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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6231.02

                 人   名   辞   典   《しみ》      編集:獨  澄旻

-------- しみ --------------------------------------------------
しみず かつら
	清水 かつら
	1898. 7. 1(明治31)
	1951. 7. 4(昭和26)
	◇童謡詩人。本名は桂。
しみず かめぞう
	清水 亀蔵
	1873(明治 6)
	1948(昭和23)
	◇彫金家。
しみず きすけ
	清水 喜助(初代)
	1783(天明 3)
	1859(安政 6)
	◇江戸幕末の大工の棟梁、清水建設の創業者。
	 江戸の神田新石町で町大工を営み、江戸西丸の建設や日光東
	照宮の修理にたずさわり、名字帯刀を許される。
しみず きすけ
	清水 喜助(二代)
	1815(文化12.11.)
	1881. 8. 9(明治14)
	◇江戸幕末・明治維新期の建築請負業者。初名は藤沢清七、
	清矩(キヨノリ)と名乗る。越中国砺波(トナミ)郡北川村(富山県井波町)
	の小間物商の北市屋清八の次男。初代喜助の娘婿。
	 三井組の本拠地である海運橋と駿河町の建物の設計・施工を
	行う。
しみず きっそん
	清水 橘村
	1879. 5.19(明治12)
	1965.10. 2(昭和40)
	◇詩人。本名は孝教。後半生は高木乗と号して命理学会(四柱
	推命)を始める。
しみず ぎはち
	清水 義八
	1846. 5.11(弘化 3. 4.16)
	1914. 4. 1(大正 3)
	◇明治期の建築技術者。
しみず きんたろう
	清水 金太郎
	1889. 2. 1(明治22)
	1932. 4.30(昭和 7)
	◇明治〜昭和初期の声楽家(バリトン)。
しみず こん
	清水 崑
	1912. 9.22(大正元)
	1974. 3.27(昭和49)
	◇漫画家・挿絵画家。本名は幸雄。長崎県生れ。
	 1933(昭和 8)「オール読物」に挿絵を執筆、岡本一平に認めら
	れて漫画家になる。
	 河童(カッパ)の漫画で有名。
しみず さかえ《しみづ さかえ》
	清水 栄(清水 榮)
	調査中
	2003.12.13(平成15)
	◇原子核物理学者。東京出身。
	 1940(昭和15)京都帝国大学卒業。
	 1945. 8.10(昭和20)京大原爆災害調査第1班の一員として被
	爆直後の広島に入り、被爆地の土からウランを採取して原子爆
	弾であることを科学的に証明。
	 京都大学化学研究所教授・放射性同位元素総合センター長な
	どを歴任。
しみず さだのり
	清水 貞徳
	1645(正保 2)
	1717. 8. 3(享保 2. 6.26)
	◇江戸中期の測量家。通称は豊吉、のち太右衛門・九郎兵衛、
	号は元帰斎・元帰。
しみず しきん
	清水 紫琴
	1868(慶応 4. 1. 1)
	1933. 7.31(昭和 8)
	◇明治時代の小説家。本名は豊子、号は花園、筆名は紫琴・つ
	ゆ子のち古在豊子。漢学者清水貞幹の長女。
	 明治女学校を卒業し、同校の作文教師となり、「女学雑誌」記
	者を兼ねる。
	 自由党左派の領袖大井憲太郎と関係をもつ。
	 1892(明治25)東京大学農科大学助教授古在由直と結婚。
	 1900(明治33)以降、筆を断つ。
	(2)本名とよ,……。
しみず しん
	清水 信
	1900. 5.18(明治33)
	1960. 7.30(昭和35)
	◇歌人。本名は信義。
しみず せいたろう
	清水 清太郎
	1843. 7. 6(天保14. 6. 9)
	1865. 1.22(元治元.12.25)
	◇江戸幕末の長州(萩)藩の重臣。名は親知、字は子済、号は
	葭堂。
しみず せきじょう
	清水 赤城
	1766(明和 3)
	1848. 6.10(嘉永元. 5.10)
	◇江戸幕末の儒者・兵学者。
しみず どうかん
	清水 道閑
	1579(天正 7)
	1648. 8. 9(慶安元. 6.21)
	◇江戸初期の茶匠・仙台伊達家の茶道役。号は宗怡(ソウイ)・
	玄斎・渋紙庵(シブカミアン)・伝習庵など。京都風呂屋町に住した
	ことから風呂屋道閑ともいう。
	 茶道石州流清水派の祖。
しみず とし
	清水 登之
	1887(明治20)
	1945(昭和20)
	◇大正・昭和期の洋画家。栃木県生れ。
しみず はまおみ
	清水 浜臣
	1776(安永 5)
	1824.10. 9(文政 7.閏8.17)
	◇江戸後期の国学者・歌人・医者。本名は藤原玄長(ハルナガ)、
	号は月斎・泊(三水+「百」)舎。江戸飯田町の町医者清水道円の
	子。
	 国学を村田春海に学ぶ。
	(2)通称玄長,号を泊(三水+「百」)舎(サザナミノヤ)・月斎。
	(4)号は泊(三水+「百」)舎(サザナミノヤ)。
	(5)号は泊(三水+「百」)舎(ササナミノヤ)。
	(6)号は泊(三水+「百」)舎(サザナミノヤ)。
	(11)号は泊(三水+「百」)舎(サザナミノヤ)。
	(16)誕生日は 8.17。
	 名は浜臣,通称は玄長,号は泊(三水+「百」)舎・月斎…….
	(23)誕生日は閏8.17。
	 通称は玄長。泊(三水+「百」)舎(ササナミノヤ)、月斎と号した。
しみず ふさのじょう
	清水 房之丞
	1903. 3. 6(明治36)
	1964. 4.14(昭和39)
	◇詩人。
しみず まこと
	清水 誠
	1846. 1.22(弘化 2.12.25)
	1899. 2. 8(明治32)
	◇明治期の発明家・実業家。通称は金之助。
	 1876. 9.(明治 9)東京本所柳原町にマッチ工業の新燧社を設
	立、マッチを輸出するが、1888(明治21)解散。
しみず みえぞう
	清水 三重三
	1893.10. 8(明治26)
	1962.10.29(昭和37)
	◇彫塑家・挿絵画家。三重県四日市生れ。東京美術学校彫刻科
	卒業。
しみず みつお
	清水 三男
	1909(明治42)
	1947(昭和22)
	◇昭和期の歴史学者。
	 1935(昭和10)雑誌「世界文化」に関係したとして検挙、翌年釈
	放。1943(昭和18)召集、千島列島ホロムシロ島に送られる。
	 戦後、シベリアの捕虜収容所で急性肺炎により死亡。
しみず むねはる
	清水 宗治
	1537(天文 6)
	1582(天正10. 6. 4)
	◇安土・桃山時代の武将。通称は才太郎のち長左衛門尉。
	 はじめ備中国清水城主。備中国高松城主石川久孝の娘をめと
	り、久孝の死後、1565(永禄 8)高松城主。
	 羽柴(豊臣)秀吉の水攻めにあい自刃。前夜、本能寺の変の報
	らせがあり、宗治の死により羽柴と毛利の和議が成立。
しみず やすお
	清水 康雄
	1901(明治34)
	1966(昭和41)
	◇昭和期の実業家。
	 1940(昭和15)清水組を継ぐ。
しみず よしお
	清水 良雄
	1891. 8. 4(明治24)
	1954. 1.29(昭和29)
	◇西洋画家・童画家。
しみず よしたか
	清水 義高
	1172(承安 2)
	1184. 6. 6(元暦元. 4.26)
	◇平安末期の武士。木曾義仲と今井兼平の娘の子。
	 人質として鎌倉にあったが、義仲討死後、逃亡し武蔵入間河
	原で堀親家の郎党に討たれる。
しみずだに きんなる
	清水谷 公考
	1845.10. 6(弘化 2. 9. 6)
	1882.12.31(明治15)
	◇江戸幕末の公卿。権中納言正二位清水谷公正(キンナオ)の6男、
	母は京都府士族桂衛守の娘富江。
	 1868(慶応 4.閏4.)箱館府知事として箱館奉行から蝦夷地の
	統轄を引き継ぐ。同年1868(明治元.10.)榎本武揚が率いる旧幕
	軍が来襲し青森に撤退するが、1869(明治 2. 5.)蝦夷地を奪回。
しみずのじろちょう《しみづのじろちやう》
	清水 次郎長
	1820. 2.14(文政 3. 1. 1)
	1893. 6.12(明治26)
	◇幕末〜明治初期の侠客(キョウカク)。本名は山本長五郎(チョウゴロウ)、
	通称は清水次郎長。
	 駿州(駿河)清水港の船頭の子で、米問屋山本次郎八の養子と
	なり略して次郎長。
	 博徒となって東海地方を縄張りとし、甲州黒駒の勝蔵・伊勢
	桑名の安濃徳(アノウトク)ら博徒との抗争は有名。
	 明治維新後、東海道総督判事伏谷又左衛門によって名字・帯
	刀を許され、東海道探索方の任にあたる。
	 のち富士山裾野の開墾に尽力。
しむら たかし
	志村 喬
	1905(明治38)
	1982. 2.11(昭和57)
	◇映画俳優。
	◎黒澤明(クロサワ・アキラ)監督の映画、1954(昭和29)『七人の侍』で
	は勘兵衛を演じる。
しむら たつみ
	志村 立美
	1907(明治40)
	1980. 5. 4(昭和55)
	◇挿絵画家。本名は仙太郎。群馬県生れ。神奈川県立商工中退。
	 山川秀峰に入門。1933(昭和 8)林不忘の『丹下左膳』の挿絵
	を描き、人気画家となる。
	 岩田専太郎・小林秀恒(ヒデツネ)とともに挿絵界の三羽烏と呼
	ばれた。
しもおか れんじょう《しもをか れんぢやう》
	下岡 蓮杖
	1823. 3.24(文政 6. 2.12)
	1914. 3. 3(大正 3)
	◇写真家・画家。初名は桜田久之助(キュウノスケ)。伊豆下田生れ。
	蓮杖の号は師の成島司直(柳北の父)から。
	 13歳のとき江戸で狩野派の絵を学ぶ。
	 銀板写真を見て感動、横浜に出て米国通訳官ヒュースケンに
	写真法を聞き、米人写真家ウンシンが帰国するとき写真機を譲
	り受ける。1862(文久 2)春、横浜野毛で写真館を開業、のち東
	京浅草に移る。
	(4)一八六七年横浜に写真業を営み……。
	(6)1862年春、横浜野毛で日本初の写真業を開始……。
	(23)文久2(1862)年に横浜の野毛に写真館を開き……。
	◎下田寝姿山(ネスガタヤマ)に蓮杖写真記念館がある。
	 1862(文久 2.11.)上野彦馬(ヒコマ)も長崎で開業。
しもかわ おうてん《しもかは あふてん》
	下川 凹天
	1892. 5. 2(明治25)
	1973. 5.26(昭和48)
	◇漫画家。
	 1917(大正 6)アニメーション『芋川椋三 玄関番の巻』を製
	作。
	 「へこてん」とも呼ぶ。
しもかわ ぎたろう《しもかは ぎたらう》
	下川 儀太郎
	1904. 2. 1(明治37)
	1961. 2. 6(昭和36)
	◇詩人・政治家(社会党)。
しもかわ たっぺい《しもかは たつぺい》
	下川 辰平
	1930.12.11(昭和 5)
	2004. 3.25(平成16)
	◇俳優。福岡県生れ。
	 武蔵野美術大学、中退。
	 1954(昭和29)福岡市のRKB毎日の専属劇団に加入。
	 1964(昭和39)上京。文学座の研究生を経て劇団員となる。
	 敗血症で死去。
しもかわ へこてん《しもかは へこてん》
	下川 凹天
	⇒しもかわ おうてん(下川 凹天)
しもこうべ ちょうりゅう
	下河辺 長流(長龍)
	1624(寛永元)
	1686. 7.22(貞享 3. 6. 3)
	◇江戸前期の歌人・古典学者。名は共平、通称は彦六、父の姓
	は小崎、下河辺は母の姓。大和国宇陀あるいは竜田の生れ。
	(5)享年に異説がある。「ながる」とも読まれるが、長龍とも書
	いているので、音読みが正しい。
	(23)生年不詳。享年60,62,63歳説があり,未確定。
しもざわ かん《しもざは くわん》
	子母沢 寛
	1892. 2. 1(明治25)
	1968. 7.19(昭和43)
	◇小説家。本名は梅谷松太郎。北海道石狩郡厚田生れ。
	 函館商業・小樽商業・札幌の北海中学校を経て明治大学法学
	部卒業。
	 作品は『新選組始末記』・『父子鷹』など。
	◎祖父は網元で、彰義隊の残党。
しもじま くうこく
	下島 空谷
	1870(明治 3. 8.25)
	1947. 5.30(昭和22)
	◇医者・俳人・随筆家。本名は勲。芥川龍之介の主治医。
しもじょう まさみ《しもでう まさみ》
	下條 正巳
	1915. 8.26(大正 4)
	2004. 7.25(平成16)
	◇俳優。長崎県壱岐市出身。下條アトム(俳優)の父。
	 朝鮮(現:韓国)釜山第一商業高校、卒業。
	 映画監督を夢見て上京。
	 1936(昭和11)新協劇団に入団し、舞台俳優としてデビュー。
	 1951(昭和26)劇団民芸に入団。
	 1971(昭和46)劇団民芸を退団。
	 1974〜1995(昭和49〜平成 7)山田洋次監督の映画男はつらい
	よシリーズの第14作〜第48作に寅次郎の3代目叔父おいちゃん
	役で出演。
しもだ うたこ
	下田 歌子
	1856(安政 3. 7. 8)
	1936.10. 8(昭和11)
	◇明治〜昭和初期の歌人・女子教育家。旧姓は平尾、幼名は鉐
	(セキ)。美濃国(現:岐阜県)恵那郡岩村町生れ。岩村藩士の娘、
	儒者東条琴台の孫。
	 1871(明治 4. 4. 8)上京。1872(明治 5.10.)宮内省に出仕、
	歌才を愛でられ昭憲皇太后より歌子の名を賜る。フランス語を
	仏人セラゼンに学ぶ。
	 1879.11.(明治12)辞職後、同年12月東京府士族下田猛雄と結
	婚。
	 1881(明治14)桃夭(トウヨウ)女塾を創設。
	 1884. 5.(明治17)夫猛雄と死別。
	 1885.11.(明治18)華族女学校(現:女子学習院中等部)を創設、
	校長は谷干城、学監(校長代理)を任ぜられる。
	 1898.11.(明治31)帝国婦人協会を設立、会長となる。
	 1899(明治32)実践女学校(現:実践女子学園)を創立。
	 1906. 4.(明治39)華族女学校が学習院女子部となると学習院
	教授兼女子部長、1907.11.(明治40)辞職。
	 1920. 9.〜1931(大正 9〜昭和 6)愛国婦人会長。
	(1)生年は1854(嘉永 7)、没年は1937(昭和12)。
	(2)生年は1854(安政1):誤、没年は1936(昭和11)。
	(3)生年は1856(安政 3)、没年は1936(昭和11)。
	(5)生年は1856(安政 3)、没年は1936(昭和11)。
	(9)生年は1854(安政元):誤、没年は1937(昭和12)。
	(11)生年は1856(安政 3)、没年は1936(昭和11)。
	(*)1854. 7.はまだ嘉永七年で、11.27から安政元年。
	◆東京都文京区の護国寺に墓がある。
	◎美貌(ビボウ)と才能から「明治の紫式部」と呼ばれ、飯野吉三
	郎ら政界の大物とのスキャンダルが当時の新聞を賑(ニギ)わし
	ている。
	◎学習院辞職は、1907(明治40)院長となった乃木希典との不和
	からという。
しもた のりみつ
	下田 史光
	1896. 6.19(明治29)
	1933. 3.11(昭和 8)
	◇詩人・小説家。本名は平治。
しもどまい ひでのしん
	下斗米 秀之進
	⇒そうま だいさく(相馬 大作)
しもなか やさぶろう《しもなか やさぶらう》
	下中 弥三郎(下中 彌三郎)
	1878. 6.12(明治11)
	1961. 2.21(昭和36)
	◇平凡社の創業者。号は芳岳。兵庫県生れ。
	 2歳のとき父を失う。小学校三年を卒業して陶工となる。19
	歳で神戸に出て小学校で教え、1899(明治32)小学校正教員検定
	試験に合格。1911(明治44)埼玉県師範学校の教諭となる。
	 1914(大正 3)平凡社を創業、新語辞典『や、此は便利だ』を
	出版。
	 1919(大正 8)師範学校の教え子を中心に日本最初の教員組合
	「啓明会」を組織。1920(大正 9)「日本教員組合啓明会」と改称。
	 1923(大正12)平凡社を株式会社に改組、「教育の世紀社」を創
	立。1932.11.25(昭和 7)『大百科事典』(全29巻)を配本開始、
	1935.10.(昭和10)完結。
	 太平洋戦争中は大亜細亜協会・東亜建設同盟に関係し、翼賛
	会中央協力会議文化委員長の要職にあったため、戦後に公職追
	放。1951(昭和26)平凡社に復帰。
	(2)'35(昭和10)「大百科辞典」の出版を開始し成功。
	(3)誕生日は1878. 6.12(明治11)。
	(5)誕生日は1878. 6.12(明治11)。
	(9)明治一一・六・一二(旧暦)。
	(11)誕生日は1877. 6.12(明治11):誤。
	(*)新暦は明治6年から。
しもの ふいひこ
	霜野 二一彦
	1913(大正 2)
	1980(昭和55)
	◇挿絵画家。本名は下野利雄。
	 川端画学校に学び、のち松野一夫に師事。
しもはた たく
	下畑 卓
	1916. 1.30(大正 5)
	1944. 4.10(昭和19)
	◇児童文学作家。神戸市生れ。尼崎中学校卒業。病没。
しもむら いざん
	下村 為山
	1865(慶応元. 5.21)
	1949. 7.10(昭和24)
	◇画家・俳人。本名は純孝、別号は百歩・牛伴。
しもむら えつお
	下村 悦夫
	1894. 2.16(明治27)
	1945.12.12(昭和20)
	◇小説家。本名は悦雄、歌号は紅霞、初期の筆名は紀潮雀(キノチョ
	ウジャク)。
しもむら かいた
	下村 槐太
	1910. 3.10(明治43)
	1966.12.25(昭和41)
	◇俳人。一時、古代嵯の筆名を用いる。
しもむら かいなん
	下村 海南
	1875. 3.12(明治 8)
	1957.12. 9(昭和32)
	◇ジャーナリスト・政治家・歌人。本名は宏(ヒロシ)。和歌山県
	生れ。東京大学法科卒業。朝日新聞副社長・国務大臣・NHK
	会長などを歴任。
しもむら かんざん
	下村 観山
	1873. 4.10(明治 6)
	1930. 5.10(昭和 5)
	◇日本画家。本名は晴三郎。
しもむら こじん
	下村 湖人
	1884.10. 3(明治17)
	1955. 4.20(昭和30)
	◇教育家・小説家。本名は虎六郎、旧姓は内田、号は虎人(コジ
	ン)、中学時代の筆名は内田夕闇(ユウヤミ)。佐賀県生れ。
	 1903(明治36)第五高等学校入学、1909(明治42)東京大学英文
	科卒業。
	 五高在学中に学費の援助を受けた貴族院議員下村辰右衛門の
	長女菊千代と結婚、養子入籍。
	 代表作1936. 1.(昭和11)『次郎物語』(「青年」)。
	(1)本名は虎六郎。
	(3)本名は虎(コ)六郎。
	(5)本名は虎六郎(トラロクロウ)。
	(9)本名は虎六郎。
	(11)本名は虎六郎。
しもむら ちあき
	下村 千秋
	1893. 9. 4(明治26)
	1955. 1.31(昭和30)
	◇小説家。茨城県生れ。1919(大正 8)早稲田大学英文科卒業。
しゃ こくけん
	謝 国権
	1925. 6.28(大正14)
	2003.11.12(平成15)
	◇産婦人科医。東京生れ。
	 日赤本部産院産婦人科医局長。
	 1960(昭和35)『性生活の知恵』(池田書店)を出版、100万部
	のベストセラーになる。
	 1962(昭和37)日本赤十字社を退職、都内に産婦人科の診療所
	を開業。
しゃく うんしょう
	釈 雲照
	1827(文政10. 3.20)
	1909. 4.13(明治42)
	◇真言宗の僧侶。旧姓は渡辺。
しゃく そうえん
	釈 宗演
	1859(安政 6.12.18)
	1919.11. 1(大正 8)
	◇禅僧(臨済宗)・歌人。幼名は常次郎、旧姓は一瀬、氏は釈、
	号は洪岳・楞伽窟。福井県の人。
	 京都妙心寺の越渓、鎌倉円覚寺の今北洪川(イマキタ・コウセン)など
	について参禅。
	 円覚寺・建長寺管長・京都臨済宗大学長を歴任。
しゃく ちょうくう
	釈 迢空(釋 迢空)
	⇒おりぐち しのぶ(折口 信夫)
しゃく ひょうさい
	釈 瓢斎
	1881. 9.26(明治14)
	1945. 8. 6(昭和20)
	◇新聞人・俳人。本名は永井栄蔵。
じゃくれん
	寂蓮
	1139(保延 5)頃
	1202(建仁 2. 7.20)
	◇鎌倉前期の歌人。俗名は藤原定長(サダナガ)。父は藤原俊成(ト
	シナリ)の弟(兄とも)醍醐寺阿闍梨(アジャリ)俊海。1150(久安 6)年
	ころに俊成の養子となる。
しゃらく
	写楽
	⇒とうしゅうさい しゃらく(東洲斎 写楽)
しゅ しゅんすい
	朱 舜水
	1600(慶長 5)<万暦28.10.12>
	1682(天和 2. 4.17)
	◇江戸前期の儒学者・中国明朝の遺臣。諱(イミナ)は之瑜(シユ)、
	字は魯(「王」偏+「與」:補助4470)(ロヨ)、号は舜水、諡(オクリナ)は
	文恭先生。父は朱存之。浙江省余姚(ヨヨウ)の人。
	 父を早く失う。朱永祐(シュ・エイユウ)・張肯堂(チョウ・コウドウ)・呉鍾
	巒(ゴ・ショウラン)に学ぶ。恩貢生に抜擢され、明朝福王のから出仕
	を命ぜられるが、政治方針と意見が合わず固辞。
	 清朝が台頭すると明朝の再興を図(ハカ)り援兵を求めて幾度も
	来日したり安南(ベトナム)にも渡ったが成功せず、1659(万治
	 2)7度目の来日の際、柳川藩の儒者安東省庵(アンドウ・セイアン)の
	懇請で長崎に留まり帰化。省庵は自分の俸禄の半分百石を贈り
	経済的援助を行い弟子の礼をとった。朱子学のみならず王陽明
	の実学も重んじ古今の礼法や建築にも精通、師事するものが多
	数あった。
	 1665(寛文 5)小宅生順の推挙で水戸藩に賓客として招かれる。
	同年8月水戸光圀(ミツクニ)の別荘に入り生涯を過ごす。光その慷
	慨(コウガイ)の気は圀・安積澹泊(アサカ・タンパク)・林鳳岡(ホウコウ)・木
	下順庵(ジュンアン)に大きな影響を与える。
	 常陸太田の瑞竜山に葬られる。
	 著書は『舜水先生文集』(28巻)・『舜水朱氏談綺』・『泊舟
	稿』など。
	(6)7度長崎に来航……。
	(16)4度目の来朝のとき,長崎に亡命…….
	(+)東大農学部の「朱舜水記念碑」の立て札。
	 七度目の長崎来訪にあたり……。
	◎光圀が建立した湊川碑の背面には、前田綱紀に与えた楠公父
	子の桜井訣別の図を賛した文が刻まれている。
	◎湯島聖堂の設計を行ない、農事・造園・学制の指導を行なう。
	◎東京都文京区弥生1−1−1の東京大学農学部(光圀の別荘
	跡)の正門左側に「朱舜水記念碑」がある。
じゅういちや ぎさぶろう《じふいちや ぎさぶらう》
	十一谷 義三郎
	1897.10.14(明治30)
	1937. 4. 2(昭和12)
	◇小説家。神戸市元町生れ。
	 十一歳で父を失い家僕となる。
	 神戸第一中学校・第三高等学校を経て東京大学英文学科に入
	学、1922(大正11)卒業。
	 結核により死去。
	 『文芸時代』に参加。
	 知的な文体で知られる新感覚派の一人。代表作は『唐人お吉』
	(1928)・『時の敗者』など。
じゅがく あきこ
	寿岳 章子
	1924(大正13)
	2005. 7.13(平成17)
	◇国語学者・エッセイスト。英文学者寿岳文章と評論家しづの
	長女。京都市出身。
	 1946(昭和21)東北帝国大学法文学部、卒業。
	 1968(昭和43)京都府立大学、教授。
	 1987. 3.(昭和62)京都府立大学、退職。
	 著書は『日本語と女』など。
じゅがく しづ
	寿岳 しづ(壽岳 しづ)
	1901(明治34)
	1981(昭和56)
	◇評論家・翻訳家。英文学者寿岳文章の妻、国語学者章子の母。
じゅがく ぶんしょう《じゆがく ぶんしやう》
	寿岳 文章
	1900. 3.28(明治33)
	1992. 1.16(平成 4)
	◇英文学者・和紙研究家。兵庫県神戸市西区生れ。旧姓は鈴木。
	評論家しづの夫、国語学者章子の父。
	 真言宗住職の末子として生れる。
	 京都帝国大学文学部選科、卒業。
	 1928(昭和 3)龍谷大学、講師。
	 1932(昭和 7)関西学院大学、講師。
	 1952(昭和27)甲南大学、教授。
しゅかく ほうしんのう《しゆかく ほふしんわう》
	守覚 法親王
	1150(久安 6. 3.)
	1202(建仁 2. 8.26)
	◇平安末期・鎌倉初期の人。後白河天皇の第2皇子・北院流三
	宝院の祖。名ははじめ守性のち守覚、北院御室とも称する。母
	は従三位高倉局藤原成子。
	 1160(永暦元)仁和寺北院で出家し、1169年仁和寺第六世。
	 1170(嘉応 2)親王宣下、1176(安元 2)二品、1195(建久 6)総
	法務。
	 北洛紫金台寺に葬られる。
	 和歌・書道をよくし、『守覚法親王百首』・『北院御室御集』
	・『野月鈔』など。
	(*)1169(仁安 4,嘉応元)。
しゅり えいこ
	朱里 エイコ
	1946. 3.19(昭和21)
	2004. 7.31(平成16)
	◇歌手。本名は田辺栄子(タナベ・エイコ)。
	 1972(昭和47)『北国行きで』で第23回NHK紅白歌合戦に初
	出場。
	 虚血性心不全により急死。
	◎生年は1948(昭和23)とも。
しゅんえ
	俊恵
	1113(永久元)
	没年不詳
	◇平安後期の歌人。大夫公(タユウノキミ)・大夫君(タユウノキミ)・大進公
	(ダイジンノキミ)とも称した。「すんえ(俊恵)」とも呼ぶ。源俊頼(トシ
	ヨリ)・橘敦隆(タチバナノアツタカ)の娘の子。
しゅんかん《しゆんくわん》
	俊寛
	1142
	1179(治承 3. 9.)
	◇平安末期の僧侶(真言宗)。仁和寺法印寛雅の子。僧都(ソウズ)、
	法勝寺執行(シギョウ)。
	 後白河法皇の信任を得て近臣として活躍。京都東山の鹿ヶ谷
	(シシガタニ)の山荘で、藤原成親・(少将)成経父子や平(判官)康頼
	(ヤスヨリ)らと平清盛を滅ぼそうと謀ったが、源行綱の密告によっ
	て謀議が露見する(鹿ヶ谷の変)。1177年薩摩国鬼界島(キカイガシマ)
	に流され、翌年大赦で成経・康頼は召還されたが、独り残され
	て三年後に死亡。
	(4)生年は1142、没年は1178(治承 2)。
	(6)生年不詳、没年は1179(治承 3)。
	(*)1142(永治 2,康治元)、1177(安元 3,治承元)。
しゅんじゅうあん じゅんいち
	春秋庵 準一
	1881. 1.20(明治14)
	1966. 2.22(昭和41)
	◇俳人。本姓は三森。春秋庵幹雄(ミキオ)の長男。
しゅんじゅうあん みきお
	春秋庵 幹雄
	1829(文政12.12.16)
	1910.10.17(明治43)
	◇俳諧師。本名は三森寛、通称は三森菊治、号は静波・樹下子
	・笈月山人・不去庵・桐子園・天寿老人。春秋庵準一の父。
しゅんじょう
	俊(「艸」冠+「仍」)
	1166
	1227
	◇鎌倉時代の律宗の僧侶。名は我禅(ガゼン)。
	 京都泉涌寺(センニュウジ)を開山して、戒律復興に努力。
	(*)1166(永万 2,仁安元)、1227(嘉禄 3,安貞元)。
しゅんてんのう《しゆんてんわう》
	舜天王
	1166
	1237(嘉禎 3)
	◇琉球国王。神号は尊敦。源為朝(タメトモ)を父に、大里按司(オオサ
	トアンジ)の妹を母とすると伝えられる。
	 15歳で浦添按司、1187(文治 3)琉球王位に就く。
	(4)生年は1161?、没年は1237?。
	(*)1166(永万 2,仁安元)。
しゅんとう
	春登
	1769(明和 6)
	1836(天保 7)
	◇江戸後期の国語学者・時宗の僧。武蔵の人。
	 著書は『万葉用字格』『五十音摘要』など。
じゅんとく てんのう《じゆんとく てんわう》
	順徳 天皇
	1197(建久 8. 9.10)
	1242(仁治 3. 9.13)
	◇鎌倉前期の第84代の天皇。名は守成(モリヒラ)、通称は順徳院・
	佐渡院。父は後鳥羽天皇(第3皇子)、母は修明門院。
	 1210(承元 4)後鳥羽上皇の意向により兄土御門(ツチミカド)天皇
	より受禅し即位。1221(承久 3)4歳の第4皇子の仲恭(チュウキョウ)
	天皇に譲位。同年五月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図った
	「承久(ジョウキュウ)の変」に加わり、北条義時を中心とする幕府軍
	に大敗しする。
	 後鳥羽上皇は隠岐(オキ)に、順徳上皇は佐渡に流され、仲恭天
	皇は在位七〇余日で堀河天皇に譲位。在島22年、佐渡で没。
	 在位、1210(承元 4)〜1221(承久 3)。
	(2)名は守成(モリヒラ)。
	(4)名は守成(モリナリ)。
	(5)名は守成(モリヒラ)。
	(6)名は守成(モリナリ)。
	(11)名は守成(モリヒラ)。
	(19)名は守成(モリナリ)。
じゅんとくいん
	順徳院
	⇒じゅんとく てんのう(順徳 天皇)
じゅんな てんのう《じゆんわ てんわう》
	淳和 天皇
	 786(延暦 5)
	 840(承和 7)
	◇第53代天皇。名は大伴、通称は西院帝(サイインノミカド)。桓武天
	皇の第7皇子、母は藤原旅子。
	 嵯峨天皇の皇太弟となり、 823(弘仁14)譲位を受けて即位、
	 833(天長10)仁明天皇に譲位。
	  827(天長 4)『経国集』を良岑(ヨシミネ)安世に編纂させる。
	 在位、 823(弘仁14)〜 833(天長10)。
	(2)桓武天皇の第3皇子。
	(19)桓武天皇の第七皇子。
じゅんにょ
	准如
	1577(天正 5)
	1630(寛永 7)
	◇浄土真宗本願寺派本願寺12世。諱(イミナ)は光昭。顕如の第4
	子。
	 1592年、11世顕如(ケンニョ)が没して長子教如(キョウニョ)が本願寺
	12世を継いだが、1593(文禄 2. 9.)豊臣秀吉の命で准如がこれ
	に代った。
	 1602(慶長 7)徳川家康の命で教如が東本願寺を建て、本願寺
	は東西に分裂した。
	(*)1592(天正20,文禄元)。
じゅんにん てんのう《じゆんにん てんわう》
	淳仁 天皇
	 733(天平 5)
	 765
	◇第47代天皇。名は大炊(オオイ)、通称は廃帝・淡路廃帝・淡路
	親王・淡路公。舎人(トネリ)親王の第7王子、母は当麻山背。池
	田王・船王の兄弟。
	 藤原仲麻呂に擁立されて即位(親王は仲麻呂の子真従の未亡
	人粟田諸姉を妻としていた)。
	  764(天平宝字 8. 9.)仲麻呂が叛乱を起こし斬首、翌月廃位、
	淡路国に配流。
	  765年、再び捕えられ、翌日没。
	 在位、 758(天平宝字 2)〜 764(天平宝字 8)。
	(*) 765(天平宝字 9,天平神護元)。
しゅんぷうてい りゅうきょう《しゆんぷうてい りうけう》
	春風亭 柳橋(6代目)
	1899.10.15(明治32)
	1979. 5.16(昭和54)
	◇落語家。
	 1930.10.11(昭和 5)柳家金語楼らと日本芸術協会(現:落語芸
	術協会)を結成。
しゅんぷうてい りゅうきょう《しゆんぷうてい りうけう》
	春風亭 柳橋(8代目)
	1935. 8.12(昭和10)
	2004.10.31(平成16)
	◇落語家。本名は駒木根正男(コマキネ・マサオ)。東京都荒川区生れ。
	 1952(昭和27)3代目桂三木助(ミキスケ)に入門し、木久男を名乗
	る。
	 1956(昭和31)二ツ目となる。
	 1961. 1.16(昭和36)師匠三木助が他界し、6代目春風亭柳橋
	門下に移る。
	 1964(昭和39)真打ちに昇進し、6代目柏枝。
	 1982(昭和57)8代目柳橋を襲名。
しゅんぷうてい りゅうしょう《しゆんぷうてい りうしよう》
	春風亭 柳昇(5代目)
	1920.10.18(大正 9)
	2003. 6.16(平成15)
	◇落語家。本名は秋本安雄(アキモト・ヤスオ)。ペンネームは林鳴平。
	東京都武蔵野市生れ。
	 尋常小学校を卒業後、電機会社に奉公。
	 第二次世界大戦で機銃掃射を受けて両手を負傷し復員。
	 1946(昭和21)春風亭柳橋(6代目)の長男と戦友だった
	縁で入門。前座で柳之助を名乗る。
	 1949(昭和24)二つ目で柳昇を襲名。
	 1958(昭和33)真打に昇進。
	 1999(平成11)落語芸術協会理事長に就任。
	 著書は『与太郎戦記』・『陸軍落語兵』など。
じょう さもん
	城 左門
	1904. 6.10(明治37)
	1967.11.27(昭和51)
	◇詩人・小説家。本名は稲並(イナミ)昌幸、小説の筆名は城昌幸。
	東京生れ。岩谷書店編集長、「詩学」を発行。
	(1)誕生日は 6.10。
	(3)誕生日は 6. 1。
	(13)誕生日は 6.10。
じょう まさゆき
	城 昌幸
	1904. 6.10(明治37)
	1976.11.27(昭和51)
	◇詩人・小説家。本名は稲並(イナミ)昌幸、詩人の筆名は城左門。
	東京神田生れ。
	 京華中学校卒業。日本大学芸術科中退。
	 戦後は雑誌「宝石」の経営に参画、岩谷書店(現:宝石社)社長。
じょうあ しんかん《じやうあ しんくわん》
	浄阿 真観
	1276(建治 2)
	1341(<南>興国 2,<北>暦応 4)
	◇鎌倉末期〜南北朝初期の時宗(ジシュウ)の僧・四条派の開祖。
	号は浄阿。上総(カズサ)の人。
	 律宗の忍性(ニンショウ)に戒律を学び、のち紀州由良の興国寺の
	覚心に禅を学ぶ。
	 1300(正安 2)他阿真教(タア・シンキョウ)の教化を受けて時宗に帰依。
	 1309(延慶 2)京都に上り、祇陀林寺に住む。
	 1311年、後伏見天皇の女御広義門院の出産の時、呪符を奉り
	効験があって上人号が許される。
	(*)1311(延慶 4,応長元)。
しょうかどう しょうじょう《しようくわだう せうじよう》
	松花堂 昭乗
	1584(天正12)
	1639(寛永16. 9.18)
	◇江戸初期の学僧・書画家・文人・茶人。俗姓は中沼、名は
	式部、号は滝本坊・惺惺翁(惺々翁)・空識。摂津国堺の喜多川
	氏の出という。
	 1600(慶長 5)山城国石清水八幡宮の滝本坊実乗のもとで社僧
	となり、昭乗と称する。
	 実乗の没後に住職となったが、その座を弟子に譲り、1609
	(慶長14)滝本坊の南に松花堂と名付けた方丈を構え、自らも松
	花堂と号した。
	 書は初め御家流(青蓮院流)、次いで空海の法(大師流)を修め、
	滝本流・式部流・松花堂流と呼ばれる書風を完成。本阿弥光悦
	(ホンアミ・コウエツ)・近衛信尹(コノエ・ノブタダ)ととともに寛永の三筆(慶
	安の三筆とも)と呼ばれた。
	 狩野山楽に絵を学んで水墨画や彩色画にも長じ、また小堀遠
	州・林羅山・狩野探幽らとの交歓で和歌や茶道をたしなむ。
しょうきょくさい てんかつ
	松旭斎 天勝
	1886(明治19)
	1944(昭和19)
	◇大正・昭和期の女性奇術師。本名は中井かつ。東京下町の米
	屋の娘。
	 11歳のとき松旭斎天一(テンイチ)の弟子となる。17歳ころには美
	貌(ビボウ)と才能で一座の花形となり、天一と同棲。欧米巡業
	に同行。
	 「天一・天勝一座」と改め、各地を巡業。
	 1912(明治45)天一の没後、「天勝一座」を結成し海外にも巡演。
	興業支配人の野呂辰之助と結婚するが、数年で野呂は死亡。
	 1918(大正 7)姪に天勝の名を譲り引退。1923(大正12)病気療
	養中に文学博士金沢一郎と再婚するが、金沢は翌年死亡。
	(6)12歳のとき明治随一の奇術師松旭斎天一に入門……。
	 37年姪(メイ)が2代目天勝を襲名。
じょうけい
	貞慶
	1155(久寿 2)
	1212(建暦 2)
	◇鎌倉時代の法相宗(ホッソウシュウ)の中興の僧侶。名は解脱(ゲダツ)。
	 戒律復興に努め、法然の浄土宗を批判。
しょうけん こうたいごう
	昭憲 皇太后
	1849(嘉永 2. 4.17)
	1914. 4.11(大正 3)
	◇明治天皇の皇后・歌人。名は美子(ハルコ)。父は一条忠香、母
	は松寿院藤原准子。
しょうさい いっけい
	昇斎 一景
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治の錦絵師。はじめ昇景斎と号す。代表作『東京名所四十
	八景』。
しょうじ がぜん
	庄司 瓦全
	1874.11.15(明治 7)
	1941. 3. 1(昭和16)
	◇俳人・写生文家。本名は勘次郎。
しょうじ そういち
	庄司 総一
	1906.10. 6(明治39)
	1961.11.28(昭和36)
	◇小説家。筆名は阿久見謙。
しょうじ たろう
	東海林 太郎
	1898(明治31)
	1972(昭和47)
	◇流行歌手。
じょうじんあじゃりのはは
	成尋阿闍梨母
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の歌人。1930(昭和 5)宮内庁所蔵の写本によりはじ
	めて紹介される。
しょうそう《しやうそう》
	聖聡
	1366(<南>正平21,<北>貞治 5)
	1440(永享12)
	◇室町前期の天台宗の僧侶。
	 1393(明徳 4)江戸の芝増上寺を真言宗から天台宗に改宗。
じょうそう《じやうさう》
	丈草
	⇒ないとう じょうそう(内藤 丈草)
しょうだ かずえ
	勝田 主計
	1869(明治 2)
	1948(昭和23)
	◇政治家。俳号は明庵のち宰州。松山御宝町生れ。松山藩士勝
	田久廉の5男。
	 1886(明治19)松山中学校卒業、上京。1895(明治28)東京帝国
	大学法学科卒業、大蔵省に入る。1908(明治41)理材局長・1912
	(大正元)大蔵次官。
	 退官後、1914(大正 3)貴族院議院に勅撰。
	 1916(大正 5)寺内正毅内閣の大蔵大臣、1918(大正 7)寺内内
	閣総辞職。1924(大正13)清浦奎吾内閣の大蔵大臣に再任。1928
	(昭和 3)田中義一内閣の文部大臣。
	 1939〜1941(昭和14〜昭和16)内閣参議。
	 俳句の著書は『黒雲白雨』・『宰州句日記』など。
しょうだ やすとし
	庄田 安利
	1650(慶安 3)
	1705(宝永 2. 9. 5)
	◇江戸中期の幕府大目付。通称は下総守(シモウサノカミ)。2,800石の
	旗本。
	 赤穂城主浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)に罪状を申し渡し、
	正使として切腹に立ち会う。副使は多門伝八郎(オカド・デンパチロウ)
	と大久保権左衛門(ゴンザエモン)。二人の副使が反対したにも拘(カ
	カ)わらず、庭先で切腹をさせたという理由で、五日後、大目付
	役を免ぜられ小普請に下げられた。
しょうてつ
	正徹
	⇒せいがん しょうてつ(清巌 正徹)
じょうとうもんいん
	上東門院
	⇒ふじわらのあきこ(藤原 彰子)
しょうとくたいし
	聖徳太子
	 574[敏達 3]
	 622[推古30. 2.]
	◇飛鳥(アスカ)時代の中心的政治家・思想家。名は厩戸(ウマヤド)皇
	子、豊聡耳(トヨサトミミ)皇子・豊耳聡・厩戸豊聡八耳命・上宮(ウエノ
	ミヤ)王・上宮聖徳法王・法大王・法主王・法皇とも。父は橘豊
	日命(タチバナノトヨヒ)尊(用明天皇)、母は皇后穴太部間人(アナフトベノハ
	シヒト)女王。
	  539[推古元]年皇太子となると、推古天皇の摂政として仏教
	を基調とした政治を行う。 600[推古 8]新羅の任那(ミマナ)侵冦
	に対し援軍を派遣。 603[推古11]「冠位十二階」を定め、 604
	[推古12]「憲法十七条」を制定、 607[推古15]小野妹子(イモコ)を
	遣隋使に送り大陸文化の導入に努めた。のち新羅・百済が日本
	の朝貢国であることを隋に承認させるべく、対等の外交関係を
	締結しようとして、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天
	子に致す」と記す国書を煬帝(ヨウダイ)に奉呈する。
	 仏教を信仰し『三経義疏(サンギョウギショ)』(経典注釈書)を著し、
	法隆寺・四天王寺・中宮尼寺などを建立。
	 墓は大阪府南河内郡太子町の叡福寺。
	◆聖霊会(ショウリョウエ)[旧暦 2.22]。
	[ 3.22〜 3.24]奈良の法隆寺で法会と舞楽が行われる。
	[ 4.22]大阪市天王区の四天王寺では境内の石舞台で舞楽が奉
	納される。
しょうなんこう《せうなんこう》
	小楠公
	⇒くすのき まさつら(楠木 正行)
じょうの さいぎく
	条野 採菊
	1832(天保 3. 9. 1)
	1902. 1.24(明治35)
	◇戯作者・新聞記者。本名は桑野伝平、別称は山々亭有人(サンサ
	ンテイアリンド)・採菊散人・朧月亭。江戸生れ。「やまと新聞」社長。
	鏑木清方(カブラギ・キヨカタ)の父。
	(9)本名は条野伝平。
	(13)採菊 山人(さいぎく さんじん)。本名条野伝平。没日は
	1901.12.(明治34)。
	(+)中公文庫『明治世相百話』	昭和58年 7月10日発行
		著者:山本笑月,中央公論社
	 採菊又山々斎有人と号し、鏑木清方画伯の厳君。
しょうはく
	肖柏
	1443(嘉吉 3)
	1527(大永 7. 4. 4)
	◇室町中期の歌人・連歌師。号は夢庵(ムアン)・弄花軒(ロウカケン)・
	牡丹花(ボタンゲ)。
じょうべん《じやうべん》
	浄弁
	生年不詳
	1356
	◇南北朝の天台宗の僧・歌人。蘆の葉の浄弁とも呼ばれる。慶
	運(ケイウン)の父。
	 頓阿(トンア)・慶運・吉田兼好(ヨシダ・ケンコウ)とともに「和歌四天
	王」と呼ばれる。
	(*)1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)。
しょうむ てんのう《しやうむ てんわう》
	聖武 天皇
	 701
	 756(天平勝宝 8. 5. 2)
	◇第45代天皇。諱(イミナ)は首(オビト)、諡号(シゴウ)は天璽国押開
	豊桜彦尊(アメシルシクニオシヒラキトヨサクラヒコ)、尊号は勝宝感神聖武皇帝(ショ
	ウホウカンシンショウムコウテイ)、法名は勝満(ショウマン)。文武天皇の第一皇子、
	母は藤原不比等(フヒト)の娘宮子(ミヤコ)夫人。
	  707(慶雲 4)父文武が崩じ、首が幼少のため、父の生母阿閇
	(アエ)皇女(草壁皇太子妃)が元明天皇として即位する。 714(和
	銅 7)元服、皇太子となる。 715年、政務に疲れた元明は譲位
	し、皇女氷高(ヒダカ)内親王を元正天皇に就け、首皇太子の成長
	を待つ。 716(霊亀 2)不比等の三女安宿媛(アスカベヒメ)(光明子)
	を皇太子妃とする。
	  724(養老神亀元)元正が譲位し即位する。即位の直後、生母
	を大夫人と称する勅を出すが、文武の皇后でも皇妃でなかった
	ので、左大臣長屋王(ナガヤオウ)の奏言により撤回する。 729(神
	亀 6)長屋王謀反の密告により、妻子とも自殺を命じる(長屋王
	の変)。同年、皇族皇后の慣習を破り臣下の娘として初めて、
	夫人光明子を皇后とする。
	  740(天平12)皇后の甥藤原広嗣(ヒロツグ)が太宰府で挙兵し、
	天皇は伊勢に脱出、のち山背(ヤマシロ)の恭仁(クニ)に到りここに遷
	都する。 741(天平13)疫病と内乱に苦しんだ天皇は、仏の加護
	を祈願して、諸国に国分寺・国分尼寺の建立の詔(ミコトノリ)を発
	する。
	 近江の紫香楽(シガラキ)に離宮を営み、 743(天平15)この地に
	大仏造立することを詔する。 744(天平16)難波(ナニワ)を皇都と
	定めるが、依然天皇は紫香楽に滞在する。
	  745(天平17)平城に戻り大仏鋳造がこの地で再開、渡金の黄
	金の不足が心配される。 749(天平21)陸奥から黄金が献上され、
	天皇はこれを祝い、天平感宝元と改元する。同年、孝謙天皇に
	譲位、太上天皇となる。
	  752(天平勝宝 4)奈良東大寺の大仏が完成、開眼供養会(カイゲ
	ンクヨウエ)が催される。
	 遣唐使を二度派遣し唐の文化を取り入れ、天平文化が頂点に
	達するが、遷都や大仏鋳造などで国家財政は乱れた。
	 即位: 724(神亀元. 2. 4)、退位: 749(天平勝宝元. 7. 2)。
	(*) 701[文武 5](大宝元)、 715(和銅 8,霊亀元)。
しょうりき まつたろう
	正力 松太郎
	1885(明治18)
	1969(昭和44)
	◇読売新聞社社主。
しょうりん はくえん
	松林 伯円
	1812(文化 9)
	1855(安政 2.10. 2)
	◇一代目、講釈師。本名は堀川源次郎。軍談を得意とする。安
	政の大地震で死亡。
	(2)生年は1812(文化 9)。堀川嘉兵衛の子。幼名源次郎。
	(16)生年は1813(文化10)。江戸堀川亭の子で、幼名助次郎。
しょうりん はくえん
	松林 伯円(二世)
	1832(天保 3)
	1905. 2. 8(明治38)
	◇講釈師・講談作者。本名は若林駒次郎のち義行、旧姓は手島。
	常陸下館の武士の子。白浪物を得意とする。
	(2)生年は1828(文政11)、(異)1831。
	(5)生年は1834(天保 5. 6. 2)。
	(9)生年は1832(天保 3)。
	(16)生年は1827(文政10)。
しょうわ てんのう《せうわ てんわう》
	昭和 天皇
	1901. 4.29(明治34)
	1989. 1. 7(昭和64)
	◇第124代天皇。名は裕仁(ヒロヒト)、幼名は迪宮(ミチノミヤ)。大正天
	皇の第1皇子、秩父宮雍仁(ヤスヒト)親王・高松宮宣仁(ノブヒト)親
	王・三笠宮崇仁(タカヒト)親王の兄。照宮成子内親王・久宮祐子内
	親王・孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・皇太子明仁(アキヒト)・
	義宮正仁親王(常陸宮)・清宮貴子内親王の父。
	 1921(大正10)3〜9月ヨーロッパ巡遊。
	 1921.11.25(大正10)摂政宮(セッショウノミヤ)となる。
	 1923.12.27(大正12)第48議会開院式への途次、虎ノ門で山口
	県人の無政府主義者難波大助に狙撃される(虎ノ門事件)。
	 1924. 1.26(大正13)久邇宮良子(クニノミヤ・ナガコ)女王(香淳<コウジュ
	ン>皇后)と結婚。
	 1926.12.25(大正15)大正天皇が崩御(ホウギョ)し、即日践祚(セン
	ソ)。1928.11.10(昭和 3)京都紫宸殿で即位式を挙行。
	 1946. 1. 1(昭和21)「新日本建設に関する詔書」で天皇人間宣
	言。
	 1986. 4.29(昭和61)天皇在位60周年記念式典、挙行。
	 在位:1926(大正15)〜退位:1989(昭和64)
	◆陵墓は東京都八王子市長房町の武蔵野陵。
	◎1989. 2.24(平成元)新宿御苑で昭和天皇大喪の礼を挙行(委
	員長竹下登首相)。
しょくし ないしんのう《しよくし ないしんわう》
	式子 内親王
	⇒しきし ないしんのう(式子 内親王)
じょけい
	如慶
	⇒すみよし じょけい(住吉 如慶)
じょせつ
	如拙
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町前期の画僧。如雪・如説とも記される。
	 応永年間(1394〜1428)ころの京都相国寺(ショウコクジ)の禅僧で、
	経歴は不詳で九州の人という。
	 宋の画風を取り入れた、日本の水墨画初期の開拓者で、その
	画統は周文(シュウブン)さらに雪舟(セッシュウ)と受け継がれた。
	 4代将軍義持(1386〜1428)の支持を受けて活躍。
	 唯一の確かな作品は、義持の求めで描かれた妙心寺退蔵院蔵
	『瓢鮎図(ヒョウネンズ)』で、当時の著名な禅僧31名の賛がある。
	◎臨済宗の僧絶海中津(ゼッカイ・チュウシン)(1336〜1405)から「大巧如
	拙(タイコウ・ジョセツ)」の号を与えられている。
しょぱん いながき《しよぱん ゐながき》
	ショパン 猪狩
	1929. 6.(昭和 4)
	2005.11.13(平成17)
	◇コメディアン。本名は猪狩誠二郎(セイジロウ)。東京市(現:東京
	都目黒区)生れ。妻は猪狩千重子。
	 1950(昭和25)兄妹ら20人と常磐楽団を結成し巡業。
	 東京コミックショウのコンビで活躍。
	 1955(昭和30)結婚。アジア初の女子プロレスリングを設立。
	◎アラブ風の衣装とヘビ人形を操る芸で、片言の「レッドスネ
	ーク、カモン!」で人気を集める。
じょん まんじろう《じよん まんじらう》
	ジョン 万次郎
	⇒なかはま まんじろう(中浜 万次郎)
しらい きょうじ《しらゐ けうじ》
	白井 喬二
	1889. 9. 1(明治22)
	1980.10. 9(昭和55)
	◇小説家。本名は井上義道、号は星蔭。因幡藩士族井上孝道の
	長男として横浜市公舎に生れる。妻は枢密参議官中島男爵の孫
	娘の鶴子。
	 1902(明治35)鳥取県米子中学校入学。
	 1913(大正 2)日本大学政経科卒業。
	 作品は『新撰組』・『富士に立つ影』など。
	◎「大衆文学」という名称を考え出した。
	(1)没日は10. 9。
	(5)没日は11. 9。
しらい こうじ《しらゐ かうじ》
	白井 浩司
	1917.10.19(大正 6)
	2004.11. 1(平成16)
	◇フランス文学者・翻訳家。
	 1947(昭和22)サルトル著『嘔吐(オウト)』を翻訳・刊行。
	 著書は『サルトル入門』・『アルベール・カミュ その光と
	影』など。
しらい ごんぱち《しらゐ ごんぱち》
	白井 権八
	⇒ひらい ごんぱち(平井 権八)
しらい まつじろう《しらゐ まつじらう》
	白井 松次郎
	1877(明治10)
	1951(昭和26)
	◇明治〜昭和期の実業家。双子の大谷竹次郎の兄、京都の夷谷
	座売店主白井亀吉の養子。
	 はじめ祇園座で養父母の手伝いをし、のち1895(明治28)実川
	正若一座を率いる。24歳で京都歌舞伎座の座主。1902(明治35)
	弟大谷竹次郎とともに松竹合名会社を設立。大阪の朝日座・文
	楽座・東京の明治座・歌舞伎座を買収し大阪・東京に進出、歌
	舞伎興行権をほぼ独占。
	 1921(大正10)松竹キネマ会社を設立、小林一三の東宝と映画
	界を二分し覇を競う。1923(大正12)千日土地株式会社社長。
	1931(昭和 6)松竹興業社長。1932(昭和 7)大阪歌舞伎座を開場。
	 太平洋戦争後、文楽座・浪速座・歌舞伎座などを復興。
	(2)没年は1951(昭和26)。1902松竹合名会社を創立。1920(大正
	 9)松竹シネマを設立……。
	(4)没年は1951。明治三五年弟大谷竹次郎とともに松竹合名社
	を創立。大正四年松竹キネマ創設。
	(6)「大谷竹次郎」の項:白井松次郎の没年1952。1905年松竹合名
	会社を設立。21年松竹キネマ会社を設立。
	 「松竹」の項:1902年設立した松竹合名が前身。
	(16)「大谷竹次郎」の項:1905(明治38)年松竹合名会社を設立.
	'21(大正10)年松竹キネマをおこし…….
	◎「松竹」の名は松次郎・竹次郎の兄弟の名から付けられた。
しらい よしお《しらゐ よしを》
	白井 義男
	1923(大正12)
	2003.12.26(平成15)
	◇プロボクサー。東京・三河島生れ。
	 1952. 5.19(昭和27)世界フライ級タイトルマッチにダド・マ
	リノ(米)を判定で勝利し、日本人初の世界王者となる。
しらいし いちろう《しらいし いちらう》
	白石 一郎
	1931.11. 9(昭和 6)
	2004. 9.20(平成16)
	◇作家。韓国釜山生れ。作家白石一文(長男)・文郎(次男)の父。
	 長崎県佐世保で育つ。
	 早稲田大学政治経済学部、卒業。
	 26歳から福岡市で作家活動を始める。
	 1957(昭和32)『雑兵』で講談倶楽部賞を受賞。
	 1987(昭和62)『海狼伝』で直木賞を受賞。
	 1992(平成 4)『戦鬼たちの海―織田水軍の将・九鬼嘉隆』で
	柴田錬三郎賞を受賞。
	 1999(平成11)『怒涛のごとく』で吉川英治文学賞を受賞。
	 肺炎で死去。
	 作品は1982(昭和57)『島原大変』・『異人館』など。
しらいし じつぞう
	白石 実三(白石 實三)
	1886.11.11(明治19)
	1937.12. 2(昭和12)
	◇小説家・随筆家。群馬県生れ。早稲田大学英文科卒業後、同
	校法科・東京外語学校露語科に学ぶ。田山花袋の門下で武蔵野
	研究家として知られる。妻は森田思軒の娘下子。
しらかわ てんのう《しらかは てんわう》
	白河 天皇
	1053
	1129(大治 4)
	◇第72代天皇。名は貞仁(サタ゚ヒト)、六条帝とも称する。後三条
	天皇の第1皇子。
	 譲位後、はじめて院政を行う。1096年、出家して法皇となる。
	(*)1053(永承 8,天喜元)、1096(嘉保 3,永長元)。
しらかわ りよう
	白河 鯉洋
	1874. 3. 2(明治 7)
	1919.12.25(大正 8)
	◇中国文学者・政治家。本名は次郎。
しらき しず
	素木 しづ
	⇒しらき しづ(素木 しづ)
しらき しづ
	素木 しづ
	1895. 3.26(明治28)
	1918. 1.29(大正 7)
	◇小説家。本名はシヅ。北海道札幌市生れ。上野山清貢(ウエノヤマ・
	キヨツグ)の妻。
	 1912(明治45)札幌高等女学校卒業。同年、結核性関節炎療養
	のため上京し、冬右足切断。1914(大正 3)夏、伊豆大島に転地
	療養し画家上野山清貢と知り合い、翌年結婚。1916(大正 5)大
	晦日に長男を出産。1917(大正 6)初夏、喀血して茅ヶ崎に転地。
	翌年、芝白金の伝染病研究所で没。
しらき しづ子
	素木 しづ子
	⇒しらき しづ(素木 しづ)
しらす こうすけ
	白須 孝輔
	1905. 2.12(明治38)
	1943. 3.19(昭和18)
	◇詩人。
しらせ のぶ
	白瀬 矗
	1861(文久元)
	1946(昭和21. 9. 4)
	◇明治時代の探検家。秋田県(現:にかほ市)生れ。
	 仙台第二師団配属中から北極探検を企画。陸軍中尉のときに
	予備役となり、1893(明治26)郡司成忠(シゲタダ)の報効義会に参
	加、北千島占守(シュムシュ)島に渡ったが、三年間の孤島生活は悲
	惨をきわめ物資輸送が途絶え一人生還。			
	 1909(明治42)アメリカ隊の北極到達を知り、未踏の南極に変
	更。1910.11.28(明治43)26名の隊員と共に開南丸(木造204トン)
	で隅田川(芝浦)から南極探検に出発。
	 翌年の1911. 2.(明治44)南極圏に進もうとするが、すでに南
	極海は結氷期に入っていて氷山に阻まれてシドニーに退却して
	寄港。1911.11.19(明治44)再出発。1912. 1.16(明治45)日本人
	として初めて南極大陸に上陸。さらに南進し、1912. 1.28(明
	治45)南極大陸の南緯80゚05'西経135゚37'に達し、そこを「大和
	雪原」と命名。しかし猛烈なブリザードに行く手を阻まれ、か
	つ極点に向うだけの食料がなく前進を断念し帰路に着く。
	 著書1897(明治30)『千島探検録』。
	(2)南緯80.5度の地点にまで達した。
	(6)「大和雪原」の項。南極大陸のロス氷棚東部,南緯85゚05'一
	帯の氷原。
	(16)南緯85度05分西経135度37分の地点に達したが,……。
	◎1941.12.(昭和16)東京都港区海岸3丁目の埠頭公園内に、開
	南丸の出港の地を記念して南極探検隊記念碑が建てられた。
	 1990(平成 2)生地の秋田県由利郡(ユリグン)金浦町(コノウラマチ)(現:
	にかほ市)に白瀬南極探検隊記念館、設立。
	◎南極探検隊27名に樺太アイヌの山辺安之助・花守信吉両隊員
	と犬ぞり用にカラフト犬60匹が参加していた。
しらとり くらきち
	白鳥 庫吉
	1865(元治 2. 2.)
	1942(昭和17. 4. 1)
	◇明治〜昭和期の東洋史学者。千葉県生れ。近代的東洋史学を
	確立、北方民族や西域史研究の開拓者。言語学から日本民族の
	起源をウラルアルタイに措定する。邪馬台(ヤマタイ)国九州説の先
	駆者。
	 1890(明治23)東京大学卒業と同時に学習院教授。ヨーロッパ
	留学後、1904(明治37)東京大学に新設された東洋史学科教授に
	なる。1908(明治41)後藤新平を説いて満洲鉄道内に満鮮歴史地
	理調査部を設けさせ、自ら調査研究の組織に当る。1909(明治
	42)「東洋学報」を発行。1914(大正 3)満鉄の調査部を閉鎖、東
	大に戻る。1924(大正13)東洋文庫研究部の創設に尽力、理事長
	になる。学士院会員。
	(2)1904(明治37)東大に新設の東洋史学科教授になり,……。
	満鉄内に満鮮歴史地理調査部を設けさせ,……。
	(16)1904(明治36)年東大教授となり,…….
	満鉄の満鮮史跡調査事業に尽力.
	(*)1903(明治36)、1904(明治37)。
しらとり しょうご
	白鳥 省吾
	⇒しろとり せいご(白鳥 省吾)
しらやなぎ しゅうこ
	白柳 秀湖
	1884. 1. 7(明治17)
	1950.11. 9(昭和25)
	◇小説家・文芸・社会評論家・歴史家。本名は武司(タケシ)、別号
	は哲羊生・曙の里人。静岡県生れ。1899(明治32)春、上京し家
	僕となり郁文館中学校に通い、1903(明治36)早稲田大学予科に
	入学。幸徳秋水らの影響で社会主義に近づく。1904(明治37)加
	藤時次郎の直行団に加入、「直言」を編集。1905(明治38)平民社
	に参加、山口孤剣・中里介山・宮田暢らと文学研究会「火鞭会」
	を創立。1907(明治40)早稲田大学哲学科卒業。
	(2)本名は武司。
	(5)没日は11. 9。
	(6)本名武司。
	(13)昭和二五年二月没す。
	(16)没日記載なし。名は武.
しろさき れいぞう
	白崎 礼三
	1914. 1.28(大正 3)
	1944. 1.20(昭和19)
	◇詩人。胸を患い病没。
しろとり せいご
	白鳥 省吾
	1890. 2.27(明治23)
	1973. 8.27(昭和48)
	◇大正・昭和期の詩人。宮城県生れ。早稲田大学英文科卒業。
	自然主義文学の影響を受け、農村生活をテーマにした口語自由
	詩を作る。
	(1)しろとり せいご(白鳥 省吾)。
	(2)しらとり せいご(白鳥 省吾)。
	(3)しらとり せいご(白鳥 省吾)。
	(5)見出しは「しらとり しょうご(白鳥 省吾)」、本名は白鳥
	省吾(シロトリ・セイゴ)。
	(9)しろとり せいご(白鳥 省吾)。
	(11)見出しは「しらとり しょうご(白鳥 省吾)」、本名は白鳥
	省吾(シロトリ・セイゴ)。
	(13)しろとり しょうご(白鳥 省吾)。
しんかい たけたろう
	新海 竹太郎
	1868
	1927(昭和 2)
	◇彫刻家。山形県生れ。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
しんかん《しんくわん》
	真観
	⇒じょうあ しんかん(浄阿 真観)
しんきょう《しんけう》
	真教
	⇒たあ しんきょう(他阿 真教)
しんけい
	心敬
	1406(応永13)
	1475(文明 7. 4.16)
	◇室町中期の歌人・連歌師。初名は心恵、連海法師、房号は
	蓮海・連海。紀伊国名草郡田井庄(タイショウ)生れ。権大僧都。
	 三歳で比叡山の横川で仏道修業を行ない、のち山城清水の十
	住心院に住む。二十歳ころから清巌正徹(セイガン・ショウテツ)に師事
	し和歌を学ぶ。作風は年を経るにつれ無常感が強くなる。応仁
	・文明の乱をさけ東国に下り相摸国大山の麓に隠棲、死去。
	(16)没日は 4.12。
しんげい
	真芸
	⇒げいあみ(芸阿弥)
じんざい きよし
	神西 清
	1903.11.15(明治36)
	1957. 3.11(昭和32)
	◇小説家・翻訳家・評論家。東京牛込(ウシゴメ)生れ。府立第四
	中学校を経て第一高等学校理科中退。東京外語学校露語科に転
	学、1928(昭和 3)卒業。舌ガンにより死去。
しんしょう《しんしやう》
	審祥
	⇒しんじょう(審祥)
しんじょう《しんじやう》
	審祥
	生年不詳
	 742(天平14)
	◇新羅(シラギ)の僧、日本の華厳宗の開祖。
	 法蔵大師の高弟。
	  740(天平12)良弁(ロウベン)に招かれて渡来。
しんじょう わいち
	新城 和一
	1891. 5.15(明治24)
	1952. 4. 7(昭和27)
	◇評論家・翻訳家。筆名は真城倭一。
しんせい
	真盛
	1443(嘉吉 3)
	1495(明応 4)
	◇室町中期の僧侶・天台宗真盛派の祖。伊勢(現:三重県)の人。
	勅諡(チョクシ)は円戒国師・慈摂大師。
	 7歳で出家し、のち比叡山西塔(サイトウ)の慶秀のもとで20年あ
	まり修学。天台の奥義(オウギ)を極(キワ)め、伝灯法師位に進む。
	 1483(文明15)黒谷の青竜寺に隠棲し、専(モッパ)ら浄業(ジョウゴ
	ウ)(念仏)を修する。
	 1486(文明18)近江(現:滋賀県)坂本の生源寺で『往生要集(オウ
	ジョウヨウシュウ)』を講ずる。
	 源信(ゲンシン)に傾倒し、その旧跡である近江西教寺(サイキョウジ)
	を復興。戒称(戒律と念仏)二門弘通(グズウ)の道場とする。
	 無欲清浄専勤念仏を説いて北陸・伊勢などで大衆を教化。ま
	た後土御門天皇(ゴツチミカド・テンノウ)に円頓戒(エンドンカイ)を授け、足
	利義政(ヨシマサ)らを指導など広く皇室・武家に帰依者をもつ。
	 著書は『奏進法語』・『念仏三昧法語』など。
しんぜい
	信西
	⇒ふじわらのみちのり(藤原 通憲)
しんぜい
	真済
	 800(延暦19)
	 860(貞観 2)
	◇平安時代の僧侶(真言宗)。京都の人。空海の直弟子。
しんぜい
	真盛
	⇒しんせい(真盛)
しんそう
	真相
	⇒そうあみ(相阿弥)
しんにょ しんのう
	真如 親王
	 799(延暦18)
	 865(貞観 7)
	◇平城天皇の第3皇子。高岳(タカオカ)親王、法号は真如・遍明、
	通称は頭陀親王。母は伊勢継子(イセノツグコ)。
	  809(大同 4)嵯峨天皇が即位し、皇太子となる。翌年、平城
	上皇の復位を図り挙兵し(藤原薬子の変)、皇太子を廃せられる。
	のち出家して東大寺に入り真如と号し、弘法大師の弟子となる。
	 855(斉衡 2)東大寺大仏の頭が落ち、 860(貞観 2)修理検校に
	任ぜられる。
	  861(貞観 3)真言を究めるため入唐を申し出、翌年太宰府を
	出発。 864(貞観 6)長安に着くが、当時の中国では仏教が衰微
	していたため、翌年従者3人を連れて広東を立ち、海路印度(イ
	ンド)に向うが、羅越国(シンガポール)で死去。
しんのう
	真能
	⇒のうあみ(能阿弥)
じんぼ こうたろう
	神保 光太郎
	1905(明治38)
	1990(平成 2)
	◇昭和期の詩人・ドイツ文学者。山形県生れ。京都大学卒業。
	 太平洋戦争中、占領したシンガポール(昭南市)の昭南日本学
	園の校長。
しんむら いずる
	新村 出
	1876.10. 4(明治 9)
	1967. 8.17(昭和42)
	◇言語学者・随筆家。号は重山、旧姓は関口。山口生れ。第一
	高等中学校を経て、1899(明治32)東京帝国大学文科大学博言学
	科卒業。東京高等師範学校教授、東京帝国大学助教授を経て、
	1906.11.(明治39)から1909. 4.(明治42)まで英独仏に留学。帰
	国後、京都帝国大学教授。1910(明治43)文学博士。1928(昭和
	 3)帝国学士院会員。京都大学図書館長。『広辞苑』(1955<昭
	和30>初版)の編者。
	◎新かな・新字に反対の立場をとっており、当初予定の『廣辭
	苑』が『広辞苑』に変更になったとき、一晩泣き明かしたとい
	う。また序文も新かな語句を用いないように考慮されている。
しんめん むさし
	新免 武蔵
	⇒みやもと むさし(宮本 武蔵)
しんもん たつごろう《しんもん たつごらう》
	新門 辰五郎
	1800(寛政12)
	1875(明治 8)
	◇江戸幕末の侠客(キョウカク)・町火消。
	 江戸浅草に住み、舜仁准后が浅草寺に退隠して新しく造られ
	た一門を預かり、新門と称する。
	 1864年、一橋慶喜に従い、京都御所・二条城の防火に当る。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
しんら ばんしょう《しんら ばんしやう》
	森羅 万象
	⇒もりしま ちゅうりょう(森島 中良)
しんらん
	親鸞
	1173(承安 3)
	1262(弘長 2.11.28)
	◇鎌倉前期の僧。浄土真宗(一向宗)の開祖。幼名は松若丸・
	範宴、法名は綽空(シャククウ)・善信(ゼンシン)・愚禿(グトク)、諡号は
	見真大師。日野有範の子、善鸞・有房・覚信尼の父、唯善の祖
	父、本願寺3世覚如(カクニョ)の曾祖父。
	 9歳のとき青蓮院慈円(ショウレンイン・ジエン)の門に入り、比叡山で
	修行。1201年、京都六角堂に百日参籠(サンロウ)し、聖徳太子の
	「示現の文」により、東山吉水の法然(ホウネン)房源空に就き専修(セ
	ンジュ)念仏に転じ、綽空と改める。
	 1207(承元元)法然の念仏弾圧に連座して、藤井善信(ヨシノブ)
	と俗名を付けられ越後に流される(承元法難)。以後は愚禿と称
	し、非僧非俗の生活を信条とする。さらに親鸞と自称し、三善
	氏の娘(のち恵信尼<エシンニ>)を娶る。
	 1211年赦免されるがしばらく越後に留まり、1214(建保 2)常
	陸国稲田郷の領主の招きで妻子を連れてに移り住み、ここに草
	庵(現:西念寺)を結び浄土真宗を開き、『教行信証(キョウギョウシンショ
	ウ)』を著す。
	 60歳ころ帰洛し、近江の木部(キベ)に錦織寺(ニシゴリデラ)を建
	てる。1256(建長 8. 5.)異端に組みした子善鸞を義絶。
	 「悪人正機(アクニンショウキ)」の教説が有名。
	◆親鸞忌(報恩忌)[旧暦11.28]。
	[11.22〜11.28]京都大谷派の東本願寺で七昼夜にわたる大法会。
	[ 1.10〜 1.16]本願寺派の西本願寺で。
	(*)1201(正治 3,建仁元)、1211(承元 5,建暦元)。
	◎『歎異抄(タンニショウ)』は弟子、河和田(カワダ)の唯円(ユイエン)の作。
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