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人 名 辞 典 《また》 編集:獨 澄旻
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まちだ りゅうとう
町田 柳塘
生年不詳
没年不詳
◇明治後期の小説家。本名は源次郎、別号は町田柳次郎・
楓村居士。
まつい しょうおう
松井 松翁
1870(明治 3. 2.18)
1933. 7.14(昭和 8)
◇劇作家・演出家。本名は真玄(マサハル)、別号は松葉(ショウヨウ)・
大久保二八・駿河(スルガ)町人・室町月人。宮城県塩釜生れ。
宮城中学を中退し上京、国民英学会に学ぶ。新聞記者を経て
劇界に入る。1918(大正 7)松竹会社の文芸顧問。1924(大正13)
号を松葉から松翁に改める。
(5)また大久保二八、駿河(スルガ)町人と称した。
(13)変名、大久保二八子。
まつい すまこ《まつゐ すまこ》
松井 須磨子
1886. 3. 8(明治19)
1919. 1. 5(大正 8)
◇新劇女優・流行歌手。本名は小林正子。長野県埴科郡清野村
一三六(現:松代市)生れ。
結婚に失敗して上京。東京俳優学校を経て、1909(明治42)坪
内逍遥の文芸協会演劇研究所の第1期生となる。1911(明治44)
『人形の家』の女主人公ノラで認められる。島村抱月(ホウゲツ)
との恋愛で文芸協会を辞め、1913(大正 2)抱月らと芸術座を結
成、『復活』のカチューシャで人気を集め、主題歌「カチュー
シャの唄」が全国に流行する。
スペイン風邪で急死した抱月のあとを追い、二ヶ月目の命日
に神楽坂の芸術倶楽部の一室で自殺。
まつい はくけん
松井 柏軒
1866(慶応 2)
1937. 1.10(昭和12)
◇新聞記者。本名は広吉(ヒロキチ)。新潟県中蒲原郡村松町生れ。
まつうら かいち
松浦 嘉一
1891. 9. 1(明治24)
1967. 8. 7(昭和42)
◇英文学者。名古屋市生れ。
1917(大正 6)東京大学英文科卒業。
まつうら たけしろう《まつうら たけしらう》
松浦 武四郎
1818(文化15. 2. 6)
1888. 2.10(明治21)
◇幕末・維新期の北方探検家。名は弘(ヒロム)、字(アザナ)は子重、
通称は竹四郎とも、号は北海道人など。伊勢(現:三重県一志郡
三雲町)の郷士の子。
1845(弘化 2)から計6回、蝦夷地(現:北海道)を調査。
明治維新後、開拓判官となり、蝦夷を北加伊道と改称すべき
ことを提案。1869(明治 2)北海道と改称。
まつうら たつお
松浦 辰男
1844(弘化元)
1909.10. 7(明治42)
◇歌人。号は萩坪。越後国(現:新潟県)生れ。もと有栖川宮家
の武士。
まつうら はじめ
松浦 一
1881. 1.25(明治14)
1966. 8.13(昭和41)
◇英文学者。号は一如。東京市生れ。
1905(明治38)東京大学英文科卒業。
東京大学講師を経て、1926(大正15)創立されたばかりの大正
大学教授。のち駒沢大学・中央大学教授。
まつえ しげより
松江 重頼
1602(慶長 7)
1680(延宝 8. 6.29)
◇江戸前期の俳諧師。俗称は大文字屋治右衛門、別号は維舟(イ
シュウ)・江翁。出雲国生れ。
貞門七俳仙の一人。
作品は編著1633(寛永10)『犬子集(エノコシュウ)』・1645(正保 2)
『毛吹草』・1647(正保 4)『毛吹草追加』・1664(寛文 4)『佐
夜中山集』・1672(寛文12)『俳諧時勢粧(ハイカイイマヨウスガタ) 』な
ど。
まつお いわお
松尾 いはほ
1882. 4.15(明治15)
1963.11.22(昭和38)
◇俳人・京大内科教授。本名は巌。京都生れ。京都大学医学部
卒業。妻は静子。
俳句は高浜虚子に師事。
まつお くにのすけ
松尾 邦之助
1899.11.15(明治32)
1975. 4. 3(昭和50)
◇評論家。静岡生れ。東京外語学校仏語科・パリ大学卒業。
1922(大正11)渡仏、戦後帰国。
まつお ばしょう《まつを ばせう,まつを はせを》
松尾 芭蕉
1644(寛永21)
1694(元禄 7.10.12)
◇江戸前期の俳人。幼名は金作(キンサク)・半七・藤七郎(トウシチロウ)
・忠右衛門のち脱藩後は甚七郎(ジンシチロウ)、名は宗房(ムネフサ)、
「はせを」と署名、俳号は宗房(音読か?)のち桃青(トウセイ)のち
芭蕉、別号は釣月軒(チョウゲツケン)・泊船堂・夭々軒(ヨウヨウケン)・
坐興庵(ザキョウアン)・栩々斎(ククサイ)・花桃園・風羅坊・芭蕉洞。
門弟より芭蕉翁・翁(オキナ)と呼ばれる。伊賀国上野赤坂町生れ。
伊賀服部郷松尾の郷士を祖先とする松尾与左衛門とその妻梅
の次男。兄は半左衛門命清(ノリキヨ,メイセイ)、他に姉と3人の妹が
いる。
伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清(ヨシキヨ)の嗣子主計(カズエ)
良忠(俳号蝉吟<センギン>)の小小姓となり、2歳年上の良忠とと
もに北村季吟(キギン)に師事、貞門の俳諧を学ぶ。1666(寛文 6.
4.25)良忠が没し、致仕を願うが許されず出奔、上洛する。
1674(延宝 2)連俳の伝授をうけ俳諧師として自立。翌年春、
江戸に下り神田上水の水役を勤める。1678(延宝 6)立机(リッキ)
披露して宗匠となる。1680(延宝 8)深川に泊船堂を営み、芭蕉
を一株植えたのが大いに茂ったので芭蕉庵と名付ける。やがて
貞門・談林の句風を超えた芸術性の高い蕉風を樹立。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈(オイ)の小文』・『更
科紀行』としばしば旅に出る。1689(元禄 2. 3.)弟子の川合曾
良(ソラ)を伴って『奥の細道』の旅に立ち、1691(元禄 4.10.)江
戸に帰る。
大阪御堂筋の旅宿花屋仁左衛門方で客死、大津膳所(ゼゼ)の
義仲寺に葬られる。
「古池や蛙(カワズ)飛込む水の音(オト)」,「荒海や佐渡に横たふ天
の川」などが名高い。『奥の細道』の書き出しは「月日は百代の
過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」。
◆芭蕉忌(桃青忌・時雨忌・翁忌)[10.12](出身地)三重県上野
市の上野公園にある俳聖殿・芭蕉翁記念館で法要と俳句大会な
ど。時雨(シグレ)は旧暦十月の異称から。
◆[十一月の第二日曜]宮城県松島町の瑞巌寺で芭蕉忌、松島中
央公民館で俳句大会。
(4)別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。
藤堂良精の子良忠(俳号蝉吟)の近習となり……。
(5)別号に釣月軒(チョウゲツケン)、泊船堂、夭々軒(ヨウヨウケン)、坐興
庵(ザキョウアン)、栩々斎(ククサイ)、華桃園、風羅坊、芭蕉洞などが
ある。
藤堂家の士大将(サムライダイショウ)で、食禄五千石の藤堂新七郎の
嗣子良忠に彼は小小姓(コゴショウ)として出仕した。
寛文一二年に……。その春、江戸へ下ったものと思われる
(延宝二年東下説もあるが)。
(2)俳号芭蕉庵桃青,別号を釣月軒・泊船堂。
'74(延宝2)……。翌年春頃江戸に下り、談林俳諧に傾く。
「藤堂良忠」の項:藤堂良清の3男。
(6)別号桃青,風蘿坊等。
72年江戸に下り,……。
(11)別号に、……、華桃園、……。
(17)上野の侍大将藤堂新七郎良清(ヨシキヨ)の若君主計(カズエ)良忠
に小小姓として出仕。
(*)1672(寛文12)。
まつおか えいきゅう《まつをか えいきう》
松岡 映丘
1881. 7. 9(明治14)
1938. 3. 2(昭和13)
◇日本画家。本名は輝夫。兵庫県生れ。1904(明治37)東京美術
学校卒業。井上通泰(ミチヤス)・柳田国男・松岡静雄の弟。
まつおか こうそん《まつをか くわうそん》
松岡 荒村
1879. 5. 8(明治12)
1904. 7.23(明治37)
◇詩人・評論家。本名は悟(サトル)。熊本県八代生れ。
1895(明治28)京都同志社中学校入学。
1902(明治35)志知文子と恋愛結婚。
1903(明治36)早稲田大学高等予科に入学。早稲田社会学会を
結成。
肺結核で早逝。
評論『国歌としての『君が代』』。1905. 8(明治38)『荒村
遺稿』は発売禁止となる。
まつおか さだふさ
松岡 貞総
1888. 7.15(明治21)
1969. 6.23(昭和44)
◇歌人・耳鼻科医。埼玉県本庄市生れ。
1917(大正 6)東京大学医学部卒業。
まつおか しずお《まつをか しづを》
松岡 静雄
1878(明治11)
1936(昭和11)
◇言語学者・民俗学者。
井上通泰(ミチヤス)・柳田国男の実弟、松岡映丘(エイキュウ)の兄。
第1次大戦中、1914.10. 7(大正 3)巡洋戦艦筑波の副長とし
て、ドイツ領南洋ミクロネシアのポナペ(Ponape)島を占領し、
初代守備隊長。
退官後、ミクロネシアの言語・文化について研究を行う。
台湾総督府から資金援助などを受け、柳田国男と日蘭印通交
査会を作る。
(*)柳田国男は1921. 5.(大正10)〜1923.12.(大正12)の間、国
際連盟の委任統治委員であった。
まつおか ゆずる
松岡 譲
1891. 9.28(明治24)
1969. 7.22(昭和44)
◇小説家・随筆家。本名は善譲、別号は鴉山人(アサンジン)。新潟
県古志郡石坂村(現:長岡市)生れ。生家は浄土真宗大谷派の末
寺。
長岡中学校・第一高等学校を経て、1917(大正 6)東京帝国大
学哲学科卒業。
1918. 4.(大正 7)夏目漱石の長女筆子と結婚、親友久米正雄
と確執が生じる。
まつおか ようすけ《まつをか やうすけ》
松岡 洋右
1880(明治13)
1946(昭和21)
◇大正・昭和前期の外交官・政治家。山口県生れ。
◎鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)とともに「満洲の三スケ」と
称される(ともに山口県生れ)。
まつがさき つむなが
松ヶ崎 万長
1858(安政 5)
1921(大正10)
◇建築家。男爵。
1871(明治 4)13歳で遣欧使節団に加わり、ベルリンに残って
ベルリン工科大学で建築を学び、1884(明治17)帰国。ドイツ人
技師エンデとベックマンが追放されたとき、官を辞して民間の
建築家となるが日本語が不自由なためいろいろな人に騙され、
爵位を返上し、1907(明治40)台湾に移り鉄道省に入り駅舎や鉄
道ホテルを建てる。
◎孝明天皇の御落胤と噂される。
まつかた こうじろう
松方 幸次郎
1865
1950(昭和25)
◇明治〜昭和期の実業家。薩摩藩生れ。明治の元勲松方正義(マ
サヨシ)の3男、松方三郎の兄。
美術品の収集「松方コレクション」が有名。
(*)1865(元治 2,慶応元)。
まつかた さぶろう
松方 三郎
1899. 8. 1(明治32)
1973. 9.15(昭和48)
◇登山家・ジャーナリスト。本名は義三郎。明治の元勲松方正
義(マサヨシ)の13男、松方幸次郎の弟。
学習院から京都大学経済学部に進む。1925(大正14)欧州に留
学。
1970(昭和45)日本山岳会エヴェレスト登山隊隊長。
まつかた まさよし
松方 正義
1835(天保 6. 2.25)
1924. 7. 2(大正13)
◇明治時代の・官僚政治家。幼名は金次郎のち助左衛門、号は
海東・孤立。薩摩藩士松方正恭の4男、松方幸次郎(コウジロウ)・
松方三郎の父。
はじめ薩摩藩主島津久光の小姓。
大久保利通に認められ大蔵・内務両省の高級官僚となる。
1922(大正11)公爵。
まつき ながもち
松木 長操
1625(寛永 2)
1652
◇江戸初期の義民・若狭国遠敷郡の庄屋。
(*)1652(慶安 5,承応元)。
まつくら よねきち
松倉 米吉
1895.12.25(明治28)
1919.11.25(大正 8)
◇歌人。新潟県糸魚川町生れ。高等小学校1年修了。築地東京
市施療病院で病没。
まつざき こうどう《まつざき かうだう》
松崎 慊堂
1771(明和 8. 9.29)
1844(天保15. 4.21)
◇江戸後期の漢学者。名は復、字は明復。肥後国の人。
江戸で林述斎に学ぶ。
遠州掛川藩の教授で、熊本藩の招きに応じなかった。
蛮社の獄に際し、弟子渡辺華山(カザン)の赦免運動に尽力。
佐藤一斎(イッサイ)とは同門、狩谷(「木」偏+「夜」)斎(エキサイ)・山
梨稲川(トウセン)と親交。
まつざき てんみん
松崎 天民
1878. 5.18(明治11)
1934. 7.22(昭和 9)
◇新聞記者・実話読物作家。本名は市郎。岡山県落合町生れ。
小学校4年修了。
◆歌碑が岡山県奥津温泉にある。
まつざき らんこく
松崎 蘭谷
1674(延宝 2)
1735(享保20)
◇江戸中期の儒学者。名は裕之、字は子慶、号は蘭谷・甘白。
丹波(現:京都府)の人。
まつした かへい
松下 嘉兵衛
1538(天文 7)
1598(慶長 3)
◇戦国時代の武将。長則の子。
今川義元・徳川家康に仕え、のち豊臣秀吉に迎えられる。
まつした ぐんじ
松下 軍治
1867(慶応 3. 3.15)
1915.10.23(大正 4)
◇新聞経営者・政治家。信州生れ。
1899(明治32)「時論日報」を創刊。1900(明治33)「やまと新聞」
を買収。1907(明治40)衆議院議員。
まつした けんりん
松下 見林
1637(寛永14)
1703(元禄16.12. 7)
◇江戸中期の儒医・国学者。通称は見林、号は西峰山人。大坂
の人。
古林見宜(ケンキ)に医学を学び、算術・経学にも通じる。
21歳で京都にのぼり国史を研究し、『日本三代実録』を校訂
出版。また外国資料による日本史研究書『異称日本伝』を著す。
京都で医学や経書を教授。
晩年、高松藩に仕える。
他の著書は『神国言葉遣式』など。
◎和漢の古典に詳しく、蔵書は10万余巻といわれる。
まつした こうのすけ《まつした かうのすけ》
松下 幸之助
1894.11.27(明治27)
1989. 4.27(平成元)
◇実業家。和歌山県和歌山市和佐村生れ。井植歳男(三洋電機
創業者)の義兄。
1918(大正 7)松下電気産業を創業し、三つ又ソケットを製造
販売。1935(昭和10)株式会社に改組。
松下電器産業相談役。大阪で没。
まつした ぜんに
松下 禅尼
生年不祥
没年不祥
◇鎌倉初期中期の北条時氏の妻。安達景盛(アダチ・カゲモリ)の女(ム
スメ)、北条経時(4代執権)・時頼(5代執権)・為時の母。
◎『徒然草』に、みずから煤(スス)けた障子(ショウジ)の破れを切り
張りして、時頼に質素倹約の範を示したという逸話がある。
まつした だいざぶろう《まつした だいざぶらう》
松下 大三郎
1878(明治11)
1935(昭和10)
◇国語学者。静岡県生れ。
国学院大学教授。
著書は『改撰標準日本文法』・『標準日本口語法』・『日本
俗語文典』・『国歌大観』など。
まつしま ごう《まつしま がう》
松島 剛
1854(安政元.10. 2)
1940. 1. 6(昭和15)
◇翻訳家・地理学者。幼名は辰三郎・利道。紀州藩士として江
戸に生れる。慶応義塾で哲学を修める。
まつしま ごうぞう《まつしま がうざう》
松島 剛蔵
1824(文政 7)
1864(元治元)
◇江戸末期の尊攘派の志士。初名は瑞益・久誠、字は有文、号
は韓峯。小田村伊之助(吉田松陰の妹婿)・小倉健作の兄。代々
長州藩の藩医。
江戸に出て坪井信道(シンドウ)に蘭方医術を学び、オランダ人
に航海術を学ぶ。
帰藩後、洋学局の設立を進言してその長、さらに海軍所の頭
人となる。
1863(文久 3. 5.)攘夷戦で諸軍艦を率いて活躍。
1864(元治元)幕府に従う俗論党派の台頭により投獄・斬罪。
まつせ せいせい
松瀬 青々
1869(明治 2. 4. 4)
1937. 1. 9(昭和12)
◇俳人。本名は弥三郎(ヤサブロウ)。号は邦武(和歌)、無心・孤雲
(俳句)。大阪市東区大川町五二番地生れ。
1882(明治15)北浜上等小学校卒業。
1895(明治28)第一銀行大阪支店に入社。
1900(明治33)大阪朝日新聞社に入社。
まつだ うきふね
松田 浮舟
生年不祥
没年不祥
◇江戸初期の手品師。
水芸を得意とする。
まつだ ごんろく
松田 権六
1896(明治29)
1986. 6.15(昭和61)
◇漆工芸家。石川県生れ。
東京芸術大学教授。
1955(昭和30)重要無形文化財(人間国宝)。文化勲章、受章。
まつだ たけのしまびと
松田 竹の嶋人
1874. 1.23(明治 7)
1939. 4. 7(昭和14)
◇小説家。本名は白井寅雄。号は竹嶼(チクショ)。熊本市生れ。
1880(明治13)父母とともに東京に移住。小学校卒業後、陸軍
幼年学校の予備校有斐学校に学ぶ。
まつだ つねのり
松田 常憲
1895.12. 1(明治28)
1958. 3.13(昭和33)
◇歌人。福岡県秋月町生れ。黒田藩士松田民衛の長男。
朝倉中学校を経て、1918(大正 7)国学院高等師範部国漢科卒
業。1929(昭和 4)上京。
◆秋月城址に歌碑「ありし日に父がひきたる大弓の紫の房は色
あせにけり」がある。
(5)福岡県に生れる。国学院大卒。
(10)福岡県甘木市秋月に生る。国学院高等師範部国漢科卒業後、
……。
まつだ でんじゅうろう《まつだ でんじふらう》
松田 伝十郎
1769(明和 6)
没年不詳
◇江戸中期の幕臣。
1808(文化 5)間宮林蔵とともに樺太を探検。
著書は『北夷談(松田四六筆記)』。
まつだ ときこ
松田 解子
1905. 7.18(明治38)
2004.12.26(平成16)
◇プロレタリア文学作家。本名は大沼ハナ。秋田県仙北郡荒川
村(現:協和町)生れ。
小学校卒業後、三菱荒川鉱山事務所に勤務。
働きながら秋田女子師範学校本科二部を卒業し、母校の大盛
小学校の教師となる。
1926(大正15)上京し、江東区の工場で働き、労働運動家大沼
渉(ワタル)と結婚。
1928(昭和 3)共産党大弾圧で夫とともに検挙される。同年、
処女短編『産む』が読売新聞新人賞に入選、日本プロレタリア
作家同盟に参加。
作品は『地底の人々』・『おりん口伝』など。
◎筆名は、度重なった「解雇」に因(チナ)む。
まつだ まさひさ
松田 正久
1845(弘化 2)
1914(大正 3)
◇政治家。旧姓は横尾。父は佐賀藩士横尾只七。
[1]まつだいら いえただ
松平 家忠
1548(天文17)
1582(天正10)
◇戦国時代の武将。幼名は左太郎・七郎、通称は紀伊守、法名
は浄雲。松平家広の子、母は水野忠政の娘、妻は酒井正親の娘、
佐倉城主松平家信の父。
[2]まつだいら いえただ
松平 家忠
1555
1600(慶長 5)
◇安土桃山時代の武将。幼名は又八郎、通称は主殿助。松平尹
忠の子、母は鵜殿長持の娘。
関ヶ原の戦に先立ち、豊臣方に包囲されて戦死。
(*)1555(天文24,弘治元)。
まつだいら いえのぶ
松平 家信
1565(永禄 8)
1638(寛永15)
◇江戸前期の大名。[1]松平家忠の次男、母は酒井雅楽頭正親
の娘、康信の父。
1619(元和 5)摂津高槻2万石。1635(寛永12)下総国佐倉4万
石。佐倉で没する。
まつだいら かたのぶ
松平 容頌
1744
1805(文化 2)
◇江戸中・後期の大名。幼名は亀五郎。会津藩主松平容貞の子。
(*)1744(寛保 4,延享元)。
まつだいら かたもり《まつだひら かたもり》
松平 容保
1835(天保 6)
1893.12. 5(明治26)
◇江戸幕末・維新期の会津藩主。美濃国高須城主松平義建(ヨシタ
ツ)の子、会津藩主松平容敏の養子。
1862(文久 2)京都守護職となり、公武合体・幕権維持を推進。
1864年、蛤御門(ハマグリゴモン)の変で長州側を圧倒。
戊辰戦争の際、1868(慶応 4. 1.)鳥羽伏見の戦で敗走し徳川
慶喜(ヨシノブ)に従って海路東帰。隠居謹慎後、奥羽越列藩同盟
の中心として征東軍(討幕軍)に抗戦したが、米沢・仙台などが
降る中で孤軍奮闘、9月22日会津若松城で開城降伏、因幡藩に
幽閉される。
のち赦免されて日光東照宮宮司。
(4)生年は1836。
(6)生年は1835。
(16)1835(天保 6)
(*)1864(文久 4,元治元)。
まつだいら かつたか
松平 勝隆
1589(天正17)
1666(寛文 6. 2. 3)
◇江戸前期の大名。
1638(寛永15)上総佐貫城主1万5千石。
まつだいら きよたけ
松平 清武
1663(寛文 3)
1724(享保 9)
◇江戸中期の大名。甲府城主徳川綱重の子、第6代将軍徳川家
宣(イエノブ)と兄弟、越智与右衛門の養子。
1707(宝永 4)松平の家号と上野館林城を与えられ、1710(宝
永 7)1万石を加増、1712(正徳 2)第6代将軍徳川家宣の遺命
でさらに2万石加増。
まつだいら きよやす
松平 清康
1511(永正 8)
1535(天文 4)
◇戦国時代の武将。幼名は竹千代・二郎三郎、初名は清孝。三
河国安祥生れ。松平信忠の子、徳川家康の祖父。
1535(天文 4)尾張守山に布陣、家臣阿部大蔵の子弥七郎の誤
解により刺殺(守山崩れ)。
まつだいら くんざん
松平 君山
1697(元禄10)
1783(天明 3)
◇江戸中期の儒学者(古注学派)。旧姓は千村、名は秀雲、字は
子竜、号は君山・竜吟子。
尾張藩の書物奉行。
まつだいら さだかつ
松平 定勝
1560(永禄 3)
1624
◇江戸前期の大名。幼名は長福丸のち三郎四郎。久松佐渡守俊
勝の3男、母は青木政信の娘で苅谷城主水野右衛門太夫忠政(タ
ダマサ)の養女伝通院、徳川家康の異父弟。
1617(元和 3)伊勢国桑名14万石。
(*)1624(元和10,寛永元)。
まつだいら さだつな
松平 定綱
1592
1651(慶安 4)
◇江戸前期の大名。幼名は亀松のち三郎四郎、初名は定清のち
定治・定信。伊勢国桑名藩主松平定勝の3男。
1633(寛永10)美濃国下妻3万石、1635(寛永12)伊勢国桑名11
万石。
(*)1592(天正20,文禄元)。
まつだいら さだのぶ《まつだひら さだのぶ》
松平 定信
1758(宝暦 8.12.26)
1829(文政12. 5.13)
◇江戸中期の白河藩主。幼名は賢丸、号は楽翁・花月翁、白河
楽翁と呼ばれる。田安宗武(タヤス・ムネタケ)の3男、徳川吉宗(ヨシムネ)
の孫、真田幸貫(ユキツラ)の実父。
陸奥国白河藩主松平定邦(サダクニ)の養子となり、1783(天明 3)
家督を継ぎ天明の飢饉のなか窮民を救済。
1787(天明 7. 6.)老中首座になると田沼意次(オキツグ)を退け、
「寛政の改革」を断行。
光格天皇の父典仁親王に太上天皇の称号を贈ることに反対し
(尊号事件)、これが原因で1829(文政12)老中職を辞任。
◎秋田藩主佐竹義和(ヨシマサ)・米沢藩主上杉治憲(ハルノリ)とともに
江戸時代の名君といわれる。
まつだいら しゅんがく《まつだひら しゆんがく》
松平 春嶽
⇒まつだいら よしなが(松平 慶永)
まつだいら ただなお《まつだひら ただなほ》
松平 忠直
1595(文禄 4)
1650(慶安 3)
◇江戸初期の大名。号は一伯。結城秀康(ユウキ・ヒデヤス)の長男、
徳川家康の孫、高田藩主松平光長(ミツナガ)の父。
まつだいら なりつね
松平 斉典
1797(寛政 9)
1849(嘉永 2)
◇江戸後期の武蔵川越藩主。大和守。興国院。
53歳で病没。
◆墓は埼玉県川越市の喜多院の松平大和守家廟所。
まつだいら のぶあきら《まつだひら のぶあきら》
松平 信明
1760(宝暦10)
1817(文化14. 8.29)
◇江戸後期の三河吉田藩主・幕府老中。
まつだいら のぶつな《まつだひら のぶつな》
松平 信綱
1596
1662(寛文 2)
◇江戸前期の武蔵川越藩主。伊豆守、世に知恵伊豆と呼ばれる。
1633(寛永10)老中となり、将軍家光(第3代)・家綱(第4代)
に仕える。
1638(寛永15)川越藩主。
1637(寛永14)島原の乱・1651(慶安 4)慶安事件(由井正雪の
乱)・1657(明暦 3)明暦の大火などを善処し、幕府創業の基礎
を確立させる。
(*)1596(文禄 5,慶長元)。
◆墓は埼玉県新座市野火止の平林寺。
まつだいら はるさと《まつだひら はるさと》
松平 治郷
1751(寛延 4. 2.14)
1818(文政元. 5.28)
◇江戸中期の出雲松江藩主・茶人。号は不昧(フマイ)・一々斎・
一閑子。
茶道・禅道・書画・和歌に通じ、大名茶を大成し石州流不昧
派を創める。
まつだいら ひでやす《まつだひら ひでやす》
松平 秀康
⇒ゆうき ひでやす(結城 秀康)
まつだいら ふまい《まつだひら ふまい》
松平 不昧
⇒まつだいら はるさと(松平 治郷)
まつだいら まさつな
松平 正綱
1576(天正 4)
1648
◇江戸前期の幕府勘定頭。大河内秀綱の次男。遠江生れ。
1587(天正15)徳川家康の命により長沢松平正次(マサツグ)の養
嗣子。
(*)1648(正保 5,慶安元)。
まつだいら まさゆき
松平 正之
⇒ほしな まさゆき(保科 正之)
まつだいら みつなが
松平 光長
1615
1707(宝永 4)
◇江戸初期の越後国高田藩主。幼名は仙千代。松平忠直(タダナオ)
の子、母は将軍徳川秀忠の娘勝子。
(*)1615(慶長20,元和元)。
まつだいら むねのぶ
松平 宗衍
1729(享保14)
1782(天明 2)
◇第6代出雲国松江藩主。幼名は幸千代。
まつだいら もとやす
松平 元康
⇒とくがわ いえやす(徳川 家康)
まつだいら やすちか
松平 康哉
1752(宝暦 2)
1794(寛政 6)
◇江戸後期の美作国津山藩主。松平長孝の子。
まつだいら やすひで
松平 康英
生年不詳
1808(文化 5. 8.17)
◇江戸後期の長崎奉行。別名は康秀・康平、通称は図書頭。
1807(文化 4)長崎奉行となる。
ヨーロッパのナポレオン戦役の影響により、1808(文化 5)イ
ギリス艦フェートン(Phaeton)号がオランダ船拿捕のためにオ
ランダ国旗を掲げて長崎に入港。オランダ商館員二名を捕らえ
た上、夜には港内に侵入捜索を行なう。康英は激怒し打払令を
出したが援兵も来ず、イギリス艦は薪水食糧の補給して去った
ため、責任を取り自殺。
◎佐賀藩主鍋島斉直は逼塞(ヒッツソク)。
まつだいら やすもと
松平 康元
1551(天文20)
1603(慶長 8)
◇江戸初期の大名・久松松平の祖。初名は三郎太郎勝元。
まつだいら よしなが《まつだひら よしなが》
松平 慶永
1828(文政11. 9. 2)
1890. 6. 2(明治23)
◇江戸幕末の福井藩主。号は春嶽(シュンガク)・礫川。徳川三卿の
田安斉匡(ナリマサ)の8男、尾張第13代藩主徳川慶臧の兄弟。江戸
城内で生れる。
1838(天保 9)福井藩松平家の養子となり、第16代藩主となる。
日米修好条約の調印に反対、将軍継嗣問題では家臣橋本左内
らと一橋慶喜(ヨシノブ)を擁立、大老井伊直弼(イイ・ナオスケ)と意見を
異にして、安政の大獄で隠居・幽閉を命ぜられる。
のち1860(安政 7. 3. 3)直弼の死後に赦免され、1862(文久
2)政事総裁職につき、第14代将軍家茂(イエモチ)後見役の慶喜と
ともに幕政改革を推進。1863(文久 3)朝廷の参与に、1864(元
治元)京都守護職になり、朝廷と幕府の間をとりもつ。
1867(慶応 3)山内豊信らと第15代将軍慶喜に大政奉還を進言。
1867(慶応 3.10.14)大政奉還の際、12.10朝廷の使いとして徳
川慶勝(ヨシカツ)とともに慶喜の二條城に乗り込み、将軍職・内大
臣・正二位の返上と全ての幕府領地の返納を伝える。
明治政府の議定・民部卿・大蔵卿を歴任。1870(明治 3)一切
の職から退く。
◆墓は東京都品川区の海晏寺後丘。
まつだいら よりひろ
松平 頼恕
1798(寛政10)
1842(天保13)
◇第9代高松藩主。幼名は熊之助、字は容民、号は南溟、諡は
懿公。父は水戸第7代藩主徳川治紀(ハルトシ)、母は水戸家臣中山
八重崎。
没後、従三位を追贈。
まつなが えんぞう
松永 延造
1895. 4.26(明治28)
1938.11.20(昭和13)
◇小説家・劇作家・詩人。横浜市生れ。材木商駿河屋の松永元
次郎の長男、母はキミ。
小学校2年のとき脊髄カリエスに罹る。横浜商業補修科・専
科修了。
まつなが せきご
松永 尺五
1592
1657(明暦 3. 6. 2)
◇江戸初期の儒学者(朱子学)。名は昌三、字は遐年(カネン)。京
都の人。歌人松永貞徳(テイトク)の子。
幼くして詩をよくし、13歳の時に豊臣秀頼の前で経書を講じ
たといわれている。
藤原惺窩(セイカ)に学び程朱の学を修め、老荘・仏教をも包容
する。
同門の林羅山とは対照的に、仕官せず京都に春秋館を開き、
堀川に拡げて講習堂と称し長年私塾を経営。
著書は『彝倫(イリン)抄』・『尺五先生全集』など。
(*)1592(天正20,文禄元)。
(6)名は遐年,字は昌三。松永久秀の曽孫。
◎藤門四家(トウモンシカ)の一人。
5千人の門弟が集まり、木下順庵・貝原益軒・安東省庵(セイア
ン)・宇都宮遯庵(トンアン)らを輩出。
まつなが ていとく
松永 貞徳
1571(元亀 2)
1653(承応 2.11.15)
◇江戸前期の歌人・古典学者・俳諧師。名は勝熊(カツクマ)、号は
逍遊軒(ショウユウケン)・松友・長頭丸(チョウズマル)・明心(メイシン)・
延陀丸(エンダマル)・花咲の翁とも。京都に連歌師松永永種(エイシュ)
の子として生れる。松永尺五(セキゴ)の父。
和歌・歌学を九条稙通・細川幽斎に、連歌を里村紹巴(ジョウハ)
に学ぶ。
私塾を開き庶民の教育にも力を尽くし、和歌や歌学を地下(ジ
ゲ)の人々に教え、和歌・連歌・狂歌・古典注釈など多方面に活
躍。
1651(慶安 4)俳諧式目書『御傘(ゴサン)』を著して、それまで
連歌師の余技として詠み捨てられていた俳諧に式目を定め、山
崎宗鑑の俳諧連歌とは別の貞門派俳諧を起こし貞門派の始祖と
なる。連歌に俗言や滑稽(コッケイ)を取り入れて庶民の間に俳諧流
行の基礎を作る。
編著書は『油糟(アブラカス)』・『淀川』・『紅梅千句』・『天
水抄』・『歌林樸壙』・『万水一露』・『逍遊愚抄』・1643
(寛永20)付合指導書『新増犬筑波集』・1651(慶安 4)俳諧式目
書『御傘』・『前車』など。
◆貞徳忌[旧暦11.15]。
◎江戸初期の代表的な狂歌師で、談林派が現れるまで貞門派俳
諧(貞徳流の俳諧)は全国の主流であった。
門下に北村季吟・加藤盤斎らの七哲を輩出。
◎摂津国高槻の入江氏の流れをくむが、連歌師の父永種の代に
縁戚松永久秀(ヒサヒデ)の姓に改名。
(5)名勝熊(カツクマ)。号逍遊軒(ショウユウケン)、長頭丸、明心、延陀丸
(エンダマル)。
(18)本名は松永勝熊(カツグマ)。逍遊(ショウユウ),長頭丸(チョウズマル),
明心(メイシン)などとも号する。
まつなが ひさひで
松永 久秀
1510(永正 7)
1577(天正 5.10.10)
◇室町末期(戦国時代)の武将。通称は弾正少弼。阿波(現:徳島
県)の人。
三好長慶(ナガヨシ)に仕え、筒井順慶(ジュンケイ)を追って大和国
(奈良県)信貴山(シギサン)に多聞城を築き本拠として活躍。
長慶の死後に長慶の子義興を毒殺して主家を滅ぼし、権勢の
座につく。1565(永禄 8)将軍足利義輝を自害させる。1567(永
禄10)筒井順慶・三好三人衆と奈良に戦って東大寺大仏殿を焼
き、畿内を支配。
1568(永禄11)入京した織田信長に降伏するが、のち1571(元
亀 2)信貴山に叛き、一度帰順。1577(天正 5)再び信長に背き、
明智光秀・筒井順慶らにより信貴山城で敗死。
◎三好長慶とともに下剋上の典型的人物とされる。
まつなが やすざえもん
松永 安左エ門
1875(明治 8)
1971. 6.16(昭和46)
◇実業家・電力業界の長老。長崎県出身。慶応義塾中退。
福沢諭吉の女婿桃介との共同事業を振出しに実業界に入る。
福博(フクハク)電気軌道会社を興す。北九州で電灯電力・ガス事
業を経営。
のち名古屋に進出し、1922(大正11)東邦電力を設立し、五大
電力に発展させる。
第二次世界大戦後、1949.11.(昭和24)電気事業再編成審議会
会長などに活躍し、「電力の鬼」といわれる。
◎茶人・美術品収集家としても知られた。
◎五大電力:東京電燈(株)・日本電力(株)・東邦電力(株)・宇
治川電気(株)・大同電力(株)。
まつなが よしすけ
松永 良弼
1692(元禄 5)
1747(延享 4)
◇江戸前期の数学者。越後の人。
関孝和(タカカズ,コウワ)の孫弟子。
[1]まつなが わふう
松永 和風(初世)
生年不詳
1808(文化 5)
◇長唄の唄方。旧名は松永忠五郎。
[2]まつなが わふう
松永 和楓(3世)
1839(天保10)
1916(大正 5)
◇明治期の長唄の唄方。和楓に改める。
美声をもって活躍し、清元の節回しを取り入れた独特な芸風
で人気を呼ぶ。
[3]まつなが わふう
松永 和風(4世)
1874(明治 7)
1963(昭和38)
◇昭和期の長唄の唄方。一時和楓としたが、和風に戻す。
初め三味線方、のち唄方に転じ、和楓(3世)に学んで独自の
節回しを工夫。
「鶴命会」を組織。
まつなみ すけゆき
松波 資之
1830(天保元.12.19)
1906. 9.13(明治39)
◇歌人。通称は直三郎、号は遊山(ユサン)・随所。安芸国(広島県)
生れ。
まつね とうようじょう
松根 東洋城
1878. 2.25(明治11)
1964.10.28(昭和39)
◇俳人。本名は豊次郎(トヨジロウ)。東京築地生れ。父は伊予宇和
島藩家老松根図書の長男権六、母は宇和島藩主伊達宇城の次女
俊子。
築地文海学校入学、愛媛県大洲小学校に転校。松山中学校で
夏目漱石を知る。1896(明治29)第一高等学校入学。東京帝国大
学法科を休学し、1905(明治38)京都帝国大学仏法科卒業。
1906(明治39)宮内省に勤務、1919(大正 8)退官。
(1)没日は10.28。
(3)没日は11.28。
(5)没日は10.28。
(10)没日は10.28。
(11)没日は10.28。
(13)没日は10.28。
まつの かずお
松野 一夫
1895(明治28)
1973(昭和48)
◇挿絵画家。福岡県生れ。
まつのと みさこ
松の門 三艸子
1832(天保 3. 3. 3)
1914. 8.23(大正 3)
◇歌人。江戸下谷の商家に生れ一三歳で嫁し、一七歳で未亡人
となり、明治維新により没落し「小三」という深川芸者になる。
まつばら いわごろう
松原 岩五郎
1866(慶応 2. 8.)
1935. 2.26(昭和10)
◇小説家・記録文学者・新聞記者。本名は岩五郎、旧姓は吹野、
号は岫雲(シュウウン)・二十三階堂(ニジュウサンカイドウ)・乾坤一布衣(ケン
コンイチホイ)。伯耆(ホウキ)国(現:鳥取県)淀江町生れ。
生後間もなく両親を失い、松原家の養子となる。
まつばら じぞうそん
松原 地蔵尊
1897.10.10(明治30)
1973.10. 7(昭和48)
◇俳人。本名は重造。富山県氷見郡阿尾村阿尾生れ。
1917(大正 6)樺太庁中学校卒業。1920(大正 9)小樽高等商業
学校卒業。1923(大正12)東京商科大学(現:一橋大学)卒業。
まつばら しぶん
松原 至文
1884.10.29(明治17)
1945. 9.10(昭和20)
◇評論家・宗教家(真宗大谷派)。本名は致遠(チオン)。三重県生
れ。国学院大学国文科卒業。
角川源義を助け、創業したばかりの角川書店で活躍。のち相
摸女子大学教授。
まつばら じゅんいち
松原 純一
1923. 3.10(大正12)
1966. 6.22(昭和41)
◇編集者・近代文学研究者。角川書店創業当時の中心人物。
まつばら にじゅうさんかいどう
松原 二十三階堂
⇒まつばら いわごろう(松原 岩五郎)
まつばら みちとも
松原 至大
1893. 3. 3(明治26)
1971. 3.15(昭和46)
◇児童文学者。別名は村山至大。千葉県辰州町生れ。
1915(大正 4)早稲田大学英文科卒業。1918(大正 7)東京日日
新聞入社。1926(大正15)童話作家協会の創立に加わる。
まつみや かんこつ
松宮 寒骨
1883. 1. 3(明治16)
1968. 6.25(昭和43)
◇俳人。本名は三郎。金沢市小立野鷹匠町生れ。
開成中学校を経て、1908(明治41)早稲田大学商科卒業。三越
百貨店の広告部長。
まつみや やへい
松宮 弥平
1871(明治 4)
1949(昭和24)
◇日本語教育者。松宮一也の父。
キリスト教の宣教をしながら日本語の個人教授を始める。日
語文化学校の教授主任。日本語教授研究所の所長。
まつむら えいいち
松村 英一
1889.12.31(明治22)
1981. 2.25(昭和56)
◇歌人。号は彩花。東京芝愛宕下の仙台邸の長屋に生れる。父
は貞次郎で尾張熱田、母すゑは紀伊和歌山の人。
1895(明治28)兵庫県神戸尋常小学校入学。1900(明治33)愛知
県熱田尋常高等小学校に転校、二年中退で上京。
1909(明治42)太田楽子と結婚。
1914. 6.(大正 3)窪田空穂主宰で文芸雑誌「国民文学」を創刊、
経営維持のため一年ほどで短歌の同人誌に改める。1917(大正
6)読売新聞婦人部記者。
1973. 7.(昭和48)妻楽子が死去。
まつむら かいせき
松村 介石
1859(安政 6.10.16)
1939.11.29(昭和14)
◇牧師。本名は介石(スケイシ)。播磨国生れ。
1870(明治 3)上京し安井息軒の塾に学び、のち京都の市村水
香の塾に入り、ついで大阪外語学校で英語を学ぶ。さらに横浜
のヘボン塾でジョン・クレイグ・バラからキリスト教を学ぶ。
1908(明治41)東京神田橋に日本教会を創立。
まつむら きょしゅう
松村 巨湫
1895. 2.21(明治28)
1964. 7.23(昭和39)
◇俳人。本名は光三。東京浅草松清町生れ。
まつむら さんだゆう
松村 三太夫
⇒まつむら たかなお(松村 高直)
まつむら そうせき
松村 蒼石
1887.10. 2(明治20)
1982. 1. 8(昭和57)
◇俳人。本名は増次郎。滋賀県生れ。
まつむら たかし
松村 孝司
調査中
2005. 8.31(平成17)
◇作曲家。ペンネームはむつひろし・小田島一彦など。群馬県
出身。
心不全で死去(70歳)。
作品は『昭和枯れすすき』・『グッド・ナイト・ベイビー』
・『八月の濡れた砂』・『どしゃぶりの雨の中で』など。
まつむら たかなお
松村 高直
1677(延宝 5)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は三太夫(サンダユウ)、戒名
は刃清元剣信士、吉良家の探索中の変名は植松三太夫(ウエマツ・サン
ダユウ)・萩野十左衛門(ハギノ・ジュウザエモン)。父は村松喜兵衛(キヘエ)
秀直(ヒデナオ)。
吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の
江戸中屋敷に預けられ、翌年、広瀬半助(ハンスケ)の介錯(カイシャク)
で切腹。
まつむら たけお《まつむら たけを》
松村 武雄
1883. 8.23(明治16)
1969. 9.25(昭和44)
◇神話研究家・児童文学者。熊本県生れ。水田光子(ミツコ)は義姉。
1912(明治45)東京帝国大学卒業、同大学院に学ぶ。
まつむら たつお《まつむら たつを》
松村 達雄
1914.12.18(大正 3)
2005. 6.18(平成17)
◇俳優。神奈川県横浜市出身。
法政大学卒業。
旧新協劇団研究生となる。
1942(昭和17)召集。
1947(昭和22)復員。
1952(昭和27)新劇「五十人劇場」を創設し主宰、1957(昭和32)
解散。
1957(昭和32)テレビに初出演。
1959(昭和34)映画に初出演。
まつむら はるすけ
松村 春輔
生年不詳
没年不詳
◇明治初期の戯作者。号は桜雨・紅雪・柳東・基蜩(キチョウ)。長
門(ナガト)国生れ。
まつむら みねこ
松村 みね子
1878. 2.10(明治11)
1957. 3.19(昭和32)
◇歌人・翻訳家。本名は片山広子、旧姓は吉田、歌人としては
片山広子・ひろ子、松村みね子はペンネーム。東京麻布三河台
生れ。外交官吉田二郎の長女。日本銀行理事片山貞次郎の妻、
吉村鉄太郎(片山達吉)・宗瑛(総子)の母。東洋英和女学校卒業。
1899(明治32)片山貞次郎と結婚。
まつもと うんしゅう
松本 雲舟
1882.12. 7(明治15)
1948. 9.28(昭和23)
◇編集者・翻訳家。本名は赳。別号は漁民・漁翁。神奈川県生
れ。早稲田大学卒業。
まつもと かつじ《まつもと かつぢ》
松本 かつぢ
⇒まつもと かつぢ(松本 かつぢ)
まつもと かつぢ
松本 かつぢ
1904(明治37)
1986(昭和61)
◇挿絵画家・漫画家。本名は勝治。兵庫県神戸市生れ。妹竜子
は蕗谷虹児(フキヤ・コウジ)の妻。立教中学中退。
川端画学校に学ぶ。
1931(昭和 6)少女画を「少女世界」で始める。昭和30年ころか
ら少女漫画に転身する。
(*)別書(?)、東京生れ。
まつもと きんけいじょう
松本 金鶏城
1881. 1. 5(明治14)
1958. 1.14(昭和33)
◇俳人。本名は彦次郎。青森県生れ。東京大学史学科卒業。
第六高等学校教授・東京高等師範学校教授を経て東京文理大
学名誉教授。
まつもと くみ
松本 苦味
1890. 7.(明治23)
没年不詳
◇劇作家・翻訳家。本名は圭亮。東京京橋生れ。国民英学舎・
東京外語露語専修科に学ぶ。関東大震災の後、消息不明。
まつもと けいどう
松本 奎堂
1831(天保 2)
1863(文久 3. 9.24)
◇江戸幕末の志士。三河刈谷藩士。
天誅組総裁となって中山忠光を擁し大和五条に挙兵し敗れて
自刃。
まつもと こうじ
松本 弘二
1895. 9.21(明治28)
1973. 6.29(昭和48)
◇画家。佐賀県生れ。
まつもと じいちろう《まつもと ぢいちらう》
松本 治一郎
1887(明治20)
1966(昭和41)
◇大正・昭和期の部落開放指導者・政治家。福岡市生れ。
1922(大正11)水平社に参加。1923(大正12)九州水平社委員長。
1924(大正13)徳川家達(イエサト)暗殺未遂事件で懲役4ヶ月。1926
(大正15)全国水平社中央委員会議長。同年11月軍隊内での部落
民差別反対運動に対して、官憲が福岡連隊爆破陰謀事件を捏造
(ネツゾウ)、治一郎ら17名を逮捕、治一郎は懲役3年6ヶ月。1936
(昭和11)社会大衆党から衆議院議員に当選。戦時中、大和報国
運動に参加。
1946(昭和21)部落開放全国委員会委員長。1947(昭和22)社会
党公認で参議院全国区に当選。1948(昭和23)国会開会式で天皇
の拝謁を拒否。1949(昭和24)戦時中の大和報国運動により公職
追放、1951(昭和26)解除。部落開放委員会を1955(昭和30)部落
開放同盟として再建。
まつもと じゅんぞう
松本 淳三
1895. 1. 1(明治28)
1950.10. 9(昭和25)
◇詩人・政治家。本名は淳造。島根県美濃郡高城村(現:益田市)
神田生れ。父山口唯美・母松本カノの長男。
1914(大正 3)県立浜田中学校卒業。1916(大正 5)慶応義塾大
学理財科を中退。
戸籍上の生年は1894(明治27)。
まつもと たい
松本 泰
1887. 2.22(明治20)
1939. 4.19(昭和14)
◇小説家。本名は泰三。東京生れ。
1912(明治45)慶応義塾大学文学科卒業。
まつもと たかし
松本 たかし
1906. 1. 5(明治39)
1956. 5.11(昭和31)
◇俳人。本名は孝(タカシ)。東京神田猿楽町生れ。能役者松本長
(ナガシ)の長男。神田・錦華小学校卒業。
◆たかし忌(牡丹忌)[ 5.11]。
墓は神奈川県三浦市三崎町本瑞寺。
まつもと ながし
松本 長
1877(明治10)
1935(昭和10)
◇能楽師。静岡県生れ。
まつもと ふうこ
松本 楓湖
1840(天保11. 9. 4)
1923. 6.22(大正12)
◇日本画家。本名は敬忠(タカタダ)、別号は安雅堂。常陸国河内
郡寺内村生れ。
1895(明治28)第4回内国勧業博覧会に出品した『蒙古襲来図』
で著名。
まつもと まさお《まつもと まさを》
松本 正雄
1901. 3.14(明治34)
1976. 4.15(昭和51)
◇評論家。東京生れ。
1924(大正13)青山学院英語師範科卒業。1934(昭和 9)東京外
語学校露語専修科卒業。
まつもと まさひこ
松本 正彦
1934(昭和 9)
2005. 2.14(平成17)
◇漫画家。大阪府生れ。
大阪で貸本漫画を描き始める。
辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをさんらと劇画工房を結成。
胃ガンで死去。
まつもと りょうじゅん《まつもと りやうじゆん》
松本 良順
1832(天保 3)
1907(明治40)
◇西洋医学者。字(アザナ)は子良、号は蘭疇(ランジュ)。江戸の人。
佐藤泰然の次男、幕医松本良甫の養子。
まつやま しすい
松山 思水
生年不詳
1960(昭和35)
◇編集者・児童文学者。本名は二郎。
まつやま しょうぞう
松山 省三
1884. 9. 8(明治17)
1970. 2. 2(昭和45)
◇画家。広島市生れ。東京美術学校洋画科卒業。俳優河原崎国
太郎の父。
1911(明治44)「カフエー・プランタン」を京橋日吉町に開業、
1923(大正12)関東大震災で銀座通りに移転、牛込神楽坂にも支
店を持つが、1945. 3.(昭和20)廃業。
まつら しげのぶ
松浦 鎮信
1549(天文18)
1614(慶長19. 5.26)
◇安土桃山時代の武将・江戸初期の平戸藩初代藩主。通称は
源三郎。[1]松浦隆信(タカノブ)の長男。
秀吉に従い、島津討伐に加わり、文禄・慶長の役では朝鮮に
出兵。
関ヶ原の戦いでは東軍に加わり本領を安堵(アンド)し、肥前国
(現:長崎県)平戸藩6万3千石。
商館を平戸に誘致し、外国貿易で繁栄する基礎を築く。
まつら しげのぶ
松浦 重信
1622(元和 8)
1703(元禄16.10. 6)
◇江戸初期の肥前平戸藩主。別名は鎮信(シゲノブ)。[2]松浦隆
信(タカノブ)の子。
1637(寛永14)襲封。
まつら せいざん
松浦 静山
1760(宝暦10)
1841(天保12)
◇江戸後期の大名、平戸藩9代藩主。名は清。父は政(マサシ)。
藩政改革・藩校維新館設置など断行し、財政を再建。
致仕後、多くの文人と交わり、諸芸をたしなむ。活字印刷も
試みる。
著書は随筆集『甲子夜話(カッシヤワ)』など多数。
[1]まつら たかのぶ
松浦 隆信(初代)
1529(享禄 2)
1599(慶長 4)
◇安土桃山時代の武将。松浦興信の子、松浦鎮信(シゲノブ)の父。
[2]まつら たかのぶ
松浦 隆信
1591(天正19)
1637(寛永14)
◇江戸前期の大名。幼名は千代松。松浦久信の子、母は大村純
忠(スミタダ)の娘マンシャ、松浦信辰(ノブタツ)の兄、松浦重信(シゲ
ノブ)の父。
まつら のぶたつ
松浦 信辰
1597(慶長 2)
1638(寛永15)
◇江戸前期のキリシタン。松浦久信の子、母は大村純忠(スミタダ)
の娘マンシャ、松浦隆信(タカノブ)の弟。
まつら まんしゃ
松浦 マンシャ
1571(元亀 2)
1656(明暦 2)
◇江戸前期のキリシタン。大村純忠(スミタダ)の娘、松浦久信の
妻、隆信(タカノブ)・信清・信辰(ノブタツ)の母。
までのこうじ のぶふさ《までのこうぢ のぶふさ》
万里小路 宣房
⇒ふじわらののぶふさ(藤原 宣房)
まなせ げんさく
曲直瀬 玄朔
1549(天文18)
1631(寛永 8)
◇江戸初期の医学者。曲直瀬道三の養子。2代道三を襲名。
◆墓は東京都渋谷区広尾5丁目の祥雲寺。
◎世界で最初といわれるカルテを残す。
まなせ しょうりん
曲直瀬 正琳
1565(永禄 8)
1611(慶長16. 8.16)
◇安土桃山・江戸初期の医学者。
まなせ どうさん《まなせ だうざん》
曲直瀬 道三
1507(永正 4)
1595(文禄 4. 1. 4)
◇安土桃山時代の医家。今大路(イマオオジ)道三。名は正盛・正慶、
字は一渓、号は雖知苦斎(スイチクサイ)・盍静翁。正親町天皇より翠
竹院の号を賜わる。
徳川家康と秀忠(2代将軍)の侍医。日本医学中興の祖とされ
る。
著書は1571(元亀 2)『啓迪集(ケイテキシュウ)』など。
◎屋敷は現在の皇居和田倉門の橋のたもと近くにあった。
まなべ あきかつ
間部 詮勝
1802(享和 2)
1884(明治17)
◇江戸末期の幕府の老中・越前鯖江の藩主。下総守と称する。
1858(安政 5)大老井伊直弼の命を受け、条約調印・将軍家茂継
位の問題で上洛、梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内
ら反幕志士数十人を逮捕した。
まなべ あきふさ
間部 詮房
1667(寛文 7)
1720(享保 5. 7.16)
◇江戸中期の幕府側用人(ソバヨウニン)。猿楽師西田喜兵衛の子。
六代将軍徳川家宣の寵を受け、老中格になり高崎五万石の領
主。ついで七代将軍家継を補佐。新井白石とともに政治の実権
を握り、政局に当った。
1716年八代将軍吉宗の継位とともに隠居し、翌年越後村上に
移封。
(*)1716(正徳 6,享保元)。
まぶち みいこ
馬淵 美意子
1896. 3.16(明治29)
1970. 5.28(昭和45)
◇女流詩人。神戸生れ。
まふね ゆたか
真船 豊(眞船 豐)
1902. 2.16(明治35)
1977. 8. 3(昭和52)
◇劇作家・小説家。福島県会津生れ。父禎吾・母いとの次男。
早稲田大学英文科中退。
(5)福島県会津に生れた。
(10)福島県安積(アサカ)郡福良村で生れた。
(18)福島県会津生れ。
まみや もすけ
間宮 茂輔
1899. 2.20(明治32)
1975. 1.12(昭和50)
◇小説家。本名は真言(マコト)。東京生れ。
1918(大正 7)慶応大学仏文科中退。
「ナップ」に入って地下運動し、1933(昭和 8)入獄、1935(昭
和10)転向して出獄。
まみや りんぞう
間宮 林蔵
1775(安永 4)
1844(弘化元. 2.26)
◇江戸後期の北方探検家。本名は倫宗(トモムネ)、通称は林蔵。箍
(タガネ)職人庄兵衛の子、母はクマ。常陸国筑波郡谷井田村上平
柳生れ。
1790(寛政 2)ころ江戸に出る。ロシアの南下に備えるため、
1799(寛政11)松前藩の東蝦夷地のうち浦河(ウラカワ)から知床(シレト
コ)の間が幕府直轄領となり、普請役村上島之允の従者として調
査隊に参加。1800(寛政12)蝦夷地御用雇となり、伊能忠敬(タダ
タカ)から測量術を学ぶ。択捉(エトロフ)でロシア人の襲撃に遭遇す
る(フヴォストフ事件)。
1807(文化 4)松平忠明から松田伝十郎とともに樺太(カラフト)探
検を命ぜられる。翌年、単身でアイヌ人を雇い樺太を北上、北
端のナニオーにいたり、樺太が島であることを発見する。のち
に樺太と大陸との海峡が「間宮海峡」と呼ばれる。さらに清国に
朝貢に行く山丹人の船でキジ湖から黒竜江(コクリュウコウ)に進み、
川を溯(サカノボ)り大陸内部も調査する。この調査を『東韃地方
紀行』に著し、1811(文化 8)江戸に出府し、幕吏に取り立てら
れる。1822(文政 5)勘定奉行所属の御普請役。1824(文政 7)御
備場掛手附。
1828(文政11)シーボルトの荷の中に林蔵宛のものがあり、林
蔵がこれを幕府に届けてシーボルトの日本地図の国外持ち出し
が発覚。林蔵の恩人の天文方高橋景保(カゲヤス)がシーボルトに
地図を与えていたため、捕われて翌年獄死。このため密告者と
いわれ人望を失う。
1829(文政12)幕府隠密として長崎奉行の監察のため長崎に向
う。浜田藩の密貿易を摘発(竹島事件)。
江戸深川蛤町で死去。
(2)生年は1775(安永 4)(異)80。
(4)生年は1775。
(6)生年は1775。
まやま せいか
真山 青果
1878. 9. 1(明治11)
1948. 3.25(昭和23)
◇小説家・劇作家・考証家。本名は彬(アキラ)。仙台市裏五番町
生れ。
1891(明治24)仙台東二番町小学校卒業。東華学校(のち宮城
県立尋常中学校)に入り1896(明治29)退学、上京し杉浦重剛の
日本中学校に入学。しかし翌年帰仙し、第二高等学校医学部に
入学し間もなく退学。ハワイ渡航が成らず医学部に再入学、
1900(明治33)再び退学。
再度にわたる原稿二重売り事件を起す。1913(大正 2)松竹合
名会社に入社。
まるおか あきら
丸岡 明
1907. 6.29(明治40)
1968. 8.24(昭和43)
◇小説家。東京市麹町生れ。父丸岡桂(カツラ)・母ていの子。
暁星中学校を経て、1927(昭和 2)慶応義塾予科に入学。1931
(昭和 6)山川美耶子と結婚。1934(昭和 9)慶応義塾大学仏文科
卒業。
(5)東京に生れる。
(10)東京市牛込区新小川町生れ。
まるおか かつら
丸岡 桂
1878.10. 7(明治11)
1919. 2.12(大正 8)
◇歌人・能楽研究家。号は「月の桂のや(ツキノカツラノヤ)」・素蛾・
二十二木生・小桜。東京生れ。丸岡明の父。
まるおか きゅうか《まるをか きうくわ》
丸岡 九華
1865(慶応元)
1927. 7. 9(昭和 2)
◇詩人・小説家。本名は久之助、別号は春亭・九春亭・延春亭
・山茶花(サザンカ)・礫川(レキセン)魔王・桂堂・梅の舎薫(ウメノヤカオル)。
江戸生れ。
一橋高等商業学校に学ぶ。
1885. 2.(明治18)大学予備門の学生であった尾崎紅葉の硯友
社(ケンユウシャ)創立に参加。
まるばし ちゅうや
丸橋 忠弥
生年不詳
1651(慶安 4. 8.23)
◇江戸前期の浪人。幼名は吉十郎、元服して盛澄(モリズミ)。
宝蔵院流槍術の奥義をきわめ、江戸御茶の水で道場を開き弟
子を集める。
1651(慶安 4. 4.20)第3代将軍徳川家光の喪に乗じる由井正
雪(ユイ・ショウセツ)の乱(慶安の乱)に参加したが、御弓師藤四郎が訴
え出て露顕、町奉行石谷貞清(イシガヤ・サダキヨ)・神尾(カンオ)元勝ら
に捕えられ、鈴ヶ森で磔刑にされる。
◆墓は東京都豊島区高田二丁目の目白不動金乗院。
(2)土佐(母の故郷出羽国最上)。
(4)出羽の人。
(6)出羽の人。
(16)出羽国山形の人。
◎計画では由井正雪は駿府で蜂起。丸橋らは江戸小石川の幕府
火薬庫を爆破して大火を起こし、第4代将軍家綱を捕らえ城を
占拠する予定であった。
◎鈴ヶ森の処刑場はできたばかりで、丸橋が第1号の処刑者と
なった。
まるめ くらんど
丸目 蔵人
1540(天文 9)
1629(寛永 6)
◇江戸初期の剣術家。通称は石見守長恵、のち石見入道徹斎。
肥後人吉の人。
新陰流を創始した上泉秀綱(カミイズミ・ヒデツナ)に学び、タイ捨流
(シャリュウ)を興す。
まるや ぜんしち
丸屋 善七
1837(天保 8. 8. 9)
1901. 2.18(明治34)
◇出版者。本名は早矢仕(ハヤシ)有的。横浜に丸屋善八店、東京
に丸屋善七店を開業し、今日の丸善の基礎を作った。
まるやま おうきょ
円山 応挙
1733(享保18)
1795(寛政 7. 7.17)
◇江戸中期の画家。通称は主水(モンド)。円山派の始祖。丹波
(京都府)の人。
狩野派の石田幽汀に学び、眼鏡絵(メガネエ)を描いて西洋画法
を習得。
(4)丹波の人。
(6)丹波国の農家、あるいは京都に生れたと伝える。
まるやま かおる
丸山 薫
1899. 6. 8(明治32)
1974.10.21(昭和49)
◇詩人。大分県大分市生れ。父重俊・母タケの4男。
父が内務省の官吏で、転勤とともに長崎・東京・朝鮮京城・
東京・松江・東京と5度小学校を変る。父の死後、豊橋市に移
り、1912. 3.(明治45)豊橋八町小学校を卒業、4月愛知県立第
四中学校入学。1917. 3.(大正 6)愛知四中を卒業、4月高等商
船学校に入学するが、1918(大正 7)脚気のために中退。
1921(大正10)第三高等学校文科丙類に入学。1925. 4.(大正
14)東京帝国大学国文科に入学。1928(昭和 3)高井三四子と結
婚し、大学を中退。
まるやま かんじ
丸山 幹治
1880. 5. 2(明治13)
1955. 8.13(昭和30)
◇新聞記者・評論家。号は侃堂。
まるやま きんじ
丸山 金治
1915.10.26(大正 4)
1948. 2.16(昭和23)
◇小説家。
まるやま さくら
丸山 作楽(丸山 作樂)
1840(天保11.10. 3)
1899. 8.19(明治32)
◇政治家・歌人。幼名は勇太郎、号は盤之屋。江戸芝三田に島
原藩士丸山正直の子として生れる。
1872(明治 5)内乱罪により終身禁固刑を受け、1880(明治13)
出獄。元老院議員・貴族院議員。
まるやま さだお
丸山 定夫
1901. 5.31(明治34)
1945. 8.16(昭和20)
◇大正・昭和期の新劇・映画俳優。愛媛県松山町生れ。
太平洋戦争中、移動劇団さくら隊員となり、広島巡演中に原
爆の犠牲になる。
『富島松五郎伝』の「無法松」が当り役。
まるやま ばんか
丸山 晩霞
1867(慶応 3. 5. 3)
1942. 3. 4(昭和17)
◇画家。本名は健作。長野県生れ。山岳画を得意とする。
まるやま よしじ
丸山 義二
1903(明治36)
1979(昭和54)
◇プロレタリア作家。
まるやま よしまさ
丸山 芳良
1884. 5. 5(明治17)
1932. 3.23(昭和 7)
◇歌人。足利市生れ。東京高等商業学校に学ぶ。
まんじゅうや そうじ《まんぢゆうや そうじ》
饅頭屋 宗二(初代)
1498(明応 7)
1581. 8.10(天正 9. 7.11)
◇戦国時代の饅頭商・歌人・歌学者。本名は林宗二、字は桂室、
号は林逸(リン・イツ)・方生斎、饅頭屋は屋号。1350年に饅頭の製
法を伝えた宋人(帰化人)の林浄因(リン・ジョウイン)(塩瀬の祖)の子
孫。
京都の饅頭を商う商家に生れ、長じて奈良に住む。
家業のかたわら、歌学を牡丹花肖柏(ボタンカ・ショウハク)に、学問
を清原宣賢(キヨハラノノブカタ)・吉田兼右(カネスケ)に学ぶ。
『源氏物語林逸抄』を著し、『饅頭屋本節用集』を刊行。
◎肖柏は宗祇から受けた『古今集』(堺伝授)を、宗二に伝えた
事は「奈良伝授」として知られている。
(*)1350(<南>正平 5,<北>貞和 6,<北>観応元)。
(2)はやし そうじ(林 宗二)。
(23)はやし そうに(林 宗二)。
まんじょうめ ただし《まんじやうめ ただし》
万城目 正
1905. 1.31(明治38)
1968. 4.25(昭和43)
◇作曲家。北海道生れ。父民治、母ふじ。
武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)、中退。
松竹管弦楽団に入団し、楽士として下積み生活を送る。
松竹大船撮影所音楽部員を経て音楽監督となる。
1938(昭和13)コロムビア専属作曲家を兼務。
作品は1945.10.(昭和20)『リンゴの唄』・1948(昭和23)『浅
草の歌』・1949(昭和24)『悲しき口笛』・1950. 7.(昭和25)
『東京キッド』・1951(昭和26)『越後獅子の歌』など。
まんぞうじ ひとし
万造寺 斉
1886. 7.29(明治19)
1957. 7. 9(昭和32)
◇歌人・小説家・英文学者。鹿児島県日置郡羽島村羽島(現:串
木野市)生れ。
県立川内(センダイ)中学校・第七高等学校を経て、1912(明治45)
東京大学英文科卒業。のち大谷大学教授。
まんてい おうが
万亭 応賀(萬亭 應賀)
1818(文政元)
1890. 8.30(明治23)
◇合巻(ゴウカン)作者・戯作者。本名は服部孝三郎・長三郎、別
称は春頌斎・長恩堂。常陸国下妻藩に出仕。
(22)生年は1821(文政 4)。
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