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人 名 辞 典 《の》 編集:獨 澄旻
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のうあみ
能阿弥(能阿彌)
1397(応永 4)
1471(文明 3)
◇室町時代の連歌師・画家。本姓は中尾、法名は真能、通称は
能阿弥、号は秀峰・春鴎斎。もと越前朝倉氏の武士。足利義教
・義政の同朋衆。芸阿弥(真芸)の父、相阿弥(真相)の祖父。
のういん
能因
988(永延 2)
1058(康平元)頃
◇平安中期の歌人。俗名は橘永(立「心」偏+「豈」)(タチバナノナガヤス)、
出家して融因のち能因、摂津・古曾部(コソベ)に住み古曾部入道
とも称した。三十六歌仙の一人。
のうひめ
濃姫
1535(天文 4)
没年不詳
◇織田信長の正室。斎藤道三の娘。
1548(天文17)14歳で当時「うつけ」と呼ばれていた信長(15歳)
と結婚。政略結婚で織田家の内情をひそかに道三に知らせてい
たという。子がなく、道三の死の前後に信長のもとから消えた
と思われる。
(*)別書1549(天文18)。
のがみ あきら
野上 彰
1908.11.28(明治41)
1967.11. 4(昭和42)
◇編集者・詩人。本名は藤本登。
のがみ きゅうせん
野上 臼川
1883. 9.14(明治16)
1950. 2.23(昭和25)
◇英文学者・能楽研究家。本名は豊一郎(トヨイチロウ)。大分県生れ。
臼杵中学校・第一高等学校を経て、東京大学英文科卒業。法政
大学講師・教授・学監・文学部長を経て、1946(昭和21)総長。
(3)誕生日は 9.19。
(5)誕生日は 9.14。
(11)誕生日は 9.14。
(13)誕生日は 9.19。
のがみ とよいちろう
野上 豊一郎
1883. 9.14(明治16)
1950. 2.23(昭和25)
◇英文学者・能楽研究家。号は臼川。野上弥生子(ヤエコ)の夫。
のがみ やえこ
野上 弥生子(野上 彌生子)
1885. 5. 6(明治18)
1985. 3.30(昭和60)
◇小説家・翻訳家。本名はヤヱ。大分県生れ。明治女学校高等
科卒業。野上豊一郎(トヨイチロウ)の妻。
(1)本名は「ヤエ」。
(3)本名は「ヤエ」。
(5)本名は「ヤヱ」、また八重子と署名。
(10)本名は「ヤヱ」、はじめ八重子のち弥生子を筆名とした。
(11)本名は「ヤヱ」、また八重子と署名。
(13)本名は「ヤヱ」。
(16)本名は「ヤエ」。
のがわ たかし
野川 隆
1901. 4.23(明治34)
1944.12.19(昭和19)
◇詩人。
のぎ まれすけ
乃木 希典
1849(嘉永 2.11.11)
1912. 9.13(大正元)
◇明治の陸軍大将。幼名は無人(ナキト)。長州藩(山口県)出身。
伯爵。
藩校明倫館に学ぶ。
1867(慶応 3)高杉晋作の奇兵隊に加わり幕府軍と戦う。
1871(明治 4)陸軍少佐。1877(明治10)西南戦争に小倉歩兵第
14連隊長心得(ココロエ)として従軍。 2.22肥後国植木(ウエキ)で旗手
の河原林(カワラバヤシ)少尉が戦死して連隊旗を失い、責任をとっ
て自決しようとし、部下にとめられる。
1886(明治19)ドイツに留学し軍制・戦術を研究。帰国後、一
時退役し、那須野で農耕生活を送る。
日清戦争には歩兵第一旅団長として従軍。のち1896(明治29)
第3代台湾総督、行政能力を発揮できず、同年辞職。
日露戦争には第三軍司令官として旅順で苦戦し、更迭後に後
任の指揮官児玉源太郎により旅順の要塞が陥落。奉天の会戦に
従軍。
軍事参議官を経て、1907(明治40)学習院院長。院長在職中、
明治天皇の大葬当日、赤坂の自宅で妻静子ととも殉死。
(2)長州藩士乃木十郎希次の3男,母は常陸国土浦藩士長谷川
金太夫の長女寿子。妻静子とともに大喪の儀式当日自邸で殉死
した。
(4)山口県人。明治天皇の大葬当日、赤坂の自邸で殉死、妻静
子もこれに殉じた。
(6)長州藩出身。苦戦の末旅順を陥落させた。学習院院長在職
中,妻静子とともに明治天皇に殉死。
(16)東京の生まれ.妻シヅ子とともに殉死した.
(+)『軍国美談と教科書』岩波新書(新赤版)35
中内敏夫(ナカウチ・トシオ):著 1988年 8月22日第刷発行
「旅順攻略をなしとげたのは、じつは乃木指揮官ではなく、
乃木更迭後の後任指揮官児玉源太郎であった。(中略)真相は軍
指導者層のあいだでは公然の秘密であり、だれよりも乃木将軍
がよく知っていた。」(44頁)
◆東京都港区に乃木神社がある。
のぐち うじょう
野口 雨情
1882.12.29(明治15)
1945. 1.27(昭和20)
◇詩人・民謡・童謡作家。本名は英吉。茨城県多賀郡北中郷村
磯原(北茨城市磯原町)生れ。父量平・母「てる」の長男。
磯原尋常小学校を経て、伯父野口勝一(号は北巌,初代代議士)
宅神田の順天求合舎に入り、順天中学校を卒業。豪家に生れた
が家運が傾いたため東京専門学校(現:早稲田大学)を中退。祖
父の残した借財により絶望的になって遊蕩(ユウトウ)に堕し、芸者
と心中を図り失敗。樺太(カラフト)へ渡り事業を始めたが失敗。
1919(大正 8)上京して童話雑誌「金の星」の編集長になる。
代表作は民謡『船頭小唄』・『波浮の港』、童謡『七つの子』
・『赤い靴』・『青い目の人形』・『十五夜お月さん』など。
◆雨情忌[ 1.27]出身地茨城県茨城市で雨情を偲ぶ会が催され
る。
(1)誕生日は 5.29。
(3)誕生日は12.29。
(5)誕生日は12.29。
(10)誕生日は 5.29。茨城県多賀郡北中郷村磯原(現・北茨城市)
生れ。三四年東京専門学校に入学、三五年三月七日付けで中退。
(11)誕生日は12.29。
(13)誕生日は12.29。茨城県多賀郡磯原町に生まれ、三九年早
大文科卒業後、……。
(16)誕生日は12.。
◎北原白秋(ハクシュウ)・西条八十(ヤソ)とともに童謡・民謡詩人の
三大巨匠といわれる。
◎北茨城市磯原町に野口雨情記念館がある。
生家は水戸徳川家藩主の御休憩所「観海亭」で、資料室もあり
見学も可能。
のぐち こうめい
野口 昂明
1909(明治42)
1982(昭和57)
◇挿絵画家。本名は久夫。愛知県生れ。
1927(昭和 2)愛知県立工業学校図案科卒業。小田富弥のち伊
東深水に師事。
のぐち ねいさい
野口 寧斎
1867(慶応 3)
1905. 5.12(明治38)
◇漢詩人。名は弌(イチ)、通称は一太郎、字は貫卿、別号は嘯楼
(ショウロウ)・謫天情仙(タクテンジョウセン)・疏庵・藤乃舎由縁。肥前国
生れ。癩病(ハンセン氏病)患者。野口男三郎事件に巻き込まれ
て墓があばかれた。
(3)字は貫卿。
(5)字は貫郷(カンキョウ)。
(10)字は貫卿。
(11)字は貫郷(カンキョウ)。
のぐち ひでよ
野口 英世
1876.11. 9(明治 9)
1928. 5.21(昭和 3)
◇明治・大正期の細菌学者。幼名は清作。福島県生れ。
独学で医学を修め、1896(明治29)上京して高山歯科医学院の
学僕・講師、順天堂大学の助手。1897(明治30)医術開業試験に
合格。1898(明治31)伝染病研究所に助手として入り、北里柴三
郎に師事、細菌学の研究をはじめる。
1900(明治33)渡米、ペンシルヴァニア大学の病理学助手。蛇
毒の研究で認められ、デンマーク留学後、1904(明治37)ロック
フェラー医学研究所所員となる。1911(明治44)梅毒の病原体ス
ペロヘータの純粋培養に成功し、世界的名声を得る。痘瘡・小
児麻痺にも業績をあげる。
1918(大正 7)エクアドルで黄熱病の研究に従事。1923(大正
12)帝国学士院会員。1927(昭和 2)西アフリカで黄熱病原の調
査・研究中に感染し、アクラ(Accra)で死亡。
のぐち やたろう
野口 弥太郎
1899.10. 1(明治32)
1976. 2.23(昭和51)
◇画家。
のぐち よねじろう
野口 米次郎
1875.12. 8(明治 8)
1947. 7.13(昭和22)
◇詩人。別名はYone Noguchi(英詩)。愛知県海部郡津島町生れ。
1889(明治22)名古屋の県立中学に入るが中退、上京して神田の
私立中学に入り、1891(明治24)慶応義塾に転校。1893(明治26)
渡米し、掃除夫・皿洗いなどをする。英詩を自費出版、米英の
みならず日本にも知られる。1904(明治37)帰国。翌年、慶応義
塾教授。
のざき さぶん
野崎 左文
1858(安政 5. 9.26)
1935. 6. 8(昭和10)
◇狂歌師・戯作者・新聞記者。本名は城雄、別号は愛蟹子(狂
詩)・蟹廼屋(狂歌)・二世琴亭文彦・愛蟹漁史(アイカイギョシ)・
呉園情史(ゴエンジョウシ)、仮名垣魯文の門では蟹垣左文。高知生
れ。大学南校や大阪の開成学校に学ぶ。
馬場辰猪・馬場孤蝶の従兄弟。
のざわ きよし
野沢 純
1904. 5. 5(明治37)
1966. 3. 3(昭和41)
◇小説家。本名は忠(キヨシ)。
のざわ ぼんちょう
野沢 凡兆
生年不詳
1714(正徳 4)
◇江戸前期の俳人。姓の確証はない(宮城<ミヤギ>・越野・宮部
か)、名は允昌(インショウ)・允霄(インショウ)か(長次郎説は根拠不明)、
別号は1690(元禄 3)ころまで加生(カセイ)、晩年は阿圭(アケイ)。京
都で医者をし医名は達寿。
のじり ほうえい
野尻 抱影
1885.11.15(明治18)
1977.10.30(昭和52)
◇英文学者・天文随筆家。本名は正英。大仏(オサラギ)次郎の実
兄。
(3)誕生日は11.15。
(5)誕生日は 5. 8。
(10)誕生日は11.15。
(11)誕生日は11.15。
のだ うたろう
野田 宇太郎
1909.10.28(明治42)
1984. 7.20(昭和59)
◇詩人・評論家。
のだ こうご
野田 高梧
1893.11.19(明治26)
1968. 9.23(昭和43)
◇映画脚本家。
のだ べってんろう
野田 別天楼
1869(明治 2. 5.24)
1944. 9.26(昭和19)
◇俳人。本名は要吉。
のづ しずお
野津 鎮雄
1835(天保 6)
1880(明治13)
◇明治前期の陸軍軍人(中将)。野津道貫(ミチツラ)の兄。
のづ みちつら
野津 道貫
1841(天保12)
1908(明治41)
◇明治時代の陸軍軍人(元帥)。野津鎮雄(シズオ)の弟。
日露戦争で第4軍司令官。1906(明治39)元帥。1907(明治40)
侯爵。
のなか けんざん
野中 兼山
1615(慶長20. 1.21)
1663(寛文 3.12.15)
◇江戸前期の藩政家(土佐藩の家老)・儒学者。名は止、字(アザ
ナ)は良継、通称は伝右衛門。土佐の人。山内良明の子。
谷時中(タニ・ジチュウ)に土佐朱子学(南学)を学び、自ら長沢潜軒
・黒岩慈庵らの門人を指導し、山崎闇斎(アンサイ)を谷時中の門下
に推す。
土佐藩の家老野中直継の養子となる。
南学による封建教化を図り、同門の小倉三省(オグラ・サンセイ)と
ともに藩財政の確立のため家老として水田開発・河川の整備・
港湾改修や、茶・紙・漆の専売など殖産興業に努めるが、独裁
的な施政が反感を買い、藩主山内忠義の死後失脚、致仕。
著書は『室戸港記』・『兼山遺草』・『小学句読』・『小学
本註』・『朱子語類』・『自省録』など。
のながせ まさお
野長瀬 正夫
1906. 2. 8(明治39)
1984. 4.22(昭和59)
◇詩人。
ののぐち たかまさ
野々口 隆正
⇒おおくに たかまさ(大国 隆正)
ののぐち りゅうほ《ののぐち りふほ》
野々口 立圃
1595(文禄 4)
1669(寛文 9. 9.30)
◇江戸前期の俳諧師。名は親重(チカシゲ)、別号は松斎・如入斎、
家号は雛屋立圃(雛人形)。京都の人。
松永貞徳の高弟。
ののみや さだとも
野宮 定基
1669(寛文 9)
1711
◇江戸中期の公家・国学者。初名は中院親茂、号は松堂。内大
臣中院通茂の第2子。
叔父の野宮定縁の跡を継ぎ、定基と改名。
(*)1711(宝永 8,正徳元)。
ののむら にんせい
野々村 仁清
生年不詳
没年不詳
◇江戸前期の陶工。通称は壺屋清右衛門(セイエモン)(一説に清兵衛)。
「仁清」は仁和寺(ニンナジ)の門跡から「仁」の字を賜り、号とした
もの。丹波国南桑田郡野々村の生れ。
京都に出て仁和寺前などに窯(カマ)を築き、色絵陶器を創世し
て京焼きに新生面を開く。
のぶいえ《のぶいへ》
信家
生年不詳
没年不詳
◇安土桃山時代の鐔工(タンコウ)。
鉄の板鐔に毛彫りを施したものが多い。
◎金家(カネイエ)とともに鐔工の双璧、金家・明寿(ミョウジュ)ととも
に鐔(ツバ)の三作と称せられる。
◎甲冑師(カッチュウシ)の明珍信家とは別人とみなされる。
のぶち あきら
野淵 昶
1896. 7. 7(明治29)
1968. 2. 1(昭和43)
◇演出家・映画監督。
のぶひと しんのう《のぶひと しんわう》
宣仁 親王
⇒たかまつのみや のぶひと(高松宮 宣仁)
のべち てんま
野辺地 天馬
1885. 1. 7(明治18)
1965. 4.24(昭和40)
◇児童文学者・口演童話家。本名は三右衛門。
のぼり しょむ
昇 曙夢
1878. 7.17(明治11)
1958.11.22(昭和33)
◇明治〜昭和期の翻訳家・ロシア文学者。本名は直隆(ナオタカ)。
鹿児島県奄美大島生れ。1903(明治36)東京ニコライ正教神学校
卒業。同校教師を経て、1917(大正 6)陸軍士官学校教授。
1904(明治37)評伝『露国文豪ゴーゴリ』を出版。
(1)没日は11.22。
(2)昇 曙夢(のぼる しょむ)。
(3)没日は11.12。
(5)昇 曙夢(のぼり しょむ)、没日は11.22。
(10)昇 曙夢(のぼり しょむ)、没日は11.12。
(11)昇 曙夢(のぼる しょむ)、没日は11.22。
(13)昇 曙夢(のぼる しょむ)、没日は11.22。
のぼりざか ほくれい
登坂 北嶺
1879. 7.12(明治12)
1918. 6.21(大正 7)
◇小説家。本名は良平。
のま せいじ
野間 清治
1878.12.17(明治11)
1938.10.16(昭和13)
◇出版人(講談社の創業者)。群馬県生れ。
群馬県師範学校・東京帝国大学臨時教員養成所卒業。
1909(明治42)大日本雄弁会を創立。
1911(明治44)講談社を設立。
(3)没年は1938(昭和 3):誤。
(5)没年は1938(昭和13)。
(6)没年は1938。
(10)没日は1938.10.16(昭和13)。
(11)没年は1938(昭和13)。
(16)没日は1938.11. 7(昭和13)。
◆没後の1941(昭和16)に野間賞(学術賞,美術賞,文芸賞)が設立。
のみやま あすか
野見山 朱鳥
1917. 4.30(大正 6)
1970. 2.26(昭和45)
◇俳人。
(1)本名は正男。
(3)本名は正男。
(5)本名は正雄。
(10)没日は 2. 6、本名は正男。
のむら あいせい
野村 愛正
1891. 8.21(明治24)
1974. 7. 6(昭和49)
◇小説家。
のむら きしゅう
野村 喜舟
1886. 5.13(明治19)
1983. 1.12(昭和58)
◇俳人。本名は喜久二(キクジ)。終戦まで陸軍造兵廠に勤務。
(10)誕生日は1886. 5.13(明治19)。
(11)誕生日は1886. 4.17(明治21):年号が合わない。
のむら きちさぶろう《のむら きちさぶらう》
野村 吉三郎
1877.12.16(明治10)
1964. 5. 7(昭和39)
◇大正・昭和期の海軍軍人(大将)・外交官。和歌山県生れ。
海兵学校を卒業し、欧米各国の駐在武官を経て、軍令部次長
・鎮守府司令長官・軍事参議官などを歴任し、予備役となる。
軍令部次長・鎮守府司令長官・軍事参議官などを歴任。
1939. 9.25(昭和14)阿部信行内閣の外務大臣。中国問題で駐
日アメリカ大使グループと会談。1940〜1942(昭和15〜17)駐米
特命全権大使となり、ハル国務長官と開戦前夜の日米交渉にあ
たり、1941.12. 8(昭和16)日本時間4時過ぎに来栖三郎大使と
ともにハル国務長官に最後通牒を手交。1942. 8.20(昭和17)日
米交換船浅間丸・コンテベルデ号(伊)で帰国。
1944(昭和19)枢密顧問官。
第二次世界大戦後、自由民主党参議院議員などを歴任。
◎真珠湾攻撃は3時19分。
のむら こどう《のむら こだう》
野村 胡堂
1882.10.15(明治15)
1963. 4.14(昭和38)
◇小説家・音楽評論家。本名は長一(オサカズ)、号は「あらえびす」
(レコード評論)。岩手県生れ。
東京帝国大学法学部中退。
代表作『銭形平次捕物控』(1931. 4.<昭和 6>〜)。
のむら しゅりんどう
野村 朱鱗洞
1893.11.26(明治26)
1918.10.31(大正 7)
◇俳人。本名は守隣、号は初め柏葉のち朱燐洞のち朱鱗洞に改
める。
のむら しょうご
野村 尚吾
1912. 1. 2(明治45)
1975. 5.15(昭和50)
◇小説家。本名は利尚、旧姓は新堂、野村は父の実家。
のむら でんし
野村 伝四
1880.10.20(明治13)
1948. 7.26(昭和23)
◇教育者。
のむら とうこう
野村 東皐
1717(享保 2)
1784(天明 4. 3.24)
◇江戸中期の儒学者(古学派)。名は公台、字は子賤、通称は
新左衛門。近江彦根の人。
のむら とくしち
野村 徳七
1878. 8. 7(明治11)
1945(昭和20)
◇実業家・野村證券の創始者。通称は信之助。大阪生れ。
仲買店の見習。
1904(明治37)家業の小さな両替商を継ぐ。
1906(明治39)株式現物取引店の大阪屋商店を開業。日露戦争
後の株式ブームで巨利を得る。
1918(大正 7)大阪野村銀行(のち大和銀行)、設立。
1925(大正14)大阪野村銀行の証券部を野村證券として独立。
1922(大正11)野村合名会社、設立。
のち、野村財閥を形成し、関西経済の重鎮となる。
1928(昭和 3)貴族院議員に勅選。
1943(昭和18)大阪屋商店、大阪屋証券(のちコスモ証券)とな
る。
のむら はくげつ
野村 泊月
1882. 6.23(明治15)
1961. 2.13(昭和36)
◇俳人。本名は勇、旧姓は西山。西山泊雲(ハクウン)の実弟。
のむら ひでお
野村 英夫
1917. 7.13(大正 6)
1948.11.21(昭和23)
◇詩人・小説家。
のむら ふみお
野村 文夫
1836(天保 7)
1891.10.27(明治24)
◇新聞記者。名は虎吉のち文機、号は雨荘・簾雨。芸州広島生
れ。
7歳の時に芸州藩医の村田文尚の養子となる。1855(安政 2)
緒方洪庵の適々斎塾に入門。1865(慶応元)英国に脱出、1868
(明治元)帰国。1869(明治 2)『西洋見聞録』刊行。1870(明治
3)から民部省・工部省・内務省に出仕、内務卿の大久保利通
と大喧嘩をして1877. 1.15(明治10)退官。
この年 2.25団々社を設立、 3.14「團團珍聞(マルマルチンブン)」(週
刊)を創刊、1878(明治11)「驥尾団子」を創刊。スタッフを野村
一族と同郷人でかためていたが、1897. 4.(明治30)経営権が野
村一族の団々社から珍聞館に移り、しだいに「東京パック」など
の新興雑誌に押され1907(明治40)終刊。
1877(明治10.11.)妻と離婚し、野村姓に戻る。1882(明治15)
改進党に入党。
癌(ガン)で死去。
のむら ほうてい
野村芳亭
1880.11.13(明治13)
1934. 8.23(昭和 9)
◇映画監督。京都府生れ。野村芳太郎の父。
映画監督を経て、松竹蒲田撮影所の所長。
作品は『婦系図』など。
のむら ぼうとう《のむら ばうとう》
野村 望東
⇒のむら ぼうとうに(野村 望東尼)
のむら ぼうとうに《のむら ばうとうに》
野村 望東尼
1806(文化 3. 9. 5)
1867(慶応 3.11.13)
◇江戸末期の女流歌人・勤王家。本名はもと、号は招月・向陵。
福岡藩士浦野勝幸の三女。
福岡藩士郡氏に嫁するが離縁。
のち、福岡藩士野村貞貫(利三郎)の後妻。夫ともに和歌・書
を大隈言道(オオクマ・コトミチ)に学ぶ。
夫に死別後、剃髪して望東尼と称する。
勤王思想をもち、高杉晋作・平野国臣(クニオミ)・西郷隆盛らと
交友し、1865(慶応元)藩により玄界灘姫島に流罪。
のち、高杉らに救出され、三田尻(ミタジリ)(山口県防府市)の
荒瀬致和の家に身を寄せ、同所で没。
著書は『上京日記』・『姫島日記』・『防州日記』・『夢か
ぞへ』、家集『向陵集』など。
のむら まんぞう《のむら まんざう》
野村 万蔵(5世)
1862(文久 2)
1938. 1.15(昭和13)
◇能楽師(和泉流狂言師)。前名は万斎。
のむら まんぞう《のむら まんざう》
野村 万蔵
1898(明治31)
1978. 5. 6(昭和53)
◇能楽師(和泉流狂言師)。初名は万作、前名は万造。東京生れ。
著書は『狂言の道』。
のむら もとに
野村 望東尼
⇒のむら ぼうとうに(野村 望東尼)
のむら やすし
野村 靖
1842(天保13. 8. 6)
1909. 1.24(明治42)
◇江戸幕末の志士・明治時代の政治家。通称は和作。入江九一
(クイチ)の弟。
◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。
のむら よしたろう《のむら よしたらう》
野村 芳太郎
1919. 4.23(大正 8)
2005. 4. 8(平成17)
◇映画監督。京都生れ。野村芳亭(ホウテイ)の長男。
慶應義塾大学、卒業。
1941(昭和16)松竹大船撮影所に入所。
1952(昭和27)『鳩』で初監督。
作品は『ゼロの焦点』・『張込み』・『砂の器』・『八つ墓
村』など。
のむら よしや
野村 吉哉
1903. 1.31(明治36)
没年不詳
◇詩人。
のむら わいはん
野村 隈畔
1884. 8. 5(明治17)
1921(大正10)
◇思想家・評論家。本名は善兵衛。福島県生れ。
小学校卒業以外学歴なく、1908(明治41)上京し独学で英・独
語を修め哲学を学ぶ。
1914(大正 3)『ベルグソンと現代思潮』を刊行。
1921(大正10)東京音楽学校の哲学講習会で恋愛哲学を講じた
際の聴講生岡村梅子と恋愛におちいり、「永劫の彼岸へ」の遺書
を残して千葉市川海岸で投身心中。遺体発見日は1921.11. 5
(大正10)。
のりなが しんのう《のりなが しんわう》
義良 親王
⇒ごむらかみ てんのう(後村上 天皇)
のろ えいたろう《のろ えいたらう》
野呂 栄太郎
1900(明治33)
1934. 2.19(昭和 9)
◇昭和初期の経済学者・革命運動家。北海道生れ。
慶応義塾大学理財科に在学中、野坂参三(サンゾウ)の産業労働
調査所に入る。1927(昭和 2)卒論は『日本資本主義発達史』。
1929. 4.16(昭和 4)四・一六事件で検挙され、約1ヶ月豊多
摩刑務所に留置。
1930. 1.(昭和 5)日本共産党に入党。1932(昭和 7)『日本資
本主義発達史講座』の編集にあたり、講座派の中心となるが、
同年10月に共産党が大検挙を受け、地下活動に入る。共産党の
中央部再建に奔走中、1933.11.28(昭和 8)特高に逮捕され、た
らい回しされ、品川警察署で拷問を受け、品川病院で絶命。
著書は1927. 1.(昭和 2)『日本資本主義前史』など。
(2)'34年2月19日品川警察の拷問のため品川病院で絶命した。
(4)昭和八年検挙され、獄死。
(6)33年末検挙,翌年獄死。
(16)没日は1934(昭和 9. 9.21)。'33年11月逮捕され,翌年2月
品川警察署で虐殺された.
のろ かいせき
野呂 介石
1747(延享 4)
1828(文政11)
◇江戸後期の南画家。名は隆、字(アザナ)は松齢・隆年、号は初
め班石のち介石・矮梅居(ワイバイキョ)・四碧斎・十友・第五隆。
紀伊の人。
医師の家に生れ、10歳のころ伊藤蘭嵎(ラングウ)に儒学を学ぶ。
21歳のとき池大雅(イケ・タイガ)に入門するが、画風の影響をほ
とんど受けなかった。
47歳で紀伊藩御用絵師。銅山方なども歴任。
◎長町竹石(ナガマチ・チクセキ)・僧愛石とともに「三石」と称される。
のろ くにのぶ
野呂 邦暢
1937. 9.20(昭和12)
1980. 5. 7(昭和55)
◇小説家。本名は納所(ノウショ)邦暢。長崎県諫早市(イサハヤシ)生れ。
県立諫早高等学校卒業。
上京しそば屋店員・ガソリンスタンド店員などを経(ヘ)て、
陸上自衛隊に1年間入隊。
1965(昭和40)『ある男の故郷』で第21回「文学界」新人賞佳作
に入選。
1973(昭和48)自衛隊の体験を書いた『草のつるぎ』で第70回
芥川賞、受賞。
季刊「邪馬台(ヤマタイ)」を刊行。
作品は1967(昭和42)『白桃』・1973(昭和48)『十一月、水晶』
・1973(昭和48)『鳥たちの河口』・1975(昭和50)『一滴の夏』
・1976(昭和51)『諫早菖蒲日記』・1978〜1980(昭和53〜昭和
55)『丘の火』・1979(昭和54)『落城記』、1980(昭和55)エッ
セイ『王国、そして地図』など。
◆菖蒲忌[5月最終日曜日]:諫早市宇都町(ウヅマチ)上山公園の
野呂文学碑前。
のろ げんじょう《のろ げんぢやう》
野呂 元丈
1693(元禄 6)
1761(宝暦11)
◇江戸中期の本草学者。名は実夫、通称は源次、字は元丈、号
は連山。伊勢の人。野呂三省の養子、本姓は高橋。
医学を山脇玄修(道立)に学ぶかたわら、稲生若水(イノウ・ジャクス
イ,のち稲<トウ>と改姓)に本草学を学ぶ。
1720(享保 5)幕命により丹羽正伯(ニワ・セイハク)と諸国を旅行し
採薬。
1739(元文 4)幕府の御目見医師となり、翌年青木昆陽(コンヨウ)
とともにオランダ語を学ぶ。
江戸参府したオランダ商館員の蘭医ムスクルスの協力を得て
R.ドドネウス著の本草書を解読、1744(延享元)ころ『阿蘭陀
本草和解(オランダホンゾウワゲ)』(12巻)を著した。
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