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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6801.02

                 人   名   辞   典    《ら》       編集:獨  澄旻

-------- ら ----------------------------------------------------
ら そさんじん
	羅 蘇山人
	1881(明治14)(清国:光緒 7)
	1902. 3.24(明治35)(清国:光緒28)
	◇俳人。本名は羅朝斌(チョウブ)、別号は聴松・臥雲(ガウン)。父
	は清国の公使館通訳羅庚齢、母は日本人。
	 湖北省に赴任するが、胸疾のため東京に戻る。
らい さんよう《らい さんやう》
	頼 山陽
	1780(安永 9.12.27)
	1832(天保 3. 9.23)
	◇江戸後期の漢学者。本名は頼襄(ライ・ノボル)、字は子成、通称
	は久太郎、別号は三十六峰外史。大阪の江戸堀に生れ、のち安
	芸(アキ)(広島)に移る。朱子学者頼春水(シュンスイ)の子、頼支峰(シホ
	ウ)・頼三樹三郎(ミキサブロウ)の父。
	 江戸で尾藤二洲に師事し、朱子学・国学を学ぶ。21歳のとき
	広島藩を脱藩し監禁。のち京都に出て、『日本外史』を書き松
	平定信に献じた。
	 著書は『日本外史』・『日本政記』・『日本楽府(ガフ)』な
	ど、明治維新の思想に大きな影響を与える。
らい しほう
	頼 支峰
	1823(文政 6.11. 7)
	1889. 7. 8(明治22)
	◇漢学者・漢詩人。本名は復。頼山陽(サンヨウ)の第二子。
らい みきさぶろう《らい みきさぶらう》
	頼 三樹三郎
	1825(文政 8)
	1859(安政 6)
	◇江戸幕末の尊攘派志士・儒学者。頼山陽(サンヨウ)の子、頼支峰
	(シホウ)の弟。
	 京都で梁川星巌(ヤナガワ・セイガン)・梅田雲浜(ウンビン)らと交わる。
	 尊皇攘夷運動に活躍したが、安政の大獄で死罪となる。
らいあ
	礼阿
	生年不詳
	1297(永仁 5)
	◇鎌倉時代の僧侶。諱は然空。
	 浄土宗一条派(西谷派)の祖。
らいけん
	頼賢
	1196(建久 7)
	1273(文永10)
	◇鎌倉中期の真言宗の僧侶。
らいでん ためえもん《らいでん ためゑもん》
	雷電 為右衛門
	1767(明和 4)
	1825(文政 8)
	◇江戸後期の力士。幼名は太郎吉。信濃の人。
	 1784(天明 4)江戸に出て力士浦風林右衛門に入門し、谷風の
	内弟子となる。
	 1788(天明 8)雲州松平侯にかかえられる。
	 1790(寛政 2)冬、関脇つけ出しで初土俵を踏み、優勝。
	 1796(寛政 8)大関(当時の最高位)。
	 1811(文化 8)引退するまでの大関16年間の全32場所中、254
	勝10敗という無類の強豪ぶりを発揮。
	◎身長六尺五寸(197センチメートル)、体重四十五貫(169キロ
	グラム)。現存する手形は長さ25センチメートル・横18センチ
	メートル。
	 土俵上で相手を投げ殺したことがあったため、大関力士で土
	俵入りの資格を持つ横綱に成れなかったと言う。
らぐーざ
	ラグーザ
	1841(天保12)
	1927(昭和 2)
	◇イタリアの彫刻家。Vincenzo Ragusa。
	 1876(明治 9)御雇外人教師として絵画のアォンタネージ・図
	案のカッペルレッティとともに来日、工部大学校付属美術学校
	教授となる。
	 夫人お玉も洋画家として活躍。
	 1882(明治15)夫人とともに帰国。
	 代表作『清原玉女像』など。
	(25)没年は1927。
らぐーざ たま
	ラグーザ 玉
	1861(文久元)
	1939(昭和14)
	◇明治〜昭和初期の洋画家。漆工家清原英之助の妹。江戸芝生
	れ。
	 1878(明治11)工部大学校美術学校教師のイタリア人彫刻家ビ
	ンチェンツォ・ラグーザのモデルとなる。1882(明治15)ラグー
	ザが帰国する際、ともにイタリアに渡る。
	 パレルモ市立工芸美術学校で洋画を学び、同校の教授となる。
	1889(明治22)ラグーザと結婚。1928(昭和 3)夫と死別し、5年
	後の1933(昭和 8)帰国。
らくすまん
	ラクスマン
	⇒らっくすまん(ラックスマン)
らっくすまん
	ラックスマン
	1766(明和 3)
	1796(寛政 8)?
	◇帝政ロシアの陸軍軍人。名はアダム・ラックスマン(Adam 
	Kyrilovich Laksman)。植物学者キリル・ラックスマンの子。
	 エカテリーナ2世から日露国交締結の命を受け、1792(寛政
	 4. 9.)ロシア最初の通商使節として、エカテリーナ号で根室
	に来航、函館に赴いて漂流者大黒屋幸太夫ら3名を送還する。
	1793(寛政 5)松前で幕府目付石川忠房らと交渉し、江戸直航を
	拒絶され、通商のことは長崎に於いて議する旨の書簡を得ただ
	けでオホーツクに帰港する。
	 のち1804(文化元)レザノフが長崎に来航、正式に通商を求め
	る。
	(25)Kirilovich。
	◎ラックスマンの来航以来、国内の海防の必要と開国の是非が
	盛んに論じられた。
らふかでぃお はーん
	ラフカディオ ハーン
	⇒こいずみ やくも(小泉 八雲)
らふかでぃお へるん
	ラフカディオ ヘルン
	⇒こいずみ やくも(小泉 八雲)
らん いくじろう《らん いくじらう》
	蘭 郁二郎
	1913. 9. 2(大正 2)
	1944. 1. 5(昭和19)
	◇小説家。本名は遠藤敏夫。1943(昭和18)海軍報道班員として
	台湾におもむき、飛行機事故により死去。
らんけい どうりゅう《らんけい だうりゆう》
	蘭溪 道隆
	1213
	1278
	◇鎌倉中期の宋僧(臨済宗)・大覚派(建長門徒)の祖。諱(イミナ)
	は道隆、道号(ドウゴウ)は蘭渓。宋の西蜀(現:中国四川省)の人。
	諡号は大覚禅師。
	 13歳で出家し、無明慧性(ムミョウ・エショウ)の法を嗣(ツ)ぐ。
	 1246(寛元 4)33歳で弟子とともに来日。筑前円覚寺・京都泉
	涌寺(センニュウジ)の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格
	的な臨済宗を広める。
	 1253(建長 5)北条時頼(トキヨリ)によって建長寺が創建されると
	招かれて開山となる。
	 のち京都建仁寺(ケンニンジ)・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持と
	なり、一時、讒言により甲斐(現:山梨県)に配流。
	 再び建長寺に帰り同寺で没した。
	(*)1213(建暦 3,建保元)、1278(建治 4,弘安元)。
	◎弟子の育成に厳格なため、日蓮などから批判・中傷される。
	◎大覚禅師は日本最初の勅諡(チヨクシ)。
らんしんぐ
	ランシング
	1864
	1928(昭和 3)
	◇アメリカの政治家。Robert Lansing。
	 1915(大正 4)国務長官となる。
	 1917.11.(大正 6)石井・ランシング協定を締結。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
	◎石井は大隈内閣の外務大臣で特命全権大使の石井菊次郎。
らんせつ
	嵐雪
	⇒はっとり らんせつ(服部 嵐雪)
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