フレーム版に戻る ノンフレーム版に戻る ホームページに戻る

                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6181.03

                 人   名   辞   典    《こ》       編集:獨  澄旻

-------- こ ----------------------------------------------------
ごい らんしゅう
	五井 蘭洲
	1697(元禄10)
	1762(宝暦12. 3.17)
	◇江戸中期の儒学者(折衷学派)。
	 中井甃庵(シュウアン)の懐徳堂の助教となる。
こいかわ はるまち
	恋川 春町
	1744(延享元)
	1789(寛政元. 7. 7)
	◇江戸後期の黄表紙・洒落本作者。本名は倉橋格(カク)、狂名は
	酒上不埒(サケノウエノフラチ)。
こいけ けんじ
	小池 堅治
	1878. 4. 9(明治11)
	1969. 4.24(昭和44)
	◇ドイツ文学者。号は秋草。
こいけ たみこ
	小池 タミ子
	1928(昭和 3)
	2005.10.11(平成17)
	◇児童劇作家。本名は冨田タミ子(トミタ・タミコ)。東京生れ。
	 東京都教員養成所を卒業。
	 肺炎で死去。
	 作品は童話劇集『きつねはひとりでおにごっこ』など。
こいずみ うがい
	小泉 迂外
	1884. 5. 5(明治17)
	1950. 1. 1(昭和25)
	◇俳人。本名は清三郎。
こいずみ さんしん
	小泉 三申
	1872(明治 5.11. 3)
	1937. 7.28(昭和12)
	◇新聞記者・政治家。本名は策太郎。静岡県生れ。
	(5)1872(明治 5.11. 3)。
	(11)1873(明治 5):誤。
こいずみ しんぞう
	小泉 信三
	1888. 5. 4(明治21)
	1966. 5.11(昭和41)
	◇経済学者・教育家・随筆家。慶応義塾普通部を経て、1910
	(明治43)大学政治科卒業。1933〜1947(昭和 8〜昭和22)塾長。
	1949(昭和24)から皇太子の教育参与。
	 慶応義塾塾長小泉信吉の長男。
こいずみ ちかし
	古泉 千樫
	1886. 9.26(明治19)
	1927. 8.11(昭和 2)
	◇歌人。本名は幾太郎(イクタロウ)、号は沽哉(コサイ)・東村・幽哉・
	一掬・樫老人・三崎うしほ・蓑岡(ミノオカ)老人・蓑岡庵主人・
	椎南荘(スイナンソウ)主人。千葉県安房郡吉尾村生れ。
	(1)没日は 1. 8。
	(3)没日は 8.11。
	(5)没日は 8.11。
	(9)没日は 8.11。
	(11)没日は 8.11。
	(13)没日は 8.11。
こいずみ ちょうぞう
	小泉 長三
	1878. 2. 6(明治11)
	1941. 2.22(昭和16)
	◇小説家。
こいずみ とうぞう
	小泉 苳三
	1894. 4. 4(明治27)
	1957.11.27(昭和32)
	◇歌人・短歌研究家。本名は藤造。神奈川県横浜生れ。東洋大
	学卒業。
	(1)没年は1956(昭和31)。
	(3)没年は1957(昭和32)。
	(5)没年は1957(昭和32)。
	(9)没年は1956(昭和31)。
	(11)没年は1957(昭和32)。
	(13)没年は1956(昭和31)。
こいずみ まがね
	小泉 鉄
	1886.12.10(明治19)
	1954.12. 6(昭和29)
	◇小説家・翻訳家。福島県生れ。東京大学哲学科中退。大正末
	年より台湾原住民の研究を行う。
	(5)没日は12. 6。
	(9)没日は12.28。
	(11)没日は12. 6。
こいずみ やくも
	小泉 八雲
	1850. 6.27(嘉永 3)
	1904. 9.26(明治37)
	◇紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。本名は
	ラフカディオ・ハーン(ヘルン)(Lafcadio Hearn)。イギリス人、
	のち日本に帰化。父はギリシアのレフカダ島(名前の由来)駐在
	のイギリス軍医・母は地元のギリシア人で、ギリシア生れ。両
	親の離婚後、イギリスとフランスで教育を受けたのち、二〇歳
	のときアメリカに渡り新聞記者となる。1890. 4. 4(明治23)横
	浜に着く。八月、松江中の英語教師。十二月、小泉節子と結婚。
	1891.11.〜1894.10.(明治24〜明治27)熊本の五高英語教師。神
	戸の英字新聞に勤める。1896〜1903. 3.(明治29〜明治36)東京
	大学英文学講師。1904. 4.(明治37)からは早稲田大学講師。狭
	心症により東京・西大久保の自宅で没。
	 代表作は1901(明治34)『日本雑録』・1904(明治37)『怪談』
	など。
	◆八雲忌[ 9.26]。
こいそ くにあき
	小磯 国昭
	1880. 4. 1(明治13)
	1950.11. 3(昭和25)
	◇陸軍大将・政治家。宇都宮生れ。
	 1900(明治33)陸軍士官学校卒業。
	 1944. 7.(昭和19)東条英機内閣の退陣後、組閣。
	 1945. 4.(昭和20)総辞職。
	 第二次世界大戦後、A級戦犯として終身刑の判決を受け、巣
	鴨拘置所で病死。
	 著書は1963(昭和38)自伝『葛山鴻爪』。
	◎容貌から「朝鮮のトラ」と仇名(アダナ)された。
ごいちじょう てんのう《ごいちでう てんわう》
	後一条 天皇
	1008(寛弘 5)
	1036(長元 9)
	◇第68代の天皇。名は敦成(アツヒラ)。一条天皇の第2皇子、母は
	藤原彰子。
	 在位は1016(長和 5)〜1036(長元 9)。
こいづか りゅう
	肥塚 龍
	1851(嘉永 4)
	1920(大正 9)
	◇新聞記者・改進党系の民権活動家。播州出身。
	 「東京横浜毎日新聞」の記者となる。
こいで つばら
	小出 粲
	1833(天保 4. 8.28)
	1908. 4.15(明治41)
	◇歌人。号は梔園(シエン)、旧姓は松田。江戸八丁堀岩見藩邸に
	生れる。1877(明治10)宮内省文学御用掛、晩年は御歌所寄人(オ
	ウタドコロヨリュウド)。
	(5)生年は1833(天保 4)。
	(13)生年は1831(天保 2)。
こいで ならしげ
	小出 楢重
	1887.10.13(明治20)
	1931. 2.13(昭和 6)
	◇画家。
こうあみ そうせい《かうあみ そうせい》
	幸阿弥 宗正(4代)
	生年調査中
	没年調査中
	◇蒔絵師(マキエシ)。3代宗全の次男、5代宗伯の兄。
こうあみ そうぜん《かうあみ そうぜん》
	幸阿弥 宗全(3代)
	生年調査中
	没年調査中
	◇蒔絵師(マキエシ)。4代宗正・5代宗伯の父。
こうあみ そうはく《かうあみ そうはく》
	幸阿弥 宗伯(5代)
	1484(文明16)
	1557(弘治 3)
	◇蒔絵師(マキエシ)。3代宗全の次男、4代宗正の弟、6代長清の
	父。
	 作品は『桜山鵲蒔絵硯箱(スズリバコ)』(武藤家所蔵)が現存。
こうあみ ちょうあん《かうあみ ちやうあん》
	幸阿弥 長晏(7代)
	1589(天正17)
	1613(慶長18)
	◇蒔絵師(マキエシ)。通称は久次郎。6代長清の長男。
	 豊臣秀吉に仕える。のち徳川家康より扶持方十人分を給され、
	さらに秀忠より二百石を与えらる。
	 作品は京都高台寺霊屋の『厨子の蒔絵扉』に銘を残す。
	(?)生没年、1569〜1610。
こうあみ ちょうきゅう《かうあみ ちやうきう》
	幸阿弥 長救(12代)
	1661
	1725(享保10)
	◇蒔絵師(マキエシ)。
	 初代古満休伯(コマ・キュウハク)とともに日光東照宮の装飾に従事。
	(*)1661(万治 4,寛文元)。
こうあみ ちょうげん《かうあみ ちやうげん》
	幸阿弥 長玄
	1572(元亀 3)
	1607(慶長12)
	◇蒔絵師(マキエシ)。
	 古田織部の依頼で『織部棚』を制作。
こうあみ ちょうじゅう《かうあみ ちやうぢゆう》
	幸阿弥 長重(10代)
	1599(慶長 4)
	1651(慶安 4)
	◇蒔絵師(マキエシ)。7代長晏の3男。
	 狩野探幽の下絵を使い、徳川家光の長女千代姫の婚礼調度
	『初音蒔絵三棚』を制作。
こうあみ ちょうせい《かうあみ ちやうせい》
	幸阿弥 長清(6代)
	1529(享禄 2)
	1603(慶長 8)
	◇蒔絵師(マキエシ)。5代宗伯の長男、7代長晏の父。
	 足利義満に仕える。豊臣秀吉より蒔絵師として、天下一の朱
	印を拝領。
	 幸阿弥家の領地は大坂落城後没収。
	(?)生年は1506。
こうあみ ちょうぼう《かうあみ ちやうばう》
	幸阿弥 長房
	生年調査中
	没年調査中
	◇蒔絵師(マキエシ)。
	 1680(延宝 8)古満休意(コマ・キュウイ)とともに家綱廟の蒔絵に携
	わる。
こうあみ どうせい《かうあみ だうせい》
	幸阿弥 道清(2代)
	生年調査中
	没年調査中
	◇蒔絵師(マキエシ)。
	 自ら下絵を描き、後土御門天皇即位の調度を製作。
こうあみ みちなが《かうあみ みちなが》
	幸阿弥 道長(初代)
	1410(応永17)
	1478(文明10)
	◇室町後期の蒔絵師(マキエシ)。本名は土岐道長、通称は四郎左衛
	門、法号は幸阿弥。
	 8代将軍足利義政の近習となり、近江国栗本郡を所領。のち
	京都で蒔絵を習得、蒔絵師として幸阿弥家の祖となる。
	 入道して幸阿弥と称する。
	 能阿弥(真能)・相阿弥(真相)・土佐光信らを下絵に用いる。
	◎二代目以降、幸阿弥を氏とし、将軍家の御用蒔絵師を勤め、
	19代を数えた。
こうが さぶろう
	甲賀 三郎
	1893.10. 5(明治26)
	1945. 2.14(昭和20)
	◇小説家。本名は春田能為(ヨシタメ)。滋賀県生れ。東京大学工学
	部卒業。農商務省窒素研究所技師。1942(昭和17)日本文学報国
	会事務局総務部長、1944(昭和19)日本少国民文化協会事務局長。
	病没。
ごうかい
	豪海
	生年不詳
	1599(慶長 4)
	◇安土桃山時代の僧。
	 川越の喜多院(キタイン)無量寿寺の第27世住職。
	 1590年(天正18)天海(テンカイ)が師事。
	◎「天海」は指示をした後の改名。
ごうくら せんじん
	郷倉 千靭
	1892. 3. 3(明治25)
	1975.10.25(昭和50)
	◇画家。
こうけい
	康慶
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安末期・鎌倉初期の仏師。康助の子、運慶(ウンケイ)の父、湛
	慶(タンケイ)の祖父。
こうげんいん
	光源院
	⇒あしかが よしてる(足利 義輝)
こうこう てんのう《くわうかう てんわう》
	光孝 天皇
	 830(天長 7)
	 887(仁和 3)
	◇第58代の天皇。名は時康(トキヤス)、小松の帝とも。仁明(ニンミョウ)
	天皇の第3皇子、母は藤原北家の支流出身の藤原沢子。
	 藤原基経らに擁立されて、 884(元慶 8)即位。政事は基経を
	経て奏上させる。
	 在位: 884(元慶 8)〜 887(仁和 3)。
	◎関白は令外官(リョウゲノカン)で、基経に始まる。実際には光孝天
	皇の没後に宇多天皇より関白の称号を授かる。
	◎久我家の祖、雨夜親王(アマヨノシンノウ)の父。
こうさか じんない《かうさか じんない》
	向坂 甚内
	生年不祥
	没年不祥
	◇江戸初期の大泥棒。処刑は正保(ショウホウ)年間(1644〜1648)。
	 武田家の家臣高坂弾正(コウサカ・ダンジョウ)の子。
	 力持ちで、宮本武蔵から剣を学んだという。
	 瘧(オコリ)で苦しんでいるときに捕縛されため、「我瘧病にあら
	すは何を召し捕れん。我ながく魂魄(コンパク)を留、瘧に悩む人
	もし我を念ぜば平癒なさしめん」と言って処刑されたという。
	 墓は鳥越川の処刑場近くに作られ、のち小出兵庫(コイデ・ヒョウゴ)
	という武士の屋敷内となったので、江戸の庶民は小出家の門番
	に頼んで入れてもらい墓に参ったという。願いがかない瘧が直
	ると川に魚の干物と酒を投じたという。
	◎引廻しの際、罪人の前で抜き身の朱槍を二人が一人づつ担い
	でいるが、その一本が甚内の槍だといわれている。
こうさか だんじょう
	高坂 弾正
	⇒こうさか まさのぶ(高坂 昌信)
こうさか まさのぶ
	高坂 昌信
	生年不詳
	1582(天正10)
	◇戦国時代、武田信玄の家臣。通称は弾正(ダンジョウ)。春日大
	隅の子。
	 武田信玄に仕え、はじめ春日を名乗っていたが、高坂氏を継
	ぐ。
	 1561(永禄 4)川中島で上杉軍の殿(シンガリ)勢を切り崩す。
	 小幡景憲(オバタ・カゲノリ)が江戸初期に昌信に仮託して『甲陽軍
	鑑』を著す。
こうじゅん こうごう《かうじゆん くわうごう》
	香淳 皇后
	1903. 3. 6(明治36)
	2000. 6.16(平成12)
	◇昭和天皇の后。久邇宮邦彦(クニヨシ)王の第1女子良子(ナガコ)、
	母は薩摩藩主島津忠義(タダヨシ)の七女、青蓮院(ショウレンイン)門主東
	伏見慈洽(シゴウ)の姉。平成天皇の母。東京麻布生れ。
	 1918. 1.(大正 7)裕仁(ヒロヒト)内親王(昭和天皇)と婚約。
	 1924. 1.26(大正13)結婚。
	◎宮中某重大事件(島津家に色盲の血統あるとの疑い)により婚
	儀が遅れた。
こうじろ たねあき
	神代 種亮
	⇒こうじろ たねすけ(神代 種亮)
こうじろ たねすけ
	神代 種亮
	1883. 6.14(明治16)
	1935. 3.30(昭和10)
	◇書誌研究家。号は葉山人。七松庵主人。
	(9)通称は「たねすけ」。「たねあき」は柳田泉説。
こうしん
	弘真
	⇒もんかん(文観)
こうず はるしげ
	高津 春繁
	⇒こうづ はるしげ(高津 春繁)
こうそ たもつ
	高祖 保
	1910. 5. 4(明治43)
	1945. 1. 8(昭和20)
	◇詩人。ビルマ野戦病院で死去。
こうだ しげとも
	幸田 成友
	1873. 3. 9(明治 6)
	1954. 5.15(昭和29)
	◇史学者・文学博士。幸田露伴(ロハン)の弟、安藤こうの兄。
ごうだ とく
	郷田 悳
	1905. 5.25(明治38)
	1966. 7.18(昭和41)
	◇劇作家。本名は前田徳太郎。
こうだ ろはん《かうだ ろはん》
	幸田 露伴
	1867. 8.20(慶応 3. 7.23)
	1947. 7.30(昭和22)
	◇小説家・劇作家・随筆家・考証家。本名は成行(シゲユキ)、幼
	名は鉄四郎、号は叫雲老人・蝸牛庵(カギュウアン)・雷音(ライオン)
	洞主・脱天子。一説に 7.26生れ。
	 幸田あやの父、郡司成忠(シゲタダ)の弟、幸田成友(シゲトモ)・
	安藤こうの兄。
	 江戸神田俗称新屋敷(山本町付近)生れ。
	 お茶の水師範付属小学校を経て東京府立中学・東京英学校に
	学ぶ。1883(明治16)家事上、逓信省の電信修技学校の給費生と
	なり、翌年卒業し北海道余市駅に電信技手として赴任。
	 1887(明治20)官を辞し上京。1889(明治22)『風流仏』などを
	発表。尾崎紅葉と並び称される。のち東洋的博学を基盤に随筆
	・史伝・考証に独自の境地をひらく。京都帝国大学講師。1937
	(昭和12)第一回文化勲章受章。
	 千葉県市川市菅野にて没(81歳)。
	 代表作は『五重塔』・『連環記』、史伝『運命』・『頼朝』、
	戯曲『名和長年』、長編詩集『出廬』など。
	(5)誕生日は 7.23。
	(13)誕生日は 7.26。
	(19)江戸下谷生れ。
	◆露伴忌(蝸牛忌)[ 7.30]。
こうだいいん
	高台院
	⇒きたのまんどころ(北政所)
こうち ももこ
	河内 桃子
	1932. 3. 7(昭和 7)
	1998.11. 5(平成10)
	◇女優。本名は久松桃子。父は洋画家大河内信敬、祖父は子爵
	大河内正敏(マサトシ)。夫は久松定隆(サダタカ)。
	 高校卒業後、貿易会社のタイピストを経て、1953(昭和28)東
	宝のニューフェースに合格。1954(昭和29)怪獣映画『ゴジラ』
	のヒロイン。
	 1956(昭和31)俳優座養成所に入り、1959(昭和34)俳優座に入
	団。
	 ローマ法王から聖十字架章を受章。
こうづ はるしげ
	高津 春繁
	1908. 1.19(明治41)
	1973. 5. 4(昭和48)
	◇西洋古典学者。
こうどう とくち
	幸堂 得知
	1843(天保14. 1.)
	1913. 3.22(大正 2)
	◇劇作家・演劇評論家。別号は劇神仙・東版坊。	????
	江戸生れ。脳溢血で根岸に没。
	(3)生年は1860(万延元)、本名は鈴木利兵衛。
	(5)生年は1843(天保14. 1.?)、本名は鈴木利平。劇神仙と号し
	た……。
	(9)生年は1843(天保14. 1.?)、本名は鈴木利平、幼名庄吉のち
	平兵衛と称す。別号劇神仙・東帰坊。
	(11)生年は1843(天保14. 1.?)、本名は鈴木利平。劇神仙と号し
	た……。
	(13)生年は1860(万延元)、本名鈴木利兵衛。別号劇神仙。
こうとく しゅうすい
	幸徳 秋水
	1871(明治 4. 9.22)
	1911. 1.24(明治44)
	◇社会主義者・評論家・無政府主義者。本名は伝次郎。高知県
	幡多郡中村生れ。
	 1897〜1901. 4.(明治30〜明治34)珍聞館が発行する「団々珍
	聞(マルマルチンブン)」の巻頭言「茶説」を「いろは庵」という筆名で担当。
	1901(明治34)足尾銅山鉱毒事件について田中正造翁のために直
	訴文を起草。
	 1903(明治36)日露戦争開戦時、非戦論を唱えて堺利彦・内村
	鑑三らとともに万朝報社を退社。同年10月、堺と平民社を結成、
	週刊「平民新聞」を創刊。1904. 4.21(明治37)堺とともに『共産
	党宣言』を初めて新聞に訳出し発禁。1905.10.(明治38)平民社
	を解散。1907. 1.15(明治40)日刊「平民新聞」を再刊するが、政
	府の弾圧により3ヶ月で廃刊。
	 1910. 6.(明治43)大逆事件に連座したとして検挙され、大審
	院特別法廷の非公開裁判で死刑。
	 著書は1901. 4.(明治34)『廿世紀之怪物帝国主義』など。
	(1)誕生日は 9.23。
	(3)誕生日は 9.22。
	(5)誕生日は 9.22。
	(9)誕生日は 9.23。
	(11)誕生日は 9.22。
	(13)誕生日は 9.22。
	(16)誕生日は 9.24。
こうとく てんのう《かうとく てんわう》
	孝徳 天皇
	 596[推古 4]
	 654(白雉 5.10.10)
	◇第36代天皇。名は軽(カル)・天方豊日尊(アメヨロズトヨヒノミコト)。茅
	渟王(チヌノオオキミ)の第一王子、母は吉備姫王、皇極天皇と同母弟、
	有馬皇子(アリマノミコ)の父、皇后は間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(中大兄皇
	子の妹)、妃は阿倍小足媛(オタラシヒメ)(有馬皇子の母)。
	  645(大化元)即位し、 6.19はじめて大化と年号を制定。12
	月飛鳥から難波長柄豊碕宮(ナガラトヨサキノミヤ)に遷都。翌年から大
	化改新に着手。
	 改新が落ち着いた後、政府内部に派閥争いが生じ、 649(大
	化 5)左大臣の阿倍内麻呂が死に、翌月右大臣の蘇我倉山田石
	川麻呂が讒言により自刃。
	  653(白雉 4)中大兄皇子・中臣鎌足・間人(ハシヒト)皇后・大海
	人皇子らは大和へ引き上げ、孝徳天皇はひとり難波にとり残さ
	れ、翌年悶死。
	 即位: 645[皇極 4. 6.14]、退位(死亡): 654(白雉 5.10.10)。
	(2)生年は 594[推古 2]。
	(4)生年は 596。
	(6)生年は 596?。
	(16)生年は 597[推古 5]。
こうとくてい《かうとくてい》
	康徳帝
	⇒あいしんかくら ふぎ(愛新覚羅 溥儀)
こうの しんご
	河野 慎吾
	1893. 4.11(明治26)
	1959. 1.21(昭和34)
	◇歌人。兵庫県生れ。早稲田大学に学ぶ。
こうの せいぞう
	河野 省三
	1882(明治15)
	1963. 1. 8(昭和38)
	◇明治〜昭和時代の神職・神道研究者。号は紫雲。埼玉県北埼
	玉郡騎西町生れ。郷社玉敷神社宮司河野禄郎の次男。
	 1905(明治38)国学院師範部国語漢文歴史科卒業。1908(明治
	41)国学院研究科の道義科卒業。
	 1918(大正 7)国学院講師・教務課長、1920(大正 9)教授、
	1935〜1942(昭和10〜昭和17)学長。文部省国民精神文化研究所
	などで国民道徳推進活動に従事。
	 戦後、国学院大学教授を辞任。戦中の活動により公職不適格
	の指定を受けるが、1951(昭和26)指定を解除され、国学院大学
	大学院教授。
こうの つうせい
	河野 通勢
	1895. 6. 7(明治28)
	1950. 3.31(昭和25)
	◇挿絵画家。本名は通勢(ミチセイ)。長野市生れ。
	 独学で洋画を修得。岸田劉生と出会い、1918(大正 7)草土社
	に参加。
こうの てつなん
	河野 鉄南
	1874. 1.16(明治 7)
	1940.11.26(昭和15)
	◇歌人・僧侶。本名は通該。
こうの とうこく
	河野 桐谷
	1879.10. 4(明治12)
	1944.11.15(昭和19)
	◇劇作家・美術評論家。
こうの とがま《かうの とがま》
	河野 敏鎌
	1844
	1895(明治28)
	◇明治時代の政治家。土佐藩出身。
	(*)1844(天保15,弘化元)。
こうの ばいれい《かうの ばいれい》
	幸野 楳嶺
	1844(天保15. 3. 3)
	1895. 2. 2(明治28)
	◇明治時代の日本画家。本名は安田直豊、幼名は角三郎、字は
	思順、号は楳嶺・鶴鹿園など。京都生れ。
	 中島来章に円山派を、のち塩川文麟に四条派の山水画を学ぶ。
	 明治維新後、神山鳳陽に漢籍を、中西耕石・前田暢堂に南画
	を学ぶ。
	 1880(明治13)京都府画学校を設立。一方、楳嶺塾も開設し、
	京都伝統の写生的な作風を後進に指導し、京都日本画壇の隆盛
	に貢献。
	 1890(明治23)第3回内国勧業博覧会審査員。
	 1893(明治26)帝室技芸員。
	 門下は竹内栖鳳(セイホウ)・菊池芳文・川合玉堂・上村松園ら。
	 作品は1874(明治 7)『百福図』・1893(明治26)『田家図』・
	『帝釈試三獣図』など。
[1]こうのいけ ぜんえもん《こうのいけ ぜんゑもん》
	鴻池 善右衛門(初代)
	生年不詳
	1693(元禄 6)
	◇江戸時代の大坂の豪商。名は正成。山中幸元勝庵の子。
	 父が始めた醸造業を大坂で営むかたわら、廻船業にも手を拡
	げる。1650(慶安 3)父の死により跡を継ぐ。蔵米も手がけ、大
	名貸の端緒をつくる。
	 1656(明暦 2)本両替を開き、十人両替の一人として権力を有
	し、帯刀を許される。
[2]こうのいけ ぜんえもん《こうのいけ ぜんゑもん》
	鴻池 善右衛門(3代目)
	1667(寛文 7)
	1736
	◇江戸時代の大坂の豪商。名は宗利。
	 諸国32藩と取り引き。酒造・運送業を廃し、両替商専門とす
	る。1707(宝永 4)河内国若江郡(現:東大阪市の北部)に鴻池新
	田を開発。
	 家訓を遺す。
	(*)1736(享保21,元文元)。
[3]こうのいけ ぜんえもん《こうのいけ ぜんゑもん》
	鴻池 善右衛門(10代目)
	1841(天保12)
	1920(大正 9)
	◇江戸幕末・明治期の実業家。本名は幸富。山中又七郎の長男、
	山中新十郎の養子、さらに9代目善右衛門の養子。
	 1867(慶応 3)商社を設立。
	 1877(明治10)第十三国立銀行を設立、1897(明治30)鴻池銀行
	(三和銀行の前身)に改組。
こうのもろなお《かうのもろなほ》
	高 師直
	生年不詳
	1351(<南>正平 6,<北>観応 2)
	◇南北朝時代の武将、足利尊氏の執事。通称は武蔵守、法名は
	道常。高師冬(モロフユ)の養父。
	 元弘の変で足利尊氏に従い軍功をたてる。尊氏挙兵にも従い、
	南朝方と戦い北畠顕家・楠木正行を討ち、幕府創設から幕政に
	参加。
	 のち足利直義(タダヨシ)を出家に追い込み権勢をふるい、一時
	は政務の実権を握る。尊氏と直義との和議成立後、孤立して摂
	津武庫川で上杉顕能(ヨシノリ)に毒殺され一族も殺害される(観応
	の擾乱<ジョウラン>)。
	◎悪役として歌舞伎などの題材にされ、浄瑠璃『仮名手本忠臣
	蔵』では吉良上野介の役名に使用されている。
こうのもろふゆ《かうのもろふゆ》
	高 師冬
	生年不詳
	1351(<南>正平 6,<北>観応 2)
	◇南北朝時代の武将。通称は三河守・播磨守。高師直(モロナオ)の
	いとこ、のちその養子。
	 足利尊氏・足利基氏に仕え、上杉顕能(ヨシノリ)に高師直ら一族
	とともに殺害される(観応の擾乱<ジョウラン>)。
こうのもろやす
	高 師泰
	生年不詳
	1351(<南>正平 6,<北>観応 2. 2.26)
	◇南北朝時代の武将。高師重の子、師直(モロナオ)の弟。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2)北条時行の乱(中先代<ナカセンダイ>
	の乱)を平定する。1336年足利尊氏の幕府創設とともに越後守
	・足利尊氏(タカウジ)の侍所になる。また新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)・
	恒良親王(ツネナガ・シンノウ)を越前国金崎城に攻め、1337(<南>延元
	 2,<北>建武 4)落城させる。
	 のち高師冬(モロフユ)とともに東国計略に専心し、遠江(トオトウミ)
	国太平城・三岳城などを落す。1348(<南>正平 3,<北>貞和 4)
	楠木正行を河内国四条畷に破る。
	 その後、足利直義(タダヨシ)方の直冬(タダフユ)軍に敗れ、師直と
	ともに出家して帰京の途中、摂津国武庫川で上杉能憲(ヨシノリ)に
	一族15人とともに謀殺される。
	(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
こうのりょうさい《かうのりやうさい》
	高 良斎
	1799(寛政11)
	1846(弘化 3)
	◇江戸後期の蘭医。名は淡。徳島の人。眼科医高錦国の養子。
	 長崎でシーボルトに師事。シーボルト事件に連座して禁固の
	刑を受けるが6ヶ月で許される。のち明石藩に仕える。
こうぶん てんのう《こうぶん てんわう》
	弘文 天皇
	⇒おおとものみこ(大友 皇子)
こうべん
	高弁
	1173(承安 3)
	1232
	◇鎌倉初期の華厳宗(ケゴンシュウ)の僧侶。法号は明恵(ミョウエ)。紀
	伊の人。
	 はじめ高雄山の文覚に師事。
	 京都郊外の栂尾(トガノオ)に高山寺(コンザンジ)を建立、華厳の道
	場とし、華厳宗を復興。
	 『摧邪輪(サイジャリン)』で法然の所説に反論、鎌倉新仏教に対
	して理論的に批判する。
	(*)1232(寛喜 4,貞永元)。
	◎栂尾山で栄西が宋から伝えた茶を栽培した。
こうほう けんにち《かうほう けんにち》
	高峰 顕日
	1241(仁治 2)
	1316(正和 5)
	◇鎌倉後期の臨済宗の僧・仏国派の祖。字は高峰、諡号は
	仏国応供広済国師。後嵯峨天皇の皇子。
	 来日した宋僧兀庵(ゴッタン)に参じ、また無学祖元に学んでそ
	の法を嗣(ツ)ぐ。
	 京都万寿寺・鎌倉浄智寺・鎌倉建長寺などの住持を歴任。
	 のち下野の那須雲巌寺に引き籠る。
	 著書は『仏国国師語録』など。
	◎夢窓疎石(ムソウ・ソセキ)の師。
こうぼうだいし
	弘法大師
	⇒くうかい(空海)
こうみょう こうごう《くわうみやう くわうごう》
	光明 皇后
	 701
	 760(天平宝字 4. 6. 7)
	◇聖武天皇の皇后。名は安宿媛(アスカベヒメ)・光明子。藤原不比
	等(フヒト)の三女、母は橘三千代。阿部内親王(孝謙天皇)の母。
	藤原武智麻呂(ムチマロ)・房前(フササキ)・宇合(ウマカイ)・麻呂(マロ)、文
	武天皇夫人宮子(ミヤコ)(首皇子の母)の異母妹。
	  716(霊亀 2)首(オビト)皇太子(聖武)の皇太子妃となる。 724
	年、首が天皇に即位し、光明子は夫人(ブニン)となる。 729年、
	臣下の娘として初めて皇后になる。
	 聖武とともに篤く仏教に帰依し、悲田院・ 730(天平 2)施薬
	院を設け、孤児や病人の救済に努める。
	  737(天平 9)武智麻呂・房前・宇合・麻呂の兄弟を疫病で失
	う。 740(天平12)宇合の子藤原広嗣(ヒロツグ)が太宰府で叛乱を
	起し、鎮定される。
	  749年、阿部内親王が孝謙天皇となり、光明子は皇太后とな
	る。
	  756(天平勝宝 8)聖武太上天皇の七七忌に際して、先帝の遺
	品を東大寺に献納、これが正倉院の御物の中心となる。
	(4)容貌艶麗、光を放つようであったといい、光明子ともいう。
	(6)母は橘三千代。
	(17)母は県(アガタ)犬飼三千代。
	(*) 701[文武 5](大宝元)、 724(養老 8,神亀元)、 729(神亀
	 6,天平元)、 749(天平21,天平感宝元,天平勝宝元)。
こうめい てんのう《かうめいてんわう》
	孝明 天皇
	1831. 7.22(天保 2. 6.14)
	1867. 1.30(慶応 2.12.25)
	◇第121代天皇。名は統仁(オサヒト)、煕宮(ヒロノミヤ)。仁孝天皇の第
	四皇子、母は正親町実光の娘新侍賢門院雅子。和宮(カズノミヤ)の
	兄。明治天皇の父。
	 1840(天保11)立太子。1847(弘化 4. 9.)即位。
	 攘夷鎖国論者で、1858(安政 5. 2.)上洛の老中堀田正睦(マサヨ
	シ)が開国条約調印の承認を求めた際に許可を与えなかった。し
	かし、同年6月幕府は独断で調印(安政五ヶ国条約)を行うと、
	譲位を表明して幕府に不信を現わす。
	 討幕運動には反対で、公武合体を支持し皇妹和宮の第14代将
	軍家茂への降嫁に同意。
	 1862(文久 2)尊攘派が大和行幸・伊勢参拝の詔(ミコトノリ)を出
	させ、1863(文久 3. 5.10)を挙兵討幕の決行の日に定めたが、
	1862(文久 2. 8.18)公武合体派によって京都朝廷より尊攘派は
	追放された(八月十八日の政変)。
	 疱瘡を病み急死。
	 即位:1847(弘化 4. 9.)、退位:1866(慶応 2)。
	◎公卿の学問所を設立し、学習院と命名。
	◎死後、京都では岩倉具視(トモミ)・大久保利通(トシミチ)などによ
	る毒殺と噂(ウワサ)された。
こおり とらひこ
	郡 虎彦
	1890. 6.28(明治23)
	1924.10. 6(大正13)
	◇劇作家・小説家。別名は萱野二十一(カヤノ・ニジュウイチ)。東京生
	れ。1913(大正 2)東京大学文科を中退し、英国に渡る。英文で
	劇作し、英国で上演され好評を博した。スイスのモンターナの
	サナトリウムで客死。
こが せいり
	古賀 精里
	1750(寛延 3)
	1817(文化14)
	◇江戸後期の儒学者。名は樸(スナオ)、字は淳風、通称は弥助。
	佐賀藩の人。寛政三博士の一人。初め陽明学のち朱子学を奉じ、
	藩校の創立に尽力。昌平黌(ショウヘイコウ)の教官を勤める。
こが たつみ
	古賀 龍視
	1895. 5.16(明治28)
	1932.11.28(昭和 7)
	◇小説家。
こが はるえ
	古賀 春江
	1895. 6.18(明治28)
	1933. 9.10(昭和 8)
	◇洋画家。福岡県生れ。
	 1912(明治45)上京、太平洋画会研究所に学ぶ。
こがねい きみこ
	小金井 喜美子
	1870(明治 3.11.29)
	1956. 1.26(昭和31)
	◇翻訳家・小説家・随筆家・歌人。本名はキミ、別称は君子・
	きみ子。岩見国生れ。東京大学教授・医師小金井良精(ヨシキヨ)の
	妻。
	 森鴎外・三木竹二(タケジ)の妹、森潤三郎の姉。
	(3)本名は「キミ」。
	(5)本名は「キミ」。
	(9)本名は「きみ」。
	(11)本名は「キミ」。
こぎ てつたろう
	古木 鉄太郎
	1899. 7.13(明治32)
	1954. 3. 2(昭和29)
	◇小説家。別名は鉄也。鹿児島県生れ。川内(センダイ)中学校卒
	業。佐藤春夫の義弟。
	(3)古木 鉄太郎(こぎ てつたろう)。
	(5)古木 鉄太郎(こき てつたろう)。
	(9)古木 鉄太郎(こき てつたろう)。
	(11)古木 鉄太郎(こぎ てつたろう)。
こくあ
	国阿
	1314(正和 3)
	1405(応永12)
	◇南北朝〜室町前期の時宗(ジシュウ)の僧・霊山派(国阿派)の祖。
	名は随心、号は真空。播磨国觜崎の人。
	 初め書写山で出家して随心と称し天台教学を学んだが、のち
	託何に師事して国阿を称し、諸国遊行。
	 晩年、京都双林寺・霊山寺を時宗道場として一派を開いた。
こくぶ さいとう
	国府 犀東(國府 犀東)
	1873. 2.(明治 6)
	1950. 2.27(昭和25)
	◇漢詩人・新体詩人・文章家。幼名は長松のち種徳(タネノリ)、初
	号は聴松。金沢市堅町(犀川の東)生れ。四高を経て東京帝国大
	学法科中退。1907(明治40)内務省に入り、のち宮内省御用掛。
	大正・昭和初期の詔勅などを起草する。
こくぶ せいがい
	国府 青(「崖」-「山」)(國府 青<「崖」-「山」>)
	1857(安政 4. 5. 5)
	1944. 3. 5(昭和19)
	◇漢詩人。名は高胤(タカタネ)、字は子美、通称は豁(トオル)、別号
	は太白山人。陸前仙台生れ。
	 1876(明治 9)司法省法学校入学。
	 日清戦争に従軍。
こくぶん いちたろう
	国分 一太郎
	1911. 3.13(明治44)
	1985. 2.12(昭和60)
	◇児童文学作家・教育評論家。山形県生れ。
	 山形師範学校卒業。
こぐれ みちよ
	木暮 実千代
	1918(大正 7)
	1990(平成 2)
	◇女優。本名は和田つま。山口県下関生れ。
	 1938(昭和13)日本大学に在学中、松竹大船撮影所に入る。
	 1939(昭和14)『結婚天気図』で本格デビュー。
	 1940(昭和15)日本大学芸術学科を卒業。
	 1941(昭和16)和田日出吉と結婚。
こぐれ りたろう《こぐれ りたらう》
	木暮 理太郎
	1873.12. 7(明治 6)
	1944. 5. 7(昭和19)
	◇登山家。群馬県生れ。東京大学中退。
	 1913(大正 2)田部重治とともに案内人なしで槍ヶ岳・薬師岳
	・剣岳・立山に登る。
	 1916(大正 5)旭日岳・雪倉岳・白馬岳・針ノ木峠を縦走。
	 1935(昭和10)日本山岳会会長。
	 病没。
	 著書は『山の憶い出』など。
	◎『東京市史』の編纂に携わる。
ここんてい いますけ
	古今亭 今輔
	1898(明治31)
	1976(昭和51)
	◇落語家。
ここんてい しんしょう《ここんてい しんしやう》
	古今亭 志ん生(5代)
	1890(明治23)
	1973(昭和48)
	◇落語家。本名は美濃部孝蔵。東京生れ。金原亭馬生・古今亭
	志ん朝の父。
ここんてい しんちょう《ここんてい しんてう》
	古今亭 志ん朝
	1938(昭和13)
	2001.10. 1(平成13)
	◇落語家。本名は美濃部強次(ミノベ・キョウジ)。東京生れ。5代
	目古今亭志ん生の子、金原亭馬生の弟。初名は古今亭朝太。
	 1962(昭和37)真打ち昇進を機に2代目古今亭志ん朝を襲名。
	 肝臓がんで死去。
こざかい ふぼく
	小酒井 不木
	1890.10. 8(明治23)
	1929. 4. 1(昭和 4)
	◇医学者・小説家。本名は光次。愛知県蟹江町生れ。1914(大
	正 3)東京帝国大学医学部卒業。
	(1)小酒井 不木(こさかい ふぼく)、誕生日は10. 1。
	(3)小酒井 不木(こざかい ふぼく)、誕生日は10. 8。
	(5)小酒井 不木(こざかい ふぼく)、誕生日は10. 8。
	(9)小酒井 不木(こざかい ふぼく)、誕生日は10. 8。
	(11)小酒井 不木(こざかい ふぼく)、誕生日は10. 8。
	(12)小酒井 不木(こざかい ふぼく)、誕生日は10. 8。
	(13)小酒井 不木(こざかい ふぼく)、誕生日は10. 8。
こざき ひろみち
	小崎 弘道
	1856(安政 3. 4.12)
	1938. 2.26(昭和13)
	◇牧師(プロテスタント)。熊本藩士小崎次郎左衛門の子。
	 1871(明治 4)熊本洋学校を経て、1876(明治 9)同志社に学ぶ。
	1879(明治12)同志社英学校の第1回卒業生。
	 同年、霊南坂教会を創設。1886(明治19)番町教会を設立。日
	本基督教青年会を組織。1890(明治23)同志社総長。1899(明治
	32)霊南坂教会の牧師。
	(2)没年は1939(昭和14)。'85東京に霊南坂教会を設立。
	(3)誕生日は 4.12、没日は 2.16。
	(4)没年は1938。
	(5)誕生日は 4.12、没日は 2.26。
	(6)没年は1938。
	(9)誕生日は 4.14、没日は 2.26。
	(11)誕生日は 4.12、没日は 2.26。
	(16)誕生日は 4.14、没日は1938. 2.26(昭和13)。'79霊南坂教
	会の設立…….
こじき せいげつ
	乞食 井月
	⇒いのうえ せいげつ(井上 井月)
こしきぶのないし
	小式部 内侍
	生年不詳
	1025(万寿 2.11.)
	◇平安中期の歌人。父は和泉守橘道貞、母は和泉式部(イズミ・シキ
	ブ)。
	 母とともに上東門院彰子に仕え、小式部と呼ばれ、内侍とな
	る。
	 二五〜六歳で没。
こしじ ふぶき《こしぢ ふぶき》
	越路 吹雪
	1924. 2.18(大正13)
	1980.11. 7(昭和55)
	◇シャンソン歌手・女優。本名は内藤美保子。
	 1939(昭和14)宝塚音楽歌劇学校、卒業。
	 『花物語』でデビュー。
	 1950(昭和25)宝塚在籍のまま東宝映画『東京の門』に出演。
	 1951. 2.(昭和26)第1回帝劇ミュージカル『モルガンお雪』
	に古川緑波(ロッパ)とともに主演。
	 『マダム貞奴』・『王様と私』・『結婚物語』・『アプロー
	ズ』などに出演。
	 シャンソンでは『愛の讃歌』などをヒットさせる。
	◎東京都港区元麻布の善福寺に「越路吹雪の碑」がある。
こじま いけん
	児島 惟謙
	1837(天保 8. 2. 1)
	1908. 7. 1(明治41)
	◇明治時代の裁判官。宇和島出身。
	 1891. 5.(明治24)来日中のロシア皇太子を襲った津田三蔵の
	裁判で、皇室犯による死刑(刑法第116条の大逆罪)を迫る政府
	に対し、一般民に対する謀殺未遂罪を適用して無期徒刑の判決
	を下し、司法権の独立を守る。
こじま うすい
	小島 烏水
	1873.12.29(明治 6)
	1948.12.13(昭和23)
	◇登山家・紀行文家。本名は久太(キュウタ)。香川県高松市生れ。
	横浜商業卒業。1896(明治29)正金銀行に入社。1905. 2.(明治
	38)日本山岳会の創立発起人。1915(大正 4)渡米しロスアンゼ
	ルス・サンフランシスコ支店長を歴任、1927(昭和 2)帰国。
	(1)生年は1873(明治 6)。
	(3)生年は1874(明治 7)。
	(5)生年は1873(明治 6)。
	(9)生年は1873(明治 6)、戸籍では明治七年の生れ。
	(11)生年は1873(明治 6)。
	(13)生年は1873(明治 6)。
こじま かずお
	古島 一雄
	1865(慶応元. 8. 1)
	1952. 6.26(昭和27)
	◇新聞記者・政治家。日清戦争では正岡子規とともに従軍記者。
	犬飼毅(ツヨシ)と親交を持ち、第二次世界大戦中・戦後、政界の
	裏面の存在として動いた。
こじま きくお
	児島 喜久雄
	1887.10.10(明治20)
	1950. 7. 5(昭和25)
	◇西洋美術史家・美術評論家。東京生れ。学習院中等科・第一
	高等学校を経て、1913(大正 2)東京大学哲学科卒業。「白樺」創
	刊同人。
こじま たかのり
	児島 高徳
	⇒『百科辞書』こじまたかのり(児島高徳)(1)
こじま つとむ
	小島 (「日」冠+「助」)
	1900. 6. 1(明治33)
	1933. 1. 6(昭和 8)
	◇小説家・劇作家。長野県生れ。早稲田大学哲学科卒業。労農
	芸術家連盟・日本プロレタリア作家同盟に加入。
	 妹ミキは横光利一(ヨコミツ・リイチ)の最初の妻。
こじま とくや
	小島 徳弥
	1898. 7. 2(明治31)
	没年不詳
	◇評論家。大正末期から昭和初年に活躍。
こじま やたろう
	小島 弥太郎
	生年不詳
	1582(天正10)
	◇戦国時代の武将。名は一忠、通称は慶之助。
	 上杉謙信の部将。
こしゃまいん
	コシャマイン(胡奢魔尹)
	生年不詳
	1457
	◇蝦夷地(北海道東部)に勢力をふるっていたアイヌの首長。
	 渡島半島の南部を征服していた安東氏との対立し、1456(康
	正 2)反乱を起こし、多くの和人の館が攻め落とすが翌年、戦
	死。
	(*)1457(康正 3,長禄元)。
ごじょう よりもと《ごでう よりもと》
	五条 頼元
	1290(正応 3)
	1367(<南>正平22,<北>貞治 6)
	◇南北朝時代の武将。本姓は清原、号は宗性。大外記清原良枝
	の次男。
	 1338年、南朝の征西将軍懐良(カネナガ)親王(後醍醐天皇の皇子)
	に従って西下、阿蘇氏と力を合わせ足利軍と戦い九州経略をな
	し、筑後の矢部を領する。
	 1365(<南>正平20,<北>貞治 4)出家。
	(*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元)。
ごじょうのきさき《ごでうのきさき》
	五条 后
	 809(大同 4)
	 871(貞観13)
	◇仁明天皇の女御。名は順子(ノブコ)。藤原冬嗣(フユツグ)の娘、
	良房(ヨシフサ)の妹、文徳天皇の母。
	 左京の五条東洞院に住む。
ごしらかわ てんのう《ごしらかは てんわう》
	後白河 天皇
	1127(大治 2. 9.11)
	1192(建久 3. 3.13)
	◇第77代天皇。名は雅仁(マサヒト)、法名は行真。鳥羽天皇の第4
	皇子、母は待賢門院璋子(ショウシ)(藤原公実の娘)。
	 第75代崇徳(ストク)天皇の同母弟、第76代近衛(コノエ)天皇の異母
	兄。守仁(モリヒト)親王(第78代二条天皇)の父。
	 1155(久寿 2. 7.)即位。この即位は美福門院が養う守仁親王
	への皇位継承を目的とするもので、崇徳上皇と対立する鳥羽法
	皇・美福門院・関白藤原忠通らの方策であった。
	 1156(保元元. 7.)鳥羽上皇が亡くなると、崇徳上皇は忠通の
	弟藤原頼長とともに蜂起を計画するが、後白河天皇は機先を制
	し源義朝(ヨシトモ)・平清盛(キヨモリ)らの武士を送りこれを破る(保
	元の乱)。
	 その後、藤原通憲(信西)を重用する。1158(保元 3. 8.)守仁
	親王に譲位し、その後5天皇34年にわたる院政を行う。
	 1159(平治元.12.)清盛の留守をねらい藤原信頼・源義朝(ヨシト
	モ)らが信西を討つため挙兵、後白河上皇の御所三条殿を襲うが、
	清盛が帰洛し破れる(平治の乱)。
	 1161年9月、建春門院(清盛の妻時子の妹滋子)との間に憲仁
	親王(高倉天皇)が生れる。1169(嘉応元. 6.)出家し、法名を行
	真とする。
	 1177(安元 3. 6.)鹿ヶ谷の陰謀が発覚、法皇と平氏の関係が
	悪化し、11月院政を止められ鳥羽殿に幽閉される。1180(治承
	 4. 2.)高倉天皇が譲位し、清盛の娘中宮徳子が生んだ言仁(トキ
	ヒト)親王が安徳天皇として即位。
	 同年4月、以仁王(モチヒトオウ)が平氏追討の令旨(リョウジ)を発し、
	5月源頼政とともに敗死。1181(治承 5. 1.)高倉上皇が亡くな
	り、清盛の要請で院政を再開する。同年閏2月、清盛が死去し、
	本格的に院政を始める。
	 1183(寿永 2. 7.)源義仲(ヨシナカ)・源行家(ユキイエ)に平氏追討を
	命じ、8月安徳天皇の異母弟尊成(タカヒラ)親王を後鳥羽天皇に践
	祚させる。さらに義仲を討とうと鎌倉の源頼朝(ヨリトモ)と画策、
	11月幽閉される。1184(寿永 3. 1.)頼朝の命により弟源範頼(ノ
	リヨリ)・源義経(ヨシツネ)が、義仲を破り法皇を保護する。
	 法皇は頼朝との対抗から義経を優遇し、1185(文治元.10.)義
	経の要請に応じ頼朝追討の宣旨(センジ)を発する。頼朝にこの責
	任を追及され、上洛した北条時政に義経追捕を名目に守護・地
	頭の設置を公認させられる。
	 1190(建久元.11.)上洛した頼朝に接見し、権大納言・近衛大
	将に任じる。巧みに政略を行い、源頼朝に「日本国第一之大天
	狗」と言わしめ、頼朝が征夷大将軍になるのは法皇没後の1192
	(建久 3. 7.)である。
	 天皇即位:1155(久寿 2.10.26)、退位:1158(保元 3. 8.11)。
	 院政開始:1158(保元 3. 8.11)、終了:1179(治承 3.11.20)。
	(*)1161(永暦 2,応保元)。
こずか くうこく
	小塚 空谷
	⇒こづか くうこく(小塚 空谷)
こすぎ おんそん
	小杉 榲邨
	1834(天保 5. 9.)
	1910. 3.29(明治43)
	◇歌人。
こすぎ げんてき
	小杉 玄適
	1730(享保15)
	1791(寛政 3. 1. 7)
	◇江戸中期の医者。名は在寛。
	 1754(宝暦 4)原松庵・伊藤友信と連署で京都所司代の藩主酒
	井讃岐守忠用に刑屍解剖允許を願い出て、死刑囚の解剖を行う。
	◎この解剖に立ち会った山脇東洋は『臓志』を表した。
	 江戸に出た玄適は同藩の杉田玄白に解剖の必要を説いている。
こすぎ すぎむら
	小杉 榲邨
	1834(天保 5)
	1910(明治43)
	◇明治期の国文学者。阿波生れ。
	 尊攘運動に加わり幽閉される。明治維新後、文部省に出仕。
こすぎ てんがい
	小杉 天外
	1865(慶応元. 9.19)
	1952. 9. 1(昭和27)
	◇小説家。本名は為蔵(タメゾウ)、別号は草秀・「くさひで」。羽
	後国(秋田県)仙北郡六郷町生れ。
	 1886(明治19)上京、英吉利法律学校・国民英学舎に学ぶ。エ
	ミール・ゾラの影響を受けて、1900(明治33)『はつ姿』を発表。
	1948(昭和23)芸術院会員。
	 鎌倉雪ノ下で没。
	(1)誕生日は 9.19。
	(3)誕生日は 9.17。
	(5)誕生日は 9.19。
	(9)誕生日は 9.19。
	(11)誕生日は 9.19。
	(13)誕生日は 9.。
	(16)誕生日は 9.19。
こすぎ ほうあん
	小杉 放庵
	1881.12.30(明治14)
	1964. 4.16(昭和39)
	◇明治〜昭和期の画家・歌人。本名は国太郎、旧号は未醒(ミセイ)。
	栃木県生れ。日光二荒山神社神官の子。
	 宇都宮中学校中退。
	 日光在住の五百城文哉に洋画を学び、白馬会研究所・不同舎
	に通う。日露戦争に画家として従軍、反戦詩などを発表。国木
	田独歩と親しく、独歩社の「新古文林」や「上等ポンチ」に漫画を
	描いた。1922(大正11)春陽会を設立。1923(大正12)号を放庵と
	改める。
	 漫画を描いたのは20歳代で、30歳代で洋画に力を入れ、しだ
	いに水墨画の世界に入っていった。
こすぎ みせい
	小杉 未醒
	⇒こすぎ ほうあん(小杉 放庵)。
こすぎ よし
	小杉 余子
	1888. 1.16(明治21)
	1961. 8. 3(昭和36)
	◇俳人。本名は義三。神奈川県生れ。
こすげ たんじ
	小菅 丹治
	1882(明治15)
	1961(昭和36)
	◇昭和期の実業家。旧名は高橋儀兵。神奈川県生れ。高橋儀平
	の3男、先代小菅丹治の養子。
	 1908(明治41)小菅呉服店の養子となる。1924(大正13)呉服店
	を百貨店に、1930(昭和 5)株式会社伊勢丹に改組し社長に就任。
	1933(昭和 8)新宿店を設立。
こせき さんえい
	小関 三英
	1787(天明 7)
	1839(天保10)
	◇江戸後期の蘭学者・岸和田藩医。名は好義、通称は良蔵、号
	は鶴州。「おぜき(小関)」とも。出羽国庄内鶴岡の人。
	 江戸で蘭医吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学を学ぶ。コンスブル
	フの内科書を訳して『泰西内科集成』を著す。幕府天文台の和
	解御用(翻訳係)となる。
	 渡辺崋山(カザン)・高野長英(チョウエイ)らと親交を結び、尚歯会
	(ショウシカイ)に加わり歴史や地理を講じる。
	 蛮社の獄に際し、崋山に『耶蘇伝(ヤソデン)』を口約したこと
	を苦にして自刃。
	 著書は『西医原病略』・『輿地誌』など。
こせき しげる
	小関 茂
	1908. 4.25(明治41)
	1972. 7.11(昭和47)
	◇歌人。
ごせだ ほうりゅう
	五姓田 芳柳
	1827(安政10. 2.)
	1892. 2. 1(明治25)
	◇洋画家。渡辺幽香(ユウコウ)は娘。
----------------------------------------------------------------