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人 名 辞 典 《ま》 編集:獨 澄旻
-------- ま ----------------------------------------------------
まえかわ せんぱん
前川 千帆
1888.10. 5(明治21)
1960.11.17(昭和35)
◇版画家。本名は石田重三郎。京都市生れ。
関西美術院に油絵を学び、1912(明治45)上京し、「東京パッ
ク」などに漫画や挿絵を掲載。のち漫画の筆を絶ち、創作版画
に専念。
まえじま ひそか《まへじま ひそか》
前島 密
1835(天保 6. 1. 7)
1919. 4.27(大正 8)
◇明治政府の官僚・郵便制度の創始者・国語国字改良家。越後
国高田藩士の子。
1866(慶応 2)将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を建白、かな
専用を創唱。
1870(明治 3)渡英し郵便制度を調査。1871〜1873(明治 4〜
明治 6)郵便切手・全国均一料金を採用、郵便制度を確立して、
「郵便の父」と呼ばれる。
帝国教育会国字改良部長・国語調査委員長・言文一致会の座
長。
まえだ あい
前田 愛
1931. 4.20(昭和 6)
1987. 7.27(昭和62)
◇評論家・国文学者。本名は愛(ヨシミ)。
まえだ あきら
前田 晃
1879. 1.15(明治12)
1961. 9. 9(昭和36)
◇小説家・翻訳家・評論家。号は木城(モクジョウ)。山梨県八幡村
生れ。児童文学者徳永寿美子(スミコ)の夫。
1898. 4.(明治31)電信技師として甲府より東京に転勤、勤め
のかたわら国民英学会に通い、早稲田大学に入学。1906(明治
39)早稲田大学哲学科および英文学科卒業。 ????
隆文館を経て、1906. 2.(明治39)博文館に入社、1913(大正
2)博文館を退社。
(5)没日は 9. 9。明治三七年早大哲学および英文学科卒業。
(10)没日は 9. 9。早大に入学、三七年、哲学科および英文科
を卒業、……。
(13)没日は 9.10。三七年二月早大文学部哲学科及び英文学科
卒。
まえだ えうん《まへだ ゑうん》
前田 慧雲
1857(安政 4)
1930(昭和 5)
◇明治・大正期の仏教学者・浄土真宗の学僧。伊勢生れ。
尊王奉仏大同団に加わり愛国護法運動を展開。
1904(明治37)高輪仏教大学長。1907(明治40)東洋大学長。
1922(大正11)竜谷大学長。
著書は『大乗仏教史論』など。編纂『大日本続蔵経』。
まえだ かんじ《まへだ くわんぢ》
前田 寛治
1896.10. 1(明治29)
1930. 4.16(昭和 5)
◇洋画家。鳥取県生れ。
1921(大正10)東京美術学校卒業。
1922〜1925(大正11〜大正14)渡仏してクールベに傾倒。
帰国後帝展に出品。「一九三○年協会」を創立。
代表作は『棟梁の家族』・『海』・『裸体』・『二人の労働
者』など。
まえだ げんい《まへだ げんい》
前田 玄以
1539(天文 8)
1602(慶長 7)
◇安土桃山時代の武将。名は孫十郎基勝・宗向、通称は民部卿、
号は半夢斎、法号は徳善院。美濃国安八郡前田の前田左近将監
基光の子、前田主膳(シュゼン)の父。
初め比叡山の僧。
織田信長・織田信忠に仕え、1582(天正10)本能寺の変後、織
田信雄(ノブオ,ノブカツ)から京都の市政を預かる。
のち豊臣秀吉に仕え民政を担当、京都奉行・寺社奉行として
手腕をふるい丹波国亀山5万石。1585(天正13)秀吉五奉行の一
人。
1600(慶長 5)関ヶ原の戦いには西軍に属しながら西軍の動向
を東軍に通じて、戦後は家康から所領を安堵(アンド)される。
まえだ げんおん
前田 元温
1821(文政 4)
1901(明治34)
◇江戸幕末・明治前期の医者。
警視医学校の校長。
まえだ こうせつ
前田 香雪
1841(天保12. 1. 7)
1916.12.12(大正 5)
◇新聞記者・小説家・美術研究家。本名は夏繁、通称は健次郎、
別号は小羅浮洞主人・鶯園・金衣散山・金衣山人・疎影閑人・
横斜生。江戸御徒町生れ。父は夏蔭。
1875(明治 8)平仮名絵入新聞に入社。1882(明治15)東京絵入
社長。帝室博物館・古社寺保存会・工芸協会役員・日本美術協
会副委員長。
1892(明治25)東京美術学校教授。 ????
(10)二九年東京美術学校講師(考古学、図案。昭三○年)。
まえだ さんゆう
前田 三遊
1869(明治 2)
1923(大正12)
◇明治・大正期のジャーナリスト。本名は貞次郎。
まえだ しげのぶ
前田 重靖
1735(享保20.11. 8)
1753(宝暦 3. 9.29)
◇第6代加賀藩主前田吉徳(ヨシノリ)の5男、宗辰(ムネトキ)・重熈(シ
ゲヒロ)の弟、重教(シゲミチ)・治修(ハルナガ)の兄。
まえだ しげひろ
前田 重熈
1729(享保14. 7.24)
1753(宝暦 3. 4. 8)
◇加賀藩主(8代)。前田吉徳(ヨシノリ)の次男、宗辰(ムネトキ)の弟、
重靖(シゲノブ)・重教(シゲミチ)・治修(ハルナガ)の兄。
まえだ しげみち
前田 重教
1741(寛保元.10.23)
1786(天明 6. 6.12)
◇加賀藩主(9代)。前田吉徳(ヨシノリ)の7男 、宗辰(ムネトキ)・
重熈(シゲヒロ)・重靖(シゲノブ)の弟、治修(ハルナガ)の兄、斉広(ナリナ
ガ)の父。
まえだ じゃくろう
前田 雀郎
1897. 3.27(明治30)
1960. 1.27(昭和35)
◇川柳作家。本名は源一郎。宇都宮生れ。市立宇都宮商業卒業。
阪井久良岐に師事するが破門。
まえだ しゅぜん
前田 主膳
1579(天正 7)
没年不詳
◇安土桃山・江戸前期のキリシタン大名。名は彦四郎・茂勝・
宗利。前田玄以(ゲンイ)の次男。
1602(慶長 7)玄以の跡を継ぎ、丹波国亀山5万石城主。1608
(慶長13)発狂し所領没収。
まえだ じゅんこう
前田 純孝
1880. 4. 3(明治13)
1911. 9.25(明治44)
◇歌人。号は翠溪。兵庫県二方郡諸寄村生れ。
御影師範学校を経て東京高等師範学校国漢科卒業。郷里で病
没。
まえだ しゅんせい
前田 春声
1896. 4. 1(明治29)
1977.11.18(昭和52)
◇詩人。本名は鉄之助。後期は本名で執筆。東京生れ。正則英
語学校に学ぶ。
まえだ しょざん
前田 曙山
1871(明治 4.11.21)
1941. 2. 8(昭和16)
◇小説家・園芸家。本名は次郎。東京日本橋馬喰町生れ。
まえだ せいそん《まへだ せいそん》
前田 青邨
1885(明治18)
1977(昭和52)
◇大正・昭和期の日本画家。本名は廉造。岐阜県生れ。
1911(明治44)梶田半古(ハンコ)に入門。のち今村紫紅(シコウ)・安
田靫彦(ユキヒコ)らの紅児会会員となる。
第6回文展で認められる。日本美術院展で靫彦・同門の小林
古径らと並んで中心的な画家として活躍。
1952(昭和27)東京芸術大学教授。
1955(昭和30)文化勲章を受賞。
歴史画・武者絵などの肖像画・花鳥画など幅広く描き、日本
画壇の長老となる。
代表作は『京名所八題』・1929(昭和 4)『洞窟の頼朝』・
『紅白梅』・『風神雷神』・『唐獅子』など。
まえだ たもん
前田 多門
1884(明治17)
1962(昭和37)
◇昭和期の政治家。
1945(昭和20)東久迩内閣の文部大臣。
まえだ つなのり《まへだ つなのり》
前田 綱紀
1643(寛永20.11.16)
1724(享保 9. 5. 9)
◇江戸前期の加賀藩主(5代)。幼名は犬千代、初名は綱利、号
は顧軒・香雪、諡号(シゴウ)は松雲公。加賀藩主前田光高の長男、
母は水戸藩主徳川頼房の娘阿智姫で将軍徳川家光の養女。前田
吉徳(ヨシノリ)の父。
1645(正保 2. 4.)父光高の急死により3歳で襲封、祖父利常
(トシツネ)が後見となる。
義父の会津藩主保科正之(ホシナ・マサユキ)の援けを得て、凶作対策
など農政に力を入れる。学問・武芸を奨励し、木下順庵・室鳩
巣(ムロ・キュウソウ)らを招き和漢古典の収集保存、『庶物類纂』など
の編纂事業を行い、前田家尊経閣文庫の基礎を築く。
◎加賀藩中興の英主といわれた。
まえだ とおる
前田 透
1914. 9.16(大正 3)
1984. 1.13(昭和59)
◇歌人。東京生れ。前田夕暮(ユウグレ)の長男。東京帝国大学経
済学部卒業。貿易会社社員、のち成蹊(セイケイ)大学教授。
まえだ としいえ《まへだ としいへ》
前田 利家
1538(天文 7.12.25)
1599(慶長 4. 3. 3)
◇安土桃山時代の武将、五大老の一人、加賀藩主前田家の祖。
幼名は犬千代のち孫四郎・又左衛門(マタザエモン)、通称は羽柴筑
前守・中将・加賀大納言。法号は高徳院。尾張国海東郡荒子
(現:愛知県名古屋市中川区)の武士前田利昌の4男。正室は高
畠氏芳春院(まつ)。前田利長(トシナガ)・利政(トシマサ)・利常(トシツネ)
・利孝(トシタカ)の父。
幼少より織田信長に仕える。
1558(永禄元)まつを娶(メト)る。
1560(永禄 3)桶狭間(オケハザマ)の戦に出陣。
1569(永禄12)家督を相続。
1575(天正 3)長篠(ナガシノ)の戦に功をたて、越前国府中(現:
福井県武生市)に3万3千石を領す。
1581(天正 9)能登に入国、翌1582(天正10)所口(現:石川県七
尾市)に築城。
1583(天正11)賎ヶ岳(シズガタニ)の戦いでは始め柴田勝家につ
いたが、のち羽柴(豊臣)秀吉と和を結び、金沢に封ぜられ尾山
城(金沢城)に拠り北陸を平定。
1597(慶長 2)大納言となる。
1598(慶長 3)家督を利長に譲る。
秀吉没後は五大老の一人として豊臣秀頼を補佐し、徳川家康
と並び大事を決する。
翌1599(慶長 4)没する。
まえだ としたか
前田 利孝
1594(文禄 3)
1637(寛永14)
◇江戸前期の大名。通称は孫八郎・大和守。前田利家(トシイエ)の
5男、母は高畠氏芳春院。前田利長(トシナガ)・利政(トシマサ)・利
常(トシツネ)の弟。
1616(元和 2)上野国七日市1万石。
まえだ としつぐ
前田 利次
1617(元和 3)
1674(延宝 2)
◇江戸前期の大名・富山藩の始祖。幼名は千勝丸、通称は淡路
守。加賀藩主前田利常(トシツネ)の次男、母は徳川秀忠の次女天徳
院。利高の弟、利治(トシハル)の兄。
1639(寛永16)利常から越中に10万石を分知。
まえだ としつね
前田 利常
1593(文禄 2.11.25)
1658(万治元.10.12)
◇江戸前期の大名・加賀藩主(3代)。幼名は猿千代・犬千代、
初名は利光、通称は筑前守・加賀守・肥前守・小松中納言。前
田利家(トシイエ)の4男、母は高畠氏芳春院(まつ)。兄利長の養嗣
子、利政(トシマサ)の弟、利孝(トシタカ)の兄。光高・利次(トシツグ)・
利治(トシハル)の父。綱紀(ツナノリ)の祖父。
1600(慶長 5)兄利長の養嗣子となる。
1639(寛永16)隠居。1645(正保 2)4代藩主光高が急死し、光
高の子の5代藩主綱紀の後見となる。
1651(慶安 4)から改作法などを整備して農村支配体制の基礎
を築く。
まえだ としなが
前田 利長
1562(永禄 5. 1.12)
1614(慶長19. 5.20)
◇安土桃山・江戸初期の大名・加賀藩主(2代)。幼名は犬千代
・孫四郎、初名は利勝。前田利家(トシイエ)の長男、母は高畠氏芳
春院(まつ)。前田利政(トシマサ)・利常(トシツネ)・利孝(トシタカ)の兄。
正室は織田信長の娘玉泉院(永)。
はじめ織田信長に仕える。
まえだ としなり
前田 利為
1885(明治18)
1942. 9.(昭和17)
◇大正・昭和前期の陸軍軍人(大将)。前田利昭の5男、侯爵前
田利嗣の養子。
飛行機事故死。
まえだ としはる
前田 利治
1618(元和 4)
1660(万治 3)
◇江戸前期の大名・大聖寺藩の始祖。幼名は宮松丸、通称は飛
騨守。加賀藩主前田利常(トシツネ)の3男、母は徳川秀忠の次女天
徳院。利次(トシツグ)の弟。
1693(元禄 6)利常から大聖寺7万石を分知。
まえだ としまさ
前田 利昌
1684
1709(宝永 6)
◇江戸中期の大名。加賀国大聖寺藩主前田利明の4男、利直の
弟。
1692(元禄 5)兄利直から1万石を分知。
大和国柳本藩主織田秀親を刺殺し、切腹を命ぜられる。
(*)1684(天和 4,貞享元)。
まえだ としまさ
前田 利政
1578(天正 6)
1632(寛永 9)
◇安土桃山時代の大名。初名は利正、通称は孫四郎・能登守、
法号は宗悦。前田利家(トシイエ)の次男、母は高畠氏芳春院(まつ)。
前田利長(トシナガ)の弟、利常(トシツネ)・利孝(トシタカ)の兄。
まえだ としやす
前田 利保
1799(寛政11)
1859(安政 6)
◇江戸後期の大名。初名は啓太郎、号は万香亭・自知館・恋花
園・弁物舎、通称は淡路守。富山藩主前田利謙の次男、兄利幹
の養嗣子。
1835(天保 6)家督を相続。
まえだ とらお
前田 虎雄
1892(明治25)
1953(昭和28)
◇大正・昭和前期の国家主義者。長崎県生れ。
まえだ なつかげ《まへだ なつかげ》
前田 夏蔭
1793(寛政 5)
1864
◇江戸末期の国学者・歌人。姓は菅原、通称は健助、号は鴬園。
健次郎の父。江戸の人。
清水浜臣に国学を学ぶ。水戸藩主徳川斉昭に用いられ江戸駒
込別邸内の編集所で『大日本史』編纂に参与。また幕命を受け
て『蝦夷志料』の編集に携わるが業半ばにして没する。
著書は『万葉集私記』・『蝦夷東西地名考証』など。
(*)1864(文久 4,元治元)。
◎北海道の地名の文字は、夏蔭の選定によるものが多い。
まえだ なりなが
前田 斉広
1782(天明 2. 7.28)
1884(明治17. 1.16)
◇加賀・前田家藩主(11代)。前田重教(シゲミチ)の2男、前田斉
泰(ナリヤス)の父。
まえだ なりやす
前田 斉泰
1811(文化 8)
1884(明治17)
◇江戸幕末・明治維新期の加賀・前田家藩主(12代)。幼名は
勝千代のち勝丸・犬千代、初名は利泰。前田斉広(ナリナガ)の嫡
男、前田慶寧(ヨシヤス)の父。
1822(文政 5)襲封。
1827(文政10)11代将軍徳川家斉(イエナリ)の息女溶姫を迎える。
◎東京都文京区本郷に前田家上屋敷があり、溶姫を迎えた朱塗
りの御守殿門が赤門(アカモン)として現存。
まえだ はじめ
前田 一
1895(明治28)
1978(昭和53)
◇昭和期の実業家。佐賀県生れ。
まえだ はるなが
前田 治修
1745(延享 2. 1. 4)
1810(文化 7. 1. 7)
◇加賀藩主(10代)。前田吉徳(ヨシノリ)の10男、宗辰(ムネトキ)・重熈
(シゲヒロ)・重靖(シゲノブ)・重教(シゲミチ)の弟。
まえだ ふさのすけ
前田 房之助
1884(明治17)
1965(昭和40)
◇昭和期の政党政治家(民政党)。兵庫県生れ。
1944(昭和19)運輸通信政務次官。
まえだ ふら
前田 普羅
1884. 4.18(明治17)
1954. 8. 8(昭和29)
◇俳人。本名は忠吉(チュウキチ)。東京芝区七軒町生れ。早稲田大
学英文科を2年半で中退。脳溢血で死去。
(1)生年は1884(明治17)。
(3)生年は1888(明治21)。
(5)生年は1886(明治19)。
(10)生年は1884(明治17)。
(11)生年は1886(明治19)。
(13)生年は1889(明治22)。
まえだ まごえもん
前田 孫右衛門
1818
1864
◇江戸幕末期の志士・長州藩士。孫右衛門は通称、名は利済、
字は致遠、幼名は岩助、号は陸山。
1891(明治24)贈正四位。
(*)1818(文化15,文政元)、1864(文久 4,元治元)。
まえだ まさな
前田 正名
1850(嘉永 3. 3.12)
1921. 8.11(大正10)
◇明治時代の官僚・実業家。薩摩藩士前田善安の6男。
1869(明治 2)フランスに留学、公使館付二等書記生。1876
(明治 9)帰国後、内務省勧農局の三田育種場所長。1881(明治
14)大蔵省農商務省の大書記官。1884(明治17)「興業意見」を編
集して太政官に提出。1888(明治21)山梨県知事・東京農学校
長・1890(明治23)農商務次官。
元老院議官・貴族院勅選議員。死後、男爵を授けられる。
(2)退官後,全国を遊説,地方産業団体の育成に努め,五二会等を
興した。
(10)一八年官を辞し、各地に農園を設け、一歩園と称し、殖産
事業に尽力。
まえだ まさゆき
前田 正之
1842(天保13)
1892(明治25)
◇江戸幕末・明治維新期の志士・十津川郷士。初名は雅楽。大
和国(奈良県)十津川郷士前田清左衛門の子。
1870(明治 3)兵部省に出仕、1886(明治19)皇宮警部、1888
(明治21)退官。
まえだ みつたか
前田 光高
1624(寛永元.11.20)
1645(正保 2. 4. 5)
◇加賀藩主(4代)。前田利常の長男、綱紀(ツナノリ)の父。
まえだ むねとき
前田 宗辰
1725(享保10. 4.25)
1746(延享 3.12. 8)
◇加賀藩主(7代)。前田吉徳(ヨシノリ)の長男、重熈(シゲヒロ)・
重靖(シゲノブ)・重教(シゲミチ)・治修(ハルナガ)の兄。
まえだ ゆうぐれ《まへだ ゆふぐれ》
前田 夕暮
1883. 7.27(明治16)
1951. 4.20(昭和26)
◇明治〜昭和期の歌人。本名は洋造。前田透(トオル)の父。神奈
川県大住郡大根(オオネ)村南矢口生れ。
中郡(ナカグン)中学を神経衰弱のため中退。1904(明治37)上京
し、尾上柴舟(サイシュウ)に師事。国語伝習所・二松学舎に学ぶ。
柴舟を中心に若山牧水・三木露風らと車前草社を創立。
1906(明治39)自ら白日社を創立、「向日葵(ヒグルマ)」を創刊す
るが2号で終る。「創作」同人となる。
1911(明治44)「詩歌」を主宰・創刊。
歌集は『収穫』・『原生林』・『耕土』・『生くる日に』な
ど。
(1)誕生日は 7.20。
(2)本名洋造。(生)神奈川県。
(3)誕生日は 7.27。
(4)本名洋造。神奈川県生れ。
(5)誕生日は 7.27。本名洋造。神奈川県大住郡大根(オオネ)村に
久治の長男として生れる。
(10)誕生日は 7.27。本名洋造。神奈川県大住郡(現・中郡)大
根村南矢口に久治の長男として生れた。
(11)誕生日は 7.27。
(13)誕生日は 7.26。本名洋三。神奈川県中郡大根村に生まる。
(18)本名洋造。
まえだ よしのり
前田 吉徳
1690(元禄 3. 8. 8)
1745(延享 2.12. 8)
◇江戸中期の大名・加賀藩主(6代)。幼名は勝次郎、初名は
利興。加賀藩主前田綱紀(ツナノリ)の4男(世子)、母は三田村氏、
宗辰(ムネトキ)・重熈(シゲヒロ)・重靖(シゲノブ)・重教(シゲミチ)・治修
(ハルナガ)の父。
1723(享保 8)襲封。下士出身の大槻伝蔵を重用し、死後の
「加賀騒動」の原因を作った。
まえだ よしやす
前田 慶寧
1830(文政13. 5. 4)
1874(明治 7. 5.18)
◇加賀前田家の当主(13代)。前田斉泰(ナリヤス)の嫡男。
戊辰の役で北越に出兵し、金沢藩知事に任じられた。
まえだ よねぞう
前田 米蔵
1882(明治15)
1954(昭和29)
◇大正・昭和前期の政党政治家(政友会)。和歌山県生れ。東京
法学院(現:中央大学)卒業。
まえだ りんがい
前田 林外
1864(元治元. 3. 3)
1946. 7.13(昭和21)
◇詩人。本名は儀作。播磨(ハリマ)国(現:兵庫県)青山村生れ。
大阪泰西学館英学科に学び、貿易会社勤務を経て、1887. 9.
(明治20)東京専門学校(現:早稲田大学)英語普通科に入学、
1890(明治23)同校を卒業。同年、同校に創設された文学科に再
入学するが中退。さらに仏蘭西語専修学校や東京外国語学校露
語科に学ぶ。
まえだこう ひろいちろう《まへだかう ひろいちらう》
前田河 広一郎(前田河 廣一郎)
1888.11.13(明治21)
1957.12. 4(昭和32)
◇小説家・評論家。前田河は母「さと」の姓。宮城県仙台・川内
大工町生れ。父は今川常七。母は前田河さと、戸籍上は私生児。
生後まもなく宮城県栗原郡若柳町の開業医・前田河要之助
(伯父)に引き取られる。1905(明治38)伯父との不和から県立第
一中学校中退。
同年上京、徳富蘆花(ロカ)に師事。1907(明治40)蘆花の世話で
渡米、邦字紙「日米週報」の編集長となる。1920. 3.(大正 9)帰
国。
1921(大正10)小説『三等船客』を発表、プロレタリア文学運
動に参加。「種蒔く人」・「文芸戦線」同人となる。
1928.10.〜1929. 3.(昭和 3〜昭和 4)中国旅行。
作品は『赤い馬車』・『大暴風雨時代』・『蘆花伝』など。
(2)前田河 広一郎(まえだこう ひろいちろう)。
(4)前田河 広一郎(まえだこう ひろいちろう)。
(6)前田河 広一郎(まえだこう ひろいちろう)。
(10)前田河 広一郎(まえだこう ひろいちろう)。
(11)前田河 広一郎(まいだこ ひろいちろう)。
(13)前田河 廣一郎(まえだこう ひろいちろう)。
(18)前田河 広一郎(まえだこう こういちろう)。戸籍上は
〈まいだこひろいちろう〉と読む。
まえの りょうたく《まへの りやうたく》
前野 良沢
1723(享保 8)
1803(享和 3.10.17)
◇江戸中期の蘭方医。良沢は通称、本名は熹(ヨミス)、字は子悦
・士章、号は楽山、俗称は蘭化。代々豊前国中津藩医。
47歳でオランダ語を青木昆陽(コンヨウ)から学ぶ。
1771(明和 8. 3. 4)杉田玄白・中川淳庵らと江戸千住骨ヶ原
(小塚原)で死刑囚(あだ名が青茶婆という女)の腑分け(死体解
剖)を観察、蘭書『ターヘル・アナトミア』の正しさに感心し
て、翌日より共訳を開始し、訳書を『解体新書』と名付けた。
◎山脇東洋の刑死体解剖は1754(宝暦 4)。
まえばら いすけ
前原 伊助
⇒まえばら むねふさ(前原 宗房)
まえばら いっせい《まほばら いつせい》
前原 一誠
1834(天保 5. 3.20)
1876.12. 3(明治 9)
◇明治前期の政治家。初名は佐世八十郎(サセ・ヤソロウ)のち彦太郎、
字(アザナ)は子明(シメイ)、号は梅窓(バイソウ)・黙宇・斃休斎・椿東
・太虚洞。長州萩藩士佐世彦七(ヒコシチ)
の長男。
1857(安政 4)松下村塾に入り、久坂玄瑞(クサカ・ゲンズイ)・高杉
晋作・吉田稔麿(トシマロ)とともに「四天王」(*)と呼ばれる。
長崎に遊学し、1859(安政 6)藩の西洋学所に学ぶ。
尊攘運動に走り、1862(文久 2. 2.)久坂玄瑞らと脱藩、長井
雅楽(ウタ)要撃策に参加。
1863(文久 3)帰国して七卿方(シチキョウガタ)御用掛。
長州征伐では討幕派として活躍。
戊辰戦争では北越軍参謀として転戦。
明治維新後、越後府判事に就任、中央政府の財政を無視して
年貢の減免・信濃川治水工事を行おうとしたため、参議に昇進
という形で東京に呼び戻される。
のち兵部大輔となるが、兵制改革から木戸孝允らと対立し、
病と称した辞表が1870(明治 3. 9.)受理されて萩に帰る。
1871(明治 4. 1. 9)自宅を狙撃される暗殺未遂事件が起き、
黒幕は木戸といわれた。
1876.10.24(明治 9)神風連の乱がおこると、10.28奥平謙輔
らと藩内不平士族を結集し萩で挙兵。10.31鎮台兵に敗北し、
舟で出雲に逃れて宇竜港に上陸、捕われる。萩に連れ戻されて
斬首される。
◎1916(大正 5)贈従四位。
◎一誠の叔父木原良蔵の妹は木戸孝允の妻。
(*)四天王は久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一(イリエ・クイ
チ)とも。
まえばら むねふさ
前原 宗房
1664(寛文 4)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、金奉行、禄高十石三人扶持。
通称は伊助(イスケ)、戒名は刃補天剣信士、吉良家を探索中の変
名は初め古着屋権次郎(ゲンジロウ)のち米屋五兵衛(ゴヘエ)。
吉良邸の裏門近くで米屋を商い、のちに合流した神崎与五郎
(カンザキ・ヨゴロウ)則休(ノリヤス)とともに屋敷内を探り、堀部安兵衛
(ホリベ・ヤスベエ)武庸(タケツネ)が手に入れた古い屋敷絵図を補正した。
吉良家討ち入りでは裏門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
屋敷に預けられ、翌年、鵜飼惣右衛門(ウカイ・ソウエモン)の介錯(カイシャク)
で切腹。
宗房は『赤城盟伝』を記し、神崎与五郎が註(チュウ)を施し、
木村岡右衛門(オカエモン)貞行(サダユキ)が跋(バツ)を書いている。
まかべ じん
真壁 仁
1907. 3.15(明治40)
1984. 1.11(昭和59)
◇詩人。山形県山形市宮町生れ。
まき いつま
牧 逸馬
1900. 1.16(明治33)
1935. 6.29(昭和10)
◇小説家。本名は長谷川海太郎、筆名は牧逸馬(マキ・イツマ)・
林不忘(フボウ)・谷譲次<ジョージ>。新潟県佐渡郡相川町生れの北
海道育ち。1918(大正 7)渡米し各地を放浪、オハイオ・ノウザ
ン大学に在学したこともある。1924(大正13)帰国。心臓麻痺で
急死。長谷川四郎の兄。
(1)誕生日は 1.16。
(3)誕生日は 1.17。
(5)誕生日は 1.23。
(10)誕生日は 1.16。
(11)誕生日は 1.23。
(12)誕生日は 1.17。
(13)誕生日は 1.17。
まき しょうぞう
牧 章造
1916. 6.27(大正 5)
1970.10. 3(昭和45)
◇詩人。本名は内田正基。東京生れ。父は正国。神奈川県立工
業学校卒業。
まき ちのう
真木 痴嚢
1853(嘉永 6)
1925. 4.12(大正14)
◇狂詩家・戯文家。本名は幹之助。「団々珍聞」に入社。
まきし ちょうちゅう
牧志 朝忠
1818
1862(文久 2)
◇江戸後期、首里王府の異国通事。琉球首里の人。中国語・英
語・仏語に堪能。
島津斉彬(ナリアキラ)の密命を受けてフランスから軍艦を購入し
ようとしたが、1858(安政 5)斉彬の急死により頓挫、投獄され
る。
1862(文久 2)島津藩は通事にするため強制的に赦免し、鹿児
島に到る途中で海に投身自殺。
(*)1818(文化15,文政元)。
まきの きょたろう
牧野 虚太郎
1921(大正10)
1941. 8.20(昭和16)
◇詩人。本名は島田実、筆名は去太郎。慶応義塾大学中退。
まきの しょうぞう《まきの しやうざう》
マキノ 省三
⇒まきの しょうぞう(牧野 省三)
まきの しょうぞう《まきの しやうざう》
牧野 省三
1878. 9.15(明治11)
1929. 7.25(昭和 4)
◇明治・大正時代の映画監督・制作者。京都生れ。父は西陣機
業家藤野斉、母は義太夫師牧野やな。正雄(マキノ雅弘・正博)
・光次郎(マキノ光雄)の父。「日本映画の父」と呼ばれる。
1907(明治40)映画『本能寺合戦』を製作。
1912(大正元)日本活動写真株式会社の日活関西撮影所長。
1919(大正 8)ミカド商会を設立。
1921(大正10)マキノ映画製作所を設立。
1925(大正14)マキノ・プロを設立。
1929(昭和 4)日本初のトーキー映画『戻橋』を製作。
まきの しんいち
牧野 信一
1896.11.12(明治29)
1936. 3.24(昭和11)
◇大正・昭和期の小説家。神奈川県足柄下郡小田原町緑町生れ。
小田原藩士牧野久雄の長男、母はヱイ。
1903(明治36)尋常小田原小学校入学、1909(明治42)卒業。神
奈川県立第二中学校に入学、1914(大正 3)同校を卒業し、早稲
田大学高等予科に入学。1回落第して、1916. 9.(大正 5)本科
に進級。1919(大正 8)早稲田大学英文科卒業。1921(大正10)鈴
木せつと結婚。
飲酒癖があり、1935(昭和10)頃から神経衰弱に悩み、小田原
の実家の納屋で縊死(イシ)。
◆牧野信一忌[ 3.24]。
まきの とみたろう《まきの とみたらう》
牧野 富太郎
1862(文久 2)
1957(昭和32)
◇明治〜昭和期の植物学者。土佐国生れ。
小学校を中退し、独学で植物分類学を修め、『日本植物志図
篇』を自費出版。
1893(明治26)東京大学植物学研究所の助手。1913(大正 2)東
京大学講師。1927(昭和 2)理学博士。1939(昭和14)東京大学を
辞職。学歴がないため大学では冷遇される。
1957(昭和32)死後、文化勲章が贈られる。
まきの とらお
牧野 虎雄
1890(明治23)
1946(昭和21)
◇大正・昭和期の洋画家。新潟県生れ。
東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。
1929(昭和 4)多摩美術学校(現:多摩美術大学)を創立。
まきの ぼうとう
牧野 望東
1876. 1.29(明治 9)
1913. 1.16(大正 2)
◇俳人。本名は誠一。東京生れ。
慶応義塾に学ぶ。
まきの みつお
マキノ 光雄
1909(明治42)
1957(昭和32)
◇昭和期の映画製作者。本名は多田光次郎。京都生れ。牧野省
三の次男、女優星玲子(ホシ・レイコ)の夫。
まきの よしはる
牧野 吉晴
1904. 9.25(明治37)
1957.12.21(昭和32)
◇美術評論家・小説家。本名は勝彦。名古屋市東区撞木町生れ。
父熊彦は軍人。
東海中学校を経て東京植民貿易語学校さらに川端画学校に学
ぶ。
まきむら ひろし
槙村 浩(槇村 浩)
1912. 6. 1(明治45)
1938. 9. 3(昭和13)
◇詩人。本名は吉田豊道。高知生れ。
海南中学校で軍事教練に反対し、関西中学校に転校し、1931
(昭和 6)卒業。
1937(昭和12)土佐脳病院に入院、翌年死去。
まきもと くすろう
槙本 楠郎(槇本 楠郎)
1898. 8. 1(明治31)
1956. 9.15(昭和31)
◇児童文学作家。本名は楠男。岡山県吉備郡福谷村生れ。童話
作家槇本ナナ子の父。
早稲田大学中退。
まさおか いるる
正岡 容
1904.12.20(明治37)
1958.12. 7(昭和33)
◇寄席芸能研究家・小説家・随筆家。旧姓は平井蓉。東京神田
東松下町21番地生れ。父は医師平井茂、7歳のとき正岡家の養
子となる。
1917(大正 6)京華中学校入学。1922(大正11)日本大学入学、
のち中退。
1933(昭和 8)「蓉」を「容」に改名。
1941(昭和16)舞踏家花園歌子と結婚。
東京信濃町慶応義塾大学病院で死去。
まさおか げいよう
正岡 芸陽(正岡 藝陽)
1881. 9. 5(明治14)
1920. 3.24(大正 9)
◇評論家。本名は猶一。広島県生れ。青山学院に学ぶ。
まさおか しき
正岡 子規
1867.10.14(慶応 3. 9.17)
1902. 9.19(明治35)
◇俳人・歌人・写生文家。本名は常規(ツネノリ)、幼名は処之助(ト
コロノスケ)、通称は升(ノボル)、号は香雲・地風升・越智処之助(オチ・
トコロノスケ)・獺祭書屋(ダツサイショオク)主人・竹の里人(サトビト)・盗花。
伊予国温泉郡四丁目一番地(現:松山市新玉町)生れ。
1880(明治13)松山中学校入学。母方の叔父加藤恒忠(拓川)の
世話により1883. 6.(明治16)上京、神田共立中学校・一ッ橋大
学予備門(第一高等中学校)。予備門で夏目漱石を知る。1887.
12.(明治20)旧松山藩(常盤会)給費生となる。1889. 5.(明治22)
喀血、号を子規とする。1890. 9.(明治23)帝国大学文科大学哲
学科に入学、間もなく国文科に移る。1891(明治24)学年試験に
落第して給費を打ち切られ退学。
1892.12.(明治25)、加藤恒忠の友人陸羯南(クガ・カツナン)の日本
新聞社に入社。1893. 2.(明治26)喀血。
1895. 3.(明治28)日清戦争に従軍、 5.17帰国の船中で喀血、
5.23神戸病院に入院。この間に従弟藤野古白(潔)の自殺を知
る。8月、松山に行き、夏目漱石の赴任先に寄寓。
1900. 8.(明治33)大喀血。
◆子規忌(糸瓜忌・獺祭忌)[ 9.19]糸瓜(ヘチマ)は絶筆「糸瓜咲て
痰のつまりし仏かな」から。
(5)(明治)二三年東大国文科にはいる。
二○年一二月、子規は松山藩給費生となり、旧藩主久松侯の
経営している本郷真砂(マサゴ)町の常盤会(トキワカイ)寄宿舎にはいっ
た。
二五年、……。学年試験に落ち、大学退学、一二月日本新聞
社に入社した。
(18)(1883年の)翌年、旧松山藩主久松家の給費生となり、……。
90年帝国大学文科大学哲学科に進み,まもなく国文科に移る。
92年学年試験に落ち,大学を退学,陸羯南(クガカツナン)の日本
新聞社に入った。
まさき ふじお
柾木 不二夫
生年不詳
没年不詳
◇昭和初期の評論家・翻訳家。
1932(昭和 7)プロレタリア科学研究所マルクス主義芸術学研
究会同人。
まさき ふじょきゅう
正木 不如丘
1887. 2.26(明治20)
1962. 7.30(昭和37)
◇小説家・医者。本名は俊二。長野県生れ。
1913(大正 2)東京帝国大学医学部卒業。
まさとみ おうよう
正富 汪洋
1881. 4.15(明治14)
1967. 8.14(昭和42)
◇詩人・歌人。本名は由太郎(ヨシタロウ)。岡山県邑久(オク)郡本庄
村生れ。
藩校閑谷黌(シズタニコウ)を経て、1901(明治34)上京し、1904(明
治37)哲学館大学(現:東洋大学)教育部卒業。
与謝野鉄幹(ヨサノ・テッカン)の前夫人林滝野と結婚。
まさむね あつお
正宗 敦夫
1881.11.15(明治14)
1958.11.12(昭和33)
◇歌人・国文学者(万葉学者)。正宗白鳥の実弟、正宗得三郎(ト
クサブロウ)・辻村乙未(オトミ)の実兄。戸籍上の誕生日は11.30。
まさむね とくさぶろう
正宗 得三郎
1883. 8.21(明治16)
1962. 3.14(昭和37)
◇洋画家。岡山県伊里村生れ。正宗白鳥(ハクチョウ)は長兄、正宗
敦夫(アツオ)は次兄、辻村乙未(オトミ)の実兄。
1907(明治40)東京美術学校卒業。
まさむね はくちょう
正宗 白鳥
1879. 3. 3(明治12)
1962.10.28(昭和37)
◇小説家・劇作家・文芸評論家。本名は忠夫(タダオ)、号は白丁
・「はくてう」・剣菱(劔菱)(ケンビシ)・影法師・四丁生・XY・
XYZ・三木庵(ミキアン)主人・覆面論士・剣堂小史。
岡山県和気郡伊里村穂浪(ホナミ)一三三番地屋敷(現:備前市穂
浪町)生れ。正宗浦二の長男、母は美禰。正宗敦夫(アツオ)・正宗
得三郎(トクサブロウ)・辻村乙未(オトミ)の実兄。
1883(明治16)小学校入学、1892(明治25)藩校閑谷黌(シズタニコウ)
に入学したが二年未満で退学。1896. 2.(明治29)上京し東京専
門学校(現:早稲田大学)英語専修科に入り、1898(明治31)新設
の史学科に転じ、1899(明治32)文学科に転じ、1901(明治34)卒
業。
1911. 4.(明治44)甲府の油商清水徳兵衛の三女つ禰と結婚。
膵臓癌により日本医科大学病院で死亡。
ました きたろう
真下 喜太郎
1888. 6. 9(明治21)
1965. 8.13(昭和40)
◇俳人。群馬県前橋生れ。慶応義塾大学利財科卒業。
1917(大正 6)高浜虚子の長女真砂子と結婚。
ましの さぶろう
増野 三良
1889. 1.16(明治22)
1916. 3. 3(大正 5)
◇詩人・翻訳家。島根県浜田市生れ。
島根第二中学校を経て、1911(明治44)早稲田大学英文科卒業。
まじま きんざん
間島 琴山
1887. 3. 2(明治20)
1973. 8.17(昭和48)
◇歌人・深川富岡八幡宮権宮司。香川県琴平生れ。神宮皇学館
高等部卒業。
まじま せいがん
馬島 清眼
生年不詳
1379(<南>天授 5,<北>康暦元)
◇南北朝時代の僧侶・馬島流眼科の祖。
白内障の手術を行う。
まじま ふゆみち
間島 冬道
1827(文政10.10. 8)
1890. 9.30(明治23)
◇江戸幕末の勤王志士・歌人。幼名は万次郎、字は正興・正休。
十五銀行支配人・日本鉄道検査役。
まじま りこう《まじま りかう》
真島 利行
1874(明治 7)
1962(昭和37)
◇化学者。京都生れ。「としゆき(利行)」とも呼ぶ。
14歳のとき上京。
第一高等学校を経て、1899(明治32)東京帝国大学化学科を卒
業。
1907(明治40)キール大学・チューリヒ工科大学・ロンドンの
デービー・ファラデー研究所で有機化学の研究方法を学ぶ。
1911(明治44)東北大学教授。
1917(大正 6)日本学士院賞、受賞。
1932(昭和 7)大阪帝国大学教授・大阪帝国大学理学部長・大
阪大学総長。
日本産の漆を研究し、漆の主成分ウルシオールの構造決定・
1917(大正 6)合成に成功など、天然物化学に貢献。
1949(昭和24)文化勲章、受章。
ましも ひせん
真下 飛泉
1878.10.15(明治11)
1926.10.25(大正15)
◇歌人。本名は滝吉、別名は滝郎。軍歌『戦友』の作詞者。
1895(明治28)京都府師範学校卒業。
ますぎ しずえ
真杉 静枝
1901.10. 3(明治34)
1955. 6.29(昭和30)
◇小説家。福井県生れで、少女時代は台湾でおくる。台中高等
女学校中退。
中村地平と同棲。
1942(昭和17)中山義秀(ギシュウ)と結婚、1946(昭和21)離婚。
肺ガンにより死去。
(1)誕生日は1901.10. 3(明治34)。
(3)誕生日は1901.10. 3(明治34)。
(5)誕生日は1905.10. 2(明治38)。
(10)誕生日は1901.10. 3(明治34)。
(11)誕生日は1905.10. 2(明治38)。
ますだ あつお
増田 篤夫
1891. 4. 9(明治24)
1936. 2.26(昭和11)
◇小説家・評論家。滋賀県彦根生れで、父の郷里神戸で育つ。
早稲田大学英文科に入学、1914(大正 3)中退。
ますだ ぎいち
増田 義一
1869(明治 2.10.21)
1949. 4.27(昭和24)
◇出版人。新潟県中頸城郡板倉村生れ。
1890(明治23)東京専門学校邦語政治科に入学。
1900(明治33)光岡威一郎から雑誌「実業之日本」の編集権の
譲渡を受け実業之日本社を設立。1909(明治42)新渡戸稲造を編
集顧問に迎える。
ますだ しろう《ますだ しらう》
益田 四郎
⇒あまくさ しろう(天草 四郎)
ますだ たかし
益田 孝
1848(弘化 4.11.)
1938.12.28(昭和13)
◇実業家・三井財閥の大番頭。号は鈍翁。佐渡生れ。
1863(文久 3)池田筑後守に随行して渡欧。
維新後、大蔵省官吏となるが大蔵大輔井上馨(カオル)とともに
辞職。
1873(明治 6)井上馨が設立した先収会社の東京本店頭取とな
る。
1876(明治 9)三井物産設立とともに、総轄(社長)に就任。
中上川彦次郎(ナカミガハ・ヒコジロウ)の産業主義に対して商業主義
を主張して対立。
1909.10.(明治42)三井財閥の持株会社である三井合名会社を
組織し、三井財閥の形成・発展に貢献。
商法講習所・耕牧社・東北振興会などを設立。
茶人・茶器収集家としても知られる。
ますだ たろうかじゃ
益田 太郎冠者
1875. 9.25(明治 8)
1953. 5.18(昭和28)
◇劇作家。本名は太郎。東京品川生れ。父は益田孝。
慶応義塾に学び、ベルギーに留学。
ますだ とうのすけ
増田 藤之助
1865(慶応元. 2.13)
1942. 1.24(昭和17)
◇英学者。伊勢津市生れ。増田喜七の四男。増田綱の養父。
ますだ ときさだ
益田 時貞
⇒あまくさ しろう(天草 四郎)
ますだ はっぷう
増田 八風
1880. 4. 4(明治13)
1956. 5.20(昭和31)
◇歌人。本名は甚治郎。三重県生れ。
第一高等学校を経て、1909(明治42)東京大学独文科卒業。
(10)没年は1957(昭和32)。
ますだ よしつぐ
益田 好次
生年不詳
1638(寛永15)
◇江戸前期の島原の乱の武将。通称は甚兵衛。天草四郎(益田
時貞)の父という。
小西行長(ユキナガ)に仕え、関ヶ原の戦い後は宇土城に隠棲。
1637(寛永14)肥前国天草大矢野に渡り、天草四郎らと農民を
組織して大規模な一揆を起こす(島原の乱)。
ますだ りゅうう
増田 竜雨(増田 龍雨)
1874. 4. 7(明治 7)
1934.12. 3(昭和 9)
◇俳人。本名は藤太郎、旧姓は花井、旧号は竜昇(龍昇)・
雪中庵(一二世)。京都生れ。義父は雷堂龍吟(ライドウ・リュウギン)。
ますだ わたる
増田 渉
1903.10.12(明治36)
1977. 3.10(昭和52)
◇中国文学研究者。島根県大束郡恵曇村生れ。
松江中学校・松江高等学校を経て、1926(大正15)東京大学支
那文学科入学、1929(昭和 4)卒業。1931. 3.(昭和 6)上海に9
ヶ月留学。1934(昭和 9)中国文学研究会の結成に参加。
ますほ のこぐち
増穂 残口
1655(明暦元)。
1742(寛保 2)
◇江戸前期の神道家・戯作者。十寸穂耶馬台(マスホ・ヤマト)・通称
は最中。豊後国生れ。儒教道徳を廃し、男女平等を説き、人倫
の大本は夫婦にあるとする。遊里研究家でもあった。
(2)増穂 残口(ますほ ざんこう)。
(4)増穂 残口(ますほ ざんこう)。
(6)増穂 残口(ますほ のこぐち)。
ますもと きよし
桝本 清
生年不詳
1932. 8.19(昭和 7)
◇演出家・劇作家。山口県生れ。
1906(明治39)早稲田大学文学科卒業。
(10)生年は明治一四、五?。
ませ きゅうだゆう《ませ きうだいふ》
間瀬 久太夫
⇒ませ まさあき(間瀬 正明)
ませ まごくろう
間瀬 孫九郎
⇒ませ まさとき(間瀬 正辰)
ませ まさあき
間瀬 正明
1641(寛永18)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、大目付、禄高200石。通称
は久太夫(キュウダユウ)、戒名は刃誉道剣信士、吉良家の探索中の
変名は医者三橋浄貞(ミツハシ・ジョウテイ)。
吉良家討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、
翌年、本庄喜助(ホンジョウ・キスケ)の介錯(カイシャク)で切腹。
小野寺十内(ジュウナイ)の従弟。間瀬孫九郎(マゴクロウ)正辰(マサトキ)
は長男。次男の定八(サダハチ)は遺族として連座、1703(元禄16.
4.27)伊豆大島へ流罪となり、二年目の1705(宝永 2. 4. 7)赦
免を待たずに病没。
ませ まさとき
間瀬 正辰
1681
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は孫九郎(マゴクロウ)、戒名
は刃太及剣信士、吉良家の探索中の変名は三橋小一郎(ミツハシ・ショ
ウイチロウ)。父は間瀬久太夫(キュウダユウ)正明(マサアキ)。
吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の
江戸中屋敷に預けられ、翌年、小池権六郎(ゴンロクロウ)の介錯(カイ
シャク)で切腹。
(*)1681(延宝 9,天和元)。
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