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人 名 辞 典 《かわさ》 編集:獨 澄旻
-------- かわさ ------------------------------------------------
かわさき かつ
川崎 克
1880(明治13)
1949(昭和24)
◇大正〜昭和前期の政治家。本名は克(こく)、号は克堂。川崎
秀二の父。
かわさき しょうぞう
川崎 正蔵
1837(天保 8. 7.10)
1912.12. 8(大正元)
◇明治期の実業家。幼名は磯次。
薩摩藩の大坂屋敷用達。帝国郵便汽船会社副社長に就任する
が、1878(明治11)三菱に併合されて退社。
同年、東京築地に造船所を建設。1880(明治13)官営兵庫造船
所を借り受け兵庫川崎造船所を設立。1886(明治19)兵庫造船局
の払い下げを受け、1887(明治20)川崎造船所(現:川崎重工業)
を設立。
日清戦争後の1896(明治29)株式会社に改組、松方正義の三男
松方幸次郎を社長に、養嗣子川崎芳太郎を副社長に据え、引退。
かわさき だいじ
川崎 大治
1902(明治35)
1980(昭和55)
◇昭和期の児童文学者。本名は池田政一。
かわさき たくきち
川崎 卓吉
1871(明治 4)
1936(昭和11)
◇大正〜昭和初期の内務官僚・政治家。
かわさき ちょうたろう
川崎 長太郎
1901.12. 5(明治34)
1985.11. 6(昭和60)
◇小説家。戸籍上の誕生日は11.26。神奈川県小田原生れ。小
田原中学を一年の三学期で中退。
(1)誕生日は11.26。
(5)誕生日は11.26。
(8)誕生日は11.26。
(11)誕生日は11.26。
(13)誕生日は12. 5。
かわさき とがい
川崎 杜外
1884.10.(明治17)
1934. 8.15(昭和 9)
◇歌人。本名は左右。
かわさき なつ
河崎 なつ
1887(明治20)
1966(昭和41)
◇大正・昭和期の婦人運動家・評論家・政治家。
かわさき はちえもん
川崎 八右衛門
1834(天保 5)
1907(明治40)
◇明治期の銀行家。
1870(明治 3)北海道開拓に従事。
1874(明治 7)東京で川崎組を興し、大蔵省国税取扱方・諸官
庁為替業務を行う。1876(明治 9)安田善次郎と第三国立銀行を
創設。1880(明治13)川崎組を川崎第百銀行に改組。1882(明治
15)東海貯蓄銀行を創設。1887(明治20)水戸鉄道を設立。1896
(明治29)入山採炭会社を設立。
かわさき ひでじ
川崎 秀二
1911(明治44)
1978(昭和53)
◇昭和期の政治家。川崎克(カツ)の次男。
かわさき よしひろ
川崎 備寛
1891. 3.13(明治24)
1963. 3.26(昭和38)
◇小説家・翻訳家。
かわじ としあきら
川路 聖謨
1801(享和元. 4.25)
1868(慶応 4. 3.15)
◇江戸末期の幕臣。幼名は弥吉・万福、通称は三左衛門・左衛
門尉、号は敬斎。幕府徒士組内藤吉兵衛の子、小普請組(コブシン
グミ)川路三左衛門光房の養嗣子。豊後国日田(大分県日田市)生
れ。
13歳のとき幕府小普請組。1818年、支配勘定出役・評定所留
役・寺社奉行調役・1835(天保 6)勘定吟味役、佐渡奉行・奈良
奉行・大坂町奉行を経て、1852(嘉永 5)江戸に戻り勘定奉行兼
海防掛。
1853(嘉永 6)筒井政憲とともに全権大使に選ばれて長崎でロ
シア使節プチャーチンと折衝、1855. 2(安政元.12.)幕府全権
筒井政憲・川路聖謨が日露和親条約を結ぶ(下田条約)。炎上し
た京都御所再建を監督。
南紀派の井伊直弼(イイ・ナオスケ)が大老に家茂が将軍の後嗣にな
り、一橋派の聖謨は西丸留守居に左遷され、安政の大獄で免職
・蟄居。
1862(文久 2. 8.)生麦(ナマムギ)事件が発生し、1863(文久 3)
外国奉行に起用されたが、英国と事後処理の折衝に当たり失敗
して辞任。中風になる。
官軍の江戸城総攻撃が予定されていた日、腹を切り短銃で咽
喉を撃って自殺。
『長崎日記』・『下田日記』・『京都日記』などが残されて
いる。
(2)'68(明治1)江戸開城の翌日,ピストルで自殺した。
(4)明治元年、官軍江戸城に迫ると聞き、自刃。
(6)江戸開城の翌日ピストル自殺。
(*)1818(文化15,文政元)、1854(嘉永 7,安政元)。
江戸開城の日は 4.11。
◆墓は東京都台東区池之端2丁目の大正寺。
かわじ としよし《かはぢ としよし》
川路 利良
1836(天保 7)
1879(明治12)
◇明治初年の内務官僚・警察制度の創始者。初名は正之進。薩
摩藩士。
戊辰戦争に参加。
維新後、司法省から警保寮を内務省に移して司法権と警察権
の分離、警視庁初代大警視。大久保利通の腹心として、警察行
政の整備と強化し、明治政権の維持に努める。
1877(明治10)西南戦争には陸軍少将として警察隊を率いて従
軍。
(4)生年は1834。
(25)生年は1834。
かわじ りゅうこう
川路 柳虹
1888. 7. 9(明治21)
1959. 4.17(昭和34)
◇詩人・美術評論家。本名は誠(マコト)。東京生れ。京都美術工
芸学校を経て東京美術学校日本画科卒業。
幕末の外交官川路聖謨(トシアキラ)の孫。
(5)誕生日は 7. 9。
(13)誕生日は 7. 8。
かわしま けいぞう
河島 敬蔵
1859(安政 6. 3. 1)
1935. 5.26(昭和10)
◇英文学者・翻訳家。号は鶯林。
かわしま ちゅうのすけ
川島 忠之助
1853(嘉永 6. 5. 3)
1938. 7.14(昭和13)
◇翻訳家・銀行家。江戸本所外手町生れ。横浜語学所でフラン
ス語を修得、横須賀製鉄所通訳となり英語も学ぶ。1872(明治
5)官営富岡製絲場(経営主任はフランス人)の通訳。
かわしま つゆ
川島 つゆ
1892. 1.10(明治25)
1972. 7.24(昭和47)
◇俳人・俳句研究家。1930(昭和 5)沼田頼輔と結婚、号を
沼田露石、のち離婚。
かわしま でんきち
川島 伝吉
1897. 2. 4(明治30)
1955.10. 3(昭和30)
◇随筆家。
かわしま ゆうぞう
川島 雄三
1918. 2. 4(大正 7)
1963. 4.11(昭和38)
◇映画監督。
かわしま よしこ《かはしま 》
川島 芳子
1907(明治40)
1948(昭和23)
◇清王朝の王族の一人。粛親王善耆(シュクシンノウ・ゼンキ)の第14王女、
川島浪速の養女。
清王朝滅亡後、来日し旧制松本高等女学校に約半年間、通学。
その後、再び中国に渡り満蒙独立運動・諜報活動にかかわり、
「東洋のマタ・ハリ」,「男装の麗人」と呼ばれた。
かわしま よしたろう
川島 芳太郎
1869(明治 2)
1920(大正 9)
◇明治・大正期の実業家。鬼塚善兵衛の子、川島正蔵の養子。
川崎造船の副社長。川崎銀行・神戸高等商業(現:神戸大学)
を創設。
かわしま よしゆき
川島 義之
1878(明治11)
1945(昭和20)
◇大正・昭和前期の陸軍軍人(大将)。
1935(昭和10)皇道派と統制派の対立が激化する中で派閥的無
色を買われて陸軍大臣となる。
かわしま りいちろう
川島 理一郎
1886. 3. 9(明治19)
1971.10. 6(昭和46)
◇大正・昭和期の洋画家。
かわじり せいたん
川尻 清潭
1876. 8. 1(明治 9)
1954.12.14(昭和29)
◇歌舞伎研究家・歌舞伎脚本作家・演劇評論家。本名は義豊。
東京生れ。北州書院卒業。1921(大正10)松竹入社。
川尻宝岑(ホウシン)の養子。
かわじり ほうしん
川尻 宝岑
1842(天保13.12.18)
1910. 8.10(明治43)
◇鼈甲(ベッコウ)問屋・劇通家・歌舞伎脚本作家。本名は義祐、
彦兵衛を襲名。川尻清潭(セイタン)の養父。
かわた おうこう
川田 甕江
1830(天保元. 6.13)
1896. 2. 1(明治29)
◇漢文学者。名は剛(タケシ)、字は毅卿、幼名は竹次郎のち剛介、
号は甕江。川田順の父。
かわた じゅん
川田 順
1882. 1.15(明治15)
1966. 1.22(昭和41)
◇実業家(住友)・歌人。父は川田甕江(オウコウ)。東京浅草生れ。
第一高等学校を経て、1902(明治35)東京大学英文科入学、の
ち法科に転じ、1907(明治40)卒業。
住友総本社入社、1930(昭和 5)常務理事に昇進し満朝・北支
を往来、1936(昭和11)二・二六事件後、突如辞職し実業界から
退く。
戦時中、戦争讃歌を多く作る。
(?)次代の住友総理事と目されていたが、1936(昭和11)二・二
六事件後、突如辞職。
(1)川田 順(かわた じゅん)。
(2)川田 順(かわだ じゅん)。(学)東大政治科。
(3)川田 順(かわた じゅん)。
(5)川田 順(かわだ じゅん)。
(8)川田 順(かわた じゅん)。
(11)川田 順(かわだ じゅん)。
(13)川田 順(かわだ じゅん)。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
かわた みずほ
川田 瑞穂
1879. 5.24(明治12)
1951. 1.27(昭和26)
◇漢学者。号は雪山。
かわだ もいち
川田 茂一
1901. 3.20(明治34)
1974.12.14(昭和49)
◇近代文学研究者。
かわたけ しげとし
河竹 繁俊
1889. 6. 9(明治22)
1967.11.15(昭和42)
◇演劇研究家。旧姓は市村、本姓は吉村。長野県生れ。1911
(明治44)早稲田大学英文科卒業。早稲田大学講師・1934(昭和
9)演劇博物館長。日本演劇学会を創設、会長を務める。
[1]かわたけ しんしち《かはたけ しんしち》
河竹 新七(初世)
1747(延享 4)
1795(寛政 7)
◇歌舞伎脚本作者。通称は竹三郎、俳号は能進。江戸の人。
作品は『垣衣恋写絵(シノブグサコイノウツシエ)』、常磐津『荵売(シノブ
ウリ)』など。
[2]かわたけ しんしち《かはたけ しんしち》
河竹 新七(2世)
⇒かわたけ もくあみ(河竹 黙阿弥)
[3]かわたけ しんしち《かはたけ しんしち》
河竹 新七(3世)
1842(天保13)
1901. 1.10(明治34)
◇歌舞伎の狂言作者。幼名は菊川金太郎のち竹柴(タケシバ)金作
・1884. 4(明治17)新富座で三世河竹新七を襲名、俳号は是水。
江戸神田生れ。
河竹黙阿弥の高弟。
作品は『橋供養梵字文覚(ハシクヨウボンジノモンガク)』・『塩原多助
(シオバラタスケ)一代記』・『怪異談牡丹灯籠(ボタンドウロウ)』・『江
戸育お祭佐七(エドソダチオマツリサシチ)』・『籠釣瓶花街酔醒(カゴツルベ
サトノエイザメ)』など。
かわたけ もくあみ《かはたけ もくあみ》
河竹 黙阿弥(河竹 黙阿彌)
1816(文化13. 2. 3)
1893. 1.22(明治26)
◇江戸末期〜明治前半の歌舞伎の狂言作者。本名は吉村芳三郎、
勝諺蔵(カツゲンゾウ)・柴(斯波)晋輔、二世河竹新七・1881(明治
14)古河黙阿弥、俳号は河竹其水、芳々(ヨシヨシ)(茶番)、晩年は
古河姓を称したこともある。江戸日本橋生れ。
1834(天保 5)19歳の時に五世鶴屋南北の門に入り初世勝諺蔵
と称し、のち二世河竹新七を襲名。1854(安政元)四世市川小団
次のために作品を書くようになり本領を発揮。
生世話物(キゼワモノ)を得意とし、明治期には活歴物・散切(ザン
ギリ)物を作る。
作品数は360編に及び、『三人吉三廓初買(サンニンキチサクルワノハツガイ)』
・『天衣紛上野初花(クモニマゴウウエノノハツハナ)』・『青砥稿花紅彩画
(アオトゾウシハナノニシキエ)』・『白浪五人男(シラナミゴニンオトコ)』・『島鵆
月白浪(シマチドリツキノシラナミ)』など。
(1)誕生日は 2. 3。天保一五年には二世河竹新七を継ぐ。
(5)誕生日は 2.13。天保一四年二八歳のとき二世河竹新七を襲
名。
(8)誕生日は 2. 3。
(11)誕生日は 2.13。天保一四年二八歳のとき二世河竹新七を
襲名。
(13)誕生日は 2. 3。二八歳のときに立作者(文芸部長)となり、
二世河竹新七と改名。
◆黙阿弥忌[ 1.22]。
◆墓は東京都中野区上高田1丁目の源通寺。
かわち せんすけ
河内 仙介
1898.10.21(明治31)
1954. 2.21(昭和29)
◇小説家。本名は塩野房次郎。
かわつら ぼんじ
川面 凡児
1862(文久 2. 4. 1)
1929. 2.23(昭和 4)
◇稜威会(ミイツカイ)の創始者。名は恒次(ツネジ)、姓は蓮池(ハスイケ)、
号は殿山(デンザン)・薫廼舎(カオリノヤ)・法華法印。郷士川面仁左
衛門の次男。
1906(明治39)大日本世界稜威会を設立。禊(ミソギ)の行が広く
知られるようになり、神宮奉斎会・大政翼賛会の年中行事に取
り入れられる。1921(大正10)社団法人稜威会となる。
かわで たかお
河出 孝雄
1901. 4.20(明治34)
1965. 7.22(昭和40)
◇1933(昭和 8)河出書房の創立者。旧姓は島尾。
かわで ぶんじろう
川手 文治郎
1814(文化11)
1883(明治16)
◇金光教(コンコウキョウ)の教祖。のち赤沢姓。備中浅口郡大谷村の
中農の生れ。
文治郎の弟が神がかりして金神信仰を布教し、これに入信。
1859(安政 6)文治大明神と名のり布教を始める。浅尾藩と山伏
(*1)の圧迫を受けたが、1867(慶応 3)神道の白川家に金百両を
献じて神職補任をうけて合法化する。翌年、神号を生神金光大
神(イキガミコンコウダイジン)と定める。
(*1)地元は山伏の児島五流修験の拠点であった。
かわなべ きょうさい《かはなべ けうさい》
河鍋 暁斎
1831(天保 2. 4. 7)
1889. 4.26(明治22)
◇江戸幕末・明治前期の浮世絵師。幼名は周三郎、画名ははじ
め周麿、別号は洞郁・陳之・惺々斎・狂斎・酒乱斎乱酔。下総
古河(コガ)藩士の次男。古河生れ。
狩野派を学び浮世絵風の画風を加えた作風で、筆墨の活気に
富む。戯画や諷刺画が得意で、世相を痛烈に風刺し投獄された
こともある。
かわなべ ぎょうさい《かはなべ げうさい》
河鍋 暁斎
⇒かわなべ きょうさい(河鍋 暁斎)
かわなみ いわね
川浪 磐根
1883. 6.20(明治16)
1969. 4. 8(昭和44)
◇歌人。本名は道三。
かわにし わろ
川西 和露
1875. 4.20(明治 8)
1945. 4. 1(昭和20)
◇俳人・俳書蒐集家。本名は徳三郎。
かわばた ぎょくしょう
川端 玉章
1842(天保13. 3. 8)
1913. 2.14(大正 2)
◇画家。本名は滝之助。
かわばた ちえ
川端 千枝
1887. 8. 9(明治20)
1933. 7. 4(昭和 8)
◇歌人。本名は千枝子。
かわばた ぼうしゃ
川端 茅舎
1897. 8.17(明治30)
1941. 7.17(昭和16)
◇大正・昭和期の俳人・画家。本名は信一(ノブカズ)。東京市日
本橋区生れ。戸籍上の生年は1900(明治33)、一説に 8.14生れ。
市立有隣代用小学校を経て独逸協会中学校卒業。絵画を岸田
劉生に、俳句を高浜虚子に学ぶ。
川端龍子(リュウシ)の異母弟。
(1)誕生日は1897. 8.17(一説に14)(明治30)。
(2)1900〜41(明治33〜昭和16)。
(3)誕生日は1900. 8.14(明治33)。
(5)誕生日は1900. 8.14(明治33)、実際は三〇年八月一四日で
あるといわれる。
(8)誕生日は1897. 8.17(明治30)。
(11)誕生日は1900. 8.14(明治33)、実際は明治二九年といわれ
る。
(13)明治三三年八月東京市日本橋に生れ、昭和一六年七月大森
区桐里町に没した。
◆茅舎忌[ 7.17]。
かわばた やすなり
川端 康成
1899. 6.11(明治32)
1972. 4.16(昭和47)
◇小説家。大阪市天満此花(テンマコノハナ)町生れ。
幼くして父母を喪い、祖父母と共に大阪府下三島郡に転居。
8歳で祖母、16歳で祖父を喪い、その後母の実家で養われる。
豊川村小学校・府立茨木中学校を経て、1917(大正 6)第一高等
学校入学、1920(大正 9)東京帝国大学英文科に進学、翌年国文
科に転科、1924(大正13)卒業。
文化勲章・1968(昭和43)ノーベル文学賞を受賞。
晩年、門下の三島由紀夫の割腹自殺などによる強度の精神的
動揺から、ガス自殺。
代表作は『伊豆の踊子』・『浅草紅団』・『雪国』・『千羽
鶴』・『山の音』など。
(1)誕生日は 6.11。
(5)誕生日は 6.11。
(8)誕生日は 6.14。
(11)誕生日は 6.11。
(13)誕生日は 6.11。
◆康成忌[ 4.16]。
かわばた りゅうし
川端 龍子
1885. 6. 6(明治18)
1966. 4.10(昭和41)
◇昭和期の日本画家。本名は昇太郎。川端茅舎(ボウシャ)の異母
兄。和歌山市生れ。
白馬会研究所・太平洋画会研究所で洋画を学ぶ。青竜社を興
す。
かわはら たつぞう
河原 辰三
1897. 1.29(明治30)
1949. 2.28(昭和24)
◇小説家。号は達像。
かわはら みさこ
河原 操子
1875(明治 8)
1945. 3. 7(昭和20)
◇教育者。長野県松本市生れ。
1891(明治24)長野師範学校女子部入学。1896(明治29)東京女
子高等師範学校入学、のち病気により中退。1899(明治32)長野
県立高等女学校教諭。
1900(明治33)下田歌子の推挙により横浜の在留中国人の大同
学校教師に赴任。1902(明治35)上海務本女学堂教師に赴任。
1903(明治36)内蒙古カラチンの毓正女学堂設立のため赴任。
カラチン王夫妻の協力を得て対ロシア情報活動の極秘任務につ
く。1904(明治37)日露戦争が始まる。1906(明治39)帰国。
著書『蒙古土産』1907(明治40)刊。
かわひがし へきごとう
河東 碧梧桐
1873. 2.26(明治 6)
1937. 2. 1(昭和12)
◇俳人。本名は秉五郎(ヘイゴロウ)。愛媛県松山市千舟町生れ。
1893(明治26)松山中学校卒業、三高に進学、翌年二高に転校し
中退。1900.10.(明治33)青木月斗(アオキ・ゲット)の妹繁栄(シゲエ)と
結婚。竹村黄塔(コウトウ)の弟。
(5)青木月斗の妹茂枝(シゲエ)。
(8)月斗の妹繁栄(シゲエ)、「月斗」では妹しげ江(茂枝)。
(11)青木月斗の妹茂枝(シゲエ)。
◆碧梧桐忌(寒明忌<カンアケキ>)[ 2. 1]。
かわべ きよなが
河辺 精長
1601(慶長 6)
1688(貞享 5. 8.29)
◇江戸初期の伊勢神宮祠官。
かわべ しんぞう
川辺 真蔵
1885.11. 4(明治18)
1956.12.27(昭和31)
◇評論家。
かわむら かりょう
川村 花菱
1884. 2.21(明治17)
1954. 9. 1(昭和29)
◇劇作家。本名は久輔(キュウスケ)。東京生れ。1910(明治43)早稲
田大学英文科卒業。
かわむら きざん《かはむら きざん》
川村 驥山
1882(明治15)
1969(昭和44)
◇書家。名は慎一郎。静岡県生れ。
かわむら きよお《かはむら きよを》
川村 清雄
1852(嘉永 5. 4.)
1934. 5.16(昭和 9)
◇洋画家。幼名は清次郎、元服して清兵衛修寛、号は時童。御
従頭川村帰元修正の長男。江戸の人。
開成所で川上冬崖・高橋由一らに洋画を学ぶ。
明治維新に際、徳川家達に従って静岡に移住。
1870(明治 3)徳川宗家の給費留学生として政治法律研究のた
め渡米。1873(明治 6)絵画に専念しフランスに渡り、ド・カリ
アスに師事。1876(明治 9)イタリアに赴(オモム)き、ベネチア美
術学校に学ぶ。
1881.12.(明治14)印刷局からの帰国命令を受け帰国して印刷
局に勤務。まもなく退職して東京麹町中六番地に画学校を開く。
1889(明治22)明治美術会の創立に参加。
明治美術会の解散後、1901. 4.(明治34)巴会を結成し主宰。
晩年日本画的・趣味的な画風となり、文展開設以後は画壇か
ら遠ざかる。
作品制作のため赴いた天理市にて客死(カクシ)。
かわむら けいきち
河村 敬吉
1898. 2. 1(明治31)
1973. 4.28(昭和48)
◇評論家。
かわむら じゅうきち《かはむら ぢゆうきち》
川村 重吉
1575(天正 3)
1648(正保 5.閏1)
◇江戸初期の土木事業家。通称は孫兵衛。長門国生れ。
毛利藩の医師。のち仙台藩士。
伊達政宗の命で北上川(キタカミガワ)を改修し、石巻港を開く。
◎宮城県石巻市の日和山公園に銅像がある。
かわむら ずいけん《かはむら ずいけん》
河村 瑞軒
⇒かわむら ずいけん(河村 瑞賢)
かわむら ずいけん《かはむら ずいけん》
河村 瑞賢
1617(元和 3. 2.)
1699(元禄12. 6.16)
◇江戸前期の商人・土木家。瑞見・瑞軒・随軒とも書く。幼名
は七兵衛、元服して十右衛門、晩年は平太夫と称する。伊勢国
(現:三重県)度会郡(ワタライグン)の貧農の出。
13歳で江戸に出て、車夫・人夫・漬物屋・普請(フシン)人夫頭
などを経て、材木商・土木請負となる。
1656(明暦 2)江戸の明暦の大火で、木曾に急行して木材を買
い占め巨利を得て豪商となる。
1671(寛文11)幕命によって天領貢租米の江戸廻米(カイマイ)のた
め東西両廻(マワ)り航路を開拓し、従来の1年余を3ヶ月に短縮。
その後、奥州金山の開発・小笠原島の開拓・新田開発にも貢
献。
1683(天和 3)幕命により淀川(ヨドガワ)水系の治河工事を請け
負い、翌1684(貞享元)淀川の支流安治川(アジガワ)を開削、長柄
川・中津川・土佐堀川・堂島川を改修して氾濫を絶つ。
1685(貞享 2)大和川(ヤマトガワ)の修築工事も行うなど、近畿地
方の治水工事に貢献。
これらの功で1698(元禄11)150俵取りの旗本に登用される。
◎車夫・人夫をして貧しく、江戸から上方(カミガタニ)に行く途中
の小田原宿(オダワラジュク)で老翁に諌(イサ)められて引き返し、品
川に至ると盂蘭盆(ウラボン)の後でウリ・ナスがたくさん流れて
いた。これを拾い、塩漬けして売りさばき、事業の資金を得た
という。
かわむら すみよし《かはむら すみよし》
川村 純義
1836(天保 7)
1904(明治37)
◇海軍軍人(大将)。薩摩藩士。
戊辰(ボシン)戦争に従軍。
海軍卿として海軍拡張計画を立案・実施した日本海軍の建設
者。
伯爵。
かわむら たみじ《かはむら たみじ》
川村 多実二
1883(明治16)
1964(昭和39)
◇生物学者。岡山県津山生れ。
京都大学教授。
日本の河川・湖沼の生態学を創始。
著書は『日本淡水生物学』・『鳥の歌の科学』など。
かわむら ひでかい《かはむら ひでかい》
河村 秀穎
1718(享保 3)
1783(天明 3)
◇江戸中期の国学者。名は公明・秀興、通称は久米之進・七郎、
号は楽寿館・君栗。河村秀世(ヒデツグ)の長男、秀根(ヒデネ)の兄。
かわむら ひでね《かはむら ひでね》
河村 秀根
1723(享保 8)
1792(寛政 4. 6.26)
◇江戸中期の国学者・尾張名古屋藩士。字は君深・信行・君律
(キミノリ)など、通称は金之助・復太郎、号は曲州・葎庵(リツアン)。
河村秀世(ヒデツグ)の次男、秀頴(ヒデカイ)の弟、殷根・益根(マスネ)
の父。
多田義俊(タダ・ヨシトシ)・吉見幸和(ヨシミ・ユキカズ)に神道・古典を
学ぶ。冷泉為村について歌学を修める。
1777(安永 6)謀反を企てていると幕府に虚偽の訴状を出した
者があって捕われ江戸に送られる。翌1778(安永 7)疑いが晴れ
て名古屋に帰る。
かわむら ますね《かはむら ますね》
河村 益根
1756(宝暦 6)
1819(文政 2)
◇江戸中期の国学者。河村秀根の子、殷根の弟。
かわめ ていじ
河目 梯二
1889. 8. 6(明治22)
1958. 4.23(昭和33)
◇挿絵画家。愛知県生れ。東京美術学校西洋画科卒業。
かわら なおいちろう
河原 直一郎
1905. 9. 1(明治38)
1974.12.12(昭和49)
◇詩人・随筆家。
かわらさき ちょういちろう《かはらさき ちやういちらう》
河原崎 長一郎
1939. 1.11(昭和14)
2003. 9.19(平成15)
◇俳優。本名は統一(トウイチ)。河原崎長十郎の長男、河原崎次郎
・建三の兄、妻は女優伊藤栄子。
かんあみ
観阿弥(觀阿彌)
1333(元弘 3)
1384(至徳元. 5.19)
◇南北朝時代の能役者・謡曲作者。能楽観世流(カンゼリュウ)の始
祖。名は清次(キヨツグ)、「かんなみ」とも呼ぶ。世阿弥(ゼアミ)の
父。
1375(永和元)京の今熊野で演能して足利義満(ヨシミツ)に認めら
れ、能が武家・貴族の保護により発展する基礎を作った。
(5)当時の芸能社会の慣行として観阿、観阿弥陀(ダ)仏という
時衆名(ジシュウメイ)(阿弥号)を称す。観阿弥というのは後世の誤
称。
(11)当時の芸能社会の慣行として観阿、観阿弥陀(ダ)仏という
時衆名(阿弥号)を称す。観阿弥というのは後世の誤称。
かんき はるお
神吉 春夫
1901. 2.15(明治34)
1977. 1.24(昭和52)
◇光文社の創立者。
かんざき たけお
神崎 武雄
1906. 6.18(明治39)
1944. 9.17(昭和19)
◇小説家。
かんざき のりやす
神崎 則休
1666(寛文 6)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、徒目付、禄高五両三人扶持。
通称は与五郎(ヨゴロウ)、戒名は刃利教剣信士、俳号は竹平(チクヘイ)、
吉良家の探索中の変名は美作屋(ミマサカヤ)善兵衛(ゼンベエ)・小豆
屋(アズキヤ)善兵衛。美作出身で、茅野和助(ワスケ)常成(ツネナリ)と同
じく津山藩森家に仕えていたが、森家が無嗣絶家となり浪人し、
1697(元禄10)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)に召し抱えられ
る。
吉良家討ち入りでは表門隊。早水藤左衛門(トウザエモン)満堯(ミツ
タカ)とともに屋根にのぼり、敵に矢を射立てた。三河岡崎城主
水野堅物(ケンモツ)の江戸中屋敷に預けられ、翌年、田口安右衛門
(ヤスエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
(2)戒名は刃利教剣居士。
(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
成美堂出版 昭和56年11月 1日初版発行
監修:尾崎秀樹 昭和57年 1月10日四刷発行
刃利教剣信士。
かんざき よごろう《かんざき よごらう》
神崎 与五郎
⇒かんざき のりやす(神崎 則休)
かんざき るる
神崎 縷々
1899. 2.11(明治32)
1936. 2.28(昭和11)
◇俳人。本名は主計、旧姓は倉田。
がんざん だいし《ぐわんざん だいし》
元三 大師
⇒りょうげん(良源)
かんしゅう《くわんしう》
観修
945(天慶 8)
1008(寛弘 5. 7. 8)
◇平安中期の天台宗僧侶。京都市左京区長谷御殿町付近にあっ
たといわれる解脱寺(ゲダツジ)の開山。俗姓は紀氏。
藤原道長が浄妙寺を建立したとき開山となる。
1019(寛仁 3)智静の諡号が贈られる。
がんじん
鑑真
688(朱鳥 2)
763(天平宝字 7. 5. 6)
◇唐の高僧・奈良時代の帰化僧。唐大和上・過海大師・
唐大和尚。日本律宗の開祖。 742(天平14)日本僧の請に応じて
来日を志したが、海賊・暴風・失明などの五度の挫折ののちに
来日。東大寺に戒壇を建て聖武天皇以下に授戒し、のち唐招提
寺(トウショウダイジ)を賜った。
(4) 753(天平勝宝 5)来日。
(6) 754(天平勝宝 6)渡来。
◆鑑真忌(唐招提寺開山忌)[旧暦 5. 6]。
[ 6. 6]奈良市五条町(ゴジョウチョウ)の唐招提寺御影堂(ミエイドウ)で
鑑真和上(ワジョウ)像が開帳される。
かんぜ かせつ《くわんぜ くわせつ》
観世 華雪
1884(明治17)
1959(昭和34)
◇能楽師。観世流シテ方。本名・初名は織雄。分家銕之丞(テツノ
ジョウ)家5世観世紅雪(銕之丞)の長男、7世銕之丞の兄、観世
寿夫の父。東京生れ。
6世銕之丞を襲名。東京音楽学校講師。
弟に銕之丞を譲り華雪と号する。1920(大正 9)義兄梅若万三
郎・六郎らと梅若流を樹立したが、のち観世に戻り宗家25世元
正の後見役をつとめる。
◎橋岡久太郎(キュウタロウ)とともに観世流の双璧をなす。
かんだ たかひら
神田 孝平
1830(文政13. 9.15)
1898. 7. 5(明治31)
◇蘭学者・啓蒙思想家。初名は孟恪(ツトム)のち孝平、号は淡崖
(タンガイ)。美濃国生れ。維新後、兵庫県令。六明社に加入。貴
族院議員・学士院会員。
神田乃武(ナイブ)の養父。
(3)1830(天保元. 9.15):誤。
(5)1830(文政13. 9.15):正。
(8)1830(文政13. 9.15):正。
(11)神田 孝平(かんだ こうへい)。1830(文政13. 9.15):正。
(13)神田 孝平(かんだ たかひら)。天保元年美濃に生まる。
かんだ とよほ
神田 豊穂
1884. 3. 4(明治17)
1941. 8. 6(昭和16)
◇出版書肆春秋社の創業者。
かんだ ないぶ
神田 乃武
1860(万延元. 2.)
1923.12.20(大正12)
◇英文学者・能楽師。幼名は松井信次郎。1868(明治元)神田孝
平(タカヒラ)の養嗣子となる。
(8)誕生日は1857. 2.27(安政 4)、没日は12.30。
かんてい
勘亭
⇒おかざきや かんろく(岡崎屋 勘六)
かんなみ
観阿弥(觀阿彌)
⇒かんあみ(観阿弥,觀阿彌)
かんなみ そくざん
神波 即山
1832(天保 3. 6. 6)
1891. 1. 2(明治24)
◇漢詩人。名は桓、字は猛郷・龍朔、号は即山。
かんの すが
管野 スガ
1881. 6. 7(明治14)
1911. 1.25(明治44)
◇新聞記者。号は幽月、菅野須賀子とも書いた。
荒畑寒村のち幸徳秋水と同棲。
1910. 6.(明治43)大逆事件に連座したとして検挙され、大審
院特別法廷の非公開裁判で死刑。
かんばやし あかつき
上林 暁(上林 曉)
1902.10. 6(明治35)
1980. 8.28(昭和55)
◇私小説作家。本名は徳広巌城(トクヒロ・イワキ)。高知県幡多郡大方
町生れ。
県立中村中学校・第五高等学校を経て、1924(大正13)東京大
学英文学科入学、1927(昭和 2)卒業。
1928(昭和 3)郷里で田島繁子と結婚、1939(昭和14)夫人の精
神病が発病、療養につとめたが1946. 6.(昭和21)死去。
作品は『聖ヨハネ病院にて』などの病妻物、『薔薇盗人』・
『ちちははの記』など。
(5)高知県幡多(ハタ)郡田ノ口村に伊太郎の長男として生れた。
かんばら ありあけ
蒲原 有明
1875. 3.15(明治 8)
1952. 2. 3(昭和27)
◇詩人。本名は隼雄(ハヤオ)、号は有明。生地の東京市麹町区(現
:千代田区)隼町にちなみ隼雄と名付けられる。戸籍上の生年は
1876. 3.15(明治 9)。
作品は『草わかば』・『独絃哀歌』・『春鳥集』・『有明集』
や、ロセッティ(Rossetti)・ブレーク(Blake)の訳詩など。
(1)生年は1875(明治 8)。
(5)生年は1876(明治 9)。
(8)生年は1876(明治 9)。
(11)生年は1876(明治 9)。戸籍面は明治九年生れとなっている
が、実際は八年生れで……。
(13)生年は1875(明治 8)。
かんばら はるお
蒲原 春夫
1900. 3.21(明治33)
1960. 9. 1(昭和35)
◇小説家。
かんばら まさみ
鎌原 正巳
1905. 5.14(明治38)
1976. 3.15(昭和51)
◇小説家。
かんべ たかし
神部 孝
1901. 9. 4(明治34)
1938. 6.15(昭和13)
◇フランス文学者。
かんべ ゆういち
神戸 雄一
1902. 6.22(明治35)
1954. 2.25(昭和29)
◇詩人・小説家。
かんむ てんのう《くわんむ てんわう》
桓武 天皇
737(天平 9)
806(延暦25)
◇第50代の天皇。名は山部(ヤマノベ)、別称は柏原天皇・柏原帝。
光仁天皇の第1皇子、母は渡来人系氏族の和史乙継の娘高野新
笠。葛原(カツラハラ)親王の父。早良(サワラ)親王の同母兄。
母の出身が藤原氏でなかったことから、親王宣下がなく、山
部王を称していたが、皇太子他戸親王が廃されたために、藤原
百川らによって皇太子に推挙。
平城京・長岡京を経て、 794(延暦13)山城国宇太へ平安遷都
を行う。
在位: 781(天応元)〜 806(延暦25)。
◆陵墓は山城国紀伊郡柏原陵。
(25)光仁天皇の第二皇子。
◎和史乙継は百済の武寧王(ブネイオウ)の子孫。
かんむり まつじろう
冠 松次郎
1883. 2. 4(明治16)
1970. 7.28(昭和45)
◇登山家・随筆家。自称は谷狂(タニキチ)。
かんろく
勘六
⇒おかざきや かんろく(岡崎屋 勘六)
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