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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6111.03

                 人   名   辞   典    《かま》     編集:獨  澄旻

-------- かま --------------------------------------------------
かまくら かげまさ
	鎌倉 景正
	⇒かまくら かげまさ(鎌倉 景政)
かまくら かげまさ
	鎌倉 景政
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の武士・鎌倉時代の大庭氏の祖。通称は権五郎(ゴン
	ゴロウ)。源義家の家臣。「景正」とも。
	 16歳の時、源義家に属して後三年の役に従軍し、金沢柵で敵
	に右目を射られながら、その敵鳥海弥三郎(清原武衡の部下)を
	討ち取って帰陣。矢が深く刺さっていたため、三浦為景(為嗣
	<タメツグ>・為次)は景政の面を踏んで抜こうとすると、その無礼
	を怒って跪(ヒザマズ)いて抜かせたという。
	◎桓武平氏の支流で、三浦氏と同祖。父景成が相模鎌倉を領有
	してから鎌倉氏を称する。
	 全国各地に御霊(ゴリョウ)大明神として祀(マツ)られている。
かまくらのごんごろう《かまくらのごんごらう》
	鎌倉 権五郎
	⇒かまくら かげまさ(鎌倉 景政)
かまだ いずも《かまだ いづも》
	鎌田 出雲
	1816(文化13)
	1858(安政 5)
	◇江戸末期の薩摩藩士。名は正純、通称は刑部のち図書。
かまだ ぎょみょう《かまだ ぎよめう》
	鎌田 魚妙
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸末期の刀剣研究家。通称は三郎太夫、号は九峯。
	 著書は『新刀弁疑』・『本朝鍛冶考』など。
かまだ としきよ
	鎌田 俊清
	1678(延宝 6)
	1744(延享元)
	◇江戸中期の和算家。
	 『詫間流円理』を著し、円周率の値を求める。
かまだ りゅうおう《かまだ りゆうわう》
	鎌田 柳泓
	1754(宝暦 4)
	1821(文政 4)
	◇江戸後期の思想家・心学者。名は鵬、字(アザナ)は図南、号は
	柳泓。紀伊生れ。一窓の甥で養子。
	 京都で医学のほか儒教(朱子学・陽明学)・仏教(禅)・道教・
	蘭学などを学ぶ。
	 それらの統合して理気一元論の立場をとり、新しい心学体系
	を打ち立て、大島有隣・上河淇水(ウエカワ・キスイ)とともに上方心学
	の隆盛に貢献。
	 著書は『朱学弁』・『心学五則』・『心苑余材』・1815(文
	化12)『理学秘訣』・1822(文政 5)『心学奥の棧』など。
	(16)没年?。
	(+)『岩波小辞典 哲学』1967年10月10日第2版第12刷。
	 没年1821(文政 4)。
かまち かんいち
	蒲池 歓一
	1905. 7.28(明治38)
	1967. 9.25(昭和42)
	◇詩人・中国文学者。筆名は蒔田廉。
かみいずみ ひでのぶ
	上泉 秀信
	1897. 2.12(明治30)
	1951. 5.14(昭和26)
	◇劇作家・評論家・新聞記者。山形県生れ。早稲田大学中退。
かみじま おにつら
	上島 鬼貫
	1661(万治 4. 4. 4)
	1738(元文 3. 8. 2)
	◇江戸前期の俳人。姓は「うえじま」とも、本名は宗邇(ムネチカ)の
	ち秀栄(ヒデノリ)、幼名は竹松、通称は与惣兵衛(ヨソベエ)・利左衛
	門・藤九郎・半蔵、別号は自舂庵(ジショウアン)・点也(テンヤ)・(「口」
	偏+「羅」)々哩(ララリ)・馬楽童・犬居士(イヌコジ)・仏兄(サトエ)・槿
	花(キンカ)翁。晩年、姓を平泉、号を金花翁と改める。摂津国伊
	丹(イタミ)の酒造業油屋に生れる。
	 貞門の松江重頼(シゲヨリ)、のち談林の西山宗因に学ぶ。25歳
	で「誠の外に俳諧なし」と悟る。
	(5)生年は1661(万治 4)、号は馬楽童。
	(11)生年は1661(寛文元):誤、号は馬楽堂。
	(*)寛文は 4.25から。
	◆鬼貫忌[旧暦 8. 2]。
かみじょう いさむ
	上條 勇
	1900(明治33)
	1975(昭和50)
	◇地人書館の創業者。松本生れ。
	 1930(昭和 5)独立して神田錦町に地人書館を創業。
かみじょう しんじ
	上条 信次
	1846(弘化 3. 1. 7)
	1912. 3.22(明治45)
	◇新聞記者。
かみちか いちこ
	神近 市子
	1888. 6. 6(明治21)
	1981. 8. 1(昭和56)
	◇評論家。本名はイチ。筆名は榊纓(サカキオウ)。長崎県生れ。女
	子英学塾卒業。
	 「東京日日新聞」の記者として活躍。大杉栄との愛情のもつれ
	から、1916(大正 5)神奈川県葉山の日蔭茶屋(ヒカゲヂャヤ)で大杉
	を刺し重傷を与え、2年間の獄中生活を送る。
	 1953(昭和28)社会党から出馬し衆議院議員に当選し、4期を
	経て引退。
かみつかさ かいうん
	上司 海雲
	1906. 2.15(明治39)
	1975. 1.25(昭和50)
	◇僧侶(東大寺)・随筆家。
かみつかさ しょうけん
	上司 小剣(上司 小劍)
	1874.12.15(明治 7)
	1947. 9. 2(昭和22)
	◇小説家。本名は延貴(ノブタカ)。摂津の多田神社に生れ、奈良
	に育つ。1889(明治22)大阪予備学校に入学、1893(明治26)父死
	亡のため代用教員になる。
かみむら きよのぶ
	上村 清延
	1879. 1.23(明治12)
	1957.11. 1(昭和32)
	◇ドイツ文学者。
かみや かくはん
	神谷 鶴伴
	1874. 8.13(明治 7)
	没年不詳
	◇小説家。本名は徳太郎。1934. 8.(昭和 9)に『好色一代男註
	釈(下)』が出ている。
かみやま しげお
	神山 茂夫
	1905. 2. 1(明治38)
	1974. 7. 8(昭和49)
	◇評論家。
かみやま そうじん
	上山 草人
	1884. 1.30(明治17)
	1954. 7.28(昭和29)
	◇俳優。本名は三田貞(タダシ)、号は半月。
かみやま なつら
	神山 魚貫
	1788(天明 8)
	1882. 2. 3(明治15)
	◇農民歌人。通称は三郎右衛門、号は魚貫。
かむら いそた
	嘉村 磯多(嘉村 礒多)
	1897.12.15(明治30)
	1933.11.30(昭和 8)
	◇小説家。山口県良敷(ヨシキ)郡仁保(イー)村生れ。生れつき体が
	小さく色黒で、村の子供たちに「黒坊主」とはやされた。
	 1911(明治44)県立山口中学校入学、四年生の時に退学。腸結
	核で死去。
	(1)没日は11. 3。
	(3)没日は11.30。
	(5)没日は11.30。
	(8)没日は11.30。
	(11)没日は11.30。
	(13)没日は11.13。
かむろ みどり
	香夢楼 緑
	1866(慶応 2. 7. 1)
	1890. 2. 2(明治23)
	◇外国文学者。本名は松野徳之助。結核で早逝。
かめい かついちろう
	亀井 勝一郎
	1907. 2. 6(明治40)
	1966.11.14(昭和41)
	◇評論家。北海道函館生れ。1913(大正 2)函館弥生小学校入学、
	1923(大正12)山形高等学校入学、1926(大正15)東京大学美学科
	入学、1927(昭和 2)中退。
	◆亀井勝一郎忌[11.14]。
かめい これみ
	亀井 茲監
	1825(文政 8)
	1885. 3.23(明治18)
	◇江戸幕末・明治維新期の石見国津和野藩主。筑後国久留米藩
	主有馬頼徳の子。江戸久留米藩邸生れ。
	 1839(天保10)津和野藩主亀井茲方(コレカタ)の養子となる。
	◎1915(大正 4)贈正二位。
かめい しいち
	亀井 至一
	1843(天保14)
	1905(明治38)
	◇画家。
かめい ちゅういち
	亀井 忠一
	1856(安政 3)
	1936(昭和11)
	◇明治〜昭和初期の三省堂の創業者。初名は鑑五郎。江戸小石
	川生れ。中川市助の5男。亀井寅雄の父。
	 14歳のとき、亀井家の養子となる。18歳ころ、下駄商を営む。
	 1881(明治14)神田で古本屋三省堂を開業。1883(明治16)出版
	業を始める。1915(大正 4)株式会社に改組し、図書出版と販売
	会社にし、顧問となる。
かめい とらお
	亀井 寅雄
	1890(明治23)
	1951(昭和26)
	◇三省堂2代目社長。東京生れ。亀井忠一の4男。東京大学経
	済学部卒業。
	 1930(昭和 5)社長に就任、東都書籍株式会社を設立。
	 1943(昭和18)三省堂(出版・販売)・同文館・東都書籍4社を
	統合し、三省堂出版を設立、社長に就任。
かめい ふみお
	亀井 文夫
	1908. 4. 1(明治41)
	1987. 2.27(昭和62)
	◇ドキュメンタリー映画監督。福島県生れ。1926(大正15)文化
	学院中退。
	 1928(昭和 3)ソ連に渡ってレニングラード映画演劇学校に学
	び、1931(昭和 6)帰国。『戦ふ兵隊』を製作し疲れ果てた日本
	兵を映し、試写会のみで上映禁止となる。左翼映画運動の首謀
	者として1941(昭和16)逮捕1年間拘置される。
	 1946(昭和21)日本映画社(日映)で岩崎昶(アキラ)らと製作した
	戦争犯罪を追及する『日本の悲劇』がGHQにより公開禁止と
	なる。米軍基地を批判した記録映画『基地の子たち』を発表。
かめお えいしろう
	亀尾 英四郎
	1898.11. 5(明治31)
	1945.10.11(昭和20)
	◇ドイツ文学者。
かめだ じろう《かめだ じらう》
	亀田 次郎(龜田 次郎)
	1876. 9.11(明治 9)
	1944. 2. 8(昭和19)
	◇国語学者。兵庫県印南郡曽根町1929(現:高砂市となる)製塩
	業の家に生れる。
	 1903. 7.(明治36)東京大学卒業。1904. 1.(明治37)国語調査
	委員会嘱託・1905. 5.(明治38)東京大学文科大学助手・大阪外
	国語学校を経て1925(大正14)大谷大学教授。
かめだ ほうさい
	亀田 鵬斎
	1752(宝暦 2.10. 4)
	1826(文政 9. 3. 9)
	◇江戸後期の儒学者(折衷学派)。名は長興、字は穉竜、通称は
	文左衛門・別号は善身堂主人。江戸馬喰町長門屋(鼈甲商)の番
	頭万右衛門の子、母は河野氏。
	 井上金峨の門人。同門の山本北山(ホクザン)とともに荻生徂徠
	(オギュウ・ソライ)・服部南郭(ナンカク)の古文辞学派を排撃。
	 1790(寛政 2)寛政異学の禁のとき、これに反対し市川鶴鳴(カ
	クメイ)・山本北山・塚田大峰(タイホウ)・泉豊洲とともに五鬼と称さ
	れる。
かめたに せいけん
	亀谷 省軒
	1838(天保 9)
	1913. 1.21(大正 2)
	◇漢学者・漢詩人。名は行。
かめやばら とく
	亀屋原 徳
	1898. 6.13(明治31)
	1942. 3.21(昭和17)
	◇劇作家。本名は本地正輝。
かめやま てんのう《かめやま てんわう》
	亀山 天皇
	1249(建長元. 5.27)
	1305(嘉元 3. 9.15)
	◇第90代天皇。名は恒仁(ツネヒト)、法諱は金剛源。後嵯峨天皇の
	皇子、母は大宮院(「女」偏+「吉」)子(西園寺実氏の娘)。
	 1258(正嘉 2)皇太弟となり、翌年後嵯峨上皇の意により兄の
	後深草天皇に代り即位。1268(文永 5)亀山天皇の皇子世仁(ヨヒト)
	親王が皇太子となり、皇位が亀山天皇の系統に伝わる形勢とな
	る。1272(文永 9)後嵯峨上皇が没して皇位継承問題が生じ、鎌
	倉幕府は大宮院とはかり亀山天皇を治世の君とする。1274(文
	永11)世仁親王(後宇多天皇)に譲位し、院政を執る。元冦(ゲンコ
	ウ)(文永・弘安の役)の際、身を以て国難に代ろうと伊勢神宮に
	祈願する。北条時宗が後深草上皇の皇子煕仁(ヒロヒト)親王を後宇
	多天皇の皇太子とし、1287(弘安10)即位(伏見天皇)し、後深草
	上皇は院政を始める。1289(正応 2)伏見天皇の皇子胤仁(タネヒト)
	(後伏見天皇)が皇太子になり、亀山上皇側の形勢が逆転し落胆
	して剃髪。
	 在位、1259(正嘉 3. 3.11)〜1274(文永11. 1.26)。
	 院政、1274(文永11. 1.26)〜1287(弘安10.10.21)。
	 皇位継承をめぐる大覚寺・持明院の両統迭立(テツリツ)はこの亀
	山天皇から始まる。
	(2)後嵯峨天皇の皇子,……。'89(正応 2)後深草上皇方のまき
	返しが功を奏し亀山上皇側の形勢が不利になったのを落胆して
	出家した。
	(4)後嵯峨天皇の第八皇子。
	(6)後嵯峨天皇第3皇子。89年出家して金剛源と称した。
	(16)後嵯峨天皇の皇子.'90(正応 3)年剃髪した.
かも すけゆき
	鴨 祐之
	⇒なしき すけゆき(梨木 祐之)
がもう くんぺい《がまふ くんぺい》
	蒲生 君平
	1768(明和 5)
	1813(文化10. 7. 5)
	◇江戸後期の勤皇家。名は秀実、通称は伊三郎、字は君蔵。灯
	油商福田又右衛門正栄の4男、祖母から祖先が蒲生氏と聞き、
	蒲生を名乗る。下野国宇都宮生れ。寛政三奇人の一人。
	 1790(寛政 2)高山彦九郎を慕い奥州石巻に赴いたが会えず、
	帰途仙台で林子平(シヘイ)を訪ねる。
	 皇陵の荒廃を嘆き、近畿・伊勢・佐渡を踏査して1801『山陵
	志』を著す。北辺の海防を憂い、1807(文化 4)『不恤緯(フジュツ
	イ)』を著し若年寄水野忠成に献上するが、幕府に喚問され静修
	庵に閑居。
	(2)号を修静庵。
	(16)以後静修庵に閑居して……。
	(*)1801(寛政13,享和元)。
かもした ちょうこ
	鴨下 晁湖
	1890. 2.25(明治23)
	1967.10.20(昭和42)
	◇画家。本名は中雄。東京生れ。
	 12歳で松本楓湖の弟子となる。
	 柴田錬三郎作の『眠狂四郎無頼控』が有名。
かものちょうめい
	鴨 長明
	1155(久寿 2)
	1216(建保 4.閏6. 8)
	◇鎌倉前期の歌人。長明は「ながあきら」とも読む。法名は蓮胤
	(レンイン)。
	(5)誕生日は1216(建保 4.閏6. 8)。
	(11)誕生日は1216(建保 4. 6. 8)。
かもののりきよ
	賀茂 規清
	⇒うめつじ のりきよ(梅辻 規清)
かものまぶち
	賀茂 真淵
	1697(元禄10. 3. 4)
	1769(明和 6.10.30)
	◇江戸中期の国学者・歌人。本姓は賀茂(岡部<オカベ>)、幼名は
	三四(ソウシ)のち政躬(マサミ)・政藤、号は県居(アガタイ)・県居大人
	(アガタイノウシ)・県主(アガタヌシ)・春栖(ハルスミ)、通称は衛士(エジ)。
	遠州浜松(岡部郷)生れ。神官岡部政信の3男。
	 浜松の脇本陣梅谷家に入婿。
	 37歳で上京し荷田春満(カダノアズママロ)に国学を学ぶ。春満の没
	後41歳で江戸に出て国学を教授。1746(延享 3)50歳のとき田安
	宗武に仕え、1760(宝暦10)隠居。1763(宝暦13)伊勢参宮の途中、
	松坂で本居宣長が入門し文通。
	 江戸で没。
	 万葉集を中心に古典を研究、古道(古代歌調・古代精神)の復
	活を説いた。
	 著書は『万葉考』・『歌意考』・『国意考』・『冠辞考』・
	『祝詞考』・『にひまなび』など。
	◎荷田春満・本居宣長(モトオリノリナガ)・平田篤胤(アツタネ)とともに
	国学四大人(シタイジン)の一人。
	◎門下に本居宣長・荒木田久老(ヒサオユ)・加藤千蔭・村田春海・
	楫取魚彦(カトリ・ナヒコ)・塙保己一(ハナワ・ホキイチ)らがおり、県居学派
	と呼ばれている。
	◎真淵は「契沖先生によって開墾せられた畑に、荷田先生が種
	を蒔(マ)かれた国学を、収穫まで仕上げるのは自分の責任であ
	る」と言っている。
	 「真淵の前に真淵なく、真淵の後(アト)に真淵なし」といわれた。
	◎明治になって従三位を追贈。
かや しらお
	加舎 白雄
	1738(元文 3. 8.20)
	1791(寛政 3. 9.13)
	◇江戸中期の俳諧師。本名は吉春、別号は昨烏(サクウ)・白尾坊
	(シラオボウ)。信濃国生れ。
	◆白雄忌[旧暦 9.13]。
かや せいじ
	茅 誠司
	1898.12.21(明治31)
	1988.11. 9(昭和63)
	◇物理学者。妻は伊登子、天文学者木村栄(ヒサシ)の娘婿。シス
	テム制御工学者茅陽一(ヨウイチ)は長男。
かやの さんぺい
	萱野 三平
	⇒かやの しげざね(萱野 重実)
かやの しげざね
	萱野 重実
	1675(延宝 3)
	1702(元禄15)
	◇江戸中期の赤穂藩士。中小姓、十二両二分三人扶持、江戸詰
	め。通称は三平、俳号は涓泉(ケンセン)。摂津国萱野郷生れ。父は
	萱野郷の領主旗本大島家の家老格の七郎左衛門(シチロウザエモン)重
	利(シゲトシ)。三平は大島義全(ヨシタケ)の推挙で、浅野内匠頭(タクミノ
	カミ)長矩(ナガノリ)に仕える。
	 江戸にいて藩主浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が江戸城中
	で刃傷(ニンジョウ)に及んだことを聞き、早水藤左衛門(ハヤミ・トウザエ
	モン)満堯(ミツタカ)と共に直ちに早駕籠で赤穂へ変を知らせた。
	 父重利に大島家に奉公を説得され、忠孝の板挟みで切腹。
	 辞世の句は「晴れゆくや日ころ心の花くもり」。
	 『仮名手本忠臣蔵』では「早野勘平(ハヤノ・カンペイ)」、「お軽勘平
	(オカルカンペイ)」の恋物語で有名。
	(2)父の領主大島阿波守義全(ヨシタケ)の推挙で、3歳のとき赤穂
	藩主浅野長矩に仕え、……。翌年2月15日,進退きわまって
	切腹した。
	(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
		成美堂出版		昭和56年11月 1日初版発行
		監修:尾崎秀樹		昭和57年 1月10日四刷発行
	 三平は、十三歳のとき、父の主家大島出羽守(デワノカミ)の推挙
	によって、……。三平は思い悩んだ末、一月十四日、亡君の命
	日に切腹して果てた。
かやの つねなり
	茅野 常成
	1667(寛文 7)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、横目付、禄高五両三人扶持。
	通称は和助(ワスケ)、戒名は刃響機剣信士、吉良家の探索中の変
	名は富田藤吾(トミタ・トウゴ)・町人助五郎(スケゴロウ)。美作(ミマサカ)出
	身で、神崎与五郎(カンザキ・ヨゴロウ)則休(ノリヤス)と同じく津山藩森
	家に仕えていたが、森家が無嗣絶家となり浪人し、1697(元禄
	10)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)に召し抱えられる。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の
	江戸中屋敷に預けられ、翌年、山中団八(ダンパチ)の介錯(カイシャク)
	で切腹。
かやの わすけ
	茅野 和助
	⇒かやの つねなり(茅野 常成)
かやはら かざん
	茅原 華山
	1870(明治 3. 8. 3)
	1952. 8. 4(昭和27)
	◇社会評論家。本名は廉太郎(レンタロウ)。東京生れ。独学。
かやま しげる
	香山 滋
	1904. 7. 1(明治37)
	1975. 2. 7(昭和50)
	◇小説家。本名は山田(「金」偏+「甲」)治(コウジ)。東京新宿生れ。
	 法政大学経済学部中退。大蔵省勤務。
	 1947(昭和22)『オラン・ペンデク』が「宝石」第一回の懸賞募
	集に入選。
	 作品は、1954.10.(昭和29)『怪獣ゴジラ』。
	(1)生年は1904(明治37)。
	(8)生年は1909(明治42)。
からい せんりゅう《からゐ せんりう》
	柄井 川柳
	1718(享保 3)
	1790(寛政 2. 9.23)
	◇江戸中期の川柳の点者。字は正道、幼名は勇之助、通称は
	八右衛門、別号は緑亭・無名庵。柄井家は江戸浅草龍宝寺門前
	の名主で、1755(宝暦 5)八右衛門を襲名し三代目名主となる。
	 1757(宝暦 7)「川柳評万句合」を発行、前句付(マエクヅケ)の点者
	として名声を得る。1765(明和 2)前句抜きの『誹風柳多留』初
	編を刊行。その撰句を川柳点、のち単に川柳と呼び現代に及ぶ。
	 墓は東京浅草の龍宝寺、戒名は契寿院川柳勇縁信士。
	(2)龍宝寺門前町にも名主が置かれ,……3代目名主となった。
	「誹風柳多留」。
	(6)江戸浅草新堀端の名主。〈誹風柳多留〉。
	(16)柄井家は江戸浅草竜門寺門前に住み、町名主であった。
	「俳風柳多留」。
からき じゅんぞう《からき じゆんざう》
	唐木 順三
	1904. 2.13(明治37)
	1980. 5.27(昭和55)
	◇文芸評論家。長野県上伊那(カミイナ)郡生れ。
	 松本中学校・松本高等学校を経て、1927(昭和 2)京都帝国大
	学哲学科卒業。
	 著書は『中世の文学』・『無用者の系譜』・『無常』など。
からごろも きっしゅう《からごろも きしう》
	唐衣 橘洲(唐衣 橘州)
	1743(寛保 3.12. 4)
	1802(享和 2. 7.18)
	◇江戸中期の狂歌師・幕臣。本名は小島源之助、別号を橘実副
	・酔竹庵。田安家の小十人で、江戸四谷忍原横町に住む。
	 内山椿軒について和歌を学ぶ。1769(明和 6)自宅で初めて狂
	歌会を催し、天明調狂歌の隆盛の端を開く。狂歌会をたびたび
	催し、社中を酔竹側という。
	 四方赤良(ヨモノアカラ)(大田南畝)・朱楽菅江(アケラ・カンコウ)とともに
	天明調の狂歌三大家と呼ばれる。
	(2)本名小島源之助。
	(4)小島氏。
	(6)本名小島謙之。その社中を酔竹連と称する。
	(16)本名小島源之助。その社中を酔竹側という.
からすま みつひろ
	烏丸 光広
	⇒からすまる みつひろ(烏丸 光広)
からすまる みつひろ
	烏丸 光広
	1579(天正 7)
	1638(寛永15. 7.13)
	◇江戸初期の歌人・公卿(権大納言正二位)。法名は泰翁、法号
	は法雲院。父は烏丸光宣(ミツノブ)。
	 細川幽斎から歌を学び、古今伝授を受ける。一糸和尚に参禅。
	 1612(慶長17)権中納言、1616(元和 2)権大納言、1620(元和
	 6)正二位。
	 狂歌・俳諧・書道にも通じる。
	 著書は家集『黄葉和歌集』・歌論書『耳底記(ニテイキ)』・『あ
	づまの道の記』など。
	 また、『目覚し草』・『竹斎』・『仁勢物語』などの仮名草
	子も著したと伝えられる。
	◎逸話に光広22歳の秋、丹後田辺城を石田三成の軍に包囲され
	幽斎が立て籠った時、後陽成(ゴヨウゼイ)天皇が、幽斎の討ち死
	で歌学の秘訣(ヒケツ)が絶えることを憂慮して、光広に開城をす
	すめさせ、この任を果たしたという。
かりや えきさい
	狩谷 (「木」偏+「夜」)斎
	1775(安永 4.12. 1)
	1835(天保 6.閏7. 4)
	◇江戸後期の国学者。幼名は高橋賢次郎のち真末(マサヤス)、別号
	は自直、のち狩谷望之(モチユキ)、字は卿雲(ケイウン)。
	 松崎慊堂(コウドウ)と親交。
かりや しんこう
	苅谷 深隍
	生年不詳
	没年不詳
	◇大正末期・昭和初期の挿絵画家。
	 伊東深水に師事。
	 代表作は大仏次郎作『鞍馬天狗』や佐々木味津三作『右門捕
	物帖』など。
かるのおおいらつめのひめみこ
	軽大娘皇女
	生年不詳
	没年不詳
	◇5世紀中葉の皇女。名は[2]衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)。父は第19
	代允恭(インギョウ)天皇、母は忍坂大中媛(オサカノオオナカツヒメ)(応神天皇
	の孫)。木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)・第20代安康(アンコウ)天皇の同母
	妹、第21代雄略(ユウリャク)天皇の同母兄弟。
	 允恭天皇の皇太子木梨軽皇子と関係し、天皇の御膳の汁が凍っ
	たことから露見。皇女は伊予国に流され、皇子は赦(ユル)される。
	◎『古事記』では、允恭天皇の死後に皇子が弟穴穂尊(アナホノミコト)
	(安康天皇)との皇位争いに敗れ伊予の湯(道後温泉)に流された
	のを知り、後を追って一緒に自殺する。
かるべ うとうし
	軽部 烏頭子
	1891. 3. 7(明治24)
	1963. 9.20(昭和38)
	◇内科医・俳人。本名は久喜。
かわい えいじろう《かはひ えいぢらう》
	河合 栄治郎
	1891. 2.13(明治24)
	1944. 2.15(昭和19)
	◇思想家。本名は栄次郎。東京の人。東京大学教授。
	 1938(昭和13)著書が発禁となり、のち休職。
かわい おとくに《かはゐ おとくに》
	川井 乙州
	生年不詳
	1710(宝永 7)頃
	◇江戸中期の俳人。通称は又七、別号は設楽堂・(「木」偏+「代」)
	々庵。川井氏または河合氏。近江国大津生れ。
	 智月尼(チゲツニ)とともに芭蕉の門弟。
	(2)母は俳人川井智月。
	(4)「乙州(オトクニ)」の項:智月尼の弟で養子。
	 「智月尼(チゲツニ)」の項:乙州(オトクニ)の母。
かわい おとくに《かはひ おとくに》
	河合 乙州
	⇒かわい おとくに(川井 乙州)
かわい かんじろう
	河井 寛次郎
	1890. 8.24(明治23)
	1966.11.18(昭和41)
	◇陶芸家・随筆家。
かわい ぎょくどう《かはひ ぎよくだう》
	川合 玉堂
	1873(明治 6)
	1957(昭和32)
	◇日本画家。名は芳三郎。愛知県生れ。
かわい きよまる
	川合 清丸
	1848
	1917(大正 6)
	◇明治・大正時代の神道家・社会教育家。
	(*)1848(弘化 5,嘉永元)。
かわい しんすい
	川合 信水
	1867(慶応 3.10.22)
	1962. 7. 3(昭和37)
	◇宗教家(基督心宗)・教育家。幼名は房之輔、号は山月・
	可愛子。
かわい すいめい《かはゐ すいめい》
	河井 酔茗
	1874. 5. 7(明治 7)
	1965. 1.17(昭和40)
	◇詩人。本名は又平、幼名は幸三郎。堺北旅籠町(キタハタゴチョウ)
	(現:大阪府堺市)生れ。島本久恵の夫。
	 1902(明治35)東京専門学校(現:早稲田大学)入学、1903(明治
	36)中退。文庫派の詩人。
かわい そら《かはひ そら》
	河合 曽良(河合 曾良)
	1649(慶安 2)
	1710(宝永 7. 5.22)
	◇江戸前期の俳人。本名は岩波正字(マサタカ)、通称は惣五郎(ソウゴ
	ロウ)、河合氏の養子。信濃国生れ。蕉門十哲の一人。
	 伊勢の長島藩に仕える。1689(元禄 2. 3.)芭蕉の『奥の細道』
	の旅に随行し、『曾良日記』を記す。
かわい たけお
	河合 武雄
	1877. 3.13(明治10)
	1952. 3.21(昭和17)
	◇俳優(女形)。本名は内山武次郎。
かわい ちげつ
	川井 智月
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の俳人。智月尼(チゲツニ)。大津の荷問屋川井佐左衛
	門の妻。乙州(オトクニ)の母。
	 夫の死後、尼となる。乙州とともに芭蕉に師事。
	(2)(生)近江国大津。
	(4)「智月尼(チゲツニ)」の項:山城の生れで……。
かわい つぐのすけ
	河井 継之助
	1827(文政10)
	1868
	◇江戸幕末の越後国長岡藩上席家老。名は秋義、号は蒼龍窟。
	 戊辰戦争では局外中立を説くが、新政府には認められず、官
	軍と戦い戦傷死。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
かわい ひとし
	川合 仁
	1900.12.22(明治33)
	1963.10.30(昭和38)
	◇ジャーナリスト。
かわい よしとら
	川合 義虎
	1902(明治35)
	1923. 9.(大正12)
	◇大正時代の社会主義者。長野県生れ。
	 小学校卒業後、日立鉱山の旋盤工となる。1920(大正 9)同士
	とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立
	大会で検挙され入獄。
	 1922(大正11)渡辺政之輔らと南葛労働協会を組織。第1次日
	本共産党に入党し、1923(大正12)国際共産青年同盟の支部とし
	て日本共産青年同盟を創立し初代委員長となる。
	 関東大震災直後の混乱に乗じ、習志野騎兵第十三連隊によっ
	て亀戸警察署で他の組合運動員らとともに虐殺された。
	(2)かわい よしとら(川合義虎)。
	(4)亀戸事件の項目:川合義虎ら…。
	(6)亀戸事件の項目:河合義虎ら…。
かわかみ おとじろう《かはかみ おとじらう》
	川上 音二郎
	1864(文久 4. 1. 1)
	1911.11.11(明治44)
	◇明治時代の新派俳優・興行師。博多生れ。妻は貞奴(サダヤッコ)。
	 自由党にはいり自由民権運動に参加。のち講釈師・落語家を
	経て、1889(明治22)浮世亭○○(マルマル)の名で京都新京極の寄席
	に出て自由民権思想を鼓吹した「オッペケペー節」で人気を博す
	る。1890(明治23)壮士芝居を結成して上京。
	 1899〜1901. 1.(明治32〜明治34)、1902(明治35)欧米巡業を
	する。
	 1903(明治36)明治座で『オセロ』、本郷座で『ハムレット』
	などを公演し成功を収める。
	 東京に川上座、大阪に帝国座を建設、1908(明治41)貞奴と帝
	国女優養成所を創立。
	◆墓は1914(大正 3)泉岳寺より東京都台東区の谷中霊園に移さ
	れる。
	◎大阪の落語家桂藤兵衛の弟子。
かわかみ きよし
	河上 清
	1873(明治 6)
	没年不詳
	◇評論家・新聞記者。渡米し、米・英の雑誌に寄稿、1949. 3
	(昭和24)『米ソ戦わば?』。
かわかみ くによ
	川上 邦世
	1886. 7.13(明治19)
	1925. 6. 2(大正14)
	◇木彫家。川上冬崖の孫。
かわかみ さだやっこ《かはかみ さだやつこ》
	川上 貞奴
	1872(明治 5)
	1946(昭和21)
	◇明治〜昭和期の女優。本名は貞。東京生れ。小熊久次郎の娘、
	川上音二郎の妻。
	 7歳のときに日本橋葭町(ヨシチョウ)の芸妓置屋の養女となる。
	14歳で座敷に出、時の宰相伊藤博文に水揚げされる。
	 1891(明治24)俳優川上音二郎と結婚。1899(明治32)一座約20
	名と渡米、女形が死亡し急遽(キュウキョ)代役をつとめる。1902(明
	治35)再び巡業。
	 1908(明治41)音二郎と帝国女優養成所を創立。
かわかみ さよこ
	川上 小夜子
	1898. 4.27(明治31)
	1951. 4.24(昭和26)
	◇歌人。本名は久城慶子。
かわかみ さんたろう
	川上 三太郎
	1891. 1. 3(明治24)
	1968.12.26(昭和43)
	◇川柳作家。本名は幾次郎。
かわかみ すみお
	川上 澄生
	1895. 4.10(明治28)
	1972. 9. 1(昭和47)
	◇画家。
かわかみ そうくん
	川上 宗薫
	1924. 4.23(大正13)
	1985.10.13(昭和60)
	◇小説家。本名は宗薫(ムネシゲ)。愛媛県。九州大学英文科卒業。
かわかみ そうろく
	川上 操六
	1848(嘉永元)
	1899(明治32)
	◇明治時代の陸軍軍人・大将。
かわかみ てつたろう《かはかみ てつたらう》
	河上 徹太郎
	1902. 1. 8(明治35)
	1980. 9.22(昭和55)
	◇文芸評論家。長崎市生れ。
	 1926(大正15)東京帝国大学経済学部卒業。
	 1942(昭和17)日本文学報国会が結成され、事務局の審査部長
	になり、大東亜文学者大会を開催。1954(昭和29)イギリス外務
	省の招きで渡英。
	 著書は『自然と純粋』・『日本のアウトサイダー』、翻訳
	『悲劇の哲学』など。
	(2)(生)山口県。
	(5)長崎市生れ。二八年にはイギリス外務省の招きにより渡英。
かわかみ とうがい《かはかみ とうがい》
	川上 冬崖
	1827(文政10. 6.11)
	1881. 5.14(明治14)
	◇幕末・明治初期の洋画・日本画家。本名は寛、字は子栗、通
	称を斧松・万之丞、号を初め太年。信州(現:長野県)松代領生
	れ。川上邦世(クニヨ)の祖父。
	 初め当時京都画壇の中心勢力だった四条派の日本画を江戸で
	学び、のちに幕府の画学局、維新後大学南校などで洋画を研究。
	大学南校の教授。かたわら下谷に私塾の聴香読画館を設立、門
	人を育成。
	 沼津兵学校・大学南校・陸軍省などで地図製作をする。
かわかみ はじめ
	河上 肇
	1879.10.20(明治12)
	1946. 1.30(昭和21)
	◇経済学者。号は楓月・千山万水楼主人・閉戸閑人。山口県玖
	珂(クガ)郡岩国町生れ。1898(明治31)山口高等学校卒業、1902
	(明治35)東京帝国大学政治科卒業。1933. 1.(昭和 8)検挙され、
	治安維持法違反で入獄、1937. 6.(昭和12)皇太子誕生による減
	刑で出獄。
かわかみ びざん
	川上 眉山
	1869(明治 2. 3. 5)
	1908. 6.15(明治41)
	◇小説家。本名は亮(アキラ)、幼名は幾太郎(イクタロウ)、別号は烟波
	(エンパ)・烟波散人・黛子(タイシ)・玄雪・羅白(ラハク)。大阪生れ。
	本郷小学校・第一中学校・東京大学予備門(一高)を経て、1888
	(明治21)東京帝国大学法科に進学、翌年文科に転じる。原因不
	明の自殺。
	◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。
かわかみ ふはく《かはかみ ふはく》
	1719(享保 4)
	1807(文化 4)
	◇江戸後期の茶人。茶道江戸千家(不白流)の祖。紀州新宮生れ。
	新宮藩の下級藩士五郎作の次男。号は孤峰不白、俳号は蓮華庵
	・妙々斎・円頓斎。
	 15歳のときに江戸に出、16歳のときに京都に上り表千家に入
	門。如心斎(ジョシンサイ)千宗左(七代目)に師事、宗雪の茶名を受
	ける。師とともに京都大徳寺に参禅し大龍和尚から「孤峰不白」
	の号を授かる。
	 32歳のとき江戸に移り江戸千家と称して表千家流の茶道を普
	及させる。
	 紀州新宮侯に仕えた。
かわぐち あつし
	川口 篤
	1902. 9.29(明治35)
	1975. 6.25(昭和50)
	◇フランス文学家。
かわぐち いちろう
	川口 一郎
	1900. 9.30(明治33)
	1971. 7.13(昭和46)
	◇劇作家・演出家。東京生れ。慶応義塾大学・コロンビア大学
	卒業。
	(5)明治学院高等学部を中退して生命保険会社員となり、保険
	事業研究の名目で大正一二年渡米。コロンビア大学に通うかた
	わら、当時上昇期にあったアメリカ演劇をつぶさに観劇した。
かわぐち えかい《かはぐち ゑかい》
	河口 慧海
	1866(慶応 2. 1.12)
	1945. 2.24(昭和20)
	◇明治〜昭和前期のチベット語学者・仏教学者・探検家。幼名
	は定治郎。大阪府生れ。
	 哲学館(現:東洋大学)卒業。
	 チベット大蔵経入手のためチベット探検を計画、1897(明治
	30)出発。1899(明治32)カトマンズからヒマラヤを越えて鎖国
	中のチベットに入国。1903(明治36)帰国。
	 1905(明治38)再度、出発。1916(大正 5)帰国。
	 大正大学教授。
	 著書は『西蔵旅行記』など。
かわぐち しんにん《かはぐち しんにん》
	河口 信任
	1736
	1811(文化 8)
	◇江戸中期の蘭医。名は閑春、号は宏斎。肥前の人。
	 長崎の栗崎道意に南蛮流外科を学ぶ。
	◎1736(享保21,元文元)。
かわぐち まつたろう
	川口 松太郎
	1899.10. 1(明治32)
	1985. 6. 9(昭和60)
	◇小説家・劇作家・演出家。東京浅草今戸生れ。
	 小説集『三人オバン』など。
	(1)誕生日は10.19。
	(3)誕生日は10. 1。
	(5)誕生日は10. 1。
	(8)誕生日は10. 1。
	(13)誕生日は10. 1。
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