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人 名 辞 典 《す》 編集:獨 澄旻
-------- す ----------------------------------------------------
すいこ てんのう《すいこ てんわう》
推古 天皇
554
628
◇第33代天皇・日本最初の女帝。名は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒ
メ)・額田部(ヌカタベ)皇女。欽明天皇の第三皇女、母は蘇我稲目
(イナメ)の娘堅塩媛(キタシヒメ)。敏達(ビダツ)天皇の皇后、竹田皇子
(タケダノミコ)ら2男5女の母。
576年、皇后となる。
592年、崇峻(スシュン)天皇が蘇我馬子(ウマコ)(推古の兄)に暗殺さ
れた後、蘇我氏の出として擁立されて大和国豊浦宮(トユラノミヤ)で
即位。後に大和国小墾田宮(オハリダノミヤ)に遷る。
甥の厩戸皇子(ウマヤドノオウジ)(聖徳太子)を皇太子に立て摂政と
して、冠位十二階・憲法十七条の発布、国史の編纂、遣随使の
派遣、法隆寺の建立、前後4回の新羅征討など多くの事績を残
した(飛鳥文化)。
在位 592〜628、在位36年間。
◆推古天皇陵は大阪府太子町(河内国磯長山田陵)。方墳、東西
61メートル、南北55メートル。
すいた じゅんすけ
吹田 順助
1883.12.24(明治16)
1963. 7.20(昭和38)
◇ドイツ文学者。号は蘆風(ロフウ)。東京生れ。
東京帝国大学独文科卒業。
北海道大学予科・旧制第七高等学校・東京商科大学・中央大
学などの教授を歴任。
著書は1938(昭和13)『近代独逸思潮史』、詩文集1952(昭和
27)『葦の曲』、エッセイ『緑野集』・『パンと見世物』など。
◎小牧健夫(タケオ)(暮潮)・成瀬清(ナルセ・キヨシ)(無極)とともにドイ
ツ文学研究の三羽烏(サンバガラス)と呼ばれた。
すうげんいん
崇源院
1573
1626(寛永 3)
◇江戸前期の将軍の夫人。幼名は小督御料人のち徳子。浅井長
政の3女、母は織田信長の妹お市の方(小谷の方)。豊臣秀吉の
側室淀君・京極高次の室常高院の妹。
1573(天正元. 8.)織田信長に攻められて小谷城で長政が亡く
なったとき、母と姉2人と逃れる。
1582(天正10. 6. 2)信長が本能寺の変で亡くなり、9月に母
が柴田勝家と再婚し、母と姉2人と越前国北ノ庄に赴く。1583
(天正11. 3.)勝家は越前で挙兵、 4.21近江国賤ヶ岳(シズガタケ)
で羽柴(豊臣)秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)に大敗(賤ヶ岳の戦)。 4.24母
は居城北ノ庄の城で勝家とともに自殺。この時、娘3人は逃が
され一乗谷に脱出。
はじめ豊臣秀勝に嫁し、のち徳川秀忠(家康の3男,第2代将
軍)に再婚。秀忠との間に家光(第3代将軍)・忠長・和子(東福
門院)を生む。
死後、崇徳院の諡号と従一位が追贈される。
(*)1573(元亀 4,天正元)。
すうでん
崇伝
1569(永禄12)
1633(寛永10. 1.20)
◇江戸初期の僧侶(臨済宗)。字は以心。賜号は円照本光国師。
足利氏の家臣一色秀勝の第2子。
京都南禅寺の住持として塔頭(タッチュウ)金地院(コンチイン)に住み、
金地院崇伝とも呼ばれる。
1605(慶長10)幕府に用いられて僧録司となり、外国文書を掌
る。のち公家・武家をはじめ諸寺諸宗の制度の制定に参与し、
黒衣(コクイ)の宰相と呼ばれる。林羅山(ラザン)とともに豊臣家滅
亡を策する。
徳川家康の没後、天海僧正(天台宗)と家康の葬儀の方法や神
号をめぐって争い失脚。
1627(寛永 4)紫衣(シエ)事件の処理をめぐり権勢をふるう。
すえ はるかた《すゑ はるかた》
陶 晴賢
1521
1555(天文24.10. 1)
◇戦国時代の武将。幼名は五郎、初名は隆房。
厳島の戦いで毛利元就軍に敗れて自刃。
(*)1521(永正18,大永元)
すえかわ ひろし《すゑかは ひろし》
末川 博
1892(明治25)
1977(昭和52)
◇法学者。山口県生れ。
京都大学教授。滝川事件で京大を辞職し、のち立命館総長。
著書は『権利侵害論』など。
すえひろ しげやす
末広 重恭
⇒すえひろ てっちょう(末広 鉄腸)
すえひろ てっちょう《すゑひろ てつちやう》
末広 鉄腸(末廣 鐵腸)
1849(嘉永 2. 2.21)
1896. 2. 5(明治29)
◇明治前期の政治家・新聞記者・小説家。本名は重恭(シゲヤス)、
幼名は雄三郎、別号は浩斎。伊予宇和島生れ。宇和島藩士。
15歳で藩校(明倫館)に入り、1869(明治 2)藩校の教授。
1875(明治 8)「曙新聞」、のち成島柳北の「朝野新聞」に入り、
藩閥政治批判の論陣を張り、自由民権運動に参加。馬場辰猪(タ
ツイ)・大石正巳らと独立党を組織。1890(明治23)帝国議会第一
回の衆議院議員に当選、1892(明治25)落選、1894(明治27)再び
当選。
頸部癌腫で死去。
政治活動のかたわら政治小説『二十三年未来記』・『雪中梅』
・『花間鶯(カカンオウ)』などを発表。
すえまつ けんちょう
末松 謙澄
1855(安政 2. 8.20)
1920.10. 5(大正 9)
◇評論家・翻訳家・歌人・政治家。幼名は謙一郎、号は青萍
(セイヒョウ)・笹波萍二。豊前国(福岡県)生れ。1871(明治 4)上京、
英学を修める。1874(明治 7)福地桜痴(オウチ)に知られて日報社
に入社。伊藤博文(ヒロブミ)に才学を認められ官界に入る。
伊藤博文の娘婿。
(1)没日は10. 5。
(3)没日は10. 6。
(5)没日は10. 6。
(9)没日は10. 5。
(11)没日は10. 6。
(13)没日は10. 6。
すが ただお
菅 忠雄
1899. 2. 5(明治32)
1942. 7. 9(昭和17)
◇小説家・編集者。
すが たてひこ
菅 楯彦
1878. 3. 4(明治11)
1963. 9. 4(昭和38)
◇画家。本名は藤太郎。
すが らば
菅 裸馬
1883.10.25(明治16)
1971. 2.18(昭和46)
◇実業家・俳人。本名は礼之助。秋田県生れ。東京高等商業卒
業。原子力産業会議会長。
すが りょうほう
菅 了法
1857(安政 4. 2.)
1936. 7.26(昭和11)
◇評論家・僧侶(本願寺)。号は桐南。
すがえ ますみ
菅江 真澄
1754(宝暦 4)
1829(文政12. 7.19)
◇江戸後期の紀行文作者。本名は白井英二(エイジ)・秀雄(ヒデオ)、
菅江真澄は晩年の改名。三河国吉田宿近郷(現:豊橋市)生れ。
1783(天明 3)豊橋近在の郷家を旅立ち、信濃国下伊那郡に入
る。白井秀雄と名乗る。翌年、越後を経て鼠ヶ関(現:温海町)・
羽黒山(現:羽黒町)・象潟(キサカタ)・矢島・西馬音内(現:羽後町)
から柳田(現:湯沢市)に至る。
津軽(ツガル)・蝦夷(エゾ)地を巡遊。
1801年以降は秋田領内に住み、命じられて地雑取り調べに当
たる。
1810(文化 7)菅江真澄を名乗る。
(4)田中真麿に国学を学び……。
(6)植田義方(ヨシエ)(1734-1806)に国学を学び……。
(*)1801(寛政13,享和元)。
◆墓は秋田市寺内大小路の鎌田家の墓域。
墓碑銘は唯一の弟子、鳥屋長秋(トヤノナガキ)による。
◎挿絵入りで記された『真澄遊覧記』は秋田県大館市市立中央
図書館所蔵、貴重な民俗資料となっている。
秋田市の秋田県立博物館に1996. 4.(平成 8)菅江真澄資料セ
ンターが開設。
すがぬま そうしろう
菅沼 宗四郎
1884.10. 5(明治17)
1960(昭和35)
◇歌人。
すがぬま ただかぜ
菅沼 貞風
⇒すがぬま ていふう(菅沼 貞風)
すがぬま ていふう
菅沼 貞風
1865(慶応元. 3.10)
1889. 7. 6(明治22)
◇明治時代の経済史家・南洋研究家。幼名は貞一郎。「ただか
ぜ(貞風)」とも呼ぶ。平戸生れ。
旧藩主松浦氏の信を得て松浦郡役所に勤務。大蔵省関税局の
貿易沿革史編集の資料調査を担当し、『平戸貿易史』を著す。
南進論者でフィリピン独立運動に関心を示し、1889(明治22)
移民に関する調査のためフィリピンに渡り、急病死。
著書は『大日本商業史』・『新日本図南の夢』など。
すがの けんざん
菅野 兼山
1680(延宝 8)
1747(延享 4)
◇江戸中期の儒者・闇斎(アンサイ)学者。
江戸深川に私塾会輔堂を創設。
すがや はんのじょう
菅谷 半之丞
⇒すがや まさとし(菅谷 政利)
すがや まさとし
菅谷 政利
1660(万治 3)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻・郡代、禄高
100石。通称は半之丞(ハンノジョウ)、戒名は刃水流剣信士。吉良家
の探索中の変名は町人政右衛門(マサエモン)。
吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、加藤斧右衛門(オノエモン)の介錯
(カイシャク)で切腹。
すがわら しちく
菅原 師竹
1863(文久 3. 8.)
1919. 3.24(大正 8)
◇俳人。名は賢五郎、旧姓は伊藤、初期の号は微笑。
すがわら たかし
菅原 卓
1903. 1.15(明治36)
1970. 5. 3(昭和45)
◇演出家・演劇評論家。東京生れ。慶応義塾大学経済学部卒業。
すがわら ふみとき《すがはら ときふみ》
菅原 文時
⇒すがわらのときふみ(菅原 文時)
すがわら みちざね《すがはら みちざね》
菅原 道真
⇒すがわらのみちざね(菅原 道真)
すがわらたかすえのむすめ《すがはらたかすゑのむすめ》
菅原孝標女
⇒すがわらのたかすえのむすめ(菅原孝標女)
すがわらのたかすえのむすめ《すがはらのたかすゑのむすめ》
菅原孝標女
1008(寛弘 5)
没年不詳
◇平安中期の日記・物語作者・歌人。父孝標は菅原道真(ミチザネ)
の五代の孫。母は藤原倫寧(トモヤス)の娘で、母の兄は歌人の藤原
長能(ナガトウ)、母の姉は『蜻蛉(カゲロウ)日記』の作者藤原道綱母
(ミチツナノハハ)。継母は高階(タカシナ)成行の娘で、継母の父の弟高階
成章(タカシナ・ナリアキラ)は紫式部の娘大弐三位(ダイニサンミ)の夫。
10歳の時、父とともに任地上総国に下向。13歳で上京。32歳
で祐子内親王に仕える。33歳で橘俊通と結婚。夫の死別後、父
に従って上総国から帰京して以来の生涯を『更科(サラシナ)日記』
に書く。
『夜の寝覚(ネザメ)』・『浜松中納言物語』や、散逸した『自
ら悔ゆる物語』・『朝倉物語』もその作とされる。
◎『夜の寝覚』は『夜半(ヨワ)の寝覚』とも『寝覚』とも呼ばれ
る。
すがわらのふみとき《すがはらのふみとき》
菅原 文時
899(昌泰 2)
981(天元 4)
◇平安中期の公卿・学者・漢詩人。名は「ふんとき」とも、
菅三品(カンサンボン)と称される。道真(ミチザネ)の孫、高規の子。
内記・弁官・式部大輔を経て文章博士(モンジョウハカセ)となり、
尾張権守を兼ねる。
954(天暦 8)村上天皇が諸臣に政治上の意見を求めた時、
957(天徳元.12.)『意見封事三箇条(菅原文時意見封事)』を提
出。
家学である文章道にすぐれ、大江朝綱と並ぶ当代の高才で、
源為憲・大江匡衡らの文人もその添削を請うた。
981(天元 4)従三位に叙せられる。
(16)高規の子。
(?)高視(タカミ)の子。
すがわらのふんとき《すがはらのふみとき》
菅原 文時
⇒すがわらのときふみ(菅原 文時)
すがわらのみちざね《すがはらのみちざね》
菅原 道真
845(承和12)
903(延喜 3. 2.25)
◇平安前期の学者・政治家。通称は菅公・菅家・菅丞相(カンショウ
ジョウ)。菅原是善(コレヨシ)の子、菅原文時(フミトキ)の祖父。
870(貞観12)方略試(ホウリャクシ)(官吏登用試験)に合格。 877
(元慶元)文章博士に任じられる。 886(仁和 2)讃岐守(サヌキノカミ)
となり任地に赴(オモム)く。在任中に藤原基経(モトツネ)に意見書を
呈示し「阿衡(アコウ)の紛議」の解決に努力し、宇多(ウダ)天皇に信
頼される。 890(寛平 2)国司の任期を終え帰京。
台頭する藤原氏を押えるため、 891(寛平 3)関白基経の死後、
直ちに蔵人頭(クロウドノトウ)に抜擢される。 894(寛平 6)遣唐大使
に任ぜられながら、派遣中止を進言して廃止となる。 897(寛
平 9)若い藤原時平(トキヒラ)が大納言兼左大将となり、道真は権
大納言兼右大将となる。しかし同年、彼を引き立てていた宇多
天皇が譲位し、醍醐天皇が即位。 899(昌泰 2)時平が左大臣に
なった時、道真も右大臣に任じられ、学者としては吉備真備(キ
ビノマキビ)につぐ異例の出世となる。しかし、翌年には三善清行
(キヨユキ)に辞職を勧められている。
潔癖実直すぎた性格が災いし、 901(昌泰 4. 1.)時平の讒言
(ザンゲン)(中傷)により、醍醐天皇を廃して道真の女婿にあたる
斎世親王を立てようとしたという嫌疑で、太宰権帥(ダザイノゴン
ノソチ)(太宰府の長官)に左遷され、罪人同様の生活を送り、その
配所で病没(昌泰の変)。
その文才は中唐の詩人白居易(ハク・キョイ)に比べられた。
著書は『菅家文草(カンケブンソウ)』・『菅家後集(コウシュウ)(菅家後
草)』・『類聚国史(ルイジュウコクシ)』など。
◎左遷の際に「東風(コチ)吹かば匂ひおこせよ梅の花/主(アルジ)
なしとて春な忘れそ」と歌った梅が、のちに配所に飛んできた
という「飛び梅」の伝説がある。
◎延喜年間( 901〜 923)反道真の関係者が次々急逝し、延長年
末に清涼殿に落雷があって死者が出ると、道真の怨霊(オンリョウ)
の祟(タタ)りと畏(オソ)れられ、「天満大自在天神(天満威徳天)・
火雷天神」として祀(マツ)られる。太宰府には安楽寺(のち太宰府
天満宮)が、京都北野の馬場に天神社(のち北野天満宮)が建て
られる。
後世、一般にも晩年の不遇が悼(イタ)まれ、数々の天満宮(テンマ
ングウ)・天神(テンジン)・文道の神として、全国に異例の尊崇を受
ける。
「天満大自在天神」はヒンズー教のシバ神(世界を創造し支配
する最高神)で、仏教では白牛に乗る神。
◆道真忌[旧暦 2.25]。
◆北野梅花祭[ 2.25]京都市上京区馬喰町の北野神社。
◆梅まつり[ 2.25〜 3.15]東京都文京区の湯島天神。
◆菜種御供(ナタネゴク)[ 3.25](月遅れ)大阪府藤井寺市の道明寺
天満宮。
すぎ がんあみ
杉 贋阿弥
1870(明治 3. 3.10)
1917. 5.13(大正 6)
◇演劇評論家。本名は杉諦一郎(テイイチロウ)。備中国生れ。明治法
律学校(現:明治大学)中退。
すぎ こうじ
杉 亨二
1828(文政11.10.10)
1917.12. 4(大正 6)
◇啓蒙学者。統計学の発達に尽力した。次女里子は高山樗牛(チョ
ギュウ)の妻。
すぎ としすけ
杉 敏介
1872(明治 5. 5.28)
1960. 7. 2(昭和35)
◇教育者(一高の校長)。号は烏山。『吾輩は猫である』の津木
ピン助のモデル。
すぎ へいすけ
杉 兵助
1916. 2.17(大正 5)
1995. 6.16(平成 7)
◇コメディアン。
すぎうら いさく
杉浦 伊作
1902. 8.28(明治35)
1953. 5.14(昭和28)
◇詩人。
すぎうら しげたけ
杉浦 重剛
1855(安政 2. 3. 3)
1924. 2.13(大正13)
◇明治・大正時代の教育家・国粋主義思想家。号は梅窓・
天台道士。近江国膳所(ゼゼ)藩儒者重文の次男。
藩校遵義堂で学び、のち貢進生として大学南校に入学。1876
(明治 9)イギリスに留学し、1880(明治13)帰国。
東京大学予備門長・高等教育会議議員などを歴任。
三宅雪嶺らの雑誌「日本人」・新聞「日本」の刊行に参加、独自
の国粋論を唱道。
1885(明治18)日本中学校を創立し校長に就任。国学院学監・
皇展講究所幹事長・東亜同文書院長などを歴任。1914(大正 3)
東宮御学問所御用掛(倫理を担当)。
東京淀橋の自宅で没。
著書は『倫理御進講草案』・『日本教育原論』など。
◎「じゅうごう(重剛)」とも呼ぶ。
すぎうら じゅうごう《すぎうら ぢゆうがう》
杉浦 重剛
⇒すぎうら しげたけ(杉浦 重剛)
すぎうら しょういちろう《すぎうら しやういちらう》
杉浦 正一郎
1911. 2. 9(明治44)
1957. 2.23(昭和32)
◇俳人。
すぎうら すいこ
杉浦 翠子
1891. 5.27(明治24)
1960. 2.16(昭和35)
◇歌人。本名は翠(ミドリ)。川崎生れ。杉浦非水(ヒスイ)の妻。
女子美術卒業。
(3)誕生日は1891. 5.27(明治24)。
(5)誕生日は1891. 5.27(明治24)。埼玉県生れ。
(9)誕生日は1885. 5.17(明治18)。
(11)誕生日は1885. 5.17(明治18)。
(13)誕生日は1891. 5.27(明治24)。
すぎうら ばいたん
杉浦 梅潭
1826(文政 9)
1900. 5.30(明治33)
◇漢詩人。姓は久須美(クスミ)のち杉浦、字は求之(キュウシ)、号は
梅潭。
すぎうら ひすい
杉浦 非水
1876. 5.15(明治 9)
1965. 8.18(昭和40)
◇商業美術家・図案画家。本名は朝武(ツトム)、旧姓は白石。松
山重信町生れ。杉浦翠子(スイコ)の夫。
東京美術学校で川端玉章・黒田清輝らに学び、1901(明治34)
日本画選科卒業。
雑誌・本の装丁などを手がけ、三越図案部主任となりポスタ
ーなどを担当。
多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)を創始し校長。図案家
団体の七人社を結成。
すぎうら ひなこ
杉浦 日向子
1958.11.30(昭和33)
2005. 7.22(平成17)
◇漫画家・文筆家・江戸風俗研究家。本名は鈴木順子(ジュンコ)。
東京都京橋の呉服商の娘。
日本大学芸術学部を中退。
1984(昭和59)『合葬』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。
1988(昭和63)『風流江戸雀』で文芸春秋漫画賞を受賞。
1993(平成 5)漫画家を引退。
下咽頭ガンで死去。
作品はエッセイ『江戸へようこそ』・『お江戸風流さんぽ道』、
小説『ごくらくちんみ』など。
すぎうら ゆきお《すきうら ゆきを》
杉浦 幸雄
1911. 6.25(明治44)
2004. 6.18(平成16)
◇漫画家。東京生れ。
郁文館中学校、卒業。
岡本一平に漫画を学ぶ。
1932(昭和 7)近藤日出造・山隆一らと新漫画派集団を結成。
1938(昭和13)雑誌「主婦之友」に『ハナ子さん』を連載開始。
すぎき たかし
杉木 喬
1899. 1. 5(明治32)
1968. 9.12(昭和43)
◇アメリカ文学者。
すぎさか こうげつ
杉坂 幸月
1902. 2.18(明治35)
1930.12. 7(昭和 5)
◇小説家。杉阪とも署名する。
すぎた げんぱく
杉田 玄白
1733(享保18. 9.13)
1817(文化14. 4.17)
◇江戸中期の蘭方医。名は翼(タスク)、字は子鳳、号は(「壹」偏+
「鳥」)斎(イサイ)・九幸翁。庵号は天真楼・小詩仙堂。若狭国小浜
藩医杉田玄甫の子、杉田立卿(リッケイ)の父、杉田伯玄(ハクゲン)の
養父。
著書は『蘭学事始』など。
◎山脇東洋の刑死体解剖は1754(宝暦 4)。
すぎた せいけい
杉田 成卿
1817(文化14)
1859(安政 6)
◇江戸後期の蘭方医。杉田玄白(ゲンパク)の孫。
すぎた つるこ
杉田 鶴子
1882.12. 6(明治15)
1957. 4.20(昭和32)
◇歌人。本名は「つる」。杉田玄白の子孫で小児科医。
すぎた ひさじょ
杉田 久女
1890. 5.30(明治23)
1946. 1.21(昭和21)
◇俳人。旧姓は赤堀。鹿児島市生れ。お茶の水高等女学校卒業。
1908(明治41)画家杉田宇内と結婚。晩年は精神衰弱が高じ、太
宰府九大病院分院で没。
(1)本名は久子。
(3)本名は久女(クメ)。
(5)本名は久子。明治四一年御茶水高女卒。翌年画家杉田宇内
と結婚、……。
(9)本名は久子。
(11)本名は久子。
◆久女忌[ 1.21]。
すぎた りっけい
杉田 立卿
1786(天明 6)
1845(弘化 2)
◇江戸中期の蘭方医。「りゅうけい」とも。杉田玄白(ゲンパク)の
子。
すぎた りゅうけい《すぎた りふけい》
杉田 立卿
⇒すぎた りっけい(杉田 立卿)
すぎたに だいすい
杉谷 代水
1874. 8.21(明治 7)
1915. 4.21(大正 4)
◇詩人・劇作家。本名は虎蔵。
すぎの じゅうへいじ
杉野 十平次
⇒すぎの つぎふさ(杉野 次房)
すぎの つぎふさ
杉野 次房
1676(延宝 4)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、札座横目、禄高八両三人扶
持。通称は十平次(ジュウヘイジ)、戒名は刃可仁剣信士、吉良家を
探索中の変名は杉野九一右衛門(クイチエモン)。
吉良家討ち入りでは裏門隊、三村次郎左衛門(ジロウザエモン)包
常(カネツネ)とともに大槌で裏門を打ち破る。毛利(モウリ)甲斐守の
麻布(アザブ)屋敷に預けられ、翌年、榊庄右衛門(サカキ・ショウエモン)
の介錯(カイシャク)で切腹。
すぎはら ぜんのすけ
杉原 善之介
1898. 7.25(明治31)
1944. 3.10(昭和19)?
◇小説家。本名は善之助。東京大空襲で死亡したと伝えられる。
すぎはら ちうね
杉原 千畝
1900(明治33)
1986(昭和61)
◇外交官。岐阜県加茂郡(カモグン)八百津町(ヤオツチョウ)生れ。妻は
幸子。
早稲田大学在学中に外務省留学試験に合格。書記生などを経
て、1939(昭和14)リトアニア領事代理として首都カウナスに赴
任。1940(昭和15)ユダヤ人らがナチス・ドイツの迫害から逃れ
るために日本の通過ビザ発給を求めて領事館に殺到。千畝は日
本政府に3度ビザ発給許可を申請したが、ドイツと同盟関係に
あった日本政府は認められなかった。千畝は独自の判断で、約
6千人に対してビザを発給。
1947(昭和22)人員整理で外務省を退官し、貿易会社などに勤
務。
1985(昭和60)イスラエル政府からユダヤ人の生命を救った外
国人に与えられる勲章「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェ
ム章)」を受章。
◎八百津町には町営の杉原千畝記念館がある。
◎「ちうね」はユダヤ人には発音しづらく「せんぽ」と呼ばれてい
たため、戦後しばらくの間、イスラエル政府は本人を探し出せ
ずにいた。
すぎむら そじんかん
杉村 楚人冠
1872(明治 5. 8.28)
1945.10. 3(昭和20)
◇新聞記者・評論家・随筆家。本名は広太郎、別号は縦横・
紀伊縦横生。和歌山県生れ。自修私学校・和歌山中学校・英吉
利法律学校を経て1890(明治23)国民英学会卒業。1891(明治24)
和歌山新報社に入社。1892(明治25)上京し、自由神学校(のち
の先進学院)に入学、かたわら国民新聞社で英文翻訳をし、
1896(明治29)卒業。
(1)誕生日は 8.28。
(3)誕生日は 7.25。
(5)誕生日は 8.28。
(9)誕生日は 8.28。
(11)誕生日は 8.28。
(13)誕生日は 7.25。
すぎもと かんいち
杉本 寛一
1888.10. 1(明治21)
1959. 6.11(昭和34)
◇歌人。
すぎもと けんきち
杉本 健吉
1905. 9.20(明治38)
2004. 2.10(平成16)
◇洋画家・挿絵画家。名古屋市出身。
1923(大正12)愛知県立工業学校(現:県立愛知工業高校)図案
科を卒業。
1925(大正14)洋画家岸田劉生(リュウセイ)の門下生となる。
1950(昭和25)「週刊朝日」に連載される吉川英治作『新・平家
物語』の挿絵を担当。のち、吉川英治の『私本・太平記』・
『新・水滸伝』などの挿絵も担当。
1983(昭和58)四天王寺の障壁画『聖徳太子絵伝』を完成。
すぎもと はやお
杉本 捷雄
1905. 1. 1(明治38)
1970.11.17(昭和45)
◇小説家。
すぎもと まさお《すぎもと まさを》
椙本 まさを
⇒すぎもと まさを(椙本 まさを)
すぎもと まさを
椙本 まさを
生年不詳
没年不詳
◇小説家。1915(大正 4)結婚して国分と改姓。「青踏」で活躍。
すぎもと りょうきち
杉本 良吉
1907. 2. 9(明治40)
1939.10.23(昭和14)
◇演出家。本名は吉田好正。筆名は白浜蹴。1931(昭和 6)共産
党に入党。1938(昭和13)コミンテルンとの連絡を志して女優
岡田嘉子と樺太国境からソ連に入ったが任務を果たせずに死亡。
すぎもり こうじろう
杉森 孝次郎
1881. 4. 9(明治14)
1968.12. 8(昭和43)
◇評論家・政治学者・社会学者。旧姓は白松(シロマツ)、号は南山。
静岡県小笠郡南山村生れ。1906(明治39)早稲田大学卒業。1913
〜1919(大正 2〜大正 8)文部省留学生としてドイツ・イギリス
に渡る。
すぎやま いってん
杉山 一転
1877. 5.15(明治10)
1921. 2.24(大正10)
◇俳人。本名は一二。
すぎやま げん
杉山 元
1880(明治13)
1945(昭和20)
◇元帥・陸軍大将。福岡県生れ。
1937(昭和12)陸軍大臣。1940(昭和15)参謀総長。1944(昭和
19)陸軍大臣。1945(昭和20)第一総軍司令官。
敗戦に際し夫妻で自殺。
すぎやま けんぎょう《すぎやま けんげう》
杉山 検校
⇒すぎやま わいち(杉山 和一)
すぎやま さんぷう
杉山 杉風
1647(正保 4)
1732(享保17. 6.13)
◇江戸前期の俳人。通称は藤左衛門また市兵衛、別号は採荼庵
(サイダアン)・蓑翁(サオウ)。蕉門十哲の一人。江戸生れ。幕府御用
の魚問屋鯉屋(コイヤ)。
芭蕉が江戸に来るとすぐ入門し、深川の芭蕉庵を提供する。
著書は『常盤屋句合』・『杉風句集』・『冬かづら』など。
すぎやま ひでき
杉山 英樹
1911.11. 8(明治44)
1946. 4. 1(昭和21)
◇文芸評論家。本名は利一。栃木県生れ。文化学院卒業。
(3)誕生日は 1. 8。
(5)誕生日は11. 8。
(9)誕生日は11. 8。
(11)誕生日は11. 8。
すぎやま へいすけ
杉山 平助
1895. 6. 1(明治28)
1946.12.21(昭和21)
◇評論家。筆名は氷川烈(ヒカワ・レツ)。大阪生れ。生家は岡山藩士。
1911(明治44)慶応大学理財科入学。
1913(大正 2)肺患のため中退。
(3)没日は12. 1。
(5)没日は12.21。
(9)没日は12.21。
(11)没日は12.21。
(13)没日は12.21。
すぎやま へいはち
杉山 平八
生年不詳
没年不詳
◇江戸中期の歌舞伎俳優。初名は山下いっき、のち山下文左衛
門。
杉山勘左衛門の養子となり杉山平八に改名。
1718(享保 3)杉山勘左衛門を継ぐ。
すぎやま まこと
杉山 誠
1907. 5. 1(明治40)
1968.12.30(昭和43)
◇演劇評論家。
すぎやま もとじろう《すぎやま もとぢらう》
杉山 元治郎
1885(明治18)
1964(昭和39)
◇明治・昭和期の農民運動家・政治家。大阪府生れ。
東北学院神学部を卒業後、キリスト教伝道に従事。
1922(大正11)賀川豊彦らとともに日本農民組合を結成し、組
合長となる。
1926. 3. 5(大正15)労働農民党を結成し、委員長となる。
1932(昭和 7)以降、衆議院議員当選9回。
1946(昭和21)日本社会党顧問に就任。
すぎやま わいち
杉山 和一
1610(慶長15)
1694(元禄 7. 5.18)
◇江戸前期の鍼医(ハリイ)。幼名は養慶・信都・信一、通称は
杉山検校。伊勢国津藩士杉山権右衛門重遠の子。
幼くして失明し家を弟に譲り、江戸に出て検校山瀬琢一や入
江豊明に鍼術(シンジュツ)を学び、奥義を究める。
性格が鈍重なためしばしば逐われ、京都に行こうとして江ノ
島弁財天にいたり、ここで断食祈願して神の御告げを受けて管
鍼(クダバリ)の術を考案、杉山流鍼術を開き名医となる。
第4代将軍徳川家綱に引見。1685(貞享 2)第5代将綱吉の病
を治療し、本所一つ目に宅地を与えられて禄500石を受ける。
綱吉の命で鍼治療講習所を設け門下を教育。1692(元禄 5)関
東総録検校となる。
著書は杉山流三部書と呼ばれる『療治大概集』・『遺選鍼三
要集』・『節要集』など。
◆墓は東京都墨田区立川1−4−13の弥勒寺。
◎宅地跡は江島杉山神社(墨田区千歳)となっている。
(2)生年は1613?(慶長18?)。
(4)生年は1610。
(16)生年は1610(慶長15)。
すけひと しんのう《すけひと しんわう》
典仁 親王
1733(享保18)
1794(寛政 6)
◇江戸後期の皇族。閑院宮第二代。閑院宮直仁(ナオヒト)親王の王
子、東山天皇の孫、光格(コウカク)天皇の父。
1742(寛保 2)中御門天皇の猶子(ユウシ)となり、翌年親王。
1789(天明 9)光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊
号を奏上しようとし、江戸幕府に妨げられる(尊号事件)。
◎1884. 3.(明治17)明治天皇も典仁親王に慶光太上天皇の尊号
を贈っているが、歴代天皇には数えられない。
すけろく
助六
⇒あげまきのすけろく(総角 助六)
ずしょ ひろさと
調所 広郷
1776(安永 5)
1848(嘉永元.12.18)
◇江戸後期の薩摩藩の家老。初名は良八、のち友治・笑悦、通
称は笑左衛門(ショウザエモン)。鹿児島城下生れ。川崎主右衛門の次
男。
調所清悦の養子となり、友治と改名。
1790(寛政 2)表坊主。
1798(寛政10)前藩主島津重豪(シゲヒデ)の奥坊主となり、笑悦
と改名。寵愛(チョウアイ)を受けて累進(ルイシン)し、茶道頭・小納戸
頭・町奉行を経て、1825(文政 8)御側用人(オソバヨウニン)家老格と
なる。
1827(文政10)藩主斉興(ナリオキ)に信任されて藩財政の改革を命
ぜられ、藩の天保改革の中心として尽力。藩債の棚上げ、ナタ
ネ・薬種などの国産の奨励と黒砂糖の藩専売、琉球を利用した
中国との密貿易などにより財政を再建。
改革の功により1833(天保 4)家老となり、開明派の島津斉彬
(ナリアキラ)と対立。
密貿易が幕府に露見して、責任を負って江戸藩桜田邸で服毒
自殺。
◎藩債の棚上げでは、1835(天保 6)藩債500万両の無利子250年
賦償還を江戸・大坂・京都の御用商人に強制。国許の藩債は貸
主を士分に取立てとして元利とも破棄させた。
天保末期には藩庫備蓄金50万両・諸営繕費用200万両余に達
し、幕末に雄藩として活躍する財政基盤を築いた。
すずか つらたね
鈴鹿 連胤
1795(寛政 7)
1870(明治 3.11.20)
◇江戸後期・幕末の神道家・国学者。幼名は幸松、号は誠斎。
隆芳の子、長存の父。代々吉田家家老の家に生れる。
神祇権少副兼筑前守・吉田神社権預・吉田家家老。1866(慶
応 2)従三位。
すずか のぶろ
鈴鹿 野風呂
1887. 4. 5(明治20)
1971. 3.10(昭和46)
◇俳人。本名は登。京都生れ。第七高等学校を経て京都大学国
文科卒業。
(1)本名は登。
(3)本名は勝近。
(5)本名は登。
(9)本名は登。
(11)本名は勝近。
すずき いっぺい
鈴木 一平
1887(明治20)
1971(昭和46)
◇大修館の創業者。千葉県木更津町生れ。
小学校を卒業して上京。いろいろな職業を経て、31歳のとき
神田錦町に大修館を創立。
諸橋轍次(モロハシ・テツジ)を2年がかりで口説き落とし、1928(昭
和 3)漢和辞典の編纂を開始し、1943. 9.(昭和18)第1回配本、
戦争となり被災し中止。戦後、大学在学中の長男と高校在学中
の次男を共に退学させ、事業を再開。1955.11.(昭和30)『大漢
和辞典』(全13巻)第1巻を刊行、1960(昭和35)完結。
すずき えつ
鈴木 悦
1886.10.17(明治19)
1933. 9.11(昭和 8)
◇小説家・労働運動家。田村松魚(ショウギョ)の妻俊子と恋愛、米
国に渡りあとを追って来た俊子と結婚。日系労働者のための労
働運動に身を挺する。
すずき えんろう
鈴木 燕郎
1888. 9.20(明治21)
1973. 2.16(昭和48)
◇俳人・茶道教師。本名は留次郎。
すずき かそん
鈴木 華邨
1860(万延元. 1. 2)
1919. 1. 3(大正 8)
◇日本画家。通称は惣太郎、別号は忍青。
すずき かんたろう
鈴木 貫太郎
1867(慶応 3)
1948(昭和23)
◇明治〜昭和前期の海軍軍人(大将)・政治家。和泉(大阪府)の
陣屋生れ。関宿藩(千葉県)代官鈴木由哲の長男、鈴木孝雄の兄。
1945. 4. 7(昭和20)組閣。
すずき けんろう
鈴木 健郎
1907. 3. 9(明治40)
1963. 2.24(昭和38)
◇フランス文学者。
すずき こそん
鈴木 鼓村
1875. 9. 9(明治 8)
1931. 3.12(昭和 6)
◇邦楽家。本名は映雄(テルオ)、土佐絵の号は那智俊宣。
すずき しげたね
鈴木 重胤
1812(文化 9)
1863(文久 3. 8.15)
◇江戸後期の国学者。姓は穂積、通称は雄三郎のち勝左衛門、
号は橿廼家(カシノヤ)・厳橿本、重胤は諱(イミナ)。淡路国津名(ツナ)
郡仁井村の庄屋の家に生れる。父は重威。
父に学問の手ほどきを受け、大坂・神戸で奉公のかたわら学
問に励む。1832(天保 3)平田篤胤(アツタネ)に書信で教えを受ける
が、面会できないうちに篤胤は亡くなる。1834(天保 5)ころ大
国隆正(タカマサ)に入門。江戸に居を構え、越後や出羽などにおも
むき学説を広める。しだいに篤胤の学説を批判し、1857(安政
4)篤胤の養子銕胤(カネタネ)らと不和が生じ、翌年平田家から破門。
江戸在住中に凶徒に暗殺された。
すずき しげね
鈴木 重嶺
1814(文化11)
1898.11.26(明治31)
◇歌人。
すずき しこう
鈴木 氏亨
1885.10. 2(明治18)
1948. 1.15(昭和23)
◇小説家。
すずき じゅうろう
鈴木 十郎
1896. 4. 8(明治29)
1975. 5. 4(昭和50)
◇歌人・歌舞伎研究家。
すずき しゅんぽ
鈴木 春浦
1868(明治元. 3. 9)
1927. 4.20(昭和 2)
◇演劇評論家。本名は本次郎、別号は「すの字」・石原防風。
すずき しょうさん
鈴木 正三
1579(天正 7)
1655(明暦元. 6.25)
◇江戸前期の仮名草子作者。名は重光・重三(シゲミツ)、通称は
正三(マサミツ)・九太夫、号は石平道人(セキヘイドウジン)・玄々軒、法
号は正三。代々の幕臣で徳川家康・秀忠に仕えたが、1620(元
和 6)出家。弟鈴木重成(シゲナリ)が島原の乱で武功を立て天草代
官になったので、正三も天草に赴(オモム)きキリシタンを一掃す
べく仏寺を建て『破吉利支丹(ハキリシタン)』を著す。
すずき しんたろう
鈴木 信太郎
1895. 6.17(明治28)
1970. 3. 4(昭和45)
◇フランス文学者。東京生れ。1919(大正 8)東京大学仏文科卒
業。
すずき すじゃく
鈴木 朱雀
1891.12. 7(明治24)
1972. 5. 4(昭和47)
◇画家・挿絵画家。本名は幸太郎。
野田九浦に師事、川端画学校に学ぶ。1920(大正 9)第2回帝
展に初入選。
すずき せいじろう
鈴木 清次郎
1901. 8.21(明治34)
1960. 2.12(昭和35)
◇小説家。
すずき ぜんこう《すずき ぜんかう》
鈴木 善幸
1911. 1.11(明治44)
2004. 7.19(平成16)
◇政治家。岩手県下閉伊郡(シモヘイグン)山田町(ヤマダマチ)生れ。
網元の子に生れる。
1935(昭和10)農林省水産講習所(現:東京海洋大学)養殖学科
卒業。
1947. 4.(昭和22)社会党から出馬して衆議院議員に初当選。
社会革新党を経て、1949. 1.(昭和24)衆議院選挙で民主自由
党(のち保守合同で自由民主党)に鞍替え。
1960(昭和35)第一次池田内閣の郵政大臣として初入閣。
官房長官・厚生大臣(第一次佐藤内閣)・党総務会長・農林水
産大臣(福田内閣)を歴任。
1980. 6.(昭和55)大平正芳首相の急逝により、大平派幹部と
して同年 7.17第70代首相に就任(〜1982.11.)。
1990(平成 2)政界から引退。
◎2004. 7.22(平成16)正二位・大勲位菊花大綬章を追贈。
すずき せんざぶろう
鈴木 泉三郎
1893. 5.10(明治26)
1924.10. 6(大正13)
◇劇作家。筆名は豊島屋主人・伊豆巳三郎。東京生れ。大倉商
業卒業。
すずき ぜんたろう
鈴木 善太郎
1883. 1.19(明治16)
1950. 5.19(昭和25)
◇劇作家・翻訳家。
(3)生年は1883(明治16),没年は1950(昭和25)。
(9)生年は1884(明治17),没年は1951(昭和26)。
すずき だいせつ
鈴木 大拙
1870(明治 3.10.18)
1966. 7.12(昭和41)
◇仏教哲学者・禅思想家。本名は貞太郎(テイタロウ)。加賀金沢の
前田藩家老本多家の医師了準(良準)の末子。石川専門学校卒業、
新制の第四高等中学予科三年に編入、本科一年で家計の都合で
中退。英語教師をしたのち、東京専門学校(現:早稲田大学)に
学び、東京大学選科に入学。
鎌倉円覚寺の今北洪川(イマキタ・コウセン)、没後はその弟子釈宗演
(シャク・ソウエン)に参禅。1897(明治30)宗演の推薦で渡米。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
すずき たかお
鈴木 孝雄
1869(明治 2)
1964(昭和39)
◇明治・大正期の陸軍軍人(大将)。鈴木貫太郎の弟。
すずき たかし
鐸木 孝
1900. 2.20(明治33)
1967.11. 4(昭和42)
◇歌人。本名は鈴木幸一。
すずき つきひこ
鈴木 月彦
1825(文政 8)
1892. 3.20(明治25)
◇俳人。本名は穂積勝重、別号は東杵庵四世・宝の屋・柴花園
・素学堂・言霊道人。
すずき てんがん
鈴木 天眼
生年不詳
没年不詳
◇明治中期の評論家。本名は力。
すずき としさだ
鈴木 利貞
1894. 8.23(明治27)
1967.12.23(昭和42)
◇ジャーナリスト。本名は利貞(リテイ)。
すずき とらお
鈴木 虎雄
1878. 1.18(明治11)
1963. 1.20(昭和38)
◇中国文学者・漢詩人・歌人。号は蘊房・葯房(和歌)・豹軒
(漢詩)。
(2)葯房(和歌)。
(3)蘊房(和歌)。
(9)号は豹軒(ヒョウケン)・葯房(ヤクボウ)。
すずき はなみの
鈴木 花蓑
1881.12. 1(明治14)
1942.11. 6(昭和17)
◇俳人・大審院の書記。本名は喜一郎。愛知県生れ。
(1)誕生日は12. 1。
(3)誕生日は12.、日の記載なし。
(5)誕生日は 8.15。
(9)誕生日は 8.15。
(11)誕生日は 8.15。
すずき はるのぶ
鈴木 春信
1725(享保10)
1770(明和 7. 6.15)
◇浮世絵師。本姓は穂積、通商は次兵衛、号は長栄軒。
すずき ひこじろう
鈴木 彦次郎
1898.12.27(明治31)
1975. 7.23(昭和50)
◇小説家。
すずき ひろやす
鈴木 弘恭
1843(天保14.12.11)
1897. 7.31(明治30)
◇歌人・国文学者。号は十八公舎。
すずき ぶんしろう
鈴木 文史朗
1890. 3.19(明治23)
1951. 2.23(昭和26)
◇ジャーナリスト・評論家。本名は文四郎。
すずき ぼくし
鈴木 牧之
1770(明和 7. 1.27)
1842(天保13. 5.15)
◇江戸後期の郷土史家。本名は儀三治。越後国生れ。
すずき まさゆき
鈴木 雅之
1837(天保 8)
1871(明治 4. 4.21)
◇国学者・歌人。
すずき みえきち
鈴木 三重吉
1882. 9.29(明治15)
1936. 6.27(昭和11)
◇小説家・童話作家。広島市猿楽町(サネガクチョウ)生れ。
1891(明治24)広島市本川小学校入学、1896(明治29)広島県立
第一中学入学、1901. 9.(明治34)第三高等学校入学、1904. 9.
(明治37)東京大学英文科入学、翌年九月に神経衰弱のため休学、
1908. 7.(明治41)卒業。
1918. 7.(大正 7)児童雑誌「赤い鳥」を創刊。
すずき もさぶろう
鈴木 茂三郎
1893. 2. 7(明治26)
1970. 5. 7(昭和45)
◇政治家。1928(昭和 3)無産大衆党を結成。戦後は日本社会党
の発起人、第2代委員長。
すずき もといち
鈴木 元一
1923(大正12)
1956.12.27(昭和31)
◇国鉄職員・劇作家。事故死。
すずき よしじ
鈴木 義司
1928. 9.26(昭和 3)
2004. 7.17(平成16)
◇漫画家。東京出身。
都立理工専門学校(現:都立大学)、卒業。
1966. 6.〜2004. 7. 2(昭和41〜平成16)「読売新聞」夕刊に万
年平サラリーマンの『サンワリ君』を連載。
すずき りきえ
鈴木 力衛
1911. 5. 1(明治44)
1973. 6.14(昭和48)
◇フランス文学者。
すすきだ かねすけ
薄田 兼相
⇒すすきだ はやと(薄田 隼人)
すすきだ きゅうきん
薄田 泣菫
1877. 5.19(明治10)
1945.10. 9(昭和20)
◇詩人・随筆家。本名は淳介(ジュンスケ)、号は抱琴坊(ホウキンボウ)
泣菫・杏堂(キョウドウ)・無憂樹。岡山県浅口郡連島(ツラジマ)村の
農家に生れる。岡山県立中学校を二年で中退、1894(明治27)上
京。四十歳ころパーキンソン氏病を発病。
すすきだ けんじ
薄田 研二
1898. 9.14(明治31)
1972. 5.26(昭和47)
◇俳優。本名は高山徳右衛門。
すすきだ はやと
薄田 隼人
生年不明
1615
◇豊臣秀吉の武将。兼相(カネスケ)。大阪夏の陣で戦死。伝説上の
岩見重太郎(ジュウタロウ)のモデル。
(*)1615(慶長20,元和元)。
すだ くにたろう
須田 国太郎
1891. 6. 6(明治24)
1961.12.16(昭和36)
◇画家。
すだ ていいち
須田 禎一
1909. 1.21(明治42)
1973. 9.18(昭和48)
◇新聞人・評論家。
すどう ごじょう
数藤 五城
1871(明治 4.12.24)
1915. 8.21(大正 4)
◇俳人・歌人。本名は斧三郎、旧姓は中村、号は小野三郎(短
歌)。
すどう さだのり
角藤 定憲
1867(慶応 3)
1907. 1.20(明治40)
◇新派俳優。岡山県生れ。
京都で巡査をしたのち、大阪に出て自由党壮士となる。中江
兆民の門に入り、「東雲新聞」の記者となる。兆民のすすめで1
888(明治21)「大日本壮士改良演劇会」の一座を組織して大阪新
町座で旗揚げ。全国で巡演したが東京では評判とならず、1895
(明治28)以降は地方回りのみとなり、不遇のうちに一生を終る。
すどう しげる
須藤 しげる
1898(明治31)
1946(昭和21)
◇挿絵画家。愛知県豊田市生れ。
岸田劉生(リュウセイ)に油絵を学び、のち日本画家中村岳陵(ガクリョ
ウ)に師事。「少女の友」・「少女倶楽部」などに挿絵を描く。
すどう しょういち
須藤 鐘一
1886. 2. 1(明治19)
1956. 3. 9(昭和31)
◇小説家。本名は荘一。
すどう しんう
須藤 滲雨
生年不詳
没年不詳
◇歌人。北原白秋に師事。
すどう てんのう《すだう てんわう》
崇道 天皇
⇒さわら しんのう(早良 親王)
すどう なんすい
須藤 南翠
1857(安政 4.11. 3)
1920. 2. 4(大正 9)
◇小説家・新聞記者。幼名は孟、本名は光暉(ミツテル)、別号に
土屋南翠・土屋郁之助(イクノスケ)・土屋郁之進・土屋郁・揚外堂
主人・古蒼楼・坎(「土」偏+「可」)山人。伊予国生れ。藩校明倫
館に学び、転じて松山師範学校を卒業。妻は矢野竜渓(リュウケイ)
の姪小林シズ。
(5)誕生日は1857(安政 4.11. 3)。
(6)「饗庭篁村(アエバ・コウソン)」の項:1858〜1920。
(13)安政五年(1858)一一月伊予宇和島に生まる。
すどうじんけい こうてい
崇道尽敬 皇帝
⇒とねり しんのう(舎人 親王)
すとく てんのう《すとく てんわう》
崇徳 天皇
1119(元永 2. 5.28)
1164(長寛 2. 8.26)
◇第75代天皇。名は顕仁(アキヒト)、院号は讃岐院。鳥羽天皇の第
1皇子、母は中宮藤原璋子(ショウシ)(待賢門院)。
白河院のもとで1123(保安 4. 2.19)即位(5歳)。鳥羽上皇に
よって1141(永治元)3歳の体仁(ナリヒト)親王(近衛天皇,鳥羽天皇
の第9皇子,母は美福門院藤原得子<トクシ>)に譲位を強いられる。
この結果、鳥羽法皇は本院、崇徳上皇は新院と呼ばれる。
次の天皇は子の重仁親王の言質を得ていたが、1155(久寿 2.
10.)雅仁親王(後白河天皇,鳥羽天皇の第4皇子,母は待賢門院
璋子)が即位。
1156(保元元)鳥羽法皇の死後、直ちに兵を挙げ左大臣藤原頼
長とともに後白河天皇を襲ったが(保元の乱)、敗れて讃岐の松
山に配流され、同地で没。
即位:1123(保安 4. 2.19)、退位:1141(永治元.12. 7)。
すのうち とおる
洲之内 徹
1913. 1.17(大正 2)
1987.10.28(昭和62)
◇小説家。松山生れ。東京美術学校中退。左翼運動で検挙。
1938〜1945(昭和13〜昭和20)中国で特務機関員。
すみ おうとう
角 鴎東(鴎:「區」偏+「鳥」)
1882. 6.29(明治15)
1965. 4.10(昭和40)
◇歌人。本名は利一(リイチ)。
すみだ ちくれい
角田 竹冷
⇒つのだ ちくれい(角田 竹冷)
すみだ ようきち
隅田 葉吉
1898. 7.24(明治31)
1964. 1. 9(昭和39)
◇歌人。
[1]すみとも きちざえもん《すみとも きちざゑもん》
住友 吉左衛門(3代当主)
⇒すみとも とものぶ(住友 友信)
[2]すみとも きちざえもん《すみとも きちざゑもん》
住友 吉左衛門(4代当主)
⇒すみとも ともよし(住友 友芳)
[3]すみとも きちざえもん《すみとも きちざゑもん》
住友 吉左衛門(15代当主)
⇒すみとも ともいと(住友 友純)
すみとも ともいと
住友 友純
1864
1926(大正15)
◇明治・大正期の実業家。徳大寺公純(キンイト)の子、徳大寺実則
(サネノリ)・西園寺公望(キンモチ)の実弟。
1892(明治25)公卿徳大寺家から住友家に入る(第15代当主)。
1895. 5.(明治28)住友銀行を創設。
倉庫業など事業を拡大させ、住友を三井・三菱とならぶ財閥
に発展させる。
(*)1864(文久 4,元治元)。
すみとも とものぶ
住友 友信
1647(正保 4)
1706(宝永 3)
◇江戸初期の銅商・住友第3代当主。第2代当主友以(トモモチ)の
子。
◎吉左衛門と称し、以後代々吉左衛門を襲名。
すみとも とももち
住友 友以
1607(慶長12)
1662(寛文 2)
◇銅商・住友第2代当主。蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の子、住友
政友(マサトモ)の娘婿、第3代当主友信(吉左衛門)の父。
父理右衛門とともに泉屋を貿易商・両替商・銅山経営に拡大。
すみとも ともよし
住友 友芳
1670(寛文10)
1719(享保 4)
◇江戸中期の銅商・住友第4代当主。
1690(元禄 3)別子銅山を発見し採掘権を得て、翌1691(元禄
4)採掘・経営。
江戸幕府の貨幣鋳造なども営む。
すみとも まさとも
住友 政友
1585(天正13)
1652(慶安 5)
◇住友初代当主。越前丸岡(現:福井県丸岡町)の武家の二男。
姉は蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の妻、娘は蘇我理右衛門(ソガ・リエモ
ン)の子友以の妻。
12歳のころ京へ上り、涅槃宗(ネハンシュウ)の僧空源(クウゲン)に弟
子入りし、空禅(クウゼン)と号し、やがて文殊院の称号を得る。
幕府の宗教政策により涅槃宗が天台宗に組み入れられると僧
籍を離れ、45歳のころ京都の仏光寺烏丸(ブッコウジカラスマ)東入ル
で富士屋(フジヤ)の屋号を掲げて書物と薬の店を営み、万病薬の
反魂丹(ハンゴンタン)などを販売。
63歳で嵯峨清凉寺のそばに雙軒庵(ソウケンアン)を建てて隠棲。
◆墓は京都寺町高辻の永養寺。
すみとも りへえ
住友 理兵衛
生年調査中
没年調査中
◇江戸初期の銅商。
元和年間(1615〜1624)大坂に銅商を開業。
◎蘇我理右衛門?
すみのくら そあん
角倉 素庵
1571(元亀 2)
1632(寛永 9)
◇江戸初期の貿易商・学者・書家。名は玄之(ハルユキ)のち貞順、
通称は与一、号は素庵。角倉了以(リョウイ)の長子。
父の安南貿易に従事したほか、富士川再疎通・淀川の改修な
ど、幕府の土木・河川の仕事に功績があった。
藤原惺窩(セイカ)の門人。
本阿弥光悦(コウエツ)に書を学び、角倉流書風の始祖となる。ま
た光悦とともに嵯峨本(角倉本)を刊行。
◎能書家で本阿弥光悦(ホンアミ・コウエツ)・松花堂昭乗(ショウカドウ・ショウジョ
ウ)とともに「洛下の三筆」と呼ばれる。
すみのくら りょうい《すみのくら れうい》
角倉 了以
1554(天文23)
1614(慶長19)
◇安土桃山・江戸初期の豪商・貿易商・土木事業家。名は光好。
角倉素庵(ソアン)の父。京都の生れ。
洛西嵯峨に住む。算数・地理を学ぶ。
豊臣秀吉に朱印状を得て、1604(慶長 9)ころより安南国に朱
印船(角倉船)を派遣して貿易を営み巨利を得る。
また、1606(慶長11)嵯峨の大堰川(オオイガワ)の疎通に成功、つ
づいて富士川・天竜川・賀茂川の水路を開き、京都に二条から
伏見に達する高瀬川を開削。
すみよし ぐけい
住吉 具慶
1631(寛永 8)
1705(宝永 2. 4. 4)
◇江戸前期の画僧。名は広澄(ヒロズミ)、通称は内記、法名は具
慶。住吉如慶(ジョケイ)の子。京都の人。
天和年間(1681〜1684)ころ江戸に出て、1685(貞享 2)幕府の
奥絵師に任ぜられる。のち法眼に叙せられた。
代表作は『洛中洛外図巻』(国立博物館)・『都鄙図巻』(奈
良興福院)など。
すみよし じょけい
住吉 如慶
1599(慶長 4)
1670(寛文10. 6.20)
◇江戸前期の大和絵の画僧・住吉派の祖。名は広通(ヒロミチ)、通
称は内記、法名は如慶。住吉具慶(グケイ)の父。一説に土佐光吉
の子で光則の弟。
京都に住み、土佐光吉・土佐光則に大和絵の土佐派を学び、
光吉の養子となる。
1662(寛文 2)後西天皇の勅命により住吉姓を名乗り、土佐派
から分かれた鎌倉時代の名手住吉慶忍の跡の復興を志し、住吉
派を開く。
幕府の御用絵師を務める。
作品は『堀河夜討絵巻』・『東照宮縁起』・『多武峯縁起』
・『聖徳太子絵伝』・『伊勢物語』など。
すみよし ひろつら
住吉 弘貫
1793(寛政 5)
1863(文久 3)
◇江戸末期の絵師。名は広定・弘定。住吉広守の孫、住吉広行
の次男。
兄広尚の後を継ぎ、住吉派七代目となる。
すやま けいいち
須山 計一
1905. 7.17(明治38)
1975. 4.17(昭和50)
◇画家・漫画家。
すやま つとむ
陶山 務
1895.11.27(明治28)
1974. 9.28(昭和49)
◇哲学者・宗教学者。
すやま とくたろう
陶山 篤太郎
1895. 4. 4(明治28)
没年不詳
◇詩人。
すわ さぶろう
諏訪 三郎
1896.12. 3(明治29)
1974. 6.14(昭和49)
◇小説家・編集者。本名は半沢成二。
すんえ
俊恵
⇒しゅんえ(俊恵)
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