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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6410.02

                 人   名   辞   典  《なかの》     編集:獨  澄旻

-------- なかの ------------------------------------------------
ながの おさみ《ながの をさみ》
	永野 修身
	1880(明治13)
	1947(昭和22)
	◇海軍軍人(海軍大将・元帥)。高知県生れ。
	 ロンドン海軍軍縮会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・
	軍令部総長を歴任。
	 第二次世界大戦後、太平洋戦争時の海軍最高責任者としてA
	級戦犯容疑者となり、国際軍事裁判の審理中に病死。
なかの こうじ
	中野 孝次
	1925. 1. 1(大正14)
	2004. 7.16(平成16)
	◇作家・評論家。千葉県生れ、大工の次男。
	 東京帝国大学独文科卒業。
	 雑誌社に勤務。
	 1966(昭和41)国学院大在外研究員として1年間ドイツに滞在。
	 1972(昭和47)評論『実朝考』発表。
	 1976(昭和51)『ブリューゲルへの旅』で日本エッセイスト・
	クラブ賞を受賞。
	 1979(昭和54)自伝小説『麦熟るる日に』で平林たい子賞を受
	賞。 
	 1981(昭和56)国学院大学教授を自主定年で退職。
	 1988(昭和63)『ハラスのいた日々』で新田次郎文学賞を受賞。
	 1992(平成 4)『清貧の思想』がベストセラーとなる。
	 1993(平成 5)神奈川文学振興会理事長・県立神奈川近代文学
	館長に就任。
	 2000(平成12)『暗殺者』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。
	 2004(平成16)日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
	 2004. 3.(平成16)食道ガンで入院。
	 肺炎により死去。
	 他の著書は『苦い夏』・『季節の終り』、エッセー『中野孝
	次の論語』など。
なかの さんいん
	中野 三允
	1879. 7.23(明治12)
	1955. 9.24(昭和30)
	◇俳人。本名は準三郎。
なかの しげはる
	中野 重治
	1902. 1.25(明治35)
	1979. 8.24(昭和54)
	◇小説家・詩人・評論家。別名は日下部鉄。福井県坂井郡高椋
	村生れ。中野鈴子(スズコ)の実兄。
	 第四高等学校を経て、1924(大正13)東京大学独文科入学、
	1927(昭和 2)卒業。
	 1926(大正15)堀辰雄・窪川鶴次郎らと同人雑誌「驢馬(ロバ)」
	を創刊。1927(昭和 2)日本プロレタリア芸術連盟に参加。1928
	(昭和 3)全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成に加わり、常任委
	員となり、機関誌「戦旗」を編集。1931(昭和 6)共産党員となる。
	 日華事変から太平洋戦争中は執筆禁止・予防拘禁などを受け
	る。
	 戦後、蔵原惟人らと新日本文学会を結成。荒正人(マサヒト)・平
	野謙(ケン)らと「政治と文学」について論争。
	 共産党から立候補し参議院議員となる。1964(昭和39)部分核
	実験停止条約の問題で共産党を除名される。
	 作品は『中野重治詩集』、小説『歌のわかれ』・長編『むら
	ぎも』・『梨の花』・『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉』など。
	(1)誕生日は11.25。
	(3)誕生日は 1.25。
	(5)誕生日は 1.25。
	(6)1926年……。同年日本プロレタリア芸術連盟に参加,
	(9)誕生日は 1.25。
	(11)誕生日は 1.25。
	(16)誕生日は 1.25。
ながの しゅぜん
	長野 主膳
	⇒ながの よしこと(長野 義言)
なかの しょうよう
	中野 逍遥(中野 逍遙)
	1867(慶応 3. 2.11)
	1894.11.16(明治27)
	◇漢詩人。名は重太郎(シゲタロウ)(小字<コアザ>)、字は威卿、別号
	は澹艶堂・狂骨子・南海未覚情仙。伊予宇和島生れ。旧藩主よ
	り学費を支給され文科大学漢文科を卒業。
	(1)生年は1867(慶応 3)。
	(3)生年は1867(慶応 3)。
	(5)生年は1868(明治元)。
	(9)生年は1867(慶応 3)。
	(11)生年は1868(明治元)、日付の記載なし。
	(13)生年は1867(慶応 3)、日付の記載なし。
なかの すずこ
	中野 鈴子
	1906. 1.24(明治39)
	1958. 1. 5(昭和33)
	◇詩人。筆名は一田アキ。中野重治(シゲハル)の実妹。
なかの せいごう《なかの せいがう》
	中野 正剛
	1886. 2.(明治19)
	1943.10.27(昭和18)
	◇政治家。福岡市生れ。
	 早稲田大学政経科卒業。
	 東京日日新聞・朝日新聞記者を経て、1920(大正 9)衆議院議
	員となり以後当選8回。革新倶楽部・憲政会・立憲民政党に所
	属。
	 1929. 1.(昭和 4)25〜29日、満州某重大事件(張作霖爆死事
	件)で田中義一首相を追及。
	 1932(昭和 7)安達謙蔵らと国民同盟を結成。
	 1933.10.28(昭和 8)『国家改造計画綱領』を発表。
	 1936. 5.25(昭和11)東方会を組織し総裁となる。政界の最右
	翼として対外強硬策を主張して大衆運動を展開。
	 1940(昭和15)大政翼賛会常任総務。
	 1942(昭和17)翼賛選挙に反対。
	 1943. 1. 1(昭和18)朝日新聞朝刊に『戦時宰相論』を発表し
	て東条英機首相に忌まれて、10.21内閣倒閣容疑で憲兵隊に逮
	捕され、10.26釈放後に割腹自殺。
なかの ひでと
	中野 秀人
	1898. 5.17(明治31)
	1966. 5.13(昭和41)
	◇詩人・画家・評論家・小説家・戯曲家。
なかの みのる
	中野 実
	1901.11.30(明治34)
	1973. 1. 3(昭和48)
	◇劇作家・小説家。
なかの よしお
	中野 好夫
	1903. 8. 2(明治36)
	1985. 2.20(昭和60)
	◇評論家・英文学者。兵庫生れ。東京大学英文科卒業。東京大
	学教授、退職後は主に評論に従事。
	 土井晩翠(ドイ・バンスイ)の次女信の夫。
ながの よしこと
	長野 義言
	1815(文化12)
	1862(文久 2)
	◇江戸幕末の国学者。名は義言、通称は主膳(シュゼン)。伊勢の
	人という。
	 彦根藩主井伊直弼(ナオスケ)と知り国学・和歌の師となる。直弼
	が大老になると側近としておもに京都にあって廷臣間を種々画
	策・奔走し、通商条約勅許問題・将軍継嗣問題などにあたる。
	安政の大獄の機密にも深くかかわる。
	 直弼の死後も公武合体などひそかに活動を続けたが、彦根藩
	内の政変で斬罪に処せられる。
	 著書は『古学答問録』・『字音袖鏡』・『歌の大武根(オオムネ)』
	など。
なかの りゅうほ《なかの りうほ》
	中野 柳圃
	⇒しづき ただお(志筑 忠雄)
なかのいん ちかみつ
	中院 親光
	1308
	1377(<南>天授 3,<北>永和 3)
	◇南北朝時代の公家。初名は光房。
	(*)1308(徳治 3,延慶元)。
なかのいん みちかつ《なかのゐん みちかつ》
	中院 通勝
	1556(弘治 2)
	1610(慶長15. 3.25)
	◇安土桃山時代・江戸前期の公卿・歌人・歌学者。号は也足(ヤ
	ソク)・也足軒、法号は素然。父は内大臣通為、母は右大臣公条
	の娘。中院通村の父(ミチムラ)。
	 権中納言兼侍従正三位となるが、1180(治承 4)正親町天皇(オ
	オギマチ)の勅勘を蒙って出奔、剃髪し丹後に隠棲。このとき細川
	幽斎(ユウサイ)(藤孝)に古今伝授を受ける。また31歳で出家し法号
	を素然という。1199年、赦されて帰洛。三条西実枝に師事。
	(4)生年は1558。
	(11)生年は1558(永禄元)。
	(16)生年は1556(弘治 2)。
	(*)1199(建久10,正治元)。
なかのいん みちしげ
	中院 通茂
	1631(寛永 8)
	1710(宝永 7)
	◇江戸前・中期の公卿。父は権大納言中院通純、母は権大納言
	永慶の娘。
なかのいん みちしげ
	中院 通重
	1270(文永 7)
	1322(元亨 2)
	◇鎌倉後期の公卿。法号は良乗。父は中院通頼、母は権大納言
	姉小路顕朝の娘。
なかのいん みちむら《なかのゐん みちむら》
	中院 通村
	1588(天正16)
	1653(承応 2. 2.29)
	◇江戸初期の公卿・歌人。初名は通貫、号は後十輪院。父は中
	院通勝(ミチカツ)、母は細川幽斎(ユウサイ)(藤孝)の娘。
	 1602(慶長 7)従五位上、1609(慶長14)左近少将、1613(慶長
	18)正四位下・右近中将、1614(慶長19)参議、1617(元和 3)正
	三位・権中納言、1620(元和 6)従二位、1623(元和 9)武家伝奏
	となり公武の間を取り持ち、1624年、中宮権大夫、1629(寛永
	 6)権大納言。
	 同年、後水尾天皇が幕府の専横を不満として譲位し、1630
	(寛永 7)右大臣二条康道とともに謀議に参与し罪を得、武家伝
	奏を免ぜられて江戸に幽閉。1631(寛永 8)正二位。1635(寛永
	12)僧天海の哀訴により赦されて上洛。1647(正保 4)内大臣。
	(2)母は細川幽斎の娘,実は源義次の娘。
	(16)母は細川藤孝の女.
	(*)1624(元和10,寛永元)。
なかのおおえのおうじ《なかのおほえのわうじ》
	中大兄皇子
	⇒てんじ てんのう(天智 天皇)
なかはし かずお
	中橋 一夫
	1911. 3. 1(明治44)
	1957. 8.20(昭和32)
	◇英文学者。本名は太郎。
なかはし とくごろう《なかはし とくごらう》
	中橋 徳五郎
	1861(文久元. 9.10)
	1934. 3.25(昭和 9)
	◇政治家・実業家。号は狸庵。加賀藩士斎藤宗一の5男、中橋
	家の養嗣子。金沢生れ。東京大学選科卒業。
	 1886(明治19)判事試補として横浜始審裁判所詰。翌年農務省
	に入り、農務省参事官・法制局参事官・逓信省監査局長・管船
	局長などを歴任。
	 1898(明治31)逓信省鉄道局長のとき、大阪商船社長の岳父田
	中市兵衛の懇請により退官し、同社社長に就任。台湾総督府の
	補助を受けて同社航路を拡大。宇治電社長・日本窒素会長・南
	満州鉄道重役を兼任。日露戦争後、渋沢栄一・益田孝らと日清
	汽船を創設し取締役。
	 1912(明治45)以来衆議院当選7回。1914(大正 3)大阪商船社
	長を辞任し、政友会に入党。1918(大正 7)原敬内閣の文部大臣、
	1921(大正10)高橋是清内閣の文部大臣に留任、高橋首相と五校
	大学昇格問題で対立、一時党を除名されるが復党。田中義一内
	閣の商工大臣・犬養毅内閣の内務大臣。床次竹次郎らと一時政
	友本党を結成するが、政友会に復帰。
	 1932(昭和 7)病を得て引退。
なかはま てつ
	中浜 哲
	1897. 1. 1(明治30)
	1926.10.15(大正15)
	◇無政府主義者。本名は富岡誓、別号は中浜鉄。関東大震災後
	の東西にわたるテロ事件の責任者として大阪で死刑。
なかはま まんじろう
	中浜 万次郎
	1827(文政10)
	1898(明治31.11.12)
	◇江戸幕末の幕臣・明治前期の語学者。別称はジョン万次郎。
	土佐中浜の漁師悦介の次男。
	 はじめ漁師で、1841(天保12)出漁中に漂流、半年後に米捕鯨
	船に救われ、米国で教育を受ける。捕鯨やカリフォルニア金山
	に働き、1851(嘉永 4)ボイド号で帰国。はじめ土佐藩に出仕し、
	1853(嘉永 6)幕府に普請役格として仕え、外交書簡の翻訳・航
	海・捕鯨の指導・測量などに従事。1860、遣米使節に随行。
	 維新後、開成学校英語教授。1870(明治 3)大山巌・山県有朋
	・品川弥二郎(ヤジロウ)らと普仏戦争観戦に渡欧、病により翌年
	帰国。
	(*)1860(万延 7,文久元)。
なかはら あやこ
	中原 綾子
	1898. 2.17(明治31)
	1969. 8.24(昭和44)
	◇歌人。
ながはら こうたろう
	長原 孝太郎
	1864(元治元)
	1930(昭和 5)
	◇明治の漫画家。美濃国生れ。
ながはら しすい
	長原 止水
	1864(元治元. 2.16)
	1930.12. 1(昭和 5)
	◇挿絵画家。本名は竹中孝太郎。美濃不破郡生れ。
	 小山正太郎の不同舎のち原田直次郎に学ぶ。白馬会に参加。
	東京美術学校教授。
なかはら じゅんいち
	中原 淳一
	1913(大正 2)
	1983(昭和58)
	◇挿絵画家。香川県白鳥町生れ。日本美術学校卒業。
	 2歳のとき徳島に移り、小学校を卒業ののち上京。工業学校
	に進むが、翌年退学し日本美術学校に入学。松本かつぢと並ぶ
	人気作家となるが、1940(昭和15)抒情画を不健康とする軍部の
	圧力で中断。
	 復員の翌年、ひまわり社を設立、女性誌「それいゆ」・少女誌
	「ひまわり」を発刊。1950(昭和25)日本初の本格的ミュージカル
	「ファニー」を上演。
なかはら ちゅうや
	中原 中也
	1907. 4.29(明治40)
	1937.10.23(昭和12)
	◇詩人。山口県吉敷(ヨシキ)郡下宇野令(シモウノリョウ)村(現:山口市湯
	田町)生れ。
	 1920(大正 9)山口中学に入学、落第して1923(大正12)立命館
	中学に転校、1926(大正15)日本大学予科に進学するが九月中退。
	 河上徹太郎・大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊。
	 1930(昭和 5)中央大学予科に入学、1931(昭和 6)東京外語専
	修科に転校、1933. 3.(昭和 8)卒業。
	 結核性脳膜炎により死去。
	(2)'29(昭和 4)大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊……。
	(5)没日は10.22。
	(11)没日は10.23。
	(13)没日は10.23。
	(16)没日は10.23。
	 1927(昭和 2)河上徹太郎・大岡昇平らと同人雑誌「白痴郡」を
	創刊.
なかはら ていじろう
	中原 悌二郎
	1888.10. 4(明治21)
	1921. 3.28(大正10)
	◇彫刻家。北海道釧路生れ。
なかまち さだこ
	仲町 貞子
	1894. 3.22(明治27)
	1966. 6.16(昭和41)
	◇小説家。本名は柴田オキツ、別の筆名は宮本のり。
ながまつ さだむ
	永松 定
	1904. 4. 8(明治37)
	1985. 2. 7(昭和60)
	◇翻訳家・小説家。
	(1)生年は1904(明治37)。
	(3)生年は1905(明治38)。
	(5)生年は1904(明治37)。
	(9)生年は1904(明治37)。
	(11)生年は1904(明治37)。
ながまつ せいふう
	長松 清風
	⇒ながまつ にっせん
ながまつ にっせん
	長松 日扇
	1817(文化14)
	1892(明治25)
	◇江戸幕末・明治初期の宗教家・仏立講の開祖。名は清風(セイフ
	ウ)。
	 1857(安政 4)仏立講を開く。
ながみ とくたろう
	永見 徳太郎
	1890. 8. 5(明治23)
	1950.10.23(昭和25)
	◇劇作家・南蛮美術研究家。
なかみかど てんのう《なかみかど てんわう》
	中御門 天皇
	1701(元禄14)
	1737(元文 2)
	◇第114代天皇。諱は慶仁(ヤスヒト)。東山天皇の第5皇子、母は
	新崇賢門院(シンスウケンモンイン)藤原賀子(ヨシコ)(内大臣櫛笥隆賀の娘)。
	 1707(宝永 4)親王宣下、1709(宝永 6)受禅、1710(宝永 7)即
	位。1735(享保20)皇太子昭仁親王(桜町天皇)に譲位。
	 即位:1710(宝永 7.11.11)、退位:1735(享保20. 3.21)。
	(2)1707(宝永 4)親王宣下,'09受禅,'10即位。
	(4)一七○九年即位、在位二六年。
	(16)1709(宝永 6)年わずか9才で受禅し,26年間その位にあっ
	た.
なかみがわ ひこじろう《なかみがは ひこじらう》
	中上川 彦次郎
	1854(嘉永 7. 8.13)
	1901.10. 7(明治34)
	◇明治期の実業家。豊前国(現:大分県)中津藩の出身。福沢諭
	吉の甥、池田成彬(シゲアキ)は女婿、朝吹英二(アサブキ・エイジ)は妹
	の夫。
	 慶応義塾を卒業後、イギリスに留学。
	 井上馨により工部省・外務省に出仕。官吏退官後、福沢諭吉
	と「時事新報」を発刊。
	 1877(明治10)三井財閥の出資を受け山陽鉄道会社を創立。
	 1888(明治21)三井に入社。
	 1894(明治27)三井銀行専務理事、三井財閥の基礎をつくる。
	 藤山雷太(ライタ)に命じて王子製紙を乗っ取る。
ながみね ひでき
	永峰 秀樹
	1848(嘉永元. 6. 1)
	1927.12. 3(昭和 2)
	◇翻訳家。旧姓は小野。
なかむら あきか
	中村 秋香
	1841(天保12. 9.29)
	1910. 1.29(明治43)
	◇歌人。別号は不尽野屋(フジノヤ)・槐陰書屋・松下庵。
なかむら うこう
	中村 雨紅
	1897. 2. 6(明治30)
	1972. 5. 8(昭和47)
	◇童謡詩人。本名は高井宮吉。多摩郡恩方村(現:八王子市上恩
	方町<カミオンガタマチ>)生れ。
	 宮尾神社の神官の三男として生れる。
	 1916(大正 5)青山師範学校、卒業。
	 『かくれんぼ』・『夕焼小焼』などが有名。
	◎1956(昭和31)還暦を祝い、宮尾神社に『夕焼小焼』の歌碑、
	建立。
なかむら がくりょう
	中村 岳陵
	1890. 3.10(明治23)
	1969.11.20(昭和44)
	◇挿絵画家。本名は恒吉。静岡県下田生れ。
	 野沢堤雨に琳派を、川辺御盾に土佐派を学ぶ。
なかむら かずうじ
	中村 一氏
	生年不詳
	1600(慶長 5. 7.17)
	◇戦国時代の武将。豊臣三中老の一人。
	 豊臣秀吉に仕え、近江国長浜の内200石を与えられる。のち
	和泉国岸和田城主・近江国水口城主。1590(天正18)駿河国府中
	城主、17万5千石。
	 関ヶ原の戦で東軍に属し、突然病死。
なかむら かそう
	中村 花痩
	1867(慶応 3. 9.)
	1899. 2. 7(明治32)
	◇小説家・俳人。本名は壮(サカン)、別号は柳園・雪後。
なかむら かんすけ
	中村 勘助
	⇒なかむら まさとき(中村 正辰)
なかむら きちぞう
	中村 吉蔵(中村 吉藏)
	⇒なかむら しゅんう(中村 春雨)
なかむら くさたお
	中村 草田男
	1901. 7.24(明治34)
	1983. 8. 5(昭和58)
	◇俳人。本名は清一郎(セイイチロウ)。中国の福建省厦門領事館で生
	れる。愛媛県人。4歳の時に日本に帰る。東京大学独文科に入
	学し、1933(昭和 8)国文科卒業。成蹊学園教授。
なかむら けいう
	中村 敬宇
	1832(天保 3. 5.26)
	1891. 6. 7(明治24)
	◇明治初期の儒者・洋学者・教育家。幼名は釧太郎(センタロウ)の
	ち敬輔(ケイスケ)さらに正直(マサナオ)、号は敬宇。江戸麻布生れ。
	 昌平黌で佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を学ぶ。学問所
	勤番・昌平黌教授方、甲府徽典館学頭などを歴任。1866(慶応
	 2)留学生監督として渡英、1868(慶応 4)帰国。
	 1873(明治 6)私塾同人社を創立。西周、神田孝平らと明六社
	の結成に参加。東京女子師範学校長・東京大学教授、1886(明
	治19)元老院議官、1890(明治23)勅任貴族院議員。
	 訳書はスマイルズの『西国立志編』・ミルの『自由之理』な
	ど。
	(1)没日は 6. 7。
	(3)没日は 6. 7。
	(5)没日は 6. 1。
	(9)没日は 6. 7。
	(11)没日は 6. 1。
	(13)没日は 6. 7。
なかむら けんきち
	中村 憲吉
	1889. 1.25(明治22)
	1934. 5. 5(昭和 9)
	◇歌人。号は霧草堂主人・草露堂主人・霧村草堂主人・
	浮沼影郎・はしばみ・桃の井照枝・火喰鳥。広島県雙三郡布野
	村生れ。1915(大正 4)東京大学法科卒業。
なかむら こきょう
	中村 古峡
	1881. 2.20(明治14)
	1952. 9.14(昭和27)
	◇小説家・医者。本名は蓊(シゲル)、筆名は胆駒古峡。
	(5)没日は 9.14。
	(9)没日は 9.12。
	(11)没日は 9.14。
なかむら こげつ
	中村 孤月
	1881. 5. 6(明治14)
	没年不詳
	◇文芸評論家・小説家。本名は八郎。
なかむら さぶろう
	中村 三郎
	1891. 3.28(明治24)
	1922. 4.18(大正11)
	◇歌人・画家。号は末の郎子(スエノイラツコ)。肺病で没。
なかむら じへい
	中村 地平
	1908. 2. 7(明治41)
	1963. 2.26(昭和38)
	◇小説家。本名は治兵衛。
	(1)中村 地平(なかむら じへい)。
	(3)中村 地平(なかむら じへい)。
	(5)中村 地平(なかむら ちへい)。
	(9)中村 地平(なかむら ちへい)。
	(11)中村 地平(なかむら ちへい)。
なかむら しゅうか
	中村 柊花
	1888. 9. 7(明治21)
	1970.12.18(昭和45)
	◇歌人。本名は端(ハジメ)。
なかむら しゅんう
	中村 春雨
	1877. 5.15(明治10)
	1941.12.24(昭和16)
	◇小説家・劇作家・演劇研究家。。幼名は常治(ツネジ)、のち祖
	父の名を襲名して吉蔵。号は春雨(シュンウ)・奇痴堂・冶雷庵(ヤライ
	アン)・兜庵(トウアン)。石見国(島根県)津和野町大字後田(ゴタ)生れ。
	父は唯治(タダジ)、母はたみ、妹はかつ、祖父は吉蔵、祖母は
	たき。
	 1882(明治15)津和野の殿町(トノマチ)小学校に入学、1890(明治
	23)津和野町立高等尋常小学校を卒業し、山口町の山口学校に
	入学。1891(明治24)鴻城義塾(コウジョウギジュク)に転校するが、山
	口高等学校の入試に失敗。同年9月祖父を伝染病で失い、翌月
	父が病没。
	 1892(明治25)静岡市の公証人千坂(チザカ)氏の筆生となるが、
	1894(明治27)胃病と脚気により帰郷。
	 1895(明治28)作家になるため大阪に上るが失敗し、大阪貯金
	管理所に入る。川口メジスト教会に通い受洗。
	 1899(明治32)上京。広津柳浪に寄宿し、早稲田専門学校英文
	学哲学科に通う。1901(明治34)『無花果』が大阪毎日新聞の懸
	賞小説の一位に当選。1903(明治36)早稲田大学英文学哲学科を
	卒業。同年冬、お茶の水女子高等師範学校音楽講師安井孝子(タ
	カコ)と結婚。
	 1906(明治39)渡米し、プリンストン大学・コロンビア大学に
	劇文学を学び、ヨーロッパを巡って、1909(明治42)帰国。
	 1913(大正 2)島村抱月の芸術座創立に参加。
	 晩年、早稲田大学教授。
なかむら しょうじ
	中村 正爾
	1897. 6. 1(明治30)
	1964. 4. 5(昭和39)
	◇歌人。新潟市生れ。新潟師範卒業。
なかむら せいこ
	中村 星湖
	1884. 2.11(明治17)
	1974. 4.13(昭和49)
	◇小説家・評論家・翻訳家。本名は将為(マサタメ)、別号は銀漢子。
	山梨県南都留郡河口村生れ。1907(明治40)早稲田大学英文科卒
	業。東京女子高等学院(現:昭和女子大学)教授。
	(5)誕生日は 2.21。
	(11)誕生日は 2.21。
	(13)誕生日は 2.11。
なかむら せいたろう
	中村 清太郎
	1888. 4.30(明治21)
	1967.12.20(昭和42)
	◇画家。1936(昭和11)日本山岳画協会を設立。
なかむら たけひこ
	中村 武彦
	調査中
	2005. 9.30(平成17)
	◇右翼民族派指導者。福岡県出身。
	 児玉誉士夫氏の盟友。
	 1933(昭和 8)神兵隊事件に連座。
	 昭和維新運動の重鎮・最長老。
	 社団法人国民懇話会の会長。
	 急性肺炎で死去(92歳)。
なかむら つね
	中村 彝
	1887. 7. 3(明治20)
	1924.12.24(大正13)
	◇画家。
なかむら どうせき
	中村 道碩
	1582(天正10)
	1630(寛永 7)
	◇江戸初期の囲碁棋士。江戸幕府碁所(ゴドコロ)井上家の元祖。
	 本因坊算砂の門弟。
なかむら なかぞう《なかむら なかざう》
	中村 仲蔵(初代)
	1736
	1790(寛政 2)
	◇江戸中期の歌舞伎役者・舞踊志賀山流の中興の祖。俳名は
	秀鶴。屋号は栄屋。
	 家柄に恵まれなかったが実力で名をなす。時代物に長じ、忠
	臣蔵五段目の定九郎など数々の新演出を試み、また、舞踊の名
	人として舞踊劇を大成。
	(*)1736(享保21,元文元)。
なかむら なかぞう《なかむら なかざう》
	中村 仲蔵(3代)
	1809(文化 6)
	1886(明治19)
	◇江戸幕末・明治初期の歌舞伎役者。
	◆墓は東京都台東区の谷中霊園。
	◎敵役(カタキヤク)・老役(フケヤク)の名人といわれ、『切られ与三』
	のこうもり安が当たり役。
なかむら はくよう
	中村 白葉
	1890.11.23(明治23)
	1974. 8.12(昭和49)
	◇翻訳家。本名は長三郎。
なかむら ふせつ
	中村 不折
	1866(慶応 2. 7.10)
	1943. 6. 6(昭和18)
	◇洋画家(新聞挿絵)・書家。本名は(「金」偏+「乍」)太郎(サクタロウ)、
	別号は孔固亭・豪猪先生・環山。江戸生れ。
	 太平洋画会を主宰。
	◎森鴎外の墓碑銘を書く。
	 旧宅の一部が1936(昭和11)書道博物館として開館されている。
なかむら まさつね
	中村 正常
	1901.11. 6(明治34)
	1981.11. 6(昭和56)
	◇劇作家・小説家。東京生れ。第七高等学校卒業。
なかむら まさとき
	中村 正辰
	1656(明暦 2)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、書物役、禄高100石。通称
	は勘助(カンスケ)、戒名は刃露白剣信士。吉良家を探索中の変名は
	山彦嘉兵衛(ヤマヒコ・カヘエ)。奥州白河藩松平家の家臣三田村小太夫
	(ミタムラ・コダユウ)の次男、赤穂藩浅野家の中村庄助(ショウスケ)の娘婿。
	間瀬久太夫(マセ・キュウダユウ)正明(サマアキ)は養母の弟。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
	カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、大島半平(オオシマ・ハンペイ)の介
	錯(カイシャク)で切腹。
なかむら まさなお《なかむら まさなほ》
	中村 正直
	⇒なかむら けいう(中村 敬宇)
なかむら むらお
	中村 武羅夫
	1886.10. 4(明治19)
	1949. 5.13(昭和24)
	◇編集者・小説家・評論家。筆名は王春嶺・藤沢草人。北海道
	岩見沢生れ。1908(明治41)「新潮」の記者、のち編集長。
	(1)中村 武羅夫(なかむら むらお)。
	(3)中村 武羅夫(なかむら ぶらお)。
	(5)中村 武羅夫(なかむら むらお)。
	(9)中村 武羅夫(なかむら むらお)。
	(11)中村 武羅夫(なかむら むらお)。
	(13)中村 武羅夫(なかむら むらお)。
なかむら らくてん
	中村 楽天
	1865(慶応元. 7.10)
	1939. 9.19(昭和14)
	◇俳人。本名は修一。
	(9)誕生日は(異説五・一八)。
なかむら りょうへい
	中村 亮平
	1887. 6.19(明治20)
	1947. 7. 7(昭和22)
	◇美術研究家。
なかや うきちろう
	中谷 宇吉郎
	1900. 7. 4(明治33)
	1962. 4.11(昭和37)
	◇物理学者・随筆家。石川県生れ。東京大学物理学科卒業。
なかや なべさく
	中屋 辺作(二代目)
	1892(明治25)
	1982(昭和57)
	◇鋸(ノコギリ)作りの鍛冶(カジ)職人。本名は高橋伊勢太郎(イセタロウ)。
	父は鍋太郎(中屋鍋作)、妻は「ゑい」。埼玉県川越生れ。
	 13歳で父に仕事を習い、18歳で父を失う。師を求め、千葉の
	野村徳太郎・深谷の中屋秀五郎・千葉の中屋子之吉(ネノキチ)・東
	京の福田源兵衛・東京の二見屋常五郎(フタミヤ・ツネゴロウ)などの名
	工を求め各地で修行。
	 25歳で修行を終え、父の跡を継ぐ。烏山(東京都世田谷区)の
	伊藤商店の後押しを受ける。
	 代表作は、深川木場の特注による長さ七尺五寸(約227cm)、
	重さ三貫二百匁(約12kg)の大鋸。
	◎終始、機械を使わなかった。
なかや むがい
	中谷 無涯
	1871(明治 4. 3.18)
	1933.12.24(昭和 8)
	◇小説家・詩人。本名は哲次郎、戸籍上(字名)は為知(タメチカ)、
	初めの号は仲容子(チュウヨウシ)。
ながやおう
	長屋王
	 684[天武12]
	 729(神亀 6. 2.12)
	◇天武天皇の孫、高市皇子の子、母は元明天皇の姉御名部皇女。
	室は吉備内親王で両親は草壁皇子(父)・元明天皇(母)、文武・
	元正両天皇の姉妹。
	  712(和銅 5)大納言となる。藤原不比等(フヒト)の死後、 721
	(養老 5)従二位右大臣となる。 724年、聖武天皇即位とともに
	正二位左大臣となり、光明立后問題など藤原氏と対立する。
	  729(神亀 6. 2)謀叛があると漆部造君足らに密告され、藤
	原宇合(ウマカイ)らの率いる六衛府の兵に邸を囲まれ、妻子ととも
	に自殺。
	 邸宅の発掘により、夏に氷を運ばせたり、牛乳を飲んでいた
	などの王の生活が解った。
	(6)ながやおう(長屋王)。 676年生まれとも。
	(16)ながやのおう(長屋王)。生年は 684[天武13]。
	(17)ながやのおう(長屋王)。生年は 684。
	(*) 724(養老 8,神亀元)。
なかやま いちろう《なかやま いちらう》
	中山 伊知郎
	1898(明治31)
	1980(昭和55)
	◇経済学者。三重県生れ。
	 東京商科大学(現:一橋大学)教授・一橋大学学長。
	 中央労働委員会会長。
	 著書は『純粋経済学』・『発展過程の均衡分析』など。
ながやま いちろう
	永山 一郎
	1934. 8.11(昭和 9)
	1964. 3.26(昭和39)
	◇詩人・小説家。
	 山形県下の小学校・分校などに教員として勤務。辺地の分校
	に帰任の途中モーターバイク事故で死去。
なかやま ぎしゅう
	中山 義秀
	1900.10. 5(明治33)
	1969. 8.19(昭和44)
	◇小説家。本名は議秀。福島県岩瀬郡大屋村生れ。
	 福島県立安積中学を経て、1923(大正12)早稲田大学英文科卒
	業。
	 同年、赤田敏(トシ)と結婚、1935(昭和10)妻と死別。
	 1942(昭和17)真杉静枝(マスギ・シズエ)と結婚、1946(昭和21)離
	婚。
	 1947(昭和22)澄子と結婚。
	◆義秀忌[ 8.19]。
なかやま きょうあん
	中山 梟庵
	1877. 6.10(明治10)
	1960. 9.29(昭和35)
	◇歌人。本名は正次(マサツグ)。
なかやま けい
	中山 啓
	1895. 4.26(明治28)
	1957.10. 2(昭和32)
	◇詩人。本名は忠直。中山皇漢医学研究所を設立。
なかやま しょうさぶろう
	中山 省三郎
	1904. 1.28(明治37)
	1947. 5.30(昭和22)
	◇詩人・ロシア文学者・翻訳家。
	(9)中山 省三郎(なかやま せいざぶろう)。
なかやま しょうぜん
	中山 正善
	1905(明治38)
	1967(昭和42)
	◇大正・昭和期の宗教家。中山みきの曾孫。奈良県生れ。東京
	大学卒業。
	 1914(大正 3)天理教の初代真柱真三亮の死により2代目真柱
	を継ぐ。
なかやま しらね
	中山 白峰
	生年不詳
	没年不詳
	◇小説家。本名は重孝。
	(9)生年は明治四、五か。
なかやま しんぺい
	中山 晋平
	1887. 3.22(明治20)
	1952.12.30(昭和27)
	◇作曲家。長野県生れ。
	 東京音楽学校卒業。
	 歌謡曲『カチューシャの唄』・『船頭小唄』・『出船の港』、
	童謡『しやぼん玉』・『砂山』・『背くらべ』など。
なかやま だいざぶろう《なかやま だいさぶらう》
	中山 大三郎
	1941. 2.15(昭和16)
	2005. 4. 7(平成17)
	◇作詞・作曲家。宮崎県都城市出身。
	 法政大学社会学部、中退。
	 1964(昭和39)クラウン・レコードの専属を経て、フリーとな
	る。
	 1987(昭和62)歌謡曲『人生いろいろ』(作詞)で日本レコード
	大賞作詞賞と日本作詩大賞を受賞。
	 中咽頭(チュウイントウ)ガンで死去。
	 作品は歌謡曲『珍島物語』(作詞・作曲)など。
なかやま ただやす
	中山 忠能
	1809(文化 6)
	1888. 6.12(明治21)
	◇江戸幕末・明治初期の公卿。権大納言忠頼の長子、長女慶子
	(ヨシコ)は明治天皇の母。
	 1847(弘化 4)権大納言(食禄二百石)。
	 岩倉具視とともに公武合体・和宮(カズノミヤ)降嫁を推進。1862
	(文久 2)和宮御縁組の国事御用掛として東下。和宮降嫁に関与
	したことで尊攘派から弾劾を受け辞職。
	 明治維新後、議定・神祇官知事・1869(明治 2)神祇伯兼宣教
	長官。1879(明治12)皇子明宮(大正天皇)の養育掛。1884(明治
	17)侯爵。
なかやま まさお
	中山 正男
	1911. 1.26(明治44)
	1969.10.22(昭和44)
	◇小説家・実業家。
なかやま まさき
	中山 昌樹
	1886. 4.10(明治19)
	1944. 4. 2(昭和19)
	◇宗教家(キリスト教)・翻訳家。
なかやま まさよし
	中山 雅吉
	1894. 1. 5(明治27)
	1920.11.23(大正 9)
	◇歌人。結核により死去。
なかやま みき
	中山 みき
	1798(寛政10. 4.18)
	1887. 2.18(明治20)
	◇江戸幕末・明治前期の宗教家・天理教の開祖。大和山辺郡三
	昧田村(奈良県丹波市)の庄屋の長女、中山秀司(シュウジ)の母、
	中山正善(ショウゼン)の祖母。
	 13歳で庄屋中山善兵衛に嫁ぎ、夫の身持ちの悪さなどに苦労
	する。1838(天保 9)長男秀司が病気のとき治病のため招いた山
	伏(ヤマブシ)の加持台をつとめ神懸かりし、天の将軍・天理王命
	(テンリオウノミコト)と称し布教。
	 1867(慶応 3)天理王明神(テンリオウミョウジン)として吉田家の公認
	を受ける。
	 呪術行為などを理由に明治政府から度重なる投獄・迫害を受
	けながら教団を拡大。
	◎みきの死の翌年1888(明治21)神道本局六等直轄教会となり、
	合法化となる。1908(明治41)明治政府の公認。
ながよ しずお
	永代 静雄
	1886. 2.12(明治19)
	1944. 8.10(昭和19)
	◇ジャーナリスト。旧姓は長谷川。伝書鳩の飼育を普及させる。
	田山花袋の『蒲団』の田中秀夫のモデル。
ながよ せんさい
	長与 専斎
	1838(天保 9. 8.28)
	1902. 9.28(明治35)
	◇江戸末期・明治時代の医学者。肥前大村藩医長与中庵の子、
	又郎(マタロウ)・善郎(ヨシロウ)の父。
	 1854大坂の緒方洪庵の適塾に入門。
	 1861長崎の精得館に入門、ポンペ・マンスフィルドから西洋
	医学を学ぶ。
	 1864大村藩の侍医。精得館医師頭取。
	 1866(慶応 2)再び長崎に出、1868長崎医学校学頭。
	 1871(明治 4)上京し文部少丞・中教授、同年岩倉遣欧使節に
	随行、1871〜1873(明治 4〜明治 6)医学教育・医事行政を視察。
	 帰国後、文部省医務局長・1875(明治 8)東京医学校校長・
	1878〜1891(明治11〜明治24)内務省衛生局長。
	 1886(明治19)元老院議官・貴族院議員。
	(*)1854(嘉永 7,安政元),1861(万延 2,文久元),1864(文久 4,
	元治元),1868(慶応 4,明治元)。
ながよ またろう《ながよ またらう》
	長与 又郎
	1878. 4.(明治11)
	1941. 8.16(昭和16)
	◇明治〜昭和期の医学者。号は雷山。長与専斎(センサイ)の3男、
	善郎(ヨシロウ)の弟。東京生れ。
	 東京大学卒業後、ドイツのフライブルク大学に留学。帰国後、
	東京大学教授・医学部長・伝染病研究所所長・癌研究所所長・
	1934〜1938(昭和 9〜昭和13)総長。
	 1938(昭和13)文部大臣荒木定夫の総長官選案に対し、大学の
	自治を守るため各帝大総長とともに一致して反対、撤回させて
	辞職。
	(2)ながよ またお(長与 又郎)。没年は1941(昭和16)。
	(4)ながよ またろう(長与 又郎)。没年は1942(昭和17)。
	(16)ながよ またお(長与 又郎)。没年は1941(昭和16)。
ながよ よしろう《ながよ よしらう》
	長与 善郎(長與 善郎)
	1888. 8. 6(明治21)
	1961.10.29(昭和36)
	◇小説家・劇作家。長与専斎(センサイ)の5男、又郎(マタロウ)の弟、
	妹は椿貞雄(ツバキ・サダオ)の妻。東京生れ。
	 1900(明治33)南山小学校より学習院に転校。1911(明治44)東
	京大学英文科入学、一年にして退学。
	 1901(明治34)雑誌「白樺」の同人となる。関東大震災による廃
	刊後は、「不二」を主宰。
	 1948(昭和23)芸術院会員。1960(昭和35)読売文学賞を受賞。
	(2)ながよ よしお(長与 善郎)。
	(4)ながよ よしろう(長与 善郎)。
	(6)ながよ よしろう(長与 善郎)。
	(16)ながよ よしお(長与 善郎)。
なからい とうすい
	半井 桃水
	1860(万延元.12. 2)
	1926.11.21(大正15)
	◇小説家。別号は桃水痴史・菊阿弥(キクアミ)・千壺(センゴ)。長崎
	県厳原(イズハラ)町生れ。
	 1888(明治21)東京朝日新聞記者。
	 樋口一葉の師として知られる。
	(5)本名は冽(キヨシ)。
	(9)本名は洌(キヨシ)。
	(11)本名は冽(キヨシ)。
	(13)本名は冽(キヨシ)。
	(16)本名は冽(キヨシ)。
なからい ぼくよう
	半井 卜養
	1607(慶長12)
	1678(延宝 6.12.26)
	◇江戸前期の狂歌作家・俳人・幕医。名は慶友、号は牧羊軒奇
	雲。牡丹花肖柏(ボタンカ・ショウハク)の孫、牧羊軒亭雲の子。
	 家光の信任を得、江戸城大奥の御番医師。晩年は法眼。
ながわ かめすけ
	奈河 亀輔(初代)
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の歌舞伎狂言作者。号は永長堂。活躍は明和から天
	明ころ(18世紀後半)の約20年間。
なくら ごげつ
	奈倉 梧月
	1876. 7.25(明治 9)
	1958. 2.18(昭和33)
	◇俳人。本名は正良、旧号は好何。
なごし くにさぶろう
	名越 国三郎
	生年不詳
	没年不詳
	◇大正・昭和初期の挿絵画家。
なごや あきら
	名古屋 章
	1930.12. 8(昭和 5)
	2003. 6.24(平成15)
	◇俳優。東京生れ。
	 1949(昭和24)NHK放送劇団養成所に入団。
	 文学座・劇団雲で舞台活動を始める。
	 1975(昭和50)フリーで活躍。
なごや げんい
	名古屋 玄医
	1628(寛永 5)
	1696(元禄 9)
	◇江戸前期の医学者。字(アザナ)は閲甫(エツホ)・富潤、号は
	丹水子・宜春庵・桐渓。京都の人。
	 明の喩嘉言(ユ・カゲン)の著『傷寒尚言』を読み医学に志す。
	 中国の金・元以後の李朱医学の理論を重んじた空理・空論を
	批判し、晋(シン)・唐以前の医方(漢代の張仲景)への復古や臨床
	実験を重視した実証的な治療を主張。古医方(コイホウ)の先駆者と
	なる。
	 著書は『医方問余』・『丹水子』・『纂言方考』・『金匱註
	解』・『難経註疏』など。
なごや さんざ
	名古屋 山三
	1572(元亀 3)ころ
	1603(慶長 8)
	◇安土桃山時代、出雲(イズモ)の阿国(オクニ)とともに歌舞伎の創
	始者とされる伝説的人物。姓は名越、名は山三郎。
	 蒲生氏郷(ガモウ・ウジサト)の小姓で、1590(天正18)氏郷の奥州攻
	めに従ったが、氏郷の没後浪人。のち森忠政に出仕、刃傷事件
	で死亡。
	◎歌舞伎の創始者の件は、阿国歌舞伎の舞台に名古屋山三郎の
	亡霊を登場させたことの誤伝といわれる。
	 美男の伊達者で、古浄瑠璃・戯曲・小説などに仕組まれるこ
	とが多い。
なごや みつとき
	名越 光時
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉時代の武将。北条光時とも。朝時(トモトキ)の長男、北条義
	時の孫。
	 九条(藤原)頼経とはかり執権北条時頼を除こうとして露見、
	頼経は京都に送還、光時は伊豆に流される。
なごん きょうへい
	納言 恭平
	1900. 5.12(明治33)
	1949. 7. 6(昭和24)
	◇小説家。本名は奥村五十嵐。
なしき すけゆき
	梨木 祐之
	1659(万治 2)
	1723(享保 8)
	◇江戸中期の神道家(垂加)。鴨(カモ)祐之とも称した。
なしもとのみや いつこ
	梨本宮 伊都子
	1882. 2. 2(明治15)
	1976. 8.19(昭和51)
	◇侯爵令嬢・皇族妃。父は鍋島直大(ナオヒロ)侯爵、母は栄子(ナガ
	コ)。華族女学校卒業。
	 1900(明治33)梨本宮守正(モリマサ)と結婚。翌年、長女方子(マサコ)
	を出産。
	◎ローマ生れで「伊都」はイタリアの都の意味。
なしもとのみや もりまさ
	梨本宮 守正
	1874(明治 7)
	1951(昭和26)
	◇明治〜昭和前期の皇族軍人(元帥)。久邇宮朝彦親王の第4王
	子。梨本宮家第2代目。
	 1943(昭和18)伊勢神宮祭主。
	 第二次世界大戦後、皇族中ただ一人戦犯となる。
	 1946(昭和21)皇族籍を離脱。
なす たつぞう
	那須 辰造
	1904. 7.30(明治37)
	1975. 4. 5(昭和50)
	◇小説家・翻訳家・児童文学作家。
なすのよいち
	那須 与一
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉初期の武将。名は宗高、与市・余一とも記す。下野(シモツ
	ケ)那須の人。那須太郎資高の11男。
	 源義経に属し1185年の屋島の戦いで、平家が船にかかげた扇
	の的を射落して敵味方の賞賛を受け、丹波・信濃など五ヶ国に
	荘園20万石を賜り、那須の総領となる。
	 のち出家して伏見の即成院に入る。
	 24歳の短命で世を去った。
	(*)1185(元暦 2,文治元)。
	◎屋島の戦いで与一を乗せて海に泳ぎ出た名馬は「鵜黒(ウクロ)の
	駒」と呼ばれ、鵜の大将と牝馬の間に生れ水かきがあるとまで
	言われるほど泳ぎがうまかった。現在の栃木県那須郡(ナスグン)
	黒羽町(クロバネマチ)の産。
なつめ きょうこ
	夏目 鏡子
	1877. 7.21(明治10)
	1963. 4.18(昭和38)
	◇夏目漱石の妻。戸籍名はキヨ。貴族院書記官長中根重一の長
	女。1896. 6(明治29)夏目漱石と結婚。
なつめ しんろく
	夏目 伸六
	1908.12.17(明治41)
	1975. 2.11(昭和50)
	◇随筆家。夏目漱石の次男。
なつめ せいび
	夏目 成美
	1749(寛延 2. 1.10)
	1816(文化13.11.19)
	◇江戸後期の俳人。本名は包嘉、別号は随斎。
なつめ そうせき
	夏目 漱石
	1867. 2. 9(慶応 3. 1. 5)
	1916.12. 9(大正 5)
	◇明治・大正時代の小説家。本名は金之助(キンノスケ)。江戸馬場
	下(東京牛込喜久井町)生れ。夏目鏡子(キョウコ)の夫、松岡譲(ユズ
	ル)の妻筆子の父、夏目伸六(シンロク)の父。
	 生後まもなく里子に出されるがすぐ連れ戻される。3歳頃、
	塩原昌之助の養子となるが、数年で実家に帰る。
	 1893(明治26)東京帝国大学文科大学英文科卒業。
	 1895(明治28)松山中学校教師。
	 1896(明治29)貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚。
	 1897(明治30)第五高等学校教授。
	 1900〜1903(明治33〜明治36)英国に留学。1911. 2.21(明治
	44)文部省からの文学博士号授与を辞退。
	 1905(明治38)高浜虚子のすすめで「ホトトギス」に『倫敦塔(ロ
	ンドントウ)』・1905〜1906(明治38〜明治39)『吾輩は猫である』
	などを執筆。
	 1907(明治40)朝日新聞社に入社。
	 『明暗』を執筆中に胃潰瘍が悪化、翌月死去。
	 その他の作品は『坊つちやん』・『草枕(クサマクラ)』・1907(明
	治40)『虞美人草(グビジンソウ)』・『三四郎』・1909(明治42)
	『それから』・1910(明治43)『門』・1912〜1913(明治45〜大
	正 2)『行人(コウジン)』・1914(大正 3)『こゝろ』など。
	 自然主義の告白性に組せず、近代的個人主義の立場から人間
	の心理を追求した客観小説を完成し、初期には「余裕派」と呼ば
	れた。門下に鈴木三重吉・芥川龍之介・久米正雄らが輩出。
	◆漱石忌[12. 9]。墓は豊島区の雑司ヶ谷霊園。
	◎終焉の地は東京都新宿区早稲田南町の漱石山房。現在は都営
	住宅の一角で猫塚が残っている。
	◎本郷の東京大学構内にある三四郎池は『三四郎』にちなみ、
	いつしか呼ばれるようになったもの。
	◎1984.11. 1(昭和59)発行の新札1千円の肖像に採用。
なとり しゅんせん
	名取 春仙
	1886. 2. 7(明治19)
	1960. 3.30(昭和35)
	◇画家。本名は芳之助。東京日本橋生れ。
	 東京美術学校日本画選科中退。1909(明治42)朝日新聞者に入
	社、夏目漱石の連載小説などを描き、岡本一平が朝日新聞に入
	社するまで同社に在籍。晩年は春僊と号し、歌舞伎絵などを描
	いていた。
	 自殺。
なとり ようのすけ
	名取 洋之助
	1910. 9. 3(明治43)
	1962.11.23(昭和37)
	◇写真家・アート・ディレクター。
なべい かつゆき
	鍋井 克之
	1888. 8.18(明治21)
	1969. 1.11(昭和44)
	◇洋画家・随筆家。
なべかむり しょうにん《なべかむり しやうにん》
	鍋冠 上人(鍋冠り 上人)
	⇒にっしん(日親)
なべかむり にっしん
	鍋冠 日親(鍋冠り 日親)
	⇒にっしん(日親)
なべしま かつしげ
	鍋島 勝茂
	1580(天正 8)
	1657(明暦 3. 8.24)
	◇安土桃山〜江戸初期の初代佐賀藩主。鍋島直茂(ナオシゲ)の長
	男。
なべしま かんそう
	鍋島 閑叟
	⇒なべしま なおまさ(鍋島 直正)
なべしま なおしげ《なべしま なほしげ》
	鍋島 直茂
	1538(天文 7)
	1618(元和 4)
	◇安土桃山時代の肥前佐賀城主。鍋島清房の子、鍋島勝茂(カツシ
	ゲ)の父。
なべしま なおひろ《なべしま なほひろ》
	鍋島 直大
	1846(弘化 3. 8.)
	1921. 6.18(大正10)
	◇江戸末期の第十一代佐賀藩主・政治家。鍋島直正(ナオマサ)の第
	2子、継室は栄子(ナガコ)(廣橋胤保の女)、梨本宮伊都子(イツコ)
	・鍋島直映の父。
	 1881(明治14)イタリアで栄子と結婚。
なべしま なおまさ《なべしま なほまさ》
	鍋島 直正
	1814(文化11)
	1871(明治 4)
	◇江戸末期の第十代佐賀藩主。初名は斉正(ナリマサ)、号は閑叟(カ
	ンソウ)・茶雨・紫水。鍋島斉直の子、鍋島直大(ナオヒロ)の父。
なべしま ながこ
	鍋島 栄子
	1855(安政 2. 5.18)
	1941. 1. 3(昭和16)
	◇社会運動家。権大納言廣橋胤保(ヒロハシ・タネヤス)の五女、第十一
	代当主鍋島直大(ナオヒロ)の継室、梨本宮伊都子(イツコ)・鍋島直映
	の母。
	 1881(明治14)イタリアで直大と結婚。
	 1882. 2. 2(明治15)イタリアで伊都子を出産。
	 1887(明治20)日本赤十字社篤志看護婦人会長。
なべやま さだちか
	鍋山 貞親
	1901(明治34)
	1979(昭和54)
	◇社会運動家。大阪生れ。
	 1922. 7.(大正11)日本共産党の創立に参加。
	 1933. 6. 7(昭和 8)獄中で佐野学(サノ・マナブ)とともに「共同被
	告同志に告ぐる書」で転向を声明、天皇制政府の中国侵略を支
	持し、 6.10新聞に発表されて大きな反響を呼び大量転向のきっ
	かけとなる。
	 第二次世界大戦後、反共運動を指導。
なまえ けんじ
	生江 健次
	1907.11.24(明治40)
	1945. 7.26(昭和20)
	◇劇作家・小説家。軍報道班員としてルソン島山中で餓死。
なみき ごへい
	並木 五瓶
	1747(延享 4)
	1808(文化 5. 2. 2)
	◇江戸後期の歌舞伎狂言作者。前名は並木吾八(ゴハチ)・呉八・
	五兵衛、別号は並木舎・浅草堂。
[1]なみき しょうぞう
	並木 正三(初世)
	1730(享保15)
	1773(安永 2. 2.17)
	◇江戸中期の歌舞伎狂言作者。通称は和泉屋(イズミヤ)正三、別
	号は当世軒。
[2]なみき しょうぞう
	並木 正三(二世)
	生年不詳
	1807(文化 4)
	◇江戸後期の歌舞伎狂言作者。初世の妻の血縁者。めぼしい作
	品はない。
なみき そうすけ
	並木 宗輔
	1695(元禄 8)
	1751(寛延 4. 9. 7)
	◇江戸中期の浄瑠璃作者。通称は松屋宗助、作者名は並木宗助
	・宗輔・千柳(センリュウ)、別号は市中庵(シチュウアン)。大坂の人。
	 若いころ、備後(ビンゴ)三原の臨済宗妙心派の成就寺(ジョウジュ
	ジ)にあり、法号を断継慧水(ダンケイエスイ)と称した。30歳ころ、
	還俗。
	 豊竹座の座付作者となり活躍。一時、竹本座に転じたが、晩
	年再び豊竹座にもどる。
	 竹本座の[2]竹田出雲らとの合作に『義経千本桜』・『仮名
	手本忠臣蔵』などがある。
なみき ひろし
	並木 ひろし
	1942(昭和17)
	1998.11.13(平成10)
	◇コメディアン。本名は並川俊之。
	 1963. 8.(昭和38)宮五郎(1936〜1994)・宮史郎(1943〜)兄弟
	とボーイズ「ぴんからトリオ」を結成し、大阪東宝演芸場を中心
	に活躍。
	 結成十周年を記念して、1972. 5.10(昭和47)コロムビアレコ
	ードから『女のみち』(宮史郎作詞・並木ひろし作曲)でデビュ
	ー。
	 1973(昭和48)金銭問題から「ぴんからトリオ」を脱退。
	◎のち、宮兄弟は「ぴんから兄弟」を結成。
なみやま ふきお
	波山 不規夫
	1887. 2. 1(明治20)
	没年不詳
	◇小説家。本名は石川道三郎。
なや すげざえもん
	納屋 助左衛門
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の貿易商人。別称は呂宋(ルソン)助左衛門。堺の
	納屋衆(倉庫業者)。
	 16世紀後期(天正年間)海外貿易に従事。1593(文禄 2)ルソン
	に渡航。奢侈により豊臣秀吉に罰せられ没落。
	 1607(慶長12)カンボジアに渡航し、国王より日本からの貿易
	を委嘱された。
ならさき つとむ
	楢崎 勤
	1901.11. 7(明治34)
	1978.12. 1(昭和53)
	◇小説家・編集者。
ならのみかど
	奈良帝
	⇒へいぜい てんのう(平城 天皇)
ならも
	奈良茂
	⇒ならや もざえもん(奈良屋 茂左衛門)
[1]ならや もざえもん《ならや もんざゑもん》
	奈良屋 茂左衛門(四代)
	生年不詳
	1714(正徳 4)
	◇江戸中期の深川の豪商・材木商。本姓は神田、名は勝豊、号
	は安休、通称は奈良茂(ナラモ)。
	 1683(天和 3)日光東照宮の修築を請け負って富を積み、紀国
	屋文左衛門(キノクニヤ・ブンザエモン)と並び称された。
	 60歳で没したいう。
[2]ならや もざえもん《ならや もんざゑもん》
	奈良屋 茂左衛門(五代)
	1695(元禄 8)
	1725(享保10. 9. 3)
	◇江戸中期の深川の豪商・材木商。幼名は戌松、号は泰我、通
	称は奈良茂(ナラモ)。勝屋の兄。
	 弟勝屋とともに先代より40万両の遺産を継承し、驕奢(キョウシャ)
	を窮め、吉原で豪遊した。
なりなが しんのう《なりなが しんわう》
	成良 親王
	1326
	1344(<南>興国 5,<北>康永 3. 1. 6)
	◇後醍醐天皇の皇子、母は贈左大臣藤原公廉の娘廉子。通称は
	将軍宮。
	 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)親王の宣下。同年足利直義・
	阿野実廉らに奉じられ鎌倉に下向。1334、上野太守。1335(<南>
	建武 2,<北>建武 2)護良親王の後を襲って征夷大将軍となるが、
	北条時行の挙兵(中先代の乱)により、直義とともに三河走り、
	のち帰洛。
	 1336(<南>延元元,<北>建武 3.11.)北朝光明天皇の皇太子と
	なるが、翌年南北朝対立の激化で廃される。
	 近衛基嗣の邸で死去。
	(*)1326(正中 3,嘉暦元),1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正
	慶 3,<北>建武元)。
なるさわ れいせん《なるさは れいせん》
	成沢 玲川
	1877.12.14(明治10)
	1962.10.20(昭和37)
	◇編集者。
なるしま りゅうほく《なるしま りうほく》
	成島 柳北
	1837. 3.22(天保 8. 2.16)
	1884.11.30(明治17)
	◇明治前期の漢詩人・随筆家・新聞記者。幼名は甲子麻呂のち
	甲子太郎(キネタロウ)のち惟弘(コレヒロ)、字は保民、号は確堂・誰園・
	我楽多堂・(三水+「墨」)上漁史・(三水+「墨」)上隠士・何有仙史。
	江戸生れ。
	 家は代々将軍侍講を勤め、17歳の時に父を失い将軍家茂(イ
	エモチ)の侍講となるが、1863(文久 3)辞職。1865(慶応元)再び召
	されて歩兵頭並となり、要職を転々とし、1868(明治元)外国奉
	行会計副総理。しかし慶喜辞職とともに官を辞職。隅田川畔に
	我楽多堂を建てる。
	 1872(明治 5)欧米を漫遊。1874(明治 7)朝野新聞社長となり、
	軽妙洒脱な時事随想を発表、藩閥政府攻撃の論陣を張る。1875
	(明治 8)投獄。1877(明治10)文芸雑誌「花月新誌」を創刊。
	 著書は文明開化を風刺した『柳橋(リュウキョウ)新誌』など。
	(3)幼名は甲子麻呂。
	(5)幼名は甲子麿(キネマロ)。
	(9)幼名は甲子麿、号は(三水+「墨」)「土」隠士。
	(11)名は温、のちに惟弘。甲子(キネ)太郎、のちに甲子麿(キネマロ)
	と称した。
	(13)天保八年二月一○日浅草に生まれた。
	(13)誕生日は1837(天保 8. 2.)。
なるせ きよし
	成瀬 清
	1884. 1. 1(明治17)
	1958. 1. 4(昭和33)
	◇ドイツ文学者。号は無極(ムキョク)。戸籍上の生年は1885. 4.26
	(明治18)。東京生れ。
	 東京帝国大学独文科、卒業。
	 慶應義塾大学・旧制第三高等学校(京都大学の前身)・京都大
	学教授を歴任。
	 1935(昭和10)日本ゲーテ協会会長。
	 著書は『近代独逸文芸思潮』・『疾風怒濤時代と現代独逸文
	学』・『懺悔としての文学』・『面影草』・『無極集』など。
	(13)成瀬無極:誕生日は1885. 4.26(明治18)。
	◎小牧健夫(タケオ)(暮潮)・吹田順助(スイタ・ジュンスケ)とともにドイ
	ツ文学研究の三羽烏(サンバガラス)と呼ばれた。
なるせ じんぞう《なるせ じんざう》
	成瀬 仁蔵
	1858(安政 5)
	1919(大正 8)
	◇明治時代の女子教育家。周防国(現:山口県)の人。
	 吉敷(ヨシキ)藩士の家に生れる。
	 藩学憲章館に学ぶ。
	 1875(明治 8)山口県教員養成所に入り、翌1876(明治 9)小学
	師範科を卒業し、小学校訓導となる。
	 沢山保羅の感化でキリスト教に入信し、1877(明治10)大阪浪
	花教会で受洗、梅花女学校に勤務。のち郡山教会・新潟教会牧
	師として伝道に従事。
	 1886(明治19)新潟女学校を設立し、校長となる。
	 1890(明治23)アメリカに留学し、アンドーバー神学院・クラ
	ーク大学に学び、1894(明治27)帰国して梅花高等女学校校長と
	なり、1896(明治29)辞職。
	 1901(明治34)政財界の支援を得て東京目白に日本女子大学校
	を創立。
	 著書は1896(明治29)『女子教育』・1914(大正 3)『新時代の
	教育』・1917(大正 6)『新婦人訓』など。
	◎1981(昭和56)『成瀬仁蔵著作集』(3巻)刊行。
なるせ せいいち
	成瀬 正一
	1892. 4.26(明治25)
	1936. 4.13(昭和11)
	◇フランス文学者・小説家。
なるせ まさかつ
	成瀬 正勝
	⇒つねかわ ひろし(雅川 滉)
なるせ まさなり
	成瀬 正成
	1567(永禄10)
	1625(寛永 2)
	◇江戸前期の尾張徳川家の付家老(ツケガロウ)。父は成瀬正一(マサカ
	ズ)。
	 1616(元和 2)犬山城主3万石。
	 江戸で没。遺骨は日光の家康廟のかたわらに埋められた。
なるせ みきお《なるせ みきを》
	成瀬 巳喜男
	1905. 8.20(明治38)
	1969. 7. 2(昭和44)
	◇映画監督。東京四谷(ヨツヤ)生れ。
	 工手学校、卒業。
	 1920(大正 9)小道具係として松竹蒲田撮影所に入社。
	 池田義信の助監督を経て、1929(昭和 4)ナンセンス喜劇『チャ
	ンバラ夫婦』で監督となる。
	 のちPCL(のち東宝)に移籍し、1935. 9. 1(昭和10)『妻よ
	薔薇のやうに』を公開。
	 作品は『君と別れて』・1933(昭和 8)『夜ごとの夢』・1936
	(昭和11)『桃中軒雲右衛門』・1951.11.(昭和26)『めし』・
	1952(昭和27)『おかあさん』・1952(昭和27)『稲妻』・1953
	(昭和28)『あにいもうと』・1954(昭和29)『山の音』・1955.
	 1.(昭和30)『浮雲』・1956(昭和31)『流れる』・1964(昭和39)
	『乱れる』など。
なるせ むきょく
	成瀬 無極
	⇒なるせ きよし(成瀬 清)
なるみ かんぞう《なるみ くわんざう》
	鳴海 完造
	1899. 8.10(明治32)
	1974.12. 9(昭和49)
	◇ロシア文学者。
なるみ ようきち《なるみ えうせい》
	鳴海 要吉
	1883. 7. 9(明治16)
	1959.12.17(昭和34)
	◇歌人。号は帆羊・漂羊・うらぶる・浦春。
なるやま そうへい
	鳴山 草平
	1902. 5.30(明治35)
	1972. 3. 7(昭和47)
	◇小説家。本名は前田好照。
なわ さんかんちく
	名和 三幹竹
	1892. 3. 4(明治25)
	1975. 5.31(昭和50)
	◇俳人・住職。本名は賢宝。
なわ ながとし
	名和 長年
	生年不詳
	1336. 8. 7(<南>延元元,<北>建武 3. 6.30)
	◇南北朝時代の武将。伯耆(鳥取県)の豪族。初名は長高、通称
	は又太郎、伯耆守。行高の子、義高・基長の父、顕興(アキオキ)の
	祖父。
	 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2.閏2.)隠岐の配所を脱出した後
	醍醐天皇を、伯耆の船上山(センジョウサン)に迎え、挙兵。佐々木清
	高の率いる鎌倉幕府軍の攻撃を退ける。同年 5.23天皇が船上
	山を出発し、京都に向かうのに随従。
	 建武新政下では記録所・雑訴決断所の寄人などに任命されて、
	天皇の身辺警護に当たる。
	 1334(<南>建武元,<北>建武元.10.)天皇の命により護良(モリナガ)
	親王を清涼殿で捕縛し鎌倉へ送る。
	 1336年、楠木正成・千種忠顕らとともに上洛する足利尊氏を
	退けるが、同年6月、再び上京した尊氏を迎撃して敗れ、戦死。
	◎太平洋戦争まで三大忠臣(和気清麻呂<ワケノキヨマロ>・名和長年・
	楠木正成<クスノキ・マサシゲ>)の一人として軍部に利用された。
なわ またはちろう
	名和 又八郎
	1864. 1.30(文久 3.12.22)
	1928. 1.12(昭和 3)
	◇明治・大正時代の海軍軍人・大将。父は小浜藩士武久久三、
	養父は名和荘山。妻は海軍少将滝川具和の妹。武(海軍技術中
	将)の父。
なわ やすし
	名和 靖
	1857.11.24(安政 4.10. 8)
	1926(大正15. 8.30)
	◇明治・大正期の動物学者。美濃国本巣郡船本村生れ。
	 1882(明治15)岐阜農学校を卒業。華陽学園で教えるが、帝国
	大学(現:東京大学)に学ぶ。岐阜師範学校・岐阜中学校で教え
	る。
	 1896(明治29)名和昆虫研究所(岐阜県大宮町)を設立。
	 ウンカやシロアリなどの農作物の害虫駆除予防を研究。ギフ
	チョウを発見。雑誌「昆虫世界」を発刊。
なんえ じろう
	南江 治郎
	1902. 4. 3(明治35)
	1982. 5.26(昭和57)
	◇演劇評論家・劇作家・詩人。初め二郎と号した。NHK勤務。
なんこう
	楠公
	⇒くすのき まさしげ(楠木 正成)
なんごう しげみつ
	南郷 茂光
	1838. 8.19(天保 9. 6.30)
	1909.12.11(明治42)
	◇明治時代の海軍文官。加賀藩士南郷九右衛門の長男、遠藤喜
	太郎(海軍少将)の実兄、南郷次郎(海軍少将)の父。
なんじょう さぶろう《なんでう さぶらう》
	南条 三郎
	1906.11.12(明治39)
	1957. 5.22(昭和32)
	◇小説家。本名は安井徳雄。
なんじょう のりお《なんでう のりを》
	南條 範夫
	1908.11.14(明治41)
	2004.10.30(平成16)
	◇時代小説作家・経済学者。本名は古賀英正(コガ・ヒデマサ)。東
	京生れ。
	 東京大学法学部・経済学部を卒業。
	 満鉄調査部東京支社・陸軍参謀本部などで働く。
	 第二次世界大戦後、国学院大学で金融論を教授。
	 1951(昭和26)『出べそ物語』が「週刊朝日」の懸賞小説に入選。
	 1956(昭和31)『燈台鬼(トウダイキ)』で第35回直木賞を受賞。
	 1975(昭和50)NHK大河ドラマ『元禄太平記』の原作を担当。
	 1975(昭和50)紫綬褒章を受章。
	 1982(昭和57)『細香日記』で吉川英治文学賞を受賞。
	 2004(平成16)「オール読物」2月号に『乱世』を発表。
	 その他、『月影兵庫』シリーズがテレビドラマになる。
なんじょう ぶんゆう《なんでう ぶんゆう》
	南条 文雄
	1849(嘉永 2. 5.12)
	1927.11. 9(昭和 2)
	◇真宗大谷派の僧・梵語学者。号は碩果(セキカ)。美濃(現:岐阜
	県)大垣生れ。
	 渡英し、ミュラー(Friedrich Max Mueller)に学び、梵文仏
	典を研究。
	 東京帝国大学講師・大谷大学学長などを歴任。
	 欧州仏教界への業績が大。
	 著書は『大明三蔵聖教目録』(南条目録)など。
なんそん ばいけん
	南村 梅軒
	⇒みなみむら ばいけん(南村 梅軒)
なんば だいすけ
	難波 大助
	1899.11. 7(明治32)
	1924.11.15(大正13)
	◇大正期の無政府主義者。山口県生れ。山口県会議員・代議士
	難波作之進の4男、母はロク。
	 1922(大正11)早稲田高等学院に入学、労働運動や社会主義に
	触れ翌年退学。
	 帰郷中、関東大震災後の混乱に乗じて、官憲により社会主義
	者たちが殺害された白色テロを知って憤り、父のステッキ銃を
	携えて上京、1923.12.27(大正12)第48通常議会開院式に出席す
	る摂政宮裕仁(ヒロヒト)(昭和天皇)を虎ノ門付近で狙撃、弾は外れ
	た(虎ノ門事件)。
	 1924.11.13(大正13)大審院で死刑判決を受け、2日後に刑死。
	◎大審院でも天皇制否定を主張した。
なんばら しげる
	南原 繁
	1889. 9. 5(明治22)
	1974. 5.19(昭和49)
	◇政治学者・評論家・歌人。香川県生れ。
	 第二次世界大戦後、東京大学総長。
	 対日講和条約締結にあたり吉田茂首相と対立し、1950. 5. 3
	(昭和25)吉田茂は全面講和論者の南原を「曲学阿世の徒」と非難
	する。
	 著書は『国家と宗教』など。
なんぶ しゅうたろう
	南部 修太郎
	1892.10.12(明治25)
	1936. 6.22(昭和11)
	◇小説家。仙台市生れ。常次郎の長男。
	 1911. 3.(明治44)東京芝中学卒業。翌年、慶応義塾大学に入
	学し、文学科露文学を専攻、1917. 3.(大正 6)卒業。
なんぶ としひさ
	南部 利剛
	1827. 1.25(文政 9.12.28)
	1896.10.30(明治29)
	◇江戸幕末の盛岡藩主。
	 1868(慶応 4)戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟に参加し、新政
	府軍と戦い敗北。同年9月降伏して東京に送られ謹慎。
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