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人 名 辞 典 《に》 編集:獨 澄旻
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にい いたる
新居 格
1888. 3. 9(明治21)
1951.11.15(昭和26)
◇評論家。徳島県生れ。東京大学政治学科卒業。
にいじま しげる
新島 繁
1901.11.21(明治34) ????
1957.12.19(昭和32)
◇翻訳家・文芸評論家。本名は野上巌。東京大学卒業。山口県
生れ。
(2)生年は1900(明治33)。
(10)誕生日は11. 3。
にいじま じょう
新島 襄
1843. 2.12(天保14. 1.14)
1890. 1.23(明治23)
◇明治期の宗教家(キリスト教)・教育者。幼名は七五三太(シメタ)、
留学中はJoseph Hardy Neesima、号は約瑟(ジョセフ)。安中藩士
新島民治の子。江戸生れ。
築地の軍艦教授所に学び、1864年に箱館よりアメリカに密航。
アーモスト大学・アンドーバー神学校に学び、1870(明治 3)卒
業。
1871(明治 4)アメリカに来た岩倉具視の使節に随行し、欧米
教育制度を視察、1874(明治 7)アメリカン・ボードの宣教師と
して帰国。
1875(明治 8)京都に同志社英学校を設立。1877(明治10)同志
社女学校を設立。1886(明治19)同志社病院仮診療所(日本最初
の看護婦学校)を開設。
大学設立準備の業半ばで大磯に客死。
(*)1864(文久 4,元治元)。
(15)築地の軍艦教授所に学び…….
(16)16才のとき海軍伝習所に入り…….
にいたべ しんのう《にひたべ しんわう》
新田部 親王
生年不詳
735(天平 7. 9.30)
◇天武天皇の第7皇子。母は藤原鎌足(カマタリ)の娘の五百重娘(イ
エオノイラツメ)。道祖王(フナドノオオキミ)の父。
にいのみ ひふう
新海 非風
1870(明治 3.10. 6)
1901.10.28(明治34)
◇俳人。本名は正行(マサユキ)・岩雄、別号は非凡。高浜虚子『俳
諧師』の五十嵐十風のモデルといわれる。
(5)誕生日は10. 6、没日は10.28。
(10)誕生日は10. 6、没日は10.28。
(11)誕生日は12.?、没日は 4.?。
にいみ なんきち《にひみ なんきち》
新美 南吉
1913. 7.30(大正 2)
1943. 3.22(昭和18)
◇童話作家。本名は正八、旧姓は渡辺、新美は継母の姓。愛知
県半田市生れ。
東京外語卒業。
咽喉結核により死去。
作品は『ごんぎつね』・『おぢいさんのランプ』・『花のき
村と盗人たち』など。
にえかわ たせき
贄川 他石
1868(明治元. 4. 8)
1935.12.21(昭和10)
◇俳人。本名は邦作、号は孤山堂稲香・碧雲堂他石。
にき えつこ
仁木 悦子
1928. 3. 7(昭和 3)
1986.11.23(昭和61)
◇小説家・童話作家。幼児小児麻痺に罹り車椅子の生活を送る。
(1)本名は二日市三重。
(3)本名は大井三重子。
(5)本名は二日市(フツカイチ)八重。
(10)本名は二日市三重。
にし あまね
西 周
1829(文政12. 2. 3)
1897. 1.31(明治30)
◇江戸幕末・明治時代の哲学者・啓蒙思想家。初名は経太郎(キョ
ウタロウ)・寿専(ジュセン)、名は時懋(トキシゲ)・魯人(ロジン)・修亮・
周助、周は明治維新後。号は鹿城・天根(アマネ)・甘寐斎(アマネサイ)
・甘寐舎(アマネノヤ)。岩見国(イワミノクニ)(現:島根県)津和野藩医時義
の嫡男。時義は森鴎外の曾祖父森高亮(タカスケ)の次男で、西家の
養子。
儒学・蘭学を修め、中浜万次郎について英語を学ぶ。
脱藩して1861(文久元)幕府の蕃書調所に出仕。
1862(文久 2)幕命により榎本武揚(タケアキ)・津田真道(マミチ)・
林研海(ケンカイ)らとともにオランダのライデンに留学。フィセリ
ング(Vissering)のもとで政治学・法学・哲学・経済学などを
学び、実証主義の影響を受ける。
1865(慶応元)帰国して開成所教授。幕命により『万国公法』
の翻訳を大成。
大政奉還前後、徳川慶喜の政治顧問となる。
明治維新後、新政府に仕え兵部省陸軍大丞に任じられる。
1873(明治 6)森有礼(アリノリ)らの明六社に参加し同人。機関紙
の「明六雑誌」で西洋哲学を日本に初めて紹介し、哲学(philos-
ophy)を始め多くの哲学用語を定める。
1878(明治11)竹橋騒動の事件後、陸軍卿山県有朋の命により
「軍人訓誡(クンカイ)」を起草。
1879(明治12)学士院会長。
1880(明治13)参謀本部長山県有朋命により「軍人勅諭(チョクユ)」
を起草。
1882(明治15)元老院議官。
1890(明治23)貴族院議員。
著書は1874(明治 7)『百一新論』・1874(明治 7)論理学書
『致知啓蒙』・『利学』など。
(2)生年は1829(文政12)。(名)経太郎,のち周助,維新後は周,
号を甘寐斎・天根。
(3)号は甘寝舎(アマネヤ)・甘寝斎。
(5)号は甘寐斎(アマネサイ)・甘寐舎(アマネノヤ)。
(10)生年は1828(文政12)。小字は経太郎(ミチタロウ)、号は甘寐(アマ
ネ)舎(斎)。
(11)生年は1828(文政12)。号は甘寐斎(アマネサイ)・甘寐舎。
(13)生年は1829(文政12)。初め周助。
(16)生年は1829(文政12)。通称は経太郎のち寿専・周助と改め,
維新ののち周と称した.
にし たけいち
西 竹一
1902(明治35)
1945. 3.22(昭和20)
◇昭和期の馬術選手・軍人(中佐)。通称はバロン西。東京生れ。
西徳二郎の子。男爵。
1932(昭和 7)第10回ロサンジェルス・オリンピックに参加、
障害飛越で優勝。陸軍騎兵中尉、愛馬はウラヌス号。
太平洋戦争に従軍、戦車隊長として硫黄島で玉砕。
にしお すえひろ《にしを すゑひろ》
西尾 末広
1891(明治24)
1981(昭和56)
◇政治家・労働運動家。香川県生れ。
社会民衆党の創立に参加。
第二次世界大戦後、日本社会党を結成、書記長となる。1959
(昭和34)日米安保条約改定問題で日本社会党右派とともに脱党
し、1960. 1.24(昭和35)民主社会党を結成、委員長となる。
にしお みのる《にしを みのる》
西尾 実
1889(明治22)
1979. 4.16(昭和54)
◇国文学者・国語教育学者。長野県生れ。
東京帝国大学卒業。
国立国語研究所の初代所長。
にしかわ いっそうてい
西川 一草亭
1878. 1.12(明治11)
1938. 3.20(昭和13)
◇花道家(去風流家元)・随筆家。
にしかわ こうじろう《にしかは くわうじらう》
西川 光二郎
1876. 4.29(明治 9)
1940.10.22(昭和15)
◇明治時代のの社会主義者。号は白熊。西川文子(フミコ)の夫。
1901(明治34)社会民主党創立に参加。日露戦争中は平民社に
より非戦論を展開。1905(明治38)山口孤剣らと雑誌『光』を刊
行、翌年平民社が再組織されて廃刊。1906(明治39)片山潜の
「労働社会」に入り日本社会党結成に参加したが、のちに別れ
1908(明治41)『東京社会新聞』を発刊。1909(明治42)東京鉄道
会社の運賃値上げ反対事件で入獄、のち転向。
(2)(学)東京専門学校(早大)。
(4)札幌農学校卒。
(6)東京専門学校卒。
(10)札幌農学校を経て東京専門学校に学んだ。
(16)札幌農学校を中退.東京専門学校卒業.
にしかわ じょけん
西川 如見
1648
1724(享保 9. 9.24)
◇江戸中期の天文・地理学者。名は忠英、号は如見・求林斎。
西川忠次郎の父。
(*)1648(正保 5,慶安元)。
にしかわ すけのぶ《にしかは すけのぶ》
西川 祐信
1671(寛文11)
1751(寛延 4. 9.11)
◇江戸中期の浮世絵師。俗称は祐助のち右京、号は文華堂・
自得斎。西川派の始祖。京都生れ。
狩野永納・土佐光祐に学ぶ。のち浮世絵に転向し、江戸の菱
川師宣(ヒシカワ・モロノブ)の影響を受け、肉筆美人画を描く。
代表作は『役者口三味線』・『絵本百人女郎品定(シナサダメ)』
・『絵本倭比事』など。
(4)没年は1751。
(6)没年は1751。
(16)没年は1751(宝暦1 9/11)。
(19)没年は1750。
にしかわ ちゅうじろう《にしかは ちゆうじらう》
西川 忠次郎
1693(元禄 6)
1756(宝暦 6)
◇江戸中期の天文学者。西川如見の次男。
にしかわ つとむ
西川 勉
1894. 6.30(明治27)
1934. 8. 1(昭和 9)
◇詩人。
にしかわ ふみこ
西川 文子
1882. 4. 2(明治15)
1960. 1.23(昭和35)
◇婦人運動家。西川光二郎(コウジロウ)の妻。
にしかわ ももこ
西川 百子
1887. 1.(明治20)
没年不詳
◇歌人。本名は正治郎、別号は輝(ヒカル)。
にしざわ いっぷう
西沢 一風
1665(寛文 5)
1731(享保16. 5.24)
◇江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者。名は義教(ヨシノリ)、通称は
正本屋(ショウホンヤ)九左衛門、号は与志(ヨシ)・朝義(トモヨシ)・集楽軒。
大阪の書肆。
(2)生年は1665(寛文 5)(異)52。
(4)生年は1665。
(6)生年は1652。
(11)生年は1665(寛文 5)。
(16)生年は1665(寛文 5)。
にしざわ てきほ
西沢 笛畝
1889. 1. 1(明治22)
1965.10.24(昭和40)
◇画家・人形工芸家。本名は昂一。
(*)本名の「昂」は左下を「工」とする異体字。
にしじま ばくなん
西島 麦南
1895. 1.10(明治28)
1981.10.11(昭和56)
◇俳人。本名は九州男(クスオ)。
にしだ きたろう《にしだ きたらう》
西田 幾多郎
1870(明治 3. 5.19)
1945. 6. 7(昭和20)
◇大正〜昭和前期の哲学者。戸籍上の誕生日は1868(慶応 4. 8.
10)。石川県生れ。
金沢第四高等学校中退後、上京し1894(明治27)東京帝国大学
選科卒業。
1899(明治32)山口高等学校講師・第四高等学校教授・1909
(明治42)学習院教授。
1910(明治43)京都帝国大学助教授・1913〜1928(大正 2〜昭
和 3)京都帝国大学教授。
1928(昭和 3)退官。
1940(昭和15)文化勲章、受章。
明治以来の移入された西洋哲学を摂取しながら伝統の東洋思
想を基礎に独自の体系を樹立しようとした。その影響は大正か
ら昭和にかけて大きく、西田哲学と呼ばれ、いわゆる京都学派
を形成し多くの追従者をもった。
著書は1911(明治44)『善の研究』・1917(大正 6)『自覚に於
る直観と反省』・1927(昭和 2)『働くものから見るものへ』・
1933(昭和 8)『哲学の根本問題』・1934(昭和 9)『哲学の根本
問題続編』・『無の自覚的限定』・『思索と体験』・『場所的
論理と宗教的世界観』・1935〜1946(昭和10〜昭和21)『哲学論
文集1〜7』など。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
(1)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
(2)生年は1870(明治 3)。
(3)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
(5)誕生日は1870(明治 3.旧4.19)。
(6)生年1870。
(10)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
(11)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
(13)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
(16)生年は1870(明治 3)。
◎「西田哲学」の名称は、1926.10.(大正15)左右田喜一郎(ソウダ・
キイチロウ)が雑誌「哲学研究」に「西田哲学の方法について」という題
で使用してから。
にしだ てんこう《にしだ てんかう》
西田 天香
1872(明治 5. 2.10)
1968. 2.29(昭和43)
◇宗教家。本名は市太郎。滋賀県生れ。
1905(明治38)一灯園を開創。
にしだ みつぎ
西田 税
1901(明治34)
1937. 8.16(昭和12)
◇昭和前期の軍人・国家主義者。鳥取県生れ。
広島地方幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。1922(大正11)
騎馬少尉。
1925(大正14)病気で予備役となり、上京して大川周明の大学
寮(のち行地社)に入るが、同年11月の安田生命事件で大川を離
れ、北一輝の傘下に入る。
1927(昭和 2)北の援助を得て自宅に士林社を設立し革新軍人
を集める。
1930(昭和 5)宮内省怪文書事件で有罪になり軍籍を離れる。
1932(昭和 7)五・一五事件で血盟団員川崎長光に射たれ重傷。
亀川哲也らと相沢三郎の公判に活躍。
1936(昭和11)二・二六事件で検挙、翌年銃殺。
(16)にしだみつぐ 西田税。
にしだ みつぐ
西田 税
⇒にしだ みつぎ(西田 税)
にしたに せいのすけ
西谷 勢之介
1897. 1.15(明治30)
1932(昭和 7)
◇詩人。別号は碧落居・更然洞。
にしで うつぎ
西出 うつ木
1883. 4.16(明治16)
1972.12.29(昭和47)
◇歌人。本名は「きち」。西出朝風(チョウフウ)の妻。
にしで ちょうふう
西出 朝風
1884.10. 6(明治17)
1943. 3.14(昭和18)
◇歌人。本名は一(ツカサ)。石川県大聖寺生れ。西出うつ木(ウツギ)
の夫。
慶応義塾普通部中退。
(3)西出 朝風(にしいで ちょうふう)、誕生日は10. 4。
(5)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は10. 6。
(10)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は10. 6。
(11)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は10. 6。
(13)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は十月。本名一
(ハジメ)。
にしな よしお《にしな よしを》
仁科 芳雄
1890(明治23)
1951(昭和26)
◇物理学者。岡山県生れ。
1918(大正 7)東京大学電気工学科を卒業し理化学研究所に入
る。
1921〜1928(大正10〜昭和 3)欧州に留学。
1931(昭和 6)から理研の主任研究員となり仁科研究室を創設
し、原子核の理論的研究および宇宙線の実験的研究を指導。
日本最初のサイクロトロンを完成。
1946(昭和21)理研所長。文化勲章、受章。
にしのみや さだいじん
西宮 左大臣
⇒みなもとのたかあきら(源 高明)
にしのみや とうちょう《にしのみや とうてう》
西宮 藤朝
1891.12. 7(明治24)
1970. 5.19(昭和45)
◇文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究家。
にしむら かんくろう《にしむら かんくらう》
西村 勘九郎
⇒さいとう どうさん(斎藤 道三)
にしむら げんどう《にしむら げんだう》
西村 玄道
1858(安政 5)
没年不明
◇新聞記者・民権活動家。三重県出身。
にしむら しげき
西村 茂樹
1828(文政11. 3.13)
1902. 8.18(明治35)
◇明治時代の教育家・思想家。初名は平太郎、明治以降茂樹、
名は鼎(カナエ)・芳在、字は重器(シゲキ)、号は泊翁(ハクオウ)・撲堂
・庸斎。下総(シモウサ)国佐倉(サクラ)藩士の子として江戸の藩邸に
生れる。作家宮本百合子の祖父。
はじめ儒学を学び、のち洋学を佐久間象山(ショウザン)に学び、
佐倉藩に出仕。年寄役として藩政に参与。
1871(明治 4)廃藩置県後、印旛県参事。
1872(明治 5)退官して上京し、私塾を開く。
1873(明治 6)文部省に出仕。森有礼らの明六社に参加。
1876(明治 9)東京修身学社を創設して雑誌「修身学社叢説」を
発行。
1880(明治13)文部省編集局長となり、『小学修身訓』を刊行。
1884(明治17)宮内省にも出仕。修身学社を日本講道会に改称。
1886(明治19)文部省を辞し、宮中顧問官(〜1900)。
1887. 6.(明治20)「弘道雑誌」を発行し、日本弘道会に改称。
1888(明治21)華族女学校長。
1890(明治23)貴族院議員。
著書は『万国史略』・1887(明治20)『日本道徳論』・『国家
道徳論』・『西洋事物起源』など。
◎儒教的な国民道徳運動を推進し、当時の文教政策の代表者で
あった。
(1)誕生日は 3.13。
(2)'76(修身学舎)を創設、これは'87に日本弘道会に発展し、
……。
(3)誕生日は 3.13。
(5)誕生日は 3.12。
(10)誕生日は 3.13。一三年、修身学社を創設、ついで日本弘
道会と改め、徳育運動を展開した。
(11)誕生日は 3.12。
(13)三月江戸に生まる。
明治八年三月修身学社をおこして……。
(16)誕生日は 3.13。
'76年修身学舎を起し,これが'84日本講道会,'87年日本弘
道会に発展.
にしむら しょざん
西村 渚山
1878. 4. 4(明治11)
1946(昭和21)
◇小説家。本名は恵次郎。
にしむら しんいち
西村 晋一
1906. 5.29(明治39)
1968.10.27(昭和43)
◇演劇評論家。
にしむら すいむ
西村 酔夢
1879. 3.30(明治12)
1943. 5.27(昭和18)
◇歴史学者。本名は真次、別号は篆隷子・裾野鶉。
にしむら せつじん
西村 雪人
1878. 2. 5(明治11)
1918. 8.21(大正 7)
◇俳人。本名は岸太郎、旧姓は東海林、別号は木魚星・木山人。
[1]にしむら ぜんごろう
西村 善五郎(初代)
生年不詳
1558
◇永楽焼の陶工。名は宗印。
奈良春日神社で土器作りを営む。土風炉を製作、一家をなす。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
[2]にしむら ぜんごろう
西村 善五郎(三代)
生年不詳
1623(元和 9)
◇京都永楽焼の陶工。名は宗全。天下一宗四郎の兄。
京都上京室町上立売安楽小路に居を移す。細川忠興の知遇を
得る。
[3]にしむら ぜんごろう
西村 善五郎(十代)
生年不詳
1841(天保12)
◇京都永楽焼の陶工。名は了全。九代目宗厳の子、永楽保全(ホ
ゼン)の養父。
父の没後、千宗左(了々斎)に引き取られ、1815(文化12)独立。
[4]にしむら ぜんごろう
西村 善五郎(十一代)
⇒えいらく ほぜん(永楽 保全)
にしむら ていが
西村 定雅
1744
1827. 1. 9(文政 9.12.12)
◇江戸中・後期の俳人・狂歌作者・洒落本作者。
(*)1744(寛保 4,延享元)。
にしむら てんしゅう
西村 天囚
1867(慶応 3. 7.23)
1924. 7.29(大正13)
◇新聞記者・小説家・漢文学者。本名は時彦、号は碩園(セキエン)。
鹿児島県種子島生れ。東京帝国大学古典講習科に学ぶ。
(2)生年は1865(慶応元)。
(10)生年は1865(慶応元)。
(11)生年は1867(慶応 3)。
(13)生年は1867(慶応 3)。
にしむら はくうんきょう
西村 白雲郷
1885. 3.26(明治18)
1958. 3.30(昭和33)
◇俳人。本名は善太郎。
にしむら ようきち
西村 陽吉
1892. 4. 9(明治25)
1959. 3.22(昭和34)
◇歌人・詩人・出版者。本名は辰五郎(タツゴロウ)、旧姓は江原。
東京市本所生れ。
高等小学校三年修業後、日本橋東雲堂書店の店員となり、
1909(明治42)店主の西村寅五郎の養子となる。
にしむら よしふじ
西村 芳藤
1828(文政11)
1887(明治20)
◇明治の画家。本名は藤太郎、号は一鵬斎・一宝斎。江戸生れ。
歌川国芳の門人。おもちゃ絵が得意で「おもちゃ芳藤」と呼ばれ
た。
にしもと すいいん
西本 翠蔭
1882.11. 6(明治15)
1917. 9. 7(大正 6)
◇編集者・出版人。本名は波太。
にしやま そういん
西山 宗因
1605(慶長10)
1682(天和 2. 3.28)
◇江戸前期の連歌師・俳人。本名は豊一(トヨカズ)、通称は
次郎作、連歌の号は宗因、俳号は一幽(イチユウ)・西翁(サイオウ)・
梅翁(バイオウ)、別号は西山翁・野梅子。
◆宗因忌[旧暦 3.28]。
にしやま はくうん
西山 泊雲
1877. 4. 3(明治10)
1944. 9.15(昭和19)
◇俳人。本名は亮三(リョウゾウ)。野村泊月(ハクゲツ)の実兄。
にじょう ためうじ
二条 為氏
1222
1286(弘安 9)
◇鎌倉時代の公卿・歌人。御子左家(ミコヒダリケ)藤原為家(タメイエ)
の子。藤原定家の孫。二条家の祖。
相伝の家領播磨国細川荘を弟為教(京極)・異母弟為相(タメスケ)
(冷泉)と争い、御子左家は三家に分裂。
(*)1222(承久 4,貞応元)。
にじょう てんのう《にでう てんわう》
二条 天皇
1143(康治 2)
1165(永万元)
◇第78代天皇。諱は守仁(モリヒト)。後白河天皇の第1皇子、母は
源懿子。順仁(ノブヒト)皇子(六条天皇)の父。憲仁(ノリヒト)皇子(高
倉天皇)の異母兄。
後鳥羽天皇の皇后美福門院得子に養育され、1155(久寿 2)後
白河天皇の皇太子となる。
後白河院院政下の1158(保元 3.12.)即位し、天皇親政を行お
うとして父と対立。
1159(平治元.12.)平治の乱に藤原信頼(ノブヨリ)・源義朝(ヨシトモ)
らにより、後白河上皇とともに黒戸御所に幽閉されるが、女装
して脱出し、平清盛(キヨモリ)の六波羅邸に入る。
1165(永万元. 6.)順仁皇子に譲位。
即位:1158(保元 3.12.20)、退位:1165(永万元. 6.25)。
にじょう よしもと《にでう よしもと》
二条 良基
1320(元応 2)
1388(<北>嘉慶 2. 6.13)
◇南北朝時代の歌人・連歌作者。号は後普光園院(ゴフコウオンイン)。
一条兼良(カネヨシ)の祖父。
にしわき じゅんざぶろう
西脇 順三郎
1894. 1.20(明治27)
1982. 6. 5(昭和57)
◇詩人・英文学者。生家は新潟県の小千谷(オジヤ)銀行当主。
1917(大正 6)慶応義塾大学理財科卒業。
にちおう《にちあう》
日奥
1565(永禄 8)
1630(寛永 7)
◇安土桃山〜江戸初期の日蓮宗の僧・不受不施派の祖。号は
仏性院。京都の人。
28歳の時、京都妙覚寺を継承。
1595(文禄 4)豊臣秀吉が東山大仏殿に千僧供養を催した時、
不受不施義にのっとり出仕を拒み、妙覚寺を退出して丹波に隠
れる。
1599(慶長 4)徳川家康が重ねて強く出仕を命じたが、これに
も応ぜず、対馬(ツシマ)に遠流(オンル)。1612(慶長17)在島13年、赦
免されて妙覚寺に帰住。その後不受不施公許状を得て盛んに不
受義を鼓吹。再度対馬流罪の決定する直前に死亡。
著書は『万代亀鏡録』など多数。
にちべん
日弁
1236(嘉禎 2)
1311
◇鎌倉後期の日蓮宗の僧。
(*)1311(延慶 4,応長元)。
にちれん
日蓮
1222(承久 4. 2.16)
1282(弘安 5.10.13)
◇鎌倉中期の僧。日蓮宗(法華宗)の開祖。法名は蓮長、諡号(シ
ゴウ)は立正大師。安房(アワ)国(千葉県南部)小湊の漁師の子。
12歳で故郷の清澄(キヨスミ)山の天台宗清澄寺に登り、18歳で受
戒し是聖清澄蓮長と称する。鎌倉・京都・比叡山・三井寺・高
野山など各地を修行し、仏法の真髄を『法華経』に見出し、
1253(建長 5)清澄山頂に日蓮宗を開き、帰りに「南無妙法蓮華
経」と唱える。
1257(正嘉元. 8.)鎌倉大地震に遭遇し、深刻な社会不安を体
験する。
辻説法で念仏宗・禅宗・真言宗・律宗などの他宗を盛んに攻
撃し、『立正安国論(リッショウアンコクロン)』を著し他国侵逼の難(蒙古
襲来)を予言して、1260(文応元. 7.)前執権北条時頼に献じる。
また、浄土教を排撃していたことから衆を惑わすものとして、
1261(弘長元. 5.)鎌倉で布教中に捕われ、伊豆伊東に流される
(伊豆法難)。
1263(弘長 3)赦(ユル)されて鎌倉に帰り、1268(文永 5)蒙古の
牒状が鎌倉に届き、日蓮の予言が適中したと主張し、1271(文
永 8. 9.12)再び捕われ、龍口(タツノクチ)の刑場に連行されたが、
危うく免れて佐渡に流される(龍口法難)。
1274(文永11)赦されて鎌倉に帰る。日蓮の主張が幕府に容れ
られないことを知り、鎌倉を発ち甲斐(カイ)国身延山に草庵を結
び隠棲。
武蔵国千束郷(センゾクゴウ)池上(イケガミ)(東京都大田区池上)で
病没。
他の著書は『開目鈔』・『観心本尊鈔』・『法華取要鈔』・
『撰時鈔』・『報恩鈔』など。
◎法然(ホウネン)の影響を強く受け、口に「南無妙法蓮華経」と題目
を唱えることによってのみ、誰でも成仏できると説く。
◆日蓮忌(御会式・御命講)[10.11〜10.13]総本山の身延山久遠
寺をはじめ東京の池上本門寺・堀の内妙法寺などに、万灯を立
て団扇(ウチワ)太鼓をたたいて信者が参集する。
にっしん
日親
1407(応永14)
1488(長享 2. 9.17)
◇室町中期の日蓮宗の僧。俗姓は埴谷氏、号は久遠成院、通称
は鍋冠(ナベカムリ)日親・鍋冠上人(ショウニン)。上総国武射郡埴谷村
(現:千葉県山武郡山武町埴谷)の生れ。
幼少より中山法華経寺を中心に日英・日暹(ニッセン)らに侍して
修行。
1427(応永34)京都に上って一条戻橋付近で辻説法を行う。摂
津国(現:大阪府)梶折に一乗寺を、博多に法性寺を建て、北九
州に弘通(グズウ)。
再び上洛し、将軍足利義教(ヨシノリ)に法華経を勧め、1439(永
享11)『立正治国論』を著して諫言(カンゲン)したため、1440(永
享12. 2.)投獄され、寺も破壊される。種々の拷問を受け、焼
いた鍋を頭に被(カブ)せられても顔色を変えず屈しなかったと
いう。
義教が赤松満祐(ミツスケ)に暗殺されたのちに赦(ユル)され、京都
に本法寺を建てここに住み、1487(長享元)『本法寺縁起』を起
草。
また、他宗の信者からは布施を受けず、他宗の者には施しを
しないという不受不施(フジュフセ)を主張した。
他の著書は『折伏正義抄』・『埴谷鈔』・『伝燈鈔』など。
にった くにてる
新田 邦光
1815(文化12)
1902(明治35)
◇明治初期の宗教家。
阿波を脱藩して尊王運動に奔走。
明治維新後は神道を講じ、教部省から大講義に任じられる。
富士・御岳の行者・講社を結集して、1873(明治 6)修成講社を
組織した。1876(明治 9)教部省の大教院から独立して神道修成
派を創始、1882(明治15)明治政府から公認。
にった じゅん
新田 潤
1904. 9.18(明治37)
1978. 5.14(昭和53)
◇小説家。本名は半田祐一。上田市生れ。東京大学英文科卒業。
にった じろう《につた じらう》
新田 次郎
1912. 6. 6(明治45)
1980. 2.15(昭和55)
◇小説家。本名は藤原寛人(ヒロト)。妻は作家藤原てい。
1932(昭和 7)中央気象台に就職、六年間富士山測候所で山岳
気象観測に従事。
にった せいわん
新田 静湾
1878(明治11)
没年不詳
◇小説家。本名は新一郎。
にった ただつね
仁田 忠常
生年不詳
1203(建仁 3)
◇鎌倉初期の武将。通称は仁田四郎(ニタンノシロウ)。伊豆国の人。
源頼朝に仕え、源範頼(ノリヨリ)に従い平氏を西海に討つ。富士の
巻狩で曾我十郎祐成(スケナリ)を討った。のち二代将軍源頼家の命
により北条時政を誅しようとしたが、加藤景廉に殺された。
にった よしさだ
新田 義貞
1301(正安 3)
1338(<南>延元 3,<北>建武 5.閏7. 2)
◇鎌倉末期・南北朝時代の武将。幼名は小太郎。新田朝氏(朝
兼)の子。上野国新田荘の人。
元弘の乱ではじめ北条氏に属し、1332(<南>元弘 2,<北>正慶
元)幕府の河内楠木正成(マサシゲ)攻めに参陣したが、中途で帰国。
1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5. 8)新田荘一井郷の生品明神
に挙兵、22日鎌倉を攻めて北条高時(タカトキ)ら北条一族を滅ぼし
幕府を滅亡させる。
建武中興後、六波羅を攻め滅ぼした足利尊氏(タカウジ)と並ぶ
功労者として、越後守・上野介・播磨介・武者所頭人に任ぜら
れ、左兵衛佐・正四位上に叙せられる。
1335(<南>建武 2,<北>建武 2.11.)南北朝内乱が始まると、
南朝方の大将として転戦。1336(<南>建武 3,<北>建武 3. 1.)
北畠顕家の援けを得て尊氏を西海に走らせたが、同年1336(<南>
延元元,<北>建武 3. 5.)再起して九州から東上した尊氏を、楠
木正成とともに兵庫に防いで敗れる。同年8月、楠木正成が後
醍醐天皇に勧めた両朝の一時的和睦で義貞軍は切り捨てられそ
うになり、恒良親王・尊良親王を擁して越前敦賀に到たる。
足羽郡藤島で斯波方の兵に襲われ戦死。
にとべ いなぞう《にとべ いなざう》
新渡戸 稲造
1862(文久 2. 8. 3)
1933.10.16(昭和 8)
◇農政学者・教育家。南部藩(岩手県)勘定奉行新渡戸常訓の子
として陸前国盛岡に生れる。新渡戸伝(ツトウ)の孫。
東京英語学校を経て、1877(明治10)札幌農学校(現:北海道大
学)に2期生として入学。すでにW.S.クラークは帰国してい
たがその影響下で在学中にキリスト教に入信。卒業後、東京大
学文学部の選科生となる。1884(明治17)アメリカのジョンズ・
ホプキンズ大学に留学。1887(明治20)札幌農学校助教授となり
ドイツに留学、ボン・ベルリン・ハレの諸大学で農業経営学を
修める。札幌農学校教授・台湾総督府技師・京都大学教授を経
て、1906〜1913(明治39〜大正 2)一高校長、1914(大正 3)東京
大学の教授、1918(大正 7)東京女子大学の初代学長。1919〜
1926(大正 8〜大正15)国際連盟事務次長。カナダの太平洋調査
会の国際会議に出席中病没。
著書、1900(明治33)『武士道』(英文)。
◎1984.11. 1(昭和59)発行の新札5千円の肖像に採用。
(1)誕生日は 8. 3、没日は10.16。
(2)'14東大教授となり……。'19〜'26国際連盟事務次長として
活躍。
(3)誕生日は 8. 3、没日は10.15。
(5)誕生日は 8. 3、没日は10.16。
(10)誕生日は 9. 1、没日は10.16。
(11)誕生日は 8. 3、没日は10.16。
(13)誕生日は 8. 3、没日は10.15。
大正九年国際聯盟事務局次長の重任に推された。
(15)13年東大教授,19〜26国際連盟書記局事務次長.
(16)誕生日は 8. 3、没日は10.15。
'20年国際連盟事務局次長など歴任.
にとべ つとう《にとべ つたう》
新渡戸 伝
1793(寛政 5)
1871(明治 4)
◇江戸後期の篤農家。名は常澄、字は太素(ヒロモト)、通称は
次郎八。新渡戸常訓の父、稲造(イナゾウ)の祖父。盛岡藩士。
子十次郎とともに陸奥国三本木(十和田)平野の開拓を行う。
参照⇒『百科辞書』さんぼんぎはら(三本木原)
◎青森県十和田市に新渡戸伝を祀(マツ)る太素塚がある。
にながわ ちうん《にながは ちうん》
蜷川 智蘊
生年不詳
1448(文安 5. 5.12)
◇室町中期の連歌師。蜷川新右衛門親当(チカマサ)と称する。六代
将軍足利義教(ヨシノリ)に仕え、政所公役(マンドコロクヤク)を勤めた武
臣。一休宗純に参じ、歌を歌僧正徹(ショウテツ)に、連歌を梵燈庵
(ボントウアン)に学んだ。
にながわ ちかもと
蜷川 親元
1433(永享 5)
1488(長享 2)
◇室町幕府の政所代。法名は道寿、号は不白。蜷川新右衛門親
当(チカマサ)の子。
1473(文明 5)父の後を継いで政所代となる。
『蜷川親元日記』が残されている。
にながわ とらぞう
蜷川 虎三
1897(明治30)
1981(昭和56)
◇昭和期の経済学者・政治家。東京市深川生れ。
農商務省水産講習所・京都帝国大学経済学部卒業。
1927(昭和 2)京都帝国大学助教授。1928(昭和 3)ドイツ留学。
1935(昭和10)経済学博士。1939(昭和14)教授。1945(昭和20)経
済学部長を歴任、1946(昭和21)戦争に対する責任を取って同僚
とともに集団辞職。
1948(昭和23)中小企業庁初代長官、1950. 3.(昭和25)ドッジ
・ライン政策をとる吉田茂首相と衝突し辞任。同年4月、京都
府知事選に当選、連続7期28年間革新知事として活躍。
にのみや きんじろう
二宮 金次郎
⇒にのみや そんとく(二宮 尊徳)
にのみや けいさく
二宮 敬作
1804(文化元. 5.)
1862(文久 2. 3.12)
◇江戸幕末の蘭方医。号は如山。伊予国(愛媛県)宇和島生れ。
16歳で長崎に出てシーボルトに学ぶ。シーボルト事件に連坐
し入獄。
出獄後、宇和島藩医員。シーボルトの娘楠本イネを養育。ま
た、蛮社の獄で逃亡中の高野長英を一時かくまう。
種痘の普及につとめる。
◎富士山を実測した最初の人といわれている。
にのみや そんとく
二宮 尊徳
1787(天明 7. 7.23)
1856(安政 3.10.20)
◇江戸後期の農政家。本名は尊徳(タカノリ)、通称は金次郎。相摸
国足柄上郡栢山(カヤマ)村(現:神奈川県小田原市栢山)生れ。百姓
利右衛門の子。
14歳で父を16歳で母と死別し、酒匂川(サカワガワ)の氾濫で田畑
を失い一家が離散。伯父の家を手伝いながら苦学して学業に励
み、19歳で独立し没落した一家を再興。
農業知識をもとに、26歳で小田原藩の家老服部家の若党とな
り、29歳で家政整理を任されて再建。
1822(文政 5)小田原藩士となり、同藩領の下野(シモツケ)桜町・
下野烏山・相模小田原・常陸下館・陸奥中村の農村を復興し認
められ、関東各地の605町村の救済をはかる。
さらに幕府に招聘されて下野真岡(モウカ)を改革し、1853(嘉永
6)日光神領の立直しの途中に没する。
封建的な身分制度を肯定しながら、儒教に神道・仏教を混じ
えた報徳精神により道徳と経済を合致させ、分限と勤倹の道徳
を説く。
著書は1856(安政 3)『報徳記』(富田高慶編)・1885(明治18)
『報徳外記』(富田高行編)など。
◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。
◎幕府の寛政改革(1787〜1793)・天保改革(1841〜1843)が諸藩
の財政窮乏と農村疲弊を根本的に解決できなかったが、尊徳は
その思想と優れた農業土木によって藩政や農村の再建に成功し
ている。
◎小田原の二宮神社に祀(マツ)られている。
◎門下に富田高慶・富田高行・福住正兄らがいて、尊徳の思想
は弟子たちの大日本報徳社運動が受け継ぎ、明治以降も全国的
に展開された。
にのみや ちゅうはち
二宮 忠八
1866(慶応 2)
1936. 4.(昭和11)
◇飛行機発明者・実業家。愛媛県八幡浜市44番地生れ。
1889(明治22)丸亀の歩兵連隊に在営中、カラスの飛ぶのを見
て空中飛行のヒントを得る。1890(明治23)研究を始め、ゴム動
力でプロペラを回す模型を製作し、1891. 4.29(明治24)丸亀練
兵場でカラス型飛行機の飛行に成功。1894(明治27)日清戦争に
従軍した朝鮮で、軍用に供する旨の上申書を提出したが却下さ
れる。
研究のため退役し自力で開発中、1903(明治36)ライト兄弟の
成功を知り、失望して実業界に転身。大阪製薬社長。
晩年、京都府八幡町に飛行神社を建立して神官となり、同地
で死去。
◎香川県仲南町に二宮忠八記念飛行公園がある。
にわ せいし
新羽 精之
1929(昭和 4)
1977(昭和52)
◇推理作家。本名は荒木精一。長崎県佐世保生れ。
同志社大学中退。洋服商・英語教師。
1958(昭和33)夏木蜻一の筆名で推理小説を発表。1962(昭和
37)新羽精之の筆名を使用。
にわ せいはく
丹羽 正伯
1700(元禄13)
1752(宝暦 2)
◇江戸中期の医者。
にわ ながひで《には ながひで》
丹羽 長秀
1535(天文 4)
1585(天正13. 4.16)
◇安土桃山時代の武将。
織田信長に仕え、佐和山城主のち小浜城主。
本能寺の変後、豊臣秀吉を助け、近江坂本に居り、1583(天
正11. 4.)近江国の賤ヶ岳の戦に功を立て、越前北ノ庄を居城
とした。
にわ ふみお《には ふみを》
丹羽 文雄
1904.11.22(明治37)
2005. 4.20(平成17)
◇作家。三重県四日市市出身。料理研究家本田桂子(〜2001)の
父。
早稲田大学文学部、卒業。
1932. 4.(昭和 7)「文芸春秋」に『鮎』を発表。
1942.11.(昭和17)「中央公論」に『海戦』を発表。
1948.10.(昭和23)「文学者」を創刊・主宰。
1953(昭和28)『蛇と鳩』で第一回野間文芸賞を受賞。
1971〜1981(昭和46〜昭和56)「中央公論」に『蓮如』を掲載。
1977(昭和52)文化勲章、受章。
81歳でアルツハイマーを発病。
作品は1947(昭和22)『厭がらせの年齢』・『親鸞』など。
にわ まさお
丹羽 正雄
1834(天保 5. 7. 2)
1864(元治元. 7.20)
◇江戸幕末の志士。
にわ よしとき
丹羽 嘉言
1742(寛保 2)
1786(天明 6)
◇江戸中期の絵師。
にんあみ どうはち
仁阿弥 道八(2代)
1783(天明 3)
1855(安政 2)
◇江戸後期の陶工。名は光時、号は法螺山人。もと伊勢亀山藩
士の陶工高橋周平光重(初代道八)の子、尾形周平(シュウヘイ)の兄
または父。
1824(文政 7)石山寺の座主尊賢大僧正の仏弟子となり出家。
1826(文政 9)仁和寺宮から法橋を許され「仁」の字を、醐醍寺三
法院宮から「阿弥」の号を賜わり「仁阿弥」と号する。
にんかい
仁海
951(天暦 5)
1046(永承元. 5.16)
◇平安中期の僧侶(真言宗)。
にんけん てんのう《にんけん てんわう》
仁賢 天皇
生年不詳
没年不詳
◇第24代天皇。名は億計王(オケオウ)、諱は大脚(オオシ)、字は島郎。
履中(リチュウ)天皇(第17代)の孫、磐坂市辺押磐(イワサカノイチノヘノオシワ)
皇子の第1王子、母は(「草」冠+「夷」補助漢字5589)媛、顕宗(ケン
ソウ)天皇(弘計王)の兄、武烈(ブレツ)天皇の父。
父が雄略天皇(第21代)に殺されたとき、難を避けて弟弘計王
(オケオウ)と丹波に逃れる。のち播磨国縮見屯倉(シジミノミヤケ)の首忍
海部細目(オシヌミノミヤツコホソメ)に牛飼の童として仕える。
481(清寧天皇 2)播磨国司の伊与来目部小楯(イヨノクメベ・オダテ)
の供応の席で弘計王が歌に託して素性を明らかにし、翌年後嗣
のない清寧(セイネイ)天皇(第22代)に迎えられ皇太子となる。
清寧天皇が崩じると兄弟で位を譲り合い、しばらく空位とな
り姉の飯豊青皇女が政をしていたが、身分を明らかにした弘計
王が先に即位。3年後に顕宗天皇が崩じて後に石上広高宮で即
位。
即位: 488(戊辰 1. 5)、退位: 498(戊寅 8. 8)。
にんこう てんのう《にんかう てんわう》
仁孝 天皇
1800(寛政12)
1846(弘化 3)
◇第120代天皇。諱は恵仁(アヤヒト)、幼称は寛宮。光格天皇の第
4皇子、母は東京極院藤原(「女」偏+「青」)。孝明天皇・和宮(カズ
ノミヤ)の父。
1809(文化 6)立太子。1811(文化 8)元服。
即位:1817(文化14. 9.21)、退位:1846(弘化 3. 2. 6)。
にんしょう
忍性
1217(建保 5)
1303(乾元 2. 7.12)
◇鎌倉中期の僧侶(律宗)。名は良観(リョウカン)。大和の人。
叡尊に師事し、その社会事業を受け継ぐ。西大寺に住して、
戒律復興に努め、貧民・病人救済などの社会事業を行う。ハン
セン病患者のため奈良に北山十八間戸(キタヤマジュウハッケンド)を設立。
のち鎌倉に下り、北条長時に迎えられ極楽寺に住して戒律を
広め、貧民救済や道路・橋・井戸などの構築も行った。
にんせい
仁清
⇒ののむら にんせい(野々村 仁清)
にんとく てんのう《にんとく てんわう》
仁徳 天皇
290
399
◇第16代天皇。名は大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)・大雀命。応神天皇
の第4皇子、母は皇后仲姫命。履中・反正・允恭天皇の父。
『宋書』倭国伝の「讃」または「弥(彌)」に比定される。
即位の頃、民のかまどに煙が立たないのを見てその窮状を知
り、三年の間税を免除したと伝えられる。
即位: 313(癸酉 1. 3)、退位: 399(己亥 1.16)。
(*)生没年は『日本書紀』による。
にんみょう てんのう《にんみやう てんわう》
仁明 天皇
810
850(嘉祥 3)
◇第54代天皇。諱は正良(マサラ)。嵯峨天皇の皇子、母は橘嘉智
子。
823(弘仁14)淳和(ジュンナ)天皇の即位とともに立太子。 833
(天長10)即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王(ツネサダシンノウ)を皇太
子とする。
842(承和 9)伴健岑(トモノコワミネ)・橘逸勢(ハヤナリ)らが恒貞親王
を奉じて謀反を起し(承和の変)、恒貞親王を廃太子とする。こ
の事件は藤原良房(ヨシフサ)の画策ともいわれる。仁明天皇と藤原
冬嗣(フユツグ)の娘順子との皇子道康親王(文徳天皇)が皇太子と
なり、藤原氏の権力独占への道を開くこととなる。
小野小町(オノノコマチ)は仁明天皇の更衣(コウイ)という説がある。
即位: 833(天長10. 3. 6)、退位: 850(嘉祥 3. 3.21)。
(*) 810(大同 5,弘仁元)。
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