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人 名 辞 典 《り》 編集:獨 澄旻
-------- り ----------------------------------------------------
り こうしょう《り こうしやう》
李 鴻章
1823(文政 6)<道光 3>
1901(明治34)<光緒27>
◇中国清末の政治家。字は少(「艸」冠+「全」:補助5584)、号は
漸甫・儀叟。安徽省合肥生れ。
曽国藩(ソウコクハン)の下で江蘇巡撫(ジュンブ)となり、郷勇淮軍(ワ
イグン)を率い太平天国の乱・捻匪(ネンピ)を平定。1870(明治 3)
曽国藩のあとをついで直隷総督兼北洋大臣となり、外交実権を
握り洋務運動を推進。
1871(明治 4)日清修好条規、1885. 4.(明治18)朝鮮問題に関
する天津条約を締結。1888(明治21)北洋艦隊を創設。1895. 4.
17(明治28)日清講和条約の全権として下関条約に調印。
戊戌(ボジュツ)政変後、商務大臣・両広総督。1900(明治33)義
和団を弾圧(北清事変)、1901(明治34)列強と辛丑(シンチュウ)条約
(北京議定書)締結に尽力。
西洋技術を導入し軍事・運輸・紡績などの近代工業を興(オコ)
したが、藩属国の喪失・派閥勢力の増大・政治経済的利権の提
供などに終始し、中国の半植民地化を深化させた。
り しゅんしん
李 舜臣
1545(天文14)
1598(慶長 3)
◇李朝朝鮮中期の水軍の名将。Yi Sunshin(イ・スンシン)、諡
は忠武公。漢城(現:ソウル)出身。
1576(天正 4)武科に合格し軍人となり、女真族との戦いなど
で活躍。1591(天正19)全羅左道水軍節度使。
1592(文禄元)文禄の役(壬辰倭乱)で水軍を率いて加藤清正・
九鬼嘉隆ら豊臣秀吉による日本の侵攻軍を破る。侵攻軍の撤退
後、軍功により忠清・全羅・慶尚三道水軍統制使に任命される
が、慶尚右道水軍節度使の元均らに中傷されて失脚。
1597(慶長 2)慶長の役(丁酉倭乱)では白衣従軍(一兵卒で従
軍)。元均が巨済島の海戦で敗死すると再度水軍統制使を命じ
られる。1598(慶長 3.11.)麗水沖の戦(露梁海峡の海戦)で島津
義弘らの軍に勝利するが、流れ弾に当たり戦死。
◎韓国五百ウォン札の肖像。
り しょうばん
李 承晩
1875(明治 8)
1965(昭和40)
◇朝鮮の政治家・韓国大統領。I Sungman(イ・スンマン)。黄海道平
山郡の貴族生れ。
1904(明治37)渡米。ワシントン大学卒業。朝鮮が日本統治下
にあり、アメリカで独立運動に従事。1919(大正 8)三・一独立
運動の中、上海で結成された大韓民国臨時政府の国務総理とな
るが、派閥抗争で間もなく罷免。米国に亡命。
第二次大戦後、1945.10.(昭和20)米国より帰国し、同じく中
国から帰国した金九(キムグ)らと協力、米国の援助を受けて1948.
6.(昭和23)大韓民国を樹立し国民会議成立とともに初代大統
領となる。米国の対日単独講和直前、1952. 1.18(昭和27)海洋
主権宣言(李承晩ライン)を発表。1952年再選。あまりに親米的
反共独裁政治のため、1957. 5.反李承晩闘争が起きる。
1960. 3.(昭和35)大統領に四選したが、学生を中心とする不
正選挙糾弾の民衆蜂起(四月革命)で失脚し、ハワイに亡命のま
ま客死。
り せいけい
李 成桂
1335(<南>建武 2,<北>建武 2)
1408(応永15)
◇李氏朝鮮王朝の始祖。字は君晋、号は松軒、諡は太祖。
高麗(コウライ)末期、武将として和寇(ワコウ)・女真などの国防に
従事。中国が元から明に交替の過渡、1388(<南>元中 5,<北>嘉
慶 2)明への遠征軍の主将となるが、途中の威化島から引き返
し、都に入り親元派を抑え実権を握る。1392(<南>元中 9,<北>
明徳 3)高麗を倒して新王朝(1392〜1910)を興し、翌年明の封
冊(ホウサク)を受け、国号を朝鮮と改め首都を漢陽(ソウル)とする。
り たいけい
李 退渓
1501
1570
◇朝鮮李朝の儒学者。名は滉(コウ)、字は景浩。真宝の人。
陶山書院に拠って嶺南学派を興し、日本の儒学の発達に大き
な影響を与えた。
著書は『自省録』など。
(*)1501(明応10,文亀元),1570(永禄13,元亀元)。
◎朝鮮読みは「イ・テーゲー」。
韓国の1000ウォン札の肖像。
りーがる てんさい
リーガル 天才
1924. 2.26(大正13)
2004.12.22(平成16)
◇漫才師。本名は曽我忠一(チュウイチ)。神奈川県出身。
相方はリーガル秀才。
1991(平成 3)紫綬褒章、受章。
パーキンソン症候群で死去。
りきたけ つねじ
力武 常次
1921. 3.30(大正10)
2004. 8.22(平成16)
◇地震学者。東京出身。
東京帝国大学理学部地球物理学科、卒業。
1962(昭和37)東京大学地震研究所教授。
1970.11.〜71. 9.(昭和45〜昭和46)東京大学地震研究所所長。
1974(昭和49)アメリカのコロラド大学客員教授。
東京工業大学理学部教授・日本大学文理学部教授。
1993(平成 5)勲二等瑞宝章、受章。
著書は『地震予知論入門』・『地球電磁気学』など。
りきどうざん《りきだうざん》
力道山
1924.11.14(大正13)
1963.12.15(昭和38)
◇力士・プロレスラー。旧名は金信洛(キム・シンラク)。朝鮮咸鏡南
道(現:北朝鮮)生れ。戸籍上は百田光浩(モモタ・ミツヒロ)、長崎県大
村市の農民百田巳之助・たつの3男。先妻との子、金永淑(キム・
ヨンスク)の父。
1940(昭和15)初土俵、1946(昭和21)入幕、1949(昭和24)関脇
に昇進、1950. 8.(昭和25)自ら廃業。
旦那の博徒、新田新作の新田建設資材部長となり、会社の裏
地にプロレス道場の提供を受ける。
1951(昭和26)秋、プロレスに転向、1952. 2.(昭和27)武者修
業に渡米、1953(昭和28)帰国して日本プロレス協会を発足。
1963. 6.(昭和38)日航スチュワーデス田中敬子と結婚。
大日本興業社と東声会の縄張り争いで、1963.12. 8(昭和38)
赤坂のキャバレーで大日本興業社のチンピラに刺されて入院、
12.15死亡。
りきゅう《りきう》
利休
⇒せんのりきゅう(千 利休)
りくにょ
六如
1734(享保19)
1801
◇江戸中期の天台宗の学僧・漢詩人。法名は慈周、字は六如、
号は白楼。近江の人。
(*)1801(寛政13,享和元)。
りちゅう てんのう《りちゆう てんわう》
履中 天皇
生年不詳
没年不詳
◇大和時代の第17代天皇。名は去来穂別尊(イザホワケノミコト)。仁徳
(ニントク)天皇の皇子。
◎『宋書』倭国伝の倭王讃(サン)にあたるという説がある。讃は
他に仁徳または応神天皇とする説もある。
りゅう しんたろう《りふ しんたらう》
笠 信太郎
1900.12.11(明治33)
1967.12. 4(昭和42)
◇経済評論家。幼名は与三郎(與三郎)。福岡市生れ。
1925(大正14)東京商大(現:一橋大)卒業。
りゅう ちしゅう《りふ ちしゆう》
笠 智衆
1904. 5.13(明治37)
1993. 3.16(平成 5)
◇俳優。熊本県玉名郡玉水村(現:天水町)立花(タチバナ)生れ。
浄土真宗本願寺派の来照寺の次男として生れる。
玉水村立玉水尋常小学校・熊本県立玉名中学校を卒業。
東洋大学印度哲学倫理学科に入学。
1925. 2.(大正14)松竹キネマ蒲田撮影所・俳優研究所第一期
生に合格・入所。
1925. 7.(大正14)父が死去し、帰郷して住職を継ぐ。
1926. 1.(大正15)住職を兄に譲り、撮影所に復帰。
1975(昭和50)勲四等旭日小綬章を受章。
出演作品は1936(昭和11)『一人息子』・1942(昭和17)『父あ
りき』・1951(昭和26)『カルメン故郷に帰る』・1951(昭和26)
『麦秋』・1954(昭和29)『二十四の瞳』・1969(昭和44)〜『男
はつらいよ』シリーズ・1970(昭和45)『家族』など。
りゅうかてい たねかず《りうかてい たねかず》
柳下亭 種員
1807(文化 4)
1893(明治26)
◇合巻作者。柳亭種彦の門人。
りゅうこう
隆光
1649(慶安 2)
1724(享保 9)
◇江戸中期の新義真言宗の僧。大和の人。
第5代将軍徳川綱吉とその生母桂昌院の帰依を得る。
1688年、江戸神田橋外の護持院を開山。のち大僧正・僧録司
(ソウロクシ)。
(*)1688(貞享 5,元禄元)。
◎生類憐みの令を進言したといわれている。
りゅうすいてい たねきよ
柳水亭 種清
1821(文政 4)
1907. 3.(明治40)
◇戯作者。
りゅうたつ
隆達
⇒たかさぶ りゅうたつ(高三 隆達)
りゅうてい たねひこ《りうてい たねひこ》
柳亭 種彦
1783(天明 3. 5.12)
1842(天保13. 7.19)
◇江戸後期の読本(ヨミホン)・合巻(ゴウカン)作者。本名は高屋知久
(トモヒサ)、通称は彦四郎、筆名は偐紫楼(ゲンシロウ)・足薪翁(ソクシンオ
ウ)・木卯(ボクウ)、狂歌の狂名は心の種成(ココロノタネナリ)・一説に柳
の風成(ヤナギノカゼナリ)のち心の種俊。江戸生れ。食禄200俵小普
請組の直参(ジキサン)旗本。
山東京伝に私淑し読本・合巻を著す。
先代の第11代将軍徳川家斉(イエナリ)を風刺したとされ、天保改
革で処罰。それが因で病死。
代表作は合巻『偐紫田舎源氏(ニセムラサキイナカゲンジ)』など。
りゅうてい りじょう《りゆうてい りぢやう》
滝亭 鯉丈
生年不詳
1841(天保12. 6.10)
◇江戸後期の滑稽本作者。本名は池田八右衛門。鯉丈の婿入り
先の池田家は、元三〇〇石の旗本だったがすでに禄(ロク)がなかっ
た。
りょうかん《りやうくわん》
良寛
1758(宝暦 8)
1831(天保 2. 1. 6)
◇江戸後期の禅僧・歌人・書家。本名は山本栄蔵・文孝、字は
曲(マガリ)、出家して良寛、号は大愚。越後国(新潟県)出雲崎(イ
ズモザキ)の名主(ナヌシ)兼神職の家に長男として生れる。
1779(安永 8)22歳のとき跡継ぎを弟に譲り出家。同年、備中
国(岡山県)玉島の曹洞宗円通寺の住職・国仙和尚の巡錫(ジュンシャ
ク)にあい師事して玉島におもむき十余年修業。九州・四国地方
を行脚(アンギャ)しのち出雲崎に帰って付近の寺々に転住、1804
(文化元)47歳のときに国上山(クガミヤマ)中腹の五合庵に定住。
1816(文化13)59歳のとき体力の衰えのため山麓の乙子(オトゴ)
神社境内の庵に移住。1826(文政 9)69歳のとき島崎の木村元
右衛門の邸内に移住、29歳の貞心尼を弟子とする。
万葉調の和歌で知られる。著書『蓮(ハチス)の露』・『僧良寛
歌集』・『良寛漢詩集』など。
◆良寛忌[旧暦 1. 6]。
りょうかん《りやうくわん》
良観
⇒にんしょう(忍性)
りょうげん《りやうげん》
良源
912(延喜12)
985(永観 3. 1. 3)
◇平安中期の天台宗の高僧・天台宗中興の祖。名は良源、諡号
(シゴウ)は慈慧(ジエ)大師、元三(ガンザン)大師・角(ツノ)大師とも
呼ばれる。俗姓は木津。近江の人。
12歳の時に比叡山で出家し、三塔の一つ横川(ヨカワ)で修行。
954(天暦 8)横川に首楞厳院(シュリョウゴンイン)を建立。
966(康保 3)第18代天台座主(ザス)、さらに行基以来の大僧
正となる。
藤原師輔(モロスケ)らの援助を受けて焼失した比叡山延暦寺を復
興し、「天台宗中興の祖」と称せられる。
源信(ゲンシン)の師。
◎ 985(永観 3)の正月三日に入寂したことから「元三大師」と呼
ばれる。
「角大師」は良源の容貌が魁偉(カイイ)であったことからで、二
本の角の生えた夜叉姿の良源の木版刷り絵符は魔除けとして戸
口などに貼る風習がある。
如意輪観世音の化身ともいわれる。
◎貴族の子弟を優遇して山門(サンモン)寺門(ジモン)の分裂・僧兵横
行の因を作り、僧兵を始めた人物といわれる。
りょうちゅう《りやうちゆう》
良忠
1199(正治元)
1287(弘安10. 7. 6)
◇鎌倉中期の僧侶(浄土宗)。浄土宗鎮西義の第三祖。俗姓は藤
原氏、字(アザナ)は然阿、勅諡(チョクシ)は記主禅師。石見国(現:島
根県)三隅の僧侶の子。
15歳で出雲(現:島根県)鰐淵寺で出家。比叡山で諸宗を修め、
道元から禅を学ぶ。
1236(嘉禎 2)筑後(現:福岡県)上妻庄の天福寺に鎮西義の弁
長(ベンチョウ)を訪ね、弟子となる。翌年、手印を授けられる。
のち東国各地(上野・下野・常陸・上総・下総)の教化に努め、
大仏朝直の帰依をうけて、1260(文応元)鎌倉に入り悟真寺(の
ち光明寺)を建立。
著書は『観経疏伝通記』・『浄土宗要集』など多数。
◎没後、関東の白旗派(シラハタハ)・藤田派・名越派(ナゴエハ)と、京
都の三条流・一条流・小幡流の六流に分化。
りょうにん《りやうにん》
良忍
1073(延久 5)
1132
◇平安後期の僧・融通念仏宗の開祖。諡号(シゴウ)は聖応大師。
尾張の人。
比叡山で出家し、東塔阿弥陀房の堂僧を勉(ツト)め、良賀に天
台を学び、園城寺の禅仁から戒法を、仁和寺の永意から秘密灌
頂を受ける。
1094年、京都大原に隠棲して来迎院を建立。念仏三昧に終始
し、声明(ショウミョウ)を大成し、天台声明の中興の祖と仰がれる。
1117(永久 5)弥陀の示現をうけて融通念仏を創始、一人の念
仏が万人に融通すると説き、諸国を遍歴して教化。
1127(大治 2)摂津国(大阪市)住吉に修楽寺(のちに大念仏寺)
を建立し、根本道場とする。
(*)1094(寛治 8,嘉保元),1132(天承 2,長承元)。
◎偈(ゲ)「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」
りょうべん《りやうべん》
良弁
⇒ろうべん(良弁・朗弁)
りん しへい
林 子平
⇒はやし しへい(林 子平)
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