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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6131.02

                 人   名   辞   典   《きは》      編集:獨  澄旻

-------- きは --------------------------------------------------
きはら こういち
	木原 孝一
	1922. 2.13(大正11)
	1979. 9. 7(昭和54)
	◇詩人。本名は太田忠。八王子市生れ。府立実科工業卒業。陸
	軍建築技師として従軍、中国・硫黄島の陣地を構築。
きびのまきび
	吉備 真備
	 693[持統 7]
	 775(宝亀 6.10. 2)
	◇奈良時代の学者・廷臣・貴族。本姓は下道(シモツミチ)真吉備、
	別称は吉備大臣。父は下道朝臣圀勝(クニカツ)、母は楊貴(ヤギ)(八
	木)氏の娘。
	  716(霊亀 2)遣唐留学生に選ばれ、翌年入唐(ニットウ)して儒学
	・天文・兵事を修め、 734(天平 6)末に帰国。橘諸兄(タチバナノモ
	ロエ)の相談役となるが、 740(天平12)不満とする藤原広嗣(ヒロツグ)
	が乱を起す。
	  741(天平13)東宮阿倍(アベ)内親王(のち孝謙・称徳天皇)の学
	士に任命される。 746(天平18.10.)下道朝臣から吉備朝臣に改
	賜姓(カイシセイ)が行われる。
	 このころ台頭してきた藤原仲麻呂に 750(天平勝宝 2. 1.)筑
	前守に左遷される。 752(天平勝宝 4)遣唐副使として再び入唐。
	 753(天平勝宝 5)末に帰国。 766(天平神護 2.10.)従二位右大
	臣に累進。
	  770(神護景雲 4. 8.)称徳天皇が崩御し、皇嗣の決定で藤原
	氏に敗れ、 771(宝亀 2)引退。
	(4)生年は 693。七一六年遣唐留学生として入唐、七三五帰国。
	(6)生年は 693。 717年留学生として入唐。
	(17)生年は 695[持統 9]。天平六年(七三四)末に帰国、……。
きまた おさむ
	木俣 修
	1906. 7.28(明治39)
	1983. 4. 4(昭和58)
	◇歌人・国文学者。本名は修二。滋賀県彦根市生れ。東京高等
	師範学校文科卒業。宮城師範学校・富山高等学校などを経て、
	昭和女子大学教授。
きむら あけぼの
	木村 曙
	1872. 4.10(明治 5. 3. 3)
	1890.10.19(明治23)
	◇明治前期の女流作家。本名は栄子(榮子)、庶子のため母の岡
	本を名乗る。神戸生れ。東京高等女学校(のち女子高等師範付
	属,現:お茶の水女子大付属高)卒業。結核性腹膜炎で死去。
	 東京浅草いろは牛肉店木村荘平の妾腹の子、木村荘太・木村
	荘八(ショウハチ)・木村荘十・木村荘十二(ソトジ)の異母姉。
	(2)生年は1872(明治 5)。
	(3)生年は1872(明治 5)。
	(5)生年は1872(明治 5)。
	(7)年譜の生年は1871(明治 4)。
	(8)生年は1872(明治 5)。
	(11)生年は1872(明治 5)。
	(13)生年は1872(明治 5)。
きむら いさお
	木村 功
	1923. 6.22(大正12)
	1981. 7. 4(昭和56)
	◇俳優。広島県生れ。1943(昭和18)文化学院卒業。
	 1946(昭和21)俳優座に入団、1950(昭和25)脱退。1954(昭和
	29)岡田英次らと劇団青俳を結成。
きむら いへえ《きむら いへゑ》
	木村 伊兵衛
	1901.12.12(明治34)
	1974. 5.31(昭和49)
	◇昭和期の写真家。東京市生れ。1919(大正 8)京華商業学校卒
	業。
	 1920(大正 9)台湾の砂糖問屋に勤務、近所の遠藤写真館の主
	人から写真術を習う。1922(大正11)帰国。1924(大正13)東京日
	暮里に写真館を開業。
	 ドイツの小型カメラ「ライカ」による、さりげない日常の人物
	写真で知られる。
	 日本写真家協会初代会長。従五位勲四等旭日小綬賞。
きむら うざん
	木村 雨山
	1891. 2.21(明治24)
	1977. 5. 9(昭和52)
	◇友禅染の染色作家。本名は文二(ブンジ)。金沢生れ。
	 1955(昭和30)人間国宝に認定。
きむら えんきち
	木村 延吉
	1853(嘉永 6)
	1911(明治44)
	◇明治時代の実業家。小島清一の5男、木村家の養子。江戸生
	れ。
	 1874(明治 7)印刷局に出仕。やがて東洋壁紙製造会社を設立。
	1900(明治33)凸版印刷合資会社を設立、1908(明治41)取締役。
きむら おかえもん
	木村 岡右衛門
	⇒きむら さだゆき(木村 貞行)
きむら かいしゅう
	木村 芥舟
	1830. 2.27(文政13. 2. 5)
	1901.12. 9(明治34)
	◇江戸幕末の幕臣。名は喜毅(ヨシキ)、字は天模、号は楷堂・
	芥舟。江戸浜御殿役宅に生れる。浜御殿奉行木村喜彦(又助)の
	子。
	 1842(天保13)奉行見習、1844年両番格、1848年昌平黌乙科に
	及第、1855(安政 2)浜添奉行の講武所出役、同年9月西丸目付
	を歴任、1856(安政 3)目付、1857(安政 4)長崎で海軍伝習にあ
	たる。1860年の遣米使節新見正興らの咸臨丸の司令官。1864年、
	開成所頭取・海軍奉行。
	 1868(慶応 4)2月海軍所頭取、3月勘定奉行、江戸開城の善
	後処理に当たり、明治政府の招きに応ぜず、6月辞表を提出、
	7月隠居して芥舟と号する。
	(*)1844(天保15,弘化元),1848(弘化 5,嘉永元),1860(安政 7,
	万延元),1864(文久 4,元治元)。
きむら かへい
	木村 嘉平(3代)
	生年不詳
	1886. 3.26(明治19)
	◇字彫り木版師。
きむら かめじ
	木村 亀二
	1897.11. 5(明治30)
	1972. 3.15(昭和47)
	◇法哲学者・刑法学者。兵庫県生れ。1921(大正10)東京大学法
	学部卒業。
きむら き
	木村 毅
	1894. 2.12(明治27)
	1979. 9.18(昭和54)
	◇小説家・評論家・文芸史家。号は雷音(ライオン)。岡山県勝田郡
	勝間田町生れ。大阪の基督教学校に学び、1911(明治44)早稲田
	大学に入学、1917(大正 6)英文科卒業。
きむら きはちろう
	木村 禧八郎
	1901. 2. 2(明治34)
	1975. 5.13(昭和50)
	◇昭和期の経済評論家・政治家(日本社会党)。東京生れ。1924
	(大正13)慶応義塾大学卒業。
きむら きょうたろう
	木村 京太郎
	1902. 6.19(明治35)
	1988. 6.11(昭和63)
	◇大正・昭和期の部落解放運動家。奈良県生れ。高等小学校卒
	業。
きむら きんか
	木村 錦花
	1877. 5.17(明治10)
	1960. 8.19(昭和35)
	◇劇作家・歌舞伎研究家。本名は錦之助。東京生れ。
	 木村富子の夫。
	(5)誕生日は 5.17。
	(8)誕生日は 5.16。
	(11)誕生日は 5.17。
きむら きんじ《きむら きんぢ》
	木村 謹治
	1889. 1. 2(明治22)
	1948. 1.13(昭和23)
	◇ドイツ文学者。秋田県生れ。ゲーテ研究者。ロシア文学者木
	村彰一(ショウイチ)の父。
	 1913(大正 2)東京大学独文科卒業、恩賜の銀時計を授かる。
きむら くすやた
	木村 久寿弥太
	1866. 1.18(慶応元.12. 2)
	1935.11.23(昭和10)
	◇実業家。高知生れ。社会評論家田岡嶺雲(レイウン)の実兄。
	 1890(明治23)帝国大学(現:東京大学)政治学科卒業。三菱合
	資会社に入社、1922(大正11)総理事。
きむら くぞう
	木村 九蔵
	1845(弘化 2)
	1898. 1.29(明治31)
	◇明治期の養蚕改良家。高山寅蔵(寅三)の5男、母はさよ、高
	山社を結成した高山長五郎の実弟。
	 1877(明治10)養蚕改良競進組(のち競進社)を組織、高山社と
	競う。
きむら くまじ
	木村 熊二
	1845. 1.25(弘化 2. 1.25)
	1927. 2.28(昭和 2)
	◇宗教家(キリスト教)・教育家。旧姓は桜井。夫人は鐙(トウ)
	(田口卯吉の異父姉)。
	 1885(明治18)東京麹町の九段坂下に明治女学校を創設。
きむら けんかどう
	木村 兼葭堂
	1736
	1802(享和 2)
	◇江戸中期の文人。名は孔恭、字は世粛、別号は遜斎、通称は
	坪井吉右衛門。
	(*)1736(享保21,元文元)。
きむら けんじ
	木村 謙次
	1732(享保17)
	1811(文化 8)
	◇江戸後期の北辺探検家。名は謙、字は子虚、号は酔古堂。常
	陸国の人。
	 1793(寛政 5)藩主の許可を得て蝦夷地沿岸を巡視、1798(寛
	政10)近藤重蔵(ジュウゾウ)(守重)に従い樺太を探検。
きむら けんじろう
	木村 健二郎
	1896. 5.12(明治29)
	1988.10.12(昭和63)
	◇化学者。栃木県生れ。1920(大正 9)東京大学理学部化学科卒
	業。
きむら こざえもん
	木村 小左衛門
	1888(明治21)
	1952(昭和27)
	◇昭和期の政治家。島根県生れ。早稲田大学中退。
きむら さだこ
	木村 貞子
	1855(安政 2)
	1926(大正15)
	◇明治・大正期の教育家。幕臣木村能登の長女。江戸生れ。
	 華族女学校教授。
きむら さだゆき
	木村 貞行
	1658
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻・絵図奉行、禄
	高150石。通称は岡右衛門(オカエモン)、戒名は刃通普剣信士、赤穂
	を出る前から石田左膳(サゼン)の変名を使用、吉良家の探索中の
	変名は町人八右衛門(ヤエモン)。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
	カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、宮原久太夫(ミヤハラ・キュウダユウ)
	の介錯(カイシャク)で切腹。
	(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
		成美堂出版		昭和56年11月 1日初版発行
		監修:尾崎秀樹		昭和57年 1月10日四刷発行
	 「宮原久太夫」は「大高源五忠雄」の項での「宮原九太夫」と同一
	か?。
	(*)1658(明暦 4,万治元)。
きむら しげとも
	木村 重友(初代)
	1882. 9.15(明治15)
	1939. 8.13(昭和14)
	◇浪曲師。本名は岩田甫。神奈川県生れ。
きむら しげなり
	木村 重成
	1592
	1615
	◇安土桃山・江戸初期の武将。通称は長門守。近江国佐々木氏
	の出で母は豊臣秀頼の侍女宮内卿局、木村常陸介重(「玄」+「玄」
	:補助4349)の養子。
	 豊臣秀頼の家臣。大坂夏の陣で長宗我部盛親らと河内国若江
	・八尾に出陣、藤堂高虎・井伊直孝らの軍勢と戦い、直孝の武
	将安藤長三郎に討たれ戦死。
	(*)1592(天正20,文禄元),1615(慶長20,元和元)。
きむら しげまつ
	木村 重松(初代)
	1877(明治10)
	1938.12. 2(昭和13)
	◇浪曲師。本名は荻村勘太郎。東京生れ。
きむら しゅうきちろう
	木村 修吉郎
	1895. 2. 4(明治28)
	1977. 1.27(昭和52)
	◇戯曲家・小説家。
きむら しょういち
	木村 彰一
	1915. 1. 5(大正 4)
	1986. 1.18(昭和61)
	◇ロシア文学者・スラブ学者。秋田県生れ。ドイツ文学者木村
	謹治の長男。1937(昭和12)東京大学言語学科卒業。
きむら じょうきち
	木村 錠吉
	1870(明治 3)
	1949(昭和24)
	◇大正・昭和期の労働運動家。兵庫県生れ。
きむら しょうしゅう
	木村 小舟
	1881. 9.12(明治14)
	1955. 4.20(昭和30)
	◇編集者・児童文学者・美術評論家。本名は定次郎。岐阜県生
	れ。
きむら しょうたつ
	木村 尚達
	1879. 5.27(明治12)
	1947.11. 1(昭和22)
	◇検事総長・司法大臣。熊本県生れ。
	 1906(明治39)京都大学卒業。
	 1921(大正10)司法省参事官、1922(大正11)調査課長、1933
	(昭和 8)大審院部長、1938(昭和13)東京控訴院長、1939(昭和
	14)検事総長。1940(昭和15)米内光政内閣の司法大臣。
[1]きむら しょうのすけ
	木村 庄之助(初代)
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸前期の相撲行司の宗家。本名は中立羽左衛門清重。
	 真田伊豆守の家臣を辞して江戸に出、寛永年間(1624〜1644)
	相撲中興のとき吉田追風のあとを継ぐ者がなく行司となる。
[2]きむら しょうのすけ
	木村 庄之助(第19代)
	1869(明治 2)
	1932(昭和 7)
	◇相撲立行司(タテギョウジ)。
	 1881(明治14)相撲年寄先代若藤の門に入り行司となる。
[3]きむら しょうのすけ
	木村 庄之助(第20代)
	1876.12. 3(明治 9)
	1940. 3. 9(昭和15)
	◇相撲立行司(タテギョウジ)。本名は後藤子之吉(ネノキチ)。栃木県生
	れ。
	 1886(明治19)式守子之吉で初土俵、錦太夫・与太夫と改名、
	1926(大正15)第15代式守伊之介、1932(昭和 7)第20代木村庄之
	助を襲名。
きむら しょうはち
	木村 荘八
	1893. 8.21(明治26)
	1958.11.18(昭和33)
	◇洋画家・挿絵画家・随筆家。木村曙(アケボノ)・木村荘太の弟、
	木村荘十・木村荘十二(ソトジ)の兄。東京日本橋生れ。
	 京華中学校を卒業し、1911(明治44)白馬会研究所で洋画を学
	ぶ。
	 岸田劉生とともに1912年フュウザン会・1915(大正 4)草土社
	を結成。
	(2)木村 荘八(そうはち)。
	(3)木村 荘八(しょうはち)。
	(5)木村 荘八(しょうはち)。
	(8)木村 荘八(しょうはち)。
	(11)木村 荘八(しょうはち)。
	(13)木村 荘八(しょうはち)。
	(20)木村 荘八(しょうはち)。
	(21)木村 荘八(しょうはち)。
	(*)1912(明治45,大正元)。
きむら すけくろう
	木村 助九郎
	1585(天正13)
	1654(承応 3)
	◇江戸前期の剣客。名は矩泰。大和生れ。
	 柳生宗矩(ムネノリ)に新陰流を学び、紀伊藩主徳川頼宣に仕官す
	る。
きむら せいしろう
	木村 清四郎
	1861. 7.12(文久元. 6. 5)
	1934. 9.24(昭和 9)
	◇明治〜昭和期の実業家。備中(岡山県)生れ。
	 1883(明治16)慶応義塾卒業。
	 商況社(現:日本経済新聞社)に入社、「中外物価新報」の論説
	を担当、1885(明治18)主幹(経営責任者)となり代表的経済紙に
	発展させ、1890(明治23)「中外商業新報」と改題する。
	 1897(明治30)日本銀行総裁岩崎弥太郎の勧めにより日本銀行
	に入行、1901(明治34)営業局長、1906(明治39)理事、1916(大
	正 5)副総裁、1926(大正15)病のため副総裁を辞職。
	 1927(昭和 2)勅選貴族院議員、帝室経済顧問・日本銀行参与
	・千代田生命取締役などを務める。
きむら せばすちゃん
	木村 セバスチャン
	1566(永禄 9)
	1622(元和 8)
	◇安土桃山・江戸前期のイエズス会宣教師。
	 1621(元和 7)捕えられ、翌年長崎の海岸で火刑となり殉教。
きむら そうじゅう
	木村 荘十
	1897. 1.12(明治30)
	1967. 5. 6(昭和42)
	◇小説家。木村曙(アケボノ)・木村荘太・木村荘八(ショウハチ)の弟、
	木村荘十二(ソトジ)の兄。
きむら そうた
	木村 艸太
	⇒きむら そうた(木村 荘太)
きむら そうた
	木村 荘太
	1889. 2. 3(明治22)
	1950. 4.15(昭和25)
	◇小説家・随筆家。一時は久木今作・木村艸太(ソウタ)を用いた。
	東京生れ。京華中学校卒業。自殺。
	 木村曙(アケボノ)の弟、木村荘八・木村荘十・木村荘十二(ソトジ)
	の兄。
	(1)木村 荘太(きむら そうた)。
	(3)木村 艸太(きむら そうた)、本名は荘太。
	(5)木村 荘太(きむら そうた)、一時、木村艸太(ソウタ)の名を
	用いた。
	(8)木村 荘太(きむら そうた)、艸太の筆名もある。
	(11)木村 荘太(きむら そうた)、一時、木村艸太(ソウタ)の名
	を用いた。
きむら そうはち
	木村 荘八
	⇒きむら しょうはち(木村 荘八)
きむら そとじ
	木村 荘十二
	1903. 9. 4(明治36)
	1988. 8.10(昭和63)
	◇映画監督。東京生れ。
	 木村曙(アケボノ)・木村荘太・木村荘八(ショウハチ)・木村荘十の弟、
	13人兄弟の12番目。
きむら たいけん
	木村 泰賢
	1881. 8.11(明治14)
	1930. 5.16(昭和 5)
	◇大正・昭和期のインド哲学・仏教学者。幼名は二蔵。岩手県
	生れ。
	 酒屋に奉公するなどして苦学の末、1903(明治36)曹洞宗大学
	林を卒業。1909(明治42)東京大学哲学科(印度哲学専修)卒業。
	 日露戦争に従軍後、1912年東京大学講師。1923(大正12)東京
	大学印度哲学講座の初代教授、在任中に没。
	 駒沢大学・日本女子大学・高野山大学でも講義、東京大学仏
	教青年会の創立にも尽力。
	(*)1912(明治45,大正元)。
きむら たかたろう
	木村 鷹太郎
	1870(明治 3. 9.18)
	1931. 7.18(昭和 6)
	◇明治・大正期の評論家・翻訳家。号は鳴潮(メイチョウ)。伊予国
	(愛知県宇和島町)生れ。
	 明治学院を経て東京帝国大学哲学科選科卒業。1897(明治30)
	井上哲次郎・高山樗牛らと大日本協会を結成。1916(大正 5)日
	本民族協会を組織。
	 日本民族の始源を中央アジアやギリシアに推定する奇説を発
	表。
	(2)木村 鷹太郎(きむら たかたろう)。
	(3)木村 鷹太郎(きむら ようたろう)。
	(5)木村 鷹太郎(きむら たかたろう)。
	(8)木村 鷹太郎(きむら たかたろう)。
	(11)木村 鷹太郎(きむら たかたろう)。
	(13)木村 鷹太郎(きむら ようたろう)。
きむら たけお
	木村 猛夫
	1873(明治 6)
	1924(大正13)
	◇明治・大正期の新派俳優。本名は中村憲。岐阜県生れ。
きむら たけお
	木村 武雄
	1902. 8.30(明治35)
	1983.11.26(昭和58)
	◇政治家。山形県生れ。1926(大正15)明治大学卒業。
	 米沢市議・山形県議を経て、1936(昭和11)山形1区から衆議
	院議員に初当選。中野正剛の東方会・石原莞爾(カンジ)の東亜連
	盟に所属。
	 太平洋戦争後、自由党結成に参加、1946(昭和21)公職追放、
	1952(昭和27)政界に復帰。1967(昭和42)佐藤栄作内閣の行政管
	理庁長官・北海道開発庁長官。田中角栄内閣の建設大臣・国家
	公安委員長。
きむら たけやす
	木村 健康
	1909. 2.26(明治42)
	1973.12. 7(昭和48)
	◇経済学者。福岡県生れ。1931(昭和 6)東京帝国大学経済学部
	卒業。
	 副手・1932(昭和 7)助手。1938(昭和13)河合栄治郎の筆禍か
	ら経済学部の対立、翌年東京大学総長の平賀譲(ユズル)による
	「平賀粛学」が行なわれ(河合栄治郎事件)、教授会の自治を無視
	したとして多くの辞職者の一人となる。1941. 1.(昭和16)第一
	高等学校勤務。1946. 1.(昭和21)東京帝国大学経済学部助教授、
	1949(昭和24)教授、新制東京大学の教養学部兼務。1969. 4.
	(昭和44)成蹊大学経済学部初代学部長。
きむら たんげん
	木村 探元
	1679(延宝 7)
	1767(明和 4)
	◇江戸中期の画家。名は守広、通称は大弐、別号は三暁庵・
	探元斎。薩摩生れ。狩野探信守政(鍛冶橋)の門弟。
きむら ちゅうた
	木村 忠太
	1917. 2.25(大正 6)
	1987. 7. 3(昭和62)
	◇洋画家。香川県生れ。
きむら ちょうしち
	木村 長七
	1852(嘉永 5)
	1922(大正11)
	◇明治時代の実業家。幼名は豊四郎。京都生れ。
	 江戸幕末に小野組に入り横浜支店長となり生糸の輸出取引に
	従事。
	 小野組倒産後、古河市兵衛のもとで銅山経営にあたり、1903
	(明治36)古河本店理事長、1905(明治38)古河鉱業会社監事長。
	 古河虎之助(市兵衛の長男)の後見人。
きむら つね
	木村 恒
	1887. 3.12(明治20)
	1952. 4.26(昭和27)
	◇新聞記者・小説家。
きむら とう
	木村 鐙
	1848(嘉永元. 6.26)
	1886. 8.18(明治19)
	◇教育家・経済学者。田口卯吉(ウキチ)の異父姉。1885(明治18)
	明治女学校を創設(1908<明治41>廃校)、教頭は巌本善治(イワモト・
	ヨシハル)。1886. 7.(18)「女学雑誌」を創刊、第24以降は巌本善治
	が編集、1904. 2.(明治37)廃刊。
きむら とくたろう
	木村 篤太郎
	1886. 2. 7(明治19)
	1982. 8. 8(昭和57)
	◇昭和期の政治家・弁護士。奈良県生れ。1911(明治44)東京大
	学卒業。
	 弁護士を経て、1946. 2.(昭和21)検事総長。同年、第1次吉
	田茂内閣の司法大臣、1948(昭和23)第3次吉田内閣の法務総裁
	(法務相)、1952(昭和27)第4次吉田内閣の初代保安庁長官、
	1953(昭和28)第5次吉田内閣の保安庁長官。
	 1951. 4.(昭和26)から東京弁護士会会長、1953. 4.(昭和28)
	奈良地方区から参議院議員当選2回。日本剣道連合会会長。
きむら としお
	木村 俊夫
	1909. 1.15(明治42)
	1983.12. 1(昭和58)
	◇政治家。三重県生れ。1938(昭和13)東京大学卒業。
	 1974(昭和49)第2次田中角栄内閣の外務大臣。
きむら とみこ
	木村 富子
	1890.10.10(明治23)
	1944.12.26(昭和19)
	◇大正・昭和期の劇作家・舞踊作家。旧姓は赤倉、赤倉鉄之助
	の娘。東京生れ。市川段四郎(二世)の姪、市川猿之助(エンノスケ)
	(二世)の従妹。日本橋高等女学校卒業。
	 1919(大正 8)木村錦花(キンカ)と結婚。
	(2)初代市川段四郎の姪。(*)初代の生没年は1651〜1717。
きむら ともえ
	木村 友衛(初代)
	1900. 9. 6(明治33)
	1977.11. 5(昭和52)
	◇浪曲師。本名は高木民蔵。香川県生れ。
	 1940(昭和15)日本浪曲協会の初代会長。
きむら ひさお
	木村 久夫
	1921. 4. 9(大正10)
	1946. 5.23(昭和21)
	◇戦争犯罪人として処刑された学徒兵。大阪府吹田市生れ。
	 1942(昭和17)京都大学に入学直後、応召入隊。インド洋のカ
	ーニコバル島でスパイ容疑の島民に通訳として立ち会い、上官
	の保身の犠牲となり死刑判決を受ける。手記が旧制高知高等学
	校の教師塩尻公明の『或る遺書について』で紹介される。
きむら ひさし
	木村 栄
	1870.10. 4(明治 3. 9.10)
	1943. 9.16(昭和18)
	◇明治〜昭和期の天文学者。石川県金沢生れ。物理学者茅誠司
	(カヤ・セイジ)は娘婿。
	 1892(明治25)帝国大学(東京大学)理科星学科卒業。
	 1899(明治32)万国測地学協会の要請による岩手県水沢臨時緯
	度観測所の初代所長。
	 1902(明治35)緯度変化の公式にZ項を加えるべきことを発見
	し、1911(明治44)第1回帝国学士院恩賜賞を受賞。
	 1922(大正11)水沢に万国緯度観測中央局が設置され、局長と
	なる。
	 1926(大正15)学士院会員。1937(昭和12)第1回文化勲章を受
	章。
	◎1970(昭和45)国際天文学連合により人工衛星で見付かった月
	面裏側のクレータの一つを「キムラ」と命名。
	(16)誕生日は 9.16。
	(21)誕生日は 9.26。
きむら ひでこ
	木村 秀子
	1869(明治 2)
	1887(明治20)
	◇明治時代の女子教育家。奈良県吉野生れ。東京医学校卒業。
	 1884(明治17)医者開業試験受験を出願、1885(明治18)帝国大
	学(東京大学選科)入学を請願、ともに許される。
	 1887(明治20)東京女子専門学校を創立。
きむら ひでまさ
	木村 秀政
	1904. 4.13(明治37)
	1986.10.10(昭和61)
	◇航空学者。青森県生れ。1927(昭和 2)東京大学工学部卒業。
	 1944(昭和19)東京大学航空研究所教授。
	 1947(昭和22)日本大学教授・理事・副総長・1974(昭和49)名
	誉教授。
	 日本大学で人力飛行機の設計製作を指導。国産輸送機 YS-11
	の基本計画をとりまとめる。
きむら ぶざん
	木村 武山
	1876(明治 9)
	1942(昭和17)
	◇明治〜昭和期の日本画家。本名は信太郎。茨城県生れ。東京
	美術学校(現:東京芸術大学)卒業。
きむら ぶんすけ
	木村 文助
	1882. 6.26(明治15)
	1953.12.11(昭和28)
	◇大正・昭和初期の綴方教育者。秋田県生れ。秋田師範学校卒
	業。
	 1918〜1928(大正 7〜昭和 3)北海道大野小学校校長。
	(2)没年は1954(昭和29)。
	(21)没日は1953.12.11。
きむら へいたろう《きむら へいたらう》
	木村 兵太郎
	1888. 9.28(明治21)
	1948.12.23(昭和23)
	◇昭和期の陸軍軍人。東京生れ。
	 陸軍士官学校20期生、1916(大正 5)陸軍大学校卒業。
	 参謀本部員・整備局統制課長・兵器局長を経て、1939(昭和
	14)関東軍参謀長。
	 1941. 4.〜1943. 3.(昭和16〜昭和18)東条秀機内閣の陸軍次
	官。
	 1944. 8.(昭和19)ビルマ方面軍司令官となりインパール作戦
	後の立直しにあたる。
	 1945(昭和20)大将。
	 極東国際軍事裁判でA級戦犯として捕虜虐待事件などの責任
	を問われ、処刑。
	(6)埼玉県の生まれ。
きむら まさこと
	木村 正辞
	1827(文政10)
	1913. 4.14(大正 2)
	◇江戸幕末・明治期の国文学者。本姓は清宮、名は植満、号は
	欟斎(ツキノミ)・集古葉堂・雨谷。下総国成田生れ。
	 東京帝国大学教授・東京高等師範学校教授。
	 万葉集を研究。著書は『万葉集美夫君志(ミブグシ)』・『万葉
	集文字弁証』など。
きむら まさとみ
	木村 昌福
	1891.12. 6(明治24)
	1960. 2.14(昭和35)
	◇海軍軍人。鳥取県生れ。1913(大正 2)海軍兵学校卒業。
	 1943. 6.(昭和18)第1水雷戦隊司令官として難条件下のキス
	カ撤収作戦を成功させる。
	 太平洋戦争敗戦後の1945.11.(昭和20)中将。
きむら まさみき
	木村 正幹
	1843(天保14)
	1903(明治36)
	◇明治時代の実業家。
	 1873(明治 6)井上馨設立の先収会社に入社、1876(明治 9)同
	社を引き継いで設立された三井物産会社(社長益田孝)の副社長
	に就任。1893(明治26)常務理事、1894(明治27)三井家大元方監
	査役。
	 1895(明治28)三井を代表して東京電燈に入社し取締役社長に
	就任するが、三井の支配力を強化できず辞職。
きむら むらしげ
	木村 荘重
	1907. 6.24(明治40)
	1982.10. 7(昭和57)
	◇社会運動家。島根県生れ。尋常高等小学校1年修了。
	 共産党に入党、1932.11.(昭和 7)検挙、懲役3年。
	 太平洋戦争後、共産党再建に従事。1946(昭和21)島根県木部
	村村長。朝鮮戦争に反対し、占領政策違反で重労働4年罰金
	1,200ドル、1952(昭和27)釈放。
きむら もくろう
	木村 黙老
	1774(安永 3)
	1856(安政 3)
	◇江戸後期のの高松藩第9代藩主松平頼恕の家老・藩政家。名
	は通明、幼名は熊次郎、通称は与総右衛門、字は伯亮、号は
	桃蹊・黙老。
	 江戸藩邸にあった際、滝沢馬琴と交友。
きむら もとお
	木村 資生
	1924.11.13(大正13)
	1994.11.13(平成 6)
	◇生物・遺伝学者。愛知県岡崎市生れ。
	 1947(昭和22)京都大学理学部植物学科、卒業。
	 1949(昭和24)静岡県三島市の国立遺伝学研究所研究員、1957
	(昭和32)研究室長、1964(昭和39)集団遺伝部長。
	 集団の遺伝的構成に関する確率模型の研究で、1968(昭和43)
	日本学士院賞受賞。
	 1976(昭和51)文化勲章、受章。
	 1982(昭和57)日本学士院会員。
	 1988(昭和63)国立遺伝学研究所、退官。
きむら もとき
	木村 幹
	1889. 1.10(明治22)
	没年不詳
	◇小説家・翻訳家。
きむら もともり
	木村 素衛
	1905. 3.11(明治38)
	1946. 2.12(昭和21)
	◇昭和期の哲学者。石川県生れ。京都大学選科卒業。
	 大谷大学予科教授・広島文理大学教授を経て、1940(昭和15)
	京都大学教授。
きむら やすべえ
	木村 安兵衛
	1817(文化14)
	1889(明治22)
	◇明治時代の製パン業者。長岡又兵衞の次男、木村安兵衛の養
	子。常陸国(茨城県)河内郡田宮村生れ。
	 米麹を使って小麦粉を発酵させた「あんパン」を開発、売り出
	す。
きむら よしお
	木村 義雄
	1905. 2.21(明治38)
	1986.11.17(昭和61)
	◇将棋14世名人。東京生れ。
	 1916(大正 5)関根金次郎13世名人の門に入り、1920(大正 9)
	四段、1926(大正15)八段(当時は最高位)。
	 1935(昭和10)関根13世名人の英断により従来の世襲名人制度
	が終り2年がかりの実力制名人戦で、1937(昭和12)第1期名人
	に就位。1947(昭和22)塚田正夫に敗れ名人を失うが、2年後に
	塚田を破り名人に返り咲く。1952(昭和27)大山康晴に敗れて引
	退、永世名人(14世)の称号を贈られる。1960(昭和35)第1回王
	将。
きむら よしお
	木村 良夫
	生年不詳
	没年不詳
	◇「ナップ(昭和 5.10.)」に投書された小説『嵐に抗して』一作
	のみ。本名・経歴とも不詳。
きむら よしこ
	木村 好子
	1904(明治37)
	1959.10.24(昭和34)
	◇詩人。旧姓は白河。遠地輝武(オンチ・テルタケ)の妻。
きむら りえもん
	木村 利右衛門
	1834(天保 5)
	1919(大正 8)
	◇明治・大正期の実業家。
きむら りょくへい
	木村 緑平
	1888.10.22(明治21)
	1968. 1.14(昭和43)
	◇俳人・炭坑の医師。本名は好栄(ヨシマサ)。
きやま しょうへい
	木山 捷平
	1904. 3.26(明治37)
	1968. 8.23(昭和43)
	◇小説家。岡山生れ。東洋大学文科中退。
	 1944(昭和19)満州国農地開発公社嘱託として渡満、1945(昭
	和20)現地召集、ソ連参戦後は難民となり、1946(昭和21)引き
	揚げて帰国。
きゅうせい
	救済
	⇒ぐさい(救済)
ぎょうえん《ぎやうえん》
	行円
	生年調査中
	没年調査中
	◇平安後期の僧。
	 革堂(コウドウ)を開く。
	 鹿皮をつけて民衆を教化し「革聖(カワヒジリ)」と呼ばれた。
ぎょうき《ぎやうき》
	行基
	 668[天智 7]
	 749(天平21. 2. 2)
	◇奈良時代の僧。俗姓は高志氏。
	 早くから諸国を巡遊し、布教や池堤設置・寺院建立・道路開
	拓・橋梁架設など社会事業活動を行い行基菩薩と崇(アガ)めら
	れる。 717年、寺外の活動が僧尼令(ソウニリョウ)に反するため禁止
	される。しかし、 731(天平 3)政府は民間仏教を抑えきれず禁
	圧を弛(ユル)め、翌年から活動を再開、社会的信望を集める。
	 のち聖武天皇の帰依を受けて、 743(天平15)東大寺大仏造営
	費の勧進(カンジン)に起用される。 745(天平17)大僧正位を、
	 749(天平21)大菩薩の称号を授かる。同年、菅原寺(スガワラデラ)
	で入滅。
	 墓は生駒市の竹林寺(チクリンジ)。
	(4)俗姓は高志氏。和泉の人。
	(6)和泉国の人。百済の帰化人の末という。薬師寺で道昭,義
	淵らに学び,……。
	(17)高志才智(コシノサイチ)(中国系の王仁<ワニ>の後裔<コウエイ>西文<カワ
	チノフミ>[西書<フミ>]氏の分派)の長男として和泉(当時河内に属し
	た)の堺に生まれ、母の蜂田古爾比売(ハチタノコヒメ)も中国系氏族。
	 天武十一年(六八二)飛鳥寺で出家し、道昭に師事したらしく、
	……。
	(*) 717(霊亀 3,養老元)、 682[天武10]。
ぎょうこう
	尭孝(堯孝)
	1391(明徳 2)
	1455(享徳 4. 7. 5)
	◇室町前期の歌人。歌僧頓阿(トンア)の孫の尭尋の子。晩年は法
	印権大僧都(ソウズ)。
きょうごく ためかね
	京極 為兼
	1254(建長 6)
	1332(元弘 2. 3.21)
	◇鎌倉後期の歌人。京極為教(タメノリ)の子。伏見天皇(上皇)に仕
	え、上皇が出家と同時に出家、法名は蓮覚(レンカク)のち静覚。
きょうにょ《けうによ》
	教如
	1558(永禄元)
	1614(慶長19)
	◇安土桃山・江戸初期の浄土真宗の僧・本願寺12世・東本願寺
	(真宗大谷派)の始祖。諱(イミナ)は光寿、院号は信浄院。摂津国
	の石山本願寺(大坂)生れ。顕如(ケンニョ)(光佐<コウサ>)の長男。
	 石山本願寺合戦(石山一揆)で1580(天正 8)父顕如が織田信長
	と和議を結び退去後も籠城。諸国の門末に応援を求め、退去派
	と籠城派との間で教団が分裂する遠因をなす。
	 1592(天正20)顕如の没後、本願寺12世(法灯)を継ぐが、豊臣
	秀吉の命で隠退。
	 1602(慶長 7)徳川家康から京都七条烏丸(カラスマル)に寺地の寄
	進を受け東本願寺を建立。
きよかわ にじこ《きよかは にじこ》
	清川 虹子
	1914.11.24(大正 3)
	2002. 5.24(平成14)
	◇喜劇女優。
きよかわ はちろう《きよかは はちらう》
	清川 八郎
	⇒きよかわ はちろう(清河 八郎)
きよかわ はちろう《きよかは はちらう》
	清河 八郎
	1830
	1863(文久 3. 4.13)
	◇江戸幕末の志士。幼名は元司、出生地から清河(清川)八郎・
	清河(清川)正明と称し、変名は大谷雄蔵・日下部達三。出羽
	(山形県)東田川郡清川村の郷士斎藤豪寿の子。
	 出羽国鶴岡で学び、江戸に出て東条一堂・安積艮斎(アサカ・ゴン
	サイ)・千葉周作の門で修業、神田に文武塾を開く。
	 尊攘の志士と交わり、1861. 1.(文久元.12.)ヒュースケン殺
	害事件に関係し、幕府に追われ関東から奥羽にかけて各地に潜
	行。1862(文久 2)伏見の寺田屋事変を経て、江戸に戻る。
	 1863(文久 3)松平慶永に建策して京都警護の浪士を徴集させ、
	自ら幕府の浪士隊に入り上洛、京都郊外壬生(ミブ)に駐屯。尊
	攘意見を朝廷に建白、幕命により江戸に戻され新徴組に編入。
	 上山藩士金子与三郎に招かれ出向く途中、麻布で幕府見廻組
	佐々木只三郎らに暗殺。
	(*)1830(文政13,天保元)。
	 別書:清河八郎。斎藤治兵衛の子。幕府講武所教授方の佐々
	木唯三郎……この功で千石に加増され、見廻組・頭取に任命さ
	れた。
きょく さんじん
	曲 山人
	生年不詳
	1836(天保 7)
	◇江戸後期の人情本作者。本名は仙吉(センキチ)、号は三文舎自楽
	(サンモンシャジラク)・司馬山人(シバサンジン)・紫嶺斎泉橘(シレイサイセンキツ)
	(画号)・筑波仙橘(センキツ)(筆耕)。
きょくてい ばきん
	曲亭 馬琴
	⇒たきざわ ばきん(滝沢 馬琴)
ぎょくらん
	玉瀾
	1727(享保12)
	1784(天明 4)
	◇江戸中期の女流画家。名は町子。池大雅(タイガ)の妻。
きよさわ きよし
	清沢 冽
	1890. 2. 8(明治23)
	1945. 5.21(昭和20)
	◇外交評論家。
きよざわ まんし《きよざは まんし》
	清沢 満之
	1863(文久 3. 6.26)
	1903. 6. 6(明治36)
	◇明治時代の評論家・真宗大谷派の僧侶。旧姓は徳永、号は
	臘扇(ロウセン)・建峯。尾張国名古屋生れ。尾張藩士の子。
	 1878(明治11)西本願寺で得度(トクド)。1887(明治20)東京帝国
	大学哲学科卒業。在学中にヘーゲルに傾倒。
	 1888(明治21)京都府立尋常中学校長と高倉大学寮講師を兼ね
	る。同年、愛知県の西方寺に入り清沢姓となる。1894(明治27)
	肺結核発病後信仰に目ざめて辞職。
	 1900(明治33)同志・門弟を集めて東京本郷で浩々洞(コウコウドウ)
	を組織。翌年、精神主義を唱えて機関紙『精神界』を発行。
	 また真宗大学(現:大谷大学)学監となる。
	 著書は『宗教哲学骸骨』・『精神講話』・『懺悔録』など。
きょそーね
	キョソーネ
	1832. 1.21(天保 3)
	1898. 4.11(明治31)
	◇イタリアの版画家・日本美術の蒐集家。Edoardo Chiossone。
	1875(明治 8)大蔵省紙幣寮(のちの印刷局)に招かれ、東京に没。
きよはら かいどう
	清原 枴童
	1882. 1. 6(明治15)
	1948. 5.16(昭和23)
	◇俳人。本名は伊勢雄(イセオ)。
きよはら たま
	清原 玉
	⇒らぐーざ たま(ラグーザ 玉)
きよはら のぶたか
	清原 宣賢
	1475(文明 7)
	1550(天文19. 7.12)
	◇室町後期(戦国時代)の儒学者・神道家。号は環翠軒(カンスイケン)、
	法名は宗尤(ソウユウ)、別姓は舟橋。吉田兼倶(カネトモ)の3男。清原
	宗賢の養子。
	 侍読(ジドク)となり、公卿・僧侶・大名に対して四書五経に
	は古註を、大学・中庸には朱註を用いて教授。
	◎吉田神道に対し清家(セイケ)神道と呼ばれることもある。
きよはらのいえひら《きよはらのいへひら》
	清原 家衡
	生年不詳
	1087
	◇平安後期の武将。武則の孫、藤原清衡の異父弟。
	 はじめ藤原清衡と結び1083(永保 3)清原家の正嫡である兄真
	衡の館を焼く。真衡の死後、陸奥守として来た源義家に従わず、
	義家を後ろだてとする清衡と争い、金沢柵(カネザワノキ)で義家に
	敗れ殺された。
	(*)1087(応徳 4,寛治元)。
きよはらのきよひら
	清原 清衡
	⇒ふじわらのきよひら(藤原 清衡)
きよはらのたけのり
	清原 武則
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の武将。武衡の父、家衡の祖父。出羽の俘囚(律令
	国家に帰服した蝦夷)の長。前九年の役で1062(康平 5)源頼義
	・義家を援助して安倍一族を討ち、その功労で1063(康平 6)従
	五位下鎮守府将軍に任ぜられる。安倍氏の旧領を併せて奥羽の
	雄となる。
きよはらのたけひら
	清原 武衡
	生年不詳
	1087
	◇平安後期の武将。武則の子。兄の子家衡を助けて金沢柵(カネザ
	ノキ)に拠り、藤原清衡を援助する源義家の大軍に囲まれたが固
	守して屈しなかったが、糧食が尽き柵が陥るに及んで捕えられ
	殺された。
	(*)1087(応徳 4,寛治元)
きよみ りくろう
	清見 陸郎
	1886.10.11(明治19)
	没年不詳
	◇劇作家・美術評論家。
きょらい
	去来
	⇒むかい きょせい(向井 去来)
きら こうずけのすけ
	吉良 上野介
	⇒きら よしなか(吉良 義央)
きら ちかざね
	吉良 親実
	生年不詳
	1588(天正16)
	◇安土桃山時代の武将。土佐蓮池城主。長宗我部元親(モトチカ)の
	弟親貞の子。
きら のぶつね
	吉良 宣経
	1514(永正11)
	1551(天文20)
	◇室町後期の武将。土佐弘岡城主。宣直の父。吉良宣義(ノブヨシ)
	の従兄弟。
きら のぶよし
	吉良 宣義
	生年不詳
	1562(永禄 5)
	◇室町後期の武将。吉良宣経(ノブツネ)の従兄弟。
きら よしちか
	吉良 義周
	1686(貞享 3)
	1706(宝永 3. 1.20)
	◇江戸中期の幕臣高家(コウケ)筆頭。吉良義央(ヨシナカ)(上野介)の
	養嗣子、義央の孫にあたる。父は義央の長男で、出羽国米沢城
	主上杉弾正大弼(ダンジョウダイヒツ)綱憲(ツナノリ)、母は紀州徳川家二
	代光貞(ミツサダ)の娘で、紀州三代綱教(ツナノリ)の姉。
	 1701(元禄14.12.12)義央から家督を譲り受け、吉良家の当主
	となる。1702(元禄15.12.15)未明の赤穂浪士討ち入りの際、長
	刀(ナギナタ)を持って渡り合い、重傷を負う。1703(元禄16. 2. 4)
	義周は「当夜の振舞よろしからず」という理由で、領地を没収、
	信濃国高島城主諏訪(スワ)安芸守忠虎(タダトラ)にお預けとなり、
	諏訪家までの道中は罪人護送用の唐丸籠(トウマルカゴ)に乗せられ
	た。
	 配所先で病没。
きら よしなか
	吉良 義央
	1641(寛永18. 9. 2)
	1702(元禄15.12.15)
	◇江戸中期の幕臣高家(コウケ)筆頭。幼名三郎、通称は上野介(コウ
	ズケノスケ)。三河国幡豆(ハズ)郡吉良の庄4,200石の領主。父は若
	狭守吉良義冬(ヨシフユ)、母は酒井忠勝の弟忠吉の娘。江戸鍛冶橋
	の吉良家江戸屋敷生れ。「よしひさ(義央)」とも呼ぶ。
	 1653(承応 2)幕府に出仕。1657(明暦 3)従四位下侍従に叙任、
	上野介と称する。1658(万治元)出羽国米沢(ヨネザワ)藩主上杉定
	勝の娘を娶(メト)る。1668(寛文 8)義冬の死去で相続。
	 1701(元禄14. 3.14)江戸城中(殿中松廊下)で、浅野内匠頭長
	矩(ナガノリ)に斬りつけられ負傷。十二日後の 3.26御役御免を願
	い出て、八月呉服橋から本所(ホンジョ)への替え地を命ぜられる。
	12.11隠居が許され、養嗣子義周(ヨシチカ)に家督を継ぐ。
	 1702(元禄15.12.14)本所松坂町吉良邸で年忘れの茶会が催さ
	れ、赤穂浪士に在宅を覚(サト)られ、一五日未明討ち入られる。
	物置に隠れたが発見され、間十次郎(ハザマ・ジュウジロウ)の槍に傷
	つき、武林唯七(タケバヤシ・タダシチ)に斬りつけられ死亡。
	 義央の夫人は出羽国米沢(ヨネザワ)の城主上杉綱勝(ツナカツ)の妹。
	長男は綱勝の養子となり上杉家を継ぐ上杉綱憲(ツナノリ)。綱憲の
	夫人は紀州家の徳川綱教(ツナノリ)の姉。綱寛の次男は義央の世子
	となった吉良左兵衛(サヘエ)義周。
	 吉良家は、足利将軍家の御三家の支族で、高家筆頭。
	 『仮名手本忠臣蔵』では「高師直(コウノモロナオ)」。
	(2)生年は1641(寛永18)。'02年12月14日,大石良雄ら赤穂四十
	七士の討入りで斬殺された。
	(4)生年は1640。
	(6)生年は1641。
	(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
		成美堂出版		昭和56年11月 1日初版発行
		監修:尾崎秀樹		昭和57年 1月10日四刷発行
	 誕生日は1641(寛永18. 9. 2)。
	◆墓は東京都中野区の万昌院。
きら よしひさ
	吉良 義央
	⇒きら よしなか(吉良 義央)
きりう ゆうゆう
	桐生 悠々
	1873. 5.20(明治 6)
	1941. 9.10(昭和16)
	◇新聞記者・評論家。本名は政次、別号は愈虐生(ユギャクセイ)。
	金沢生れ。1888(明治21)第四高等中学校入学。1896(明治29)東
	京大学法科入学、1900(明治33)政治学科卒業。
	(5)桐生 悠々(きりう ゆうゆう)。
	(8)桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう)。
	(11)桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう)。
きん かくえい
	金 鶴泳
	1938. 9.14(昭和13)
	1985. 1. 4(昭和60)
	◇小説家。在日朝鮮人二世。キム・ハギョン、本名は金広正
	(キム・クァンジョン)。群馬県生れ。本籍は韓国慶尚南道。東京大学大
	学院中退。
きん ぎょくきん
	金 玉均
	1851(嘉永 4)「哲宗 2」
	1894(明治27)「高宗31」
	◇朝鮮李朝末期の政治家。朝鮮読みは「キム・オクキュン」。
	 清国を背景とする閔妃らの事大党政権の打倒をはかり、韓国
	弁理公使竹添進一郎の指揮する日本軍の援助を得て、1884.12.
	 4(明治17)「高宗21」国王を奉じ開化派のクーデターを決行(甲
	申政変)。12. 6清国軍・政府軍に包囲され、竹添ら日本軍と脱
	出し日本へ亡命。関与を否定する日本で幽閉生活を送る。
	 上海で朝鮮国王の刺客に暗殺。
	◎当時、清国はベトナムの支配権をめぐってフランスと清仏戦
	争中(1884〜1885)であった。
きん しりょう
	金 史良
	1914. 3. 3(大正 3)
	1950.11.(昭和25)
	◇小説家。キム・サーラン、本名は金時昌。平壌(ピョンヤン)生れ。
	1933(昭和 8)来日。旧制佐賀高等学校を経て東京大学文学部卒
	業。1945(昭和20)中国の延安へ脱出し、朝鮮独立同盟に参加。
	朝鮮戦争で作家として北朝鮮人民軍に従軍し南下、撤退のさい
	宿痾(シュクア)の心臓病で隊列を離れ消息を絶つ。
	(3)Kim Sa-rang(キム・サーラン)。
	(5)キム・サリヤン。
きん そうん
	金 素雲
	1907.12. 5(明治40)
	1981.11. 2(昭和56)
	◇詩人。キム・ソウン。旧朝鮮生れ。
	 朝鮮の民謡・童謡を日本語で紹介。
きんじょう じろう《きんじやう じらう》
	金城 次郎
	1911(明治44)
	2004.12.24(平成16)
	◇壷屋焼の陶芸家。那覇市生れ。
	 1985(昭和60)人間国宝に認定。
	(*)戸籍上の生年は1912(明治45,大正元)。
きんだいち きょうすけ《きんだいち きやうすけ》
	金田一 京助
	1882. 5. 5(明治15)
	1971.11.14(昭和46)
	◇言語学者・歌人。号は花明。岩手県生れ。金田一春彦の父。
	 1907(明治40)東京帝国大学文科卒業。
	(24)アイヌ研究のパイオニア的存在だが、近年、その同化主義
	的体質が批判されている。
きんだいち はるすけ
	金田一 春彦
	1913. 4. 3(大正 2)
	2004. 5.19(平成16)
	◇国語学者。東京生れ。金田一京助の長男。
	 東京帝国大学国文学科卒業。
	 名古屋大学助教授・東京外語大学教授・上智大学教授・玉川
	大学客員教授などを歴任。
きんばら せいご
	金原 省吾
	1888. 9. 1(明治21)
	1958. 8. 2(昭和33)
	◇東洋美術史家・美術評論家。
きんろぎょうじゃ
	近路行者
	⇒つが ていしょう(都賀 庭鐘)
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