北条氏に援けを求める(三氏同盟の解消)。さ
	らに遠江に侵入したため、家康は違約に怒り信玄を府中に攻め、
	信玄は甲府に帰る。翌年10月北条氏の本拠小田原城を攻撃、翌
	月駿河に入る。1571(元亀 2)家康と三河吉田城に戦うが、発病
	して撤収。
	 のち北条氏政と和し、将軍足利義昭・本願寺の顕如・朝倉氏
	・浅井氏ら反信長勢力と結ぶ。1572(元亀 3.12.)遠江国三方ヶ
	原で織田軍の徳川家康に大勝。三河国野田城を攻略中に発病、
	1573(元亀 4. 2.)帰路の途中、伊奈郡駒場(コマンバ)で病没。
	(2)'53……。同年以後'55(弘治 1)・'57・'61(永禄 4)・'64の5
	回川中島に上杉謙信と戦い……。
	(16)没日は1573(天正 1. 4.12)。
	(17)没日は1573(元亀 4. 3.13)。
	 天文二十年(一五五一)から永禄七年(一五六四)にわたり五回、
	川中島において甲越両軍の大きな合戦があった。:誤(1553から)。
	(*)1521(永正18,大永元)。1573(元亀 4)は 7.28から天正元。
たけだ たいじゅん
	武田 泰淳
	1912. 2.12(明治45)
	1976.10. 5(昭和51)
	◇小説家・中国文学研究家。幼名は覚(サトル)。父は東京・東片
	町潮泉寺の大島泰信、父の師武田芳淳の遺言により武田姓を嗣
	ぐ。東京本郷生れ。1931(昭和 6)東京大学支那文学科に入学し
	たが、半年にして思想問題で検挙され中退。1944. 6.(昭和19)
	上海に渡り、1946. 4.(昭和21)帰国。
たけだ ちゅうや
	武田 忠哉
	1904. 5.19(明治37)
	1944. 5. 7(昭和19)
	◇ドイツ文学者。
たけだ としひこ
	竹田 敏彦
	1891. 7.15(明治24)
	1961.11.15(昭和36)
	◇小説家・劇作家。本名は敏太郎。金光教の信者。
たけだ としゆき
	竹田 敏行
	1913. 3.11(大正 2)
	1967.11.24(昭和42)
	◇小説家。
たけだ のぶとら
	武田 信虎
	1494(明応 3)
	1574(天正 2)
	◇戦国時代の大名。武田信玄(シンゲン)の父。
たけだ のぶよし
	武田 信義
	1128. 9.11(大治 3. 8.15)
	1186. 3.31(文治 2. 3. 9)
	◇平安末期・鎌倉前期の武将。名は太郎。甲斐源氏源清光の子、
	母は手輿遊女。一条忠頼の父。
たけだ はるのぶ
	武田 晴信
	⇒たけだ しんげん(武田 信玄)
たけだ ひさよし
	武田 久吉
	1883. 3. 2(明治16)
	1972. 6. 7(昭和47)
	◇登山家・植物学者。父は英国公使アーネスト・サトウ。
たけだ ゆうきち
	武田 祐吉
	1886. 5. 5(明治19)
	1958. 3.29(昭和33)
	◇国文学者。
たけだ ゆきお
	武田 雪夫
	1902. 9.24(明治35)
	1964. 9. 6(昭和39)
	◇児童文学作家。
たけだ りんたろう
	武田 麟太郎
	1904. 5. 9(明治37)
	1946. 3.31(昭和21)
	◇小説家。戸籍上の誕生日は 5.15。堺市戎之町警察所長の長
	男として大阪に生れる。大阪今宮中学校・第三高等学校を経て
	東京大学仏文科に中退。
	 ブロレタリア作家して認められる。文芸雑誌「人民文庫」を主
	宰。
たけだのみこ
	竹田 皇子
	生年不詳
	没年不詳
	◇第33代推古天皇の長男。
	  587年、蘇我馬子(ウマコ)らと物部守屋(モリヤ)攻撃に参加。
	 聖徳太子・押坂彦人(オシサカノヒコヒトノ)大兄皇子(敏達天皇の子)・
	穴穂部(アナホベノ)皇子らとともに推古朝の有力な皇位継承者の一
	人。
	 母推古天皇より先に没。
たけちのおうじ《たけちのわうじ》
	高市 皇子
	⇒たけちのみこ(高市 皇子)
たけちのくろひと
	高市 黒人
	生年不詳
	没年不詳
	◇奈良朝前期の万葉歌人。柿本人麻呂よりやや遅れた宮廷歌人。
たけちのみこ
	高市 皇子
	 654(白雉 5)
	 696[持統10. 7.10]
	◇天武天皇の長子、母は胸形君徳善の娘尼子娘。長屋王・鈴鹿
	王の父。
	 壬申の乱に活躍。皇太子の草壁親王の死後、 690[持統 4]持
	統天皇が即位し、太政大臣。卑母のため皇太子に成れなかった
	という。
たけとみ がぜん
	武富 瓦全
	1871(明治 4. 2.21)
	1911.12.29(明治44)
	◇俳人。本名は春二。水落露石(ミズオチ・ロセキ)の従弟。
たけとも そうふう
	竹友 藻風
	1891. 9.24(明治24)
	1954.10. 7(昭和29)
	◇大正・昭和期の詩人・英文学者。本名は乕雄(トラオ)。大阪市
	生れ。同志社を経て京都帝国大学英文科選科に学ぶ。上田敏の
	遺志を継いで、1942(昭和17)ダンテの『神曲』を完訳。
	(1)本名は乕雄。
	(2)本名虎雄。(学)コロンビア大学。
	(3)本名虎雄。
	(5)本名は乕雄(トラオ)。
	(9)本名は乕雄。
	(11)本名乕(トラ)雄。
たけなか いく
	竹中 郁
	1904. 4. 1(明治37)
	1982. 3. 7(昭和57)
	◇詩人。本名は育三郎。神戸市生れ。関西学院英文科卒業。
たけなか きゅうしち
	竹中 久七
	1907. 8. 3(明治40)
	1962. 1.17(昭和37)
	◇詩人・評論家。
	(3)誕生日は 8.30。
	(5)誕生日は 8. 3。
	(9)誕生日は 8. 4。
	(11)誕生日は 8. 3。
たけぬき かすい
	竹貫 佳水
	1875. 3.10(明治 8)
	1922. 7.12(大正11)
	◇小説家・編集者。本名は直次、のち直人と称した。
たけの とうすけ
	武野 藤介
	1899. 4. 3(明治32)
	1966. 7.26(昭和41)
	◇小説家・評論家。本名は真寿太(マスタ)。
たけのうち げんどう
	竹内 玄同
	⇒たけうち げんどう(竹内 玄同)
たけのうち さだとも
	竹内 貞基
	1813(文化10)
	1863. 7.13(文久 3. 5.28)
	◇江戸幕末の航海技術者。通称は卯吉郎、号は清潭。初め山本
	氏を称し、のち竹内家を継ぐ。竹内良太夫の次男。
たけのうち しきぶ
	竹内 式部
	1712(正徳 2)
	1768. 1.24(明和 4.12. 5)
	◇江戸中期の国学者・尊王論者・垂加(スイカ)神道家。名は敬持
	(タカモチ)、通称は一学・式部、号は正庵・羞庵・周斎・周庵。越
	後国蒲原(カンバラ)郡新潟生れ。医者竹内宗詮の子。
	 1728(享保13)上洛して大納言徳大寺実憲の家僕となり、その
	間に山崎闇斎(アンサイ)を学祖とする崎門(キモン)学派で垂加(スイカ)神
	道を学ぶ。
	 その才能を徳大寺公城に認められ、桃園天皇側近の公卿・朝
	臣を相手に尊王思想を説く。そのため関白近衛内前(ウチサキ)・神
	祇権大副吉田兼雄らから排斥運動が起き、幕府の忌諱に触れて
	1754(宝暦 4)・1759(宝暦 9)の宝暦事件によって、兵法を教え
	たことを理由に畿内(キナイ)・関東から重追放され、伊勢神宮の
	近くに身を寄せる。
	 1766(明和 3)山県大弐や門弟の藤井右門らの明和事件に連坐
	し八丈島流刑となり途中三宅島で病没。
	◎山県大弐・藤井右門とともに三尊王家(サンソンオウカ)の一人。
	 明治になって正四位を追贈。
たけのうち つな
	竹内 綱
	1840. 1.30(天保11.12.26)
	1922. 1. 9(大正11)
	◇明治・大正時代の実業家。宰相吉田茂の実父。土佐藩幡多郡
	宿毛(スクモ)村(現:高知県宿毛市)生れ。
	 土佐藩家老伊賀氏の重臣で、伊賀氏の財政を扱う。戊辰戦争
	で宿毛軍に属し東北へ出征。
	 1870(明治 3)大阪府出仕。1873(明治 6)大蔵省6等出仕、間
	もなく辞職。後藤象二郎の蓬莱社に参画して高島炭鉱を経営。
	 1877(明治10)西南戦争で立志社の挙兵策謀・銃器購入の関与
	が発覚して禁獄1年。
	 1896(明治29)朝鮮半島の京釜鉄道の専務理事。
たけのうち まさし
	竹内 仁
	1898. 8. 8(明治31)
	1922.11.10(大正11)
	◇評論家。旧姓は片山。片上伸(カタガミ・ノブル)の実弟。1917(大
	正 6)竹内氏の養嗣子となる。婚約者の両親を刺殺し、縊死。
たけばやし たかしげ
	武林 隆重
	1672(寛文12)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻、十五両三人扶持。通
	称は唯七(タダシチ)、戒名は刃性春剣信士、吉良家を探索中の変
	名は渡辺七郎右衛門(シチロウエモン)。中国人孟二寛(武林治庵<ジアン>)
	の孫、治庵の子渡辺平右衛門(ヘイエモン)の次男で祖父の姓を継ぐ。
	 吉良家討ち入りでは表門隊。炭小屋に隠れていた吉良上野介
	(コウズケノスケ)義央への一番槍が間十次郎(ハザマ・ジュウジロウ)光興(ミツ
	オキ)、一番太刀が唯七であった。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
	屋敷に預けられ、翌年切腹。介錯(カイシャク)人が首を打ち損ねた
	という話がある。
たけばやし ただしち
	武林 唯七
	⇒たけばやし たかしげ(武林 隆重)
たけばやし ふみこ
	武林 文子
	1888. 7.21(明治21)
	1966. 6.25(昭和41)
	◇随筆家。本名は宮田文子、旧姓は中平。
	 1920(大正 9)武林無想庵(ムソウアン)と結婚、1934(昭和 9)離婚。
	1935(昭和10)貿易商宮田氏と結婚。
たけばやし むそうあん《たけばやし むさうあん》
	武林 無想庵
	1880. 2.23(明治13)
	1962. 3.27(昭和37)
	◇小説家・翻訳家。本名は磐雄(イワオ)のち盛一(養父の名を継ぐ)、
	旧姓は三島。北海道札幌生れ。1884(明治17)五歳で写真師の武
	林盛一の養子となる。東京府立一中・一高を経て東京大学文科
	に進む。1908(明治41)林八重子と結婚。1920(大正 9)中平文子
	(武林文子)と結婚、文子への発砲事件を起し、1934(昭和 9)離
	婚。1938(昭和13)波多朝子と同棲、1941(昭和16)結婚。晩年は
	失明。
たけひさ ゆめじ
	竹久 夢二
	1884. 9.16(明治17)
	1934. 9. 1(昭和 9)
	◇明治末期から大正後期に活躍した情緒的な挿絵画家・詩人。
	本名は茂次郎。岡山県邑久(オク)郡本庄村の造酒屋の次男として
	生れる。
	 実家を離れ姉の婚家に身をよせ、神戸第一中学校に学んだが、
	1901(明治34)上京、1906(明治39)早稲田実業を中退。23歳のと
	き、絵葉書屋「つるや」の看板娘岸たまきと知り合い、翌年結婚。
	1914(大正 3)たまきとともに「港屋」を東京呉服橋に開店、自作
	版画・千代紙・半襟などの小物を販売。この店で画学生笠井彦
	乃と知り合い、まもなく閉店。彦乃の病死後もお葉・山田順子
	と恋愛。
	 信州富士見高原療養所で死去。
	(1)本名は茂次郎。
	(2)本名は茂(モ)次郎。
	(3)本名は茂二郎。
	(5)本名は茂二郎。
	(9)本名は茂次郎。
	(11)本名は茂二郎。
	(13)本名は茂二郎。
	(14)本名は茂二郎。
	(20)本名茂次郎。
	◎東京都文京区弥生に竹久夢二美術館がある。
たけべ あやたり
	建部 綾足
	1719(享保 4)
	1774(安永 3. 3.18)
	◇江戸中期の文人・読本(ヨミホン)作者。本姓は喜多村のち建部と
	改姓、幼名は金吾(キンゴ)、のち久域(ヒサムラ)、俳号は葛鼠(カツソ)
	・都因・涼袋(リョウタイ)・涼(「代」冠+「巾」)(リョウタイ)、画号は毛倫
	・建凌岱(ケンリョウタイ)・建長江・寒葉斎、和歌などでは綾足・
	綾太理・太気綾足を用いた。庵号は吸露庵。祖父堅物(ケンモツ)政
	広の妻は山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)の次女鶴(ツル)であるから、綾足は
	素行の曾孫。
たけまさ えいさく
	武政 英策
	1907. 9.18(明治40)
	1982.12. 1(昭和57)
	◇作曲家。愛媛県喜多郡鹿川生れ。
	 東京電気学校、卒業。
	 1937(昭和12)NHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者。
	 『南国土佐を後にして』作詞・作曲。
	◆墓は高知市の宗安寺。
たけまた まさつな
	竹俣 当綱
	1719(享保 4)
	1793(寛政 5)
	◇江戸中・後期の米沢藩家老。
	 藩主上杉治憲を補佐、藩の財政を再建する。
たけむら こうとう
	竹村 黄塔
	1865(慶応元.11.22)
	1901. 2. 1(明治34)
	◇俳人。本名は鍛、旧姓は河東(カワヒガシ)、母方の竹村を継ぐ。
	河東碧梧桐(ヘキゴトウ)の兄。
たけむら しゅうちく
	竹村 秋竹
	1875(明治 8)
	1915.12.27(大正 4)
	◇俳人。本名は修、別号は修竹。
たけむら としお
	竹村 俊郎
	1896. 1. 3(明治29)
	1944. 8.17(昭和19)
	◇詩人。山形県生れ。山形中学卒業。
	(5)竹村 俊郎(たけむら としお)。
	(13)竹村 俊郎(たけむら としろう)。
たけむら ひろし
	竹村 浩
	1901. 8. 1(明治34)
	1925. 8.31(大正14)
	◇詩人。上尾久の泥沼で変死。
[1]たけもと ぎだゆう
	竹本 義太夫(初代)
	1651(慶安 4)
	1714(正徳 4. 8.)
	◇江戸時代の義太夫節の開祖。本名は五郎兵衛。天王寺村の百
	姓の子。
[2]たけもと ぎだゆう
	竹本 義太夫(2代)
	1691(元禄 4)
	1744(延享元. 7.28)
	◇江戸時代の義太夫節の太夫。本名は水原長四郎、通称は中紅
	屋(カナモミヤ)長右衛門、号は文正翁。初代[1]竹本義太夫の門人。
たけやま ひでこ
	武山 英子
	1881. 1. 2(明治14)
	1915.10.26(大正 4)
	◇歌人。金子薫園(クンエン)の妹。腹膜炎にて夭折。
たけやま みちお
	竹山 道雄
	1903. 7.17(明治36)
	1984. 6.15(昭和59)
	◇ドイツ文学者・小説家・評論家。大阪生れ。東京大学独文卒
	業。『ビルマの竪琴』が有名。
たごう とらお
	田郷 虎雄
	1901. 5.25(明治34)
	1950. 7.12(昭和25)
	◇劇作家・小説家。
だざい おさむ《だざい をさむ》
	太宰 治
	1909. 6.19(明治42)
	1948. 6.13(昭和23)
	◇小説家。本名は津島修治(シュウジ)。青森県北津軽郡金木町大
	字金木字朝日山生れ。大地主の六男。
	 青森中学校・弘前高等学校を経て、1930(昭和 5)東京大学仏
	文科に入学するが中途退学。
	 1929.12.10(昭和 4)弘前高等学校在学中、カルチモン(睡眠
	薬)を飲んで昏睡状態となるが、一命をとりとめる。
	 1930. 1.28(昭和 5)銀座裏のバー「ホリウッド」の女給田辺あ
	つみと江ノ島でカルチモンを飲み投身自殺をはかって、彼のみ
	漁船に救われる。
	 1935(昭和10)「都新聞」の入社試験に落ち、鎌倉八幡宮の山中
	で靴紐で縊死(イシ)をはかり、紐が切れて失敗。
	 1931(昭和 6)以来同棲していた小山初代(芸者紅子)と1937
	(昭和12)水上温泉でカルチモンを飲み自殺を企てたが二人とも
	未遂、のち離別。
	 1939(昭和14)石原美知子と結婚。
	 十三日深更、山崎富栄とともに玉川上水に投身。十九日早朝、
	井の頭公園の万助橋下流で死体が発見。二人は赤い腰紐で結び
	付けられていた。
	 坂口安吾・織田作之助らとともに無頼派の代表作家とされる。
	 作品は1936(昭和11)処女短編集『晩年』・『走れメロス』・
	『桜桃』・『人間失格』・1947(昭和22)『斜陽』など。
	◆桜桃忌(太宰忌)[ 6.19]東京都三鷹市下連雀の黄檗宗禅林寺。
	好物だった桜桃(オウトウ)の季節と短編『桜桃』から。
	◎2004.10.(平成16)生家、国の重要文化財に指定。
	 参照⇒『百科辞書』しゃようかん(斜陽館)
	◎『佳日』のモデルは塩月赳(シオツキ・タケシ)。
だざい しもん
	太宰 施門
	1889. 4. 1(明治22)
	1974. 1.11(昭和49)
	◇フランス文学者。
だざい しゅんだい
	太宰 春台
	1680(延宝 8. 9.14)
	1747(延享 4. 5.30)
	◇江戸中期の漢学者(古学)。名は純、字は徳夫、号は春台・
	紫芝園。信濃国生れ。初め但馬国出石(イズシ)の松平忠徳に仕え、
	のち辞して荻生徂徠(オギュウ・ソライ)に学ぶ。経学にすぐれ、経書
	・経済に通じていた。
たざわ いなふね
	田沢 稲舟
	1874.12.28(明治 7)
	1896. 9.10(明治29)
	◇明治時代の女流小説家。本名は錦(キン)・錦子(キンコ)。山形県
	生れ。1895.12.(明治28)山田美妙と結婚、三ヶ月で別居、1896.
	 3.(明治29)離婚し帰郷。急性肺炎により死去。
	(2)田沢 稲舟(たざわ いなぶね)、生年は1874(明治 7)。
	(3)田沢 稲舟(たざわ いなぶね)、生年は1874(明治 7)。
	(5)田沢 稲舟(たざわ いなふね)、生年は1878(明治11)。
	(9)田沢 稲舟(たざわ いなぶね)、生年は1874(明治 7)。
	(11)田沢 稲舟(たざわ いなふね)、生年は1878(明治11)。
たじま じゅん
	田島 淳
	1898. 1.19(明治31)
	1975. 1.29(昭和50)
	◇劇作家。
	(9)父啓次郎は関東の侠客として有名な大前田(田島)英五郎の
	遠縁になる。
たじま しょうじ
	田島 象二
	1852(嘉永 5)
	1909. 8.30(明治42)
	◇明治前期の戯文家・新聞記者。本姓は伊達(ダテ)、別号は任
	天居士(ニンテンコジ)・酔多道士(スイタドウシ)・行成山房(イキナリサンボウ)
	主人・御門情人。江戸生れ。「団々珍聞(ダンダンチンブン)」編集。
	(2)酔多道士(スイタドウシ)。
	(5)酔多道士(スイタドウシ)。
	(11)酔多居士。
	(13)酔多道士。
たしろ えいすけ
	田代 栄助
	1834(天保 5)
	1885(明治18)
	◇明治時代の秩父事件の指導者。武蔵の人。
	 落合寅市・井上伝蔵らとともに農民負債延期運動の指導者と
	なり、秩父困民党の結成。1884.11. 1(明治17)秩父農民軍総理
	として蜂起、埼玉県の秩父郡一帯を掌握したが、軍隊の出動に
	より約10日間抵抗したが壊滅し逃走、捕われて、翌年死刑。
たぞえ てつじ
	田添 鉄二
	1875. 7.24(明治 8)
	1908. 3. 1(明治41)
	◇社会主義者。熊本県生れ。長崎鎮西学院卒業。
	 1897(明治30)渡米しシカゴ大学神学部に学び、キリスト教社
	会主義者となり、1900(明治33)帰国。「長崎絵入新聞」・「鎮西
	日報」の主筆。
	 1904(明治37)社会主義運動を実践するため上京し、社会主義
	協会に参加。1907(明治40)第2回日本社会党大会で、議会主義
	政策を主張し、直接行動論の幸徳秋水らと対立。
	(2)生年は1875(明治 8)。
	 1898(明治31)シカゴ大神学部に留学……。
	(6)生年は1873。
	 1897年渡米,シカゴ大学に学び……。
	(16)生年は1873(明治 6)。
だだ かんすけ
	陀田 勘助
	1902. 1.15(明治35)
	1931. 8.22(昭和 6)
	◇詩人。本名は山本忠平。日本共産党に入党し活動中逮捕され、
	豊多摩刑務所で獄死。
ただ ぎょさんじん
	多田 漁山人
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治中期の小説家・戯曲家。本名は寛、別号は古木山人。
ただ てつお
	多田 鉄雄
	1887. 8.16(明治20)
	1970.12.11(昭和45)
	◇小説家。
ただ なんれい
	多田 南嶺
	1698(元禄11)
	1750(寛延 3. 9.13)
	◇江戸中期の国学者・故実家・浮世絵草子作者。本姓は源、別
	姓は桂、名は政仲(マサナカ)・義俊(ヨシトシ)、通称は将監(ショウゲン)・
	兵部(ヒョウブ)、号は春塘など。摂津国多田(現:兵庫県川西市)の
	人。
	 壺井義知に入門し古典を学ぶが『旧事紀(クジキ)偽書明証考』
	を著して義絶される。
	 八文字屋自笑の浮世草子・役者評判記を代作したともいわれ
	る。
	(26)生年は、通説では元禄十一年(一六九八)だが、七、八、九
	年などの可能性もある。
ただ ふじ
	多田 不二
	1893.12.15(明治26)
	1968.12.17(昭和43)
	◇詩人。NHKに勤務。
ただ よしとし
	多田 義俊
	⇒ただ なんれい(多田 南嶺)
ただのまんじゅう
	多田 満仲
	⇒みなもとのみつなか(源 満仲)
たちばな あけみ
	橘 曙覧
	1812(文化 9. 5.)
	1868(慶応 4. 8.28)
	◇江戸後期の歌人・国学者。幼名は茂時のち尚事、姓は井手、
	号は黄金舎(コガネノヤ)・藁屋(ワラノヤ)・志濃夫廼舎(シノブノヤ)。
たちばな いとえこ
	橘 糸重子
	1879.10.18(明治12)
	1939. 9. 1(昭和14)
	◇女流歌人・ピアニスト。本名は糸重。
たちばな こうざぶろう
	橘 孝三郎
	1893(明治26)
	1974(昭和49)
	◇国家主義運動家。茨城県生れ。
	 1931(昭和 6)水戸で愛郷塾(アシキョウジュク)を創設。
	 井上日召が血盟団事件で1932. 3.15(昭和 7)自首。日召のあ
	とつぎとして担ぎ出され、塾生を率いて同年 5.15に五・一五
	事件に参加し、まもなく自首。1933(昭和 8)無期懲役。
	◎孝三郎が財閥と政党の癒着を非難した言葉、「三越の屋根に
	ペンペン草が生えても日本は滅びぬが、五百万戸の農家に雨が
	漏っては日本はいったいどうなるか」。
たちばな しゅうた《たちばな しうた》
	橘 周太
	1865(慶応元. 9.15)
	1904. 8.31(明治37)
	◇陸軍軍人。肥前(長崎県)千々和村小倉名生れ。
	 勝山小学校・1877(明治10)長崎中学校、単身上京して二松学
	舎に修学。
	 1881(明治14)陸軍士官学校幼年生徒に合格。
	 1884(明治17)陸軍士官生徒に進級。青森歩兵第五連隊に赴任。
	 1887(明治20)陸軍士官学校、卒業。
	 1891(明治24)東宮(のち大正天皇)侍従武官。
	 1902(明治35)歩兵少佐、名古屋陸軍地方幼年学校長。
	 1904. 3. 6(明治37)日露戦争に従軍。 8.11歩兵第三十四連
	隊(静岡)第一大隊長。遼陽城(リョウヨウジョウ)攻略戦を指揮し、首
	山堡一四八高地で戦死。
	 死後の 8.31、中佐・正六位に追贈、金鵄(キンシ)勲章功四級・
	旭日(キョクジツ)勲章勲四等を授章。
	◎軍神と称賛され、『軍神橘中佐の歌』が作られた。
	 1940(昭和15)橘神社、創建。
たちばな しらき
	橘 樸
	1881.10.14(明治14)
	1945.10.25(昭和20)
	◇大正・昭和期のジャーナリスト・中国研究家。大分県出身。
	第五高等学校中退。
	 中国の奉天(現:瀋陽)で病没。
たちばな そとお
	橘 外男
	1894.10.10(明治27)
	1959. 7. 6(昭和34)
	◇小説家。父は石川県人で陸軍軍人。
	 群馬県立高崎中学校を退学処分。北海道で鉄道員、外人商館
	に勤務、貿易商に従事。
	 21歳の時に罪を犯し刑務所に入る。
	 1938(昭和13)『ナリン殿下への回想』で直木賞を受賞。
	 1940(昭和15)渡満して満州書籍配給会社に勤務。
	(5)没日は 7. 6。
	(11)没日は 7. 9。
たちばな とせこ
	橘 東世子
	1806(文化 3)
	1882.10.(明治15)
	◇女流歌人。
たちばな ほくし
	立花 北枝
	生年不詳
	1718(享保 3. 5.12)
	◇江戸時代の俳人。通称は研屋(トギヤ)源四郎、別号は鳥翠台
	(チョウスイダイ)・寿夭軒(ジュヨウケン)。蕉門十哲の一人。加賀国の在
	に生れ、のち金沢で研刀を業とする。
たちばな みつよし
	橘 三喜
	1635(寛永12)
	1703(元禄16. 3. 7)
	◇江戸前期の神道家。名は光義、また美津与志、号は為証庵な
	ど。肥前国平戸生れ。
	 駿河国府中浅間神社の神主宮内昌与から吉田神道を学び、自
	ら宗源(ソウゲン)神道五十六伝と称して一派をなす。当初、浅草
	で神道講釈を行ない、のち参詣の旅に出る。
	◎のちに吉田家より霊社号に樹霊神を与えられる。
たちばな むねしげ
	立花 宗茂
	1569(永禄12)
	1642(寛永19)
	◇安土桃山・江戸初期の大名。名は宗虎・統虎・正成・親成・
	尚政・俊正・信正・経正と改名、通称は飛騨守。高橋紹連の子、
	戸次道雪の養子。
	 豊臣秀吉の九州平定に従軍し、筑後国柳川13万石。
	 1600(慶長 5)関ヶ原で石田方に付き所領を没収されるが、3
	年後に陸奥棚倉1万石。
	 大坂の陣では徳川家康に味方し、功により1620(元和 6)柳川
	10万9千石に復帰。1631(寛永 8)飛騨守に任官。1638(寛永15)
	幕命により島原追討に従う。
	◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
たちばな むねとし
	橘 宗利
	1892. 3. 3(明治25)
	1959. 7.30(昭和34)
	◇歌人。別名は橘小華。
たちばな もりべ
	橘 守部
	1781
	1849(嘉永 2. 5.24)
	◇江戸後期の国学者・歌人。本姓は飯田、通称は元輔、号は
	池庵・椎本(シイガモト)・蓬壺など。伊勢国朝明(アサケ)郡小向村生
	れ。
	 幼少の時に一家が離散。1797(寛政 9)江戸に出て狂歌師とな
	るが国学に転じ清水浜臣(ハマオミ)らに学ぶ。1809(文化 6)武蔵国
	葛飾(カツシカ)郡内国府間村に移る。1829(文政12)再び江戸に出る。
	 独学で国学を修め『日本書紀』を重視し、当時主流であった
	『古事記』を尊ぶ本居宣長に対抗する一家を形成。
	 著書は『稜威道別(イツノチワキ)』・『稜威言別(イツノコトワキ)』・
	『難古事記伝』・『神代直語』・『橘守部家集』など多数。
	(*)1781(安永10,天明元)。
たちばなのならまろ
	橘 奈良麻呂
	生年不詳
	 757(天平勝宝 9. 7. 4)
	◇奈良中期の官人。橘諸兄(モロエ)の長子、母は藤原不比等(フヒト)
	の娘。
たちばなのはやなり
	橘 逸勢
	生年不詳
	 842(承和 9. 8.13)
	◇平安初期の官僚・書家。橘奈良麻呂の孫、入居(イルイエ)の子。
	  804(延暦23)遣唐使に従い入唐(ニットウ)。 840(承和 7)但馬権
	守。
	  842(承和 9)嵯峨上皇が重態におちいると、伴健岑(トモノコワミネ)
	とともに恒貞(ツネサダ)親王(皇太子)を奉じて変を企てたと阿保
	(アボ)親王に訴えられ(承和の変)、伊豆へ流される途中、遠江
	国板筑駅で病死。これは藤原良房の画策といわれる。
	 嵯峨天皇・空海とともに三筆の一人。隷書に秀で、宮門の榜
	題は多く彼の筆になるという。
たちばなのみちよ
	橘 三千代
	⇒あがたいぬかいのたぢばなのみちよ(県犬養 橘三千代)
たちばなのもろえ
	橘 諸兄
	 684[天武13]
	 757(天平勝宝 9. 1. 6)
	◇奈良時代の廷臣・歌人。初め葛城王、通称は井手左大臣・
	西院大臣。美努(ミヌ)王の子、母は県犬養橘三千代(アガタイヌカイノタチ
	バナノミチヨ)、光明皇后の異父兄。橘奈良麻呂(ナラマロ)の父。
	  736(天平 8)臣籍に下り母の姓を賜り橘宿禰(スクネ)諸兄と改
	名。藤原不比等(フヒト)の四子が相次いで病没したあと、大納言
	・右大臣から正一位左大臣まで進む。玄ボウ・吉備真備(キビノマ
	キビ)らと結び新興勢力を誇る。
	 しかし晩年は 740(天平12)藤原広嗣(ヒロツグ)の乱・恭仁宮(クニ
	キョウ)造営の失敗、大仏建立の困難などや、新たな藤原仲麻呂の
	台頭で不振りであった。
	  756(天平勝宝 8)官を辞する。
	(2)葛城王(カツラギノオウ)。
	(4)葛城(カズラギ)王。
	(6)葛城(カツラギ)王。
	(16)葛城王(カツラギオウ)。
	◎「玄ボウ」の「ボウ」は「(「日」偏+「方」:補助3388)」。
たちはら すいけん
	立原 翠軒
	1744(延享元. 6. 8)
	1823(文政 6. 3.18)
	◇江戸後期の儒学者(朱子学派)。名は万、別号は東里。立原蘭
	渓の子。
たちはら まさあき
	立原 正秋
	1926. 1. 6(大正15)
	1980. 8.12(昭和55)
	◇小説家。本姓は米本(ヨネモト)(妻の姓)。朝鮮大邱生れ。両親と
	も日韓混血。
たちはら みちぞう
	立原 道造
	1914. 7.30(大正 3)
	1939. 3.29(昭和14)
	◇詩人。東京日本橋生れ。母登兎(トメ)は水戸の儒者立原翠軒の
	末裔であるという。府立第三中学校・第一高等学校を経て、
	1934(昭和 9)東京帝国大学建築学科入学、1937(昭和12)卒業。
	◆立原道造忌[ 3.29]。
	(5)没日は 3.29。
	(13)没日は 3.25。
	(16)没日は 3.29。
たつの きゅうし
	辰野 九紫
	1892. 7.16(明治25)
	1962. 8. 6(昭和37)
	◇小説家。本名は小堀龍二。
たつの きんご
	辰野 金吾
	1854(嘉永 7. 8.22)
	1919. 3.25(大正 8)
	◇日本近代建築の先覚者。肥前国唐津藩の足軽同然の下級士族
	の子。辰野隆(ユタカ)の父。
	 城下の私塾の塾頭の時に明治維新を迎える。唐津藩が開いた
	英学校で都落ちしていた英学教師高橋是清に学ぶ。高橋が新政
	府に呼び戻されると、後を追って上京し外人住宅でボーイをし
	て英語を学ぶ。
	 工部寮(東京大学)に補欠で入学し、コンドル(鹿鳴館設計者)
	に建築を学び、1879(明治12)工部省派遣留学生としてイギリス
	に留学。フランス・イタリアを回り1883(明治16)帰国。
	 1884(明治17)工部大学造家学科教授・1886(明治19)工科大学
	(工部大学の後身)建築学科教授・1898(明治31)東京大学工科大
	学学長を歴任。
	 1902(明治35)退官し、翌年辰野葛西建築事務所を創立、1905
	(明治38)大阪辰野片岡建築事務所を創立。
	 1896(明治29)日本銀行本店(旧館)・1914(大正 3)東京駅・
	1909(明治42)両国国技館の設計者。
	 1887(明治20)日本建築学会を結成し『建築雑誌』を創刊、
	1888(明治21)工手学校(現:工学院大学)設立。
	 政界では高橋是清、財界では渋沢栄一にバックアップされた。
たつの ゆたか
	辰野 隆
	1888. 3. 1(明治21)
	1964. 2.28(昭和39)
	◇昭和期のフランス文学者・随筆家。号は隆酔老。東京生れ。
	工学博士辰野金吾(キンゴ)の長男。
	 府立第一中学・第一高等学校を経て、1913(大正 2)東京大学
	法科入学、1916(大正 5)同校仏文科卒業。1921〜1923(大正10
	〜大正12)フランス留学。東京大学にフランス文学の講座を開
	く。1929(昭和 4)文学博士。1932(昭和 7)東京大学教授。1948
	(昭和23)定年退職し東京大学名誉教授。
たつみ せいか
	巽 聖歌
	1905. 2.12(明治38)
	1973. 4. 2(昭和48)
	◇児童文学作家。本名は野村七蔵。岩手県日詰生れ。
	(5)没日は 4. 2。
	(9)没日は 4.24。
	(13)没日記載なし。
たつみ りゅうたろう《たつみ りうたらう》
	辰巳 柳太郎
	1905(明治38)
	1989. 7.29(平成元)
	◇俳優。
	 1929(昭和 4)新国劇創立者の沢田正二郎が急死して、島田正
	吾(ショウゴ)とともに新国劇の中心となる。
だて しゅうこう
	伊達 秋航
	1865(慶応元. 9.)
	没年不詳
	◇俳人。本名は与吉。
だて つなむら
	伊達 綱村
	1659(万治 2)
	1719(享保 4)
	◇江戸前期の仙台第4代藩主。小字は亀千代丸・総次郎、幼名
	は綱基。伊達綱宗の子、生母は三沢初子(浅岡局,浄眼院)。
	 父が所行紊乱(ビンラン)の廉(カド)で幕命により蟄居させられ、
	2歳で家督を継ぐ。
	 後見役で叔父の伊達兵部少輔宗勝(支藩一関藩主)が田村右京
	宗良や奉行原田甲斐宗輔らと謀って宗藩の実権を握り伊達騒動
	となる。しかし、敵対する保守派の老臣伊達安芸宗重は非違を
	幕府に訴え、1671(寛文11)幕府の大老酒井忠清の裁定により宗
	勝は土佐藩にお預けとなり藩領は安堵された。
	 長じて産業の振興をはかり仙台藩中興の主と仰がれる。
	◎伊達騒動は「寛文事件」とも呼ばれ、『伽羅(メイボク)先代萩』
	など歌舞伎・講談に脚色されている。
	 大老の屋敷での裁きの席上、宗重は原田甲斐に斬殺され、甲
	斐もその場で斬死、宗良は閉門となった。
だて とくお
	伊達 得夫
	1920. 9.10(大正 9)
	1961. 1.16(昭和36)
	◇書肆ユリイカの創業者。
たて なおし《たて なほし》
	館 直志
	⇒しぶや てんがい(渋谷 天外)(2代)
[1]だて まさむね
	伊達 政宗
	1353(<南>正平 8,<北>文和 2)
	1405(応永12)
	◇南北朝・室町前期の武将。兵部少輔、大膳大夫。法号は円孝、
	諡号は儀山公。独眼流(ドクガンリュウ)と称される。宗遠の子、長
	女は五郎八姫(イロハヒメ)。伊達氏中興の祖といわれる。
	 陸奥国伊達・信夫郡(福島県北部)を中心として近隣に勢力を
	ふるう。1399(応永 6)鎌倉公方足利満兼が弟満貞(ミツサダ)・満
	直(ミツタダ)に奥羽・出羽を治めさせる。1400(応永 7)会津の蘆
	名(アシナ)義盛とともに乱をおこし、1402(応永 9)上杉氏憲(ウジノ
	リ)(禅秀)らの派遣を受けて降伏する。
	(2)'39関東管領足利満兼が、:年号が誤。1402上杉氏憲らの大
	軍に……。
	(16)「上杉氏憲」の項:1401(応永 8)年関東管領満兼の命によっ
	て伊達正宗を討って…….
[2]だて まさむね
	伊達 政宗
	1567(永禄10. 8.)
	1636(寛永13. 5.24)
	◇戦国・江戸前期の大名。幼名は梵天丸・藤次郎、通称は
	越前守・陸奥守・少将、号は貞山。名は[1]伊達政宗に由来す
	る。米沢生れ。出羽国米沢の城主伊達左京大夫輝宗の長男。
	 5歳の時、天然痘で右目を失う。
	 1577(天正 5)元服し藤次郎政宗と名乗る。1579(天正 7)陸奥
	三春城主田村清顕の娘愛姫(メゴヒメ)(陽徳院)と結婚。1584(天正
	12.10.)家督を相続。1585(天正13)安達郡小浜城主大内定綱を
	追い払い東安達(塩松)を領する。父が二本松城主畠山義継に討
	たれ、蘆名・佐竹を攻める。1586(天正14)二本松(西安達)を討
	ち、領する。1588(天正16)田村家を掌握。1589(天正17. 6.)蘆
	名盛重(アシナ・モリシゲ)を会津黒川城に攻め常陸に追い払い、白河
	の結城義親(ユウキ・ヨシチカ)を破る。同年10月須賀川二階堂氏を滅ぼ
	し、佐竹氏を仙道(センドウ)(福島県中通り)から排除する。
	 1590(天正18. 6.)小田原が降参し、秀吉から会津・岩瀬・安
	積(アサカ)を没収され、田村・安達・伊達・信夫(シノブ)・刈田(カツ
	タ)・柴田・伊具・亘理(ワタリ)・名取・宮城・黒川・宇多・置賜
	の郡が安堵される。葛西・大崎一揆により、1591(天正19. 9.)
	伊達・信夫・安達・田村・刈田・置賜が没収され、葛西・大崎
	の旧領を与えられて米沢から玉造郡岩出山に移る。1592(天正
	20. 4.)文禄の役に朝鮮に出兵。
	 秀吉の没後、長女五郎八(イロハ)を徳川忠輝(家康の6男)と婚
	約させ、徳川家に接近。1600(慶長 5)関ヶ原の戦で上杉領白石
	城を陥落させ、刈田郡を与えられ60万石となる(のち近江・常陸
	に2万石を給され、62万石)。1601(慶長 6)仙台城を建設を着
	手、翌年米沢を蒲生氏郷に譲って移住。
	 1613(慶長18)イスパニアの宣教師ルイス・ソテロを正使に立
	て、支倉常長(ハセクラ・ツネナガ)を副使とし、メキシコ、イスパニア
	を経てローマに派遣する。
	 江戸の桜田屋敷で死去。
	(17)これと前後して白川義親・石川昭光を服属させた。
	◎19歳で家督を継いだ時、母は弟を推挙した。
	 24歳の小田原参陣をめぐって母と争い、母に毒を盛られ、一
	命を取り止めた政宗は弟を斬殺し母を実家の山形(最上家)に追
	放した。参陣に遅れた政宗は手討ち覚悟の白装束で秀吉の前へ
	出ている。
だて みのる
	伊達 豊
	1897. 5. 7(明治30)
	1961.10.12(昭和36)
	◇児童劇作家。
だて むねなり
	伊達 宗城
	1818
	1892(明治25)
	◇江戸幕末の伊予宇和島第8代藩主・明治時代の官吏。幼名は
	亀太郎、通称は知次郎・兵五郎、号は藍山。幕臣山口直勝の子。
	伊予宇和島藩家臣伊達寿光の養子、のち改めて藩主伊達宗紀の
	養子。
	 洋学を重んじて先代からの藩政改革を推進。
	 将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立。井伊大老の安政五か国条
	約調印を非難したこととで譴責され隠居。その後も天皇を首長
	とする連邦国家を構想し、島津久光・山内豊信らと公武合体を
	推進。
	 明治維新後、民部卿兼大蔵卿、1871(明治 4)欽差大使として
	清国に使し、日清修好条規を締結。
	 修史局副総裁となり松平慶永・池田茂政とともに『徳川礼典
	録』を編纂。
	(2)生年は1817(文化15)。
	(4)生年は1818。
	(*)1818(文化15,文政元)。
だて むねはる
	伊達 宗春
	1682(天和 2)
	1737(元文 2)
	◇江戸前・中期の伊予国吉田藩主。名はのち村豊、通称は左京
	亮。宇和島藩主伊達秀宗の家臣伊達宗職の子、吉田藩主伊達宗
	保の養子。
	 1701(元禄14. 2.)幕府から宗春は上皇の院使饗応役に、浅野
	内匠頭長矩(タクミノカミ・ナガノリ)は天皇の勅使饗応役に任ぜられる。
	 3.14の長矩の吉良上野介義央(コウズケノスケ・ヨシナカ)への刃傷(ニンジョ
	ウ)の際、取り押えに加わっている。
たていし みわ
	立石 美和
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治末期から大正初期の劇作家・小説家。
たての のぶゆき
	立野 信之
	1903.10.17(明治36)
	1971.10.25(昭和46)
	◇小説家。千葉県五井町生れ。「戦旗」編集長、日本プロレタリ
	ア作家同盟の書記長。1931(昭和 6)治安維持法違反で検挙され、
	裁判になったが転向を表明して、懲役二年執行猶予五年の判決
	を受ける。
	(5)誕生日は10.17。昭和五年五月、治安維持法違反で検挙され、
	……。
	(13)誕生日は 9.18。
たてばやし かげい
	立林 何(「臼」冠+「巾」)
	生年不祥
	没年不祥
	◇江戸中期の画家。名は立徳、号は喜雨斎太清。加賀の人。
	 江戸に出て尾形光琳の門に入り、渡辺始興(シコウ)とともに光
	琳派の祖述者として各地に光琳派を発展させる。
	◎伝記には諸説あり、医を業とし江戸で白井宗謙と改名したと
	もいう。
たてやま かずこ
	館山 一子
	1896. 2.28(明治29)
	1967.11.14(昭和42)
	◇歌人。本名は日暮いち。1928(昭和 3)田辺駿一(シュンイチ)と結
	婚、まもなく離婚。
	(1)誕生日は 2.28。
	(3)誕生日は 3.21。
	(9)誕生日は 3.21。
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