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人 名 辞 典 《おさ》 編集:獨 澄旻
-------- おさ --------------------------------------------------
おさかべ しんのう《おさかべ しんわう》
刑部 親王
⇒おさかべのみこ(忍壁 皇子)
おさかべ しんのう《おさかべ しんわう》
忍壁 親王
⇒おさかべのみこ(忍壁 皇子)
おさかべのみこ
忍壁 皇子
生年不詳
705(慶雲 2. 5. 7)
◇白鳳時代の皇族。忍坂部皇子・忍壁親王(シンノウ)・刑部(オサカベ)
親王とも。天武天皇の第9皇子、磯城皇子(シキノミコ)・泊瀬部皇
女・託基皇女の兄。
672[弘文元. 6.]壬申の乱が勃発すると父大海人皇子(天武
天皇)に従って東国に赴く。
681[天武 9]天武天皇の命で帝紀の編集に当たる。
700[文武 4]文武天皇の命で藤原不比等(フヒト)らとともに大
宝律令の編集を主宰、翌 701(大宝元. 8.)完成。
おざき がくどう
尾崎 学堂
⇒おざき ゆきお(尾崎 行雄)
おざき かずお《をざき かずを》
尾崎 一雄
1899.12.25(明治32)
1983. 3.31(昭和58)
◇昭和期の小説家。三重県度会(ワタライ)郡宇治山田町生れ。
三つの小学校を経て神奈川県立第二中学校入学、1917(大正
6)卒業。早稲田高等学院を経て、1924(大正13)早稲田大学国
文科入学、1927(昭和 2)卒業。
志賀直哉に師事。1937(昭和12)『暢気眼鏡(ノンキメガネ)』で芥
川賞を受賞。
1944(昭和19)胃潰瘍による大出血で倒れる。
1964(昭和39)芸術院会員。
1975(昭和50)回顧録『あの日この日』で読売文学賞を受賞。
おざき きはち
尾崎 喜八
1892. 1.31(明治25)
1974. 2. 4(昭和49)
◇大正・昭和期の詩人・随筆家。東京築地生れ。
1909(明治42)京華商業学校卒業。
(1)没日は 2. 7。
(5)没日は 2. 4。東京京橋の湊町(ミナトチョウ)生れ。
(8)没日は 2. 4。
おざき きゅうや
尾崎 久弥
1890. 6.28(明治23)
1972. 6. 2(昭和47)
◇近世文学研究家。
おざき こうこ
尾崎 孝子
1897. 3.25(明治30)
1970. 4.22(昭和45)
◇歌人。本名はカウ。
おざき こうよう《をざき こうえふ》
尾崎 紅葉
1867(慶応 3.12.16)
1903.10.30(明治36)
◇小説家・俳人。本名は徳太郎、別号は縁山・戯作堂(ゲサクドウ)
・半可通人・愛黛道士(アイタイドウシ)・素蕩夫・花紅冶史・花痩(カ
ソウ)源悪太郎・芋太郎・狂文亭・十千万堂(トチマンドウ)・十千万・
閑鼠、ただし愛黛道士と花痩はのちに友人・弟子に贈った。江
戸芝仲門前生れ。父は幇間(ホウカン)で牙彫(ゲボリ)の名人惣蔵。
1888. 9.(明治21)東京大学法科入学、1889. 9.(明治22)同和
文科一年に転科、1890. 7.(明治23)学年試験に二度落第して退
学。
1885(明治18)山田美妙らと硯友社を結成し、回覧雑誌「我楽
多文庫」を創刊、1888(明治21)印刷し一般に発売。1889(明治22)
『二人比丘尼色懺悔(ニニンビクニイロザンゲ)』が出世作となる。在学
のまま読売新聞社に入社。
代表作は『金色夜叉(コンジキヤシャ)』。
門下生は泉鏡花、徳田秋声ら。
(1)生年は1867(慶応 3)。
(3)生年は1867(慶応 3)。
(5)生年は1868(慶応 3)。12.17出生説もある。
(6)生年は1867/68。
(8)慶応 3.12.16は太陽暦では1868. 1.10に当たる。なお、一
説では慶応 3.12.27の出生とする。
(11)生年は1867(慶応 3)。12.27出生説もある。
(13)生年は1867(慶応 3)。
◆墓は東京都港区の青山霊園。
◆紅葉忌(十千万堂忌)[10.30]。
◆尾崎紅葉祭[ 1.17]静岡県熱海市の海岸にある『金色夜叉』
の碑と「お宮の松」の前で、追悼祭が行われる。
◆塩原温泉まつり[ 9.18〜 9.19]『金色夜叉』で塩原を名高く
した紅葉をしのぶ感謝祭。
おざき しろう《をざく しらう》
尾崎 士郎
1898. 2. 5(明治31)
1964. 2.19(昭和39)
◇昭和期の小説家。愛知県幡豆郡横須賀村(現:吉良町内)生れ。
1917(大正 6)早稲田大学政治科中退。
1922(大正11)宇野千代と結婚、1933(昭和 8)離婚。
1944(昭和19)徴用されて陸軍宣伝班員としてフィリピンに従
軍。
代表作は1935(昭和10)『人生劇場』。
(5)早大政治経済科に進み(大正八年除名処分を受けた)、……。
(6)早大政治科中退。
◆瓢々忌<ヒョウヒョウキ>[ 2.19]『人生劇場』の主人公青成瓢吉から。
おざき ひろみち
小崎 弘道
⇒こざき ひろみち(小崎 弘道)
おざき ほうさい《をざき はうさい》
尾崎 放哉
1885. 1.20(明治18)
1926. 4. 7(大正15)
◇俳人。本名は秀雄。鳥取市生れ。
県立第一中学校・第一高等学校を経て、1908(明治41)東京大
学法科卒業。
著書は句集『大空』など。
(5)明治四二東大法学部卒業。
◆放哉忌[ 4. 7]。
おざき ほずみ
尾崎 秀実
⇒おざき ほつみ(尾崎 秀実)
おざき ほつみ《をざき ほつみ》
尾崎 秀実
1901. 4. 1(明治34)
1944.11. 7(昭和19)
◇昭和前期の新聞記者・評論家。筆名は白川次郎。草野源吉。
東京生れ。評論家尾崎秀樹の兄。
台北で小・中学時代を送る。東京大学卒業後、1925(大正14)
朝日新聞社に入社、1928.11.(昭和 3)上海(シャンハイ)特派員とな
り中国問題を研究するかたわら中国の文学団体創造社グループ
に接近。1929(昭和 4)アグネス・スメドレー女史を通じてリヒャ
ルト・ゾルゲのコミンテルン諜報機関に参加。1932(昭和 7)帰
国。
1937(昭和12)昭和研究会に入る。1938(昭和13)朝日新聞社を
退社し、満州鉄道の東亜経済調査局嘱託となり中国問題を科学
的に研究。中国問題への造詣を買われ第1次近衛文麿のブレー
ンとなり、ソ連との開戦を阻止。
1941.10.15(昭和16)ゾルゲ事件によって国際スパイとして逮
捕。
1944(昭和19)ゾルゲとともに死刑。
著書は1938(昭和13)刊行『現代支那批判』・『現代支那論』
・『最近日支関係史』・1946(昭和21)刊獄中書簡集『愛情はふ
る星の如く』など。
(2)おざき ほつみ。1925(大正14)朝日新聞社に入社……。
(6)おざき ほつみ。1926〜38年朝日新聞社に勤務……。
◎戸籍上の誕生日は 5. 1。
おざき ほづみ《をざき ほづみ》
尾崎 秀実
⇒おざき ほつみ(尾崎 秀実)
おざき まさよし《をざき まさよし》
尾崎 雅嘉
1755(宝暦 5)
1827(文政10)
◇江戸後期の国学者。号は蘿月庵・華陽など。大坂の人。
大坂で書店を営み、また歌をよくした。
著書は『群書一覧』・『百人一首一夕話』・『古今集鄙言』
など。
おざき みどり
尾崎 翠
1896.12.20(明治29)
1971. 7. 8(昭和46)
◇小説家。鳥取県岩美生れ。日本女子大学国文科に学ぶ。
おざき めいどう
尾崎 迷堂
1891. 8.19(明治24)
1970. 3.13(昭和45)
◇俳人・僧侶。本名は光三郎(コウサブロウ)。
おざき ゆきお《をざき ゆきを》
尾崎 行雄
1858(安政 5.11.20)
1954.10. 6(昭和29)
◇明治〜昭和前期の政治家・新聞記者。号は愕堂(ガクドウ)・
咢堂・学堂・卒翁。「憲政の神様」と呼ばれた。慶応義塾大学中
退。
1882(明治15)立憲改進党に参加。1890(明治23)第1回総選挙
以来25回連続当選、1952(昭和27)まで代議士生活63年。
1900(明治33)政友会に参加。1903(明治36)〜1912東京市長。
1913(大正 2)第1次憲政擁護運動の先頭に立ち、政友会を脱
党。第2次大隈内閣の法相で憲政会に属したがすぐに離党し、
以後無所属。
1942(昭和17)田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙を批判し不敬
罪に問われたが無罪。
1953(昭和28)国会から名誉議員の称号が贈られる。
(1)生年は1858.11.30(安政 5)。
(2)生年は1859(安政 6)。
(3)生年は1858.11.20(安政 5)。
(6)生年は1859。
(8)生年は1858.11.20(安政 5)。
(*)1912(明治45,大正元)。
おさだ あらた《をさだ あらた》
長田 新
1887(明治20)
1961(昭和36)
◇大正・昭和期の教育学者。長野県出身。
広島高等師範学校・京都大学卒業。
教育哲学を体系化。ペスタロッチを研究し、スイス政府から
のペスタロッチ賞を受賞。
1941(昭和16)日本教育学会を結成。
1927(昭和 2)広島文理科大学教授、1945(昭和20)同大学長。
1951(昭和26)広島の被爆体験から『原爆の子』を編集。1952
(昭和27)「日本子どもを守る会」初代会長。
著書は『教育学』・『ペスタロッチー伝』など。
おさだ しゅうとう《おさだ しうたう》
長田 秋涛(長田 秋濤)
1871(明治 4.10. 5)
1915.12.25(大正 4)
◇フランス文学者・劇作家・翻訳家。本名は忠一(タダカズ)、別
号は酔掃堂。静岡県生れ。
英仏に留学。演劇改良に尽力、またフランスの戯曲・小説な
どを紹介。
のち一転して南洋開発に従事。
(5)本名忠一(タダカズ)。
(13)本名忠一(タダイチ)。
おさだ つねお
長田 恒雄
1902.12.17(明治35)
1977. 3.30(昭和52)
◇詩人・評論家。
おさたけ たけき
尾佐竹 猛
1880. 1.20(明治13)
1946.10. 1(昭和21)
◇明治〜昭和前期の明治史家・判事。筆名は雨華・雨花を愛用、
他に無用学博士・落木正文(ラッキセイブン)・若本鳥之(ワカモトドリコノ)
・高山長水・相良武雄(アイラブユウ)・千田世成(センデンノヨナリ)・
不破志要(フワシヨ)・縦横子・活殺子・倭遅邇散史・山田唯比子・
名那繁次。石川県金沢生れ。旧金沢藩士の漢学者尾佐竹保の子。
1899(明治32)明治法律学校(現:明治大学)卒業。
福井・東京・名古屋の地方裁判所判事、東京控訴院判事、
1924(大正13)大審院判事、1942(昭和17)大審院検事となり退官。
1924(大正13)吉野作造・宮武外骨・小野秀雄ら8名で明治文
化研究会をつくり、「明治文化全集」全24巻を編纂・刊行。
(2)尾佐竹 猛(おさたけ たけき)。
(6)尾佐竹 猛(おさたけ たけき)。
(8)尾佐竹 猛(おさたけ たけし)。
(?)尾佐竹 猛(おさたけ たける)。
おさない かおる
小山内 薫
1881. 7.26(明治14)
1928.12.25(昭和 3)
◇明治・大正時代の演出家・詩人・劇作家・小説家・演劇評論
家。広島市大手町に陸軍軍医(旧津軽藩士)小山内健(タケシ)の長
男として生れる。岡田八千代の実兄。
1902(明治35)東京大学文科に入学。
1906(明治39)第一次「新思潮」を刊行。1909(明治42)2世市川
左団次と協力して自由劇場を創立。1920(大正 9)松竹キネマに
入り松竹キネマ研究所を作る。1924(大正13)土方与志(ヒジカタ・ヨ
シ)と築地小劇場を創立。1925(大正14)ラジオドラマ研究会を創
立。
おさの けんじ《をさの けんぢ》
小佐野 賢治
1917. 2.15(大正 6)
1986.10.27(昭和61)
◇企業家・国際興業社主。山梨県東山梨郡山村(現:勝沼町山<ヤ
マ>)生れ。
1940(昭和15)東京で自動車部品業を創業。
徴兵で中国へ出兵するが病気で除隊。
軍需品取引で大儲けする。
1946(昭和21)五島慶太から東都乗合自動車(現:国際興業バス)
を譲り受ける。
1948(昭和23)田中角栄と知り合う。
1976. 2.16(昭和51)ロッキード事件で衆議院予算委員会の証
人喚問に出頭。「記憶にございません」を連発。
1985(昭和60)帝国ホテル会長に就任。
◎「昭和の政商」と呼ばれた。
おさみ ぎぞう
長見 義三
1908(明治41)
1993(平成 5)
◇小説家。
作品は『ほっちゃれ魚族』・『アイヌの学校』など。
◎1993(平成 5)年、50年ぶりに著作集として復刊された『アイ
ヌの学校』が差別文書としてウタリ協会から抗議を受け、発売
中止となる。
おさらぎ じろう《おさらぎ じらう》
大仏 次郎(大佛 次郎)
1897.10. 9(明治30)
1973. 4.30(昭和48)
◇大正・昭和期の小説家。本名は野尻(ノジリ)清彦、初期の筆名
は安里礼次郎。
横浜英(ハナブサ)町生れ。野尻抱影(エイホウ)の実弟。
芝白金小学校・1910(明治43)府立第一中学校・1915(大正 4)
第一高等学校仏法科を経て、1918(大正 7)東京大学政治科入学、
1921(大正10)卒業。
1954(昭和29)文化勲章を授章。
作品は『鞍馬天狗(クラマテング)』・『赤穂浪士』・『帰郷』・
『宗方姉妹』・『旅路』・『ドレフェス事件』・『パリ燃ゆ』
・『天皇の世紀』など。
◆墓は神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。
◎愛猫家としても知られる。
おざわ えいたろう《をざは えいたらう》
小沢 栄太郎
1909(明治42)
1988(昭和63)
◇俳優。東京生れ。
1944(昭和19)千田是也(センダ・コレヤ)・青山杉作・東山千栄子ら
と俳優座を結成。
おざわ しげひろ《をざは とげひろ》
小沢 茂弘
1922. 8.29(大正11)
2004.10.12(平成16)
◇映画監督。本名は茂美(シゲヨシ)。
作品は映画『国定忠治』・『多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ』
・『新吾十番勝負・第二部』・『アマゾン無宿 世紀の大魔王』
・『傷だらけの人生 古い奴でござんす』・『まぼろし怪盗団』
シリーズ・『警視庁物語』シリーズ、テレビドラマ『プレイガ
ール』・『人形佐七捕物帖』など。
おざわ たけじ
小沢 武二(小澤 武二)
1896. 1.25(明治29)
1966. 3.29(昭和41)
◇大正・昭和期の俳人。筆名は河津癸。東京市芝区浜松町生れ。
1930(昭和 5)栗林一石路らし「旗」を創刊。
おざわ へきどう
小沢 碧童(小澤 碧童)
1881.11.14(明治14)
1941.11.17(昭和16)
◇俳人。幼名は清太郎のち西徳六代目忠兵衛、別号は碧子。東
京日本橋生れ。父は魚問屋であったが、祖父の家を継ぎ、家伝
の目薬を業とする。
おざわ ろあん
小沢 蘆庵
1723(享保 8)
1801(享和元. 7.12)
◇江戸後期の歌人。本名は玄仲、通称は帯刀(タテワキ)、別号は
孤鴎・観荷堂。大阪生れ。
冷泉為村に入門、のちに破門。
1788(天明 8)から1792(寛政 4)まで京都太秦に住む。
(2)竹腰家家臣小沢喜八郎実郡の末子,一時尾張藩京都留守居役
本荘三之丞の養子となるが不詳。尾張藩の家老成瀬氏の家臣。
(6)尾張犬山竹腰家の京留守居本荘氏に入婿。
おしかわ しゅんろう《おしかは しゆんらう》
押川 春浪
1876. 3.21(明治 9)
1914.11.16(大正 3)
◇小説家。本名は方存(マサヨリ)、旧号は春波。愛媛県松山市小唐
人町(コトウジンマチ)生れ。押川方義(マサヨシ)の長男。
明治学院・東北学院・札幌農学校(現:北海道大学)に学ぶが
続かず、1895(明治28)東京専門学校(現:早稲田大学)英文科入
学、1898(明治31)卒業しさらに法科に学び、1901(明治34)卒業。
巌谷小波(イワヤ・サザナミ)の知遇を得て、1904(明治37)博文館に
入る。『日露戦争写真画報』を編集。『冒険世界』・『武侠世
界』誌を主宰。
武侠小説と称するSF風の軍事冒険小説を著し、少年たちの
人気を博した。冒険小説を少年文学の一ジャンルとして確立さ
せた。
代表作は1900(明治33)『海底軍艦』・『新日本島』・『武侠
の日本』など。
(2)生年は1876(明治 9)。
(5)生年は1876(明治 9)。
(6)生年は1876(明治 9)。
(13)生年は1877(明治10)。
おしかわ まさよし
押川 方義
1851(嘉永 4.12.16)
1928. 1.10(昭和 3)
◇宗教家(キリスト教)・教育家。旧姓は橋本、伊予藩士押川家
の養子。押川春浪(シュンロウ)の父。
日本基督公会を設立。東北学院の創立者。
(6)生年は1849。押川春浪の項。
おず やすじろう《をづ やすじらう》
小津 安二郎
⇒おづ やすじろう
おせ けいし
尾瀬 敬止
1889.11.28(明治22)
1952. 1. 5(昭和27)
◇ソビエト文化研究家。号は哀歌、筆名は他和律。京都生れ。
東京外語学校露語科卒業。
おぜき さんえい《をぜき さんえい》
小関 三英
⇒こせき さんえい(小関 三英)
おだ うらくさい
織田 有楽斎
1547(天文16)
1621(元和 7)
◇安土桃山・江戸前期の武将・茶人。名は長益、法号は有楽斎。
織田信秀の11男、織田信長の弟。
1582(天正10)本能寺の変後、豊臣秀吉に仕える。千利休に師
事し、利休の死後に有楽流を開き、秀吉の茶湯を担当する。
1600(慶長 5)関ヶ原には東軍(徳川家康)に属し、大和(ヤマト)
に3万石の大名となる。
1614(慶長19)大坂冬の陣には豊臣方に与(クミ)する。のち堺・
京都などに住み茶道に専念。
1617(元和 3)京都建仁寺の正伝院に如庵(ジョアン)を建て、隠
棲。
◎江戸屋敷跡が現在の有楽町(ユウラクチョウ)、数寄屋(スキヤ)を構えた
近くが数寄屋橋。
おだ かずま
織田 一磨
1882.11.11(明治15)
1956. 3. 8(昭和31)
◇版画家。東京生れ。
洋画を川村清雄に、石版を金子政次郎に学ぶ。
1918(大正 7)日本創作版画協会設立に参加。1930(昭和 5)洋
風版画協会を設立。
おだ かんけい
小田 観蛍(小田 觀螢)
1886.11. 7(明治19)
1973. 1. 1(昭和48)
◇歌人。本名は哲弥(テツヤ)。岩手県生れ。独学。
おだ さくのすけ
織田 作之助
1913.10.26(大正 2)
1947. 1.10(昭和22)
◇小説家。大阪市上汐(ウエシオ)町生れ。1931(昭和 6)第三高等学
校入学、五年在学して中退。1940(昭和15)『夫婦善哉』で文壇
に出た。
(5)誕生日は10.26。
(13)誕生日は 8.26。
おだ じゅんいちろう
織田 純一郎
1851(嘉永 4. 5.22)
1919. 2. 3(大正 8)
◇翻訳家・新聞記者・評論家。幼名は幸之助、旧姓は若松のち
丹羽(ニワ)氏の養子、のち曾祖母の織田を名乗る。京都生れ。
1868(明治元)イギリスに遊学。
おだ たけお
小田 岳夫(小田 嶽夫)
1900. 7. 5(明治33)
1979. 6. 2(昭和54)
◇小説家。本名は武夫。新潟県生れ。
1922(大正11)東京外語学校支那語科卒業。中国の領事館に赴
任、『城外』で芥川賞を受賞。
1941(昭和16)陸軍報道班員として徴用され、ビルマに従軍。
おだ とみや
小田 富弥
1895(明治28)
没年不詳
◇挿絵画家。本名は大西一太郎、小田は母方の姓。
北野恒富に美人画を学ぶ。股旅物を得意とする。
おだ のぶお《おだ のぶを》
織田 信雄
1558
1630(寛永 7. 4.30)
◇安土桃山時代の武将。信長の次子(庶子)。「のぶかつ」とも読
む。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
おだ のぶかつ
織田 信雄
⇒おだ のぶお(織田 信雄)
おだ のぶかね
織田 信包
1543(天文12)
1614(慶長19)
◇安土桃山・江戸前期の武将。織田信秀の4男、織田信長の弟、
お市の方(小谷の方)の兄。
おだ のぶたか
織田 信孝
1562(永禄 5)
1583(天正11. 5. 2)
◇安土桃山時代の武将。信長の第3子。信忠(ノブタダ)・信雄(ノ
ブオ,ノブカツ)の弟。
おだ のぶただ
織田 信忠
1557(弘治 3)
1582(天正10. 6. 2)
◇安土桃山時代の武将。左近衛権中将。織田信長の長子、信雄
(ノブオ,ノブカツ)・信孝(ノブタカ)の兄。正室は武田信玄の末娘松姫。
父に従い長島の一向一揆を攻撃、1575(天正 3)長篠(ナガシノ)
の戦などを転戦。1567(永禄10)信長が安土に移った後、岐阜城
主になる。1582(天正10)甲斐の武田勝頼(カツヨリ)を滅ぼす。本能
寺の変に、京都妙覚寺で囲まれて自刃。
おだ のぶなが
織田 信長
1534(天文 3)
1582(天正10. 6. 2)
◇戦国・安土時代の武将。幼名は吉法師(キチボウシ)。尾張国生れ。
織田信秀(ノブヒデ)の次子、織田信忠(ノブタダ)・信雄(ノブオ,ノブカ
ツ)・信孝(ノブタカ)の父。信広の異母弟、信行・信包(ノブカネ)・有
楽斎(ウラクサイ)・お市の方の兄。妻は斎藤道三(ドウサン)の娘濃姫(ノ
ウヒメ)。
1546(天文15)古渡城で元服、三郎信長と名乗る。1551(天文
20)家督を継ぐ。信長に離反するものが多く、1552(天文21)松
葉・深田の織田氏を討つ。ついで清洲の織田信友を討ち、兄弟
の信行・信広を討つ。1553(天文22)お守り役の平手政秀(ヒラテ・マ
サヒデ)の諌死により傍若無人の振る舞いを改めたと伝えられて
いる。1555年、清洲城に移る。1559(永禄 2)織田信賢の岩倉城
を降ろし尾張一国を略定。
1560(永禄 3. 5.)桶狭間(オケハザマ)の戦で今川義元を奇襲し倒
す。1562(永禄 5)三河の松平元康(徳川家康)と同盟し、1567
(永禄10. 8.)斎藤龍興(タツオキ)(道三の孫)から美濃の稲葉城を奪
い、岐阜と改め清洲より移る。
1568(永禄11)北伊勢を平定。7月、松永久秀に逐われ朝倉義
景に亡命していた足利義昭(ヨシアキ)(義輝の弟覚慶)が信長の許に
身を寄せる。9月、義昭を擁して入京、10月第15代将軍に就け
二條城を築く。
1570(元亀元. 6.)家康の援軍を得て姉川(アネガワ)の戦で浅井
長政・朝倉義景を破る。11月下旬六角義賢と、12月中旬浅井・
朝倉両氏と和睦。1571(元亀 2)比叡山延暦寺を焼き打ちする。
義昭との不和から1573(元亀 4)義昭を追放し室町幕府を滅ぼ
す。1574(天正 2)長島の一向一揆を鎮圧。
1575(天正 3)長篠(ナガシノ)の戦で武田軍を破る。1576(天正 4)
安土城を築く。1578(天正 6)上杉謙信が病没。1582(天正10. 3.)
武田勝頼を滅ぼす。
羽柴秀吉の要請で中国地方へ向う途中、宿泊先の京都本能寺
(ホンノウジ)で明智光秀に襲われ、天下統一の半ば、自刃(本能寺
の変)。
後に京都建勲(ケンクン,タケイサオ)神社に祭られた。
(2)尾張国那古野城で生まれる。
(16)尾張古渡の生まれ.
(17)同二十一年父が死ぬと、十九歳で家をつぐ。:誤(信秀は天
文20年没)。
(+)『国史の光 下巻』 昭和 2年12月 5日發行
著者:中山榮作,發行所:博文館 昭和11年 8月20日
増補24版發行
名古屋城(ナゴヤジヤウ)に生(ウマ)れた。
(*)1555(天文24,弘治元)。
おだ のぶひで
織田 信秀
1510(永正 7)
1551(天文20. 3. 3)
◇室町後期の武将。織田信長・有楽斎(ウラキサイ)の父。
おだ まさのぶ
織田 正信
1903.12.16(明治36)
1945. 9.11(昭和20)
◇英文学者。
(3)没年は1935(昭和20):矛盾。
(8)没年は1945(昭和20)。
おだ らいぞう
小田 頼造
1881(明治14)
1918(大正 7)
◇社会主義者・宗教家。
おだい
於大
⇒でんずういん(伝通院)
おだぎり ひでお《をだぎり ひでを》
小田切 秀雄
1916(大正 5)
2000. 5.24(平成12)
◇文芸評論家。東京生れ。文芸評論家小田切進(〜1992)の実兄。
法政大学国文科卒業。
1946(昭和21)日本共産党に入党。埴谷雄高・荒正人らと「近
代文学」を創刊。新日本文学会の設立に参加。
作家の戦争責任を厳しく追及するなど、政治と文学論争を行
い、1947(昭和22)「近代文学」を脱退。
1964(昭和39)共産党と絶縁。
1965(昭和40)大学紛争中の約1年間、法政大学の学長代行を
務める。
著書は『民主主義文学論』・『人間の信頼について』・『小
林多喜二』・『北村透谷論』・『私の見た昭和の思想と文学の
五十年』(1988年毎日出版文化賞)・『文学 近見と遠見と』な
ど。
おたけ こっかん
尾竹 国観
1880(明治13)
1945(昭和20)
◇日本画家。新潟県生れ。歴史画や挿絵を数多く描いた。
尾竹竹坡(チクハ)の弟。
おだじま こしゅう
小田島 孤舟
1884. 3. 1(明治17)
1955.12. 4(昭和30)
◇歌人。本名は理平治、旧姓は佐々木。
おだに さんし
小谷 三志
1765(明和 2)
1841(天保12. 9. 7)
◇江戸後期の神道家・富士講の第8代教主。名は庄兵衛、号は
禄行。
祖先の恩に報いる道として早起きをすすめる。
おだに せいいちろう《をだに せいいちらう》
男谷 精一郎
1798(寛政10)
1864
◇江戸後期の剣術家。名は信友、号は静斎。勝海舟の従兄。
直心影流(ジキシンカゲリュウ)を修め、槍術・弓術にも通じる。
講武所頭取兼剣術師範役。
門下に島田虎之助・榊原鍵吉らがいる。
(*)1864(文久 4,元治元)。
◎人格すぐれ、後世、剣聖と呼ばれた。
おだにのかた
小谷の方
⇒おいちのかた(お市の方)
おだの なおたけ
小田野 直武
1749(寛延 2)
1780(安永 9. 5.17)
◇江戸中期の洋画家。秋田藩代角館(カクノダテ)北家(佐竹義躬)の
家臣。
1773(安永 2)阿仁銅山の開発のために来藩した平賀源内に手
解きを受け、江戸に出て洋画を学ぶ。1774(安永 3)『解体新書』
の解剖図を描く。1779(安永 8)藩主佐竹曙山(ショザン)の忌諱(キイ)
に触れて帰国。
(4)生年は1749。
(6)生年は1749/50。
(16)生年は1749(寛延 2)。
おち えつじん
越智 越人
1656(明暦 2)
没年不詳
◇江戸時代の俳人。通称は十蔵・重蔵。蕉門十哲の一人。加賀
国生れで、名古屋に出て染物屋を営む。
おち やすし
越知 保夫
1911. 9.20(明治44)
1961. 2.14(昭和36)
◇評論家。
おちあい たろう《おちあひ たらう》
落合 太郎
1886. 8.13(明治19)
1969. 9.24(昭和44)
◇フランス文学者。
おちあい なおぶみ《おちあひ なほぶみ》
落合 直文
1861(文久元.11.22)
1903.12.16(明治36)
◇歌人・国文学者。幼名は亀次郎のち盛光(モリミツ)、号は桜舎・
萩之家(ハギノヤ)、旧姓は鮎貝(アユカイ)。陸前本吉(モトヨシ)郡松岩村
生れ。
1874(明治 7)仙台の神道中教院に入学、その総督(国学者)
落合直亮(ナオアキ)の養子となり、直文と改名。1882(明治15)東京
大学古典講習科に学ぶ。1883(明治16)直亮の次女竹路と結婚、
1891(明治24)離婚し菊川流雪の妹操子(ミサオコ)と結婚。1893(明
治26)駒込(コマゴメ)浅嘉町に転居し地名をとって「あさ香社」を結
成。
鮎貝槐園(カイエン)の実兄。
(1)誕生日は1861(文久 4.11.15):誤、1861は文久元である。
「あさ香社」住所の本郷浅嘉町にちなんだ命名。
(3)誕生日は1861(文久元.11.22)、戸籍面 5日。
(5)誕生日は1861(文久元.11.22)。駒込浅嘉町(アサカマチ)に転宅し、
二月、地名をとってあさ香社を結成した。
(8)誕生日は1861(文久元.11.15)。
(11)誕生日は1861(文久元.12.22)。駒込(コマゴメ)浅嘉町に転居
し、二月、地名をとってあさ香社を結成した。
(13)誕生日は1861(文久元.11.22)。浅香社を起して……。
おちあい なみお
落合 浪雄
1879. 1.18(明治12)
1938. 3. 4(昭和13)
◇劇作家・演出家。本名は昌太郎。
おちあい よしいく
落合 好幾
1833(天保 4)
1904. 2. 6(明治37)
◇幕末・明治期の浮世絵師。俗称は幾太郎、別号は一(草冠+
「惠」)斎・(草冠+「惠」)斎・朝霞楼・晒落斎。歌川国芳の門に入
り、歌川芳幾と名乗り、明治になってから本名の落合姓を名乗
る。江戸浅草生れ。
(2)生年は1833(天保 4)。
(14)生年は1832(天保 3)。
(20)生年は1833。通称幾次郎。
おづ やすじろう《をづ やすじらう》
小津 安二郎
1903(明治36)
1963(昭和38)
◇映画監督。
おつか くうこく
小塚 空谷
1877. 9.27(明治10)
1959. 4.16(昭和34)
◇詩人。
おつこつ よしこ
乙骨 淑子
1929. 7. 7(昭和 4)
1980. 8.13(昭和55)
◇児童文学作家・評論家。東京生れ。桜蔭高等女学校専攻科卒
業。
おとくに
乙州
⇒かわい おとくに(川井 乙州)
おなぎ つなお
小名木 綱夫
1911. 8.11(明治44)
1948. 3.19(昭和23)
◇歌人。本名は黒田良吉。東京生れ。
おにあざみ せいきち
鬼あざみ 清吉
1776(安永 5)
1805(文化 2. 6.29)
◇江戸後期の大盗賊。江戸小田原町生れ。
生業は魚売り。すり抜けの名人であった。
1805(文化 2)獄門。
◎辞世の句は『武蔵野の色にもはびこりし鬼あざみ/けふ(今
日)の暑さにやがてしほるゝ』。
◎江戸時代、墓に「清吉大明神」の幟が立てられ、その墓石を削
り取るとご利益があるといわれている。昔はバクチ打ちが、今
は受験生が合格祈願に訪れて、墓石を削っている。
◆墓は元浅草吉野町圓常寺から1913(大正 2)東京都豊島区の雑
司が谷霊園に移される。
(*)雑司が谷霊園の説明札の辞世の句では『武蔵野にはびこる
程の鬼薊/今日の暑さに枝葉しほるる』。
おの あずさ《をの あづさ》
小野 梓
1852(嘉永 5. 2.20)
1886. 1.11(明治19)
◇明治前期の政治家・政治学者・東洋書店の創業者・功利主義
者。号は東洋。土佐藩(現:高知県)出身。
欧米留学後、官吏となる。明治十四年の政変で退官。
大隈重信の立憲改進党に参加。東京専門学校(現:早稲田大学)
創立にも参加。
著書は『国憲汎論』など。
おの こざん
小野 湖山
1814(文化11. 1.12)
1910. 4.19(明治43)
◇漢詩人。本姓は横山、名は巻または長愿、通称は仙助(センスケ)、
字は懐之。近江国生れ。
おの させお
小野 佐世男
1895. 2. 6(明治28)
1954. 2. 1(昭和29)
◇漫画家・挿絵画家。横浜市生れ。東京美術学校卒業。
おの しげき
小野 茂樹
1936.12.15(昭和11)
1970. 5. 7(昭和45)
◇歌人。東京生れ。早稲田大学国文科に学ぶ。交通事故死。
おの せいいちろう《をの せいいちらう》
小野 清一郎
1891. 1.10(明治24)
1986. 3. 9(昭和61)
◇刑法学者・法哲学者。岩手県生れ。
仏教の影響を受け、主観主義刑法理論に対抗して道義的責任
の観念を重視する客観主義の法哲学・刑法理論を展開。
1917(大正 6)東京帝国大学、卒業。
1923(大正12)東京帝国大学教授。
1948(昭和23)極東国際軍事裁判の弁護人。
1972(昭和47)文化勲章、受章。
著書は1924(大正13)『刑事訴訟法講義』・1942(昭和17)『日
本法理の自覚的展開』・1952(昭和27)『刑法概論』・1953(昭
和28)『犯罪構成要件の理論』など。
おの ちくきょう《をの ちくけう》
小野 竹喬
1889(明治22)
1979. 5.10(昭和54)
◇日本画家。本名は英吉。岡山県生れ。
竹内栖鳳(セイホウ)に師事。
1918(大正 7)土田麦僊(バクセン)・榊原紫峰(シホウ)・村上華岳(カ
ガク)らと国画創作協会を結成。
おの ひでお
小野 秀雄
1885(明治18)
1977(昭和52)
◇大正・昭和期の新聞人。滋賀県生れ。東京大学卒業。
1911(明治44)万朝報社の政治記者。1916〜1922(大正 5〜大
正11)「東京日日新聞」記者。
1922(大正11)新聞史を初めて体系化し『日本新聞発達史』を
刊行。1925(大正14)東京大学講師。1929(昭和 4)東大新聞研究
室主任。1949(昭和24)東京大学教授、東大新聞研究所初代所長。
おの ひろし
小野 浩
1894. 6.29(明治27)
1933.10.21(昭和 8)
◇児童文学者。
おの ぶし
小野 蕪子
1888. 7. 2(明治21)
1943. 2. 1(昭和18)
◇俳人・随筆家・陶芸研究家。本名は賢一郎。福岡県生れ。
1940(昭和15)日本俳句作家協会常任理事となり、日本文学報
国会俳句部会への移行に尽力。
おの まさしげ
小野 昌繁
1907. 1. 3(明治40)
1976. 7.19(昭和51)
◇歌人。戸籍上の誕生日は 1.25。
おの まつじ
小野 松二
1901. 5. 2(明治34)
1970. 4. 9(昭和45)
◇編集者。
おの みちこ
小野 美知子
1890. 9. 8(明治23)
没年不詳
◇小説家。
おの ゆうこう
小野 有香
生年不詳
没年不詳
◇歌人・詩人・社会主義者。本名は吉勝、のち岩崎姓。
おの らんざん《をの らんざん》
小野 蘭山
1729(享保14)
1810(文化 7. 1.27)
◇江戸後期の本草学者。本姓は佐伯氏、名は職博(モトヒロ)、字は
以文、通称は喜内、号は蘭山・朽匏子。京都生れ。
父が松岡恕庵の門下で、自らも16歳で恕庵に入門したが、2
年足らずで恕庵が没し、のち独学。
1799(寛政11)71歳で幕命により江戸に出て医学館の本草学教
授となり月扶持30口・歳銀20枚を受け、のち医官となる。
老齢を顧みず諸国に採薬旅行し、薬用のみならず広く日本産
の動植鉱物を網羅的に採取し、研究整理して国本草学を大成。
1803(享和 3)『本草綱目啓蒙』で本草1,882種を著す。
◎シーボルトは「東洋のリンネ」と呼んだ。
[1]おのえ きくごろう《をのへ きくごらう》
尾上 菊五郎(初世)
1717(享保 2)
1783(天明 3)
◇江戸時代の歌舞伎役者。はじめ京都で若衆方のち女形をやっ
ていたが、二世市川団十郎に認められ、江戸に下って立役(タチヤ
ク)になる。
[2]おのえ きくごろう《をのへ きくごらう》
尾上 菊五郎(三世)
1784(天明 4)
1849(嘉永 2.閏4.24)
◇江戸時代の歌舞伎役者。江戸の人。初代の高弟尾上松緑(初
世)の養子。
[3]おのえ きくごろう《をのへ きくごらう》
尾上 菊五郎(五世)
1844
1903(明治36)
◇明治の歌舞伎役者。屋号は音羽屋。三世菊五郎の孫、十二世
市村羽左衛門の次男。
初め十三世市村羽左衛門を名乗る。座元を辞して俳優を専業
とし、1868(明治元)襲名。お家芸の新古演劇十種を制定。九世
市川団十郎と並称される。
(*)1844(天保15,弘化元)。
[4]おのえ きくごろう《をのへ きくごらう》
尾上 菊五郎(六世)
1885. 8.26(明治18)
1949. 7.10(昭和24)
◇歌舞伎俳優。本名は寺島幸三。五世の実子、長男は尾上九朗
右衛門(クロウエモン)。
はじめ丑之助、1903(明治36)襲名。
昭和初期に日本俳優学校を設立。
おのえ くろうえもん
尾上 九朗右衛門(二世)
1922. 1.22(大正11)
2004. 3.28(平成16)
◇歌舞伎俳優。本名は寺島清晃(キヨアキ)。六世尾上菊五郎の長男。
1926. 5.(大正15)初舞台。
1940.10.(昭和15)尾上九朗右衛門を襲名。
おのえ さいしゅう《をのへ さいしう》
尾上 柴舟
1876. 8.20(明治 9)
1957. 1.13(昭和32)
◇歌人・書家・国文学者。本名は八郎、旧姓は北郷(キタゴウ)。
岡山県西西条(サイサイジョウ)郡津山(津山市)生れ。
1895(明治28)落合直文のあさ香社(短歌結社)に参加。第一高
等学校を経て、1901(明治34)東京帝国大学国文科卒業。
(5)尾上 柴舟(おのえ さいしゅう)。
(13)尾上 柴舟(おのえ しばふね,さいしゅう)。
おのえ まつのすけ《をのへ まつのすけ》
尾上 松之助
1875. 9.18(明治 8)
1926(大正15)
◇映画俳優。本名は中村鶴三。岡山生れ。
はじめ歌舞伎の旅役者で、1909(明治42)映画製作者の牧野省
三に認められて日活時代劇に主演し、映画草創期の無声映画に
活躍。千本以上の作品に出演。
「目玉の松ちゃん」の愛称で一時代を画した。
主演作品は『自来也(ジライヤ)』・『荒木又右衛門』・『忠臣
蔵』など。
おのだ すいう
小野田 翠雨
生年不詳
没年不詳
◇速記者。本名は亮正。
おのづか きへいじ《をのづか きへいじ》
小野塚 喜平次
1870(明治 3.12.21)
1944.11.27(昭和19)
◇政治学者。新潟県長岡生れ。
東京大学を卒業し、海外に留学。
1901(明治34)東京帝国大学で日本初の政治学講座専任教授と
なる。
政治学を国家学から独立させ、日本の近代政治学を開拓。
1903(明治36)対露強硬論を主張(七博士建白事件)。
1928〜1934(昭和 3〜昭和 9)東京帝国大学総長。
著書は『政治学大綱』・『欧州現代政治及学説諸集』・『現
代政治の諸研究』など。
おのでら こうえもん
小野寺 幸右衛門
⇒おのでら ひでとみ(小野寺 秀富)
おのでら じゅうない《をのでら じふない》
小野寺 十内
⇒おのでら ひでかず(小野寺 秀和)
おのでら ひでかず
小野寺 秀和
1643(寛永20)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、京都の留守居役、禄
高150石、役料70石。通称は十内(シュウナイ)、戒名は刃以串剣信士、
吉良家の探索中の変名は仙北十庵(センボク・ジュウアン)または又四郎。
妻丹女(タンジョ)は赤穂藩士灰方佐五右衛門(ハイカタ・サゴエモン)の娘、
途中で脱盟した武具奉行藤兵衛(トウヘエ)の妹。小野寺幸右衛門(コ
ウエモン)秀富(ヒデトミ)の養父。間瀬久太夫(マセ・キュウダユウ)の従兄。
浪人後、しばらく京都山科にいたが、大石主税(チカラ)良金(ヨシ
カネ)と江戸に出る。吉良家討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細
川家に預けられ、翌年、横井儀右衛門(ギエモン)の介錯(カイシャク)で
切腹。
おのでら ひでとみ
小野寺 秀富
1676(延宝 4)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は幸右衛門(コウエモン)、戒
名は刃風颯剣信士、吉良家の探索中の変名は仙北又助(センボク・マ
タスケ)。父は大高兵左衛門(オオタカ・ヘイザエモン)、母は小野寺十内(ジュ
ウナイ)秀和(ヒデカズ)の姉貞立尼(テイリュウニ)。大高源五(ゲンゴ)忠雄
(タダオ)の実弟。秀和の養子。
吉良家討ち入りでは表門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
屋敷に預けられ、翌年、田上五左衛門(タガミ・ゴザエモン)の介錯(カ
イシャク)で切腹。
おののいもこ《をののいもこ》
小野 妹子
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の廷臣。隋では蘇因高(ソインコウ)と称する。
607年、聖徳太子に選ばれ最初の遣隋使となり、煬帝(ヨウダイ)
に国書を提出、翌年隋使裴世清(ハイセイセイ)とともに帰朝。隋使帰
国のとき再び大使として隋に渡る。
おののおつう《をののおつう》
小野 お通
1559(永禄 2)
1616(元和 2)
◇歴代美濃に住した小野正秀の娘。和歌・書画・糸竹(管弦)の
技に秀で、淀君(ヨドギミ)や千姫に仕えた。
(25)生没年:1568〜1631?。
◎『浄瑠璃十二段草子』を作ったされるが、現在誤り伝えられ
たとされ否定されている。
おののおつう
小野 お通
生年不詳
没年不詳
◇浄瑠璃節作者の祖。伝記は未詳。
一説に、水戸城主武田常陸介信吉の子小野和泉の娘。
織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀次の侍女となり、『浄瑠璃十二
段草子』を作ったとされる。
徳川秀忠の娘千姫に琴曲を授けたとも伝えられる。
おののこまち《をののこまち》
小野 小町
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。仁明・文
徳朝ころの人。小野篁(タカムラ)の子の出羽郡司小野良真の娘、小
野宰相常詞の娘など、出生については諸説あって不明。
恋愛歌で知られ、『古今和歌集』など勅撰集に62首が入って
いる。家集の『小町集』(1巻)は後人の撰。
文屋康秀・凡河内躬恒・在原業平・安倍清行・小野貞樹・僧
遍昭らとの贈答歌がある。
絶世の美女としても有名で、謡曲・浄瑠璃・御伽草子などの
題材となったり、全国の小町塚や小町誕生の井戸などいろいろ
な伝説が多い。
◎「花の色はうつりにけりないたづらに/わが身よにふるなが
めせしまに」(百人一首)。
◆小町堂まつり[ 6.20]秋田県雄勝郡雄勝町(オガチマチ)の小町堂
で追善の催し。
忌日は旧暦 3.18とされている。
おののたかむら《をののたかむら》
小野 篁
802(延暦21)
852(仁寿 2.12.22)
◇平安前期の漢詩人・歌人。その奔放な性格と参議になったこ
とから野相公(ヤショウコウ)・野宰相(ヤサイショウ)とも呼ばれる。小野妹
子(イモコ)の子孫、小野岑守(ミネモリ)の子、小町道風(トウフウ)の祖父。
837(承和 4)遣唐副使に任ぜられたが、出発の際に大使藤原
常嗣(ツネツグ)と乗船のことに関して朝廷の処置に怒り、病と称
して命を奉ぜず、隠岐(オキ)に流される。
840(承和 7)召還されて従三位・参議。
博学で、清原夏野・菅原清公らと『令義解(リョウノギゲ)』を編
纂。
作品は『古今和歌集』・『経国集』・『和漢朗詠集』。
(6) 838〜 840隠岐に流された。
◎東京都台東区下谷2丁目に篁を祀(マツ)った小野照崎神社があ
る。
おののとうふう《をののたうふう》
小野 道風
894(寛平 6)
966(康保 3.12.27)
◇平安中期の書家。藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とともに
三蹟(サンセキ)の一人。和様発達の基をなした。小野篁(タカムラ)の孫。
(4)正しくはミチカゼとよむ。
(6)みちかぜとも読む。
◎平安京の朱雀門(スザクモン)の額は弘法大師の筆になるが、道風
には「朱」の字が「米」のように見えたので「米雀門」と嘲笑(アザワラ)っ
て祟(タタ)りを受け急死したと言う。
おばた かげのり《をばた かげのり》
小幡 景憲
1572(元亀 3)
1663(寛文 3)
◇安土桃山時代の武将・江戸前期の軍学者。通称は勘兵衛。昌
盛の三男。上野国の人。甲州流軍学の祖。
はじめ武田氏に仕え、武田氏滅亡後に牢人を経て、徳川秀忠
に仕える。1633(寛永10)知行1,500石。
山鹿素行の師。高坂昌信に仮託して『甲陽軍鑑』を著す。
おばた げんのすけ
小畑 源之助
1875(明治 8)
1959(昭和34)
◇昭和期の実業家。
満州日本ペイント・台湾日本ペイント日満林産化学などを設
立。
おばた ただよし
小畑 忠良
1893(明治26)
1977(昭和52)
◇昭和期の実業家・官僚。東京大学卒業。
住友本社に入社、商工課長・経理部長を経て、1940(昭和15)
退社し、企画院次長。のち産業報国会理事長・大政翼賛会事務
総長・愛知県知事・東海北陸地方総監。
おばた ていいち
小畠 貞一
1888. 3.26(明治21)
1942.10.10(昭和17)
◇詩人。本名は悌一。
おばた とくじろう
小畑 篤次郎
1841(天保12)
1905(明治38)
◇明治期の学者・実業家。中津藩士小畑徳蔵の次男。
交詢社の結成に関与。
おばら くによし《をばら くによし》
小原 国芳
1887(明治20)
1977(昭和52)
◇教育家。鹿児島県生れ。
京都帝国大学卒業。
1929(昭和 4)玉川学園を創設。
著書は『母のための教育学』など。
おばら げん
小原 元
1919. 2. 1(大正 8)
1975. 4.30(昭和50)
◇評論家。
[1]おまんのかた
お万の方
1548(天文17)
1619(元和 5)
◇徳川家康の側室。小督局・古茶ともいう。出家して長勝院。
[2]おまんのかた
お万の方
1580(天正 8)
1653(承応 2)
◇徳川家康の側室。号は蔭山殿、戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。
上総国勝浦の正木邦時の娘、母は北条氏堯の娘。
邦時の死後、母は蔭山氏房に再婚。1590(天正18)家康の側室
になり、蔭山殿と称する。
1602(慶長 7)頼宣(ヨリノブ)(紀伊徳川家の祖)を生む。
1603(慶長 8)頼房(ヨリフサ)(水戸徳川家の祖)を生む。
(2)戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。
(16)出家して養殊院と号した.
[3]おまんのかた
お万の方
生年不詳
1642(寛永19)
◇徳川家康の側室。はじめ阿勝方。出家して英勝院。
[4]おまんのかた
お万の方
生年不詳
1711
◇徳川家光の側室。お梅の方とも称した。
(*)1711(宝永 8,正徳元)。
おやけ けいすけ
小宅 圭介
1904. 3.23(明治37)
1970. 3. 5(昭和45)
◇歌人。
おやま ていほ
小山 鼎浦
1879.11.24(明治12)
1919. 8.25(大正 8)
◇評論家。本名は東助(トウスケ)。宮城県本吉郡気仙沼町生れ。第
二高等学校を経て、1903(明治36)東京帝国大学文科哲学科卒業。
早稲田大学・関西大学の教師、「東京毎日新聞」の記者を経て、
晩年は代議士。
おやま とくじろう
尾山 篤二郎
1889.12.15(明治22)
1963. 6.23(昭和38)
◇歌人・国文学者。号は草の家・刈萱・秋人・無柯亭(ムカテイ)主
人。金沢市生れ。
15歳のとき金沢商業在学中に膝関節結核のため右足を大腿部
より切断、学校を中退。1904(明治37)私立金沢英学院に入学。
おやま ともまさ
小山 朝政
1158(保元 3)
1238(嘉禎 4. 3.30)?
◇鎌倉中期の武将。小山政光(マサミツ)の長男。
おやま ひさじろう
小山 久二郎
1905. 9. 7(明治38)
1984. 1.12(昭和59)
◇出版人。愛媛県生れ。法政大学中退。
岩波書店を経て、1933(昭和 8)独立し小山書店を創立。
おやま ひどとも
小山 秀朝
生年不詳
1335(<南>建武 2,<北>建武 2)
◇南北朝時代の武将。小山貞朝の子。
おやま まさみつ
小山 政光
生年不詳
没年不詳
◇鎌倉前期の武将。大田行政の子、小山朝政(トモマサ)・長沼宗政
・結城朝光の父。
おやま よしまさ
小山 義政
生年不詳
1382(<南>弘和 2,<北>永徳 2)
◇南北朝時代の武将。小山氏政の子。小山若犬丸(ワカイヌマル)の父。
おやま わかいぬまる
小山 若犬丸
生年不詳
1397(応永 4)
◇室町前期の武将。小山義政の子。
おやまだ じろう《をやまだ じらう》
小山田 二郎
1914(大正 3)
1991. 7.26(平成 3)
◇画家。中国安東県生れ。
旧制大田原中学校を卒業。
1934(昭和 9)帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)図案科に入
学。のち西洋画科へ転入。
1936(昭和11)父親の仕送りを絶たれ中退。
1947(昭和22)自由美術家協会会員。
1959(昭和34)自由美術家協会を脱会。
1971(昭和46)家族を残して失踪。
おやまだ ともきよ《をやまだ ともきよ》
小山田 与清
⇒たかだ ともきよ(高田 与清)
おりい ぐさい
折井 愚哉
1871(明治 4. 2.24)
1934. 9.21(昭和 9)
◇俳人・画家。本名は太一郎、別号は無筆堂・石兆・梁岳・
梁溪・雲水坊。
おりぐち しのぶ
折口 信夫
1887. 2.11(明治20)
1953. 9. 3(昭和28)
◇国文学者・民俗学者・歌人。筆名は釈迢空。大阪府西成郡木
津村市場筋生れ。生涯独身。
1910(明治43)国学院大学卒業。柳田国男に師事して日本民俗
学の開拓に努め、民俗学的研究を国文学に導入、芸能史でも新
境地を開く。
1917(大正 6)「アララギ」同人。1922(大正11)国学院大学教授、
1928(昭和 3)慶応義塾大学教授。1932(昭和 7)文学博士。1934
(昭和 9)日本民俗協会成立、幹事となる。1943. 4.(昭和18)大
日本芸能学会発足、初代会長となる。
藤井(折口)春洋(ハルミ)の養父。
(1)釈 迢空(しゃくのちょうくう)、本名折口信夫(オリクチ・シノブ)。
(3)釈 迢空(しゃく ちょうくう)。
(5)折口 信夫(おりくち しのぶ)、筆名釈迢空(チョウクウ)。
(6)折口 信夫(おりくち しのぶ)、号は釈迢空。
(8)折口 信夫(おりくち しのぶ)、別名は釈迢空(シャクノチョウクウ)。
信夫は自身はシノブと称したが幼時はノブオであったという。
(11)折口 信夫(おりくち しのぶ)、筆名釈迢空(シャクチョウクウ)。
(13)釈 迢空(しゃく ちょうくう)。
(16)折口 信夫(おりぐち しのぶ)、雅号は釈迢空。
(21)折口 信夫(おりくち しのぶ)、筆名釈迢空(シャクチョウクウ)。
(26)折口 信夫(おりくち しのぶ)。歌人としての名は釈迢空
(シャクチョウクウ)。大正九年(一九二〇)国学院大学専任講師、翌年教
授。
◆迢空忌[ 9. 3]。
おりくち はるみ
折口 春洋
1907. 2.28(明治40)
1945. 3.19(昭和20)
◇歌人。旧姓は藤井。釈迢空(折口信夫)の養嗣子、1944. 7.
(昭和19)応召中に入籍。陸軍中尉として硫黄島で玉砕。
おりたけ りょうほう
折竹 蓼峰
1884. 1.11(明治17)
1950. 1.13(昭和25)
◇翻訳家・フランス語学者。本名は錫(タマウ)、別号は
「R・T・O」・多音祐。
おわり すいそう
尾張 穂草
1892. 1. 2(明治25)
1973. 4.20(昭和48)
◇歌人。本名は真之介。
おんだ しょういち
恩田 正一
1907. 7.25(明治40)
1989. 8.20(平成元)
◇渡良瀬川鉱毒根絶規制同盟会初代会長。群馬県生れ。法政大
学卒業。
古河鉱業足尾銅山から排出される鉱毒を廃絶するため、1958
(昭和33)渡良瀬川鉱毒根絶規制同盟会が結成され初代会長に就
任、1962(昭和37)辞任。
おんち こうしろう
恩地 孝四郎
1891. 7. 2(明治24)
1955. 6. 3(昭和30)
◇版画家・画家・装幀家・詩人。東京生れ。
1909(明治42)東京赤坂溜池の白馬会洋画研究所に通い、1910
(明治43)東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科予備科に入
学、1915(大正 4)中退。
おんち てるたけ
遠地 輝武
1901. 4.21(明治34)
1967. 6.14(昭和42)
◇詩人・美術評論家。本名は木村重夫、別の筆名は本地輝武・
本地正輝。兵庫県姫路市生れ。木村好子(ヨシコ)の夫。
県立姫路中学校中退、1923(大正12)日本美術学校西洋画科卒
業。
(5)誕生日は 4.21。
(13)誕生日は 7.21。
(21)誕生日は 4.21。
おんな なべ
恩納 なべ
生年不詳
没年不詳
◇江戸中期の女流歌人。琉球の国頭恩納間切生れ。琉球の万葉
歌人といわれる。「うんな なぴー」とも呼ぶ。
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