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人 名 辞 典 《こた》 編集:獨 澄旻
-------- こた --------------------------------------------------
ごだい ともあつ
五代 友厚
1835(天保 6.12.26)
1885. 9.25(明治18)
◇明治初期の実業家。通称は徳助・才助。薩摩藩士。
1857(安政 4)藩の長崎派遣留学生となり、オランダ海軍士官
から航海・砲術・測量を学ぶ。
1859(安政 6)上海に密航し、藩船を購入。
1863(文久 3)薩英戦争でイギリス艦に捕われるが脱走。
1865(慶応元)藩留学生として寺島宗則・森有礼らとヨーロッ
パを視察し、翌年帰国して藩の貿易拡張に努力。
明治維新後、1868(明治元)外国事務局権判事・大阪府判事と
なるが、1869(明治 2)官を辞す。
のち実業界に転じ薩派政商として財界に活躍。大阪を中心に
造船・紡績・鉱山・製藍・製銅・鉄道などの業を興す。
住友の筆頭番頭広瀬宰平(サイヘイ)らと大阪堂島米商会所・大阪
商法会議所(現:大阪商工会議所)・1878. 6.(明治11)大阪株式
取引所などを創設し、大阪の経済的発展に貢献。
また東京馬車鉄道会社・神戸桟橋会社などの創立にも活躍。
1881(明治14)開拓使官有物払下事件を起こす。
ごだいいん まはしら《ごたいゐん まはしら》
後醍院 真柱
1805(文化 2)
1879. 6.13(明治12)
◇江戸幕末・明治維新期の国学者。鹿児島生れ。
1839(天保10)江戸の平田篤胤に入門。1841(天保12)小番格後
醍院良次の養子となる。1850(嘉永 3)薩摩藩内紛の「高崎崩れ」
に連坐して謹慎、のち許される。1858(安政 5)藩校造士館訓導。
1868(明治元)新政府に登用、皇学所御用掛・大学御用掛・教
部大録を歴任。
ごだいご てんのう《ごだいご てんわう》
後醍醐 天皇
1288(正応元.11. 2)
1339(<南>延元 4. 8.16)
◇第96代の天皇。名は尊治(タカハル)。
大覚寺統で後宇多(ゴウダ)天皇の第二皇子。母は花山院師継
の娘(実は五辻忠継の娘)忠子(談天門院)。懐良(カネナガ)親王の
父。
1308(徳治 3. 9.)皇太子となる。1318(文保 2)即位。はじめ
後宇多院政であったが、1321(元亨元.12)ようやく天皇親政と
なる。
つぎに鎌倉幕府から政権の回復を企てて1324(正中元. 9.)正
中の変(未然に発覚)、1331〜1333(元弘元〜元弘 3)元弘の変を
経て、足利尊氏らの内応を得て鎌倉幕府(北条氏)を滅ぼし、建
武の中興(建武の新政)を行ったが、専制的な政治であったため
反発を招き失敗。
笠置山の戦に敗れ、1332(元弘 2. 3.)隠岐の島に配流される。
その途中、美作の院庄に宿泊した際、児島高徳(タカノリ)が桜の樹
に「天莫空勾践、時非無范蠡」に書き付け、天皇を救う忠臣がい
ることを伝えたという。翌年、隠岐を脱出し伯耆の船上山で名
和長年(ナワ・ナガトシ)に迎えられる。
足利尊氏の謀反により吉野に遷幸し南朝を樹立したが、失意
のうちに病没。
即位:1318(文保 2. 3.29)、退位:1339(<南>延元 4. 8.15)。
(16)即位は文保 2(1318) 3.29。
(17)文保二年(一三一八)二月二十六日、践祚、同三月二十一日
即位した。
こだいら せつじん
小平 雪人
1872(明治 5)
1958.12.18(昭和33)
◇俳人。本名は探一。
こたけ やしろう《こたけ やしらう》
古武 弥四郎
1879(明治12)
1968(昭和43)
◇生化学者。岡山県生れ。
大阪医学校卒業。大阪医科大学教授・大阪大学の教授・和歌
山県立医科大学学長を歴任。
アミノ酸代謝、特にトリプトファン代謝の研究で知られる。
1930. 9.(昭和 5)トリプトファンの中間代謝産物であるキヌレ
ン酸の生成過程を解明。
こたに さんし
小谷 三志
⇒こたに ろくぎょう(小谷 禄行)
こたに ろくぎょう
小谷 禄行
1769(明和 6)
1841(天保12)
◇江戸幕末の富士講の指導者。号は三志(サンシ)。武蔵鳩ヶ谷の
町人。
始め富士講の身禄派であったが、富士信仰を神格化し、社会
奉仕の実践道徳を中心とする不二道(フジドウ)を説く。
◎二宮尊徳の報徳思想に影響を与えた。
こだま かがい
児玉 花外(兒玉 花外)
1874. 7. 7(明治 7)
1943. 9.20(昭和18)
◇詩人。本名は伝八。山口県大津郡三隅村生れ。同志社予備校
・札幌農学校(現:北海道大学)予科・東京専門学校(現:早稲田
大学)に学びいずれも中退。1923(大正12)明治大学の校歌を作
詞。急性腸疾患で東京都養育院に没。
(5)京都に生れた。
◎祖父の郷里山口県長門市大寧寺境内に花外詩碑がある。
こだま げんたろう《こだま げんたらう》
児玉 源太郎
1852. 4.14(嘉永 5.閏2.25)
1906. 7.23(明治39)
◇明治時代の陸軍軍人(大将)・政治家。徳山藩出身。
1898. 2.26(明治31)第4代台湾総督就任。
1900(明治33)第4次伊藤内閣の陸軍大臣。
日露戦争では満州軍総参謀長。
(16)没日は 7.24。
◎児玉は「後藤(新平)は民政、石塚は法制、我輩は軍政」と評価
した。
こだま たかや
児玉 隆也
1937. 5. 7(昭和12)
1975. 5.22(昭和50)
◇ノンフィクション作家。芦屋(アシヤ)市生れ。早稲田大学第二
政経学部卒業。
こちくあん しゅんこ
小築庵 春湖
1814(文化11)
1886. 2.11(明治19)
◇俳諧師。通称は橘田幸蔵。
こちょうえん わかな
胡蝶園 若菜
1853(安政元)
1918. 5.25(大正 7)
◇戯作者。本名は若菜貞爾、別号は夢想楼・蝶々子・幻夢居士。
こづか くうこく
小塚 空谷
1877. 9.27(明治10)
1959. 4.16(昭和34)
◇詩人。本名は鎮雄。
こでら きくこ
小寺 菊子
1883. 8. 7(明治16)
1956.11.26(昭和31)
◇小説家。旧姓は尾島。富山県富山町生れ。東京府教員養成所
卒業。
こでら ゆうきち
小寺 融吉
1895.12. 8(明治28)
1945. 3.29(昭和20)
◇民俗芸能・日本舞踊研究家。
ごとう けいた《ごたう けいた》
五島 慶太
1882(明治15)
1959(昭和34)
◇大正・昭和期の実業家。五島昇(ノボル)の父。
農商務省の嘱託を経て1913(大正 2)鉄道院に入り6年で退官。
武蔵野電鉄常務取締役。1941(昭和16)相模鉄道・小田急電鉄・
京浜電鉄などの社長。1944(昭和19)東条内閣の運輸通信相。
太平洋戦争後は公職追放となる。
1948(昭和23)大東急記念文庫を創設、1960. 4.18(昭和35)五
島美術館を設立。
1977(昭和52)東急電鉄会長。
ごとう しんぺい
後藤 新平
1857. 7.24(安政 4. 6. 4)
1929. 4.13(昭和 4)
◇明治・大正時代の政治家。伯爵。陸中塩釜村(現:岩手県水沢
市)生れ。
須賀川医学校卒業。
内務省に入り衛生局長、1898(明治31)台湾総督府民政長官。
のち初代満鉄総裁として植民地経営に業績をあげ、第二次桂内
閣の逓相兼鉄道院総裁・内相・外相・東京市長などを歴任。
大陸進出を鼓吹し、シベリア出兵論を説く。のち震災復興や
日ソ国交回復に努力。
1900(明治33)桂太郎の台湾協会専門学校(現:拓殖大学)創立
に参画。
◎第4代台湾総督児玉源太郎(陸軍)(1898〜1906)は「後藤(新平)
は民政、石塚は法制、我輩は軍政」と評価した。
◆墓は東京都港区の青山霊園。
ごとう すえお
後藤 末雄
1886.10.25(明治19)
1967.11.10(昭和42)
◇小説家・フランス文学者。東京生れ。東京大学仏文科卒業。
慶応義塾大学教授。中国思想のフランスへの移入の研究など。
ごとう せいたろう《ごたう せいたらう》
五島 清太郎
1867(慶応 3)
1935(昭和10)
◇動物学者。山口県出身。
東京帝国大学動物学科卒業。東京帝国大学教授・同大理学部
長を歴任。
寄生性吸虫類に関する研究により恩賜賞を受賞。
ごとう ちゅうがい《ごとう ちうぐわい》
後藤 宙外
1866(慶応 2.12.23)
1938. 6.12(昭和13)
◇小説家・評論家。本名は寅之助。羽後(現:秋田県仙北郡払田
村田の尻)生れ。
1894(明治27)東京専門学校(現:早稲田大学)文科卒業。
「早稲田文学」の記者となり、小説『ありのすさび』・『闇の
うつゝ』・『腐肉団』を発表。のち「新小説」を主宰し、自然
主義隆盛の中で非自然主義を唱道。
猪苗代湖畔の別邸で没。
その他の著作は評論集『非自然主義』・『明治文壇回顧録』
など。共編著『唾玉集』。
ごとう のぼる
五島 昇
1916(大正 5)
1989(平成元)
◇実業家。五島慶太(ケイタ)の子、長男は五島哲(東急建設の社長)。
東急グループの総帥。
1984. 5.11(昭和59)日商会頭に就任。
ごとう またべえ《ごとう またべゑ》
後藤 又兵衛
1560(永禄 3)
1615(慶長20. 5. 6)
◇安土桃山時代の武将。名は基次(モトツグ)。父は播磨別所氏の
家臣後藤基国、基則(モトノリ)の父。
黒田官兵衛孝高(ヨシタカ)(如水)に養育され、一時追放されたが
孝高の子長政(ナガマサ)に召還される。
1587(天正15)九州征伐・文禄慶長の役・1600(慶長 5)関ヶ原
の戦に軍功を立て、大隈城主1万6千石の重臣となる。
1606(慶長11)謀反の嫌疑により長政にうとんじられ主家を去
り(、牢人となる。小倉の細川忠興(タダオキ)・広島の福島正則(マ
サノリ)・姫路の池田輝政(テルマサ)・津の藤堂高虎(トウドウ・タカトラ)らが
仕官をすすめてきたが、旧主の長政により破談となる。
1614(慶長19)豊臣方の牢人徴募の際、豊臣秀頼に招かれて大
坂城に入る。冬の陣に佐竹義宣(ヨシノブ)を破る。夏の陣で道明
寺(ドウミョウジ)方面に出撃し、伊達方と奮戦中に胸を撃ち抜かれ
て戦死。
ごとう みよこ
五島 美代子
1898. 7.12(明治31)
1978. 4.15(昭和53)
◇歌人。本名は美代。東京本郷生れ。1924(大正13)東京大学文
学部聴講生として国文学を学ぶ。1925. 5.(大正14)歌人五島茂
(石槫千亦<イシクレ・チマタ>の三男)と結婚。
ごとう もとつぐ
後藤 基次
⇒ごとう またべえ(後藤 又兵衛)
ごとう やはん
後藤 夜半
1895. 1.30(明治28)
1976. 8.29(昭和51)
◇俳人。本名は潤(ジュン)。大阪曾根崎(ソネザキ)新地生れ。私立
泊園書院卒業。
ごとう りしゅん
後藤 梨春
1696(元禄 9)
1771(明和 8. 4. 8)
◇江戸中期の本草学者。名は光生、号は梧桐庵。江戸の人。能
登七尾の城主多田義国の5世の孫。
田村藍水(ランスイ)に本草学を学ぶ。
著書は『合監本草』(30巻)・『随観写真』(30巻)・『本草綱
目合読筌』・『物品目録』・『和産目鉄』など。
◎1765(明和 2)『紅毛談』(2巻)は江戸参府のオランダ人を宿
舎に訪ね、聞いた風俗や産物を書いたものであったが、書中に
オランダ文字25字を載せたことから絶版に処せられた。
ごとば じょうこう《ごとば じやうくわう》
後鳥羽 上皇
⇒ごとば てんのう(後鳥羽 天皇)
ごとば てんのう《ごとば てんわう》
後鳥羽 天皇
1180(治承 4. 7.14)
1239(延応元. 2.22)
◇鎌倉時代の第82代天皇。諱は尊成(タカヒラ)、法名は良然、院号
は隠岐院、諡号(シゴウ)は顕徳院のち後鳥羽院。高倉天皇の第4
皇子。
1198(建久 9)土御門(ツチミカド)天皇に譲位して院政を行なう。
1221(承久 3)北条義時追討の院宣を下し鎌倉幕府打倒を試み
たが失敗(承久の乱)。隠岐に流され、その地で没する。
天皇在位:1183(寿永 2)〜1198(建久 9)。
◎はじめ顕徳院と諡号されたが、怨霊を恐れられ、1242(仁治
3)後鳥羽院と改められた。
こなかむら きよのり
小中村 清矩
1821(文政 4.12.30)
1895.10. 9(明治28)
◇江戸幕末・明治初期の国学者。本姓は原田。号は陽春廬(ヤスム
ロ)。江戸生れ。小中村春矩の養子。池辺義象(ヨシカタ)の養父(の
ち義象は池辺に復する)。
本居内遠に学ぶ。
維新後は明治政府に仕え、東京大学教授・貴族院議員・東京
学士院会員。
古代法制史・国語・国史に通じ、『古事類苑』の編纂に参与。
著書は『官制沿革略史』・『歌舞音楽略史』など。
(3)誕生日は12.30、没日は10. 9。
(5)誕生日は12.31、没日は10.11。
(11)誕生日は12.31、没日は10.11。
こなかむら よしたか
小中村 義象
⇒いけべ よしたか(池辺 義象)
こにし しげや
小西 茂也
1909. 1.16(明治42)
1955. 4.22(昭和30)
◇フランス文学者。
こにし ますたろう
小西 増太郎
1862(文久 2. 4. 4)
1940.12.10(昭和15)
◇神学者・翻訳家(ロシア)。キリシタン大名の小西行長(ユキナガ)
の子孫。
こにし ゆきなが
小西 行長
生年不詳
1600(慶長 5.10. 1)
◇安土桃山時代の武将。摂津守。天主教徒(キリシタン大名)、
教名はドン・アグスチン。堺の豪商小西隆佐の子と伝えられる。
はじめ宇喜多(ウキタ)氏、のち豊臣秀吉に仕える。九州征伐・肥
後一揆(イッキ)鎮圧などの功により、加藤清正と肥後を二分して
24万石の領主となる。1592〜1593(文禄元〜 2)と1597〜1597
(慶長 2〜 3)の文禄・慶長の役(朝鮮の役)には先鋒の主将とし
て出陣。1600(慶長 5)関ヶ原の戦では石田三成の西軍に属し、
徳川家康と関ヶ原に戦って敗れ斬首。
こにし らいざん
小西 来山
1654(承応 3)
1716(享保元.10. 3)
◇江戸前期の俳諧師。通称は伊右衛門、初号は満平(ミツヒラ)、別
号は十万堂・湛翁(タンオウ)・湛々翁(タンタンオウ)。
こぬま いたる
小沼 達
1903. 9.24(明治36)
1929. 8.30(昭和 4)
◇ロシア文学者。
このえ あつまろ
近衛 篤麿
1863(文久 3)
1904(明治37)
◇明治の政治家・公爵。号は霞山。貴族院議長・枢密院顧問官
を歴任。日清戦争後、日清同盟論を唱える大アジア主義から
1901(明治34)東亜同文会を組織。国民同盟会・対露同志会に参
加、対露強硬政策を主張。1895〜1904(明治28〜37)学習院長。
このえ さきつぐ
近衛 前嗣
1536(天文 5)
1612(慶長17)
◇安土桃山時代の公卿。名は晴嗣のち前久、法号は龍山。稙家
の子。伊尹の父。
1560(永禄 3)越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り下向。のち織
田信長を頼る。1582(天正10)関白・太政大臣に就任、ほどなく
辞任。本能寺の変後、徳川家康を頼る。
このえ てんのう《このゑ てんわう》
近衛 天皇
1139(保延 5)
1155(久寿 2)
◇第76代天皇。諱は体仁(ナリヒト)。鳥羽天皇の皇子、母は美福門
院藤原得子(トクシ)。第75代崇徳(ストク)天皇・第77代後白河天皇の
異母弟。
誕生3ヶ月で立太子。1141(永治元)鳥羽上皇が出家して法皇
になり、崇徳天皇を譲位させ、3歳で即位。保元(ホウゲン)の乱
の一因となる。鳥羽法皇は本院、崇徳上皇は新院と呼ばれる。
1150(久安 6)元服。藤原頼長の養女多子が皇后に、藤原忠通
の養女呈子が中宮に冊立、摂関家内部も対立する。
1155(久寿 2)近衛天皇が17歳で夭折すると、鳥羽法皇は崇徳
上皇の子重仁(シゲヒト)親王をさしおいて、崇徳上皇の弟雅仁(マサ
ヒト)親王を後白河天皇として即位させ、保元(ホウゲン)の乱の一因
となる。
即位:1141(永治元.11.27)、退位:1155(久寿 2. 7.23)。
(2)鳥羽天皇の第8皇子……。
(4)鳥羽天皇の第九皇子。
(16)鳥羽天皇の第9皇子.
(?)躰仁(ナリヒト)親王。
このえ ひでまろ《このゑ ひでまろ》
近衛 秀麿
1898.11.18(明治31)
1973. 6. 2(昭和48)
◇指揮者・作曲家。近衛篤麿(アツマロ)の次男、文麿の実弟。東京
生れ。
東京帝国大学中退し、パリ・ベルリンに留学。ダンディらに
作曲を、E・クライバーらに指揮を学ぶ。
山田耕筰に師事し、1925(大正14)耕筰とともに日本交響楽協
会を創立。のち改組した新交響楽団を10年間指揮。さらに東宝
交響楽団、近衛交響楽団を組織。
編曲『越天楽』など。
◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
このえ ふみまろ《このゑ ふみまろ》
近衛 文麿
1891(明治24)
1945(昭和20)
◇昭和の政治家・公爵。近衛篤麿(アツマロ)の長男、秀麿の実兄。
東京生れ。
一時東京帝国大学哲学科に学ぶ。京都帝国大学卒業。
1918(大正 7)西園寺公望(キンモチ)の随員としてベルサイユ講和
会議に出席。1933(昭和 8)貴族院議長。
1937(昭和12)第1次組閣、日中戦争の拡大・長期化を防ぎ得
ず、1938. 1.16(昭和13)近衛声明で和平交渉を打ち切る。汪兆
銘(オウ・チョウメイ)の重慶脱出を機に退陣。
1940(昭和15)第2次組閣、大政翼賛会を創立、日独伊三国同
盟を締結、翌年日ソ中立条約を調印。対ソ宣戦を主張する松岡
洋右外相と対立して総辞職。
1941(昭和16)第3次組閣、衝突回避の日米交渉に失敗し退陣。
太平洋戦争敗戦後、東久邇内閣の国務相として憲法改正案の
起草にあたったが、戦犯容疑者の指定を受け、拘引の直前に服
毒自殺。
◎「あやまろ」とも呼ぶ。
◎第1次組閣、1937. 6. 4(昭和12)〜1939. 1. 5(昭和14)。
拓務大臣:大谷尊由(ソンユウ)
第2次組閣、1940. 7.22(昭和15)〜1941. 7.18(昭和16)。
外務大臣:松岡洋右
第3次組閣、1941. 7.18(昭和16)〜1941.10.18(昭和16)。
外務大臣:豊田貞次郎
こばやかわ たかかげ《こばやかは たかかげ》
小早川 隆景
1533(天文 2)
1597(慶長 2. 6.12)
◇戦国・安土桃山時代の武将。幼名は徳寿丸、通称は又四郎・
左衛門佐・中原中納言。安芸国吉田生れ。毛利元就の第3子、
隆元・吉川元春の弟、羽柴秀俊(小早川秀秋)の義父。
1591(天正19)羽柴秀俊(小早川秀秋)を養嗣子とする。
こばやかわ ひであき《こばやかは ひであき》
小早川 秀秋
1582(天正10)
1602(慶長 7.10.18)
◇安土桃山時代の武将。幼名は辰之助、初名は羽柴秀俊、通称
は金吾中納言。豊臣秀吉の正室弥(ネネ)(高台院)の兄木下家定の
第5子、小早川隆景(タカカゲ)の養子。
幼少から弥(高台院<コウダイイン>)に養育され秀吉の養子となる
が、1591(天正19)小早川隆景の養子となる。
20歳で早逝し嗣子がなく所領を没収され断絶。
こばやし いちぞう《こばやし いちざう》
小林 一三
1873(明治 6)
1957. 1.25(昭和32)
◇実業家。山梨県生れ。
慶応義塾大学卒業。
箕面有馬電軌(京阪神急行電鉄の前身)・宝塚少女歌劇・東宝
映画・阪急百貨店・1939(昭和14)日本軽金属を創立。阪急電鉄
・東京電燈会社、東宝社長などを歴任し、関西財界の雄となる。
第二次近衛内閣商工相。
こばやし いっさ
小林 一茶
1763(宝暦13)
1827(文政10.11.19)
◇江戸後期の俳諧師。幼名は弥太郎(ヤタロウ)、名は信之(ノブユキ)、
号は俳諧寺(ハイカイジ)一茶・蘇生坊など。弟は仙六(センロク)。信濃
国柏原(カシワバラ)生れ。
3歳で生母に死別。15歳で江戸に出る。20代前半に俳諧の道
にいそしみ葛飾派の二六庵竹阿(ニロクアン・チクア)に学ぶ。28歳前後
に才能が認められ、夏目成美の庇護を受けて次第に師匠格とな
る。
39歳の時にたまたま帰郷して父の死に遭う。弟と財産分与の
話にこじれ、全国各地に俳諧行脚の生活を送る。
50歳で郷里柏原に帰り、52歳で妻菊(キク)を迎える。しかし、
3男1女の早世(ソウセイ)・妻の死、再婚した雪(ユキ)と離別、病気、
大火の類焼など災厄に見舞われ逆境のうちに没。
著作『おらが春』・『父の終焉日記』・『七番日記』・『我
春集』など。
◎俗言・方言を取り入れ、不遇な境遇から弱者への思いやりの
ある俳風を樹立。
◎妻の菊を迎えた時の句、「五十聟(ムコ)天窓(アタマ)をかくす扇(オ
ウギ)かな」。
◆一茶忌[11.19]長野県信濃町柏原の菩提寺の明専寺で法要が
行われる。
◆一茶まつり[11.23]東京都足立区六月町の炎天寺で句会や茶
会がある。
こばやし かつ
小林 哥津
1894.11.20(明治27)
1974. 6.25(昭和49)
◇随筆家・小説家。小林清親(キヨチカ)の五女。
こばやし かつひこ
小林 勝彦
1937. 1.15(昭和12)
2005. 5. 6(平成17)
◇俳優。本名は陽一(ヨウイチ)。
1965(昭和40)大映を退社。
肝細胞ガンで死去。
こばやし きよちか
小林 清親
1847(弘化 4. 8. 1)
1915.11.28(大正 4)
◇錦絵画家。小林哥津(カツ)の父。江戸本所生れ。
横浜の英人画家ワーグマンに洋画を学ぶ。下岡蓮杖に写真、
柴田是真・河鍋暁斎に日本画を学ぶ。
「光線画」(東京の風景画)と呼ばれる錦絵で有名。
1882(明治15)団団珍聞に入社。
◎「明治の広重」と呼ばれた。
こばやし けんがい
小林 見外
1807(文化 4)
1873. 2.20(明治 6)
◇俳人。通称は甚蔵・円蔵、別号は菊守園・人間世廬・東雲庵
・重陽堂。
(9)生年は異説1805(文化 2)逆算、没日は異説 2.27。
こばやし こけい
小林 古径
1883. 2.11(明治16)
1957. 4. 3(昭和32)
◇日本画家。本名は茂。新潟市生れ。
上京して梶田半古(ハンコ)に学ぶ。同門の前田青邨(セイソン)・奥
村土牛(トギュウ)らと大和絵を研究。今村紫紅(シコウ)・安田靫彦(ユ
キヒコ)らの紅児会会員となる。
1922(大正11)日本美術院の留学生として渡欧。文展審査員・
帝室技芸員・1944〜1951(昭和19〜昭和26)東京美術学校教授。
1950(昭和25)文化勲章を受賞。
新古典主義で、代表作は『竹取物語』・『鶴と七面鳥』・
『いでゆ』・『髪』・『阿弥陀堂』・『清姫』など。
こばやし しゅうげつ
小林 蹴月
1870(明治 2.12.28)
1944(昭和19)頃
◇小説家・劇作家。本名は芳三郎。長野県生れ。妻は岡本綺堂
(キドウ)の従姉妹。
(5)生年は1870(明治 2.12.)。
(11)生年は1868(明治元)?。
こばやし しょうきち
小林 鍾吉
1877. 3.14(明治10)
1946. 5.18(昭和21)
◇画家。
こばやし そうきち
小林 宗吉
1895. 8. 1(明治28)
1951. 7.26(昭和26)
◇劇作家。
こばやし たきじ
小林 多喜二
1903.10.13(明治36)
1933. 2.20(昭和 8)
◇プロレタリア小説家。別名は郷利基・堀英之助・伊東継。秋
田県北秋田郡下川沿村(大館市)の農家に生れる。
1921(大正10)小樽高等商業に入学、1924(大正13)卒業し、北
海道択殖銀行の小樽支店に勤務。
1931(昭和 6)共産党に入党。
1933. 2.20(昭和 8)街頭連絡に出て赤坂で警視庁スパイの手
で検挙、築地署で殺意ある特高(中川・山口・須田)の拷問でそ
の日の内に虐殺。労農葬は参加者の逮捕でつぶされる。
代表作は『蟹工船<カニコウセン>』・『工場細胞』など。
戸籍上の誕生日は12. 1。
(3)別名は郷利基。
(5)別名は郷里基(ゴリキイ)。
(11)別名は郷里基<ゴリキイ>。
(13)誕生日は 8.26。
◆多喜二忌[ 2.20]。
◆多喜二百合子祭[ 2.20]。
こばやし ただし
小林 正
1911. 8.21(明治44)
1975. 3.30(昭和50)
◇フランス文学者。
こばやし たつお
小林 龍雄
1898. 3.27(明治31)
1976. 1.17(昭和51)
◇フランス文学者。
こばやし ちとせ
小林 千登勢
1937. 2.13(昭和12)
2003.11.26(平成15)
◇女優。本名は山本千登勢。朝鮮京城(ソウル)生れ。
文学座研究生となる。
1959(昭和34)NHK専属タレント。
1965(昭和40)俳優の山本耕一と結婚。
◎馬淵晴子・冨士真奈美とともに「NHK3人娘」の一人。
こばやし とくさぶろう
小林 徳三郎
1884. 1. 8(明治17)
1949. 4.19(昭和24)
◇画家。
こばやし とらさぶろう《こばやし とらさぶらう》
小林 虎三郎
1828(文政11. 8.18)
1877(明治10)
◇明治維新期の長岡藩大参事。
幼いころ疱瘡(ホウソウ)(天然痘)で左目の視力を失う。
1850(嘉永 3)藩命で江戸に遊学。
佐久間象山(サクマ・ショウザン)に学び、長州藩の吉田寅次郎(松蔭)
とともに「二虎」と呼ばれた。
1869(明治 2)長岡城下四郎丸村の昌福寺に国漢学校を開設。
1870(明治 3)支藩三根山藩から贈られた米百俵を売却し、国
漢学校の校舎を新築して書籍や用具を購入。
著書は1859(安政 6)『興学私議』。
◆墓は新潟県長岡市千手2−3−43の興国寺。
◎山本有三(ユウゾウ)の戯曲『米百俵』の主人公。
こばやし ひでお
小林 秀雄
1902. 4.11(明治35)
1983. 3. 1(昭和58)
◇文芸評論家。東京芝区白金今里町七七番地生れ。白金小学校
を経て、1915(大正 4)府立第一中学校入学、1921(大正10)第一
高等学校文科丙類入学、1925. 4.(大正14)東京帝国大学仏文科
入学、1927(昭和 2)卒業。
高見沢富士子(漫画家田河水泡の妻)の兄。
(5)誕生日は 4.11。
(13)誕生日は 1. 1。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
こばやし ひでつね
小林 秀恒
1908. 4.17(明治41)
1942. 9.10(昭和17)
◇挿絵画家。筆名は清水望陽。
山川秀峰・池田秀畝に師事。
岩田専太郎・志村立美(タツミ)とともに挿絵界の三羽烏と呼ば
れた。
こばやし まさはる
小林 政治
1877. 7.27(明治10)
1956. 9.16(昭和31)
◇実業家・小説家。号は天眠。与謝野夫妻の後援者。
こばやし まさる
小林 勝
1927.11. 7(昭和 2)
1971. 3.25(昭和46)
◇小説家・劇作家。本籍は長野県。陸軍航空士官学校在学中に
終戦を迎える。早稲田大学露文科中退。
父が宣教師をしていた関係で、少年期を朝鮮・中国東北部で
過ごした体験から、日本人の深層に潜む差別意識を描いた作品
が多い。
(*)同姓同名のシナリオ作家がいる。
こばやし みよこ
小林 美代子
1917. 3.19(大正 6)
1973. 8.18(昭和48)
◇小説家。睡眠薬自殺を遂げ、半月後に発見。
こばやし よしお
小林 愛雄
1881.12. 1(明治14)
1945.10. 1(昭和20)
◇訳詩家・詩人。
こばやし よしのぶ
小林 義信
1601(慶長 6)
1683(天和 3)
◇江戸初期の蘭学者・天文暦学者。初名は樋口謙貞、通称は
権右衛門。長崎の人。
こばやし よしはる
小林 好日
1886(明治19)
1948(昭和23)
◇国語学者。東京帝国大学国文科卒業。
こばやし わさく
小林 和作
1888. 8.14(明治21)
1974.11. 4(昭和49)
◇大正・昭和期の洋画家。号は霞村・燦樹。山口県生れ。京都
絵画専門学校日本画科卒業。1919(大正 8)ころから油絵に転向。
こびなた さだじろう
小日向 定次郎
1873.10. 4(明治 6)
1956. 2. 4(昭和31)
◇英文学者。号は是因。
ごふかくさ てんのう《ごふかくさ てんわう》
後深草 天皇
1243(寛元元. 6.10)
1304(嘉元 2. 7.16)
◇第89代天皇。名は久仁(ヒサヒト)、通称は常盤井殿・富小路殿。
後嵯峨天皇の皇子、母は大宮院(「女」偏+「吉」)子(西園寺実氏の
娘)。
1243年、親王。1246(寛元 4)四歳で即位。1259(正元元)後嵯
峨上皇の意により皇太弟恒仁親王(亀山天皇)に譲位。北条時宗
が後深草上皇の煕仁(ヒロヒト)親王を皇太子とし、1287(弘安10)即
位(伏見天皇)と同時に院政を始める。
即位、1246(寛元 4. 3.11)〜1259(正元元.11.26)。
院政、1287(弘安10.10.21)〜1298(永仁 6. 7.22)。
(2)後嵯峨天皇の第3皇子,……。
(4)後嵯峨天皇の第四皇子。
(16)後嵯峨天皇の第3皇子.
(*)1243(仁治 4,寛元元)。
ごふかくさいん べんのないし
後深草院 弁内侍
生年不詳
没年不詳
◇鎌倉時代の日記作者。藤原信実(ノブザネ)の娘。後深草院(第
89代天皇)に仕える。
ごふかくさいんのにじょう
後深草院 二条
1258(正嘉 2)
没年不詳
◇鎌倉後期の日記作者。中院(ナカノイン)大納言久我雅忠(マサタダ)の
娘。後深草院(第89代天皇)に仕えて二条と称した。三条と呼ば
れたこともある。
こぼり えんしゅう《こぼり ゑんしう》
小堀 遠州
1579(天正 7)
1647(正保 4)
◇江戸前期の茶人(遠州流茶道・華道の開祖)・造園家・武将。
名は政一(マサカズ)、通称は作助、号は宗甫・孤篷庵(コホウアン)。遠
江(トオトウミ)守に任ぜられ遠州と称する。近江(オウミ)国坂田郡小堀
村生れ。
茶道を古田織部(フルタ・オリベ)、歌道を冷泉為満に学ぶ。
豊臣氏および徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤仕。遠
州流を創め、徳川家光の茶道師範。江戸城・御所などの作事に
あたり、茶室・庭園を造る。遠州七窯を開き、中興名物の名で
呼ばれる茶道具を選定。
茶室の代表作に大徳寺孤篷庵・南禅寺金地院がある。
辞世の句は「昨日といひ今日とくらしてあすかがは(飛鳥川)
/流れてはやき月日なりけり」。
◎桂離宮の作者ともいう。
◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
こぼり じんじ
小堀 甚二
1901. 8.21(明治34)
1959.11.30(昭和34)
◇小説家・戯曲家・評論家。本名は清寿(キヨトシ)。福岡市生れ。
1927(昭和 2)平林たい子と結婚、1955(昭和30)離婚。
(1)誕生日は 8.21。
(3)誕生日は 8.21。
(5)誕生日は 8.28。
(9)誕生日は 8.21。
(11)誕生日は 8.28。
こぼり ともと
小堀 鞆音
1864. 2.19(元治元. 2.19)
1931.10. 1(昭和 6)
◇日本画家。本名は桂三郎、旧姓は須藤。普通「ともね」と呼ば
れる。栃木県生れ。
土佐派を研究し、川崎千虎に師事。
日本美術院の創立に参加。1902(明治35)同志と歴史風俗研究
会を結成。文展開設とともに審査員・東京美術学校教授・帝室
技芸員・帝国美術院会員。
歴史画ことに武者絵をよくし、大和絵の復興に尽くす。
代表作は『武士』・『宇治橋合戦』・『武者図』・『経政詣
竹生島』など。
こぼり ともね
小堀 鞆音
⇒こぼり ともと(小堀 鞆音)
こま きゅうい《こま きうい》
古満 休意
生年不祥
1663(寛文 3)
◇江戸初期の蒔絵師(マキエシ)・古満家の祖。
徳川家光の時に出仕。
研出(トギダシ)蒔絵にすぐれ、江戸城内紅葉山(モミジヤマ)の仏殿
に蒔絵を施し、1680(延宝 8)幸阿弥長房とともに家綱廟の蒔絵
に携わる。
代表作は『柴垣蔦蒔絵硯箱(スズリバコ)』など。
こま きゅうはく《こま きうはく》
古満 休伯(初代)
生年不祥
1715(正徳 5)
◇江戸前期の蒔絵師(マキエシ)・古満家の二代目。通称は久蔵。
幕府御用蒔絵師となる。黒漆の名手で、12代幸阿弥長救とと
もに蒔絵師頭取として、日光東照宮の蒔絵に従事。
◎古満家の三代目以降、休伯を名乗り幕末まで11代を数える。
こま こりゅう
古満 巨柳《こま こりう》
生年不祥
1793(寛政 5)
◇江戸中期の蒔絵師(マキエシ)。
五代休伯の門人で、古満の姓を許された名人。
こまい かずちか《こまゐ かずちか》
駒井 和愛
1905. 1.11(明治38)
1971.11.22(昭和46)
◇東洋考古学者。東京生れ。
早稲田大学文学部東洋史学科卒業。
1965(昭和40)東京大学教授を定年退官。
こまい てつお
駒井 哲郎
1920. 6.14(大正 9)
1976.11.20(昭和51)
◇版画家。
こまき おうみ
小牧 近江
1894. 5.11(明治27)
1978.10.29(昭和53)
◇フランス文学者・翻訳家・社会運動家。本名は近江谷(「炯」
の「火」を「馬」に換える)(オウミヤ・コマキ)。秋田県土崎港(ツチザキミナト)
(現:秋田市)生れ。1910(明治43)暁星中学校中退。衆議院議員
だった父に伴われて渡仏、パリ大学法科卒業。1919(大正 8)帰
国。1921. 2.(大正10)金子洋文・今野賢三らと第一次「種蒔く
人」を創刊。1939(昭和14)インドシナに赴き、敗戦までハノイ
で民族解放運動に協力した。
(5)本名近江谷(「炯」の「火」を「馬」に替える)(オウミヤ・コマキ)。
(11)本名近江谷駒(コマキ)。
こまき たけお《こまき たけを》
小牧 健夫
1882.11.29(明治15)
1960. 7.15(昭和35)
◇詩人・ドイツ文学者。号は暮潮(ボチョウ)、初号は楚水(一高時
代)。東京生れ。
東京帝国大学独文科卒業。
著書は『ゲーテ雑考』・『ドイツ浪曼派の人々』、論文1953
(昭和28)『ヘルダーリン研究』、自撰詩集1952(昭和27)『暮潮
詩抄』など。
◎吹田順助(スイタ・ジュンスケ)・成瀬清(ナルセ・キヨシ)(無極)とともにド
イツ文学研究の三羽烏(サンバガラス)と呼ばれた。
こまき ぼちょう《こまき ぼてう》
小牧 暮潮
⇒こまき たけお(小牧 健夫)
こまつ きよし
小松 清
1900. 6.13(明治33)
1962. 6. 5(昭和37)
◇評論家・フランス文学者。神戸市生れ。神戸高等商業中退。
太平洋戦争中、ベトナム独立運動に参加。
(1)生年は1900(明治33)。
(3)生年は1900(明治33)。
(5)生年は1901(明治34)。
(9)生年は1900(明治33)。
(11)生年は1901(明治34)。
こまつ こうすけ《こまつ かうすけ》
小松 耕輔
1884(明治17)
1966(昭和41)
◇作曲家。秋田県生れ。
東京音楽学校を卒業。
フランスに留学。
童話童謡雑誌「赤い鳥」に多くの童謡を発表。
合唱運動など音楽教育の分野でも貢献。
作品は歌劇『羽衣』、歌曲集『沙羅の木』、歌曲『泊り船』
など。
こまつ たてわき《こまつ たてはき》
小松 帯刀
1835(天保 6)
1870(明治 3)
◇江戸幕末の薩摩藩士。名は清廉、幼名は尚五郎。
薩摩国喜入の領主肝付主殿兼善の子、同国吉利小松清猷の養子。
島津忠久の側役として藩政に参与。1862(文久 2)藩家老。の
ち京都にあって公卿岩倉具視らと大久保利通・西郷隆盛らを周
旋、大政奉還に尽力。
こまつ ほうせい《こまつ はうせい》
小松 方正
1926.11. 4(大正15)
2003. 7.11(平成15)
◇俳優。本名は豊成(トヨシゲ)。長野県松本市生れ。
南満州鉄道から、終戦直前に海軍に入隊。
大蔵省勤務に勤務。
1952(昭和27)中央大学卒業。
新演劇研究所に入所し、1959(昭和34)新東宝で映画デビュー。
個性的な渋い脇役や悪役などで映画・テレビ・舞台に活躍。
こまつのみや あきひとしんのう《こまつのみや あきひとしんわう》
小松宮 彰仁親王
⇒あきひと しんのう(彰仁 親王)
こまつばら えいたろう
小松原 英太郎
1852(嘉永 5)
1919(大正 8)
◇明治・大正期の官僚・政治家。岡山藩士小松原荘二の長男。
慶応義塾中退。
1880(明治13)外務省に出仕。1908(明治41)第2次桂太郎内閣
の文部兼農商務大臣(文部次官は岡田良平)。
ごみ こうすけ
五味 康祐
1921.12.20(大正10)
1980. 4. 1(昭和55)
◇昭和後半の小説家。本名は康祐(ヤススケ)、通称は康祐(コウスケ)。
大阪難波生れ。早稲田大学英文科中退。
1953(昭和28)短編小説『喪神』で芥川賞を受賞。剣豪小説
『柳生武芸帳』が有名。
(1)生年は1921.12.20(大正11)(?)。
(3)生年は1921. 2.20(大正10)。
(5)生年は1921.12.20(大正10)。
(9)生年は1921.12.20(大正10)。
(11)生年は1921.12.20(大正10)。
(11)生年は1921(大正10)。
ごみ やすすけ
五味 康祐
⇒ごみ こうすけ(五味 康祐)
ごみ やすよし
五味 保義
1901. 8.31(明治34)
1982. 5.27(昭和57)
◇歌人。長野県生れ。京都大学国文科卒業。
ごみずのお てんのう《ごみづのを てんわう》
後水尾 天皇
1596
1680(延宝 8. 8.19)
◇江戸前期の第108代天皇。名は政仁(コトヒト)、幼名は三宮、俳
名は玉露。後陽成天皇の第3皇子、母は近衛前久の娘中和門院
藤原前子。院政は明正・後光明・後西・霊元の4代の51年間に
及ぶ。
1600(慶長 5)親王宣下。1610(慶長15)元服。1611(慶長16. 4.
12)後陽成天皇の後を受けて即位。1620(元和 6)将軍徳川秀忠
の娘和子を女御とする。1624年、和子皇后宣下して中宮になる。
「禁中並公家諸法度(ショハット)」や皇后冊立・紫衣事件(シエジケン)な
ど徳川氏にたいする不満から、1629(寛永 6.11. 8)中宮和子と
の興子(オキコ)内親王(明正天皇,女帝)に譲位、院政を行う。
徳川家光は上皇のために京都修学院離宮に別荘を造営。
在位、1611〜1629(慶長16. 4.12〜寛永 6.11. 8)。
院政、1629〜1680(寛永 6.11. 8〜延宝 8. 8.19)。
(*)1596(文禄 5,慶長元)、1624(元和10,寛永元)。
こみや とよたか
小宮 豊隆(小宮 豐隆)
1884. 3. 7(明治17)
1966. 5. 3(昭和41)
◇評論家・ドイツ文学者。福岡県京都(ミヤコ)郡犀川(サイカワ)村生
れ。豊津中学校・第一高等学校を経て、1908(明治41)東京大学
独文科卒業。
こみやま あきとし
小宮山 明敏
1902. 1.25(明治35)
1931. 9.30(昭和 6)
◇昭和初期の文芸評論家・ロシア文学翻訳家。岡山県生れ。
1926(大正15)早稲田大学露文科卒業。
妹庚(カノエ)は村田春海(ハルミ)の妻。 ????
(5)誕生日は 1.15。
(9)誕生日は 2.10。
(11)誕生日は 1.25。
こみやま てんこう
小宮山 天香
1855(安政 2. 4.11)
1930. 3.20(昭和 5)
◇新聞記者・翻訳家・小説家。本名は昌(「謠」-「言」を偏,「系」
を旁)(マサヨシ)または昌由・桂介、幼名は磯五郎、別名は菊五郎、
号は即真居士・醒々居士・天香逸史・天香外史・天香・天放・
池翠閑人・三放・素園・間来子・桂花散人・天下皆秋楼主人。
常陸国(水戸市外)磯浜生れ。「東京朝日新聞」の初代主筆。
(5)誕生日は 4.11。
(13)誕生日は 4.21。
こむら じゅたろう《こむら じゆたらう》
小村 寿太郎
1855(安政 2. 9.16)
1911.11.26(明治44)
◇明治時代の外交官。日向(ヒュウガ)(現:宮崎)飫肥(オビ)藩出身。
大学南校に学び、1874(明治 7)ハーバード大学に留学し法律
学を学ぶ。
1880(明治13)帰国し、東京裁判所・大審院判事などを歴任。
1884(明治17)外務省に転じて、外務大臣陸奥宗光に見いだされ、
1893(明治26)公使館一等書記官として北京に赴任。駐清臨時代
理公使として日清戦争開戦当時の難局に当たり、朝鮮をめぐる
中国との紛争では一貫して強硬路線を主張。1895(明治28)三国
干渉後は駐朝弁理公使として閔妃暗殺事件を処理。
1896(明治29)陸奥の死後は外務大臣西園寺公望の外務次官と
なり、第2次松方・第3次伊藤・第1次大隈内閣を通じ外交の
実権を掌握。
1901(明治34)第1次桂内閣の外務大臣となり、満州支配の実
現を目指して軍備拡張・京釜鉄道と京義鉄道の完成など帝国主
義膨張外交を主張し、対ロシア戦の準備として1902(明治35)日
英同盟を締結し、ロシアとの対立が深まる。
日露戦争後、1905. 9.(明治38)全権委員としてポーツマス講
和条約に調印。1908(明治41)第2次桂内閣の外務大臣になり、
条約改正(関税自主権の回復)・日露協約締結・韓国併合などで
活躍。
侯爵。
◎終始、積極的に大陸政策を推進した。
こむら せったい《こむら せつたい》
小村 雪岱
1887. 3.22(明治20)
1940.10.17(昭和15)
◇日本画家。本名は安並泰輔。埼玉県川越生れ。書家安並家の
養子。
荒木寛畝画塾から東京美術学校日本画科に進み、下村観山に
学ぶ。卒業後、松岡映丘に師事し、古画の模写に従事。
のち新聞・雑誌の挿し絵を描き、風俗考証には定評があった。
また舞台装置家としても活躍。
国画院同人。
(9)本名は泰助。
(20)本名安並泰輔。
ごむらかみ てんのう
後村上 天皇
1328(嘉暦 3)
1368(<南>正平23,<北>応安元. 3.11)
◇第97代天皇(南朝)。諱は義良(ノリナガ)。後醍醐天皇の皇子。
即位:1339(<南>延元 4,<北>暦応 2.10. 5)、退位(死亡):
1368(<南>正平23,<北>応安元. 3.11)。
こむろ あんがいどう
小室 案外堂
1852(嘉永 5. 7.21)
1885. 8.25(明治18)
◇新聞記者・政治小説家。本名は信介(シンスケ)、旧姓は小笠原(オ
ガサワラ)、通称は長道、1875(明治 8)小室信夫に養子縁組み後は
信介、別号は大江山人・案外坊。丹後国宮津藩士の次男に生れ
る。
「日本立憲政党新聞」の社長。
著書『東洋民権百家伝』。
◎1882. 4.(明治15)板垣退助が奇禍(キカ)に会うや「板垣死スト
モ自由ハ亡ビズ」と題して岐阜で演説、これが板垣のことばと
して誤り伝えられた。
こむろ くつざん
小室 屈山
1858(安政 5)
1908. 6.13(明治41)
◇詩人・新聞記者・政治家。本名は弘。
(9)本名は弘あるいは重弘。
こむろ しんすけ
小室 信介
⇒こむろ あんがいどう(小室 案外堂)
こむろ すいうん
小室 翠雲
1874(明治 7)
1945(昭和20)
◇日本画家。名は貞次郎。群馬県出身。
日本南画院を創立。
こもり かずこ
小森 和子
1909.11.11(明治42)
2005. 1. 8(平成17)
◇映画評論家。東京生れ。
東京府立第三高等女学校(現:駒場高等学校)、卒業。
こもり とうう《こもり たうう》
小森 桃塢
1782(天明 2. 4. 3)
1843(天保14. 3.23)
◇江戸後期の蘭方医。名は吉啓・義啓のち任、字は玄良、号は
桃塢・鷯。美濃の大橋政右衛門正成の子。
同郷の医者小森仲元の嗣子となる。
こや よしお
古屋 芳雄
1890. 8.27(明治23)
1974. 2.22(昭和49)
◇小説家・劇作家・公衆衛生学者。
こやす たかし
子安 峻
1836(天保 7. 1. 2)
1898. 1.15(明治31)
◇明治時代の新聞記者・読売新聞初代社長。幼名は鉄五郎。
大村益次郎に蘭学を、佐久間象山に砲術を学ぶ。
1870(明治 3)「横浜毎日新聞」の創刊に関与。同年、出版社の
日就社を創業して字典『英和字彙』を発行。
1874(明治 7)本野盛亨らと「読売新聞」を東京で創刊。
1893(明治26)「いさみ新聞」を創刊するが失敗。
こやま かつきよ
小山 勝清
1896. 3.29(明治29)
1965.11.26(昭和40)
◇小説家。
こやま きよし
小山 清
1911.10. 4(明治44)
1965. 3. 6(昭和40)
◇小説家。東京生れ。明治学院中等部卒業。1940(昭和15)太宰
治(ダザイ・オサム)に師事。1958(昭和33)失語症になる。心臓病で
死去。
こやま けいいち
児山 敬一
1902. 3. 1(明治35)
1972. 4.22(昭和47)
◇歌人。静岡県生れ。東京大学哲学科卒業。
こやま しょうたろう《こやま しやうたらう》
小山 正太郎
1857(安政 4. 1.21)
1916. 1. 7(大正 5)
◇洋画家。越後(現:新潟県)長岡生れ。
こやま しんいち
児山 信一
1900. 7. 2(明治33)
1931. 9.30(昭和 6)
◇国文学者・詩人。
こやま ていほ
小山 鼎浦
1879.11.24(明治12)
1919. 8.25(大正 8)
◇詩人・評論家・社会学者・宗教家・政治家。本名は東助。
こやま ゆうし
小山 祐士
1906. 3.29(明治39)
1982. 6.10(昭和57)
◇劇作家。広島県福山生れ。慶応義塾大学法科卒業。
こやま ろくのすけ
小山 六之助
1869(明治 2. 3.10)
1947. 8. 4(昭和22)
◇テロリスト。1895. 3.24(明治28)下関で清国全権大使李鴻章
を狙撃。無期徒刑囚として網走刑務所に送られたが、1907
(明治40)恩赦で仮出獄。
ごれいぜい てんのう
後冷泉 天皇
1025(万寿 2)
1068(治暦 4)
◇第70代の天皇。名は親仁(チカヒト)。後朱雀天皇の第1皇子。
1045(寛徳 2)即位、在位23年。
これはるのきみ あざまろ
伊治公 砦麻呂
生年不詳
没年不詳
◇奈良末期の武将・蝦夷(エミシ)の族長。「いじのきみ(伊治公)」
とも。
夷俘(イシュウ)より出て陸奥上治郡の大領(ダイリョウ)となる。
牡鹿郡(オシカグン)の大領道島大楯(ミチシマノオオタテ)に侮られたため、
780(宝亀11. 3.)伊治公砦麻呂の乱を起こし、伊治城(現:宮城
県築館町<ツキダテマチ>)で大楯と按察使(アゼチ)紀広純(キノヒロズミ)を
殺害。南下して多賀城(タガジョウ)に侵入して放火・略奪。
ころむびあ とっぷ
コロムビア・トップ
⇒ころんびあ とっぷ(コロムビア・トップ)
ころんびあ とっぷ
コロムビア・トップ
1922. 5. 6(大正11)
2004. 6. 7(平成16)
◇漫才師・政治家。本名は下村泰(シモムラ・ユタカ)。東京浅草(現:台
東区)生れ。
太平洋戦争に従軍中、戦地で戦友の池田喜作と漫才コンビ
「青空トップ・ライト」を結成。
1946(昭和21)復員後、芸能界にデビュー。
1950(昭和25)池田の死去により2代目ライト(鳥屋二郎)とコ
ンビを組む。
1952(昭和27)コロムビアレコードの専属になって「コロムビ
ア・トップライト」と改名。
1974(昭和49)参議院選挙に初当選。
1975(昭和50)二院クラブに所属、トップライトのコンビを解
消。
1980(昭和55)参議院選挙で落選するが、1983.12.(昭和58)参
議院議員の野坂昭如の衆議院出馬により繰り上げ当選。
1989(平成元)参議院選挙に当選。
1997(平成 9)胃ガン手術を受ける。
1998. 7.(平成10)政界を引退。
こん かんいち
今 官一
1909.12. 8(明治42)
1983. 3. 1(昭和58)
◇小説家。青森県弘前市生れ。早稲田大学高等学院を経て露文
科に学ぶ。1944(昭和19)応召、レイテ沖海戦に参加。
こん とうこう
今 東光
1898. 3.26(明治31)
1977. 9.19(昭和52)
◇小説家。法名は春聴。横浜市伊勢佐木町生れ。父は日本郵船
船長。1930(昭和 5)得度(天台宗延暦寺派)。
今日出海(コン・ヒデミ)の長兄。
こん ひでみ
今 日出海
1903.11. 6(明治36)
1984. 7.30(昭和59)
◇評論家・小説家・演出家。北海道生れ。父は日本郵船船長。
1928(昭和 3)東京大学仏文科卒業。1941(昭和16)徴用されて陸
軍報道班員としてフィリピンに従軍。1968(昭和43)文化庁初代
長官。
今東光(コン・トウコウ)の弟。
(1)誕生日は 1. 6。
(3)誕生日は11. 6。
(5)誕生日は11. 6。
(9)誕生日は11. 6。
(11)誕生日は11. 6。
(13)誕生日は11. 6。
こん ゆみのしん
紺 弓之進
1900.10.27(明治33)
1929. 3.16(昭和 4)
◇小説家。本名は近藤正夫。
こん わじろう
今 和次郎
1894. 7.10(明治27)
1973.10.27(昭和48)
◇評論家。
こんこう だいじん
金光 大神
⇒あかざわ ぶんじ(赤沢 文治)
ごんだ なおすけ《ごんだ なほすけ》
権田 直助
1809(文化 6)
1887. 6. 8(明治20)
◇江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家。号は名越舎(ナ
ゴシノヤ)。武蔵国入間郡(埼玉県)生れ。医者権田直教(ナオノリ)の子。
19歳で江戸に出て、幕府医官野間広春院に医学を、安積艮斎
(アサカ・ゴンサイ)に儒学を学び、帰郷して医者を開業。
1837(天保 8)平田篤胤に入門、神道を基礎とした皇朝医学を
唱える。
1862(文久 2)上京して尊皇討幕に奔走。1867(慶応 3)西郷隆
盛の意を受けて相良総三らとともに薩摩藩邸焼き打ちに関与。
1869(明治 2)刑法官監察使・大学中博士・医道御用掛。1871
(明治 4. 3.)国事犯嫌疑により矢野玄道(ハルミチ)・角田忠行(タダ
ユキ)・丸山作楽(サクラ)らとともに捕縛され、権田は金沢藩邸に監
禁。
1873(明治 6)相模国大山阿夫利神社祠官。1882(明治15)皇典
講究所教授。
こんちいん すうでん《こんちゐん すうでん》
金地院 崇伝
⇒すうでん(崇伝)
こんどう いさみ
近藤 勇
1834(天保 5)
1868(慶応 4. 4.25)
◇新撰組局長。名は昌宣(マサヨシ)、幼名は勝五郎。武蔵国多摩郡
上石原村(天領,現:調府市)の農家に宮川久次(郎)の三男として
生れる。
1848年、牛込柳町の町道場試衛館の、天然理心流三代目宗家
近藤周助に
剣術を学ぶ。翌年、素質を見込まれて近藤周助の生家、島崎家
の養子となり島崎勝太と改名。1861年、天然理心流宗家を継ぎ、
近藤勇と改名。
1863(文久 3)将軍上洛に際し、列外警衛として浪士隊に参加。
尊攘派につながりを持ち始めた清川八郎らが幕命で江戸に呼び
戻され、同年3月京都守護職の下に新撰組が組織され芹沢鴨(セ
リザワ・カモ)が局長となる。組内の勢力争いを起し、同年9月16日
就寝中の芹沢を謀殺(粛清)して局長となる。
1864(元治元. 6. 5)池田屋襲撃、翌月禁門の変(蛤御門の戦)
で長州を撃退。1867(慶応 3. 6.)見廻組頭取を兼任、旗本に列
せられる。1868(慶応 4. 1.)鳥羽・伏見の戦で先鋒をつとめ、
敗退。
江戸に帰ると幕府から若年寄格に列せられる。甲陽鎮撫隊を
結成して官軍(新政府軍)と甲斐国勝沼で戦って敗れる。上野の
彰義隊と呼応して下総(シモウサ)流山に陣を張るが西軍に包囲され
偽名(大久保大和)で降伏し、見破られて武蔵板橋の馬捨て場で
岡田藩の横倉喜三次により斬首されて晒首。
(*)1848(弘化 5,嘉永元),1861(万延 2,文久元)。
◎勇の首は板橋で晒された後、火酒に漬けられて京都三条河原
で再び晒され、その後は不明。一説に、新撰組の縁故者に奪取
され愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬。
◆墓は東京都三鷹市大沢六丁目の龍源寺。
1876(明治 9)造立の新撰組隊士供養塔(碑銘は近藤勇宣昌<逆
になっている>・土方歳三義豊之墓)は東京都北区滝野川の寿徳
寺の飛び地(板橋駅前)にある。
こんどう えいいち
近藤 栄一
1896. 3. 5(明治29)
1956. 1. 4(昭和31)
◇詩人。
こんどう えいぞう
近藤 栄蔵
1883. 2. 5(明治16)
1965. 7. 3(昭和40)
◇社会運動家。
こんどう えきお
近藤 益雄
1907. 3.19(明治40)
1964. 5.17(昭和39)
◇童謡詩人・教育者。
こんどう げん
近藤 元
1890.11. 7(明治23)
没年不詳
◇歌人。本名は元治郎。
こんどう けんじ
近藤 憲二
1895. 2.22(明治28)
1969. 8. 6(昭和44)
◇大正・昭和期の無政府主義者。堺利彦(サカイ・トシヒコ)の娘真柄(マ
ガラ)の夫。
1920(大正 9)日本社会主義同盟に無政府主義者として入り、
1925(大正14)黒色青年連盟を結成するが間もなく脱退。
1938(昭和13)堺真柄と結婚。
1946(昭和21)石川三四郎らと日本アナキスト連盟を結成。
こんどう こういちろ
近藤 浩一路
1884. 3.20(明治17)
1962. 4.27(昭和37)
◇画家。本名は浩。
こんどう さくふう
近藤 朔風
1880(明治13)
1915. 1.15(大正 4)
◇詩人。本名は逸五郎。東京外語で独英伊語を学び、のち東京
音楽学校選科で声楽を研究。
こんどう じゅうぞう
近藤 重蔵
1771(明和 8)
1829(文政12. 6.14)
◇江戸後期の旗本・北地探検家。名は守重、通称は重蔵、号は
正斎・昇天道人。町与力近藤右膳守智の次男。江戸駒込生れ。
山本北山に儒学を学ぶ。
1790(寛政 2)家を継いで先手与力。1794(寛政 6)学問吟味。
1795(寛政 7)長崎奉行手付出役。1797(寛政 9)江戸に帰り、支
配勘定方・関東郡代付出役と栄進。
1798(寛政10)松前蝦夷地御用、4度蝦夷地に渡り、択捉(エトロ
フ)・国後(クナシリ)方面を探検。択捉ではロシア側が建てた標柱に
かえて「大日本恵土呂府」の標柱を建てる。松前奉行設置に尽力。
譴責にあい1803(享和 3)小普請方。1807(文化 4)ロシア人の北
辺侵入に際し再び松前蝦夷地御用となり、5度目の蝦夷入りを
し宗谷に至り利尻島を探検。
1808(文化 5)紅葉山文庫の書物奉行。1819(文政 2)執政沼津
侯と合わず、大坂勤番の弓矢奉行に左遷させられ、大塩平八郎
と交わる。1821(文政 4)小普請入差控を命ぜられ、江戸滝ノ川
村に閑居。
晩年、子の富蔵の殺傷事件に連座、1826(文政 9)改易となり
近江大溝藩預かりとなりその地で病没。
(2)'98松前蝦夷地御用となり……。
(15)99年蝦夷地取締御用となり…….
(16)1798(寛政10)年松前蝦夷地御用を命ぜられ…….
ごんどう しんじ
権藤 震二
1871(明治 4.12. 3)
1920. 1.21(大正 9)
◇ジャーナリスト。権藤成卿の弟。
東京日々新聞・二六新報などの新聞記者。
日本電報通信社を設立。
ごんどう せいきょう
権藤 成卿
1868
1937(昭和12)
◇農本主義者。福岡県三井群山川村(現:久留米市)生れ。父は
権藤直、権藤震二の兄。
1934(昭和 9)「制度学雑誌」を創刊。
(*)1868(慶応 4,明治元)。
こんどう ただよし
近藤 忠義
1901.11.10(明治34)
1976. 4.30(昭和51)
◇国文学者。
こんどう ひでぞう
近藤 日出造
1908. 2.15(明治41)
1979. 3.23(昭和54)
◇漫画家。
こんどう まがら
近藤 真柄
1903. 1.30(明治36)
1983. 3.18(昭和58)
◇昭和期の婦人運動家。堺利彦(サカイ・トシヒコ)の娘、近藤憲二(ケンジ)
の妻。
1921(大正10)山川菊栄らの社会主義婦人団体「赤瀾会」の結成
に参画。同年11月軍隊赤化事件で検挙。1925(大正14)政治研究
会に参加。
1938(昭和13)近藤憲二と結婚。
太平洋戦争後、日本婦人有権者同盟に加わり、1971(昭和46)
同会長。
こんどう もりしげ
近藤 守重
⇒こんどう じゅうぞう(近藤 重蔵)
こんの だいりき
今野 大力
1904. 2. 5(明治37)
1935. 6.19(昭和10)
◇詩人。号は紫藻。
こんぱる ぜんちく
金春 禅竹
1405(応永12)
没年不詳
◇室町前期の能役者・能作者。本名は氏信(ウジノブ)、法名は
禅竹、晩年は竹翁・賢翁。1468(応仁 2)秋〜1471(文明 3)夏の
間に没。世阿弥(ゼアミ)の娘婿。
ごんもり そういち
権守 操一
1908.11. 2(明治41)
1972. 6.20(昭和47)
◇フランス文学者。
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