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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6301.03

                 人   名   辞   典    《た》       編集:獨  澄旻

-------- た ----------------------------------------------------
たあ しんきょう《たあ しんけう》
	他阿 真教
	1237(嘉禎 3)
	1319(文保 3. 1.28)
	◇鎌倉時代の時宗(ジシュウ)の僧・時宗第二祖(遊行派<ユギョウハ>の
	開祖)・歌人。俗姓は源氏、別名は心阿、法号は真教房蓮阿の
	ち他阿弥陀仏(他阿)。京都の人。
	 はじめ浄土宗の僧であったが、1277(建治 3)一遍の門下とな
	り、一遍に従って諸国を遊行。
	 1289(正応 2)師の没後も教化事業を継承して宗門をまとめ民
	衆を教化。兵庫(神戸市)の真光寺(シンコウジ)を大道場にし、京都
	(下京区)に金光寺(コンコウジ)、藤沢に無量寺など多くの寺院を建
	立、二祖遊行上人と呼ばれる。
	 1303年、相模の当麻金光院に道場を営み、智得に遊行を譲っ
	て同寺で死去。
	 和讃(ワサン)『往生讃』や『他阿上人法語』など法語・家集が
	ある。
	(*)1303(乾元 2,嘉元元)。
	◎『絵詞伝』は前4巻が一遍上人、後6巻が他阿の事績に当て
	られている。
たいいんくん《たいゐんくん》
	大院君
	1820(文政 3)
	1898(明治31)「光武 2」
	◇朝鮮李朝末期の政治家。朝鮮読みは「テウオングン」。名は興
	宣君(「日」冠+「正」:補助3412)応(シオウ)。朝鮮王第26代李太王煕
	(高宗)の父。
	 哲宗に子がなく、王室の内紛に乗じて第2子の命福(李太王)
	を1864年王位につけ、自らは興宣大院君となり執政として実権
	を掌握。鎖国の強行・キリスト教の弾圧など排外攘夷政策を行
	う。
	 1873.12.(明治 6)閔妃(ビンビ;高宗の妃)一派(開化派)に政権
	を奪われ失脚。1882. 7.(明治15)軍制を不満とした軍の暴動に
	乗じ閔派打倒のクーデターを起こし(壬午の変)、 8.26清国軍
	により中国河北省保定府に拉致幽閉。1885. 9.(明治18)赦免さ
	れ10月帰国。
	 1894(明治27)東学党の乱による日清開戦の直後に日本と結ん
	で政権を取るが三国干渉で間もなく失脚。閔派(事大党)が親露
	政策を取ったため、1895(明治28)再び日本と結んで乙未(イツビ)
	政変(閔妃暗殺事件)を起こすがロシアの干渉で失敗。
	◎清国軍に拉致されたのは、清国皇帝が冊封した朝鮮国王を退
	けたのが皇帝を軽んずる犯罪だとされたため。また、赦免は朝
	鮮がロシアに接近したため、政敵として牽制する目的であった。
	◎「大院君」は李朝朝鮮国王の生父の尊称。
だいかく
	大覚
	1297(永仁 5)
	1364(<南>正平19,<北>貞治 3. 4. 3)
	◇南北朝時代の僧侶(法華宗)。名は妙実。
	 はじめ真言宗の僧であったが、のち改宗して日像の弟子とな
	る。
たいがく しゅうそう《たいがく しうそう》
	大岳 周崇
	1345
	1423(応永30. 9.14)
	◇室町初期の臨済宗僧侶。字は大岳、号は全愚道人。阿波の人。
	(*)1345(<南>興国 6,<北>康永 4,<北>貞和元)。
だいかく ぜんじ
	大覚 禅師
	⇒らんけい どうりゅう(蘭溪 道隆)
たいぎ
	太祇
	⇒たん たいぎ(炭 太祇)
たいけんもんいん しょうし《たいけんもんゐん しやうし》
	待賢門院 璋子
	1101(康和 3)
	1145
	◇鳥羽天皇の皇后。名は璋子(ショウシ)、藤原(フジワラノ)璋子とも。
	権大納言藤原公実の女(ムスメ)、母は藤原隆方の娘光子、崇徳天
	皇・後白河天皇の母。養母は祇園女御(ギオンノニョウゴ)。
	 白河法皇の猶子となり、1117(永久 5)入内。1118年、皇后。
	1145年、院号宣下。
	(*)1118(永久 6,元永元),1124(保安 5,天治元),1145(天養 2,
	久安元)。
だいご てんのう《だいご てんわう》
	醍醐 天皇
	 885(元慶 9. 1.18)
	 930(延長 8. 9.29)
	◇第60代天皇。名は敦仁(アツギミ)、また維城・山科帝・小野帝
	・延喜帝、法諱は金剛宝・宝金剛。宇多天皇の第1皇子、母は
	藤原高藤の娘胤子(インシ)、敦実(アツミ)親王の兄(同母)。
	  893(寛平 5)立太子。 897(寛平 9)元服し、同日即位。 899
	(昌泰 2)藤原時平(トキヒラ)を左大臣、菅原道真(スガワラ・ミチザネ)を
	右大臣とする。 901年、道真が左遷され藤原氏の進出が決定的
	となる。 909(延喜 9)時平の没後はその弟藤原忠平(タダヒラ)の
	補佐を受ける。 930(延長 8)朱雀天皇に譲位(即位は11.21)し、
	7日目に死去。
	 在位中、『日本三代実録』・『古今和歌集』・『延喜格式』
	などの編纂を命じる。「延喜の治」と称されるが律令制の完成と
	ともに解体も始まる。
	 即位: 897(寛平 9. 7.13)、退位: 930(延長 8. 9.22)。
	(2)山科帝。
	(4)後山科帝。
	(*) 901(昌泰 4,延喜元)。
たいこう じょせつ《たいかう じよつせ》
	大巧 如拙
	⇒じょせつ(如拙)
だいこく こうだゆう《だいこく かうだいふ》
	大黒 光太夫
	⇒だいこくや こうだゆう(大黒屋 幸太夫)
だいこくや こうだゆう《だいこくや かうだいふ》
	大黒屋 幸太夫
	1751
	1828(文政11)
	◇江戸後期の船頭。通称は大黒光太夫。伊勢国河曲郡の人。商
	家亀やの次男で、廻漕業大黒屋の養子。
	 1782(天明 2. 9.)伊勢亀山の彦兵衛の神昌丸で伊勢白子浦よ
	り紀州藩米を積み出港、乗員16人とともに江戸へ廻漕中、台風
	に遭遇。8ヶ月漂流の後、1783(天明 3)アレウト諸島(アリュー
	シャン列島)アムチトカ島に漂着。在島4年の間に壊血病で仲
	間を失い8人となる。
	 帰国の請願のためカムチャツカに渡り、総督府のあるイルク
	ーツクに移される。植物学者キリル・ラックスマン教授の計ら
	いで首都ペテルスブルクに至り、1791(寛政 3. 6.)女帝エカテ
	リーナ2世に謁見、帰国の許可を得る。しかし、キリスト教に
	入った2名は現地に留まることになる。
	 1792(寛政 4. 9.)アダム・ラックスマン(キリルの子)が通商
	を求めて根室弁天島に来航した際、他2名とともに送還される
	(1名はまもなく死亡)。1793(寛政 5)江戸に移され、江戸雉子
	橋外の厩舎に留めおかれ、老中松平定信らの取り調べを受け、
	外国の見聞を語らぬよう命ぜられ、番町で監禁同様に居住し手
	当を受ける。
	(2)(生)伊勢国若松村。
	(4)伊勢国の人。
	(6)伊勢国の漁港白子の船頭。
	(16)伊勢国河曲郡の人。
	(*)1751(寛延 4,宝暦元)
たいしょう てんのう《たいしやう てんわう》
	大正 天皇
	1879. 8.31(明治12)
	1926.12.25(大正15)
	◇第123代天皇。名は嘉仁(ヨシヒト)・明宮(ハルノミヤ)。明治天皇の第
	3皇子、母は柳原光愛の娘愛子(ナルコ)。皇后は貞明(テイメイ)皇后、
	迪宮裕仁(ミチノミヤ・ヒロヒト)親王(昭和天皇)・秩父宮雍仁(ヤスヒト)親王
	・高松宮宣仁(ノブヒト)親王・三笠宮崇仁(タカヒト)親王の父。
	 1889(明治22)立太子。1900. 5.10(明治33)九条道孝公爵の娘
	節子(サダコ)(貞明皇后)と結婚。
	 1912. 7.30(明治45)明治天皇の死とともに践祚(センソ)。1915.
	11.10(大正 4)京都御所で即位の大礼を挙行。
	 病弱・脳病により、1921.11.25(大正10)皇太子裕仁親王を摂
	政に任命。
	 葉山御用邸で崩御(ホウギョ)。
	 即位:1915.11.10(大正 4)、退位(死去):1926.12.25(大正15)。
	◆陵墓は東京都八王子市長房町の多摩陵、1927. 2. 8(昭和 2)
	奉葬。
	◎即位の大礼は、1914. 4.11(大正 3)昭憲皇太后の死去のため
	当初の予定より延期された。
	◎東京都杉並区堀ノ内3丁目にある宗延寺の客殿は大正天皇の
	御産殿を移築したもの。
だいどう いちい
	大道 一以
	1292(正応 5)
	1370
	◇京都五山の一つ東福寺(トウフクジ)の僧。
	 淡路の安国寺に住したとき、画僧明兆(ミンチョウ)の師となる。
	(*)1370(<南>正平25,<南>建徳元,<北>応安 3)。
だいとう じろう
	大藤 治郎
	1895. 2.12(明治28)
	1926.10.29(大正15)
	◇詩人。
だいどうじ まさしげ
	大道寺 政繁
	1533(天文 2)
	1590(天正18)
	◇戦国時代の武将。通称は駿河守。
	 北条氏康・氏政・氏直(小田原城主)の3代に仕える。
	 1590(天正18)小田原征伐の際、豊臣勢により政繁が守る上野
	の松井田城が 4.20落城。前田利家に息子を差し出し、北条攻
	めの道案内を務める。川越城が落城した後、殺害(一説に自殺)。
だいどうじ ゆうざん《だいだうじ いうざん》
	大道寺 友山
	1639(寛永16)
	1730(享保15)
	◇江戸中期の軍学者。名は重祐、通称は孫九郎、号は知足軒。
	越前藩士繁久の子。山城国伏見の人。
	 初め松平忠輝に仕え、小幡景憲・北条氏長・山鹿素行らに軍
	学(甲州流兵法)を学ぶ。
	 浅野氏・会津松平氏・越前松平氏など諸藩に招かれて軍学を
	講じる。
	 著書は『武道初心集』・『岩淵夜話』・『落穂集』など。
だいとくいん《だいとくゐん》
	台徳院
	⇒とくがわ ひでただ(徳川 秀忠)
だいなんこう
	大楠公
	⇒くすのき まさしげ(楠木 正成)
だいにのさんみ
	大弐三位
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の歌人。本名は藤原賢子(ケンシ)、藤三位(トウサンミ)とも。
	藤原宣孝(ノブタカ)・紫式部の娘。藤原定頼(サダヨリ)と交渉があっ
	たが、藤原兼隆(カネタカ)と結婚、その後高階成章(タカシナノナリアキラ)に
	再婚。
たいや ていりゅう《たひや ていりう》
	鯛屋 貞柳
	⇒ながた ていりゅう(永田 貞柳)
たいら ぼんたろう《たひら ぼんたらう》
	平 凡太郎
	1933. 3.10(昭和 8)
	2002.10. 4(平成14)
	◇コメディアン。本名は平正美(タイラ・マサミ)。
	 東洋工業高校卒業。
	 旅回り一座に入る。
	 1953(昭和28)柳家金語楼に弟子入り。
	 肺炎で死去。
たいらのあつもり《たひらのあつもり》
	平 敦盛
	1169
	1184(寿永 3. 2. 7)
	◇平安末期の武将。通称は無官の大夫。平経盛(ツネモリ)の第3子、
	経正(ツネマサ)・経俊の弟。
	 従五位下に叙せられるが、官職がなかった。
	 一ノ谷の戦で平氏一族が船で逃れた際、乗り遅れて源義経(ヨ
	シツネ)の部下熊谷直実(クマガイ・ナオザネ)に討たれる。
	 弱冠16歳で直実と闘った最期の有様は『源平盛衰記』に有名。
	(*)1169(仁安 4,嘉応元)。
たいらのいえさだ
	平 家貞
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期の武将。家房の子、平貞能(サダヨシ)の父。北伊賀を
	根拠地とする武士団の長。
	 1131年、『平家物語』で有名な「殿上闇討」で功をたてる。
	 保元・平治の乱に活躍。
	 平家滅亡の際、子の家次・家実らが源氏に対し伊賀三日平氏
	の乱を起す。
	(*)1131(大治 6,天承元)
たいらのかげきよ《たひらのかげきよ》
	平 景清
	生年不詳
	1196(建久 7)
	◇平安末期・鎌倉初期の武将。通称は悪七兵衛(アクシチビョウエ)。
	藤原忠清の子。
	 摂津で伯父大日坊を殺し、悪七兵衛と称される。
	 1183(寿永 2)平維盛(コレモリ)・知盛(トモモリ)に従い、源義仲(ヨシナ
	カ)・行家と戦う。
	 平家一族とともに西走し各地を転戦。平家滅亡後、1195(建
	久 6)源頼朝(ヨリトモ)に降伏、八田知家(ハッタ・トモイエ)に預けられ断
	食で命を断つ。
	 屋島の戦で美尾谷十郎と接戦、その冑(カブト)の錣(シコロ)を断っ
	た逸話は有名。
たいらのかねたか
	平 兼隆
	生年不詳
	1180(治承 4. 8.)
	◇平安末期の武将。通称は山木判官。平和泉守信兼の子。
	 父に勘当され伊豆国山木郷に流される。
	 1180(治承 4)源頼政(ヨリマサ)の死により伊豆が平時忠(トキタダ)
	の知行国となり、国守平時兼の目代となる。源頼朝(ヨリトモ)の挙
	兵の際に緒戦の血祭りに目され、同年8月三島明神の祭礼の日
	に山木館を急襲され、加藤次景廉・佐々木盛綱らに討たれる。
	(2)(名)山木判官。伊豆国山木郷に流されて……。
	(16)伊豆国山本郷に配流された.山本判官と称した.
たいらのかねもり《たひらのかねもり》
	平 兼盛
	生年不詳
	 990(正暦元.12.28)
	◇平安中期の歌人。篤行王の子、一説に赤染衛門(アカゾメ・エモン)
	の父といわれる。中古三十六歌仙の一。
	 越前権守・山城介・大監物・従五位上駿河守を歴任。
	 「しのぶれどいろに出にけりわが恋は/ものや思ふと人のと
	ふまで」が有名。
たいらのきよもり《たひらのきよもり》
	平 清盛
	1118
	1181(治承 5.閏2. 4)
	◇平安末期の武将。出家して浄海(ジョウカイ)・静海。平相国・浄
	海入道・六波羅殿などと呼ばれる。忠盛(タダモリ)の長子、母は
	祇園女御(ギオンノニョウゴ)(養母)の妹。『平家物語』では、白河院
	の寵愛を受けた祇園女御が懐妊した後、忠盛に下賜されて清盛
	が生れたことになっている。
	 重盛(シゲモリ)・宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)・重衡(シ
	ゲモリ)・盛子(藤原基実の室)の父。安徳天皇の祖父。平経盛(ツネ
	モリ)・教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の異母兄。
	 1153(仁平 3)父忠盛が没し、平氏の棟梁となる。
	 1156(保元元. 7.)保元の乱では源義朝(ヨシトモ)とともに後白河
	天皇方につき勝利する。
	 1159(平治元.12.)平治の乱では義朝を撃破、源氏の勢力を中
	央政界から駆逐し、平氏勃興の機会を得る。
	 めざましい躍進をとげ、1167(仁安 2)従一位太政大臣。一門
	の公卿(クギョウ)16人、殿上人(テンジョウビト)30余名、知行国30余を
	かぞえる。病をえて辞任し、1168(仁安 3)出家、清蓮のち静海
	と称する。
	 1172(承安 2)娘徳子(トクコ)(建礼門院)を高倉天皇(母は義妹平
	滋子)の中宮とする
	 1177年、後白河法皇を含む院近臣らの平氏討滅の謀議が発覚
	(鹿ヶ谷事件)、清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉し院政を停止させ、
	独裁体制を確立する。1180(治承 4. 2.)高倉天皇が譲位し、徳
	子が生んだ言仁(トキヒト)親王が安徳天皇として即位。皇室の外戚
	として勢威を振い、一門こぞって公家・殿上人となり平氏の絶
	頂に達する。
	 同年4月、以仁王(モチヒトオウ)が平氏追討の令旨を発し、南都北
	嶺や諸国源氏があいついで蜂起、鎮圧できず失意のうちに熱病
	で死亡。
	(*)1118(永久 6,元永元)、1177(安元 3,治承元)。
たいらのくにか《たひらのくにか》
	平 国香
	生年不詳
	 935(承平 5)
	◇平安中期の武将。初名は良望。平高望(タカモチ)の子、桓武天皇
	の玄孫。平貞盛(サダモリ)・繁盛の父。平良文(ヨシフミ)の兄。
	 常陸大掾(ヒタチノタイジョウ)のち鎮守府将軍となる。
	  931年、甥の平将門(マサカド)が国香の弟良兼(ヨシカネ)と争う。
	 935(承平 5)にいたり国香は良兼に加担し、将門は常陸国石田
	館を攻め国香を討つ(承平・天慶の乱の発端)。
	(*) 931(延長 9,承平元)。
たいらのこれひら《たひらのこれひら》
	平 惟衡
	⇒たいらのこれひら(平 維衡)
たいらのこれひら《たひらのこれひら》
	平 維衡(平 惟衡)
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の武将。惟衡とも書く。平貞盛(サダモリ)の子、国香
	(クニカ)の孫。
	 1006(寛弘 3)伊勢守となり、子孫は伊勢平氏として栄える。
たいらのこれもち《たひらのこれもち》
	平 維茂
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の武将。通称は余五将軍。平繁盛(貞盛の弟)の子、
	国香(クニカ)の孫。
	平貞盛(サダモリ)の養子(15男に当るので余五と呼ばれる)。
	 国香・貞盛・繁盛のあとを継ぎ鎮守府将軍となる。
	(2)繁盛((異)兼忠)の子。
たいらのこれもり《たひらのこれもり》
	平 惟盛
	⇒たいらのこれもり(平 維盛)
たいらのこれもり《たひらのこれもり》
	平 維盛
	1158(保元 3)
	1184(寿永 3. 3.28)
	◇平安末期の武将。惟盛とも書く。通称は桜梅少将・小松中将、
	法名は浄円。平重盛(シゲモリ)の長子。
	 1176(安元 2)後白河法皇50歳の祝賀で「青海波」を舞い、その
	美しさから桜梅少将と呼ばれる。
	 1180(治承 4. 4.)源頼朝(ヨリトモ)の挙兵に際し、追討大将軍と
	なるが、10月富士川の戦で水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り
	敗走し、平清盛(キヨモリ)の怒りを買う。
	 1181年尾張国洲俣川に平重衡(シゲヒラ)・忠度(タダノリ)とともに
	源行家(ユキイエ)を破り、従二位右中将・蔵人頭となり小松中将と
	呼ばれる。
	 1183(寿永 2)倶利伽羅峠(クリカラトウゲ)では源義仲(ヨシナカ)に「火
	牛の計」で敗れる(砺波山<トナミヤマ>の戦)。
	 のち西走。1184(寿永 3. 3.15)屋島で源氏と対陣中、密かに
	逃亡。那智の沖に入水。
	(2)生年は1157(保元 2)、没年は1184(元暦 1)。
	 のち高野山に入り,滝口入道(斎藤時頼)のもとで出家して浄
	円と号した。'84(元暦 1)3月滝口入道に見守られて那智で入
	水した。
	(4)生年は1160、没年不詳。
	 屋島の戦後、高野山に入って僧となったという。
	(6)生没年不詳。
	 のち平家一族とともに西走。以後不明。
	(16)生年は1158(保元 3)、没年は1184(元暦 1)。
	 途中で屋島の行宮から逃れて高野山に入り,出家して浄円と
	号し,まもなく那智の海で入水自殺した.
	(*)1181(治承 5,養和元)、1184(寿永 3,元暦元)。
たいらのこれよし
	平 維良
	生年不詳
	1022(治安 2)
	◇平安中期の武将。鎮守府将軍として奥州に住む。
	 1014(長和 3)上洛し、藤原道長に馬・砂金・絹などを多量に
	献上(『小右記』)。
たいらのさだもり《たひらのさだもり》
	平 貞盛
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の武将。通称は常平太・平将軍。平国香(クニカ)の子。
	  935(承平 5)父国香がその甥の平将門(マサカド)に殺された時、
	直ちに京から国に帰り常陸大掾(ヒタチノタイジョウ)を継ぐ。従兄の将
	門とともに東国を治めようとするが成功せず、叔父良兼(ヨシカネ)
	とともに将門と戦う。利なく京に帰って朝廷から追討官符を請
	い受け、再び帰国。
	  938年、下野の押領使(オウリョウシ)藤原秀郷(ヒデサト)と同盟し、
	 940(天慶 3. 2.)将門を下総国猿島(サルシマ)に討つ。この功によ
	り鎮守府将軍となる。
	 のち丹波守・陸奥守を歴任、従四位下に進む。
	(2)この功により従五位下右馬助,鎮守府将軍となる。
	(4)のち鎮守府将軍に任ぜられ、世に平将軍という。
	(16)この功によって従五位上鎮守府将軍に任じられた.
	(*) 938(承平 8,天慶元)
たいらのさだよし
	平 貞能
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期の武将。通称は肥後入道、法号は以典。平家貞(イエサ
	ダ)の子。
	 1177年鹿ヶ谷の変の鎮圧、1181年九州平定などに平清盛(キヨモ
	リ)の侍大将として活躍。1183(寿永 2)平氏西走の際、菊池・原
	田種直・松浦党以下3千騎を率いて上洛、都に留まることを進
	言するが聞き入れられず、平重盛(シゲモリ)の骨を高野山に改葬
	して西走。
	 一時行方不明であったが、外戚の宇都宮朝綱の許に身をよせ、
	のち出家して源頼朝(ヨリトモ)に罪を許される。
	(*)1177(安元 3,治承元)、1181(治承 5,養和元)。
たいらのしげこ《たひらのしげこ》
	平 滋子
	1142
	1176(安元 2. 7. 8)
	◇平安後期、後白河上皇の女御。院号は建春門院(ケンシュンモンイン)。
	父は平時信、母は九条顕頼の娘。平時子(平清盛の妻)の妹。高
	倉天皇の母。
	 後白河上皇の妹上西門院に仕え、少弁局と称する。上皇と門
	院が同じ御所にいたことから、上皇の寵愛をえて後宮に入る。
	 1161(永暦 2. 9. 3)憲仁(ノリヒト)(高倉天皇)を出産。1166年、
	従三位。1167(仁安 2)女御。1168(仁安 3)高倉天皇が即位し、
	皇太后。翌年、院号宣下があり建春門院。
	(*)1142(永治 2,康治元)、1166(永万 2,仁安元)。
たいらのしげひら《たひらのしげひら》
	平 重衡
	1156
	1185(元暦 2. 6.23)
	◇平安末期の武将。平清盛(キヨモリ)の子、母は平時子(トキコ)。重
	盛(シゲモリ)の異母弟、宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)(建
	礼門院)の同母弟。
	 1180(治承 4. 5.)兄知盛とともに源頼政(ヨリマサ)を宇治に破り、
	11月頼政に通じた東大寺・興福寺を攻めて焼く。
	 1181年尾張国洲俣川に甥の平維盛(コレモリ)とともに源行家(ユキイ
	エ)を破り、従三位左中将となる。
	 1183(寿永 2)西走後、備中国水島で源義仲(ヨシナカ)軍の部将高
	梨高信を討つ。
	 翌年、一ノ谷の戦に敗れ、須磨の浦で荘家長らに捕われ鎌倉
	に送られる。後白河法皇は重衡を人質として平宗盛(ムネモリ)に三
	種の神器の返還を要求するが拒絶される。
	 平家滅亡後、鎌倉に送られ、源頼朝に厚遇される。出家を願
	うが、南都衆徒の要請で奈良に送られ、木津川で斬首、奈良坂
	に晒首(サラシクビ)となる。
	(2)没年は1185(文治 1)。
	 母は平時子。
	 洲俣川で源行家を破り……。
	(4)没年は1184。
	(6)没年は1185。
	(16)没年は1185(文治 1. 6.23)。
	 源行家を尾張の洲股に破り……。
	 母池禅尼が……。
	(*)1156(久寿 3,保元元)、1185(元暦 2,文治元)。
たいらのしげもり《たひらのしげもり》
	平 重盛
	1137(保延 3)
	1179(治承 3. 7.29)
	◇平安末期の武将。通称は小松殿・小松内府・灯籠大臣(燈籠
	大臣)、法号は証空(一説に静蓮)。
	 平清盛(キヨモリ)の長子、母は高階(タカシナ)基章の娘。維盛(コレモリ)
	の父。重衡(シゲヒラ)・宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)(建
	礼門院)の異母兄。
	 1150(久安 6)14歳で蔵人、翌年従五位下、1155(久寿 2)中務
	少輔。
	 保元の乱では父清盛と戦い、1157(保元 2)従五位上権大輔、
	10月正従五位下左衛門佐、翌年遠江守を兼ねる。
	 平治の乱では清盛とともに紀伊に熊野詣の途中であったが、
	その知らせに接し清盛が西国に走ろうとするのを止めて、とも
	に帰京し藤原信頼(ノブヨリ)・源義朝(ヨシトモ)の軍を攻める。叔父
	平頼盛(ヨリモリ)とともに待賢門の信頼を攻め源義平(ヨシヒラ)(悪源
	太)を破り、六波羅に源軍が迫った隙に重盛は大内裏を占領し
	源軍を敗走させる。その功により伊予守となる。
	 1160年、左馬頭・内蔵頭、1163年、従三位、1165年、正三位
	参議、1166年、近江権守・左兵衛督・権中務言・春宮大夫を兼
	ね、1167(仁安 2)従二位権大納言。病気で一時官を辞す。
	 1170(嘉応 2. 7.)重衡の子の資盛(スケモリ)が摂政藤原基房(モトフ
	サ)から下馬をしなかったことで辱めを受けたとき(殿下乗合事
	件)、重衡は清盛の報復を諌めるが、清盛は基房に徹底的報復
	をする。
	 1175年大納言、のち右近衛大将・左近衛大将を歴任し、1177
	年左近衛大将兼内大臣。六波羅の小松第に屋敷があり、小松内
	府と呼ばれる。
	 1177年鹿ヶ谷(シシガタニ)の変後、清盛が後白河法皇を幽閉しよ
	うとした際、「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠
	ならず」と諌止(カンシ)した話は有名。同年、東山の麓に一つ一つ
	に燈籠をかけた48間の精舎を建て、燈籠大臣と呼ばれる。
	 1179(治承 3)病により東山に出家。
	(2)生年は1137(保延 3)。証空((異)静蓮)。
	 '75(安元 5)大納言となり:安元 5は存在しない。
	(4)生年は1138。
	(6)生年は1138。
	(16)生年は1137(保延 3)。
	(*)1160(平治 2,永暦元)、1163(応保 3,長寛元)、1165(長寛 3,
	永万元)、1166(永万 2,仁安元)、1175(承安 5,安元元)、1177
	(安元 3,治承元)。
たいらのすけもり《たひらのすけもり》
	平 資盛
	1158(保元 3)
	1184
	◇平安末期の武将。通称は新三位中将。平重盛(シゲヒラ)の次子、
	母は藤原親方の娘少輔掌侍。平清盛(キヨモリ)の孫。
	 1170(嘉応 2. 7.)路上で摂政藤原基房(モトフサ)の車に行き会っ
	たとき、下馬をしなかったことで基房に辱めを受ける(殿下乗
	合事件)。重衡は清盛の報復を諌めるが、清盛は基房に徹底的
	報復をする。
	 1184年、一ノ谷の戦で源義経(ヨシツネ)に敗れ、壇ノ浦で入水。
	 『建礼門院右京大夫集(ケンレイモンインウキョウノダイブシュウ)』に恋愛と
	死別が記されている。
	(*)1184(寿永 3,元暦元)
たいらのたかむね
	平 高棟
	 804(延暦23)
	 867(貞観 9)
	◇平安時代の公卿。葛原親王の第1子、桓武天皇の孫。高見王
	の兄。
	  825(天長 2)平朝臣の姓を賜り臣籍に降下する。
たいらのたかもち《たひらのたかもち》
	平 高望
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安前・中期の貴族・桓武平氏の祖。はじめ高望王。高見王
	の子、桓武天皇の皇子葛原親王(カツラハラシンノウ)の孫。平国香(クニカ)
	・良文(ヨシフミ)の父、清盛(キヨモリ)の祖父。
	  889年、民部卿宗章を討滅し、 890(寛平 2)その功により平
	朝臣の姓を賜り臣籍に降下する。
	 常陸大掾(ヒタチノダイジョウ)を経て従五位下上総介(カズサノスケ)に任
	ぜられ、土着して関東平氏の基礎を築く。
	(*) 889(仁和 5,寛平元)。
たいらのただつね《たひらのただつね》
	平 忠恒
	⇒たいらのただつね(平 忠常)
たいらのただつね《たひらのただつね》
	平 忠常
	 967(康保 4)
	1031(長元 4. 6. 6)
	◇平安中期の武将。忠恒とも書く、法号は常安。忠頼の子、
	良文(ヨシフミ)の孫、高望(タカモチ)の曾孫。
	 上総介(カズサノスケ)・武蔵押領使となる。1028年内乱を起し、
	上総の国府を陥れ、安房を侵し国守を殺す。朝廷は平直方(ナオカ
	タ)を追討使に任じて送るが成功せず、1030(長元 3)召還。
	 直方に代った甲斐守源頼信(ヨリノブ)に、1031(長元 4)戦わず
	して剃髪し降伏。京都に送られる途中美濃の野上で病死し、首
	だけが京に送られる。
	(2)生年不詳。
	(4)生年不詳。
	(6)生年は 967。
	(16)生年は 967(康保 4)。
	(*)1028(万寿 5,長元元)。
たいらのただのり《たひらのただのり》
	平 忠度
	1144
	1184(寿永 3. 2. 7)
	◇平安末期の武将・歌人。平忠盛(タダモリ)の子、母は仙洞御所
	の女房。清盛(キヨモリ)・経盛(ツネモリ)・教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)の
	異母弟。
	 1180(治承 4)富士川の戦に従軍。1181年、平重衡(シゲモリ)・
	維盛(コレモリ)とともに源行家(ユキイエ)を尾張の洲俣川に破る。1183
	(寿永 2)京に迫った足利義清(ヨシキヨ)を防ぎ、倶利伽羅(クリカラ)谷
	では源義仲(ヨシナカ)に維盛とともに「火牛の計」で敗れる(砺波山
	<トナミヤマ>の戦)。
	 翌年、一ノ谷の戦で岡部忠澄の主従に討たれ戦死。
	 平家西走の際、京都に引き返し、師の藤原俊成(トシナリ)に歌集
	一巻を託した逸話は有名。
	(2)洲俣川の戦……。
	(16)洲股川に破り……。
	(*)1144(康治 3,天養元)、1181(治承 5,養和元)。
たいらのただまさ
	平 忠正
	生年不詳
	1156(保元元. 7.30)
	◇平安末期の武将。通称は右馬助。平正盛(マサモリ)の子、清盛(キ
	ヨモリ)の叔父。
	 1156年保元の乱で、崇徳(ストク)上皇の召により源為義(タメヨシ)
	・源為朝(タメトモ)とともに、後白河天皇方の源義朝(ヨシトモ)・平清
	盛らと戦い、敗れて伊勢に逃れる。出家し清盛の許に出頭した
	が、子の長盛・忠綱・政綱らとともに六条河原で斬首。
	(*)1156(久寿 3,保元元)。
たいらのただもり《たひらのただもり》
	平 忠盛
	1096
	1153(仁平 3. 1.15)
	◇平安末期の武将。平正盛(マサモリ)の嫡子、清盛(キヨモリ)・教盛(ノ
	リモリ)・頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の父。
	 白河上皇・鳥羽上皇の寵を得て累進する。
	 1129(大治 4)備前守として山陽・南海道の海賊を追捕し、そ
	の組織化に成功。白河院領肥前神崎荘司となり、日宋貿易に関
	係する。1132年、鳥羽上皇の命により得長寿院千体観堂を造営、
	その功により但馬守になる。やがて刑部卿(ギョウブキョウ)となり、
	武人ではじめて内昇殿を許される。1135年、海賊追討使として
	西海道の海賊の首領日高禅師を捕え、西国に平氏勢力の基礎を
	築く。
	(2)生年は1095(嘉保 2)。
	(4)生年は1096。
	(6)生年は1096。
	(16)生年は1096(永長 1)。
	(*)1096(嘉保 3,永長元)、1132(天承 2,長承元)、1135(長承 4,
	保延元)。
たいらのつねまさ
	平 経正
	生年不詳
	1184
	◇平安末期の武将・歌人。平経盛(ツネモリ)の嫡子、平経俊・敦盛
	(アツモリ)の兄。
	 幼くして仁和寺の童形(ドウギョウ)として仕える。
	 一ノ谷の戦で戦死。
	(*)1184(寿永 3,元暦元)。
たいらのつねもり
	平 経盛
	1125(天治 2)
	1185
	◇平安末期の武将。平忠盛(タダモリ)の子、母は陸奥守源信雅の
	娘。平経正(ツネマサ)・経俊・敦盛(アツモリ)の父。平清盛(キヨモリ)の異
	母弟、教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の異母兄。
	(2)'85(文治 1)の壇ノ浦合戦において,「平家物語」によれば経
	盛・教盛兄弟は,鎧の上に碇を背負い互いに腕を組み合って海
	中に沈んだという。
	(*)1185(元暦 2,文治元)。
たいらのときこ
	平 時子
	生年不詳
	1185(元暦 2. 3.24)
	◇平清盛(キヨモリ)の妻。兵部権大輔平時信の娘、母は藤原家範の
	娘。平宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・重衡(シゲヒラ)・徳子(トクコ)(建
	礼門院)の母。平時忠(トキタダ)の妹、滋子(後白河上皇の女御,建
	春門院)の姉。
	 清盛の死後、剃髪。二位に叙せられ、二位の尼と呼ばれる。
	 壇ノ浦で孫の安徳天皇を抱き入水。
たいらのときただ《たひらのときただ》
	平 時忠
	1127(大治 2)
	1186(文治 2. 2.24)
	◇平安末期の公卿。通称は平関白。兵部権大輔平時信の子。滋
	子(後白河天皇の女御)・時子(平清盛の妻)の兄。
	 1161年、平教盛(ノリモリ)とともに憲仁親王を皇太子にしようと
	謀り発覚、1162(応保 2)国家を呪詛し、1169年、藤原成親を讒
	訴したことにより、出雲に流される。
	 1179(治承 3)正二位。1183(寿永 2)権大納言。
	 壇ノ浦で捕えられ、能登に流される。
	 「この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と言った逸話
	は有名。
	(2)生年は1127(大治 2)、没年は1189(文治 5)。
	 平氏全盛期に〈この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし〉
	といったと伝える。
	 平氏滅亡後、源義経に近づいて身の保全をはかったが,源頼
	朝によって能登に流された。
	(4)生年は1130、没年は1189。
	 「平氏にあらざれば人にあらず」とうそぶいたことは有名。
	 壇ノ浦の戦後、内侍所を奉じて京都に帰り、罪を免れんこと
	を請うたが許されず、能登に流されて没。
	(6)生年は1127、没年は1186。
	 壇ノ浦の戦で捕えられ,能登に流された。
	(16)生年は1127(大治 2)、没年は1186(文治 2. 2.24)。
	 平氏滅亡後捕えられて帰洛した.その後、義経に女を進めて
	身の保全を図ったが,頼朝の厳命により,能登に流され,同地
	で没した.
	(*)1161(永暦 2,応保元)、1169(仁安 4,嘉応元)。
たいらのとくこ《たひらのとくこ》
	平 徳子
	⇒けんれいもんいん(建礼門院)
たいらのとももり《たひらのとももり》
	平 知盛
	1152(仁平 2)
	1185(元暦 2. 3.)
	◇平安末期の武将。平清盛(キヨモリ)の四男、母は平時子(トキコ)。
	重盛(シゲモリ)(異母)・宗盛(ムネモリ)(同母)の弟、徳子(トクコ)(建礼
	門院)・重衡(シゲヒラ)の同母兄。
	 1180(治承 4. 5.)弟重衡とともに源頼政(ヨリマサ)を宇治に滅ぼ
	す。1182年源行家(ユキイエ)を美濃に破る。
	 一ノ谷・壇ノ浦に戦い、安徳天皇のあとを追い入水。
	(4)生年は1552。
	 壇ノ浦の戦に船中で叔父教盛と並び坐して自刃。
	(6)生年は1551。
	 壇ノ浦でも勇戦の末,安徳天皇らを追って自らも入水。
	(*)1182(養和 2,寿永元)。
たいらのなおかた《たひらのなほかた》
	平 直方
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の武将。平維時の子、維将(コレマサ)の孫。
	 平忠盛(タダモリ)の乱を平定できず、1030(長元 3)源頼信(ヨリノブ)
	に更迭。娘を頼信の子頼義(ヨリヨシ)に進め、鎌倉郷の屋敷を義頼
	に譲る。
	 子聖範・孫時直が東国に土着し、鎌倉幕府の北条氏はその子
	孫とされる。
たいらののりつね《たひらののりつね》
	平 教経
	1160
	1185
	◇平安末期の武将。初名は国盛。平教盛(ノリモリ)(平清盛の弟)の
	子。
	 1183(寿永 2)備中水島の合戦で源義仲の軍の足利義清(ヨシキヨ)
	を破る。1184年、一ノ谷の戦では源義経(ヨシツネ)に敗れる。1185
	年、屋島の戦で義経に強弓で矢を放つが、佐藤継信(ツグノブ)が
	義経をかばい戦死。
	(2)没年は1185(文治 1)。
	 '85(文治 1)壇ノ浦の合戦で源義経を追いつめたが,討ちも
	らし,源氏の武士2人と組み合って海に落ちた。
	(4)没年は1185。
	 壇ノ浦では義経を追い、遂に入水(一説、一一八四年一谷で
	捕殺)。
	(6)没年は1185。
	 壇ノ浦では源義経を捕えようとして失敗,源氏の武士2人を
	抱いて入水。一説に1184年一ノ谷の戦に捕えられ処刑ともいう。
	(16)没年は1185(文治 1)。
	 '85(文治 1)壇ノ浦の戦で義経を捕えようとしたが失敗し,
	源氏の武士2人を道連れにして入水自殺した.
	(*)1160(平治 2,永暦元)、1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,
	文治元)。
たいらののりもり《たひらののりもり》
	平 教盛
	1128(大治 3)
	1185
	◇平安末期の武将。通称は門脇(カドワキ)殿(平清盛の六波羅邸の
	門脇に邸宅を構えた)。平忠盛(タダモリ)の第3子、母は藤原家隆
	(イエタカ)の娘(待賢門院の女房)。教経(ノリツネ)の父。清盛(キヨモリ)・
	経盛(ツネモリ)の異母弟、頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の異母兄。
	 保元・平治の乱に功をたて正四位下常陸介に至る。
	 1161年、平時忠(トキタダ)とともに憲仁親王を皇太子にしよう
	と謀り、発覚して官を奪われる。1168(仁安 3)高倉天皇(憲仁)
	即位とともに蔵人頭・参議となる。1181年清盛の死後、清盛の
	子宗盛(ムネモリ)の後見として権中納言となる。
	 源(木曾)義仲(ヨシナカ)に敗れ、西走。1183(寿永 2)備中水島に
	義仲の軍を破り、源行家(ユキイエ)を播磨(ハリマ)室山に破り、一時
	勢力を回復し一ノ谷に進出するが、壇ノ浦で戦死。
	(2)生年は1128(大治 3)。平忠盛の4男。壇ノ浦で弟経盛とと
	もに入水した。
	(4)生年は1129。忠盛の第三子。壇ノ浦の戦に知盛と自刃。
	(16)生年は1128(大治 3)。忠盛の子。壇ノ浦の戦で没した.
	(*)1161(永暦 2,応保元)、1181(治承 5,養和元)、1185(元暦 2,
	文治元)。
たいらのひろつね
	平 広常
	⇒ちば ひろつね(千葉 広常)
たいらのまさかど《たひらのまさかど》
	平 将門
	生年不詳
	 940(天慶 3. 2.14)
	◇平安中期の武将。平良将(マサヨシ)の子、平高望(タカモチ)の孫、平
	国香(クニカ)の甥。
	 初め京都で摂政藤原忠平(タダヒラ)に仕え、検非違使になるこ
	とを望んだが許されず、憤怒して帰郷、下総(シモウサ)国豊田に住
	む。
	 のち父の遺領をめぐり一族の紛争から、 935(承平 5)伯父の
	国香(高望の子)とその姻戚源護一族を滅ぼす。源護(マモル)の訴
	えで京都の検非違使庁に召喚、翌年赦免。国香の弟良兼(ヨシカネ)
	・国香の子貞盛(サダモリ)に攻められ、これを破る。また常陸(ヒタ
	チ)国司藤原惟幾と争い、争乱は関東一帯に広がり、 939(天慶
	 2)常陸・下野(シモツケ)・上野(コウズケ)の国府を占領。
	  939(天慶 2)八幡大菩薩の神託を得たとして、王宮を下総国
	石井郷猿島(サシマ)(茨城県猿島郡猿島町)に建て、下野・上野・
	常陸・上総(カズサ)・安房(アワ)・相摸(サガミ)・伊豆・下総の八ヶ
	国の国司を置き、左大臣・右大臣などをも任命、自らを新皇と
	称し関東独立国をうち建てる。
	 ここにいたって朝廷は藤原忠文(タダフミ)を征東大将軍として
	下向させたが、東国に到る前に、将門は平貞盛(サダモリ)(国香の
	子)・源経基(ツネモト)(清和源氏の祖)・下野の豪族藤原秀郷(ヒデサ
	ト)らに急襲されて討れる(承平・天慶の乱)。
	◎このころの原始的武士団には強固な主従結合がなく、追討軍
	の前に家来はすぐに背走し、『将門記』に「天下に未だ将軍、
	自ら戦ひ死ぬることあらず」と書かれるほどの危機的状況下で、
	将門は風上に陣取るが風が変り風下となり、風にのった矢で射
	殺された。しかし、武士の台頭を告げる号砲でもあった。
	 死後、各地に将門伝説が生れ、民間で英雄として信仰を集め、
	神田明神などに祭られ
	る。
	(2)良将の子,母は犬飼春枝の娘。(名)相馬小二郎。
	(4)父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。伯父国
	香を殺して……。
	(6)父良将は鎮守府将軍。伯父国香をころしたことから……。
	(16)鎮守府将軍良将の子.相馬小二郎とも称した.叔父平国香
	が護に組したのでこれを殺した.
	(17)父は良持とも良将ともいう。母は犬飼春枝ともいうが、未
	詳。「滝口小次郎」とも書く史料があるから……。叔父の国香と
	……。
	◎将門の独立国家では、元号を建てなかった。
	(*)承平・天慶(ジョウヘイテンギョウ)の乱は、西国で藤原純友(スミトモ)
	が起した乱を含む。
たいらのまさこ《たひらのまさこ》
	平 政子
	⇒ほうじょう まさこ(北条 政子)
たいらのまさもり《たひらのまさもり》
	平 正盛
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期の武将。平正衡の子、忠盛(タダモリ)の父、清盛(キヨモリ)
	の祖父。
	 1107(嘉承 2)源義親(ヨシチカ)追討を命ぜられ、翌年これを討ち、
	伊勢平氏は清和源氏に対抗する勢力となる。
	 1113年、南都北嶺の争いから延暦寺の僧徒が神輿を奉じて白
	河法皇の御所に迫った際、源光国・源為義(タメヨシ)とともに警護
	にあたる。1119(元永 2)都に賊が横行した際、これを鎮定。
	(*)1113(天永 4,永久元)。
たいらのむねもり《たひらのむねもり》
	平 宗盛
	1147(久安 3)
	1185(元暦 2. 6.21)
	◇平安末期の武将。通称は屋島大臣。平清盛(キヨモリ)の子、母は
	平時子(トキコ)。重盛(シゲモリ)の異母弟、知盛(トモノリ)・徳子(トクコ)
	(建礼門院)・重衡(シゲヒラ)の同母兄。
	 1177年、右大将。1178(治承 2)正二位権大納言。1179(治承
	 3)官を辞す。同年重盛が没し平氏の総帥となる。
	 1180(治承 4)安徳天皇(妹徳子の子)が即位し、外戚となる。
	1181(治承 5.閏2.)父清盛が没する。翌年、権大納言・内大臣。
	1183(寿永 2)従一位内大臣。同年、源義仲(ヨシナカ)が京に迫り、
	一門を率い安徳天皇を奉じて九州太宰府に逃れる。
	 のち壇ノ浦で子の清宗らとともに捕われる。鎌倉に送られ、
	源頼朝(ヨリトモ)に賎(イヤ)しめて讃岐権守平末国と改名させられる。
	さらに京に送られる途中、近江国篠原で源義経(ヨシツネ)に斬首。
	(2)清盛の3男。
	(4)清盛の次子。
	(6)清盛の三男。
	(16)清盛の次男。
	(*)1177(安元 3,治承元)。
たいらのもりくに
	平 盛国
	1113
	1186(文治 2)
	◇平安末期の武将。通称は主馬判官(シュメノホウガン)。伊勢平氏平
	季衡(スエヒラ)の第7子。盛俊(モリトシ)の父。
	 保元・平治の乱で活躍。1172(承安 2)出家。1177年、鹿ヶ谷
	の変に平清盛・重盛に従って活躍。
	 平家滅亡後、捕われて鎌倉に送られ、三浦義明(ヨシアキ)(桓武
	平氏の流)の舎弟岡崎義実(ヨシザネ)に預けられるが、法華経を誦
	えながら断食で命を断つ。
	(2)なお,「吾妻鏡」は,清盛が死んだのは九条河原口の盛国の家
	であったとしている。
	(*)1113(天永 4,永久元)、1177(安元 3,治承元)。
たいらのやすより《たひらのやすより》
	平 康頼
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期の廷臣。通称は平判官康頼、法号は性照。信濃守頼
	季の子。
	 後白河院の近臣で、1177年、京都東山の鹿ヶ谷(シシガタニ)の山
	荘で、俊寛(シュンカン)や藤原成親・(少将)成経父子らと平清盛(キヨ
	モリ)を滅ぼそうと謀ったが、源行綱の密告によって謀議が露見
	する(鹿ヶ谷の変)。同年、薩摩国鬼界島(キカイガシマ)(硫黄島)に
	流され、翌年春大赦で成経らと召還される。
	 流罪になるとき周防で出家、性照と号す。
	(*)1177(安元 3,治承元)。
たいらのゆきもり
	平 行盛
	生年不詳
	1185
	◇平安末期の武将・歌人。平基盛(モトモリ)の子。
	 1180(治承 4. 5.)宇治川の戦で初陣。
	 藤原定家(サダイエ)に師事し和歌を学び、平氏西走の際、定家
	に歌集1巻を託す。
	 1184年、備前国児島で佐々木盛綱(モリツナ)に敗れ、翌年壇ノ浦
	で入水。
	(*)1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,文治元)。
たいらのよりつな
	平 頼綱
	生年不詳
	1293(正応 6. 4.22)
	◇鎌倉後期の得宗被官・内管領(ウチカンレイ)。通称は左衛門尉。北
	条貞時(サダトキ)の乳母(メノト)の夫。
	 1284(弘安 7. 4. 4)第8代執権(シッケン)北条時宗(トキムネ)が死去
	して貞時が執権になると、幕府の有力後家人の安達泰盛(アダチ・
	ヤスモリ)(貞時の外祖父)との幕政の主導権をめぐる対立から、1285
	(弘安 8.11.)泰盛の子宗景に謀反(ムホン)の企てがあると中傷し
	て安達泰盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。
	 事件後、幕府の実権を手にしたが、頼綱の子安房守を将軍に
	しようとする陰謀から、北条貞時(サダトキ)によって鎌倉経師ヶ
	谷(キョウジガヤツ)の館を急襲され自害。
たいらのよりもり《たひらのよりもり》
	平 頼盛
	1131
	1186(文治 2)
	◇平安末期の武将。通称は池殿・池大納言(イケノダイナゴン)、法号
	は重蓮。平忠盛(タダモリ)の第5子、母は池禅尼(イケノゼンニ)。平清
	盛(キヨモリ)・経盛(ツネモリ)・教盛(ノリモリ)の異母弟、忠度(タダノリ)の
	異母兄。
	 平治の乱の功により正四位下修理大夫。1166年、太宰大弐と
	なり、慣例を破り任地に下向。1180(治承 4)正二位、1183(寿
	永 2)権大納言となる。源(木曾)義仲(ヨシナカ)の入京による平氏
	西走の際、後白河法皇を頼り法住寺殿に入り京に残る。
	 母が源頼朝(ヨリトモ)を助けたことがあり、1184年、頼朝に招か
	れて鎌倉に下り、その保護を受け、権大納言に還任し所領も安
	堵(アンド)される。1185年、平家滅亡とともに東大寺で出家し重
	蓮と号する。
	 なお、平家には小烏丸(コガラスマル)・抜丸の宝刀が伝えられ、
	清盛が抜丸を、頼盛が小烏丸を譲られる。ために清盛と不仲で
	あったといわれる。
	(*)1131(大治 6,天承元)、1166(永万 2,仁安元)、1184(寿永 3,
	元暦元)、1185(元暦 2,文治元)。
たおか のりお
	田岡 典夫
	1908. 9. 1(明治41)
	1982. 4. 7(昭和57)
	◇小説家。
たおか れいうん
	田岡 嶺雲
	1870(明治 3.11.28)
	1912. 9. 7(大正元)
	◇明治時代の文芸・社会評論家・中国文学者。本名は佐代治(サヨ
	ジ)、別号は少湘庵(ショウショウアン)主人・栩々生(ククセイ)・爛腸・
	夜鬼窟主・金馬門人。高知県生れ。三菱総理事木村久寿弥太(ク
	スヤタ)の実弟。
	 1883(明治16)大阪官立中学入学、病気で中退。1889(明治22)
	上京。水産伝習所卒業。東京大学漢文科選科卒業。
	 脊髄病で死去。
	(1)誕生日は11.21。
	(3)誕生日は11.28。
	(5)誕生日は11.28。
	(9)誕生日は11.21。
	(11)誕生日は11.21。
	(13)明治三年高知市外の土佐藩陪臣の家に生まれ、……。
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