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人 名 辞 典 《か》 編集:獨 澄旻
-------- か ----------------------------------------------------
かいおんじ ちょうごろう
海音寺 潮五郎
1901. 3.13(明治34)
1977.12. 1(昭和52)
◇小説家。本名は末富東作(スエトミ・トウサク)。鹿児島伊佐郡大口村
生れ。国学院大学卒業。太平洋戦争中、報道班員として徴用、
マレー方面へ行く。
(1)誕生日は1901. 3.13(明治34)。
(5)誕生日は1901. 3.13(明治34)。
(8)実際は11. 5生れで、届け出の不備のため 3.13となったとい
う。
(11)誕生日は1901. 3.13(明治34)。
(13)誕生日は1901. 3.14(明治34)。
かいが とものぶ
貝賀 友信
1650(慶安 3)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、中小姓・蔵奉行、十両三人
扶持。通称は弥左衛門(ヤザエモン)、吉良家の探索中の変名は町人
に扮して喜十郎(キジュウロウ)。吉田忠左衛門(ヨシダ・チュウザエモン)兼亮
(カネスケ)の実弟。母方の貝賀新兵衛(シンベエ)の養子。
吉良家討ち入りでは表門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、大島半平(オオシマ・ハンペイ)の介
錯(カイシャク)で切腹。
かいが へんてつ
海賀 変哲
1871(明治 4.12. 5)
1923. 4.13(大正12)
◇雑誌記者・小説家。本名は篤麿。福岡県生れ。札幌農学校
(現:北海道大学)に学ぶ。1906(明治39)博文館に入社、雑誌「少
女世界」・「文芸倶楽部」の編集に当る。
かいが やざえもん
貝賀 弥左右衛門
⇒かいが とものぶ(貝賀 友信)
かいけい
快慶
生年不詳
没年不詳
◇鎌倉時代の仏師。運慶(ウンケイ)または康慶(コウケイ)の弟子。
大仏師法眼快慶・安阿弥陀仏・巧匠法眼快慶とも称する。
かいざわ ただし
貝沢 正
1911(明治44)
1992(平成 4)
◇アイヌ文化研究者。北海道平取生れのアイヌ民族。
開拓団として満州に渡り、帰国して平取に再び住む。
かいせん じょうき《くわいせん ぜうき》
快川 紹喜
生年不詳
1582(天正10. 4. 3)
◇室町末期の臨済宗の僧。美濃土岐氏の生れ。
美濃の崇福寺の住職であったが国主斎藤義龍をきらい、武田
晴信に迎えられて甲斐の恵林寺(エリンジ)の住職となる。
1582(天正10)武田勝頼が織田信長に攻められた時、甲斐の禅
僧は武田と運命をともにする覚悟で恵林寺に集まった。このと
き、信長に敗れた近江の佐々木義弼が恵林寺に身を寄せて密か
に北国に逃れた。怒った信長は四方から寺に火をかけ、快川は
多くの僧とともに焼死。
◎快川は山門上で端坐、焼死しようとする際に「心頭(シントウ)滅
却(メッキャク)すれば火もまた涼し」の偈(ゲ)を発ったという。
かいとう まつぞう
垣内 松三
1878. 1. 2(明治11) ????
1952. 8.25(昭和27)
◇国文学者・国語教育学者。筆名は松三(マツミ)。
(8)垣内 松三(かいと まつぞう)、誕生日は 1.11。
かいぬま みのる
海沼 実
1909. 1.31(明治42)
1971. 6.13(昭和46)
◇作曲家。長野県出身。
かいのう みちたか
戒能 通孝
1908(明治41)
1975(昭和50)
◇法社会学者。長野県生れ。
東京帝国大学卒業。
早稲田大学・都立大学教授。
小繋(コツナギ)事件で農民側弁護士として活躍。
著書は『入会(イリアイ)の研究』など。
かいばら えきけん《かひばら えきけん》
貝原 益軒
1630(寛永 7.11.14)
1714(正徳 4. 8.27)
◇江戸前期の儒学者・本草学者・教育学者。名は篤信(アツノブ)、
字は子誠、通称は久兵衛・助三郎、別号は柔斎・損軒。筑前国
(福岡県)の人。
黒田(福岡)藩士。京都に遊学。
松永尺五(セキゴ)・木下順庵(ジュンアン)・山崎闇斎(アンサイ)などを
師とし、はじめ陸象山(リク・ショウザン)・王陽明の学を学び、のち
朱子学に移る。
26歳で剃髪し、柔斎と号した。
晩年の『大疑録』では朱子学の理気二元論に対し理気一元論
を展開。
著書は1709(宝永 6)『大和本草』・1714(正徳 4)『慎思録』
・1714(正徳 4)『大疑録』、1708(宝永 5)『大和俗訓』・1713
(正徳 3)『養生訓』などの『益軒十訓』など。
◎子供の世界と大人とを同列にすべきでないことを指摘。
◎江戸中期以後広く流布した『女大学』は、益軒の『和俗童子
訓』をもとに後人が抄出したとする説が有力。
かえりやま のりまさ
帰山 教正
1893. 3. 1(明治26)
1964.11. 6(昭和39)
◇映画監督・技術研究者。
かが こうじ
加賀 耿二
1899.10.15(明治32)
1974. 6. 8(昭和49)
◇小説家・労働運動家。本名は谷口善太郎、初めの筆名は
須井一(スイ・ハジメ)。石川県生れ。
かがのちよ
加賀 千代
1703(元禄16)
1775(安永 4. 9. 8)
◇江戸中期の女流俳人。千代女・千代尼とも、号は剃髪(テイハツ)
後、素園(ソエン)。
◆千代尼忌(素園忌)[旧暦 9. 8]。
かがみ しこう
各務 支考
1665(寛文 5)
1731(享保16. 2. 7)
◇江戸前期の俳諧師。別号は東華坊・西華坊・野盤子・見竜・
獅子庵(シシアン)、変名は蓮二房・白狂・渡辺ノ狂。美濃国生れ。
蕉門(ショウモン)十哲の一人。
かがわ かげき
香川 景樹
1768(明和 5. 4.10)
1843(天保14. 3.27)
◇江戸後期の歌人・歌学者。和歌の家柄の香川景柄(カゲモト)の
養子となる。1804(文化元)香川家より独立し、桂園派(ケイエンハ)
を創始。
(?)一時、荒川純徳(スミトク)を名乗る。 ????
(5)鳥取藩士荒川小三次の次男に生れたが、早く父を失い、親
類の奥村定賢に養われたので、当時は奥村純徳(スミノリ)と名乗っ
た。
(11)鳥取藩士荒川小三次の次男に生れたが、早く父を失い、親
類の奥村定賢に養われたので、当時は奥村純徳(スミノリ)と名乗っ
た。
かがわ とよひこ
賀川 豊彦(賀川 豐彦)
1888. 7.10(明治21)
1960. 4.23(昭和35)
◇牧師・社会事業家。神戸市島上町で回漕店を営む父と芸者と
の間に生れる。1904(明治37)徳島中在学中に受洗。1907(明治
40)明治学院神学部予科を卒業、神戸中央神学校に転校。1909
(明治42)在学中から神戸の貧民街に住み伝道を始める。神学校
を卒業後、1914(大正 3)渡米しプリンストン大学・プリンスト
ン神学校に留学。帰国後も貧民街にもどって伝道を続ける。
1921(大正10)神戸三菱・川崎造船所の労働争議を指導などキリ
スト教的な社会主義運動を実践。1929(昭和 4)東京に転居、伝
道の著述に努める。太平洋戦争の開戦前、反戦論を唱えたとい
う理由で憲兵隊に拘留された。戦後は東久邇(ヒガシクニ)内閣の参
与、また社会党の結成に尽力。
(5)誕生日は 7.10。
(13)誕生日は 7.12。
かがわ ふぼう
香川 不抱
1889. 2.10(明治22)
1917.10. 5(大正 6)
◇歌人。本名は栄、号は延齢。
かきのもとのひとまろ
柿本 人麻呂
生年不詳
没年不詳
◇大和時代の歌人。柿下とも人麿とも柿本朝臣(アソミ)人麿(『万
葉集』)とも記す。日並皇子・高市皇子の舎人(トネリ)ともいう。
7世紀後半、持統・文武の両天皇に仕えた。五〇歳ぐらいで和
銅年間( 708〜 715)に死亡か。
◆人麿忌(人丸忌)[旧暦 3.18]。
[ 4.15]島根県益田市の柿本神社で例祭。
[ 4.18を中心に]兵庫県明石市の柿本神社(人丸神社)で例祭。
(17)天武十三年(六八四)に八色の姓(ヤクサノカバネ)の第二位「朝臣
(アソミ)」を賜わる。
(*) 684[天武12]。
◎住吉(スミヨシ)・玉津志摩の二神とともに「和歌の三神」と呼ばれ
る。
かくおういん よしみ?
覺王院 義観
1822(文政 5)
1869(明治 2)
◇江戸幕末の寛永寺執当職。
1868(慶応 4. 5.)上野戦争で敗れ公現法親王を戴いて福島に
逃れるが、官軍に捕らえられ獄死。
かくさんに
覚山尼
1252(建長 4)
1306
◇鎌倉時代の尼僧・第8代執権北条時宗の妻。
鎌倉市山ノ内にある東慶寺(トウケイジ)を開山。
(*)1306(嘉元 4,徳治元)。
◎家庭不和などに苦しむ女性を救済するため、尼として3年奉
公することにより離婚できる縁切寺(エンキリデラ)の寺法を定めた
といわれている。
かくだ こうこうかかく
角田 浩々歌客
1869(明治 2. 9.16)
1916. 3.16(大正 5)
◇評論家・新聞記者。本名は勤一郎、別号は伊吹郊人・剣南子
・剣南道士・不二行者。駿河国生れ。慶応義塾卒業。佐野天声
(サノ・テンセイ)の兄。
(1)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく)。
(3)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。
(5)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。
(8)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく)。
(11)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。
(13)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。
かけい かつひこ
筧 克彦
1872(明治 5.11.28)
1961. 2.27(昭和36)
◇明治〜昭和期の公法学者・神道思想家。長野県諏訪生れ。東
京帝国大学法科大学卒業。
かげやま ひでこ
景山 英子
⇒ふくだ ひでこ(福田 英子)
かこ つるど
賀古 鶴所
1855(安政 2. 1. 2)
1931. 1. 1(昭和 6)
◇近世・耳鼻咽喉科の創始者・医師。
かごしま じゅぞう
鹿児島 寿蔵(鹿兒島 壽藏)
1898.12.10(明治31)
1982. 8.22(昭和57)
◇紙塑(シソ)人形の製作(重要無形文化財)・歌人。福岡生れ。
鹿児島やすほの夫。
かごしま やすほ
鹿児島 やすほ
1899. 9. 4(明治32)
1975. 1.14(昭和50)
◇歌人。本名はヤスオ。鹿児島寿蔵(ジュゾウ)の妻。
かさい ぜんぞう
葛西 善蔵(葛西 善藏)
1887. 1.16(明治20)
1928. 7.23(昭和 3)
◇小説家。号は歌棄・酔狸州。青森県弘前町の松森町生れ。哲
学館(現:東洋大学)・早稲田大学英文科の聴講生。
かさのいらつめ
笠 女郎
生年不詳
没年不詳
◇奈良時代の歌人。
かさのかなむら
笠 金村
生年不詳
没年不詳
◇奈良時代の歌人。
かさはら けんじろう
笠原 健治郎
生年不詳
没年不詳
◇大正後期〜昭和初期の小説家。
かさはら せいどう
笠原 静堂
1913(大正 2)
1947. 5.31(昭和22)
◇俳人。本名は正雄。
かざま かん《かざま くわん》
風間 完
1919. 1.19(大正 8)
2003.12.27(平成15)
◇洋画家・挿絵画家。評論家十返千鶴子の兄。東京生れ。
東京高等工芸学校(現:千葉大学)卒業。
かざま なおえ
風間 直得
1897. 7. 7(明治30)
没年不詳
◇俳人・洋画家。東京日本橋浜町生れ。ルビの多用を提唱。
かざまき けいじろう
風巻 景次郎
1902. 5.22(明治35)
1960. 1. 4(昭和35)
◇国文学者。旧姓は平田。
かさもり おせん
笠森 お仙
1752(宝暦 2)
1827(文政10)
◇江戸三美人の一人。江戸谷中の笠森稲荷の前で水茶屋を営む
鍵屋(カギヤ)五郎兵衛の娘。
十四、五歳の頃に水茶屋の看板娘として評判になる。
御庭番の倉地政之助に嫁ぎ、九人の子を育てる。
病没し、四谷の正見寺に葬られる。
◆墓は正見寺(明治に現在地東京都中野区へ移転)。
◎大田南畝(ナンポ)の『一話一言』や『売飴土平伝』に記される。
また、浮世絵や芝居でももてはやされ、子供の手まり唄にもな
り後世まで伝えられた。
山東京伝の合巻『笠森娘錦笈摺(カサモリムスメニシキノオイズリ)』や河竹
黙阿弥の歌舞伎『怪談月笠森』(通称は笠森お仙)のモデル。
◎江戸三美人は明和三美人とも呼び、他の二名は柳屋のお藤、
蔦屋(ツタヤ)のお好。
かざんいん
花山院
968(安和元.10.26)
1008(寛弘 5. 2. 8)
◇第65代花山天皇・平安中期の歌人。諱は師貞(モロサダ)。冷泉
(レイゼイ)天皇の第一皇子、母は一条摂政伊尹女(コレマサ,コレタダノムスメ)
懐子(カイシ)。 984(永観 2)即位。中宮藤原(「低」の「イ」を立心偏
に替える)子の死を悼み、藤原兼家・道兼父子にあざむかれ、
986(寛和 2)在位一年九ヶ月一九歳で退位、出家し花山寺に入
る。花山天皇が遁世の際に出て行った平安京の偉鑒門(イカンモン)
は、その後開けることがなかったので「不開の門(アカズノモン)」と
呼ばれた。
かざんいん ながちか
花山院 長親
生年不詳
1429(正長 2. 7.10)
◇南北朝末・室町初期の歌人・学者。法名は明魏(メイギ)、号は
耕雲・畊雲、姓は藤原。南朝に仕え従一位・右大臣。両統合体
後、1392(南朝元中 9)出家。生年は貞和(1345〜1350)ころ、享
年八〇余歳。和歌を宗良(ムネナガ)親王に学び、『新葉和歌集』
の撰定に参与。仮名の起源・沿革および五十音の音韻組織など
を説いた『倭片仮字反切義解』など。
かじ わたる《かぢ わたる》
鹿地 亘
1903. 5. 1(明治36)
1982. 7.26(昭和57)
◇小説家・評論家。本名は瀬口貢。大分県生れ。
東京帝国大学卒業。
1932(昭和 7)日本共産党に入党。日本プロレタリア作家同盟
(NALP)の解散の際、1934. 3.12(昭和 9)治安維持法違反で
検挙、獄中で転向を声明、10. 4保釈出獄。
1936. 1.(昭和11)中国に脱出、魯迅に私淑。日華事変後は国
民政府の軍事委員会顧問として日本軍兵士に対する反戦宣伝に
従事。
1946. 5.(昭和21)帰国。1951.11.25(昭和26)午後7時ころ藤
沢市で米軍キャノン機関に拉致(ラチ)、本郷ハウス(GHQに接
収されていた文京区の岩崎邸)に監禁。一時自殺を図る。のち
川崎市新丸子のTCハウスを経て琉球(現:沖縄県)米軍基地に
移される。
約一年後の1952.12. 7(昭和27)明治神宮外苑で解放されて新
宿区上落合の自宅に帰り、在日米軍の諜報機関に監禁されてい
たと発表(「鹿地亘事件」)。
◎鹿地亘事件によってキャノン機関(Z機関)の存在が明らかに
なった。
1951. 9.(昭和26)対日講和条約締結で、すでに主権回復され
た後の事件であったことから大きな社会問題となる。
◎監禁は、キャノン機関が鹿地を二重スパイにするために行わ
れたもの。
監禁中、米軍のコックをしていた山田善二郎の協力により外
部と一部連絡が取れていた。
かじい のぼる
梶井 陟
1927(昭和 2)
1988(昭和63)
◇朝鮮語研究者。
理科教師として中学校で教鞭を取りながら、朝鮮語を学習。
雑誌「朝鮮文学」の同人。朝鮮文学の翻訳や『朝鮮語入門』など
を著す。
かじい もとじろう
梶井 基次郎
1901. 2.17(明治34)
1932. 3.24(昭和 7)
◇小説家。大阪市内土佐堀通生れ。1919(大正 8)北野中学校卒
業、九月第三高等学校理科に入学、1924. 3.(大正13)卒業。同
年四月、東京大学英文科に進学、1926(大正15)病気のため退学。
肺結核で死去。
(1)誕生日は 2. 1。
(3)誕生日は 2.17。
(5)誕生日は 2.17。
(8)誕生日は 2.17。
(11)誕生日は 2.17。
(13)誕生日は 2.17。
◆檸檬忌[ 3.24]代表作『檸檬(レモン)』から。
◆追悼会[五月]静岡県伊豆湯ヶ島温泉の湯河屋。
かじうら まさゆき
梶浦 正之
1903. 5.20(明治36)
1966.12.12(昭和41)
◇詩人。
かじかわ よそべえ
梶川 与惣兵衛
⇒かじかわ よりてる(梶川 頼照)
かじかわ よりてる
梶川 頼照
1647(正保 4)
1722(享保 7)
◇江戸中期の旗本・留守居番(奥年寄)。通称は与惣兵衛(ヨソベエ)。
土岐頼泰の次男、梶川分重の養子。
1696(元禄 9)本所奉行。1700(元禄13)留守居番。
1701(元禄14. 3.14)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が松の
廊下で刃傷(ニンジョウ)の際、後ろから羽交(ハガ)い締(ジ)めにし
て制止する。
事件の五日後 3.19、知行(チギョウ)に500石加増され1,200石取
りになる。事件後六年間留守居番を勤め、のち筒頭を経て、
1711(正徳元)鑓(ヤリ)奉行、1719(享保 4)致仕し隠居。
刃傷事件を『梶川氏筆記』に記している。
『仮名手本忠臣蔵』では「加古川本蔵(カコガワ・モトゾウ)」。
◆墓は東京都中野区上高田1丁目の天徳院。
かじた はんこ《かぢた はんこ》
梶田 半古
1870(明治 3. 6.25)
1917. 4.23(大正 6)
◇明治・大正期の日本画家。本名は錠次郎、別号は玉洲。東京
生れ。北田薄氷(ウスライ)の夫。
浮世絵の鍋田玉英・鈴木華邨に学ぶ。日本青年絵画協会を組
織。のち日本美術院に入る。
門人は小林古径(コケイ)・前田青邨(セイソン)・奥村土牛(トギュウ)ら。
風俗画を得意とし、小杉天外・尾崎紅葉(コウヨウ)らの小説の雑
誌や新聞の挿絵(サシエ)にも活躍。
かしま こうじ
鹿島 孝二
1905. 4.21(明治38)
1986.11.13(昭和61)
◇小説家。海軍報道班員として南方へ行く。
かしま のりぶみ
鹿島 則文
1839(天保10. 1.13)
1901.10.10(明治34)
◇江戸幕末・明治時代の勤皇家・神職。号は桜宇。常陸の鹿島
神宮大宮司鹿島則孝(ノリタカ)の長男。
かしま めいしゅう
鹿島 鳴秋
1891. 5. 9(明治24)
1954. 6. 7(昭和29)
◇童謡詩人。本名は佐太郎。
かじやま としゆき
梶山 季之
1930. 1. 2(昭和 5)
1975. 5.11(昭和50)
◇小説家。朝鮮京城<ソウル>生れ、敗戦で引き揚げ。1952(昭和27)
広島大学教育学部卒業。法名は文麗院梶葉浄心大居士。
(1)生年は1930(昭和 5)。
(3)生年は1928(昭和 3)。
(5)生年は1930(昭和 5)。
(8)生年は1929(昭和 4)。
(11)生年は1930(昭和 5)。
◆梶葉忌(カジノハキ)[ 5.11]。
かしわぎ ぎえん
柏木 義円
1860(万延元. 3. 9)
1938. 1. 8(昭和13)
◇牧師。
かしわぐま たつお
柏熊 達生
1907.11.13(明治40)
1956. 5.27(昭和31)
◇イタリア文学者・翻訳家。本名は宣三。
かしわばら ひょうぞう
柏原 兵三
1933.11.10(昭和 8)
1972. 2.13(昭和47)
◇小説家。千葉市生れ。東京大学独文科卒業。脳出血で急逝。
かじわら かげとき《かぢはら かげとき》
梶原 景時
生年不詳
1200(正治 2)
◇鎌倉初期の武将。通称は平三。景清の子。幕府侍所所司。
1180(治承 4)相摸国の石橋山の戦で平氏に属していたが、源
頼朝(ヨリトモ)の危機を救い、頼朝に重用される。平氏追討に功を
立てる。源義経(ヨシツネ)が後白河法皇に通じると、これを頼朝に
知らせる。1193(建久 4)頼朝の命を受け、伊豆の修善寺(シュゼン
ジ)に流された源範頼(ノリヨリ)を攻め、自害させる。
頼朝没後、幕府政務の合議に加わるが、三浦義村(ヨシムラ)らと
対立。結城朝光を第2代将軍源頼家(ヨリイエ)に讒言(ザンゲン)する
が、朝光は諸将と連署しその誣告(ブコク)を訴えられる。有力御
家人の弾劾を受け鎌倉を追放される。1200(正治 2)武田有義を
将軍に擁立しようと上洛の途中、駿河国狐崎で追っ手に討たれ
る。
かすが いっこう
春日 一幸
1910(明治43)
1989(平成元)
◇政治家。
民社党委員長。
かすがのつぼね
春日局
1579(天正 7)
1643(寛永20. 9.14)
◇江戸前期の大奥の女中・徳川家光の乳母。名は福・阿福(オフク)。
明智光秀の家臣斎藤内蔵助(サイトウ・クラノスケ)利三(トシミツ)の娘、母は
稲葉通明(ミチアキラ)の娘おあん。美濃国の人。
1582(天正10)本能寺の変で父利三は近江堅田で捕われ、六条
河原で斬首の上、粟田口で屍(シカバネ)が磔刑(タッケイ)に処せられ
る。
母方の縁により稲葉重通(シゲミチ)の養女となり、重通の養子
稲葉佐渡守正成(マサシゲ)に嫁し、正勝・正定・岩松・正利の4
子を生む。
1604(慶長 9)正成の愛妾を嫉妬して刺殺し出奔。京都で乳母
を求める高札を見て応じ、面接の京都所司代板倉勝重に推挙さ
れ、夫と離別して、竹千代(タケチヨ)(徳川家光)出生とともに乳母
となり江戸城大奥に入る。
家光の弟国千代(クニチヨ)(忠長)が生まれると、第2代将軍秀忠
夫妻の寵愛が忠長にあつまり後嗣にしようとしたので、伊勢参
宮を口実にして駿府に至り、家康に訴えて家光を世嗣(ヨツギ)に
定めた(春日の抜参)。以来家光の信任を得る。1626(寛永 3)家
光が三代将軍となり、御台所(ミダイドコロ)浅井氏の死後、大奥に
大きな勢力を振った。
1629(寛永 6)紫衣(シエ)事件解決のため上洛し、三条西実枝(サ
ネエダ)の猶子となり、緋袴(ヒバカマ)を許されて無位無官で参内、
後水尾(ゴミズノオ)天皇に拝謁し、春日局の称号を賜る。
晩年、従三位に叙せられる。江戸湯島に天沢寺(のち麟祥院)
を建立、家光から三百石の寄進を受ける。
◆墓は東京本郷麟祥院。
◎1628(寛永 5)家光が疱瘡(ホウソウ)に罹った際、局は斎戒(サイカイ)
沐浴(モクヨク)し東照大権現に詣でて家光が平癒したら服薬をしな
いことを誓って祈った。そのため、終身針灸(シンキュウ)薬餌(ヤクジ)
せず、晩年に病の床についたとき、家光手ずから薬を飲ませよ
うとしても最後まで服薬しなかった。
◎春日局の縁故によって前夫の正成は二万石の大名に、長男正
勝は老中、兄斎藤宗利(ムネトシ)・三存(ミツナカ)は旗本になっている。
◎埼玉県川越市の喜多院に移築された「春日の局間」が現存。
かずき やすお
香月 泰男
⇒かづき やすお(香月 泰男)
かずのみや
和宮
1846(弘化 3.閏5.10)
1877. 9. 2(明治10)
◇仁孝(ニンコウ)天皇の第8女。諱(イミナ)は親子(チカコ)、和宮親子内
親王、落飾して静寛院宮(セイカンインノミヤ)。孝明天皇の異母妹、母
は権大納言橋本実久の娘典侍(テンジ)経子(ツネコ)(観行院<カンギョウイ
ン>)。
1851(嘉永 4)6歳のとき有栖川宮熾仁親王(アリスガワノミヤ・タルヒトシ
ンノウ)との婚約が成立したが、大老井伊直弼(イイ・ナオスケ)により公
武合体策として関東降嫁が計画され、桜田門の変で中断。
1860(万延元. 4.)老中安藤信正・久世広周(クゼ・ヒロチカ)の連立
政権が交渉を再開、岩倉具視(トモミ)の建策でやむなく和宮は承
認し、1861(文久元.10.20)桂御所を発輿(ハツヨ)、江戸へ下向。
中仙道を経て11.15江戸城田安門の清水家に到着。12.11江戸城
に入る。1862(文久 2. 2.11)14代将軍徳川家茂(イエモチ)との婚儀
を挙式。
1866(慶応 2. 7.)家茂が死去し、12月落髪して静寛院宮と称
し江戸城に留まる。1868(慶応 4)鳥羽伏見の戦の後、朝幕交渉
の斡旋・江戸城明け渡し・徳川の家名存続などに隠れた功があっ
たといわれる。
1869(明治 2)京都に帰住。1874(明治 7. 7.)東京に移住。
1877(明治10. 8.)脚気治療のため、箱根塔ノ沢に赴き、衝心の
発作で死亡。
墓は東京都港区芝増上寺の徳川氏廟所。
かずらはら しんのう《かづらはら しんわう》
葛原 親王
⇒かつらはら しんのう(葛原 親王)
かたおか げんごえもん《かたをか げんごゑもん》
片岡 源五右衛門
⇒かたおか たかふさ(片岡 高房)
かたおか たかふさ
片岡 高房
1667(寛文 7)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。側用人と児小姓(コゴショウ)頭を兼ねてい
た。禄高350石。幼名は新六(シンロク)、通称は源五右衛門(ゲンゴエ
モン)、戒名は刃勘要剣信士。吉良家の探索中の変名は尾州浪人
吉田勝兵衛(カツベ]]エ)。
尾張国名古屋の徳川家に仕える熊井重次郎(クマイ・ジュウジロウ)重
次(シゲツグ)の妾腹の子で、8歳のときに叔父の浅野家家臣片岡
六左衛門(ロクザエモン)の養子となる。
新参で近習あがりの高房は堀部安兵衛(ホリベ・ヤスベエ)らとは別
行動をとったが、吉田忠左衛門(ヨシダ・チュウザエモン)の仲介で磯貝
十郎左衛門(イソガイ・ジュウロウザエモン)正久(マサヒサ)とともに盟約に加
わり同志たちと行動を共にする。
討ち入り後、江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、二宮新右
衛門(ニノミヤ・シンエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
◎朝野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が刃傷におよんだ後、芝愛
宕下(シバアタゴシタ)上屋敷に預けられ切腹。同夜、内匠頭の首と
遺骸を受け取りに来た浅野家臣6名の一人。
かたおか てっぺい
片岡 鉄兵(片岡 鐵兵)
1894. 2. 3(明治27)
1944.12.25(昭和19)
◇小説家。岡山県苫田郡芳野村寺元生れ。県立津山中学校を経
て、1912(大正元)上京、七月に六高受験に失敗し自殺を企てる。
その後慶応義塾大学仏文科予科に入学したが出席不足で落第。
1930(昭和 5)第三次共産党事件で検挙され、1932(昭和 7)懲役
二年で下獄、1934.10.(昭和 9)転向し出獄。1938(昭和13)従軍
ペン部隊に加わり中支に赴く。肝硬変により旅先の和歌山県下
で客死。
(1)誕生日は 2. 3。
(5)誕生日は 2. 3。岡山県西々条(サイサイジョウ)郡芳野村に、敬一
の長男として生れた。
(8)誕生日は 2. 2。
(11)誕生日は 2. 3。
(13)誕生日は 2. 2。
かたおか よしかず
片岡 良一
1897. 1. 5(明治30)
1957. 3.25(昭和32)
◇国文学者。神奈川県藤沢町生れ。第一高等学校を経て、1924
(大正13)東京大学国文選科卒業。
かたがみ てんげん
片上 天弦
⇒かたがみ のぶる(片上 伸)
かたがみ のぶる
片上 伸
1884. 2.20(明治17)
1928. 3. 5(昭和 3)
◇評論家・ロシア文学者。号は天絃(テンゲン)のち天弦。愛媛県
野間郡波止浜(ハシハマ)村生れ。竹内仁(タケノウチ・マサシ)の実兄。
1900(明治33)東京専門学校(現:早稲田大学)に入学、一年足
らずで脚気(カッケ)のため休学、帰郷。1902(明治35)早稲田大学
文科へ再入学、1906(明治39)卒業。
(1)片上 天弦(かたがみ てんげん)。
(5)片上 伸(かたがみ のぶる)。没日は 3. 5。
(8)片上 伸(かたかみ のぶる)。
(11)片上 伸(かたがみ のぶる)。
(13)片上 伸(かたかみ のぶる)。没日は 3. 4。
かたぎり あきのり
片桐 顕智
1909. 8.23(明治42)
1970. 1.29(昭和45)
◇歌人。
かただ とうた
形田 藤太
1901. 8. 8(明治34)
1939. 3. 9(昭和14)
◇国文学者。
かただえ まさお
片田江 全雄
1891. 1. 7(明治24)
1940. 8.14(昭和15)
◇小説家。
かだのあずままろ
荷田 春満
1669(寛文 9. 1. 3)
1736(元文元. 7. 2)
◇江戸中期の国学者。名は信盛・東丸・東満とも書き、姓は
羽倉ともいう。幼名は鶴丸、通称は斎宮(イツキ)。京都生れ。羽
倉信詮(ノブアキ)の次男。荷田在満(アリマロ)の叔父。
◎賀茂真淵(カモノマブチ)・本居宣長(モトオリノリナガ)・平田篤胤(アツタネ)
とともに国学四大人(シタイジン)の一人。
かだのありまろ
荷田 在満
1706(宝永 3)
1751(寛延 4. 8. 4)
◇江戸後期の考証家。京都生れ。蒼生子(タミコ)の兄、荷田春満
(アズママロ)の甥で養子。
田安宗武(ムネタケ)に仕える。
かたやま けんざん
片山 兼山
1730(享保15)
1782(天明 2. 3.29)
◇江戸中期の儒学者(折衷学派の祖)。名は世(「玉」偏+「番」)、
通称は東造、字は叔瑟、号は兼山。上野国平井村の豪農に生れ
る。朝川善庵(ゼンアン)の実父。
十七歳のとき江戸に出て鵜飼士寧に学び、のち服部南郭(ナンカ
ク)の門に入り荻生徂徠(オギュウ・ソライ)の(「藹」の「曷」を「爰」に替え
る)園(ケンエン)学を修める。同門の肥後の秋山玉山の紹介で、熊
本藩の藩校時習館の館員となる。六年後、辞して京坂遊学二年
を経て江戸に帰る。宇佐美(「潛」の「日」を「鬲」に替える)水(シンス
イ)の養子となって出雲松平家に仕える。しかし、徂徠の学に疑
念を持ち養家を去り、漢唐の古註・宋明諸儒の説を参酌し折衷
学唱え、徂徠の古文辞を批判する。晩年尾張藩の市ヶ谷継述館
に出仕し、尾張藩の『群書治要』校刻に参与。病没。
かたやま こそん
片山 孤村
1879. 8.29(明治12)
1933.12.18(昭和 8)
◇ドイツ文学者・ドイツ語学者・評論家。本名は正雄。山口県
生れ。東京帝国大学独文科卒業。1911(明治44)〜1913(大正 2)
ドイツに留学。
かたやま せん
片山 潜
1859(安政 6.12. 3)
1933.11. 5(昭和 8)
◇社会主義評論家。幼名は藪木(ヤブキ)菅太郎、号は深甫。美作
国粂郡羽出木村(現:久米南町内)生れ。
1877.10.(明治10)片山幾太郎の養子となる。
1880(明治13)岡山師範に入学、翌年退学し上京、活版所の職
工となる。
1884(明治17)渡米、労働生活中にキリスト教徒となる。メリ
ーヴィル・グリンネル・エールの各大学で社会学と神学を学び、
1896(明治29)帰国。
1897(明治30)岩崎清七の世話で横塚フデと結婚、神田三崎町
にキングスレー館をひらいてセツルメント事業を始める。「労
働世界」を創刊し、主筆となる。
1901. 5.18(明治34)安部磯雄・幸徳秋水・河上清・木下尚江
・西川光二郎らとともに社会民主党を結成、二日後に結社を禁
止・起訴される。
1903.12.(明治36)再度、渡米。
1904(明治37)日露戦争勃発にあたり、第二インターナショナ
ルがアムステルダムで開催した万国社会党第六回大会に出席、
ロシア代表のプレハーノフとともに反戦を訴える。
1906(明治39)堺利彦・西川光二郎・森近運平・田添鉄二らと
日本社会党を結成、評議員となる。
1907(明治40)日本社会党第二回大会で直接行動派(幸徳秋水
ら)と議会政策派(片山・田添・西川ら)に対立。大逆事件後も
一貫して労働運動を指導し。
1911(明治44)東京市電争議で重禁固刑になる。
1912. 9.(大正元)大赦により出獄。
1914(大正 3)米国へ亡命。
1919(大正 8)アメリカ共産党に入党。
1921(大正10)ソビエトに入国、コミンテルン執行委員として
活動。
敗血病のためモスクワで客死。
(?)日出木村生れ。カリーヴィル・グリンネル・エールの各大
学で……。
(5)幼名は藪木(ヤブキ)菅太郎。美作国粂郡羽出木村(現:久米南
町内)に生れた。メリーヴィル、グリンネル、イェールの各大
学で……。
(11)幼名は藪木管太郎。
(13)渡米、苦学したが、特にメルヴィル大学において……。
かたやま てつ
片山 哲
1887. 7.28(明治20)
1978. 5.30(昭和53)
◇大正・昭和期の社会運動家・政治家・弁護士。和歌山県田辺
生れ。
東京大学法学部卒業。
1913(大正 2)弁護士を開業。1919(大正 8)東大キリスト教青
年会館で法律相談所を開く。法律の大衆化に努め、労働総同盟
・日本農民組合の法律顧問となる。
1926.12. 5(大正15)社会民衆党創立(委員長:安部磯雄門)と
ともに書記長。1930(昭和 5)第2回普通選挙で当選。
1932(昭和 7)社会大衆党書記長となるが、1940(昭和15)衆議
院で反軍演説を行った民政党斎藤隆夫(弁護士)の除名決議に反
対したため3月9日党から除名。
1945.11. 2(昭和20)日本社会党を結成、書記長となる。
1946〜1950(昭和21〜昭和25)社会党委員長。1947. 6. 1(昭
和22)社会党首班内閣(日本民主党・国民協同党との連立)の首
相、高物価低賃金政策をとり労働運動の反撃にあい、1948. 2.
10(昭和23)予算審議の過程で総辞職。
1950. 1.19(昭和25)社会党第5回大会で指導権争いから左派
・右派に分裂し、右派の委員長となる。
1954. 1.15(昭和29)憲法擁護国民連合を組織、委員長となる。
1960(昭和35)民主社会党を結党、最高顧問となる。
かたやま とうし
片山 桃史
1912. 8.(大正元)
1944. 1.21(昭和19)
◇俳人。ニューギニアにて戦死。
かたやま としひこ
片山 敏彦
1898.11. 5(明治31)
1961.10.11(昭和36)
◇文芸評論家・詩人・ドイツ文学者・フランス文学者。高知市
生れ。第六高等学校を経て東京大学独文科卒業。
かたやま ひろこ
片山 広子(片山 廣子)
⇒まつむら みねこ(松村 みね子)
かたやま ほっかい
片山 北海
1723(享保 8)
1790(寛政 2)
◇江戸中・後期の儒学者。名は猷、字は孝秩、通称は忠蔵、号
は北海。
◎当時、京都の江村北海・江戸の入江北海とともに「三都三北
海」と呼ばれた。
かつ かいしゅう《かつ かいしう》
勝 海舟
1823(文政 6. 1.30)
1899. 1.19(明治32)
◇江戸幕末の幕府海軍官僚・明治の政治家。通称は麟太郎(リンタ
ロウ)、名は義邦(ヨシクニ)、安房守(アワノカミ)であったことから安房と
称し、明治以降は安芳(ヤスヨシ)、号は海舟。江戸生れ。旗本小普
請組勝小吉の長男。
蘭学を修め、砲術を佐久間象山に学ぶ。蕃書翻訳係から長崎
の海軍伝習所に入る。1860年、幕府の遣米使節の乗船する咸臨
丸(カンリンマル)の艦長として太平洋を横断。
帰国後、1863(文久 3)神戸海軍操練所を設立。1864年軍艦奉
行となるが同年罷免。1866(慶応 2)復職、陸軍総裁。
鳥羽・伏見の戦の後、幕府軍事取扱として東征軍参謀西郷隆
盛と会見し、江戸城の無血開城を実現させ、江戸を兵火から救
う。
明治維新後、1872(明治 5)海軍大輔・参議兼海軍卿・元老院
議官、1875(明治 8)辞任。
1887(明治20)伯爵・1888(明治21)枢密顧問官。
著書は『海軍歴史』・『陸軍歴史』・幕府の財政経済資料を
集めた『吹塵録(スイジンロク)』・『開国起原』、談話筆記の自伝
『氷川清話』など多数。
◎東京都墨田区本所の能勢妙見堂に銅像がある。
◎山岡鉄舟(テッシュウ)・高橋泥舟(デイシュウ)とともに幕末の三舟と
呼ばれる。
(4)生年は1823。
(5)生年は1822(文政 6)。
(6)生年は1823。
(8)生年は1823(文政 6)。
(11)生年は1823(文政 6)。
(*)1860(安政 7,万延元)、1864(文久 4,元治元)。
かつ げんぞう
勝 諺蔵
1844(弘化元)
1902.10.27(明治35)
◇歌舞伎作者。本名は高田彦兵衛。
かつ やすよし
勝 安芳
⇒かつ かいしゅう(勝 海舟)
かつかわ しゅんえい《かつかは しゆんえい》
勝川 春英
1762(宝暦12)
1819(文政 2)
◇江戸後期の浮世絵師。号は九徳斎。
勝川春章(カツカワ・シュンショウ)に師事。
後の東洲斎写楽の役者絵に似る大首あるいは一人立の役者絵
を描く。力士絵・武者絵なども得意とした。
代表作は『市川高麗蔵の定九郎大首』など。
かつかわ しゅんしょう《かつかは しゆんしやう》
勝川 春章
1726(享保11)
1792(寛政 4)
◇江戸中期の浮世絵師・勝川派の祖。号は旭朗井(キヨクロウセイ)・
酉爾など、俗称は祐助。
宮川春水に師事し、はじめ勝宮川と称した。
一筆斎文調との合作『絵本舞台扇』1770(明和 7)刊行して以
来、本格的な作画活動に入る。従来の類型的な鳥居派風の様式
を脱して文調とともに役者絵に写実を取り入れた個性描写の新
様式を開く。
肉筆画・版画共に巧妙で、武者絵・力士絵や『十二ヶ月風俗
図』など美人画の作も多く、錦絵の発達に貢献。
勝川派門下に勝川春英(シュンエイ)・春好・春潮(シュンチョウ)・春朗
(後の葛飾北斎)らを輩出。
かつかわ しゅんちょう《かつかは しゆんてう》
勝川 春潮
生年不詳
没年不詳
◇江戸後期の浮世絵師。俗称は吉左衛門、号は吉左堂・東紫園
・俊朝(狂歌)など。
勝川春章(カツカワ・シュンロウ)に師事。鳥居清長風の美人画にすぐれ
る。
かづき やすお
香月 泰男
1911.10.25(明治44)
1974. 3. 8(昭和49)
◇画家。
かつしか ほくさい
葛飾 北斎
1760(宝暦10)
1849(嘉永 2)
◇江戸後期の浮世絵師。葛飾派の始祖。別号は春朗・宗理など。
1778(安永 7)勝川春章(カツカワ・シュンロウ)に入門。
『北斎漫画』・『富嶽三十六景』・『富嶽百景』などが有名。
かつた こうげつ
勝田 香月
1899. 3.12(明治32)
1966.11. 5(昭和41)
◇詩人。本名は穂策。
かつだ しんざえもん
勝田 新左衛門
⇒かつだ たけたか(勝田 武尭)
かつだ たけたか
勝田 武尭
1680(延宝 8)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、中小姓・札座横目、禄高十
五石三人扶持。通称は新左衛門(シンザエモン)、戒名は刃量霞剣信
士、吉良家を探索中の変名は町人嘉右衛門(カエモン)。
吉良家討ち入りでは表門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
屋敷に預けられ、翌年、進藤為右衛門(タメエモン)の介錯(カイシャク)で
切腹。
かつまた せんきちろう
勝俣 銓吉郎
1872(明治 5.11.18)
1959. 9.22(昭和34)
◇英語学者。本名は銓吉。
かつみね しんぷう
勝峯 晋風(勝峯 晉風)
1887.12.11(明治20)
1954. 1.31(昭和29)
◇俳人・俳文学研究家。本名は晋三。東京牛込矢来町(ヤライチョウ)
生れ。1910(明治43)東洋大学卒業。
かつもと せいちろう
勝本 清一郎
1899. 5. 5(明治32)
1967. 3.23(昭和42)
◇評論家・近代文学研究家。別称は松山敏。東京日本橋南茅場
町(ミナミカヤバチョウ)生れ。慶応義塾幼稚舎を経て、1923(大正12)大
学美術史科卒業。社団法人日本ユネスコ協会連盟理事長。
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