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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6105.00+

                 人   名   辞   典  《かつら》     編集:獨  澄旻

-------- かつら ------------------------------------------------
かつら きっちょう《かつら きつてう》
	桂 吉朝
	1954.11.18(昭和29)
	2005.11. 8(平成17)
	◇上方の落語家。本名は上田浩久(ウエダ・ヒロヒサ)。大阪府堺市出
	身。
	 大阪府立今宮工業高等学校を卒業。
	 1974(昭和49)桂米朝(三代目)に入門。
	 心不全で死去。
かつら こごろう《かつら こごらう》
	桂 小五郎
	⇒きど たかよし(木戸 孝允)
かつら こそん
	桂 湖村
	1868(明治元.10.16)
	1938. 4. 3(昭和13)
	◇漢学者・漢詩人。本名は五十郎。
かつら たろう《かつら たらう》
	桂 太郎
	1847(弘化 4)
	1913(大正 2)
	◇明治の軍人・政治家。陸軍大将・公爵。長州出身。長州軍閥
	の大御所山県有朋の直系として昇進を重ね、陸軍の兵制をドイ
	ツ式に改革・師団の設立・参謀本部と軍令部の分離などを行う。
	1898(明治31)陸相。1901(明治34)から1913(大正 2)まで三度首
	相となり、日英同盟締結・日露戦争・大逆事件で社会主義運動
	の弾圧・日韓併合条約締結などにあたる。「ニコポン」と呼ばれ
	た妥協政治家であったが、第三次内閣のとき憲政擁護運動の盛
	り上がりに直面して三ヶ月で総辞職、御用政党の必要から立憲
	同志会設立を準備中に死去。
	◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。
	(6)生年は1847/48。
かつら はるだんじ
	桂 春団治(1世)
	1878(明治11)
	1934(昭和 9)
	◇落語家。
かつら ぶんし
	桂 文枝(5代目)
	1930. 4.12(昭和 5)
	2005. 3.12(平成17)
	◇上方の落語家。本名は長谷川多持(タモツ)。大阪市生れ。
	 第二次世界大戦後、大阪市交通局に勤務。
	 1947(昭和22)桂米之助に紹介されて桂文枝(4代目)に入門、
	あやめの名で初舞台。
	 1954(昭和29)小文枝(3代目)。
	 1973(昭和48)上方お笑い大賞、受賞。
	 1984〜1994(昭和59〜平成 6)上方落語協会の会長。
	 1992(平成 4)文枝を襲名。
	 1997(平成 9)紫綬褒章、受章。
	 2003(平成15)旭日小綬章、受章。
	 肺ガンで死去。
	◎笑福亭松鶴(6代目)・桂米朝・桂春団治とともに、上方落語
	の四天王と呼ばれた。
かつら ぶんじ《かつら ぶんぢ》
	桂 文治(10代目)
	1924. 1.14(大正13)
	2004. 1.31(平成16)
	◇落語家。本名は関口達雄(タツオ)。東京府生れ。父は柳家蝠丸
	(フクマル)(初世)。
	 1946(昭和21)桂小文治に入門し、小よしと名乗る。
	 1948(昭和23)2代目伸治を襲名。
	 1958(昭和33)真打ちに昇進。
	 1979(昭和54)桂文治を襲名し、桂宗家となる。
	 1999.10.〜2004. 1.31(平成11〜平成16)落語芸術協会会長。
かつら ぶんちょう《かつら ぶんてう》
	桂 文朝
	1942. 3.31(昭和17)
	2005. 4.18(平成17)
	◇落語家。本名は田上孝明(タガミ・タカアキ)。東京都出身。
	 1952(昭和27)山遊亭金太郎(二代目桂小南)に入門。初名は
	タア坊。
	 1970(昭和45)真打ちに昇進し、文朝となる。
	 1985(昭和60)落語芸術協会から落語協会に移籍。
	 2004(平成16)落語協会理事。
	 ガンで死去。
かつら みきすけ
	桂 三木助(3代目)
	1902. 3.28(明治35)
	1961. 1.16(昭和36)
	◇落語家。本名は小林七郎。4代目桂三木助の実父。
	 1921. 9.(大正10)二ツ目となる。
	 1950(昭和25)三木助を襲名。
	 胃ガンで死去。
	◎戸籍上の誕生日は1903. 2.17(明治36)。
かつら みきすけ
	桂 三木助(4代目)
	1957. 3.29(昭和32)
	2001. 1. 3(平成13)
	◇落語家。3代目桂三木助の実子。
	 1981. 5.(昭和56)二ツ目となる。
	 1985. 9.(昭和60)真打ちに昇進し、4代目三木助を襲名。
	 首吊り自殺。
かつらい とうのすけ
	桂井 当之助
	1887. 6. 1(明治20)
	1915,12,30(大正 4)
	◇哲学者。妹が片上伸(カタガミ・ノブル)に嫁す。
かつらがわ くにのり《かつらがは くにのり》
	桂川 国訓
	1728(享保13)
	1783(天明 3)
	◇江戸中期の医者。通称は甫三(ホサン)、号は湖月楼。桂川家3
	代目。
	 幕府の奥医師となる。外科にすぐれる。
	 著書は『瘍府』。
かつらがわ ほさん《かつらがは ほさん》
	桂川 甫粲
	1754(宝暦 4)
	1808(文化 5)
	◇江戸後期の医師・蘭学者・戯作者・狂歌作者。本姓は森島、
	号は森羅亭万象・竹杖為軽など。桂川国訓(クニノリ)の子、甫周の
	弟。
[1]かつらがわ ほしゅう《かつらがは ほしう》
	桂川 甫周
	1751
	1809(文化 6)
	◇江戸後期の蘭方医。名は国瑞(クニアキラ)、字は公鑑、号は月池、
	通称は甫周。桂川国訓(クニノリ)の子、甫粲(ホサン)の兄。桂川家4
	代目で、曾祖父・祖父・父みな通称は甫筑(ホチク)。江戸生れ。
	 1769(明和 6)幕府奥医師となり、将軍徳川家斉の侍医。
	 1771(明和 8)前野良沢(リョウタク)・杉田玄白(ゲンパク)らと『タ
	ーヘル・アナトミア』の翻訳に従事。
	 1777(安永 6)将軍侍医。1783(天明 3)法眼となるが、まもな
	く田沼意次(オキツグ)に退けられる。1793(寛政 5)復職。
	 1794(寛政 6)医学館の教官。顕微鏡の普及に努める。
	 将軍家斉の命により大黒屋幸太夫(ダイコクヤ・コウダユウ)からロシ
	アの風俗・制度などを聞き『北槎聞略(ホクサブンリャク)』を著す。
	また蘭書『魯西亜志(ロシアシ)』抄訳する。
	(*)1751(寛延 4,宝暦元)。
	(19)(1751〜1809 一説に 1754〜1809)。
	◎屋敷は東京都中央区築地1−10地域。
	 号の「月池」は屋敷のあった築地に由来する。
[2]かつらがわ ほしゅう《かつらがは ほしう》
	桂川 甫周
	1826(文政 9)
	1881(明治14)
	◇江戸幕末・明治前期の医師。名は国興(クニオキ)、字は禎卿、号
	は月池、通称は安甫。桂川甫賢(ホケン)の子。桂川家7代目。江
	戸生れ。
	 オランダ商館長ズーフが通訳吉雄権之助らと編纂したハルマ
	の和訳対照辞典が未刊だったものを、1858(安政 5)『和蘭字彙
	(ズーフ・ハルマ)』として刊行。
	◎『和蘭字彙』は「長崎ハルマ」とも呼ばれ、1796(寛政 8)刊行
	の『波留麻和解(ハルマワゲ)』通称「江戸ハルマ」とは別書。
かつらがわ ほちく《かつらがは ほちく》
	桂川 甫筑
	1661
	1747(延享 4)
	◇江戸中期の医師・桂川家の初代。本姓は森島、名は邦教(クニミ
	チ)、通称は小助。大和の人。
	 平戸藩医の嵐山甫安に蘭方医学を学ぶ。のち長崎の蘭医ダル
	ネル・アルマンスに外科医術を学ぶ。
	 幕府に仕え、第6代将軍徳川家宣に奥医師となる。
	 著書は『仙鼎方』。
	(*)1661(万治 4,寛文元)。
かつらぎおう
	葛城王
	⇒たちばなのもろえ(橘 諸兄)
かつらはら しんのう《かつらはら しんわう》
	葛原 親王
	 786(延暦 5)
	 853(仁寿 3. 6. 4)
	◇桓武天皇の第3皇子・桓武平氏の祖。「かずらはらしんのう」
	とも呼ぶ。諱は高明。母は参議多治比長野の娘多治比真宗。平
	安京生れ。
	  825(天長 2)平朝臣の姓を請い許され、臣籍に下る。
	  850(嘉祥 3)一品大宰帥(ダザイノソツ)。
かとう えつろう
	加藤 悦郎
	1899.12.13(明治32)
	1959. 6. 6(昭和34)
	◇漫画家。
かとう かいしゅん
	加藤 介春
	1885. 5.16(明治18)
	1946.12.18(昭和21)
	◇詩人。本名は寿太郎。福岡県田川郡生れ。
	 早稲田大学英文科に学ぶ。
かとう かずお
	加藤 一夫
	1887. 2.28(明治20)
	1951. 1.25(昭和26)
	◇詩人・小説家・評論家。和歌山県西牟屡郡生れ。
	 明治学院神学部卒業。
	(1)誕生日は 2.12。
	(5)誕生日は 2.28。
	(8)誕生日は 2.28。
	(11)誕生日は 2.28。
	(13)誕生日は 2. 2。
かとう かずこ
	加藤 籌子
	1883. 6.24(明治16)
	1956.12.26(昭和31)
	◇小説家。本名は「かず」。筆名は小栗籌子。小栗風葉の妻。
かとう きょうたい
	加藤 暁台
	1732(享保17. 9. 1)
	1792(寛政 4. 1.19)
	◇江戸中期の俳諧師。通称は平兵衛、幼名は仲八(チュウハチ)、別
	号は暮雨巷(ボウコウ)・竜門。初期の俳号は他朗・買夜(バイヤ)。
	尾張国名古屋生れ。
かとう きよまさ
	加藤 清正
	1562(永禄 5)
	1611(慶長16. 6.24)
	◇安土桃山時代の武将。幼名は夜叉丸・虎、のち虎之助。尾張
	国愛知郡中村の人(同郷:豊臣秀吉)。加藤清忠の次男、加藤忠
	広の父。
	 幼少に豊臣秀吉に預けられ、1576(天正 4)元服し虎之助と名
	乗る。1580(天正 8)播磨国神東郡120石を与えられる。
	 1583(天正11)賤ヶ岳の戦で七本槍の一人として活躍(山路正
	国との組打が有名)、3000石の加増。1586(天正14)主計頭(カズエ
	ノカミ)に任官、清政と改名。1588(天正16)肥後半国を領し、熊本
	城主。
	 1591(天正19)朝鮮出兵の基地として名護屋城の築城に当る。
	1592(天正20)文禄の役に小西行長(コニシ・ユキナガ)・黒田長政らと
	先陣をつとめ朝鮮に出兵、小西は 4.12に、清正は 4.17釜山(フ
	ザン)に上陸、 5. 3京城を攻略。朝鮮国の王子の臨海君・順和
	君を追い咸鏡道に侵入、 7.23会寧(カイネイ)で捕える。ここ会寧
	で虎を鉄砲で仕留めている。さらに瓦爾哈(オランカイ)国に到り、
	ここで富士山が見えたという。このころ明の使者へ豊臣朝臣清
	正という銘の書を渡し、のちの蟄居の一因となる。
	 1593(文禄 2. 6.)小西行長と明の援軍の沈惟敬(シン・イケイ)との
	和平交渉で領土割譲を強く主張する。1596(文禄 5)和平交渉の
	妨害者として伏見に蟄居を命ぜられが、 7.12の大地震で逸早
	く伏見城に駆け付け、蟄居は解除される。
	 1597(慶長 2. 1.)慶長の役でも小西らと先陣をつとめ出兵。
	しかし慶尚・全羅・忠清の三道を占領するのみで京城にも到ら
	ず、冬となり春を待って清正は蔚山(ウルサン)に籠城、島津義弘(ヨ
	シヒロ)は泗川(シセン)、小西は順天、小早川秀秋(コバヤカワ・ヒデアキ)は
	釜山に陣取る。12.22明の大軍が蔚山城を襲い、浅野幸長らと
	必死に守り、翌年1月小早川・黒田長政らの援軍を得る。8月
	秀吉が病死し、帰国。
	 武断派の清正は文治派石田三成・小西行長らと合わず、しだ
	いに徳川家康に接近していく。1600(慶長 5)関ヶ原では家康に
	味方し、小西の肥後の宇土城・立花宗茂(タチバナ・ムネシゲ)の筑後
	の柳川城を攻め、肥後国54万石を領する。
	 1606(慶長11)江戸城普請の惣奉行。1610(慶長15)名古屋城普
	請の惣奉行。1611(慶長16. 3.28)家康が二条城で豊臣秀頼と会
	見する際、秀頼を補佐する。帰途に発病し、熊本城内で病死。
	(2)'88肥後半国と熊本城を宛行なわれる。
	 朝鮮王子臨海君(「津」の「三水」を「王」に替える)・順和君(「津」
	の「三水」を「王」に替える)を捕虜とした。
	(6)1585(天正13)年熊本城主として肥後半国を領有。
	 肥後52万石を得たが,……。
	(16)'88(天正16)年佐々成政に代って肥後半国30万石を領し熊
	本城主となった.
	 二王子(ワウジ)([「津」の「三水」を「王」に替える]<シン>・[「王」偏
	+「土」]<ホ>)は……。
	(17)同十六年(一五八八)閏五月、肥後半国(熊本県の北部七郡
	と南部の芦北郡)の約十九万五千石(二十五万石説があるが出典
	不明)の秀吉領地目録を得て、隈本(クマモト)城主として入国。
	 翌九年九月御前帳(郷帳)を幕府に提示し、五十四万石高が確
	定し、……。
かとう けんいち
	加藤 謙一
	1896. 5.28(明治29)
	1975. 6.30(昭和50)
	◇「少年倶楽部」・絵本の編集者。
かとう げんち
	加藤 玄智
	1873. 6.17(明治 6)
	1965. 5. 8(昭和40)
	◇大正・昭和期の宗教学者・神道学者。東京府生れ。
	 東京帝国大学文科大学哲学科卒業。
	 陸軍教授・東京帝国大学助教授・国学院大学教授。大正大学
	・駒沢大学神宮皇学館大学講師。
かとう ししゅう
	加藤 紫舟
	1904. 8.29(明治37)
	1950.11. 5(昭和25)
	◇俳人。本名は中庸、別号は黎明居。
かとう しほう
	加藤 紫芳
	1856(安政 3. 8.20)
	1923. 7.27(大正12)
	◇翻訳家。本名は瓢乎(ヒョウヤ)。
かとう じゅんぞう
	加藤 順三
	1885. 9.29(明治18)
	1961.11.10(昭和36)
	◇歌人・国文学者。
かとう せっちょう
	加藤 雪腸
	1975. 1. 2(明治 8)
	1932.11.24(昭和 7)
	◇俳人。本名は孫平、別号は清白之舎・千里坊。
かとう だいすけ
	加藤 大介
	1911. 2.18(明治44)
	1975. 7.31(昭和50)
	◇俳優。本名は加藤徳之助。東京浅草生れ。ともに俳優の沢村
	国太郎・沢村貞子の弟。
	◎黒沢明監督の映画、1954(昭和29)『七人の侍』では七郎次を
	演じる。
かとう たかあき
	加藤 高明
	1860(万延元. 1. 3)
	1926. 1.28(大正15)
	◇政治家。加藤武兵衛の養子、三菱財閥の岩崎弥太郎の娘婿。
	 1881(明治14)東京大学法科卒業し、三菱本社に入社。
	 第2次大隈重信内閣の外務大臣として1915(大正 4)対支21ヶ
	条の要求を主導。
	 第1次内閣:1924. 6.11(大正13)〜1925. 8. 2(大正14)。
	 第2次内閣:1925. 8. 2(大正14)〜1926. 1.28(大正15)。
	 1926. 1.26(大正15)より若槻礼次郎が総理の臨時代理を務め
	る。
かとう たくせん
	加藤 拓川
	1859(安政 6. 1.23)
	1923. 3.26(大正12)
	◇外交官・政治家。幼名は忠三郎のち恒忠、号は拓川、旧姓は
	大原。正岡子規の母八重は長姉。
かとう たけお
	加藤 武男
	1877. 6. 5(明治10)
	1963.10.17(昭和38)
	◇三菱銀行頭取。栃木県生れ。1901(明治34)慶応義塾大学理財
	科卒業。池田成彬(シゲアキ)の妹の夫、加藤武彦の父。
かとう たけお
	加藤 武雄
	1888. 5. 3(明治21)
	1956. 9. 1(昭和31)
	◇小説家。号は冬海・罵禅・東階・紫袖・紅袖・相水・
	小林愛川。神奈川県津久井郡川尻村生れ。泰次郎・ぬいの長男。
	 実家没落のため進学を断念し横浜の小学校代用教員となる。
	 1910(明治43)上京して中村武羅夫の紹介で新潮社に入学。
	(1)没年は1966(昭和41)。
	(2)没年は1956(昭和31)。
	(3)没年は1956(昭和31)。
	(5)没年は1956(昭和31)、「八木重吉(ジュウキチ)」に再従兄(マタイトコ)
	の加藤武雄。
	(8)没年は1956(昭和31)、再従弟(マタイトコ)八木重吉。
	(11)没年は1956(昭和31)、「八木重吉(ジュウキチ)」に再従兄(マタイトコ)
	の加藤武雄。
	(13)没年は1956(昭和31)。
	(+)『現代日本文學全集85』
		發行所 筑摩書房	昭和32年12月15日印刷
					昭和32年12月20日發行
	 没年は1956(昭和31)。
かとう たてお
	加藤 建夫
	1903. 9.28(明治36)
	1942. 5.22(昭和17)
	◇陸軍軍人・加藤隼戦闘隊隊長。北海道生れ。
	 ビルマ戦線で戦死。
かとう ちかげ
	加藤 千蔭
	1735(享保20)
	1808(文化 5. 9. 2)
	◇江戸後期の国学者・歌人。本姓は橘(タチバナ)、本名は佐芳・
	要人(カナメ)、字は徳与麿(トコヨマロ)、通称は常太郎・又左衛門、号
	は芳宜園(ハギゾノ)・朮園(ウケラゾノ)・逸楽窩(イツラクカ)・江翁(ゴウオ
	ウ)・耳梨(ミミナシ)山人・橘八衢(ヤチマタ)(狂歌)。江戸の人。父は江
	戸町奉行所与力の加藤枝直(エナオ)。
	 父から歌を学び、のち賀茂真淵に師事。
	 与力を継ぎ、1788(天明 8)病気のため辞職し、学問に専念。
	 著書は平易な万葉集入門書『万葉集略解』や家集『うけらが
	花』など多数。
	 書画にも長じ、書家としては上代様をきわめ千蔭流の開祖。
	◆墓は東京都墨田区両国2−8−10の回向院。
	◎村田春海(ハルミ)とともに江戸派歌風の双璧と称される。
	◎中古三十六歌仙の一人の能因(ノウイン)法師の末裔といわれてい
	る。
かとう ちょうじ
	加藤 長治
	1900. 8.20(明治33)
	1973. 7.16(昭和48)
	◇演出家。
かとう ちょうちょう
	加藤 朝鳥
	1886. 9.19(明治19)
	1938. 5.17(昭和13)
	◇文芸評論家・翻訳家。本名は信正。
	(8)加藤 朝鳥(かとう あさとり)。
かとう てるお
	加藤 輝男
	1910.11.14(明治43)
	1974.12.28(昭和49)
	◇児童文学者。
	(8)第二次大戦は加藤てる緒の名を使用した。
かとう とうり
	加藤 東籬
	1882. 8.21(明治15)
	1944. 4.21(昭和19)
	◇歌人。本名は定一。
かとう ときじろう
	加藤 時次郎
	1858(安政 5. 1. 1)
	1930. 5.30(昭和 5)
	◇医師・社会改良主義者。加藤万兵衛の養子となりのち加治姓
	に復帰。平民病院の創設者。
かとう とつどう
	加藤 咄堂
	1870(明治 3.11. 2)
	1949. 4. 2(昭和24)
	◇仏教学者。本名は熊一郎。
かとう ともさぶろう《かとう ともさぶらう》
	加藤 友三郎
	1861
	1923. 8.24(大正12)
	◇明治・大正時代の海軍軍人(大将・元帥)・政治家。広島県生
	れ。
	 海軍兵学校卒業。
	 日清・日露戦争に従軍、日本海海戦の連合艦隊参謀長。1924
	(大正13)第一艦隊司令長官。海軍次官。第2次大隈内閣以降、
	寺内・原・高橋是清の4内閣の海軍大臣(1915〜1922)。八八艦
	隊計画の実現に努力。1922(大正11)ワシントン軍縮会議の首席
	全権。
	 同年、立憲政友会の支持で官僚・貴族院議員を中心に組閣、
	兼海軍大臣。軍備縮小・財政整理、山東問題の処理にあたる。
	シベリアからの撤兵を実現し、ソ連代表ヨッフェと通商回復の
	交渉。議会に上程(ジョウテイ)された普通選挙法案には反対。
	 在任中に病死。
	 組閣:1922. 6.12(大正11)〜総辞職:1923. 8.26(大正12)。
	(*)1861(万延 2,文久元)。
	◎八八艦隊は1910(明治43)に計画、1920(大正 9)予算が承認さ
	れたが、1922(大正11)ワシントン軍縮会議によって実現しなかっ
	た。
かとう なおし
	加藤 直士
	1873. 9. 5(明治 6)
	1952. 2.12(昭和27)
	◇宗教哲学者(キリスト教)・雑誌新聞記者・実業家。
かとう ばんさい
	加藤 磐斎(加藤 盤斎)
	1621(元和 7)
	1674(延宝 2. 8.11)
	◇江戸前期の古典学者・俳人。名は等空、通称は浜五郎、号は
	磐斎(盤斎)・踏雪軒・冬木翁、俳号は灘淵。摂津生れ。
	 若いころ、比叡山で仏教を修める。歌学を細川幽斎に、のち
	松永貞徳に学ぶ。
	 著書は『新古今増抄』・『徒然草抄』・『伊勢物語新抄』・
	『清少納言枕草紙抄』など。
	(4)生年は1621。
	(5)生年は1625(寛永 2)。
	(11)生年は1621(元和 7)。
	(16)生年は1621(元和 7)。
かとう ばんさい
	加藤 盤斎
	⇒かとう ばんさい(加藤 磐斎)
かとう ひろゆき
	加藤 弘之
	1836(天保 7. 6.23)
	1916. 2. 9(大正 5)
	◇江戸幕末・明治時代の政治学者・評論家・教育家。本名は
	成之(ヨシユキ)のち誠之(アキユキ)のち弘之、通称は土代士(トヨシ)のち
	弘蔵。但馬国出石藩(イズシハン)城下谷山町の兵学師範役の家に生
	れる。三宅やす子の叔父。
	 1852(嘉永 5)兵学修業に江戸へ出て、佐久間象山に入門、西
	洋兵学を修める。坪井為春に蘭学を学ぶ。
	 幕府に出仕し、1860(万延元)蕃書調所教授手伝。1868(慶応 4)
	幕府御目附勘定頭。この間にドイツ語の研究から『隣艸(トナリグ
	サ)(隣草)』で日本に始めて議会制度を紹介。
	 1868(明治元)末に新政府に出仕。はじめ天賦人権説によって
	立憲主義を唱えていたが、1874(明治 7)板垣退助らのイギリス
	流の民選議院設立建白書にはドイツ的立場から時期尚早として
	反対する。
	 のち旧説を捨てて適者生存・優勝劣敗の社会進化論を唱えて
	自由民権論やキリスト教を批判。
	 1881(明治14)東京大学総理。帝国大学総長・貴族院議員・帝
	国学士院長・枢密顧問官・国語調査委員会長など歴任。
	 明六社同人・男爵。
	 著書は『隣艸』・『立憲政体略』・1870(明治 3)『真政大意』
	・1874(明治 7)『国体新論』・1882(明治15)『人権新説』など。
	(16)1877(明治10)年東大総理,'86年元老院議官,'90年再び東
	大総長…….
かとう まさお《かとう まさを》
	加藤 まさを
	⇒かとう まさを(加藤 まさを)
かとう まさお
	加藤 昌雄
	1903(明治36)
	1926. 9.16(大正15)
	◇小説家。胸を病み夭折。
かとう まさたか
	加藤 正方
	1580(天正 8)
	1648(慶安元)
	◇安土桃山時代の武将。初名は清六のち右馬允清左衛門正方。
	加藤清正の家臣、肥後内牧城代加藤可重の子。
	 父の没後、八代城代となる。
	 1632(寛永 9)清正の子忠広が改易されると、辞して浪人払い
	で広島浅野家お預けとなり、その地で没。
かとう まさゆき
	加藤 将之
	1901. 7. 3(明治34)
	1975. 6. 9(昭和50)
	◇歌人・哲学者。名古屋生れ。東京大学哲学科卒業。文部省図
	書監修官・日本書籍社員・山梨大学教授を歴任。
かとう まさを
	加藤 まさを
	1897(明治30)
	1977.11. 1(昭和52)
	◇挿絵画家。静岡県藤枝市生れ。立教大学英文科卒業。
	 中学校教師だった父の反対で美術学校へは進めず、早稲田中
	学・芝高輪中学を経て立教大学予科に入学。
	 立教大学在学中、英国の19世紀のイラストに魅了され、川端
	画学校に通う。
	 1969(昭和44)詩『月の砂漠』が有名。
かとう みき
	加藤 みき
	1863(文久 3)
	1935. 5.(昭和10)
	◇島崎藤村の義母、加藤静子の母。川越松平藩蔵前目付の次女。
	 4歳の時に母に伴われ上京。
	 1923(大正12)川越に戻る。
	◆墓は埼玉県川越市小仙波町5丁目の中院(ナカイン)。
かとう みちお《かとう みちを》
	加藤 道夫
	1918.10.17(大正 7)
	1953.12.22(昭和28)
	◇劇作家。福岡県遠賀(オンガ)郡戸畑生れ。東京府立五中を経て、
	1942(昭和17)慶応義塾大学英文科卒業。強度の神経衰弱により
	自宅書斎で自殺。滝浪治子(女優加藤治子)の夫。
かとう みちこ
	加藤 道子
	1919.10.31(大正 8)
	2004. 1.31(平成16)
	◇女優・声優。父はの加藤精一(俳優)、母は三井光子(女優)。
	東京府生れ。
	 1941(昭和16)NHKが設立した東京放送劇団養成所の1期生
	として入団。
かとう めいじ《かとう めいぢ》
	加藤 明治
	1911. 5.23(明治44)
	1970.12.30(昭和45)
	◇児童文学者。
かとう よしあき
	加藤 嘉明
	1563(永禄 6)
	1631(寛永 8. 9.12)
	◇安土桃山・江戸初期の武将。松山城主のち陸奥会津城主。幼
	名は孫六のち茂勝、通称は左馬之助(サマノスケ)。三河の人。
	 一向一揆に加わり、松平氏を去り羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え
	る。1583(天正11)賤ヶ岳(シズガタケ)の戦いに功をたて、賤ヶ岳
	七本槍の一人に数えられる。伊予国正木城主。1587(天正15)島
	津征伐の水軍を率いる。1590(天正18)小田原征伐・1592(文禄
	元)文禄の役に出陣。1597(慶長 2)慶長の役では水軍の中心と
	なる。
	 秀吉没後、徳川家康に仕え、1600(慶長 5)関ヶ原の戦では東
	軍に属し、福島正則(マサノリ)らとともに岐阜城を攻め、石田三成
	を破る。功により伊予国松山20万石の城主となり、1627(寛永
	 4)第2代将軍秀忠のとき会津40万石に転封される。
	(2)生年は1563(永禄 6)。
	(4)生年は1563。
	(16)生年は1562(永禄 5)。
	◎文禄の役の水軍の将は九鬼嘉隆(ヨシタカ)。
かどかわ げんよし
	角川 源義
	1917.10. 9(大正 6)
	1975.10.27(昭和50)
	◇俳人・民俗学者・角川書店の創業者。富山県生れ。国学院大
	学卒業。1945(昭和20)角川書店を創立。
かどた ゆたか
	門田 ゆたか
	1907. 1. 6(明治40)
	1975. 6.25(昭和50)
	◇詩人・作詞家。本名は穣(ユタカ)。
	 作詞では『ニコライの鐘』・『東京ラプソディー』など。
かとり なひこ
	楫取 魚彦
	1723(享保 8)
	1782(天明 2. 3.23)
	◇江戸後期の国学者・歌人。本姓は伊能、別号は青藍(セイラン)。
	下総国生れ。
かとり ほずま
	香取 秀真
	1874. 1. 1(明治 7)
	1954. 1.31(昭和29)
	◇鋳金家・歌人。本名は秀治郎。千葉県生れ。
	 1897(明治30)東京美術学校卒業。
	 東京美術学校教授。1934.11.(昭和 9)大正大学梵鐘を鋳造。
	 1953(昭和28)文化勲章、受章。
	 肺炎により死去。
かなお うめのかど
	金尾 梅の門
	1900. 7.27(明治33)
	1980.12. 9(昭和55)
	◇俳人。本名は嘉八。富山県生れ。
	(5)誕生日は 7.27。
	(8)誕生日は 7.17。
	(11)誕生日は 7.27。
かなお たねじろう
	金尾 種次郎
	1879. 4.21(明治12)
	1947. 1.28(昭和22)
	◇出版人(仏教書肆金尾文淵堂)。俳号は思西。
かながき ろぶん
	仮名垣 魯文
	1829(文政12. 1. 6)
	1894.11. 8(明治27)
	◇戯作者・新聞記者。本姓は野崎、幼名は兼吉のち文蔵、別号
	は和堂開珍・鈍亭(ドンテイ)・野狐庵(ヤコアン)・猫々道人(ミョウミョウド
	ウジン)。江戸京橋生れ。
かなざわ かねとみ
	金沢 種美
	1889. 7. 4(明治22)
	1961.11. 8(昭和36)
	◇歌人。本名は宥信、号は美巌(ビガン)。
	(8)誕生日は 7. 5。
かなざわ やすたか
	金沢 康隆
	1915.12.22(大正 4)
	1970. 7.27(昭和45)
	◇演劇・風俗研究家。
かなすぎ じゅんろう
	金杉 惇郎
	1909. 7.21(明治42)
	1937.10.25(昭和12)
	◇俳優・演出家。本名は又夫。
かなもり つうりん
	金森 通倫
	1857(安政 4. 8.15)
	1945. 3. 4(昭和20)
	◇宗教家。1914(大正 3)救世軍に入隊。
かなもり ほうか
	金森 匏瓜
	1876.12. 1(明治 9)
	1932. 2.23(昭和 7)
	◇俳人。本名は利兵衛、旧号は氷花。1932. 1.30(昭和 7)行方
	不明となり、 2.23溺死体で発見。
かなや かんじ《かなや かんぢ》
	金谷 完治
	1901. 5. 1(明治34)
	1946. 1. 5(昭和21)
	◇小説家。
かねあきら しんのう《かねあきら しんわう》
	兼明 親王
	 914(延喜14)
	 987
	◇平安中期の政治家・文人、醍醐天皇の皇子。小倉親王・前中
	書王とも。
	 源朝臣の姓を賜わり、左大臣に任じられたが、藤原兼通の讒
	(ザン)によって嵯峨小倉に隠遁(イントン)。
	 博学多才で詩文や書にすぐれていた。
	 詩文は『江談抄』・『本朝文粋』・『和漢朗詠集』などに収
	録され、書は『池亭記』がある。
	(*) 987(寛和 3,永延元)。
	◎「七重八重/花は咲けども山吹の/みのひとつだに無きぞ悲
	しき」が太田道灌と紅皿(ベニザラ)の話で有名。
	◎後中書王は具平(トモヒラ)親王をいう。
かねいえ《かねいへ》
	金家
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の鐔工(タンコウ)。山城伏見の人。
	 鐔に絵画風の文様を高彫りし、薄い鉄の板鐔に少量の金・銀
	・銅などを象眼をほどこす。
	◎初めての鐔工専門家とされる。
	 信家(ノブイエ)とともに鐔工の双璧、信家・明寿(ミョウジュ)とと
	もに鐔(ツバ)の三作と称せられる。
かねこ きいち
	金子 喜一
	1875.10.21(明治 8)
	1909.10. 8(明治42)
	◇思想家。1902(明治35)米国婦人と結婚し米国に帰化。1903
	(明治36)米国社会民主党員になる。在米で日本の社会主義運動
	を支援した。1909. 5.(明治42)結核療養で帰国、沼津で死去。
かねこ くんえん
	金子 薫園
	1876.11.30(明治 9)
	1951. 3.30(昭和26)
	◇歌人。本名は雄太郎、金子は外祖父の姓(養子)、旧姓は武山。
	東京神田生れ。武山英子(ヒデコ)の兄。
	 1893(明治26)落合直文の「あさ香社」に入る。
かねこ けんじ
	金子 健二
	1880. 1.13(明治13)
	1962. 1. 3(昭和37)
	◇英語学者。
かねこ しゅんむ
	金子 春夢
	1871(明治 4.11.)
	1899. 3.30(明治32)
	◇小説家・評論家。本名は佐平、別号は斬馬剣禅・笹下庵主人。
かねこ たかのすけ
	金子 鷹之助
	1892.11. 7(明治25)
	1951. 5. 7(昭和26)
	◇歴史家。
かねこ ちくすい
	金子 筑水
	1870(明治 3. 1.10)
	1937. 6. 1(昭和12)
	◇哲学者・文芸評論家。本名は馬治。長野県小県郡殿城村生れ。
	1890(明治23)東京専門学校文学科の第一回生として入学、1893
	(明治26)卒業。
かねこ とけんか
	金児 杜鵑花
	1894. 3.14(明治27)
	1938. 2.21(昭和13)
	◇俳人。本名は農夫雄。
かねこ ふきゅう
	金子 不泣
	1892.12.20(明治25)
	1970. 3.10(昭和45)
	◇歌人。本名は多津平。
かねこ まさお《かねこ まさを》
	金子 昌夫
	1929(昭和 4)
	2005. 8.23(平成17)
	◇文芸評論家。
	 著書は『山川方夫論』など。
かねこ みつはる
	金子 光晴
	1895.12.25(明治28)
	1975. 6.30(昭和50)
	◇詩人。本名は森安和(ヤスカズ)、旧姓は大鹿、三歳のとき養子
	縁組により金子。愛知県海東郡津島町生れ。大鹿和吉の三男、
	大鹿卓(オオシカ・タク)の実兄。
	 実家の酒屋が倒産して名古屋に移り、、三歳のとき建設会社
	清水組の主任金子荘太郎の養子となる。養父の転勤で東京に転
	居し、暁星中学校を経て、早稲田大学英文科に入学。
	 1915(大正 4)早稲田大学を中退し、東京美術学校日本画科へ
	入学するがすぐに退学し、慶応義塾英文科予科に入学、翌年中
	退。
	 1917(大正 6)養父の死去により多額の資産を相続。
	 1924(大正13)御茶ノ水高等師範学校の女学生だった森三千代
	(ミチヨ)を妊娠させ結婚。
	 1952(昭和27)、『人間の悲劇』、読売文学賞を受賞。
	 作品は詩集『赤土の家』・『ヴェルハアラン詩集』・『近代
	仏蘭西詩集』・『マレー蘭印紀行』・『鮫』・『落下傘』・自
	伝『詩人』・『どくろ杯』・『ねむれ巴里』・『西ひがし』な
	ど。
	(?)旧姓は大鹿(オオガ)。
	(1)本名は安和。
	(3)本名は保和(ヤスカズ)。
	(5)本名は保和(ヤスカズ)、生家は大鹿(オオシカ)。
	(8)本名は安和(本人は保和の字を使用)。
	(11)本名は保和(ヤスカズ)、生家は大鹿(オオシカ)。
	(13)本名は保和(ヤスカズ)。
	◆光晴忌[ 6.30]。
	[ 6.30前の土曜か日曜]金子光晴の会主催で追悼会の催し。
かねこ もとおみ
	金子 元臣
	1868(明治元.12. 1)
	1944. 2.28(昭和19)
	◇歌人・国文学者。幼名は豊太郎。
かねこ ようぶん
	金子 洋文
	1894. 4. 8(明治27)
	1985. 3.21(昭和60)
	◇劇作家・演出家・小説家・評論家。本名は吉太郎。秋田県土
	崎港古川町生れ。1913(大正 2)秋田県立工業学校機械科卒業。
	戦後、社会党所属参議院議員。
かねさき ちとうそん
	兼崎 地橙孫
	1890. 3.27(明治23)
	1957. 9. 3(昭和32)
	◇弁護士・俳人。名は理蔵。
かねざわ あきとき
	金沢 顕時
	⇒ほうじょう あきとき(北条 顕時)
かねざわ さだあき
	金沢 貞顕
	⇒ほうじょう さだあき(北条 貞顕)
かねざわ さねとき
	金沢 実時
	⇒ほうじょう さねとき(北条 実時)
かねだ きいち
	金田 鬼一
	1886.12.10(明治19)
	1963.11. 1(昭和38)
	◇ドイツ文学者。
かねつね きよすけ
	兼常 清佐
	1885.11.22(明治18)
	1957. 4.20(昭和32)
	◇音楽評論家・音声学者・随筆家。
	(8)没日は 4.25。
かねなが しんのう《かねなが しんわう》
	懐良 親王
	1329
	1383(<南>弘和 3,<北>永徳 3)
	◇後醍醐天皇の皇子。征西将軍宮(セイセシショウグンノミヤ)・鎮西宮・
	九州宮、「かねよし(懐良)」とも。
	 1338年、南朝方の征西将軍に任ぜられ、四国から九州にわた
	る。菊池・阿蘇氏らに支援されて足利軍と交戦し、1361年大宰
	府を占領し、一時九州全土を制圧。
	 これに対して足利氏は九州探題として渋川氏を、さらに今川
	貞世(了俊)を派遣。了俊の反撃によって、筑後矢部の奥地で没
	した。
	(*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元)、1361(<南>正平
	16,<北>延文 6,<北>康安元)、1329(嘉暦 4,元徳元)。
かねよし しんのう《かねよし しんわう》
	懐良 親王
	⇒かねなが しんのう(懐良 親王)
かのう あかつき
	加能 暁
	1893. 3.10(明治26)
	1930. 2. 6(昭和 5)
	◇歌人。本名は巳三雄(ミサオ)。
かのう いっけい
	狩野 一渓
	1599(慶長 4)
	1662(寛文 2)
	◇江戸前期の画家。名は重良。内膳重郷の子。
	 幼く狩野光信に学び、長じて江戸に移り、将軍徳川家光の画
	用を勤める。
	 著書は『後素集』・『丹青若木集』など。
かのう うたのすけ
	狩野 雅楽助
	⇒かのう ゆきのぶ(狩野 之信)
かのう えいとく
	狩野 永徳
	1543(天文12. 1.13)
	1590(天正18. 9.14)
	◇安土桃山時代の画家・狩野家4代目。名は州信(クニノブ)。山
	城国(現:京都府)の生れ。狩野元信の孫、狩野孝信の父、狩野
	探幽(タンユウ)の祖父。
	 幼少から祖父元信の指導を受け、早くから画才を発揮。
	 京都に住み、織田信長に認められ、1576(天正 4)安土築城に
	際して起用され、一門を率いて天守や御殿の障壁画を制作。
	 のち豊臣秀吉に仕え、1583(天正11)大坂城・1587(天正15)聚
	楽第(ジュラクダイ)・院御所・天瑞寺などの障壁画制作に雄筆を揮
	う。
	 時代に相応しく城郭建築に適合し豪壮闊達(カッタツ)な金碧障壁
	画の桃山様式を創始し、御用絵師としての狩野派の基礎を確立
	した。
	 現存の代表作は『洛中洛外図屏風(上杉家本)』・『唐獅子図
	屏風』など。
	◎「古永徳」とも呼ぶ。
かのう えいのう《かのう えいなふ》
	狩野 永納
	1631(寛永 8)
	1697(元禄10. 3. 7)
	◇江戸前期の狩野派の絵師。名は縫殿助、号は一陽斎・梅岳な
	ど。狩野山雪の子。
	 画法を初め父に、のち安信に学ぶ。
	 黒川道祐の援助を得て、1678(延宝 6)父山雪の遺した手録を
	基に『本朝画史』(5巻)を編纂・刊行。
かのう こうい
	狩野 興以
	生年不詳
	1636(寛永13)
	◇江戸前期の狩野派の絵師。本姓は松屋、初名は弥兵衛のち
	弥左衛門、諱(イミナ)は定信。興甫・興也・興之の父。下野の人。
	 狩野光信に師事し、その才能を買われて狩野孝信の委託によ
	りその三子を指導。
	 3百石で紀州藩に仕え、法橋に叙せられる。
	 代表作は『山水図屏風(東京国立博物館所蔵)』・『山水図
	(諸戸家所蔵)』、二条城白書院・京都等持院方丈の障壁画など。
かのう こうきち《かのう かうきち》
	狩野 亨吉
	1865(慶応元. 7.28)
	1942.12.22(昭和17)
	◇明治〜昭和前半期の哲学者・思想家。秋田藩の儒者狩野良知
	の次男。秋田県大館市生れ。
	 1888(明治21)東京帝国大学数学科卒業、1891(明治24)同校哲
	学科卒業。
	 第四高等学校・第五高等学校の教授を経て、1898(明治31)第
	一高等学校校長。1906(明治39)京都帝国大学の初代文科大学長、
	幸田露伴(コウダ・ロハン)・内藤湖南(コナン)を招くが、2年で辞職。
	在野で研究生活を続ける。
	 安藤昌益(ショウエキ)・志筑忠雄(シヅキ・タダオ)・本多利明(ホンダ・トシ
	アキ)らを江戸時代の忘れられていた独創的な思想家発見・紹介。
	◎蔵書は狩野文庫として東北大学に残っている。
	◎夏目漱石の『吾輩は猫である』の先生のモデルといわれる。
かのう さくじろう《かのう さくじらう》
	加能 作次郎
	1885. 1.10(明治18)
	1941. 8. 5(昭和16)
	◇小説家。石川県西海村生れ。
	 1911(明治44)早稲田大学英文科卒業。
	 田山花袋に師事。「文章世界」編集主任。
	 自然主義の流れを汲み、しみじみとした情味のある作風で知
	られる。
	 作品は『厄年』・『若き日』・『乳の匂ひ』・『世の中へ』
	など。
	(1)生年は1885(明治18)。
	(4)生年は1886(明治19)。
	(5)生年は1885(明治18)。
	(8)戸籍面の生年は明治18、実際は明治19という。
	(11)生年は1885(明治18)。
	(13)生年は1886(明治19)。
かのう じごろう《かなふ じごらう》
	嘉納 治五郎
	1860
	1938(昭和13)
	◇柔道家・教育家。兵庫県の人。東京大学卒業。竹添履信(リシン)
	の父。
	 学習院に奉職。1882(明治15)東京下谷永昌寺内に私塾講道館
	を設立、柔術を指導。1889(明治22)自分の流儀を「柔道」と命名、
	柔道の発達に貢献。第一高等中学校・東京高等師範学校校長・
	貴族院議員・1909(明治42)国際オリンピック委員会(IOC)委
	員。1911(明治44)日本体育協会を創立し、初代会長。
	 1938(昭和13)カイロのIOC総会でオリンピック大会の東京
	招致に成功、帰国途中の氷川丸船上で病死。
	(*)1860(安政 7,万延元)。
かのう たんゆう《かのう たんいう》
	狩野 探幽
	1602(慶長 7)
	1674(延宝 2.10. 7)
	◇江戸初期の狩野派の画家。名は守信、号は采女のち探幽斎。
	狩野孝信の長男、狩野永徳(エイトク)の孫。京都の人。
	 若くして天賦の画才を著わし、1612(慶長17)江戸に下る途中、
	駿府で徳川家康に謁し、1617(元和 3)16歳の若さで徳川幕府の
	御用絵師となる。江戸鍛冶橋に屋敷を拝領したため、探幽の家
	系は鍛冶橋狩野家と呼ばれる。
	 以後、幕府の用命を受けて日光東照宮・芝増上寺・上野寛永
	寺の徳川家霊廟の装飾や、江戸城の障壁画制作に従事。また大
	坂城・二条城・名古屋城・京都御所などや多くの寺院の障壁画
	制作にも活躍。
	 1635(寛永12)出家して探幽斎と称し、法眼(ホウゲン)に、1662
	(寛文 2)宮内卿法印(ホウイン)に叙せられる。
	 狩野派中興の祖で、桃山様式への追従をやめて新時代の武家
	社会に適するように淡白・瀟洒(ショウシャ)な画風を作り出し、3
	百年にわたる一門の繁栄を拓いた。
	 代表作は『二条城二の丸殿舎大広間襖絵』・『名古屋城上洛
	殿襖絵』・『大徳寺本坊襖絵』・『東照宮縁起絵巻』など。
かのう ほうがい《かのう はうがい》
	狩野 芳崖
	1828(文政11. 1.13)
	1888.11. 5(明治21)
	◇明治前期の日本画家。幼名は幸太郎。長門長府の人。豊浦藩
	の絵師狩野晴皐の子。
	 はじめ父の教えを受け、のち江戸に出て狩野勝川院雅信に師
	事。同門の橋本雅邦(ガホウ)とともにその英才を謳(ウタ)われたが、
	しばしば古法を逸脱し師の不興を買う。
	 明治初期は伝統芸術が顧みられなかったため生活にも困るあ
	りさまであった。
	 1884(明治17)内国絵画共進会でフェノロサ・岡倉天心に見出
	され、橋本雅邦とともに日本画の復興に努力。従来の狩野派の
	厳格な筆法に西洋画の色彩美を取り入れ、日本画の近代化に貢
	献。
	 東京美術学校創設に奔走し設立準備中に病気となり、設立の
	翌年に病死。
	 作品は『大鷲』・『不動明王』・『悲母観音』など。
	(4)江戸の狩野絵所に入って学び、……。
	(6)上京して狩野勝川に学び,……。
	(16)没日は11/21。狩野勝川院雅信の門に入って…….
	(19)木挽町狩野に学び、……。
	(?)没日は11. 5。
	◎『悲母観音』は死の直前まで筆をとっていた作品。
かのう もろひら
	加能 諸平
	1806(文化 3)
	1857(安政 4. 6.24)
	◇江戸後期の歌人。旧姓は夏目。遠江国白須賀生れ。紀州藩の
	医師加納伊竹の養子となる。
かのう ゆきのぶ
	狩野 之信
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町後期の絵師。名は雅楽助(ウタノスケ)、諱(イミナ)は之信。狩野
	派の始祖正信の2子、元信の弟。
	 兄元信とともに父正信に学ぶが、早世。
	 代表作は『大仙院の襖絵』・墨画淡彩の『田家耕作図』など。
かのこぎ かずのぶ
	鹿子木 員信
	1884.11.(明治17)
	1949.12.23(昭和24)
	◇アジア主義哲学者。
かのこぎ たけしろう
	鹿子木 孟郎
	1874(明治 7)
	1941(昭和16)
	◇漫画家。号は不倒。岡山県生れ。フランスに渡りローランス
	に学ぶ。1904. 5.(明治37)「時事漫画 非美術画報」を刊行する
	が三号で廃刊。
かばしま かついち
	樺島 勝一
	1888.11.11(明治21)
	1965. 5.31(昭和40)
	◇挿絵画家。本姓は椛島、筆名は東風人。長崎県諌早市生れ。
	商業学校中退。
	 1913(大正 2)上京。
	 「正チャン帽」という言葉が残る漫画の織田小星:作『正チャ
	ンの冒険』や山中峯太郎:作『敵中横断三百里』・『亜細亜の
	曙』の挿絵などが有名。
かばやま すけのり
	樺山 資則
	1837(天保 8.11.)
	1922(大正11. 2. 8)
	◇明治・大正期の海軍大将。薩摩藩出身。
	 征台の役、戊辰・西南戦争に功をたてる。1889(明治22)第一
	次山県内閣、1891(明治24)第一次松方内閣の海軍大臣。1894
	(明治27)日清戦争では軍令部長、黄海海戦に西京丸に搭乗して
	指揮。軍功により1895(明治28)伯爵・海軍大将・台湾総督。
かぶらぎ きよかた
	鏑木 清方
	1878. 8.31(明治11)
	1972. 3. 2(昭和47)
	◇明治〜昭和期の日本画家。本名は健一。「やまと新聞」の創立
	者条野採菊(ジョウノ・サイギク)の子。東京神田生れ。
	 14歳で水野年方に入門。17歳で「やまと新聞」などに挿絵を描
	き始める。1901(明治34)池田輝方・山中古洞らと烏合会を結成。
	1954(昭和29)文化勲章を受章。
かほうえん とうさい
	佳峰園 等栽
	1805(文化 2)
	1890.12. 6(明治23)
	◇俳諧師。本姓は鳥越。
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