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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6621.03

                 人   名   辞   典    《み》       編集:獨  澄旻

-------- み ----------------------------------------------------
みうら あやこ
	三浦 綾子
	1922. 4.25(大正11)
	1999.10.12(平成11)
	◇作家。父堀田鉄治、母キサの次女(第5子)。北海道旭川市4
	条通生れ。
	 1935. 4.(昭和10)旭川市立高等女学校へ推薦入学。
	 1939. 3.(昭和14)旭川市立高等女学校、卒業。
	 1939. 4.(昭和14)空知郡歌志内公立神威尋常高等小学校の代
	用教員。翌年、訓導。
	 1946. 6. 1(昭和21)結核療養所白雲荘に入る。
	 1959. 5.24(昭和34)三浦光世と結婚。
	 1964(昭和39)朝日新聞の一千万円懸賞小説に『氷点』が入選
	し、作家デビュー。
	 1982(昭和57)直腸がんの手術を受け、数年後に再発。
	 1992(平成 4)パーキンソン病も併発。
みうら あんじん
	三浦 按針
	⇒うぃりあむ あだむす(ウィリアム・アダムス)
みうら かんぞう
	三浦 関造
	1883. 7.15(明治16)
	1960. 3.30(昭和35)
	◇キリスト教徒・翻訳家。タゴール研究家。福岡県生れ。福岡
	師範学校・青山学院神学部卒業。
みうら こうのすけ
	三浦 孝之助
	1903.12. 9(明治36)
	1964. 3.28(昭和39)
	◇詩人。富山県生れ。慶応義塾大学英文科卒業。慶応義塾大学
	教授。
みうら ごろう
	三浦 梧楼
	1846(弘化 3.11.15)
	1926. 1.28(大正15)
	◇明治・大正時代の陸軍軍人(中将)・政治家・枢密院顧問官。
	旧名は五郎、号は観樹。長州藩士五十部吉平の5男、三浦道庵
	の養子。
	 高杉晋作の奇兵隊に参加。
	 明治維新後は兵部省に出仕し、1870(明治 3)兵部権少丞。
	 1875(明治 8)元老院議官。
	 1876(明治 9)広島鎮台司令官として萩の乱・西南戦争に従軍。
	 1878(明治11)陸軍中将。
	 1888(明治21)予備役編入、宮中顧問・学習院院長を兼任。
	 1889(明治22)国粋主義の立場から大隈重信の条約改正案に反
	対。
	 1890(明治23)貴族院議員。
	 1895. 8.(明治28)[高宗32]韓国駐在公使となり、 9. 1着任。
	浪士・日本軍守備隊らを指揮し、10. 8朝鮮王高宗の妃(閔妃<ビ
	ンビ>)をソウル(京城)の王宮(景福宮)内で暗殺(乙未<イツビ>政変)。
	国際世論の批判によって召還されるが、1896. 1.20(明治29)免
	訴。
	 1897(明治30)地租増徴に反対し運動する。
	 1910(明治43)枢密顧問官。のち憲政本党に入党し、大正年間、
	政界の黒幕として藩閥内閣に反対。
	 1924(大正13)憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派内
	閣を成立させる。
みうら たまき
	三浦 環
	1884. 2.22(明治17)
	1946. 5.26(昭和21)
	◇明治〜昭和期のソプラノ歌手。旧姓は柴田。東京芝生れ。
	 1900(明治33)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。在学中
	の1903(明治36)日本人による初の歌劇公演『オレフェオとエウ
	リディーチェ』の百合姫(エウリディーチェ)を主演。1904(明
	治37)卒業後は同校の授業補助となり、ドイツに留学。
	 帰国後、1911(明治44)開場した帝国劇場で日本最初のオペラ
	を上演。1912(明治45)帝国劇場歌劇部の首席歌手。
	 結婚して夫と1914(大正 3)渡欧、世界各国で『蝶々夫人』・
	『お菊さん』などを2000回演じて世界的プリマドンナとして活
	躍し、1936(昭和11)帰国。
	 著書は『世界のオペラ』。
	◎門下生は原信子・関屋敏子ら。
みうら ちょら
	三浦 樗良
	⇒ちょら(樗良)
みうら ばいえん《みうら ばいゑん》
	三浦 梅園
	1723(享保 8. 8. 2)
	1789(寛政元. 3.14)
	◇江戸中期の哲学者・儒医。名は晋(ススム)、字は安貞、号は梅
	園・攣山・洞山・季山・東川・二子山人・無事斎主人など。豊
	後国国東郡(クニサキグン)西武蔵(ニシムサシ)村(現:大分県東国東郡安岐
	町<アキマチ>)生れ。
	 豊後杵築藩(キツキハン)の綾部絅斎(アヤベ・ケイサイ)さらに豊前中津藩
	の藤田敬所に儒学を学ぶ。
	 また長崎に遊学して独学で洋学も修め、天文・物理・医学・
	博物・政治・経済・語学に通じ、一種の自然哲学としての「条
	理学」を提唱。条理(自然)の把握は人間からの類推に拠らず、
	客観的に理解する自然弁証法的論理を展開し「反観合一(ハンカンゴ
	ウイツ)」と説いた。
	 諸侯からの招きを辞していたが、1783(天明 3)杵築藩主松平
	親賢の政治顧問となり家老の礼を受ける。
	 著書は1767(明和 4)『敢語(カンゴ)』(道徳説)・1773(安永 2)
	『価原』(経済論)・1775(安永 4)『玄語(ゲンゴ)』(哲学原理)
	・1786(天明 6)『贅語(ゼイゴ)』(哲学原理解説)など。
	◎豊後聖人とも呼ばれる。
	 帆足万里(ホアシ・バンリ)・広瀬淡窓(ヒロセ・タンソウ)とともに豊後三賢
	の一人。
	◎『価原』は日本の国富論といわれ、アダム・スミスの1776(安
	永 5)『国富論』より3年前に出されている。
みうら もりはる
	三浦 守治
	1857(安政 4. 5.11)
	1916. 2. 2(大正 5)
	◇病理学者・歌人。磐城国(現:福島県)生れ。
	 1881(明治14)東京大学医学部卒業。医学博士・東京大学教授。
みかしま よしこ
	三ヶ島 葭子
	1886. 8. 7(明治19)
	1927. 3.26(昭和 2)
	◇歌人。本名は倉片(クラカタ)よし、旧姓は三ヶ島。埼玉県入間郡
	三ヶ島村(現:所沢市)生れ。小学校長三ヶ島寛太郎の長女。
	 1902(明治35)埼玉県女子師範学校入学、1906(明治39)結核の
	ため退学。
	 1914(大正 3)倉片寛一と結婚。
	(1)三ヶ島 葭子(みかしま よしこ)、本名は片倉。
	(3)三ヶ島 葭子(みがしま よしこ)、本名は倉片(クラカタ)。
	(5)三ヶ島 葭子(みかしま よしこ)、本名は倉片。
	(10)三ヶ島 葭子(みかしま よしこ)、本名は倉片。
	(11)三ヶ島 葭子(みかしま よしこ)、本名は倉片。
	(13)三ヶ島 葭子(みがしま よしこ)。
みかみ あきら
	三上 章
	1903(明治36)
	1971(昭和46)
	◇文法学者。
	 台湾・朝鮮などで公務員・中学・高校教師などを経て帰国。
	国内で高校教師・大学講師など。
	 いわゆる「三上文法」の体系を作る。
みかみ おときち
	三上 於菟吉
	1891. 2. 4(明治24)
	1944. 2. 7(昭和19)
	◇大正・昭和期の小説家。埼玉県北葛飾郡桜井村(現:庄和町木
	崎)の医者純太郎・「まさ」の三男に生れる。
	 1904(明治37)粕壁中学校に入学。早稲田大学英文科中退。
	 1915(大正 4)長谷川時雨(シグレ)と同棲。同年、朝鮮独立運動
	に取材した『春光のもとに』が発禁。
	 1928(昭和 3)長谷川時雨をたすけて「女人芸術」を創刊。
	 疎開先の郷里で、脳塞栓により死去。
みかみ ひできち
	三上 秀吉
	1893. 6. 1(明治26)
	1970.10. 2(昭和45)
	◇小説家。旧姓は龍田、三上は妻の姓。和歌山県生れ。
	 香川県立高松中学校卒業。「婦人之友」編集長。
みき あいか
	三木 愛花
	生年調査中
	没年調査中
	◇新聞記者・戯文家。本名は貞一。上総国山武郡大綱生れ。
みき あゆろう《みき あゆらう》
	三木 鮎郎
	1924. 6.26(大正13)
	1997. 6. 6(平成 9)
	◇放送作家・司会者。本名は繁田文吾。三木鷄郎(ケイロウ)の実弟。
	東京都出身。
	 1945(昭和20)高等商船学校(現:東京商船大学)中退。
	 アメリカ軍の通訳を経て、1951(昭和26)民放発足と同時に放
	送界に入。
みき きよし
	三木 清
	1897. 1. 5(明治30)
	1945. 9.26(昭和20)
	◇哲学者・評論家。兵庫県揖保郡(イボグン)揖保西村生れ。
	 龍野中学校・第一高等学校を経て、京都帝国大学哲学科で西
	田幾太郎・波多野精一に学び、1920(大正 9)卒業。
	 1922(大正11)ドイツ・フランス(パリ)に留学、リッケルトや
	ハイデッガーに学び、西欧マルクス主義の影響を受ける。1925
	(大正14)帰国、京都帝国大学哲学科には迎えられず、1926(大
	正15)第三高等学校講師・1927〜1930(昭和 2〜昭和 5)法政大
	学哲学科教授。1928(昭和 3)羽仁五郎らと「新興科学の旗のも
	とに」を発刊。プロレタリア科学研究所の設立に参加。
	 1930(昭和 5)共産党シンパと疑われ、治安維持法違反で検挙・
	拘留(共産党シンパ事件)。その後、公職とマルクス主義から遠
	ざかり西田哲学へ接近、ジャーナリズムで活躍し当時の知識人
	に多大な影響を与える。1933(昭和 8)学芸自由同盟に参加し、
	ファシズムに抗議。1937(昭和12)昭和研究会に参画し、東亜協
	同体論を展開。
	 太平洋戦争中、1942(昭和17)陸軍に徴用されて報道班員とし
	てフィリピンのマニラに派遣。
	 1944(昭和19)友人の共産主義者高倉輝(テル)が警察を脱走、自
	宅にかくまい、1945. 3.(昭和20)検挙される。終戦になっても
	釈放されず豊多摩拘置所で病死。
	 著書は1926(大正15)『パスカルに於ける人間の研究』・論文
	『問の構造』・論文『解釈学的現象学の基礎概念』・1928(昭
	和 3)『唯物史観と現代の意識』・『人生論ノート』・1932(昭
	和 7)『歴史哲学』・1936(昭和11)『構想力の論理』・1937(昭
	和12)論文『日本の現実』・1940(昭和15)『哲学入門』・1941
	(昭和16)『哲学ノート』・1942(昭和17)『続哲学ノート』など。
	(2)生年は1897(明治30)。(生)兵庫県。
	(5)生年は1897(明治30)。兵庫県揖保(イボ)郡平井村ノ内小神村
	に生れ……。
	(10)生年は1897(明治30)。
	(13)生年は1898(明治31)。
	(15)生年は1897(明治30)。兵庫県竜野の富裕な農家に生れる.
	(18)生年は1897(明治30)。兵庫県の農村(現,竜野<タツノ>市)に
	生れ……。
	(24)生年は1897。
みき しゅういち
	三木 蒐一
	1907. 9. 8(明治40)
	1966.12.27(昭和41)
	◇小説家。本名は風間真一。東京生れ。画家風間完、十返肇(ト
	ガエリ・ハジメ)の妻千鶴子の兄。
	 1932(昭和 7)早稲田大学英文科卒業。
	 実業之日本社のち博文館に勤務。
みき たけお
	三木 武夫
	1907. 3.17(明治40)
	1988(昭和63)
	◇昭和期の政党政治家・第66代総理大臣。徳島県生れ。
	 1937(昭和12)明治大学法科卒業。
	 1974. 7.(昭和49)田中角栄首相の政治姿勢を批判し副総理を
	辞任。角栄が金権問題で辞任した後を受けて組閣、1974.12. 9
	(昭和49)〜1976.12.24(昭和51)。
みき たけじ
	三木 竹二
	1867(慶応 3. 9. 5)
	1908. 1.10(明治41)
	◇演劇劇評家・医師。本名は森篤次郎。岩見国(現:島根県)津
	和野藩(鹿足<カノアシ>郡津和野町田村横堀)生れ。
	 森鴎外の次弟、小金井喜美子(キミコ)・森潤三郎の兄。
	 1872(明治 5)上京、独逸語学校を経て、1891(明治24)東京医
	科大学卒業後、同大助手。
	 1894(明治27)長谷久子と結婚。
	 1896(明治29)日本橋蠣殻(カキガラ)町に開業。
	 1900. 1.(明治33)雑誌「歌舞伎」を創刊・主宰。
	 古賀病院で喉頭腫瘍の手術後、出血し喀血すべく起き上がろ
	うとしたところを看護婦に押えつけられ、窒息死。
	(1)慶応三年(1967):誤、本名は森篤二郎。
	(3)本名は森篤次郎。
	(5)本名は森篤次郎。生年は1867(慶応 3. 9. 5)。二四年東京
	医科大学を卒業、日本橋蠣殻(カキガラ)町に開業した。
	(6)本名は森篤次郎。
	(10)本名は森篤次郎。生年は1867(慶応 3. 9. 5)。二三年、帝
	国大学医科大学(現・東大医学部)を卒業……。
	(11)本名は森篤次郎。
	(13)本名は森篤次郎。慶応三年一〇月島根県に生まれた。
みき てんゆう
	三木 天遊
	1875. 3.12(明治 8)
	1923. 9. 1(大正12)
	◇詩人・小説家。本名は猶松。兵庫県赤穂町生れ。
	 1879(明治12)一家で大阪に移住。1894〜1895(明治27〜明治
	28)頃、東京専門学校文学科に在学。1918〜1919(大正 7〜大正
	 8)以降消息を絶つ。
	(3)1923. 9. 1(大正12)?。
	(10)1923. 9. 1(大正12)?。震災で死亡と推定。
	(13)没年不詳。大正七、八年以後は全く消息を絶ち、……。
みき のりへい
	三木 のり平
	1924. 4.11(大正13)
	1999. 1.25(平成11)
	◇喜劇俳優。本名は田沼則子(タヌマ・タダシ)。東京日本橋浜町生れ。
	 日本大学芸術学科に在学中から演劇活動を行い、1941(昭和
	16)初舞台。
	 卒業後、三木鶏郎グループの一員となる。
	 青山杉作研究所・俳優座を経て、1956(昭和31)東宝と契約。
	 1961(昭和36)紫綬褒章、受章。
	 1991(平成 3)菊田一夫演劇賞、受賞。
	 1996(平成 8)勲四等旭日小綬章、受章。
	◎キャラクターが桃屋のCMに使われ親しまれた。
みき はるお
	三木 春雄
	1884. 7. 4(明治17)
	1973. 3.13(昭和48)
	◇英文学者。徳島県生れ。
	 1909. 7.(明治42)早稲田大学英文科卒業。弘前中学校・宇都
	宮高等農業学校の英語教師。1921(大正10)警視庁保安課脚本係
	長。1926(大正15)東洋大学講師。
みき ろふう
	三木 露風
	1889. 6.23(明治22)
	1964.12.29(昭和39)
	◇詩人。本名は操、霊名はパウロ。兵庫県揖西郡(現:揖保郡)
	龍野町生れ。父は九十四銀行員の節次郎、母は鳥取藩家老和田
	信且の娘「かた」。
	 7歳のとき母が家を去り、祖父制(初代龍野町長・九十四銀
	行頭取)に育てられる。県立龍野中学校に首席で入学するが、
	文学に熱中して私立中学閑谷黌に転校、家事都合で3年の7月
	退学。1907. 9.(明治40)早稲田大学に入学。1910(明治43)慶応
	義塾大学文学部に転入学、翌年退学。
	 自宅近くの下連雀郵便局付近でタクシーにはねられ、脳内出
	血により死去。1965. 1.16(昭和40)勲四等瑞宝章を追贈。
	◆龍野市龍野公園入口に『赤とんぼ』の歌曲碑がある。
みぎし こうたろう
	三岸 好太郎
	1903. 4.18(明治36)
	1934. 7. 2(昭和 9)
	◇画家。札幌生れ。画家三岸節子(セツコ)の夫。
	 1921(大正10)札幌第一中学校卒業。
みぎた としひで
	右田 年英
	1862(文久 2)
	1925. 2. 4(大正14)
	◇浮世絵師。名は豊彦、俗称は豊作、別号は梧斎・晩翠楼・
	一頴斎。豊後国(現:大分県)北海郡臼杵村生れ。
	 月岡芳年の門に入る。
	 1916(大正 5)脳溢血で倒れる。
みぎた とらひこ
	右田 寅彦
	⇒みぎた のぶひこ(右田 寅彦)
みぎた のぶひこ
	右田 寅彦
	1866(慶応 2. 2.)
	1920. 1.11(大正 9)
	◇劇作家・歌舞伎狂言作者。号は柳塢亭(リュウオテイ)・矮亭主人。
	豊後国(大分県臼杵町)生れで、1875(明治 8)東京に移住。
	 三田英学校・漢学塾に学び、のち高畠藍泉(三世柳亭種彦)に
	師事。1909(明治42)帝国劇場付属技芸学校の開校とともに同校
	教師。
	(5)右田 寅彦(みぎた のぶひこ)。没日は1920. 1.11(大正 9)。
	(10)右田 寅彦(みぎた のぶひこ/とらひこ)。没日は1920.
	 1.11(大正 9)。
	(11)右田 寅彦(みぎた のぶひこ)。
	(13)右田 寅彦(みぎた とらひこ)。大正九年一月一五日東京
	芝岩島病院で没した。
みきもと こうきち《みきもと かうきち》
	御木本 幸吉
	1858(安政 5)
	1954(昭和29)
	◇実業家。三重県鳥羽生れ。1890(明治23)から真珠の養殖を手
	がけ、1905(明治38)志摩郡多徳島の養殖場で真円真珠の養殖に
	成功。世界各地に輸出し、「ミキモト・パール」として有名。
みきもと りゅうぞう
	御木本 隆三
	1893.10.27(明治26)
	1971. 6. 6(昭和46)
	◇評論家。三重県鳥羽生れ。京都帝国大学経済学部中退。
	 東京ラスキン協会を創立。
みくに れいこ
	三国 玲子
	1924. 3.31(大正13)
	1987. 8. 5(昭和62)
	◇歌人。本姓は中里。東京生れ。川村女学院卒業。
みさわ ちれん《みさは ちれん》
	見沢 知廉
	1959. 8.23(昭和34)
	2005. 9. 7(平成17)
	◇作家。本名は高橋哲央(テツオ)。東京都文京区生れ。
	 中央大学法学部中途除籍。
	 1982(昭和57)英国大使館火炎瓶事件・内ゲバ殺人事件で逮捕
	され、東京拘置所・川越少年刑務所・千葉刑務所などに12年間
	収監。
	 獄中で書いた『天皇ごっこ』で1994(平成 6)第25回新日本文
	学賞を受賞。
	 自殺。
	 作品は1996(平成 8)『囚人狂時代』・1997(平成 9)『獄の息
	子は発狂寸前』・『調律の帝国』など。
みしな りんけい
	三品 藺渓
	1857(安政 4. 1. 1)
	1937. 1.26(昭和12)
	◇戯作者・新聞記者。本名は長三郎、別称は柳条亭華彦(リュウジョ
	ウテイ・ハナヒコ)・馨園・芳馨舎。江戸浅草生れ。父は幕府作事方清
	三郎。
	 1870(明治 3)大学南校に入学、1874(明治 7)工部大学電気建
	築科に入学するが中退。1875.11.(明治 8)工部省に入り、1877
	(明治10)西南戦争のため九州に出張、戦地の電信事務に従事、
	1880(明治13)退職。
	 病気静養中の投書から、1882(明治15)東京絵入新聞の記者と
	なる。1882(明治15)下阪し「此花新聞」・「日本絵入新聞」「浪華
	新聞」「東雲新聞」などに執筆。1888(明治21)東京改進新聞社に
	入社。1896(明治29)東京朝日新聞に移る。
みしま かいうん
	三島 海雲
	1878(明治11)
	1974(昭和49)
	◇カルピス食品工業(株)の創業者。
	 西本願寺派の教学寺住職の長男として大阪に生れる。
	 1919. 7. 7(大正 8)乳酸飲料水カルピスを発売。
みしま しょうどう
	三島 章道
	1897. 1. 1(明治30)
	1965. 4.20(昭和40)
	◇小説家・劇作家・演劇評論家。本名は通陽(ミチハル)。東京生れ。
	学習院卒業。三島通庸(ミチツネ)の孫。土方与志(ヒジカタ・ヨシ)は妹の
	夫。
	 貴族院議員・参議院議員・ボーイスカウト日本連盟総長。
みしま そうせん
	三島 霜川
	1876. 7.30(明治 9)
	1934. 3. 7(昭和 9)
	◇小説家・演劇評論家。本名は才二(サイジ)。富山県蠣波郡麻生
	村生れ。
	 1894(明治27)父の反対を押して上京し、一時済生学舎に学ぶ。
	1896(明治29)硯友社員となる。
	(5)誕生日は1876. 7.30(明治 9)。富山県生れ。
	(10)誕生日は1876. 7.30(明治 9)。富山県西蠣波郡麻生村生れ。
	(13)明治九年四月富山県蠣波郡麻生村に生まる。
みしま ちゅうしゅう《みしま ちゆうしう》
	三島 中洲
	1830(天保元.12. 9)
	1919. 5.12(大正 8)
	◇明治の漢学者・教育者。名は毅(キ)、字は遠叔、通称は
	貞一郎、別号は桐南・絵荘。備中(現:岡山県)生れ。
	 山田方谷、伊勢の斎藤拙堂(セツドウ)に学び、江戸に出て昌平
	黌(ショウヘイコウ)に入学し佐藤一斎・安積艮斎(アサカ・コンサイ)に師事。
	松山藩に仕え藩学有終館の会頭となる。
	 明治維新後は新治裁判所長・大審院中判事となる。
	 1877(明治10)官を辞して東京麹町の自宅に二松学舎を創立。
	 のち東京高等師範学校(後の東京教育大学)・東京帝国大学古
	典科の教授や東宮侍講・宮中顧問官となる。
	 著書は『詩書輯説』・『古今人文集』・『論文三百絶』など。
	(4)名は毅。
	(19)名は毅(ツヨシ)。
	(*)本名「毅」の読み「き」は親族の三島正明氏による。
	 参照文献:三島正明著『最後の儒者』。
みしま みちつね
	三島 通庸
	1835(天保 6)
	1888(明治21)
	◇明治前期の内務官僚・子爵。薩摩藩出身。三島章道(ショウドウ)
	の祖父。
	 江戸幕末に討幕運動に参加。
	 明治新政府では東京府権参事。
	 1874(明治 7)酒田県令となり県民のワッパ騒動を誘発し鎮圧。
	1882(明治15)福島県令となり福島事件を、1883(明治16)栃木県
	令を兼任し加波山(カバサン)事件を誘発。
	 1885(明治18)警視総監。三大事件建白運動には1887(明治20)
	保安条例を施行し、自由党員を追放・検挙するなど、終始自由
	民権運動の弾圧に奔走。
	◎通庸の言葉:「自由党と火つけ泥坊はわが県にはおかない」。
	◎加波山は茨城県。
みしま ゆきお《みしま ゆきを》
	三島 由紀夫
	1925. 1.14(大正14)
	1970.11.25(昭和45)
	◇昭和期の小説家・劇作家。本名は平岡公威(キミタケ)。東京市四
	谷区永住町2番地生れ。父梓・母倭文重(シズエ)の長男。
	 1931(昭和 6)学習院初等科入学、1942(昭和17)高等科に進学、
	1944. 9.(昭和19)卒業。同年10月東京帝国大学法学部入学。
	1945. 2.(昭和20)召集を受けるが即日帰郷。
	 1947.11.(昭和22)同大法学部を卒業、12月高等文官試験に合
	格し、翌年大蔵省に勤務したが、1948. 9.(昭和23)八ヶ月で退
	職。
	 唯美的世界を描いていたが、しだいにナショナリズム的傾向
	を持ち、「楯の会」を組織。
	 自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入、決起を訴えて東部方面総監室で
	割腹自殺。
	 著書は『仮面の告白』(1949)・『潮騒』・『金閣寺』・『鹿
	鳴館』・『憂国』・『豊饒の海』など。
	◆三島忌(由紀夫忌・憂国忌)[11.25]短編『憂国』から。
	 墓は東京都府中市の多磨霊園。
みずおち ろせき
	水落 露石
	1872(明治 5. 3.11)
	1919. 4.10(大正 8)
	◇俳人。本名は義弌(ギイチ)、通称は庄兵衛(ショウベエ)、別号は
	聴蛙亭(チョウアテイ)、旧号は石出(セキシュツ)。大阪生れ。武富瓦全(タケ
	トミ・ガゼン)の従兄。大阪商業学校卒業。
	(3)誕生日は 3.11。
	(5)誕生日は 3.10。本名義弌(ギイチ)。
	(10)誕生日は 3.11。本名義弌。
	(11)誕生日は 3.10。
	(13)本名義一。明治五年三月大阪の商家に生まれた。
みずき きょうた
	水木 京太
	1894. 6.16(明治27)
	1948. 7. 1(昭和23)
	◇劇作家・演劇評論家。本名は七尾(ナナオ)嘉太郎。秋田県横手
	町生れ。女優七尾伶子の父。
	 1912(大正元)上京し慶応義塾予科に入学、1919(大正 8)慶応
	義塾大学文科卒業。
みずしま におう《みづしま にほふ》
	水島 爾保布
	1884.12. 8(明治17)
	1958.12.30(昭和33)
	◇画家・小説家・随筆家。本名は爾保有。東京下谷根岸生れ。
	東京美術学校卒業。
	 日本漫画会に参加。大正初期、長谷川如是閑に招かれ大阪朝
	日新聞の専属画家となる。日本挿絵画家協会の設立に尽力。
みずしま ひろし《みづしま ひろし》
	水島 弘
	1932. 9.11(昭和 7)
	2005. 6.19(平成17)
	◇俳優。本名は水嶋弘道(ミズシマ・ヒロミチ)。仙台市生れ。
	 東京大学に在学中の1953(昭和28)劇団四季の創立に参加。
	 東京大学文学部仏文科卒業。
	 肺炎で死去。
みずた なんよう
	水田 南陽
	1869(明治 2. 1.)
	没年不詳
	◇小説家・新聞記者。本名は栄雄。淡路(現:兵庫県)薦江(コモエ)
	生れ。立教大学卒業。
みずた みつこ
	水田 光子
	1882. 7.30(明治15)
	1964. 1.10(昭和39)
	◇童話研究家。本名はミツ。熊本生れ。地理学者山崎直方(ナオマ
	サ)の妻、神話学者松村武雄の義姉。お茶の水女子高等師範学校
	卒業。
みずたに げんか
	水谷 幻花
	1865(慶応元. 7.17)
	1943. 6.20(昭和18)
	◇演劇評論家。本名は乙次郎。江戸深川生れ。
	 万朝報の記者を経て、1900(明治33)東京朝日新聞社に入社、
	1923.10.(大正12)退社。
みずたに さいこ
	水谷 砕壺
	1903.10.24(明治36)
	1967.10. 3(昭和42)
	◇俳人。本名は勢二。徳島県生れ。関西学院高等商業学校卒業。
みずたに ちくし
	水谷 竹紫
	1882.10. 8(明治15)
	1935. 9.14(昭和10)
	◇劇作家・演出家。本名は武。長崎生れ。女優水谷八重子(松
	野八重子)は義妹。
	 1906(明治39)早稲田大学文学部卒業。
	 1913(大正 2)島村抱月の芸術座の理事。関東大震災後、1924.
	 2.(大正13)第二次芸術座を再興、水谷八重子を育成。
みずたに ふとう《みづたに ふたう》
	水谷 不倒
	1858(安政 5.11.15)
	1943. 6.21(昭和18)
	◇国文学者・小説家。本名は弓彦。尾張国(名古屋市長者町)生
	れ。父は国学者水谷民彦。
	 1879(明治12)陸軍教導団に入隊、1888(明治21)陸軍曹長で除
	隊。
	 のち東京専門学校(現:早稲田大学)卒業。1899(明治32)大阪
	毎日新聞に入社、1905.12.(明治38)退社。
	 著書は『近世列伝体小説史』・『草双紙と読本の研究』・
	『絵入浄瑠璃史』・『撰択古書解題』など。
みずたに まくま
	水谷 真熊
	1870(明治 3. 5.16)
	1925. 2.17(大正14)
	◇雑誌編集者。号は大遊子・空湖・雁山。熊本県生れ。上塚俊
	蔵の次男。いちじ水谷家の養子となるが上塚に復する。
	 大江義塾を経て東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒
	業。
みずたに まさる
	水谷 まさる
	1894.12.25(明治27)
	1950. 5.25(昭和25)
	◇児童文学者・詩人。本名は勝。東京生れ。早稲田大学英文科
	卒業。
	 コドモ社編集部に入社、のち東京社に移る。
みずたに やえこ《みづたに やへこ》
	水谷 八重子(初代)
	1905(明治38)
	1979.10. 1(昭和54)
	◇女優。本名は松野八重子。東京生れ。
	 芸術座で新劇の子役として出発。のち、映画を経て、新派劇
	の名優となり、花柳章太郎亡きあと同劇団を支える。
	 主演作品は『大尉の娘』・『婦系図』・『滝の白糸』・『鹿
	鳴館』など。
みずの しげお
	水野 成夫
	1899.11.13(明治32)
	1972. 5. 4(昭和47)
	◇翻訳家・実業家。静岡県生れ。東京大学仏法科卒業。
	 毎日新聞に入社。五・一五事件に連座し検挙。1940(昭和15)
	大日本再製紙株式会社を創立。
	 太平洋戦争後は国策パルプ専務・文化放送社長・産経新聞社
	長。
みずの じゅうろうざえもん《みづの じふらうざゑもん》
	水野 十郎左衛門
	生年不詳
	1664(寛文 4)
	◇江戸前期の旗本。幼名は百助、名は貞義のち成之。水野成貞
	(福山藩主水野勝成の三男)の長子、母は徳山城主蜂須賀至鎮の
	娘。
	 1650(慶安 3)父の遺領3千石を継ぎ将軍家綱の小普請組とな
	る。しかし出仕が怠りがちで、無頼の旗本を糾合して旗本奴神
	祇組を組織し市中を横行。
	 1657(明暦 3)町奴白柄組の幡随院(バンズイイン)長兵衛を喧嘩の
	上で殺害。
	 1664(寛文 4)至鎮の子光隆に預けられ、評定所で調べられた
	のち切腹、2歳の子供も斬罪。
	◆墓は東京都中野区の万昌院。
みずの すいこう
	水野 酔香
	1873(明治 6)
	1914. 5.23(大正 3)
	◇俳人。本名は幸吉。兵庫県淡路洲本生れ。
	 1900(明治33)駐独公使館員として赴任。
みずの せんこ
	水野 仙子
	1888.12. 3(明治21)
	1919. 5.31(大正 8)
	◇小説家。本名は服部てい子(貞子)。福島県岩瀬郡須賀川町生
	れ。服部直太郎の三女、歌人服部躬治(モトハル)の実妹。
	 1905. 3.(明治38)須賀川裁縫専修学校卒業。
	 田山花袋に師事。1911. 9.(明治44)花袋門下の川浪道三と結
	婚。1915(大正 4)読売新聞社の記者。1916(大正 5)肋膜炎を患
	い帰郷。
	 1919(大正 8)転地先の上野草津の姉の家で死去。
みずの ただあきら《みづの ただあきら》
	水野 忠成
	1762(宝暦12.12. 1)
	1834(天保 5. 2.28)
	◇江戸後期の沼津藩主・幕府老中。旗本岡野肥前守知暁の次男。
	 もと旗本水野家の養子となり、1784(天明 4)大和守となる。
	 津軽沼津藩主水野出羽守忠友の養子忠徳(田沼意次の次男)が
	田沼意次(オキツグ)の失脚により離縁となって、忠友の養嗣子と
	なる。
	 1802(享和 2)忠友没後、家督を継いで出羽守となる。
みずの ただくに《みづの ただくに》
	水野 忠邦
	1794(寛政 6. 6.23)
	1851(嘉永 4. 2.16)
	◇江戸後期の幕府老中首座。幼名は於莵五郎、号は松軒・菊園、
	通称は越前守。唐津藩主忠光の次子、忠精の父。
	 1812(文化 9)6万石襲封(実封25.3万石)。1817(文化14)寺社
	奉行。唐津藩主から1817(文化14)6万石浜松(実封15.3万石)に
	願い出て転封。
	 1825(文政 8)大坂城代・1826(文政 9)京都所司代・1828(文
	政11)西丸老中・1834(天保 5)本丸老中・1837(天保 8)御勝手
	掛を歴任。
	 1841(天保12)将軍家斉が薨じて家慶が将軍に就任するとこれ
	を助け、腹心鳥居耀蔵(ヨウゾウ)・渋川六蔵・後藤三右衛門を登
	用し天保の改革に着手。奢侈禁止・風俗粛正に努めたが、苛酷
	に過ぎて庶民の怨みを買い、また1843(天保14)上知令を断行し
	ようとして大名・旗本の反対で失脚。
	 翌年外国問題紛糾によって再び老中と復活したが、登用した
	鳥居耀蔵らの在職中の不正疑獄により1万石没収・隠居謹慎、
	子の忠精は山形へ転封となる。
	◎唐津から浜松への転封願いは、唐津藩が慣例によって長崎御
	岡役の任務を負い閣老に登用されないため、忠邦が側近の諌止
	を退けて願い出たものである。
みずの としかた
	水野 年方
	1866(慶応 2. 1.20)
	1908. 4. 7(明治41)
	◇明治時代の浮世絵師・画家。通称は粂次郎。江戸神田生れ。
	 月岡芳年に学ぶ。「やまと新聞」の挿し絵で名を高める。
	 弟子に鏑木清方(カブラギ・キヨカタ)がいる。
みずの ひろのり
	水野 広徳
	1875. 5.24(明治 8)
	1945.10.18(昭和20)
	◇小説家・軍事評論家。愛媛県三津浜村(現:松山市)生れ。
	 1896(明治29)海軍兵学校入学、1898(明治31)卒業。
	 1911. 3.(明治44)日本海海戦を表した『此一戦』(博文館)を
	刊行、桜井忠温の『肉弾』と並称される。
	 1921(大正10)現役軍人を引退。
みずの ようしゅう
	水野 葉舟
	1883. 4. 9(明治16)
	1947. 2. 2(昭和22)
	◇歌人・詩人・随筆家・小説家。本名は盈太郎(ミツタロウ)、初号
	は蝶郎(チョウロウ)。東京下谷(シタヤ)区仲御徒町生れ。父勝興・母実
	枝の長男。
	 1888(明治21)父が農商務省から九州鉄道株式会社に転勤し、
	一家は福岡市に移住。1895(明治28)福岡県立豊津中学校に入学、
	1900. 3.(明治33)卒業。
	 1901(明治34)早稲田大学高等予科に入学、1905(明治38)早稲
	田大学政治経済科卒業。
	◆成田市三里塚公園内に歌碑がある。
みずの ろくさんじん
	水野 六山人
	1878. 4.(明治11)
	1938.10.10(昭和13)
	◇俳人・弁護士。本名は豊。新潟県生れ。
みずはら しゅうおうし
	水原 秋桜子
	1892.10. 9(明治25)
	1981. 7.17(昭和56)
	◇医学博士・俳人。本名は豊、別号は喜雨亭・白鳳堂。東京市
	神田区猿楽(サルガク)町12番地生れ。父漸(ススム)・母治子の長男。
	 東京高等師範学校付属小学校・独逸学協会中学部を経て、2
	浪し、1911(明治44)第一高等学校入学。1914(大正 3)東京帝国
	大学医学部に入学、卒業。
	 1926(大正15)医学博士。1928(昭和 3)昭和医専教授。1932
	(昭和 7)宮内省侍医寮御用掛。
みずはら ひろし
	1935.11. 1(昭和10)
	1978. 7. 5(昭和53)
	◇歌手。
	 ヒット曲は『黒い花びら』。
みずまち きょうこ
	水町 京子
	1891.12.25(明治24)
	1974. 7.19(昭和49)
	◇歌人。本名は甲斐みち。香川県高松市生れ。
	 1915(大正 4)東京女子高等師範学校国文科卒業。
	(3)本名は甲斐ミチ。
	(5)本名は甲斐(カイ)みち。東京女高師卒。
	(10)本名は甲斐みち。東京女高師文科(大四)卒業。
	(11)本名は甲斐(カイ)みち。
みすみ かん
	三角 寛
	1903. 7. 2(明治36)
	1971.11. 8(昭和46)
	◇小説家。本名は三浦守。大分県生れ。日本大学法科卒業。
	 1926. 3.(大正15)朝日新聞社に入社、社会部で警視庁詰めに
	なり、1933(昭和 8)退社。
みずもり かめのすけ
	水守 亀之助(水守 龜之助)
	1886. 6.22(明治19)
	1958.12.15(昭和33)
	◇小説家。兵庫県若狭野村(現:相生市)生れ。大阪医学校中退。
	 1906(明治39)上京。1914(大正 3)中央公論社へ入社するが1
	日で辞める。1917(大正 6)春陽堂に入社。1919(大正 8)新潮社
	に入社。
	 晩年は生活保護を受ける。
みずもり さぶろう
	水守 三郎
	1905. 1.18(明治38)
	1973. 7. 7(昭和48)
	◇脚本家。本名は水盛源一郎。広島生れ、本籍は現在の東京都
	墨田区菊川1ノ31。
	 広島第一中学校を経て、1929(昭和 4)早稲田大学英文科卒業。
みぞぐち けんじ
	溝口 健二
	1898. 5.16(明治31)
	1956. 8.24(昭和31)
	◇映画監督。東京湯島生れ。
	 1920(大正 9)日活向島撮影所に入る。
	 代表作は1926『紙人形春の囁き』・1936(昭和11)『浪華悲歌』
	・1939(昭和14)『残菊物語』・1952(昭和27)『西鶴一代女』・
	1953(昭和28)『雨月物語』・1954(昭和29)『近松物語』など。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
みぞぐち はくよう
	溝口 白羊
	1881. 6. 5(明治14)
	1945. 2. 4(昭和20)
	◇詩人・神道研究家。本名は駒造。大阪生れ。早稲田大学専門
	部法律科卒業。
みた れいじん
	三田 澪人
	1894. 1. 7(明治27)
	1966. 1. 2(昭和41)
	◇歌人。本名は柴田儀雄。愛知県一宮市生れ。
みたに あきら
	三谷 昭
	1911. 6. 5(明治44)
	1978.12.24(昭和53)
	◇俳人。東京市北豊島郡巣鴨村生れ。東京府立第五中学校卒業。
	 1930(昭和 5)素人社に入社。1936(昭和11)東京市赤坂区役所
	嘱託、『赤坂区史』編纂。1941(昭和16)実業之日本社に入社。
みたに たかまさ
	三谷 隆正
	1889. 2. 6(明治22)
	1944. 2.17(昭和19)
	◇教育者(キリスト教)。神奈川県生れ。姉民子は女子学院校長。
	 第一高等学校を経て東京帝国大学法科卒業。
みたむら えんぎょ
	三田村 鳶魚
	1870(明治 3. 3.17)
	1952. 5.14(昭和27)
	◇江戸文化・風俗研究家。本名は玄竜(玄龍)。東京八王子大横
	町生れ。
	 母とともに東京下谷御徒町に移り、松前小学校に通う。東京
	仏学校・横浜法律学校などに学ぶがいづれも中退。
	(5)誕生日は 3.17。東京に生れ……。
	(10)誕生日は 3.17。武州八王子大横六八、織物屋三田村善平
	の次男として生れた。
	(13)誕生日は 3.15。
みちのみや ひろひと
	迪宮 裕仁
	⇒しょうわ てんのう(昭和 天皇)
みつい げんえもん
	三井 源右衛門
	1867. 6.24(慶応 3. 5.22)
	1945. 5.31(昭和20)
	◇明治〜昭和初期の実業家。名は堅三郎。三井松坂家第7代
	高敏の三男、母はくが。
	 1883.11.(明治16)三井北家高朗の養子、2日後に三井新町家
	高辰の婿養子。
	 1893(明治26)源右衛門を襲名。1894(明治27)三井呉服店社長
	・三井家同族会理事。1905(明治38)三井鉱山会社の監査役。
	1909.10.(明治42)三井合名会社が設立しその監査役、1912(明
	治45)監査部長。1913(大正 2)三井鉱山会社の代表取締役。
	 三井物産社長(1914. 7.〜1920. 1.)・三井銀行社長(1920. 1.
	〜1934. 2.)など。
みつい こうし
	三井 甲之
	1883.10.16(明治16)
	1953. 4. 3(昭和28)
	◇歌人・詩人。本名は甲之助。山梨県甲府在松島生れ。
	 第一高等学校を経て、1907(明治40)東京大学国文科卒業。
	 1928(昭和 3)シキシマノミチ会を作り、天皇が作った和歌を
	拝唱する運動やてのひら療治をするなど、右翼イデオローグと
	して活躍。
みつい こうや
	三井 光弥
	1890. 6. 3(明治23)
	1952. 9. 2(昭和27)
	◇ドイツ文学者。山形県鶴岡市生れ。1915(大正 4)東京大学独
	文科卒業。
みつい じゅさん
	三井 寿讃
	1636(寛永13)
	1696.11. 7(元禄 9.10.13)
	◇江戸前期の女商人。名はかね。江戸両替商中川氏の娘。三井
	家初代高利(タカトシ)の妻。
みつい しゅほう
	三井 殊法
	1590(天正18)
	1676.10.16(延宝 4. 9. 9)
	◇江戸前期の女商人。法名は殊法。伊勢国多気郡丹生村生れ、
	商家永井家の出。三井俊次・重俊・高利(タカトシ)の母。
	 1602(慶長 7)松阪の三井高俊に嫁し、質屋・酒屋・味噌屋を
	経営。
みつい しんな
	三井 親和
	1700(元禄13)
	1782. 4.19(天明 2. 3. 7)
	◇江戸中期の書家・武術家。通称は孫兵衛、字は孺卿(ジュケイ)、
	号は竜湖・万玉亭など。
みつい たかとし
	三井 高利
	1622(元和 8)
	1694. 4.19(元禄 7. 5. 6)
	◇江戸前・中期の豪商。通称は八郎兵衛、法名は宗寿。父則兵
	衛高俊(道鏡)と母殊法(シュホウ)の末子8男。妻はかね(寿讃)、高
	平(タカヒラ)・高富(タカトミ)・高治の父。伊勢国松阪生れ。
	 1673年、江戸・京都に越後屋呉服店を開業。1683(天和 3)江
	戸・1686(貞享 3)京都に両替店を開業。1687(貞享 4)幕府の呉
	服御用達・金銀為替御用達。
	(*)1673(寛文13,延宝元)。
	◆墓地は京都市左京区真正極楽寺の真如堂。
みつい たかとみ
	三井 高富
	1654(承応 3)
	1709. 6.12(宝永 6. 5. 5)
	◇江戸中期の豪商。名は2代目八郎右衛門。三井高利の次男、
	高平(タカヒラ)の弟。京都生れ。
みつい たかひら
	三井 高平
	1653. 5.24(承応 2. 4.27)
	1737. 1.17(元文 2.閏11.27)
	◇江戸中期の豪商。名は初代八郎右衛門、法号は宗竺(ソウチク)。
	三井高利の長男、高富の兄。三井高房の父。
みつい たかふさ
	三井 高房
	1684. 2.16(天和 4. 1. 1)
	1748.11. 7(寛延元.10.17)
	◇江戸中期の豪商、三井北家(総領家)の3代目。名は八郎右衛
	門。三井高平の長男、高美の父。
みつい たかやす
	三井 高保
	1850. 7. 5(嘉永 3. 5.26)
	1922. 1. 4(大正11)
	◇明治・大正時代の実業家。高福(タカヨシ)の5男、母は津尾。
	 1868(慶応 4. 2.)三井室町家の養子となり、家督を継ぐ。
	 1891(明治24)三井銀行総長、のち社長。
みつい たかよし
	三井 高福
	1808.11.14(文化 5. 9.26)
	188512.20(明治18)
	◇江戸幕末・明治維新期の実業家、三井北家(総領家)の8代目。
	通称は八郎右衛門。三井高就の子、母は列。三井高朗・八郎次
	郎の父。
	 鳥羽伏見戦争の際、朝廷側に献金。
	 1876(明治 9)三井銀行の初代総長。
みつい たかよし
	三井 高喜
	1823.10.24(文政 6. 9.21)
	1894. 3.11(明治27)
	◇江戸幕末・明治前期の実業家。幼名は八十助、のち三郎助。
	三井南家高英(タカヒデ)の8男。京都生れ。
	 1832(天保 3)小石川三井家の養子となり、1847(弘化 4)家督
	を相続し三郎助と改名。
	 1876(明治 9)三井銀行創立の副長。1885〜1891(明治18〜明
	治24)三井銀行総長。
みつい はちろうじろう
	三井 八郎次郎
	1849. 4.29(嘉永 2. 4. 7)
	1919. 9.30(大正 8)
	◇明治・大正時代の実業家、三井南家の8代目。本名は高弘。
	京都生れ。三井高福(タカヨシ)の4男、母は津尾。
	 1849(嘉永 2. 5.)三井南家7代目高愛の養子となり、1853
	(嘉永 6)家督を相続。
	 1872(明治 5)八郎次郎を襲名。
	 1879(明治12)三井組を代表して第一国立銀行の取締役。1894
	(明治27)三井鉱山会社の理事。1901(明治34)三井物産社長に就
	任、1914(大正 3)シーメンス事件後に引責辞任。
みついし かつごろう
	三石 勝五郎
	1888.11.25(明治21)
	1976. 8.19(昭和51)
	◇詩人。長野県青沼村生れ。1913(大正 2)早稲田大学英文科卒
	業。
みつおか はちろう《みつをか はちらう》
	三岡 八郎
	⇒ゆり きみまさ(由利 公正)
みつぎ しゅんえい
	三津木 春影
	1881.10.15(明治14)
	1915. 7.14(大正 4)
	◇小説家。本名は一実(カズミ)。長野県上伊那郡伊那町生れ。三
	津木貞子(テイコ)の夫。
	 松本中学校・金沢英学院を経て早稲田大学英文科を卒業。
みつぎ ていこ
	三津木 貞子
	1883. 8.31(明治16)
	1945. 2.21(昭和20)
	◇小説家。栃木県那須郡佐久山町生れ。三津木春影(シュンエイ)の
	妻。
	 栃木県立宇都宮高等女学校を卒業。
みつくり かきち
	箕作 佳吉
	1857(安政 4)
	1909(明治42)
	◇明治期の動物学者。箕作秋坪(シュウヘイ)の三男、菊池大麓(ダイロ
	ク)の弟、箕作元八(ゲンパチ)の兄。
	 大学南校に学ぶ。渡米してエール大学などで動物学を修め、
	ついでケンブリッジ大学に学ぶ。
	 東京大学動物学科教授。日本最初の臨海実験所を三浦三崎に
	建設。
みつくり げんぱち
	箕作 元八
	1862(文久 2. 5.29)
	1919(大正 8. 8. 9)
	◇明治・大正期の西洋史学者。号は南亭。箕作秋坪(シュウヘイ)の
	4男、母は阮甫(ゲンポ)の次女、菊池大麓(ダイロク)・箕作佳吉(カ
	キチ)の弟、麟祥(リンショウ)の従弟。
	 東京外語学校で英語を、東京大学理科大学で動物学を修め、
	1886(明治19)ドイツに留学し動物学を研究していたが、強度の
	近視のため史学に転向し、トライチュケ(Treichke),ランケ
	(Ranke)らに師事。
	 1892(明治25)帰国。東京高等師範学校・第一高等学校教授。
	フランスに留学、フランス革命史を研究。
	 1902(明治35)帰国して、東京大学教授(西洋史)。陸・海軍大
	学校で戦史を講義。
	(2)(生)江戸。
	(4)津山の人。
	(15)岡山県に生れる。
	(16)岡山県の生まれ.
みつくり げんぽ
	箕作 阮甫
	1799(寛政11)
	1863(文久 3. 6.17)
	◇江戸末期の津山藩蘭医。名は虔儒、字は庠西、別号は紫川・
	逢谷・咸牛。津山藩医貞固の子、母は万波清子、箕作省吾(ショウ
	ゴ)と箕作秋坪(シュウヘイ)の養父。呉茂一(クレ・シゲイチ)の曾祖父。
	 京都に出て医学を修得。1822(文政 5)津山藩医。江戸藩邸に
	移り古賀(「人」偏+「同」:補1710)庵に儒学、宇田川榛斎(シンサイ)に
	蘭医学を学ぶ。1827(文政10)幕命により蘭書を翻訳。
	 1839(天保10)幕府天文方の蕃書和解方(翻訳)。1853(嘉永 6)
	露使プチャーチンを長崎に応接し、1854ペリーとの日米和親条
	約(鎖国を破った)に参画。1856(安政 3)蕃書調所が設置され教
	授となる。1858(安政 5)安政の仮条約(米・蘭・露・英・仏)締
	結に尽力。1862(文久 2)幕臣に列せられる。
	(2)美作国津山藩医貞固の子……。
	(16)美作津山藩主の侍医大庵の子.
	(*)1854(嘉永 7,安政元)。
みつくり しゅうへい《みつくり しうへい》
	箕作 秋坪
	1825(文政 8.12. 8)
	1886.12. 3(明治19)
	◇江戸幕末・明治初期の幕臣(外国方)・洋学者。名は文蔵・矩。
	儒者菊池文理の子、箕作阮保(ゲンポ)の娘婿、奎吾(ケイゴ)・
	大六(ダイロク)・佳吉(カキチ)・元八(ゲンパチ)の父。備中国上呰部(ア
	ザエ)生れ。
	 古賀(「人」偏+「同」:補1710)庵・緒方洪庵に学ぶ。
	 蕃書調所の教官のち幕府天文方で翻訳に従事、欧州・ロシア
	に出張。ロシアとの樺太境界交渉に参加。
	 明治維新後は三叉学舎を創立、明六社に参加。晩年は東京師
	範学校摂理・東京教育博物館長・東京図書館長。
	(6)美作(ミマサカ)の人。
みつくり しょうご
	箕作 省吾
	1822(文政 5)
	1847(弘化 4)
	◇江戸後期の蘭学者・地理学者。名は寛、字は玉海。仙台藩士
	佐々木秀規の次男、箕作阮保(ゲンポ)の養子、箕作麟祥(リンショウ)
	の父。陸奥国水沢生れ。
	 江戸に出て阮保の門人となり才学をみこまれて、1844年阮保
	の3女を妻として養子となる。
	 蘭語の地理書を翻訳し体系的な世界地誌『坤輿図識』を著す。
	 肺を患い早逝。
	(*)1844(天保15,弘化元)。
	(2)生年は1821(文政 4)。
	(16)生年は1822(文政 5)。
みつくり りんしょう《みつくり りんしやう》
	箕作 麟祥
	1846(弘化 3. 7.29)
	1897.12. 1(明治30)
	◇明治期の法学者・官僚。初名は貞一郎。箕作省吾(ショウゴ)の
	子、箕作阮保(ゲンポ)の嫡孫、箕作元八(ゲンパチ)の従兄。江戸
	津山藩邸に生れる。
	 1861年蕃書調所英学教授手伝・開成所教授見習・翻訳御用頭
	取。1867(慶応 3)パリ万国博覧会派遣使節徳川昭武一行に従い
	フランスに派遣。
	 明治維新後、新政府に出仕し、一等書記官・大学大博士・太
	政官翻訳局長。1880(明治13)元老院議官。1888(明治21)黒田内
	閣の司法大丞、法学博士。1890(明治23)貴族院勅選議員。1893
	(明治26)法典調査会主査委員。1895(明治28)行政裁判所長官。
	和仏法律学校(現:法政大学)校長。
	 民法・会社法・破産法・商法の起草に尽力。
	 死に際して男爵を賜る。
	(2)(生)江戸。
	(4)津山の人。
	(16)没日は12. 1。津山の生まれ.
	(?)没日、11.29。
	(*)1861(万延 2,文久元)。
みつせ としあき
	光瀬 俊明
	1899. 9.25(明治32)
	1974. 5.17(昭和49)
	◇小説家・宗教家(生命会)。宮崎県児湯郡木城村生れ。父は医
	者光瀬文志。
	 第六高等学校予科を病気により中退。
みつたに くにしろう
	満谷 国四郎
	1874.10.11(明治 7)
	1936. 7.12(昭和11)
	◇画家。岡山県生れ。中学校中退。
	 五姓田芳柳・小山正太郎に師事。同志とともに太平洋画会を
	創立。
みつはし けんきょう
	三橋 検校
	生年不詳
	1760(宝暦10)
	◇江戸中期の邦楽家。京都の人。
	 倉橋検校・生田検校の門下。
みつはし たかじょ
	三橋 鷹女
	1899.12.24(明治32)
	1972. 4. 7(昭和47)
	◇俳人。本名はたか子、旧号は東鷹女。千葉県成田町生れ。成
	田高等女学校卒業。
	 1922(大正11)歯科医東(アズマ)剣三(兼三)に嫁し、1942(昭和
	17)実家の長兄が死去したため一家で三橋家を継いだ。
みつもち きよし
	光用 穆
	1887. 3.10(明治20)
	1943.10.12(昭和18)
	◇小説家。新潟県生れ。
	 1909(明治42)早稲田大学英文科卒業。
みつや うたこ
	三ツ矢 歌子
	1936. 8. 1(昭和11)
	2004. 3.24(平成16)
	◇女優。本名は小野田宇汰子(オノダ・ウタコ)。大阪市出身。夫は映
	画監督の小野田嘉幹(ヨシキ)。
	 プール学院高校、卒業。
	 1956(昭和31)新東宝と専属契約を結び、映画『君ひとすじに』
	でデビュー。
	 1960年代以降はテレビを中心に出演し、「昼メロの女王」と呼
	ばれた。
みと こうもん《みと くわうもん》
	水戸 黄門
	⇒とくがわ みつくに(徳川 光圀)
みと みつくに
	水戸 光圀
	⇒とくがわ みつくに(徳川 光圀)
みとみ きゅうよう
	三富 朽葉
	1889. 8.14(明治22)
	1917. 8. 2(大正 6)
	◇詩人。本名は義臣(ヨシオミ)、朽葉は「くちは」とも。長崎県壱岐
	郡武生水村生れ。父道臣は石田郡長、母はマツ、長男。
	 1896. 4.(明治29)伯父三富浄の養嗣子となるが、実父母と上
	京。2・3の転校を経て、1902. 4.(明治35)富士見小学校高等
	科2学年を終業。暁星中学校を経て、1907. 9.(明治40)早稲田
	大学高等予科文学科に入学、1908. 9.(明治41)本科英文科第一
	部に進学、1911. 7.(明治44)早稲田大学英文科卒業。
	 犬吠崎(イヌボウザキ)君ヶ浜で遊泳中、友人今井白楊が溺れかかっ
	たのを救おうとして共に溺死。のちに実父が「涙痕(ルイコン)の碑」
	を建てた。
	(5)三富 朽葉(みとみ きゅうよう,くちはトモ)。
	(10)三富 朽葉(みとみ くちは)。朽葉は雅号で一般に「きゅ
	うよう」といわれているが、書簡の署名には「くち葉」とあるの
	で「くちは」と呼ぶのが正しい。
	(11)三富 朽葉(みとみ きゅうよう)。
	(13)三富 朽葉(みとみ きゅうよう)。
みとみ くちは
	三富 朽葉
	⇒みとみ きゅうよう(三富 朽葉)
みどろ ますいち
	美土路 昌一
	1886. 7.16(明治19)
	1973. 5.11(昭和48)
	◇新聞人・実業家。岡山県津山生れ。早稲田大学英文科中退。
	 1908(明治41)朝日新聞社に入社。戦後、全日空社長。1964〜
	1967(昭和39〜昭和42)朝日新聞社社長。
みなかた くまぐす
	南方 熊楠
	1867(慶応 3. 4.15)
	1941.12.29(昭和16)
	◇生物学者・民俗学者。紀伊国生れ。金物商南方弥兵衛の次男。
	 1883(明治16)和歌山中学校を卒業して上京。共立学校を経て、
	1884(明治17)大学予備門に進学、1886(明治19)中退。
	 同年渡米、1887(明治20)サンフランシスコの商科大学に入学、
	同年ミシガン州立農科大学に転校、1888(明治21)退学。
	 1891(明治24)大英博物館東洋調査部員。
	 1900(明治33)帰国、和歌山県田辺市に住み、粘菌類を研究。
みなかみ たきたろう《みなかみ たきたらう》
	水上 滝太郎(水上 瀧太郎)
	1887.12. 6(明治20)
	1940. 3.23(昭和15)
	◇小説家・評論家・劇作家。本名は阿部章蔵。東京市麻布区飯
	倉(イイクラ)町三丁目一五番地生れ。
	 1894. 4.(明治27)芝区御田小学校に入学、1900(明治33)同校
	高等科2年を修了。同年4月慶応義塾普通部に入学、2年と3
	年を再修して、1907(明治40)普通部を修了し大学予科に進学。
	1909. 4.(明治42)本科理財科に進学、1912. 3.(明治45)卒業。
	 同年9月渡米、ハーヴァード大学に二ヶ年留学、英仏を経て
	1916.10.(大正 5)帰国。
	 同年12月明治生命に入社。専務取締就任一ヶ月後、同社講堂
	で脳溢血になり死去。
	 作品は『山の手の子』・『大阪』・『大阪の宿』・『貝殻追
	放』など。
	◎父阿部泰蔵は愛知県下吉田生れで明治生命保険相互会社の創
	設者。
みなかみ つとむ
	水上 勉
	1919. 3. 9(大正 8)
	2004. 9. 8(平成16)
	◇作家。福井県大飯町生れ。
	 貧しい宮大工の次男に生れ、9歳で京都の臨済宗相国寺の徒
	弟に出され得度。寺になじめず、たびたび出奔(シュッポン)を繰り
	返し17歳で還俗(ゲンゾク)。
	 立命館大学国文科を中退。
	 1938(昭和13)満州に渡るが体調を崩して帰郷。療養後、東京
	の業界紙など職を転々とする。
	 第二次世界大戦後、作家の宇野浩二氏に師事。
	 1948(昭和23)私小説『フライパンの歌』。
	 一時、文学を離れて洋服の行商や広告取りなどの苦しい生活
	を送る。
	 1959(昭和34)共産党のトラック部隊に取材した『霧と影』。
	 1960(昭和35)水俣病に取材した『海の牙』で探偵作家クラブ
	賞を受賞。
	 1961(昭和36)禅寺体験をもとにした『雁の寺』(別冊文芸春
	秋)で第45回直木賞を受賞。
	 1971(昭和46)『宇野浩二伝』で菊池寛賞を受賞。
	 1973(昭和48)『兵卒の鬣』と『北国の女の物語』で吉川英治
	文学賞を受賞。
	 1975(昭和50)『一休』で谷崎潤一郎賞を受賞。
	 1977(昭和52)『寺泊』で川端康成文学賞を受賞。
	 1984(昭和59)『良寛』で毎日芸術賞を受賞。
	 1986(昭和61)芸術院恩賜賞を受賞。
	 1988(昭和63)芸術院会員。
	 1989(平成元)日中文化交流協会訪中団の団長として訪問中。
	 1998(平成10)文化功労者。
	 2002.12.(平成14)『虚竹の笛』で親鸞賞を受賞。
	 肺炎で死去。
	 作品は『五番町夕霧楼』・『越後つついし親不知』・『飢餓
	海峡』・『越前竹人形』・『金閣炎上』・『泥の花』など。
みながわ きえん《みながは きゑん》
	皆川 淇園
	1734(享保19)
	1807(文化 4)
	◇江戸後期の儒者。京都の人。
みなぐち びよう
	水口 薇陽
	1873. 5.30(明治 6)
	1940.12.25(昭和15)
	◇俳優。本名は鹿太郎。岡山生れ。
	 1923(大正12)日本映画俳優学校を設立。学校解散後は大連放
	送局顧問。
みなぶちのしょうあん《みなぶちのしやうあん》
	南淵 請安
	生年不詳
	没年不詳
	◇飛鳥時代の学問僧。
	  608[推古16]隋に渡り、 640[舒明12]帰国。
	 中大兄皇子・中臣鎌足に儒学を授ける。
みなみ くんぞう
	南 薫造
	1883. 7.21(明治16)
	1950. 1. 6(昭和25)
	◇画家。広島県加茂郡安浦町生れ。
	 東京美術学校卒業後、欧州に留学し1910(明治43)帰国。
みなみ しんじ
	南 新二
	1835(天保 6. 1. 7)
	1895.12.29(明治28)
	◇戯作者・小説家・演劇評論家。本名は谷村要助(ヨウスケ)、別称
	は北古三・東の喜三二・馬の武左衛門・春育・三育・谷村斐太
	(アヤタ)・斐野屋太郎兵衛、俳号は布川。号は居住地の南新堀二
	丁目に因む。江戸生れ。
	 幕府の御数寄屋(オスキヤ)坊主で、明治維新後、骨董商・回漕会
	社員を経て、「東京絵入新聞」・「東京日日新聞」・「やまと新聞」
	などの新聞記者となる。
	 1892(明治25)脳溢血になるが病中も筆を執った。
	(5)没日は12.26。
	(10)没日は12.29。
	(11)没日は12.26。
	(13)没日は12.29。
みなみ たつひこ
	南 達彦
	1898. 2.11(明治31)
	1963.12.14(昭和38)
	◇小説家。本名は三井七衛。大阪市曾根崎新地生れ。関西大学
	経済科卒業。ユーモア作家会員。
みなみ としお《みなみ としを》
	三波 利夫
	1908. 5.28(明治41)
	1938.12.14(昭和13)
	◇小説家・評論家。本名は北沢寿久。長野県生れ。東京高等師
	範学校中退。
みなみ はるお《みなみ はるを》
	三波 春夫
	1923. 7.19(大正12)
	2001. 4.14(平成13)
	◇歌手。本名は北詰文司(キタヅメ・ブンジ)。新潟県越路町出身。
	三波豊和(トヨカズ)(俳優)の父。
	 父の事業失敗で、上京し小学校卒業後、米店や魚河岸で働く。
	 1939(昭和14)日本浪曲学校に入学。のち南篠文若(ナンジョウ・フミ
	ワカ)の芸名で浪曲家デビュー。
	 召集され、戦後4年間シベリアへ抑留。
	 1951(昭和26)座長として地方巡業を開始。
	 1957(昭和32)芸名を三波春夫に改名し、歌手デビュー。
	 1958(昭和33)芸術祭優秀賞、受賞。
	 1986(昭和61)紫綬褒章、受章。
	 1994(平成 6)勲四等旭日小綬章ね受章。
	 ヒット曲は『チャンチキおけさ』・『船方さんよ』・『東京
	五輪音頭』・『世界の国からこんにちは』など多数。
	◎「お客様は神様です」の名文句で親しまれた。
	◎2002. 4.14(平成14)越路町で銅像除幕式。
みなみ ひろし
	南 博
	1914. 7.(大正 3)
	2001.12.17(平成13)
	◇社会心理学者。妻は恵美子(新劇女優)。
	 京都大学哲学科卒業。アメリカのコーネル大学大学院に留学。
	 社会心理研究所を設立。
	 一橋大学名誉教授。
	 1981(昭和56)日本心理センターを設立し、所長。
みなみ ゆきお
	南 幸夫
	1896. 3.21(明治29)
	1964. 8.19(昭和39)
	◇小説家。和歌山市生れ。東京帝国大学英文科卒業。
みなみかわ じゅん
	南川 潤
	1913. 9. 2(大正 2)
	1955. 9.22(昭和30)
	◇小説家。本名は秋山賢止(ケンジ)。東京生れ。1939(昭和14)慶
	応義塾大学英文科卒業。
みなみむら ばいけん
	南村 梅軒
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町末期の儒学者。周防の人。
	 16世紀半ば(天文末年)、土佐に渡り弘岡城主の許に寄寓、程
	朱学を伝え、南学の祖といわれる。
	 門下の僧に忍性(ニンショウ)・如淵(ニョエン)・天室がいる。
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