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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6421.03

                 人   名   辞   典    《に》       編集:獨  澄旻

-------- に ----------------------------------------------------
にい いたる
	新居 格
	1888. 3. 9(明治21)
	1951.11.15(昭和26)
	◇評論家。徳島県生れ。東京大学政治学科卒業。
にいじま しげる
	新島 繁
	1901.11.21(明治34)		????
	1957.12.19(昭和32)
	◇翻訳家・文芸評論家。本名は野上巌。東京大学卒業。山口県
	生れ。
	(2)生年は1900(明治33)。
	(10)誕生日は11. 3。
にいじま じょう
	新島 襄
	1843. 2.12(天保14. 1.14)
	1890. 1.23(明治23)
	◇明治期の宗教家(キリスト教)・教育者。幼名は七五三太(シメタ)、
	留学中はJoseph Hardy Neesima、号は約瑟(ジョセフ)。安中藩士
	新島民治の子。江戸生れ。
	 築地の軍艦教授所に学び、1864年に箱館よりアメリカに密航。
	アーモスト大学・アンドーバー神学校に学び、1870(明治 3)卒
	業。
	 1871(明治 4)アメリカに来た岩倉具視の使節に随行し、欧米
	教育制度を視察、1874(明治 7)アメリカン・ボードの宣教師と
	して帰国。
	 1875(明治 8)京都に同志社英学校を設立。1877(明治10)同志
	社女学校を設立。1886(明治19)同志社病院仮診療所(日本最初
	の看護婦学校)を開設。
	 大学設立準備の業半ばで大磯に客死。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
	(15)築地の軍艦教授所に学び…….
	(16)16才のとき海軍伝習所に入り…….
にいたべ しんのう《にひたべ しんわう》
	新田部 親王
	生年不詳
	 735(天平 7. 9.30)
	◇天武天皇の第7皇子。母は藤原鎌足(カマタリ)の娘の五百重娘(イ
	エオノイラツメ)。道祖王(フナドノオオキミ)の父。
にいのみ ひふう
	新海 非風
	1870(明治 3.10. 6)
	1901.10.28(明治34)
	◇俳人。本名は正行(マサユキ)・岩雄、別号は非凡。高浜虚子『俳
	諧師』の五十嵐十風のモデルといわれる。
	(5)誕生日は10. 6、没日は10.28。
	(10)誕生日は10. 6、没日は10.28。
	(11)誕生日は12.?、没日は 4.?。
にいみ なんきち《にひみ なんきち》
	新美 南吉
	1913. 7.30(大正 2)
	1943. 3.22(昭和18)
	◇童話作家。本名は正八、旧姓は渡辺、新美は継母の姓。愛知
	県半田市生れ。
	 東京外語卒業。
	 咽喉結核により死去。
	 作品は『ごんぎつね』・『おぢいさんのランプ』・『花のき
	村と盗人たち』など。
にえかわ たせき
	贄川 他石
	1868(明治元. 4. 8)
	1935.12.21(昭和10)
	◇俳人。本名は邦作、号は孤山堂稲香・碧雲堂他石。
にき えつこ
	仁木 悦子
	1928. 3. 7(昭和 3)
	1986.11.23(昭和61)
	◇小説家・童話作家。幼児小児麻痺に罹り車椅子の生活を送る。
	(1)本名は二日市三重。
	(3)本名は大井三重子。
	(5)本名は二日市(フツカイチ)八重。
	(10)本名は二日市三重。
にし あまね
	西 周
	1829(文政12. 2. 3)
	1897. 1.31(明治30)
	◇江戸幕末・明治時代の哲学者・啓蒙思想家。初名は経太郎(キョ
	ウタロウ)・寿専(ジュセン)、名は時懋(トキシゲ)・魯人(ロジン)・修亮・
	周助、周は明治維新後。号は鹿城・天根(アマネ)・甘寐斎(アマネサイ)
	・甘寐舎(アマネノヤ)。岩見国(イワミノクニ)(現:島根県)津和野藩医時義
	の嫡男。時義は森鴎外の曾祖父森高亮(タカスケ)の次男で、西家の
	養子。
	 儒学・蘭学を修め、中浜万次郎について英語を学ぶ。
	 脱藩して1861(文久元)幕府の蕃書調所に出仕。
	 1862(文久 2)幕命により榎本武揚(タケアキ)・津田真道(マミチ)・
	林研海(ケンカイ)らとともにオランダのライデンに留学。フィセリ
	ング(Vissering)のもとで政治学・法学・哲学・経済学などを
	学び、実証主義の影響を受ける。
	 1865(慶応元)帰国して開成所教授。幕命により『万国公法』
	の翻訳を大成。
	 大政奉還前後、徳川慶喜の政治顧問となる。
	 明治維新後、新政府に仕え兵部省陸軍大丞に任じられる。
	 1873(明治 6)森有礼(アリノリ)らの明六社に参加し同人。機関紙
	の「明六雑誌」で西洋哲学を日本に初めて紹介し、哲学(philos-
	ophy)を始め多くの哲学用語を定める。
	 1878(明治11)竹橋騒動の事件後、陸軍卿山県有朋の命により
	「軍人訓誡(クンカイ)」を起草。
	 1879(明治12)学士院会長。
	 1880(明治13)参謀本部長山県有朋命により「軍人勅諭(チョクユ)」
	を起草。
	 1882(明治15)元老院議官。
	 1890(明治23)貴族院議員。
	 著書は1874(明治 7)『百一新論』・1874(明治 7)論理学書
	『致知啓蒙』・『利学』など。
	(2)生年は1829(文政12)。(名)経太郎,のち周助,維新後は周,
	号を甘寐斎・天根。
	(3)号は甘寝舎(アマネヤ)・甘寝斎。
	(5)号は甘寐斎(アマネサイ)・甘寐舎(アマネノヤ)。
	(10)生年は1828(文政12)。小字は経太郎(ミチタロウ)、号は甘寐(アマ
	ネ)舎(斎)。
	(11)生年は1828(文政12)。号は甘寐斎(アマネサイ)・甘寐舎。
	(13)生年は1829(文政12)。初め周助。
	(16)生年は1829(文政12)。通称は経太郎のち寿専・周助と改め,
	維新ののち周と称した.
にし たけいち
	西 竹一
	1902(明治35)
	1945. 3.22(昭和20)
	◇昭和期の馬術選手・軍人(中佐)。通称はバロン西。東京生れ。
	西徳二郎の子。男爵。
	 1932(昭和 7)第10回ロサンジェルス・オリンピックに参加、
	障害飛越で優勝。陸軍騎兵中尉、愛馬はウラヌス号。
	 太平洋戦争に従軍、戦車隊長として硫黄島で玉砕。
にしお すえひろ《にしを すゑひろ》
	西尾 末広
	1891(明治24)
	1981(昭和56)
	◇政治家・労働運動家。香川県生れ。
	 社会民衆党の創立に参加。
	 第二次世界大戦後、日本社会党を結成、書記長となる。1959
	(昭和34)日米安保条約改定問題で日本社会党右派とともに脱党
	し、1960. 1.24(昭和35)民主社会党を結成、委員長となる。
にしお みのる《にしを みのる》
	西尾 実
	1889(明治22)
	1979. 4.16(昭和54)
	◇国文学者・国語教育学者。長野県生れ。
	 東京帝国大学卒業。
	 国立国語研究所の初代所長。
にしかわ いっそうてい
	西川 一草亭
	1878. 1.12(明治11)
	1938. 3.20(昭和13)
	◇花道家(去風流家元)・随筆家。
にしかわ こうじろう《にしかは くわうじらう》
	西川 光二郎
	1876. 4.29(明治 9)
	1940.10.22(昭和15)
	◇明治時代のの社会主義者。号は白熊。西川文子(フミコ)の夫。
	 1901(明治34)社会民主党創立に参加。日露戦争中は平民社に
	より非戦論を展開。1905(明治38)山口孤剣らと雑誌『光』を刊
	行、翌年平民社が再組織されて廃刊。1906(明治39)片山潜の
	「労働社会」に入り日本社会党結成に参加したが、のちに別れ
	1908(明治41)『東京社会新聞』を発刊。1909(明治42)東京鉄道
	会社の運賃値上げ反対事件で入獄、のち転向。
	(2)(学)東京専門学校(早大)。
	(4)札幌農学校卒。
	(6)東京専門学校卒。
	(10)札幌農学校を経て東京専門学校に学んだ。
	(16)札幌農学校を中退.東京専門学校卒業.
にしかわ じょけん
	西川 如見
	1648
	1724(享保 9. 9.24)
	◇江戸中期の天文・地理学者。名は忠英、号は如見・求林斎。
	西川忠次郎の父。
	(*)1648(正保 5,慶安元)。
にしかわ すけのぶ《にしかは すけのぶ》
	西川 祐信
	1671(寛文11)
	1751(寛延 4. 9.11)
	◇江戸中期の浮世絵師。俗称は祐助のち右京、号は文華堂・
	自得斎。西川派の始祖。京都生れ。
	 狩野永納・土佐光祐に学ぶ。のち浮世絵に転向し、江戸の菱
	川師宣(ヒシカワ・モロノブ)の影響を受け、肉筆美人画を描く。
	 代表作は『役者口三味線』・『絵本百人女郎品定(シナサダメ)』
	・『絵本倭比事』など。
	(4)没年は1751。
	(6)没年は1751。
	(16)没年は1751(宝暦1 9/11)。
	(19)没年は1750。
にしかわ ちゅうじろう《にしかは ちゆうじらう》
	西川 忠次郎
	1693(元禄 6)
	1756(宝暦 6)
	◇江戸中期の天文学者。西川如見の次男。
にしかわ つとむ
	西川 勉
	1894. 6.30(明治27)
	1934. 8. 1(昭和 9)
	◇詩人。
にしかわ ふみこ
	西川 文子
	1882. 4. 2(明治15)
	1960. 1.23(昭和35)
	◇婦人運動家。西川光二郎(コウジロウ)の妻。
にしかわ ももこ
	西川 百子
	1887. 1.(明治20)
	没年不詳
	◇歌人。本名は正治郎、別号は輝(ヒカル)。
にしざわ いっぷう
	西沢 一風
	1665(寛文 5)
	1731(享保16. 5.24)
	◇江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者。名は義教(ヨシノリ)、通称は
	正本屋(ショウホンヤ)九左衛門、号は与志(ヨシ)・朝義(トモヨシ)・集楽軒。
	大阪の書肆。
	(2)生年は1665(寛文 5)(異)52。
	(4)生年は1665。
	(6)生年は1652。
	(11)生年は1665(寛文 5)。
	(16)生年は1665(寛文 5)。
にしざわ てきほ
	西沢 笛畝
	1889. 1. 1(明治22)
	1965.10.24(昭和40)
	◇画家・人形工芸家。本名は昂一。
	(*)本名の「昂」は左下を「工」とする異体字。
にしじま ばくなん
	西島 麦南
	1895. 1.10(明治28)
	1981.10.11(昭和56)
	◇俳人。本名は九州男(クスオ)。
にしだ きたろう《にしだ きたらう》
	西田 幾多郎
	1870(明治 3. 5.19)
	1945. 6. 7(昭和20)
	◇大正〜昭和前期の哲学者。戸籍上の誕生日は1868(慶応 4. 8.
	10)。石川県生れ。
	 金沢第四高等学校中退後、上京し1894(明治27)東京帝国大学
	選科卒業。
	 1899(明治32)山口高等学校講師・第四高等学校教授・1909
	(明治42)学習院教授。
	 1910(明治43)京都帝国大学助教授・1913〜1928(大正 2〜昭
	和 3)京都帝国大学教授。
	 1928(昭和 3)退官。
	 1940(昭和15)文化勲章、受章。
	 明治以来の移入された西洋哲学を摂取しながら伝統の東洋思
	想を基礎に独自の体系を樹立しようとした。その影響は大正か
	ら昭和にかけて大きく、西田哲学と呼ばれ、いわゆる京都学派
	を形成し多くの追従者をもった。
	 著書は1911(明治44)『善の研究』・1917(大正 6)『自覚に於
	る直観と反省』・1927(昭和 2)『働くものから見るものへ』・
	1933(昭和 8)『哲学の根本問題』・1934(昭和 9)『哲学の根本
	問題続編』・『無の自覚的限定』・『思索と体験』・『場所的
	論理と宗教的世界観』・1935〜1946(昭和10〜昭和21)『哲学論
	文集1〜7』など。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
	(1)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
	(2)生年は1870(明治 3)。
	(3)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
	(5)誕生日は1870(明治 3.旧4.19)。
	(6)生年1870。
	(10)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
	(11)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
	(13)誕生日は1870(明治 3. 5.19)。
	(16)生年は1870(明治 3)。
	◎「西田哲学」の名称は、1926.10.(大正15)左右田喜一郎(ソウダ・
	キイチロウ)が雑誌「哲学研究」に「西田哲学の方法について」という題
	で使用してから。
にしだ てんこう《にしだ てんかう》
	西田 天香
	1872(明治 5. 2.10)
	1968. 2.29(昭和43)
	◇宗教家。本名は市太郎。滋賀県生れ。
	 1905(明治38)一灯園を開創。
にしだ みつぎ
	西田 税
	1901(明治34)
	1937. 8.16(昭和12)
	◇昭和前期の軍人・国家主義者。鳥取県生れ。
	 広島地方幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。1922(大正11)
	騎馬少尉。
	 1925(大正14)病気で予備役となり、上京して大川周明の大学
	寮(のち行地社)に入るが、同年11月の安田生命事件で大川を離
	れ、北一輝の傘下に入る。
	 1927(昭和 2)北の援助を得て自宅に士林社を設立し革新軍人
	を集める。
	 1930(昭和 5)宮内省怪文書事件で有罪になり軍籍を離れる。
	 1932(昭和 7)五・一五事件で血盟団員川崎長光に射たれ重傷。
	亀川哲也らと相沢三郎の公判に活躍。
	 1936(昭和11)二・二六事件で検挙、翌年銃殺。
	(16)にしだみつぐ 西田税。
にしだ みつぐ
	西田 税
	⇒にしだ みつぎ(西田 税)
にしたに せいのすけ
	西谷 勢之介
	1897. 1.15(明治30)
	1932(昭和 7)
	◇詩人。別号は碧落居・更然洞。
にしで うつぎ
	西出 うつ木
	1883. 4.16(明治16)
	1972.12.29(昭和47)
	◇歌人。本名は「きち」。西出朝風(チョウフウ)の妻。
にしで ちょうふう
	西出 朝風
	1884.10. 6(明治17)
	1943. 3.14(昭和18)
	◇歌人。本名は一(ツカサ)。石川県大聖寺生れ。西出うつ木(ウツギ)
	の夫。
	 慶応義塾普通部中退。
	(3)西出 朝風(にしいで ちょうふう)、誕生日は10. 4。
	(5)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は10. 6。
	(10)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は10. 6。
	(11)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は10. 6。
	(13)西出 朝風(にしで ちょうふう)、誕生日は十月。本名一
	(ハジメ)。
にしな よしお《にしな よしを》
	仁科 芳雄
	1890(明治23)
	1951(昭和26)
	◇物理学者。岡山県生れ。
	 1918(大正 7)東京大学電気工学科を卒業し理化学研究所に入
	る。
	 1921〜1928(大正10〜昭和 3)欧州に留学。
	 1931(昭和 6)から理研の主任研究員となり仁科研究室を創設
	し、原子核の理論的研究および宇宙線の実験的研究を指導。
	 日本最初のサイクロトロンを完成。
	 1946(昭和21)理研所長。文化勲章、受章。
にしのみや さだいじん
	西宮 左大臣
	⇒みなもとのたかあきら(源 高明)
にしのみや とうちょう《にしのみや とうてう》
	西宮 藤朝
	1891.12. 7(明治24)
	1970. 5.19(昭和45)
	◇文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究家。
にしむら かんくろう《にしむら かんくらう》
	西村 勘九郎
	⇒さいとう どうさん(斎藤 道三)
にしむら げんどう《にしむら げんだう》
	西村 玄道
	1858(安政 5)
	没年不明
	◇新聞記者・民権活動家。三重県出身。
にしむら しげき
	西村 茂樹
	1828(文政11. 3.13)
	1902. 8.18(明治35)
	◇明治時代の教育家・思想家。初名は平太郎、明治以降茂樹、
	名は鼎(カナエ)・芳在、字は重器(シゲキ)、号は泊翁(ハクオウ)・撲堂
	・庸斎。下総(シモウサ)国佐倉(サクラ)藩士の子として江戸の藩邸に
	生れる。作家宮本百合子の祖父。
	 はじめ儒学を学び、のち洋学を佐久間象山(ショウザン)に学び、
	佐倉藩に出仕。年寄役として藩政に参与。
	 1871(明治 4)廃藩置県後、印旛県参事。
	 1872(明治 5)退官して上京し、私塾を開く。
	 1873(明治 6)文部省に出仕。森有礼らの明六社に参加。
	 1876(明治 9)東京修身学社を創設して雑誌「修身学社叢説」を
	発行。
	 1880(明治13)文部省編集局長となり、『小学修身訓』を刊行。
	 1884(明治17)宮内省にも出仕。修身学社を日本講道会に改称。
	 1886(明治19)文部省を辞し、宮中顧問官(〜1900)。
	 1887. 6.(明治20)「弘道雑誌」を発行し、日本弘道会に改称。
	 1888(明治21)華族女学校長。
	 1890(明治23)貴族院議員。
	 著書は『万国史略』・1887(明治20)『日本道徳論』・『国家
	道徳論』・『西洋事物起源』など。
	◎儒教的な国民道徳運動を推進し、当時の文教政策の代表者で
	あった。
	(1)誕生日は 3.13。
	(2)'76(修身学舎)を創設、これは'87に日本弘道会に発展し、
	……。
	(3)誕生日は 3.13。
	(5)誕生日は 3.12。
	(10)誕生日は 3.13。一三年、修身学社を創設、ついで日本弘
	道会と改め、徳育運動を展開した。
	(11)誕生日は 3.12。
	(13)三月江戸に生まる。
	 明治八年三月修身学社をおこして……。
	(16)誕生日は 3.13。
	 '76年修身学舎を起し,これが'84日本講道会,'87年日本弘
	道会に発展.
にしむら しょざん
	西村 渚山
	1878. 4. 4(明治11)
	1946(昭和21)
	◇小説家。本名は恵次郎。
にしむら しんいち
	西村 晋一
	1906. 5.29(明治39)
	1968.10.27(昭和43)
	◇演劇評論家。
にしむら すいむ
	西村 酔夢
	1879. 3.30(明治12)
	1943. 5.27(昭和18)
	◇歴史学者。本名は真次、別号は篆隷子・裾野鶉。
にしむら せつじん
	西村 雪人
	1878. 2. 5(明治11)
	1918. 8.21(大正 7)
	◇俳人。本名は岸太郎、旧姓は東海林、別号は木魚星・木山人。
[1]にしむら ぜんごろう
	西村 善五郎(初代)
	生年不詳
	1558
	◇永楽焼の陶工。名は宗印。
	 奈良春日神社で土器作りを営む。土風炉を製作、一家をなす。
	(*)1558(弘治 4,永禄元)。
[2]にしむら ぜんごろう
	西村 善五郎(三代)
	生年不詳
	1623(元和 9)
	◇京都永楽焼の陶工。名は宗全。天下一宗四郎の兄。
	 京都上京室町上立売安楽小路に居を移す。細川忠興の知遇を
	得る。
[3]にしむら ぜんごろう
	西村 善五郎(十代)
	生年不詳
	1841(天保12)
	◇京都永楽焼の陶工。名は了全。九代目宗厳の子、永楽保全(ホ
	ゼン)の養父。
	 父の没後、千宗左(了々斎)に引き取られ、1815(文化12)独立。
[4]にしむら ぜんごろう
	西村 善五郎(十一代)
	⇒えいらく ほぜん(永楽 保全)
にしむら ていが
	西村 定雅
	1744
	1827. 1. 9(文政 9.12.12)
	◇江戸中・後期の俳人・狂歌作者・洒落本作者。
	(*)1744(寛保 4,延享元)。
にしむら てんしゅう
	西村 天囚
	1867(慶応 3. 7.23)
	1924. 7.29(大正13)
	◇新聞記者・小説家・漢文学者。本名は時彦、号は碩園(セキエン)。
	鹿児島県種子島生れ。東京帝国大学古典講習科に学ぶ。
	(2)生年は1865(慶応元)。
	(10)生年は1865(慶応元)。
	(11)生年は1867(慶応 3)。
	(13)生年は1867(慶応 3)。
にしむら はくうんきょう
	西村 白雲郷
	1885. 3.26(明治18)
	1958. 3.30(昭和33)
	◇俳人。本名は善太郎。
にしむら ようきち
	西村 陽吉
	1892. 4. 9(明治25)
	1959. 3.22(昭和34)
	◇歌人・詩人・出版者。本名は辰五郎(タツゴロウ)、旧姓は江原。
	東京市本所生れ。
	 高等小学校三年修業後、日本橋東雲堂書店の店員となり、
	1909(明治42)店主の西村寅五郎の養子となる。
にしむら よしふじ
	西村 芳藤
	1828(文政11)
	1887(明治20)
	◇明治の画家。本名は藤太郎、号は一鵬斎・一宝斎。江戸生れ。
	歌川国芳の門人。おもちゃ絵が得意で「おもちゃ芳藤」と呼ばれ
	た。
にしもと すいいん
	西本 翠蔭
	1882.11. 6(明治15)
	1917. 9. 7(大正 6)
	◇編集者・出版人。本名は波太。
にしやま そういん
	西山 宗因
	1605(慶長10)
	1682(天和 2. 3.28)
	◇江戸前期の連歌師・俳人。本名は豊一(トヨカズ)、通称は
	次郎作、連歌の号は宗因、俳号は一幽(イチユウ)・西翁(サイオウ)・
	梅翁(バイオウ)、別号は西山翁・野梅子。
	◆宗因忌[旧暦 3.28]。
にしやま はくうん
	西山 泊雲
	1877. 4. 3(明治10)
	1944. 9.15(昭和19)
	◇俳人。本名は亮三(リョウゾウ)。野村泊月(ハクゲツ)の実兄。
にじょう ためうじ
	二条 為氏
	1222
	1286(弘安 9)
	◇鎌倉時代の公卿・歌人。御子左家(ミコヒダリケ)藤原為家(タメイエ)
	の子。藤原定家の孫。二条家の祖。
	 相伝の家領播磨国細川荘を弟為教(京極)・異母弟為相(タメスケ)
	(冷泉)と争い、御子左家は三家に分裂。
	(*)1222(承久 4,貞応元)。
にじょう てんのう《にでう てんわう》
	二条 天皇
	1143(康治 2)
	1165(永万元)
	◇第78代天皇。諱は守仁(モリヒト)。後白河天皇の第1皇子、母は
	源懿子。順仁(ノブヒト)皇子(六条天皇)の父。憲仁(ノリヒト)皇子(高
	倉天皇)の異母兄。
	 後鳥羽天皇の皇后美福門院得子に養育され、1155(久寿 2)後
	白河天皇の皇太子となる。
	 後白河院院政下の1158(保元 3.12.)即位し、天皇親政を行お
	うとして父と対立。
	 1159(平治元.12.)平治の乱に藤原信頼(ノブヨリ)・源義朝(ヨシトモ)
	らにより、後白河上皇とともに黒戸御所に幽閉されるが、女装
	して脱出し、平清盛(キヨモリ)の六波羅邸に入る。
	 1165(永万元. 6.)順仁皇子に譲位。
	 即位:1158(保元 3.12.20)、退位:1165(永万元. 6.25)。
にじょう よしもと《にでう よしもと》
	二条 良基
	1320(元応 2)
	1388(<北>嘉慶 2. 6.13)
	◇南北朝時代の歌人・連歌作者。号は後普光園院(ゴフコウオンイン)。
	一条兼良(カネヨシ)の祖父。
にしわき じゅんざぶろう
	西脇 順三郎
	1894. 1.20(明治27)
	1982. 6. 5(昭和57)
	◇詩人・英文学者。生家は新潟県の小千谷(オジヤ)銀行当主。
	1917(大正 6)慶応義塾大学理財科卒業。
にちおう《にちあう》
	日奥
	1565(永禄 8)
	1630(寛永 7)
	◇安土桃山〜江戸初期の日蓮宗の僧・不受不施派の祖。号は
	仏性院。京都の人。
	 28歳の時、京都妙覚寺を継承。
	 1595(文禄 4)豊臣秀吉が東山大仏殿に千僧供養を催した時、
	不受不施義にのっとり出仕を拒み、妙覚寺を退出して丹波に隠
	れる。
	 1599(慶長 4)徳川家康が重ねて強く出仕を命じたが、これに
	も応ぜず、対馬(ツシマ)に遠流(オンル)。1612(慶長17)在島13年、赦
	免されて妙覚寺に帰住。その後不受不施公許状を得て盛んに不
	受義を鼓吹。再度対馬流罪の決定する直前に死亡。
	 著書は『万代亀鏡録』など多数。
にちべん
	日弁
	1236(嘉禎 2)
	1311
	◇鎌倉後期の日蓮宗の僧。
	(*)1311(延慶 4,応長元)。
にちれん
	日蓮
	1222(承久 4. 2.16)
	1282(弘安 5.10.13)
	◇鎌倉中期の僧。日蓮宗(法華宗)の開祖。法名は蓮長、諡号(シ
	ゴウ)は立正大師。安房(アワ)国(千葉県南部)小湊の漁師の子。
	 12歳で故郷の清澄(キヨスミ)山の天台宗清澄寺に登り、18歳で受
	戒し是聖清澄蓮長と称する。鎌倉・京都・比叡山・三井寺・高
	野山など各地を修行し、仏法の真髄を『法華経』に見出し、
	1253(建長 5)清澄山頂に日蓮宗を開き、帰りに「南無妙法蓮華
	経」と唱える。
	 1257(正嘉元. 8.)鎌倉大地震に遭遇し、深刻な社会不安を体
	験する。
	 辻説法で念仏宗・禅宗・真言宗・律宗などの他宗を盛んに攻
	撃し、『立正安国論(リッショウアンコクロン)』を著し他国侵逼の難(蒙古
	襲来)を予言して、1260(文応元. 7.)前執権北条時頼に献じる。
	また、浄土教を排撃していたことから衆を惑わすものとして、
	1261(弘長元. 5.)鎌倉で布教中に捕われ、伊豆伊東に流される
	(伊豆法難)。
	 1263(弘長 3)赦(ユル)されて鎌倉に帰り、1268(文永 5)蒙古の
	牒状が鎌倉に届き、日蓮の予言が適中したと主張し、1271(文
	永 8. 9.12)再び捕われ、龍口(タツノクチ)の刑場に連行されたが、
	危うく免れて佐渡に流される(龍口法難)。
	 1274(文永11)赦されて鎌倉に帰る。日蓮の主張が幕府に容れ
	られないことを知り、鎌倉を発ち甲斐(カイ)国身延山に草庵を結
	び隠棲。
	 武蔵国千束郷(センゾクゴウ)池上(イケガミ)(東京都大田区池上)で
	病没。
	 他の著書は『開目鈔』・『観心本尊鈔』・『法華取要鈔』・
	『撰時鈔』・『報恩鈔』など。
	◎法然(ホウネン)の影響を強く受け、口に「南無妙法蓮華経」と題目
	を唱えることによってのみ、誰でも成仏できると説く。
	◆日蓮忌(御会式・御命講)[10.11〜10.13]総本山の身延山久遠
	寺をはじめ東京の池上本門寺・堀の内妙法寺などに、万灯を立
	て団扇(ウチワ)太鼓をたたいて信者が参集する。
にっしん
	日親
	1407(応永14)
	1488(長享 2. 9.17)
	◇室町中期の日蓮宗の僧。俗姓は埴谷氏、号は久遠成院、通称
	は鍋冠(ナベカムリ)日親・鍋冠上人(ショウニン)。上総国武射郡埴谷村
	(現:千葉県山武郡山武町埴谷)の生れ。
	 幼少より中山法華経寺を中心に日英・日暹(ニッセン)らに侍して
	修行。
	 1427(応永34)京都に上って一条戻橋付近で辻説法を行う。摂
	津国(現:大阪府)梶折に一乗寺を、博多に法性寺を建て、北九
	州に弘通(グズウ)。
	 再び上洛し、将軍足利義教(ヨシノリ)に法華経を勧め、1439(永
	享11)『立正治国論』を著して諫言(カンゲン)したため、1440(永
	享12. 2.)投獄され、寺も破壊される。種々の拷問を受け、焼
	いた鍋を頭に被(カブ)せられても顔色を変えず屈しなかったと
	いう。
	 義教が赤松満祐(ミツスケ)に暗殺されたのちに赦(ユル)され、京都
	に本法寺を建てここに住み、1487(長享元)『本法寺縁起』を起
	草。
	 また、他宗の信者からは布施を受けず、他宗の者には施しを
	しないという不受不施(フジュフセ)を主張した。
	 他の著書は『折伏正義抄』・『埴谷鈔』・『伝燈鈔』など。
にった くにてる
	新田 邦光
	1815(文化12)
	1902(明治35)
	◇明治初期の宗教家。
	 阿波を脱藩して尊王運動に奔走。
	 明治維新後は神道を講じ、教部省から大講義に任じられる。
	富士・御岳の行者・講社を結集して、1873(明治 6)修成講社を
	組織した。1876(明治 9)教部省の大教院から独立して神道修成
	派を創始、1882(明治15)明治政府から公認。
にった じゅん
	新田 潤
	1904. 9.18(明治37)
	1978. 5.14(昭和53)
	◇小説家。本名は半田祐一。上田市生れ。東京大学英文科卒業。
にった じろう《につた じらう》
	新田 次郎
	1912. 6. 6(明治45)
	1980. 2.15(昭和55)
	◇小説家。本名は藤原寛人(ヒロト)。妻は作家藤原てい。
	 1932(昭和 7)中央気象台に就職、六年間富士山測候所で山岳
	気象観測に従事。
にった せいわん
	新田 静湾
	1878(明治11)
	没年不詳
	◇小説家。本名は新一郎。
にった ただつね
	仁田 忠常
	生年不詳
	1203(建仁 3)
	◇鎌倉初期の武将。通称は仁田四郎(ニタンノシロウ)。伊豆国の人。
	源頼朝に仕え、源範頼(ノリヨリ)に従い平氏を西海に討つ。富士の
	巻狩で曾我十郎祐成(スケナリ)を討った。のち二代将軍源頼家の命
	により北条時政を誅しようとしたが、加藤景廉に殺された。
にった よしさだ
	新田 義貞
	1301(正安 3)
	1338(<南>延元 3,<北>建武 5.閏7. 2)
	◇鎌倉末期・南北朝時代の武将。幼名は小太郎。新田朝氏(朝
	兼)の子。上野国新田荘の人。
	 元弘の乱ではじめ北条氏に属し、1332(<南>元弘 2,<北>正慶
	元)幕府の河内楠木正成(マサシゲ)攻めに参陣したが、中途で帰国。
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5. 8)新田荘一井郷の生品明神
	に挙兵、22日鎌倉を攻めて北条高時(タカトキ)ら北条一族を滅ぼし
	幕府を滅亡させる。
	 建武中興後、六波羅を攻め滅ぼした足利尊氏(タカウジ)と並ぶ
	功労者として、越後守・上野介・播磨介・武者所頭人に任ぜら
	れ、左兵衛佐・正四位上に叙せられる。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2.11.)南北朝内乱が始まると、
	南朝方の大将として転戦。1336(<南>建武 3,<北>建武 3. 1.)
	北畠顕家の援けを得て尊氏を西海に走らせたが、同年1336(<南>
	延元元,<北>建武 3. 5.)再起して九州から東上した尊氏を、楠
	木正成とともに兵庫に防いで敗れる。同年8月、楠木正成が後
	醍醐天皇に勧めた両朝の一時的和睦で義貞軍は切り捨てられそ
	うになり、恒良親王・尊良親王を擁して越前敦賀に到たる。
	 足羽郡藤島で斯波方の兵に襲われ戦死。
にとべ いなぞう《にとべ いなざう》
	新渡戸 稲造
	1862(文久 2. 8. 3)
	1933.10.16(昭和 8)
	◇農政学者・教育家。南部藩(岩手県)勘定奉行新渡戸常訓の子
	として陸前国盛岡に生れる。新渡戸伝(ツトウ)の孫。
	 東京英語学校を経て、1877(明治10)札幌農学校(現:北海道大
	学)に2期生として入学。すでにW.S.クラークは帰国してい
	たがその影響下で在学中にキリスト教に入信。卒業後、東京大
	学文学部の選科生となる。1884(明治17)アメリカのジョンズ・
	ホプキンズ大学に留学。1887(明治20)札幌農学校助教授となり
	ドイツに留学、ボン・ベルリン・ハレの諸大学で農業経営学を
	修める。札幌農学校教授・台湾総督府技師・京都大学教授を経
	て、1906〜1913(明治39〜大正 2)一高校長、1914(大正 3)東京
	大学の教授、1918(大正 7)東京女子大学の初代学長。1919〜
	1926(大正 8〜大正15)国際連盟事務次長。カナダの太平洋調査
	会の国際会議に出席中病没。
	 著書、1900(明治33)『武士道』(英文)。
	◎1984.11. 1(昭和59)発行の新札5千円の肖像に採用。
	(1)誕生日は 8. 3、没日は10.16。
	(2)'14東大教授となり……。'19〜'26国際連盟事務次長として
	活躍。
	(3)誕生日は 8. 3、没日は10.15。
	(5)誕生日は 8. 3、没日は10.16。
	(10)誕生日は 9. 1、没日は10.16。
	(11)誕生日は 8. 3、没日は10.16。
	(13)誕生日は 8. 3、没日は10.15。
	 大正九年国際聯盟事務局次長の重任に推された。
	(15)13年東大教授,19〜26国際連盟書記局事務次長.
	(16)誕生日は 8. 3、没日は10.15。
	 '20年国際連盟事務局次長など歴任.
にとべ つとう《にとべ つたう》
	新渡戸 伝
	1793(寛政 5)
	1871(明治 4)
	◇江戸後期の篤農家。名は常澄、字は太素(ヒロモト)、通称は
	次郎八。新渡戸常訓の父、稲造(イナゾウ)の祖父。盛岡藩士。
	 子十次郎とともに陸奥国三本木(十和田)平野の開拓を行う。
	 参照⇒『百科辞書』さんぼんぎはら(三本木原)
	◎青森県十和田市に新渡戸伝を祀(マツ)る太素塚がある。
にながわ ちうん《にながは ちうん》
	蜷川 智蘊
	生年不詳
	1448(文安 5. 5.12)
	◇室町中期の連歌師。蜷川新右衛門親当(チカマサ)と称する。六代
	将軍足利義教(ヨシノリ)に仕え、政所公役(マンドコロクヤク)を勤めた武
	臣。一休宗純に参じ、歌を歌僧正徹(ショウテツ)に、連歌を梵燈庵
	(ボントウアン)に学んだ。
にながわ ちかもと
	蜷川 親元
	1433(永享 5)
	1488(長享 2)
	◇室町幕府の政所代。法名は道寿、号は不白。蜷川新右衛門親
	当(チカマサ)の子。
	 1473(文明 5)父の後を継いで政所代となる。
	 『蜷川親元日記』が残されている。
にながわ とらぞう
	蜷川 虎三
	1897(明治30)
	1981(昭和56)
	◇昭和期の経済学者・政治家。東京市深川生れ。
	 農商務省水産講習所・京都帝国大学経済学部卒業。
	 1927(昭和 2)京都帝国大学助教授。1928(昭和 3)ドイツ留学。
	1935(昭和10)経済学博士。1939(昭和14)教授。1945(昭和20)経
	済学部長を歴任、1946(昭和21)戦争に対する責任を取って同僚
	とともに集団辞職。
	 1948(昭和23)中小企業庁初代長官、1950. 3.(昭和25)ドッジ
	・ライン政策をとる吉田茂首相と衝突し辞任。同年4月、京都
	府知事選に当選、連続7期28年間革新知事として活躍。
にのみや きんじろう
	二宮 金次郎
	⇒にのみや そんとく(二宮 尊徳)
にのみや けいさく
	二宮 敬作
	1804(文化元. 5.)
	1862(文久 2. 3.12)
	◇江戸幕末の蘭方医。号は如山。伊予国(愛媛県)宇和島生れ。
	 16歳で長崎に出てシーボルトに学ぶ。シーボルト事件に連坐
	し入獄。
	 出獄後、宇和島藩医員。シーボルトの娘楠本イネを養育。ま
	た、蛮社の獄で逃亡中の高野長英を一時かくまう。
	 種痘の普及につとめる。
	◎富士山を実測した最初の人といわれている。
にのみや そんとく
	二宮 尊徳
	1787(天明 7. 7.23)
	1856(安政 3.10.20)
	◇江戸後期の農政家。本名は尊徳(タカノリ)、通称は金次郎。相摸
	国足柄上郡栢山(カヤマ)村(現:神奈川県小田原市栢山)生れ。百姓
	利右衛門の子。
	 14歳で父を16歳で母と死別し、酒匂川(サカワガワ)の氾濫で田畑
	を失い一家が離散。伯父の家を手伝いながら苦学して学業に励
	み、19歳で独立し没落した一家を再興。
	 農業知識をもとに、26歳で小田原藩の家老服部家の若党とな
	り、29歳で家政整理を任されて再建。
	 1822(文政 5)小田原藩士となり、同藩領の下野(シモツケ)桜町・
	下野烏山・相模小田原・常陸下館・陸奥中村の農村を復興し認
	められ、関東各地の605町村の救済をはかる。
	 さらに幕府に招聘されて下野真岡(モウカ)を改革し、1853(嘉永
	 6)日光神領の立直しの途中に没する。
	 封建的な身分制度を肯定しながら、儒教に神道・仏教を混じ
	えた報徳精神により道徳と経済を合致させ、分限と勤倹の道徳
	を説く。
	 著書は1856(安政 3)『報徳記』(富田高慶編)・1885(明治18)
	『報徳外記』(富田高行編)など。
	◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。
	◎幕府の寛政改革(1787〜1793)・天保改革(1841〜1843)が諸藩
	の財政窮乏と農村疲弊を根本的に解決できなかったが、尊徳は
	その思想と優れた農業土木によって藩政や農村の再建に成功し
	ている。
	◎小田原の二宮神社に祀(マツ)られている。
	◎門下に富田高慶・富田高行・福住正兄らがいて、尊徳の思想
	は弟子たちの大日本報徳社運動が受け継ぎ、明治以降も全国的
	に展開された。
にのみや ちゅうはち
	二宮 忠八
	1866(慶応 2)
	1936. 4.(昭和11)
	◇飛行機発明者・実業家。愛媛県八幡浜市44番地生れ。
	 1889(明治22)丸亀の歩兵連隊に在営中、カラスの飛ぶのを見
	て空中飛行のヒントを得る。1890(明治23)研究を始め、ゴム動
	力でプロペラを回す模型を製作し、1891. 4.29(明治24)丸亀練
	兵場でカラス型飛行機の飛行に成功。1894(明治27)日清戦争に
	従軍した朝鮮で、軍用に供する旨の上申書を提出したが却下さ
	れる。
	 研究のため退役し自力で開発中、1903(明治36)ライト兄弟の
	成功を知り、失望して実業界に転身。大阪製薬社長。
	 晩年、京都府八幡町に飛行神社を建立して神官となり、同地
	で死去。
	◎香川県仲南町に二宮忠八記念飛行公園がある。
にわ せいし
	新羽 精之
	1929(昭和 4)
	1977(昭和52)
	◇推理作家。本名は荒木精一。長崎県佐世保生れ。
	 同志社大学中退。洋服商・英語教師。
	 1958(昭和33)夏木蜻一の筆名で推理小説を発表。1962(昭和
	37)新羽精之の筆名を使用。
にわ せいはく
	丹羽 正伯
	1700(元禄13)
	1752(宝暦 2)
	◇江戸中期の医者。
にわ ながひで《には ながひで》
	丹羽 長秀
	1535(天文 4)
	1585(天正13. 4.16)
	◇安土桃山時代の武将。
	 織田信長に仕え、佐和山城主のち小浜城主。
	 本能寺の変後、豊臣秀吉を助け、近江坂本に居り、1583(天
	正11. 4.)近江国の賤ヶ岳の戦に功を立て、越前北ノ庄を居城
	とした。
にわ ふみお《には ふみを》
	丹羽 文雄
	1904.11.22(明治37)
	2005. 4.20(平成17)
	◇作家。三重県四日市市出身。料理研究家本田桂子(〜2001)の
	父。
	 早稲田大学文学部、卒業。
	 1932. 4.(昭和 7)「文芸春秋」に『鮎』を発表。
	 1942.11.(昭和17)「中央公論」に『海戦』を発表。
	 1948.10.(昭和23)「文学者」を創刊・主宰。
	 1953(昭和28)『蛇と鳩』で第一回野間文芸賞を受賞。
	 1971〜1981(昭和46〜昭和56)「中央公論」に『蓮如』を掲載。
	 1977(昭和52)文化勲章、受章。
	 81歳でアルツハイマーを発病。
	 作品は1947(昭和22)『厭がらせの年齢』・『親鸞』など。
にわ まさお
	丹羽 正雄
	1834(天保 5. 7. 2)
	1864(元治元. 7.20)
	◇江戸幕末の志士。
にわ よしとき
	丹羽 嘉言
	1742(寛保 2)
	1786(天明 6)
	◇江戸中期の絵師。
にんあみ どうはち
	仁阿弥 道八(2代)
	1783(天明 3)
	1855(安政 2)
	◇江戸後期の陶工。名は光時、号は法螺山人。もと伊勢亀山藩
	士の陶工高橋周平光重(初代道八)の子、尾形周平(シュウヘイ)の兄
	または父。
	 1824(文政 7)石山寺の座主尊賢大僧正の仏弟子となり出家。
	1826(文政 9)仁和寺宮から法橋を許され「仁」の字を、醐醍寺三
	法院宮から「阿弥」の号を賜わり「仁阿弥」と号する。
にんかい
	仁海
	 951(天暦 5)
	1046(永承元. 5.16)
	◇平安中期の僧侶(真言宗)。
にんけん てんのう《にんけん てんわう》
	仁賢 天皇
	生年不詳
	没年不詳
	◇第24代天皇。名は億計王(オケオウ)、諱は大脚(オオシ)、字は島郎。
	履中(リチュウ)天皇(第17代)の孫、磐坂市辺押磐(イワサカノイチノヘノオシワ)
	皇子の第1王子、母は(「草」冠+「夷」補助漢字5589)媛、顕宗(ケン
	ソウ)天皇(弘計王)の兄、武烈(ブレツ)天皇の父。
	 父が雄略天皇(第21代)に殺されたとき、難を避けて弟弘計王
	(オケオウ)と丹波に逃れる。のち播磨国縮見屯倉(シジミノミヤケ)の首忍
	海部細目(オシヌミノミヤツコホソメ)に牛飼の童として仕える。
	  481(清寧天皇 2)播磨国司の伊与来目部小楯(イヨノクメベ・オダテ)
	の供応の席で弘計王が歌に託して素性を明らかにし、翌年後嗣
	のない清寧(セイネイ)天皇(第22代)に迎えられ皇太子となる。
	 清寧天皇が崩じると兄弟で位を譲り合い、しばらく空位とな
	り姉の飯豊青皇女が政をしていたが、身分を明らかにした弘計
	王が先に即位。3年後に顕宗天皇が崩じて後に石上広高宮で即
	位。
	 即位: 488(戊辰 1. 5)、退位: 498(戊寅 8. 8)。
にんこう てんのう《にんかう てんわう》
	仁孝 天皇
	1800(寛政12)
	1846(弘化 3)
	◇第120代天皇。諱は恵仁(アヤヒト)、幼称は寛宮。光格天皇の第
	4皇子、母は東京極院藤原(「女」偏+「青」)。孝明天皇・和宮(カズ
	ノミヤ)の父。
	 1809(文化 6)立太子。1811(文化 8)元服。
	 即位:1817(文化14. 9.21)、退位:1846(弘化 3. 2. 6)。
にんしょう
	忍性
	1217(建保 5)
	1303(乾元 2. 7.12)
	◇鎌倉中期の僧侶(律宗)。名は良観(リョウカン)。大和の人。
	 叡尊に師事し、その社会事業を受け継ぐ。西大寺に住して、
	戒律復興に努め、貧民・病人救済などの社会事業を行う。ハン
	セン病患者のため奈良に北山十八間戸(キタヤマジュウハッケンド)を設立。
	 のち鎌倉に下り、北条長時に迎えられ極楽寺に住して戒律を
	広め、貧民救済や道路・橋・井戸などの構築も行った。
にんせい
	仁清
	⇒ののむら にんせい(野々村 仁清)
にんとく てんのう《にんとく てんわう》
	仁徳 天皇
	 290
	 399
	◇第16代天皇。名は大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)・大雀命。応神天皇
	の第4皇子、母は皇后仲姫命。履中・反正・允恭天皇の父。
	 『宋書』倭国伝の「讃」または「弥(彌)」に比定される。
	 即位の頃、民のかまどに煙が立たないのを見てその窮状を知
	り、三年の間税を免除したと伝えられる。
	 即位: 313(癸酉 1. 3)、退位: 399(己亥 1.16)。
	(*)生没年は『日本書紀』による。
にんみょう てんのう《にんみやう てんわう》
	仁明 天皇
	 810
	 850(嘉祥 3)
	◇第54代天皇。諱は正良(マサラ)。嵯峨天皇の皇子、母は橘嘉智
	子。
	  823(弘仁14)淳和(ジュンナ)天皇の即位とともに立太子。 833
	(天長10)即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王(ツネサダシンノウ)を皇太
	子とする。
	  842(承和 9)伴健岑(トモノコワミネ)・橘逸勢(ハヤナリ)らが恒貞親王
	を奉じて謀反を起し(承和の変)、恒貞親王を廃太子とする。こ
	の事件は藤原良房(ヨシフサ)の画策ともいわれる。仁明天皇と藤原
	冬嗣(フユツグ)の娘順子との皇子道康親王(文徳天皇)が皇太子と
	なり、藤原氏の権力独占への道を開くこととなる。
	 小野小町(オノノコマチ)は仁明天皇の更衣(コウイ)という説がある。
	 即位: 833(天長10. 3. 6)、退位: 850(嘉祥 3. 3.21)。
	(*) 810(大同 5,弘仁元)。
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