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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6681.03

                 人   名   辞   典    《も》       編集:獨  澄旻

-------- も ----------------------------------------------------
もうり かつなが
	毛利 勝永
	生年不詳
	1615(慶長20. 5.)
	◇安土桃山時代の武将。初名は吉政。吉成の子。
	 豊臣秀吉に仕え、豊前4万8千石を与えられる。
	 慶長の役に出陣。
	 1600(慶長 5. 9.)関ヶ原で豊臣方の西軍に属したため、土佐
	へ追放される。
	 大坂の陣では大坂城へ入城し、1614(慶長19.11.)冬の陣、翌
	年1615(慶長20. 5.)夏の陣と奮戦し、城中で自殺。
もうり さいあん
	毛利 柴庵
	1871(明治 4. 9.28)
	1938.12.10(昭和13)
	◇仏教徒(住職)・新聞記者・政治家。本名は清雅。
もうり てるもと
	毛利 輝元
	1553(天文22)
	1625(寛永 2)
	◇安土桃山時代の武将。法名は宗瑞。隆元の子、元就(モトナリ)の
	孫。
	 はじめ織田信長に追われた将軍足利義昭を迎えて信長と争い、
	本能寺の変後は豊臣秀吉と和し、120万余石を封じて五大老に
	列する。
	 豊臣秀吉の没後、1600(慶長 5. 9.)豊臣方の西軍に属したた
	め、周防・長門36万9千石に減封。
もうり もとなり
	毛利 元就
	1497(明応 6)
	1571(元亀 2)
	◇戦国時代の武将。安芸吉田荘(ヨシダノショウ)(現:広島県高田郡吉
	田町)生れ。父は弘元、母は祥の方、兄は興元(オキモト)。正室は
	美伊の方、長男は隆元、次男は元春、三男は隆景、長女は五龍。
	 1523(大永 3)兄の子幸松丸(コウマツマル)の逝去に伴い、猿掛(サルカ
	ケ)城から郡山(コオリヤマ)城に移り、家督を継ぐ。
もがみ じゅんのすけ
	最上 純之介
	1907. 5.(明治40)
	1932.10.(昭和 7)
	◇詩人。本名は平井功、雅号は飛来鴻、J・V・L(シャン・
	ベラスコ・ロペス)、炉辺子。
もがみ とくない
	最上 徳内
	1754(宝暦 4)
	1836(天保 7)
	◇江戸時代の探検家。出羽国村山郡楯岡村(現:山形県村山市)
	の農家の生れ。
	 貧しかったため独学で読み書きソロバンを習得。26歳で江戸
	に出て働きながら、本多利明に天文学と測量を学ぶ。
	 1786(天明 6)得撫(ウルップ)島を探検。
	 1792(寛政 4)サハリン(樺太)に渡る。1798(寛政10)6回目の
	探検で択捉に「大日本恵土呂府」の標柱を建てる。58歳まで蝦夷
	地で任務に当たる。晩年は江戸八王子。
	 著書は『蝦夷草紙』。
	◎郷里の村山市に最上徳内記念館がある。
もくじき おうご
	木食 応其(木喰 応其)
	⇒[1]もくじき しょうにん(木食 上人,木喰 上人)
もくじき ごぎょう《もくじき ごぎやう》
	木食 五行(木喰 五行)
	⇒[2]もくじき しょうにん(木食 上人,木喰 上人)
[1]もくじき しょうにん《もくじき しやうにん》
	木食 上人(木喰 上人)
	1536(天文 5)
	1608(慶長13.10.)
	◇戦国時代の僧侶(真言宗)。俗姓は藤原氏、字は順良、号は
	楚仙、別名は木食応其(オウゴ)、興山上人とも。近江の人。
	 はじめ下級武士で佐々木氏、越智氏に仕えたが主家の没落。
	1573年、高野山に入り出家する。
	 1585(天正13)豊臣秀吉が高野山を討とうとしたとき、秀吉と
	折衝し攻撃を中止させ、その縁で秀吉の帰依を受ける。1587
	(天正15)秀吉の島津攻めでは秀吉の使者として島津義久に降伏
	を勧める。同年、秀吉の援助で高野山金堂を再興。1588(天正
	16)長谷寺観音堂を再興。1591(天正19)秀吉より高野山1万石
	を拝領、翌年1万石を加増。
	 青巌寺・興山寺を建立。
	 1598(慶長 3)秀吉の没後、京都に豊国神社を創建。
	 連歌をよくし、『無言抄』などがある。
	(4)生年は1536。
	(6)生年は1536か37。
	(25)生年は1537(天文6)。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
	◎出家して五穀を断ち木食をした(木食戒)ことから木食上人と
	呼ばれた。
[2]もくじき しょうにん《もくじき しやうにん》
	木食 上人(木喰 上人)
	1718(享保 3)
	1810(文化 7)
	◇江戸後期の遊行僧。俗名は伊藤明満、別名は木食五行(ゴギョ
	ウ)。甲斐の人。
	 22歳で仏門に入り、45歳で木食戒を受ける。千体造仏を発願
	し、1773(安永 2)から日本回国と千体仏造像を発願し諸国を遍
	歴し、各地に丸みをおびた特異な木彫の仏像を残す。
もずめ たかみ
	物集 高見
	1847(弘化 4. 5.28)
	1928. 6.23(昭和 3)
	◇国語学者。幼名は素太郎のち善五郎、号は鶯谷・董園・埋書
	居士。豊後国(現:大分県)杵築(キヅキ)生れ。物集高世(タカヨ)の長
	男。
	 長崎で蘭学を修める。
	 幕末に勤皇家玉松操(ミサオ)に国学を学ぶ。
	 明治維新後、平田銕胤(カネタネ)に国学を、東条琴台に漢学を、
	近藤真琴に洋学・英語を学ぶ。この間に月形神社宮司となる。
	 1870(明治 3)神祇官宣教使となり、のち教部省・文部省に出
	仕。
	 帝国大学文科大学教授・1886(明治19)東京帝国大学・学習院
	・国学院の教授を歴任。
	 1899(明治32)東京帝国大学を辞して、家財をなげうって独力
	で『群書索引』・『広文庫』を完成。
	 著書は『初学日本文典』・1886(明治19)『言文一致』・1888
	(明治21)『ことばのはやし』・1894(明治27)『日本大辞林』・
	『日本文明史略』・『新撰日本大文典』、編纂1916(大正 5)
	『群書索引』(3冊)・1916〜1918(大正 5〜大正 7)『広文庫』
	(20巻)など。
もずめ たかよ
	物集 高世
	1823(文政 6)
	1883. 2. 2(明治16)
	◇歌人・国学者。通称は文右衛門・葎屋(ムグラノヤ)。物集高見(タ
	カミ)の父。
	 1870(明治 3)神祇官宣教権少博士となる。
もたい たけし
	茂田井 武
	1908(明治41)
	1956(昭和31)
	◇挿絵画家。東京生れ。
	 太平洋画会研究所・川端画学校に学ぶ。
もちずき けい
	望月 桂
	⇒もちづき けい(望月 桂)
もちずき しげる
	望月 茂
	⇒もちづき しげる(望月 茂)
もちづき けい
	望月 桂
	1887. 1.11(明治20)
	1975.12.13(昭和50)
	◇画家・社会運動家。
もちづき けいすけ
	望月 圭介
	1867(慶応 3)
	1941(昭和16)
	◇政治家。
	 明治英学校卒業。
	 1898(明治31)衆議院議員。
もちづき しげる
	望月 茂
	1888. 5.20(明治21)
	1955. 4.19(昭和30)
	◇評論家。号は紫峰・筑波四郎。
もちひとおう《もちひとわう》
	以仁王
	1151
	1180(治承 4. 5.26)
	◇平安末期の皇族。別名は三条宮・高倉宮(邸が三条高倉にあっ
	た)。後白河天皇の第2皇子、母は権大納言藤原季成(ナリスエ)の
	娘成子。
	 1165年、元服。母が摂関家の出でなかったので親王宣下を受
	けられなかった。1179(治承 3)平氏のクーデターにより多年知
	行していた常興寺領を奪われる。1180年、源頼政(ヨリマサ)と謀り
	最勝親王と称し、平氏追討の令旨(リョウジ)を諸国の源氏に下す
	が、事前に発覚して捕えられ、土佐に流されるところを頼政と
	ともに園城寺に逃れる。奈良興福寺に向う途中、宇治川で平知
	盛(トモモリ)・平重衡(シゲヒラ)らと戦い、山城国加幡河原で敗死。
	(2)山城国加幡河原において討ちとられた。
	(4)敗れて光明山鳥居前で戦死。
	(16)宇治川の一戦で敗死した.
	(*)1151(久安 7,仁平元)、1165(長寛 3,永万元)。
もつがい ふせん
	物外 不遷
	1795(寛政 7)
	1867(慶応 3.11.25)
	◇江戸末期の僧侶(曹洞宗)。通称は拳骨和尚(ゲンコツオショウ)。伊
	予(現:愛媛県)松山生れ。
	 幼少から怪力で知られる。
	 伊予の龍泰寺祖灯のもとで出家。大坂に出て禅を学ぶかたわ
	ら剣術を修める。のち諸国を旅行。
	 23歳のとき宇治興聖寺の関浪磨甎(カンロウマセン)和尚について悟
	りを開き、備後(現:広島県)尾道(オノミチ)の済法寺の九世住職と
	なる。
	 1863(文久 3)京に上り勤王倒幕の志士と交遊し、討幕運動に
	奔走。
	◆墓は大阪の禅林寺。
	◎拳骨和尚は落款がわりに拳骨を押したことから。
もとおり うちとお《もとをり うちとほ》
	本居 内遠
	1792(寛政 4)
	1855(安政 2)
	◇江戸後期の国学者・歌人。旧姓は浜田、通称は木綿垣、号は
	榛園(ハリソノ)。本居豊穎(トヨカイ)の父、大平(オオヒラ)の養子。尾張国
	(現:愛知県)の人。
	 鈴木朖らについて国学を学び、のち本居大平(オオヒラ)の門には
	いり、その養子となる。
	 考証を主とし有職・地理などにすぐれ、紀州侯に仕える。
	(6)伊勢の人。
もとおり おおひら《もとをり おほひら》
	本居 大平
	1756(宝暦 6. 2.17)
	1833(天保 4. 9.11)
	◇江戸後期の国学者。伊勢松坂の人。通称は三四右衛門、号は
	藤垣内(フジノカキツ)。本居宣長(ノリナガ)の門人稲掛棟隆の子、宣長
	の養嗣子、内遠(ウチトオ)の養父。
	 13歳で本居宣長に入門し、44歳でその養子となる。宣長の実
	子春庭(ハルニワ)の失明後に跡目を継ぎ、紀州侯に仕え、『紀伊風
	土記』の編纂にあたる。
	 著書は家集『稲葉集』・『藤垣内集』、『古学要』・『玉鋒
	百首解』・『神楽歌新釈』・『有馬日記』・『八十浦之玉(ヤソウ
	ラノタマ)』など。
もとおり とよかい《もとをり とよかひ》
	本居 豊穎
	1838(天保 9. 4.27)
	1913. 2.15(大正 2)
	◇歌人・国文学者。幼名は稲楠。内遠(ウチトオ)の子、宣長(ノリナガ)
	の曾孫。
	 和歌山藩に仕官。
	 明治維新後、神道界に入り活躍。
	 神道大教正に進み、女子高等師範学校教授・東京帝国大学講
	師・東宮侍講・御歌所寄人などを歴任。
	 帝国学士院会員。
	 著書は『本居雑考』・『打聴鶯蛙集』・『古今集講義』・
	『秋屋集』・『諄辞集』など。
	(4)生年は1834。
	(16)生年は1834(天保 5)。
	(19)生年は1834。
	◆墓は東京都台東区の谷中霊園。
もとおり のりなが《もとをり のりなが》
	本居 宣長
	1730(享保15. 5. 7)
	1801(享和元. 9.29)
	◇江戸中期の国学者・歌人。姓は小津、1752(宝暦 2)に本居に
	改姓、幼名は富之助、のち12歳のとき永貞(ヨシサダのちナガサダ)
	・真良、さらに26歳で宣長、通称は弥四郎のち健蔵、号は芝蘭
	(シラン)・舜庵(シュンアン)・春庵(シュンアン)、家号は鈴屋(スズノヤ)。伊勢
	国松坂本町の商家の生れ。
	 父は小津三四右衛門定利(サダトシ)道樹、母は「かつ」(後妻)で
	法号は恵勝。先妻栄樹は「もと」、道樹の長兄洞誉(ドウヨ)の嫁。
	春庭(ハルニワ)の実父、大平(オオヒラ)の養父。
	 1752(宝暦 2)京都に上り、儒学を堀元厚(堀景山)に、医学を
	武川幸順に学び、同時に契沖(ケイチュウ)に私淑。1757(宝暦 7.10.)
	帰省し小児科医を開業。
	 1762(宝暦12)伊勢国安濃津の草深氏の娘民子(のち勝子)を娶
	る。翌年、長子春庭が生れる。
	 医業のかたわら『源氏物語』などを研究。1763(宝暦13)賀茂
	真淵(カモノマブチ)が伊勢参拝で松坂に泊った際、面会して入門し
	古道研究を志し、30余年を費やして大著『古事記伝』44巻を
	1798(寛政10)完成。
	 国文学の本質を「もののあはれ」として儒仏を排して古道に帰
	るべきを説く。「てにをは」や活用なども研究。
	 著書は『源氏物語玉の小櫛』・『古今集遠鏡』・『てにをは
	紐鏡』・『詞の玉緒』・『石上私淑言(イソノカミササメゴト)』・『直
	毘霊(ナオビノミタマ)』・『玉勝間』・『うひ山ぶみ』・『馭戎慨言
	(カラオサメノウレタミゴト)』・『秘本玉くしげ』など。
	◆宣長忌(鈴の屋忌)[旧暦 9.29]鈴の屋は書斎の名。
	◆宣長さくらまつり[ 4.7〜 4.9]三重県松阪市の松阪公園。宣
	長の旧宅鈴の屋や記念館がある。
	(4)『馭戎慨言(カラオサメノウレタミゴト)』……。
	(6)62年松阪で賀茂真淵と出会い……。
	(19)『馭戎慨言(ギヨジユウガイゲン)』……。
	◎荷田春満(カダノアズママロ)・賀茂真淵・平田篤胤(アツタネ)とともに
	国学四大人(シタイジン)の一人で、鈴の屋大人と呼ばれる。
もとおり はるにわ《もとをり はるには》
	本居 春庭
	1763(宝暦13)
	1828(文政11.11. 7)
	◇江戸後期の国学者。通称は健蔵、号は後鈴屋(ノチノスズノヤ)。宣
	長(ノリナガ)の長男。
	 語学・和歌にすぐれる。眼病を患い中年に失明したため、門
	人の稲掛大平に父の跡目を継がせる。自身は鍼医を業としなが
	ら門弟を指導。
	 自動詞・他動詞の別を説き、国語研究に大きく貢献。
	 著書は『詞八衢(コトバノヤチマタ)』・『詞通路(コトバノカヨイジ)』、
	家集『後鈴屋集』がある。
もとき しょうざえもん《もとき しやうざゑもん》
	本木 庄左衛門
	1767(明和 4)
	1822(文政 5)
	◇江戸後期のオランダ通詞・洋学者。名は正栄、字は子光、号
	は蘭汀。良永の長男。長崎の人。
	 オランダ語のほか、ドゥーフについてフランス語、ブロムホ
	フについて英語を修得。
	 1811(文化 8)日本最初の英語学書『諳厄利亜(アンゲリア)興学小
	筌』、1814(文化11)英和辞書『諳厄利亜語林大成』、また最初
	のフランス語学書『払郎察(フランス)辞範』などを編纂(ヘンサン)。
	◎蘭学から洋学への移行に重要な役割を果たした。
もとき しょうぞう《もとき しやうざう》
	本木 昌造
	1824(文政 7. 6. 9)
	1875. 9. 3(明治 8)
	◇日本における活版印刷業の創始者。長崎新大工町の乙名(町
	長)北島三弥太の四男で、母方の伯父のオランダ通詞本木家の
	養子(6代目)となる。
	 1848(嘉永元. 7.)オランダ船より活字と印刷機を譲りうけ、
	和文活字の製造を研究、日本のグーテンベルヒといわれる。
	 1851(嘉永 4)流し込み活字の製造に成功。
	 1852(嘉永 5)自著のオランダ語の初歩辞典『蘭和通弁』を刊
	行。
	 1854(嘉永 7)プチャーチン来日、戸田(ヘダ)号建造に際し通
	詞を勤める。
	 1855(安政 2)長崎に活字版摺立所が創設されその取扱掛とな
	る。
	 1870(明治 3)邦文活字による日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊。
もとき しょうだゆう《もとき しやうだいふ》
	本木 庄太夫
	1628(寛永 5)
	1697(元禄10)
	◇江戸前期のオランダ通詞(本木家初代)。名は榮久、のち剃髪
	して良意と号する。平戸生れ。
	 1659(万治 2)長崎に移って通詞に採用される。1664(寛文 4)
	小通詞、1668(寛文 8)大通詞。
	 商館医ケンペルやライネに医学知識を受け、ドイツ人ヨハネ
	ス・レムメリンの解剖書のオランダ語訳本を重訳。
	 1695(元禄 8)通詞目付に昇進。
	◎レムメリンの訳書は周防の鈴木宗云が見出して、庄太夫死後
	の1772(明和 9)『和蘭全躯内外分合図』と題して刊行された。
	『解体新書』出版の2年前であった。解剖図と説明書の2冊か
	らなり、シーボルトもこの書を持ち帰っている。
もとき にだゆう《もとき にだいふ》
	本木 仁太夫
	⇒もとき よしなが(本木 良永)
もとき よしなが
	本木 良永
	1735(享保20)
	1794(寛政 6)
	◇江戸中期の蘭学者・長崎オランダ通詞。通称は栄之進のち仁
	太夫(ニダユウ)、号は蘭皐(ランコウ)。父は西松仙(ニシ・ショウセン)、本木
	庄左衛門(ショウザエモン)の父。長崎生れ。
	 伯父本木良固(リョウコ)の養子となって、長崎オランダ通詞を務
	めた本木家3代目となる。
	 オランダ語・ラテン語に通じ、オランダ天文・地理書を翻訳
	して、日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介。
	 訳書は『和蘭陀地球図説』・『太陽窮理了解説』・『平天儀
	用法』・1774(安永 3)『天地二球用法』・1791(寛政 3)『星術
	本源太陽窮理了解新制天地二球用法記』など。
	◎長崎オランダ通詞を務めた本木家の3代目。
	 門下は志筑忠雄(シヅキ・タダオ)・大槻玄沢(オオツキ・ゲンタク)ら。
もとき りょうい《もとき りやうい》
	本木 良意
	⇒もとき しょうだゆう(本木 庄太夫)
もとだ えいふ
	元田 永孚
	⇒もとだ ながざね(元田 永孚)
もとだ ながざね
	元田 永孚
	1818
	1891(明治24)
	◇儒学者・教育家。「えいふ(永孚)」とも呼ぶ。
	 明治天皇の侍講。教育勅語の起草に参与。
	(*)1818(文化15,文政元)。
もとの もりみち
	本野 盛亨
	1836(天保 7. 8.15)
	1909.12.10(明治42)
	◇外交官・新聞人。
もとやま てきしゅう
	本山 荻舟
	1881. 3.27(明治14)
	1958.10.19(昭和33)
	◇小説家・随筆家。本名は仲造。岡山県生れ。高等小学校卒業。
	料理研究家としても知られる。
もとやま ひこいち
	本山 彦一
	1853(嘉永 6. 8.10)
	1932.12.30(昭和 7)
	◇ジャーナリスト・実業家(新聞業)。
もとよし けっしん
	本吉 欠伸
	1865(慶応元. 1.)
	1897. 8.10(明治30)
	◇小説家。本名は乙槌(オトヅチ)、旧姓は堺、別号は欠伸居士・
	桃南子・あくび。晩年は放縦な生活により本吉家と断絶、堺姓
	に復する。堺利彦(トシヒコ)の実兄。
もとら ゆうじろう
	元良 勇次郎
	1858(安政 5.11. 1)
	1912.12.13(大正元)
	◇心理学者。旧姓は杉田。
もののべのあらかび
	物部 麁鹿火
	生年不詳
	没年不詳
	◇古代(6世紀中葉)の豪族。大伴金村とともに大連(オオムラジ)の
	職にあった。 527(継体21)継体天皇の命により筑紫国造磐井(イ
	ワイ)の乱を平らげた。
	 一説に 535(宣化元)没とする。
もののべのおこし《もののべのをこし》
	物部 尾輿
	生年不詳
	没年不詳
	◇6世紀中ころの豪族、大和政権の政治家。荒山の子、守屋(モ
	リヤ)の父。
	 欽明天皇の即位直後に大連(オオムラジ)となる。
	 任那(ミマナ)に対する大連大伴金村(オオトモノカナムラ)の外交政策を責
	めて失脚させ、大連を独占。
	 また仏教受容問題では排仏を主張し、台頭してきた新興氏族
	の大臣(オオオミ)蘇我稲目(ソガノイナメ)と、 552[欽明13]仏像礼拝を
	めぐって対立。
	◎仏像を難波の堀江に捨て、向原(ムクハラ)の寺を焼いたという。
	 欽明天皇の即位は、 531または 539。
もののべのもりや
	物部 守屋
	生年不詳
	 587(用明 2)
	◇古代の豪族。物部尾輿(オコシ)の子。大連(オオムラジ)となり蘇我
	馬子ら崇仏派と対立。守屋は穴穂部(アナホベ)皇子を即位させよ
	うとしたが失敗し、馬子に攻め殺された。
もみやま しげつ
	籾山 梓月
	1878. 1.10(明治11)
	1958. 4.28(昭和33)
	◇俳人・出版人。本名は仁三郎(ジンザブロウ)、旧姓は吉村、旧
	号は江戸庵庭後(テイゴ)。東京生れ。慶応義塾卒業。1905(明治
	38)高浜虚子より俳書堂を譲り受け、籾山書店を創立。
	(3)没年は1953(昭和28)。
	(5)没年は1958(昭和33)。
	(10)没年は1958(昭和33)。
	(11)没年は1958(昭和33)。
ももた そうじ
	百田 宗治
	1893. 1.25(明治26)
	1955.12.12(昭和30)
	◇詩人・児童文学者。本名は宗次、少年時代の号は楓花(短歌)。
	大阪市西区生れ。高等小学校卒業。
	(5)没日は12.12。
	(10)没日は12.12。
	(13)没日は12. 1。
ももた りゅうえい
	桃田 柳栄
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の絵師。
	◎久隅守景(クスミ・モリカゲ)・鶴沢探山(タンザン)・神足常雲とともに
	狩野探幽門下の四天王の一人。
もり ありのり
	森 有礼
	1847(弘化 4. 7.13)
	1889. 2.12(明治22)
	◇明治前期の外交官・教育者。近代教育制度の基礎を確立。
	 幼名は助五郎のち金之丞。森有正(アリマサ)の祖父。薩摩藩出身。
	 1865年、藩命により渡英しロンドン大学に学び、1867(慶応
	 3)渡米。帰国後、新政府に出仕し学校取調掛・清国公使・イ
	ギリス公使などを歴任。
	 1873(明治 6)福沢諭吉らとともに明六社を結成、会長となり
	啓蒙活動に力を注ぐ。
	 外国官権判事・外務大丞を経て、1884(明治17)参事院議官兼
	文部省御用掛となり文教改革を推進。
	 1885(明治18)第1次伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任。ド
	イツの教育思想を背景に1886(明治19)小学校令・中学校令・帝
	国大学令・師範学校令の学校令を交付し国家主義的教育制度の
	確立を図る。
	 急進的な欧化主義者とみられ帝国憲法発布の日に国粋主義者
	(神官の子西野文太郎)により暗殺される。
	(*)1865(元治 2,慶応元)。
	◎1876(明治 9)広瀬つね子との結婚に際し、日本の習慣打破と
	いう意味で、福沢諭吉を証人に「共に余念なく相愛して夫婦の
	道を守ること」という誓約書を交わし、耶蘇教式と派手に公表
	した。
	 しかし、古市静子という婚約者を捨ててであったため、静子
	の友人で女医一号の荻野吟子に談判を受けている。
	 のちにつね子は目色の違った子を産んだとして離縁となって
	いる。
	◎西野文太郎(ブンタロウ)の暗殺の理由は、有礼が伊勢大廟に靴の
	まま上がりステッキで御簾を揚げたりした非礼に憤り、国体を
	忘れた国賊、欧化の先覚をてらっているとして決起したもの。
	 有礼が官邸で大礼服を着用し宮中の憲法発布式に参列するた
	め階下に下りたところを、西野は「国賊」と叫び隠し持った出刃
	包丁で横っ腹を刺した。さらに止めを刺そうとしたところを、
	護衛の剣客生田重秀の仕込み杖で背後から斬り下げられて即死。
もり ありまさ
	森 有正
	1911.11.30(明治44)
	1976.10.18(昭和51)
	◇フランス文学者・哲学者・評論家。東京生れ。森有礼(アリノリ)
	の孫。
	 東京大学仏文科卒業。
	 1950(昭和25)東京大学在職中に渡仏し、そのまま定住。
	 著書は『パスカルの方法』・『バビロンの流れのほとりにて』
	など。
もり おうがい《もり おうぐわい》
	森 鴎外(鴎:「區」+「鳥」)
	1862. 2.17(文久 2. 1.19)
	1922. 7. 9(大正11)
	◇小説家・戯曲家・翻訳家・評論家・陸軍軍医。本名は林太郎、
	別号は鴎外漁史・観潮楼主人・千朶山房主人・牽舟居士(ヒキフネコ
	ジ)・鐘礼舎(シグレノヤ)・帰休庵・小林紺珠・顕微斎主人・(「人」
	偏+「同」)然居士(トウゼンコジ)・参木舎・五木生・転丸堂主人・
	忍岡樵客・縁外樵夫・湖上逸民・台麓学人・浮(三「水」+「區」)
	氏(フオウシ)・須菩提(スボダイ)・艮崖(コンガイ)・隠流(カクシナガシ)・
	妄人・挾書生・ゆめみるひと・腰弁当・芙蓉・(「食」偏+「羔」)
	坂居士(コウハンコジ)、諱(イミナ)は高湛(タカヤス,一説にタカシズ)。岩見国
	鹿足(カノアシ)郡津和野町横堀一二に、津和野藩の典医静男と峰子
	の長男として生れる。
	 三木竹二(篤次郎)・小金井喜美子・森潤三郎の兄。登志子・
	森志げの夫。森於菟(長男)・森茉莉(マリ)(長女)・不律(次男,夭
	折)・小堀杏奴(アンヌ)(次女)・類(三男)の父。
	 西周(ニシ・アマネ)の父時義は鴎外の曾祖父森高亮(タカスケ)の次男で、
	西家の養子。
	 藩校養老館で漢籍を学び、1871(明治 4)廃校。
	 1872(明治 5)父に従い上京、西周の邸に寄寓して本郷の進文
	学舎に学ぶ。
	 1873(明治 6)東京医学校予科入学、1877(明治10)学校が東京
	大学医学部と改称し本郷に移転。1881. 7.(明治14)東京大学医
	学部の最年少の卒業生となる。同年十二月、陸軍軍医副(中尉
	相当)。1884. 6.(明治17)ドイツ留学に出発、1888. 9.(明治21)
	帰国。1889(明治22)男爵海軍中将赤松則良の娘登志子と結婚、
	翌年九月、長男於菟(オト)誕生後まもなく離別。1891(明治24)医
	学博士。1893(明治26)陸軍一等軍医正、陸軍軍医学校長。
	 1894. 8.(明治27)日清戦争勃発、十月出征。1895.10.(明治
	28)陸軍軍医監、台湾総督府陸軍軍医部長。1898(明治31)近衛
	師団軍医部長兼陸軍軍医学校長。
	 1899. 6.(明治32)小倉の第一二師団軍医部長(同僚小池正直
	の嫉妬による策略といわれる)。1902. 1.(明治35)判事荒木博
	臣(ヒロオミ)の娘志げと再婚。同年三月、第一師団軍医部長となり
	帰京。
	 1904(明治37)日露戦争が勃発し、一月に第二軍軍医部長とし
	て出征、1906. 1.(明治39)凱旋。1907.11.(明治40)陸軍軍医総
	監・陸軍省医務局長。
	 1909(明治42)文学博士。同年七月『ヰタ・セクスアリス』掲
	載の雑誌「スバル」が風俗壊乱で発売禁止になる。
	 1916. 4.(大正 5)陸軍を辞職。1917.12.(大正 6)帝室博物館
	総長兼図書頭(ズショノカミ)。1919(大正 8)帝国美術院院長。
	 作品は訳詩集『於母影』、『舞姫』など。
	◎「余(ヨ)ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言してい
	る。
	(5)七年東京医学校予科に入学……。
	 男爵海軍中将赤松則良(ノリヨシ)の娘登志子(翌年九月、長男森
	於菟<オト>誕生後間もなく離別)との結婚をみてもよくわかる。
	(13)男爵陸軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し……。
	◆鴎外忌[ 7.9]東京都三鷹市下連雀の禅林寺、森鴎外記念会主
	催。
もり おうそん
	森 鴎村(鴎:「區」+「鳥」)
	1831(天保 2)
	1907. 1.20(明治40)
	◇漢学者。名は保定、字は士与、通称は定助のち定吉。
もり おと
	森 於菟
	1890. 9.13(明治23)
	1967.12.21(昭和42)
	◇解剖学者・随筆家。森鴎外・登志子の長男、森茉莉(マリ)の兄。
	平野万里(バンリ)とは乳兄弟。
もり かいなん
	森 槐南
	1863(文久 3.11.16)
	1911. 3. 7(明治44)
	◇漢詩人。名は公泰(キミヤス)、字は大来(タイライ)、通称は泰二郎、
	別号は秋波禅侶(シュウハゼンリョ)・菊如澹人(キクジョタンジン)・説詩軒
	主人。名古屋生れ。森春濤(シュントウ)・森清子(キヨコ)の末子。
	 伊藤博文に愛でられ各所に随行、ハルピンで博文が狙撃され
	た際も銃創を負う。
	(2)通称泰治郎。「森清子」の項:一子泰次郎(槐南)を生む。
	(5)通称泰二郎。
	(10)通称泰二郎。
もり かく
	森 恪
	1882. 6.28(明治15)
	1932.12.11(昭和 7)
	◇大正・昭和期の実業家・政治家。恪は正式には「つとむ」通称
	は「かく」。森作太郎の長男。東京商工中学校卒業。
	 1901(明治34)三井物産上海支店の見習生、1905(明治38)正社
	員となり、1913(大正 2)中華興業会社を設立して、中国の政情
	分裂に乗じ利権と引き換えに革命資金を斡旋。のち天津支店長。
	 1918(大正 7)政友会に入り、多額の選挙資金を裏献金(満鉄
	事件)。1920(大正 9)三井物産を退社、衆議院議員に当選して
	政界に入る。
	 軍部と結び政友会を右傾化させて、対中国侵略政策の推進者
	となる。国際連盟脱退の中心に立つ。
もり ぎょうこう
	森 暁紅
	1882.11.25(明治15)
	1942. 4. 9(昭和17)
	◇編集者・演芸記者。本名は庄助。
もり きよこ
	森 清子
	1833(天保 4)
	1872(明治 5)
	◇江戸幕末・明治維新期の女流歌人。旧姓は国島。美濃国稲葉
	郡黒野村古市場生れ。森春濤(シュントウ)の妻、森槐南(カイナン)の母。
もり さるお
	森 猿男
	1861(文久元. 1.11)
	1923. 4.18(大正12)
	◇俳人。通称は廉次郎、旧姓は岩淵。
もり しげ
	森 志げ
	1880. 5. 3(明治13)
	1936. 4.18(昭和11)
	◇小説家。旧姓は荒木、号は秋芳女史。森鴎外の二度目の妻
	(志げも再婚)、森茉莉(マリ)・類(ルイ)の実母。
もり じゅんざぶろう
	森 潤三郎
	1879. 4.15(明治12)
	1944. 4. 6(昭和17)
	◇森鴎外(オウガイ)・三木竹二(タケジ)・小金井喜美子の末弟。
もり しゅんとう
	森 春涛(春濤)
	1819(文政 2. 4. 2)
	1889.11.21(明治22)
	◇漢詩人。名は魯直、通称は浩甫。森槐南(カイナン)の父。
もり せんぞう
	森 銑三
	1895. 9.11(明治28)
	1985. 3. 7(昭和60)
	◇近世学芸史研究家・随筆家。筆名は刈谷新三郎・閑々子。愛
	知県生れ。
	 文部省図書館講習所卒業。
	 作品は1943(昭和18)刊『月夜車』など。
もり つとむ
	森 恪
	⇒もり かく(森 恪)
もり まり
	森 茉莉
	1903. 1. 7(明治36)
	1987. 6. 6(昭和62)
	◇小説家・随筆家。東京千駄木町生れ。森鴎外・志げ(後妻)の
	長女。
	 1909. 4.(明治42)お茶の水女子高等師範付属尋常小学校入学。
	1913(大正 2)仏英和高等女学校小学部へ転校、1919. 3.(大正
	 8)卒業。
	 同年11月、前年より婚約中の仏文学者山田珠樹(タマキ)と結婚。
	1922. 3.(大正11)〜1923. 8.(大正12)夫ともに渡欧。2子を設
	けるが、1927(昭和 2)離婚。
	 のち東北帝国大学教授・医学博士佐藤彰と結婚し、仙台に住
	むがやがて離婚。
もり みちよ
	森 三千代
	1905. 4.19(明治38)
	1977. 6.29(昭和52)
	◇詩人・小説家。三重県生れ。東京女子高等師範学校中退。
	 1924(大正13)金子光晴(ミツハル)と結婚。
	(5)愛媛県生れ。
もり むこう
	森 無黄
	1864元治元. 3. 6)
	1942. 3.26(昭和17)
	◇俳人。本名は貞治郎、別号は六彩居・三溪。東京駒込生れ。
もり らんまる
	森 蘭丸
	1565(永禄 8)
	1582(天正10. 6. 2)
	◇安土桃山時代の武士。名は長定。森可成(ヨシナリ)の3男、力丸
	・坊丸の兄。美濃の人。
	 織田信長の小姓となり寵愛を受け、1582(天正10)美濃岩村に
	5万石、のち更に1万石を加増される。
	 1582(天正10. 6.)本能寺の変で織田信長を守り、弟力丸・坊
	丸らとともに戦死。
もり りつこ
	森 律子
	1890.10.30(明治23)
	1961. 7. 2(昭和36)
	◇大正・昭和期の女優。東京京橋生れ。弁護士の森肇の娘。
	 1908(明治41)貞奴が創設した帝国女優養成所の応募者の中か
	ら15人の合格者に選ばれる。当時女優の地位が低かったため前
	代議士で弁護士の令嬢のスキャンダラスな事件とされた。
	 同養成所が帝劇に合併され帝劇付属技芸学校の女優第一期生。
	1911(明治44)帝劇開場公演「頼朝」で初舞台。のち松竹に移るが
	主役にはなれなかった。
もりおか まさずみ
	森岡 昌純
	1833(天保 4)
	1898(明治31)
	◇明治時代の内務官僚・実業家。薩摩の人。
	 長崎県権大参事などを経て、1877(明治10)兵庫県令。
	 1885(明治18)郵便汽船三菱会社と三井系の共同運輸会社が合
	併、設立委員長を経て初代社長に就任。
	 1890(明治23)貴族院議員。
もりかわ きょりく《もりかは きよりく》
	森川 許六
	1656(明暦 2. 8.14)
	1715(正徳 5. 8.26)
	◇江戸中期の俳人・蕉門(ショウモン)の十哲の一人。本名は百仲(モモ
	ナカ)、通称は五介(ゴスケ)、字(アザナ)は羽官、別号は五老井(ゴロウ
	セイ)・風狂堂・無々居士(ムムコジ)・菊阿仏(キクアブツ)。「もりかわ 
	きょろく」とも呼ぶ。彦根藩士(三百石取り)。
	 はじめ北村季吟(キギン)や江佐尚白(エサ・ショウハク)・宝井其角(キカク)
	・服部嵐雪(ハットリ・ランザン)に学び、のち松尾芭蕉(バショウ)に師事。
	 芭蕉の没後、蕉門正統を自負して彦根正風を開く。
	 絵・文章・漢詩などにも優れる。
	 著書は『韻塞(インフタギ)』・『篇突(ヘンツキ)』・『宇陀法師』・
	『俳諧問答』・『本朝文選』・『五老井発句集』など。
もりかわ きょろく《もりかは きよろく》
	森川 許六
	⇒もりかわ きょりく(森川 許六)
もりかわ ちくけい
	森川 竹(「石」偏+「奚」)
	1869(明治 2)
	1917. 9. 7(大正 6)
	◇漢詩人。名は鍵、字は雲郷、通称は鍵蔵。
もりかわ とえん《もりかは とゑん》
	森川 杜園
	1820(文政 3. 6.26)
	1894. 7.15(明治27)
	◇江戸幕末・明治前期の彫刻家。名は友吉。奈良生れ。
	 初め絵を学び、のち彫刻に転じる。
	 奈良人形師松寿恒徳の刀風を参考に一刀彫を独習。
もりかわ よしのぶ
	森川 義信
	1918.10.11(大正 7)
	1942. 8.13(昭和17)
	◇詩人。ビルマ(ミャンマー)のミートキーナ山中で戦病死。
もりくま たけし
	森熊 猛
	調査中
	 2004. 9.17(平成16)
	◇漫画家。北海道生れ。妻は森熊ふじ子。
	 2003(平成15)日本漫画家協会賞特別賞、受賞。
	(*)享年95歳。
もりした うそん
	森下 雨村
	1890. 2.27(明治23)
	1965. 5.16(昭和40)
	◇小説家・翻訳家。本名は岩太郎、別号は佐川春風。高知県佐
	川町生れ。早稲田大学英文科卒業。
	(5)誕生日は 2.27。
	(10)誕生日は 2.23。
	(11)誕生日は 2.27。
	(13)誕生日は 2.27。
もりした ひろし
	森下 博
	1869(明治 2)
	1943(昭和18)
	◇明治〜昭和期の実業家。広島生れ。
	 1905(明治38)仁丹を発売。
	 1936(昭和11)森下仁丹株式会社を設立。
もりしま ちゅうりょう《もりしま ちゆうりやう》
	森島 中良
	1754(宝暦 4)
	1808(文化 5)
	◇江戸後期の蘭学者・戯作者・狂歌師。号は森羅亭万象(シンラ・バ
	ンショウ)・竹杖為軽(タケツエノスガル)など。
もりしま みちお《もりしま みちを》
	森嶋 通夫
	1923. 7.18(大正12)
	2004. 7.13(平成16)
	◇数理経済学者。
	 大阪大学名誉教授。
	 著書は1973(昭和48)経済学』など。
もりぞの てんるい
	森園 天涙
	1889. 7.10(明治22)
	1957. 1.30(昭和32)
	◇歌人。本名は豊吉。
もりた かんや
	森田 勘弥(十三世)
	1885.10.18(明治18)
	1932. 6.16(昭和 7)
	◇歌舞伎俳優。本名は森田好作、前名は坂東三田八。
もりた ぎろう
	森田 義郎
	1878. 4. 9(明治11)
	1940. 1. 8(昭和15)
	◇歌人。本名は義良(ギリョウ)。
もりた しけん
	森田 思軒
	1861(文久元. 7.21)
	1897.11.14(明治30)
	◇新聞記者・文学者・翻訳家。本名は文蔵、別号は紅芍園(コウシャ
	クエン)主人・埜客・羊角山人・白蓮庵(ビャクレンアン)主人。備中国小
	田原郡笠岡町生れ。娘下子は白石実三(シライシ・ジツゾウ)の妻。
	 慶応義塾・阪田警軒の興譲館に学ぶ。1883(明治16)矢野龍渓
	に招かれ「郵便報知新聞」の記者となる。
	 腸チフスで死去。
	 ユーゴーの『探偵ユーベル』、ベルヌの『十五少年』、ポー
	などを漢文調で訳述。
	(1)誕生日は 7.21、没日は11.14。
	(3)誕生日は 7.21、没日は11. 4。
	(5)誕生日は 7.20、没日は11.14。
	(10)誕生日は 7.21、没日は11.14。
	(11)誕生日は 7.20、没日は11.14。
	(13)誕生日は七月、没日は11.14。
もりた しんぎ
	森田 信義
	1897.12. 6(明治30)
	1951. 7.15(昭和26)
	◇劇作家・映画製作者。交通事故死。
もりた そうへい
	森田 草平
	1881. 3.19(明治14)
	1949.12.14(昭和24)
	◇小説家・翻訳家。本名は米松(ヨネマツ)、筆名は「ふた夜」・
	二十五絃。岐阜県稲葉(イナバ)郡鷺山(サギヤマ)村の地主森田亀松
	(カメマツ)の長男として生れる。
	 日本中学校を経て、1899(明治32)第四高等学校に入学するが、
	あとから追ってきた従姉の森田つねと同棲して退学させられる。
	翌年、第一高等学校に入学。1903(明治36)東京大学英文科に入
	学、1906(明治39)卒業。
	 与謝野晶子が開設した閨秀大学講座の講師となり、1908. 3.
	(明治41)教え子の平塚らいてうと塩原尾花峠に情死行をくわだ
	て追っ手にとらえられる。社会的に葬られるところを夏目漱石
	のはからいで救われる。
	(5)没日は12.14。
	(10)没日は12.14。
	(13)没日は12. 4。
もりた たま
	森田 たま
	1894.12.19(明治27)
	1970.10.31(昭和45)
	◇随筆家。旧姓は村岡。北海道札幌市生れ。札幌高等女学校卒
	業。
	(5)札幌高女中退、……。
もりた つねとも
	森田 恒友
	1881. 4. 9(明治14)
	1933. 4. 8(昭和 8)
	◇画家・随筆家。埼玉県大里郡生れ。東京美術学校卒業。
もりた もとお
	森田 素夫
	1911.10.24(明治44)
	1961.11.17(昭和36)
	◇小説家。
もりた もとこ
	森田 元子
	1903. 2.11(明治36)
	1969. 8.12(昭和44)
	◇画家。東京都生れ。岡田三郎助に師事。
もりた ゆうしゅう
	森田 有秋
	1882. 3. 5(明治15)
	1954. 1.28(昭和29)
	◇評論家。本名は文治、別号は鉄血生・白峰生。岡山県生れ、
	八歳で東京に移る。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。
もりた よしお
	森田 芳夫
	1910(明治43)
	1990(平成 2)
	◇朝鮮史研究者。
	 太平洋戦争の戦前は京城で日朝融和団体の「緑旗会」に勤務。
	 戦後も韓国に滞在し、在韓日本大使館の参事官・誠信女子大
	学の日本語教師。
もりちか うんぺい
	森近 運平
	1881. 1.20(明治14)
	1911. 1.24(明治44)
	◇明治時代の社会運動家。岡山の人。岡山県立農事講習所卒業。
	 岡山県の技手となるが、1904(明治37)週刊「平民新聞」の読者
	によって岡山市に「いろは倶楽部」をつくり、社会主義者として
	免職。
	 1906(明治39)日本社会党の結成に加わり、マルクス派社会主
	義者の雑誌「光」の編集者となる。1907. 6.(明治40)創刊の「大
	阪平民新聞」を主宰。
	 1910. 6.(明治43)大逆事件に連座したとして検挙され、大審
	院特別法廷の非公開裁判で死刑。
もりなが しんのう《もりなが しんわう》
	護良 親王
	1308
	1335(<南>建武 2,<北>建武 2. 7.23)
	◇南北朝時代の皇族武将。後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘
	親子。初め出家し尊雲法親王(ソンウンホウシンノウ)と称し、世に大塔宮
	(オオトウノミヤ,ダイトウノミヤ)という。
	 1325(正中 2)討幕のため有力神社との結び付きを図る後醍醐
	天皇の意を受けて、延暦寺梶井門主を継ぎ大塔に入室。1326年、
	梨本門跡・大僧都となる。1327(嘉暦 2)天台座主となり、関東
	(鎌倉幕府)調伏(チョウブク)の祈祷を盛んに行う。1329年、座主を
	辞す。
	 1331(元弘元)後醍醐天皇が笠置山(カサギヤマ)で挙兵し、元弘の
	変が起こると僧兵をひきいて六波羅探題の兵と戦い、のち楠木
	正成(マサシゲ)の河内国赤坂城に入る。1332(<南>元弘 2,<北>正
	慶元)討幕を計り還俗(ゲンゾク)し護良と改め吉野に挙兵。1333
	(<南>元弘 3,<北>正慶 2)幕軍の足利尊氏が反旗をひるがえし
	て六波羅探題を攻略、新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)が鎌倉の北条高時
	ら北条氏を滅ぼし、建武の中興が招来する。建武新政府では征
	夷大将軍・兵部卿に任ぜられたが、足利尊氏(タカウジ)と反目し
	常盤井殿に幽閉、1334年鎌倉に流され、尊氏の弟直義(タダヨシ)
	に預けられ二階堂千ヶ谷東光寺に幽閉。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2. 7.)北条高時の子時行(トキユキ)
	が鎌倉を攻めた際(中先代<ナカセンダイ>の乱)、直義が使わした淵
	辺義博(フチノベ・ヨシヒロ)に殺された。
	(2)後醍醐天皇の第1皇子。
	(16)後醍醐天皇の第3皇子。
	(*)1308(徳治 3,延慶元)、1326(正中 3,嘉暦元)、1329(嘉暦 4,
	元徳元)、1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正慶 3,<北>建武
	元)。
	 「もりよし」と読む説もある。
もりむら かつら
	森村 桂
	1940. 1. 3(昭和15)
	2004. 9.27(平成16)
	◇作家。本名は三宅桂。東京生れ。夫は三宅一郎。
	 学習院大学を卒業。
	 出版社「暮しの手帖社」に勤務。
	 退社後、1964(昭和39)ニューカレドニア島などを旅行。
	 1985(昭和60)長野県北佐久郡(キタサクグン)軽井沢町(カルイザワマチ)
	に手作り菓子店「アリスの丘」を開店。
	 作品は1966(昭和41)『天国にいちばん近い島』・『違ってい
	るかしら』・『結婚志願』など。
もりもと かおる
	森本 薫
	1912. 6. 4(明治45)
	1946.10. 6(昭和21)
	◇劇作家。大阪市生れ。
	 第三高等学校を経て、1937(昭和12)京都大学英文科卒業。結
	核により夭折。
もりもと こうきち
	森本 厚吉
	1877. 3.20(明治10)
	1950. 1.31(昭和25)
	◇評論家。旧姓は増山。
	(10)誕生日は 3. 2。
もりもと じきち
	森本 治吉
	1900. 1.10(明治33)
	1977. 1.12(昭和52)
	◇歌人・国文学者。
もりや きん
	森谷 均
	1897. 6. 2(明治30)
	1969. 3.29(昭和44)
	◇出版業者。1934(昭和 9)昭森社を創業。
もりや ただし
	守屋 多々志
	1912. 8.10(大正元)
	2003.12.22(平成15)
	◇日本画家。本名は守屋正(タダシ)。岐阜県大垣市出身。
	 東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科卒業。
	 1941(昭和16)院展に初入選。
	 高松塚古墳の壁画模写に従事。
	 2001(平成13)文化勲章、受章。
もりやま たきちろう
	森山 多吉郎
	1820(文政 3)
	1871(明治 4)
	◇幕末・明治維新期の通詞。名は憲直、初名は栄之助。長崎の
	代々の通詞。1848年に蝦夷の利尻島で捕えられ長崎に送られて
	来た米国捕鯨船員マクドナルドより英語を習う。1853(嘉永 6)
	ロシア使節プチャーチン一行が長崎へ来航した際、折衝に当る。
	1845年、米国使節ペリーとの折衝にも参加。維新後は新政府に
	仕えなかった。
	 門人に津田仙(ツダ・セン)・福地桜痴(フクチ・オウチ)らがいる。
	(*)1848(弘化 5,嘉永元)、1854(嘉永 7,安政元)。
もりやま ていせん
	森山 汀川
	1880. 9.30(明治13)
	1946. 9.17(昭和21)
	◇歌人。本名は藤一。
もりよし しんのう
	護良 親王
	⇒もりなが しんのう(護良 親王)
もるがん おゆき
	モルガン お雪
	1881(明治14)
	1963(昭和38)
	◇モルガン財閥夫人。本名は加藤ユキ。
	 京都祇園芸者のときにモルガン財閥の子息ジョージ・モルガ
	ンから求婚され新聞記事となり、婚約中の京都大学生川上俊作
	の家族から反対を受けたため、1904(明治37)子息と横浜で結婚
	し渡米。
	 パリに移り住み、社交界の花形となるが、10年ほどで夫と死
	別。愛人タンダール男爵とも死別し、帰国して郷里京都で余生
	を送る。
もろ きよはる
	毛呂 清春
	1877. 4.18(明治10)
	1966. 9. 5(昭和41)
	◇歌人。京都の神官の家に生れる。国学院大学卒業。
	 浅香社に入り、萩之舎門下の林信子(毛呂信子)と結婚。1903
	(明治36)丸岡桂らと『莫告藻』を創刊。
	 岩滝町の神社の神主となり、与謝野寛・晶子の歌碑を建立。
もろはし てつじ
	諸橋 轍次
	1883(明治16)
	1982(昭和57)
	◇昭和期の漢学者・中国哲学者。号は止軒。新潟県南蒲原下田
	村生れ。東京高等師範学校(東京教育大学の前身,現:筑波大学)
	卒業。
	 大修館社長鈴木一平の懇望により、1928(昭和 3)漢和辞典の
	編纂を開始し、1943. 9.(昭和18)第1回配本、戦争となり被災
	し中止。戦後再開し、1955.11.(昭和30)『大漢和辞典』(全13巻)
	第1巻を刊行、1960(昭和35)完結。
	 1965(昭和40)文化勲章を受章。
もんがく
	文覚
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期・鎌倉初期の僧侶(真言宗)。俗名は遠藤盛遠(モリトオ)。
もんかん《もんくわん》
	文観
	1278
	1357(<南>正平12,<北>延文 2)
	◇鎌倉末期・南北朝時代の真言宗立川流の僧侶。初めは弘真(コ
	ウシン)。小野僧正。
	 初め天台を、のち奈良で法相・三論を学び、京都伏見の真言
	宗醍醐寺で密教を修め、仁寛(ニンカン)の創始した立川流を大成。
	 金剛寺(現:大阪府河内長野市天野<アマノ>町)の僧となり、後醍
	醐天皇の帰信を得て、南朝興隆を画策。内供奉を務め、東寺長
	者となり大僧正に進む。弾劾を受けて失脚し、甲斐国(現:山梨
	県)に流される。のち後村上天皇の勅命で中央に復帰するが、
	南朝と運命をともにした。
	(*)1278(建治 4,弘安元)。
	◎弘法大師の承伝と称して印信・経文などを偽作したとされ、
	名僧とも妖僧とも言われる。
	◎大日如来の四隅にある普賢・文殊・観音・弥勒の四菩薩から
	自らを文観、妻を普弥と呼び、曼陀羅の絵図を敷いて夫婦で交
	合し、自分の漏らした精液を練り固めて玉を作り信者に分け与
	えたという。
もんま はるお
	門間 春雄
	1889. 2. 9(明治22)
	1919. 2.13(大正 8)
	◇歌人。福島県信夫郡瀬上町生れ。長塚節に傾倒する。
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