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                 人   名   辞   典    《く》       編集:獨  澄旻

-------- く ----------------------------------------------------
くうかい
	空海
	 774(宝亀 5)
	 835(承和 2. 3.21)
	◇平安前期の宗教家。真言宗(シンゴンシュウ)の開祖。俗姓は佐伯(サ
	エキ)、幼名は真魚(マオ)、諡(オクリナ)は弘法大師(コウボウダイシ)。佐伯
	田公の三男、母は阿刀氏。讃岐国(香川県)多度郡屏風ヵ浦生れ。
	  788(延暦 7)入京し、外舅阿刀大足(アトノオオタル)に儒書を学ぶ。
	 791(延暦10)大学に入るが中退し、僧とならず優婆塞(ウバソク)
	に身を投じて四国の各地で修行。 795(延暦14)受戒、教海から
	空海と改名。 804(延暦23)遣唐使の船(最澄も乗っている)に便
	乗し、5月入唐(ニットウ)、12月長安に入る。 806(大同元)帰朝。
	  809(大同 4)入京し、嵯峨天皇のち淳和天皇の知遇を受ける。
	 827(天長 4)大僧都。 828(天長 5)庶民のため綜芸種智院(シュゲ
	イシュチイン)を開設。
	  921(延喜21)弘法大師の諡号が追贈される。
	(17)二十二年得度受戒して空海と諱(イミナ)した(異説十二年・十
	四年・十七年・二十三年)。
	 嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナ・ハヤナリ)とともに三筆の一人。
	◆弘法忌(空海忌・御影供<ミエイク>)[ 3.21]御影堂で大師像を開
	帳供養。
	◎ 805(延暦24)最澄が唐から茶の種を持ち帰り近江に植え、翌
	年には空海も茶の種を持ち帰り長崎に植えている。
くうや
	空也
	 903(延喜 3)
	 972(天禄 3. 9.11)
	◇平安中期の僧・空也念仏の祖。名は光勝、弘也(こうや)・
	市聖(イチヒジリ)・阿弥陀聖(アミダヒジリ)・空也上人と称される。
	 諸国を遍歴し、道路・橋梁・堂宇を補修し、水利を通じ、常
	に市井(シセイ)に立って阿弥陀仏の名号を唱える。 948(天暦 2)
	受戒。天慶年間、京都で念仏により庶民を教化、踊念仏を始め
	る。
	 京都に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を建て、ここの空也像は有
	名。
	(*)後醍醐の第五皇子とも、仁明天皇の皇子、常康親王の子と
	もいわれる。
	◆空也忌[旧暦11.23]京都空也堂で修する法会、空也念仏を唱
	えながら京都の内外をめぐる。空也が京都を出て東国化導に赴
	(オモム)いた忌日。
くが かつなん
	陸 羯南
	1857(安政 4.10.14)
	1907. 9. 2(明治40)
	◇政治評論家・新聞記者。幼名は巳之太郎、本名は実(ミノル)、
	字は秀卿、別号は樗園(チョエン)。陸奥国生れ。
	(5)没日は 9.20。
	(8)没日は 9. 2。
	(11)没日は 9.20。
くが なおじろう
	陸 直次郎
	1898. 1.12(明治31)
	1944. 8.11(昭和19)
	◇小説家。本名は野沢嘉哉。
くがやま あきら
	久我山 明
	⇒そん ぎもん(孫 牧人)
くき しゅうぞう《くき しうざう》
	九鬼 周造
	1888. 2.15(明治21)
	1941. 5. 6(昭和16)
	◇哲学者。東京生れ。
	 東京帝国大学哲学科卒。ドイツ・フランスに留学後、京都帝
	国大学教授。
	 実存哲学の立場から日本文化を分析し、文芸の哲学的解明に
	努める。
	 著書は『いきの構造』・『文芸論』・『偶然性の問題』・
	『人間と実存』など。
くき じろう
	九鬼 次郎
	1914. 3.30(大正 3)
	1940. 8.21(昭和15)
	◇詩人・歌人。本名は松田末雄。
くき もりたか
	九鬼 守隆
	1573
	1632(寛永 9)
	◇安土桃山・江戸初期の武将。嘉隆の子、直隆の兄。
	 関ヶ原の戦では東軍(徳川方)に属して父嘉隆と相戦い、東軍
	最初の勝報をもたらす。鳥羽城を安堵される。
	 1614(慶長19)大坂冬の陣では水軍を率い、城外の野田・福島
	の要害を破る。
	 弟直隆が家を継ぎ、のち摂津国三田に移される。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
くき よしたか
	九鬼 嘉隆
	1542(天文11)
	1600(慶長 5.10.12)
	◇安土桃山時代の武将・鳥羽城主。通称は大隅守。志摩の田代
	城主九鬼定隆の子、浄隆の弟、守隆・直隆の父。
	 初め伊勢国司北畠氏に属し、次いで織田信長に従い、九鬼水
	軍(熊野海賊)を率い1574(天正 2)長島一向一揆・石山本願寺攻
	撃に出陣。
	 信長の没後、豊臣秀吉に仕え、1587(天正15)小牧・長久手の
	戦いに織田信雄を攻める。1592(文禄元)文禄の役では水軍の中
	心となり奮戦。鳥羽領主として志摩・伊勢に3万5千石を領す
	る。
	 関ヶ原の戦では西軍(豊臣方)に属して子の守隆と相戦ったが
	敗れ、紀伊に走り自刃。
	◎慶長の役の水軍の将は加藤嘉明(ヨシアキ)。
くき りゅういち
	九鬼 隆一
	1852(嘉永 5)
	1932(昭和 7)
	◇枢密顧問官。号は成海。摂津生れ。
	 古社寺保存会会長・帝室博物館総長などを歴任。
くぎもと ひさはる
	釘本 久春
	1908(明治41)
	1968(昭和43)
	◇日本語教育者・文部省官僚。
	 中島敦とは学生時代からの友人。
ぐさい
	救済
	1282(弘安 5)
	1376(永和 2. 3. 8)
	◇鎌倉後期〜南北朝時代の連歌師。号は侍従房、通称は侍公。
	「きゅうせい(救済)」とも呼ぶ。
	(5)生年は1282(弘安 5)、没日は1376(永和 2. 3. 8)。
	(11)生年は1284(弘安 7)、没年は1378(永和 4)。
くさか しん
	日下 (「言」偏+「念」)
	1887. 6.17(明治20)
	1938.12.13(昭和13)
	◇小説家。本名は正親町実慶(サネヨシ)。
くさか ようこ
	久坂 葉子
	1931. 3.27(昭和 6)
	1952.12.31(昭和27)
	◇小説家。本名は川崎澄子。鉄道自殺。
くさかど のぶたか
	草鹿砥 宣隆
	1818
	1869(明治 2. 6.21)
	◇江戸幕末の国学者・神職。通称は勘解由。三河国宝飯郡生れ。
	 1834(天保 5)平田篤胤(アツタネ)門に入門。
	(*)1818(文化15,文政元)。
くさかべのおうじ《くさかべのわうじ》
	草壁 皇子
	⇒くさかべのみこ(草壁 皇子)
くさかべのみこ
	草壁 皇子
	 662[天智元]
	 689[持統 3. 4.13]
	◇7世紀後半の天武朝の皇太子。くさかべのおうじ(草壁皇子)、
	日並知皇子(ヒナメシノミコ)・日並皇子(ヒナミシノミコ)とも呼ぶ。天武天皇
	の皇子、母はのちの持統天皇。妃は阿閇(アベ)皇女(のちの元明
	天皇)、文武(モンム)天皇・元正(ゲンショウ)天皇の父。
	  672[弘文元,天武元]壬申(ジンシン)の乱に11歳で父大海人(オオ
	アマ)皇子(のちの天武天皇)に従い、東国に赴く。
	  681[天武 9. 2.]立太子。
	  685[天武14]浄広壱の位になる。
	  686(朱鳥元)天武天皇(父)の没後、皇后(母)は遺詔によって
	草壁を即位させずに政務を執り、大津皇子(弟)を失脚させたが、
	病弱だった草壁は即位を待たずに早世。
	◎母は 687[持統元]持統天皇として即位し、 697[文武元,持統
	11]草壁の子文武天皇に譲位し太上天皇と称した。
	  758(天平宝字 2. 2.)草壁、岡宮御宇天皇(おかのみやにあ
	めのしたしろしめししすめらみこと)を追諡。
	◎「日並」は「天皇(太陽)と並ぶ」の意味。
	◎離宮:⇒『百科辞書』しまのみや(島宮,嶋宮)
くさかわ しん《くさかは しん》
	草川 信
	1893. 2.14(明治26)
	1948. 9.20(昭和23)
	◇作曲家。長野県松代生れ。
	 作品は『夕焼小焼』・『汽車ポッポ』・『どこかで春が』な
	ど。
くさの しばじ
	草野 芝二
	1875.11.15(明治 8)
	没年不詳
	◇翻訳家・小説家。本名は若杉三郎。
くさの しょういち《くさの しやういち》
	草野 昌一
	1931(昭和 6)
	2005. 6. 6(平成17)
	◇訳詩家。ペンネームは漣健児(サザナミ・ケンジ)。東京都出身。
	 1953(昭和28)父が創業した新興楽譜出版社(現:シンコー・ミュ
	ージック)に入社。
	 音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長。
	 音楽出版社協会理事長。
	 作品は『ステキなタイミング』(歌:坂本九)・『ルイジアナ
	・ママ』(歌:飯田久彦)・『可愛いベイビー』(歌:中尾ミエ)
	・『ヴァケーション』(歌:弘田三枝子)・『砂に消えた涙』
	(歌:伊藤アイコ)・『赤鼻のトナカイ』(歌:奥村チヨ)・『恋
	はみずいろ』(歌:森山良子)など。
くさの てんぺい
	草野 天平
	1910. 2.28(明治43)
	1952. 4.25(昭和27)
	◇詩人。
くさま ときよし
	草間 時福
	1853(嘉永 6)
	1932(昭和 7)
	◇新聞記者・政治家。京都出身。
	 「朝野新聞」・「東京横浜毎日新聞」で活躍。1884(明治17)官界
	に入る。
くさま なおかた《くさま なほかた》
	草間 直方
	1753(宝暦 3)
	1831(天保 2)
	◇江戸後期の商人・貨幣経済史家。通称は鴻池屋伊助。大坂の
	人。
	 懐徳堂に学ぶ。両替商の鴻池家の分家、尼崎の草間家の養子
	となる。のち独立して肥後藩、南部藩などの財政整理を担当。
	 晩年隠退して、物価・貨幣の変遷を詳述した『三貨図彙』(44
	巻)・『草間伊助筆記』・『茶器名物図彙』を著す。
くさむら ほくせい
	草村 北星
	1879. 3.10(明治12)
	1950. 5.25(昭和25)
	◇小説家・評論家。本名は松雄。埼玉県玉名郡高瀬町生れ。
	1900(明治33)東京専門学校(現:早稲田大学)文学科卒業。1904
	(明治37)出版社隆文館を経営。
	(5)熊本県生れ。
くしだ たみぞう
	櫛田 民蔵
	1885.11.16(明治18)
	1934.11. 5(昭和 9)
	◇経済学者。
くしだ まごいち
	串田 孫一
	1915.11.12(大正 4)
	2005. 7. 8(平成17)
	◇随筆家・作家。東京生れ。
	 東京帝国大学哲学科に在学中、山岳雑誌に寄稿を始める。
	 1958(昭和33)詩人尾崎喜八と山岳雑誌「アルプ」を創刊。
	 教授をしていた東京外国語大学に山岳部を創設。
	 1965(昭和40)東京外国語大学を退職し、文筆活動やラジオ番
	組などに活躍。
	 著書は『山のパンセ』など多数。
くじょう かねざね《くでう かねざね》
	九条 兼実
	1149(久安 5)
	1207(建永 2. 4. 5)
	◇平安末期〜鎌倉初期の公家・九条家の始祖。法名は円証。藤
	原兼実・月輪(ツキノワ)関白・月輪殿、法性寺(ホッショウジ)関白・
	法性寺殿とも呼ぶ。関白藤原忠通の3男、慈円の兄、藤原(九
	条)良経(ヨシツネ)の父。
	 権大納言・右近衛大将を兼ねる。1164(長寛 2)内大臣。1166
	年、右大臣・従一位。
	 1183(寿永 2)平氏が安徳天皇を奉じて西海に走ると、後鳥羽
	上皇をたてて京都の治安をはかる。また源義経が兄頼朝の追討
	院宣を奏請(ソウセイ)した際、非とする。
	 源頼朝の後援により1185年議奏(ギソウ)公卿の上首、翌年に摂
	政となり、記録所を再興。ついで1191(建久 2)関白となる。
	1192(建久 3)頼朝の将軍宣下を取り計らう。
	 幕府と結び後白河院の院政を押さえようとしたが、1196(建
	久 7)土御門(源)通親(ツチミカド・ミチチカ)と対立して失脚、1202(建
	仁 2)出家して法然に帰依。
	 博学多識で、明経の術・和歌・書道にも通じる。
	 日記『玉葉(ギョクヨウ)』(66巻)がある。
	(*)1166(永万 2,仁安元),1185(元暦 2,文治元)。
くじょう さだこ《くでう さだこ》
	九条 節子
	⇒ていめい こうごう(貞明 皇后)
くじょう たけこ《くでう たけこ》
	九条 武子(九條 武子)
	1887.10.20(明治20)
	1928. 2. 7(昭和 3)
	◇歌人。旧姓は大谷。京都生れ。京都西本願寺法主大谷光尊(コ
	ウソン)の次女、大谷光瑞(オオタニ・コウズイ)の妹。九条良致(ヨシムネ)の妻。
	 1909(明治42)男爵九条良致に嫁ぎ、夫とともに外遊し
	たが、翌年一人帰国。以来、本願寺内の錦華殿に12年間独居生
	活を送った。1916(大正 5)佐佐木信綱に師事。
	 仏教婦人連合会会長。
	 作品は歌集『金鈴』・『薫染(クゼン)』・『白孔雀』、『無憂
	華(ムウゲ)』など。
くじょう たねみち《くでう たねみち》
	九条 稙通
	1507(永正 4)
	1594(文禄 3. 1. 5)
	◇安土桃山時代の公家・古典学者。法名は行空のち恵空、号は
	玖山。尚経の子、母は三条西実隆(サネタカ)の娘。
	 柏原・後奈良・正親町天皇の三代に仕え、内大臣・関白とな
	る。
	 古典ならびに有職故実に詳(クワ)しく、外祖父実隆とその子公
	条に学び、三条西家の学統を受けて源氏物語の注釈書『孟津抄』
	(20巻)を著わす。その他、紀行文『嵯峨記』などがある。
くじょう のりざね《くでう のりざね》
	九条 教実
	1210(承元 4)
	1235
	◇鎌倉初期の執権。別称は洞院殿。九条道家の嗣子、母は西園
	寺公経(キンツネ)の娘綸子、九条頼経(ヨリツネ)の兄。
	 1227年、右大臣。1231(寛喜 3)左大臣・関白。1232(貞永元.
	12.)甥の四条天皇の即位により摂政。
	 1235年、幕府に後鳥羽法皇の帰京を求めたが、決着のつかな
	いうちに死亡。
	 日記に『洞院摂政記』がある。
	(*)1227(嘉禄 3,安貞元),1235(文暦 2,嘉禎元)。
くじょう ひさただ《くでう ひさただ》
	九条 尚忠
	1798(寛政10)
	1871(明治 4)
	◇江戸末期の公家。法名は円真。二条治孝の子、輔嗣の養子。
	 佐幕派として日米通商条約の勅許や、和宮降嫁の実現に努め
	る。尊王攘夷派の怒りを買い、辞職・閉居を命じられる。
くじょう まさとも《くでう まさとも》
	九条 政基
	1445(文安 2)
	1516(永正13)
	◇室町後期の公家。尚経の父。
	 1465(寛正 6)九条家の家督を相続。
	 1476(文明 8)関白・氏長者。1491(延徳 3)准后宣下。
	 1496(明応 5)子の尚経と家領経営から争い、九条家の執事唐
	橋在数を殺害。出仕停止の勅勘(チョッカン)を受ける。
	 1501年、家領日根(ヒネ)荘(現:大阪府泉佐野市)に下り、約4
	年間にわたり自ら荘務を執る。
	 日記に『政基公旅引付』がある。
	(*)1501(明応10,文亀元)。
くじょう みちいえ《くでう みちいへ》
	九条 道家
	1193(建久 4)
	1252(建長 4. 2.)
	◇鎌倉初期の公卿(摂政・関白)。法名は行慧、別称は光明峰寺
	(コウミョウブジ)殿。九条兼実(カネザネ)の孫、九条良経の長男、母は
	源頼朝(ヨリトモ)の妹婿一条能保(ヨシヤス)の娘。妻は西園寺公経(キンツ
	ネ)の娘綸子。九条教実(ノリザネ)・頼経(ヨリツネ)の父、九条頼嗣(ヨリ
	ツグ)の祖父。
	 1219(承久元. 6.)4男頼経を鎌倉に下す。
	 1221(承久 3. 4.)仲恭(チュウキョウ)天皇の即位で摂政となる。同
	年5月の承久の乱では局外にあったが変後に辞職。
	 1226(嘉禄 2. 1.)頼経が幕府の4代将軍となり(摂家将軍の
	初め)、岳父西園寺公経は幕府の後援で太政大臣となり、道家
	も関白となる。関東申次の職にあって公武間の秘書として重き
	をなす。
	 ついで長女が後堀河天皇の中宮となり、その皇子が1232(貞
	永元.12.)四条天皇に即位し、道家は天皇の外祖父となる。
	 1236(嘉禎 2)京都五山の一つ東福寺を東山に創建し、聖一国
	師円爾(エンニ)(弁円)を迎える。1238年、法性寺で出家し禅定太
	閤となる。
	 1244(寛元 2)頼経の子(道家の孫)頼嗣が5代将軍となるが、
	1246(寛元 4. 5.)名越光時(ナゴヤ・ミツトキ)が頼経を擁して北条時
	頼の討伐を図ったため、頼経は京都に送還となり、幕府に忌ま
	れて関東申次の職を奪われる。
	 1251(建長 3)僧了行の陰謀に頼経が関わり道家も嫌疑を受け、
	翌年頼経とともに勅勘(チョッカン)となり、不遇のうちに死亡。
	 朝儀の資料として重要な日記『玉蘂(ギョクズイ)』がある。
	(*)1238(嘉禎 4,暦仁元)。
	◎東福寺の完工は1255(建長 7)。
	◎長女(後堀河天皇の中宮)の名は「(「立」偏+「尊」)子」。
くじょう もろすけ《くでう もろすけ》
	九条 師輔
	⇒ふじわらのもろすけ(藤原 師輔)
くじょう よしつね《くでう よしつね》
	九条 良経
	⇒ふじわらのよしつね(藤原 良経)
くじょう よりつぐ《くでう よりつぐ》
	九条 頼嗣
	1239
	1256(建長 8. 9.25)
	◇鎌倉幕府の第5代将軍。第4代将軍九条頼経(ヨリツネ)の子、九
	条教実(ノリザネ)の弟。
	 1244(寛元 2)父頼経の引退後、執権北条経時(ツネトキ)に擁立さ
	れ6歳で摂家将軍となる。
	 1251(建長 3)僧了行の陰謀に頼経が関わり、1252(建長 4)執
	権北条時頼に廃され、宗尊(ムネタカ)親王が宮将軍として迎えられ
	て、帰京。不遇のうちに京都で死亡。
	 将軍在位:1244(寛元 2)〜1252(建長 4)。
	(*)1239(暦仁 2,延応元)。
くじょう よりつね《くでう よりつね》
	九条 頼経
	1218(建保 6)
	1256(建長 8. 8.11)
	◇鎌倉幕府の第4代将軍。藤原頼経とも呼ぶ。摂政・関白九条
	道家の4男、母は太政大臣西園寺(藤原)公経(キンツネ)の娘綸子、
	第5代将軍頼嗣(ヨリツグ)の父。
	 第3代将軍源実朝(サネトモ)の暗殺後、源頼朝(ヨリトモ)の遠縁にあ
	たるため2歳で鎌倉に迎えられ、1226(嘉禄 2)7歳で摂家将軍
	の宣下を受ける。
	 将軍の在位が長くなったため執権北条経時(ツネトキ)に強要され、
	1244(寛元 2)子頼嗣(6歳)に将軍職を譲渡。1245(寛元 3)出家
	し行智と号する。
	 幕府の勢力争いから1246(寛元 4. 7.)京都へ送還。
	 1251(建長 3)僧了行の陰謀に関わり北条氏滅亡を計画するが
	失敗。父道家とともに勅勘(チョッカン)となり、不遇のうちに死亡。
	 将軍在位:1226(嘉禄 2)〜1244(寛元 2)。
くすだ いちろう
	楠田 一郎
	1911.10. 7(明治44)
	1938.12.27(昭和13)
	◇詩人。
くすだ きょうすけ
	楠田 匡介
	1903. 8.23(明治36)
	1966. 9.23(昭和41)
	◇小説家。本名は小松保爾(ヤスジ)。
くすだ としろう
	楠田 敏郎
	1890. 4.26(明治23)
	1951. 1.20(昭和26)
	◇歌人。本名は敏太郎、別名は檜山鳥夢・傷鳥。
くすのき まさしげ
	楠木 正成
	1294(永仁 2)
	1336(<南>延元元,<北>建武 3. 5.25)
	◇南北朝時代の武将。幼名は多聞丸。河内の土豪楠木正遠の子、
	正行(マサツラ)・正時・正儀(マサノリ)の父、正季(マサスエ)の兄。
	 1331年8月、後醍醐天皇の呼び掛けに応じて笠置(カサギ)に参
	向。のち河内国赤坂の館を城に改築した赤坂城で挙兵、尊良親
	王・護良親王(モリナガ)らも立て籠るが落城。翌年の暮れに千早
	城で寡兵をもって再挙、赤坂城を奪回。さらに翌年1月和泉・
	摂津の守護軍を破り、六波羅軍を撃破。数日で赤坂城は落ちた
	が、千早城に籠城し野伏の支援を受けて鎌倉幕府の大軍を支え、
	諸国の反幕府結集の時を稼ぐ。
	 建武政権下で摂津・河内・和泉の守護となる。のち足利尊氏
	が叛旗を翻(ヒルガエ)すと九州に駆逐するが、再帰した尊氏軍と
	湊川で迎え撃って敗死(湊川の合戦)。
	(16)生年不詳。
	(*)1331(元徳 3,元弘元)。
	◎父正成は大楠公(ダイナンコウ)または楠公、子正行は小楠公(ショウナ
	ンコウ)と呼ばれる。
	◎太平洋戦争まで三大忠臣(和気清麻呂<ワケノキヨマロ>・名和長年<ナ
	ワ・ナガトシ>・楠木正成)の一人として軍部に利用された。
	◎皇居外苑に1900(明治33)住友氏が献納した銅像がある。別子
	銅山開発二百年の祝賀記念のもので、製作主任は高村光雲。
くすのき まさすえ《くすのき まさすゑ》
	楠木 正季
	生年不詳
	1336(<南>延元元,<北>建武 3. 5.25)
	◇南北朝時代の武将。名は七郎・帯刀。河内の土豪楠木正遠の
	子、正成(マサシゲ)の弟。
	 建武政権に仕え、窪所および武者所の所衆となる。
	◎『太平記』では湊川の合戦で、兄正成に七生報国を誓い、刺
	し違えて死んだとある。
くすのき まさつら
	楠木 正行
	1326
	1348(<南>正平 3,<北>貞和 4. 1. 5)
	◇南北朝時代の武将。左衛門尉・河内守兼摂津守。正成(マサシゲ)
	の長子、正時・正儀(マサノリ)の兄。
	 河内四条畷(シジョウナワテ)の戦で高師直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)
	兄弟の軍と戦い、弟正時と刺し違えて敗死。
	(*)1326(正中 3,嘉暦元)。
	◎父正成は大楠公(ダイナンコウ)または楠公、子正行は小楠公(ショウナ
	ンコウ)と呼ばれる。
くすのき まさとき
	楠木 正時
	生年不詳
	1348(<南>正平 3,<北>貞和 4. 1. 5)
	◇南北朝時代の武将。通称は次郎。正成(マサシゲ)の次子、正行
	(マサツラ)の弟、正儀(マサノリ)の弟。
	 河内四条畷(シジョウナワテ)の戦で高師直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)
	兄弟の軍と戦い、兄正行と刺し違えて敗死。
くすのき まさのり
	楠木 正儀
	生年不詳
	没年不詳
	◇南北朝時代の武将。名は三郎・左衛門尉。正成(マサシゲ)の第
	三子、正行(マサツラ)・正時の弟。
	 兄正行・正時の戦死後、楠木一族の棟梁となり統率。足利氏
	に抗して南朝のために尽力。1361年、細川清氏が南朝に帰順す
	ると公武の間を斡旋して京都を回復するが、間もなく足利義詮
	に奪われる。1367(<南>正平22,<北>貞治 6)南北両朝の和解を
	策したが不成立。
	 1369(<南>正平24,<北>応安 2)足利義満と通じて南軍と天王
	寺に戦い、1373(<南>文中 2,<北>応安 6)吉野の行宮を侵す。
	 しかし、1382(<南>弘和 2,<北>永徳 2)再び南朝方に帰順し、
	1383(<南>弘和 3,<北>永徳 3)参議となる。
	(*)1361(<南>正平16,<北>延文 6,<北>康安元)。
くずはら こうとう《くずはら こうたう》
	葛原 勾当
	1812(文化 9)
	1882(明治15)
	◇琴の名手。本名は重美(シゲミ)。八尋村(現:広島県深安郡神辺
	町八尋)生れ。葛原しげるの祖父。
くずはら しげる
	葛原 (「凵」に「茲」)
	1886. 6.25(明治19)
	1961.12. 7(昭和36)
	◇童謡作家。葛原勾当(コウトウ)の孫。
	 作品は『村祭』・『夕日』・『とんび』など。
くずはら たえこ
	葛原 妙子
	1907. 2. 5(明治40)
	1985. 9. 2(昭和60)
	◇歌人。東京生れ。東京府立第一高等女学校卒業。
くすみ もりかげ
	久隅 守景(久須見 守景)
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の絵師。
	 狩野探幽の高弟。子供の悪行により破門されたといわれる。
	◎桃田柳栄(リュウエイ)・鶴沢探山(タンザン)・神足常雲とともに狩野
	探幽門下の四天王の一人。
くすもと いね
	楠本 イネ
	1827(文政10. 5. 6)
	1903(明治36. 8.26)
	◇江戸幕末・明治初期の女医。長崎生れ。父はシーボルト、母
	は楠本たき(お滝)、石井宗謙の妻。
	 14歳のとき宇和島卯之町の医師二宮敬作を訪れ、5年間医術
	を学ぶ。
	 1845〜1851(弘化 2〜嘉永 4)岡山の町医石井宗謙に、1851〜
	1854(嘉永 4〜嘉永 7)長崎の医師阿部魯庵に産科術を学び、
	1854〜1861(嘉永 7〜文久元)二宮敬作の許で修業。
	 1870(明治 3)築地で産科医を開業。
	 1873. 7.(明治 6)宮内庁御用掛の産科医。
くすもと たき
	楠本 たき
	1807(文化 4)
	1869(明治 2)
	◇長崎丸山町引田屋の遊女。源氏名は其扇(ソノギ)。シーボルト
	の妻、楠本イネの母。
	 1823(文政 6)出島でシーボルトと会う。
	 1827(文政10)イネを出産。
	 1829(文政12.11.)シーボルト、国外追放。叔父楠本甚五郎の
	許に身を寄せる。
	 1831(天保 2. 1.)年下の俵屋時治郎と再婚。
	 1859(安政 6)シーボルトと再会。
くすもと まさたか
	楠本 正隆
	1838(天保 9)
	1902(明治35)
	◇地方行政官・政治家。
くすやま まさお
	楠山 正雄
	1884.11. 4(明治17)
	1950.11.26(昭和25)
	◇児童文学者・演劇評論家。東京生れ。1906(明治39)早稲田大
	学英文科卒業。童話劇作家協会を創設。
くつみ そくちゅう
	久津見 息忠
	1860(安政 7. 1.14)
	1925. 8. 7(大正14)
	◇新聞記者・評論家。本名は息忠、筆名は蕨村(ケッソン)・
	暮村隠士・(「謐」の「言」を「酉」に替える)鶏学人(ヒッケイガクジン)。
	(5)久津見 息忠(くつみ そくちゅう)。
	(8)久津見 蕨村(くつみ けっそん)。
	(11)久津見 息忠(くつみ そくちゅう)。
くないきょう
	宮内卿
	生年不詳
	1205(元久 2)頃
	◇鎌倉前期の歌人。歌人右京権大夫源師光(モロミツ)の娘、母は後
	白河院の女房安芸(アキ)。後鳥羽院(上皇)に出仕。二〇歳台で夭
	折。
	(5)1205(元久 2)頃:正。
	(11)1204(元久 2)頃:誤。
くにえだ かんじ
	邦枝 完二
	1892.12.28(明治25)
	1956. 8. 2(昭和31)
	◇小説家。本名は莞爾(カンジ)、筆名は完二・双竹亭竹水。戸籍
	上の誕生日は1893. 1. 1(明治26)。東京麹町生れ。祖父は三百
	石取りの幕臣、父は馬術に長じていた。
	 慶応義塾大学文科中退。
	(5)誕生日は1892.12.28(明治25)。
	(8)戸籍面での生年月日は1893. 1.10(明治26)。
	(13)明治二六年一月東京麹町に生まる。
くにえだ しろう
	国枝 史郎
	1888.10.10(明治21)
	1943. 4. 8(昭和18)
	◇小説家。別名は宮川茅野雄・西川菊次郎・鎌倉彦郎。長野県
	生れ。早稲田大学英文科中退。
	(1)誕生日は1887.10. 1(明治20)。
	(3)誕生日は1888.10.10(明治21)。
	(5)誕生日は1888.10.10(明治21)、別名鎌倉彦郎ほか。
	(8)誕生日は1887.10.10(明治20)、宮川茅野雄・鎌倉参朗・
	市川末緒・西井菊次郎・柳内白来・奈良うねめなどの筆名があ
	る。
	(11)誕生日は1888.10.10(明治21)、別名鎌倉彦郎ほか。
くにきだ しゅうじ
	国木田 収二
	1878. 9. 1(明治11)
	1931. 3. 4(昭和 6)
	◇編集者。国木田独歩(ドッポ)の弟。
くにきだ どっぽ
	国木田 独歩
	1871. 8.30(明治 4. 7.15)
	1908. 6.23(明治41)
	◇小説家・詩人。本名は哲夫(1889. 7.10<明治22>改名)、幼名
	は亀吉(カメキチ)、筆名は孤島生・鏡面生・鉄斧生(テップセイ)・
	九天生・田舎漢(イナカモノ)・独歩吟客・独歩生。国木田治子(ハルコ)
	の夫、国木田収二(シュウジ)の兄。戸籍上の父は雅治郎であるが
	竜野藩士国木田専八という説がある。下総国銚子生れ。
	 少年時代の大部分を山口県で送る。錦見小学校・今道小学校
	・山口中学校を経て、1888. 5.(明治21)東京専門学校英語普通
	科に入学、1890. 9.(明治23)英語政治科へ転科。1891(明治24)
	植村正久から洗礼を受ける。同三月、専門学校中退。
	 1895(明治28)六月、キリスト教婦人矯風会の幹事佐々城豊寿
	の娘、信子(ノブコ)を知り恋愛関係になる。11月、佐々城家の反
	対を押し切り、徳冨蘇峰の尽力により信子と結婚し逗子に移り
	住む。1896. 3.(明治29)窮乏に堪えず、帰京し両親と同居。4
	月、信子が失踪したので協議離婚。
	 1898(明治31)隣家の榎本治と結婚。
	 作品は1901. 3.(明治34)『武蔵野』など。
	◆墓は東京都港区の青山霊園。
	◆独歩忌[ 6.23]。
	(?)すぐに離婚した前妻信子は佐々城豊寿(ササキ・トヨシ)の長女で相
	馬黒光(ソウマ・コッコウ)の従姉。		????
	(5)佐々城豊寿(ササキ・トヨジュ)の娘、信(ノブ)子を知り……。
	(11)佐々城豊寿(ササキ・トヨジュ)の娘、信(ノブ)子を知り……。
くにきだ はるこ
	国木田 治子
	1879. 8. 7(明治12)
	1962.12.22(昭和37)
	◇小説家。本名は治(ハル)、旧姓は榎本(エノモト)。国木田独歩(ドッ
	ポ)の後妻。
くにさだ ちゅうじ
	国定 忠治
	1810(文化 7)
	1850(嘉永 3)
	◇江戸幕末の博徒。上州国定村(現:群馬県佐波郡<サワグン>東村
	<アズマムラ>国定)の素封家長岡家の長男。
	 大前田英五郎から兄弟分の盃(サカヅキ)をもらい侠客となる。
	17歳で人を殺し凶状持ちとなる。
	 捕えられ大戸の関付近で処刑された。
	◆墓は群馬県佐波郡東村の養寿寺にある。
くにのみや あさひこ
	久邇宮 朝彦(久迩宮 朝彦)
	⇒あさひこ しんのう(朝彦 親王)
くにのみや くによし
	久邇宮 邦彦(久迩宮 邦彦)
	1873. 7.23(明治 6)
	1929(昭和 4)
	◇皇族・皇典講究所総裁。久邇宮朝彦(アサヒコ)の第1王子。朝融
	・良子(ナガコ)女王(昭和天皇后)の父。
	 学習院・成城学校・士官学校を経て日露戦争に従軍。のち陸
	軍大将。
	 1899(明治32)旧薩摩藩主島津忠義の7女倶子(チカコ)と結婚。
	 1923.10.(大正12)第4代皇典講究所総裁に就任。
くにのみや ともよし
	久邇宮 朝彦(久迩宮 朝彦)
	⇒あさひこ しんのう(朝彦 親王)
くにひろ
	国広
	生年不詳
	1614(慶長19)
	◇江戸初期の刀工。日向の人。京都一条堀川の刀工で、信濃守
	を受領。
	(4)没年は1614?。
くによし やすお
	国吉 康雄
	1893(明治26)
	1953(昭和28)
	◇洋画家。岡山市生れ。1906(明治39)渡米。
くの とよひこ
	久野 豊彦
	1896. 9.12(明治29)
	1971. 1.26(昭和46)
	◇小説家・経済評論家。名古屋市生れ。慶応義塾大学経済卒業。
	(3)誕生日は1898. 9.13(明治31)。
	(5)誕生日は1896. 9.12(明治29)。
	(8)誕生日は1896. 9.12(明治29)。
	(11)誕生日は1896. 9.12(明治29)。
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