フレーム版に戻る ノンフレーム版に戻る ホームページに戻る

                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6221.03

                 人   名   辞   典    《し》       編集:獨  澄旻

-------- し ----------------------------------------------------
しいな りんぞう
	椎名 麟三
	1911.10. 1(明治44)
	1973. 3.28(昭和48)
	◇小説家。本名は大坪昇(ノボル)。兵庫県飾磨(シカマ)郡曾左(ソサ)
	村生れ。組合運動をして1931(昭和 6)逮捕、控訴したがのち転
	向、1933(昭和 8)懲役三年執行猶予五年で出所。
	◆邂逅忌[ 3.28]椎名麟三を偲ぶ会主催の追悼会。長編『邂逅』
	から。
しいのもと さいまろ
	椎本 才麿
	1656(明暦 2)
	1738(元文 3. 1. 2)
	◇江戸前期の俳諧師。本姓は谷、初号は則武(ノリタケ)、別号は
	西丸・才丸・旧徳(キュウトク)。
しーぼると
	シーボルト
	1796. 2.17(寛政 8)
	1866.10.18(慶応 2)
	◇江戸後期に来日したドイツの医者・博物学者。名は J. 
	Philipp Franz Balthasar von Siebeold。南ドイツ・バイエル
	ンのヴュルツブルク生れ。父 J.G.C.シーボルトはヴェルツブ
	ルク大学の生理学教授。
	 ヴェルツブルク大学卒業。
	 東洋研究を志し、オランダ東インド会社に入社し、1823(文
	政 6)長崎オランダ商館付医員として出島に来日。1824(文政 7)
	長崎郊外の鳴滝(ナルタキ)に塾を開き、西洋医学などの講義のほか
	診療なども行う。塾生に日本の地理・産業・歴史などの課題を
	与え、報告させている。1826(文政 9)スツルレル商館長の江戸
	参府に随行。島津重豪父子・大槻玄沢・宇田川榕庵・高橋景保
	・最上徳内らと接する。
	 1828(文政11)帰国に際し、荷物の中に国禁の地図・葵(アオイ)
	紋服などがあり国外持ち出しが発覚(シーボルト事件)、翌年11
	月国外追放となり再渡航禁止を言い渡されてオランダに帰る。
	 1858(安政 5)日蘭通商条約締結により追放が解除となり、
	1859(安政 6)長子アレクサンダーを伴い来日し、幕府の外交問
	題に関与、学者を集めて講義をするがオランダ総領事に妨げら
	れ解任。1861年、日本を去る。
	 ミュンヘンで死去。
	(2)'62帰国。
	(4)六二年帰国。
	(16)'61(文久 1)日本を去った.
	(*)1861(万延 2,文久元)。
[1]じうん
	慈雲
	1274(文永11)
	1345
	◇鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧・国泰寺派の始祖。諱(イミナ)
	は妙意、勅号は清泉禅師。勅諡は慧日聖光国師。信濃の人。
	 五智山で出家し、越中に東松寺を創建。寺は後醍醐天皇から
	国泰寺の号を授けられ、勅願所となった。
	(*)1345(<南>興国 6,<北>康永 4,<北>貞和元)。
[2]じうん
	慈雲
	1718(享保 3)
	1804(文化元.12.22)
	◇江戸中期の真言宗の学僧。俗姓は上月、名は飲光(オンコウ)、字
	は慈雲、号は葛城山人・百不知童子。尊称は慈雲尊者(ソンジャ)・
	慈雲律師・葛城尊者など。大坂の人。上月安範(コウヅキ・ヤスヒラ)の
	子。
	 13歳で出家。伊藤東涯の門に学ぶ。師貞紀から両部神道を伝
	授される。顕・密両教の教義・戒律・梵学に精通し、釈迦在世
	時代の法を興そうとして正法律(ショウボウリツ)(戒律の復興)を唱え
	た。
	 晩年、河内の葛城山高貴寺に住して神儒仏三教への造詣をふ
	まえ密教・悉曇(シッタン)を学び、両部神道を刷新した神道論を展
	開。のちに雲伝神道・葛城神道と呼ばれた。
	 著書は悉曇を研究した『梵学津梁(ボンガクシンリョウ)』千巻や民
	衆教化の『十善法語』12巻・『人となる道』、『南海寄帰伝解
	纜鈔』などがある。
	(4)大坂の人。
	(6)大阪の人。
	(25)讃岐(香川県)高松の人.
	(26)享保三年大阪に生まれた。
じうん
	似雲
	1673
	1753(宝暦 3)
	◇江戸中期の歌僧。初めは如雲、別号は虚空庵など。安芸(アキ)の人。
	 武者小路実陰に師事。西行に私淑し、諸国を行脚。
	 著書は『磯の浪』や歌日記『年並草』など。
	(*)1673(寛文13,延宝元)。
	◎「今西行」と呼ばれた。
じえ だいし《じゑ だいし》
	慈恵 大師(慈慧 大師)
	⇒りょうげん(良源)
じえん《じゑん》
	慈円
	1155(久寿 2. 4.15)
	1225(嘉禄元. 9.25)
	◇平安末期・鎌倉前期の天台宗の高僧・歌人・史論家。諡は
	慈鎮。関白藤原忠通(タダミチ)の末子、関白九条兼実(カネザネ)・道
	円・兼房は同母兄、関白基実・基房は異母兄。
	 11歳のとき比叡山延暦寺の青蓮院門跡に入り、覚快法親王に
	ついて修学。13歳で剃髪(テイハツ)して道快といい、16歳で法眼(ホ
	ウゲン)。27歳のとき覚快法親王が他界し、法印に叙されて慈円
	と改名。
	 1192(建久 3)38歳で兄関白兼実の力で天台座主(ザス)の職に
	つき、1196(建久 7)兼実が失脚し慈円も座主を辞任。後鳥羽上
	皇が院政を始めると九条家も復権して、1201年再度天台座主に
	再任、60歳までに四度座主となる。1203(建仁 3)大僧正。1208
	(承元 2)摂津の四天王寺別当。
	 墓所は滋賀県大津市比叡山。
	 家集『拾玉集』・史論『愚管抄』を著す。
	(*)1201(正治 3,建仁元)。
	◎『愚管抄』は日本最初の史論。
しお まさる《しほ まさる》
	塩 まさる
	1908. 2.12(明治41)
	2003.10.16(平成15)
	◇歌手。本名は塩正吉(マサヨシ)。福島県生まれ。
	 早稲田大学卒業。
	 千葉鉄道管理局に勤務。
	 1937(昭和12)『軍国子守唄』でデビュー。同年、『軍国子守
	唄』がヒット。
	 1939(昭和14)『九段の母』がヒット。
	 1967(昭和42)老人ホームの慰問を開始。
	 1997(平成 9)日本レコード大賞功労賞、受賞。
しおい うこう《しほゐ うかう》
	塩井 雨江(鹽井 雨江)
	1869(明治 2. 1. 3)
	1913. 2. 1(大正 2)
	◇詩人・国文学者。本名は正男、号は釣士(チョウシ)。但馬国(兵
	庫県)生れ。
	 1896(明治29)東京帝国大学国文科卒業。
	 奈良女子高等師範学校教授。
	 著書は『暗香疎影』・『新古今和歌集詳解』など。
	(5)明治二八年卒業後……。
しおじり こうめい
	塩尻 公明
	1901.11. 6(明治34)
	1969. 6.12(昭和44)
	◇政治学者・評論家。岡山県生れ。東京大学政治科卒業。
しおだ りょうへい
	塩田 良平
	1899. 5.25(明治32)
	1971.11.28(昭和46)
	◇近代文学研究家・国文学者・随筆家。東京市麹町区隼(ハヤブサ)
	町生れ。府立第一中学校、1921(大正10)東京高等工業の応用化
	学科卒業、東京大学英文科聴講生・国文科選科入学・1927(昭
	和 2)学士試験合格。
しおつき たけし
	塩月 赳
	1909. 1.12(明治42)
	1948. 3.17(昭和23)
	◇小説家・評論家。太宰治(ダザイ・オサム)作『佳日』のモデルで、
	彼の死後3ヶ月後に太宰が入水。
	◆薔薇忌[ 3.17]評論集『薔薇の世紀』から。
しおのや うへい
	塩谷 鵜平(鹽谷 鵜平)
	1877. 5.30(明治10)
	1940.12. 8(昭和15)
	◇俳人。本名は熊蔵、のち宇平、初号は華園。岐阜県鏡島村江
	崎の地主に生れる。
しおのや せいざん
	塩谷 青山
	1855(安政 2. 1.27)
	1925. 2. 2(大正14)
	◇漢学者。名は時敏、字は修卿、号は青山。
しおやま ちょうぞう
	塩山 長三
	1892. 1. 1(明治25)
	1931. 4. 6(昭和 6)
	◇小説家。本名は松村長之助。
しが きよし
	志賀 潔
	1870(明治 3)
	1957(昭和32)
	◇明治〜昭和前期の細菌学者。旧姓は佐藤。宮城県生れ。
	 帝国大学医科大学卒業後、北里柴三郎に師事。1898(明治31)
	赤痢菌を発見。1901(明治34)渡欧。1915(大正 4)北里研究所が
	新設され第四部長に就任。慶応大学教授・京城帝国大学初代医
	学部長・同大総長。
	 1944(昭和19)文化勲章を受章。
しが しげたか
	志賀 重昂
	1863(文久 3.11.15)
	1927. 4. 6(昭和 2)
	◇明治〜昭和初期の国粋主義者・地理学者・政治評論家。号は
	矧川(シンセン)・矧川漁長。三河国岡崎藩儒重職の子。
	 1881(明治14)札幌農学校卒業。長野県立長野中学校教諭。
	1888(明治21)三宅雪嶺らの政教社同人となり、雑誌「日本人」で
	論陣を張る。日清戦争後、1896(明治29)進歩党名誉幹事・憲政
	党・憲政本党に属し、1897(明治30)農商務省山林局長・外務省
	参事官を歴任。1902(明治35)政友会より代議士当選2回。
	(1)誕生日は11.15。
	(3)誕生日は11.15。
	(5)誕生日は 9.15。
	(9)誕生日は11.15。
	(11)誕生日は 9.15。
	(15)号は矧川(インセン).
しが なおや
	志賀 直哉
	1883. 2.20(明治16)
	1971.10.21(昭和46)
	◇明治〜昭和期の小説家。宮城県石巻町生れ。実吉敏郎海軍大
	佐夫人、英子(フサコ)の実兄。
	 1885(明治18)両親と共に、祖父の東京麹町区内幸町に移る。
	1890(明治23)芝公園五一号に移転。1895(明治28)母と死別。学
	習院高等科を経て、1908(明治41)東京帝国大学英文科に進み、
	国文科に転科して中退。同年、『或る朝』で文壇に登場。1910
	(明治43)武者小路実篤らと「白樺」を創刊。
	 1949(昭和24)文化勲章を受章。
	◆墓は東京都港区の青山霊園。
しが まさる
	志賀 勝
	1892. 3.29(明治25)
	1955. 8. 1(昭和30)
	◇アメリカ文学者。
しが みつこ
	四賀 光子
	1885. 4.21(明治18)
	1976. 3.23(昭和51)
	◇歌人。本名は太田みつ、旧姓は有賀。長野市生れ。長野師範
	女子部を経て、1909(明治42)東京女高等師範文科卒業。同年、
	太田水穂(ミズホ)と結婚。矢ヶ崎奇峰(ヤガサキ・キホウ)の妻の妹。
しかい たみぞう
	四海 民蔵
	1890. 2.25(明治23)
	1960. 1.30(昭和35)
	◇四海書房の創業者・歌人。歌号は多実三、旧姓は善波。
じきぎょう みろく
	食行 身禄
	1671(寛文11. 1.17)
	1733(享保18. 7.13)
	◇江戸中期の富士講の指導者。油商。俗名は伊藤伊兵衛。伊勢
	国一志(イチシ)郡の農民の子。
	 13歳で江戸に出て呉服屋で働く。同郷者の勧めで富士講に入
	り1687(貞享 4)食行の行名を受ける。
	 1717(享保 2)富士講6世の行者となり、1722(享保 7)から食
	行の下に身禄を加えて名乗る。
	 富士講の呪術・祈祷中心の行法を排除し、処世訓と生業の勧
	めを含む体系的な教義を整えた。
	(26)享保十八年七月十三日(一説に十七日または十八日)富士山
	にて没、享年六十三歳。
	◎当時、光清(コウセイ)派富士講が加持祈祷を中心としていた。
しきし ないしんのう
	式子 内親王
	生年不詳
	1201(正治 3. 1.25)
	◇鎌倉前期の歌人。別号は大炊御門斎院(オオイノミカドノサイイン)・
	大炊殿(オオイドノ)・高倉宮(タカクラノミヤ)・萱斎院(カヤノサイイン)、法名は
	承如法(ショウニョホウ)。「しょくし ないしんのう(式子 内親王)」
	とも呼ぶ。後白河天皇の皇女。母は権大納言藤原季成(スエナリ)の
	娘従三位成子。享年は五〇歳に満たないと推定される。
	◎藤原定家との恋愛伝説(謡曲『定家』)がある。
しきだ としはる
	敷田 年治
	1817(文化14. 7.20)
	1902. 1.30(明治35)
	◇江戸幕末・明治時代の国学者。豊前国宇佐郡敷田村(現:宇佐
	市大字下敷田)の双葉山神社祠官宮本包継の次男。
	 帆足万里・渡辺綱章に師事。
	 1839(天保10)伊勢国四日市の蛭児(ヒルコ)神社祠官吉松能登守
	の養子となり吉松伊勢守と称する。1846(弘化 3)敷田年治と改
	名。
	 1853(嘉永 6)江戸に遊学。1863(文久 3)和学講談所の教官。
	 1869(明治 2)大阪の国学講習所の教師。1881(明治14)神宮皇
	教院学頭。神宮皇学館学頭。
	 1883(明治16)病により河内に戻り、1888(明治21)私塾を開く。
	 著書は『古事記標註』など。
しきてい さんば
	式亭 三馬
	1776(安永 5)
	1822(文政 5.閏1. 6)
	◇江戸後期の洒落本・黄表紙・滑稽本・合巻(ゴウカン)本作者。本姓
	は菊地、本名は久徳(ヒサノリ)・太輔(タイスケ)・泰輔(タイスケ)、通称は
	西宮太助、別号は本町庵(ホンチョウアン)・四季山人・(「口」偏+「多」)
	(「口」偏+「羅」)哩楼(タラリロウ)主人。八丈小島出身の版木師茂兵衛
	の子。江戸生れ。
	 書肆万屋太治右衛門の婿養子。のち古本屋を営む。1810(文
	化 7)薬屋を開店。
	 代表作は1809(文化 6)『浮世風呂』・1813(文化10)『浮世床』。
	◎十返舎一九(ジッペンシャ・イック)とともに滑稽本の二大作家と称さ
	れる。
	(2)(名)菊地久徳……別号を……(「口」偏+「多」)(「口」偏+「羅」)
	哩楼……。
	(5)(「口」偏+「多」)(「口」偏+「羅」)哩楼(タラリロウ)主人。
	(11)(「嘔」の「品」を「多」に替える)(「口」偏+「羅」)哩楼(タラリロウ)主
	人。
	(15)菊池氏.
	(16)本名は菊地久徳.
しきば りゅうざぶろう《しきば りゆうざぶらう》
	式場 隆三郎
	1898. 7. 2(明治31)
	1965.11.21(昭和40)
	◇精神医学者・随筆家・評論家。
しきもり いのすけ
	式守 伊之助(初代)
	生年不詳
	没年不詳
	◇相撲(スモウ)の立行司(タテギョウジ)。伊豆の人。
	 吉田追風に入門。
	 1871(明治 4)式守家を創立。
しきもり いのすけ
	式守 伊之助(十六代)
	1892. 6.20(明治25)
	1948.12. 3(昭和23)
	◇相撲(スモウ)の立行司(タテギョウジ)。
しきもり いのすけ
	式守 伊之助(十九代)
	1886. 6.20(明治19)
	1966.12.14(昭和41)
	◇相撲(スモウ)の立行司(タテギョウジ)。茨城県生れ。
	 木村庄三郎を経て、1951(昭和26)襲名。
しきもり いのすけ
	式守 伊之助(二十六代)
	1927.10.22(昭和 2)
	1994. 3.31(平成 6)
	◇相撲(スモウ)の立行司(タテギョウジ)。本名は茶原宗一。熊本県生
	れ。
しきもり いのすけ
	式守 伊之助(二十九代)
	1935. 8.28(昭和10)
	2004. 2. 2(平成16)
	◇相撲(スモウ)の立行司(タテギョウジ)。本名は池田貢(ミツグ)。和歌
	山県生れ。
	 木村善之輔を経て襲名。
じきん
	慈訓
	 691[持統 5]
	 777(宝亀 8)
	◇奈良時代の僧侶(華厳宗)。
	  740(天平12)新羅僧審祥(シンジョウ)(華厳宗の開祖)から良弁(ロ
	ウベン)らとともに華厳を学ぶ。
	  757年興福寺別当。
	(*) 757(天平勝宝 9,天平宝字元)。
しげの てんらい
	繁野 天来(繁野 天來)
	1874. 2.16(明治 7)
	1933. 3. 2(昭和 8)
	◇詩人・英文学者。本名は政瑠(マサル)。徳島市生れ。東京専門
	学校(現:早稲田大学)文学科卒業。
	(3)誕生日は 2.23。
	(5)誕生日は 2.16。
	(9)誕生日は 2.16。
	(11)誕生日は 2.13。
	(13)誕生日の記載なし。
しげの やすつぐ
	重野 安繹
	1827(文政10.10. 6)
	1910.12. 6(明治43)
	◇江戸幕末〜明治初期の史学者・漢学者。通称は厚之丞、号は
	成斎。旧鹿児島藩士。
	 薩摩藩校造士館・昌平黌(ショウヘイコウ)に学び、造士館教授となり、
	『皇朝世鑑』を編集。明治維新後、修史館(史料編纂所の前身)
	に入り、『日本編年史』を編集。1888(明治21)東京大学教授。
	東京大学に国史科を設置。史学会初代会長・元老院議官・貴族
	院議員などを歴任。
	 著書は星野恒(ツネ)・久米邦武との共著『国史眼』など。
しげののさだぬし
	滋野 貞主
	 785(延暦 4)
	 852(仁寿 2)
	◇平安初期の漢学者。尾張守家訳の子。
	 文章生(モンジョウショウ)・大内記(ダイナイキ)・東宮学士などを歴任、
	参議に至り正四位下に叙せられる。
	 勅命を受けて『秘府略』・『経国集』編纂(ヘンサン)に参加。
しげみつ まもる
	重光 葵
	1887. 7.29(明治20)
	1957. 1.26(昭和32)
	◇大正・昭和期の政治家・外交官。大分県出身。
	 東京大学卒業後、外務省に勤務。独・英・米・ポーランド勤務
	・上海総領事を経て、1931(昭和 6)駐華特命全権公使、上海事
	変停戦の交渉中に朝鮮人の投弾で右脚を失う。1933(昭和 8)外
	務次官。1936(昭和11)駐ソ特命全権大使。1938(昭和13)駐英大
	使。1942(昭和17)駐華大使。1943(昭和18)東条英機内閣の外相。
	1944(昭和19)小磯国昭内閣の外相に留任、大東亜相を兼任。
	1945(昭和20)辞職後、貴族院議員。
	 太平洋戦争の敗戦直後、東久邇宮稔彦(ヒガシクニノミヤ・ナルヒコ)内閣
	の外相に再任、政府代表として米艦ミズーリで無条件降伏文書
	に調印。1947(昭和22)極東国際軍事裁判でA級戦犯として禁固
	7年となり巣鴨拘置所に入獄。1950.11.21(昭和25)仮釈放。
	1951(昭和26)リッジウエイ声明で戦犯追放が解除。
	 1952(昭和27)改進党総裁、衆議院議員に当選。保守合同の結
	果、1954(昭和29)自由民主党に入党、副総裁。1954〜1956(昭
	和29〜昭和31)第1〜3次鳩山一郎内閣の外相・副総理。
	 著書は『昭和の動乱』など。
しし ぶんろく
	獅子 文六
	1893. 7. 1(明治26)
	1969.12.13(昭和44)
	◇小説家・劇作家・演出家。本名は岩田豊雄(トヨオ)。横浜市弁
	天通生れ。
	 慶応義塾幼稚舎・普通部を経て、1913(大正 2)慶応義塾大学
	文科予科中退。
	 1934(昭和 9)獅子文六の筆名を用いる。1942(昭和17)七月か
	ら十二月まで本名で「朝日新聞」に、真珠湾攻撃で戦死した特殊
	潜航艇の九勇士の一人横山正治をモデルとした小説『海軍』を
	連載、緒戦時の昂揚(コウヨウ)のなかでひろく愛読された。1948
	(昭和23)三月に追放の仮指定を受けたが五月に解除。
	(1)岩田豊雄(イワタ・トヨオ)、筆名は獅子文六、没日は12.12。
	(3)獅子 文六。
	(5)獅子 文六。没日は12.13。
	(9)没日は12.13。
	(11)獅子 文六。没日は12.13。
	(13)獅子 文六。没日の記載なし。
ししど ぎいち
	宍戸 儀一
	1907. 5. 5(明治40)
	1954. 8.19(昭和29)
	◇評論家。
ししの なかば
	宍野 半
	1844(天保15. 9. 9)
	1884. 5.13(明治17)
	◇明治初期の宗教家(扶桑教)。薩摩国薩摩郡隈之城(現:鹿児島
	県川内<センダイ>市)の地侍出身。宍野休左衛門の第2子。
	 1872(明治 5)教部省に仕えたが、富士山を中心に国教を樹立
	しようと志し、浅間神社宮司となり諸講社を結集し、1873(明
	治 6)教部省を辞任して富士一山(フジイチザン)講社を組織。1874
	(明治 7)富士の廃仏棄釈を指揮。
	 さらに富士講の伊藤六郎兵衛を引き入れて丸山講を吸収し、
	1875(明治 8)神道事務局所属の扶桑教会を設立。1882(明治15)
	扶桑教として一派独立。
しずかごぜん《しづかごぜん》
	静御前
	生年不詳
	没年不詳
	◇源義経の妾(ショウ)(側室)。はじめは京都の白拍子(シラビョウシ)。
	母は磯禅師。
	 1185(文治元.10.17)土佐坊昌俊(トサボウ・ショウシュン)が義経を堀川
	第に襲ったとき、義経の危急を助ける。義経が頼朝と不和にな
	り西海をめざし都落ちする際、摂津国大物浦まで随行、船の転
	覆で天王寺で別れる。まもなく吉野山で再会、数日後に別れて
	京都に帰ろうとして蔵王堂で山僧に捕えられる。京都で北条時
	政の取り調べを受け、翌年鎌倉に送られ義経の行方を訊問され
	る。懐胎していたので安達清恒にあずけられる。1186(文治 2)
	源頼朝・平政子が鶴岡八幡宮に詣でた際、夫妻の求めで、工藤
	祐経の鼓と畠山重忠の銅拍子で舞いを演じ、義経への慕情の歌
	をうたった話は有名。男児を出産するが由比ヶ浜に沈められ、
	鎌倉から放還されて京都に向ったが、その後の消息は不明。
	◎埼玉県北葛飾郡(キタカツシカグン)栗橋町(クリハシマチ)の栗橋駅東口近
	くに、御前が平泉へ行く途中、この地で義経の死を知り、悲し
	みのあまり病に伏し、1189(文治 5)亡くなったという静御前の
	もの伝えられる墓がある。
しずき ただお《しづき ただを》
	志筑 忠雄
	⇒しづき ただお(志筑 忠雄)
しだ そきん
	志田 素琴
	1876. 7.22(明治 9)		????
	1946. 1.17(昭和21)
	◇俳人・俳文学者。本名は義秀(ギシュウ)、初号は虚白(キョハク)、
	別号は不遠舎。
	(9)誕生日は 7.27。
しだ やば
	志田 野坡
	1663(寛文 3)
	1740(元文 5. 1. 3)
	◇江戸前期の俳人。本姓は竹田、通称は弥助(ヤスケ)、別号は
	野馬(ヤバ)・樗木社(チョボクシャ)。蕉門十哲の一人。福井の商家生
	れ。
しづき ただお《しづき ただを》
	志筑 忠雄
	1760(宝暦10)
	1806(文化 3. 7. 3)
	◇江戸中期の天文学者・蘭学者。名は盈長のち忠雄、通称は
	忠次郎・仲次郎、号は柳圃(リュウホ)・飛卿、旧姓は中野。長崎生
	れ。
	 幼時、和蘭通詞志筑孫次郎の養子となる。1776(安永 5)養父
	の跡を継ぎ稽古通詞となり、翌年口舌不得手のため病気を理由
	に辞職、中野姓に復す。
	 本木良永(ヨシナガ)に天文学を学び、オランダ人にも直接教え
	を受け、翻訳と研究に専念。
	 1784(天明 4)『計意留(ケイル)求力論』を訳述。
	 1798(寛政10)『暦象新書(レキショウシンショ)』を訳述、その付録
	『混沌分判図説(コントンブンハンズセツ)』でニュートン・ケプラーな
	どを紹介し天動説を批判して独自の星雲説を説く。
	 著書はオランダ語文法書『和蘭詞品考(オランダシヒンコウ)』・『助
	字考』、『火器発法伝』・『万国管(「門」構+「規」)
	(バンコクカンキ)』・『八円儀測量法』・『日蝕絵算』・『西洋天文
	訣説』や『鎖国論』・『二国会盟録』・『四維図説』など。
	◎初めて「鎖国」という言葉を使用した人と言われている。
	 『計意留求力論』はニュートンの弟子でイギリス人ジョン・
	ケールの著書のオランダ語訳からの重訳。
じっぺんしゃ いっく
	十返舎 一九
	1765(明和 2)
	1831(天保 2. 8. 7)
	◇江戸後期の戯作者・洒落本・黄表紙・滑稽本・合巻(ゴウカン)本作
	者。本名は重田貞一(シゲタ・サダカズ)、通称は与七、幼名は市九、
	別号は酔斎・十偏舎・十偏斎。駿河国府中の人。
	 はじめ江戸に出て武家に仕え、のち大坂に移り近松余七と号
	して浄瑠璃作者となるが成功せず。1793(寛政 5)江戸に戻り本
	屋蔦屋重三郎に寄宿、処女作の黄表紙『心学時計草』・洒落本
	などを書く。
	 作品は『東海道中膝栗毛』・『江之島土産』など。
	◎式亭三馬(シキテイ・サンバ)とともに滑稽本の二大作家と称される。
	◎原稿料のみで生計を立てた最初の人といわれている。
	(4)一七九四年江戸に出て……。
	(5)酔斎・十偏舎・十偏斎とも。
	(6)別号十遍舎,……。
	(25)一七九三年(寛政五)江戸に出て……。
しではら きじゅうろう《しではら きぢゆうらう》
	幣原 喜重郎
	1872(明治 5)
	1951(昭和26)
	◇明治〜昭和前期の政治家・外交官。大阪府生れ。
	 東京大学を卒業後、外交官。
	 1903(明治36)三菱財閥岩崎弥太郎の末娘と結婚。
	 1915(大正 4)大隈重信・寺内正毅・原敬内閣の外務次官。
	1924(大正13)以来加藤高明(タカアキ)・若槻礼次郎・浜口雄幸内閣
	の外務大臣。幣原外交と呼ばれる対米英協調方針を取り、軍部
	・右翼からは軟弱外交と非難される。満州事変の収拾に失敗し
	下野。
	 1945.10. 9(昭和20)組閣、慣例を破り天皇の重臣への諮問を
	経ずに成立。GHQの指令を受け労働組合法・選挙法を改正、
	憲法改正に着手。進歩党総裁。1946(昭和21)第1次吉田茂内閣
	の国務大臣。
	 衆議院議長の在任中に死去。
	 首相就任:1945.10. 9(昭和20)、総辞職:1946. 5.22(昭和21)。
	◎加藤高明の妻も岩崎弥太郎の娘で、喜重郎の妻の姉。
しながわ やじろう《しながは やじらう》
	品川 弥二郎
	1843(天保14.閏9.29)
	1900. 2.26(明治33)
	◇江戸幕末の志士・明治期の政治家。長州藩士品川弥市右衛門
	の子。長門国萩生れ。
	 吉田松陰の松下村塾に入門。高杉晋作に従って尊攘運動に参
	加。1862(文久 2)品川の英国公使館焼打事件・1864(元治元. 7.)
	禁門の変に参加。1868年、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。
	 1870(明治 3)渡欧、英仏戦争を見学、1873(明治 6)外務省書
	記官としてブロシアで農政・協同組合を学び、1876(明治 9)帰
	国。1877(明治10)内務大書記官。1880(明治13)内務少輔。1882
	(明治15)農商務大輔、大日本農会結成、1883(明治16)三菱の海
	運独占を破るため協同運輸会社設立などに尽力。1884(明治17)
	子爵。1885(明治18)特命全権公使としてドイツ駐在、1887(明
	治20)帰国。同年、宮中顧問官。1888(明治21)枢密顧問官。
	 1891(明治24)松方正義内閣の内相。山県有朋の腹心として反
	政府派の自由党・改進党を弾圧、1892(明治25)第2回総選挙で
	民党に猛烈な選挙干渉を行ない世論の批判を受けて辞任。同年
	 6.22、西郷従道(ツグミチ)・佐々友房らと国家主義的な国民協会
	を結成し副会頭、1899(明治32)帝国党へ改組とともに隠遁。
	(2)国家主義的な国民協会を結成して副会頭となったが……。
	(15)「国民協会」の項:会頭に西郷従道,副会頭には山県有朋の
	腹心品川弥二郎を擁し…….
	(16)国民協会を興して党主となった.
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
しのだ こうぞう
	篠田 鉱造
	1871(明治 4.12. 6)
	1965. 3.18(昭和40)
	◇新聞記者。号は胡蝶庵。
しのだ せんか
	篠田 仙果
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治初期の戯作者。本名は久治郎、別号は笠亭仙果。
しのだ ていじろう
	篠田 悌二郎
	1899. 7.27(明治32)
	1986. 4.21(昭和61)
	◇俳人。本名は悌次郎。東京生れ。京北中学校卒業。
しのはら おんてい
	篠原 温亭
	1872(明治 5.11. 1)
	1926. 9. 2(大正15)
	◇俳人・小説家。本名は英喜、初号は松濤・(「穀」の「禾」を「鳥」
	に替える)音・家巣。熊本県生れ。
しのはら しずじ
	篠原 志都児
	1881. 4.13(明治14)
	1918. 7.19(大正 7)
	◇歌人。本名は円太。
しのはら ほうさく
	篠原 鳳作
	1905.10.29(明治38)		????
	1936. 9.17(昭和11)
	◇俳人。本名は国堅(クニカタ)、初期の俳号は未踏(ミトウ)のち雲彦
	(クモヒコ)。戸籍上の誕生日は1906. 1. 7(明治39)。鹿児島市生れ。
	東京大学法科卒業。
	(3)生年は1906(明治39)、誕生日記載なし。
	(5)誕生日は1906. 1. 7(明治39)、没日は 9.17。
	(11)生年は1906(明治39)、誕生日記載なし。
	(13)生年は1906(明治39)、誕生日記載なし、没日は 9. 2。
しのはら ぼん
	篠原 梵
	1910. 4.15(明治43)
	1975.10.17(昭和50)
	◇俳人。本名は敏之(トシユキ)。松山市生れ。東京大学国文科卒業。
しのはら れいよう
	篠原 峰葉
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治後期から大正初期の小説家。本名は璽瓏。
しのぶ じょけん
	信夫 恕軒
	1835(天保 6. 5.)
	1910.12.11(明治43)
	◇漢学者。名は粲、字は文則、別号は天倪居士。
しば あさじ
	柴 浅茅
	1881. 1. 1(明治14)
	1969. 8.14(昭和44)
	◇検事・俳人。本名は碩文(ヒロブミ)。
しば こうかん《しば かうかん》
	司馬 江漢
	1738(元文 3)
	1818(文政元.10.21)
	◇江戸中・後期の洋風画家。本姓は安藤、名は峻、字は君獄、
	通称は勝三郎・吉次郎のち弥太夫、号は春波楼・無言道人・
	西洋道人。
	 はじめ狩野古信に学び、春重と称して鈴木春信風の美人画な
	どを描く。のち平賀源内・前野良沢・杉田玄白らと交わり、蘭
	学を学ぶ。大槻玄沢とはかり1783(天明 3)日本で初めて腐食法
	による銅版画に成功。西洋文化に深い関心を示し、洋画風の蝋
	画(油絵)による風景画を製作する。
	 晩年は老荘などの東洋思想に傾く。
	(2)1738(異)47〜1818(元文 3〜文政 1)。狩野古信に学び,の
	ち宋紫石に学ぶ。同じ頃鈴木春信に師事したともいわれる。
	(4)生年は1738、没年は1818。初め鈴木春信に浮世絵を学んだ
	が……。
	(6)生年は1738か47、没年は1818。絵は初め狩野派に学び……。
	(15)(1747?〜1818,文政 1?〜延享 4):誤。生年を1738(元文 3)
	とする説もある.初め狩野派に学び……。
	(16)生年は1738(元文 3)、没日は1818(文政元.10.21)。初め狩
	野派の門に入ったが,やがて宋紫石について明清画の筆法を学
	び…….
しば たかつね
	斯波 高経
	⇒あしかが たかつね(足利 高経)
	(2)「足利 高経」と「斯波 高経」と両方に記載されている。
しば ふきお
	芝 不器男
	1903. 4.18(明治36)
	1930. 2.24(昭和 5)
	◇俳人。本姓は太宰(ダザイ)。愛媛県北宇和郡生れ。宇和島中
	学校・松山高校を経て東京大学森林科に入学、のち東北大学に
	転校し機械科卒業。1928. 4.(昭和 3)太宰孫九(伊予電鉄社長)
	の長女文江と結婚、養嗣子となる。翌年、副睾丸肉腫になる。
	横山白虹(ハクコウ)が最後の主治医。
しば りょうたろう《しば れうたらう》
	司馬 遼太郎
	1923(大正12)
	1996(平成 8)
	◇作家。大阪市生れ。
	 大阪外国語学校(現:大阪外国語大学)蒙古語科卒業。 
	 1960(昭和35)忍者もの『梟(フクロウ)の城』で直木賞、受賞。
	 1993(平成 5)文化勲章、受章。
	 作品は『竜馬がゆく』・『坂の上の雲』・『国盗り物語』・
	『空海の風景』・『播磨灘物語』・『翔ぶが如く』・『項羽と
	劉邦』、歴史紀行『街道をゆく』、『この国のかたち』など。
しばた かついえ《しばた かついへ》
	柴田 勝家
	1522(大永 2)
	1583(天正11. 4.24)
	◇安土桃山時代の武将。通称は権六のち修理亮。尾張国愛知郡
	上社村生れ。妻は織田信長の妹お市(小谷の方)。柴田義勝の孫。
	 はじめ織田信長の弟信行に仕え、1556(弘治 2)林信勝ととも
	に信行を擁立し信長を倒そうとして失敗。剃髪して許され、以
	後信長の家臣となり、宿将として幾多の戦で戦功を立てる。
	 1575(天正 3)信長が越前を平定した後、越前北ノ庄に移り北
	陸経略に当たる。1580(天正 8)越中を、1582(天正10)能登を平
	定、越後の上杉景勝と対峙する。小谷城主浅井長政のもと妻、
	お市が三女を連れて再嫁し小谷の方(オダニノカタ)と呼ばれる。
	 同年、本能寺の変の報を受けて北陸の形勢を考えているうち
	に、羽柴秀吉に明智光秀の追討を先んじられる。
	  6月18日信長・信忠(長男)ともに亡くなり後嗣(アトツギ)が清
	洲(キヨス)で話し合われる(清洲会議)。山崎の弔い合戦に加わっ
	た信長の三男信孝(ノブタカ)を勝家・丹羽長秀(ニワ・ナガヒデ)・佐久
	間盛政(モリマサ)らが推し、次男信雄(ノブオ)を滝川一益(カズマス)が
	推し対立。光秀追討の勢いに乗る秀吉が、信雄は北畠家を、信
	孝は神戸(カンベ)家を継いでいるからと、信忠の長男三法師丸
	(のち秀信)を推し、反対するものがなく決定する。
	 11月信雄が岐阜で挙兵、12月勝家の養子勝豊が守る長浜城陥
	落、翌年 1月一益の峯・亀山城陥落。勝家は雪解けを待ち1583
	(天正11. 3.)越前で挙兵、盛政・前田利家らと柳ヶ瀬に布陣、
	大岩山の勝利の夜半に不意を撃たれ、賤ヶ岳(シズガタケ)の戦に
	大敗。居城北ノ庄に帰り、城に火を放ち小谷の方とともに自刃
	する。この時、小谷の方の三女は逃がされ一乗谷に脱出。
	(2)居城越前国北ノ庄に帰って……。
	(4)越前北ノ荘(今、福井市)に自刃。
	(6)北庄で自殺。
	(16)居城北庄で自殺した.
	 秀吉との不和はお市(小谷方)を競ったことにあるともいわれ
	る.
	 「甕破柴田」の伝説は後世の偽作.
しばた かつえ
	柴田 勝衛
	1888. 6. 4(明治21)
	1971. 1.16(昭和46)
	◇評論家・新聞記者。
しばた きゅうおう《しばた きうをう》
	柴田 鳩翁
	1783(天明 3. 5. 5)
	1839(天保10. 5. 3)
	◇江戸後期の心学者。名は享、字は陽方、通称は謙蔵、号は鳩
	翁。代々江戸飛脚の本番宰領を勤めた奈良物屋吉兵衛玄証の子。
	京都生れ。
	 1788(天明 8)6歳の時天明の大火に罹災。1798(寛政10)父を
	失い、1799(寛政11)母が病没。京都市内の商家で奉公する。心
	学に志し時習舎薩(「土」偏+「垂」:補助2384)徳軒(サッタ・トクケン)に入
	門、1821(文政 4)39歳で断書(印可状)を下付される。1825(文
	政 8)講談家業を廃し、心学の教化活動に献身。45歳で失明。
	(2)(名)亨,……。
	(16)名は享,…….
しばた しょうきょく
	柴田 宵曲
	1897. 9. 2(明治30)
	1966. 8.23(昭和41)
	◇俳人。名は泰助(タイスケ)。
しばた てんま
	柴田 天馬
	1873(明治 5.10. 3)
	1963. 2. 9(昭和38)
	◇中国文学者。本名は一郎。
	(9)誕生日は1872(明治 5.10. 3)。
	(?)誕生日は1872(明治 5.11. 3)。
しばた みちこ
	柴田 道子
	1934. 3.30(昭和 9)
	1975. 8.14(昭和50)
	◇児童文学者・女性問題評論家。本姓は横田。
しばた りゅうせい
	柴田 流星
	1879. 2.28(明治12)
	1913. 9.27(大正 2)
	◇小説家・翻訳家・編集者。本名は勇。
しばた れんざぶろう
	柴田 錬三郎
	1917. 3.26(大正 6)
	1978. 6.30(昭和53)
	◇小説家。本姓は斎藤。岡山県邑久(オク)郡鶴山村生れ。
	 鶴山小学校・岡山第二中学校を経て慶応義塾大学予科に進学、
	1940(昭和15)支那文学科卒業。太平洋戦争で船舶兵として台湾
	南方の海峡を航行中撃沈され、奇跡的に救助される。
	 1951(昭和26)『イエスの裔』で直木賞を受賞。1956(昭和31)
	から『眠狂四郎無頼控』を連載。
しばの りつざん
	柴野 栗山
	1738(元文 3)
	1807(文化 4.12. 1)
	◇江戸後期の儒学者(朱子学)。名は邦彦、通称は彦輔。讃岐(サ
	ヌキ)国高松の人。寛政三博士の一人。「寛政異学の禁」を建議し、
	昌平黌(ショウヘイコウ)の教官として局に当った。
しぶい たいしつ
	渋井 太室
	1720(享保 5)
	1788(天明 8)
	◇江戸中期の儒者。
	 『世之手本』を著す。
しぶかわ げんじ
	渋川 玄耳(澁川 玄耳)
	1872(明治 5. 4.28)
	1926. 4. 9(大正15)
	◇明治・大正期の随筆家・評論家・ジャーナリスト。本名は
	柳次郎、筆名は藪野椋十(ヤブノ・ムクジュウ)。佐賀県生れ。
	 国学院・東京法学院(現:中央大学)などを中退。弁護士試験
	に合格、日露戦争に熊本第六師団法官部理事として出征。1907
	(明治40)東京朝日新聞社に入り、社会部長を経て1913(大正 2)
	退社。1914(大正 3)第一次世界大戦に際し、「国民新聞」の従軍
	記者として青島<チンタオ>に渡り、戦後青島民政顧問となる。
しぶかわ しゅんかい《しぶかは しゆんかい》
	渋川 春海
	1639(寛永16)
	1715(正徳 5.10. 6)
	◇江戸前期の天文暦学者。幼名は六蔵、字は春海、通称は助左
	衛門、号は新蘆・都翁、姓は安井から保井さらに渋川と改姓。
	京都生れ。
	 1652年、幕府碁師の父安井算哲(サンテツ)死によって算哲の名を
	継ぎ、幕府碁所(ゴドコロ)に出仕。
	 数学・暦法を江戸の池田昌意に、天文暦学を京都の岡野井玄
	貞(オカノイ・ゲンテイ)に学ぶ。また朱子学・平学を山崎闇斎に、神道
	を土御門泰福に学び、天赦教を唱える。
	 1684(貞享元)碁師を辞して初代幕府天文方に任ぜられ、世襲
	となる。
	 1702(元禄15)渋川と改姓。これは、先祖が河内国渋川郡を領
	していたが、播磨国安井郷にかわり、再び渋川の旧領に還った
	ため。
	 没後、吉田家から土守霊社の社号を贈られる。
	◎1684(貞享元)宣明暦に代って採用された貞享暦(ジョウキョウレキ)
	は、春海が観測をもとに元・明の授時暦を補正して作成。日本
	人の手による初めての暦である。1754(宝暦 4)宝暦暦が採用さ
	れるまで使用。
	(2)号を新蘆。
	(15)新芦,都翁と号した.
	(*)1652(慶安 5,承応元)。
しぶかわ はるみ
	渋川 春海
	⇒しぶかわ しゅんかい(渋川 春海)
しぶかわ ろくぞう
	渋川 六蔵
	1815(文化12)
	1851(嘉永 4)
	◇江戸後期の暦学者。名は敬直。渋川助左衛門景祐の子。
	 水野忠邦に抜擢され、1840(天保11)書物奉行となり、蘭書取
	締りを行う。
	 1844年、オランダ国王の書簡を翻訳した際、「見はてぬ夢」と
	名付けた控えを保存。翌年、豊後国臼杵の稲葉氏に預けられた
	まま没する。
	 鳥居耀蔵(ヨウゾウ)・後藤三右衛門とともに水野の三羽烏と呼
	ばれる。
	(*)1844(天保15,弘化元)。
しぶさわ えいいち《しぶさは えいいち》
	渋沢 栄一
	1840(天保11. 2.13)
	1931.11.11(昭和 6)
	◇明治・大正期の実業家。号は青淵。
	 一時尊攘運動に加わるが、のち一橋家に仕え、1866(慶応 2)
	一橋慶喜が将軍になると幕臣となる。1867(慶応 3)パリ万国博
	覧会に出席する徳川昭武に随行して渡欧、各国の産業設備や経
	済制度を見聞し、1868年帰国。1869(明治 2)大蔵省租税司また
	民部省改正掛長。1872(明治 5)大蔵大丞となり井上馨(カオル)を
	補佐、租税制度・廃藩置県・貨幣制度・銀行条例作成などにあ
	たる。各省との対立が激化し、1873(明治 6)井上とともに辞職。
	第一国立銀行・日本銀行を創立。王子製紙・東京瓦斯・東京鉄
	道・大阪紡績・日本郵船などの創立あるいは関与。1878(明治
	11)朝鮮の釜山に第一国立銀行の支店を設立。朝鮮・中国への
	進出を企て、東京商科大学・東京高等蚕糸学校などに援助。
	 近代日本の資本主義の生みの親といわれる。
	 次女琴子は財政家阪谷芳郎(サカタニ・ヨシロウ)の妻。
	◎東京目黒の三田綱町(現:三田3丁目)にあった屋敷(1876<明
	治 9>築)が青森県三沢の古牧温泉渋沢公園に移築(1992<平成 4>)
	されている。
	◎東京都千代田区大手町2丁目の常盤橋公園に銅像がある。
	(2)(生)武蔵国榛沢郡(埼玉県大里郡)。生家は農耕・養蚕・藍
	玉を営む豪農。
	(4)埼玉県の人。
	(6)武蔵国血洗島の豪農の生れ。
	(+)「朝日新聞」(1992. 6.14日曜版):埼玉県・深谷に生まれた。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
しぶさわ けいぞう《しぶさは けいざう》
	渋沢 敬三
	1896(明治29)
	1963(昭和38)
	◇昭和期の実業家。東京生れ。東京大学卒業。渋沢栄一の孫。
	 1921(大正10)横浜正金銀行に入社。第一銀行副頭取・東京貯
	蓄銀行取締役会長を経て、1944(昭和19)日銀総裁に就任。
	 終戦直後、幣原内閣の蔵相。公職追放となり、1951(昭和26)
	解除。国際電電会長・IOC国内委員会議長・文化放送会長な
	どを歴任。
	 民俗学にも造詣があり、日本民俗学協会会長・日本人類学会
	会長などにも就任。アチック-ミューゼアム・常民文化研究所
	を創立。
しぶさわ たつひこ
	渋沢 龍彦
	1928. 5. 8(昭和 3)
	1987. 8. 5(昭和62)
	◇フランス文学者・文芸評論家・小説家。本名は龍雄。東京大
	学仏文科卒業。
	(1)本名は竜雄。
	(5)本名は龍雄。
	(9)本名は党雄(タツオ)。
しぶさわ ひでお
	渋沢 秀雄
	1892.10. 5(明治25)
	1984. 2.15(昭和59)
	◇随筆家。俳号は渋亭(シフテイ)。東京生れ。東京大学仏法科卒業。
	実業家渋沢栄一の三男。
	(5)俳号渋亭(シフテイ)。
しぶや てんがい《しぶや てんぐわい》
	渋谷 天外(初代)
	1878(明治11)
	1916(大正 5)
	◇俳優。本名は渋谷博喜智(シブヤ・ヒロキチ)、芸名は渋谷天外。渋
	谷天外(2代)の父。
しぶや てんがい《しぶや てんぐわい》
	渋谷 天外(2代)
	1906. 6. 6(明治39)
	1983. 3.18(昭和58)
	◇昭和期の喜劇俳優・脚本家。本名は渋谷一雄(シブヤ・カズオ)、
	芸名は渋谷天外、筆名は館直志(タテ・ナオシ)・河合新・河竹五十郎
	(カワタケ・イソウロウ)・詩賀里人(シガ・サトビト)。京都生れ。渋谷博喜智
	(初代天外)の子、渋谷成男・喜作(キサク)(3代目天外)の父。
	 1928(昭和 3)曽我廼家十吾らと松竹家庭劇を結成。
	 1929(昭和 4)2代目天外を襲名。
	 1948(昭和23)藤山寛美らと松竹新喜劇を結成。
	(19)本名、渋谷(シブタニ)一雄。
	(*)渋谷成男:本名も芸名も「シブヤ」。
じへん
	慈遍
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉末期の天台宗の僧侶・神道家。吉田(卜部)兼顕(ウラベ・カネ
	アキ)の子で、徒然草の作者兼好の兄(一説に弟)。
	 幼く延暦寺に入り、天台教学を修める。
	 度会常昌(ワタライ・ツネヨシ)の影響を受け、伊勢・両部(リョウブ)・山
	王(サンノウ)神道に通じ皇道思想を唱える。後醍醐天皇の信任厚く、
	南朝方の知識人の一人。
	 『旧事本紀玄義(クジホンギゲンギ)』など多くの神道書を著した。
しま よしたけ
	島 義勇
	1822(文政 5)
	1874(明治 7)
	◇江戸幕末・明治初期の志士・政治家。通称は団右衛門、字は
	国華、号は楽斎・桜陰。禄高300石の肥前国鍋島藩士の子。
	 1868(慶応 4)戊辰戦争に大総督府軍監として従軍。北海道開
	拓使判官・侍従・秋田県令などを歴任したが、保守思想のため
	政府と衝突し、1874(明治 7)帰郷。憂国党を率いて、江藤新平
	とともに佐賀の乱を蜂起したが敗れ、鹿児島で捕えられ斬殺。
	 1916(大正 5)贈従四位。
しまお としお
	島尾 敏雄
	1917. 4.18(大正 6)
	1986.11.12(昭和61)
	◇小説家。横浜市生れ。長崎高等商業を経て九州大学東洋文科
	に入学、1943(昭和18)9月に繰り上げ卒業、志願して海軍予備
	学生になる。1944(昭和19)10月、特攻魚雷艇要員となり、第一
	八特攻震洋隊の指揮官として、奄美群島加計呂麻(カケロマ)島呑の
	浦(ノミノウラ)に駐屯。1945. 8.13(昭和20)発動命令が下ったが、
	発進のないまま15日の終戦を迎え、九月に復員。1946(昭和21)
	3月、加計呂麻島で恋愛関係にあった素封家の娘長田(オサダ)ミ
	ホと正式に結婚。
しまぎ あかひこ
	島木 赤彦
	1876.12.17(明治 9)
	1926. 3.27(大正15)
	◇歌人。本名は久保田俊彦(トシヒコ)、旧姓は塚原、別号は二水・
	二水軒・伏龍(伏竜)・伏龍樵夫・山百合(ヤマユリ)・柿人(カキビト)
	・柿村人・柿村舎・柿の村人(カキノムラビト)・柿蔭山房(シインサンボウ)
	主人。長野県諏訪郡上諏訪町生れ。
	 1894(明治27)長野尋常師範学校(現:信州大学)入学、1898(明
	治31)卒業。胃癌により死去。
	 久保田不二子の夫(前妻「うた」の妹)。
	(1)島木 赤彦(しまき あかひこ)、誕生日は12. 7。「梯(ハシゴ)」
	を使用:誤。
	(2)島木 赤彦(しまき あかひこ)、誕生日記載なし。「柿」を
	使用。
	(3)島木 赤彦(しまぎ あかひこ)、誕生日は12.17。「柿」は異
	体字を使用。
	(5)島木 赤彦(しまぎ あかひこ)、誕生日は12.16。「柿」を使
	用。
	(6)島木 赤彦(しまぎ あかひこ)。「柿」を使用。
	(9)島木 赤彦(しまき あかひこ)、誕生日は12.17。「柿」を使
	用。
	(11)島木 赤彦(しまぎ あかひこ)、誕生日は12.16。「柿」は
	異体字を使用。
	(13)島木 赤彦(しまき あかひこ)、誕生日は12.17。「柿」を
	使用。
	◆赤彦忌[ 3.27]。
しまき けんさく
	島木 健作
	1903. 9. 7(明治36)
	1945. 8.17(昭和20)
	◇小説家。本名は朝倉菊雄。北海道札幌生れ。3歳のとき父を
	失い、高等小学校1年修了後給仕となる。17歳で上京苦学した
	が病を得て帰郷。21歳で中学校を終えて北海道大学の事務員と
	なる。1925(大正14)東北帝国大学法学部選科に入学、農民運動
	や学生運動に参加し翌年退学。1928(昭和 3)三・一五事件で検
	挙。1929(昭和 4)転向を声明したが、1930. 3.(昭和 5)有罪確
	定し服役、7月持病の肺結核で喀血(カッケツ)し癩(ライ)患者と隣り
	合わせの隔離病舎に移される。1932. 3.(昭和 7)仮釈放。
	 病没。
	(1)島木 健作(しまぎ けんさく)。
	(2)島木 健作(しまき けんさく)。
	(3)島木 健作(しまき けんさく)。
	(5)島木 健作(しまき けんさく)。
	(6)島木 健作(しまき けんさく)。
	(9)島木 健作(しまき けんさく)。
	(11)島木 健作(しまき けんさく)。
	(13)島木 健作(しまぎ けんさく)。
しまざき あけみ
	島崎 曙海
	1907. 1.17(明治40)
	1963. 3.11(昭和38)
	◇詩人。
しまざき しずこ
	島崎 静子
	1896.11. 8(明治29)
	1973. 4.29(昭和48)
	◇随筆家。旧姓は加藤。1928.11.(昭和 3)数え年57歳の島崎藤
	村と結婚。
しまざき とうそん
	島崎 藤村
	1872. 3.25(明治 5. 2.17)
	1943. 8.22(昭和18)
	◇明治〜昭和期の詩人・小説家。本名は春樹(ハルキ)、別号は
	無名氏・島の春・古藤庵(コトウアン)・古藤庵無声・無声・「むせい」
	・枇杷坊(ビワボウ)・藤生・葡萄園(ブドウエン)主人・六窓居士。
	木曾(長野県西筑摩郡神坂村字)馬籠(ウマゴメ)(現:岐阜県中津川
	市)生れ。
	 島崎正樹の4男。島崎静子の夫、義母は加藤みき(加藤静子
	の母)。
	 1887(明治20)明治学院入学、1891(明治24)卒業。在学中高輪
	台町教会で木村熊二から洗礼を受ける。
	 1893(明治26)北村透谷らと「文学界」を創刊。1894(明治27)透
	谷の自殺に影響を受ける。1897(明治30)『若菜集』で世に認め
	られる。1906(明治39)長編小説『破戒』を発表。1913(大正 2)
	フランスに渡り、第一次大戦の勃発により永住を諦めて、1916
	(大正 5)帰国。
	 1928.11.(昭和 3)数え年57歳で加藤静子と結婚。
	 1941(昭和16)芸術院会員。
	(2)(生)長野県。
	(5)長野県第八大区五小区馬籠(マゴメ)村生れ。
	(16)長野県の生まれ。
	◆藤村忌[ 8.22]。
	◎岐阜県中津川市馬籠には藤村記念館がある。
しまじ もくらい
	島地 黙雷
	1838(天保 9. 2.15)
	1911. 2. 3(明治44)
	◇浄土真宗本願寺派の僧・評論家。本姓は清水。周防(スオウ)国
	真宗専照寺生れ。
	(3)没日は 2.21。
	(5)没日は 2. 3。
	(9)没日は 2. 3。
	(16)没日は 2. 3。
しまず ……《しまづ ……》
	島津 ……
	⇒しまづ ……(島津 ……)
しまだ あきら
	島田 叡
	1901.12.25(明治34)
	1945. 6.(昭和20)
	◇太平洋戦争末期の沖縄県知事。兵庫県生れ。
	 1925(大正14)東京帝国大学法学部卒業。同年、内務省に入り、
	佐賀県書記官を振り出しに徳島・岡山・長崎・佐賀県など大半
	を警察官僚として過ごす。1944(昭和19)大阪府内政部長。
	 米軍が沖縄に上陸するのを恐れた前任県知事泉守紀が公務出
	張の名目で上京しそのまま香川県知事に転じたため、とくに内
	務省から請われて、1945. 1.(昭和20)死を覚悟で沖縄県知事に
	就任。沖縄守備軍首脳と折衝し婦女子の県外疎開をはかり、2
	月には台湾に飛んで県民の食料の確保に努める。米軍上陸後、
	繁多川(ハンタガワ)の地下壕内で戦時行政に当たり、6月下旬、沖
	縄本島南部の激戦地摩文仁丘付近で姿を消し、遺骨が発見され
	ないことから入水自殺したものとみられている。
	 1951(昭和26)島民により摩文仁岳に「島守の塔」が建てられる。
しまだ いちろう《しまだ いちらう》
	島田 一郎
	1848
	1878(明治11)
	◇明治前期の軍人(陸軍大尉)。加賀(石川県)生れ。
	 1878. 5.14(明治11)朝、不平士族の島根県士族浅井寿篤ら
	145名と共謀し、大久保利通(トシミチ)内務卿を東京赤坂の紀尾井
	坂(キオイザカ)で暗殺。自首の後、斬罪。
	(2)島田一良。「大久保利通」の項では「島田一郎」。
	(4)「大久保利通」の項では「島田一郎」。
	(*)1848(弘化 5,嘉永元)。
	◎西南戦争による西郷隆盛の自殺を、大久保利通の斬奸状によ
	るものと考えて暗殺に及んだ。
	◆墓は東京都台東区の谷中霊園で、一緒に刑死した同志浅井寿
	篤・長蓮豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一と並んである。
しまだ かずお
	島田 和夫
	1909. 4.12(明治42)
	1945. 3.24(昭和20)
	◇小説家。本名は上野市三郎。
しまだ ごくう
	島田 五空
	1875. 4. 1(明治 8)
	1928.12.26(昭和 3)
	◇俳人。本名は豊三郎、号は香車(コウシャ)・悟空・五工・山頭火。
	庵号は十方庵(ジッポウアン)。秋田県生れ。
しまだ さぶろう《しまだ さぶらう》
	島田 三郎
	1852(嘉永 5.11. 7)
	1923.11.14(大正12)
	◇政治家・新聞人・社会改良運動家。号は沼南、旧姓は鈴木。
	 江戸の旗本御家人の家に生れる。
	 昌平黌・沼津兵学校・大学南校・大蔵省附属英語学校などに
	学ぶ。
	 1874(明治 7)横浜毎日新聞入社し翻訳記者・主筆。同社社員
	総代島田豊寛(トヨヒロ)の養子となるが、1876(明治 9)退社。
	 1876(明治 9)元老院大書記生から文部大書記官。
	 1878. 5.(明治11)沼間守一(ヌマ・モリカズ)らと嚶鳴社(オウメイシャ)を
	興して自由民権論を主張。
	 1881(明治14)大隈重信ら一派とともに下野(ゲヤ)し、1882(明
	治15)立憲改進党の創立に参加。一方、『東京横浜毎日新聞』
	に再入社し、1889(明治22)退社して外遊。
	 1886(明治19)植村正久(マサヒサ)から受洗。
	 1890(明治23)第一回総選挙以来連続して衆議院議員に当選。
	1891(明治24)毎日新聞社(現在の毎日新聞とは別)社長。
	 廃娼問題・足尾銅山鉱毒事件・シーメンス事件・日露非戦論
	などで活躍。
	 著書は1888(明治21)『開国始末』・『条約改正論』など。
しまだ しゃくそう
	島田 尺草
	1904. 9.16(明治37)
	1938. 2.23(昭和13)
	◇歌人。福岡県生れ。1919(大正 8)癩(ライ)発病。1924(大正13)
	九州療養所(のち菊池恵楓園)に入所。医師の内田守人(モリト)の
	指導で短歌を始め、「水甕(ミズガメ)」の同人となる。
	 1933(昭和 8)失明。1934(昭和 9)気管切開。
しまだ しょうご《しまだ しやうご》
	島田 正吾
	1905.12.13(明治38)
	2004.11.26(平成16)
	◇俳優。本名は服部喜久太郎(ハットリ・キクタロウ)。神奈川県横浜市出
	身。
	 商業学校卒業。
	 1923(大正12)新国劇創立者の沢田正二郎を慕って入座。
	 1929(昭和 4)沢田が急死して、辰巳柳太郎とともに新国劇の
	中心となる。
	 1992(平成 4)フランス芸術勲章シュバリエ章を受章。
しまだ せいじろう《しまだ せいじらう》
	島田 清次郎
	1899. 2.26(明治32)
	1930. 4.29(昭和 5)
	◇小説家。石川県石川郡美川(ミカワ)町(手取川河口北岸)生れ。
	 1911(明治44)金沢中学入学、1914(大正 3)四年修了中退、四
	月商業学校入学、同年中に退学し上京。
	 1923. 4.(大正12)婦女暴行事件を起こし人気を失墜。
	 遺伝性の痴呆症で精神病院(東京巣鴨保養院)に入院、死去。
しまだ せいほう
	嶋田 青峰
	1882. 3. 8(明治15)
	1944. 5.31(昭和19)
	◇俳人。本名は賢平。三重県志摩郡的矢村生れ。
	 1903(明治36)早稲田大学英文科卒業。
	 1941(昭和16)治安維持法で起訴され、留置場で喀血(カッケツ)、
	釈放されたが病状が悪化し死亡。
	(1)嶋田 青峰。
	(3)島田 青峰。
	(5)嶋田 青峰。
	(9)島田 青峰。
	(11)島田 青峰。
	(13)島田 青峰。
	◆青峰忌[ 5.31]。
しまだ ただお
	島田 忠夫
	1904. 6.(明治31)
	1944(昭和19)
	◇童謡詩人。病没。
しまだ よしぶみ
	島田 芳文
	1898. 2.11(明治31)
	1973. 5. 3(昭和48)
	◇詩人。本名は義文、別名は吉田潤平。
しまづ いえひさ
	島津 家久
	1578(天正 6.11.)
	1638(寛永15. 2.23)
	◇安土桃山・江戸前期の大名。薩摩藩主島津義弘(ヨシヒロ)の3男。
	 1594(文禄 3)家督を継ぐ。
しまづ うじひさ
	島津 氏久
	1328(嘉暦 3)
	1387
	◇南北朝時代の武将。島津貞久(サダヒサ)の子、元久(モトヒサ)の父、
	師久の弟。
	(*)1387(<南>元中 4,<北>至徳 4,<北>嘉慶元)。
しまづ げんぞう《しまづ げんざう》
	島津 源蔵(初代)
	1839(天保10)
	1894(明治27)
	◇明治時代の実業家・島津製作所の創業者。2代目源蔵の父。
	 もと鍛治職人。
	 1875(明治 8)京都木屋町二条南に教育用理化学器械製造の島
	津製作所を創立。
しまづ げんぞう《しまづ げんざう》
	島津 源蔵(2代)
	1869(明治 2. 6.17)
	1951.10. 3(昭和26)
	◇明治・大正時代の発明家・実業家。幼名は梅治郎。初代源蔵
	の長男。
	 1895(明治28)父の没後、島津製作所を継ぐ。
	 1897(明治30)蓄電池の製造を開始。
	 1917(大正 6)蓄電池工場を分離独立させ日本電池(株)を創立。
	 1930(昭和 5)日本の十大発明家の一人として昭和天皇に拝謁。
しまづ これひさ
	島津 伊久
	1347(<南>正平 2,<北>貞和 3)
	1407(応永14)
	◇南北朝時代の武将。島津師久の長男。
しまづ さだひさ
	島津 貞久
	1269(文永 6)
	1366(<南>正平21,<北>貞治 5)
	◇鎌倉後期・南北朝時代の武将。島津忠宗の子、師久・氏久(ウ
	ジヒサ)の父。
しまづ しげひで
	島津 重豪
	1745(延享 2)
	1833(天保 4)
	◇江戸後期の大名。島津久徳の子、薩摩藩主島津重年の養子。
	娘茂子は第11代将軍徳川家斉の室。
	 11歳で藩主となる。
	 藩学に蘭学を導入して開化・文教政策を採用。藩校造士館・
	演武館・医学館・明時館を創設。
	 豪華な生活ぶりなどで治世後半は藩財政の窮乏を招いたが、
	晩年に調所広郷(ズショ・ヒロサト)を登用し財政再建を図り殖産興業
	を推進。
しまづ たかひさ
	島津 貴久
	1514(永正11)
	1571(元亀 2. 6.23)
	◇戦国時代の武将。伊作家(イザクケ)島津忠良(タダヨシ)(日新斎)の
	子、宗家島津勝久(カツヒサ)の嗣子、島津義久(ヨシヒサ)・義弘(ヨシヒロ)
	の父。薩摩国(現:鹿児島県)田布施(タブセ)(現:日置郡金峰町)生
	れ。
	 1526(大永 6)勝久の要請で伊作(現:日置郡吹上町)から鹿児
	島に入り、養子として宗家守護職(シュゴシキ)を継ぐ。父忠良とと
	もに同族島津実久(サネヒサ)(勝久夫人の弟)との争いを鎮め、1545
	(天文14)ころ薩摩・大隅2国を統一。
	 1549(天文18)キリスト教布教に鹿児島に訪れたフランシスコ
	・ザビエルに、商船の来着を期待して布教を許可。
	 1570(元亀元)義久に家督を譲る。
しまづ ただくに
	島津 忠国
	1403(応永10)
	1470(文明 2)
	◇室町前期の武将。島津久豊の子、母は伊東祐安の娘。用久の
	兄。
しまづ ただしげ
	島津 忠重
	1886(明治19)
	1968(昭和43)
	◇大正・昭和期の華族(公爵)・海軍軍人(少将)。旧薩摩藩主島
	津忠義(タダヨシ)の長男。
しまづ ただひさ
	島津 忠久
	1179(治承 3)
	1227
	◇鎌倉時代の武将。九州島津氏の初代といわれる。
	 1197(建久 8)薩摩・大隅の守護となる。
	(*)1227(嘉禄 3,安貞元)。
しまづ ただひろ
	島津 忠寛
	1828(文政11)
	1896(明治29)
	◇江戸幕末・明治維新期の日向国佐土原藩主。
しまづ ただまさ
	島津 忠昌
	1463(寛正 4)
	1508(永正 5)
	◇室町後期の武将。島津立久の子。
しまづ ただよし
	島津 忠良
	1492
	1568(永禄11)
	◇室町後期・戦国時代の武将。号は日新斎。伊作家島津善久の
	子、島津貴久の父。
	(*)1492(延徳 4,明応元)。
しまづ ただよし
	島津 忠義
	1840(天保11)
	1897(明治30)
	◇江戸幕末・明治維新期の薩摩藩主・鹿児島藩知事。島津久光
	の長男、久治(ヒサハル)の兄。忠重(タダシゲ)の父。
しまづ なりあきら
	島津 斉彬
	1809(文化 6)
	1858(安政 5. 7.15)
	◇江戸末期の薩摩(鹿児島)藩主。薩摩藩主島津斉興(ナリオキ)の長
	男、島津久光(ヒサミツ)の異母兄。
	 久光との継嗣争いはお由羅(ユラ)騒動と呼ばれる。幕政改革・
	公武合体をはかった。また藩政改革に努め、反射炉建設・洋式
	軍需工業を起した。
	(2)御家騒動<お由良騒動>が……。
	◎死因は病死となっているが、当初から毒殺と見られていた。
しまづ ひさこ
	島津 久子
	1898. 8. 8(明治31)
	2005. 5.15(平成17)
	◇高倉永則子爵の次女、島津久範の妻、島津久永(昭和天皇の
	五女貴子の夫)の母。
	 日本更生保護女性連盟名誉会長。
しまづ ひさはる
	島津 久治
	1841(天保12)
	1872(明治 5)
	◇江戸幕末・明治維新期の藩政家。島津久光の次男、忠義(タダ
	ヨシ)の弟。
しまづ ひさみち
	島津 久通
	1604(慶長 9)
	1674(延宝 2)
	◇江戸前期の藩政家(薩摩藩家老)。島津久元の子。
しまづ ひさみつ
	島津 久光
	1817(文化14)
	1887(明治20)
	◇江戸幕末・明治維新期の藩政家。薩摩藩主島津斉興(ナリオキ)の
	3男、母は由良(ユラ)。忠義(タダヨシ)・久治(ヒサハル)の父、斉彬の
	異母弟。
しまづ ひさよし
	島津 久芳
	1822(文政 5)
	1885(明治18)
	◇江戸幕末・明治維新期の藩政家・軍人。薩摩藩主島津氏の支
	族薩摩国黒木郷の領主の子。
しまづ もとひさ
	島津 元久
	1342
	1411(応永18)
	◇室町前期の守護大名。島津氏久の長男。
	(*)1342(<南>興国 3,<北>暦応 5,<北>康永元)。
しまづ やすじろう
	島津 保次郎
	1897. 6. 3(明治30)
	1945. 9.18(昭和20)
	◇大正・昭和前期の映画監督。
	(2)生年は1896(明治29)。
しまづ よしひさ
	島津 義久
	1533(天文 2)
	1611(慶長16. 1.21)
	◇戦国・安土桃山時代の武将。幼名は虎寿丸・又三郎、のち
	忠良・義辰、号は竜伯。島津貴久(タカヒサ)の長男、義弘(ヨシヒロ)の
	兄。
しまづ よしひろ
	島津 義弘
	1535(天文 4)
	1619(元和 5)
	◇安土桃山時代の大名。島津貴久(タカヒサ)の次男、義久(ヨシヒサ)の
	弟。島津家久(イエヒサ)の父。
しまなか ゆうさく
	嶋中 雄作
	1887. 2. 2(明治20)
	1949. 1.17(昭和24)
	◇昭和前期の出版人。本姓は島中。奈良県生れ。島中雄三(ユウゾ
	ウ)の弟。
	 畝傍(ウネビ)中学校を経て、1912(明治45)早稲田大学哲学科卒
	業。1916. 1.(大正 5)『婦人公論』創刊。1928. 7.(昭和 3)麻
	田駒之助(コマノスケ)に代って中央公論社長になる。
	(2)嶋中雄三の弟。
	(5)嶋中雄三の実弟。
	(11)嶋中雄三の実弟。
しまなか ゆうぞう《しまなか ゆうざう》
	島中 雄三
	1881. 2.18(明治14)
	1940. 9.16(昭和15)
	◇大正・昭和期の社会運動家・ジャーナリスト・評論家。嶋中
	雄作(ユウサク)の兄。
	(2)嶋中雄三。
しまむら たみぞう《しまむら たみざう》
	島村 民蔵(島村 民藏)
	1888. 7.22(明治21)
	1970.11.15(昭和45)
	◇劇作家・演劇研究家。号は甲鳥・柳水。東京生れ。
	 1909(明治42)早稲田大学英文科卒業後、東京大学独文科に学
	ぶ。
しまむら とうさん
	島村 苳三
	1884. 8. 9(明治17)
	1952. 4.22(昭和27)
	◇英文学者。本名は盛助(モリスケ)。埼玉県南埼玉郡百間中村(現:
	宮代町字中)生れ。
	 1909(明治42)東京帝国大学英文科を卒業。
	 1920〜1944(大正 9〜昭和19)旧制山形高等学校の教授。
	 1936. 4.(昭和11)土居光知(ドイ・コウチ)・田中菊雄(タナカ・キクオ)と
	共著で『岩波英和辭典(岩波英和辞典)』を刊行。
しまむら とうぞう《しまむら とうざう》
	島村 苳三
	⇒しまむら とうさん(島村 苳三)
しまむら としまさ
	島村 利正
	1912. 3.25(明治45)
	1981.11.25(昭和56)
	◇小説家。長野県上伊那郡高遠(タカトオ)町生れ。
しまむら はじめ
	島村 元
	1893. 6.25(明治26)
	1923. 8.26(大正12)
	◇俳人。父は外交官で、任地のアメリカで生れる。慶応義塾大
	学を病気で中退。病没。
しまむら ほうげつ
	島村 抱月
	1871(明治 4. 1.10)
	1918.11. 5(大正 7)
	◇評論家・劇作家・英文学者・翻訳家。本名は滝太郎、旧姓は
	佐々山。島根県那賀郡久佐村生れ。家が貧しかったので裁判所
	の給仕となり勉学。1890.10.(明治 23)上京、東京専門学校(現
	:早稲田大学)政治科入学。1891. 6.(明治 24)学費などを後援
	してくれた那賀郡浜田町裁判所検事の島村文耕の養子となる。
	同年十月、東京専門学校文学科へ再入学、1894(明治27)文学科
	卒業。1895(明治28)文耕の姪(メイ)島村イチ子と結婚。1902. 3.
	(明治35)東京専門学校の海外留学生として英独に渡り、1905.
	 9.(明治38)帰国。松井須磨子(スマコ)と恋愛問題を起し、師の坪
	内逍遥(ショウヨウ)のもとを離れ、1915. 7.(大正 2)芸術座を旗揚
	げ。
	 東京牛込区横寺町の芸術倶楽部でみとる者がなく急死。東京
	市外雑司谷墓地に葬る。法名、安祥院実相抱月居士。松井須磨
	子は抱月の病没後、二ヶ月目の命日にあと追い自殺。
	(5)松井須磨子との恋愛問題をはさんで師のもとを離れると同
	時に大正二年七月、芸術座の旗揚げとなる。
	(13)大正二年の五月に「文芸協会」を退き、九月に「芸術座」を創
	設して、……。
しまむら みつ
	島村 みつ
	1831(天保 2)
	1914(大正 3)?
	◇明治時代の宗教家(蓮門教)。豊前小倉の商人の妻。
	 明治初年に法華系の神道を教義にかかげ創始。1882(明治15)
	東京に進出、コレラの流行の中、神水の霊験を宣伝して信者が
	急増。呪術的治病のためしばしば禁圧を受ける。大成教に属し
	て合法化したが、邪教として既成宗教や新聞などから集中攻撃
	を受け衰退。
しまむら もりすけ
	島村 盛助
	⇒しまむら とうさん(島村 苳三)
しまもと ひさえ
	島本 久恵
	1893. 2. 2(明治26)
	1985. 6.27(昭和60)
	◇詩人・小説家。大阪生れ。1923(大正13)河井酔茗(スイメイ)と結
	婚。
----------------------------------------------------------------