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人 名 辞 典 《おおと》 編集:獨 澄旻
-------- おおと ------------------------------------------------
おおとも さだとし
大友 貞載
生年不詳
1336
◇鎌倉後期・南北朝時代の武将。大友貞宗の子。
(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
おおとも さだむね
大友 貞宗
生年不詳
1336
◇鎌倉後期・南北朝時代の武将。大友親時の子、大友貞載(サダ
トシ)の父。
(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
おおとも そうりん
大友 宗麟
1530(享禄 3)
1587(天正15. 5.23)
◇戦国時代のキリシタン大名。幼名は塩法師丸、名は義鎮(ヨシシ
ゲ)、号は休庵宗麟・府蘭・宗滴、教名はフランシスコ(Fran-
cisco)。大友義鑑(ヨシアキ)の長男、母は大内義隆の姉。大内義長
(ヨシナガ)の兄。大友義統(ヨシムネ)(吉統)の父。
側室の子塩市丸と家督を争い、1550(天文19)殺された父義鑑
の家督を継ぎ、正四位下左衛門督。1552(天文21)周防の毛利氏
に一時門司城を奪われる。1559(永禄 2)肥前の竜造寺隆信と争
う。1562(永禄 5)剃髪し休庵宗麟と号する。1564(永禄 7)筑後
に攻め入り、翌年平定。1569(永禄12)再び隆信と争い、翌年佐
賀城を攻める。1568(永禄11)毛利氏に内応した立花鑑載を滅ぼ
す。1571(元亀 2)足利義昭の調停で毛利氏と和睦。
1578(天正 6)キリシタンに帰依して、豊後の府内(大分県)を
対外文化の中心となる。同年、島津義久と日向耳川に戦い大敗。
1579(天正 7)家督を嫡子義統に譲り、臼杵に隠居。
1582(天正10)大村純忠(スミタダ)・有馬春信とともに天正遣欧
使節を派遣。
1586(天正14)島津義久が来攻すると、自ら大坂に上り豊臣秀
吉に救援を請う。秀吉は長宗我部元親・仙石秀久を向わせるが
ともに敗れ府内が奪われる。
豊後国海部郡津久見で没する。
おおとも ちかよ
大友 親世
生年不詳
1418(応永25)
◇室町前期の武将。大友氏時の次男。
おおとも よしあき
大友 義鑑
1502(文亀 2)
1550(天文19. 2.13)
◇室町後期・戦国時代の大名。初名は親安のち親敦、さらに足
利義晴の諱字を受けて義鑑。大友義右の子、大友宗麟(ソウリン)
(義鎮)の父。
祖父政親・父義右を滅ぼした叔父親治を1524(大永 4)討滅す
る。大友義隆・肥前国の少弐資元と争い、1536(天文 5)資元が
滅亡し、1538(天文 7)義隆と和睦。1543(天文12)鎮西探題とな
る。
長男義鎮(ヨシシゲ)(塩法師丸)と側室の子塩市丸との家督争い
で、義鑑は側室・塩市丸と就寝中に義鎮擁立派に襲われ重傷を
負い、間もなく死去(大友二階崩れ)。
(2)大友義長の子。
(16)義右の子.
'50(天文9)年嫡子塩法師丸……:年号の誤。
おおとも よししげ
大友 義鎮
⇒おおとも そうりん(大友 宗麟)
おおとも よしむね
大友 吉統
1558
1605(慶長10)
◇安土桃山時代の武将。幼名は長寿丸、初名は義統(ヨシムネ)、教
名はコンスタンチノ(Constantino)。大友宗麟(ソウリン)の子。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
おおとものおうじ
大友 皇子
⇒おおとものみこ(大友 皇子)
おおとものかなむら《おほとものかなむら》
大伴 金村
生年不詳
没年不詳
◇5世紀末〜6世紀中頃(大和朝廷時代)の武将。大伴談(カタリ)
の子、大伴室屋(ムロヤ)の孫。
第24代仁賢天皇の死後、皇太子(武烈天皇)と対立した大臣平
群真鳥(ヘグリノマトリ)・鮪(シビ)父子を討ち、第25代武烈天皇を擁
立、大連(オオムラジ)となり権勢をふるう。
武烈天皇の死後、天皇に皇子がなかったので応神天皇5世の
孫大迹王(オオトノオオキミ)を越後から第26代継体天皇に迎える。さら
に第27代安閑・第28代宣化・第29代欽明天皇に仕える。
欽明天皇の時、朝鮮半島の任那の経営に失敗し物部尾輿(オコシ)
の弾劾で失脚。病気と称して出仕せず住吉に隠退。
(2) 540(欽明 1)難波宮において物部尾輿(モノノベノオコシ)から政治
責任を指摘され……。
(16)金村は大連物部尾輿に弾劾され, 539(欽明 2)年病気と称
して住吉に退いて…….
(*)欽明天皇の即位は 539(己未.12. 5)。
おおとものくろぬし
大伴 黒主(大友 黒主)
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の歌人。近江国大友郷の人。六歌仙の一人。
おおとものさかうえのいらつめ
大伴 坂上郎女
⇒おおとものさかのうえのいらつめ(大伴 坂上郎女)
おおとものさかのうえのいらつめ《おほとものさかのうへのいらつめ》
大伴 坂上郎女
生年不詳
没年不詳
◇奈良時代の女流歌人。父は大伴宿禰安麻呂、母は石川命婦(ミョ
ウブ)。大伴旅人(タビト)の異母妹、大伴稲公(イナギミ)の兄弟。大
伴家持(ヤカモチ)に嫁した坂上大嬢(オオイラツメ)の母。
穂積皇子に嫁し、皇子が 715年早逝。その後、藤原麻呂に、
さらに大伴宿奈麻呂(スクナマロ)に嫁し、坂上大嬢と坂上二嬢を生
む。
生年は 695〜 701(持統天皇 9〜文武天皇 4)ころ、没年は
750(天平勝宝 2)ころ。
おおとものさかのうえのおおいらつめ
《おほとものさかのうへのおほいらつめ》
大伴 坂上大嬢
生年不詳
没年不詳
◇奈良時代の女流歌人。父は大伴宿奈麻呂(スクナマロ)、母は大伴
坂上郎女(イラツメ)。大伴家持の妻、大伴田村大嬢(タムラノオオイラツメ)の
異母姉。
おおとものさかのえのいらつめ
大伴 坂上郎女
⇒おおとものさかのうえのいらつめ(大伴 坂上郎女)
おおとものたびと
大伴 旅人
665[天智 4]
731(天平 3. 7.25)
◇奈良前期の武将・歌人。大伴安麻呂の第一子。大伴坂上郎女
の異母兄、大伴田村大嬢(タムラノオオイラツメ)の兄。大伴家持(ヤカモチ)の
父。
大宰帥として筑紫に赴任中、山上憶良や僧満誓と交遊。大納
言として帰京し翌年没する。
おおとものたむらのおおいらつめ
大伴 田村大嬢
生年不詳
没年不詳
◇奈良時代の女流歌人。父は大伴宿奈麻呂(スクナマロ)、大伴坂上
大嬢(サカノウエノオオイラツメ)の異母妹。
おおとものみこ
大友 皇子
648(大化 4)
672[弘文元]
◇第39代弘文天皇。名は伊賀皇子とも。第38代天智天皇の第1
皇子、母は伊賀采女宅子娘(ヤカコノイラツメ)。室は天武天皇の皇女十
市皇女(トオチノヒメミコ)、葛野王(カドノオオキミ)の父。
天智天皇と皇太弟大海人皇子(オオアマノミコ)(第40代天武天皇)と
の不和により、 671[天智10. 1.]太政大臣、皇儲(コウチョ)(天皇
の跡継ぎ)となる。同年10月、天智天皇は大海人皇子に後事を
託そうとするが、大海人皇子は拒否して吉野に隠遁。同年11月、
天智天皇が崩御(死去)。
翌年6月、壬申(ジンシン)の乱が勃発。同年7月、大海人皇子
に瀬田川の対陣(滋賀県栗太郡瀬田町)で敗れ、山前(ヤマサキ)(京
都府乙訓郡山崎町)で自殺。
◎『日本書紀』に大友皇子が即位した記録はないが、明治政府
は『大日本史』・『水鏡』などを参考に1870(明治 3)第39代天
皇と認定し弘文天皇と追諡、皇居は近江国滋賀の大津宮とする。
おおとものむろや
大伴 室屋
生年不詳
没年不詳
◇5世紀後半〜6世紀前半(大和朝廷時代)の豪族・大連。大伴
武以の子、大伴談(カタリ)の父、大伴金村(カナムラ)の祖父。
允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の7代に仕
える。
(2)道臣命7世の孫という。
(16)道臣命8世の孫.
おおとものやかもち
大伴 家持
生年不詳
785(延暦 4. 8.28)
◇奈良後期の歌人。大伴旅人(タビト)の子、大伴坂上郎女(イラツメ)
の甥。三十六歌仙の一人。
746(天平18)越中守として赴任、 751(天平勝宝 3)少納言と
して帰京。 783(延暦 2)中納言。
『万葉集』の編集者と目される。生年は 718(養老 2)・ 716
(霊亀 2)などの説がある。
おおとものやすまろ
大伴 安麻呂
生年不詳
714(和銅 7)
◇飛鳥・奈良初期の武人。大伴長徳の第6子、大伴旅人(タビト)
の父。
おおとり けいすけ《おほとり けいすけ》
大鳥 圭介
1833(天保 4. 2.25)
1911. 6.15(明治44)
◇江戸末期・明治期の政治家・外交官。名は純彰、号は如楓。
播磨国赤穂郡の医師小林直輔の子。
14歳で備前の閑谷黌で漢学を学び、帰郷後町医中島意庵に蘭
学を学ぶ。1852(嘉永 5)大坂に出て緒方洪庵の適々斎塾で医学
を学ぶ。江戸に出て坪井忠益塾に入る。1857(安政 4)江川英竜
の太郎左衛門塾で兵学・砲術を学ぶ。また中浜万次郎に英語を
習う。
1866(慶応 2)幕臣となり、開成所洋学教授・歩兵差図役頭取。
戊辰戦争では榎本武揚に従い箱館に拠り敗れて入獄。
1872(明治 5)出獄し、明治政府に出仕。開拓使御用掛・大蔵
小丞・陸軍省四等出仕・工部省四等出仕。1875(明治 8)工部権
頭・工学頭・1877(明治10)工部大書記官、1882(明治15)工部大
学学長・学習院長を兼任、華族女学校長。
1889(明治22)清国駐箚(チュウサツ)特命全権公使、1893(明治26)
韓国駐箚公使を兼任。1894(明治27)東学党の乱(甲午農民戦争)
に際し、韓国王に清国兵撤退・内政改革の実行を迫るなど外交
工作を画策し日清戦争の端を作る。
のち枢密顧問官・男爵。
おおとり せっそう
鴻 雪爪
1814(文化11. 1. 1)
1904. 6.18(明治37)
◇御嶽教第2管長。備後国因島(インノシマ)生れ。
越前の孝顕寺住職・彦根清涼寺の第26世住職、鉄面清拙和尚
と号する。
1871(明治 4)還俗し神道家となる。1885(明治18)より御嶽教
第2管長。
おおにし じょうげん
大西 浄元
1689(元禄 2)
1762(宝暦12)
◇江戸中期の釜師。幼名は清吉、通称は清右衛門、諱は重義、
俗に「古浄元」と呼ばれる。第4代浄頓の子。
京都大西家第6代を継ぎ、京都三条釜座に住む。千家出入り
の釜師となる。
おおにし じょうせい
大西 浄清
1603(慶長 8)
1682(天和 2)
◇江戸前期の釜師。京都大西家の第2代。名は村長、通称は
五郎左衛門。江戸大西家の大西定林(テイリン)の父。
京都三条釜座に住み、武将・茶人古田織部(オリベ)に従い江戸
に下る。のちたびたび定林と江戸に下る。作風は江戸の影響を
受ける。
(2)生年は1603(慶長 8)。
初代浄林の一族(一説に弟)。
(6)生年は1602。89歳死去説もある。
(16)生年は1603(慶長 8)。
おおにし じょうりん
大西 浄林
1590(天正18)
1663(寛文 3)
◇江戸初期の釜師。京都大西家の初代。通称は仁兵衛。山城国
広瀬村の出。京都三条釜座に移住。
おおにし ていりん
大西 定林
生年不詳
1727(享保12)
◇江戸中期の釜師。江戸大西家の初代。名は延貞、通称は
五郎左衛門。京都大西家の大西浄清(ジョウセイ)の子。
京都より江戸に出て定住。
おおにし はじめ《おほにし はじめ》
大西 祝
1864(元治元. 8. 7)
1900.11. 2(明治33)
◇明治後期の哲学者。号は操山(ソウザン)。岡山生れ。岡山藩士
の子。木全家に生れ大西家を継ぐ。
1884(明治17)同志社神学科を卒業し、東京帝国大学哲学科に
再入学、1889(明治22)卒業。
1891〜1898(明治24〜明治31)東京専門学校(現:早稲田大学)
・東京高等師範学校(東京教育大学の前身)の講師。日本プロテ
スタントの機関誌「六合雑誌(リクゴウザッシ)」を編集。横井時雄・
姉崎正治(アネサキ・マサハル)らと丁酉(テイユウ)倫理会を創始。
1898. 2.(明治31)ヨーロッパに留学、イエナ・ライプチヒの
大学に学び、1899. 9.(明治32)病気により帰国。
内村鑑三不敬事件にはじまるキリスト教排撃に際しては井上
哲次郎らを国権主義と鋭く批判。
36歳で急死。
著書は『良心起源論』・『西洋哲学史』・『倫理学』など。
(1)没日は11. 2。
(2)1897(明治29)横井時雄・姉崎正治らと丁酉(テイユウ)倫理会を
つくる。(*)明治29は1896年で、年号が合わない。
(3)没日は11. 2。
(5)没日は 1.11。
(8)没日は11. 2。
(11)没日は 1.11。
(13)没日の記載なし。
(16)誕生日は 3. 7、没日は11. 3。
おおにし よしのり
大西 克礼
1888.10. 4(明治21)
1959. 2. 6(昭和34)
◇大正・昭和期の美学者。愛媛県生れ。東京帝国大学卒業。
1927(昭和 2)東京帝国大学助教授、同年欧州留学。1931(昭
和 6)東京帝国大学教授。
おおぬき しょうせん
大貫 晶川
1887. 2.23(明治20)
1922.11. 2(大正元)
◇詩人・小説家。本名は雪之助。岡本かの子の実兄。
おおぬま ちんざん
大沼 枕山
1818(文化15. 3.19)
1891.10. 1(明治24)
◇漢詩人。名は厚、字は子寿、通称は捨吉。江戸生れ。明治維
新後も髷を切らなかった。
(5)没日は10. 1。
(11)没日は11. 1。
おおの くろべえ
大野 九郎兵衛
生年不詳
没年不詳
◇江戸中期の播磨国赤穂城代家老。禄高650石。籠城討ち死論
の中で赤穂開城・浅野大学によるお家再興を主張、大石良雄と
対立し逃亡。
『仮名手本忠臣蔵』では「斧九太夫(オノ・キュウダユウ)」。
おおの しずかた
大野 静方
1882. 1.25(明治15)
1944. 9.14(昭和19)
◇日本画家。本名は兵三郎。父は浅草花屋敷の創設者山本金蔵。
山本笑月(ショウゲツ)・長谷川如是閑(ニョゼカン)の実弟。
おおの しゃちく
大野 洒竹
1872(明治 5.11.19)
1913.10.12(大正 2)
◇俳人・俳諧研究家。本名は豊太。熊本県玉名郡彌富村生れ。
東京帝国大学医学部を卒業し、京橋で医院を開業。
(5)誕生日は11.19。
(13)誕生日は 5. 6。
おおの のぶお
大野 誠夫
1914. 3.25(大正 3)
1984. 2. 7(昭和59)
◇歌人。茨城県生れ。竜ヶ崎(リュウガサキ)中学校卒業。
おおの はるなが《おほの はるなが》
大野 治長
生年不詳
1615(慶長20. 5. 8)
◇安土桃山・江戸前期の武将。通称は修理亮。母は大蔵卿局(オ
オクラキョウノツボネ)で淀君の乳母。淀君とは乳兄妹。
母が淀君(秀吉の側室)の侍女という関係から豊臣秀吉に仕え
る。
1599(慶長 4)豊臣秀頼に仕え、秋に徳川家康暗殺計画の容疑
で下野国に流される。1600(慶長 5)関ヶ原の戦では徳川方の東
軍に属したが、その後再び秀頼に仕える。
1614(慶長19)大坂冬の陣では主戦派。1615(慶長20,元和元)
大坂城陥落で、淀君や母などと秀頼に殉ずる。
おおの ばんぼく
大野 伴睦
1890(明治23)
1964(昭和39)
◇昭和期の政治家。岐阜県生まれ。
1946(昭和21)河野一郎が公職追放にされて自由党幹事長に就
任。
◎益谷秀次・林譲治とともに「吉田茂の御三家」と呼ばれた。
おおの りんか《おほの りんくわ》
大野 林火
1904. 3.25(明治37)
1982. 8.21(昭和57)
◇俳人。本名は正(マサシ)。本名は正(マサシ)。神奈川県横浜市生れ。
東京大学経済学部卒業。
1946(昭和21)句誌「浜」を創刊・主宰。
1969(昭和44)蛇笏賞を受賞。
作品は句集1939(昭和14)『海門』・『冬雁(フユカリ)』・『白幡
南町』・『潺潺集(センセンシュウ)』、評論『現代の秀句』・『高浜
虚子』・『戦後秀句』など。
おおのやすまろ《おほのやすまろ》
太 安万侶(太 安麻呂)
生年不詳
723(養老 7. 7. 7)
◇奈良初期の学者。多品治(オオノホムジ)の子と伝えられる。文武
・元明・元正の3朝に歴仕。
704年、従五位下。 711(和銅 4)4月、正五位上。元明天皇
の詔により同年9月、舎人(トネリ)稗田阿礼(ヒエダノアレ)の誦習(ショウ
シュウ)した旧辞を筆録し、『古事記』3巻を撰進、翌年奏上。ま
た舎人親王の『日本書紀』の編修にも与(アズカ)る。 715年、従
四位下。 716(霊亀 2)氏長、民部卿。
(*) 704(大宝 4,慶雲元)、 715(和銅 8,霊亀元)。
おおば かげあき
大庭 景明
1719(享保 4)
1785(天明 5)
◇江戸中期の暦算家。
おおば かげちか《おほば かげちか》
大庭 景親
生年不詳
1180(治承 4.10.26)
◇鎌倉初期の武将。大庭景義(カゲヨシ)の弟。
1156年、保元の乱では兄景義とともに源義朝に従う。のち罪
を得て斬られるところを平氏に救われる。
1180(治承 4)源頼朝の挙兵に際し、平氏に属し頼朝を石橋山
に破る。のち捕われ固瀬河辺で梟首。
(*)1156(久寿 3,保元元)。
おおば かげよし
大庭 景義(大庭 景能)
生年不詳
1210(承元 4)
◇鎌倉前期の武将。大庭景房の子、大庭景親(カゲチカ)の兄。
1156年、保元の乱では弟景親とともに源義朝に従う。
1180(治承 4)源頼朝の挙兵に応じ、景親らと戦う。
(*)1156(久寿 3,保元元)。
おおば かこう
大庭 柯公
1872(明治 5. 7.27)
1924(大正13)
◇明治・大正期の新聞記者・小説家・随筆家。本名は景秋。大
庭景明の三男。山口県生れ。
東京四谷小学校を卒業後、太政官の給仕をしながら夜学校英
語を修める。二葉亭四迷らと古川常一郎にロシア語を学ぶ。
第11師団露語教官。参謀本部通訳官として日露戦争に従軍。
1906(明治39)ロシアに入ろうとしてウラジオストクで拘禁。帰
国後、大阪毎日新聞の海外特派員。のち東京朝日新聞・読売新
聞の特派員。
1921(大正10)革命後のソビエト探訪に赴いて軍事探偵の嫌疑
を受ける。1922(大正11)モスクワで投獄、1924(大正13)春帰国
の途中銃殺されたと伝えられる。
おおば しゅんすけ
大場 俊助
1906. 5.13(明治39)
1970.11.30(昭和45)
◇国文学者。
おおば はくすいろう
大場 白水郎
1890. 1.19(明治23)
1962.10.10(昭和37)
◇俳人。本名は惣太郎(ソウタロウ)、別号は縷紅亭(ルコウテイ)。東京生
れ。府立第三中学校に学ぶ。
おおはし おとわ《おほはし おとは》
大橋 乙羽
1869(明治 2. 6. 4)
1901. 6. 1(明治34)
◇小説家・紀行文作家・出版業者。本名は又太郎、旧姓は渡部、
別号は二橋散史。出羽国(山形県米沢市)生れ。
硯友社同人。尾崎紅葉の媒酌で博文館の館主大橋佐平の長女
と結婚・入婿し、博文館の支配人となる。
作品は小説『こぼれ松葉』・『露小袖』、紀行文『千山万水』
など。
(1)旧姓は渡部。
(3)旧姓は渡部。
(4)旧姓渡辺。
(5)渡辺治兵衛の六男。
(6)旧姓渡部。
(8)渡部治兵衛の六男。
おおはし こうきち
大橋 光吉
1875(明治 8)
1946(昭和21)
◇大正・昭和前期の印刷業者。大橋新太郎の義弟。兵庫県生れ。
小学校卒業後、博文館付属の活版印刷工場博進社に勤務。
1906(明治39)平版印刷の精美堂を設立。1925(大正14)博文館印
刷所と精美堂を合併し、共同印刷を設立。1926(大正15)1〜3
月共同印刷争議が発生。1931(昭和 6)日本書籍会社社長。
おおはし さへい
大橋 佐平
1835(天保 6.12.22)
1901.11. 3(明治34)
◇博文館の創業者。幼名は熊吉、旧姓は渡辺。越後長岡生れ。
大橋新太郎の父。
1881(明治14)『北越新聞』・『越佐毎日新聞』を創刊。1884
(明治17)筆禍により下獄。
1886(明治19)上京し、1887(明治20)博文館を創業。
(2)「北越新聞」「越佐毎日新聞」を創刊。
(6)「大橋新太郎」の項:<北越新聞><越後毎日新聞>を創刊……。
(16)「北越新聞」の前身「越佐新聞」を独力で発刊。
おおはし しんたろう《おほはし しんたらう》
大橋 新太郎
1863(文久 3. 7.29)
1944. 5. 5(昭和19)
◇明治〜昭和前期の出版業者。博文館創業者大橋佐平の三男。
新潟県長岡生れ。
1886(明治19)父佐平とともに上京。1897(明治30)博文館印刷
所(現在の共同印刷)を設立、1901(明治34)佐平没後博文館館主
・大橋図書館を設立、1902(明治35)日本書籍株式会社を設立。
東京商業会議所・大日本麦酒・日本硝子・朝鮮興業・日本郵
船・王子製紙・三井信託などにも関係する。
衆議院議員・貴族院議員。
(2)「大橋佐平」の項:長男大橋新太郎らと……。
(16)1939(昭和14)共同印刷会社(社長は義弟光吉)が創設される
と……:(*)共同印刷の設立は1925(大正14)。
[1]おおはし そうけい
大橋 宗桂(初世)
1555
1634(寛永11)
◇江戸初期の将棋家元、大橋本家の祖。初名は宗金のち宗慶。
2世宗古の父。
織田信長に仕え、その死後徳川家康に仕える。江戸に下り将
軍秀忠の前で本因坊算砂と対局。算砂の後を継ぎ将棋所を司り、
50人5人扶持。
(*)1555(天文24,弘治元)。
[2]おおはし そうけい
大橋 宗桂(5世)
1636(寛永13)
1713(正徳 3)
◇江戸中期の将棋家元。
[3]おおはし そうけい
大橋 宗桂(9世)
1744
1799(寛政11)
◇江戸後期の将棋家元。
(*)1744(寛保 4,延享元)。
おおはし たけお
大橋 武夫
1904(明治37)
1981(昭和56)
◇昭和後期の政治家。浜口雄幸の娘婿。
おおはし とつあん《おほはし とつあん》
大橋 訥庵
1816(文化13)
1862(文久 2)
◇江戸幕末の朱子学者・攘夷思想家。名は正順、字は周道。江
戸の人。
日本橋の豪商大橋淡雅の養子となる。佐藤一斎に学び、思誠
塾を開く。
和宮の降嫁など公武合体を推進する老中安藤信正を、1861
(万延 2. 1.15)襲撃し負傷させた江戸城坂下門外の変を画策し
投獄され、獄死。
おおはし まつへい
大橋 松平
1893. 9. 5(明治26)
1952. 4.28(昭和27)
◇歌人。旧姓は岩崎。大分県日田生れ。
おおはし らぼく
大橋 裸木
1890. 8. 9(明治23)
1933. 8. 8(昭和 8)
◇俳人。名は鎮。
おおばのかげちか
大庭 景親
⇒おおば かげちか(大庭 景親)
おおばのかげよし
大庭 景義
⇒おおば かげよし(大庭 景義)
おおはら きじゅう
大原 其戎
1811(文化 8)
1889(明治22)
◇俳人。
おおはら しげとみ《おほはら しげとみ》
大原 重徳
1801
1879(明治12)
◇江戸幕末・明治維新期の公卿。大原三位。大原重成の子。
1858(安政 5)日米修好通商条約に反対し安政の大獄に連座。
大政復古で参与となる。
(*)1801(寛政13,享和元)。
おおはら まごさぶろう《おほはら まごさぶらう》
大原 孫三郎
1880(明治13)
1943(昭和18)
◇紡績実業家・社会事業家。大原孝四郎の子。岡山県倉敷の人。
東京専門学校(早稲田大学の前身)卒業。
父が創業した倉敷紡績を1906(明治39)引き継ぐ。中国銀行頭
取・京阪電鉄重役などを兼任。
1914(大正 3)大原農業研究所・1919(大正 8)大原社会問題研
究所・倉敷労働科学研究所・1930(昭和 5)大原美術館などを設
立。
おおはら ゆうがく《おほはら いうがく》
大原 幽学
1797(寛政 9)
1858(安政 5)
◇江戸後期の教育家・社会運動家。
下総(シモウサ)香取郡長部村に性理教会を設立。農村救済のため
祖先株組合(協同組合の先駆)を組織、耕地整理を指導。
幕府の弾圧を受け、自刃。
おおひら まさよし
大平 正芳
1910(明治43)
1980. 6.12(昭和55)
◇官僚・戦後の政治家・首相。香川県生れ。
1929(昭和 4)キリスト教の洗礼を受ける。1936(昭和11)東京
商科大学(一橋大)卒業、大蔵省に入る。1951(昭和26)池田勇人
蔵相の秘書官。
1952(昭和27)衆議院議員に初当選。1960. 7.(昭和35)第1次
池田内閣のB官房長官。1960.12.(昭和35)第2次池田内閣の官
房長官・外相。1963(昭和38)第3次池田内閣の外相。1967(昭
和42)自民党政務調査会長。1968(昭和43)第2次佐藤栄作内閣
の通産相。1971(昭和46)宏池会(旧池田派)会長。1972(昭和47)
第1次田中角栄内閣の外相。1974(昭和49)第2次田中内閣の外
相・蔵相。1974(昭和49)三木武夫内閣の蔵相。1976(昭和51)自
民党幹事長。
第1次組閣、1978.12. 7(昭和53)〜1979.11. 9(昭和54)、派
閥抗争により総辞職。第2次組閣、1979.11. 9(昭和54)〜1980
. 7.17(昭和55)、急死により総辞職。
◎はっきり表現しない口癖「アー、ウー」が有名。
おおふじ のぶろう《おほふぢ のぶらふ》
大藤 信郎
1900. 6. 1(明治33)
1961(昭和36)
◇アニメ作家。東京生れ。
監督作品は1924(大正13)『煙り草物語』・『馬具田城の盗賊』
など。
おおまえだ えいごろう《おほまへだ えいごらう》
大前田 英五郎
1793(寛政 5)
1874. 2.26(明治 7)
◇江戸幕末・明治維新期の博徒。本姓は田島。上野国(群馬県)
勢多郡宮城村大字大前田の名主で博徒の久五郎の子に生れる。
身の丈6尺の大男であった。博徒となって関東一円と東海地
方にまで縄張りをもつ大親分となる。
人を殺し諸国を流転、捕われて佐渡に流される。のち舟で脱
出して郷里に帰り、郷里に近い大胡で一時目明しを勤める。
風邪をこじらせて大前田で死亡。
◎伝説的な話が多い。国定忠治は弟分。
おおまち けいげつ
大町 桂月
1969(明治 2. 1.24)
1925. 6.10(大正14)
◇詩人・随筆家・評論家。本名は芳衛(ヨシエ)。土佐高知市生れ。
大町文衛(フミエ)の父。
独逸協会学校・第一高等学校を経て、1893(明治26)東京帝国
大学国文科入学、1896(明治29)卒業。
おおまち とくぞう
大間知 篤三
1900. 4. 9(明治33)
1970. 2.26(昭和45)
◇民俗学者。
おおまち ふみえ
大町 文衛
1898. 1.25(明治31)
1973. 1.11(昭和48)
◇農学者・随筆家。大町桂月(ケイゲツ)の次男。
おおむら かよこ
大村 嘉代子
1884. 5.24(明治17)
1953. 5. 3(昭和28)
◇劇作家。
おおむら ごろう
大村 呉楼
1895. 7. 1(明治28)
1968. 8. 1(昭和43)
◇歌人。
おおむら すみただ《おほむら すみただ》
大村 純忠
1533(天文 2)
1587(天正15)
◇戦国末期の肥前大村の領主、日本最初のキリシタン大名。教
名はバルトロメオ。松浦マンシャの父。
松浦氏の平戸に対抗し、1571(元亀 2)ポルトガル船のため長
崎を開港、南蛮貿易の中心とする。
1582(天正10)有馬晴信・大友宗麟(ソウリン)とともに天正遣欧使
節を派遣。
(?)松浦(マツラ)マンシャの父。
おおむら せいがい
大村 西崖
1868(明治元.10.12)
1927. 3. 8(昭和 2)
◇美術史家。本名は塩沢峰吉、別号は無記菴。静岡県生れ。東
京美術学校彫刻科卒業。
東洋美術史専攻に転じ母校の教授となる。審美書院を設立。
おおむら はま《おほむら はま》
大村 はま
1906. 6. 2(明治39)
2005. 4.17(平成17)
◇国語教育研究家。神奈川県横浜市生れ。
東京女子大学卒業。
1928〜1980(昭和 3〜昭和55)長野の旧制高等女学校や東京の
中学校で国語教師を務め、手作り教材で独創的な授業(単元学
習)を展開して、「授業の神様」と呼ばれた。
◎鳴門教育大学に「大村はま文庫」がある。
おおむら ますじろう《おほむら ますじらう》
大村 益次郎
1824(文政 7. 3.10)
1869(明治 2.11. 5)
◇江戸幕末の兵学者・明治軍制の創設者。幼名は惣太郎のち
亮庵・良庵、旧名は村田蔵六(ゾウロク)また藤原永敏と称する。
1865年大村益次郎と改称。周防国吉敷(ヨシキ)郡鋳銭司(スゼンジ)
村字大村生れ。長州藩の医者村田孝益の子。
1842(天保13)防府の蘭医梅田幽斎に学び、1843(天保14)豊後
の広瀬淡窓(タンソウ)に漢学を学ぶ。1846(弘化 3)大坂の緒方洪庵
の適塾で蘭学・医学を、さらに長崎で蘭学を学び、ふたたび適
塾に戻り塾長をつとめる。1850(嘉永 3)郷里で医業を開くが振
わず、1853(嘉永 6)宇和島藩主伊達宗城に招かれ雇士となって
軍制整備・軍艦建造などを指導。
1856(安政 3)宇和島藩士として江戸に出て、私塾鳩居堂を開
き教授する。幕府の蕃書調所教授手伝・講武所教授。桂小五郎
(木戸孝允)の推薦により1860年、長州藩に迎えられ、士雇・馬
廻士・手廻組・博習堂用掛などを経て藩校明倫館兵学寮教授。
1866(慶応 2)第二次長州征伐では石州口の戦で藩兵を指揮し軍
功をたてる。
ついで新政府に入り、戊辰戦争では軍務官・江戸府判事・鎮
台府民政会計掛のち軍務官副知事。
1868(慶応 4. 5.15)江戸城富士見櫓から官軍を指揮し、上野
の山に立て籠った彰義隊を半日で壊滅させる。
1869(明治 2)兵部大輔(七月〜九月在任)。近代兵制の樹立を
企てフランス式軍制を採用。世襲士族軍隊を廃し農兵徴募を主
張したため、反対派士族(旧長州藩士)に出張中の京都木屋町の
宿舎を襲撃され重傷を負い、2ヶ月後に死去。
◎靖国神社の参道中央に大熊氏広製作の銅像がある。
(16)没日は11.15。
(*)1860(安政 7,万延元)、1865(元治 2,慶応元)。
おおもり ちせつ
大森 痴雪
1877.12.13(明治10)
1936. 5.26(昭和11)
◇劇作家。本名は鶴雄。
おおもり とうめい
大森 桐明
1899. 3. 3(明治32)
1941. 2.22(昭和16)
◇俳人。本名は留郎。
おおもり ひこしち《おほもり ひこしち》
大森 彦七
生年不詳
没年不詳
◇足利尊氏の臣・伊豫国砥部庄千里城の城主。名は盛長。伊予の人。
1336年、湊川(ミナトガワ)の戦に細川定禅に従って宮方の名将楠木正成(クスノキ・
マサシゲ)を破り敗死させ、尊氏に賞せられた。
(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
◎『太平記』に鬼形の正成に悩まされた逸話があり、浄瑠璃・
謡曲・歌舞伎などに脚色。明治時代、福地桜痴の史劇『大森彦
七』が新歌舞伎十八番の1つとして上演。
おおもり ふさきち《おほもり ふさきち》
大森 房吉
1868
1923(大正12)
◇明治・大正期の地震学者。福井市生れ。
1890(明治23)東京大学卒業。イタリア・ドイツに留学、理科
大学教授。1897(明治30)東京大学教授。
大森公式の算出、1901(明治34)地震計の発明、地震帯の研究
など。
(*)1868(慶応 4,明治元)。
おおもり みんぽ
大森 眠歩
1899. 3.27(明治32)
没年不詳
◇劇作家。
おおもり よしたろう《おほもり よしたらう》
大森 義太郎
1898. 9.26(明治31)
1940. 7.28(昭和15)
◇経済学者・評論家。東京生れ。東京大学経済学部卒業。
東京大学助教授。1928(昭和 3)三・一五事件を機に退職。
1937(昭和12)第1次人民戦線事件で検挙。
雑誌「労農」を編集。著書『史的唯物論』など。
(2)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。(生)神奈川県。
(4)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。横浜市生れ。
(5)大森 義太郎(おおもり ぎたろう)。横浜市生れ。
(13)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。
(25)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。横浜生れ。
おおや しんぞう《おほや しんざう》
大屋 晋三
1884. 7. 5(明治17)
1980. 3. 9(昭和55)
◇実業家・政治家。群馬県生れ。妻は大屋政子(タレント)。
帝人社長。運輸大臣。
おおや そういち《おほや さういち》
大宅 壮一
1900. 9.13(明治33)
1970.11.22(昭和45)
◇評論家。戦後一時筆名は猿取哲(サルトリテツ)。大阪府三島郡富田
(トンダ)町生れ。
茨木中学校退学、第三高等学校を経て東京大学文学部社会学
科中退。
1929(昭和 4)翻訳工場のような作業分担の「綜合翻訳団」を組
織。太平洋戦争中は満洲・ジャワの映画会社に徴用。
◎大宅壮一文庫、1971. 3. 1(昭和46)開館。
おおや とおる《おほや とほる》
1850(嘉永 3)
1928(昭和 3)
◇国語学者。号は蔦廼舎(ツタノヤ)・水斎。越後の人。文部省国語
調査委員会委員。
おおや まさこ《おほや まさこ》
大屋 政子
1918.10.27(大正 7)
1999. 1.16(平成11)
◇タレント・実業家。大阪府生れ。夫は大屋晋三(シンゾウ)(帝人
社長)。
大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)卒業。
1941(昭和16)コロムビアレコードから歌手デビュー。
第二次世界大戦後、妻子ある大屋晋三と駆け落ちし、1950
(昭和25)結婚。
胃ガンで死去。
おおやま いくお《おほやま いくを》
大山 郁夫
1880. 9.20(明治13)
1955.11.30(昭和30)
◇評論家・政治家・社会運動家・政治学者。兵庫県出身。早稲
田大学卒業。
大阪朝日論説委員、1918(大正 7)筆禍事件で退社。早稲田大
学教授、1927(昭和 2)労働農民党委員長に就任のため大学より
辞職を勧告される(大山事件)。1931(昭和 6)米国へ亡命、1947
(昭和22)帰国。参議院議員・日本平和委員会会長。1951(昭和
26)スターリン平和賞受賞。
おおやま いわお《おほやま いはほ》
大山 巌(大山 巖)
1842(天保13)
1916(大正 5)
◇明治の元帥・陸軍大将。旧薩摩藩士。大山捨松(ステマツ)の夫。
西郷隆盛・従道のいとこ。
戊辰戦争では薩摩藩兵の砲隊長。1880(明治13)陸軍卿となり、
長州の山県有朋とともに陸軍の勢力を二分する。1885(明治18)
伊藤博文内閣以後、六代の内閣の陸相を勤める。日清戦争に第
二軍司令官。1898(明治31)元帥。1899(明治32)参謀総長。日露
戦争に満州軍総司令官、戦勝の功績で侯爵から公爵に叙せられ
る。晩年、内大臣。
おおやま すてまつ
大山 捨松
1860(安政 7. 2.24)
1919. 2.28(大正 8)
◇日本最初の女子留学生。幼名は咲子(サキコ)、捨松は留学のと
き母唐衣(トウイ)が待つ思いを捨てる意で改名させた、旧姓は山
川。父は会津藩士山川尚江。会津若松生れ。
1871.12.23(明治 4.11.12)十二歳のとき、欧米視察団岩倉具
視の一行に加わり、横浜港を出帆。同行の女子留学生は吉益亮
子(ヨシマス・リョウコ)十五歳・上田貞子(テイコ)十五歳・永井繁子九歳・
津田梅子八歳の四人。1882.10.(明治15)津田梅子とともに帰国。
永井繁子が妻を亡くした大山巌に捨松を紹介し、西郷従道を通
して結婚を申し込まれ、1883.11. 8(明治16)結婚。
1904(明治37)日露戦争では赤十字社篤志看護婦として青山予
備病院で活躍。
実兄山川健次郎は東京帝国大学総長。
おおやま ためおき
大山 為起
1651(慶安 4)
1713(正徳 3. 3.17)
◇江戸中期の神道家(垂加)。山城国紀伊郡生れ。
伏見の稲荷神社松本為穀(タメヨシ)の3男。大山正康の養子。の
ち、正親町実豊(オオギマチ・サネトヨ)の猶子(ユウシ)。
おおやま つなよし《おほやま つなよし》
大山 綱良
1825(文政 8.11. 6)
1877. 9.30(明治10)
◇明治初期の官僚。旧姓は樺山、通称は格之助。薩摩藩出身。
尊攘運動に奔走。
1858(安政 5)安政の大獄に連座して押込(オシコ)めとなる。
のち赦(ユル)されて薩摩藩主島津久光(ヒサミツ)に仕える。
1862(文久 2. 4.23)寺田屋事件では有馬新七を斬(キ)る。
戊辰戦争に従軍し、奥羽鎮撫総督府参謀。
明治維新後、藩参事を経て初代鹿児島県令。鹿児島県の特殊
性を主張し、地租改正や秩禄処分を政府の指示通りに行わなかっ
た。
西南の役では西郷軍を援助し、のち裁判に付されて斬罪とな
る。
おおやま ていいち
大山 定一
1904. 4.30(明治37)
1974. 7. 1(昭和49)
◇ドイツ文学者。
おおやま ひろみつ
大山 広光
1898. 9. 1(明治31)
1970. 1.10(昭和45)
◇劇作家・演劇評論家・雑誌編集者。
おおわだ たけき《おほわだ たけき》
大和田 建樹
1857(安政 4. 4.29)
1910.10. 1(明治43)
◇明治時代の国文学者・歌人・詩人。伊予国(愛媛県)宇和島生
れ。広島外国語学校卒業。
独学で国文学を研究。男女高等師範学校教授・東京大学古典
科講師。
『明治唱歌』・『鉄道唱歌』の作詞者。
(2)大和田 建樹(おおわだ たけき)。没年は1910(明治43)。
(3)大和田 建樹(おおわだ たてき)。
(4)大和田 建樹(おおわだ たけき)。没年は1910。
(5)大和田 建樹(おおわだ たけき)。没日は1910.10. 1(明治
43)。
(6)大和田 建樹(おおわだ たてき)。没年は1910。
(8)大和田 建樹(おおわだ たけき)。
(11)大和田 建樹(おおわだ たてき)。
(13)大和田 建樹(おおわだ たけき)。明治四四年一〇月一日
死亡。
(16)大和田 建樹(おおわだ たてき)。没日は1911(明治44.12
/1)。
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