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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6241.03

                 人   名   辞   典    《す》       編集:獨  澄旻

-------- す ----------------------------------------------------
すいこ てんのう《すいこ てんわう》
	推古 天皇
	 554
	 628
	◇第33代天皇・日本最初の女帝。名は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒ
	メ)・額田部(ヌカタベ)皇女。欽明天皇の第三皇女、母は蘇我稲目
	(イナメ)の娘堅塩媛(キタシヒメ)。敏達(ビダツ)天皇の皇后、竹田皇子
	(タケダノミコ)ら2男5女の母。
	  576年、皇后となる。
	  592年、崇峻(スシュン)天皇が蘇我馬子(ウマコ)(推古の兄)に暗殺さ
	れた後、蘇我氏の出として擁立されて大和国豊浦宮(トユラノミヤ)で
	即位。後に大和国小墾田宮(オハリダノミヤ)に遷る。
	 甥の厩戸皇子(ウマヤドノオウジ)(聖徳太子)を皇太子に立て摂政と
	して、冠位十二階・憲法十七条の発布、国史の編纂、遣随使の
	派遣、法隆寺の建立、前後4回の新羅征討など多くの事績を残
	した(飛鳥文化)。
	 在位 592〜628、在位36年間。
	◆推古天皇陵は大阪府太子町(河内国磯長山田陵)。方墳、東西
	61メートル、南北55メートル。
すいた じゅんすけ
	吹田 順助
	1883.12.24(明治16)
	1963. 7.20(昭和38)
	◇ドイツ文学者。号は蘆風(ロフウ)。東京生れ。
	 東京帝国大学独文科卒業。
	 北海道大学予科・旧制第七高等学校・東京商科大学・中央大
	学などの教授を歴任。
	 著書は1938(昭和13)『近代独逸思潮史』、詩文集1952(昭和
	27)『葦の曲』、エッセイ『緑野集』・『パンと見世物』など。
	◎小牧健夫(タケオ)(暮潮)・成瀬清(ナルセ・キヨシ)(無極)とともにドイ
	ツ文学研究の三羽烏(サンバガラス)と呼ばれた。
すうげんいん
	崇源院
	1573
	1626(寛永 3)
	◇江戸前期の将軍の夫人。幼名は小督御料人のち徳子。浅井長
	政の3女、母は織田信長の妹お市の方(小谷の方)。豊臣秀吉の
	側室淀君・京極高次の室常高院の妹。
	 1573(天正元. 8.)織田信長に攻められて小谷城で長政が亡く
	なったとき、母と姉2人と逃れる。
	 1582(天正10. 6. 2)信長が本能寺の変で亡くなり、9月に母
	が柴田勝家と再婚し、母と姉2人と越前国北ノ庄に赴く。1583
	(天正11. 3.)勝家は越前で挙兵、 4.21近江国賤ヶ岳(シズガタケ)
	で羽柴(豊臣)秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)に大敗(賤ヶ岳の戦)。 4.24母
	は居城北ノ庄の城で勝家とともに自殺。この時、娘3人は逃が
	され一乗谷に脱出。
	 はじめ豊臣秀勝に嫁し、のち徳川秀忠(家康の3男,第2代将
	軍)に再婚。秀忠との間に家光(第3代将軍)・忠長・和子(東福
	門院)を生む。
	 死後、崇徳院の諡号と従一位が追贈される。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
すうでん
	崇伝
	1569(永禄12)
	1633(寛永10. 1.20)
	◇江戸初期の僧侶(臨済宗)。字は以心。賜号は円照本光国師。
	足利氏の家臣一色秀勝の第2子。
	 京都南禅寺の住持として塔頭(タッチュウ)金地院(コンチイン)に住み、
	金地院崇伝とも呼ばれる。
	 1605(慶長10)幕府に用いられて僧録司となり、外国文書を掌
	る。のち公家・武家をはじめ諸寺諸宗の制度の制定に参与し、
	黒衣(コクイ)の宰相と呼ばれる。林羅山(ラザン)とともに豊臣家滅
	亡を策する。
	 徳川家康の没後、天海僧正(天台宗)と家康の葬儀の方法や神
	号をめぐって争い失脚。
	 1627(寛永 4)紫衣(シエ)事件の処理をめぐり権勢をふるう。
すえ はるかた《すゑ はるかた》
	陶 晴賢
	1521
	1555(天文24.10. 1)
	◇戦国時代の武将。幼名は五郎、初名は隆房。
	 厳島の戦いで毛利元就軍に敗れて自刃。
	(*)1521(永正18,大永元)
すえかわ ひろし《すゑかは ひろし》
	末川 博
	1892(明治25)
	1977(昭和52)
	◇法学者。山口県生れ。
	 京都大学教授。滝川事件で京大を辞職し、のち立命館総長。
	 著書は『権利侵害論』など。
すえひろ しげやす
	末広 重恭
	⇒すえひろ てっちょう(末広 鉄腸)
すえひろ てっちょう《すゑひろ てつちやう》
	末広 鉄腸(末廣 鐵腸)
	1849(嘉永 2. 2.21)
	1896. 2. 5(明治29)
	◇明治前期の政治家・新聞記者・小説家。本名は重恭(シゲヤス)、
	幼名は雄三郎、別号は浩斎。伊予宇和島生れ。宇和島藩士。
	 15歳で藩校(明倫館)に入り、1869(明治 2)藩校の教授。
	 1875(明治 8)「曙新聞」、のち成島柳北の「朝野新聞」に入り、
	藩閥政治批判の論陣を張り、自由民権運動に参加。馬場辰猪(タ
	ツイ)・大石正巳らと独立党を組織。1890(明治23)帝国議会第一
	回の衆議院議員に当選、1892(明治25)落選、1894(明治27)再び
	当選。
	 頸部癌腫で死去。
	 政治活動のかたわら政治小説『二十三年未来記』・『雪中梅』
	・『花間鶯(カカンオウ)』などを発表。
すえまつ けんちょう
	末松 謙澄
	1855(安政 2. 8.20)
	1920.10. 5(大正 9)
	◇評論家・翻訳家・歌人・政治家。幼名は謙一郎、号は青萍
	(セイヒョウ)・笹波萍二。豊前国(福岡県)生れ。1871(明治 4)上京、
	英学を修める。1874(明治 7)福地桜痴(オウチ)に知られて日報社
	に入社。伊藤博文(ヒロブミ)に才学を認められ官界に入る。
	 伊藤博文の娘婿。
	(1)没日は10. 5。
	(3)没日は10. 6。
	(5)没日は10. 6。
	(9)没日は10. 5。
	(11)没日は10. 6。
	(13)没日は10. 6。
すが ただお
	菅 忠雄
	1899. 2. 5(明治32)
	1942. 7. 9(昭和17)
	◇小説家・編集者。
すが たてひこ
	菅 楯彦
	1878. 3. 4(明治11)
	1963. 9. 4(昭和38)
	◇画家。本名は藤太郎。
すが らば
	菅 裸馬
	1883.10.25(明治16)
	1971. 2.18(昭和46)
	◇実業家・俳人。本名は礼之助。秋田県生れ。東京高等商業卒
	業。原子力産業会議会長。
すが りょうほう
	菅 了法
	1857(安政 4. 2.)
	1936. 7.26(昭和11)
	◇評論家・僧侶(本願寺)。号は桐南。
すがえ ますみ
	菅江 真澄
	1754(宝暦 4)
	1829(文政12. 7.19)
	◇江戸後期の紀行文作者。本名は白井英二(エイジ)・秀雄(ヒデオ)、
	菅江真澄は晩年の改名。三河国吉田宿近郷(現:豊橋市)生れ。
	 1783(天明 3)豊橋近在の郷家を旅立ち、信濃国下伊那郡に入
	る。白井秀雄と名乗る。翌年、越後を経て鼠ヶ関(現:温海町)・
	羽黒山(現:羽黒町)・象潟(キサカタ)・矢島・西馬音内(現:羽後町)
	から柳田(現:湯沢市)に至る。
	 津軽(ツガル)・蝦夷(エゾ)地を巡遊。
	 1801年以降は秋田領内に住み、命じられて地雑取り調べに当
	たる。
	 1810(文化 7)菅江真澄を名乗る。
	(4)田中真麿に国学を学び……。
	(6)植田義方(ヨシエ)(1734-1806)に国学を学び……。
	(*)1801(寛政13,享和元)。
	◆墓は秋田市寺内大小路の鎌田家の墓域。
	 墓碑銘は唯一の弟子、鳥屋長秋(トヤノナガキ)による。
	◎挿絵入りで記された『真澄遊覧記』は秋田県大館市市立中央
	図書館所蔵、貴重な民俗資料となっている。
	 秋田市の秋田県立博物館に1996. 4.(平成 8)菅江真澄資料セ
	ンターが開設。
すがぬま そうしろう
	菅沼 宗四郎
	1884.10. 5(明治17)
	1960(昭和35)
	◇歌人。
すがぬま ただかぜ
	菅沼 貞風
	⇒すがぬま ていふう(菅沼 貞風)
すがぬま ていふう
	菅沼 貞風
	1865(慶応元. 3.10)
	1889. 7. 6(明治22)
	◇明治時代の経済史家・南洋研究家。幼名は貞一郎。「ただか
	ぜ(貞風)」とも呼ぶ。平戸生れ。
	 旧藩主松浦氏の信を得て松浦郡役所に勤務。大蔵省関税局の
	貿易沿革史編集の資料調査を担当し、『平戸貿易史』を著す。
	 南進論者でフィリピン独立運動に関心を示し、1889(明治22)
	移民に関する調査のためフィリピンに渡り、急病死。
	 著書は『大日本商業史』・『新日本図南の夢』など。
すがの けんざん
	菅野 兼山
	1680(延宝 8)
	1747(延享 4)
	◇江戸中期の儒者・闇斎(アンサイ)学者。
	 江戸深川に私塾会輔堂を創設。
すがや はんのじょう
	菅谷 半之丞
	⇒すがや まさとし(菅谷 政利)
すがや まさとし
	菅谷 政利
	1660(万治 3)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻・郡代、禄高
	100石。通称は半之丞(ハンノジョウ)、戒名は刃水流剣信士。吉良家
	の探索中の変名は町人政右衛門(マサエモン)。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
	カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、加藤斧右衛門(オノエモン)の介錯
	(カイシャク)で切腹。
すがわら しちく
	菅原 師竹
	1863(文久 3. 8.)
	1919. 3.24(大正 8)
	◇俳人。名は賢五郎、旧姓は伊藤、初期の号は微笑。
すがわら たかし
	菅原 卓
	1903. 1.15(明治36)
	1970. 5. 3(昭和45)
	◇演出家・演劇評論家。東京生れ。慶応義塾大学経済学部卒業。
すがわら ふみとき《すがはら ときふみ》
	菅原 文時
	⇒すがわらのときふみ(菅原 文時)
すがわら みちざね《すがはら みちざね》
	菅原 道真
	⇒すがわらのみちざね(菅原 道真)
すがわらたかすえのむすめ《すがはらたかすゑのむすめ》
	菅原孝標女
	⇒すがわらのたかすえのむすめ(菅原孝標女)
すがわらのたかすえのむすめ《すがはらのたかすゑのむすめ》
	菅原孝標女
	1008(寛弘 5)
	没年不詳
	◇平安中期の日記・物語作者・歌人。父孝標は菅原道真(ミチザネ)
	の五代の孫。母は藤原倫寧(トモヤス)の娘で、母の兄は歌人の藤原
	長能(ナガトウ)、母の姉は『蜻蛉(カゲロウ)日記』の作者藤原道綱母
	(ミチツナノハハ)。継母は高階(タカシナ)成行の娘で、継母の父の弟高階
	成章(タカシナ・ナリアキラ)は紫式部の娘大弐三位(ダイニサンミ)の夫。
	 10歳の時、父とともに任地上総国に下向。13歳で上京。32歳
	で祐子内親王に仕える。33歳で橘俊通と結婚。夫の死別後、父
	に従って上総国から帰京して以来の生涯を『更科(サラシナ)日記』
	に書く。
	 『夜の寝覚(ネザメ)』・『浜松中納言物語』や、散逸した『自
	ら悔ゆる物語』・『朝倉物語』もその作とされる。
	◎『夜の寝覚』は『夜半(ヨワ)の寝覚』とも『寝覚』とも呼ばれ
	る。
すがわらのふみとき《すがはらのふみとき》
	菅原 文時
	 899(昌泰 2)
	 981(天元 4)
	◇平安中期の公卿・学者・漢詩人。名は「ふんとき」とも、
	菅三品(カンサンボン)と称される。道真(ミチザネ)の孫、高規の子。
	 内記・弁官・式部大輔を経て文章博士(モンジョウハカセ)となり、
	尾張権守を兼ねる。
	  954(天暦 8)村上天皇が諸臣に政治上の意見を求めた時、
	 957(天徳元.12.)『意見封事三箇条(菅原文時意見封事)』を提
	出。
	 家学である文章道にすぐれ、大江朝綱と並ぶ当代の高才で、
	源為憲・大江匡衡らの文人もその添削を請うた。
	  981(天元 4)従三位に叙せられる。
	(16)高規の子。
	(?)高視(タカミ)の子。
すがわらのふんとき《すがはらのふみとき》
	菅原 文時
	⇒すがわらのときふみ(菅原 文時)
すがわらのみちざね《すがはらのみちざね》
	菅原 道真
	 845(承和12)
	 903(延喜 3. 2.25)
	◇平安前期の学者・政治家。通称は菅公・菅家・菅丞相(カンショウ
	ジョウ)。菅原是善(コレヨシ)の子、菅原文時(フミトキ)の祖父。
	  870(貞観12)方略試(ホウリャクシ)(官吏登用試験)に合格。 877
	(元慶元)文章博士に任じられる。 886(仁和 2)讃岐守(サヌキノカミ)
	となり任地に赴(オモム)く。在任中に藤原基経(モトツネ)に意見書を
	呈示し「阿衡(アコウ)の紛議」の解決に努力し、宇多(ウダ)天皇に信
	頼される。 890(寛平 2)国司の任期を終え帰京。
	 台頭する藤原氏を押えるため、 891(寛平 3)関白基経の死後、
	直ちに蔵人頭(クロウドノトウ)に抜擢される。 894(寛平 6)遣唐大使
	に任ぜられながら、派遣中止を進言して廃止となる。 897(寛
	平 9)若い藤原時平(トキヒラ)が大納言兼左大将となり、道真は権
	大納言兼右大将となる。しかし同年、彼を引き立てていた宇多
	天皇が譲位し、醍醐天皇が即位。 899(昌泰 2)時平が左大臣に
	なった時、道真も右大臣に任じられ、学者としては吉備真備(キ
	ビノマキビ)につぐ異例の出世となる。しかし、翌年には三善清行
	(キヨユキ)に辞職を勧められている。
	 潔癖実直すぎた性格が災いし、 901(昌泰 4. 1.)時平の讒言
	(ザンゲン)(中傷)により、醍醐天皇を廃して道真の女婿にあたる
	斎世親王を立てようとしたという嫌疑で、太宰権帥(ダザイノゴン
	ノソチ)(太宰府の長官)に左遷され、罪人同様の生活を送り、その
	配所で病没(昌泰の変)。
	 その文才は中唐の詩人白居易(ハク・キョイ)に比べられた。
	 著書は『菅家文草(カンケブンソウ)』・『菅家後集(コウシュウ)(菅家後
	草)』・『類聚国史(ルイジュウコクシ)』など。
	◎左遷の際に「東風(コチ)吹かば匂ひおこせよ梅の花/主(アルジ)
	なしとて春な忘れそ」と歌った梅が、のちに配所に飛んできた
	という「飛び梅」の伝説がある。
	◎延喜年間( 901〜 923)反道真の関係者が次々急逝し、延長年
	末に清涼殿に落雷があって死者が出ると、道真の怨霊(オンリョウ)
	の祟(タタ)りと畏(オソ)れられ、「天満大自在天神(天満威徳天)・
	火雷天神」として祀(マツ)られる。太宰府には安楽寺(のち太宰府
	天満宮)が、京都北野の馬場に天神社(のち北野天満宮)が建て
	られる。
	 後世、一般にも晩年の不遇が悼(イタ)まれ、数々の天満宮(テンマ
	ングウ)・天神(テンジン)・文道の神として、全国に異例の尊崇を受
	ける。
	 「天満大自在天神」はヒンズー教のシバ神(世界を創造し支配
	する最高神)で、仏教では白牛に乗る神。
	◆道真忌[旧暦 2.25]。
	◆北野梅花祭[ 2.25]京都市上京区馬喰町の北野神社。
	◆梅まつり[ 2.25〜 3.15]東京都文京区の湯島天神。
	◆菜種御供(ナタネゴク)[ 3.25](月遅れ)大阪府藤井寺市の道明寺
	天満宮。
すぎ がんあみ
	杉 贋阿弥
	1870(明治 3. 3.10)
	1917. 5.13(大正 6)
	◇演劇評論家。本名は杉諦一郎(テイイチロウ)。備中国生れ。明治法
	律学校(現:明治大学)中退。
すぎ こうじ
	杉 亨二
	1828(文政11.10.10)
	1917.12. 4(大正 6)
	◇啓蒙学者。統計学の発達に尽力した。次女里子は高山樗牛(チョ
	ギュウ)の妻。
すぎ としすけ
	杉 敏介
	1872(明治 5. 5.28)
	1960. 7. 2(昭和35)
	◇教育者(一高の校長)。号は烏山。『吾輩は猫である』の津木
	ピン助のモデル。
すぎ へいすけ
	杉 兵助
	1916. 2.17(大正 5)
	1995. 6.16(平成 7)
	◇コメディアン。
すぎうら いさく
	杉浦 伊作
	1902. 8.28(明治35)
	1953. 5.14(昭和28)
	◇詩人。
すぎうら しげたけ
	杉浦 重剛
	1855(安政 2. 3. 3)
	1924. 2.13(大正13)
	◇明治・大正時代の教育家・国粋主義思想家。号は梅窓・
	天台道士。近江国膳所(ゼゼ)藩儒者重文の次男。
	 藩校遵義堂で学び、のち貢進生として大学南校に入学。1876
	(明治 9)イギリスに留学し、1880(明治13)帰国。
	 東京大学予備門長・高等教育会議議員などを歴任。
	 三宅雪嶺らの雑誌「日本人」・新聞「日本」の刊行に参加、独自
	の国粋論を唱道。
	 1885(明治18)日本中学校を創立し校長に就任。国学院学監・
	皇展講究所幹事長・東亜同文書院長などを歴任。1914(大正 3)
	東宮御学問所御用掛(倫理を担当)。
	 東京淀橋の自宅で没。
	 著書は『倫理御進講草案』・『日本教育原論』など。
	◎「じゅうごう(重剛)」とも呼ぶ。
すぎうら じゅうごう《すぎうら ぢゆうがう》
	杉浦 重剛
	⇒すぎうら しげたけ(杉浦 重剛)
すぎうら しょういちろう《すぎうら しやういちらう》
	杉浦 正一郎
	1911. 2. 9(明治44)
	1957. 2.23(昭和32)
	◇俳人。
すぎうら すいこ
	杉浦 翠子
	1891. 5.27(明治24)
	1960. 2.16(昭和35)
	◇歌人。本名は翠(ミドリ)。川崎生れ。杉浦非水(ヒスイ)の妻。
	 女子美術卒業。
	(3)誕生日は1891. 5.27(明治24)。
	(5)誕生日は1891. 5.27(明治24)。埼玉県生れ。
	(9)誕生日は1885. 5.17(明治18)。
	(11)誕生日は1885. 5.17(明治18)。
	(13)誕生日は1891. 5.27(明治24)。
すぎうら ばいたん
	杉浦 梅潭
	1826(文政 9)
	1900. 5.30(明治33)
	◇漢詩人。姓は久須美(クスミ)のち杉浦、字は求之(キュウシ)、号は
	梅潭。
すぎうら ひすい
	杉浦 非水
	1876. 5.15(明治 9)
	1965. 8.18(昭和40)
	◇商業美術家・図案画家。本名は朝武(ツトム)、旧姓は白石。松
	山重信町生れ。杉浦翠子(スイコ)の夫。
	 東京美術学校で川端玉章・黒田清輝らに学び、1901(明治34)
	日本画選科卒業。
	 雑誌・本の装丁などを手がけ、三越図案部主任となりポスタ
	ーなどを担当。
	 多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)を創始し校長。図案家
	団体の七人社を結成。
すぎうら ひなこ
	杉浦 日向子
	1958.11.30(昭和33)
	2005. 7.22(平成17)
	◇漫画家・文筆家・江戸風俗研究家。本名は鈴木順子(ジュンコ)。
	東京都京橋の呉服商の娘。
	 日本大学芸術学部を中退。
	 1984(昭和59)『合葬』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。
	 1988(昭和63)『風流江戸雀』で文芸春秋漫画賞を受賞。
	 1993(平成 5)漫画家を引退。
	 下咽頭ガンで死去。
	 作品はエッセイ『江戸へようこそ』・『お江戸風流さんぽ道』、
	小説『ごくらくちんみ』など。
すぎうら ゆきお《すきうら ゆきを》
	杉浦 幸雄
	1911. 6.25(明治44)
	2004. 6.18(平成16)
	◇漫画家。東京生れ。
	 郁文館中学校、卒業。
	 岡本一平に漫画を学ぶ。
	 1932(昭和 7)近藤日出造・山隆一らと新漫画派集団を結成。
	 1938(昭和13)雑誌「主婦之友」に『ハナ子さん』を連載開始。
すぎき たかし
	杉木 喬
	1899. 1. 5(明治32)
	1968. 9.12(昭和43)
	◇アメリカ文学者。
すぎさか こうげつ
	杉坂 幸月
	1902. 2.18(明治35)
	1930.12. 7(昭和 5)
	◇小説家。杉阪とも署名する。
すぎた げんぱく
	杉田 玄白
	1733(享保18. 9.13)
	1817(文化14. 4.17)
	◇江戸中期の蘭方医。名は翼(タスク)、字は子鳳、号は(「壹」偏+
	「鳥」)斎(イサイ)・九幸翁。庵号は天真楼・小詩仙堂。若狭国小浜
	藩医杉田玄甫の子、杉田立卿(リッケイ)の父、杉田伯玄(ハクゲン)の
	養父。
	 著書は『蘭学事始』など。
	◎山脇東洋の刑死体解剖は1754(宝暦 4)。
すぎた せいけい
	杉田 成卿
	1817(文化14)
	1859(安政 6)
	◇江戸後期の蘭方医。杉田玄白(ゲンパク)の孫。
すぎた つるこ
	杉田 鶴子
	1882.12. 6(明治15)
	1957. 4.20(昭和32)
	◇歌人。本名は「つる」。杉田玄白の子孫で小児科医。
すぎた ひさじょ
	杉田 久女
	1890. 5.30(明治23)
	1946. 1.21(昭和21)
	◇俳人。旧姓は赤堀。鹿児島市生れ。お茶の水高等女学校卒業。
	1908(明治41)画家杉田宇内と結婚。晩年は精神衰弱が高じ、太
	宰府九大病院分院で没。
	(1)本名は久子。
	(3)本名は久女(クメ)。
	(5)本名は久子。明治四一年御茶水高女卒。翌年画家杉田宇内
	と結婚、……。
	(9)本名は久子。
	(11)本名は久子。
	◆久女忌[ 1.21]。
すぎた りっけい
	杉田 立卿
	1786(天明 6)
	1845(弘化 2)
	◇江戸中期の蘭方医。「りゅうけい」とも。杉田玄白(ゲンパク)の
	子。
すぎた りゅうけい《すぎた りふけい》
	杉田 立卿
	⇒すぎた りっけい(杉田 立卿)
すぎたに だいすい
	杉谷 代水
	1874. 8.21(明治 7)
	1915. 4.21(大正 4)
	◇詩人・劇作家。本名は虎蔵。
すぎの じゅうへいじ
	杉野 十平次
	⇒すぎの つぎふさ(杉野 次房)
すぎの つぎふさ
	杉野 次房
	1676(延宝 4)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、札座横目、禄高八両三人扶
	持。通称は十平次(ジュウヘイジ)、戒名は刃可仁剣信士、吉良家を
	探索中の変名は杉野九一右衛門(クイチエモン)。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊、三村次郎左衛門(ジロウザエモン)包
	常(カネツネ)とともに大槌で裏門を打ち破る。毛利(モウリ)甲斐守の
	麻布(アザブ)屋敷に預けられ、翌年、榊庄右衛門(サカキ・ショウエモン)
	の介錯(カイシャク)で切腹。
すぎはら ぜんのすけ
	杉原 善之介
	1898. 7.25(明治31)
	1944. 3.10(昭和19)?
	◇小説家。本名は善之助。東京大空襲で死亡したと伝えられる。
すぎはら ちうね
	杉原 千畝
	1900(明治33)
	1986(昭和61)
	◇外交官。岐阜県加茂郡(カモグン)八百津町(ヤオツチョウ)生れ。妻は
	幸子。
	 早稲田大学在学中に外務省留学試験に合格。書記生などを経
	て、1939(昭和14)リトアニア領事代理として首都カウナスに赴
	任。1940(昭和15)ユダヤ人らがナチス・ドイツの迫害から逃れ
	るために日本の通過ビザ発給を求めて領事館に殺到。千畝は日
	本政府に3度ビザ発給許可を申請したが、ドイツと同盟関係に
	あった日本政府は認められなかった。千畝は独自の判断で、約
	6千人に対してビザを発給。
	 1947(昭和22)人員整理で外務省を退官し、貿易会社などに勤
	務。
	 1985(昭和60)イスラエル政府からユダヤ人の生命を救った外
	国人に与えられる勲章「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェ
	ム章)」を受章。
	◎八百津町には町営の杉原千畝記念館がある。
	◎「ちうね」はユダヤ人には発音しづらく「せんぽ」と呼ばれてい
	たため、戦後しばらくの間、イスラエル政府は本人を探し出せ
	ずにいた。
すぎむら そじんかん
	杉村 楚人冠
	1872(明治 5. 8.28)
	1945.10. 3(昭和20)
	◇新聞記者・評論家・随筆家。本名は広太郎、別号は縦横・
	紀伊縦横生。和歌山県生れ。自修私学校・和歌山中学校・英吉
	利法律学校を経て1890(明治23)国民英学会卒業。1891(明治24)
	和歌山新報社に入社。1892(明治25)上京し、自由神学校(のち
	の先進学院)に入学、かたわら国民新聞社で英文翻訳をし、
	1896(明治29)卒業。
	(1)誕生日は 8.28。
	(3)誕生日は 7.25。
	(5)誕生日は 8.28。
	(9)誕生日は 8.28。
	(11)誕生日は 8.28。
	(13)誕生日は 7.25。
すぎもと かんいち
	杉本 寛一
	1888.10. 1(明治21)
	1959. 6.11(昭和34)
	◇歌人。
すぎもと けんきち
	杉本 健吉
	1905. 9.20(明治38)
	2004. 2.10(平成16)
	◇洋画家・挿絵画家。名古屋市出身。
	 1923(大正12)愛知県立工業学校(現:県立愛知工業高校)図案
	科を卒業。
	 1925(大正14)洋画家岸田劉生(リュウセイ)の門下生となる。
	 1950(昭和25)「週刊朝日」に連載される吉川英治作『新・平家
	物語』の挿絵を担当。のち、吉川英治の『私本・太平記』・
	『新・水滸伝』などの挿絵も担当。
	 1983(昭和58)四天王寺の障壁画『聖徳太子絵伝』を完成。
すぎもと はやお
	杉本 捷雄
	1905. 1. 1(明治38)
	1970.11.17(昭和45)
	◇小説家。
すぎもと まさお《すぎもと まさを》
	椙本 まさを
	⇒すぎもと まさを(椙本 まさを)
すぎもと まさを
	椙本 まさを
	生年不詳
	没年不詳
	◇小説家。1915(大正 4)結婚して国分と改姓。「青踏」で活躍。
すぎもと りょうきち
	杉本 良吉
	1907. 2. 9(明治40)
	1939.10.23(昭和14)
	◇演出家。本名は吉田好正。筆名は白浜蹴。1931(昭和 6)共産
	党に入党。1938(昭和13)コミンテルンとの連絡を志して女優
	岡田嘉子と樺太国境からソ連に入ったが任務を果たせずに死亡。
すぎもり こうじろう
	杉森 孝次郎
	1881. 4. 9(明治14)
	1968.12. 8(昭和43)
	◇評論家・政治学者・社会学者。旧姓は白松(シロマツ)、号は南山。
	静岡県小笠郡南山村生れ。1906(明治39)早稲田大学卒業。1913
	〜1919(大正 2〜大正 8)文部省留学生としてドイツ・イギリス
	に渡る。
すぎやま いってん
	杉山 一転
	1877. 5.15(明治10)
	1921. 2.24(大正10)
	◇俳人。本名は一二。
すぎやま げん
	杉山 元
	1880(明治13)
	1945(昭和20)
	◇元帥・陸軍大将。福岡県生れ。
	 1937(昭和12)陸軍大臣。1940(昭和15)参謀総長。1944(昭和
	19)陸軍大臣。1945(昭和20)第一総軍司令官。
	 敗戦に際し夫妻で自殺。
すぎやま けんぎょう《すぎやま けんげう》
	杉山 検校
	⇒すぎやま わいち(杉山 和一)
すぎやま さんぷう
	杉山 杉風
	1647(正保 4)
	1732(享保17. 6.13)
	◇江戸前期の俳人。通称は藤左衛門また市兵衛、別号は採荼庵
	(サイダアン)・蓑翁(サオウ)。蕉門十哲の一人。江戸生れ。幕府御用
	の魚問屋鯉屋(コイヤ)。
	 芭蕉が江戸に来るとすぐ入門し、深川の芭蕉庵を提供する。
	 著書は『常盤屋句合』・『杉風句集』・『冬かづら』など。
すぎやま ひでき
	杉山 英樹
	1911.11. 8(明治44)
	1946. 4. 1(昭和21)
	◇文芸評論家。本名は利一。栃木県生れ。文化学院卒業。
	(3)誕生日は 1. 8。
	(5)誕生日は11. 8。
	(9)誕生日は11. 8。
	(11)誕生日は11. 8。
すぎやま へいすけ
	杉山 平助
	1895. 6. 1(明治28)
	1946.12.21(昭和21)
	◇評論家。筆名は氷川烈(ヒカワ・レツ)。大阪生れ。生家は岡山藩士。
	 1911(明治44)慶応大学理財科入学。
	 1913(大正 2)肺患のため中退。
	(3)没日は12. 1。
	(5)没日は12.21。
	(9)没日は12.21。
	(11)没日は12.21。
	(13)没日は12.21。
すぎやま へいはち
	杉山 平八
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の歌舞伎俳優。初名は山下いっき、のち山下文左衛
	門。
	 杉山勘左衛門の養子となり杉山平八に改名。
	 1718(享保 3)杉山勘左衛門を継ぐ。
すぎやま まこと
	杉山 誠
	1907. 5. 1(明治40)
	1968.12.30(昭和43)
	◇演劇評論家。
すぎやま もとじろう《すぎやま もとぢらう》
	杉山 元治郎
	1885(明治18)
	1964(昭和39)
	◇明治・昭和期の農民運動家・政治家。大阪府生れ。
	 東北学院神学部を卒業後、キリスト教伝道に従事。
	 1922(大正11)賀川豊彦らとともに日本農民組合を結成し、組
	合長となる。
	 1926. 3. 5(大正15)労働農民党を結成し、委員長となる。
	 1932(昭和 7)以降、衆議院議員当選9回。
	 1946(昭和21)日本社会党顧問に就任。
すぎやま わいち
	杉山 和一
	1610(慶長15)
	1694(元禄 7. 5.18)
	◇江戸前期の鍼医(ハリイ)。幼名は養慶・信都・信一、通称は
	杉山検校。伊勢国津藩士杉山権右衛門重遠の子。
	 幼くして失明し家を弟に譲り、江戸に出て検校山瀬琢一や入
	江豊明に鍼術(シンジュツ)を学び、奥義を究める。
	 性格が鈍重なためしばしば逐われ、京都に行こうとして江ノ
	島弁財天にいたり、ここで断食祈願して神の御告げを受けて管
	鍼(クダバリ)の術を考案、杉山流鍼術を開き名医となる。
	 第4代将軍徳川家綱に引見。1685(貞享 2)第5代将綱吉の病
	を治療し、本所一つ目に宅地を与えられて禄500石を受ける。
	 綱吉の命で鍼治療講習所を設け門下を教育。1692(元禄 5)関
	東総録検校となる。
	 著書は杉山流三部書と呼ばれる『療治大概集』・『遺選鍼三
	要集』・『節要集』など。
	◆墓は東京都墨田区立川1−4−13の弥勒寺。
	◎宅地跡は江島杉山神社(墨田区千歳)となっている。
	(2)生年は1613?(慶長18?)。
	(4)生年は1610。
	(16)生年は1610(慶長15)。
すけひと しんのう《すけひと しんわう》
	典仁 親王
	1733(享保18)
	1794(寛政 6)
	◇江戸後期の皇族。閑院宮第二代。閑院宮直仁(ナオヒト)親王の王
	子、東山天皇の孫、光格(コウカク)天皇の父。
	 1742(寛保 2)中御門天皇の猶子(ユウシ)となり、翌年親王。
	 1789(天明 9)光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊
	号を奏上しようとし、江戸幕府に妨げられる(尊号事件)。
	◎1884. 3.(明治17)明治天皇も典仁親王に慶光太上天皇の尊号
	を贈っているが、歴代天皇には数えられない。
すけろく
	助六
	⇒あげまきのすけろく(総角 助六)
ずしょ ひろさと
	調所 広郷
	1776(安永 5)
	1848(嘉永元.12.18)
	◇江戸後期の薩摩藩の家老。初名は良八、のち友治・笑悦、通
	称は笑左衛門(ショウザエモン)。鹿児島城下生れ。川崎主右衛門の次
	男。
	 調所清悦の養子となり、友治と改名。
	 1790(寛政 2)表坊主。
	 1798(寛政10)前藩主島津重豪(シゲヒデ)の奥坊主となり、笑悦
	と改名。寵愛(チョウアイ)を受けて累進(ルイシン)し、茶道頭・小納戸
	頭・町奉行を経て、1825(文政 8)御側用人(オソバヨウニン)家老格と
	なる。
	 1827(文政10)藩主斉興(ナリオキ)に信任されて藩財政の改革を命
	ぜられ、藩の天保改革の中心として尽力。藩債の棚上げ、ナタ
	ネ・薬種などの国産の奨励と黒砂糖の藩専売、琉球を利用した
	中国との密貿易などにより財政を再建。
	 改革の功により1833(天保 4)家老となり、開明派の島津斉彬
	(ナリアキラ)と対立。
	 密貿易が幕府に露見して、責任を負って江戸藩桜田邸で服毒
	自殺。
	◎藩債の棚上げでは、1835(天保 6)藩債500万両の無利子250年
	賦償還を江戸・大坂・京都の御用商人に強制。国許の藩債は貸
	主を士分に取立てとして元利とも破棄させた。
	 天保末期には藩庫備蓄金50万両・諸営繕費用200万両余に達
	し、幕末に雄藩として活躍する財政基盤を築いた。
すずか つらたね
	鈴鹿 連胤
	1795(寛政 7)
	1870(明治 3.11.20)
	◇江戸後期・幕末の神道家・国学者。幼名は幸松、号は誠斎。
	隆芳の子、長存の父。代々吉田家家老の家に生れる。
	 神祇権少副兼筑前守・吉田神社権預・吉田家家老。1866(慶
	応 2)従三位。
すずか のぶろ
	鈴鹿 野風呂
	1887. 4. 5(明治20)
	1971. 3.10(昭和46)
	◇俳人。本名は登。京都生れ。第七高等学校を経て京都大学国
	文科卒業。
	(1)本名は登。
	(3)本名は勝近。
	(5)本名は登。
	(9)本名は登。
	(11)本名は勝近。
すずき いっぺい
	鈴木 一平
	1887(明治20)
	1971(昭和46)
	◇大修館の創業者。千葉県木更津町生れ。
	 小学校を卒業して上京。いろいろな職業を経て、31歳のとき
	神田錦町に大修館を創立。
	 諸橋轍次(モロハシ・テツジ)を2年がかりで口説き落とし、1928(昭
	和 3)漢和辞典の編纂を開始し、1943. 9.(昭和18)第1回配本、
	戦争となり被災し中止。戦後、大学在学中の長男と高校在学中
	の次男を共に退学させ、事業を再開。1955.11.(昭和30)『大漢
	和辞典』(全13巻)第1巻を刊行、1960(昭和35)完結。
すずき えつ
	鈴木 悦
	1886.10.17(明治19)
	1933. 9.11(昭和 8)
	◇小説家・労働運動家。田村松魚(ショウギョ)の妻俊子と恋愛、米
	国に渡りあとを追って来た俊子と結婚。日系労働者のための労
	働運動に身を挺する。
すずき えんろう
	鈴木 燕郎
	1888. 9.20(明治21)
	1973. 2.16(昭和48)
	◇俳人・茶道教師。本名は留次郎。
すずき かそん
	鈴木 華邨
	1860(万延元. 1. 2)
	1919. 1. 3(大正 8)
	◇日本画家。通称は惣太郎、別号は忍青。
すずき かんたろう
	鈴木 貫太郎
	1867(慶応 3)
	1948(昭和23)
	◇明治〜昭和前期の海軍軍人(大将)・政治家。和泉(大阪府)の
	陣屋生れ。関宿藩(千葉県)代官鈴木由哲の長男、鈴木孝雄の兄。
	 1945. 4. 7(昭和20)組閣。
すずき けんろう
	鈴木 健郎
	1907. 3. 9(明治40)
	1963. 2.24(昭和38)
	◇フランス文学者。
すずき こそん
	鈴木 鼓村
	1875. 9. 9(明治 8)
	1931. 3.12(昭和 6)
	◇邦楽家。本名は映雄(テルオ)、土佐絵の号は那智俊宣。
すずき しげたね
	鈴木 重胤
	1812(文化 9)
	1863(文久 3. 8.15)
	◇江戸後期の国学者。姓は穂積、通称は雄三郎のち勝左衛門、
	号は橿廼家(カシノヤ)・厳橿本、重胤は諱(イミナ)。淡路国津名(ツナ)
	郡仁井村の庄屋の家に生れる。父は重威。
	 父に学問の手ほどきを受け、大坂・神戸で奉公のかたわら学
	問に励む。1832(天保 3)平田篤胤(アツタネ)に書信で教えを受ける
	が、面会できないうちに篤胤は亡くなる。1834(天保 5)ころ大
	国隆正(タカマサ)に入門。江戸に居を構え、越後や出羽などにおも
	むき学説を広める。しだいに篤胤の学説を批判し、1857(安政
	 4)篤胤の養子銕胤(カネタネ)らと不和が生じ、翌年平田家から破門。
	江戸在住中に凶徒に暗殺された。
すずき しげね
	鈴木 重嶺
	1814(文化11)
	1898.11.26(明治31)
	◇歌人。
すずき しこう
	鈴木 氏亨
	1885.10. 2(明治18)
	1948. 1.15(昭和23)
	◇小説家。
すずき じゅうろう
	鈴木 十郎
	1896. 4. 8(明治29)
	1975. 5. 4(昭和50)
	◇歌人・歌舞伎研究家。
すずき しゅんぽ
	鈴木 春浦
	1868(明治元. 3. 9)
	1927. 4.20(昭和 2)
	◇演劇評論家。本名は本次郎、別号は「すの字」・石原防風。
すずき しょうさん
	鈴木 正三
	1579(天正 7)
	1655(明暦元. 6.25)
	◇江戸前期の仮名草子作者。名は重光・重三(シゲミツ)、通称は
	正三(マサミツ)・九太夫、号は石平道人(セキヘイドウジン)・玄々軒、法
	号は正三。代々の幕臣で徳川家康・秀忠に仕えたが、1620(元
	和 6)出家。弟鈴木重成(シゲナリ)が島原の乱で武功を立て天草代
	官になったので、正三も天草に赴(オモム)きキリシタンを一掃す
	べく仏寺を建て『破吉利支丹(ハキリシタン)』を著す。
すずき しんたろう
	鈴木 信太郎
	1895. 6.17(明治28)
	1970. 3. 4(昭和45)
	◇フランス文学者。東京生れ。1919(大正 8)東京大学仏文科卒
	業。
すずき すじゃく
	鈴木 朱雀
	1891.12. 7(明治24)
	1972. 5. 4(昭和47)
	◇画家・挿絵画家。本名は幸太郎。
	 野田九浦に師事、川端画学校に学ぶ。1920(大正 9)第2回帝
	展に初入選。
すずき せいじろう
	鈴木 清次郎
	1901. 8.21(明治34)
	1960. 2.12(昭和35)
	◇小説家。
すずき ぜんこう《すずき ぜんかう》
	鈴木 善幸
	1911. 1.11(明治44)
	2004. 7.19(平成16)
	◇政治家。岩手県下閉伊郡(シモヘイグン)山田町(ヤマダマチ)生れ。
	 網元の子に生れる。
	 1935(昭和10)農林省水産講習所(現:東京海洋大学)養殖学科
	卒業。
	 1947. 4.(昭和22)社会党から出馬して衆議院議員に初当選。
	 社会革新党を経て、1949. 1.(昭和24)衆議院選挙で民主自由
	党(のち保守合同で自由民主党)に鞍替え。
	 1960(昭和35)第一次池田内閣の郵政大臣として初入閣。
	 官房長官・厚生大臣(第一次佐藤内閣)・党総務会長・農林水
	産大臣(福田内閣)を歴任。
	 1980. 6.(昭和55)大平正芳首相の急逝により、大平派幹部と
	して同年 7.17第70代首相に就任(〜1982.11.)。
	 1990(平成 2)政界から引退。
	◎2004. 7.22(平成16)正二位・大勲位菊花大綬章を追贈。
すずき せんざぶろう
	鈴木 泉三郎
	1893. 5.10(明治26)
	1924.10. 6(大正13)
	◇劇作家。筆名は豊島屋主人・伊豆巳三郎。東京生れ。大倉商
	業卒業。
すずき ぜんたろう
	鈴木 善太郎
	1883. 1.19(明治16)
	1950. 5.19(昭和25)
	◇劇作家・翻訳家。
	(3)生年は1883(明治16),没年は1950(昭和25)。
	(9)生年は1884(明治17),没年は1951(昭和26)。
すずき だいせつ
	鈴木 大拙
	1870(明治 3.10.18)
	1966. 7.12(昭和41)
	◇仏教哲学者・禅思想家。本名は貞太郎(テイタロウ)。加賀金沢の
	前田藩家老本多家の医師了準(良準)の末子。石川専門学校卒業、
	新制の第四高等中学予科三年に編入、本科一年で家計の都合で
	中退。英語教師をしたのち、東京専門学校(現:早稲田大学)に
	学び、東京大学選科に入学。
	 鎌倉円覚寺の今北洪川(イマキタ・コウセン)、没後はその弟子釈宗演
	(シャク・ソウエン)に参禅。1897(明治30)宗演の推薦で渡米。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
すずき たかお
	鈴木 孝雄
	1869(明治 2)
	1964(昭和39)
	◇明治・大正期の陸軍軍人(大将)。鈴木貫太郎の弟。
すずき たかし
	鐸木 孝
	1900. 2.20(明治33)
	1967.11. 4(昭和42)
	◇歌人。本名は鈴木幸一。
すずき つきひこ
	鈴木 月彦
	1825(文政 8)
	1892. 3.20(明治25)
	◇俳人。本名は穂積勝重、別号は東杵庵四世・宝の屋・柴花園
	・素学堂・言霊道人。
すずき てんがん
	鈴木 天眼
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治中期の評論家。本名は力。
すずき としさだ
	鈴木 利貞
	1894. 8.23(明治27)
	1967.12.23(昭和42)
	◇ジャーナリスト。本名は利貞(リテイ)。
すずき とらお
	鈴木 虎雄
	1878. 1.18(明治11)
	1963. 1.20(昭和38)
	◇中国文学者・漢詩人・歌人。号は蘊房・葯房(和歌)・豹軒
	(漢詩)。
	(2)葯房(和歌)。
	(3)蘊房(和歌)。
	(9)号は豹軒(ヒョウケン)・葯房(ヤクボウ)。
すずき はなみの
	鈴木 花蓑
	1881.12. 1(明治14)
	1942.11. 6(昭和17)
	◇俳人・大審院の書記。本名は喜一郎。愛知県生れ。
	(1)誕生日は12. 1。
	(3)誕生日は12.、日の記載なし。
	(5)誕生日は 8.15。
	(9)誕生日は 8.15。
	(11)誕生日は 8.15。
すずき はるのぶ
	鈴木 春信
	1725(享保10)
	1770(明和 7. 6.15)
	◇浮世絵師。本姓は穂積、通商は次兵衛、号は長栄軒。
すずき ひこじろう
	鈴木 彦次郎
	1898.12.27(明治31)
	1975. 7.23(昭和50)
	◇小説家。
すずき ひろやす
	鈴木 弘恭
	1843(天保14.12.11)
	1897. 7.31(明治30)
	◇歌人・国文学者。号は十八公舎。
すずき ぶんしろう
	鈴木 文史朗
	1890. 3.19(明治23)
	1951. 2.23(昭和26)
	◇ジャーナリスト・評論家。本名は文四郎。
すずき ぼくし
	鈴木 牧之
	1770(明和 7. 1.27)
	1842(天保13. 5.15)
	◇江戸後期の郷土史家。本名は儀三治。越後国生れ。
すずき まさゆき
	鈴木 雅之
	1837(天保 8)
	1871(明治 4. 4.21)
	◇国学者・歌人。
すずき みえきち
	鈴木 三重吉
	1882. 9.29(明治15)
	1936. 6.27(昭和11)
	◇小説家・童話作家。広島市猿楽町(サネガクチョウ)生れ。
	 1891(明治24)広島市本川小学校入学、1896(明治29)広島県立
	第一中学入学、1901. 9.(明治34)第三高等学校入学、1904. 9.
	(明治37)東京大学英文科入学、翌年九月に神経衰弱のため休学、
	1908. 7.(明治41)卒業。
	 1918. 7.(大正 7)児童雑誌「赤い鳥」を創刊。
すずき もさぶろう
	鈴木 茂三郎
	1893. 2. 7(明治26)
	1970. 5. 7(昭和45)
	◇政治家。1928(昭和 3)無産大衆党を結成。戦後は日本社会党
	の発起人、第2代委員長。
すずき もといち
	鈴木 元一
	1923(大正12)
	1956.12.27(昭和31)
	◇国鉄職員・劇作家。事故死。
すずき よしじ
	鈴木 義司
	1928. 9.26(昭和 3)
	2004. 7.17(平成16)
	◇漫画家。東京出身。
	 都立理工専門学校(現:都立大学)、卒業。
	 1966. 6.〜2004. 7. 2(昭和41〜平成16)「読売新聞」夕刊に万
	年平サラリーマンの『サンワリ君』を連載。
すずき りきえ
	鈴木 力衛
	1911. 5. 1(明治44)
	1973. 6.14(昭和48)
	◇フランス文学者。
すすきだ かねすけ
	薄田 兼相
	⇒すすきだ はやと(薄田 隼人)
すすきだ きゅうきん
	薄田 泣菫
	1877. 5.19(明治10)
	1945.10. 9(昭和20)
	◇詩人・随筆家。本名は淳介(ジュンスケ)、号は抱琴坊(ホウキンボウ)
	泣菫・杏堂(キョウドウ)・無憂樹。岡山県浅口郡連島(ツラジマ)村の
	農家に生れる。岡山県立中学校を二年で中退、1894(明治27)上
	京。四十歳ころパーキンソン氏病を発病。
すすきだ けんじ
	薄田 研二
	1898. 9.14(明治31)
	1972. 5.26(昭和47)
	◇俳優。本名は高山徳右衛門。
すすきだ はやと
	薄田 隼人
	生年不明
	1615
	◇豊臣秀吉の武将。兼相(カネスケ)。大阪夏の陣で戦死。伝説上の
	岩見重太郎(ジュウタロウ)のモデル。
	(*)1615(慶長20,元和元)。
すだ くにたろう
	須田 国太郎
	1891. 6. 6(明治24)
	1961.12.16(昭和36)
	◇画家。
すだ ていいち
	須田 禎一
	1909. 1.21(明治42)
	1973. 9.18(昭和48)
	◇新聞人・評論家。
すどう ごじょう
	数藤 五城
	1871(明治 4.12.24)
	1915. 8.21(大正 4)
	◇俳人・歌人。本名は斧三郎、旧姓は中村、号は小野三郎(短
	歌)。
すどう さだのり
	角藤 定憲
	1867(慶応 3)
	1907. 1.20(明治40)
	◇新派俳優。岡山県生れ。
	 京都で巡査をしたのち、大阪に出て自由党壮士となる。中江
	兆民の門に入り、「東雲新聞」の記者となる。兆民のすすめで1
	888(明治21)「大日本壮士改良演劇会」の一座を組織して大阪新
	町座で旗揚げ。全国で巡演したが東京では評判とならず、1895
	(明治28)以降は地方回りのみとなり、不遇のうちに一生を終る。
すどう しげる
	須藤 しげる
	1898(明治31)
	1946(昭和21)
	◇挿絵画家。愛知県豊田市生れ。
	 岸田劉生(リュウセイ)に油絵を学び、のち日本画家中村岳陵(ガクリョ
	ウ)に師事。「少女の友」・「少女倶楽部」などに挿絵を描く。
すどう しょういち
	須藤 鐘一
	1886. 2. 1(明治19)
	1956. 3. 9(昭和31)
	◇小説家。本名は荘一。
すどう しんう
	須藤 滲雨
	生年不詳
	没年不詳
	◇歌人。北原白秋に師事。
すどう てんのう《すだう てんわう》
	崇道 天皇
	⇒さわら しんのう(早良 親王)
すどう なんすい
	須藤 南翠
	1857(安政 4.11. 3)
	1920. 2. 4(大正 9)
	◇小説家・新聞記者。幼名は孟、本名は光暉(ミツテル)、別号に
	土屋南翠・土屋郁之助(イクノスケ)・土屋郁之進・土屋郁・揚外堂
	主人・古蒼楼・坎(「土」偏+「可」)山人。伊予国生れ。藩校明倫
	館に学び、転じて松山師範学校を卒業。妻は矢野竜渓(リュウケイ)
	の姪小林シズ。
	(5)誕生日は1857(安政 4.11. 3)。
	(6)「饗庭篁村(アエバ・コウソン)」の項:1858〜1920。
	(13)安政五年(1858)一一月伊予宇和島に生まる。
すどうじんけい こうてい
	崇道尽敬 皇帝
	⇒とねり しんのう(舎人 親王)
すとく てんのう《すとく てんわう》
	崇徳 天皇
	1119(元永 2. 5.28)
	1164(長寛 2. 8.26)
	◇第75代天皇。名は顕仁(アキヒト)、院号は讃岐院。鳥羽天皇の第
	1皇子、母は中宮藤原璋子(ショウシ)(待賢門院)。
	 白河院のもとで1123(保安 4. 2.19)即位(5歳)。鳥羽上皇に
	よって1141(永治元)3歳の体仁(ナリヒト)親王(近衛天皇,鳥羽天皇
	の第9皇子,母は美福門院藤原得子<トクシ>)に譲位を強いられる。
	この結果、鳥羽法皇は本院、崇徳上皇は新院と呼ばれる。
	 次の天皇は子の重仁親王の言質を得ていたが、1155(久寿 2.
	10.)雅仁親王(後白河天皇,鳥羽天皇の第4皇子,母は待賢門院
	璋子)が即位。
	 1156(保元元)鳥羽法皇の死後、直ちに兵を挙げ左大臣藤原頼
	長とともに後白河天皇を襲ったが(保元の乱)、敗れて讃岐の松
	山に配流され、同地で没。
	 即位:1123(保安 4. 2.19)、退位:1141(永治元.12. 7)。
すのうち とおる
	洲之内 徹
	1913. 1.17(大正 2)
	1987.10.28(昭和62)
	◇小説家。松山生れ。東京美術学校中退。左翼運動で検挙。
	1938〜1945(昭和13〜昭和20)中国で特務機関員。
すみ おうとう
	角 鴎東(鴎:「區」偏+「鳥」)
	1882. 6.29(明治15)
	1965. 4.10(昭和40)
	◇歌人。本名は利一(リイチ)。
すみだ ちくれい
	角田 竹冷
	⇒つのだ ちくれい(角田 竹冷)
すみだ ようきち
	隅田 葉吉
	1898. 7.24(明治31)
	1964. 1. 9(昭和39)
	◇歌人。
[1]すみとも きちざえもん《すみとも きちざゑもん》
	住友 吉左衛門(3代当主)
	⇒すみとも とものぶ(住友 友信)
[2]すみとも きちざえもん《すみとも きちざゑもん》
	住友 吉左衛門(4代当主)
	⇒すみとも ともよし(住友 友芳)
[3]すみとも きちざえもん《すみとも きちざゑもん》
	住友 吉左衛門(15代当主)
	⇒すみとも ともいと(住友 友純)
すみとも ともいと
	住友 友純
	1864
	1926(大正15)
	◇明治・大正期の実業家。徳大寺公純(キンイト)の子、徳大寺実則
	(サネノリ)・西園寺公望(キンモチ)の実弟。
	 1892(明治25)公卿徳大寺家から住友家に入る(第15代当主)。
	 1895. 5.(明治28)住友銀行を創設。
	 倉庫業など事業を拡大させ、住友を三井・三菱とならぶ財閥
	に発展させる。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
すみとも とものぶ
	住友 友信
	1647(正保 4)
	1706(宝永 3)
	◇江戸初期の銅商・住友第3代当主。第2代当主友以(トモモチ)の
	子。
	◎吉左衛門と称し、以後代々吉左衛門を襲名。
すみとも とももち
	住友 友以
	1607(慶長12)
	1662(寛文 2)
	◇銅商・住友第2代当主。蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の子、住友
	政友(マサトモ)の娘婿、第3代当主友信(吉左衛門)の父。
	 父理右衛門とともに泉屋を貿易商・両替商・銅山経営に拡大。
すみとも ともよし
	住友 友芳
	1670(寛文10)
	1719(享保 4)
	◇江戸中期の銅商・住友第4代当主。
	 1690(元禄 3)別子銅山を発見し採掘権を得て、翌1691(元禄
	 4)採掘・経営。
	 江戸幕府の貨幣鋳造なども営む。
すみとも まさとも
	住友 政友
	1585(天正13)
	1652(慶安 5)
	◇住友初代当主。越前丸岡(現:福井県丸岡町)の武家の二男。
	姉は蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の妻、娘は蘇我理右衛門(ソガ・リエモ
	ン)の子友以の妻。
	 12歳のころ京へ上り、涅槃宗(ネハンシュウ)の僧空源(クウゲン)に弟
	子入りし、空禅(クウゼン)と号し、やがて文殊院の称号を得る。
	 幕府の宗教政策により涅槃宗が天台宗に組み入れられると僧
	籍を離れ、45歳のころ京都の仏光寺烏丸(ブッコウジカラスマ)東入ル
	で富士屋(フジヤ)の屋号を掲げて書物と薬の店を営み、万病薬の
	反魂丹(ハンゴンタン)などを販売。
	 63歳で嵯峨清凉寺のそばに雙軒庵(ソウケンアン)を建てて隠棲。
	◆墓は京都寺町高辻の永養寺。
すみとも りへえ
	住友 理兵衛
	生年調査中
	没年調査中
	◇江戸初期の銅商。
	 元和年間(1615〜1624)大坂に銅商を開業。
	◎蘇我理右衛門?
すみのくら そあん
	角倉 素庵
	1571(元亀 2)
	1632(寛永 9)
	◇江戸初期の貿易商・学者・書家。名は玄之(ハルユキ)のち貞順、
	通称は与一、号は素庵。角倉了以(リョウイ)の長子。
	 父の安南貿易に従事したほか、富士川再疎通・淀川の改修な
	ど、幕府の土木・河川の仕事に功績があった。
	 藤原惺窩(セイカ)の門人。
	 本阿弥光悦(コウエツ)に書を学び、角倉流書風の始祖となる。ま
	た光悦とともに嵯峨本(角倉本)を刊行。
	◎能書家で本阿弥光悦(ホンアミ・コウエツ)・松花堂昭乗(ショウカドウ・ショウジョ
	ウ)とともに「洛下の三筆」と呼ばれる。
すみのくら りょうい《すみのくら れうい》
	角倉 了以
	1554(天文23)
	1614(慶長19)
	◇安土桃山・江戸初期の豪商・貿易商・土木事業家。名は光好。
	角倉素庵(ソアン)の父。京都の生れ。
	 洛西嵯峨に住む。算数・地理を学ぶ。
	 豊臣秀吉に朱印状を得て、1604(慶長 9)ころより安南国に朱
	印船(角倉船)を派遣して貿易を営み巨利を得る。
	 また、1606(慶長11)嵯峨の大堰川(オオイガワ)の疎通に成功、つ
	づいて富士川・天竜川・賀茂川の水路を開き、京都に二条から
	伏見に達する高瀬川を開削。
すみよし ぐけい
	住吉 具慶
	1631(寛永 8)
	1705(宝永 2. 4. 4)
	◇江戸前期の画僧。名は広澄(ヒロズミ)、通称は内記、法名は具
	慶。住吉如慶(ジョケイ)の子。京都の人。
	 天和年間(1681〜1684)ころ江戸に出て、1685(貞享 2)幕府の
	奥絵師に任ぜられる。のち法眼に叙せられた。
	 代表作は『洛中洛外図巻』(国立博物館)・『都鄙図巻』(奈
	良興福院)など。
すみよし じょけい
	住吉 如慶
	1599(慶長 4)
	1670(寛文10. 6.20)
	◇江戸前期の大和絵の画僧・住吉派の祖。名は広通(ヒロミチ)、通
	称は内記、法名は如慶。住吉具慶(グケイ)の父。一説に土佐光吉
	の子で光則の弟。
	 京都に住み、土佐光吉・土佐光則に大和絵の土佐派を学び、
	光吉の養子となる。
	 1662(寛文 2)後西天皇の勅命により住吉姓を名乗り、土佐派
	から分かれた鎌倉時代の名手住吉慶忍の跡の復興を志し、住吉
	派を開く。
	 幕府の御用絵師を務める。
	 作品は『堀河夜討絵巻』・『東照宮縁起』・『多武峯縁起』
	・『聖徳太子絵伝』・『伊勢物語』など。
すみよし ひろつら
	住吉 弘貫
	1793(寛政 5)
	1863(文久 3)
	◇江戸末期の絵師。名は広定・弘定。住吉広守の孫、住吉広行
	の次男。
	 兄広尚の後を継ぎ、住吉派七代目となる。
すやま けいいち
	須山 計一
	1905. 7.17(明治38)
	1975. 4.17(昭和50)
	◇画家・漫画家。
すやま つとむ
	陶山 務
	1895.11.27(明治28)
	1974. 9.28(昭和49)
	◇哲学者・宗教学者。
すやま とくたろう
	陶山 篤太郎
	1895. 4. 4(明治28)
	没年不詳
	◇詩人。
すわ さぶろう
	諏訪 三郎
	1896.12. 3(明治29)
	1974. 6.14(昭和49)
	◇小説家・編集者。本名は半沢成二。
すんえ
	俊恵
	⇒しゅんえ(俊恵)
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