PDD図書館管理番号 0001.0000.6150.00
人 名 辞 典 《くは》 編集:獨 澄旻
-------- くは --------------------------------------------------
くはら ふさのすけ
久原 房之助
1869. 7.12(明治 2. 6. 4)
1965. 1.29(昭和40)
◇明治〜昭和期の実業家・政治家。山口県生れ。父は庄三郎、
父の実弟は藤田伝三郎(デンザブロウ)。鮎川義介の妹婿。
1889(明治22)慶応義塾卒業。
森村組を経て、1891(明治24)藤田組に入り秋田県の小坂鉱山
(コサカコウザン)に赴任、1899(明治32)藤田組支配人、1900(明治33)
小坂鉱山事務所長。
藤田組から得た報酬と、三井と関係の深い元老井上馨(カオル)
の庇護(ヒゴ)により、1905(明治38)独立し茨城県の赤沢鉱山を
買収し日立鉱山を設立、1911(明治44)久原鉱業所を設立。
1918(大正 7)販売部を久原商事、1919(大正 8)電気機械修理
工場を日立製作所として独立させる。
1928(昭和 3)政友会に入り、のち総裁。
(2)1905(明治38)藤田組を設立。
(21)91年藤田組に入り…。05年独立…。
くぼ いのきち
久保 猪之吉
1874.12.26(明治 7)
1939.11.12(昭和14)
◇医学博士(耳鼻咽喉科)・歌人。福島県生れ。1900(明治33)東
京大学医科卒業。1903(明治36)ドイツ留学、1907(明治40)帰国
し福岡医科大学教授。久保より江の夫。長塚節(タカシ)の主治医。
くぼ さかえ
久保 栄(久保 榮)
1901. 1. 2(明治34)。
1958. 3.15(昭和33)
◇劇作家・演出家・小説家。筆名は東建吉・松永博・柳生真三。
北海道札幌生れ。戸籍上の生年は1901. 1. 2(明治34)。
東京府立第一中学校を経て第一高等学校理科中退。1926(大
正15)東京大学独文科卒業。社会主義演劇のために活動。順天
堂病院で遮断療法中に自殺。
(1)誕生日は1900.12.28(明治33)。
(4)生年は1901。
(5)誕生日は1901. 1. 2(明治34)。
(11)誕生日は1901. 1. 2(明治34)。
くぼ すえしげ
久保 季茲
1830
1886. 3. 5(明治19)
◇江戸幕末・明治維新期の国学者。
鶴峯戊申(ツルミネ シゲノブ)に学ぶ。
明治政府に出仕。
(*)1830(文政13,天保元)
くぼ てんずい
久保 天随(久保 天隨)
1875. 7.23(明治 8)
1934. 6. 1(昭和 9)
◇漢学者・漢詩人・評論家。本名は得二、別号は兜城山人・
秋碧吟廬主人。東京下谷生れ。1899(明治32)東京帝国大学漢文
科卒業。1920(大正 9)宮内省図書寮編修官。1927(昭和 2)文学
博士。1929(昭和 4)台北帝国大学教授、台北で死去。
(4)長野県出身。
くぼ まさる
久保 勉
1883. 2.17(明治16)
1972. 5.24(昭和47)
◇哲学者。
くぼ よりえ
久保 より江
1884. 9.17(明治17)
1941. 5.11(昭和16)
◇俳人・歌人。旧姓は宮本。松山生れ。久保猪之吉(イノキチ)の妻。
くぼ わたる
久保 亘
1929. 1.15(昭和 4)
2003. 6.24(平成15)
◇政治家。鹿児島県出身。
1993. 9.(平成 5)社会党書記長に就任。
自民・社会・さきがけ三党連立政権発足にかかわり、1996.
1. 5(平成 8)村山富市(トミイチ)首相退陣後に、第一次橋本龍太
郎内閣の副総理兼大蔵大臣。
1996. 1.19(平成 8)社民党に改組後、党首土井たか子の路線
に反発して、1997. 1.(平成 9)離党。
民主改革連合を経て、1998. 4.(平成10)新「民主党」の結成に
参加。
くぼかわ つるじろう
窪川 鶴次郎
1903. 2.25(明治36)
1974. 6.15(昭和49)
◇評論家・小説家。静岡県生れ。四高理科中退。1931(昭和 6)
非合法下の共産党員になる。1932. 3.(昭和 7)逮捕され、一年
余で転向・出獄。佐多稲子(イネコ)の夫。
くぼた うつぼ
窪田 空穂
1877. 6. 8(明治10)
1976. 4.12(昭和42)
◇歌人・国文学者。本名は通治(ツウジ)。別号は小松原はる子・
逃水・白瓶・樹下柏人。長野県東筑摩郡和田村生れ。
松本中学校を経て、1904(明治37)東京専門学校文科卒業。
早稲田大学教授。
(4)没年は1967。
くぼた きんせん
久保田 金僊
1875. 9.19(明治 8)
1954.10. 9(昭和29)
◇画家・舞台装置家。本名は吉太郎(キチタロウ)。久保田米僊(ベイセ
ン)の次男・久保田米斎(ベイサイ)の弟。
くぼた しょうじ
久保田 宵二
1899. 6. 2(明治32)
1947.12.26(昭和22)
◇詩人・童謡作者。本名は嘉雄。
くぼた ひこさく
久保田 彦作
1846(弘化 3)
1868(明治元. 3.) ????
◇戯作者・狂言作者。別名は村柑子・竹柴幸次・村岡幸次。
(8)没日は1898. 1. 3(明治31)。
(13)没日は1898. 1. 3(明治31)。
くぼた ふじこ
久保田 不二子
1886. 5.16(明治19)
1965.12.17(昭和40)
◇歌人。本名は「ふじの」。長野県生れ。姉「うた」の死により島
木赤彦の後妻となる。
くぼた べいさい
久保田 米斎
1874(明治 7)
1937. 1.14(昭和12)
◇舞台美術家。本名は米太郎のち満明、別号は世音・皿彩・
錦竹舎・米所。久保田米僊(ベイセン)の長男・久保田金僊(キンセン)
の兄。
くぼた べいせん
久保田 米僊
1852(嘉永 5. 2.25)
1906. 5.19(明治39)
◇日本画家。名は寛、幼名は米吉。久保田米斎(ベイサイ)・
久保田金僊(キンセン)の父。
くぼた まんたろう《くぼた まんたらう》
久保田 万太郎
1889.11. 7(明治22)
1963. 5. 6(昭和38)
◇小説家・劇作家・俳人・演出家。俳号は暮雨のち傘雨(サンウ)、
学生時代の筆名は千野菊次郎。東京浅草田原町生れ。
市立浅草高等小学校・東京府立第三中学校を四年進級に落第
し慶応義塾普通部三年に転校。1914(大正 3)慶応義塾大学文科
卒業。
永井荷風に師事。
(5)東京の浅草日原町に生れた。
◆万太郎忌(傘雨忌)[ 5. 6]。
くぼた ゆずる《くぼた ゆづる》
久保田 譲
1847(弘化 4)
1936(昭和11)
◇明治・大正期の教育行政官。文部大臣。男爵。
貴族員議員・枢密顧問官。
くぼでら いつひこ
久保寺 逸彦
1902(明治35)
1971(昭和46)
◇アイヌ文学研究者。
金田一京助に師事し、アイヌ語・アイヌ文学を研究。
くまがい たけお
熊谷 武雄
1883.11. 2(明治16)
1936. 8.21(昭和11)
◇歌人。
くまがい なおよし
熊谷 直好
1782(天明 2)
1862(文久 2. 8. 8)
◇江戸後期の歌人。岩国藩士。四四歳のとき脱藩。
くまざわ ばんざん《くまざは ばんざん》
熊沢 蕃山
1619(元和 5)
1691(元禄 4. 8.17)
◇江戸前期の儒学者(陽明学派)。名は伯継(ノリツグ)、幼名は
左七郎、字は了介(リョウカイ)(一説に良介)、通称は次郎八・
助右衛門、別号は息游軒(ソクユウケン)・不敢敬人・不盈敬人・
有終庵主、隠退後は蕃山(シゲヤマ)了介と称する。京都稲荷(異説
:五条)生れ。野尻藤兵衛一利(カズトシ)の長男、母は熊沢亀女。
8歳のとき水戸藩士・外祖父熊沢守久の養子となる。1634
(寛永11)16歳で備前(ビゼン)国岡山藩主池田光政(ミツマサ)に児小
姓役として出仕。1639(寛永16)病弱のため池田家を致仕、近江
国桐原の祖父の実家へ移居。
1642(寛永19)24歳で中江藤樹(トウジュ)に陽明学を学ぶ。
1645(正保 2)27歳で再び光政に仕え、1647(正保 4)側役、知
行300石。1649(慶安 2)光政に随行して江戸参府。1650(慶安 3)
鉄砲組番頭、知行3,000石。1651(慶安 4)閑谷(シズタニ)学校の前
身花園会の会約(建学基本原則)を起草。治山・治水に功績を上
げ、1654(承応 3)備前一帯の大洪水ついで凶作大飢饉の際、光
政を輔けて救済に尽力。家老らと対立し、1656(明暦 2)狩猟の
際の負傷を理由に致仕を申請し、光政の三男政倫(マサトモ)(のち
輝録<テルトシ>)を養子とする。1657(明暦 3)39歳で再び致仕。
京都に移住し、塾を開き隆盛を極めたが、儒官林家の朱子学
と相容れず、また公卿や大名に勢力があったため、1661年誹謗
(ヒボウ)されて京都所司代牧野親成により京都から追放され、吉
野山さらに山城国鹿背(カセ)山に移る。
1669(寛文 9)幕命により播磨(ハリマ)国明石城主松平信之(ノブユ
キ)にお預けとなる。1679(延宝 7)信之の大和郡山への転封に従
い、矢田山に移住。
1683(天和 3)大老堀田正俊の招聘により出府し、出仕要請を
辞退。1686(貞享 3. 8.)幕命により信之の嫡子の下総国(現:茨
城県)古河(コガ)藩主松平忠之へお預けとなり、城内に幽閉され
て病没。
著書は『集義和書』(16巻)・『集義外書』(16巻)・『大学或
問(ワクモン)』(2巻)・『三輪物語』など。
◆墓は茨城県猿島郡総和町大堤1030-1の鮭延寺。
(*)1661(万治 4,寛文元)。
(2)(名)幼名左七郎,伯継,字は了介,通称次郎八・助右衛門,
別号を息遊軒・不敢敬人・不盈敬人・有終庵主。
'39致仕し,近江国の祖父の実家へいき,'42中江藤樹の門に
入り……。'58(万治 1)職を辞し……。
(4)名は伯継、号は息遊軒。隠退後、蕃山(シゲヤマ)了介という。
(5)名伯継、字(アザナ)了介(リョウカイ)(良介とする説もある)、……。
(6)名は伯継。蕃山は号だが,隠退後は蕃山了介(シゲヤマ・リョウカイ)
と称す。57年致仕し,京都で学を講じた。
(11)名継伯、字伯継。
(17)幼名は左七郎、のち二郎八、助右衛門、名乗りは伯継(ノリツ
グ)、隠退後蕃山了介(シゲヤマリョウカイ)、のち息游軒の称を使用。
同十五年島原の乱鎮定軍への参加を企てて果たさず、池田家
を辞去し近江桐原へ移居。同十八年中江藤樹に師事。
翌三年致仕、寺口村に隠居し(蕃山<シゲヤマ>村と改名)、……。
(26)名は伯継(ハクケイ)。字は了介。通称は助左衛門。号は息游軒、
蕃山。
くまざわ またろく
熊沢 復六
1899. 4. 8(明治32)
1971.12.16(昭和46)
◇ロシア文学翻訳家。
くまだ せいか
熊田 精華
1898. 4.18(明治31)
1977. 4.27(昭和52)
◇詩人。宇都宮市生れ、横浜育ち。上智大学哲学科卒業。
くめ くにたけ
久米 邦武
1839(天保10. 7.11)
1931. 2.24(昭和 6)
◇歴史学者。久米桂一郎の父。
肥前藩士。昌平黌で修学。
1871(明治 4)岩倉具視大使の秘書官となり欧米視察に随行し、
帰国後『米欧回覧実記』を著す。
1879(明治12)修史館(史料編纂所の前身)に入り国史の編纂事
業に従事。1888.10.(明治21)文科大学に史学科が開設され編纂
事業が引き継がれて同大教授。
1891(明治24)に発表した論文「神道は祭天の古俗」が神道家な
どの攻撃を受け、1892. 3.(明治25)非職処分・辞職。
著書は重野安繹(ヤスツグ)・星野恒(ツネ)との共著『国史眼』や
『古文書学講義』など。
(6)没年は1931。
(25)没年は1931。
(26)一八三九〜一九三二年。昭和六年二月二十四日東京に没、
享年九十三歳。
くめ けいいちろう
久米 桂一郎
1866(慶応 2. 8. 3)
1934. 7.29(昭和 9)
◇画家。久米邦武の長男。
東京美術学校教授。
くめ しゅうじ
久米 秀治
1887. 4. 1(明治20)
1925. 1. 1(大正14)
◇小説家。
くめ まさお
久米 正雄
1891.11.23(明治24)
1952. 3. 1(昭和27)
◇小説家・劇作家・俳人。俳号は三汀(サンテイ)。長野県小県郡上
田町生れ。長野県上田市の小学校校長久米由太郎の次男。
県立安積中学校・第一高等学校一部乙(文科英語類)無試験入
学を経て、1916. 7.(大正 5)東京大学英文科卒業。
芥川龍之介の学友。
(1)没日は 3. 1。
(3)没日は 3. 1。
(5)没日は、本文 3. 1、付録の「文学行事ごよみ」・2.29。
(8)没日は 3. 1。
(11)没日は 3. 1。
(13)没日は 3. 1。
◆三汀忌(微苦笑忌)[ 3. 1]忌日 2.29は閏年のため。「微苦笑」
は正雄の造語。
◎1898. 3.(明治31)父由太郎は小学校の火災による御真影焼失
の責任を取り割腹自殺する。
くもい たつお《くもゐ たつを》
雲井 竜雄
1844
1870(明治 3)
◇江戸幕末の志士。米沢藩士。本名は小島守善、通称は竜三郎。
安井息軒に学ぶ。奥羽越列藩同盟の結束をはかり、官軍への
抵抗を企て奔走したが失敗。
のち、政府転覆の陰謀をはかり新政府高官暗殺をたくらんだ
として小塚原で斬首。
(*)1844(天保15,弘化元)。
◆墓は東京都台東区の谷中霊園。
くら しんいち
鞍 信一
1910(明治43)
1991(平成 3)
◇月刊誌「モダン金沢」の編集長。
1930(昭和 5)月刊誌「モダン金沢」を発刊。
くらいし たけしろう
倉石 武四郎
1897. 9.21(明治30)
1975.11.14(昭和50)
◇中国文学研究者・中国語学者。1964(昭和39)日中学院を設立。
くらた うしお
倉田 潮
1889. 7.10(明治22)
1964. 7. 3(昭和39)
◇評論家・小説家。
くらた ちぞう《くらた ちざう》
倉田 地三
1917. 3.24(大正 6)
2005.11.16(平成17)
◇俳優。広島県生れ。劇作家倉田百三の子。
1959(昭和34)東京芸術座創立に参加。
多臓器不全で死去。
くらた はくよう
倉田 白羊
1881.12.25(明治14)
1938.11.29(昭和13)
◇画家。本名は重吉(シゲヨシ)。埼玉県浦和(現:さいたま市)生れ。
東京美術学校卒業。
くらた ひゃくぞう
倉田 百三
1891. 2.23(明治24)
1943. 2.12(昭和18)
◇大正・昭和初期の劇作家・評論家・小説家。広島県比婆郡庄
原町の呉服屋生れ。俳優倉田地三(チゾウ)の父。
県下三次(ミヨシ)中学校から1910(明治43)第一高等学校へ進学
したが、1913(大正 2)失恋と結核により中退。
高等学校在学中から西田幾多郎(キタロウ)に傾倒し、また宗教家
西田天香(テンコウ)の修養団体一灯園(イットウエン)にも入る。
のち白樺派と交流を深め、1916(大正 5)千家元麿・犬養健(タ
ケル)らと同人雑誌「生命の川」を発刊。
病の中で求道的な思索思索を続け、青年層に共感を与える。
1926(大正15)「生活者」を主宰。
第二次世界大戦中は超国家主義に傾く。
作品は戯曲『出家とその弟子』・『俊寛』・『布施太子の入
山』・『歌はぬ人』、評論集『愛と認識との出発』など。
(5)広島県三上郡庄原村に生れた。
(16)広島県の生まれ.
くらつくりのたすな
鞍作 多須奈
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の仏師。 522[継体16]に来朝した司馬達等の子、鞍
作止利(トリ)の父。
くらつくりのとり
鞍作 止利
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の仏師。別称は鞍作鳥・止利仏師。帰化人系で鞍作
多須奈(タスナ)の子。
くらはし けんきち
倉橋 顕吉
1917. 2.10(大正 6)
1947. 6.28(昭和22)
◇詩人。
くらはし たけゆき
倉橋 武幸
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、扶持奉行・中小姓、禄高二
十石五人扶持。通称は伝助(デンスケ)、戒名は刃(火偏+「暇」-日偏)
練剣信士、吉良家を探索中の変名は十左衛門(ジュウザエモン)。
吉良家討ち入りでは裏門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
屋敷に預けられ、翌年、江良清吉(エラ・セイキチ)の介錯(カイシャク)で切
腹。
くらはし でんすけ
倉橋 伝助
⇒くらはし たけゆき(倉橋 武幸)
くらはし やいち
倉橋 弥一
1906. 7. 2(明治39)
1945. 6. 6(昭和20)
◇詩人。埼玉県蕨駅で轢死。
くらはし ゆみこ
倉橋 由美子
1935.10.10(昭和10)
2006. 6.10(平成17)
◇作家。本名は熊谷由美子(クマガイ・ユミコ)。高知県香美郡(カミグン)
土佐山田町(トサヤマダチョウ)出身。
1960(昭和35)明治大学仏文科在学中に『パルタイ』を発表。
1987(昭和62)『アマノン国往還記』で泉鏡花文学賞を受賞。
拡張型心筋症で死去。
作品は『スミヤキストQの冒険』・『聖少女』・1984(昭和
59)『大人のための残酷童話』、エッセー『偏愛文学館』、翻
訳はシルバスタイン作『ぼくを探しに』など。
くらはら しんじろう
蔵原 伸二郎(藏原 伸二郎)
1899. 9. 4(明治32)
1965. 3.16(昭和40)
◇詩人。本名は惟賢(コレカタ)。熊本県生れ。九州学院を経て慶応
義塾大学仏文科卒業。
北里柴三郎は母方の伯父。
くりう すみお
栗生 純夫
1904. 4.20(明治37)
1961. 1.17(昭和36)
◇俳人。本名は神林新治。
くりす ひろおみ
栗栖 弘臣
1920. 2.27(大正 9)
2004. 7.19(平成16)
◇軍事研究家。東京生れ。
東京帝国大学法学部卒業。
海軍に入隊し、海軍法務大尉で第二次世界大戦の終戦を迎え
る。
1951(昭和26)警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊。
1976(昭和51)陸上幕僚長。
1977(昭和52)統合幕僚会議議長。
1978. 7.(昭和53)「現地部隊が超法規的行動を取ることはあ
り得る」など自衛隊超法規発言で金丸信(シン)防衛庁長官に更迭
(コウテツ)され、退官。
くりた ひじまろ
栗田 土満
1737(元文 2)
1811(文化 8. 7. 8)
◇江戸中期の国学者・神官。通称は民部、号は岡廼舎(オカノヤ)。
1767(明和 4)江戸に出て賀茂真淵に入門。真淵の没後、1785
(天明 5)本居宣長に入門。
くりた ひろし
栗田 寛
1835(天保 6. 1.26)
1899. 1.26(明治32)
◇明治時代の歴史家。常陸国水戸下町生れ。
1873.12.(明治 6)教部省に出仕。
久米邦武教授更迭の後、1892.11.(明治25)文科大学教授。
くりばやし いっせきろ
栗林 一石路
1894.10.14(明治27)
1961. 5.25(昭和36)
◇俳人(自由律)・俳句評論家。本名は農夫(タミオ)、旧姓は上野。
長野県青木村生れ。1941(昭和16)進歩的俳句弾圧事件で検挙投
獄される。
(5)くりばやし いっせきろ(栗林 一石路)。
(11)くりばやし たみお(栗林 農夫)。
くりはら きよこ
栗原 潔子
1898. 2. 5(明治31)
1965. 2.16(昭和40)
◇歌人。旧姓は中原。
くりばら こじょう
栗原 古城
1882. 9.17(明治15)
1969. 6.17(昭和44)
◇評論家・翻訳家・英文学者。本名は元吉(モトキチ)。
くりはら さだこ
栗原 貞子
1913(大正 2)
2005. 3. 5(平成17)
◇原爆詩人。夫は唯一。
広島市の農家に生れる。
可部高等女学校、卒業。
1931(昭和 6)無政府主義者の夫と結婚。
反戦詩集『黒い卵』を創作。
1945. 8. 6(昭和20)自宅で被爆。
1980(昭和55)夫と死別。
作品は原爆詩『生ましめんかな』、『人間の尊厳』・『私は
広島を証言する』・『ヒロシマ・未来風景』など。
くりもと じょうん
栗本 鋤雲
1822(文政 5. 3.10)
1897. 3. 6(明治30)
◇幕府外交官・明治初期の新聞記者。通称は初めは哲三のち
瑞見(ズイケン)・瀬兵衛、名は鯤(コン)、字は化鵬、号は匏菴(ホウアン)
・鋤雲。江戸生れ。函館奉行組頭・昌平黌頭取・軍艦奉行・外
国奉行を歴任。
島崎藤村の『夜明け前』の喜多村瑞見のモデルで、藤村の作
文の教師。
くりやがわ はくそん
厨川 白村
1880.11.19(明治13)
1923. 9. 2(大正12)
◇英文学者・文芸評論家。本名は辰夫、別号は血城・泊村。京
都生れ。第三高等学校を経て東京大学英文科卒業。1915(大正
4)左足を切断。
(1)没日は 9. 2。関東大震災で不慮の死を遂げた。
(3)没日は 9. 1。
(5)没日は 9. 2。関東大震災に避暑先の鎌倉で不慮の死を遂げ
た。
(8)没日は 9. 2。1923. 9. 1(大正12)鎌倉の別荘白日村舎で関
東大震災にあい津波にさらわれたのがもとで二日午後死去。
(11)没日は 9. 2。関東大震災に避暑先で不慮の死を遂げた。
(13)没日は 9. 1。関東大震災ため鎌倉で横死した。
くりゅう すみお
栗生 純夫
1904. 4.20(明治37)
1961. 1.17(昭和36)
◇俳人。
くるしま たけひこ
久留島 武彦
1874. 6.19(明治 7)
1960. 6.27(昭和35)
◇児童文学作家。筆名は尾上(オノエ)新兵衛。大分県生れ。関西
学院中退。
くるす さぶろう
来栖 三郎
1886(明治19)
1954(昭和29)
◇大正・昭和期の外交官。
1940. 9.27(昭和15)駐独大使としてベルリンで日独伊三国同
盟に調印。
くるま ぜんしち
車 善七
⇒『国語辞書』くるまぜんしち(車善七)
くるみざわ かんない
胡桃沢 勘内
1885. 3. 6(明治18)
1940.12.28(昭和15)
◇歌人。号は四沢(シタク)・平瀬泣崖・麦雨(バクウ)・茂生(シゲフ)
・無花果・大嶺道人。
くれ あやとし
呉 文聡
1851(嘉永 4)
1918(大正 7)
◇統計学者。東京出身。
慶応義塾に学ぶ。
東京専門学校(現:早稲田大学)・慶応義塾などの教授。
のち内閣統計局審査官。
著書は『統計詳説』・『理論統計学』など。
くれ けん
呉 建
1883(明治16)
1940(昭和15)
◇医学者。
東京帝国大学卒業。
九州帝国大学・東京帝国大学教授。
くれ しげいち
呉 茂一
1897.12. 6(明治30)
1977.12.28(昭和52)
◇西洋古典文学者。秀三の長男、箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)の曾孫。
東京生れ。
東京大学英文科卒業。
東京大学教授・名古屋大学教授・イタリア公使。
翻訳は『イーリアス』・『オデュッセイア』など、著書は
『ギリシア神話』・訳詩集『花冠』など。
くれ しゅうぞう《くれ しうざう》
呉 秀三
1865
1932(昭和 7)
◇精神病学者。江戸生れ。茂一(シゲイチ)の父、箕作阮甫(ミツクリ・ゲ
ンポ)の孫。
東京帝国大学教授。
シーボルト・華岡青洲などの伝記も著す。
(*)1865(元治 2,慶応元)。
(19)広島出身。
ぐれん しょー
グレン ショー
1886.11.19(明治19)
1961. 8.26(昭和36)
◇日本文学研究家。Glenn W. Shaw、俳号は尚紅連。
くろいわ るいこう
黒岩 涙香
1862(文久 2. 9.29)
1920.10. 6(大正 9)
◇新聞記者・探偵小説家・翻訳家。本名は周六、通称は大、号
は古慨居士・半士半商人・香骨居士・冷眼子・民鉄・歯月生・
楽在・高山凹庵・正調庵、諱(イミナ)は所適(ムネユキ)。土佐国安芸
郡川北村大字前島生れ。
訳書はデュマ作『岩窟王(ガンクツオウ)』・ユゴー作『噫無情(アア
ムジョウ)』など。
くろかわ まより
黒川 真頼
1829(文政12.11.12)
1906. 8.30(明治39)
◇明治時代の歌人・国文学者。旧姓は金子、幼名は嘉吉、号は
荻園。上野国桐生生れ。黒川春村の養子。
(26)明治三十九年八月二十九日没、享年八十三歳。
くろき かんぞう
黒木 勘蔵
1882. 9.10(明治15)
1930.10. 8(昭和 5)
◇演劇研究家。旧姓は福田。
くろさわ あきら《くろさは あきら》
黒沢 明(黒澤 明)
1910. 3.23(明治43)
1998. 9. 6(平成10)
◇映画監督。東京生れ。
京華中学・京華商業卒業。
1936(昭和11)PCLに入社。
1937. 9.10(昭和12)PCLが東宝に合併。
1943(昭和18)『姿三四郎』を初監督。
1984(昭和59)レジオン・ドヌール勲章、受章。
1985(昭和60)文化勲章、受章。
1989(平成元)アカデミー賞名誉賞、受賞。
脳卒中のため死去。
監督作品は1943(昭和18)『姿三四郎』・1948(昭和23)『酔い
どれ天使』・1949(昭和24)『野良犬』・1950(昭和25)『醜聞』
・1950(昭和25)『羅生門』・1951(昭和26)『白痴』・1952(昭
和27)『生きる』・1954(昭和29)『七人の侍』・1955(昭和30)
『生きものの記録』・1957(昭和32)『蜘蛛巣城』・1957(昭和
32)『どん底』・1958(昭和33)『隠し砦の三悪人』・1961(昭和
36)『用心棒』・1965(昭和40)『赤ひげ』・1963(昭和38)『天
国と地獄』・1975(昭和50)『デルス・ウザーラ』・1980(昭和
55)『影武者』・1985(昭和60)『乱』・1993(平成 5)『まあだ
だよ』など。
くろしま でんじ《くろしま でんぢ》
黒島 伝治(黒島 傳治)
1898.12.12(明治31)
1943.10.17(昭和18)
◇プロレタリア小説家。香川県小豆郡苗羽(ノウマ)村(現:内海町
<ウチノミチョウ>)の貧農の生れ。父兼吉・母キクの長男。
1914(大正 3)内海乙種実業補習学校卒業。網引きや醤油工場
で働く。
1918(大正 7)秋、文学を志し上京し、三河島の建物会社に勤
務。間もなく養鶏雑誌社の編集部に入り、小石川小日向台町に
転居。
1919(大正 8)早稲田大学選科に入学したが、選科には徴兵猶
予がなく12月学業半ばにして召集され、姫路歩兵第十連隊に衛
生兵として入隊。
1921. 4.(大正10)シベリア出兵に動員、肺を冒され、1922.
4.(大正11)内地送還、7月除役。
1925(大正14)初夏、再度上京し同郷の壺井繁治宅に寄宿。同
人誌「潮流」に処女作『電報』を発表。
1926(大正15)「文芸戦線」一月号に短編『二銭銅貨』を発表。
シベリア出兵に取材する反戦小説や農民小説を書く。
作品は『豚群』・『橇(ソリ)』・『渦巻ける烏の群』・『氷河』
など。
くろずみ むねただ
黒住 宗忠
1780(安永 9.11.26)
1850(嘉永 3. 2.25)
◇江戸後期の神道家・黒住教の開祖。備前(岡山県)御野郡中野
村生れ。代々今村宮の禰宜(ネギ)。父黒住宗繁・母つたの3男。
1814(文化11)肺を病み死期を覚って、死後に神となって同病
の者を救おうと志す。同年の冬至に日輪を拝して「生きながら
神になること」を念じ天照大神と合一する神秘体験を得て大患
を克服(天命直授<ジキジュ>)、周囲に天照大神の神徳を説き、
1815(文化12)開教して岡山藩士を中心に布教。
生活規範として支配者への服従など封建道徳を説く。
著書は『日々家内心得之事』・『御定書』。
(2)備前国御野郡今村宮の禰宜。
(4)備前国御津郡今村の人。
(6)岡山郊外の今村宮の神職で……。
(26)備前国御野(ミノ)郡上中野村に生れた。
◎誕生日は冬至であった。
◎門人赤木忠春により、1862(文久 2)京都に宗忠神社が創建さ
れ、尊皇派の一拠点となった。
くろずみ むねちか
黒住 宗子
1876(明治 9)
1936(昭和11)
◇明治・大正期の教派神道家。黒住宗忠の孫宗篤の長男。岡山
県生れ。
1897(明治30)黒住教3代目の管長に就任。
くろだ きお
黒田 喜夫
1926. 2.28(大正15)
1984. 7.10(昭和59)
◇詩人・評論家。山形県生れ。戦後、共産党に入党。
くろだ きよたか
黒田 清隆
1840(天保11.10.16)
1900. 8.25(明治33)
◇明治の政治家。初名は了介。旧鹿児島藩士。
薩英戦争に従軍。
戊辰・函館戦争に官軍参謀。榎本武揚の助命に尽力。
1869(明治 2)外務権大丞。
1870(明治 3)北海道・樺太の開拓次官、1875〜1881(明治 8
〜明治14)同長官。1875(明治 8)特命全権弁理大臣として江華
島事件処理のため渡鮮、1876(明治 9)日鮮修好条約締結。
1877(明治10)西南戦争に征討参軍として参加。
1881. 7.21(明治14)北海道開拓使官有物払下事件で大隈重信
や世論の攻撃(8月)を受け10月払下げを取消して辞任。
1887(明治20)第1次伊藤博文内閣の農商務相。
1888. 4.30(明治21)薩長藩閥をもって内閣を組織、1889. 2.
(明治22)大日本帝国憲法を発布。条約改正を失敗、外相大隈重
信が襲撃されたため、1889.12.24(明治22)辞任。
1892〜1896(明治25〜明治29)第2次伊藤内閣の逓相。
1895(明治28)枢密院議長。
◎1878. 3.(明治11)酒乱癖があり泥酔して妻を斬殺した事件は
内密にされたが、翌月の「団々珍聞(マルマルチンブン)」で皮肉られた。
しかし、大久保利通(トシミチ)は大警視の川路利良に命じ夫人の墓
をひらいて調べさせ、他殺の形跡なしという結論を出した。
くろだ こざん
黒田 湖山
1878. 5.25(明治11)
1926. 2.18(大正15)
◇小説家。本名は直道(ナオミチ)。滋賀県生れ。巌谷小波(イワヤ・サザ
ナミ)の門下。
くろだ さぶろう
黒田 三郎
1919. 2.26(大正 8)
1980. 1. 8(昭和55)
◇詩人。広島県生れ。東京大学経済学部卒業。
(1)誕生日は 2.26。
(3)誕生日は 5.26。
(5)誕生日は 2.26。
(8)誕生日は 2.26。
(11)誕生日は 2.26。
くろだ じゅうたろう
黒田 重太郎
1887. 9.20(明治20)
1970. 6.24(昭和45)
◇画家。
くろだ じょすい
黒田 如水
⇒くろだ よしたか(黒田 孝高)
くろだ せいき
黒田 清輝
1866(慶応 2. 6.29)
1924. 7.15(大正13)
◇洋画家。旧名は了介、号は羽皐。枢密顧問官黒田清綱の養子。
フランスに渡り、ラファエル・コランに学ぶ。久米桂一郎ら
と白馬会を創立。
東京美術学校教授・美術審査会委員・帝室技芸員・国民美術
協会会頭・帝国美術院長・貴族院議員。
くろだ ながまさ
黒田 長政
1568(永禄11)
1623(元和 9. 8. 4)
◇安土桃山江戸前期の武将・福岡藩初代藩主。幼名は松寿丸・
嘉寿丸のち吉兵衛、通称は甲斐守・筑前守。孝高(ヨシタカ)(如水)
の長男、忠之の父。
人質として織田信長の許で育つ。父とともに豊臣秀吉に仕え、
1583(天正11)賤ヶ谷の戦いに参加。
豊臣秀吉の没後、1600(慶長 5. 9.)関ヶ原の戦には徳川方の
東軍に属し、筑前52万3千石を封ぜられ、福岡城主。
◆墓は東京都渋谷区広尾5丁目の祥雲寺。
くろだ なりきよ
黒田 斉清
1795(寛政 7)
1849(嘉永 2)
◇江戸後期の筑前福岡藩主・蘭学者。黒田斉隆の子、斉薄の父。
くろだ ひさお
黒田 寿男
1899(明治32)
1986(昭和61)
◇昭和期の農民運動家・政治家。
くろだ ひでお
黒田 英雄
1879(明治12)
1956(昭和31)
◇大正・昭和期の大蔵官僚・政治家。
帝人事件に連座して大蔵次官を辞任。1932(昭和 7)貴族院議
員。
くろだ ほうしん
黒田 鵬心
1885. 1.15(明治18)
1967. 3.18(昭和42)
◇美術評論家。本名は明信。
くろだ よしたか
黒田 孝高
1546(天文15)
1604(慶長 9. 3.20)
◇安土桃山・江戸初期時代の武将・キリシタン大名。父職隆(モ
トタカ)が小寺姓を称しのち孝高の代で本姓黒田に復す。幼名は
万吉、名は祐隆、通称は官兵衛・勘解由、法号は如水(ジョスイ)、
洗礼名はドン・シメオン。長政(ナガマサ)の父。播磨国姫路生れ。
はじめ姫路城に居り、織田信長に仕える。1575(天正 3)長篠
の合戦で、信長から太刀「圧切(ヘシギ)り」を授かる。信長の毛利
征伐の際、1577(天正 5.10.)羽柴(豊臣)秀吉が姫路に到着する
と、姫路城を秀吉に明け渡し、安土の信長にも長子嘉寿丸(長
政)を人質として送る。1578(天正 6)親交のあった荒木村重が
信長から嫌疑を受け毛利に味方したので、説得のため村重の有
岡城に単身乗り込んで幽閉され、落城とともに開放される。
のち豊臣秀吉に仕え、秀吉の中国経略・九州征伐に軍功を立
て、1587(天正15)豊前12万5千石を領し中津(ナカツ)城主。朝鮮征
伐に出陣。1593(文禄 2)剃髪、如水と号する。
豊臣秀吉の没後、1600(慶長 5. 9.)関ヶ原の戦には徳川方の
東軍に属して長政を出陣させ、自らは豊後の大友義統を(ヨシムネ)
破り、長政は筑前福岡52万3千石に封ぜられる。
(*)「圧切り」とは、長谷部国重作の名刀で、信長が立腹して茶
坊主を斬ろうとしたとき、茶坊主が膳棚の下に逃げ込んだのを
太刀で押し付けると、すっと斬れたことから名付けられたとい
う。
◎如水の訓言「君罰より神罰恐るべし、神罰より民罰恐るべし」。
くろだ れいじ
黒田 礼二
1890. 1.28(明治23)
1937. 6.24(昭和12)
◇評論家。本名は岡上守道。
くろだに しょうにん《くろだに しやうにん》
黒谷 上人
⇒ほうねん(法然)
くろぬま かつし
黒沼 克史
1955. 8. 2(昭和30)
2005. 4.17(平成17)
◇ノンフィクション作家。
腎不全で死去(49歳)。
作品は『援助交際〜女子中高生の危険な放課後〜』(文藝春
秋社)・『少年にわが子を殺された親たち』(草思社)など。
くろやなぎ かいしゅう
畔柳 芥舟
1871(明治 4. 5.17)
1923. 2.12(大正12)
◇明治・大正期の評論家・英文学者。本名は都太郎(クニタロウ)、
号は牛涎子。山形県生れ。
1898(明治31)第一高等学校教授。
(8)没日は 2.20。
くろやなぎ くにたろう《くろやなぎ くにたらう》
畔柳 都太郎
⇒くろやなぎ かいしゅう(畔柳 芥舟)
くろやなぎ しょうは《くろやなぎ せうは》
黒柳 召波
1727(享保12)
1771(明和 8.12. 7)
◇江戸後期の俳人。通称は清兵衛、字は延遠、別号は万年、庵
号は春泥舎。山城の人。
漢学を服部南郭に学ぶ。与謝蕪村(ブソン)の門下で小蕪村と呼
ばれる。
くろやなぎ ふみ
畔柳 不美
1912. 1.14(明治45)
1965. 1.13(昭和40)
◇小説家。旧姓は遠藤。北海道千歳の発電所に生れる。北海高
女卒業。
くわき あやお《くはき あやを》
桑木 アヤ雄
1878(明治11)
1945(昭和20)
◇物理学者。東京生れ。桑木厳翼(ゲンヨク)の弟。
東京帝国大学卒業。
九州帝国大学教授・松本高等学校長。
1941(昭和16)日本科学史学会の初代会長。
◎「アヤ」は「或」の「戈」部の「ノ」を「彡」に替える。
くわき げんよく《くはき げんよく》
桑木 厳翼(桑木 嚴翼)
1874. 6.25(明治 7)
1946.12.15(昭和21)
◇哲学者。東京生れ。桑木アヤ雄(アヤオ)の兄。
第一高等学校卒業。東京帝国大学哲学科で井上哲次郎・ケー
ベルに学び、卒業。
ドイツ・フランス・イギリスの3ヶ国に留学。
第一高等学校教授・京都帝国大学教授・1914〜1935(大正 3
〜昭和10)東京帝国大学教授。
大正期、新カント学派の代表として哲学の啓蒙活動を行なう。
吉野作造・福田徳三を中心に結成された民主的啓蒙団体の黎
明会(1918〜1920)に参加。
著書は『哲学概論』・1917(大正 6)『カントと現代の哲学』
・『文化主義と社会問題』など。
ぐんじ しげただ
郡司 成忠
1860(万延元)
1924(大正13)
◇海軍大尉・探検家。幸田露伴の兄。
北方警備の重要性を説き、1893(明治26)報効義会を作り、白
瀬矗(ノブ)ら予備兵50名と北千島の占守(シュムシュ)島に移住し北門
の防備をするが島の者は白瀬を除く全員死亡。
1896(明治29)再度上陸、開拓・漁業開発に従事。
日露戦争ではカムチャツカで戦い捕えられ、ロシアの捕虜に
なる。
戦後帰国し義勇艦隊を組織し海事・国防思想の普及に努めた。
1908(明治41)沿海州水産組合長。
ぐんじ じろうまさ
群司 次郎正
1905.11.27(明治38)
1973. 1.10(昭和48)
◇小説家。本名は群司次郎。
----------------------------------------------------------------