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人 名 辞 典 《お》 編集:獨 澄旻
-------- お ----------------------------------------------------
おあな りゅういち
小穴 隆一
1894.11.28(明治27)
1966. 4.24(昭和41)
◇洋画家。号は一遊亭。
(8)小穴 隆一(おあな りゅういち)。
(?)小穴 隆一(こあな りゅういち)。
おいちのかた
お市の方
1547(天文16)
1583(天正11. 4.24)
◇戦国・安土桃山時代の武将の娘。幼名は「いち」、別称は小谷
(オダニ)の方。織田信秀の娘、織田信長・信包(ノブカネ)の妹。浅
井長政(ナガマサ)・柴田勝家(カツイエ)の室。
織田信長の命で、1563(永禄 6. 3.)近江国小谷城主浅井長政
に輿入れする(一説に永禄 7/永禄10)。長政との間に長男万福
丸・長女茶々(のち淀君)・次女初・三女徳・次男幾丸を生む。
1573(天正元. 8.28)信長に攻められて小谷(オダニ)城で長政が亡
くなった後、お市の方と3人の娘は信長の弟信包に預けられ、
万福丸・幾丸は探し出されて殺された。
1582(天正10. 6. 2)信長が本能寺の変で亡くなり、9月に柴
田勝家と再婚し、越前国北ノ庄に娘3人を連れて赴き小谷の方
と呼ばれる。1583(天正11. 3.)勝家は越前で挙兵、 4.21近江
国賤ヶ岳(シズガタケ)で羽柴(豊臣)秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)に大敗(賤ヶ
岳の戦)。居城北ノ庄の城で勝家とともに自殺。この時、娘3
人は逃がされ一乗谷に脱出。
◎長女茶々は豊臣秀吉の側室淀君、次女初は京極高次の室常高
院、三女徳は徳川秀忠の室崇源院(スウゲンイン)となる。
おうじん てんのう《おうじん てんわう》
応神 天皇
生年不詳
没年不詳
◇5世紀前後の第15代天皇。名は誉田別尊(ホンダワケノミコト)・胎中
天皇(タイチュウテンノウ)。第14代仲哀(チュウアイ)天皇の第4皇子、母は神
功(ジングウ)皇后。
◆応神天皇陵は大阪府羽曳野市誉田(コンダ)にある恵我藻伏岡陵
とされ、仁徳天皇陵に次ぐ大きさ。
おうてい きんしょう
鶯亭 金升
1868(慶応 4. 3.16)
1954.10.31(昭和29)
◇戯作者・新聞記者。本名は長井総太郎。
おうみ せいじん《あふみ せいじん》
近江 聖人
⇒なかえ とうじゅ(中江 藤樹)
おうみのみふね《あふみのみふね》
淡海 三船
722(養老 6)
785(延暦 4. 7.17)
◇奈良時代の学者・文人。別名は御船王・御船、僧名は元開。
池辺王の子、大友皇子(弘文天皇)の曾孫。
文人として石上宅嗣(イソノカミノヤカツグ)と並び称される。一説に
神武から光仁までの歴代天皇の諡号を撰定したといわれる。
(2)生年は 721(養老 5)。
(4)生年は 722。
(6)生年は 722。
(16)生年は 722(養老 6)。
おおあまのおうじ《おほあまのわうじ》
大海人 皇子
⇒てんむ てんのう(天武 天皇)
おおい けんたろう《おほゐ けんたらう》
大井 憲太郎
1843(天保14. 9.20)
1822.10.15(大正11)
◇明治期の政治家・社会運動家。本姓は高並、幼名は彦六、号
は馬城。豊前国(大分県)宇佐郡生れ。一時、福田英子(ヒデコ)の
夫。
長崎で蘭学を修め、のちフランス語を学び翻訳官となる。
1866(慶応 2)江戸に出て、洋学館開成所で箕作麟祥(ミツクリ・リンショ
ウ)にフランス法学を学ぶ。兵部省・元老院に出仕。
1874(明治 7)民撰議院設立の建白書をめぐり、加藤弘之の時
期尚早論に反対し、馬城台次郎の筆名で新聞雑誌に寄稿、フラ
ンス革命思想に基づき国会開設の急務を主張。
1875(明治 8)立志社を中心に愛国社を組織。1881(明治14)板
垣退助の自由党結成に参加し左派を指導、意見を異にして去る。
1885(明治18)朝鮮政府の内政改革を支援しようとして朝鮮独
立党の援助をはかって投獄され(大阪事件)、禁錮9年の刑に処
せられる。1889(明治22)帝国憲法発布により大赦。
1890(明治23)憲太郎を中心にし、板垣を再び総理として自由
党を再組織。同年「あづま新聞」を創刊、翌年廃刊。1892(明治
25)自由党を脱党し自ら東洋自由党を組織、労農運動・普選運
動を推進。1894(明治27)衆議院議員。
他方、大日本協会など国家主義的な団体にも参加し、民主主
義運動から逸脱して行く。
(2)馬城台二郎とも称す。
(16)誕生日は 8/。(*)日付なし。
馬城台次郎の筆名…….
おおい そうご
大井 蒼梧
1879.11.24(明治12)
1937. 2.13(昭和12)
◇歌人。本名は一郎。
おおい ひろし ????
大井 広
1893. 1.28(明治26)
1943. 7.10(昭和18)
◇歌人。
(8)大井 広(おおい ひろむ)。
おおい ひろすけ
大井 広介
1912.12.16(大正元)
1976.12. 4(昭和51)
◇評論家。本名は麻生(アソウ)賀一郎。福岡県生れ。嘉穂(カホ)中
学校卒業。
おおいけ ただお
大池 唯雄
1908.10.30(明治41)
1970. 5.27(昭和45)
◇小説家。本名は小池忠雄。宮城県生れ。東北大学文学部卒業。
おおいし くらのすけ《おほいし くらのすけ》
大石 内蔵助
⇒おおいし よしお(大石 良雄)
おおいし せいのすけ《おほいし せいのすけ》
大石 誠之助
1867(慶応 3.11. 4)
1911. 1.24(明治44)
◇医師。号は禄亭。社会主義のパトロンとなり大逆事件に連座
して処刑された。
おおいし せざえもん《おほいし せざゑもん》
大石 瀬左衛門
⇒おおいし のぶきよ(大石 信清)
おおいし ちから《おほいし ちから》
大石 主税
⇒おおいし よしかね(大石 良金)
おおいし のぶきよ《おほいし のぶきよ》
大石 信清
1677(延宝 5)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻、禄高150石。通称は
瀬左衛門(セザエモン)。吉良家探索中の変名は小田権六(オダ・ゴンロク)。
途中で脱盟した孫四郎(マゴシロウ)の弟。曾祖父の八郎兵衛(ハチロベ
エ)は、大石内蔵助(クラノスケ)良雄の曾祖父良勝(ヨシカツ)の弟である。
1701(元禄14. 3.14)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が刃傷
事件を起した深夜、長矩切腹の第二の急使として、原惣右衛門
(ハラ・ミソウエモン)と早駕籠(ハヤカゴ)で江戸を立つ。吉良家の討ち入り
では裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、吉田孫四郎
の介錯(カイシャク)で切腹。
おおいし はつたろう《おほいし はつたらう》
大石 初太郎
1911(明治44)
2003. 5.25(平成15)
◇国語学者。91歳で死去。
著書は『敬語』など、編著書『新解国語辞典』(小学館)。
おおいし ひさたか《おほいし ひさたか》
大石 久敬
1725(享保10)
1794(寛政 6)
◇江戸中期の農政家。通称は猪十郎、号は巌華。
久留米藩の大庄屋であったが、逃亡して各地を流浪。
のち、高崎藩の郡方役人。
著書は『地方(ジカタ)凡例録』。
おおいし まさみ《おほいし まさみ》
大石 正巳
1855(安政 2)
1935(昭和10)
◇政治家。土佐出身。名は正しくは「まさき(正巳)」。
「自由新聞」の記者から自由民権運動に参加。立志社・自由党
を経て、後藤象二郎の大同団結運動に参加。のち進歩党に加わ
る。憲政党結成に参画し第一次大隈内閣の農商相。
おおいし よしお《おほいし よしを》
大石 良雄
1659(万治 2)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士の頭領。播磨(ハリマ)赤穂藩譜代の国家老
(クニガロウ)上席、禄高1,500石。幼名は竹之丞(タケノジョウ)、通称は
内蔵助(クラノスケ)、戒名は忠誠院刃空浄剣居士。大石陸(リク)の夫、
大石主税(チカラ)良金(ヨシカネ)の父。父は大石権内(ゲンナイ)良昭(ヨシア
キ)、母は池田出羽守由成(ヨシナリ)の娘。
兵学を山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)に、剣術を讃岐国高松の剣客奥村
権左衛門(ゴンザエモン)に、漢学を伊藤仁斎に学ぶ。
1701(元禄14. 3.14)主君の浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)
が江戸城中で吉良上野介(キラ・コウズケノスケ)義央(ヨシナカ)へ刃傷(ニンジョ
ウ)におよび即日除封切腹。 4.11一旦、籠城を決意したが、長
矩の弟浅野大学に再興を願い、 4.18幕府の使者に浅野大学相
続に関する嘆願書を託し赤穂城を明け渡した。のち、 6.18京
都山科に隠棲。
旧藩士の同志と共に1702(元禄15.12.14)夜、江戸本所(ホンジョ)
松坂町(マツザカチョウ)の吉良邸を襲い主君の仇を報いた。表門隊。
江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、安場一平(ヤスバ・イッペイ)の
介錯(カイシャク)で切腹。
辞世の句は「極楽の 道はひとすぢ 君(キミ)ともに/阿弥陀
(アミダ)をそへて 四十八人」。
『仮名手本忠臣蔵』では「大星由良之助(オオボシ・ユラノスケ)」。
(4)「赤穂義士」の項、元禄一五年十二月一四日(陽暦一七〇三年
一月三〇日)夜。
◆大石忌[旧暦 2. 4]。
◆追善法要[ 3.20]京都祇園(ギオン)の料亭一力(イチリキ)(万亭<マンテ
イ>)。
◆赤穂義士祭[12.14]1702(元禄15)赤穂義士討入の日。
東京都港区高輪の泉岳寺で墓前祭。
東京都墨田区両国の吉良邸跡(松坂町公園)で元禄市。
兵庫県赤穂市では大石神社から浅野家の菩提寺まで四十七士
の行列。境内には内蔵助像がある。
京都市山科区山科西野山桜馬場町の大石神社(1935<昭和10>
創建)では記念祭。
おおいし よしかね《おほいし よしかね》
大石 良金
1688(元禄元)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士の最年少者。名は良金(ヨシカネ)、幼名は
松之丞(マツノジョウ)、通称は主税(チカラ)、戒名は刃上樹剣信士。
大石良雄(ヨシオ)の長男。
京都山科に移り、垣見左内と変命を使う。父と共に吉良邸に
討入(ウチイリ)、裏門隊長を務める。伊予国松山藩主松平隠岐守(オ
キノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、波賀清太夫(ハガ・セイダユウ)
の介錯(カイシャク)で切腹。
『仮名手本忠臣蔵』では「大星力弥(オオボシ・リキヤ)」。
(2)のち京都山科に移り垣内左内と変名。
(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
成美堂出版 昭和56年11月 1日初版発行
監修:尾崎秀樹 昭和57年 1月10日四刷発行
主税は、日本橋(ニホンバシ)石(コク)町の旅籠(ハタゴ)小山屋(コヤマヤ)
の控屋を借りて住んだ。近江(オウミ)の豪家の若当主垣見左内(カキ
ミサナイ)という振れ込みであった。
おおいし よしたか《おほいし よしたか》
大石 良雄
⇒おおいし よしお(大石 良雄)
おおいし りく《おほいし りく》
大石 陸(大石 りく)
1669(寛文 9)
1736(元文元.11.19)
◇大石良雄(ヨシオ)の妻、大石主税(チカラ)の母。但馬(タジマ)国豊岡
藩の城代家老石束(イシヅカ)源五兵衛(ゲンゴベエ)毎公(ツネトモ)の娘。
1687(貞享 4)良雄に嫁ぐ。長男、松之丞(マツノジョウ)(良金)。
長女、「くう(空)」。次男、吉千代。次女、「るり(瑠璃)」。
1701(元禄14. 4.15)主税を残し、子供を連れて良雄の京都山
科から実家の豊岡に帰る。1702(元禄15. 7. 5)三男、大三郎(ダ
イサブロウ)を出産。
良雄・主税の切腹後、剃髪(テイハツ)し香林院(コウリンイン)と称し、
吉千代も僧籍に入れる。
1713(正徳 3)大三郎が赤穂浅野家の宗家芸州(ゲイシュウ)(安芸
国<アキノクニ>)浅野家に召し抱えられ、陸は大三郎と広島に移る。
やがて大三郎は元服して良恭(ヨシヤス)と改め、旗奉行次席(1,500
石)に取り立てられる。
おおいしごり ますみ《おほいしごり ますみ》
大石凝 真素美
1833(天保 4.11.)
1913. 4.11(大正 2)
◇明治時代の霊言(レイゲン)学者。姓は望月、幼名は春雄、元服
して大輔広矛。伊賀国上野生れ。
1873(明治 6)大石凝真素美と改名。
おおいずみ こくせき《おほいづみ こくせき》
大泉 黒石
1894. 7.27(明治27)
1957.10.26(昭和32)
◇小説家。本名は清。父はロシア人。俳優大泉あきらの実父。
長崎生れで、少年時代はロシア・欧州で暮らす。
作品は1922(大正11)『老子』・1929(昭和 4)『燈を消すな』
など。
おおいで まさあつ
大出 正篤
生年不詳
没年不詳
◇日本語教育者。
満州に大出日本語教育研究所を設立。「速成式」日本語教授法
で知られる。
おおうち これよし
大内 惟義
⇒ひらが これよし(平賀 惟義)
おおうち せいらん
大内 青巒
1845(弘化 2. 4.17)
1918.12.16(大正 7)
◇仏教運動家。本名は退、字は巻之、別号は藹々・藹々居士・
露堂。仙台藩士大内権右衛門の子。
16歳で江戸に出て、原坦山に禅を、大槻磐渓に漢学を学ぶ。
明治維新後、大洲鉄然(オオズ・テツネン)の推薦で西本願寺法主大
谷光尊の侍講となる。
1871(明治 4)「新聞雑誌」を創刊(のちの東京曙新聞)。1874
(明治 7)雑誌「報四叢談」・新聞「明教新誌」を発刊。
1879(明治12)築地訓育会を起し、盲唖者の教育を行う。1889
(明治22)島地黙雷・井上円了らと天皇崇拝・キリスト教排斥の
仏教政治団体である尊皇奉仏大同団を組織。1890(明治23)第1
回衆議院議員総選挙に出馬し落選。
晩年は教育勅語の普及に従事。1914(大正 3)東洋大学学長。
(2)新聞「明教新法」を発刊……。
(16)「曙新聞」「雑誌明教新誌」「江湖新聞」などを発行…….
おおうち てるひろ
大内 輝弘
生年不詳
1569(永禄12.10.27)
◇室町後期の武将。通称は太郎左衛門。大内高弘(隆弘)の子。
(16)一説には政弘の次子,大内義興の兄.義興と不和になり豊
後の大友宗麟に頼ったともいう.
おおうち ひょうえ
大内 兵衛
1888. 8.29(明治21)
1980. 5. 1(昭和55)
◇大正・昭和期の経済学者。兵庫県淡路島生れ。
1913(大正 2)東京帝国大学経済学部卒業。大蔵省に入り2年
間ニューヨークに勤務し、1919(大正 8)退職。
1919(大正 8)東京帝国大学助教授。同年末、兵衛が編集発行
人の『経済学研究』創刊号に同大助教授森戸辰男の「クロポト
キンの社会思想の研究」を掲載し、同大教授上杉慎吉(シンキチ)や
天野辰夫ら右翼団体興国同志会がこれを危険思想として宣伝、
罷免を要求(森戸事件)。1920. 1.(大正 9)東大を官僚の養成機
関として考えていた政府は、朝憲紊乱(ビンラン)により森戸と兵
衛を起訴・休職。1922(大正11)復職、1923(大正12)教授。
1938(昭和13)労農派教授グループ事件(第2次人民戦線事件)
で有沢広巳らとともに検挙、1944(昭和19)辞職。
太平洋戦争後、東京大学に復職し、1948(昭和23)定年退職。
1950〜1959(昭和25〜昭和34)法政大学総長。
(2)'49東大退官後,法政大総長。
(6)50〜59年法政大学総長。
(16)'48停年退職.
おおうち ひろよ
大内 弘世
生年不詳
1380(<南>天授 6,<北>康暦 2)
◇南北朝時代の武将。本姓は多々良氏。大内弘幸の子、大内義
弘(ヨシヒロ)・盛見(モリミ)・弘茂の父。
おおうち まさひろ
大内 正弘
1446(文安 3)
1495(明応 4. 9.18)
◇室町後期の武将。幼名は亀童丸のち太郎。大内教弘の長男、
大内義興(ヨシオキ)の父。
おおうち もちよ
大内 持世
生年不詳
1441(嘉吉元. 7.28)
◇室町中期の武将。大内義弘(ヨシヒロ)の次子・持盛の兄。
おおうち もりみ
大内 盛見
1377(<南>天授 3,<北>永和 3)
1431(永享 3)
◇室町中期の武将。大内弘世(ヒロヨ)の第6子、大内義弘(ヨシヒロ)
の弟、大内弘茂の兄。
おおうち ゆうじ《おほうち いうじ》
大内 熊耳
1697(元禄10)
1779(安永 8. 4.28)
◇江戸中期の儒者(古学派)・唐津藩藩儒。陸奥国三春の人。
秋元澹園(アキモトタンエン)に入門、のち荻生徂徠に学ぶ。
明の李于鱗(リウリン)の詩文に傾倒。
著書は『家世遺聞』・『熊耳先生文集』など。
◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
おおうち よしおき《おほうち よしおき》
大内 義興
1477(文明 9)
1528(享禄元.12.20)
◇室町後期の武将・戦国大名。幼名は亀寿丸。大内政弘(マサヒロ)
の子、大内義隆(ヨシタカ)の父。
1494(明応 3)家督を継ぎ周防権介となり、周防・長門・安芸
・石見・豊前・筑前の守護を兼ね従三位左京大夫に任ぜられる。
細川政元に京都を追われた前将軍足利義稙(ヨシタネ)を、1499
(明応 8)山口に迎えて保護。1507(永正 4)義稙を擁して上洛、
1508(永正 5)入京し将軍足利義澄(ヨシズミ)とその擁立者細川澄
元(スミモト)を追って義稙を将軍に復し、管領代となり山城守護を
兼ね一時幕権を握る。1516(永正13)以後、将軍義稙から遣明船
の権利を一任され、財力を豊富にする。1518(永正15)周防国山
口に帰国。
安芸・石見に出兵し尼子経久(ツネヒサ)らと戦い、1521年和議が
成立するが、翌年以後再び安芸で戦い勝敗が決らず、1524(大
永 4)和議となり経久が撤兵。1526(大永 6)石見に侵入し三偶
城を奪い、1528年陣中で病にかかり山口に却って死去。
(*)1521(永正18,大永元)、1528(大永 8,享禄元)。
おおうち よしたか《おほうち よしたか》
大内 義隆
1507(永正 4)
1551(天文20. 9. 1)
◇戦国時代の大名。幼名は亀童丸。大内義興(ヨシオキ)の長男・嗣
子、母は守護代内藤弘矩の娘。
1528(享禄元.12.)家督を継ぎ周防権介となり、周防・長門・
安芸・石見・備後・豊前・筑前の守護を兼ねる。1529(享禄 2)
従五位上。1530(享禄 3)左京大夫。1532年、自ら大友義鑑(ヨシア
キ)・少弐資元(ショウニ・スケモト)・少弐冬尚(フユヒサ)と戦う。1534(天文
3)筑後の星野親忠を斬る。1535(天文 4)大友義鑑と和議を結
ぶ。
1536(天文 5)大内・北条・今川・朝倉氏が朝廷に資財を献上
し、第105代後奈良天皇は即位の大典を挙げることができ、義
隆は大宰大弐に任ぜられる。1538(天文 7)朝鮮から『一切経』
・『五経朱子新説』を求める。
1540(天文 9)尼子晴久の安芸侵入を迎え撃ち、1541(天文10)
毛利元就(モトナリ)を援けて出雲に尼子氏を撃退。1542(天文11)出
雲に出兵するが晴久に敗れ、1543(天文12)山口に帰国。1550
(天文19)山口を訪れたザビエルに謁見、耶蘇教の布教許可を与
える。
義隆が文弱に流れ国事を寵臣に委ね、また家臣陶晴賢(スエ・ハル
カタ)(隆房)の所領を没収しようとしたため、晴賢は大友宗麟の
援助を得て同志杉重政らと反逆。義隆は長門深川大寧寺で自殺。
文芸を好み、上洛の際は清原枝賢・業賢父子を招き経学を講
じさせる。戦乱を避けた公家を多く山口に保護、大内本を開板。
(*)1532(享禄 5,天文元)
◎大内義隆の自殺により大内氏は滅び、1552(天文21)大友宗麟
の弟晴英(のち大内義長)が豊後より陶晴賢に迎えられ、大内氏
の後嗣となる。春秀の母は義隆の姉である。
おおうち よしなが
大内 義長
生年不詳
1557(弘治 3)
◇室町後期の武将。初名は晴英、通称は八郎。大友義鑑の次子、
母は大内義隆の姉、大友義鎮(宗麟)の弟。
(2)初名晴英,通称八郎。
(16)初名は春英,のち大内氏を相続し名を義長と改める.
おおうち よしひろ《おほうち よしひろ》
大内 義弘
1356
1399(応永 6)
◇南北朝・室町前期の武将。幼名は孫太郎、法名は仏実、法号
は有繋。大内弘世(ヒロヨ)の嫡子、大内盛見(モリミ)・弘茂の兄、大
内持世(モチヨ)・持盛の父。
九州探題今川了俊(リュウシュン)(貞世)に従い九州を平定、長門・
豊前の守護職を授けられる。さらに安芸・石見を平らげる。
1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)明徳の乱の功で第3代将軍足利
義満(ヨシミツ)を援け山名氏清を亡ぼし、翌年山名氏の旧領和泉・
紀伊の守護職を併せる。
朝鮮と交易し、蓄財。南北朝合一に尽力。
義満の外様守護の疎外政策に逆らい、了俊を誘い挙兵しよう
とするが拒絶され失敗。鎌倉公方足利氏満(ウジミツ)と結び、東
西で挙兵しようとするが、1398(応永 5)氏満が死去。1399(応
永 6)氏満の子鎌倉公方足利満兼(ミツカネ)を誘い反乱(応永の乱)、
討伐され和泉国堺で戦死。
(4)生年は1356。
(6)生年は1354か1355。
(16)生年は1356(正平11・延文1)。
(*)1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)。
おおうら かねたけ
大浦 兼武
1850(嘉永 3. 5. 6)
1918.10. 1(大正 7)
◇政治家。
おおうら ためのぶ
大浦 為信
⇒つがる ためのぶ(津軽 為信)
おおえ けいこう
大江 敬香
1857(安政 4.12.24)
1916.10.26(大正 5)
◇漢詩人。本名は孝之。
おおえ けんじ
大江 賢次
1905. 9.20(明治38)
1987. 2. 1(昭和62)
◇小説家。鳥取県生れ。小学校卒業。大陸を放浪。
『シベリヤ』・『絶唱』など。
おおえ たく《おほえ たく》
大江 卓
1847(弘化 4. 9.25)
1921(大正10. 9.12)
◇明治・大正期の政治家・実業家。幼名は斎原治一郎のち
土井卓造、法号は天也。斎原弘の子。土佐国幡多郡生れ。
1867(慶応 3)長崎に赴き、ついで京都に出て土佐藩の陸援隊
に入り、尊皇運動に参加。
1868(明治元)兵庫県判事試補、1869(明治 2)兵庫外国事務御
用掛となるが、藩令によって帰省、上海に学ぶ。1871(明治 4)
「穢多(エタ)非人廃止建白書」を政府に提出。1872(明治 5)神奈川
県権令となりペルー国船マリア・ルーズ号事件を処理、英国軍
艦に逃れた苦力<クーリー>(清国人奴隷)を解放。1874(明治 7)大蔵
省に出仕、1875(明治 8)退官。1877(明治10)西南戦争に呼応し
て挙兵を企て禁錮10年、1884(明治17)仮出獄、1885(明治18)赦
免。
1887(明治20)後藤象二郎の大同団結運動に参加、1890(明治
23)立憲自由党創立に尽力、衆議院予算委員長となり党と政府
との妥協をはかり非難を受け、さらに1892(明治25)選挙に落選、
実業界に転じる。
東京株式取引所会頭・東京米穀取引所重役・朝鮮京釜鉄道設
立委員など。
1909(明治42)財界を退き、1914(大正 3)僧籍に入り、同年半
官半民の帝国公道会を創設。
おおえ りょうたろう
大江 良太郎
1901. 9.26(明治34)
1974. 4.14(昭和49)
◇演劇評論家・演出家。
おおえのあさつな《おほえのあさつな》
大江 朝綱
886(仁和 2)
957(天徳元.12.28)
◇平安中期の学者・書家。大江玉淵の子。祖父音人(オトンド)の
江相公に対して後江相公と称される。
おおえのおとんど《おほえのおとんど》
大江 音人
811(弘仁 2)
877(元慶元.11. 3)
◇平安前期の学者。江相公と称される。大枝本主の子、大江千
里(チサト)の父。大江朝綱(後江相公)の祖父。
菅原清公に師事。 866(貞観 8)大枝を大江に改める。
おおえのこれとき
大江 維時
888(仁和 4)
963(応和 3. 6. 7)
◇平安中期の学者。字は大江仁。千古の子。
朱雀・村上・冷泉・円融天皇の諱を撰定。
おおえのちさと《おほえのちさと》
大江 千里
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の儒者・歌人。大江音人(オトンド)の子。中古三十六
歌仙の一人。
おおえのひろもと《おほえのひろもと》
大江 広元
1148(久安 4)
1225(嘉禄元. 6.10)
◇鎌倉幕府の初代政所(マンドコロ)別当(ベットウ)。通称は大官令、
法名は覚阿。大江維光の子、大江匡房(マサフサ)の曾孫。中原親能
(大江維光の子)の弟。母が中原広季に再嫁したので広季の養子
となり中原姓を称したが、1216(建保 4)大江姓に復す。
1184年、源頼朝(ヨリトモ)の招きで公文所(クモンジョ)(のち政所)の
別当となった京下りの官僚。1185年守護・地頭の制を建策、功
によって肥後の山本荘が与えられる。1190年、頼朝の上洛に従
い、1191(建久 2)政所別当、従五位下・明法博士・左衛門大尉。
頼朝の死後も北条政子に重んじられ北条氏に協力、鎌倉幕府
の基礎を固める。将軍の廃立・畠山重忠・平賀朝雅・比企能員
らの追討に関与。1213年、北条義時と協力して和田義盛を滅ぼ
す。1216(建保 4)陸奥守、まもなく出家。1221(承久 3)承久の
乱では諸将に反対し即刻幕軍の上洛を主張、幕府方に勝利をも
たらす。
(2)惟光の子,中原広元の養子。あるいは長家流藤原光能の子,
母に従い中原広元の養子となり,のち大江惟光と父子契約し,大
江を称したともいう。
(6)維光の子。
(16)式部大輔維光の子.母が中原広季に再嫁したので広季の養
子となり,中原姓を称したが…….
記事中の'90(正応 3)と'91(正応 4)は元号の誤りで1290と12
91のことになる。
(*)1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,文治元)、1190(文治 6,
建久元)、1213(建暦 3,建保元)。
おおえのまさひら《おほえのまさひら》
大江 匡衡
952(天暦 6)
1012(寛弘 9. 7.16)
◇平安後期の学者・歌人。大江重光の子、維時の孫。大江以言
(モチトキ)の従兄弟。
祖父大江維時に学ぶ。 975(天延 3)文章生、翌年文章得業生。
のち右衛門尉・検非違使。 989年、文章博士。尾張・丹波守。
997(長徳 3)東宮学士として居貞(オキサダ)親王(第67代三条天皇)
に仕える。第66代一条天皇の侍読・侍従。皇子敦康親王の侍読
を兼ねる。1009(寛弘 6)再び文章博士・正四位下式部大輔。
著書『江吏部集』。
(2) 980(天元 3)文章生……。
(16) 975(天延 3)文章生.
(*) 989(永延 3,永祚元)。
おおえのまさふさ《おほえのまさふさ》
大江 匡房
1041(長久 2)
1111(天永 2.11. 5)
◇平安後期の貴族・漢詩人・歌人。別称は江中納言(ゴウノチュウナゴ
ン)・江帥(ゴウノソツ,ゴウノソチ)・江都督(ゴウトトク)・江大府卿(ゴウタイフ
キョウ)。父は大江朝臣成衡(シゲヒラ)、母は橘朝臣孝親の娘。匡衡
(マサヒラ)の曾孫。
1067(治暦 3)東宮学士として尊仁親王に仕える。1068(治暦
4)後冷泉天皇の死去により東宮が即位(後三条天皇)。1072(延
久 4)備中介・防鴨河使となり、即位したばかりの白河天皇の
蔵人と東宮学士を兼ねる。1090(寛治 4)堀河天皇に「漢書」を進
講。
(2)大江匡衡の孫。
(4)後冷泉・後三条・堀河の三朝に仕える、……。
(6)後三条・白河・堀河各天皇の侍読を勤めた。
(17)東京都小平市に音人から三十五代の孫大江退三氏という方
が系図を伝えておられるが、それには天永二年辛卯七月五日薨
とあるよし。
おおえのもちとき
大江 以言
955(天暦 9)
1010(寛弘 7)
◇平安中期の学者。はじめ弓削宿禰を名乗りのち大江の本姓に
復す。大江大隅守仲宣の子。大江匡衡(マサヒラ)の従兄弟。
藤原篤茂に学ぶ。
(16)大江維明の孫.
おおおか いくぞう
大岡 育造
1856(安政 3)
1928(昭和 3)
◇明治・大正期の政治家。医者大岡尚斎の長男。長門(山口県)
生れ。
長崎医学校に入学。東京に出て講法学館・司法省法学校に学
ぶ。
1890(明治23)「江戸新聞」を買収し「中央新聞」の社長となる。
同年、帝国議会開設に際し、山口県選出の衆議院議員となり
以来12回当選。政友会総務・東京市議会議長。1903(明治36)東
京市参事会員、のち市会議長。1912年以後、衆議院議長に3回
就任。
1914(大正 3)奥田義人に替り第1次山本権兵衛内閣の文部大
臣。
1922(大正11)第45回帝国議会で政友会領袖として帷幄上奏(イ
アクジョウソウ)による陸軍大将の増加を攻撃。のち吉野作造の『帷
幄上奏論』に「与党の領袖の口から之(コレ)を聞こうとは、実は
吾人の全く夢想せざる所であった」と記された。
(*)1912(明治45,大正元)。
おおおか うんぽう
大岡 雲峰
1764
1848
◇江戸後期の画家。旗本。四谷大番町(大京町)に在住。
(*)1764(宝暦14,明和元),1848(弘化 5,嘉永元)。
◎東京都新宿区須賀町の須賀神社に三十六歌仙の絵がある。
おおおか えちぜんのかみ
大岡 越前守
⇒おおおか ただすけ(大岡 忠相)
おおおか しょうへい
大岡 昇平
1909(明治42)
1988(昭和63)
◇昭和後期の作家。東京生れ。京都大学仏文科卒業。
1948(昭和23)『俘虜記』・1950(昭和25)『武蔵野夫人』・
1952(昭和27)『野火』など。
おおおか ただすけ《おほをか ただすけ》
大岡 忠相
1677(延宝 5)
1751(宝暦元.12.19)
◇江戸中期の名奉行。名は求馬のち市十郎・忠右衛門。江戸生
れ。旗本大岡美濃守忠高の4男。
1686(貞享 3)10歳のとき同族の大岡忠真(奈良町奉行,2700石)
の養子となる。1700(元禄13)家督を継ぎ、寄合、相摸1720石。
1736年、徒士頭。
1712(正徳 2)伊勢山田奉行となり、在任中に藩主徳川吉宗に
認められ、1716(享保元. 8.)吉宗の将軍就任にともない、1717
(享保 2)江戸町奉行、越前守。1736年、寺社奉行。1748年、三
河国大平1万石を領し大名に列する。
1751年、病気により辞し、同年6月吉宗が没し、12月忠相も
死去。
◆墓は神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺。
(2)大岡忠高の子,忠真の養子。
(16)忠高の3子.
(*)1704(元禄17,宝永元)、1736(享保21,元文元)、1748(延享 5,
寛延元)、1751(寛延 4,宝暦元)。
おおおか ただみつ
大岡 忠光
1709(宝永 6)
1760(宝暦10. 4.26)
◇江戸中期の幕政家。初名は兵庫。大岡忠利の子、大岡忠相の
一族。
1724(享保 9)16歳で第8代将軍徳川吉宗の小姓。ついで第9
代徳川家重に近侍。家重は若くから酒宴にふけり、言語も不明
瞭となり、忠光のみ理解できその理解者として地位を高める。
1746(延享 3)側衆5千石。1751年、1万石。1754(宝暦 4)若年
寄。1757(宝暦 7)側用人、武蔵国岩槻2万3千石。
(*)1751(寛延 4,宝暦元)。
おおかわ しゅうめい《おほかは しうめい》
大川 周明
1886.12. 6(明治19)
1957.12.24(昭和32)
◇右翼国家主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京大学哲
学科卒業。
学生時代に参謀本部のドイツ語の翻訳の下請けをし軍人の友
人を多く作る。
1918(大正 7)南満洲鉄道(満鉄)に入社、東亜経済調査局調査
課長・局長などを歴任。
この間に満川亀太郎(ミツカワ・カメタロウ)と1919. 8.(大正 8)上海に
いた北一輝を仲間に入れ猶存社(ユウゾンシャ)を組織し活動の中心
となるが、、大川と北が対立して1923(大正12)解散。1924(大
正13)行地社(コウチシャ)を結成、1925(大正14)皇居内に大学寮を設
け日本精神を説き、1932. 2.(昭和 7)行地社を母体に神武会を
組織(1935解散)。
1929(昭和 4)満鉄から独立した東亜経済調査局の理事長。
1930(昭和 5)結成された陸軍ファシストの秘密結社・桜会(サクラカ
イ)の将校と接近、大アジア主義を唱え、1931(昭和 6)三月事件
(宇垣一成陸軍大臣のためらいで未発)・十月事件(事前に軍部
の中枢に漏れ未遂)に関係した。
1932(昭和 7)五・一五事件に資金援助し検挙され禁錮9年、
1937(昭和12)仮出獄。1939(昭和14)東亜経済調査局長の最高顧
問・法政大学に新設された大陸部部長を兼ねる。
第二次大戦後、1945.12.12(昭和20)A級戦犯に指名され、巣
鴨拘置所に収容。極東国際軍事裁判の公判中発狂を理由に1948.
12.25(昭和23)釈放。
著書『日本精神研究』・『二千六百年史』・『近世欧羅巴植
民史』・『回教概論』など。
◎北は尉官級以下の青年将校に、大川は佐官級の中堅将校に関
係が強かった。
◎軍事裁判中の発狂には(1)梅毒説、(2)連合軍が理論闘争を避
けるため一服盛ったとする説、(3)法廷を逃れるための芝居説、
の3説がある。
◎軍事裁判中に東条英機の後頭部を平手打ちしたことは有名。
◎東京都目黒区下目黒3丁目の目黒不動に大川周明の筆になる
「北一輝先生碑」がある。
おおかわ へいざぶろう
大川 平三郎
1860
1936.12.30(昭和11)
◇実業家。渋沢栄一の甥。
(*)1860(安政 7,万延元)。
おおき あつお
大木 惇夫
1895. 4.18(明治28)
1977. 7.19(昭和52)
◇詩人・作詞家。本名は軍一、筆名初めは篤夫。広島市生れ。
広島商業卒業。
おおき たかとう《おほき たかたう》
大木 喬任
1832(天保 3. 3.)
1899. 6.26(明治32)
◇明治期の政治家。通称は幡六のち民平。佐賀藩士大木知喬の
長男。佐賀藩士の出身。
1868(明治元)徴士参与、外国事務局・京都府・軍務官の各判
事。江藤新平とともに東京奠都を建議し、功により東京府知事。
1871(明治 4)民部卿、民部省廃止後は文部卿。1872(明治 5)教
部卿を兼任。1873(明治 6)参議、10月司法卿を兼任。
1876(明治 9)神風連の乱(熊本県)・秋月の乱(福岡県)・萩の
乱(山口県)に特命を受けて現地で処刑の任にあたる。
1884(明治17)伯爵。民法編纂総裁・1885(明治18)元老院議長
・1889(明治22)枢密院義長・1890(明治23)第1次山県有朋内閣
の法務大臣・1891(明治24)第1次松方正義(マサヨシ)内閣の文部大
臣・1892(明治25)枢密院議長に再任。
おおき ゆうじ《おほき ゆうじ》
大木 雄二
1895. 5. 7(明治28)
1963. 7.21(昭和38)
◇歌人・児童文学者。本名は雄三。
おおき ゆたか
大木 豊
1925.12.14(大正14)
1976. 9. 1(昭和51)
◇演劇評論家。
おおぎまち きんかず
正親町 公和
1881.10.14(明治14)
1960.12. 7(昭和35)
◇小説家。筆名に高尾清五郎も使用。園池公致(ソノイケ・キンユキ)の
従兄弟。
おおぎまち きんみち
正親町 公通
1653(承応 2.閏6.26)
1733(享保18. 7.12)
◇江戸中期の神道家(垂加)。号は風水翁・風水軒など。権大納
言正親町実豊(サネトヨ)の末子。
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