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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6630.02

                 人   名   辞   典    《みなも》   編集:獨  澄旻

-------- みなも ------------------------------------------------
みなもとのありひと
	源 有仁
	1103(康和 5)
	1147(久安 3)
	◇平安末期の歌人。法号は成覚。輔仁親王の第二皇子。
みなもとのいえなが《みなもとのいへなが》
	源 家長
	生年不詳
	没年不詳
	1234
	◇鎌倉初期の歌人。
	 『新古今集』勅撰に当たる。
	(*)1234(天福 2,文暦元)。
みなもとのきよまろ
	源 清麿
	1812(文化 9)
	1854(嘉永 7.11.14)
	◇江戸後期の刀鍛冶。本名は山浦環。信州小諸生れ。
	 上田の刀匠河村寿隆に鍛冶を学ぶ。1835(天保 6)江戸に出て、
	幕臣窪田清音に兵学を学びながら刀鍛冶に精進。その後、四谷
	北伊賀町(現:東京都新宿区三栄町の一部)に居を構え、名を源
	清麿と改める。新々刀の刀工の第一人者となり、四谷正宗と呼
	ばれる
	 42歳で死亡。
	◆墓は東京都新宿区須賀町の宗福寺。
みなもとのさねとも
	源 実朝
	1192(建久 3. 8. 9)
	1219(建保 7. 1.27)
	◇鎌倉幕府第三代将軍。幼名は千幡。源頼朝(ヨリトモ)の次男、母
	は平(北条)政子(マサコ)。1203(建仁 3)兄頼家の跡を継いで将軍
	となる。
	 1218(建保 6)右大臣に昇進。翌年、鶴岡八幡宮(ツルガオカハチマング
	ウ)で右大臣拝賀の儀を行った際、北条義時にそそのかされた甥
	の公暁(クギョウ)(頼家の子)に暗殺される。
	◆実朝忌[旧暦 1.27]。
	◆金槐忌(キンカイキ)[ 2.27](月遅れ)神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の寿福
	寺で法要。『金槐和歌集』より。
	◆実朝忌句会[三月]鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮。
みなもとのしげゆき
	源 重之
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。
みなもとのしたごう《みなもとのしたがふ》
	源 順
	 911(延喜11)
	 983(永観元)
	◇平安中期の歌人・漢学者。三十六歌仙の一人。挙(コゾル)の子。
	 生涯官位に恵まれなかった。
みなもとのたかあきら
	源 高明
	 914(延喜14)
	 982(天元 5)
	◇平安中期の公卿。西宮左大臣(ニシノミヤ・サダイジン)と称する。醍
	醐天皇の皇子、母は源唱の女周子。
みなもとのたかくに
	源 隆国
	1004
	1077
	◇平安後期の歌人・文学者。俊賢の子。
	(*)1004(長保 6,寛弘元)、1077(承保 4,承暦元)。
みなもとのためとも
	源 為朝
	1139(保延 5)
	1170(嘉応 2)
	◇平安後期の武将。別称は鎮西(チンゼイ)八郎為朝。源為義(タメヨシ)
	の8男、母は摂津国江口の遊女。源義朝(ヨシトモ)の弟。
	 13歳の時、父為義によって九州筑紫に追放され、鎮西八郎と
	称する。為朝の乱行が原因で父為義は1154年検非違使を解任さ
	せられる。
	 1156(保元元. 7.)保元の乱のとき、父為義とともに崇徳天皇
	・左大臣藤原頼長(ヨリナガ)の陣営に味方し、後白河天皇・関白
	藤原忠通(タダミチ)の陣営の兄義朝・平清盛(キヨモリ)らと戦い敗れ
	る。父為義は捕えられて斬られ、義朝は伊豆大島へ流罪となる。
	 島内を制圧し近隣の諸島を従えたが、朝廷から工藤茂光の討
	伐軍が派遣され、自殺。
	(2)没年は1170(異)77。1170(嘉応2)狩野茂光の追討をうけて
	自殺した。
	(6)没年は1177。1177年工藤茂光に攻められ自殺。
	(19)没年は1170。工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。
	(*)1154(仁平 4,久寿元)。
	◎幼少から剛勇をうたわれ、弓術に長けていた。
	◎滝沢馬琴(バキン)『椿説弓張月(チンセツユミハリヅキ)』などでは琉球
	に渡り、琉球建国の始祖となる。
みなもとのためよし
	源 為義
	1096
	1156
	◇平安末期の武将。通称は六条判官。義家の孫、義親(ヨシチカ)の
	長子、義朝・為朝・行家の父。
	 父義親謀反のため義家の四男義忠の養子となる。義忠の死に
	よって源氏の家督を継ぎ、1113年検非違使となり六条堀河に住
	む。子為朝の乱行によって1154年解任。
	 保元の乱で崇徳上皇方となり、子頼賢・為朝を率いて白河殿
	を守ったが、敗れて自首する。後白河天皇方についた義朝の嘆
	願にも許されず、京都船岡で斬られる。
	(*)1096(嘉保 3,永長元)、1113(天永 4,永久元)、1154(仁平 4,
	久寿元)、1156(久寿 3,保元元)。
みなもとのちかゆき
	源 親行
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉初期の歌学者。法名は覚因。光行の子。
みなもとのつねのぶ
	源 経信
	1016(長和 5)
	1097(永長 2.閏1. 6)
	◇平安後期の歌人・歌学者。桂大納言(カツラノダイカゴン)・帥(ソチ)
	大納言と呼ばれる。民部卿道方の子、源俊頼(トシヨリ)の父。
	 参議・大納言を経て、大宰権帥(ダザイノゴンノソチ)として任地の
	大宰府で死去。
	(2)没年は1097(承徳元)。
	(5)没年は1097(永長 2)。
	(11)没年は1097(承徳元)。
	(18)没年は1097(承徳1)。
	(*)承徳元は11.21より。
みなもとのつねもと
	源 経基
	生年不詳
	 961
	◇平安中期の武将。名は経基王のち六孫王(ロクソンノウ)。清和天皇
	の第6皇子貞純親王の長子、源満仲(ミツナカ)の父。
	 武蔵介として関東に下向したが、在地の豪族である足立郡司
	武蔵武芝と衝突して帰京。
	 平将門(マサカド)討伐を命じられ、その下向中に乱が終結。
	 ついで小野好古(ヨシフル)に従い藤原純友(スミトモ)の乱を鎮定。
	 瀬戸内海地方の受領(ズリョウ)を歴任し、のち鎮守府将軍とな
	る。
	  961年源朝臣の姓を賜って臣籍に降下し清和源氏の祖となる。
	(*) 961(天徳 5,応和元)。
みなもとのとおる《みなもとのとほる》
	源 融
	 822(弘仁13)
	 895(寛平 7)
	◇平安初期の公卿。嵯峨天皇の第12皇子、母は大原全子。
	◎宇治の別荘はのちに平等院となる。
みなもとのとしより
	源 俊頼
	1055(天喜 3)
	1129(大治 4.11.)
	◇平安後期の歌人・歌学者。法号は能貪(ノウタン)。源経信(ツネノブ)
	の三男、母は土佐守源貞亮の女。
	◎生没年は推定。
みなもとののりより
	源 範頼
	生年不詳
	1193(建久 4. 8.17)
	◇平安末期・鎌倉初期の武将。源義朝(ヨシトモ)の第6子、母は遠
	江国池田宿(イケダジュク)の遊女。母の故郷遠江国蒲御厨(カバノミクリ
	ヤ)で育ち、蒲冠者(カバノカジャ)・蒲殿と呼ばれる。源義平(ヨシヒラ)
	・頼朝(ヨリトモ)の異母弟、義経(ヨシツネ)の異母兄。
	 1180(治承 4)兄頼朝が伊豆で挙兵すると直ちに馳せ参じる。
	志田義広を下野に破り、弟義経と西上し、1184年近江に源(木
	曾)義仲(ヨシナカ)を討つ。翌年平家を壇ノ浦に滅亡させる。その
	まま九州に留まり、義経のように頼朝の猜疑(サイギ)を招くこと
	はなかった。
	 しかし、1193(建久 4. 5.28)富士の裾野の巻狩(マキガリ)で曾
	我(ソガ)兄弟が仇討(アダウチ)を行ない、鎌倉の政子(マサコ)のもと
	に頼朝討たれるという誤報が届いた。色を失った政子に範頼は
	私がついているから案ずるなと慰め、これを頼朝に自分の後釜
	(アトガマ)をねらうと疑われる。 8. 2伊豆の修善寺(シュゼンシ)に流
	され、 8.17頼朝に差し向けられた梶原景時(カゲトキ)に攻められ、
	館に火を放ち自刃。
	(*)1184(寿永 3,元暦元)。
みなもとのひろまさ
	源 博雅
	 918(延喜18)頃
	 980(天元 3)
	◇平安時代の雅楽家。博雅三位(ハクガノサンミ)とも呼ばれる。
みなもとのまこと
	源 信
	 810
	 868(貞観10)
	◇平安前期の廷臣。嵯峨天皇の皇子、母は広井氏。
	(*) 810(大同 5,弘仁元)。
みなもとのみちちか
	源 通親
	⇒つちみかど みちちか(土御門 通親)
みなもとのみちとも
	源 通具
	1171
	1227
	◇鎌倉初期の歌人。通親の子。
	(*)1171(嘉応 3,承安元)、1227(嘉禄 3,安貞元)。
みなもとのみつなか
	源 満仲
	 913(延喜13)
	 997(長徳 3)
	◇平安中期の武将。通称は多田満仲(タダノマンジュウ)。経基(ツネモト)
	の長子。
	 摂津国多田に居を構え、多田源氏と称する。
みなもとのみつゆき
	源 光行
	1163
	1244(寛元 2)
	◇鎌倉初期の学者。法名は寂因。親行の父。
	(*)1163(応保 3,長寛元)。
みなもとのもろふさ
	源 師房
	1005(寛弘 2)
	1077
	◇平安後期の公卿。村上天皇皇子具平親王の子、母は為平親王
	の女(ムスメ)。藤原頼通の猶子。
	(*)1077(承保 4,承暦元)。
みなもとのゆきいえ《みなもとのゆきいへ》
	源 行家
	生年不詳
	1186(文治 2)
	◇平安末期・鎌倉初期の武将。本名は義盛、熊野新宮に住み新
	宮十郎と称し、のち十郎蔵人。為義の10男。
	 平氏滅亡後、源義経と結んで頼朝追討を図ったが、和泉で殺
	された。
みなもとのよしいえ《みなもとのよしいへ》
	源 義家
	1039(長暦 3)
	1106(嘉承元. 7.)
	◇平安後期の武将。幼名は源太、通称は八幡太郎。頼義の長男。
	 前九年の役で父とともに陸奥の阿倍貞任を討ち、功労により
	従五位下出羽守に任ぜられ、1038(長暦 2)陸奥守兼鎮守府将軍
	となる。後三年の役を鎮定したが、朝廷はこれを私闘とみなし
	功賞を行わなかったため、義家は私財をもって将士をねぎらい、
	東国に源氏の基礎を築く。
	 諸国の百姓が競って田畑を寄進し、1091(寛治 5)朝廷はそれ
	を禁止するほどであった。
	(4)生年は1041(長久 2)、没年は1108。
	(6)生年は1039(長暦 3)、没年は1106。
	(*)1108(嘉承 3,天仁元)。
	◎『千載集』「吹く風をなこその関と思へども/道もせに散る
	山桜かな」
みなもとのよしつね
	源 義経
	1159(平治元)
	1189(文治 5.閏4.30)
	◇平安後期の武将。幼名は牛若丸(ウシワカマル)・遮那王(シャナオウ)、
	源九郎(ゲンクロウ)・九郎判官(クロウホウガン)ともと号する。京都生れ。
	源義朝(ヨシトモ)の九男、母は九条院雑仕(ゾウシ)常盤(トキワ)御前。
	本妻は河越重頼(カワゴエ・シゲヨリ)の娘。
	 平治の乱で父義朝を失い、母常盤とともに捕われたが、母が
	平清盛(キヨモリ)の妾になり、出家を条件に死を免ぜられ鞍馬寺に
	送られ、遮那王と改名。のち京都を逃れ奥州平泉(ヒライズミ)の藤
	原秀衡(ヒデヒラ)の許に身を寄せる。
	 1180(治承 4. 8.)異母兄源頼朝(ヨリトモ)の挙兵を聞いてはせ参
	じ、10月駿河国黄瀬川宿(キセガワジュク)で対面する。1183(寿永 2)
	末、異母兄源範頼(ノリヨリ)とともに源(木曾)義仲(ヨシナカ)追討の代
	官となる。1184(寿永 3. 1.)義仲を破り入洛、さらに平氏追討
	を命ぜられ、2月摂津国一ノ谷鵯越(ヒヨドリゴエ)の奇襲により平
	敦盛(アツモリ)・知章らを討つ。
	 凱旋して京都にとどまり守護の任にあたる。この間に後白河
	法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉(判官)
	に任官したことから、頼朝の怒りを買い平氏追討の任を解かれ
	る。
	 しかし西海道に出撃した範頼軍が苦戦を重ねたため、1185
	(元暦 2. 1.)再び平氏追討使に起用されると、2月阿波に渡り
	陸路讃岐屋島(ヤシマ)を奇襲して平氏を破る。つづいて 3.24長門
	国壇ノ浦の海戦で平氏を全滅させる。しかし安徳天皇は入水し
	神器も失い、また義経の独断専行から軍監梶原景時ら鎌倉御家
	人と対立したため、頼朝の不興をかって鎌倉入りを許されなかっ
	た。
	 やむなく京都に戻ると10.17頼朝派遣の刺客土佐坊昌俊(トサボ
	ウ・ショウシュン)の襲撃を受ける(堀河夜討)。そこで頼朝と対立して
	いた叔父源行家(ユキイエ)と結び後白河から頼朝追討の院宣(インゼン)
	を得る。頼朝はこれを聞いて直ちに兵を送ったため、義経は畿
	内を転々とし再び秀衡を頼り奥州に行く。
	 1187(文治 3.12.)秀衡が没し、1189(文治 5.閏4.)頼朝の圧
	力に屈したその子泰衡(ヤスヒラ)によって依川の館(コロモガワノタテ)を
	襲撃され自刃。義経の首は黒漆塗りのの首桶に酒漬けにされて、
	 6.13鎌倉の腰越(コシゴエ)に送られ、和田義盛(ヨシモリ)と梶原景時
	(カゲトキ)が首実検したという。
	◎再び秀衡を頼り奥州平泉に落ち延びて行く途中、山伏に変装
	した義経の主従一行が加賀国安宅(アタカ)の関を越えるとき、疑
	われて弁慶がニセの勧進帳(カンジンチョウ)を読み上げ義経を杖で打
	ち据え、関守の富樫介(トガシノスケ)が情けをもって見逃す逸話が
	歌舞伎にある。
	 義経が大陸に渡りジンギスカンとなったとする説は、1924
	(大正13)小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』などによる。
みなもとのよしとも
	源 義朝
	1123(保安 4)
	1160
	◇平安末期の武将。為義(タメヨシ)の長子。
	(*)1160(平治 2,永暦元)。
みなもとのよしなか
	源 義仲
	1154
	1184
	◇平安末期の武将。幼名は駒王丸、通称は木曾次郎義仲。義賢
	の次子、為義(タメヨシ)の孫。
	 1155(久寿 2)2歳のとき父が甥の源義平(ヨシヒラ)に討たれた時、
	畠山重能に助けられ、木曾山中で乳母の夫中原兼遠に育てられ
	る。
	 1180(治承 4. 9.)以仁王(モチヒトオウ)の平氏追討の令旨を奉じて
	挙兵。市原で小笠原頼直を破って北陸道を進み、加越国境の倶
	利加羅峠で平通盛らを破り、1183(寿永 2. 5.)平維盛(コレモリ)を
	礪波山(トナミヤマ)に夜襲し、平氏を西海に走らせて京都に入る。
	 やがて後白河法皇と反目し、1184年、義仲は征夷大将軍に任
	ぜられ朝日将軍と称したが、その直後に法皇の命を受けた源範
	頼(ノリヨリ)・義経(ヨシツネ)の軍と戦って敗れ、近江粟津原で戦死。
	(*)1154(仁平 4,久寿元)、1184(寿永 3,元暦元)。
みなもとのよしひら
	源 義平
	1141
	1160
	◇平安末期の武将。義朝の長子。
	(*)1141(保延 7,永治元)、1160(平治 2,永暦元)。
みなもとのよしみつ
	源 義光
	1045(寛徳 2)
	1127(大治 2.10.20)
	◇平安後期の武将。通称は新羅(ニイラ)三郎(新羅明神の前で元服
	したため)。頼義の第三子、義家の弟。
	 後三年の役のとき朝廷の許しを得られぬまま陸奥に下ったた
	め左兵衛尉(ジョウ)を解官されたが、兄義家を助けて武功をあげ
	る。のち常陸介・甲斐守を経て刑部小輔。
	 笙(ショウ)に長じ、陸奥に下る途中、足柄山で豊原時秋に秘曲
	を授けたという伝説がある。義光は豊原時元の一番弟子で、と
	きすでに時秋の父時元は亡くなっている。
みなもとのよりいえ《みなもとのよりいへ》
	源 頼家
	1182
	1204
	◇鎌倉幕府二代将軍。頼朝の長子、母は北条政子。
	(*)1182(養和 2,寿永元)、1204(建仁 4,元久元)。
みなもとのよりとも
	源 頼朝
	1147(久安 3)
	1199(建久10. 1.13)
	◇鎌倉幕府の初代将軍。幼名は鬼武丸・鬼武者・幡屋(ハタヤ)武
	者王。源義朝(ヨシトモ)の三男、母は熱田大宮司藤原季範の娘。
	 1158(保元 3)皇后宮権少進。1159(平治元.12.)平治の乱が起
	こり、翌年 1. 4父義朝が殺される。同年2月頼朝は伊豆蛭ヶ
	小島に流され、伊東祐親・北条時政らの監視下におかれる。祐
	親の娘八重姫との間に千鶴丸をなすが、祐親に仲を裂かれ千鶴
	丸も殺される。やがて時政の娘政子と結婚。
	 1180(治承 4. 8.)以仁王(モチヒトオウ)の令旨(リョウジ)を奉じて平
	氏追討の兵を挙げ、石橋山(小田原市片浦)で大庭景親(オオバ・カゲ
	チカ)に敗れて海路安房に逃れる。ここで平広常・千葉常胤らの
	来援を得て、相摸に入り鎌倉を本拠に、同年10月富士川の戦に
	大勝、常陸の佐竹氏を討つなど東国を平定する。
	 1183(寿永 2. 7.)平氏に替り木曾(源)義仲(ヨシナカ)が入京。
	1184(寿永 3. 1.)弟範頼(ノリヨリ)・義経(ヨシツネ)に義仲を討伐させ、
	続いて2月摂津一ノ谷で平氏を破らせる。1185(元暦 2. 3.24)
	壇ノ浦の戦で平氏を滅亡させる。
	 この間、後白河法皇は頼朝との対抗から義経を優遇し、1185
	(文治元.10.)義経の要請に応じ頼朝追討の宣旨(センジ)を発する。
	頼朝はこの責任を追及、義父時政を上洛させ義経追捕を名目に
	守護・地頭の設置を公認させて、幕府開設の基礎をつくる。
	 1189(文治 5)義経を匿(カクマ)った奥州藤原氏を滅ぼす。
	 1190(建久元.11.)上洛し法皇に謁見、権大納言・近衛大将に
	任じられる。法皇の死後、1192(建久 3. 7.)征夷大将軍になる。
	 頼朝は武士の統率や朝廷との折衝など卓越した政治力の半面、
	独裁的傾向があり、範頼・義経ら一族や多数の功臣を殺したた
	め、死後に幕府内部の抗争となり、やがて権勢は北条氏に移る。
	◎墓所は鎌倉の鶴岡八幡宮。
みなもとのよりのぶ
	源 頼信
	 968
	1048(永承 3. 4.17)
	◇平安中期の武将。満仲の子、頼光の弟。各国の守を歴任、鎮
	守府将軍となる。兵法にすぐれ、武勇をもって知られる。
	 平忠常の乱を平定して美濃守となる。
	(*) 968(康保 5,安和元)。
みなもとのよりまさ
	源 頼政
	1104
	1180(治承 4)
	◇平安後期の武将・歌人。通称は源三位(ゲンザンミ)入道。仲政
	の子。
	 保元の乱では後白河天皇方、平治の乱では平清盛方。1178
	(治承 2)従三位。
	 1180(治承 4)以仁王(モチヒトオウ)を奉じて平氏追討を図り、宇治
	川で敗れ、平等院で自刃。
	◎宮中で鵺(ヌエ)を退治した逸話がある。
	(*)1104(康和 6,長治元)。
みなもとのよりみつ
	源 頼光
	 948(天暦 2)
	1021(治安元. 7.19)
	◇平安中期の武将。満仲の子、頼信の兄。諸国の国司を歴任、
	武勇にすぐれ、藤原摂関家に臣事して勢力を伸張する。
	◎大江山酒顛童子(シュテンドウジ)退治話や土蜘蛛伝説の主人公と
	なった。
	◎頼光の四天王は渡辺綱・坂田公時・碓井貞光・卜部季武。
みなもとのよりよし
	源 頼義
	 988(永延 2)
	1075(承保 2. 7.18)
	◇平安中期の武将。頼信の長男、義家の父。
	 父とともに平忠常を討ち、相摸守となる。1051(永承 6)陸奥
	守、1053年鎮守府将軍に任ぜられる。前九年の役で、出羽の豪
	族清原氏の援助を受けて、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(サダトウ)
	父子を討ち、伊予守となり、東国源氏の勢力を強化した。晩年
	剃髪し伊予入道という。
	(*)1053(永承 8,天喜元)
みなよし そうう
	皆吉 爽雨
	1902. 2. 7(明治35)
	1983. 6.29(昭和58)
	◇俳人。本名は大太郎。福井県丸岡町生れ。
	 1919(大正 8)福井中学校卒業後、大阪の住友電気工業に入社。
みぬま ふゆお
	見沼 冬男
	1900. 5.22(明治33)
	1971. 1.22(昭和46)
	◇歌人・民俗学者。本名は西角井正慶(ニシツノイ・マサヨシ)。埼玉県大
	宮市生れ。
	 国学院大学国文科卒業。同大教授、院長。
みね せいらん
	峰 青嵐
	1858(安政 5. 3. 4)
	1931. 7.18(昭和 6)
	◇俳人。本名は是三郎。肥前唐津生れ。東京師範学校中学師範
	科卒業。父は米圃、祖父は帯月。
	 広島・岐阜・大分県の各師範学校長・学習院教授・愛媛県視学
	・小倉市視学を歴任、1925(大正14)退官。
みね せんじ
	峰 専治
	1899. 3.16(明治32)
	1955. 9.13(昭和30)
	◇小説家・僧侶。法名は覚応。滋賀県長浜生れ。
みねぎし こうさく
	峰岸 幸作
	1889. 2.25(明治22)
	1919. 8.20(大正 8)
	◇小説家。群馬県生れ。
	 1913(大正 2)早稲田大学英文科卒業。
みねだ ひろし
	嶺田 弘
	1900. 2. 1(明治33)
	1965. 9.28(昭和40)
	◇挿絵画家。東京生れ。
	 白馬会葵橋洋画研究所で黒田清輝に師事、卒業。
みねむら くにいち
	峯村 国一
	1888.12.12(明治21)
	1977. 4.28(昭和52)
	◇歌人。号は白影。長野県小県郡富士山村生れ。同県上田中学
	校卒業。銀行重役を勤め、終戦後に農業に入る。晩年、同県東
	塩田村村長。
みの こんとん
	三野 混沌
	1894. 3.20(明治27)
	1970. 4.10(昭和45)
	◇詩人。本名は吉野義也。福島県石城郡平窪村曲田生れ。父徳
	治・母「たま」の三男。吉野せいの夫。
	 1913(大正 2)磐城中学校卒業。1918(大正 7)上京して早稲田
	大学英文科に入るが中退。
みのうら かつんど
	箕浦 勝人
	1854
	1929(昭和 4)
	◇新聞記者・改進党系の民権活動家。臼杵出身。
	 「郵便報知新聞」の新聞記者。
	(*)1854(嘉永 7,安政元)。
みのべ たつきち
	美濃部 達吉
	1873. 5. 7(明治 6)
	1948. 5.23(昭和23)
	◇明治〜大正期の憲法学者。美濃部亮吉(リョウキチ)の父。兵庫県
	高砂町の医家に生れる。東京大学卒業。
	 1897(明治30)ヨーロッパ留学。1902(明治35)東京大学教授、
	比較法制史のち憲法・行政法を講義。一木喜徳郎(イチキ・キトクロウ)
	の「天皇機関説」を継承発展させる。1912年、天皇神権論に立つ
	憲法を説く上杉慎吉・穂積八束(ホヅミ・ヤツカ)らと論争。1932(昭
	和 7)定年退職、名誉教授となり、貴族院議員に勅選。1934(昭
	和 9)右翼・軍部の国体明徴運動により不敬罪として告発され、
	1935. 4. 9(昭和10)著書『逐条憲法精義』・『憲法撮要』・
	『日本憲法の基本主義』・『日本国憲法原論』などが発禁とな
	り貴族院議員を辞任。
	 戦後、1946(昭和21)枢密顧問官となり、幣原喜重郎内閣の憲
	法改正に参画。
	(*)1912(明治45,大正元)。
	(2)1899(明治32)東大教授。
	(6)1902〜32年東大教授。
	(15)1902(明治35)東大教授となり…….
	(16)1902年東大教授となり…….
みのべ りょうきち
	美濃部 亮吉
	1904(明治37)
	1984(昭和59)
	◇昭和期の経済学者・政治家。美濃部達吉(タツキチ)の長男。東京
	生れ。
	 1927(昭和 2)東京大学卒業後、助手・講師・ドイツ留学を経
	て、1932(昭和 7)法政大学教授、1938(昭和13)人民戦線事件で
	労農派教授グループとして治安維持法違反容疑で検挙され辞任、
	1944(昭和19)無罪となる。
	 戦後、統計委員会事務局長・1952(昭和27)行政管理庁統計基
	準局長を経て、1959(昭和34)東京教育大学教授。
	 1967(昭和42)社会党・共産党・革新団体などの支援を得て東
	京都知事に当選、1979(昭和54)まで3期12年在任。
	 1980(昭和55)参議院議員に当選、在任中に死去。
	(2)戦後'50から東京教育大教授。その間'52行政管理庁統計管
	理部長をつとめた。
	(15)太平洋戦争終結後は統計委員会事務局長・行政管理庁統計
	基準局長などを歴任し,59年東京教育大学教授となった.
みのむら りざえもん
	三野村 利左衛門
	1821.12. 4(文政 4.11.10)
	1877. 2.21(明治10)
	◇江戸幕末・明治維新期の実業家。
	 庄内(鶴岡)藩関口松三郎(木村利右衛門)の次男で、父が出奔
	し浪人となり放浪の中、信濃(長野県)で生れる。
	 江戸に出て神田の油屋紀国屋の手代となる。たまたま幕臣小
	栗忠順(タダマサ)に認められ、三井の御用金の減免交渉にあたる。
	1866(慶応 2.11.)三井御用所の御用所限通勤支配格として使用
	人となる。小栗の斡旋で三井家の番頭三野村家を相続する。
	 戊辰戦争の際、三井家を朝廷側に付かせ官軍に巨額を投じさ
	せる。為替方頭取・東京通商司貿易商社総頭取・第一国立銀行
	発起人などを歴任。1872(明治 5. 5.)新貨条例が制定されると
	地金銀の回収と新旧貨幣交換の用務を政府から単独で受けるな
	ど、井上馨(大蔵少輔)・渋沢栄一(権大丞)らと緊密に結び政商
	三井へ転換させ、三井財閥の基礎を固めた。
	 1876(明治 9)三井為替組を三井銀行に改組し、頭取となる。
みのむら りすけ
	三野村 利助
	1843. 8.12(天保14. 7.17)
	1901. 1. 3(明治34)
	◇明治時代の実業家。京都の商家大文字屋の子。
	 三井南家に奉公し、三野村利左衛門に認められて養子となる。
みはし たつや
	三橋 達也
	1923.11. 2(大正12)
	2004. 5.15(平成16)
	◇俳優。妻は女優安西郷子。
みふね きゅうぞう《みふね きうざう》
	三船 久蔵
	1884(明治17)
	1965(昭和40)
	◇柔道家。岩手県出身。
	 慶応義塾大学中退。
	 1903(明治36)講道館に入門。
	 1923(大正12)七段で指南役となる。
	 1945(昭和20)最高位十段。
	 1961(昭和36)文化功労者、受章。
	◎最盛期でも身長159センチ・体重63キロと小柄であった。
	(6)生年は1883。
みふね ちずこ
	御船 千鶴子
	1886(明治19)
	1911(明治44)
	◇明治期の超能力者。熊本県生れ。
	 服毒自殺。
みふね としろう《みふね としらう》
	三船 敏郎
	1920(大正 9)
	1997.12.24(平成 9)
	◇映画俳優。中国青島(チンタオ)生れ。
	 1946(昭和21)東宝第一期ニューフェイスに合格し入社。
	 1947(昭和22)谷口千吉監督の映画『銀嶺の果て』に初出演。
	 1962(昭和37)三船プロを設立。
	 1968(昭和43)熊井啓監督『黒部の太陽』をプロデュース。
	 出演映画は1948(昭和23)『酔いどれ天使』(ギャング役)・
	1950(昭和25)『羅生門』・1954(昭和29)『七人の侍』(菊千代
	役)・1954(昭和29)『宮本武蔵』・1958(昭和33)『隠し砦の三
	悪人』・1958(昭和33)『無法松の一生』・1961(昭和36)『用心
	棒』・1965(昭和40)『赤ひげ』・1989(平成元)『千利休 本覚
	坊遺文』・1995(平成 7)『深い河』など。
みふね ひろし
	三船 浩
	1929. 9.28(昭和 4)
	2005. 7. 8(平成17)
	◇歌手。本名は森田肖三。新潟県高田市出身。
	 高田商業高校、卒業。
	 1956(昭和31)『男のブルース』で歌手デビュー。
	 1991〜1995(平成 3〜平成 7)日本歌手協会理事長。
みぶのただみね
	壬生 忠岑
	 860(貞観初)頃
	 920(延喜末)頃
	◇平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。
	 紀貫之(キノツラユキ)・凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)と並称される。
	(2)生没年不詳。
	(5)貞観初頃−延喜末頃(八六○頃−九二○頃)。
	(18)生没年は未詳だが,930年(延長 8)ころまで生存。
みますや こかつ
	三升屋 小勝(5世)
	1858(安政 5)
	1939(昭和14)
	◇落語家。
みみの うさぶろう
	耳野 卯三郎
	1891.11.12(明治24)
	1974. 3.15(昭和49)
	◇画家。本名は三郎。大阪府生れ。
	 1916(大正 5)東京美術学校西洋画科卒業。1967(昭和42)芸術
	院会員。
みむら かねつね
	三村 包常
	1667(寛文 7)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、台所役・酒奉行、禄
	高七石二人扶持。通称は次郎左衛門(ジロウザエモン)、戒名は刃珊
	瑚剣信士、吉良家の探索中の変名は町人喜兵衛(キヘエ)。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の
	江戸中屋敷に預けられ、翌年切腹。
みむら じろうざえもん
	三村 次郎左衛門
	⇒みむら かねつね(三村 包常)
みむら しんたろう
	三村 伸太郎
	1897.10. 1(明治30)
	1970. 4.29(昭和45)
	◇シナリオ作家。本姓は岩井。岡山生れ。明治大学中退。
	 1927(昭和 2)松竹下加茂撮影所に入る。
みや しゅうじ
	宮 柊二
	1912. 8.23(大正元)
	1986.12.11(昭和61)
	◇歌人。本名は肇(ハジメ)。新潟県堀之内町生れ。長岡中学校卒
	業。
	 1939. 6.(昭和14)日鉄富士製鉄所に入社。同年、8月応召。
みやうち かんや
	宮内 寒弥
	1912. 2.28(明治45)
	1983. 3. 5(昭和58)
	◇小説家。本名は池上子郎(シロウ)。神奈川県生れ。
	 父は中学校教師で、その任地樺太(現:サハリン)で少年時代
	を過ごし、大泊中学校卒業。1935(昭和10)早稲田大学英文科卒
	業。
みやがわ ちょうしゅん《みやがわ ちょうしゅん》
	宮川 長春
	1682(天和 2)
	1752(宝暦 2.11.13)
	◇江戸中期の肉筆浮世絵師・宮川派の祖。名は喜平次、通称は
	長左衛門、号は春旭堂。尾張(現:愛知県)宮川村出身と伝える。
	 江戸に移り、初め土佐派の古法を学び、のち菱川師宣・懐月
	堂安度に傾倒。
	 1751年、日光東照宮修繕の時、下請けの支配に行き違いが生
	じ、狩野春賀と報酬のことで争い流罪に処せられる。2年後に
	許されて江戸に帰るが間もなく没する。
	 柔軟な描線と美しい彩色で肉筆美人画を描く。版画は残して
	いない。
	 代表作は『風俗図巻』(東京国立博物館所蔵)・『演劇図巻』
	など。
	(*)1751(寛延 4,宝暦元)。
	◎弟子宮川春水の門から勝川春章(シュンショウ)が出るなど、その流
	れは勝川派・葛飾派に及ぶ。
みやがわ まんぎょ《みやがは まんぎよ》
	宮川 曼魚
	1886. 3.27(明治19)
	1957.11.16(昭和32)
	◇随筆家・邦楽研究家。本名は渡辺兼次郎。東京日本橋の鰻屋
	(ウナギヤ)「喜代川」に生れ、深川門前町の同業「宮川」を継いだ。
	(5)誕生日は 3.27。
	(10)誕生日は 3.24。
	(11)誕生日は 3.27。
みやぎ かずえ
	宮城 数江
	1912(明治45)
	2005.11.21(平成17)
	◇筝曲家・四代目宮城宗家。素砂(現:韓国)生れ。
	 1921(大正10)上京し宮城道雄に入門。
	 1956(昭和31)宮城家の養女。
みやぎ きよこ
	宮城 喜代子
	1905(明治38)
	1991. 2.(平成 3)
	◇筝曲家・三代目宮城宗家。滋賀県大津生れ。
	 1918(大正 7上京し)宮城道雄に入門。
	 1971(昭和46)東京芸術大学教授。
みやぎ けんいち
	宮城 謙一
	1909. 6.19(明治42)
	1967. 2. 9(昭和42)
	◇歌人。東京生れ。早稲田大学文学部大学院卒業。明治大学教
	授。
みやぎ けんじ《みやぎ けんぢ》
	宮城 けんじ
	1924. 8.20(大正13)
	2005.10.19(平成17)
	◇漫才師(つっこみ役)。本名は寺島文雄(テラシマ・フミオ)。
	 歌手春日八郎の専属司会。
	 1961(昭和36)漫才コンビの東(アズマ)けんじ(ぼけ役)と「Wけ
	んじ」を結成。
	 肺ガンで死去。
みやぎ みちお《みやぎ みちを》
	宮城 道雄
	1894. 4. 7(明治27)
	1956. 6.25(昭和31)
	◇筝曲演奏家・作曲家・随筆家。旧姓は菅(スガ)。神戸市三宮
	の居留地に生れる。妻は宮城貞子。
	 宮城仲子との養子縁組により改姓。
	 1902(明治35)失明の宣告を受ける。
	 二代目中島検校(ケンギョウ)に師事し、1905(明治38)免許皆伝。
	 1907(明治40)家庭の事情で朝鮮の仁川に渡る。
	 1917(大正 6)上京。
	 1918. 5.(大正 7)貞子と結婚。
	 1930(昭和 5)東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)講師。
	 1937(昭和12)東京音楽学校教授。
	 1948(昭和23)日本芸術院会員。
	 東海道線刈谷駅付近で転落死。
	(5)七歳で失明。
	(10)数え年九歳で失明。
	(11)七歳で失明。
みやぐち せいじ
	宮口 精二
	1913.11.15(大正 2)
	1985. 4.12(昭和60)
	◇俳優。本名は宮口精次(セイジ)。東京市本所区緑町生れ。父は
	大工で周市・母は「もと」の二男。
	 関東大震災で母・祖父・祖母・弟と死別。
	 1933. 9.(昭和 8)築地座の研究生となる。
	 1937. 9.(昭和12)文学座の結成に杉村春子らと共に参加。
	 1954(昭和29)黒澤明監督『七人の侍』の久蔵役で毎日映画コ
	ンクール男優助演賞受賞。
	 1965(昭和40)文学座を退団。
	 1983.11.(昭和58)紫綬褒章、受章。
	 肺ガンで死去。
みやけ いくさぶろう《みやけ いくさぶらう》
	三宅 幾三郎
	1897.10.15(明治30)
	1941. 5. 1(昭和16)
	◇小説家・英文学者。兵庫県生れ。東京大学英文科卒業。
	 高知高等学校・文化学院教授。
みやけ かつみ
	三宅 克己
	⇒みやけ こっき(三宅 克己)
みやけ かほ《みやけ くわほ》
	三宅 花圃
	1868(明治元.12.23)
	1943. 7.18(昭和18)
	◇明治時代の歌人・小説家・随筆家。本名は竜子(龍子)、たつ
	子とも書き、号は「ひさご女史」、仮名は夢借舎丁々子(ムシャクシャチョ
	ウチョウシ)、旧姓は田辺(田邊)。元老院議官田辺蓮舟(レンシュウ)(太一)
	の長女、三宅雪嶺(セツレイ)の妻。東京本所生れ。
	 跡見女学校・東京高等女学校(お茶の水女子大)卒業。
	 中島歌子の萩の舎塾で和歌を学び、樋口一葉の先輩。
	 1888(明治21)坪内逍遥(ショウヨウ)の推薦を得て、開化期の女学
	生の生活を描いた処女作『薮の鴬(藪の鶯)』を出版、出世作と
	なる。
	 1892.11(明治25)三宅雪嶺と結婚。
	 1893. 1.(明治26)「文学界」の創刊に樋口一葉を推薦して活躍
	の場を与えた。
	 他の作品は『露のよすが』・短編『萩桔梗』・短編集『みだ
	れ咲』・歌文集『花の趣味』・随筆集『その日その日』など。
	(1)本名は竜子。
	(2)本名はたつ子。
	(3)本名は田辺竜子(タツコ)。
	(5)本名は龍子(タツコ)。誕生日は1868(明治元.12.23)。
	(10)本名は龍子(タツコ)。誕生日は1868(明治元.12.23)。
	(11)本名は竜(タツ)子。
	(13)本名田辺竜(タツ)子。明治元年一○月蓮舟田辺太一の娘とし
	て東京に生まれた。
みやけ かんらん《みやけ くわんらん》
	三宅 観瀾
	1674(延宝 2)
	1718(享保 3. 8.26)
	◇江戸中期の儒学者(朱子学)。名は緝明(ツグアキ,シュウメイ)、字は
	用晦(ヨウカイ)、通称は九十郎、号は観瀾・端山。京都の人、一説
	に美濃の人。三宅石庵(セキアン)の弟。
	 初め浅見絅斎(ケイサイ)、のち江戸に出て木下順庵に学ぶ。
	 史学に長じ、1699(元禄12)徳川光圀(ミツクニ)に招聘され水戸藩
	に仕えて彰考館に入り『大日本史』の編纂に携わり、1710(宝
	永 7)彰考館総裁となる。翌年新井白石に推されて幕府の儒官
	に登用、朝鮮使節接待役を務める。
	 著書は『中興鑑言(チュウコウカンゲン)』・『観瀾文集』(9巻)・
	『観瀾談余』(2巻)・『観瀾年録』・『萍水集』など。
	◎木門十哲の一人。
	◎『大日本史』に楠木正成・新田義貞・名和長年らの諸伝を取
	り入れた。
みやけ きさい
	三宅 寄斎
	1580(天正 8)
	1649(慶安 2. 6.18)
	◇江戸初期の儒学者(朱子学)。名は島、字は亡羊、号・通称は
	寄斎。和泉堺の人。児島高徳の子孫、父は豊臣秀吉に仕えた堺
	の五奉行の一人という。
	 11歳で父を失い、19歳で伏見・京都に出て、大徳寺に寄寓し
	独学で名をあげる。
	 石田三成に招かれるが応じなかった。
	 後陽成天皇・後水尾天皇の寵遇を受け、書を講じる。
	 著書は『寄斎文集』。
みやけ こっき《みやけ こくき》
	三宅 克己
	1874. 1. 8(明治 7)
	1954. 6.30(昭和29)
	◇洋画家。徳島生れ。
	 曾山幸彦・原田直次郎に師事。
	 1897(明治30)渡米してイェール大学付属美術学校に学び、翌
	年欧米各地を写生旅行して帰国。
	 1906(明治39)大下藤次郎と日本水彩画研究所を設立、水彩画
	を普及。
	 官展の審査員をしばしば務める。1912. 6.(明治45)光風会を
	設立。
	 作品は『ニューヘヴンの雪』など。著書は『水彩画の手引』
	・『水彩画指南』など。
みやけ しゅうたろう《みやけ しうたらう》
	三宅 周太郎
	1892. 7.22(明治25)
	1967. 2.14(昭和42)
	◇演劇評論家。兵庫県加古川町生れ。
	 京都同志舎普通部を経て、慶応義塾大学文科に入学。在学中
	から劇評を書き、1918(大正 7)卒業。
	 1942(昭和17)毎日新聞入社。穏健・公平な批評態度で知られ
	た。
	 著書は『文楽の研究』・『演劇巡礼』・『観劇半世紀』など。
	(1)生年は1892(明治25)。
	(3)生年は1882(明治25):誤。
	(5)生年は1892(明治25)。
	(10)生年は1892(明治25)。
	(11)生年は1892(明治25)。
	(13)生年は1892(明治25)。
みやけ しょうさい《みやけ しやうさい》
	三宅 尚斎
	1662(寛文 2. 1. 4)
	1741(元文 6. 1.29)
	◇江戸中期の儒学者(朱子学)。名は重固、字は実操、通称は
	儀左衛門・丹治、号は尚斎。播磨明石の人。
	 幼くして父を失う。京都に出て医学を学び、19歳の時に山崎
	闇斎の門に入る。
	 師の没後、江戸に出て教授。武蔵忍藩主阿部氏に仕え、直言
	して3年幽閉される。
	 のち京都で培根・達支の2学堂を開く。
	 著書は『黙識録』・『白雀録』・『為学要記』・『為貧説』
	・『四書筆記』(22巻)・『五経筆記』(38巻)・『祭祀来格説』
	など。
	◎佐藤直方(ナオカタ)・浅見絅斎(ケイサイ)とともに崎門(キモン)三傑の
	一人。
みやけ しょうざん《みやけ せうざん》
	三宅 嘯山
	1718(享保 3)
	1801
	◇江戸中期の俳人・儒学者。名は芳隆、字は之元、別号は葎亭
	(リツテイ)など。京都の人。
	 漢詩文に長じ、青蓮院宮(ショウレンインノミヤ)の侍講となる。
	 与謝蕪村・炭太祇と親しく、京都俳壇革新の先駆で、『平安
	二十歌仙』吟者の一人。
	 編著は『嘯山詩集』・『俳諧古選』・『俳諧新選』・『俳諧
	独喰』など。
	(*)1801(寛政13,享和元)。
みやけ せいけん
	三宅 青軒
	1864(元治元. 5.23)
	1914. 1. 6(大正 3)
	◇小説家。名は彦弥、別号は緑旋風・雨柳子。
みやけ せきあん
	三宅 石庵
	1665(霊元 5)
	1730(享保15. 7.16)
	◇江戸中期の儒学者(折衷学)。名は正名、字は実夫、通称は
	新次郎、号は石庵、俳号は泉石。三宅観瀾(カンラン)の兄、春楼
	の父。京都の人。
	 浅見絅斎(ケイサイ)に学ぶ。
	 一時観瀾とともに江戸に出て子弟に教えたが間もなく京都に
	帰る。また讃岐で儒学を講じたが、4年後は大坂で子弟を教授
	する。
	 中井甃庵(シュウアン)に請われて大坂尼崎坊に懐徳堂(カイトクドウ)を
	建て初代学主となる。
	 朱子学に陸王の学を併せた自由な学風を立て、正体不明とい
	う意味から鵺(ヌエ)学問と評される。書・和歌・俳諧にも長じる。
	 著書は少なく『論孟首章講義(ロンモウシュショウコウギ)』・『藤樹先
	生書簡雑著』。
みやけ せつれい
	三宅 雪嶺
	1860(万延元. 5.19)
	1945.11.26(昭和20)
	◇明治〜昭和期の評論家・哲学者。幼名は雄次郎のち雄叔のち
	雄二郎。金沢藩医三宅恒の3男、三宅花圃(カホ)の夫。加賀国金
	沢(石川県金沢市新堅町)生れ。
	 1883(明治16)東京大学文学部哲学科卒業。東京大学編輯所・
	文部省編輯局で仏教史の編纂を行なう。のち東京専門学校講師。
	 明治政府の急激な欧化政策に反対して国粋主義を主張し、
	1888(明治21)志賀重昂(シゲタカ)・井上円了らと政教社を結成し、
	雑誌「日本人」を創刊。また新聞・雑誌に軽薄な欧化主義と薩長
	藩閥政治の横暴批判の筆をふるう。
	 1889(明治22)陸羯南の「日本」に入る。
	 1892(明治25)雑誌「亜細亜」を創刊。同年11月、田辺花圃と結
	婚。
	 1906(明治39)「日本」を退社。
	 1907(明治40)「日本人」を「日本及日本人」に改題して主宰。
	 関東大震災後は雑誌「我観」を刊行。
	 1943(昭和18)文化勲章、受章。
	 著書は『哲学涓滴』・1891(明治24)『真善美日本人』・1891
	(明治24)『偽醜悪日本人』・1908(明治41)『宇宙』・『我観小
	景』・『明治思想史』・1949〜1954年『同時代史』6巻など。
	◎徳富蘇峰と並ぶ、明治・大正・昭和にわたる論壇の雄。
みやけ とうあん
	三宅 董庵
	1814(文化11)
	1859(安政 6)
	◇江戸後期の医師。安芸国の人。
	 洋医学も併せて修め産科を専門とする。
	 かたわら種痘術に関心を持ち、牛痘を試みて成功。
	 著書は『引痘俗草』・『有喜斎全書』・『産育手和多志』な
	ど。
みやけ へいさい
	三宅 瓶斎
	1801
	1860
	◇江戸幕末の越後村上藩士・理財家。名は安懿、字は徳卿、通
	称は相馬。
	 郡吏から砲術指南に累進。領内凶作・財政困窮を救い活躍す
	るが、ねたむ属吏の策謀に憤り辞職。
	 のち藩の財政が窮迫し再び藩主の特命により起用。大坂で藩
	債を募る。
	 著書は『北越七奇考』・『国語律呂考』など。
	(*)1801(寛政13,享和元),1860(安政 7,万延元)。
みやけ やすこ
	三宅 やす子
	1890. 3.15(明治23)
	1932. 1.18(昭和 7)
	◇小説家・評論家。旧姓は加藤。京都市富小路丸太町生れ。東
	京府立第二高女卒業。心臓麻痺で死去。
	 評論家三宅艶子(ツヤコ)は長女、加藤弘之(ヒロユキ)の姪。
みやけ ゆきこ
	三宅 由岐子
	1906. 1.27(明治39)
	1937. 2.26(昭和12)
	◇劇作家。本名は由紀子、筆名は悠紀子とも。東京生れ。劇評
	家三宅三郎の妹。双葉女学校中退。
みやけ よねきち
	三宅 米吉
	1860
	1929(昭和 4)
	◇歴史学者・教育家。紀伊(現:和歌山県)生れ。
	 慶応義塾卒業。
	 「かなのまなび」などを刊行し国字国語の改良に努める。
	 日本考古学会を創設主宰。
	 東京文理科大学長・帝室博物館総長・東京高等師範学校長な
	どを歴任。
	 著書は『日本史学提要』・『考古学研究』など。
	(*)1860(安政 7,万延元)。
みやこ ちょうちょう《みやこ てふてふ》
	ミヤコ 蝶々
	1920(大正 9)
	2000.10.12(平成12)
	◇喜劇女優。本名は日向鈴子(ヒュウガ・スズコ)、ペンネームは日向
	すゞ子。東京、日本橋の小伝馬町(コデンマチョウ)生れ。
	 4歳のとき、神戸に移る。
	 1927(昭和 2)7歳で都家蝶々一座の座長として全国各地の芝
	居小屋を回り少女漫才を行う。
	 太平洋戦争中、漫才師の三遊亭柳枝と結婚、のち離婚。
	 1946(昭和21)南都雄(ナント・ユウジ)と結婚、夫婦漫才を組みラジ
	オ番組などで活躍するが、1958(昭和33)離婚。
	 1963(昭和38)テレビ版『夫婦善哉』で、コンビの南都雄とと
	もに名司会を行う。
	 1973(昭和48)コンビの南都雄、死去。
	 1975. 9.(昭和50)『夫婦善哉』、終了。
	 1978(昭和53)芸術祭賞優秀賞、受賞。
	 1984(昭和59)紫綬褒章、受章。
	 1993(平成 5)勲四等宝冠章、受章。
	 著書は『女ひとり』・『女のらくがき』など。
みやこのにしき
	都の錦
	1675(延宝 3)
	没年不詳
	◇江戸前期の浮世草子作者。名は光風、姓は宍戸(シシド)(一説
	に八田)、通称は与一、別号は雲休堂・沢風軒・銕舟(テッシュウ)。
	摂津国生れ。浮浪人として捕えられ、薩摩国山ヶ野金山に流さ
	れる。
みやざき いくう
	宮崎 郁雨
	1885. 4. 5(明治18)
	1962. 3.29(昭和37)
	◇歌人。本名は大四郎。石川啄木(タクボク)夫人(堀合節子)の妹
	の夫。
みやざき こしょし
	宮崎 湖処子(宮崎 湖處子)
	1864(元治元. 9.20)
	1922. 8. 9(大正11)
	◇詩人・小説家・評論家・牧師。本名は八百吉(ヤオキチ)、末兼氏
	を称したことがある、号は西邱(サイキュウ)隠士・西邱隠者・
	八面楼主人・愛卿学人・高明学人。筑前国朝倉郡三奈木村生れ。
	福岡中学校を経て、1886(明治19)1884(明治17)東京専門学校
	(現:早稲田大学)入学、1886(明治19)卒業と推定。1903(明治36)
	聖学院神学校教授。
	(3)号は西邱(サイキュウ)隠士(者)・愛卿学人。
	(5)号は西邱隠士(セイキュウインシ)・愛郷学人。
	(7)別號西邱隱士・八面樓主人・愛卿學人。
	(10)他に愛郷学人・西邱隠士・八面楼主人・高明学人。
	(11)別号西邱隠士(者)・八面楼主人・愛郷学人・高明学人。
	(13)別号西邱隠士(者)・八面楼主人・愛卿学人・高明学人等。
みやざき さんまい
	宮崎 三昧
	1859(安政 6. 8. 1)
	1919. 3.22(大正 8)
	◇小説家。本名は璋蔵(ショウゾウ)、別号は三昧道人。江戸下谷御
	徒町生れ。東京師範学校に学ぶ。腎臓病で死去。
	 上田秋成の『雨月物語』を世に紹介。
	(5)没日は 3.22。
	(10)没日は 3.22。
	(13)没日は 3.23。
みやざき じょうじ
	宮崎 丈二
	1897. 1. 6(明治30)
	1970. 3.25(昭和45)
	◇詩人・画家。
みやざき せいらん
	宮崎 晴瀾
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治の漢詩人。名は宣政(ノブマサ)、号は晴瀾。
みやざき とうてん《みやざき たうてん》
	宮崎 滔天
	1871(明治 4.12. 6)
	1922.12. 6(大正11)
	◇アジア主義者・大陸浪人・中華民国革命の援助者・浪曲師。
	本名は寅蔵(トラゾウ)、戸籍上は虎蔵。肥後国生れ。
	 1898(明治31)右翼指導者内田良平(リョウヘイ)を孫文に紹介。
	(2)生年は1871(明治 4)。
	(3)生年は1871(明治 3):誤。
	(4)生年は1871。
	(5)生年は1870(明治 3)。
	(6)生年は1870/71。
	(10)生年は1870(明治 3)。
	(11)生年は1870(明治 3)。
みやざき とらのすけ
	宮崎 虎之助
	1872(明治 5)
	1929(昭和 4)
	◇宗教家。
	 1904(明治37)『我が福音』を著述し、仏陀・キリストに次ぐ
	第三の予言者・メシヤ(救世主)と自称、世間の話題となる。
みやざき まつき
	宮崎 松記
	1900. 1.10(明治33)
	1972. 6.14(昭和47)
	◇医師・救ライ(癩)事業家。井上家の三男。熊本県八代市(ヤツシ
	ロシ)日奈久浜町(ヒナグハママチ)生れ。
	 宮崎家の養子となる。
	 日奈久小学校・県立八代中学校・第五高等学校・京都帝国大
	学医学部、卒業。
	 高等学校時代、英語講師のハンナ・リデル(Hannah Riddell)
	女史が回春病院でライ病(ハンセン病)患者の治療に専念する姿
	に感動して救ライ活動に志す。
	 大学卒業後、大阪赤十字病院九州療養所で救ライ活動に励む。
	 1934. 5.(昭和 9)県立九州ライ療養所(のち国立療養所菊池
	恵楓園)所長。
	 1958. 9.(昭和33)恵楓園園長を辞任し、インドでの救ライ事
	業に尽力し、「アジア救ライの父」と仰がれる。
	 1966. 7.(昭和41)第一回総理大臣顕彰、受賞。
	 1969(昭和44)県近代文化功労賞、受賞。
	 1971(昭和46)勲一等瑞宝章、受章。
	 ニューデリーの飛行機事故で遭難死。
みやざき むりゅう
	宮崎 夢柳
	1855(安政 2)
	1889. 7.23(明治22)
	◇政治家・翻訳家・小説家。本名は富要(トミヤス)、別号は芙蓉(フ
	ヨウ)、戯号は夢柳狂士。土佐国高知生れ。
	(5)本名富要(トミヤス)。
	(10)本名富要(トミヤス)、……。
	(13)本名富要(フヨウ)。
みやざき やすえもん
	宮崎 安右衛門
	1888. 2.20(明治21)
	1963. 1.16(昭和38)
	◇詩人・宗教家(キリスト教・禅宗)。
みやざき やすさだ
	宮崎 安貞
	1623(元和 9)
	1697(元禄10)
	◇江戸前期の農学者。『農業全書』の著者。
みやざき ゆうぜんさい
	宮崎 友禅斎
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の画工。友禅染の創始者といわれる。
みやざわ けんじ《みやざは けんぢ》
	宮沢 賢治(宮澤 賢治)
	1896. 8.27(明治29. 7.19)
	1933. 9.21(昭和 8)
	◇詩人・童話作家。戸籍上の誕生日は 8. 1、 7.19は旧暦。父
	政次郎・母イチ、宮沢清六の兄。岩手県稗貫(ヒエヌキ)郡花巻川口
	町生れ。
	 1918(大正 7)盛岡高等農林学校農科二部(農芸化学科)卒業、
	同校研究科終了。1921.12.(大正10)稗貫農学校の教諭になる。
	 1922.11.27(大正11)妹とし子を病気で失う。教え子の就職斡
	旋のため1923. 8. 3(大正12)樺太の大泊(現:コルサコフ)に行
	く。この旅の1年後に『銀河鉄道の夜』を執筆。
	 1926. 3.(大正15)農学校退職。同年八月、羅須(ラス)地人協会
	を設立。
	 花巻町真宗安浄寺に埋葬、のち花巻町日蓮宗身照寺に改葬、
	法名は真金院三不日賢善男子。
	◆賢治祭[ 9.21]岩手県花巻市下根子の「雨ニモマケズ」詩碑前
	で追悼祭。
	(+)『昭和文學全集14 宮澤賢治集』昭和28年 6月 5日初版印刷
		角川書店		昭和28年 6月10日初版發行
みやざわ せいろく《みやざは せいろく》
	宮沢 清六
	1904(明治37)
	2001. 6.12(平成13)
	◇宮沢賢治の研究家・童話作家。宮沢賢治の弟。
	 1922(大正11)盛岡中学校(旧制)卒業。
	 1922.12.(大正11)東京研数学館に入学。
	 1924(大正13)弘前歩兵第31連隊に一年志願兵として入隊。
	 1926(大正15)見習士官で除隊。
	 1926. 5.(大正15)父とともに宮澤商会を開業。
みやじ かろく《みやぢ かろく》
	宮地 嘉六
	1884. 6.11(明治17)
	1958. 4.10(昭和33)
	◇小説家。佐賀県佐賀市唐人町生れ。
	(1)没日は 5.18。
	(5)宮地 嘉六(みやち かろく)、没日は 4.10。
	(10)宮地 嘉六(みやち かろく)、没日は 4.10。
	(11)没日は 4.10。
	(13)没日は 4.10。
みやした たきち
	宮下 太吉
	生年調査中
	1911. 1.24(明治44)
	◇無政府主義者・長野県明科の職工。
	 1910. 5.25(明治43)爆弾製造所持で検挙。供述から管野スガ
	・新村忠雄・古河力作も逮捕。
	 明治天皇暗殺の大逆事件として、大審院特別法廷の非公開裁
	判で死刑。
みやじま ごじょうげん
	宮島 五丈原
	1875.12. 8(明治 8)
	1932. 9.(昭和 7)
	◇俳人・弁護士。本名は次郎、旧号は洒水、別号は林南・
	原の人。
みやじま しんざぶろう
	宮島 新三郎
	1894. 1.28(明治27)
	1934. 2.27(昭和 9)
	◇文芸評論家・英文学者。埼玉県比企郡宮前村生れ。東京中学
	を経て早稲田大学英文科卒業。
	(3)生年は1894(明治27)。
	(5)誕生日はは1892. 1.28(明治25)、没日は 2.27。
	(10)誕生日は1894. 1.28(明治27)、没日は 2.27。
	(11)生年は1892(明治27):誤。
	(13)誕生日は1892. 1. 8(明治25)、没日は 2.26。
みやじま すけお
	宮嶋 資夫
	1886. 8. 1(明治19)
	1951. 2.19(昭和26)
	◇アナーキスト・小説家。本名は信康(ノブヤス)。東京四谷伝馬
	町生れ。
	 父は大垣藩士で、7歳位の時に相場で失敗し役所を辞めさせ
	られたため、幼い頃から各種の職業を転々とする。13歳で砂糖
	問屋に奉公。2年後、三越呉服店に奉公し、辛酸をなめる。
	 歯科医の書生となり勉学。19歳の時、渡米しようとしたがト
	ラホームのために果たせず、放浪生活をする。
	 27歳から文学に専念。
	 1930(昭和 5)出家し、晩年の二〇年は妻子を捨てて僧籍にあ
	り、孤独のうちに僧庵の一室で胃潰瘍により死去。
	(1)宮嶋 資夫。
	(3)宮島 資夫。
	(5)宮嶋 資夫。没日は 2.19。
	(10)宮嶋 資夫。没日は 2.19。
	(11)宮嶋 資夫。没日は 2.29。
	(13)宮島 資夫。没日は 2.19。
みやた しげお
	宮田 重雄
	1900(明治33)
	1971(昭和46)
	◇挿絵画家。名古屋市生れ。慶応義塾大学医学部卒業。
	 梅原竜三郎に師事。パリ・パスツール研究所に留学。医療に
	従事する一方、国画会で活躍。ラジオ「二十の扉」などでも親し
	まれる。
みやた のぶ
	宮田 暢
	1885.11.12(明治18)
	1929.10.21(昭和 4)
	◇評論家。
みやた ぼし
	宮田 戊子
	1888. 8. 7(明治21)
	没年不詳
	◇俳人。本名は保。
みやたけ がいこつ
	宮武 外骨
	1867(慶応 3. 1.18)
	1955. 7.28(昭和30)
	◇江戸明治文化研究家・新聞雑誌の収集研究家。幼名は亀四郎、
	廃姓外骨と自称。讃岐国(香川県)の名字帯刀を許された豪農の
	生れ。1887. 4.(明治20)滑稽風刺雑誌「頓智協会雑誌」(月刊)を
	創刊、1889. 2.28(明治22)二八号で不敬罪に問われ廃刊。1901.
	 1.(明治34)「滑稽新聞」(月刊のち月二回)を主宰、1908.10.20
	(明治41)を自殺号として廃刊。1907. 5.(明治40)滑稽新聞定期
	増刊「絵葉書世界」(月刊)を創刊、1909. 6.(明治42)二六号で終
	刊。1908.11.(明治41)「大阪滑稽新聞」を創刊。1926(大正15)よ
	り二〇年間、東京大学の明治新聞雑誌文庫の主任。
	◎姓の「宮」と「武」がともに権力を示すとして嫌い、姓を廃して
	外骨のみとする。
	(3)宮武 外骨(みやたけ とぼね)。生年は1867(慶応 3)。
	(5)宮武 外骨(みやたけ がいこつ)。生年は1867(慶応 3)。
	没日は 7.28。
	(6)宮武 外骨(みやたけ がいこつ)。生年は1868。
	(10)宮武 外骨(みやたけ がいこつ)。生年は1867(慶応 3)、
	没日は 7.28。
	(11)宮武 外骨(みやたけ がいこつ)。生年は1866(慶応 2)、
	没日は 7.29。
	(14)生年は1867(慶応3)。
みやたけ せいどう
	宮武 正道
	生年不詳
	没年不詳
	◇南洋語・南洋文学の研究者。
	 1939(昭和14)『南洋文学』・1942(昭和17)『南洋の文化と土
	俗』・1943(昭和18)『南洋の言語と文学』など。
みやち かろく
	宮地 嘉六
	⇒みやじ かろく(宮地 嘉六)
みやばやし きんさい
	宮林 菫哉
	1887. 5.14(明治20)
	1921. 2.23(大正10)
	◇俳人。本名は弥作。
みやはら こういちろう
	宮原 晃一郎
	1882. 9. 2(明治15)
	1945. 6.10(昭和20)
	◇北欧文学者・児童文学者。本名は知久。
みやべ すなお
	宮部 寸七翁
	1887. 1.12(明治20)
	1926. 1.30(大正15)
	◇俳人。熊本県生れ。早稲田大学政経科卒業。
	(10)宮部 寸七翁(みやべ すなお)。
	(11)宮部 寸七翁(みやべ すなおう)。
みやべ ていぞう《みやべ ていざう》
	宮部 鼎蔵
	1820(文政 3)
	1864(元治元. 6. 5)
	◇江戸幕末の志士・肥後藩士。名は増実。肥後の医家の生れ。
	 吉田松陰と東北を巡遊。のち上京して尊攘運動に参加。
	 尊攘派志士として長州藩のために画策。公武合体派の首魁(シュ
	カイ)中川宮(朝彦親王)と京都守護職松平容保(カタモリ)の暗殺を計
	画。京都の池田屋で謀議中に新選組と会津・桑名藩兵に襲撃さ
	れ、吉田稔麿(トシマロ)ら9名とともに闘死。
みやもと さぶろう《みやもと さぶらう》
	宮本 三郎
	1905. 5.23(明治38)
	1974.10.13(昭和49)
	◇洋画家・挿絵画家。石川県生れ。
	 川端画学校洋画部で藤島武二に学び、のち安井曽太郎に師事。
	 1947(昭和22)田村孝之介らとともに二紀会を結成。
	 戦争記録画で知られ、晩年は舞妓・裸婦の連作を描く。
みやもと じゅんぞう《みやもと じゆんざう》
	宮本 順三
	1915. 4. 1(大正 4)
	2004. 1.13(平成16)
	◇食品玩具のデザイナー。
	 1935(昭和10)彦根高等商業学校(現:滋賀大学)を卒業。グリ
	コ(現:江崎グリコ)に入社し、広告課オマケ係となる。
	 家業のセルロイド工場を継ぎ、1952(昭和27)山三化学工業
	(株)を設立。
	 1998. 4.(平成10)小さなおもちゃの博物館おまけやズンゾ
	(豆玩舎)を開設。
みやもと つねいち
	宮本 常一
	1907. 8. 1(明治40)
	1981. 1.30(昭和56)
	◇民俗学者。山口県大島生れ。
	 大阪天王寺師範学校卒業。
	 渋沢敬三のアチック・ミューゼアム研究員・武蔵野美術大学
	教授・日本観光文化研究所長などを歴任。
	 日本各地を旅して歩き、山村・漁村に生きる人々の生活、離
	島の民具・祭礼・習俗などを調査・研究。離島振興・農業改善
	の実践にも従事。
	 著書は『忘れられた日本人』・『家郷の訓』・『日本民衆史』
	・『宮本常一著作集』(未来社)など。
みやもと むさし
	宮本 武蔵
	1584(天正12)
	1645(正保 2. 5.)
	◇江戸前期の剣客。名は玄信・政名、新免武蔵(シンメン・ムサシ)、幼
	名は弁之助。播磨(ハリマ)または美作(ミマサカ)国吉野郡竹山城下讃
	甘村宮本生れ。父は新免武仁、祖父は平田将監。
	 13歳の時、宮本村から南二里ほどの平福村で兵法者有馬喜兵
	衛と他流試合をし棒で撃ち殺す。
	 はじめ他流試合を続け、一度も負けることがなかった。のち
	二刀流の剣の奥義を開き、二天一流(ニテンイチリュウ)を称する。
	 1640(寛永17)肥後国藩主細川忠利(タダトシ)の客分となり、禄
	高300石十人扶持大組頭格。
	 1643(寛永20)60歳のとき『五輪書』(地水火風空の五巻)を著
	す。
	◎1612(慶長17)燕返しの名手佐々木小次郎(巌流)と巌流島(船
	島)で決闘して勝った逸話が有名。
	◎生誕地とされる岡山県英田郡(アイダグン)大原町(オオハラチョウ)宮本
	(美作)には生家跡・生誕地の碑や智頭急行宮本武蔵駅がある。
	 一方、『五輪書』に「生国播磨」とある兵庫県高砂市(タカサゴシ)
	にも武蔵生誕の碑などがある。
	◎2003. 1.(平成15)NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』
	放送開始。
みやもと ゆりこ
	宮本 百合子
	1899. 2.13(明治32)
	1951. 1.21(昭和26)
	◇小説家。本名はユリ、旧姓は中条。父中条精一郎は建築技師、
	母葭江は西村茂樹の娘。東京市小石川区原町生れ。
	 1916(大正 5)お茶水高等女学校卒業。1918(大正 7)父に連れ
	られて渡米、コロンビア大学の聴講生になる。1919.10.(大正
	 8)同じ大学の荒木茂と親の反対を押して結婚、帰国後の1924
	(大正13)離婚。
	 1932. 2.(昭和 7)宮本顕治と再婚、1934.12.(昭和 9)入籍。
みやもと わきち
	宮本 和吉
	1883. 6.10(明治16)
	1972.10.22(昭和47)
	◇哲学者。
みやもり あさたろう
	宮森 麻太郎
	1869(明治 2. 1.15)
	1952.10. 2(昭和27)
	◇英文学者・翻訳家。号は桃潭。
みょうあん えいさい
	明庵 栄西
	⇒えいさい(栄西)
みょうあん ようさい
	明庵 栄西
	⇒えいさい(栄西)
みょうかいに
	妙海尼
	1685(貞享 2)
	1778(安永 7)
	◇江戸中期、堀部安兵衛(ヤスベエ)の妻「おほり」を自称した尼。
	 長崎の泰禅寺で出家し、諸国行脚ののち江戸亀戸に住む。や
	がて泉岳寺の清浄庵に移り、四十七士の参詣者に懐古談を語る。
	それを丹波篠山(ササヤマ)藩の佐治数馬為綱(サジ・カズマ・タメツナ)が
	『妙海語』に書き留めている。
	 細川家に預けられた父弥兵衛(ヤヘエ)の書き残した「親類書」の
	年齢と開きがあるが、断片的な知識は持ち合せているので、堀
	部家の女性たちに召使われていた「じゅん」または「しゅん」と呼
	ばれる女性と推定されている。
	◎実際の「おほり」は、母「わか」とともに母の兄忠見扶右衛門に
	引き取られ、間もなく奥州二本松(福島県)の丹羽(ニワ)家に母娘
	とも奥勤めする。仕えた当主の祖母冷台院が数ヶ月後に病死し、
	剃髪して目黒の行人坂(ギョウニンザカ)あたりの尼となる。以後不
	詳。
みょうじゅ《みやうじゆ》
	明寿
	⇒うめただ みょうじゅ(埋忠 明寿)
みよし きよつら
	三善 清行
	⇒みよし きよゆき(三善 清行)
みよし きよゆき
	三善 清行
	 847(承和14)
	 918(延喜18)
	◇平安初期の漢学者・政治家。名は「きよつら」とも、字は三耀、
	号は居逸。淡路守氏吉の子。
	 巨勢文雄に経史を学び、経史・明法道(ミョウボウドウ)・算道に
	通じ、文章得業生から出身し、従五位上刑部大輔となり、文章
	博士(モンジョウハカセ)兼大学頭(ダイガクノカミ)。
	  901(昌泰 4,延喜元)(辛酉)讖緯(シンイ)思想による『革命勘文
	(カンモン)』を上奏し、改元の例を開く。
	  905(延喜 5)以降、藤原時平などと『延喜格式』の編纂(ヘンサ
	ン)に参加。
	  914(延喜14. 4.)醍醐(ダイゴ)天皇に『意見封事(フウジ)十二
	箇条』を提上し、律令政治衰退期の地方政治の弛緩(シカン)対策
	を論じる。
	  917(延喜17)参議宮内卿(クナイキョウ)となり、善相公と称される。
	  918(延喜18)播磨守を兼ねる。
	 詩文にも長じた。
	 『円珍伝』・『藤原保則伝』・『善家集』・『智澄大師伝』
	などの著書がある。
	◎菅原道真の権勢から凶事をみて隠退を説き容(イ)れられなかっ
	たが、のち道真は失脚となったといわれる。
みよし じゅうろう《みよし じふらう》
	三好 十郎
	1902. 4.21(明治35)
	1958.12.16(昭和33)
	◇劇作家・詩人。誕生日は戸籍上は 4.27、自筆年譜は 4.23、
	小学学籍簿は 3.25、戸主三好十郎の戸籍では 4.21。佐賀市生
	れ。
	 幼時から祖母の手で育てられ12歳のときに孤児となり、親戚
	を転々とし、土方(ドカタ)・百姓をしつつ佐賀中学を卒業。
	 上京して早稲田大学英文科に学ぶ。
みよし たつじ《みよし たつぢ》
	三好 達治
	1900. 8.23(明治33)
	1964. 4. 5(昭和39)
	◇詩人・翻訳家。大阪西区西横堀町生れ。
	 軍人を志し市岡中学・陸軍幼年学校を経て、1921(大正10)陸
	軍士官学校中退。
	 第三高等学校に転じて、1928(昭和 3)東京大学仏文科卒業。
	◆達治忌[ 4. 5]。
みよし ながよし
	三好 長慶
	1523(大永 3)
	1564(永禄 7)
	◇戦国末期の武将。長基の子、康長(ヤスナガ)の兄。
みよし まなぶ
	三好 学
	1861
	1939(昭和14)
	◇植物学者。
	(*)1861(万延 2,文久元)。
みよし やすつら
	三善 康連
	1192(建久 3)
	1256(建長 8.10. 3)
	◇鎌倉中期の政治家。通称は太田民部大輔。康信(ヤスノブ)の子。
	 1223(貞応 2. 4.)玄蕃允(ゲンバノジョウ)に任じられる。
	 1225(嘉禄元)幕府評定衆となり、執権北条泰時の命を受けて
	御成敗式目(貞永式目)の起草にあたる。
	 1233(天福元.12.)賀茂神社修造の功により民部丞となる。
	 1235(嘉禎元)阿波守に任じられる。
	 1243(寛元元. 8.)問注所執事となる。
みよし やすなが
	三好 康長
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の武将。長基の4子、長慶(ナガヨシ)の弟。
みよし やすのぶ
	三善 康信
	1140(保延 6)
	1221(承久 3. 8. 9)
	◇鎌倉初期の公家・政治家。康連(ヤスツラ)の父。
みよし よしつぐ
	三好 義継
	生年不詳
	1573
	◇戦国時代の武将。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
みろく
	身禄
	⇒じきぎょう みろく(食行 身禄)
みん
	旻
	生年不詳
	 653(白雉 4. 6.)
	◇飛鳥時代の百済(クダラ)系の学僧・大化の改新の政治顧問。
	日文・新漢人旻(イマキノアヤヒトミン)。
	  608(推古16)小野妹子(オノノイモコ)に従い隋に留学、仏教・易学
	を学び、 632(舒明 4)帰朝。
	 中臣鎌足(ナカトミノカマタリ)(藤原鎌足)らに周易の講義する。
	  645(大化元)大化の改新の際、高向玄理(タカムコノクロマロ)と共に
	国博士に任命され、八省百官の制など改新政府の政策を立案。
	 孝徳天皇の信任を受け、 653(白雉 4)病に臥したとき天皇が
	見舞い、旻が死去してから多くの仏像を造り大和の川原寺(カワラ
	デラ)(弘福寺)に安置した。
みんちょう《みんてう》
	明兆
	1352
	1431(永享 3)
	◇室町初期の画僧。諱(イミナ)は吉山(キチザン)、別号は破草鞋(ハソウ
	アイ)・赤脚子(シャクキャンス)。淡路島生れ。
	 宋・元の画風を学び、強い墨線と濃い色彩によって、多くの
	仏画や頂相(チンゾウ)・道釈画を描く。
	(*)1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文和元)。
	◎終生、大道一以(ダイドウ・イチイ)の法弟として京都五山の一つ東
	福寺(トウフクジ)の殿司(デンス)の職にあったため、兆殿司(チョウデンス)
	(兆典子)と呼ばれる。
	 東福寺には『五百羅漢図』(50幅、現存47幅)・『聖一国師(ショ
	ウイチコクシ)像』・『涅槃図』などが残されている。
みんび
	閔妃
	⇒びんび(閔妃)
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