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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6086.03

                 人   名   辞   典    《おおた》   編集:獨  澄旻

-------- おおた ------------------------------------------------
おおた ぎゅういち
	太田 牛一
	1527(大永 7)
	没年不詳
	◇安土桃山時代の武将。「ごいち」とも読む、通称は又介・又助。
	尾張の人。
	 織田信長の弓衆、本能寺の変後は豊臣秀吉・秀頼に仕える。
	 晩年、『信長公記』・『太閤軍記』などを著す。
おおた ぎょくめい《おほた ぎよくめい》
	太田 玉茗
	1871(明治 4. 5. 6)
	1927. 4. 6(昭和 2)
	◇詩人・小説家。本名は伊藤蔵三、のち養子となり伊藤玄綱(ゲ
	ンコウ)、のち三村(ミムラ)玄綱と改名。埼玉県忍町生れ。東京専門
	学校(現:早稲田大学)英文科卒業。十二歳のとき剃髪出家し、
	のち故郷の羽生(ハニュウ)町建福寺の住職。妹リサは田山花袋の妻。
	(13)明治四年七月武州(埼玉県)忍町に生まる。
おおた きんじょう《おほた きんじやう》
	太田 錦城(大田 錦城)
	1765(明和 2)
	1825(文政 8. 4.23)
	◇江戸中期の漢学者(折衷学派)。名は元貞、字は公軒、通称は
	才佐、号は錦城。加賀大聖寺の医師・本草学者大田玄覚の子、
	母は樫田氏。
	 京都の皆川淇園(キエン)・江戸の山本北山に学ぶが意に満たず、
	宋学に清朝の考証学を取り入れ一家をなし、江戸で教授。三河
	国吉田藩に招かれる。
	 晩年、加賀藩に仕え禄300石。
	 著書は『梧窓漫筆』など。
	◎長男徳厚は加賀藩に、三男敦は吉田藩に仕える。
おおた ごいち
	太田 牛一
	⇒おおた ぎゅういち(太田 牛一)
おおた さきたろう
	太田 咲太郎
	1911. 3.20(明治44)
	1948. 6.24(昭和23)
	◇文芸評論家・フランス文学者。
[1]おおた さぶろう
	太田 三郎
	1884.12.24(明治17)
	1969. 5. 1(昭和44)
	◇画家。挿絵の筆名は君島押之。愛知県生れ。
	 寺崎広業・黒田清輝に師事。
	(?)太田 三郎(おおた さんろう)。
[2]おおた さぶろう
	太田 三郎
	1909.10.10(明治42)
	1976.10.11(昭和51)
	◇比較文学者。
おおた じどうし
	太田 耳動子
	1898. 3.15(明治31)
	1966. 8.21(昭和41)
	◇俳人。本名は清吉。
おおた しゅうみん
	太田 秋民
	1881(明治14)
	1950(昭和25)
	◇大正・昭和初期の大和絵師。本名は益三郎(マスサブロウ)。福島
	県信夫(シノブ)郡平田村(現:福島市山田)の大農家の3男。祖父
	喜平次、父喜十郎、長兄桝太郎。
	 東京美術学校(現:東京芸術大学)で荒木寛畝(カンポ)に師事、
	寛畝の没後はその養子の荒木十畝(ジュッポ)に師事。1917(大正
	 6)第11回文展に初入選。
	 1919(大正 8)東京で教師をしていた宮杜タミ(29歳)と結婚、
	2男2女をもうける。1940(昭和15)妻タミを、その後次男を失
	う。1950(昭和25)次女ヨシ子(18歳)を失い、間もなく病没。
おおた すけきよ
	太田 資清
	1411(応永18)
	1492(延徳 4. 2. 2)
	◇室町前期の武将。法名は道真(ドウシン)。太田資房の子、太田
	道灌(ドウカン)の父。
	 扇谷(オウギガヤツ)上杉持朝に仕え、その子顕房を補佐。山内上
	杉憲忠らとともに足利成氏と戦う。
おおた すけなが
	太田 資長
	⇒おおた どうかん(太田 道灌)
おおた すけはる
	太田 資晴
	1695(元禄 8)
	1740(元文 5)
	◇江戸中期の大名。名は資重のち資在、通称は熊次郎。若年寄
	陸奥国棚倉藩主太田資直の5男。
	 兄4人が早逝したため父の没後、1705(宝永 2)家督を継ぐ。
おおた すけはる
	太田 資始
	1799(寛政11)
	1867(慶応 3)
	◇江戸後期の掛川藩主・老中。隠居後は道醇。
	 大老井伊直弼のもとで、1858(安政 5. 6.)外国事務主管。水
	戸藩に対する処罰が寛大過ぎると大老井伊に非難され、老中を
	辞任、さらに謹慎を命ぜられる。1860(万延元. 9.)謹慎が解か
	れ、1863(文久 3)春に老中に再任されるが在任1ヶ月のみ。
おおた せいぞう
	太田 清蔵
	1863(文久 3)
	1946(昭和21)
	◇明治・大正期の政治家・実業家。
	 1902(明治35)立憲政友会に入党。1929(昭和 4)私鉄疑獄事件
	で拘禁。
おおた ぜんさい《おほた ぜんさい》
	太田 全斎
	1759(宝暦 9)
	1829(文政12. 6.12)
	◇江戸後期の音韻学者・漢学者(折衷学派)。名は方、字は叔亀、
	通称は八郎、号は全斎。福山藩阿部氏の江戸藩邸に生れる。
	 福山藩士で、近習・側用人・年寄格に至り、1823(文政 6)致
	仕。
おおた たつお
	太田 辰夫
	1904. 7. 9(明治37)
	1927. 1.23(昭和 2)
	◇詩人。病没。
おおた ちずお
	太田 千鶴夫
	1906. 3.21(明治39)
	1968. 5.19(昭和43)
	◇小説家・警察医。本名は肥後栄吉。
おおた どうかん《おほた だうくわん》
	太田 道灌
	1432(永享 4)
	1486(文明18. 7.26)
	◇室町中期の武将・歌人。幼名は鶴千代麿・源六郎、初名は
	持資(モチスケ)のち資長(スケナガ)、法名は道灌、通称は左衛門大夫
	・備中守。太田資清(スケキヨ)(道真)の子。相摸国の人。
	 扇谷(オウギガヤツ)上杉家の執事で、政真・定正(サダマサ)を補佐
	する。
	 築城・兵馬の法に長じ、1457年、江戸城を築く。ほかに川越
	(1457年)・岩槻(イワツキ)・鉢形の諸城を築く。江戸城に文庫を設
	け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。
	 1474(文明 6)江古田で石神井城主豊島泰経を破る。
	 1476(文明 8)山内上杉家の内紛(顕定の家臣長尾景春の乱)を
	鎮圧する。扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒
	言(ザンゲン)により、相摸国大住郡糟谷で主君定正に殺される。
	(2)持資の名は確かな史料には見えない。
	(*)1457(康正 3,長禄元)。
	◎主君定正は、道灌の働きをねぎらうという名目で館に招き、
	酒宴を開いた後、道灌が風呂場に入ったところを刺し殺したと
	いう。
	◎狩りで雨に遭い、蓑(ミノ)を借りようとして少女から山吹を受
	け取った紅皿伝説は有名。参照⇒べにざら(紅皿)
おおた どうしん《おほた だうしん》
	太田 道真
	⇒おおた すけきよ(太田 資清)
おおた なんぽ《おほた なんぽ》
	大田 南畝
	1749(寛延 2. 3. 3)
	1823(文政 6. 4. 6)
	◇江戸後期の狂歌師・狂詩作者・幕臣。本名は覃(フカシ,タン)、通
	称は直次郎のち七左衛門、別号は狂詩のときは寝惚(ネボケ)先生
	・四方山人・檀那山人(ダンナサンジン)・新寧武子(シンネイブシ)、洒落
	本では風鈴山人・姥捨(ウバステ)山人・山手馬鹿人・南楼坊路銭
	(ナンロウボウロセン)、狂歌では四方赤良(ヨモノアカラ)・舳羅(チクラ)山人・
	千金子・改年堂御慶など、その他に杏花園(キョウカエン)・蜀山人(ショ
	クサンジン)・馬鹿羅州阿林子(バカラシュウアリンス)、戒名は杏花院心逸日
	休。江戸牛込生れ。大田正智の子、母は杉田八郎兵衛の養女利
	世。
	 1765(明和 2)17歳のとき御徒士となり幕府に出仕。1794(寛
	政 6)湯島聖堂の学問吟味に首席で及第。1795(寛政 7)48歳で
	支配勘定。1801年、53歳で大阪銅座詰、翌年帰府。1804年、55
	歳で長崎奉行所勤務、翌年帰府。1808(文化 5)玉川治水視察を
	命ぜられる。以後は勘定所勤務。
	 19歳のとき流行作家平賀源内に紹介されたのが機縁となり著
	作を始める。子息が病廃したため70を過ぎても隠居できなかっ
	た。
	 著書は『蜀山百首』・『万載狂歌集』・『寝惚先生文集』な
	ど。
	 辞世の句は「ほととぎす鳴きつるかた身初がつお/春と夏と
	の入相のかね」。
	 唐衣橘洲(カラゴロモ・キッシュウ)・朱楽菅江(アケラ・カンコウ)らとともに天
	明調の狂歌三大家と呼ばれる。
	◆墓は東京都文京区白山の本念寺。
	(*)1801(寛政13,享和元)、1804(享和 4,文化元)。
	◎1784(天明 4)黄表紙に七福神めぐりを書いたことから流行し
	た。
おおた まさひろ
	太田 政弘
	1870(明治 3)
	1951(昭和26)
	◇大正・昭和期の内務官僚・政治家。山形県生れ。東京大学卒
	業。
	 1924(大正13)警視総監。1926年、貴族院議員。1929(昭和 4)
	関東州長官。1931〜1932(昭和 6〜昭和 7)台湾総督。民政党総
	務。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
おおた みずほ《おほた みづほ》
	太田 水穂
	1876.12. 9(明治 9)
	1955. 1. 1(昭和30)
	◇大正・昭和期の歌人・国文学者。本名は貞一、号は
	「みづほのや」。長野県東筑摩(ヒガシチクマ)郡原新田(ハラシンデン)村生
	れ。
	 1898(明治31)長野師範学校卒業。郷里の小学校長・女学校教
	諭を勤めながら作歌。「潮音」を主宰。
	 1909(明治42)結婚した妻の四賀光子(シガ・ミツコ)は矢ヶ崎奇峰
	(ヤガサキ・キホウ)の妻の妹。
	 作品は歌集『雲鳥』・『冬菜』など。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
おおた もちすけ
	太田 持資
	⇒おおた どうかん(太田 道灌)
おおた ようこ
	大田 洋子
	1906.11.18(明治39)
	1963.12.10(昭和38)
	◇明治期の小説家。本名は初子。広島市中島本町生れ。
	 8歳で父母が離婚し小学校入学と同時に親類の大田家に入籍、
	3年後母の再婚先に伴われた。
	 1917(大正 6)広島市の進徳高等女学校に入学、1921(大正10)
	卒業後研究科に進み、1923(大正12)研究科を卒業し、江田島の
	小学校の教師となるが、在任6ヶ月で辞職。
	 1926(大正15)結婚し一子を設けたが、のち離婚。
	 1945. 8.(昭和20)疎開先の郷里広島で被爆。
	(1)誕生日は1903.11.10(明治36)。
	(2)生年は1903(明治36)、生没日記載なし。
	(3)誕生日は1906.11.18(明治39)。
	(5)誕生日は1906.11.18(明治39)。
	(8)誕生日は1903.11.20(明治36)。
	(11)誕生日は1903.11.20(明治36)。
	(13)誕生日は1906.11.(明治39)、没日は 9.10。
おおた よしお
	太田 善男
	1880.10.(明治13)
	没年不詳
	◇評論家。1944(昭和19)慶応義塾大学予科教授、定年退職。
おおたか げんご《おほたか げんご》
	大高 源五
	⇒おおたか ただお(大高 忠雄)
おおたか ただお
	大高 忠雄
	1672(寛文12)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士・浅野家の中小姓。膳番元方・物腰方・
	金奉行、二十石五人扶持。通称は源五(ゲンゴ)、俳号は子葉、
	戒名は刃無一剣信士。吉良家を探索中の変名は脇屋新兵衛(ワキヤ
	・シンベエ)。父は兵左衛門(ヘイザエモン)、母は小野寺十内(オノデラ・ジュ
	ウナイ)の実姉貞立尼(テイリュウニ)、弟幸右衛門(コウエモン)は十内の養子。
	 俳諧を水間沾徳に学び、榎本其角と親交。
	 主君の長矩(ナガノリ)死後、茶人羽倉斎(イツキ)(荷田春満)らと交
	わり、吉良邸の内情を探る。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
	カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、宮原九太夫(ミヤハラ・キュウダユウ)
	の介錯(カイシャク)で切腹。
	 辞世の句は「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」。
	 『仮名手本忠臣蔵』では「大鷲文吾」。
	(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
		成美堂出版		昭和56年11月 1日初版発行
		監修:尾崎秀樹		昭和57年 1月10日四刷発行
	 「宮原九太夫」は「木村岡右衛門貞行」の項での「宮原久太夫」と
	同一か?。
おおたがき れんげつ《おほたがき れんげつ》
	大田垣 蓮月
	1791(寛政 3. 1. 8)
	1875.12.10(明治 8)
	◇江戸後期の女流歌人。本名は誠(ノブ)、出家して蓮月・蓮月
	尼(レンゲツニ)。伊賀国上野藩士藤堂氏の娘、知恩院寺侍大田垣伝
	右衛門光古(テルヒサ)の養女。京都の人。
	 彦根藩士古川重二郎を婿とするが夫や子に死別。30歳で出家
	し、自詠の歌を書いた陶器(蓮月焼)を焼いて生活の資(モト)とす
	る。
	 晩年は西賀茂神光院境内の草庵に住む。
	 著書は家集『海人の刈藻』・『蓮月歌集』。
	◆墓は京都西芳寺。
	(2)近藤氏に嫁ぐが1819(文政 2)に死別,父母・子供も次々に
	失い……。
	(4)婿古川重二郎の死後、尼となって……。
	(16)彦根藩士古川重二郎を婿としたが夫および愛児に死別,30
	才で尼となる.
おおたぐろ かつひこ
	太田黒 克彦
	1895. 7. 1(明治28)
	1968.10.28(昭和43)
	◇児童文学者・随筆家。
おおたぐろ ともお《おほたぐろ ともを》
	大田黒 伴雄
	1835(天保 6)
	1876(明治 9)
	◇明治初期の神風連(敬神党)の首領。熊本藩士飯田某の次男、
	大野氏の養子のち新開太神宮の神官大田黒伊勢の養子。
	 熊本勤王党の国学者林桜園に国学を学ぶ。
	 明治政府の開国和親・文明開化の政策に反対し、1876(明治
	 9)佩刀禁止令を機に国粋保持を唱えて、熊本藤崎神社の社前
	で170余名の同志とともに挙兵、熊本鎮台を襲い、鎮台司令官
	種田政明・県令安岡良亮を斬るが流れ弾に当り死亡。
おおだち しげお
	大達 茂雄
	1892(明治25)
	1955(昭和30)
	◇大正・昭和期の官僚・政治家。
	 1934(昭和 9)満州国法制局長、1936(昭和11)満州国国務院総
	務庁長。1942(昭和17)昭南(シンガポール)市長。1943(昭和18)初代
	東京都長官となり決戦に備える。
	 太平洋戦争後、公職追放。解除後、自由党に入党。
おおたに ぎょうせき
	大谷 繞石
	1875. 8.(明治 8)
	1933. 2.17(昭和 8)
	◇俳人。本名は正信。
	(8)大谷 繞石(おおたに じょうせき)、誕生日は1875. 3.22
	(明治 8)、没日は1933.11.17(昭和 8)。
おおたに くぶつ
	大谷 句仏
	⇒おおたに こうえん(大谷 光演)
おおたに こうえい
	大谷 光瑩
	1852(嘉永 5)
	1923(大正12)
	◇明治期の東本願寺第22代法主。法名は現如。第21代法主光勝
	(コウショウ)の子、母は邦家親王の娘嘉枝宮。第23代法主大谷光演
	(句仏)の父。
	 1889(明治22)東本願寺第22代法主。1896(明治29)伯爵。1898
	(明治31)法主を光演に譲り隠退。
おおたに こうえん
	大谷 光演
	1875. 2.27(明治 8)
	1943. 2. 6(昭和18)
	◇明治後期の東本願寺第23代法主(真宗大谷派)・俳人。本名は
	光演、幼名は光養麿、法名は彰如、号は句仏(クブツ)・春坡・
	蕪孫・愚峯・獅子窟主人。第22代法主大谷光瑩(コウエイ)の次男。
	京都市東六条生れ。
	 1884(明治17)得度。1908(明治41)東本願寺第23代法主。鉱山
	事業に失敗し、1925(大正14)隠退。
	◆句仏忌[ 2. 6]。
	(?)法名は彰治。
	(2)法名は彰如。
おおたに こうしょう
	大谷 光勝
	1817(文化14)
	1894(明治27)
	◇江戸幕末・明治前期の東本願寺第21代法主。幼名は予丸、法
	名は厳如。第20代大谷光朗(達如)の三男。第22代法主大谷光瑩
	(コウエイ)の父。
	 1846(弘化 3)東本願寺第22代法主。1863(文久 3)幕府に軍費
	1万両を献納。1866(慶応 2)徳川家より5万両の寄進を受ける。
	1868年、勤皇側に立ち、朝廷に軍費1万両・米4千俵を献納。
	1889(明治22)法主を光瑩に譲り隠退。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
おおたに こうしょう《おほたに こうせう》
	大谷 光照
	1911.11. 1(明治44)
	2002. 6.14(平成14)
	◇西本願寺(浄土真宗本願寺派)第23代門主。父は大谷光明(大
	谷光瑞の弟)、母は九条きぬこ(貞明皇后の妹)。
	 光瑞が本山の財団疑獄事件で辞任後、1927(昭和 2)10.16得
	度、10.21門主に就任。
	 1935. 3.(昭和10)東京帝国大学文学部、卒業。
	 1937. 4.(昭和12)徳大寺嬉子と結婚。
	 1977. 4. 1(昭和52)門主を退任。
おおたに こうずい《おほたに くわうずい》
	大谷 光瑞
	1876.12.(明治 9)
	1948.10. 5(昭和23)
	◇明治後期の西本願寺第22代門主。法号は鏡如。第21代門主大
	谷光尊の長男(庶子)、大谷尊由(ソンユウ)(光尊の4男)・九条武子
	(光尊の次女)の兄。妻籌子の妹節子(サダコ)は大正天皇の貞明皇
	后となる。
	 学習院卒業・共立学校中退ののちヨーロッパに留学。
	 1898(明治31)九条道孝公爵の娘籌子と結婚。
	 1902〜03(明治35〜36)中央アジアの探検を行い、その後2回
	1908〜09(明治41〜42),1910〜12(明治43〜44)、大谷探検隊を
	派遣。
	 1914(大正 3)財団疑獄事件で本願寺の職を退く。
	 太平洋戦争中、大東亜建設審議会委員。中国の大連で敗戦を
	迎え、1947(昭和22)帰国。
	(2)'14(大正 3)財団疑獄事件を契機に本願寺住職,管長職を退
	く。
	(6)24年職を辞した後、海外に暮らす。
	(16)1907〜14(明治40〜大正 3)年西本願寺住職,同派管長とな
	る.
おおたに こうそん
	大谷 光尊
	1850(嘉永 3)
	1903(明治36)
	◇江戸幕末・明治前期の西本願寺第21代門主。法号は明如。第
	20代門主大谷光沢の子、大谷光瑞(コウズイ)・尊由(ソンユウ)・九条
	武子の父。
	 明治政府の教部省の大教正となる。刑務所教誨・軍隊布教に
	当る。
おおたに こうたく
	大谷 光沢
	1798(寛政10)
	1871(明治 4)
	◇江戸幕末の西本願寺第20代門主。幼名は祥寿麿、法名は広如。
	河内国顕証寺暉宣の子、第19代門主光摂(本如)の養子。第21代
	門主光尊(コウソン)の父。
	 1826(文政 9)西本願寺第20代門主。1863(文久 3)朝廷に討幕
	の軍費を献納。
おおたに そんゆう
	大谷 尊由
	1886(明治19)
	1939(昭和14)
	◇大正・昭和初期の僧侶・政治家。第21代門主大谷光尊の4男、
	大谷光瑞の弟、九条武子(光尊の次女)の兄。
	 1928(昭和 3)貴族院議員、1937(昭和12)第1次近衛文麿内閣
	の拓務大臣。1938(昭和13)北支開発会社総裁、同年内閣参議。
おおたに たけじろう
	大谷 竹次郎
	1877.12.13(明治10)
	1969.12.27(昭和44)
	◇明治〜昭和期の実業家。双子の白井松次郎の弟。
	 京都歌舞伎座など京都の主要劇場を買収し、1902(明治35)白
	井松次郎とともに松竹合名会社を設立。大阪の朝日座・文楽座
	・東京の明治座・歌舞伎座を買収し大阪・東京に進出、歌舞伎
	興行権をほぼ独占。
	 1921(大正10)松竹キネマ会社を設立、小林一三の東宝と映画
	界を二分し覇を競う。1931(昭和 6)兄松次郎、松竹興業社長。
	1937(昭和12)松竹社長、1949(昭和24)歌舞伎座社長を兼任。
	1951(昭和26)兄松次郎が死去。1954(昭和29)松竹会長。
	 1955(昭和30)文化勲章を受章。
	(2)1902(明治35)松竹合名を設立。'20(大正 9)映画界にのりだ
	し,'20松竹シネマを設立……。
	(4)「白井松次郎」の項:明治三五年弟大谷竹次郎とともに松竹合
	名社を創立。大正四年松竹キネマ創設。
	(6)1905年松竹合名会社を設立。21年松竹キネマ会社を設立。
	 「松竹」の項:1902年設立した松竹合名が前身。
	(16)1905(明治38)年松竹合名会社を設立.'21(大正10)年松竹
	キネマをおこし…….
	◎「松竹」の名は松次郎・竹次郎の兄弟の名から付けられた。
おおたに ちゅういちろう
	大谷 忠一郎
	1902.11.29(明治35)
	1963. 4.12(昭和38)
	◇詩人。本名は忠吉。
おおたに ふじこ
	大谷 藤子
	1903.11. 3(明治36)
	1977.11. 1(昭和52)
	◇小説家。本名は大谷(オオヤ)トウ。埼玉県秩父郡生れ。東京の
	三田高等女学校を卒業し、東洋大学の聴講生となる。
	(1)生年は1903(明治36)。
	(3)生年は1903(明治36)。
	(5)生年は1901(明治34)。
	(8)生年は1903(明治36)。
	(11)生年は1903(明治36)。
おおたに へきうんきょ
	大谷 碧雲居
	1885. 9. 9(明治18)
	1952. 5.28(昭和27)
	◇俳人。本名は浩(コウ)、号は雨石(篆刻)。
おおつか きんのすけ《おほつか きんのすけ》
	大塚 金之助
	1892. 5.15(明治25)
	1977. 5. 9(昭和52)
	◇大正・昭和期の経済学者・思想史家・歌人。別名は遠見一郎
	・石井光。東京生れ。
	 神戸高等商業(現:神戸大学)・東京高等商業(現:一橋大学)卒
	業。ドイツ留学後、東京商科大学(現:一橋大学)教授。
	 1927(昭和 2)東京社会科学研究所の設立に参加。1933(昭和
	 8)伊豆湯ヶ島で治安維持法違反により検挙。
	 第二次世界大戦後、一橋大学名誉教授。
	 著書は『解放思想史の人々』など、歌集『人民』など。
おおつか くすおこ《おほつか くすをこ》
	大塚 楠緒子
	⇒おおつか なおこ(大塚 楠緒子)
おおつか けいぞう
	大塚 令三
	1909(明治42)
	1952(昭和27)
	◇昭和期の中国共産党の研究者。
	 南満州鉄道(満鉄)に入社し、同社の給費生として慶応義塾大
	学に学び、満鉄で橘樸(タチバナ・シラキ)の指導を受ける。
おおつか こうざん
	大塚 甲山
	1880. 1. 1(明治13)
	1911. 6. 7(明治44)
	◇俳人・詩人。本名は寿助(ジュスケ)。青森県生れ。肺結核によ
	り死去。
	(5)没日は 6. 7。
	(8)没日は 6.13。
	(11)没日は 6. 7。
おおつか そうご
	大塚 蒼梧
	⇒おおつか よしき(大塚 嘉樹)
おおつか たけまつ
	大塚 武松
	1878(明治11)
	1946(昭和21)
	◇明治〜昭和期の歴史学者。山口県出身。東京大学卒業。
おおつか なおこ《おほつか なをこ》
	大塚 楠緒子
	1875. 8. 9(明治 8)
	1910.11. 9(明治43)
	◇明治時代の小説家・歌人・詩人。本名は久寿雄(クスオ)、別称
	は楠緒(クスオ)・楠緒子(ナオコ)・久寿緒子。東京麹町生れ。東京控
	訴院長大塚正男の長女で、大塚保治(ヤスジ)を婿養子に迎えて結
	婚。
	 1890(明治23)竹柏園に入門、歌を佐佐木弘綱・佐佐木信綱に
	学ぶ。
	 女子高等師範学校附属高等女学校卒業。
	 日露戦争の時、従軍中の無事を祈る長詩『お百度詣(モウデ)』
	を発表。
	 代表作は小説『晴小袖』・『離鴛鴦』・『空薫(ソラダキ)』・
	『露』など。
	◎小説の文体に夫の友人夏目漱石の影響が著しく、漱石の恋人
	という一説があった。
	 早世し、漱石の手向けの句「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」が
	ある。
	(2)大塚 楠緒子(おおつか なおこ)。
	(4)大塚 楠緒子(おおつか くすおこ)。
	(13)大塚 楠緒子(おおつか なおこ)。
	(16)大塚 楠緒子(おおつか なおこ)。
おおつか ひさお《おほつか ひさを》
	大塚 久雄
	1907(明治40)
	1996(平成 8)
	◇経済史学者。京都府生れ。
	 1992(平成 4)文化勲章、受章。
	 著書は『株式会社発生史論』(1938年)・『近代欧州経済史序
	説』・『近代資本主義の系譜』(1947年)・『共同体の基礎理論』
	(1955年)など。
おおつか やすじ《おほつか やすぢ》
	大塚 保治
	1868(明治元.12.20)
	1931. 3. 2(昭和 6)
	◇明治・大正期の美学者。旧姓は小屋。大塚正男の婿養子で、
	大塚楠緒子(ナオコ)の夫。群馬県南勢多郡木瀬村(現:前橋市)生れ。
	 1891(明治24)東京帝国大学哲学科卒業。東京大学教授、最初
	の美学講座を担当。
	(2)1868〜1931(明治1〜昭和6)。
	(13)明治二年群馬県に生まる。
おおつか やのすけ《おほつか やのすけ》
	大塚 弥之助
	1903(明治36)
	1950(昭和25)
	◇地質学者。東京生れ。
	 東京大学卒業。
	 東京文理科大学(現:筑波大学)・東京大学教授。地震研究所
	所員。
	 著書は『日本の地質構造』など。
おおつか よしき《おほつか よしき》
	大塚 嘉樹
	1731(享保16)
	1803(享和 3. 6.29)
	◇江戸後期の故実家。名は嘉樹、通称は市郎左衛門、字は子敏、
	号は蒼梧(ソウゴ)・老邁陳人。京都の人。
	 京都で学び、のち江戸で教授。
	 著書は『服飾類聚』・『校正装束拾要抄』・『蒼梧随筆』な
	ど。
	◎伊勢貞丈(サダタケ,テイジョウ)と並び称される。
おおつき げんかん
	大槻 玄幹
	1785(天明 5)
	1837(天保 8)
	◇江戸後期の蘭方医。名は茂(「木」偏+「貞」:補助3644)、字は
	子節、号は磐里。大槻玄沢の長男、大槻磐渓(バンケイ)の兄。
	 1811(文化 8)幕命により父玄沢とともに天文台に出仕し、蕃
	書和解に従う。
	(2)「大槻玄沢」の項:1811(文化 8)幕府の命を受けて蘭書の翻訳
	に従事。
	(6)「大槻玄沢」の項:1811年から蛮書和解御用を勤め……。
	(16)1800(寛政12)年父と共に天文台に出仕し,蕃書和解に従う.
	 「大槻玄沢」の項:1811(文化 8)年から幕命によって天文台に
	出仕し,長男の玄幹と共に…….
おおつき けんじ
	大槻 憲二
	1891.11. 2(明治24)
	1977. 2.23(昭和52)
	◇文芸評論家・心理学者。
おおつき げんたく《おほつき げんたく》
	大槻 玄沢
	1757(宝暦 7)
	1827(文政10. 3.30)
	◇江戸後期の蘭方医。本名は茂質(シゲタカ)、字は子煥、別号は
	磐水。大槻玄梁の子、大槻玄幹(ゲンカン)・大槻磐渓(バンケイ)の父、
	大槻如電(ジョデン)・大槻文彦の祖父。陸奥国一ノ関生れ。
	 12歳で一ノ関藩医建部清庵に医術を学ぶ。1778(安永 7)22歳
	で江戸に出て杉田玄白にオランダ医学を修め、のち前野良沢に
	蘭学を学ぶ。さらに1785(天明 5)長崎にも遊学。
	 1786(天明 6)江戸詰めの仙台侯侍医となり、京橋に家塾芝蘭
	堂(シランドウ)を開く。1811(文化 8)幕命により長男玄軒とともに
	天文台に出仕し、蕃書和解に従う。仙台藩の番頭次席となり
	300石加増。1822(文政 5)幕府から長年の蕃書和解の功により
	5人扶持を給付。
	 著書は1783(天明 3)『蘭学階梯』・1826(文政 9)『重訂解体
	新書』など。
	◎号の玄沢は師の杉田玄白・前野良沢から各1字を戴いたもの。
おおつき しゅんさい
	大槻 俊斎
	1806(文化 3)
	1862(文久 2. 4. 9)
	◇江戸幕末の蘭方医。名は肇、字は仲敏、号は弘淵。
	 仙台藩を出奔、江戸で足立長雋(チョウシュン)に医学を学ぶ。
	 長崎の高島秋帆から痘種を得て、1841(天保12)江戸で最初の
	接種に成功。
	 1857(安政 4)江戸に伊東玄朴(ゲンボク)・戸塚静海・箕作院甫
	ら江戸の医師80余名と協力し、神田お玉ヶ池に種痘館を開く。
	1860年、種痘館が幕府から公認され種痘所と改称し頭取、翌年
	さらに西洋医学所と改称後も幕府から頭取に任命。
	(*)1860(安政 7,万延元)。
おおつき じょでん
	大槻 如電
	1845(弘化 2. 8.17)
	1931. 1.12(昭和 6)
	◇明治期の蘭学者・考証家。本名は清修、通称は修二。大槻玄
	沢の孫、大槻磐渓(バンケイ)の子、大槻文彦の兄。
	 雅楽・俗曲など日本音楽にも精通。
	(6)大槻 如電(おおつき じょでん)。
	(8)大槻 如電(おおつき にょでん)。
おおつき ずいきょう
	大槻 瑞卿
	⇒おおつき せいばん(大槻 西磐)
おおつき せいばん
	大槻 西磐
	1818
	1857(安政 4)
	◇江戸幕末の儒学者。名は清禎または禎、字は瑞卿、通称は
	恒輔、号は西磐。大槻清臣の次男。仙台生れ。
	 江戸神田小川町に塾を開く。
	(*)1818(文化15,文政元)。
おおつき たかより
	大槻 隆仗
	1883. 5. 6(明治16)
	没年不詳
	◇評論家・小説家。別号は隆・乗山高陽。
おおつき でんぞう
	大槻 伝蔵
	1703(元禄16)
	1748(寛延元. 9.12)
	◇江戸中期の加賀藩家臣。名は朝元、通称は伝蔵のち内蔵允。
	禄250石大槻七左衛門の3男、叔父大槻長兵衛の養子。祖父は
	鉄砲足軽。
	 1716年、15歳で藩主前田綱紀の世子吉徳(ヨシノリ)に仕え寵愛を
	受ける。1723(享保 8)吉徳が藩主となり軽輩から急激に累進、
	1743(寛保 3)3千8百石。吉徳の信任をたのみ権勢をふるい家老
	前田直躬らの保守派から反感を買う。さらに家督問題が錯綜(サ
	クソウ)。
	 1745(延享 2)吉徳が急死し、直躬らは伝蔵と吉徳の妾真如院
	(お貞)らが真如院の子を嗣君として主家の横領企てたと訴える。
	宗辰が襲封し、伝蔵は蟄居(チッキョ)を命ぜられ、さらに藩主毒殺
	の嫌疑により越中五箇山の獄に入れられ自殺。真如院は密殺さ
	れ、伝蔵関係者はすべて断罪される(加賀騒動)。
	(2)生年は1703(元禄16)。
	(6)生年は1702。
	(16)生年は1703(元禄16)。
	(*)1716(正徳 6,享保元)
おおつき ばんけい《おほつき ばんけい》
	大槻 磐渓
	1801(享和元. 5.15)。
	1878. 6.13(明治11)
	◇江戸幕末の漢学者。本名は清崇(キヨタカ)、字は士広、通称は
	平次、号は磐渓。大槻玄沢の次男、大槻玄幹(ゲンカン)の弟。大
	槻如電・大槻文彦の父。仙台藩の侍講。
	 はじめ昌平黌に学び、1827(文政10)長崎奉行近習となり長崎
	に遊学。のち江戸詰めの仙台藩学問稽古人。西洋諸国が渡来す
	るので、大塚瑪蜂に師事し西洋砲術を究める。江川塾の学頭。
	親露排英の開港論を主張。1862(文久 2)仙台に移り養賢堂の学
	頭。
	 1868年、奥羽列藩同盟を支持、文書の起草に当り、のち投獄。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
おおつき ばんすい
	大槻 磐水
	⇒おおつき げんたく(大槻 玄沢)
おおつき ふみひこ《おほつき ふみひこ》
	大槻 文彦
	1847(弘化 4.11.15)
	1928. 2.17(昭和 3)
	◇明治・大正期の国語学者。前名は清復(キヨマタ)、通称は復三郎
	(フクサブロウ)のち文彦、号は復軒・仮名の舎。大槻玄沢の孫、大
	槻磐渓の次男、大槻如電の弟。江戸生れ。
	 開成校(のち大学南校)・仙台の藩校養賢堂などに学び、横浜
	で数学・英語を修める。1872(明治 5)文部省に出仕。1873(明
	治 6)宮城県師範学校長。第一高等学校教諭・宮城県立中学校
	長・東京高等師範学校講師。
	 1875(明治 8)文部省から日本辞書の編纂を命ぜられ、ウェブ
	スター簡約版を模範に、1891(明治24)『言海』(後増補して
	『大言海』)を刊行。
	 1883(明治16)「かなのくわい」を作る。1897(明治30)『広日本
	文典』を刊行。1900(明治33)国語調査委員会委員。1912年、帝
	国学士院会員。
	(2)洋学者大槻磐渓の次男。
	(4)磐渓の第三子。
	(16)大槻磐渓の2男.
	(*)1912(明治45,大正元)。
おおつのおうじ《おほつくわうじ》
	大津 皇子
	⇒おおつのみこ(大津 皇子)
おおつのみこ
	大津 皇子
	 663[天智 2]
	 686(朱鳥元.10. 3)
	◇大和時代の歌人・漢詩人。天武天皇の第3子、母は持統天皇
	の姉大田皇女(ヒメミコ)。高市皇子(タケチノミコ)・草壁皇子(クサカベノミコ)
	の異母弟、忍壁皇子(オサカベノミコ)の異母兄。大伯皇女(オオクノヒメミコ)
	(大来皇女)の同母弟、粟津王の父。「おおつのおうじ(大津皇子)」
	とも呼ぶ。
	  672[弘文元. 6.]9歳の壬申(ジンシン)の乱のとき、大津京を
	脱出し、伊勢国鈴鹿関で父大海皇子(天武天皇)に合流。
	  673[天武元]姉の大伯皇女、伊勢の斎王となる。
	  683[天武11]太政大臣。 685[天武13]浄大弐。
	 皇太子の草壁皇子(クサカゲノオウジ)(皇后のちの持統天皇の子)と
	ともに皇位継承の有力な候補者であり、 686(朱鳥元. 9. 9)天
	武の崩御直後にたくまれた謀反の廉(カド)で死を賜り、訳語田
	舎(オサダノイエ)(自邸)で刑死。妃の山辺(ヤマノヘ)皇女も殉死。葛城
	の二上山(フタガミヤマ)に葬られる。
	 辞世の句は「ももづたふ磐余(イハレ)の池に鳴く鴨(カモ)を/今日
	のみ見てや雲隠りなむ」。
	◆二上山の頂上にある現在の大津皇子の墓は1876(明治 9)に治
	定されたもの。
おおつぼ すなお
	大坪 砂男
	1904. 2. 2(明治37)		????
	1965. 1.12(昭和40)
	◇小説家。本名は和田六郎。東京薬科専門学校卒業。警視庁鑑
	識課勤務。
	(5)誕生日は 2. 1。
	(8)誕生日は 2. 1。
おおつぼ そうじろう
	大坪 草二郎
	1900. 2.11(明治33)
	1954.11.25(昭和29)
	◇歌人・小説家。本名は竹下市助。
おおて たくじ
	大手 拓次
	1887.11. 3(明治20)
	1934. 4.18(昭和 9)
	◇詩人。本名は吉川惣一郎。群馬県碓氷(ウスイ)郡磯部の旅館宝
	来館の次男に生れる。脳病を煩う。1912(明治45)早稲田大学英
	文科卒業。独身。茅ヶ崎南湖院で病没。
	(1)誕生日は11. 3。
	(3)誕生日は12. 3、筆名は吉川惣一郎。
	(5)誕生日は12. 3、初期の筆名は吉川惣一郎(ソウイチロウ)。
	(8)誕生日は11. 3、戸籍上は12. 3。
	(11)誕生日は12. 3、初期の筆名は吉川惣一郎。
	(13)誕生日は10. 3、初期の筆名に吉川惣一郎を用いた。
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