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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6211.02

                 人   名   辞   典   《ささ》      編集:獨  澄旻

-------- ささ --------------------------------------------------
ささ げんじゅう
	佐々 元十
	1903. 1.14(明治36)
	1959. 7. 7(昭和34)
	◇映画運動家・映画雑誌編集者。本名は佐々木高成。広島県生
	れ。東京大学仏文科中退。
	 1929(昭和 4)岩崎昶らと日本プロレタリア映画同盟(プロキ
	ノ)を設立、警察の弾圧が強く1933(昭和 8)ころ自然消滅のよ
	うに解散。
	 太平洋戦争中は『文化映画』誌編集長。
ささ みつお《ささ みつを》
	左々 三雄
	1910. 3. 7(明治43)
	1947. 2.24(昭和22)
	◇小説家。
ささかわ りんぷう
	笹川 臨風
	1870(明治 3. 8. 7)
	1949. 4.13(昭和24)
	◇評論家・俳人・歴史家。本名は種郎(タネオ)。東京神田末広町
	生れ。第二高等中学を経て1896(明治29)東京帝国大学国史科卒
	業。
	(1)笹川 臨風(ささがわ りんぷう)。
	(3)笹川 臨風(ささかわ りんぷう)。
	(5)笹川 臨風(ささかわ りんぷう)。
	(9)笹川 臨風(ささかわ りんぷう)。
	(11)笹川 臨風(ささかわ りんぷう)。
	(13)笹川 臨風(ささかわ りんぷう)。
ささき うじより
	佐々木 氏頼
	1326
	1370
	◇南北朝時代の守護大名。六角(ロッカク)氏頼とも称する。法名は
	崇永。佐々木時信の子、母は大江時千の娘。
	 はじめ北条時益(トキマス)に仕え、1331年元弘の変に六波羅探題
	として戦い、のち足利尊氏(タカウジ)に降り、近江の守護を安堵
	(アンド)され検非違使となる。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2)尊氏の挙兵に味方する。やが
	て尊氏と足利直義(タダヨシ)(尊氏の弟)が対立し(観応の擾乱)、
	直義方に属し敗れて高野山に入る。1356年、尊氏の下に斯波高
	経(シバ・タカツネ)を降伏させる。
	 尊氏の死後、第2代将軍足利義詮(ヨシアキラ)(尊氏の子)に仕え
	る。1367(<南>正平22,<北>貞治 6)延暦寺僧が南禅寺の春屋妙
	葩(シュンオク・ミョウハ)を強訴したとき、後光厳天皇の命で防戦し功を
	たてる。
	(*)1326(正中 3,嘉暦元)、1331(元徳 3,元弘元)、1356(<南>正
	平11,<北>文和 5,<北>延文元)、1370(<南>正平25,<南>建徳元,
	<北>応安 3)。
ささき がんりゅう《ささき がんりう》
	佐々木 巌流(佐々木 巖流)
	⇒ささき こじろう(佐々木 小次郎)
ささき くに
	佐々木 邦
	1883. 5. 4(明治16)
	1964. 9.22(昭和39)
	◇昭和期の小説家。静岡県生れ。
	 青山学院を経て、1895(明治28)明治学院高等部卒業。
	 『トム・ソーヤの冒険』を翻訳。
	(2)(学)明治学院大。
	(6)明治学院卒。
ささき こじろう《ささき こじらう》
	佐々木 小次郎
	生年不詳
	1612(慶長17)
	◇安土桃山時代の剣客。名は巌流(ガンリュウ)、通称は小次郎。
	 はじめ安芸の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、
	「燕返し」の剣法を案出。
	◎1612(慶長17)三尺余の太刀を使用して、二刀流の宮本武蔵と
	巌流島(船島<フナシマ>)で決闘し、敗れた逸話が有名。
ささき しげつ
	佐々木 指月
	1882. 3.10(明治15)
	1944. 2.17(昭和19)
	◇彫刻家(仏師)・詩人・宗教家(仏教)。本名は栄多。伝道のた
	め長らく在米、太平洋戦争のとき米国への忠誠心を問う日章旗
	への発砲を拒否、監禁され罹病し死去。
ささき すぐる
	佐々木 すぐる
	1892(明治25)
	1966(昭和41)
	◇作曲家。
ささき せんり
	佐々木 千里
	1891. 6.28(明治24)
	1961. 5.15(昭和36)
	◇劇団主宰者(ムーラン・ルージュ)。芸名は外山千里。
ささき そういち
	佐々木 惣一
	1878(明治11)
	1965(昭和40)
	◇憲法・行政法学者。鳥取市出身。京都大学卒業。
	 1933. 5.(昭和 8)滝川事件で京都大学教授団の中心となり、
	大学自治の自由のため辞職。のち立命館大学学長。
	 太平洋戦争後、内大臣府の委嘱を受けて憲法改正草案(佐々
	木試案)を作成。1952(昭和27)文化勲章受賞。
	◎佐々木試案では天皇統治は存続させながら民主化しようとし
	ている。
ささき たかうじ《ささき たかうぢ》
	佐々木 高氏
	1306
	1373(<南>文中 2,<北>応安 6)
	◇南北朝時代の武将。通称は四郎、法名は道誉(ドウヨ)・導誉。
	近江国の豪族佐々木氏、京極宗氏の子。
	 宗家宗綱の跡を継ぐ。
	 はじめ北条高時に仕え、佐渡守・検非違使に任じられ、入道
	して佐渡大夫判官入道と称する。
	 元弘の乱で後醍醐天皇を隠岐に護送する。
	 1331(元徳 3. 6.)足利尊氏に従い、建武政権が成立すると雑
	訴決断所の所衆。
	 室町幕府創設に功をたて、建武式目の制定にも参与。近江(オ
	ウミ)・上総(カズサ)・出雲(イズモ)・隠岐(オキ)・飛騨(ヒダ)の守護を
	兼ね、政所(マンドコロ)執事も務める。
	 1338(<南>延元 3,<北>建武 5)北畠顕家の西上では高師直(コウ
	ノモロナオ)とともにこれを吉野に追い、1348(<南>正平 3,<北>貞和
	 4)楠木正行(マサツラ)・弟正時を四条畷(シジョウナワテ)に破る。
	 妙法院亮性法親王と争って院に放火したため延暦寺衆徒に強
	訴され、一時上総に流される。
	 和歌・連歌に秀でた文化人で香道・茶道のたしなみも深く、
	近江猿楽の保護にも努めた。
	◎『太平記』には佐々木佐渡判官入道道誉(高氏)は「ばさら大
	名」として描かれている。
	(*)1306(嘉元 4,徳治元)。
ささき たかし
	佐々木 隆
	1909. 4. 4(明治42)
	1967.10.30(昭和42)
	◇演出家。
ささき たかまる
	佐々木 孝丸
	1898. 1.30(明治31)
	1986.12.28(昭和61)
	◇演出家・俳優・劇作家・翻訳家・エスペランチスト。筆名は
	落合三郎・香川晋。香川県生れ。早稲田大学卒業。
	(5)没日は1986.12.28(昭和61)。北海道生れ。香川県の国分(コク
	ブ)小を卒業。僧侶(ソウリョ)、郵便局員をしながらフランス語独
	学。
	(13)没日は1964. 9.22(昭和39)。
ささき たかより
	佐々木 高頼
	⇒ろっかく たかより(六角 高頼)
ささき たださぶろう
	佐々木 只三郎
	1833(天保 4)
	1868. 2. 5(慶応 4. 1.12)
	◇江戸幕末維新期の京都見廻組与頭。
	 手代木直右衛門(テシロギ・スグエモン)の実弟。
ささき つもる
	佐々木 積
	1885. 3. 3(明治18)
	1945. 1. 2(昭和20)
	◇俳優。本名は百千万億(ツモル)。
ささき としろう
	佐左木 俊郎
	1900. 4.14(明治33)
	1933. 3.13(昭和 8)
	◇小説家。宮城県生れ。小学校卒業。鉄道従業員・代用教員な
	どを経て新潮社に入社。
ささき とよし
	佐々城 豊寿
	1853(嘉永 6. 3.29)
	1901. 6.15(明治34)
	◇婦人運動家。本名は「とよし」。相馬黒光(ソウマ・コッコウ)の叔母、
	長女ノブ(佐々城信子)は豊寿らの反対を押して国木田独歩と結
	婚、すぐ離婚。
	(9)石丸久調査によれば佐々城家の戸籍では三○日生れ、名は
	トヨ寿。
ささき なおじろう
	佐々木 直次郎
	1901. 3.27(明治34)
	1943. 5.24(昭和18)
	◇翻訳家。
ささき のぶつな
	佐佐木 信綱
	1872(明治 5. 6. 3)
	1963.12. 2(昭和38)
	◇歌人・国文学者・万葉学者。本姓は佐々木、号は竹柏園(ナギ
	ソノ)・小鈴(ショウレイ)・健・磯辺千浪(チナミ)、屋号は竹柏園(チクハクエン)。
	安濃津(アノツ)県(三重県)鈴鹿郡石薬師(イシヤクシ)村生れ。佐々木弘
	綱(ヒロツナ)の長男。佐々木治綱(ハルツナ)の父、長女三枝子は久松潜
	一(センイチ)の妻。
	 1884. 9.(明治17)東京大学古典科図書課入学、1888(明治21)
	古典講習課卒業。1934(昭和 9)学士院会員、1937(昭和12)第一
	回文化勲章受章、芸術院会員。
	(1)佐々木弘綱の長男、本姓の項なし。
	(3)本姓は佐々木。
	(5)佐佐木弘綱の長男、本姓の項なし。
	(9)姓は元来佐々木であるが、明治三六年(1903)三二歳のとき
	南中国に旅行し、そのおりの名刺を記念して生涯「佐佐木」とす
	る。
	(11)佐佐木弘綱(ヒロツナ)の長男、本姓の項なし。
	(13)佐佐木弘綱の長男、本姓の項なし。
ささき のりお
	佐々木 能理男
	1902.10.28(明治35)
	1972. 1. 4(昭和47)
	◇映画評論家。
ささき はるつな
	佐々木 治綱
	1909. 2.20(明治42)
	1959.10. 8(昭和34)
	◇歌人。佐佐木信綱(ノブツナ)の三男。
ささき ひでみつ
	佐々木 秀光
	1902(明治35)
	1945(昭和20)
	◇詩人。終戦直前、戦病死。
ささき ひろつな
	佐々木 弘綱
	1828(文政11. 7.11)
	1891. 6.24(明治24)
	◇国学者・歌人。幼名は習之助時綱、号は鈴山。家号は竹柏園。
	伊勢国(三重県)鈴鹿郡石薬師(イシヤクシ)村生れ。佐佐木信綱(ノブツ
	ナ)の父。
	 1882. 9.(明治15)東京大学文科古典科講師。
	(1)誕生日は 7.11、没日は 6.24。
	(3)誕生日は 7.16、没日は 6.25。
	(9)誕生日は 7.16、没日は 6.25。
	(13)佐佐木 弘綱。誕生日は 7.16、没日は 6.25。
ささき ふさ
	ささき ふさ
	1897.12. 6(明治30)
	1949.10. 4(昭和24)
	◇小説家。本名は佐佐木房子(フサコ)、旧姓は長岡、1909(明治42)
	次姉繁の嫁ぎ先(横浜)の大橋家の養女、筆名は大橋房。東京芝
	公園13号地生れ。父は長岡安平、母はとら、6人兄弟の末子。
	佐佐木茂索(モサク)の妻。
	 1912(明治45)洗礼を受ける。1915(大正 4)神奈川県立第一高
	等女学校卒業。1919(大正 8)青山学院英文科卒業。
	 1925. 3.(大正14)芥川龍之介の媒酌で佐佐木茂索と結婚。
	(3)没日は10. 4。本名佐佐木房子。次姉大橋繁の養女となり、
	受洗後、佐佐木茂索と結婚。
	(5)没日は 3.19。本名佐佐木房子(フサコ)。一四年、佐佐木茂索
	(モサク)と結婚。
	(9)没日は10. 4。
	(11)没日は 3.19。本名佐々木房(フサ)。大正一四、佐佐木茂索
	と結婚。
	(+)『現代日本文學全集85』
		發行所 筑摩書房	昭和32年12月15日印刷
					昭和32年12月20日發行
	 没日は10. 4。本名房。
ささき みつぞう
	佐々木 味津三
	1896. 3.18(明治29)
	1934. 2. 6(昭和 9)
	◇小説家。本名は光三(ミツゾウ)。愛知県北設楽郡下津具村生れ。
	明治大学政経科卒業。
ささき もさく
	佐佐木 茂索
	1894.11.11(明治27)
	1966.12. 1(昭和41)
	◇小説家・雑誌編集者。京都生れ。小学校卒業、独学。戦後、
	文芸春秋新社社長。
	 「ささきふさ」(大橋房子)の夫。
	 1925. 3.(大正14)芥川龍之介の媒酌で大橋房子と結婚。
	(1)生年は1894(明治27)。
	(3)生年は1898(明治27):誤。
	(5)生年は1894(明治27)。
	(9)生年は1894(明治27)。
	(11)生年は1894(明治27)。
	(13)生年は1894(明治27)。
ささき ゆうふう
	佐々木 有風
	1891. 4.12(明治24)
	1959. 4.13(昭和34)
	◇俳人。
ささざわ よしあき
	笹沢 美明(笹澤 美明)
	1898. 2. 6(明治31)
	1984. 3.29(昭和59)
	◇詩人・ドイツ文学者。横浜生れ。東京外語独語科卒業。
	 笹沢左保(サホ)の父。
さざなみ けんじ
	漣 健児
	⇒くさの しょういち(草野 昌一)
ささもと とら
	笹本 寅
	1902. 5.25(明治35)
	1976.11.20(昭和51)
	◇小説家。佐賀県生れ。東洋大学中退。
さじ じつねん
	佐治 実然
	1856(安政 3. 9.15)
	没年不詳
	◇宗教家(仏教)。
さじ ゆうきち
	佐治 祐吉
	1894. 6.11(明治27)
	1970. 4.29(昭和45)
	◇小説家。
さすはら やすぞう
	指原 安三
	1850(嘉永 3. 3)
	1903. 3. 9(明治36)
	◇評論家・編集者。筆名は左腕居士・豊洲。
させ らんしゅう
	佐瀬 蘭舟
	1881. 3. 3(明治14)
	没年不詳
	◇歌人。本名は武雄。
さだ かいせき
	佐田 介石
	1818(文正元. 5. 8)
	1882.12. 9(明治15)
	◇評論家・僧侶。字は断識、号は等象斎。
さだ けいじ
	佐田 啓二
	1926.12. 9(大正15)
	1964. 8.17(昭和39)
	◇映画俳優。本名は中井寛一(ヒロカズ)。俳優中井貴一(キイチ)・中
	井貴恵(リエ)の父。
	 自動車事故で死去。
さたけ しょざん
	佐竹 曙山
	1748
	1785(天明 5)
	◇江戸中期の秋田藩主・洋風画家。名は義敦。
	 1773(安永 2)阿仁銅山開発のため平賀源内を招く。このとき
	角館城主(藩代)佐竹義躬とその家臣小田野直武(オダノ・ナオタケ)が
	源内から西洋画法を習い、洋画を学ぶため江戸に出た直武が曙
	山に伝える(秋田派)。
	 1779(安永 8)直武を帰藩させる。
	(*)1748(延享 5,寛延元)。
さたけ もりいちろう
	佐竹 守一郎
	1888. 3.14(明治21)
	1970. 7.14(昭和45)
	◇劇作家・新舞踊作家。筆名は香取仙之助。
さたけ よししげ
	佐竹 義重
	1547(天文16)
	1612(慶長17)
	◇安土桃山・江戸前期の大名。佐竹義宣(ヨシノブ)の父。
	 代々の常陸国佐竹郷の領主で、関ヶ原の戦で西軍豊臣方に組
	みしたため、出羽国秋田20万5石に転封。
さたけ よしのぶ
	佐竹 義宣
	1570
	1633(寛永10. 1.25)
	◇江戸前期の秋田藩主。佐竹義重の子。
	 1614(慶長19.11.)大坂冬の陣に徳川方として出陣、後藤又兵
	衛(マタベエ)に破れる。
	(*)1570(永禄13,元亀元)。
さたけ よしまさ
	佐竹 義和
	1775(安永 4)
	1815(文化12)
	◇江戸後期の秋田藩主。
	◎米沢藩主上杉治憲(ハルノリ)・白河藩主松平定信とともに江戸時
	代の名君といわれる。
さたち しちじろう	???
	佐立 七次郎
	1856(安政 3)
	1922(大正11)
	◇建築設計者。
	 工部大学校第一期生。
	 石造りの日本水準原点標庫を設計。
	(*)「七次郎」の読みは当館が仮定。
さちのみや
	祐宮
	⇒めいじ てんのう(明治 天皇)
さっさ せいせつ
	佐々 醒雪
	1872(明治 5. 5. 6)
	1917.11.25(大正 6)
	◇俳人・国文学者。本名は政一(マサカズ)、幼名は虎丸。京都吉
	田山麓生れ。湘南学舎・平安義黌・第三高等学校を経て、1896
	(明治29)東京帝国大学文学科卒業。腸チフスで死去。
さっさ なりまさ
	佐々 成政
	1539(天文 8)
	1588(天正16)
	◇安土桃山時代の武将。尾張の人。佐々木盛綱の後裔で、盛政
	の子。
	 織田信長に仕え、1573年に朝倉義景を攻略、石山本願寺一揆
	(イッキ)の鎮圧に功があり、越中富山に受封。
	 本能寺の変後は豊臣秀吉と対抗し、織田信雄を助ける。1584
	(天正12)小牧・長久手の戦いで前田利家と戦うが秀吉と徳川家
	康との和議が成立。成政は家康に再挙をすすめるが成功せず、
	翌年秀吉に攻められ降伏し、越中新川郡のみの領主となる。
	 1587(天正15)秀吉の九州平定に従い、球磨(クマ)・天草両郡を
	除く肥後隈本(熊本)一国に移封。入国早々に検地を行ない国人
	の反発を買い、起きた一揆を立花宗茂の援助で鎮圧するが、失
	政の責めを問われる。安国寺恵瓊(エケイ)の助命も失敗し、摂津
	尼崎で切腹。
	(4)生年は1539。
	(6)生年は不詳。
	(16)生年は不詳。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
さっさ みつお
	佐々 三雄
	⇒ささ みつお(佐々 三雄)
さとう いちえい
	佐藤 一英
	1899.10.13(明治32)
	1979. 8.24(昭和54)
	◇詩人。愛知県中島郡萩原町の南、丸淵生れ。早稲田大学英文
	科中退。
さとう いっさい
	佐藤 一斎
	1772
	1859(安政 6)
	◇江戸後期の朱子学者・陽明学者。名は坦(タン)、別号は愛日楼
	(アイジツロウ)。美濃国(岐阜県)岩村藩の家老の子。
	 1790(寛政 2)藩主の第三子松平徳詮(後の林述斎)の近侍とな
	る。井上四明に朱子学学び、のち大坂に出て中井竹山に学び陽
	明学に傾く。
	 1793(寛政 5)林家(リンケ)の門に入り、松崎慊堂(コウドウ)とは同
	門。林述斎(ジュッサイ)の後をうけて昌平黌(ショウヘイコウ)の儒官(教官)
	となる。朱子学を講じたが、陽明学にも詳しく、「陽朱陰王(ヨウ
	シュインノウ)」と評された。
	 経書に施(ホドコ)した訓点は簡潔で、「一斎点」と呼ばれた。
	 門人は佐久間象山・安積艮斎(アサカ・ゴンサイ)・大橋訥庵(トツアン)
	ら。
	 著書『古本大学旁釈補』・『大学一家私言』・『言志四録』
	・『初学課業次第』・『愛日楼詩文集』・『論孟欄外書』など。
	(*)1772(明和 9,安永元)。
	◎『言志四録』は『言志録』・『言志後録』・『言志晩録』・
	『言志耋録(テツロク)』を合せていう。
さとう えいさく
	佐藤 栄作
	1901. 3.27(明治34)
	1975. 6. 3(昭和50)
	◇昭和後期の政治家。佐藤秀助(ヒデスケ)・茂世(モヨ)の3男、
	佐藤市郎(イチロウ)・佐藤音世・岸信介(キシ・ノブスケ)の弟。山口県田
	布施村に生れ。
	 東京帝国大学法学部卒業。1924(大正13)鉄道省に入省、大阪鉄道局
	長などを経て、1947(昭和22)運輸次官。
	 1949(昭和24)衆議院議員に初当選。吉田茂政権のもとで各省
	大臣を歴任。1958(昭和33)第2次岸内閣の大蔵大臣。
	 1964(昭和39)〜1972(昭和47)自由民主党総裁・内閣総理大臣。
	在任中、日米安保条約自動延長や沖縄返還協定調印。
	 1972(昭和47)大勲位菊花大綬章、受章。1974.12.(昭和49)ノ
	ーベル平和賞、受賞。
	 従一位・大勲位菊花章頸飾が追贈、 6.16国民葬。
さとう えいすけ
	佐藤 栄助
	1869(明治 2)
	1950(昭和25)
	◇篤農家。
	 日持ちのするサクランボウの品種改良に取り組み、佐藤錦を
	開発。
	◎2003. 6. 7(平成15)JR山形新幹線のさくらんぼ東根駅前で
	佐藤翁像を除幕。
さとう かんじろう
	佐藤 観次郎
	1901. 8.19(明治34)
	1970. 3. 3(昭和45)
	◇編集者(中央公論)・政治家(日本社会党)。
さとう かんぞう
	佐藤 寛造
	1879. 6. 7(明治12)
	1970. 3. 4(昭和45)
	◇医者・学校医。山口県田布施村田縫生れ。
	 国木小学校・徳山中学校を経て、下関商業学校を中退し上京。
	独学で医師国家試験に合格し、23歳で佐藤医院を開業。
	 1957(昭和32)藍綬褒章、1965(昭和40)勲五等双光旭日章、受
	章。
	 正六位を追贈。
さとう きよし
	佐藤 清
	1885. 1.11(明治18)
	1960. 8.15(昭和35)
	◇詩人・英文学者。号は澱橋(デンキョウ)。東京大学英文科卒業。
さとう ぎりょう
	佐藤 義亮
	1878. 2.18(明治11)
	1951. 8.18(昭和26)
	◇新潮社の創業者。初名は儀助(ギスケ)、号は橘香(キッコウ)・妖堂
	・浩堂。秋田県生れ。角館(カクノダテ)高等小学校卒業、秋田市の
	責善学舎に学ぶ。1896. 7.(明治29)新声社を創立、雑誌「新声」
	創刊。1903. 9.(明治36)経営不振のため新声社を譲渡。1904.
	 5.(明治37)新潮社を創立、文芸雑誌「新潮」を創刊。
	(3)佐藤 義亮(さとう よしすけ)。
	(5)佐藤 義亮(さとう ぎりょう)。
	(9)佐藤 義亮(さとう ぎりょう)。
	(11)佐藤 義亮(さとう ぎりょう)。
さとう こういち
	佐藤 晃一
	1914. 3. 4(大正 3)
	1967. 7. 7(昭和42)
	◇ドイツ文学者。
さとう こうせき
	佐藤 垢石
	1888. 6.18(明治21)
	1956. 7. 4(昭和31)
	◇随筆家。本名は亀吉。群馬県生れ。早稲田大学英文科中退。
	釣りの名人として知られる。
さとう こうろく
	佐藤 紅緑
	1874. 7. 6(明治 7)
	1949. 6. 3(昭和24)
	◇俳人・小説家・劇作家・児童文学作家。本名は洽六(コウロク)。
	青森県弘前市親方町生れ。弘前中学校四年で中退。法学院に学
	び、陸羯南(クガ・カツナン)の門に入る。
	 童謡詩人サトウ・ハチローは最初の妻「はる」との長子、女流
	作家佐藤愛子は後妻シナとの次女。
	(5)弘前中を四年で中退、上京して同郷の先輩陸羯南(クガカツナン)
	の家の玄関番となり、かたわら国学院に学んだ。
さとう さたろう
	佐藤 佐太郎
	1909.11.13(明治42)
	1987. 8. 8(昭和62)
	◇歌人。筆名は紗太郎。宮城県大河原町生れ。1925〜1945(大
	正14〜昭和20)岩波書店勤務。
	(5)誕生日は1909.11.13(明治42)。
	(13)明治四二年二月宮城県大河原町に生まる。
さとう しょうちゅう《さとう しやうちゆう》
	佐藤 尚中
	1827(文政10)
	1882(明治15)
	◇江戸末期の蘭学者・医者。下総佐倉生れ。本姓は山口、幼名
	は竜太郎、のち舜海。小見川藩の医師山口甫僊の次男、佐藤泰
	然(タイゼン)の養子。
	 佐倉藩の蘭方医佐藤泰然の佐倉順天堂に学ぶ。
	 1853(嘉永 6)見込まれて泰然の養子となる。
	 長崎でオランダの軍医ポンペ(Pompe)に師事。
	 大学東校の主宰者となり、医学教育の制度を定める。
	 1873(明治 6)下総国佐倉(現:千葉県佐倉市)の順天堂を東京
	下谷に移し、病院(現:順天堂医院)を開設。1875(明治 8)さら
	に湯島に移す。
さとう そうのすけ
	佐藤 惣之助
	1890.12. 3(明治23)
	1942. 5.15(昭和17)
	◇詩人・作詞家。神奈川県川崎市生れ。
	 小学校高等科。
	 東京で没。
	 作品は『赤城の子守唄』・『人生劇場』など。
さとう たいぜん
	佐藤 泰然
	1804(文化元)
	1872(明治 5)
	◇江戸末期の蘭方医。本姓は田辺、別号は紅園。出羽国(現:山
	形県)出身の旗本佐藤藤佐の子、政治家林董(ハヤシ・タダス)の父、
	佐藤尚中(タカナカ)の養父。
	武蔵国稲毛在(現:川崎市)生れ。
	 江戸で育つ。
	 27歳のとき、蘭方医を志して足立長雋(チョウシュン)に入門。
	 1835(天保 6)長崎に3年間遊学し、オランダ館長ニーマン・
	大石良逸・楢林栄建らに学ぶ。
	 1838(天保 9)江戸で開業し、和田塾を開いて門弟を集める。
	 1843(天保14)堀田氏に招かれて下総国佐倉(現:千葉県佐倉市)
	に移り、病院と家塾を開き順天堂と称して多数の門弟を養成。
	 外科手術にすぐれ、鼠径ヘルニア手術・乳癌切除術・卵巣嚢
	腫摘出などに腕を振るった。
	 著書は『眼科発蘊』・『謨私篤(モスト)牛痘篇』・『接骨備要』
	など。
さとう たかなか
	佐藤 尚中
	1827(文政10)
	1882(明治15)
	⇒さとう しょうちゅう(佐藤 尚中)
さとう とくじ
	佐藤 得二
	1899. 1.30(明治32)
	1970. 2. 5(昭和45)
	◇小説家・哲学者。
さとう のぶひろ
	佐藤 信淵
	1769(明和 6. 6.15)
	1850(嘉永 3. 1. 6)
	◇江戸後期の経世家。字は元海、通称は百祐、号は椿園・松庵
	・融斎など。出羽国雄勝(オカチ)郡生れ。父は医師佐藤信孝。信
	昭(ノブアキ)の父。
さとう のぶひろ
	佐藤 信寛
	生年調査中
	1900. 2.15(明治33)
	◇明治期の官僚。号は蝦洲(カシュウ)、幼名は寛作(カンサク)。岸信介
	(ノブスケ)の曾祖父、佐藤信彦の父、佐藤茂世(モヨ;信介の母)の祖
	父。三男の太郎を井上馨(カオル)の養子に出している。
	 初めは毛利家の無給通(ムキュウドオリ;給領地を持たない武士)。
	 1870(明治 3)浜田県権知事(ゴンチジ)、1876(明治 9)島根県令、
	1877(明治10)県令を辞して隠居。この間に賄賂による蓄財を行っ
	たという。
さとう のりお《さとう のりを》
	佐藤 範雄
	1856(安政 3)
	1942(昭和17)
	◇明治時代の宗教家(金光教)。
	 天皇崇拝を中心とする国家神道的教義を整える。
さとう はちろう
	サトウ ハチロー
	1903. 5.23(明治36)
	1973.11.13(昭和48)
	◇詩人・歌謡作家。本名は佐藤八郎、初期の筆名は陸奥速男(ム
	ツ・ハヤオ)・並木せんざ・熱田房夫・倉中住人・倉中房男・
	清水七郎・清水操六・清水操夫・玉川映二・星野貞志・
	山野三郎。東京生れ。立教中学中退。佐藤紅緑(コウロク)の長男。
	(3)誕生日は 5.23。
	(5)誕生日は 5.22。中学を転々、立教大中退。
	(9)誕生日は 5.23。
	(11)誕生日は 5.23。
	(13)誕生日は 5.23。
さとう はるお《さとう はるを》
	佐藤 春夫
	1892. 4. 9(明治25)
	1964. 5. 6(昭和39)
	◇詩人・小説家・評論家。法名は凌霄院殿詞誉紀精春日大居士。
	古木鉄太郎の義兄。妻千代子は谷崎潤一郎の元夫人。和歌山県
	東牟婁郡(ヒガシムログン)新宮町(シングウチョウ)(元:新宮市)生れ。
	 1909(明治42)慶応義塾大学に入学、のち中退。
	 新詩社同人となり生田長江・与謝野寛・永井荷風に師事。
	「スバル」・「三田文学」で詩文を発表。のち小説に転ずる。
	 1921(大正10)谷崎潤一郎と絶交。
	 1938(昭和13)従軍作家として武漢作戦に従軍、1943(昭和18)
	マレー・ジャワに従軍。
	 1948(昭和23)芸術院会員、1960(昭和35)文化勲章受章。ラジ
	オの録音中に急死。
	 作品は詩集『殉情詩集』・『佐久の草笛』・『我が一九三二
	年』、1918(大正 7)小説『田園の憂鬱』・『都会の憂鬱』・
	『女誡扇綺譚』・『晶子曼陀羅』など。
	(5)四三年中学卒業。(中略)四三年九月慶大予科文学部入学。
	◆墓は東京都文京区の伝通院。
	 和歌山県新宮市の市民会館に筆塚がある。
	◆春夫忌(春日忌)[ 5. 6]。
	◎谷崎潤一郎の「小田原事件」を参照。
さとう ひですけ
	佐藤 秀助
	生年調査中
	没年調査中
	◇佐藤市郎・岸信介(ノブスケ)の実父。
	 18歳の時に佐藤信彦の婿養子となり長女茂世(モヨ)と結婚。
	佐藤家が他家に貸していた酒造の権利を返して貰い、「松の旭」
	を醸造販売。酒造業に馴染めず、山口県庁勤めをする。
さとう ほっこう
	佐藤 北江
	1868.12.22(明治元.12.22)
	1914.10.30(大正 3)
	◇編集者。本名は真一。
さとう まさあき
	佐藤 正彰
	1905.12.12(明治38)
	1975.11. 1(昭和50)
	◇フランス文学者。
さとう まつすけ
	佐藤 松介
	生年調査中
	1910. 4.(明治43)
	◇佐藤信彦の長男、茂世(モヨ)の弟、寛造・作三の兄、岸信介(ノ
	ブスケ;茂世の子)の叔父。妻は松岡洋右(ヨウスケ)の実妹藤枝。長女
	寛子は佐藤栄作を婿に迎え、佐藤本家を継ぐ。
	 東京大学で医学を学び、同校の助手を経て、岡山医専の産婦
	人科学の教授。
	 肺炎により早世。
さとう めいよう
	佐藤 迷羊
	生年不詳
	1937(昭和12)
	◇小説家。本名は稠松(シゲマツ)。
さとう もよ
	佐藤 茂世
	生年調査中
	没年調査中
	◇佐藤市郎・岸信介(ノブスケ)の実母、祖父は佐藤信寛(ノブヒロ)、
	松介(マツスケ)・寛造(カンゾウ)・さわ(吉田祥朔<ショウサク>の妻)・作三
	(サクゾウ)の姉。
	 佐藤信彦の長女で、14歳の時に18歳の岸秀助を養子に迎
	えて分家。
さとう よしみ
	佐藤 義美
	1905. 1.20(明治38)
	1968.12.16(昭和43)
	◇児童文学者・詩人(童謡)。大分県生れ。早稲田大学国文科卒
	業、大学院修了。
	(5)誕生日は 1.20。
	(9)誕生日は 1.20、戸籍面では 5.20。
さとう りゅうよう
	佐藤 流葉
	1877. 5.15(明治10)
	1900. 9.16(明治33)
	◇小説家。本名は繁蔵。胸を病み夭折。
さとう りょくよう
	佐藤 緑葉
	1886. 7. 1(明治19)
	1960. 9. 2(昭和35)
	◇小説家・詩人・翻訳家。本名は利吉(リキチ)。	????
	群馬県生れ。早稲田大学英文科卒業。
	(5)没日は 9. 2。本名利吉。
	(11)没日は 9.15。本名利吉(トヨヨシ)。
さとー
	アーネスト・サトー
	1843(天保14)
	1929(昭和 4)
	◇イギリスの外交官。名はSir Ernest Mason Satow、日本名は
	佐藤愛之助、号は薩道。ロンドン生れ。
	 1862(文久 2)来日。1865年、横浜のイギリス領事館の通訳官。
	1867(慶応 3)イギリスの江戸公使館の書記官、オールコック、
	パークスの二代の公使に仕える。この間、イギリスの対日政策
	を倒幕派支持に転じさせることに貢献。1884(明治17)離日。
	1895(明治28)日本公使として再来日。1900(明治33)清国公使と
	して離日。
	(2)1884(明治17)いったん日本を離れ、……。
	(4)一八六二〜八三滞日、……。
	(6)69年帰国したが70〜80年再び来日。
	(*)1865(元治 2,慶応元)。
さとみ ただし
	里見 義
	1824(文政 7. 7.27)
	1886. 8.12(明治19)
	◇作詞家。
さとみ とん
	里見 (「弓」偏+「享」)
	1888. 7.14(明治21)
	1983. 1.21(昭和58)
	◇小説家。本名は山内英夫(ヒデオ)(母の弟の養子)。横浜月岡町
	生れ。学習院を経て東京大学英文科に入学するがまもなく中退。
	 長兄は有島武郎、次兄は有島生馬。
さとみ よしざね
	里見 義実
	1417(応永24)
	1488(長享 2)
	◇室町時代の武将。幼名は久太郎・左馬助、通称は刑部少輔。
	法号は杖珠院建室勝興。里見氏10代目家基の子で、安房里見氏
	の初代。成義の父。
	 父家基とともに鎌倉公方足利持氏の遺子春王・安王を奉じ、
	結城氏朝の居城(下総の結城城)に拠る。1441(嘉吉元)上杉憲実
	らに攻められて家基・氏朝は戦死。義実は陥落以前に相模に逃
	れ、さらに安房国白浜に至る。
	 安房(現:千葉県南部)を割拠していた安西・神余(カナマリ)・丸・
	東条の対立抗争に乗じ、1445(文安 2)安西景春を滅ぼし安房一
	国を支配し白浜に築城。
	 のち安房の金山城の東条常政、上総の根古屋城の正木大膳を
	討ち滅ぼして勢威を張る。
さとみ よしたか
	里見 義尭(里見 義堯)
	1512(永正 9)
	1574(天正 2)
	◇室町末期の武将。幼名は権七郎、通称は刑部少輔。法号は
	東陽院岱宗。実堯の次男、義弘(ヨシヒロ)の父。
	 1533(天文 2)父実堯が甥の義豊に攻められて稲村城で自害し、
	その仇に報ずるため翌1534(天文 3)稲村城の義豊を攻め滅ぼし
	房総二州を併合。
	 1538(天文 7)足利義明とともに小田原の北条氏綱(ウジツナ)・
	氏康(ウジヤス)と下総国国府台で戦って敗れ、義明は戦死。のち
	しばしば北条氏と交戦。
さとみ よしひろ
	里見 義弘
	1530(享禄 3)
	1578(天正 6)
	◇室町末期の武将。
さとむら きんぞう
	里村 欣三
	1902. 3.13(明治35)
	1945. 2.23(昭和20)
	◇小説家。本名は前川二亨(ニキョウ)。岡山県生れ。軍報道班員と
	してマレー戦線に従軍、戦死。
	(1)誕生日は 3.13。
	(3)誕生日は 3.13。
	(5)誕生日は 3.12、没日は1945. 2.23(昭和20)。
	(9)誕生日は 3.13。
	(11)誕生日は 3.12。
	(13)誕生日は 8. 1、没日は1944.12.(昭和19)。
さとむら じょうは
	里村 紹巴
	生年不詳
	1602(慶長 7. 4.12)
	◇安土桃山時代の連歌師。本姓は松井、別号は臨江斎。生年は
	1524(大永 4)あるいは1525(大永 5)。
	(5)生年は1524(大永 4)あるいは1525(大永 5)。
	(11)生年は1524(大永 4)。
	(16)生年は1524(大永 4)。
さなだ のぶゆき
	真田 信之
	1567(永禄10)
	1658
	◇江戸前期の大名。幼名は源三郎、のち信幸(ノブユキ)。真田昌
	幸(マサユキ)の長子、幸村(ユキムラ)の兄。
	 1582(天正10)徳川方の人質として浜松に送られる。豊臣秀吉
	に仕え、父とともに小田原征伐に従軍。文禄の役では名護屋に
	出陣。
	 1600(慶長 5)関ヶ原の戦では、徳川家康が本多忠勝の娘を養
	女として信幸の妻としていたため、父・弟と別れて東軍に残る。
	徳川秀忠と上田城を攻め、開城後、本多忠勝を通じて父・弟の
	助命を願い許される。
	 1601(慶長 6)上田城主9万5千石を与えられ、信之と改名。
	 大坂の陣の戦功により、1622(元和 8)信州松代城主10万石
	(高井・水内・埴科・更級の4郡)、従四位下侍従に叙せられる。
	 1656(明暦 2)致仕。松代領を嗣子信政に、沼田領(3万石)を
	嫡孫信証に譲る。のち剃髪して一当斎と号する。
	(2)生年は1566(永禄 9)。
	 '93(文禄 2)沼田城主となり伊豆守となる。
	(16)生年は1567(永禄10)。
	 1594(文禄 3)年従五位下伊豆守に叙せられ,上州沼田城を領
	した。
	(*)1658(明暦 4,万治元)。
さなだ ゆきつら
	真田 幸貫
	1791(寛政 3. 9. 2)
	1852(嘉永 5. 6.)
	◇江戸後期、信州松代藩主。幼名は次郎。松平定信の次男、
	真田幸専(ユキタカ)の養子。
さなだ ゆきまさ
	真田 昌幸
	1545(天文14)
	1611(慶長16. 6. 4)
	◇安土桃山時代の武将。幼名は源五郎。真田幸隆の3子、信之
	(ノブユキ)・幸村(ユキムラ)の父。信濃上田城主。
	 はじめ武田晴信の近侍となり、武田の同族武藤氏を継ぎ、武
	藤喜兵衛尉と称する。1575(天正 3)三河長篠の戦で長兄信綱・
	次兄昌輝が戦死し、旧姓に復して信州上田城主となる。1580
	(天正 8)上州沼田城を攻略し、武田勝頼より沼田一円を与えら
	れる。
	 1582(天正10)武田氏の滅亡後、上杉・北条・徳川ら強豪には
	さまれる立場となる。はじめ北条氏に属し、本能寺の変後は徳
	川家康に仕える。1585(天正13)家康が北条氏と和睦した際、沼
	田城を北条氏に渡すことを命じられ拒否。家康に上田城を攻め
	られ、昌幸は幸村を人質として春日山に送り、上杉の援助を受
	けて家康の軍を破る。
	 ついで豊臣秀吉に仕え、家康と和睦し長子信之を家康に出仕
	させる。小田原征伐・文禄の役に戦功を挙げ、沼田城を回復。
	 1600(慶長 5)徳川家康の会津征伐に子信之・幸村とともに参
	加するが、 7.21下野(シモツケ)犬伏(イヌブシ)で石田三成の密使が真
	田の陣に訪れ、一家で協議して信之を残し幸村とともに上田城
	に急行する。徳川秀忠の西上を上田城で阻止したため、秀忠は
	関ヶ原の合戦に間に合わなかった。開城後、東軍に属した信之
	が義父本多忠勝を通じ家康に助命を願い、幸村とともに高野山
	麓の九度山(クドヤマ)に蟄居(チッキョ)。九度山中で病没。
	(2)生年は1545(天文14)。
	(4)生年は1547。
	(6)真田幸村の項:生年は1545。
	(16)生年は1545(天文14)。
さなだ ゆきむら
	真田 幸村
	1567(永禄10)
	1615(慶長20. 5. 7)
	◇安土桃山・江戸初期の武将。幼名は弁丸・源次郎、のち信繁
	(ノブシゲ)。幸村と称した確かな史料はない。真田昌幸(ユキマサ)の
	次子、信之(ノブユキ)の弟。母は武田信玄の養女の正親町氏の娘、
	または宇野頼忠の娘らしい。妻は豊臣家の奉行大谷吉継(ヨシツグ)
	の娘。
	 はじめ上杉景勝に仕える。1590(天正18)小田原征伐では豊臣
	秀吉に属する。1592(天正20)文禄の役では秀吉の馬廻りとして
	名護屋に出陣。
	 1600(慶長 5)徳川家康の会津征伐に父・兄とともに参加する
	が、 7.21下野(シモツケ)犬伏(イヌブシ)で石田三成の密使が真田の陣
	に訪れ、一家で協議して兄信之を残し父とともに上田城に急行
	する。徳川秀忠(ヒデタダ)が信之を伴い東山道を西上、 9. 2幸
	村らに降伏を勧める。 9. 6秀忠は上田城を攻撃するが落ちず、
	家康の命で押えの兵を置いて美濃に急行、 9.17信州妻籠(ツマゴ
	メ)で関ヶ原の勝利( 9.15)を聞く。
	 開城後、東軍に属した信之が義父本多忠勝を通じ家康に助命
	を願い、父とともに高野山麓の九度山(クドヤマ)に蟄居(チッキョ)。
	 1614(慶長19.10.)豊臣秀頼に招かれて大坂城に入る。冬の陣
	では外堀の天王寺口に出城真田丸(サナダマル)を築き東軍を悩ます。
	翌年の夏の陣に天王寺付近で松平忠直の兵と戦い戦死。
	(2)生年は1569(永禄12)。
	(4)生年は1567。
	(6)生年は1567。
	(16)生年は1567(永禄10)。
	(17)生年は1567(永禄10)。
さぬきのすけ
	讃岐 典侍
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の日記作者・宮廷女房。本名は藤原長子(チョウシ)。堀
	河天皇の典侍。父は歌人藤原顕綱(アキツナ)(讃岐入道)、姉も歌人
	で藤原俊成(トシナリ)の外祖母伊予(イヨ)三位兼子。生年は推定1079
	(承暦<ジョウリャク> 3)。
さねよし はやお
	実吉 捷郎
	1895. 1.20(明治28)
	1962. 2.15(昭和37)
	◇ドイツ文学者。婚家の日野を名のり、離婚で復姓。
さの けさみ
	佐野 袈裟美
	1886. 2. 2(明治19)
	1945.11.13(昭和20)
	◇劇作家・評論家。
	(9)没年は昭和二○・一一・一三?
さの せいようじん
	佐野 青陽人
	1894. 2.19(明治27)
	1963. 9.21(昭和38)
	◇俳人。本名は治吉、旧姓は広瀬。
さの せき
	佐野 碩
	1905. 1.14(明治38)
	1966. 9.29(昭和41)
	◇演出家。母は後藤新平の娘静子、佐野学の甥。
さの つねたみ
	佐野 常民
	1822(文政 5.12.28)
	1902.12. 7(明治35)
	◇明治中期の政治家・日本赤十字社の創始者。初名は
	栄寿左衛門。佐賀藩の人。佐野常徴の養子。
	 緒方洪庵の適々斎塾で蘭学を学び、1855(安政 2)海軍伝習士
	官となり長崎に学ぶ。1863(文久 3)蒸気船凌雲丸(リョウウンマル)を
	建造。1867(慶応 3)パリ万国博覧会のため渡仏。帰国後、藩の
	兵制を改革し長崎警備の海軍力充実に貢献。
	 1870(明治 3)明治政府に出仕し、海軍創設に尽力。兵部少丞
	・工部大丞・元老院議官・1880〜1881(明治13〜明治14)大蔵卿
	・枢密顧問官・農商務大臣などを歴任。
	 1877(明治10)西南戦争の際、大給恒(オギュウ・ユズル)らとともに
	博愛社を創設し、両軍傷病者の看護にあたる。のち慈善団体と
	して存続していたのを、1887(明治20)日本赤十字社と改称し、
	初代社長に就任。
	 日本美術協会会頭として美術の振興、内外博覧会の幹部とし
	て勧業に尽力。
さの つねひこ
	佐野 経彦
	1834(天保 5. 2.16)
	1906.10.16(明治39)
	◇江戸幕末・明治時代の神道家。医師。豊前国企救(キク)郡徳力
	(現:北九州市小倉南区)生れ。佐藤経勝(ツネカツ)の長男。
	 筑前で巫部(カンナギベ)系の神道を布教し、藩の圧迫を受ける。
	明治初年に神理教(シンリキョウ)を形成する。
	 教導職試補の資格を得て、1880(明治13)神理協会を小倉に設
	立。神道本局所属から1888(明治21)御嶽教に転属し、1894(明
	治27)独立。
さの てんせい
	佐野 天声
	1877. 4.25(明治10)
	1945. 6.29(昭和20)
	◇小説家・劇作家。本名は角田喜三郎。角田浩々歌客(ツノダ・コウ
	コウカカク)の弟。
さの まなぶ
	佐野 学
	1892. 2.22(明治25)
	1953. 3. 9(昭和28)
	◇大正・昭和期の歴史学者・社会運動家。大分県生れ。佐野碩
	(サノ・セキ)の叔父。家は代々豊後国杵築藩の侍医で、父はオラン
	ダ医学を学んだ佐野雋達。
	 東京帝国大学法科大学を卒業。
	 1919(大正 8)満鉄東亜経済調査局に入る。
	 1922. 7.(大正11)日本共産党の創立に参加。
	 1923(大正12)ソ連に亡命。
	 1927(昭和 2)中央執行委員長、ついでコミンテルン常任執行
	委員。
	 上海(シャンハイ)から党再建を指導、1929(昭和 4)四・一六事件
	において上海で検挙。
	 1933. 6. 7(昭和 8)獄中で鍋山貞親(ナベヤマ・サダチカ)とともに
	「共同被告同志に告ぐる書」で転向を声明、天皇制政府の中国侵
	略を支持し、 6.10新聞に発表されて大きな反響を呼び大量転
	向のきっかけとなる。
	 1943(昭和18)減刑され出獄。
	 第二次世界大戦、早稲田大学教授。
	 著書は『ロシア経済史』・『唯物史観批判』・『日本古代史
	論』など。
さの りょうた《さの りやうた》
	佐野 良太
	1890.11. 2(明治23)
	1954. 3. 6(昭和29)
	◇俳人。本名は貞助。
さののおとがみのおとめ
	狭野弟上 娘子
	生年不詳
	没年不詳
	◇奈良時代の歌人・後宮の下級女官。 739(天平11)暮れ頃、
	中臣宅守(ナカトミノヤカモリ)と通じ勅勘に触れ、宅守は越前味真野に
	流された。その間の贈答歌(宅守40首、娘子23首)が『万葉集』
	に収められている。
	(5)さののおとがみのおとめ(狭野弟上 娘子)。
	(6)さののちがみのおとめ(狭野茅上 娘子)。写本によって茅
	上を弟上(オトガミ)と書くものがある。
	(11)さののちがみのおとめ(狭野茅上 娘子)。
さのや こうべえ《さのや かうべゑ》
	佐野屋 幸兵衛
	⇒きくち きょうちゅう(菊池 教中)
さばし とみさぶろう
	佐橋 富三郎
	生年不詳
	1893. 1.14(明治26)
	◇劇作家。
さはら まこと
	佐原 真
	1932(昭和 7)
	200. 7.10(平成14)
	◇考古学者。大阪市生れ。
	 大阪外国語大学ドイツ語学科卒業。
	 京都大学大学院で考古学を学ぶ。
	 奈良国立文化財研究所の埋蔵文化財センター長。
	 1993(平成 5)国立歴史民俗博物館副館長。
	 1997. 9.(平成 9)国立歴史民俗博物館館長。
	 著書は『日本人の誕生』・『騎馬民族は来なかった』など。
さむかわ こうたろう
	寒川 光太郎
	1908. 1. 1(明治41)
	1977. 1.25(昭和52)
	◇小説家。本名は菅原憲光(ノリミツ)。北海道生れ。法政大学中退。
さむかわ そこつ
	寒川 鼠骨
	1875.11. 3(明治 8)
	1954. 8.18(昭和29)
	◇写生文作家・俳人。本名は陽光(アキミツ)。愛媛県松山市生れ。
	第三高等学校中退。
	(5)生年は1875.11. 3(明治 8)。
	(9)生年は1874.10.31(明治 7)。
	(11)生年は1875.11. 3(明治 8)。
	(13)生年は1875.11. 3(明治 8)。
さやま わたる
	佐山 済
	1899. 8. 4(明治32)
	1965. 5.14(昭和40)
	◇国文学者。
さらしな げんぞう
	更科 源蔵
	1904. 2.15(明治37)
	1985. 9.25(昭和60)
	◇詩人・郷土史家(北海道)。北海道生れ。
さわ そういち
	沢 宋一
	1907. 9.20(明治40)
	1968. 1. 1(昭和43)
	◇児童文学者・小説家。本名は山本勝衛。
さわ たまき《さは たまき》
	沢 たまき
	1937. 1. 2(昭和12)
	2003. 8. 9(平成15)
	◇女優・歌手・政治家。本名は山本昌子(マサコ)。神奈川県川崎
	市出身。
	 山脇学園短期大学在学中に歌手デビューし、卒業。
	 1996(平成 8)衆議院選挙に新進党から初出馬し落選。
	 1998(平成10)参議院選挙に公明(のち公明党)比例代表で出馬
	し初当選。
さわ のぶよし《さは のぶよし》
	沢 宣嘉
	1835(天保 6)
	1873(明治 6)
	◇江戸幕末・維新期の公卿。幼名は隈麿、号は春川。
	 三条実美(サネトミ)らと朝権回復・攘夷実行を唱え、日米修好通
	商条約勅許に反対。1863(文久 3. 8.18)八月一八日の政変で公
	武合体派に敗れて京都を脱出し長州藩に逃亡(七卿落ち)。平野
	国臣(クニオミ)と10.12未明に生野(イクノ)で挙兵(生野の変)。翌日夜
	に脱出し四国を経由して長州に入る。
	 明治維新後、明治政府の参与、九州鎮撫総督、1868(慶応 4.
	 5. 4)〜1869(明治 2. 3. 5)長崎府知事・外国事務総監を歴任。
	1869. 8.(明治 2. 7.)設置された外務省の初代外務卿として明
	治初年の条約締結に尽力。
	◆墓は東京都文京区小石川の伝通院(宗慶寺)。
さわ はじめ
	佐波 甫
	1901.11.29(明治34)
	1971.10.31(昭和46)
	◇美術評論家・美術史家。本名は大沢武雄。
さわ ゆき
	沢 ゆき
	1894. 2.15(明治27)
	1972.11.29(昭和47)
	◇詩人。本名は飯野ゆき。
さわ らんこ《さは らんこ》
	沢 蘭子(澤 蘭子)
	1903(明治36)
	2003. 1.11(平成15)
	◇大正・昭和前期の女優。本名は志づ子(シヅコ)。仙台市出身。
	 宝塚歌劇団を退団して、大正時代から日活向島・帝国キネマ
	などで活躍。
	 代表作は、1924(大正13)『籠の鳥』など。
さわき もきち
	沢木 四方吉
	1886.12.16(明治19)
	1930.11. 7(昭和 5)
	◇美術史家。
さわだ けん
	沢田 謙
	1894. 3. 6(明治27)
	1969.12. 4(昭和44)
	◇児童文学者。
さわだ しょうじろう《さはだ しやうじらう》
	沢田 正二郎
	1892. 5.27(明治25)
	1929. 3. 4(昭和 4)
	◇俳優・劇団新国劇創立者。通称は沢正(サワショウ)。大津市生れ。
	 早稲田大学在学中に文芸協会に入る。芸術座に参加、1917
	(大正 6)芸術座を脱退して新国劇を結成。
	 中耳炎で舞台に出て急死。
	(4)大津市生れ。
	(?)東京生まれ。
	◆墓は東京都台東区の谷中霊園。
	◎壮烈な殺陣(タテ)は語り草となった。
さわだ とうこう《さはだ とうかう》
	沢田 東江
	1732(享保17)
	1796(寛政 8. 6.15)
	◇江戸中期の儒学者・書家。名は鱗、字は文龍、通称は文治、
	別号は来禽堂・萱舎・青蘿館など。江戸の人。
	 江戸の商人だったが井上蘭台(1705〜1761)に学び、のち林家
	(リンケ)に入門して林鳳岡(1644〜1732)に朱子学を学ぶ。
	 1766(明和 3)明和事件に連座。
	 書は高頤斎(コウ・イサイ)に学び、深見玄岱の流れを汲む東江流の
	書家として一家をなす。
	 著書は『書述』・『書話』・『書則』・『法帖考』・『金石
	考』・『集古印選』や、『来禽堂詩草』など。吉原通で戯作
	『異素六帖』もある。
さわだ はぎじょ
	沢田 はぎ女
	1900(明治33)
	1982(昭和57)
	◇俳人。本名は初枝。富山県生れ。
さわだ ぶしょう
	沢田 撫松
	1871(明治 4. 5. 1)
	1927. 4.13(昭和 2)
	◇小説家・新聞記者。本名は忠次郎。
さわたり ひろもり
	猿渡 容盛
	1811(文化 8)
	1884. 8. 8(明治17)
	◇江戸幕末・明治維新期の国学者・神職。猿渡盛章(モリアキ)の子。
さわむら こい
	沢村 胡夷(澤村 胡夷)
	1884. 1. 1(明治17)
	1930. 5.23(昭和 5)
	◇美術史家・詩人。本名は専太郎。滋賀県彦根生れ。1903(明
	治36)第三高等学校入学。京都大学文学部に進学、美学・美術
	史を専攻、卒業。
さわやなぎ まさたろう《さはやなぎ まさたらう》
	沢柳 政太郎
	1865
	1927(昭和 2)
	◇明治・大正時代の教育家・教育行政官。信州松本の出身。
	 帝国大学文科大学(現:東京大学)卒。文部省学務局長として
	義務教育年限の延長、初等教育制度を確立。
	 二高・一高校長、文部次官、東北帝大・京都帝大総長・帝国
	教育会会長などを歴任。貴族院議員。
	 京都帝大総長のとき教員の任免権をめぐって教授団と対立し
	引責辞職(沢柳事件)。
	 1917(大正 6)成城小学校(現:成城学園)を創設。
	(*)1865(元治 2,慶応元)。
さわら しんのう《さはら しんわう》
	早良 親王
	生年不詳
	 785(延暦 4.10.)
	◇光仁天皇の第2皇子、母は高野新笠(ニイガサ)、桓武天皇の同
	母弟。追号は崇道(スドウ)天皇
	  768(神護景雲 2)出家。 770(宝亀元.10.)父白壁王が即位
	(光仁天皇)、親王となる。 781(天応元)桓武天皇の即位ととも
	に皇太弟となる。
	  785(延暦 4. 8.)佐伯・大伴氏らの藤原種継暗殺事件に連座
	し、廃されて淡路国に配流の船中で10日間絶食して死去。
	◎親王の死後、皇太子安殿親王(平城天皇)が病に倒れて怨霊に
	悩まされたり、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏や母の高野新笠らが
	相次いで死去するなど、皇室や藤原氏に病死者が出て、さらに
	その秋に疫病が流行したので、親王の祟(タタ)りと考えた朝廷は、
	 800(延暦19)崇道(スドウ)天皇を追贈する。
さんぐう まこと
	山宮 允
	1892. 4.19(明治25)
	1967. 1.22(昭和42)
	◇歌人・詩人・英文学者。号は虚実庵主人。山形市生れ。東京
	大学英文科卒業。
	(1)生年は1892(明治25)、没日は 1.22。
	(3)生年は1890(明治23)、没日は 1.23。
	(5)生年は1892(明治25)、没日は 1.22。
	(9)生年は1892(明治25)、没日は 1.22。
	(11)生年は1892(明治25)、没日は 1.22。
	(13)生年は1890(明治23)、没日は記載なし。
さんさ
	算砂
	⇒ほんいんぼう さんさ(本因坊 算砂)
さんじょう さねつむ
	三条 実万
	1802(享和 2)
	1859(安政 6)
	◇江戸幕末の公卿。号は源空。三条公修の子、実美(サネトミ)の父。
	京都生れ。
	 安政の大獄で辞官させられ、落飾。
さんじょう さねとみ《さんでう さねとみ》
	三条 実美
	1837(天保 8. 2. 4)
	1891. 2.10(明治24)
	◇幕末の尊攘派の公卿・明治の元勲。三条実万(サネツム)の4男、
	母は土佐藩主山内豊策の3女、妻は前右大臣鷹司輔煕の9女治
	子。京都生れ。
	 尊皇攘夷運動の先頭に立ち、14代将軍徳川家茂に攘夷督促の
	朝命を伝えたが、1863(文久 3. 8.18)八月十八日の政変で失脚
	し、長州に下った七卿の一人。
	 維新後、上洛し議定・副総裁兼外国事務総督・関東監察使。
	1869(明治 2)右大臣。1871(明治 4)太政大臣兼神祇伯・宣教長
	官。1878(明治11)賞勲局総裁を兼任。1884(明治17)華族令制定
	に伴い公爵。1885(明治18)内閣制度創設に伴い太政大臣を辞任、
	宮中の内大臣。
	 大勲位・国葬。
	◎実美の建議によって、1863(文久 3. 3.)天皇護衛の親兵(シンペ
	イ)が設置。失脚により、同年九月解散。
	◆東京都文京区の護国寺に墓がある。
[1]さんしょうてい からく《さんせうてい からく》
	三笑亭 可楽(1世)
	1777(安永 6)
	1833(天保 4)
	◇江戸後期の落語家。通称は京屋又五郎。江戸日本橋馬喰町(バ
	クロチョウ)生れ。
	 1798(寛政10)江戸下谷の寄席に出演。以後、各地を巡業し、
	職業的咄家(ハナシカ)の最初の人といわれる。
	 著書は『可楽日記』・『東都真衛(エドマエ)』など。
	◎三題噺(バナシ)の創始者・江戸席亭の開祖。
[2]さんしょうてい からく《さんせうてい からく》
	三笑亭 可楽(7世)
	1886(明治19)
	1944(昭和19)
	◇落語家。本名は玉井長之助。
[3]さんしょうてい からく《さんせうてい からく》
	三笑亭 可楽(8世)
	1898(明治31)
	1964(昭和39)
	◇落語家。本名は麹地(キクチ)元吉。
さんじょうにし さねたか《さんでうにし さねたか》
	三条西 実隆
	1455(享徳 4. 4.25)
	1537(天文 6.10. 3)
	◇室町後期の公家・歌人。幼名は公世(キンヨ)・公延(キンノブ)、号
	は聴雪・逃虚子、法号は逍遥院耕隠堯空(ギョウクウ)。1469(文明
	元)元服し実隆と改名。1506(永正 3)家督を子三条西公条(キンエダ)
	に譲る。1516(永正13)出家。
さんじょうにし すえとも
	三条西 季知
	1811(文化 8)
	1890. 8.24(明治23)
	◇幕末・明治初の廷臣・歌人。三条実美(サネトミ)らと尊皇攘夷を
	唱え、幕府に忌まれて西走(七卿落ち)。維新後、宮中の歌道御
	用、御歌会始の題者・点者を勤めた。
	(4)没年は1880。
	(9)没年は1890(明治23)。
さんだー すぎやま
	サンダー 杉山
	1940. 7.23(昭和15)
	2002.11.22(平成14)
	◇プロレスラー・タレント。本名は杉山恒治(ツネハル)。愛知県生
	れ。
	 明治大学に入学し、レスリング日本選手権を制覇。
	 1964(昭和39)オリンピック東京大会にレスリング日本代表と
	して出場。
	 1965(昭和40)日本プロレスに入門。
	 1966(昭和41)国際プロレスに移籍。
	 1972(昭和47)全日本プロレスに移籍。
	 1973(昭和48)プロレスを引退し、タレント業に専念して活躍。
	 1977(昭和52)プロレスに復帰。
さんとう きょうざん
	山東 京山
	1769(明和 6. 6.15)
	1858(安政 5. 9.24)
	◇江戸後期の合巻(ゴウカン)作者。本名は岩瀬百樹(モモキ)、通称は
	相四郎、別号は涼仙・覧山。江戸生れ。山東京伝の弟。
さんとう きょうでん
	山東 京伝
	1761(宝暦11. 8.15)
	1816(文化13. 9. 7)
	◇江戸中期の洒落本(シャレボン)・黄表紙・読本(ヨミホン)・滑稽本(コッケイ
	ボン)・合巻(ゴウカン)作者。本名は岩瀬醒(セイ)、幼名は甚太郎、通
	称は京屋伝蔵、狂名は身軽織助、号は葎斎(リツサイ)・醒斎(セイサイ)
	・醒世老人、画号は北尾政演(マサノブ)。江戸深川木場町生れ。
	寛政の改革で洒落本三部が発禁、手錠五〇日の刑を受ける。
	 山東京山(キョウザン)の兄。
さんゆうてい えんしょう《さんいうてい ゑんしやう》
	三遊亭 円生(6代目)
	1900(明治33)
	1979. 9. 3(昭和54)
	◇落語家。
	 1978. 5.24(昭和53)真打昇進をめぐり落語協会を脱退し、落
	語三遊協会を結成。
さんゆうてい えんちょう《さんいうてい ゑんてう》
	三遊亭 円朝(三遊亭 圓朝)
	1839(天保10. 4. 1)
	1900. 8.11(明治33)
	◇噺家(ハナシカ)。本名は出淵次郎吉(イズブチ・ジロキチ)。江戸湯島切
	通(キリドウシ)、通称根性院横町に生れた。1845(弘化 2)小円太と
	称して江戸橋の通称土手倉(ドテグラ)という寄席に出る。一七歳
	で真打に進み円朝と改名。東京下谷で没。
	◆円朝祭[ 8.11]東京都台東区三崎町の谷中・全生庵(ゼンショウアン)
	で、落語家たちが扇子供養・奉納落語を行う。
さんゆうてい かしょう
	三遊亭 歌笑
	1917(大正 6)
	1950(昭和25)
	◇落語家。
さんゆうてい むらく《さんいうてい むらく》
	三笑亭 夢楽
	1925. 1. 5(大正14)
	2005.10.28(平成17)
	◇落語家。本名は渋谷滉(ヒロシ)。東京都出身。
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