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人 名 辞 典 《おおく》 編集:獨 澄旻
-------- おおく ------------------------------------------------
おおくに たかまさ《おほくに たかまさ》
大国 隆正
1792(寛政 4.11.29)
1871(明治 4. 8.17)
◇幕末・明治維新期の国学者・神道家。初名は秀文・秀清、字
は子蝶、通称は仲衛、号は如意山人・佐紀乃屋・葵園・真瓊園、
初姓は今井のち野々口(ノノグチ)・晩年は大国氏を称する。岩見
国(島根県)津和野藩士今井秀馨の長子。江戸桜田の藩邸で生れ
る。
1807(文化 4)平田篤胤(アツタネ)に国学、1809(文化 6)昌平黌(ショ
ウヘイコウ)で古賀精里(セイリ)に儒学、1810(文化 7)村田春門に和歌・
音韻の学を学ぶ。
1817(文化14)家督を継ぐ。
1818年、長崎に遊学し、蘭学・梵学を修める。国学を本学と
称して京都摂津で報本学舎を設けて講義し名声が高まる。京坂
地方の諸藩校で本学を講義し、尊皇の士気を鼓舞する。
明治維新後、藩主亀井茲藍とともに神祇事務局に出仕して権
判事、復古神道を唱え廃物毀釈の口火を切る。辞任して神祇局
の顧問役。
(*)1818(文化15,文政元)。
◎門人は玉松操(タママツ・ミサオ)・福羽美静(フクバ・ビセイ)など。
おおくぼ さくじろう
大久保 作次郎
1890.11.24(明治23)
1973. 2.28(昭和48)
◇画家。
おおくぼ しょうなん
大久保 湘南
1865(慶応元.10.19)
1908. 2. 9(明治41)
◇漢詩人。名は達、字は雋吉(シュンキチ)、号は湘南。
おおくぼ ただかず
大久保 忠員
1511(永正 8)
1582(天正10)
◇戦国・安土桃山時代の武将。名は甚四郎・平右衛門。大久保
忠俊の弟。大久保忠世・忠佐・忠教(タダタカ)(彦左衛門)の父。
おおくぼ ただざね
大久保 忠真
1781
1837(天保 8)
◇江戸後期の老中。名は秀次郎・新十郎。老中大久保加賀守忠
顕の子、母は杉山氏。
1795(寛政 7)小田原城主11万3400余石。1815(文化12)京都所
司代。1818年、老中。1834(天保 5)老中首座。
(*)1781(安永10,天明元)、1818(文化15,文政元)。
おおくぼ ただたか《おほくぼ ただたか》
大久保 忠教
1560(永禄 3)
1639(寛永16. 2.30)
◇江戸前期の幕臣。初名は忠雄・平助、名は忠教(タダタカ)、通
称は彦左衛門・彦左。大久保忠員(タダカズ)の8子、母は小坂氏、
長兄は忠世(タダヨ;異母兄)、次兄は忠佐(タダスケ)(沼津2万石)。
大久保忠隣(タダチカ)(忠世の子)の叔父。三河生れ。徳川家康・
秀忠・家光に仕える。
1576(天正 4)遠江国乾(イヌイ)の戦を初陣とし各地に戦い武功
を挙げる。小田原城主大久保忠隣(タダチカ)の所領武蔵国埼玉郡
内に2千石を領する。大久保長安(ナガヤス)の生前の不正が発覚
し、1614(慶長19)忠隣が改易された際、駿府に召され三河国額
田(ヌカタ)郡1千石。1632(寛永 9)旗奉行となり、1千石加贈。
家訓『三河物語』を著す。
(2)遠江犬居(イヌイ)合戦の初陣……。
(16)遠江国乾(イヌイ)の戦が初陣…….
◆忠教は江戸麻布市兵衛町に立行寺を創建、死後に大久保寺と
も呼ばれた。1668(寛文 8)火災により現在地(東京都港区白金
1丁目)に移転。忠教の墓をはじめ大久保一族がある。
◎立行寺には講談で有名な一心太助(イッシン・タスケ)の碑がある。
◎家康が臨終の際に「彦左衛門のわがまま無礼は生涯許すこと」
と遺言。「天下の御意見番」と呼ばれる。
おおくぼ ただちか
大久保 忠隣
1553(天文22)
1628(寛永 5. 6.27)
◇江戸初期の大名。幼名は千丸のち新十郎、通称は治部少輔・
相摸守、号は道白。大久保忠世(タダヨ)の長男、母は近藤左近右
衛門幸正の娘。大久保忠教(タダタカ)(彦左衛門)の甥。三河国和
田郷生れ。
1568(永禄11)徳川家康の近習。姉川・三法ヶ原の戦の武功に
より、1572(元亀 3)治部大輔。1590(天正18)武蔵国羽生城主2
万石。1593(文禄 2)家康の三男秀忠の老職となる。1594(文禄
3)父の死後、小田原城主6万5千石を継ぐ。1605(慶長10)徳川
秀忠を擁立、本多正信とともに老臣として仕える。声望が高く
正信の反感を買い、忠隣の推挙した大久保長安(ナガヤス)の不正
が長安の没後に発覚し改易、井伊家お預けとなり近江に配流5
千石に減封。
(2)治部少輔……。
(16)治部大輔…….
おおくぼ ただやす
大久保 忠保
1830(天保元)
1886. 3. 5(明治19)
◇歌人。号は恪堂・花墻・漣々。新聞紙・電信機・瓦斯燈・女
教師などを新題として作る。
おおくぼ としみち《おほくぼ としみち》
大久保 利通
1830(文政13. 8.10)
1878. 5.14(明治11)
◇明治初期の中枢の政治家。名は利済、通称は正助のち一蔵、
号は甲東。薩摩の下級藩士御小姓組150石大久保治右衛門の子。
1840(天保11)薩摩藩記録所書助役。藩主島津斉彬(ナリアキラ)の
幕政改革に西郷隆盛らと参加。斉彬の没後は藩主島津忠義の子
久光に信任され、重臣小松帯刀や西郷らと公武合体に尽力。
やがて薩英戦争・下関砲撃事件・幕府の長州征伐などから西
郷らを討幕論に導き、京都に出て岩倉具視に接近。1866(慶応
2)坂本龍馬の仲介で長州藩士らと連合、岩倉ら公家の支持も
得て王政復古に活躍。
1867(慶応 3)新政府の参与となり、西郷・木戸孝允らと戊辰
戦争を主導し明治政府を樹立。1869(明治 2)参議。1871(明治
4)木戸らと版籍奉還・廃藩置県を敢行。同年、大蔵卿。岩倉
遣外使節の副使としてアメリカ・ヨーロッパに随行。1873(明
治 6)帰国後、国力の充実を主張して征韓論に反対。征韓派が
退陣後、内務卿。1874(明治 7)佐賀の乱を武力で鎮圧、一方征
台の役を実施し、不平士族の不満を反らす。1875(明治 8)大阪
会議を開き、自由民権運動の木戸・板垣退助らと妥協。
1875. 3.(明治 8)地租改正事務局を設置、大久保利通(トシミチ)
が総裁を兼任。茨城や三重に大規模な一揆が発生するや、1877
(明治10)地租税率を軽減。同年、明治政府の最大の危機である
西南戦争を乗り越えるが、不平士族の怨みを買い、翌1878(明
治11)東京赤坂の紀尾井坂(キオイザカ)で石川県士族島田一郎(陸軍
大尉)・島根県士族浅井寿篤ら不平士族145名に襲撃・暗殺(紀
尾井坂の変)。
◆墓は東京都港区の青山霊園。
◎同郷の警視庁初代大警視の川路利良(トシヨシ)は腹心。西南戦争
の直接の原因となった西郷隆盛暗殺計画も大久保が川路に内命
したと言われている。
おおくぼ ながやす《おほくぼ ながやす》
大久保 長安
1545(天文14)
1613(慶長18. 4.25)
◇江戸初期の金山奉行。名は十兵衛、通称は大蔵大夫(オオクラダユ
ウ)、初めは土谷氏。大和金春座(コンパルザ)の猿楽師(サルガクシ)大
蔵大夫七郎喜然(キネン)の子。甲斐の人。
初め武田信玄に仕え、信玄の没後に駿府で猿楽を業とする。
大久保忠隣(タダチカ)に愛され大久保姓を授かり、徳川家康に推
挙される。家康に仕え、従五位石見守3万石。
1601(慶長 6)東海道・中仙道の伝馬制を定める。同年、石見
銀山奉行・1603(慶長 8)佐渡金山奉行・伊豆銀山奉行を兼ねる。
1604(慶長 9)東海・東山・北陸道の一里塚建設を指揮。1608
(慶長13)江戸城内の浄土・法華宗論を裁く。1613(慶長18)キリ
シタン武士岡本大八事件を裁く。
病死後、生前の不正が発覚し、遺子は切腹、1614(慶長19)大
久保忠隣は改易。
(2)'13病死後不正が発覚し大久保家は改易となった。その背景
には本多正信・正純ら文吏派と大久保忠隣の譜代武功派の対立
があったといわれる。
(6)死後,生前の不正を理由に遺子は切腹を命ぜられた。
(16)私利を貪り驕奢淫逸をきわめ,不正が暴露して改易された.
キリシタンでもあった.
おおくぼ ひこざえもん《おほくぼ ひこさゑもん》
大久保 彦左衛門(大久保 彦左衞門)
⇒おおくぼ ただたか(大久保 忠教)
おおくぼ よそごろう
大久保 余所五郎
1865(慶応元. 7. 3)
1900. 8.18(明治33)
◇史論家。号は湖州。
おおくま うじひろ
大熊 氏広(大熊 氏廣)
1856(安政 3)
1934(昭和 9)
◇彫刻家。東京の人。
1876(明治 9)工部美術学校開設とともに彫刻科に入学し、イ
タリア人教師ラグーサに師事し、1882(明治15)主席で卒業。
工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事。1885(明治18)宮
内省から大村益次郎の銅像制作を依頼されると、1888(明治21)
研究のため留学し、パリ美術学校のファルギエル、ローマ美術
学校のアレグレツティ、モンテヴェルデに師事。翌年、帰国し
てキヨソネが描いた大村の肖像画をもとに銅像を制作。
有栖川宮熾仁(タルヒト)親王や小松宮彰仁親王などの彫像を制作。
文部省美術展覧会開設とともに審査委員。
おおくま ことみち《おほくま ことみち》
大隈 言道
1798(寛政10)
1868(慶応 4. 7.29)
◇江戸後期の歌人。通称は米屋清助・清介、号は萍堂(ヒョウドウ)
・池萍堂。大隈茂助言朝の4男。筑前国福岡薬院抱安学橋生れ。
藩士二川相近(フタガワ・スケチカ)(松陰)に和歌・書を、広瀬淡窓に
漢学を学ぶ。39歳で家業を弟に譲り、歌に専念。1857(安政 4)
60歳で大坂に上り、佐々木弘綱らと交わる。1867(慶応 3)頃、
病に罹り帰郷。
(5)通称清助。
(6)通称清助。
(11)通称清助。
(16)通称は米屋清助.
おおくま しげのぶ《おほくま しげのぶ》
大隈 重信
1838(天保 9. 2.16)
1922. 1.10(大正11)
◇明治・大正期の政治家。初名は八太郎。佐賀鍋島藩士大隈信
保の長男、母は三井子。
父を早くに失い母に育てられる。7歳で藩校弘道館のち19歳
のとき蘭学寮に学ぶ。1866(慶応 2)将軍徳川慶喜に大政奉還を
勧告しようと謀り、同じ佐賀藩士副島種臣(ソエジマ・タネオミ)と脱藩
して京都に至るが失敗。藩に送還され謹慎。
1868(明治元)徴士参与・外国事務判事・外国官副知事。大蔵
少輔・民部大輔・1869(明治 2)大蔵大輔・1870(明治 3)参議。
1873(明治 6)大蔵省事務総裁、征韓論に反対。1874(明治 7)台
湾征討・1877(明治10)西南戦争の事務局長。船舶払い下げなど
西南戦争で軍事輸送に当った三菱商会岩崎弥太郎との関係を深
める。1878(明治11)大久保利通の没後、主席参議・地租改正事
務局総裁を兼任。
国会開設問題で即時開設を天皇に上奏し伊藤博文・山県有朋
・井上馨らと対立、1881(明治14)北海道開拓使官有物払下事件
の政府攻撃を口実に薩長藩閥により大隈・福沢諭吉一派は罷免
(明治十四年の政変)。
1882(明治15)河野敏謙(トガマ)らと立憲改進党を組織し総理、
板垣退助の自由党と並び藩閥政府と抗争。同年東京専門学校
(現:早稲田大学)を創立。1884(明治17)立憲改進党を脱党。
1888(明治21)黒田清隆(キヨタカ)内閣の外務大臣となり条約改正に
当るが失敗。1889.10.18(明治22)玄洋社員来島恒喜(クルシマ・ツネキ)
に襲われ投げられた爆弾により右足を失い辞職。1896(明治29)
野党を合同し進歩党を結成、松方正義内閣の外務大臣兼農商務
大臣。地租増徴で松方首相と対立し辞職。
1898(明治31)板垣退助とともに憲政党を結成、隈板(ワイハン)内
閣(第1次)を組織、閣内対立と山県有朋系官僚の倒閣工作で総
辞職。1908(明治41)憲政本党総理。
1910(明治43)政界を引退し、早稲田大学総長。文明協会の創
立。
1914(大正 3)立憲同志会の援助を得て第2次内閣を組織。日
英同盟を理由にドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦。
1915. 1.28(大正 4)対華二十一ヶ条要求を強行し排日運動を引
き起す。1916(大正 5)内務大臣大浦兼武の収賄事件や外務大臣
加藤高明と元老との対立で総辞職。
第1次内閣:1898. 6.30(明治31)〜1898.11. 8(明治31)。
内務大臣:板垣退助
第2次内閣:1914. 4.16(大正 3)〜1916.10. 9(大正 5)。
内務大臣:大浦兼武,外務大臣:加藤高明
法務大臣:尾崎行雄
◆東京都文京区の護国寺に墓がある。
おおくま ちょうじろう
大熊 長次郎
1901. 6. 7(明治34)
1933. 1.21(昭和 8)
◇歌人。東京生れ。胸を病み睡眠薬自殺。
おおくま のぶゆき
大熊 信行
1893. 2.18(明治26)
1977. 6.20(昭和52)
◇詩人・経済学者・評論家。山形県米沢市生れ。1921(大正10)
東京高商専攻部卒業。
おおくま べんぎょく
大熊 弁玉
1818(文政元)
1880. 4.25(明治13)
◇国学者・歌人・浄土宗の僧。名は慶阿(ケイア)、号は善蓮社(ゼ
ンレンシャ)浄誉・(「王」偏+「倉」)々室(ユラムロ)。江戸生れ。
おおくら きしちろう《おほくら きしちらう》
大倉 喜七郎
1882. 6.16(明治15)
1963. 2. 2(昭和38)
◇大正・昭和前期の実業家。大倉財閥創業者の大倉喜八郎の長
男。東京生れ。
1924(大正13)日本棋院の設立に尽力。
おおくら きはちろう《おほくら きはちらう》
大倉 喜八郎
1837(天保 8. 9.24)
1928. 4.22(昭和 3)
◇明治・大正期の実業家・軍部の御用商人。号は鶴彦。豪商大
倉千之助の三男、大倉喜七郎の父。越後(新潟県)新発田(シバタ)
生れ。
1854年、18歳のとき江戸に出て乾物屋ついで鉄砲店大倉屋を
営み成功。1868(慶応 4)戊辰戦争で官軍御用達を勤めて政商と
なる。
1872(明治 5)欧米に商業視察旅行。1873.10.(明治 6)大倉組
商会を設立、貿易業務を開始。陸海軍の御用商人として西南・
日清・日露戦争で軍需品の調達・輸送に当り莫大な富を蓄積し
大倉財閥を築く。
1878(明治11)渋沢栄一らと東京商法会議所を設立。1886(明
治19)東京電燈会社を設立。1887(明治20)内外用達会社を設立。
同年、外務大臣井上馨の発議による帝国ホテルを建設。1891
(明治24)東京商業会議所議員。1893(明治26)大倉組商会と内外
用達会社を合併し大倉組とする。1898(明治31)農工商高等会議
議員。同年、東京と大阪に大倉商業学校を設立。1899(明治32)
東京商業会議所副会長。
1902(明治35)日本人として初めて対華借款を結び、朝鮮・中
国・満州にも進出。南満州の鴨緑江製材公司・本渓湖煤鉄公司
など土木鉱山業を始める。
1911(明治44)株式会社大倉組を組織。同年、渋沢栄一らの帝
国劇場に出資。1917(大正 6)大倉組の土木部門を大倉土木組
(現:大成建設)として独立。同年、大倉集古館を設立。1918(大
正 7)大倉商業学校が大倉高等商業学校(現:東京経済大学)に改
組。
(*)1854(嘉永 7,安政元)。
◎大倉財閥は太平洋戦争の敗戦で海外資産を失い崩壊。直系で
現存するものに大成建設がある。
◎大倉集古館は東京都港区赤坂葵町にある。
おおくら たねき
大蔵 種材
生年不詳
没年不詳
◇平安中期の地方官僚。種光の子、春実の孫。
大宰府の官僚として1019(寛仁 3)刀伊(トイ)の来襲の際に活躍
し撃退(刀伊の入冦)。この功によって壱岐守に任ぜられる。
おおくら てるこ
大倉 (「火」偏+「華」)子
1886. 4.12(明治19)
1960. 7.18(昭和35)
◇小説家。本名は物集芳子。
おおくら とうろう
大倉 桃郎
1879.11.17(明治12)
1944. 4.22(昭和19)
◇小説家。本名は国松、別号は琴峰、筆名は黒風白雨楼主人・
黒風白雨楼・舟町彩二・荻青子・萩の戸。香川県生れ。
(13)明治一二年一〇月香川県に生まる。
おおくら とらあきら《おほくら とらあきら》
大蔵 虎明(十三世)
1597(慶長 2)
1662(寛文 2)
◇江戸初期の狂言役者。初名は弥太郎虎時、晩年は弥右衛門。
父は太郎虎清(十二世)、八右衛門の兄。大蔵流の中興の祖。
十三世金春(コンパル)座付。著書は狂言論『わらんべ草』。
おおくら とらまさ《おほくら とらまさ》
大蔵 虎政
1531(享禄 4)
1596
◇安土桃山時代の能狂言師。大蔵流十一世家元。
織田信長・豊臣秀吉に仕える。
(*)1596(文禄 5,慶長元)。
おおくら とらみつ《おほくら とらみつ》
大蔵 虎光
1782(天明 2)
1842(天保13)
◇江戸後期の能狂言師。大蔵流八右衛門派第七世。
おおくら ながつね《おほくら ながつね》
大蔵 永常
1768(明和 5)
没年不詳
◇江戸末期の農学者。俗称は亀太夫・徳兵衛・喜内・喜太夫、
字は孟純、号は亀翁。豊後国(大分県)日田郡生れ。
各地を遍歴し、その土地の特色ある工業技術などを見聞し平
明な農業指導書に著す。1834(天保 5)渡辺崋山の推薦で三河国
田原藩の興産方(殖産係)。1842(天保13)遠江国浜松藩水野忠邦
に嘱望されて興産方。
大坂で没したという。
著書は『広益国産考』・『農家益』・『除蝗録(ジョコウロク)』・
『農具便利論』など。
◎水田耕作にだけ目が向けられている中で、櫨(ハゼ)・サトウ
キビ・甘藷の栽培、製蝋・製糖などの技術の改良・普及など商
品生産による農業改善を主張。
おおくらきょうのつぼね
大蔵卿局
生年不詳
1615(慶長20. 5. 8)
◇淀君(豊臣秀吉の側室)の侍女・乳母。大野修理治長(ハルナガ)
の母。
大坂城陥落で、豊臣秀頼・淀君、子治長らと自殺。
おおこうち かずお《おほかふち かずを》
大河内 一男
1905(明治38)
1985(昭和60)
◇昭和期の経済学者。講談作家大河内翠山の長男。東京生れ。
東京帝国大学卒業。1939(昭和14)東京帝国大学助教授。1945
(昭和20)東京帝国大学教授。1962〜1968(昭和37〜昭和43)東京
大学総長。
◎河合栄次郎の門下で、社会政策・労働問題を専攻。
おおこうち でんじろう《おほかふち でんじらう》
大河内 伝次郎
1898(明治31)
1962(昭和37)
◇映画俳優。本名は大辺勇(オオベ・マスオ)。福岡生れ。
はじめは新国劇俳優。1926(大正15)映画界に入り時代劇俳優
として成功。当り役は「丹下左膳」など。
出演作は伊藤大輔監督『長恨』・同監督1927(昭和 2)『忠次
旅日記』・『大菩薩峠』・『新版大岡政談』・『御誂治郎吉格
子』・『丹下左膳』・『磐嶽の一生』など。
◎時代劇映画黄金時代の代表的俳優で、独特なマスクと科白(セ
リフ)回しがうけた。
おおこうち まさとし《おほかふち まさとし》
大河内 正敏
1878.12. 6(明治11)
1952. 8.29(昭和27)
◇明治〜昭和前期の実業家・技術者。東京生れ。子爵・貴族院
研究会の領袖。女優河内桃子(コウチ・モモコ)の祖父。
東京帝国大学工科造船科卒業。1903(明治36)ドイツ・オース
トリアに留学。1914(大正 3)弾道学の論文で工学博士を取り、
東京帝国大学工科教授、火砲構造や弾道学を講義。
1918(大正 7)原敬内閣の海軍政務次官。政界に進出し貴族院
議員。
科学主義工業・代用品工業を提唱し、1921(大正10)理化学研
究所・1927(昭和 2)理化学興業などを設立。理化学興業会社会
長として理研コンツェルンを統轄。産業統制を通じて太平洋戦
争に協力。
太平洋戦争後、公職追放され、1951(昭和26)解除。
(2)三河国吉田藩主の末流。
(6)旧大多喜藩主大河内正質の長男。
おおごし あらた
大越 新
1898(明治31)
1975(昭和50)
◇昭和期の実業家。福島県生れ。旅順工科学堂卒業。
入山採炭に入社・取締役。
1948(昭和23)常磐炭礦社長、1963(昭和38)会長、1965(昭和
40)相談役。
おおこし われもこう
大越 吾亦紅
1889. 4. 5(明治22)
1965. 2.28(昭和40)
◇俳人。
おおさわ てんせん
大沢 天仙
1873(明治 6)
1906(明治39)
◇小説家。本名は興国。
おおしお ちゅうさい《おほしほ ちゆうさい》
大塩 中斎
⇒おおしお へいはちろう(大塩 平八郎)
おおしお へいはちろう《おほしほ へいはちらう》
大塩 平八郎
1793(寛政 5)
1837(天保 8. 3.27)
◇江戸後期の儒学者(陽明学)・与力。幼名は文之助、名は正高
(マサタカ)のち後素、字は子起、通称は平八郎、号は連斎・中軒の
ち中斎(チュウサイ)。大坂町奉行与力大塩敬高の子。
篠崎三島に学ぶ。祖父の後見で14歳のとき与力御書方見習と
して出仕。1811(文化 8)定町廻。江戸の林家に入門し朱子学を
学ぶ。祖父の没後、家督を相続。1816(文化13)呂新吾『呻吟語』
を読み、知行合一の実践を説く陽明学に転じる。1817(文化14)
私塾洗心洞(センシンドウ)を設け子弟に陽明学を講ずる。
1830年、大坂東町奉行の高井山城守実徳(サネノリ)が江戸に転任
したおり、与力職を養子格之助(カクノスケ)に譲り隠居。洗心洞で
陽明学の教授に専念。
1836(天保 7)天保の飢饉の際、豪商の手先となる町奉行らを
見て憤(イキドオ)り、格之助を通して町奉行跡部(アトベ)山城守良
弼(ヨシタダ)に飢饉救済を申し入れるが一蹴される。さらに三井
・鴻池(コウノイケ)ら豪商に救済費の借金を申し入れるがこれも断
られる。平八郎は蔵書5万冊を売り払い、その金を窮民救済に
当てる。
檄文(ゲキブン)を摂津・河内・和泉・播磨に飛ばし、1837(天
保 8. 2.19)自邸に火を放ち門下の与力・同心・門弟数十名ら
と「救民」の旗を立てて挙兵、豪商の蔵を討ち毀(コワ)し金や米穀
を窮民に与えたが、半日にして大坂城代・近隣諸藩の武力に鎮
圧される。約40日後、格之助との隠れ家を発見され、捕吏に包
囲された中で爆薬により自殺。二人の黒焦げの死体は塩漬けに
され、のち磔(ハリツケ)にされる。
著書は1833(天保 4)『洗心洞箚記(サッキ)』・『古本大学刮目』
など。
(*)1830(文政13,天保元)。
(2)生年は1793(寛政 5)。(生)大坂天満川崎四軒坊。
(4)生年は1794。阿波の人。
(6)生年は1793。
(16)生年は1793(寛政 5)。
◎その後、1837(天保 8. 6.)生田万(イクタ・ヨロズ)の乱など、しば
らく大塩一党と自称する百姓一揆が続いた。
◎大塩平八郎の乱は天保の改革の直接の因となった。
大阪造幣局構内に洗心洞跡の碑がある。
おおしか たく
大鹿 卓
1898. 8.25(明治31)
1959. 2. 1(昭和34)
◇詩人・小説家。本名は秀三(ヒデゾウ)。愛知県津島町生れ。三
歳のとき、家族と東京に出る。1921(大正10)秋田鉱山専門学校
卒業。金子光晴(ミツハル)の実弟。
おおしこうちのみつね《おほしかふちのみつね》
凡河内 躬恒
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今和歌集』撰者の
一人。
宇多・醍醐天皇に仕え、 907(延喜 7)丹波権大目・ 911(延
喜11)和泉権掾・ 917(延喜17)和泉権大掾・淡路掾などを歴任。
家集『躬恒集』がある。
◎紀貫之(キノツラユキ)・壬生忠岑(ミブノタダミネ)と並称される。
おおした うだる
大下 宇陀児(大下 宇陀兒)
1896.11.15(明治29)
1966. 8.11(昭和41)
◇昭和期の小説家。本名は木下竜夫(龍夫)。長野県生れ。九州
帝国大学工学部卒業。第二代探偵作家クラブ会長。
(1)誕生日は11.15。
(2)誕生日記載なし、本名は木下龍夫。
(5)誕生日は11.25、本名は木下龍夫。
(8)誕生日は11.15、本名は木下龍夫。
(11)誕生日は11.25、本名は木下竜夫。
(12)誕生日は11.25、本名は木下竜夫。
(13)誕生日は11.15、本名は木下竜夫。
おおした とうじろう《おほした とうじらう》
大下 藤次郎
1870(明治 3)
1911(明治44)
◇明治後期の水彩画家。東京生れ。
中丸精十郎のち原田直次郎に師事。
1901(明治34)太平洋画会の結成に参加。
1905(明治38)春鳥会を組織し、雑誌「みづゑ」を創刊。
1906(明治39)水彩画会を創立。
代表作は『穂高山の麓』・『尾瀬沼』など。
おおしま うりん
大島 有隣
1755(宝暦 5.12. 4)
1836(天保 7.10.22)
◇江戸後期の心学者。名は義展、通称は幸右衛門、号は有隣。
著書は『心学信徳録』・『心学初入手引草』など。
(2)武蔵国北葛飾高野村の名主の子。
(16)武蔵国大島村の人.
おおしま えいざぶろう
大島 栄三郎
1928.10.20(昭和 3)
1973. 4.20(昭和48)
◇詩人。戸籍上の誕生日は12. 1。
おおしま けんいち
大島 健一
1858(安政 5)
1947(昭和22)
◇大正・昭和期の陸軍軍人(中将)。陸軍中将大島浩の父。
おおしま さだます
大島 貞益
1845(弘化 2)
1914(大正 3)
◇明治期の経済学者。幼名は益三郎、号は石華。兵庫県出身。
箕作麟祥(ミツクリ・リンショウ)の塾で英学を学ぶ。
1868(明治元)兵庫の海軍翻訳方として奉職。1869(明治 2)兵
庫英学校教師。のち文部大学助教・外務省翻訳局。
1878(明治11)官界を去り、外国経済学の翻訳・紹介に努める。
(2)生年は1906(明治39)。
(6)生年は1914。
おおしま たかとう
大島 高任
1826(文政 9. 5.11)
1901. 3.29(明治34)
◇江戸幕末・明治期の冶金技術者。幼名は文治のち周禎、通称
は総左衛門。父は陸奥南部藩(岩手県)蘭方侍医大島周意(新六)
の子。
1842(天保13)父新六とともに江戸に出て箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)
・坪井信道に蘭学を学び、1846(弘化 3)南部藩の藩命により長
崎で高島秋帆(シュウハン)に砲術・冶金・採鉱製練などを学ぶ。
1854年、水戸藩に招かれ、1855(安政 2)水戸に反射炉を築く。
1858(安政 5. 1.)南部領の大橋鉄山を開き、釜石で日本最初の
立炉(洋式高炉)による製鉄に成功。1860年、蕃書調所出役教授。
1861年、藩に日進堂を創立。1865年、藩命により小坂銀山を開
坑。
1869(明治 2)高任と改名、明治政府に出仕し民部省鉱山司・
鉱山権正・工部権少丞。1871(明治 4)遣外使節岩倉具視に随っ
て欧米を視察、1873(明治 6)帰国。1875(明治 8)鉱山権頭・
1880(明治13)工部省准奏任御用掛・小坂鉱山局長・佐渡鉱山局
事務長・大蔵技監。
釜石・小坂・阿仁・佐渡などの鉱山近代化に貢献。日本鉱業
会初代会長。
(*)1854(嘉永 7,安政元)、1860(安政 7,万延元)、1861(万延 2,
文久元)、1865(元治 2,慶応元)。
おおしま ひろし
大島 浩
1886(明治19)
1975(昭和50)
◇昭和期の陸軍軍人(中将)。陸軍中将大島健一の長男。
太平洋戦争後、極東軍事裁判でA級戦争犯罪人として終身刑。
1955(昭和30)減刑され出獄。
おおしま ほうすい
大島 宝水
1880. 8.25(明治13)
1971. 5.16(昭和46)
◇俳人。本名は貞吉、別号は三蝶。
おおしま まさみつ
大島 正満
1884. 6.21(明治17)
1965. 6.26(昭和40)
◇動物学者・随筆家。
おおしま りょうきち
大島 亮吉
1899. 9. 4(明治32)
1928. 3.25(昭和 3)
◇大正・昭和初期の登山家。前穂高北尾根で墜落死。
おおしま りょうた《おほしま れうた》
大島 蓼太
1718(享保 3)
1787(天明 7. 9. 7)
◇江戸中期の俳諧師。本名は吉川陽喬、通称は平助・平八、別
号は蓼太郎・宜来・雪中庵(セッチュウアン)三世。信濃の人。江戸で
活躍。
おおすが おつじ《おほすが おつじ》
大須賀 乙字
1881. 7.29(明治14)
1920. 1.20(大正 9)
◇明治・大正期の俳人・詩人。本名は績(イサオ)。漢学者大須賀
(「竹」冠+「均」:補助5010)軒の長男。福島県宇多郡中村町生れ。
東京帝国大学国文科卒業。
1915(大正 4)臼田亜浪(ウスダ・アロウ)と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創
刊。1919(大正 8)「石楠」を去る。東京音楽学校教授に在任中、
1919(大正 8)全国的に流行したスペイン風邪に罹り、翌年死去。
(1)本名は績(イサオ)。
(2)本名績(イサオ)。
(4)名は績。
(5)本名は績(イサオ)。
(6)本名績(イサオ)。
(8)本名は積(イサオ)。(*)「禾」偏。
(11)本名は績(イサオ)。
(13)本名は績。
◆乙字忌[ 1.20]。
おおすぎ さかえ
大杉 栄(大杉 榮)
1885. 1.17(明治18)
1923. 9.16(大正12)
◇評論家・社会主義運動家。父は軍人で、その任地香川県九亀
町生れ。
名古屋陸軍幼年学校、上官に抵抗し退学処分。東京外国語学
校フランス語科在学中、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に加わる。
1906(明治39)卒業直後、東京市電車賃値上げ反対のデモで投獄
される。1907(明治40)堀紫山(シザン)の妹堀保子(ヤスコ)と結婚。
1908(明治41)赤旗事件で逮捕、千葉監獄に在り大逆事件を免れ
る。1914(大正 3)「平民新聞」を創刊。1916(大正 5)伊藤野枝と
の恋愛問題により神奈川県葉山の「日蔭の茶屋」で愛人神近市子
に刺される。
1920(大正 9)上海へ脱出、極東社会主義会議に出席。1922
(大正11)国際無政府主義大会に参加のためフランスに潜行。
1923(大正12)パリのメーデーで演説し投獄、フランスから追放
され、7月帰国。
1923. 9. 1(大正12)関東大震災の際に憲兵甘粕(アマカス)正彦ら
により甥(オイ)橘宗一(7歳)・伊藤野枝とともに絞殺され、憲兵
隊火薬庫の傍らの古井戸へ投げ込まれる。(甘粕事件,大杉栄事
件)。
(13)誕生日は 5.17、没日は 9. 6。
(16)誕生日は 1.17、没日は 9.16。
おおすみ しょうふう
大住 嘯風
1881. 4.20(明治14)
1923.11.13(大正12)
◇仏教思想家。本名は舜岳、雅号は嘯風・舜。
おおぜき ごろう
大関 五郎
1895. 1.24(明治28)
1948. 8.30(昭和23)
◇詩人・歌人。
おおぜき しゅうろう
大関 柊郎
1890.12.10(明治23)
没年不詳
◇劇作家。本名は太一郎。
おおせき まつさぶろう《おほせき まつさぶらう》
大関 松三郎
1926(大正15)
1944(昭和19)
◇詩人(児童生活詩)。マニラ通信隊所属として任地へ向う途中、
南支那海で戦死。
(8)大関 松三郎(おおぜき まつさぶろう)、生年は1926(昭和
元)。
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