フレーム版に戻る ノンフレーム版に戻る ホームページに戻る

                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6161.02

                 人   名   辞   典    《け》       編集:獨  澄旻

-------- け ----------------------------------------------------
げいあみ
	芸阿弥(藝阿彌)
	1431(永享 3)
	1485(文明17.11. 2)
	◇室町後期の画家。姓は中尾、号は学叟、法号は真芸(シンゲイ)。
	能阿弥(真能)の子、相阿弥(真相)の父。
	 父の跡を継いで将軍足利義政に仕え、同朋衆(ドウボウシュウ)と
	なり、書画・諸道具など唐物の目利(メキキ)をする。
	 1480(文明12)弟子賢江祥啓に描き与えた『観瀑僧図』(根津
	美術館所蔵)が唯一の作品。
	(2)生年は1431(永享 3)。同朋衆であったかどうか明らかでは
	ないが,……。
	(4)生年は1431。足利義政の同朋衆の一人として、……。
	(6)生年は1431?。父の跡を継いで将軍家の同朋(ドウボウ)衆と
	なり,……。
	(16)生年は1431(永享 3)。将軍近侍の同朋衆となり,……。
けいうん
	慶運
	生年不詳
	没年不詳
	◇南北朝時代の歌人。浄弁(ジョウベン)の子。
	 頓阿(トンア)・浄弁・吉田兼好(ヨシダ・ケンコウ)とともに「和歌四天
	王」と呼ばれる。
けいこういん しゅうよう
	慶光院 周養
	生年不詳
	1611(慶長16. 4.26)
	◇安土桃山時代の尼僧。伊勢宇治の慶光院4世。
けいこういん せいじゅん
	慶光院 清順
	生年不詳
	1566(永禄 9. 4. 3)
	◇戦国時代の尼僧。伊勢宇治の慶光院3世。
けいざん じょうきん《けいざん ぜうきん》
	瑩山 紹瑾
	1268(文永 5)
	1325(正中 2)
	◇鎌倉後期の僧侶・曹洞宗中興の祖。号は瑩山、諱は紹瑾(ジョ
	ウキン)、諡号(シゴウ)は弘徳円明国師・常済大師・物慈禅師。道元
	4世の法孫。越前生れ。
	 8歳で永平寺3世徹通義介(テッツウギカイ)につき沙弥(シャミ)とな
	る。13歳で永平寺2世懐弉(エジョウ)によって得度。
	 宝鏡寺の寂円、東福寺の湛照・慧暁、興国寺の覚心らに参ず
	る。22歳のとき義介に従い加賀の大乗寺に移る。1298(永仁 6)
	大乗寺2世となる。1300年(正安 2)『伝光録』を著す。
	 1321年(元亨元)能登に総持寺を開き、後醍醐天皇の帰依も受
	け、永平寺とならぶ曹洞宗の本山となる。
	◎曹洞宗では道元を高祖、瑩山を太祖、併せて両祖と呼ぶ。
けいたい てんのう《けいたい てんわう》
	継体 天皇
	 450ころ
	 531ころ
	◇第23代天皇。名は男大迹尊(オオドノミコト)・彦太尊(ヒコフトノミコト)。
	彦主人王(ヒコウシノオオキミ)の第一王子、母は振媛、応神天皇五世の
	孫とする。越前国坂井郡三国生れ。
	 後継ぎのなかった武烈(ブレツ)天皇の死後、大伴金村(オオトモノカナ
	ムラ)・物部麁鹿火(モノノベノアラカビ)らに擁立されて北陸地方(越前
	または近江)から大和(ヤマト)に入り皇位を継ぎ、反対勢力が強かっ
	たので河内で即位。
	 都は河内国樟葉宮(クスハノミヤ)(現:大阪府枚方市)など。
	 在位25年( 507〜 531)で、摂津国島上郡に埋葬されたとされ
	る。
	(*)没年は文献によって異説がある。
	◆墓は、宮内庁では藍野陵(現:大阪府茨木市三島の太田茶臼山
	古墳)、一般には今城塚古墳とする。
	◎このころ朝鮮半島における日本の勢力は衰え、在位中に任那
	(ミマナ)4県を百済(クダラ)に割譲、また筑紫(ツクシ)では磐井(イワイ)
	の乱が起こった。
けいちゅう
	契沖(契冲)
	1640(寛永17)
	1701(元禄14. 1.25)
	◇江戸前期の真言宗僧・国学者・歌人。字は空心、俗姓は下川、
	契沖・契冲は法号。摂津国尼崎生れ。父は尼崎城主青山氏に仕
	える250石取り下川元全(モトヨシ)。
	 生後間もなく父は浪人となる。7歳のとき、大病にかかる。
	11歳で大坂今里の妙法寺に出家、1652年、13歳で高野山に上り、
	1662(寛文 2)23歳のとき阿闍利(アジャリ)位を得て大阪生玉(イクタマ)
	のの曼陀羅院(マンダライン)の住職となり、このころ下河辺長流(シモ
	カワベ・チョウリュウ)を知る。
	 27歳のころ寺務めを厭い寺を出奔(シュッポン)大和・葛城(カツラギ)
	などを巡歴、石に頭を打ちつけて死のうとしたが果たさず、高
	野山に上り菩薩戒(ボサツンイ)を受ける。
	 1678(延宝 6)39歳のころ、母を養うため摂津今里の妙法寺の
	住職になる。
	 母が亡くなったあと、1690(元禄 3)51歳ころ、大阪高津(コウヅ)
	の円珠庵に隠棲する。
	(*)1652(慶安 5,承応元)。
けいてん ぼくどう
	敬天 牧童
	1875.11.10(明治 8)
	1968. 6.23(昭和43)
	◇詩人・俳人。本名は野田良治、旧姓は今村。丹波国何鹿(イカル
	ガ)郡生れ。大阪の泰西学館を経て、1896(明治29)上京し東京
	専門学校に学び、翌年公使館及び領事館書記生試験に及第、外
	交官になる。『日葡辞典』(1963. 4.有斐閣)を編纂。
けつ しん
	蕨 真(蕨 眞)
	1876. 8.20(明治 9)
	1922.10.14(大正11)
	◇歌人。本名は蕨真一郎(ワラビ・シンイチロウ)、号は杉霊・武射子・
	礎山(ソザン)・農林山人。千葉県山武郡睦岡村生れ。1911(明治
	44)農林学校を創設。
けま なんぼく
	食満 南北
	1880. 7.31(明治13)
	1957. 5.14(昭和32)
	◇劇作家。本名は貞二。
げんくろう よしつね
	源九郎 義経
	⇒みなもとのよしつね(源 義経)
けんこう《けんかう》
	兼好
	⇒よしだ けんこう(吉田 兼好)
げんこつ おしょう《げんこつ をしやう》
	拳骨 和尚
	⇒もつがい ふせん(物外 不遷)
げんざんみ よりまさ
	源三位 頼政
	⇒みなもとのよりまさ(源 頼政)
げんじ けいた
	源氏 鶏太(源氏 鷄太)
	1912. 4.19(明治45)
	1985. 9.12(昭和60)
	◇小説家。本名は田中富雄。富山市生れ。
	 1930(昭和 5)県立富山商業卒業。同年、住友合資会社(本社)
	に入社。
	 1934(昭和 9)「報知新聞」のユーモア小説募集に佳作入選。
	 戦後、GHQの財閥解体指令により住友本社解散、残務整理
	担当。住友系の不動産会社総務部次長、1956(昭和31)退社。
けんしゅんもんいん《けんしゆんもんゐん》
	建春門院
	⇒たいらのしげこ(平 滋子)
けんしゅんもんいんのちゅうなごん
	《けんしゆんもんゐんのちゆうなごん》
	建春門院 中納言
	1157(保元 2)
	没年不詳
	◇鎌倉前期の日記作者。父は藤原俊成(トシナリ)、母は藤原親忠(チ
	カタダ)の娘で美福門院加賀と呼ばれた女房。藤原定家(サダイエ)の
	同腹の姉。家では健御前(タケゴゼン)と呼ばれた。『建春門院中
	納言日記』の奥書には「建保七年三月三日書了」(1219)とあり、
	七〇歳に満たないで没した。
けんしょう《けんせう》
	顕昭
	1130(大治 5)ころ
	1210(承元 4)以降
	◇平安末期〜鎌倉初期の歌人・歌学者。亮公(スケノキミ)・亮君(スケ
	ノキミ)・亮阿闍梨(スケノアジャリ)・佐阿闍梨(スケノアジャリ)。六条家藤原
	顕輔(アキスケ)の養子。
	 著書は『六百番陳状(顕昭陳状)』・『古今集註』・『袖中抄』
	など。
げんしん
	源信
	 942(天慶 5)
	1017(寛仁元. 6.10)
	◇平安中期の天台宗の僧侶。比叡山横川(ヨカワ)の恵心院に住ん
	だので恵心僧都(エシンソウズ)ともいう。大和当麻(タイマ)の卜部(ウラベ)
	の出身。
	 9歳で比叡山に入り、良源(リョウゲン)(慈恵<ジエ>大師)に師事。
	 すぐれた和讃(ワサン)を多く作り、「和讃」の基盤を確立させた。
	『往生要集(オウジョウヨウシュウ)』を著し、彼以降浄土思想が盛んに
	なり、浄土教の基礎となった。
	◆源信忌(恵心忌)[旧暦 6.10]。
けんそう てんのう《けんそう てんわう》
	顕宗 天皇
	 450
	 487
	◇第23代天皇。名は弘計王(オケオウ)・来目稚子(クメノワクゴ)・袁祁
	之石巣別命。履中(リチュウ)天皇(第17代)の孫、磐坂市辺押磐(イワサ
	カノイチノヘノオシワ)皇子の王子、母は(「草」冠+「夷」補助漢字5589)媛、
	仁賢(ニンケン)天皇(億計王)の弟。
	 父が雄略天皇(第21代)に殺されたとき、難を避けて兄億計王
	(オケオウ)と丹波に逃れる。のち播磨国縮見屯倉(シジミノミヤケ)の首忍
	海部細目(オシヌミノミヤツコホソメ)に牛飼の童として仕える。
	  481(清寧天皇 2)播磨国司の伊与来目部小楯(イヨノクメベ・オダテ)
	の供応の席で弘計王が歌に託して素性を明らかにし、翌年後嗣
	のない清寧(セイネイ)天皇(第22代)に迎えられる。
	 清寧天皇が崩じると兄弟で位を譲り合い、しばらく空位とな
	り姉の飯豊青皇女が政をしていたが、身分を明らかにした弘計
	王が先に即位、近飛鳥(チカツアスカ)八釣宮を都とする。3年後に顕
	宗天皇が崩じて後に兄が即位。
	 即位: 485(乙丑 1. 1)、退位: 487(丁卯 8. 8)。
げんだーぬ
	ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ
	1926ころ
	1984(昭和59)
	◇ウィルタ文化研究者。日本名は北川源太郎。樺太生れのウィ
	ルタ(オロッコ)民族。
	 日本軍に協力し、特務機関員として活動。
	 太平洋戦争後、北海道に移住。北方少数民族の復権運動を行
	ない、ウィルタ文化資料館建設に尽力。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
	◎「オロッコ」は樺太などに住むツングース族の一支族。
けんにち
	顕日
	⇒こうほう けんにち(高峰 顕日)
けんにょ
	顕如
	1543(天文12. 1. 7)
	1592(天正20.11.24)
	◇安土桃山時代の一向宗(浄土真宗)の僧・本願寺11世。諱(イミナ)
	は光佐(コウサ)。大坂石山本願寺10世証如の長男、母は中納言庭
	田重親の娘。顕尊の兄、教如の父。
	 13歳で剃髪・得度、翌日父証如が亡くなる。17大僧正。18歳
	で門跡。21宗徒の階級法衣を制定、弟顕尊を脇門跡とする。
	 1563(永禄 6)三河の一向一揆など諸国門徒の蜂起を以て、
	1570(元亀元)・1576(天正 4)など10年に渡り織田信長に対抗し
	たが、石山合戦で屈服し、信長による正親町(オオギマチ)天皇の仲
	介によって和睦、1580(天正 8.閏3)石山本願寺を退き紀伊鷺森
	に移る。
	 信長の死後、1585(天正13)秀吉から摂津天満崎の地を与えら
	れ大阪に帰る。1581(天正 9)秀吉から京都七条坊門堀川の地を
	寄進され、祖堂を建立(西本願寺の起源)。
	◎顕如の長男教如は父の石山本願寺退去後も籠城。顕如の没後、
	烏丸に東本願寺創建し、退去派と籠城派との間で教団が東西に
	分派した。
げんのう《げんをう》
	玄翁
	1329
	1400(応永 7)
	◇南北朝時代の曹洞宗の僧。源翁とも。諱は心昭。越後の人。
	 5歳で出家して諸方を歴遊、会津に示現寺を開く。
	 鉄製の大形の槌で、下野(シモツケ)那須野の殺生石(セッショウセキ)を
	割って悪霊を除いたと伝えられ、「ゲンノウ」の語源となる。
	(*)1329(嘉暦 4,元徳元)。
けんれいもんいん《けんれいもんゐん》
	建礼門院
	1155(久寿 2)
	1213(建保元.12.13)
	◇平安末期、高倉天皇の中宮。名は平徳子(トクコ)。平清盛(キヨモリ)
	の次女、母は平時信の娘時子(二位尼)。安徳天皇の母。平重盛
	(シゲモリ)(異母)・宗盛(ムネモリ)(同母)・知盛(トモモリ)(同母)の妹、
	重衡(シゲヒラ)(同母)の姉。
	 1171年、後白河法皇の猶子(養女)となり従三位、間もなく入
	内し高倉天皇の女御、翌1172(承安 2)中宮。1178(治承 2)言仁
	(トキヒト)皇子を出産、1ヶ月で皇太子となる。1180(治承 4)言仁
	皇子が即位し安徳天皇となる。1181年、院号宣下、建礼門院と
	称する。
	 1183(寿永 2)平氏が加賀・越中の国境倶利加羅(クリカラ)峠で源
	(木曾)義仲(ヨシナカ)に惨敗し、義仲の軍が京都にせまり、平宗盛
	の率いる平氏一門とともに安徳天皇を奉じて西国に走る。1185
	(元暦 2. 3.24)壇ノ浦で天皇と母二位尼の入水(ジュスイ)を見届
	けてから入水、源氏の兵に救われて京に帰る。
	 吉田の実憲律師の坊に入り落飾(出家)、法名を真如覚と号す
	る。のち大原の寂光院(ジャッコウイン)に住む。
	(*)1171(嘉応 3,承安元)、1181(治承 5,養和元)。
けんれいもんいん うきょうのだいぶ
	《けんれいもんゐん うきやうのだいぶ》
	建礼門院 右京大夫
	1157(保元 2)頃
	没年不詳
	◇平安後期〜鎌倉前期の歌人。父は藤原(世尊寺)伊行(コレユキ)、
	母は楽人大神基政(オオミワ・モトマサ)の娘で箏ひきの名人の夕霧尼。
	享年七五歳以上と思われる。
	 1174(承安 4)建礼門院に宮仕、右京大夫と称する。平重盛(シ
	ゲモリ)の次子資盛(スケモリ)と交情を深め、資盛が壇ノ浦で没後、
	出家して法性寺に入る。晩年、再度後鳥羽院に宮仕えする。
	(2)けんれいもんいん うきょうだゆう(建礼門院 右京大夫)。
	(4)けんれいもんいんうきょうのだいぶ(建礼門院 右京大夫)。
	(6)けんれいもんいんうきょうのだいぶ(建礼門院 右京大夫)。
	(16)けんれいもんいんうきょうのだいぶ(建礼門院 右京大夫)。
----------------------------------------------------------------