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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6881.01

                 人   名   辞   典    《ろ》       編集:獨  澄旻

-------- ろ ----------------------------------------------------
ろうそどう えいき
	老鼠堂 永機
	1823(文政 6.10.10)
	1904. 1.10(明治37)
	◇俳諧師。通称は穂積善之、其角堂鼠肝(七世)、別号は阿心庵
	・善哉庵。
	(8)其角堂 永機(きかくどう えいき)。
ろうべん《らうべん》
	良弁(朗弁)
	 689(朱鳥 3)
	 773(宝亀 3.閏11.24)
	◇奈良時代の僧侶(華厳宗)。俗姓は百済氏、通称は金鐘(コンシュ)
	行者・金鷲菩薩、「りょうべん」とも。日本華厳(ケゴン)宗の第二
	祖。
	 伝説では二歳のときに母と桑畑にいて大鷲にさらわれ、大和
	の春日大社の前の杉(良弁杉)に捨てられた。義淵(ギエン)僧正に
	救われ、法相宗(ホッソウシュウ)を学ぶ。
	 のち奈良東山に隠棲(インセイ)し、 733(天平 5)金鐘寺(キンショウジ)
	を建立、聖武天皇より羂索院(ケンジャクイン)(三月堂)を賜る。
	  740(天平12)新羅僧審祥(シンジョウ)(華厳宗の開祖)を招き華厳
	を学び、『華厳経』を講説。
	  742(天平14)金鐘寺、大和国分寺に指定。
	  745(天平17)律師。
	  746(天平18)聖武天皇の東大寺建立に尽力し、金鐘寺を改め
	て東大寺とし初代の別当となる。
	  751(天平勝宝 3)少僧都。
	  756(天平勝宝 8)鑑真(ガンジン)とともに大僧都。
	  760(天平宝字 4. 8.)慈訓(ジキン)・法進とともに、退廃した
	仏教界の粛正のため僧階を4位13階に改めるべきことを奏上。
	  749〜 757頃、近江(オウミ)(滋賀県大津市石山)に石山寺を開
	基。
	  773(宝亀 4)没時、僧正に任じられる。
	(*) 749(天平21,天平感宝元,天平勝宝元)、 757(天平勝宝 9,
	天平宝字)。
ろうやま まさみち《らふやま まさみち》
	蝋山 政道
	1895(明治28)
	1980(昭和55)
	◇政治学者。群馬県生れ。
	 河合事件に際し東京帝国大学教授を辞任。
	 第二次世界大戦後、お茶の水女子大学学長などを歴任。
	 著書は『行政組織論』など。
ろじん
	魯迅
	1881(明治14)
	1936(昭和11)
	◇近代中国の文学者。本名は周樹人。
	 1902(明治35)日本に留学、仙台医学専門学校中退。東京で文
	学活動を開始。帰国後、多数の小説・評論を発表。国民党政府
	の思想弾圧に抵抗。
	 代表作『狂人日記』・『阿Q正伝』・『吶喊』・『故郷』な
	ど。作品は口語(白話)を用い内容も大衆的であり、死後に中国
	のゴーリキといわれている。
ろっかく うじより
	六角 氏頼
	⇒ささき うじより(佐々木 氏頼)
ろっかく さだより
	六角 定頼
	1495(明応 4)
	1552(天文21)
	◇室町後期の守護大名。本姓は佐々木、字は四郎、号は江雲、
	通称は弾正少弼。六角高頼(タカヨリ)の次男。六角義賢(ヨシタカ)の父。
	 はじめ相国寺慈照院に入り吉侍者(または亀侍者)と称する。
	兄氏綱の廃嫡により還俗し家督を継いで近江国栗太郡観音寺城
	に拠る。
	 1511(永正 8)第10代将軍足利義稙(ヨシタネ)の近侍となり、細川
	正賢を討って義稙を京都に迎える。
	 1521年、義稙が細川高国と対立し淡路に出奔、高国とともに
	足利義晴(ヨシハル)を擁立、播磨(ハリマ)にいた第12代将軍義晴(ヨシハル)
	を奉じて京都に入る。1525(大永 5)高国とともに浅井亮政(スケマ
	サ)を攻め、1532年京極高清(キョウゴク・タカキヨ)の調停で和睦。同年、
	山科本願寺を焼く。
	 1546(天文15)義晴の子義輝(ヨシテル)(第13代将軍)の元服親をつ
	とめ、管領に準じる処遇を受け、従四位下に叙せられる。
	(*)1521(永正18,大永元)、1532(享禄 5,天文元)。
ろっかく しすい《ろくかく しすい》
	六角 紫水
	1867(慶応 3. 8.20)
	1950(昭和25. 4.15)
	◇明治〜昭和期の漆芸家。本名は注多良。広島県生れ。
	 1893(明治26)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。母校の
	助教授となる。1904(明治37)岡倉天心とともに渡米、ボストン
	博物館東洋部に勤め、1908(明治41)ヨーロッパを経て帰国。
	 日本美術院会員・東京美術学校教授・芸術院会員。
	 楽浪漆器など古代の漆技を研究し、白漆を完成。
	(6)白漆を完成……。
	(16)白磁を完成……。
ろっかく たかより《ろくかく たかより》
	六角 高頼
	1462(寛正 3)
	1520(永正17.10.)
	◇室町後期の守護大名。字はは四郎、通称は大膳太夫、本姓は
	佐々木。六角満高の子。
	 近江国栗太郡観世音城に拠り、嘉吉の乱に赤松満祐(ミツスケ)を
	攻める。応仁の乱にも山名持豊(モチトヨ)に属す。乱が地方化する
	に従って、高頼ら近江の国人が皇室・公卿・寺社領・幕府領の
	荘園を押領して領主となり、幕府と対立。1487年、第9代将軍
	義尚(ヨシヒサ)・管領細川政元らに攻められ、甲賀から伊勢に逃れ
	る。勢力を回復し、1491(延徳 3)新しく将軍になった第10代将
	軍義稙(ヨシタネ)や細川政元・畠山政長らと戦い、1492年再び甲賀
	山中に逃れる。家臣伊庭貞隆や九里氏の叛乱を鎮め勢力を回復。
	 1508(永正 5)大内義興(ヨシオキ)が義稙を擁立したため、第11代
	将軍義澄(ヨシズミ)が高頼を頼り近江に逃れ、義澄を援けて義稙
	を奉じる義興と戦い、のち義稙と和睦する。
	(2)近江国栗太郡観音寺城に拠り,……。のち義稙と和睦。
	(16)近江観世音城に拠り,……。のちには義稙も庇護した.
	(*)1487(文明19,長享元)、1492(延徳 4,明応元)。
ろっかく よしかた《ろくかく よしかた》
	六角 義賢
	1521
	1598(慶長 3. 3.12)
	◇戦国時代の守護大名。字は四郎。六角定頼(サダヨリ)の子。近
	江国南部を領する。
	 1539(天文 8)従五位下左京大夫。1549(天文18)将軍足利義晴
	を援(タス)けて三好長慶と摂津国江口で戦い敗退。義晴の没後、
	その子将軍義輝を援ける。1558年、義輝を奉じて三好の軍勢と
	京都白河で戦い、和議が成立し義輝とともに入洛。1559(永禄
	 2)子の義治(義弼)に家督を譲り、剃髪し抜関斎承禎と号する。
	1563(永禄 6)後藤氏父子を暗殺し内乱が起き(観音寺騒動)、衰
	退する。
	 1568(永禄11. 9.)足利義昭(のち将軍)を奉じて入洛しようと
	した織田信長に対抗、浅井長政(ナガマサ)に近江国栗太郡観音寺
	城を攻められ、甲賀山中に敗走。のち三好・浅井氏らと結び、
	信長軍の羽柴秀吉の長浜城(ナガハマジョウ)・柴田勝家の長光城(チョ
	ウコウジョウ)に戦ったが、1570年降伏。各地を転々とし、病没。こ
	れをもって六角氏が滅ぶ。
	(*)1521(永正18,大永元),1558(弘治 4,永禄元),1570(永禄13,
	元亀元)。
ろれんそ
	ロレンソ
	1526(大永 6)
	1592
	◇安土桃山時代の日本人イエズス(ヤソ)会士。本名は了西(ロ
	レンソの当て字か)、肥前の生れといわれる。
	 片眼は全盲、他眼は半盲の琵琶法師であったが、1551(天文
	20)ザビエルの教えを受けて受洗。ザビエルの帰国後、1559(永
	禄 2)ガスパル・ビレラに従って上洛し、第13代将軍足利義輝
	(ヨシテル)の許可を得て布教する。1563(永禄 6)イエズス会に入り、
	イルマン(修道士)となる。1569(永禄12)フロイスに従い織田信
	長に謁見、席上で朝山日乗と宗論を行う。のち大坂城で豊臣秀
	吉にも謁見する。
	(2)トルレス=ヴィレラに従い,……。晩年は肥前国大村で,説
	教を続けながら,余生を送った。
	(6)トレスに学び,ビレラとともに近畿を布教。長崎で没。
	(16)ガスパル=ビレラに従って上京し,……。
	(*)1592(天正20,文禄元)。
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