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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6121.03

                 人   名   辞   典    《き》       編集:獨  澄旻

-------- き ----------------------------------------------------
きあら
	キアラ
	⇒おかもと さんえもん(岡本 三右衛門)
きあり
	キアリ
	⇒おかもと さんえもん(岡本 三右衛門)
きうち たかね
	木内 高音
	1896. 2.28(明治29)
	1951. 6. 7(昭和26)
	◇児童文学者・編集者。
きえだ ますいち
	木枝 増一
	1891.11.25(明治24)
	1949.12. 7(昭和24)
	◇国文学者。
ぎおう《ぎおう》
	祇王(妓王)
	生年不詳
	没年不詳
	◇『平家物語』に登場する、京堀川の白拍子(シラビョウシ)。近江
	国祇王村生れ。父は平氏の家人江部九郎時久、母は閉(トジ)、
	妹は祇女(妓女)(ギジョ)。
	 父の死後、母・妹とともに京都に出て白拍子となり、平清盛
	の寵愛を受ける。のち自分が推挙した白拍子の仏御前(ホトケゴセン)
	に清盛の寵愛が移り、21歳の時に母・妹とともに出家して嵯峨
	の往生院に隠れた。
	◎京都市右京区嵯峨にある祇王寺は、往生院の跡地を尼寺にし
	たと伝えられている。
ぎおんのにょうご
	祇園 女御
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の女房。出自は不明で、蔵人源仲宗の妻とも、祇園
	西大門の小家の水汲女ともいう。待賢門院璋子(タイケンモンイン・ショウシ)
	の養母。
	 中宮藤原賢子なきあとの白河法皇の寵妃。法皇が胤(タネ;清盛)
	を宿したまま平忠盛に下賜したという。
	◎『平家物語』では平清盛の母と言われていたが、滋賀県の胡
	宮(コミヤ)神社の文書によれば清盛の生母は女御の妹とされ有力
	視されている。妹が清盛3歳のときに死亡したため女御がひき
	とり猶子(ユウシ)として養育したとある。
きかく
	其角
	⇒たからい きかく(宝井 其角)
きかくどう えいき
	其角堂 永機
	⇒ろうそどう えいき(老鼠堂 永機)
きかくどう えいこ
	其角堂 永湖
	1884. 5.(明治17)
	1944. 2. 9(昭和19)
	◇俳人。本姓は田辺、号は白雨山人・宝晋斎九世。田辺機一(キ
	イチ)の子。
きぎ たかたろう
	木々 高太郎
	1897. 5. 6(明治30)
	1969.10.31(昭和44)
	◇探偵小説家・生理学者。本名は林髞(タカシ)。山梨県生れ。
	 慶応義塾大学医学部卒業。
	 著書は直木賞受賞作『人生の阿呆』1936(昭和11)など。
きくおか くり
	菊岡 久利
	1909. 3. 8(明治42)
	1970. 4.22(昭和45)
	◇詩人・小説家・画家。本名は高木陸奥男(ムツオ)、別号は
	鷹樹寿之介。青森県弘前市生れ。第一外語露語科卒業。
	(1)本名は高木陸奥男(ミチノクオ)。
	(5)本名は高木陸奥男(ムツオ)。
	(8)本名は高木陸奥男(ミチノクオ)。
	(11)本名は高木陸奥男(ムツオ)。
	(13)本名は高木陸奥男(タカギミチノクオ)。
きくた かずお
	菊田 一夫
	1908. 3. 1(明治41)
	1973. 4. 4(昭和48)
	◇劇作家・作詞家。本名は数男(カズオ)、旧姓は西郷。台北市大
	正街生れ。5歳の時菊田家の養子となる。小学校卒業後、大阪
	・神戸で小僧をして夜学に学ぶ。
	 連続放送劇1947. 7.〜1950(昭和22〜昭和25)『鐘の鳴る丘』
	(720回)、1952. 4.〜1954. 4.(昭和27〜昭和29)『君の名は』。
	(5)誕生日は 3. 1。横浜生れ。生後四ヵ月で両親(西郷姓)に連
	れられて台湾に渡ったが、まもなく捨てられ、転々と他人の手
	で養育された末、五歳のとき菊田家の養子になった。台湾城北
	小学校に入学したが、学業半ばで薬種問屋に売られ、年季奉公
	をつとめた。
	(13)誕生日は 3.11。六歳にして菊田家の養子となった。
きくち あきこ
	菊池 章子
	1924. 1.28(大正13)
	2002. 4. 7(平成14)
	◇流行歌手。本名は菊池郁子(イクコ)。東京都出身。作曲家菊池
	一仁の祖母。
	 日本歌謡学院卒業。
	 1939(昭和14)『お嫁に行くなら』でデビュー。
	 1947(昭和22)『星の流れに』をヒット。
	 1954(昭和29)『岸壁の母』が大ヒット。
	 1978(昭和53)日本レコード大賞特別顕彰賞、受賞。
	 1997(平成 9)文化庁長官賞、受賞。
	 2000(平成12)勲四等瑞宝章、受章。
	 その他のヒット曲は『母紅梅の唄』・『春の舞妓』など。
きくち かいそう《きくち かいさう》
	菊池 海荘
	1799(寛政11)
	1881. 1.16(明治14)
	◇江戸後期の儒者(朱子学)・漢詩人。本姓は垣内、名は保定、
	通称は孫助・孫左衛門、号は渓琴(ケイキン)のち海荘。
	 紀州有田郡栖原の豪商の家に生れ、武芸をよくし、商家を継
	ぐ。
	 のち江戸に出て大窪詩仏(シブツ)(天民)に詩を学ぶ。
	 1836(天保 7)天保飢饉では大塩平八郎とともに救済策を建議
	するが容れられず、帰郷。
	 紀州湯浅浦に古碧吟社を開く。藩の公共事業に尽力。海防の
	急を建白して有田・日高2郡の文武総裁となり、農兵を組織し、
	大砲を鋳造。
	 幕末に上京し、国事に奔走。広瀬旭荘(キョクソウ)らと交遊。
	 明治維新後、1869(明治 2)民政局に出仕。
	 程なく辞して東京で死去。
	 著書は『秀餐楼集』・『海荘集』・『渓琴山房詩』など。
きくち かん《きくち くわん》
	菊池 寛
	1888.12.26(明治21)
	1948. 3. 6(昭和23)
	◇小説家・劇作家。本名は寛(ヒロシ)、初期の筆名は草田杜太郎
	(モリタロウ)・菊地比呂士(ヒロシ)。高松七番丁生れ。高松中学校から
	無試験で東京高等師範学校に推薦入学するが除名。1910(明治
	43)第一高等学校に入学、1913(大正 2)卒業三ヶ月前に友人の
	窃盗の罪をきて退学。京都帝国大学英文科選科を経て、1916
	(大正 5)本科卒業。晩年、大映映画会社社長。
	◆菊池寛忌[ 3. 6]。
	 墓は東京都府中市の多磨霊園。
きくち きょうちゅう《きくち けう》
	菊池 教中
	1828(文政11)
	1862(文久 2. 8.)
	◇江戸幕末の江戸の豪商。通称は佐野屋幸兵衛。宇都宮の人。
	淡雅の子。
	 1862(文久 2. 1.15)宇都宮・水戸の同志ら6名とともに江戸
	城坂下門外で老中安藤信正を襲撃(坂下門外の変)。投獄され、
	宇都宮藩邸で禁錮中に病死。
きくち けいきん
	菊池 渓琴
	⇒きくち かいそう(菊池 海荘)
きくち ござん
	菊池 五山
	1769(明和 6)
	1849(嘉永 2)
	◇江戸後期の漢詩人。名は桐孫、通称は左大夫、別号は娯庵。
	讃岐高松藩の人。
	 京都で柴野栗山に学び、のち江戸の市河寛斎に学び、江湖詩
	社に参加。
	 高松藩に仕える。
	 『五山堂詩話』を刊行。
	◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
きくち ころう
	菊池 庫郎
	1881. 5.26(明治14)
	1964. 3. 7(昭和39)
	◇歌人。本名は金次郎。東京生れ。早稲田大学卒業。
	(3)菊池 庫郎(きくち くらろう)。
	(5)菊池 庫郎(きくち ころう)。
	(8)菊池 庫郎(きくち ころう)。
	(11)菊池 庫郎(きくち ころう)。
きくち さんけい
	菊池 三溪
	1819(文政 2)
	1891.10.17(明治24)
	◇漢学者・随筆家。本名は純、字は子顕、別号は晴雪楼主人。
きくち しげさぶろう
	菊池 重三郎
	1901. 7. 3(明治34)
	1982. 4.16(昭和57)
	◇小説家・随筆家・英文学者。宮崎県生れ。日本大学付属中学
	校を経て立教大学英文科卒業。
きくち せいし
	菊池 正士
	1902. 8.25(明治35)
	1974.11.12(昭和49)
	◇実験物理学者。東京生れ。
	 東京帝国大学理学部物理学科、卒業。
	 1928(昭和 3)理化学研究所に入り、ドイツに留学。
	 1928. 6.(昭和 3)高速電子線の回折実験の論文発表。
	 1932(昭和 7)帝国学士院メンデンホール記念賞受賞。
	 1934(昭和 9)大阪帝国大学教授。
	 第二次世界大戦中、電探(レーダ)の研究に寄与。
	 1951(昭和26)文化勲章受章。
	 1955. 7. 1(昭和30)東京大学原子核研究所を創設し、初代所
	長。核燃料開発を推進。
	 1959〜1964(昭和34〜昭和39)日本原子力研究所理事長。
	 1966〜1970(昭和41〜昭和45)東京理科大学学長。
きくち だいろく
	菊池 大麓
	1855(安政 2. 3.17)
	1917. 8.19(大正 6)
	◇数学者・教育家・政治家。旧姓は箕作(ミツクリ)。箕作秋坪(シュウ
	ヘイ)の次男、箕作佳吉(カキチ)・元八(ゲンパチ)の兄。江戸生れ。
	 イギリスに留学。東京帝大教授・貴族院議員・東京帝国大学
	総長・文相・京都帝大総長・帝国学士院長・枢密顧問官・理化
	学研究所長を歴任。
きくち たけしげ
	菊池 武重
	生年不詳
	1341(<南>興国 2,<北>暦応 4)
	◇南北朝時代の武将。通称は次郎。武時の長子、武敏・武光の
	兄。
	 父の挙兵に従い、父の敗死後、九州南朝軍の中心として肥後
	筑後で活躍。
	◎熊本県菊池市の菊池神社の祭神。
きくち たけとき
	菊池 武時
	生年不詳
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)
	◇鎌倉後期の武将・肥後の豪族。法号は寂阿。武重・武敏・武
	光の父。
	 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応
	して九州で挙兵。
	 鎮西探題北条英時を博多に攻めたが、少弐・大友氏が離反し
	て敗死。
	◎熊本県菊池市の菊池神社の祭神。
きくち たけとし
	菊池 武敏
	生年不詳
	1341(<南>興国 2,<北>暦応 4)頃
	◇南北朝時代の武将。武時の子、武重の弟、武光の兄。
	 少弐頼尚、さらに1336年足利尊氏と戦って敗れ、のち九州各
	地を転戦。
	(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
きくち たけとも
	菊池 武朝
	1363(<南>正平18,<北>貞治 2)
	1407(応永14)
	◇南北朝時代の武将。初名は武興、法名は常朝。武光の孫。
	 南朝の征西将軍懐良(カネナガ)・良成(ナガナリ)両親王を奉じて九
	州探題今川貞世(了俊)と各地で戦うが、大勢を転換できずに肥
	後菊池城を奪われて八代に退く。
きくち たけみつ
	菊池 武光
	生年不詳
	1373(<南>文中 2,<北>応安 6)
	◇南北朝時代の武将。初名は豊田十郎。武時の子、武敏・武重
	の弟、武朝の祖父。
	 家督を継ぎ、南朝の征西将軍懐良(カネナガ)親王を肥後菊池城
	に迎え、九州南朝軍の中心として活躍し、大友氏時・少弐頼尚
	らと戦い、大宰府を占領。のち、今川貞世(了俊)が九州探題と
	して下向すると南朝軍の勢力は次第に衰え、1372年大宰府を放
	棄、高良山に退く。
	(*)1372(<南>建徳 3,<南>文中元,<北>応安 5)。
	◎熊本県菊池市の菊池神社の祭神。
きくち ちゆう
	菊池 知勇
	1889. 4. 7(明治22)
	1972. 5. 8(昭和47)
	◇歌人。
きくち ひろし
	菊池 寛
	⇒きくち かん(菊池 寛)
きくち ゆうほう
	菊池 幽芳
	1870(明治 3.10.27)
	1947. 7.21(昭和22)
	◇小説家・新聞記者。本名は清。水戸市長者町生れ。戸沢姑射
	(コヤ)の兄。
きくち ようさい
	菊池 容斎
	1788(天明 8)
	1878(明治11)
	◇江戸幕末・明治初期の日本画家。名は武保。江戸生れ。
	 狩野派・土佐派を学び、有職故実にくわしく、武者絵・歴史
	画に秀でていた。古来の忠臣・義士・孝子五百人余の絵入り伝
	記集『前賢故実』10巻を著わす。
	 晩年、明治天皇から日本画士の称号を賜った。
	◎浅草寺の絵馬『堀河夜討図』など。
きくてい こうすい
	菊亭 香水
	1855(安政 2. 7.10)
	1942. 2.12(昭和17)
	◇新聞記者・小説家。本名は佐藤蔵太郎、別称は鶴谷(カッコク)外
	史・柴門隠士。大分佐伯生れ。1875(明治 8)大分師範学校卒
	業。
	(5)鶴谷外史(ツルヤガイシ)。
	(8)鶴谷と号した。鶴谷(ツルヤ)女学校に奉職…。
	(11)別号鶴谷外史。
きさき こうしょう
	木崎 好尚
	1865(慶応元.11.21)
	1944. 6.24(昭和19)
	◇新聞記者・近世文学研究家。本名は愛吉。
きし えつこ
	貴司 悦子
	1903. 8. 8(明治36)
	1941. 1.14(昭和16)
	◇児童文学者。本名は奇二恵津。貴司山治(キシ・ヤマジ)の妻。
きし のぶすけ
	岸 信介
	1896.11.13(明治29)
	1987. 8. 7(昭和62)
	◇政治家。佐藤秀助(ヒデスケ)・茂世(モヨ)の次男、佐藤市郎(イチロウ)
	・音世の弟、佐藤栄作の兄。妻は良子(ヨシコ)、長男は信和、長
	女は洋子。山口県吉敷郡山口町八軒屋(現:山口市)生れ。
	 中学3年の時に父秀助の実家の姓岸を継ぐ。叔父佐藤松介(マ
	ツスケ)の経済的支援を受け、西田布施の高等小学校2年から岡山
	の内山下(ウチサンゲ)小学校6年に転入。岡山中学校に入学、1910.
	 4.(明治43)松介が肺炎で急死したため、叔父の山口中学教師
	吉田祥朔(ショウサク)の世話により山口中学校に転校。
	 1914(大正 3)第一高等学校入学。1917(大正 6)東京帝国大学
	入学、1919(大正 8)高等文官試験に合格、1920. 7.(大正 9)同
	校法学部独法科卒業。
	 同年、農商務省に入省、1933(昭和 8)文書課長、1935. 5.
	(昭和10)工務局長。1936.10.(昭和11)退官。陸軍省軍事課満州
	班長の片倉衷(タダシ)・関東軍参謀秋永月三らの薦めにより満州
	国実業部総務司長に転進。三井・三菱の財閥は関東軍が反対の
	ため、遠縁の鮎川義介を説得し日産(日本産業)を誘致。
	 1939(昭和14)商工省次官に就任して帰国。1941(昭和16)東条
	内閣の商工大臣、のち国務大臣・軍需次官を兼任。1944(昭和
	19)軍需省に行政査察使が設置され元商工相藤原銀次郎が就任、
	東条との関係が険悪となり、内閣が解散。
	 太平洋戦争後、戦犯として逮捕され横浜拘置所・大森俘虜収
	容所を経て巣鴨拘置所に移送。1948.12.24(昭和23)釈放。
	 1957(昭和32)病気で引退した石橋首相の後を継いで自由民主
	党総裁となり第1次岸内閣を組閣。1960(昭和35)第2次内閣を
	組閣し、日米安全保障条約の批准を強行し、国会で非難されて
	国会を解散。
	 1967(昭和42)勲一等旭日桐花大綬章、受章。1979(昭和54)国
	連平和賞、受賞。
	 正二位・大勲位菊花綬章が追贈。
	(+)『岸 信介 −権勢の政治家−』
		岩波新書(新赤版368)	1995年 1月20日第1刷発行
		著者:原彬久(ヨシヒサ)
	◎鮎川義介(ヨシスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)とともに「満洲の三スケ」と
	称される(ともに山口県生れ)。
	 墓は山口県田布施(タブセ)町の岸家裏山、静岡県御殿場市の富
	士霊園(三菱地所系列の財団が経営)にも分骨されている。
	◎信介の『瀘過器(ロカキ)』論は武藤富男『私と満州国』に「諸君
	が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得る
	かが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政
	治資金は瀘過器を通ったものでなければならない。つまりきれ
	いな金ということだ。瀘過をよくしてあれば、問題が起っても、
	それは瀘過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。
	そのようなことを心がけておかねばならん」と語ったことが記
	されている。
きし ふうさんろう
	岸 風三楼
	1910. 7. 9(明治43)
	1982. 7. 2(昭和57)
	◇俳人。本名は周藤二三男。
きし やまじ
	貴司 山治
	1899.12.22(明治32)
	1973.11.20(昭和48)
	◇小説家。本名は伊藤好市。徳島県阿波鳴門生れ。貴司悦子(エ
	ツコ)の夫。
	 1929(昭和 4)日本プロレタリア作家同盟の創立と同時に加盟。
	戦後は文芸通信社(文芸社)を経営。
	(5)四年日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立と同時に加
	盟、……。
	(13)昭和五年日本プロレタリア作家同盟の創立と共に参加、…。
きしがみ しつけん
	岸上 質軒
	1860(万延元. 9. 1)
	1907. 6. 2(明治40)
	◇漢詩人・評論家。名は操。江戸浅草七軒町の生れ。
きしがみ だいさく
	岸上 大作
	1939.10.21(昭和14)
	1960.12. 5(昭和35)
	◇歌人。兵庫県生れ。1958(昭和33)国学院大学入学。学生運動
	(安保闘争)と恋により睡眠薬を服毒、縊死(イシ)。
きしだ ぎんこう《きしだ ぎんかう》
	岸田 吟香
	1833(天保 4. 4. 8)
	1905. 6. 7(明治38)
	◇江戸幕末・明治期の新聞記者・企業家。本名は銀次。岸田劉
	生(リュウセイ)の父。美作(岡山県)生れ。
	 江戸の林塾に学ぶ。J・C・ヘボン博士のもとで日本最初の
	和英辞書『和英語林集成』の編纂を助け、1867(慶応 3)上海で
	刊行。ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の「海外新聞」の刊行に協力。
	 1873(明治 6)より東京日日新聞の記者となる。
	 また、目薬「精キ水」を販売。訓盲院を開設。
	 さらに日清貿易研究所・東亜同文会・同仁会を創設に尽力し、
	日中文化の交流に努める。
きしだ くにお
	岸田 国士(岸田 國士)
	1890.11. 2(明治23)
	1954. 3. 5(昭和29)
	◇劇作家・小説家・翻訳家・評論家。東京四谷右京町生れ。
	 陸軍の名古屋地方幼年学校・東京中央幼年学校本科・士官学
	校を経、少尉に任官し第一次大戦に出征。1914(大正 3)軽微な
	肺尖(ハイセン)カタルを口実に退官。
	 1917(大正 6)東京大学仏文科選科に入学、途中で1919(大正
	 8)渡仏、父を失い1923(大正12)帰国。
きしだ としこ
	岸田 俊子
	⇒なかじま しょうえん(中島 湘烟)
きしだ ひでと
	岸田 日出刀
	1899. 2. 6(明治32)
	1966. 5. 3(昭和41)
	◇建築家・随筆家。福岡市生れ。東京大学工学部卒業。東京大
	学教授。
	 東京大学安田講堂を設計。
きしだ りゅうせい
	岸田 劉生
	1891. 6.23(明治24)
	1929.12.20(昭和 4)
	◇洋画家。岸田吟香(ギンコウ)の第九子四男。東京銀座生れ。
	 黒田清輝に油絵を学ぶ。日本画もてがける。
	 腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して急逝。
	 娘麗子の一連の肖像画が有名。
きしべ ふくお
	岸辺 福雄
	1873. 2.14(明治 6)
	1958. 9. 9(昭和33)
	◇幼児教育家・口演童話家。
きじま はじめ
	木島 始
	1928(昭和 3)
	2004. 8.14(平成16)
	◇詩人・英米文学者。本名は小島昭三(コジマ・ショウゾウ)。京都市
	生れ。
	 1952(昭和27)「列島」を創刊。
きしもと たつお《きしもと たつを》
	岸本 辰雄
	1852(嘉永 5)
	1912. 4. 4(明治45)
	◇明治時代の法律学者。
	 はじめ蘭式兵法を修め、1870(明治 3)上京して大学南校に入
	学。司法省明法寮で法学を学ぶ。1876(明治 9)司法省最初の留
	学生となりフランスに留学、1880(明治13)帰国。
	 法制局などを経て判事となり、法典編纂に従事。1881(明治
	14)西園寺公望(キンモチ)らと明治法律学校(現:明治大学)を創立し、
	校長に就任。
	 1893(明治26)官を辞して弁護士となる。
きしもと ちょうわ《きしもと てうわ》
	岸本 調和
	⇒ちょうわ(調和)
きしもと のぶた
	岸本 能武太
	1865(慶応元.12. 6)
	1928.11.16(昭和 3)
	◇英語学者・宗教学者。
きしもと ひでお《きしもと ひでを》
	岸本 英夫
	1903(明治36)
	1964(昭和39)
	◇宗教学者。兵庫県生れ。東京大学教授。
きしもと ゆずる《きしもと ゆづる》
	岸本 由豆流
	1789
	1846(弘化 3. 5.17)
	◇江戸後期の国学者。名は由豆流・弓弦、通称は大隅(タイグウ)、
	号は(「木」偏+「在」)園(ヤマブキソノ)。本姓は朝田氏。伊勢朝田村生
	れ。
	 江戸に出て幕府の弓弦師岸本讃岐の養子となる。村田春海に
	師事し国学を学び、林述斉に儒学を学ぶ。
	 考証学にすぐれ、歌人・蔵書家としても著名。
	 著書は『万葉集攷証』・『土佐日記考』など。
	(*)1789(天明 9,寛政元)。
ぎじょ《ぎぢよ》
	祇女(妓女)
	生年不詳
	没年不詳
	◇『平家物語』に登場する、京堀川の白拍子(シラビョウシ)。近江
	国祇王村生れ。父は平氏の家人江部九郎時久、母は閉(トジ)、
	姉は祇王(妓王)(ギオウ)。
	 父の死後、母・姉とともに京都に出て白拍子となり、姉が平
	清盛の寵愛を受ける。のち姉が推挙した白拍子の仏御前(ホトケゴ
	セン)に清盛の寵愛が移り、母・姉とともに出家して嵯峨の往生
	院に隠れた。
	◎京都市右京区嵯峨にある祇王寺は、往生院の跡地を尼寺にし
	たと伝えられている。
きそ きざん
	木蘇 岐山
	1857(安政 4. 2.27)
	1916. 7.28(大正 5)
	◇漢詩人。名は牧。
きそ こく
	木蘇 穀
	1893. 8.26(明治26)
	没年不詳
	◇雑誌記者・評論家・翻訳家。
きそ よしなか
	木曾 義仲
	⇒みなもとのよしなか(源 義仲)
きた いっき
	北 一輝
	1883. 4.15(明治16)
	1937. 8.19(昭和12)
	◇大正・昭和初期の右翼革命家。本名は輝次郎。新潟県佐渡生
	れ。急進派青年将校の偶像となり、「高天原(タカマガハラ)」とも「魔
	王」とも呼ばれる。
	 早稲田大学で聴講生として進化論・社会主義思想などを学ぶ。
	 1906(明治39)中国革命同盟会に入党。1911.10.(明治44)上海
	に渡り宋教仁らの革命運動に参加。1916(大正 5)再び中国に渡
	る。
	 1919(大正 8)上海で『日本改造法案大綱』を執筆、陸軍青年
	将校に深い影響を与える。
	 大川周明・満川亀太郎(ミツカワ・カメタロウ)らと猶存社(ユウゾンシャ)を
	組織。1920(大正 9)大川の招きに応じて帰国。1923(大正12)五
	・一五事件で大川と対立して猶存社を解散。
	 1926. 8.27(大正15)怪写真流布の首謀者として検挙(朴烈<ボ
	クレツ>事件)。
	 1936(昭和11)二・二六事件により 8.28中野区桃園町の自宅
	で東京憲兵隊により逮捕。翌年首謀者として皇道派の青年将校
	とともに代々木練兵場で銃殺。
	 著書は『国体論及純正社会主義』・『支那革命外史』など。
	(3)北 一輝(きた かずてる)、誕生日は 4.16、没日は1937.
	 8. 9(昭和12)。(*)没日は誤り。
	(5)北 一輝(きた いっき)、誕生日は 4.15、没日は1936. 8.
	19(昭和11)。
	(8)北 一輝(きた いっき)、誕生日は 4. 3、没日は1937. 8.
	19(昭和12)。
	(11)北 一輝(きた いっき)、誕生日は 4.15、没日は1936. 8.
	19(昭和11)。
	◆東京都目黒区下目黒3丁目の目黒不動に大川周明の筆になる
	「北一輝先生碑」がある。
	◎右眼は義眼。
	◎憲兵隊の取り調べで三井から活動費を得ていたことを突かれ
	ると「財閥を否定して居ると云ふても彼と是れとは別問題で、
	恰も明治維新当時の桂小五郎、西郷吉之助が藩侯の禄を貰って
	居たのと其の本質に於ては大差がないと思ひます」と答えてい
	る。
きた さだきち
	喜田 貞吉
	1871(明治 4)
	1939(昭和14)
	◇歴史学者。徳島県生れ。東京帝国大学国史科卒。
	 1899(明治32)日本歴史地理研究会を組織し機関紙「歴史地理」
	を発刊。
	 1901(明治34)文部省に入り国定歴史教科書の編集に従事。
	1911(明治44)南北朝正閏(セイジュン)問題で休職処分。この間に法
	隆寺再建論を主張。
	 以降、京都帝国大学教授・東北帝国大学講師など。
	 著書は『帝都』・『読史百話』・『韓国の併合と国史』など。
きだ みのる
	きだ みのる
	1895. 1.11(明治28)
	1975. 7.25(昭和50)
	◇社会学者・小説家・翻訳家。本名は山田吉彦(ヨシヒコ)、別称は
	木田稔。鹿児島県奄美大島の名瀬生れ。
	 慶応義塾大学理財科中退。
	 著書は『気違い部落周游紀行』、翻訳はレヴィ・ブリュール
	著『未開社会の思惟』・ファーブル著『昆虫記』(林達夫との
	共訳)など。
	(1)生年は1895(明治28)。
	(3)生年は1894(明治27)。
	(5)生年は1895(明治28)。
	(8)生年は1895(明治28)。
	(11)生年は1895(明治28)。
	(13)生年は1894(明治27)。
きだ みのる
	木田 稔
	⇒きだ みのる(きだ みのる)
きたお かめお
	北尾 亀男
	1892. 8.25(明治25)
	1958. 2. 8(昭和33)
	◇小説家・劇作家。
きたおおじ ろさんじん《きたおほぢ ろさんじん》
	北大路 魯山人
	1883. 3.23(明治16)
	1959.12.21(昭和34)
	◇陶芸家・書家。本名は房次郎、旧姓は福田。
	(8)北大路 魯山人(きたおうじ ろさんじん)。
	(*)北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)。
きたがわ うたまろ《きたがは うたまろ》
	喜多川 歌麿
	1753(宝暦 3)
	1806.10.31(文化 3. 9.20)
	◇江戸後期の浮世絵師。喜多川派の始祖。名は市太郎、のち
	雄助。生国不詳。
	 江戸に出て鳥山石燕に学び、初め北川豊章(トヨアキ)と称した。
	 美人画で有名。
	 1804(文化元)筆禍に遭い、身心とも衰える。
きたがわ げんたろう
	北川 源太郎
	⇒げんだーぬ(ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ)
きたがわ ごるごろ《きたがは ごるごろ》
	北川 ゴルゴロ
	1899(明治32)ころ
	1978(昭和53)
	◇ウィルタ(オロッコ)民族の古老。
きたがわ ちよ
	北川 千代
	1894. 6.14(明治27)
	1965.10.14(昭和40)
	◇児童文学作家。本姓は高野。埼玉県生れ。三輪田高等女学校
	中退。1915(大正 4)結婚〜1922(大正11)離別の間、江口渙(エグ
	チ・キヨシ)の妻として江口千代。
きたがわ ももお
	北川 桃雄
	1899. 3. 3(明治32)
	1970. 5.19(昭和45)
	◇美術史家。
きたぎし ゆうきち
	北岸 佑吉
	1903. 7.29(明治36)
	1976. 7.23(昭和51)
	◇演劇評論家。
きたざと しばさぶろう《きたざと しばさぶらう》
	北里 柴三郎
	1852(嘉永 5)
	1931(昭和 6)
	◇細菌学者。
	 ドイツに留学し、コッホに師事。1889(明治22)ベルリンのコッ
	ホ研究所で破傷風菌を発見、純粋培養に成功。
	◆墓は東京都港区の青山霊園。
きたざわ らくてん
	北沢 楽天(北澤 樂天)
	1876. 7.20(明治 9)
	1955. 8.25(昭和30)
	◇漫画家。本名は保次。埼玉県大宮生れ。二〇歳で横浜の英文
	週刊誌「ボックス・オブ・キューリオス」の記者。福沢諭吉の眼に
	とまり、1897(明治30)高給で時事新報社へ引き抜かれる。1905.
	 4.(明治38)「東京パック」を創刊、1911. 6.(明治44)楽天社を
	辞めるまで主筆(第一次東京パック)。有楽社を興し、1912. 6.
	(明治45)「楽天パック」・「家庭パック」を創刊、1914.11.(大正
	 3)終刊。職業漫画家の第一号。
きたじま けんぎょう
	北島 検校
	生年不詳
	1690(元禄 3)
	◇江戸前期の邦楽家。
	 八橋検校の門人。
きたしらかわのみや よしひさしんのう
	《きたしらかはのみや よしひさしんわう》
	北白川宮 能久親王
	⇒よしひさ しんのう(能久 親王)
きたその かつえ
	北園 克衛
	1902.10.29(明治35)
	1978. 6. 6(昭和53)
	◇詩人。本名は橋本健吉、初期の筆名は亜坂健吉。三重県生れ。
	中央大学経済学部卒業。
	(1)北園 克衛(きたその かつえ)。
	(3)北園 克衛(きたその かつえ)。
	(5)北園 克衛(きたぞの かつえ)。
	(8)北園 克衛(きたその かつえ)。
	(11)北園 克衛(きたその かつえ)。
	(13)北園 克衛(きたぞの かつえ)。
きただ うすらい
	北田 薄氷
	1876. 3.14(明治 9)
	1900.11. 5(明治33)
	◇小説家。本名は尊子(タカコ)。大阪生れ。尾崎紅葉の媒酌で
	1898. 7.(明治31)梶田半古(ハンコ)と結婚し、梶田姓。腸結核で
	死去。
	(3)誕生日は 3.16。
	(5)誕生日は 3.14。
	(7)誕生日は 3.。
	(8)誕生日は 3.14。
	(11)誕生日は 3.14。結婚生活二ヵ年で肺を病んで没した。
	(13)明治九年三月大阪に生れ、……。腸結核のため没した。
きたに ほうぎん
	木谷 蓬吟
	1977. 4. 3(明治10)
	1950. 4. 6(昭和25)
	◇浄瑠璃研究家。本名は正之助。
きたに りっか
	喜谷 六花
	1877. 7.12(明治10)
	1968.12.20(昭和43)
	◇俳人。本名は良哉。東京浅草馬道生れ。哲学館(現:東洋大学)
	卒業。1897. 6.(明治30)下谷三の輪の梅林寺住職、1952(昭和
	27)曹洞宗権大教師。
きたのまんどころ
	北政所
	1548(天文17)
	1624(寛永元. 9.)
	◇豊臣秀吉の正室。名は弥(ネネ)・豊臣吉子、法名は高台院(コウダ
	イイン)湖月心公。足軽の杉原助左衛門定利の娘、母は杉原七郎兵
	衛家利の娘、浅野又右衛門長勝の養女。
	 1561(永禄 4)14歳のとき秀吉(26歳)に嫁ぐ。
	 1585(天正13)従三位、北政所。1588(天正16)准三后、従一位。
	 子がなかったため秀吉の没後、後継者秀頼の生母淀殿(側室)
	に大坂城を明け渡し、尼となって高台院と称し、京都三本木に
	幽居。1605(慶長10)徳川家康の助力を得て高台寺を建立。大坂
	城落城・豊臣氏滅亡後も1万3千石余を与えられ静かな晩年を
	送る。
きたばたけ あきいえ《きたばたけ あきいへ》
	北畠 顕家
	1318(文保 2)
	1338(延元 3. 5.22)
	◇南北朝時代の武将。北畠親房(チカフサ)の長男、顕信(アキノブ)の
	兄。権中納言。
	 1333(元弘 3)陸奥守(ムツノカミ)。義良(ノリナガ)親王(のちの後村
	上天皇)を奉じて奥羽を鎮定、1335(建武 2)鎮守府将軍を兼任。
	 のち足利尊氏が建武政府に叛した際、親王を奉じて上洛して
	これを九州へ西走せしめ、帰任する。
	 尊氏再挙して東上、1336後醍醐天皇が吉野落ちして南北朝分
	立するに及んで、翌1337(<南>延元 2,<北>建武 4)義良親王を
	奉じて再びこれを討とうとして西上。各地で足利軍と戦ったが、
	高師直(コウノモロナオ)に破られ和泉(イズミ)石津で敗死した。
	(*)1336(建武 3,延元元)。
	◎最後の出陣にあたって、六ヶ条からなる諫奏(カンソウ)を後醍醐
	天皇に呈している。
きたばたけ あきのぶ
	北畠 顕信
	生年不詳
	1380(<南>天授 6,<北>康暦 2)
	◇南北朝時代の武将。北畠親房(チカフサ)の次男、顕家(アキイエ)の弟。
	右大臣、大納言。春日少将。
	 足利尊氏の謀反に際し、後醍醐天皇を京都花山院から吉野へ
	導く。
	 1337(<南>延元 2,<北>建武 4)兄顕家とともに陸奥より西上
	して奮闘。翌年、顕家の死後、鎮守府将軍に補せられ、1340年
	下向し東北地方の南朝勢力の中心として奮戦。
	 その後、奥羽に在って父を助けて各地に転戦悪戦苦闘の末、
	吉野に帰る。
	(*)1340(<南>延元 5,<南>興国元,<北>暦応 3)。
きたばたけ ちかふさ
	北畠 親房
	1293(正応 6)
	1354(正平 9. 4.17)
	◇南北朝時代の南朝の公卿・武将・歌人。後醍醐天皇の重臣。
	法名は宗玄(ソウゲン)のち覚空(カククウ)。師重の子、顕家(アキイエ)・
	顕信(アキノブ)の父。
	 養育した世良(トキナガ)親王の早逝に責任を感じ、1330(元徳 2)
	出家。
	 建武中興で再び出仕、義良(ノリナガ)親王を奉じて長子北畠顕
	家と奥羽を鎮定。
	 1338(延元 3)東国に下り、常陸国小田城にあって『神皇正統
	記(ジンノウショウトウキ)』を著す。
	 その後、吉野に帰り、後村上天皇をたすけて南朝の支柱となっ
	た。賀名生(アノウ)にて没。
	◎吉田定房(サダフサ)・藤原宣房(ノブフサ)とともに「後(ノチ)の三房」
	の一人。
きたばたけ やほ
	北畠 八穂
	1903.10. 5(明治36)
	1982. 3.18(昭和57)
	◇小説家・児童文学者・詩人。本名は美代。青森市生れ。実践
	女学校専門学部国文科中退。一時、深田久弥(キュウヤ)の妻。
きたばやし とうま
	北林 透馬
	1904.12.10(明治37)
	1968.11.13(昭和43)
	◇小説家。本名は清水金作。
きたはら けんじ
	北原 謙二
	1940.10. 8(昭和15)
	2005. 1.26(平成17)
	◇歌手。本名は北原謙太郎(ケンタロウ)。大阪府生れ。
	 大阪のジャズ喫茶で歌っていたところをスカウトされる。
	 1961(昭和36)『日暮れの小径』でデビュー。
	 1962(昭和37)『若いふたり』がヒット。
	 1991(平成 3)ショーのリハーサル中に脳内出血で倒れたが、
	5年間の懸命のリハビリを経て歌手にカムバック。
	 虚血性心疾患で死去。
きたはら たけお《きたはら たけを》
	北原 武夫
	1907. 2.28(明治40)
	1973. 9.29(昭和48)
	◇小説家。神奈川県小田原市生れ。新潟高等学校を中退後、慶
	応義塾大学仏文科入学、国文科に転科し1932(昭和 7)卒業。
	 尾崎士郎の後、宇野千代の夫。
きたはら てつお《きたはら てつを》
	北原 鉄雄
	1887. 9. 5(明治20)
	1957. 3.28(昭和32)
	◇和蘭陀書房(大正六年アルスと改称)の創立者。北原白秋(ハクシュ
	ウ)の弟。
きたはら はくしゅう《きたはら はくしう》
	北原 白秋
	1885. 1.25(明治18)
	1942.11. 2(昭和17)
	◇明治〜昭和期の詩人・歌人・童謡作家。本名は隆吉、号は
	射水。福岡県沖端(オキノハタ)村生れ。北原鉄雄(テツオ)の兄。
	 1903(明治36)上京し、早稲田大学英文科に入学し間もなく退
	学。1908(明治41)吉井勇らと「パンの会」を作り、1909(明治42)
	「スバル」を創刊。1918(大正 7)鈴木三重吉創刊の雑誌「赤い鳥」
	で童謡を担当。1922(大正11)山田耕筰と雑誌「詩と音楽」を創刊。
	 満州を舞台とした童謡集『満洲国図』・台湾紀行『華麗島風
	物誌』など。
	◆白秋忌[11. 2](郷里)福岡県柳川市沖端町の詩碑苑で墓前祭。
	 墓は東京都府中市の多磨霊園。
	◎1912. 7.(明治45)隣家の人妻松下俊子の夫から姦通罪で告訴
	され、市ヶ谷未決監に二週間拘留、無罪免訴。1913. 4.(大正
	 2)離婚した俊子と結婚。1914(大正 3)俊子と離婚。1916. 5.
	(大正 5)江口章子(アヤコ)と結婚。1920. 5.(大正 9)章子と離婚。
	1921. 4.(大正10)佐藤菊子と結婚。
	◎野口雨情(ウジョウ)・西条八十(ヤソ)とともに童謡・民謡詩人の
	三大巨匠といわれる。
きたみ しおこ
	北見 志保子
	1895. 1. 9(明治28)
	1955. 5. 4(昭和30)
	◇歌人。本名は浜あさ子、小説の筆名は山川朱実(アケミ)。高知
	県生れ。歌人橋田東声に嫁し、のち浜忠次郎と結婚。
	(3)北見 志保子(きたみ しほこ)、生年は1895(明治28)。
	(5)北見 志保子(きたみ しおこ)、生年は1885(明治18)。
	(8)北見 志保子(きたみ しおこ)、生年は1895(明治28)。
	(11)北見 志保子(きたみ しおこ)、生年は1885(明治18)。
	(13)北見 志保子(きたみ しほこ)、生年は1895(明治28)。
きたみかど じろう《きたみかど じらう》
	北御門 二郎
	1913(大正 2)
	2004. 7.17(平成16)
	◇トルストイ研究家・翻訳家。熊本県湯前町の地主の次男。
	 第五高等学校を卒業。
	 東京帝国大学英文科に進学。
	 日中戦争開始後の1938(昭和13)、徴兵を拒否して大学を中退
	し帰郷。
	 1960(昭和35)岩波文庫のトルストイの作品で翻訳の大家米川
	正夫の誤訳を多数指摘し論争となる。
	 1978(昭和53)『戦争と平和』・『アンナ・カレーニナ』・
	『復活』の3部作を翻訳出版。
	 1979(昭和54)第16回日本翻訳文化賞を受賞。
きたむら きぎん
	北村 季吟
	1624(寛永元.12.11)
	1705(宝永 2. 6.15)
	◇江戸前期の歌人・俳人・古典学者。通称は久助、号は慮庵(リョ
	アン)・拾穂(シュウスイ)・七松子。近江国生れ。
	◆季吟忌[旧暦 6.15]。
	◆墓は東京都台東区池之端2丁目の正慶寺。
きたむら きはち
	北村 喜八
	1898.11.17(明治31)
	1960.12.27(昭和35)
	◇演出家・劇作家・演劇評論家。石川県生れ。四高を経て1924
	(大正13)東京帝国大学英文科卒業。
きたむら こまつ
	北村 小松
	1901. 1. 4(明治34)
	1964. 4.27(昭和39)
	◇作家・劇作家。青森県生れ。慶応義塾大学英文科卒業。
きたむら さよ
	北村 サヨ
	1900(明治33)
	1967.12.28(昭和42)
	◇宗教家・天照皇大神宮教教祖。山口県玖珂郡日積村生れ。
	 21歳の時、田布施村北村清之進に嫁す。
	 1947(昭和22)宗教法人天照皇大神宮教を設立。 
きたむら すすむ
	喜多村 進
	1889. 9.14(明治22)
	1958.11. 1(昭和33)
	◇小説家。初期の筆名は南十三。
きたむら とうこく
	北村 透谷
	1868.12.29(明治元.11.16)
	1894. 5.16(明治27)
	◇文芸評論家・詩人・戯曲家。本名は門太郎(モンタロウ)、別号は
	蝉羽(センウ)・脱蝉・脱蝉子・電影・電影窟主人・函嶺山人・
	蝉生・蘆水生・羊仙・透生・「すきや」・「ほとゝぎす」・桃紅・
	桃紅処士・北洲寒生・風南子・無性子・透谷塵人・透谷隠者・
	透谷隠士・透谷庵主・透谷庵・透谷子・透谷生・谷・透谷蝉羽
	・透・蝉・蝉羽子。相摸国小田原唐人町(神奈川県小田原町万年
	四丁目五五九番地)生れ。
	 1881(明治14)東京市京橋区彌左衛門町七番地に移住。1882. 1.
	23(明治15)泰明小学校高等科卒業。東京専門学校入学。1888. 3.
	(明治21)数寄屋橋教会で受洗、同年11. 3石坂昌孝の長女ミナ
	(三歳年長)と結婚。
	 躁鬱病質が進行し、1893.12.(明治26)咽喉を傷つけ自殺未遂。
	東京・芝公園地第二〇号四番の自宅の庭で縊死(イシ)。
きたむら ばこつ
	北村 馬骨
	生年不詳
	1915(大正 4)
	◇小説家。別号は浮世夢介・三唖。
きたむら はつお
	北村 初雄
	1897. 2.13(明治30)
	1922.12. 2(大正11)
	◇詩人。東京生れ。東京高商卒業。病没。
きたむら ろくろう《きたむら ろくらう》
	喜多村 緑郎
	1871(明治 4. 7.23)
	1961. 5.16(昭和36)
	◇新派俳優(女形)。本名は六郎。東京日本橋生れ。
	 青柳捨三郎一座をふりだしに、1896(明治29)高田実らと成美
	団を結成。のち東京の本郷座を本拠とする。
	◎河合武雄と並ぶ女形として好評を博する。
きっかわ これたり《きつかは これたり》
	吉川 惟足
	⇒よしかわ これたる(吉川 惟足)
きっかわ これたる《きつかは これたる》
	吉川 惟足
	⇒よしかわ これたる(吉川 惟足)
きでら れいじ
	木寺 黎二
	1907. 5.30(明治40)
	1956.12. 9(昭和31)
	◇ロシア文学者。本名は松尾隆。
きど こういち《きど かういち》
	木戸 幸一
	1889(明治22)
	1977(昭和52)
	◇政治家。東京生れ。木戸孝允(タカヨシ)の孫。
	 京都帝国大学卒業。
	 1930(昭和 5)内大臣秘書官、1940(昭和15)内大臣。東条英機
	(ヒデキ)内閣成立のために暗躍し、極東国際軍事裁判で終身禁錮
	刑となるが、1953(昭和28)出獄。
	 著書は『木戸幸一日記』。
きど たかよし
	木戸 孝允
	1833(天保 4)
	1877. 5.26(明治10)
	◇幕末〜明治初期の政治家。長州萩藩士。通称は桂小五郎(コゴ
	ロウ)のち貫治、木戸準一郎、号は松菊・木圭。
	 7歳の時に桂家の養子となる。
	 吉田松陰に師事。剣術を江戸の斎藤弥九郎、洋式兵術を江川
	太郎左衛門に学ぶ。
	 藩論を尊皇攘夷から倒幕に導き、薩長連合の長州代表となる。
	 西郷隆盛・大久保利通とともに明治新三傑の一人。木戸幸一
	(コウイチ)の祖父。
	◆墓は京都市東山区の正法寺。
きなしのかるのみこ
	木梨軽皇子
	生年不詳
	没年不詳
	◇5世紀中葉の皇子。父は第19代允恭(インギョウ)天皇、母は忍坂
	大中媛(オサカノオオナカツヒメ)(応神天皇の孫)。
	第20代安康(アンコウ)天皇・第21代雄略(ユウリャク)天皇・軽大娘皇女
	(カルノオオラツメノヒメミコ)の同母兄。
	 允恭天皇の皇太子となる。軽大娘皇女と相愛の仲となり、天
	皇の御膳の汁が凍ったことから露見して皇女は伊予国に流され、
	皇子は赦(ユル)される。
	 天皇の死後、穴穂皇子(安康天皇)と皇位を争い、敗れて物部
	大前宿禰の家に逃れ、穴穂皇子の兵に囲まれて自殺。
	◎『古事記』では、皇子は伊予の湯(道後温泉)に流刑となり、
	先に流されていた軽大娘皇女とともに自殺。
ぎにょ
	祇女(妓女)
	⇒ぎじょ(祇女,妓女)
きの としお
	紀 淑雄
	1872(明治 5. 4.22)
	1936. 4.15(昭和11)
	◇美術研究家。
きのうち よし
	木内 克
	1892. 6.27(明治25)
	1977. 3. 8(昭和52)
	◇彫刻家。
きのかいおん
	紀 海音
	1663(寛文 3)
	1742(寛保 2.10. 4)
	◇江戸前期の浄瑠璃作者・俳人・狂歌作者。本名は榎並(エナミ)
	喜右衛門のち善八、別号は白鴎堂(鴎:「區」偏+「鳥」)(ハクオウドウ)
	・鳥路観(チョウロカン)・貞峨(テイガ)・契因(ケイイン)。永田貞柳の実弟。
きのくにや ぶんざえもん《きのくにや ぶんざゑもん》
	紀国屋 文左衛門
	1672(寛文12)
	1734(享保19. 4.24)
	◇江戸中期の有名な豪商。姓は五十嵐。紀伊(キイ)国熊野の人。
	風浪を冒しての紀州ミカンを江戸出荷し、江戸の大火の時に木
	曾の材木の買い占めて一代で巨万の財を築いた。当時、紀文大
	尽(ダイジン)と呼ばれ、奈良屋茂左衛門(モザエモン)(初代)と並び称
	されたが、晩年は落魄。
きのした けいすけ
	木下 恵介
	1912.12. 5(大正元)
	1998.12.30(平成10)
	◇映画監督。静岡県浜松市生れ。
	 1933(昭和 8)写真学校を卒業後、松竹蒲田撮影所技術部に入
	社。
	 撮影助手・助監督を経て、1943(昭和18)『花咲く港』で監督
	デビュー。
	 作品は1948(昭和23)『破れ太鼓』・1951(昭和26)『カルメン
	故郷に帰る』・1954(昭和29)『二十四の瞳』・1955(昭和30)
	『野菊の如く君なりき』・1957(昭和32)『喜びも悲しみも幾年
	月』・1958(昭和33)『楢山節考』など。
きのした じかい
	木下 二介
	1896.10. 7(明治29)
	1968. 3.27(昭和43)
	◇挿絵画家。本名は久吉、旧号は大甕・大雍。鳥取県米子生れ。
	 河井寛次郎に陶芸を、矢野橋村に日本画を学ぶ。
きのした たかのり
	木下 孝則
	1894. 2.24(明治27)
	1973. 3.29(昭和48)
	◇画家。
きのした たかふみ
	木下 幸文
	1779(安永 8)
	1821(文政 4.11. 2)
	◇江戸後期の歌人。名は義質、号は亮々舎(サヤサヤノヤ)。備中国生
	れ。
	(5)木下 幸文(きのした たかぶみ)。
	(6)木下 幸文(きのした たかぶみ)。
	(11)木下 幸文(きのした たかふみ)。
きのした ちょうしょうし
	木下 長嘯子
	1569(永禄12)
	1649(慶安 2. 6.15)
	◇安土桃山時代の武将・江戸前期の歌人。名は勝俊(カツトシ)、
	左近衛権少将。播磨(ハリマ)竜野城主を経て若狭(ワカサ)小浜(オバマ)
	城主、小早川秀秋の兄、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の甥(弟
	木下家定の長子)。関ヶ原の戦の後、封を奪われたが、娘が徳
	川家康の子信吉(ノブヨシ)に嫁しているので悠々自適の生活を送っ
	た。
きのした とうきちろう《きのした とうきちらう》
	木下 藤吉郎
	⇒とよとみ ひでよし(豊臣 秀吉)
きのした なおえ
	木下 尚江
	1869(明治 2. 9. 8)
	1937.11. 5(昭和12)
	◇新聞記者・社会運動家・小説家・評論家。尚江は本名、号は
	松野翠・樹蔭生・残陽生・緑鬢翁・罵花野郎。松本市生れ。松
	本中学時代、国王を処刑したクロンウェルを崇拝し、クロンウェ
	ルと綽名(アダナ)された。1888(明治21)東京専門学校英語法律科
	卒業。1893(明治26)帰郷して弁護士を開業。1897(明治30)普通
	選挙運動で入獄。
きのした もくたろう
	木下 杢太郎
	1885. 8. 1(明治18)
	1945.10.15(昭和20)
	◇詩人・小説家・劇作家・評論家・キリシタン史研究家・医学
	者。本名は太田正雄(マサオ)、別号は「きしのあかしや」・堀花村
	(ホリカソン)・北村清六・地下一尺生・桐下亭(トウカテイ)・葱南(ソウナン)
	・竹下数太郎。静岡県伊東生れ。東京帝国大学医学部卒業、専
	攻皮膚科。1916(大正 5)南満医学堂教授。1921(大正10)米国経
	由でフランスに留学、1924(大正13)帰国。愛知医科大学・東北
	帝国大学・東京帝国大学医学部教授を歴任。特に癩病理の研究
	をする。胃ガンで死去。森鴎外を人生の師と仰ぐ。
きのした ゆうじ
	木下 夕爾
	1914.10.27(大正 3)
	1965. 8. 4(昭和40)
	◇詩人・俳人。本名は優二。広島県深安郡御幸村生れ。名古屋
	薬専卒業。
	◆夕爾忌[ 8. 4]。
きのした りげん
	木下 利玄
	1886. 1. 1(明治19)
	1925. 2.15(大正14)
	◇歌人。本名は利玄(トシハル)。岡山県賀陽(カヨウ)郡足守(アシモリ)町
	(現:岡山市内)生れ。1890(明治23)伯父子爵木下利恭(旧藩主)
	の養嗣子となり、学習院を経て、1911(明治44)東京帝国大学国
	文科卒業。肺結核で死去。
きのつらゆき
	紀 貫之
	 872(貞観14)頃
	 945(天慶 8)
	◇平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。没年は 946(天慶<テンギョ
	ウ> 9)年の説もあり、享年は七四〜七五。 905(延喜 5)醍醐天
	皇の命を受けて『古今和歌集』の撰者の一人となる。 930(延
	長 8)土佐守(トサノカミ)に任じられ、任地で『新撰和歌集』を編纂
	(ヘンサン)。 935(承平 5)帰京、『土佐日記』を書く。紀有朋(アリト
	モ)(紀友則の父)の兄弟紀望行(モチユキ)の子で、紀友則(トモノリ)の従
	兄弟。
	 壬生忠岑(ミブノタダミネ)・凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)と並称され
	る。
きのとものり
	紀 友則
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の撰進
	にあたったが、907(延喜 7)秋頃、完成をみずに没。紀望行(モチ
	ユキ)(紀貫之の父)の兄弟紀有朋(アリトモ)の子で、紀貫之(ツラユキ)の
	従兄弟。
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