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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6201.03

                 人   名   辞   典    《さ》       編集:獨  澄旻

-------- さ ----------------------------------------------------
さいおんじ きんつね《さいをんじ きんつね》
	西園寺 公経
	1171
	1244(寛元 2)
	◇鎌倉初期の公卿。妻は源頼朝(ヨリトモ)の姪(メイ)。娘綸子は九条
	道家(ミチイエ)の妻で、第4代将軍九条頼経(ヨリツネ)の母。
	 京都の北西に西園寺殿を営んでから西園寺氏を称する。
	(*)1171(嘉応 3,承安元)。
さいおんじ きんひら《さいをんじ きんひら》
	西園寺 公衡
	1264
	1315(正和 4)
	◇鎌倉末期の公卿。号は竹林院左府。西園寺公経の玄孫。
	 1309(延慶 2)左大臣となる。
	(*)1264(弘長 4,文永元)。
さいおんじ きんもち《さいをんじ きんもち》
	西園寺 公望
	1849(嘉永 2.10.23)
	1940.11.24(昭和15)
	◇明治〜昭和期の政治家。号は陶庵。京都生れ。徳大寺公純(キ
	ンイト)の次男、徳大寺実則(サネノリ)の実弟、住友友純(トモイト)の実兄。
	 1871(明治 4)フランス留学、1880(明治13)帰国。
	 1881(明治14)中江兆民らと「東洋自由新聞」を発刊。
	 1881(明治14)岸本辰雄らと明治法律学校(現:明治大学)を設
	立。
	 伊藤博文の信任を受けて各国公使・文部大臣・枢密院議長な
	どを歴任。
	 1903(明治36)立憲政友会総裁。
	 1906. 1.〜1908. 7.(明治39〜明治41)第一次組閣。
	 1911. 8.〜1912.12.(明治44〜大正元)第二次組閣。
	 パリ講和会議首席全権。
	(3)誕生日は10.23、没日は11.28。
	(9)誕生日は11.25、没日は11.24。
	(16)誕生日は10.23、没日は11.24。
さいが ことこ
	斎賀 琴子
	1892.12. 5(明治25)
	1973. 9.24(昭和48)
	◇歌人・小説家。
さいが まごいち
	雑賀 孫市
	生年不詳
	没年不詳
	◇戦国時代の国人。紀伊国雑賀崎の鉄砲を得意とした傭兵雑賀
	衆の頭目。実際には一人ではなく、頭目が孫市を称し、本姓も
	鈴木とも平井ともいい、孫市義兼(ヨシカネ)・孫市義固(ヨシカタ)・孫
	市重行(シゲユキ)などがいた。
さいかえん りゅうこう
	彩霞園 柳香
	1857(安政 4)
	1902. 5.23(明治35)
	◇戯作者。本名は雑賀(サイカ)のち広岡広太郎、別号は豊州・
	東洋太郎。
さいき こうい
	細木 香以
	1822(文政 5)
	1870(明治 3. 9.10)
	◇幕末の通人。通称は津国屋藤次郎。姪の儔は芥川龍之介の養
	母。彼を描いた作品に芥川龍之介『孤独地獄』・森鴎外『細木
	香以』がある。
さいき せんすい
	細木 仙酔
	1880.10.14(明治13)
	没年不詳
	◇翻訳家。本名は延次郎。
さいぎょう《さいぎやう》
	西行
	1118(元永元)
	1190(建久元. 2.16)
	◇平安後期〜鎌倉前期の歌人。本名は佐藤義清(憲清・則清)(ノ
	リキヨ)、法名は円位(エンイ)、号は西行・大宝房。父は左衛門尉佐
	藤康清、母は監物源清経の娘。藤原北家魚名流の鎮守府将軍藤
	原秀郷九世の孫。
	 北面の武士であったが、鳥羽上皇をめぐる皇位継承問題によ
	り、1140(保延 6.10.15)23歳で出家して嵯峨に入る。のち高野
	山、晩年は伊勢を本居に陸奥・四国などを流浪する。また1186
	(文治 2)東大寺大仏料砂金調達のため、鎌倉で源頼朝(ヨリトモ)に、
	平泉で藤原秀衡(ヒデヒラ)に会う。
	 河内国の弘川寺で没する。
	 家集『山家集』1巻のほか、『新古今和歌集』に96首と一番
	多く歌が採録されている。
	◆西行忌(円位忌)[旧暦 2.16]。
	◆西行祭[三月最終日曜日]神奈川県大磯町の鴫立庵(シギタツアン)。
さいぐさ ひろと
	三枝 博音
	1892. 5.20(明治25)
	1963.11. 9(昭和38)
	◇哲学者。「さえぐさ ひろと」とも呼ぶ。
	 鎌倉アカデミアを運営。
	 横浜市鶴見区の東海道線の「鶴見事故」で、事故死。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
さいこう《さいくわう》
	西光
	生年不詳
	1177
	◇平安末期の僧・後白河院の近臣。俗名は藤原師光(モロミツ)。
	 藤原通憲(ミチノリ)(信西)に仕える。平治の乱後、通憲の死を悲
	しんで出家、西光と称する。
	 後白河法皇の寵愛を受け、1177年、後白河法皇の旨を奉じて
	藤原成親・僧俊寛らと鹿谷(シシガタニ)に密会し、平家打倒を謀議、
	平清盛に露見して刑死(鹿ヶ谷の変)。
	(*)1177(安元 3,治承元)。
さいごう たかもり《さいがう たかもり》
	西郷 隆盛
	1827(文政10.12. 7)
	1877. 9.24(明治10)
	◇明治維新の功臣。通称は吉兵衛・吉之助、号は南洲。薩摩藩
	の下級武士の出。西郷従道(ツグミチ)の兄。
	 藩主島津斉彬(ナリアキラ)に取り立てられ江戸詰めとなる。将軍
	継嗣問題で一橋慶喜(ヨシノブ)擁立運動に尽力。安政の大獄で幕
	吏の追及を受け、僧月照とともに帰藩。しかし佐幕論に傾い
	ていた薩摩藩からも追われ、1858(安政 5)月照と入水したが蘇
	生し奄美(アマミ)大島に流される。1862(文久 2)許され尊攘派と
	して動き出したが、島津久光(ヒサミツ)(斉彬の弟)にきらわれ沖永
	良部(オキノエラブ)島に流される。
	 1868(明治元)東征総督府参謀となり勝海舟(カツ・カイシュウ)と会見
	して江戸を無血開城させる。明治政府では陸軍大将兼参議とな
	り、1871(明治 4)廃藩置県を断行した。1873(明治 6)大久保利
	通(トシミチ)ら内治優先派にはばまれて征韓論に敗れて下野。1874
	(明治 7)鹿児島に私学校(シガッコウ)を設立。1877(明治10. 2.)擁
	立されて西南戦争の兵を挙げ、敗れて鹿児島城山(シロヤマ)に別府
	晋介(ベップ・シンスケ)の介錯で自刃。
	◎東京都台東区の上野公園に高村光雲作の銅像がある。
	◎1889(明治22)明治憲法の発布により、隆盛に正三位(ショウサンミ)
	が追贈され名誉回復。
	(4)生年は1827。
	(6)生年は1827/28。
	(16)生年は1827(文政10)。
さいごう つぐみち
	西郷 従道
	1843(天保14. 5. 4)
	1902. 7.18(明治35)
	◇明治の軍人・政治家。薩摩藩出身。西郷隆盛(タカモリ)の弟。
	 1870(明治 3.10. 1)西郷隆盛クーデタ説対策として岩倉具視
	(トモミ)・木戸孝允の指示により、黒田清綱らと鹿児島藩(薩摩藩
	の後身)に帰藩。
	 1874(明治 7)台湾蛮地事務都督として征台。
さいこう まんきち
	西光 万吉
	1895. 4.17(明治28)
	1970. 3.20(昭和45)
	◇劇作家・社会運動家。本名は清原一隆。真宗西本願寺の末寺
	西光寺住職清原道隆の長男。奈良県生れ。
	 1921(大正10)全国水平社結成を決意し、1922. 3.(大正11)京
	都で創立大会を開催。
	 1927(昭和 2)日本共産党に入党、1928(昭和 3)三・一五事件
	で服役、獄中転向を表明して、1933(昭和 8)仮釈放。
さいしょ あつこ
	税所 敦子
	1825(文政 8. 3. 6)
	1900. 2. 5(明治33)
	◇明治前期の歌人。旧姓は林。京都生れ。1875(明治 8)権掌侍
	(ゴンノナイシノジョウ)楓内侍(カエデノナイシ)として宮内省に出仕。
さいしょう しょうたい
	西笑 承兌
	1548(天文17)
	1607(慶長12.12.27)
	◇臨済宗相国寺派の住持。山城国伏見生れ。
	 1584(天正12)京都相国寺の心華院を開創。1589(天正17)紫衣
	を受ける。1594(文禄 3)秀吉が伏見に建立した光明寺の開山。
	 秀吉の没後、家康の朝鮮外交に参与。
さいじょう やそ
	西条 八十
	1892. 1.15(明治25)
	1970. 8.12(昭和45)
	◇詩人・作詞家。東京牛込生れ。早稲田大学英文科卒業、あわ
	せて東京大学国文科にも通学。
	◎野口雨情(ウジョウ)・北原白秋(ハクシュウ)とともに童謡・民謡詩人
	の三大巨匠といわれる。
さいだ たかし
	斎田 喬
	1895. 7.15(明治28)
	1976. 5. 1(昭和51)
	◇児童劇作家・学校劇作家・画家。香川県生れ。香川師範卒業。
さいちょう
	最澄
	 767(神護景雲元.8.18)
	 822(弘仁13. 6. 4)
	◇平安前期の宗教家。天台宗の開祖。幼名は広野、諡(オクリナ)は
	伝教大師(デンギョウダイシ)、叡山大師・根本大師・山家大師とも
	いう。近江国滋賀郡古市郷(滋賀県大津市)生れ。父は帰化人系
	氏族の三津首百枝(ミツノオビト・モモエ)。
	  778(宝亀 9)近江の国分寺に入り、行表の弟子となる。 785
	(延暦 4)東大寺で具足戒を受けて僧となり、比叡山に隠棲し天
	台三大部を研修する。
	 桓武天皇の命を受け、短期の還学生として、 803(延暦22)遣
	唐使に便乗し一回目は失敗、翌 804(延暦23)二回目に入唐(ニット
	ウ)を果たす(この回には空海も乗っている)。天台山で道邃(ドウ
	スイ)・行満らに師事、円・密・禅・戒の諸教を受け、翌年帰国。
	 法相宗の徳一との間に「三乗一乗権実(ゴンジツ)論争」を4年間
	続け、南都の戒壇とは別に比叡山に大乗戒壇を建立しようとす
	る、など旧仏教の南都と対立する。
	 死去の翌年、嵯峨天皇から「延暦寺」の寺号を賜る。 866(貞
	観 8)伝教大師の諡号が追贈される。
	(2)生年は 766(天平神護 2)。
	(4)生年は 766。
	(5)生年は 767(神護景雲元)。
	(6)生年は 767。
	(11)生年は 767(神護景雲元)。
	(16)生年は 767(神護景雲元)。
	(17)生年は 767(神護景雲元)。
	◎ 805(延暦24)最澄が唐から茶の種を持ち帰り近江に植え、翌
	年には空海も茶の種を持ち帰り長崎に植えている。
さいとう いおえ
	斎藤 五百枝
	1881.12.21(明治14)
	1966.11. 6(昭和41)
	◇挿絵画家。千葉県一宮町生れ。
	 白馬会洋画研究所を経て東京美術学校洋画科で岡田三郎助に
	師事、卒業。
	 1941(昭和16)第1回野間挿絵奨励賞受賞。
	(20)没年は1965。千葉県長生郡生まれ。
さいとう ういちろう
	斎藤 宇一郎
	1866(慶応 2)
	1926(大正15)
	◇明治・大正期の政党政治家。斎藤茂介の長男、母はトキオ。
さいとう くうげ
	斎藤 空華
	1918. 9.24(大正 7)
	1950. 1. 4(昭和25)
	◇俳人。本名は邦夫。
さいとう げっしん
	斎藤 月岑
	1804
	1878(明治11)
	◇江戸末期の著述家。名は幸成(ユキシゲ)、通称市左衛門、号は
	月岑。祖父は斎藤幸雄(ユキオ)・父は幸孝(ユキタカ)。江戸神田雉子
	(キジ)町の名主。
	 和漢の学を修め、博覧強記。
	 著書は『武江年表』・『東都歳事記』・『声曲類纂』など。
	 祖父幸雄が撰し、父幸孝が補修、月岑が校訂した『江戸名所
	図会』を、1834(天保 5)前半10冊、1836(天保 7)後半10冊刊行。
	(*)1804(享和 4,文化元)。
さいとう げん
	斎藤 玄
	1914. 8.22(大正 3)
	1980. 5. 8(昭和55)
	◇俳人。本名は俊彦。北海道生れ。早稲田大学商学部卒業。
さいとう さぶろう
	斎藤 三郎
	1895. 8.26(明治28)
	1960. 2. 2(昭和35)
	◇近代文学研究家。
さいとう さんき
	西東 三鬼
	1900. 5.15(明治33)
	1962. 4. 1(昭和37)
	◇俳人。本名は斎藤敬直(ケイチョク)。岡山県津山市生れ。津山中
	学校・青山学院中学部を経て日本歯科医専卒業。1925(大正14)
	シンガポールで歯科医を開業。日貨排斥による不況とチフスの
	大患のため、1928(昭和 3)休院し帰国。1932(昭和 7)患者の俳
	句会にすすめられて俳句をはじめる。1933(昭和 8)東京共立病
	院歯科部長に就任。1961(昭和36)胃ガンの手術を受けたが、翌
	年再発し死去。
	◆三鬼忌(西東忌)[ 4. 1]。
さいとう しずか
	斎藤 静
	1891(明治24)
	1970(昭和45)
	◇昭和期の英語学者。
	 1949(昭和24)福井大学教授。
さいとう しょうぞう
	斎藤 昌三
	1887. 3.19(明治20)
	1961.11.26(昭和36)
	◇書誌学者。本名は政三(ショウゾウ)、関東大震災で戸籍消滅後は
	昌三と改名、号は未鳴・桃哉・少雨叟・少雨荘。
さいとう たかお《さいとう たかを》
	斎藤 隆夫
	1870(明治 3)
	1949(昭和24)
	◇大正・昭和期の政治家。兵庫県生れ。
	 東京専門学校卒業。エール大学に留学。
	 弁護士から政界にはいり、憲政会・民政党所属の衆議院議員。
	 軍部・ファシズムに抵抗し、1936(昭和11)二・二六事件直後
	の特別議会で粛軍演説を行う。1940(昭和15)日中戦争処理に関
	する質問演説を行って帝国議会から除名される。
	 第二次世界大戦後、進歩党結成に参画。
	 第一次吉田内閣の国務大臣を務める。
さいとう ちはく
	斎藤 知白
	1871(明治 4. 7.24)
	1933. 4.13(昭和 8)
	◇俳人。本名は伊三郎。
さいとう ちょうか
	斎藤 弔花
	1877. 2. 8(明治10)
	1950. 5. 3(昭和25)
	◇新聞記者・小説家・随筆家。本名は謙蔵。大阪生れ。大学卒
	業。
	(3)誕生日は 2. 7、没年?。
	(5)誕生日は 2. 8、没日は1950. 5. 3(昭和25)。
	(9)誕生日は 2. 8、没日は1950. 5. 3(昭和25)。
さいとう どうさん《さいとう だうさん》
	斎藤 道三
	1494(明応 3)
	1556(弘治 2. 4.20)
	◇室町末期(戦国時代)の武将。初名は松波庄五郎(庄九郎とも)、
	名は利政(山城守)、のち秀竜、剃髪して道三。山城国西岡生れ。
	 山城(ヤマシロ)の油売りで美濃を往来、美濃の守護土岐頼芸(トキ・
	ヨリナリ)にとり入り、家臣長井氏の家老西村家をつぎ西村勘九郎
	(カンクロウ)と改名し、ついで主家長井利隆の跡をつぎ長井規秀と
	改名。
	 1538(天文 7)守護代斎藤氏をつぎ利政と改名。
	 1542(天文11)土岐頼芸を追放し美濃を奪取し、頼芸を援助す
	る尾張の織田信秀と抗争する。
	 1549(天文18)信秀と和し、信秀の子信長の妻に娘濃姫(ノウヒメ)
	を嫁がせる。
	 継嗣問題で子義龍(ヨシタツ)と戦い長良川で敗死。
	◎下剋上(ゲコクジョウ)の典型的人物とされる。
さいとう ときより
	斎藤 時頼
	⇒たきぐち にゅうどう(滝口 入道)
さいとう としお
	斎藤 利雄
	1903.12.30(明治36)
	1969. 8.16(昭和44)
	◇小説家。
さいとう としみつ
	斎藤 利三
	1538(天文 7)
	1582(天正10)
	◇戦国・安土桃山時代の武将。通称は内蔵助(クラノスケ)。父は
	利賢、母は明智光秀の妹。春日局(カスガノツボネ)は末娘。
	 はじめ斎藤道三(ドウサン)の子義龍(ヨシタツ)に仕えたが、のち織
	田信長に仕え、1580(天正 8)伯父光秀に属し一万石を与えられ
	る。本能寺の変では光秀に従い、変後、近江国長浜城を接収。
	山崎の合戦後、堅田で捕えられ、六条河原で斬首。
	(2)さいとう としみつ(斎藤 利三)。生年は1533(天文 2)。
	(6)「春日局」の項。斎藤利三の女。
	(16)さいとう としみつ(斎藤 利光)。生年は1538(天文 7)。
	「春日局」の項。斎藤利三の女.
さいとう とよきち
	斎藤 豊吉
	1903. 1.13(明治36)
	1976.12.24(昭和51)
	◇劇作家。女優の外崎笑美子の夫。
さいとう ののひと
	斎藤 野の人(齋藤 野の人)
	1878. 4.14(明治11)
	1909. 8. 6(明治42)
	◇評論家。本名は信策。山形県鶴岡生れ。第二高等学校を経て
	東京帝国大学独文科卒業。高山樗牛(チョギュウ)の実弟。
	(5)号は(「釐」の「里」を「來」に替える)牛、読みは「りぎゅう」か
	「らいぎゅう」か不明。
	(9)別号は(「釐」の「里」を「來」に替える)牛生。
	(11)別号は(「釐」の「里」を「來」に替える)牛生。
さいとう ひでさぶろう
	斎藤 秀三郎
	1866(慶応 2. 1. 2)
	1929.11. 9(昭和 4)
	◇英語学者。
さいとう まこと
	斎藤 実
	1858(安政 5)
	1936(昭和11)
	◇軍人(海軍大将)・政治家。岩手県生れ。
	 日露戦争のとき海軍次官。
	 1906(明治39)海相。
	 1919. 8.(大正 8)朝鮮総督に任命。 9. 2着任、京城南大門
	で老人から爆弾を投げられる。
	 1927(昭和 2)ジュネーブ軍縮会議の全権。
	 1932. 5.26〜1934. 7. 8(昭和 7〜昭和 9)首相。五・一五事
	件の後、首相となり、1932(昭和 7)満洲国を承認。1934(昭和
	 9)帝人事件で大蔵省高官が逮捕されて総辞職。
	 1935(昭和10)内大臣。
	 二・二六事件で射殺。
さいとう もきち
	斎藤 茂吉(齋藤 茂吉)
	1882. 5.14(明治15)
	1953. 2.25(昭和28)
	◇医師・歌人。本名は茂吉(モキチ)、自称は茂吉(シゲヨシ)(養父の
	好み)、旧姓は守谷(モリヤ)、号は水上守暁・東川・童馬山房主人
	・藤原まもる。山形県南村山郡堀田村大字金瓶(カナガメ)生れ。
	戸籍上の生れの月日は届け出が遅れたため 7.27。
	 1905. 7.(明治38)親戚の斎藤紀一家(浅草区東三筋町の浅草
	医院)に入籍。
	 1901. 3.(明治34)開成中学校卒業、1902. 9.(明治35)第一高
	等学校入学・1905. 6.(明治38)卒業、を経て、同年九月に東京
	帝国大学医科大学入学、1910(明治43)卒業。1914. 4.(大正 3)
	紀一の次女輝子(テルコ)と結婚。1921〜1924(大正10〜大正13)ウィ
	ーンおよびミュンヘンに留学。心臓喘息で没。
	 北杜夫(キタ・モリオ)の父。
	(5)誕生日は 5.14。茂吉の名は、もともとモキチであるが、の
	ち養父紀一の好みで対外的にシゲヨシとも称した。
	(13)誕生日は 7.27。本名茂吉(シゲヨシ)。
	◆茂吉忌[ 2.25]。
	◆斎藤茂吉追慕短歌大会[ 5.14〜 5.25]山形県上山(カミノヤマ)市
	の斎藤茂吉記念館で、短歌大会が開かれる。
さいとう よしたつ
	斎藤 義龍
	1527(大永 7)
	1561(永禄 4. 5.11)
	◇戦国時代の大名。初名は新九郎高政、法名は雲峯玄龍居士。
	斎藤道三(ドウサン)の子とするが、美濃守護土岐頼芸(トキ・ヨリナリ)の
	妾三芳野が道三に嫁してからの子で頼芸の子ともいわれる。
	 道三が正室所生の子に家督を譲ったことで、1555(弘治元)異
	母弟を殺し道三と義絶。1556(弘治 2)崇福寺辺の長良川畔で父
	と戦い敗死させる。将軍足利義輝に仕え、偏諱(ヘンイ)を賜り義
	龍と改名。厚見郡に伝灯護国寺を建立。
	 以後、美濃進攻を図る織田信長と戦ったが、病死する。
さいとう より
	斎藤 与里
	1885. 9. 7(明治18)
	1959. 5. 3(昭和34)
	◇画家。
さいとう りゅう
	斎藤 瀏(齋藤 瀏)
	1879. 4.16(明治12)
	1953. 7. 5(昭和28)
	◇歌人。旧姓は三宅。長野県北安曇郡生れ。斎藤史(フミ)の父。
	陸大卒業。1904(明治37)日露戦争従軍中に負傷。少将に累進。
	1928(昭和 3)済南事件(セイナンジケン)で北伐中の国民革命軍と旅団
	長として交戦した咎(トガ)で待命となる。1936(昭和11)二・二
	六事件に叛乱幇助(ホウジョ)で入獄、1938(昭和13)仮出獄。長野
	市で没。
さいとう りゅうすけ
	斎藤 隆介
	1917. 1.25(大正 6)
	1985.10.30(昭和60)
	◇児童文学作家。本名は隆勝(タカカツ)。東京生れ。明治大学文芸
	科卒業。
	(5)誕生日は 1.25。
	(9)誕生日は 1.26。
さいとう りゅうぞう
	斎藤 隆三
	1875. 4. 6(明治 8)
	1961. 4. 7(昭和36)
	◇美術史家。
さいとう りゅうたろう
	斎藤 龍太郎
	1896. 4.24(明治29)
	1970. 7. 8(昭和45)
	◇編集者・小説家・評論家。
さいとう りゅうほう
	斎藤 龍鳳
	1928. 1.10(昭和 3)
	1971. 3.25(昭和46)
	◇映画評論家。睡眠薬を常用、ガス中毒死。
さいとう りょくう
	斎藤 緑雨
	1867(慶応 3.12.31)
	1904. 4.13(明治37)
	◇小説家・評論家・随筆家。本名は賢(マサル)、号は正直正太夫
	・江東(コウトウ)みどり・緑雨醒客・可笑亭真猿・登仙坊。伊勢国
	神戸(カンベ)生れ。1877(明治10)父に従い上京。土屋小学校・東
	洋小学校・東京府立第二中学校を経て、法律家を志し明治義塾
	・明治法律学校に入学するが中退。肺患により死去。
	(1)1867(慶応 3.12.31)、旧暦は31日まであるだろうか(?)。
	(3)1867(慶応 3.12.31)。
	(5)1867(慶応 3.12.31)。
	(9)1867(慶応 3.12.31)。
	(11)1867(慶応 3.12.31)。
	(13)1867(慶応 3.12.31)。
	(16)1867(慶応 3.12.)。
さえき ありよし
	佐伯 有義
	1867(慶応 3)
	1945. 9.(昭和20)
	◇明治〜昭和前期の考証学者。富山県中新川(ナカニイカワ)郡生れ。
	 1882(明治15)上京。1887(明治20)皇典講究所卒業。1904(明
	治37)宮内省の掌典。1912(大正元)大喪使事務官。
	 1927(昭和 2)国学院大学講師、1936(昭和11)教授、1943(昭
	和18)文学博士。
さえき じんざぶろう
	佐伯 仁三郎
	1900. 9.27(明治33)
	1974. 7.31(昭和49)
	◇歌人・国文学者。
さえき ゆうぞう
	佐伯 祐三
	1898. 4.28(明治31)
	1928. 8.16(昭和 3)
	◇洋画家。大阪の寺に生れる。東京美術学校卒業。渡仏。
さえぐさ ひろと
	三枝 博音
	1892. 5.20(明治25)
	1963.11. 9(昭和38)
	⇒さいぐさ ひろと(三枝 博音)
さが せん
	佐賀 潜
	1910. 3.21(明治43)
	1970. 8.31(昭和45)
	◇弁護士・小説家。本名は松下幸徳。
さが てんのう
	嵯峨 天皇
	 786(延暦 5. 9. 7)
	 842(承和 9. 7.15)
	◇第52代の天皇。名は神野(カミノ)。第50代桓武天皇の第2皇子。
	第54代仁明(ニンミョウ)天皇の父。第51代平城(ヘイゼイ)天皇の弟、第
	53代淳和(ジュンナ)天皇の兄。
	 兄の平城(ヘイゼイ)天皇のあとを継ぎ、 809(大同 4. 4.)即位。
	 810(大同 5)平城上皇の重祚(チョウソ)を謀(ハカ)った「薬子の変(クス
	コノヘン)」を鎮圧。 823(弘仁14)譲位。
	 『弘仁格式(コウニンキャクシキ)』・『新撰姓氏録(ショウジロク)』を編纂
	させる。書道に堪能で三筆の一人に数えられる。誕生日は一説
	に 9. 7。
	 即位: 809(大同 4. 4.13)、退位: 823(弘仁14. 4.16)。
	(2)桓武天皇の第2皇子。
	(4)桓武天皇の第六皇子。
	(5)桓武天皇の第二皇子。
	(6)桓武天皇の皇子。
	(11)桓武天皇の第二皇子。
	(16)桓武天皇の第2皇子。
さかい あさひこ
	酒井 朝彦
	1894.10. 1(明治27)
	1969. 5.25(昭和44)
	◇児童文学作家。長野県生れ。早稲田大学英文科卒業。
さかい かつとき《さかゐ かつとき》
	酒井 勝軍
	1874. 3.15(明治 7)
	1940. 7. 6(昭和15)
	◇市井の考古学者。山形県生れ。
	 著書は1934(昭和 9)『太古日本のピラミッド』など。
さかい くらき
	阪井 久良伎(阪井 久良岐)
	1869(明治 2. 1.24)
	1945. 4. 3(昭和20)
	◇歌人。本名は辨(ワカチ)、号は徒然坊。
さかい こせん
	堺 枯川
	⇒さかい としひこ(堺 利彦)
さかい さいすい
	坂井 犀水
	1871(明治 4. 3.13)
	1940. 7.31(昭和15)
	◇ジャーナリスト。本名は義三郎。
さかい ただかつ
	酒井 忠勝
	1587(天正15. 3.)
	1662(寛文 2. 7.12)
	◇江戸前期の幕府老中・大老・若狭国(福井県)小浜城主。酒井
	忠利の子。酒井忠世(タダヨ)の従兄弟。
	 関ヶ原の戦に父忠利とともに従軍。
	 第3代将軍徳川家光のときに老中となる。家光の死後は第4
	代将軍家綱を補佐。
さかい ただつぐ
	酒井 忠次
	1527(大永 7)
	1596
	◇安土桃山時代の武将。幼名は小平次・小五郎、通称は左衛門
	尉。徳川家累代の重臣左衛門尉忠親の子。徳川家康の四天王の
	一人。
	(*)1596(文禄 5,慶長元)。
さかい ただよ
	酒井 忠世
	1572(元亀 3)
	1636(寛永13. 3.19)
	◇江戸初期の厩橋(前橋)藩主。三河生れ。雅楽頭(ウタノカミ)酒井
	重忠(シゲタダ)の嫡子。酒井忠勝の従兄弟。
	◎家光の代に土井利勝(ドイ・トシカツ)・青山忠俊(タダトシ)とともに
	寛永の三輔といわれる。
さかい とくぞう
	坂井 徳三
	1901.10.26(明治34)
	1973. 1.28(昭和48)
	◇詩人。本名は徳三郎。別名は世田三郎。
さかい としひこ
	堺 利彦
	1870(明治 3.11.25)
	1933. 1.23(昭和 8)
	◇社会主義運動家・小説家・評論家。別名は貝塚渋六、号は
	枯川(こせん)・枯川漁史・枯禅・孤禅・由分子、処女作の筆名
	は石溪道人。福岡県京都郡豊津村生れ。近藤真柄(マガラ)の父。
	 本吉欠伸(モトヨシ・ケッシン)の実弟。妻美知子は堀紫山(シザン)の妹。
	娘「まがら」は近藤憲二(ケンジ)の妻。
	 1887(明治20)第一高等学校入学、月謝滞納で除名。
	 1903(明治36)日露戦争開戦時、非戦論を唱えて幸徳秋水(コウト
	ク・シュウスイ)・内村鑑三らとともに万朝報社を退社。同年10月、幸
	徳秋水と平民社を結成、週刊「平民新聞」を創刊。1904. 4.21
	(明治37)秋水とともに『共産党宣言』を初めて新聞に訳出し発
	禁、二ヶ月入獄。1905.10.(明治38)平民社を解散。
	 1906. 1.28(明治39)深尾韶と日本社会党を組織し、西川光二
	郎らの日本平民党(同年 1.14設立)を合併。赤旗事件などで入
	獄中により大逆事件の難を免れ、1910(明治43)出獄後、同志の
	ために売文社を経営。1920(大正 9)山川均(ヒトシ)と日本社会主
	義同盟を組織。1922. 7.15(大正11)日本共産党の創立に加わり、
	初代委員長、1924(大正13)解党を断行し、再建共産党派から反
	党分子のように批評される。その後、無産大衆党・日本大衆党
	・東京無産党・全国大衆党・全国労農大衆党などに参加、終始
	反戦活動を続けた。
	 脳溢血(ノウイッケツ)により死去。
	(1)生年は1870(明治 3)。
	(2)生年は1870(明治 3)。
	(3)生年は1870(明治 3)。
	(5)生年は1871(明治 3)。
	(6)生年は1870/71。
	(9)生年は1870(明治 3)。
	(11)生年は1871(明治 3)。
	(13)生年は1870(明治 3)。
	(16)生年は1870(明治 3)。
さかい ひろじ
	酒井 広治
	1894. 4.27(明治27)
	1956. 1.30(昭和31)
	◇歌人。
さかい まがら
	堺 真柄
	⇒こんどう まがら(近藤 真柄)
さかい まさひら
	酒井 正平
	1912. 7. 9(明治45)
	1944. 9.15(昭和19)
	◇詩人。西部ニューギニア山中で戦死。
さかい まつお
	酒井 松男
	1903. 1.12(明治36)
	1956. 4.30(昭和31)
	◇小説家。
さかい ゆうざぶろう
	酒井 雄三郎
	1859(安政 6. 9. 9)
	1900.12. 9(明治33)
	◇評論家。号は九皐・茫々学人。パリのホテルで墜落死。
さかいの こうよう
	境野 黄洋
	1871(明治 4. 8.12)
	1933.11.11(昭和 8)
	◇仏教学者。本名は哲(サトル)。
さかきばら きんしゅう《さかきばら きんしう》
	榊原 琴州
	1832(天保 3)
	1881(明治14)
	◇江戸幕末・明治初期の国学者。水戸の人。名は芳野。
	 明治維新後、文部省にはいり『古事類苑』の編纂に携わる。
	 著書は『文芸類纂』。
さかきばら けんきち
	榊原 鍵吉
	1830
	1894. 9.11(明治27)
	◇江戸幕末・明治前期の剣客・幕臣。名は友善。麻布広尾生れ。
	 12歳の時、麻布狸穴の直心影流男谷精一郎門下となり、1849
	(嘉永 2)免許皆伝。
	 1856(安政 3)講武所剣術教授方、1862(文久 2)師範に昇進。
	1864(元治元)下谷車坂の屋敷に道場を開く。1866(慶応 2)幕府
	遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍。
	 1868(明治元)維新後、徳川家達に従い静岡に移住。明治政府
	の再三の招きを断り、1873(明治 6)撃剣会を発足させ、撃剣興
	行・天覧試合・兜試斬で名声を得る。
	(*)1830(文政13,天保元)。
	◆墓は東京都新宿区須賀町の西応寺。
さかきばら こうしゅう《さかきばら くわうしう》
	榊原 篁洲
	1656(明暦 2)
	1706(宝永 3)
	◇江戸中期の紀州藩の儒官。名は玄輔、字(アザナ)は希翊。和泉
	の人。
	 木下順庵に学び、順庵の推挙で紀伊徳川家に仕える。
	 制度沿革、特に明律(明代の法律)に精通。また天文・暦学・
	測量などにも通じる。
	 著書は『大明律例諺解』・『易学啓蒙諺解大成』・『老子経
	諺解大成』・『榊巷(シンコウ)談苑』・『篁洲雑記』など。
	◎木下順庵の門下として、新井白石・室鳩巣と並び称される。
さかきばら しげる
	榊原 仟
	1910(明治43)
	1979(昭和54)
	◇心臓外科医。福井県生れ。
	 東京女子医科大学教授。
さかきばら しほう
	榊原 紫峰
	1887. 8. 8(明治20)
	1971. 1. 7(昭和46)
	◇日本画家。本名は安造。京都生れ。
	 京都市立絵画専門学校卒業。
	 はじめ文展で活躍したが、鑑査に不満を抱き、1918(大正 7)
	土田麦僊(バクセン)・小野竹喬(チクキョウ)・村上華岳(カガク)らと国画
	創作協会を結成。
	 花鳥画を得意とする。
	 作品は『赤松に鷹図屏風』・『奈良の森』・『獅子』など。
さかきばら まさよし
	榊原 政令
	1776(安永 5)
	1861
	◇江戸中・末期の高田藩主。
	 1810(文化 7)家を継ぎ、式部大輔となる。
	(*)1861(万延 2,文久元)。
さかきばら やすまさ
	榊原 康政
	1548(天文17)
	1606(慶長11. 5.14)
	◇安土桃山・江戸初期の武将・徳川家康の四天王の一人・越後
	高田藩主榊原氏の祖。幼名は亀丸のち小平太。母は道家氏、妻
	は加藤清政の娘。娘は徳川秀忠の養女。三河の人。
	 小牧長久手(コマキナガクテ)の戦などに武功をたて、上野(コウズケ)
	館林城主10万石。
	(16)長政の第2子.
さかきやま じゅん
	榊山 潤
	1900.11.21(明治33)
	1980. 9. 9(昭和55)
	◇小説家。横浜市生れ。1937. 9.(昭和12)「日本評論」特派員と
	して第二次上海事変を取材。1941.12.(昭和16)陸軍航空本部配
	属報道班員としてタイ・ビルマに従軍、病を得て翌年送還。
さかぐち あんご
	坂口 安吾
	1906.10.20(明治39)
	1955. 2.17(昭和30)
	◇小説家。本名は炳五(ヘイゴ)。新潟県新津町大安寺生れ。
	 1919(大正 8)新潟中学校に入学するが二年で落第し、豊山(ブ
	ザン)中学校へ転入、1925(大正14)同校卒業。1930(昭和 5)東洋
	大学印度哲学科卒業。
	 1949(昭和24)暮れ、精神病院に入院。脳溢血(ノウイッケツ)により
	急死。坂口五峰(ゴホウ)の五男。
	◆安吾忌[ 2.17]。
さかぐち ごほう
	坂口 五峰
	1859(安政 6. 1. 3)
	1923.11. 2(大正12)
	◇政治家・漢詩人・随筆家。本名は仁一郎。坂口安吾(アンゴ)の
	父。
さかざき しらん
	坂崎 紫瀾
	1853(嘉永 6.11.18)
	1913. 2.17(大正 2)
	◇小説家・新聞記者。本名は斌(サカン)、幼名は謙次(ケンジ)。仮
	名は馬鹿林純翁・嗚々道人(ウウドウジン)・鉄香女史(女権拡張論)。
	江戸の土佐藩邸に藩主侍医の子として生れる。
	(1)誕生日は11.18、本名は斌(サカン)。
	(3)誕生日は11. 7、本名は斌(ビン)。
	(5)誕生日は11.18、本名は斌(サカン)。
	(9)誕生日は11.18、本名は斌(サカン)。
	(11)誕生日は11.18、本名は斌(サカン)。
さかざき でわのかみ
	坂崎 出羽守
	⇒さかざき なおもり(坂崎 直盛)
さかざき なおもり
	坂崎 直盛
	生年不詳
	1616(元和 2)
	◇江戸初期の武将。名は直行・直盛・成正・重長、通称は出羽
	守。宇喜多忠家の子。
	 はじめ宇喜多秀家(ヒデイエ)に仕え、1599(慶長 4)宇喜多家を
	去り徳川家康に仕える。1600(慶長 5)関ヶ原の戦の功により、
	1601(慶長 6)石見国(鳥取県)津和野3万石を与えられ、姓を坂
	崎と改め出羽守と称する。
	 1615(慶長20. 5.)大坂夏の陣で落城の際、豊臣秀頼(ヒデヨリ)
	に嫁していた徳川家康の孫千姫(センヒメ)を救出。家康は千姫を嫁
	がせる約束する。しかし翌年、千姫が応ぜず姫路城主本多忠政
	(タダマサ)の子忠刻(タダトキ)に嫁ぐことになり、千姫を奪還しよう
	として失敗し自刃。
	◎「せんひめ(千姫)」を参照。
さかた ひろお《さかた ひろを》
	阪田 寛夫
	1925.10.18(大正14)
	2005. 3.22(平成17)
	◇作家・作詞家。大阪市生れ。阪田なつめ(宝塚女優大浦みず
	き)の父。
	 東京帝国大学在学中に応召して中国に渡る。
	 復員後、三浦朱門氏らと第15次「新思潮」の発刊に加り、東京
	大学国史学科を卒業。
	 大阪の朝日放送に勤務。
	 1975(昭和50)母親の最期を描いた『土の器』で芥川賞を受賞。
	 作詞した童謡は『サッちゃん』・『おなかのへるうた』など。
さかたに よしお《さかたに よしを》
	阪谷 芳郎
	1863(文久 3)
	1941(昭和16)
	◇明治〜昭和前期の財政家・政治家。漢学者阪谷郎盧(ロウロ)の
	4男、妻琴子は渋沢栄一の次女。岡山県出身。
	 東京帝国大学法学部政治科卒。1884(明治17)大蔵省に入る。
	日清戦争時には大本営付として戦時財政の運用にあたる。1903
	(明治36)大蔵次官。1906(明治39)第1次西園寺内閣の大蔵大臣。
	1907(明治40)男爵。1912年、東京市長。1917(大正 6)貴族院議
	員。専修大学総長。1941(昭和16)子爵。
	 外地の日本語教育に関心を持ち、日語文化学校を創設。
	(*)1912(明治45,大正元)。
さかたに ろうろ《さかたに らうろ》
	阪谷 朗盧
	1822(文政 5)
	1881(明治14)
	◇江戸末期・明治前期の儒学者・漢詩人。名は素、字は子絢、
	通称は素三郎。阪谷芳郎の父。岡山県出身。
	 開港論を唱える。
	 明治維新後は春崖学舎を設立。
さかたのきんとき
	坂田 公時(坂田 金時)
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の武人。幼名は金太郎、俗に坂田金時。源頼光の四
	天王の一。二一歳の時に頼光に見出され、頼光の没後は行方不
	明。
	 『金太郎』伝説の主人公で、相摸国足柄山の山姥と赤龍との
	子と伝えられる。
さかなか まさお
	阪中 正夫
	1901.11. 1(明治34)
	1958. 7.24(昭和33)
	◇劇作家・詩人。本名は坂中正雄。和歌山県生れ。粉河(コカワ)
	中学校中退、長野県蚕業講習所に学ぶ。
さかにし しほ
	坂西 志保
	1896.12. 6(明治29)
	1976. 1.14(昭和51)
	◇評論家。
さかのうえのたむらまろ
	坂上 田村麻呂
	 758(天平宝字 2)
	 811(弘仁 2. 5.23)
	◇平安初期の武将。父は苅田麻呂。平城京田村里で生れ。
	  791(延暦10)征夷大将軍大伴弟麻呂(オオトモノオトマロ)の許で征夷
	副使4名の一人となる。 797(延暦16)征夷大将軍となり、蝦夷
	(エゾ)を討つ。 802(延暦21)陸奥国胆沢(イザワ)城を築き、鎮守
	台をここに移す。同年、賊帥阿弖利為(アテリイ)ら降伏する。
	  809(大同 4)正三位大納言に累進。
	(17)苅田麻呂の二男(『坂上系図』三男)として……。
	 坂上氏は、応神天皇の時代に日本へ渡来した阿知使主(アチノオミ)
	を祖先とするという伝承をもつ氏で、当時、こうした系統の氏
	を「諸蕃」と称した。
さがのや おむろ
	嵯峨の屋 御室
	1863(文久 3. 1.13)
	1947.10.25(昭和22)
	◇小説家・詩人。本名は矢崎鎮四郎(シンシロウ)、別号は北(「亡」偏
	+「都」-「者」)(ホクボウ)散士・嵯峨の山人・潮外・探美。下関国関
	宿藩士の子として江戸に生れる。1876(明治 9)外国語学校露語
	科給費生となり、1883. 7.(明治16)卒業。
	(3)嵯峨の屋御室、没日は10.25。
	(5)嵯峨の屋お室、誕生日は 1.13、没日は10.25。
	(7)年譜の没日は10.22。
	(9)嵯峨の屋おむろ、誕生日は 1.12、没日は10.26。
	(13)嵯峨の屋お室、誕生日は 1.13、没日は10.22。
さがみ たろう《さがみ たらう》
	相模 太郎
	⇒ほうじょう ときむね(北条 時宗)
さかもと えつろう
	阪本 越郎
	1906. 1.21(明治39)
	1969. 6.10(昭和44)
	◇詩人・ドイツ文学者。本姓は坂本。福井県福井市生れ。芝中
	学校・山形高等学校を経て、1930(昭和 5)東京大学心理学科卒
	業。
	 父(「金」偏+「彡」)之助は福井県知事で永井荷風の叔父、
	高見順の異母兄。
さかもと おとめ
	坂本 乙女
	1832(天保 3. 1. 1)
	1879. 8.31(明治12)
	◇坂本龍馬の三番目の姉。
	 身長が約五尺八寸(約174センチ)あり、「坂本の仁王さま」と
	呼ばれ男まさりであった。
	 龍馬が幼い時に死んだ母の代わりに龍馬の世話をし、剣術を
	教え込んだりもした。
	 岡上新甫(オカノウエ・シンスケ)の後妻になる。新甫は号を樹庵(ジュアン)
	といい、藩主山内容堂(ヤマノウチ・ヨウドウ)の御典医。しかし、不和
	により実家に戻る。
	◎龍馬の姉は三人おり、一番上は千鶴(チズ)、中は栄(サカエ)、三
	番目が乙女である。栄は1862(文久 2. 3.24)龍馬脱藩の折、龍
	馬に名刀陸奥守吉行(ヨシユキ)を渡し、一族に累を及ぶのをおそれ
	て自害した。
	◆墓は高知市山手町の坂本家墓所。
さかもと かじま
	坂本 嘉治馬
	1866(慶応 2. 3.11)
	1938. 3.23(昭和13)
	◇冨山房の創業者。
さかもと ぐれんどう
	坂本 紅蓮洞
	1866(慶応 2. 9.)
	1925.12.16(大正14)
	◇雑文家。本名は易徳。江戸生れ。
さかもと しほうだ
	坂本 四方太
	1873. 2. 4(明治 6)
	1917. 5.16(大正 6)
	◇俳人。本名は四方太(ヨモタ)、号は文泉子(ブンセンシ)・角山人・
	虎穴生。鳥取県岩井郡大谷村生れ。第二高等学校を経て東京帝
	国大学国文科卒業。胃病で死去。
	(1)没日は 5.16。
	(3)没日は 5.16。
	(5)没日は 5.15。
	(9)没日は 5.16。
	(11)没日は 5.15。
	(13)没日は 5.16。
さかもと せきそう
	坂本 石創
	1897. 1.18(明治30)
	1949. 1.24(昭和24)
	◇小説家。本名は石蔵。
さかもと せっちょう
	坂元 雪鳥
	1879. 4.25(明治12)
	1938. 2. 5(昭和13)
	◇能楽批評家・国文学者。本名は三郎、旧姓は白仁、筆名は
	天邪鬼(アマノジャク)。旧柳河藩士白仁成功の三男として生れる。
	鹿児島県士族坂元常彦の養子となる。1907(明治40)東京大学文
	学部国文科卒業。
さかもと はんじろう
	坂本 繁二郎
	1882. 3. 2(明治15)
	1969. 7.14(昭和44)
	◇洋画家。福岡県久留米生れ。
さかもと ひんえん
	阪本 蘋園
	1857(安政 4. 6.24)
	1936. 1.23(昭和11)
	◇漢詩人。名は敏樹(トシキ)のち(「金」偏+「彡」)之助(サンノスケ)、本
	姓は坂本、旧姓は永井、字は利卿(リケイ)また百練(ヒャクレン)、別号
	は三橋(サンキョウ)。阪本越郎(エツロウ)・高見順の父、永井荷風の叔
	父。
さかもと まさる
	阪本 勝
	1899.10.15(明治32)
	1975. 3.22(昭和50)
	◇プロレタリア作家・美術評論家・政治家。
さかもと りょう
	坂本 遼
	1904. 9. 1(明治37)
	1970. 5.27(昭和45)
	◇詩人。兵庫県生れ。関西学院英文科卒業。
さかもと りょうま
	坂本 竜馬(坂本 龍馬)
	1835(天保 6.11.15)
	1867(慶応 3.11.15)
	◇江戸末期の勤皇家。名は直柔(ナオナリ)、変名は才谷梅太郎。土
	佐藩の郷士。坂本乙女(オトメ)の弟、お竜(リョウ)の夫。
	 家業(才谷屋)の酒造業を弟に譲り、江戸に出て千葉周一の弟
	に剣を学ぶ。武市瑞山(タケチ・ズイザイ)らの土佐勤王党に入るが、
	藩政にあきたらずに1862(文久 2. 3.24)脱藩。
	 勝海舟の門に入り神戸海軍操練所の設立に努力する。1863
	(文久 3)八月十八日の政変で幕政が反動化すると、勝の紹介で
	西郷隆盛をたより薩摩藩に保護され、その援助で土佐藩脱藩の
	同志と共に1864年「亀山社中」を組織し物産・武器の貿易を行う。
	 中岡慎太郎との斡旋で、1866(慶応 2. 1.21)長州の木戸孝允
	と薩摩の西郷隆盛が京都で会見し、薩長同盟が結ばれ、討幕派
	の結集に成功。同年、第二次長州征伐では長州藩海軍を指揮。
	1867(慶応 3)後藤象二郎の援助で土佐藩に付属するようになり
	「海援隊」と改称。王政復古(船中八策)に尽力、山内豊信を説い
	て大政奉還を実現させる。
	 京都の旅寓の醤油商近江屋で中岡慎太郎と共に見廻組の刺客
	(幕臣今井信郎)に暗殺された。
	(4)生年は1835。
	(6)生年は1835/36。
	(16)生年は1835(天保 6)。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
	◆墓は京都市東山区の霊山護国神社(リョウゼンゴコクジンジャ)。
	◎海援隊の蒸気船「いろは丸」が紀州の藩船「明和丸」と衝突して
	沈没。竜馬は賠償金83,000両をとっている。竜馬らが襲われた
	のは紀州藩の用人三浦休太郎が指示者と考えられ、同年12. 7
	に陸奥宗光・中井庄五郎・土居通夫らが、下京の油小路花屋町
	の旅館天満屋で酒宴を開いていた三浦を襲ったが失敗している
	(天満屋事件)。
	◎暗殺は新選組と信じられていたが、大正時代になって見廻組
	隊士だった今井信郎が名乗り出た。
	◎1980(昭和55)鹿児島県鹿児島市の天保山公園に「坂本龍馬新
	婚の旅碑」、建立。
さがら そうぞう《さがら そうざう》
	相楽 総三
	1839(天保10)
	1868(慶応 4. 3.)
	◇江戸幕末の尊攘派志士。本名は小島四郎左衛門将満。江戸の
	生れ。父は下総(シモウサ)相馬郡の郷士。
	 平田流国学を学ぶ。
	 各地で尊攘派志士と交わり、水戸天狗党の筑波山挙兵に参加。
	 京都に出で西郷隆盛の指令を受け、浪士隊を率いて江戸の治
	安攪乱(カクラン)を図(ハカ)る。
	 1868(慶応 4. 2.)官軍先鋒として近江(オウミ)愛知川(エチガワ)で
	赤報隊(セキホウタイ)を結成。年貢半減を布告しながら東山道を進軍
	して信濃(シナノ)に入ったが、新政府の年貢半減令取消しにとも
	ない、東山道総督府により偽官軍として捕えられ、下諏訪(シモス
	ワ)で部下とともに処刑。
さがわ かんべえ《さがは くわんべゑ》
	佐川 官兵衛
	1831(天保 2)
	1877(明治10. 3.18)
	◇江戸幕末の会津藩家老・明治維新期の大警部。会津藩士佐川
	直道の長男、直諒(ナオヨシ)の父。
	 藩主松平容保(カタモリ)が京都守護職に任じられたとき京都に従
	う。鳥羽・伏見の戦いで敗北し、江戸を経て会津若松に帰る。
	1868(慶応 4)東征軍が北上すると長岡藩の河井継之助と手を組
	んで戦い、会津防衛戦の指揮を取るが、 9.18降伏、 9.21開城。
	 西郷隆盛らが征韓論に破れると一派は大挙して官職を辞職し
	たため警視局の巡査までも大幅に減少。大警視川路利良は不足
	を旧会津藩士から募(ツノ)り、官兵衛は308名の子弟を連れて上
	京、大警部となる。
	 西南の役で巡査1中隊を引き連れて熊本県阿蘇郡長陽村黒川
	の襲撃を強行、西郷軍に迎撃され被弾して死亡。
さがわ きよし《さがは きよし》
	佐川 清
	1922. 3.16(大正11)
	2002. 3.11(平成14)
	◇実業家・佐川急便グループの創業者。新潟県中頸城郡(ナカクビ
	キグン)板倉村生れ。
	 1948(昭和23)建設業佐川組を設立。
	 1957(昭和32)妻とともに自転車2台を使って運送業を創業。
	 1966(昭和41)株式会社佐川急便に改組。
	◎「日本一の谷町(タニマチ)」と呼ばれた。
さがわ ちか
	左川 ちか
	1911. 2.12(明治44)
	1936. 1. 7(昭和11)
	◇詩人。本名は川崎愛。
さきさか いつろう
	向坂 逸郎
	1897(明治30)
	1985(昭和60)
	◇大正・昭和期の経済学者。福岡県生れ。
	 ヨーロッパ留学後、1925(大正14)九州大学教授となるが、
	1928(昭和 3)思想弾圧により大学を追われる。1936(昭和11)人
	民戦線事件に連座。
	 太平洋戦争後、九州大学に復学。「社会主義協会」の中心とし
	て日本社会党左派の理論的支柱となる。1960(昭和35)前後の三
	井三池争議で「向坂教室」により運動の指導者を育てる。
さきさか しゅんぺい
	匂坂 春平
	1883(明治16)
	1953. 8.19(昭和28)
	◇陸軍法務中将。
	 二・二六事件の東京陸軍軍法会議首席検察官。
	◎1945. 2.(昭和20)東京空襲の際に事件関係資料の写しを東京
	青山の軍法会議より持ち出されていた。この「匂坂資料」が1988.
	 2.(昭和63)長男の哲郎によりNHK側に公開された。しかし、
	事件記録は戦火をのがれ東京地方検察庁に引き継がれていた。
さきやま ゆういつ
	崎山 猷逸
	1901. 2.10(明治34)
	1961.12.21(昭和36)
	◇小説家。
さくげん しゅうりょう《さくげん しうりやう》
	策彦 周良
	1501
	1579(天正 7)
	◇室町末期の禅僧(臨済宗天竜寺派)。諱は周良、別号は怡斎・
	怡雲子・謙斎。丹波の人。管領細川氏の家臣井上宗信の3男。
	 9歳で天竜寺の心翁等安(インノウ・トウアン)に師事。天竜寺塔頭(タッ
	チュウ)妙智院の3世住職。
	 1537(天文 6)周防の大内義隆の要請で遣明副使(2年後帰国)、
	1547(天文16)正使として明(ミン)に渡る(3年後帰国)。
	 詩文に長じ、五山文学最後の巨匠。
	 著書は『初渡集』・『再渡集』・『南游集』など。
	(*)1501(明応10,文亀元)。
さくま かなえ《さくま かなゑ》
	佐久間 鼎
	1888(明治21)
	1970(昭和45)
	◇心理学者・音声学者・国語学者。
さくま げん
	佐久間 原
	1886. 1. 1(明治19)
	1945. 2.16(昭和20)
	◇米文学者。
さくま げんば
	佐久間 玄蕃
	⇒さくま もりまさ(佐久間 盛政)
さくま しょうざん《さくま しやうざん》
	佐久間 象山
	1811(文化 8. 2.11)
	1864(元治元. 7.11)
	◇江戸幕末の思想家・洋学者・兵学者。名は啓(ヒラキ)、字は
	子明、通称は修理、号は象山(「ぞうざん」とも読む)。国善の子。
	 信州松代(マツシロ)藩士。
	 幼少から父に儒学を学び、1833(天保 4)江戸に出て佐藤一斎
	の門に入り朱子学を学び、1836(天保 7)帰藩。1839(天保10)再
	び江戸に出て神田お玉ヶ池に象山書院を開き朱子学を教授し、
	また藩邸の学問所頭取となる。松崎慊堂(コウドウ)・藤田東湖・
	渡辺崋山らと交わる。
	 同年、蛮社の獄で渡辺崋山・高野長英らが逮捕され、象山の
	攘夷国防問題に対して関心が高まる。1841(天保12)藩主真田幸
	貫が老中ついで海岸防備掛となると、象山は顧問となり海外情
	勢を研究し『海防八策』を建言。
	 また1842(天保13)江川英龍の最初の門人となり西洋砲術を学
	ぶ。さらに蘭学に志し坪井言道・黒川良庵に師事し西洋技術採
	用による国防強化を志す。蘭書によって硝子(ガラス)製造・鉄鉱
	開発などを企て、西洋科学の応用による殖産興業をはかる。つ
	いで兵制・鉄砲も研究し、1848(弘化 5. 1.)洋式大砲を鋳造、
	1849(嘉永 2)には歩兵調練書を藩士に講ずる。オランダ語彙の
	編纂出版も企てる。
	 1851(嘉永 4)また江戸に出て塾を開き砲術兵学を教授し、門
	弟は5百人を超え、吉田松陰・勝海舟・小林虎三郎・坂本竜馬
	らが輩出する。
	 1853(嘉永 6)ペリー艦隊が浦賀に来航するに当たり老中首座
	の阿部正弘に「急務十事」を進言し避戦を進言。翌年、松代藩の
	軍議役として横浜警備の任務中、吉田松陰に密航を進め失敗し
	たことから松代に幽閉される。
	 蟄居9年の間も西洋学問技芸の研究に没頭。開国論の実力者
	として象山を招こうとする長州・土佐両藩主の運動により1862
	(文久 2)赦免されて藩の改革に当たる。
	 1864(元治元)幕命によって上洛、朝廷に開国進取と公武合体
	論を力説したため、攘夷派の浪士に刺殺される。
	 著書は『海防八策』・『荷蘭語彙』・『省ケン録』など。
	◎『海防八策』:「海岸要所に砲台を築くこと」、「強力な海軍
	を編成すること」など。
さくま つとむ
	佐久間 勉
	1879(明治12)
	1910. 4.15(明治43)
	◇明治後期の海軍大尉。福井県生れ。海軍兵学校卒。
	 1910(明治43)第六潜水艇艇長として山口県新港(岩国港)沖の
	周防灘で潜航訓練中、水没事故で遭難。艇内で死ぬまで部下を
	指揮し、事故の報告を書き続けて部下13名とともに全員殉職。
	◎軍歌『佐久間艇長』に「弾丸とびくる戦場に斃(タオ)るるのみ
	が勇ならず」と謳われる。
さくま ていいち
	佐久間 貞一
	1848(嘉永元. 3.15)
	1898.11. 6(明治31)
	◇実業家・秀英舎(現在の大日本印刷)の創業者。
さくま どうがん
	佐久間 洞巌
	1653(承応 2)
	◇江戸前・中期の儒者・書画家。名は義和、字は子拔、別号は
	容軒・太白山人。仙台生れ。
	(*)1736(享保21,元文元)。
さくま のぶもり
	佐久間 信盛
	生年不詳
	1582(天正10)
	◇安土桃山時代の武将。
さくま ほうし
	作久間 法師
	1878. 5. 3(明治11)
	1930. 3. 2(昭和 5)
	◇俳人・写生文家。本名は正雄。
さくま まさかず
	佐久間 政一
	1885. 1. 4(明治18)
	1949. 8.24(昭和24)
	◇ドイツ語学者。
さくま もりまさ
	佐久間 盛政
	1554(天文23)
	1583(天正11. 5.12)
	◇安土桃山時代の武将。初名は理介、通称は玄蕃(ゲンバ)で、
	玄蕃允(ゲンバノジョウ)と称し、豪勇から鬼玄蕃とも呼ばれる。父
	は盛次、母は柴田勝家の妹。
	 織田信長、のち伯父の柴田勝家に仕える。
	 勝家の先鋒となり、賤ヶ岳の戦に敗れて捕われて京都で斬首。
さくら むつこ
	桜 むつ子
	1921. 2.15(大正10)
	2005. 1.23(平成17)
	◇女優。本名は佐藤文子(フミコ)。東京市小石川区大塚生れ。
	 大塚尋常小学校、卒業。
	 松旭斎天勝一座・「あきれたぼういず」など浅草の舞台を経て、
	1950(昭和25)『頓珍漢桃色騒動』で映画デビュー。
	 1958.10.31(昭和33)東京放送のTVドラマ『わたしは貝にな
	りたい』で主人公の妻役。
さくらい おうそん
	桜井 鴎村(鴎:「區」+「鳥」)
	1872(明治 5. 6.26)
	1929. 2.27(昭和 4)
	◇翻訳家・児童文学者・教育者・実業家。本名は彦一郎。愛媛
	県生れ。明治学院卒業。渡米し語学に長じ、津田梅子とともに
	女子英学塾(津田塾大)を設立、幹事となる。
	 桜井忠温(チュウオン)の兄。
さくらい ただよし
	桜井 忠温
	⇒さくらい ちゅうおん(桜井 忠温)
さくらい ちゅうおん
	桜井 忠温
	1879. 6.11(明治12)
	1965. 9.17(昭和40)
	◇陸軍軍人・評論家・随筆家。本名は忠温(タダヨシ)、筆名は
	落葉。愛媛県松山市小唐人町(現:大街道1丁目)生れ。桜井信
	之の3男、桜井鴎村(オウソン)の弟。
	 1899(明治32)松山中学校卒業。陸軍士官学校卒業。1902(明
	治35)小尉に任官。
	 松山歩兵第22連隊の旗手として日露戦争に参加。1904. 8.
	(明治37)旅順功防戦で連隊が潰滅し自らも重傷を負った体験を、
	帰還後傷を養いながら戦記『肉弾』(1906. 4.<明治39>刊)を執
	筆、高く評価され十数ヶ国に翻訳紹介された。その後、『銃後』
	・『草に祈る』・『将軍乃木』などを執筆。
	 陸軍経理学校生徒隊長、京都・小倉師団副官などを歴任。
	 1918(大正 7)から七年間陸軍省新聞班長を勤め、1930(昭和
	 5)少将で退役。
	 太平洋戦争後、『哀しきものの記録』などを発表。
	◆墓は愛媛県松山市末広町の正宗寺。
さくらい てんだん
	桜井 天壇(櫻井 天壇)
	1879.10.18(明治12)
	1933. 9.10(昭和 8)
	◇評論家・ドイツ文学者。本名は政隆(マサタカ)。新潟県生れ。
	1904(明治37)東京大学独文科卒業。1909(明治42)八高教授。
	1912(大正元)ドイツに留学。
さくらい めいせき
	桜井 明石
	1865(慶応元. 9.25)
	1945. 4.12(昭和20)
	◇漢学者。本名は成明(ナリアキラ)。
さくらだ じすけ
	桜田 治助(一世)
	1734(享保19)
	1806(文化 3. 6.27)
	◇江戸後期の歌舞伎狂言作者。通称は笠屋(カサヤ)善兵衛、別号
	は柳井隣、成田屋(屋号)・左交(俳号)。はじめ田川のち津村の
	ち桜田と改姓。江戸本石町一丁目河岸の薪炭商の家に生れる。
	(5)別号は柳井隣。
	(11)別号は柳川隣。
	(16)柳井隣・花戸川と号した。
さくらだ たすく
	桜田 佐
	1901. 4.29(明治34)
	1960.12.20(昭和35)
	◇フランス文学者・児童文学者。
さくらだ ももえ
	桜田 百衛(櫻田 百衞)
	生年不詳
	1883. 1.18(明治16)
	◇ジャーナリスト・政治小説家。号は百華園主人。岡山県生れ。
	東京外国語学校ドイツ語科中退。
	(1)生年は1859(安政 6)または1857(安政 4)。
	(3)生年不詳。
	(5)生年は1859(安政 6)または1857(安政 4)。
	(9)生年は1859(安政 6)あるいは1857(安政 4)。
	(11)生年は1859(安政 6)とも1857(安政 4)とも。
	(13)生年不詳。1882. 1.(明治15)没。
さこみず ひさつね
	迫水 久常
	1902. 8. 5(明治35)
	1977. 7.25(昭和52)
	◇大蔵官僚・政治家。鹿児島県生れ。岡田啓介の娘婿。
	 1926(大正15)東京帝国大学法学部卒業。
さこん ますえ
	佐近 益栄
	1890. 8. 7(明治23)
	1930.12.14(昭和 5)
	◇新聞記者。旧姓は大田、号は江外。
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