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人 名 辞 典 《いと》 編集:獨 澄旻
-------- いと --------------------------------------------------
いど れいざん
井土 霊山
1855(安政 2)
1935. 7.22(昭和10)
◇漢詩人。名は経重、字は子常、号は霊山。
いとう いっとうさい《いとう いつたうさい》
伊東 一刀斎
生年不詳
没年不詳
◇江戸初期の剣客・剣法一刀流の祖。名は景久、通称は弥五郎。
伊豆国伊東の人。
鐘巻自斎に神蔭流剣法を学び、一刀流を創始。門弟に神子上
(ミコガミ)典膳(小野忠明)らがいる。
(2)伊東一刀斎。江戸初期の剣客。生没年不詳。一説に1560〜
1628(永禄 3〜寛永 5),また1632(寛永 9)に90余歳とも。
(4)伊東一刀斎。江戸初期の剣客。生没年未詳。
(6)伊藤一刀斎。1588年没とも,江戸初期に没ともいう。
(19)伊東一刀斎(伊藤とも)。江戸初期の剣客。生没年未詳。
◎末裔に挿絵画家の伊藤彦造(ヒコゾウ)がいる。
いとう いっとうさい《いとう いつたうさい》
伊藤 一刀斎
⇒いとう いっとうさい(伊東 一刀斎)
いとう いへえ
伊藤 伊兵衛
1675(延宝 3)頃
1757(宝暦 7)
◇江戸時代の植木屋。江戸の北の染井生れ。当時の園芸を図説
した著作を多数残す。
いとう うしろう
伊藤 卯四郎
1894(明治27)
1974(昭和49)
◇大正・昭和期の労働運動家・政治家。長崎県生れ。
民社党副委員長。
いとう えいのすけ
伊藤 永之介
1903.11.21(明治36)
1959. 7.26(昭和34)
◇小説家。本名は栄之助。秋田市西根小屋(ニシネゴヤ)末町生れ。
「文芸戦線」同人。社会主義的な農民文学者として東北農村の
生活を描く。
作品は『梟』・『鴉』・『鶯』・『警察日記』など。
(1)誕生日は11. 2。
(3)誕生日は11.21。
(5)誕生日は11.21。
(8)誕生日は11. 2。
(11)誕生日は11.21。
(13)誕生日は11.21。
いとう おうじ
伊藤 鴎二(鴎:「區」偏+「鳥」)
1891. 4.23(明治24)
1968.12.30(昭和43)
◇俳人。本名は秀次(ヒデジ)、前号は花酔。
[1]いとう おとじろう《いとう おとじらう》
伊藤 音次郎
1891(明治24)
1971(昭和46)
◇民間航空界の先駆者。
飛行機製作所を創設し、54機の飛行機、15機のクライダーを
製造。142人のパイロットを養成。
1915(大正 4)千葉県稲毛海岸に飛行場を開設。
1916. 1. 8(大正 5)自作機の恵美号で東京上空を訪問飛行
(民間航空機で初)。
1917. 9.(大正 6)台風で稲毛の格納庫が全壊。
1918(大正 7)津田沼に格納庫と工場を移す。
[2]いとう おとじろう《いとう おとじらう》
伊藤 音次郎
1894. 5.17(明治27)
1953. 2. 6(昭和28)
◇歌人。
いとう かんぎょ
伊藤 観魚
1877.10.10(明治10)
1969. 2.10(昭和44)
◇俳人・画家・書家。本名は(「金」偏+「圭」)次郎。
いとう きくぞう
伊藤 幾久造
1901(明治34)
1985(昭和60)
◇挿絵画家。東京生れ。伊東深水(シンスイ)の画塾に学ぶ。
いとう きさく
伊藤 熹朔
1899. 8. 1(明治32)
1967. 3.31(昭和42)
◇大正・昭和時代の舞台美術家。東京生れ。伊藤道郎(ミチオ)の
弟、千田是也(コレヤ)の兄。東京美術学校卒。
土方与志(ヒジカタ・ヨシ)の舞台装置研究所の同人。1924(大正13)
築地小劇場・俳優座などの舞台装置を担当。春陽会に舞台美術
部を創設。
(2)没年は1966(昭和41)。
(19)没年は1967。
いとう きちのすけ
伊藤 吉之助
1885(明治18)
1961(昭和36)
◇昭和時代の哲学者。山形県生れ。
いとう きねたろう
伊東 甲子太郎
生年不詳
1867(慶応 3)
◇江戸幕末の新撰組隊士。常陸国志筑藩士。
1918(大正 7)贈従五位。
いとう ぎんげつ
伊藤 銀月
1871(明治 4.12.21)
没年不詳
◇評論家・小説家。本名は銀二。
(8)生没年は1871(明治 4.10.21)〜1944. 1. 4(昭和19)。
いとう きんり
伊藤 錦里
1710(宝永 7)
1772
◇江戸中期の儒学者。伊藤龍洲(リョウシュウ)の長男、江村北海(エムラ・
ホッカイ)・清田(「人偏」+「膽」-「月」)叟の兄。
(*)1772(明和 9,安永元)。
いとう けいすけ
伊藤 圭介
1803(享和 3)
1901(明治34)
◇江戸幕末・明治期の植物学者。尾張藩名古屋生れ。医師西山
玄道の次男、伊藤家の嗣子。
長崎に遊学、シーボルトに学ぶ。リンネの植物分類法を抄訳
し紹介(『泰西本草名疏』)。1877(明治10)東京大学員外教授、
1881(明治14)教授。1888(明治21)日本最初の理学博士。男爵。
いとう げっそう
伊東 月草
1899. 2.19(明治32)
1946. 4.12(昭和21)
◇俳人。本名は秀治(ヒデハル)。
いとう けん
井東 憲
1895. 8.27(明治28)
1945(昭和20)
◇小説家・評論家。本姓は伊藤。静岡県生れ。
いとう げんぼく
伊東 玄朴
1800(寛政12)
1871(明治 4)
◇江戸末期の蘭医。名は淵、号は沖斎・長斎。肥前の農家に生
れる。
長崎に遊学、シーボルトに学ぶ。1828(文政11)江戸で開業。
1831(天保 2)佐賀藩医。藩主鍋島侯に勧めてオランダから牛痘
苗を取り寄せ接種を行う。1857(安政 4)江戸に大槻俊斎(シュンサイ)
・戸塚静海・箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)ら江戸の医師80余名と協力
し、神田お玉ヶ池に種痘館を開く。1858(安政 5)幕府の奥医師。
1860年、種痘館が幕府から公認され種痘所と改称、翌年さらに
西洋医学所と改称し幕府から取締に任命。
(2)'56(安政3)江戸の蘭方医50余名を語らって神田お玉ヶ池に
種痘所を設けた(のちこれは幕府に移管され,東大医学部の前身
の西洋医学所となる)。
(4)一八五七年江戸に種痘所を開き……。
(6)「種痘所」の項:1858年神田お玉が池の川路聖謨(トシアキラ)の拝
領地に設立……。
(19)一八五八年(安政五)江戸に幕府の種痘所を開き……。
(*)1860(安政 7,万延元)。
いとう こうぎさい
伊藤 好義斎
1658
1728(享保13)
◇江戸中期の儒学者。名は儀、字は邦達。
京都に出て伊藤仁斎に古学を学び、のち朱子学に転じる。
(*)1658(明暦 4,万治元)。
いとう こだゆう
伊藤 小太夫(2代)
生年不詳
1689(元禄 2)
◇江戸時代の歌舞伎俳優。女形の創始といわれる。
いとう さきお
伊藤 佐喜雄
1910. 8. 3(明治43)
1971.10.17(昭和46)
◇小説家。島根県生れ。大阪高校中退。伊沢蘭奢(イザワ・ランジャ)
の実子。
いとう さちお《いとう さちを》
伊藤 左千夫
1864. 9.18(元治元. 8.18)
1913. 7.30(大正 2)
◇歌人・小説家。本名は幸次郎、号は春園・無一塵庵(ムイチジンア
ン)主人・四壁道人・夾竹桃書屋主人(キョウチクトウショオクシュジン)・楽叟
・唯真閣主人・馬酔木山人・茅堂。上総国武射(ムシャ)郡成東(ナル
トウ)生れ。
1900(明治33)正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会の機
関誌「馬酔木(アシビ)」・「アララギ」などを発刊。
脳溢血により亀戸(カメイド)の自宅で死去。
小説『野菊の墓』が有名。
(2)本名幸次郎。
(3)唯真閣主人。
(5)唯心閣主人。
(8)出生時の戸籍は幸次郎であったが、養子縁組みした川島家
から復籍したさいに幸治郎と変わっている。ほかに幸二郎・孝
次郎・孝二郎・幸郎とも書いた。
別号は機関誌「馬酔木」にあしび山人・阿志微・茅堂・楽尊・
楽叟・無一塵庵主人・無一塵・無一庵主人・塵無・無庵・四壁
道人・四壁居・死癖道人・四碧生・釜持。
「馬酔木」以外は茅のや楽人・謀堂・天童・黒天童・黒天・楽
焼道人・能牟古山人・ノンコ・阿坐化理朝臣巨口(アザケリノアサミオホ
クチ)。
文学事典などに示される「唯真閣主人」「夾竹桃書屋主人」は、
主人を付した書名の例は見当たらないようである。
(11)唯心閣主人。
(13)別号は正岡子規に師事する前に春園(「はるその」後に「しゅ
んえん」)、また茶の湯を愛し無一塵庵主人、唯真閣主人、四壁
道人等を用いた。……千葉県山武郡成東町殿台の農家伊藤良作
の四男として生まれ、……。
◆左千夫忌[ 7.30]。
◎門下は島木赤彦、斎藤茂吉ら。
いとう さぶろう
伊東 三郎
1902.11.16(明治35)
1969. 3. 7(昭和44)
◇大正・昭和期の農民運動家・エスペランチスト。本名は磯崎
巌。筆名は伊東三郎・伊井迂(ウ)。青山学院中退。
いとう さんぎょう
伊藤 参行
1745(延享 2)
1809(文化 6)
◇江戸中・後期の修行者・富士講行者の指導者(身禄派)。名は
六王・伊兵衛。江戸の彫刻師。
(+)『岩波講座 日本歴史15 近代[2]』
岩波書店 1962年 7月28日第1刷発行
生年は1746。
いとう しずお《いとう しづを》
伊東 静雄(伊東 靜雄)
1906.12.10(明治39)
1953. 3.12(昭和28)
◇昭和前期の詩人。長崎県北高来郡諌早(イサハヤ)町生れ。
京都帝国大学国文科卒業。
「コギト」・「日本浪曼派」・「四季」同人。
肺結核により死去。
詩集『わがひとに与ふる哀歌』・『夏花』など。
◆菜の花忌[ 3.12]季節の花にちなむ。
[三月最終日曜日]長崎県諌早市の諌早公園で追悼行事。
いとう じゃくちゅう
伊藤 若冲
1716
1800(寛政12. 9.10)
◇江戸中期の画家。名は汝鈞(ジョキン)、号は斗米庵(トベイアン)。
京都洛中の高倉錦小路にある青物問屋「桝屋」の主人伊藤源左衛
門の長男。
23歳で家業を継ぎ画家との二重生活を送り、40歳で弟に家督
を譲る。
動植物を描き、特に『群鶏図』などニワトリを得意とした。
(*)1716(正徳 6,享保元)。
(2)青物問屋〈桝屋〉の主人……。
いとう しゅんぽ
伊藤 春畝
⇒いとう ひろぶみ(伊藤 博文)
いとう しょうう
伊藤 松宇
1859(安政 6.10.18)
1943. 3.25(昭和18)
◇俳人・俳諧研究家。本名は半次郎、別号は雪操居。長野県郡
上丸子村生れ。
俳句団体「椎の友」を結成し、雑誌「俳諧」を創刊。
いとう しょうしん
伊藤 証信
1876. 9.10(明治 9)
1963. 1.14(昭和38)
◇明治〜昭和時代の社会運動家・宗教家(仏教)。幼名は清九郎。
三重県生れ。真宗大学本科卒業、研究科中退。
(2)生年は1876(明治 9)、没年は1963(昭和38)。
(5)生年は1876. 9.10(明治 9)、没年は1963. 1.14(昭和38)。
(11)生年不詳、没年1928(昭和 3)。
いとう しろう
伊藤 至郎
1899.11. 3(明治32)
1955.10.17(昭和30)
◇評論家。
いとう じんさい
伊藤 仁斎
1627(寛永 4. 7.20)
1705(宝永 2. 3.12)
◇江戸前期の儒学(古学)者。古学派の始祖。名は維貞(コレサダ)
のち維(「木」偏+「貞」)(コレサダ)、幼名は源七、字は源吉のち源佐
(ゲンスケ)、別号は古義堂・棠隠(トウイン)、諡(オクリナ)は古学先生。
京都堀川丸太町上ルの材木商長沢屋七右衛門長勝の子、母は連
歌師法眼里村玄仲の娘那倍(ナベ)。伊藤東涯(トウガイ)・伊藤梅宇
(バイウ)・伊藤蘭嵎(ラングウ)の父。
初め朱子学を修めるが、「理先気後説」を批判し、孔孟の古義
にそむくとしてしりぞける。
1662(寛文 2)京都の堀川に家塾古義堂を開き、門弟三千人を
集める。
著書は『論語古義』・『孟子古義』・『語孟字義』・『童子
問』など。
いとう しんじ
伊藤 信二
1907.10.30(明治40)
1932. 8.14(昭和 7)
◇詩人・小説家。
いとう しんすい
伊東 深水
1898(明治31)
1972(昭和47)
◇大正・昭和時代の日本画家・挿絵画家。本名は一(ハジメ)。東
京深川生れ。
14歳で鏑木清方(カブラギ・キヨタカ)に師事。1915(大正 4)文展に
初入選。1950(昭和25)児玉希望と日月社を結成。
いとう しんぞう《いとう しんざう》
伊藤 慎蔵
1826(文政 9)
1880(明治13)
◇江戸幕末の洋学者。長門国萩の人。
越前国大野藩の洋学館長
いとう しんとく
伊藤 信徳
1633(寛永10)
1698(元禄11)
◇江戸前期の俳人。京都の富商。
松永貞徳の門人、のち談林派。
いとう すけちか
伊東 祐親
生年不詳
1182
◇平安末期の武将。河津二郎と称する。工藤氏の一族。伊藤祐
家の子、河津三郎祐重(スケシゲ)の父、曽我兄弟の祖父。
平氏に仕え、伊豆配流の源頼朝(ヨリトミ)を預かり助ける。頼朝
が祐親の娘と通じたので頼朝殺害を図り、1180(治承 4)石橋山
に挙兵した頼朝を追撃。のち捕われて、娘婿の三浦義澄(ヨシズミ)
の仲介で許され、恥じて自刃。
(*)1182(養和 2,寿永元)。
いとう すけとき
伊東 祐時
1185
1252(建長 4)
◇鎌倉前期の武将。藤原南家河津流工藤祐経の長男。
幼少から源頼朝に仕える。
(*)1185(元暦 2,文治元)。
いとう すけます
伊東 祐益
⇒いとう まんしょ(伊東 マンショ)
いとう すけゆき
伊東 祐亨
1843(天保14)
1914(大正 3)
◇海軍軍人。海軍大将・元帥。鹿児島の人。
日清戦争の連合艦隊司令長官。
日露戦争の海軍軍令部長。
いとう せい
伊藤 整
1905. 1.16(明治38)
1969.11.15(昭和44)
◇小説家・評論家・翻訳家。本名は整(ヒトシ)。北海道松前郡炭
焼沢村生れ。
小樽高等商業学校を経て、1931. 3.(昭和 6)東京商大を中退。
ロレンスの翻訳書『チャタレイ夫人の恋人』が1950(昭和25)
猥褻(ワイセツ)文書販売罪で起訴され、1957(昭和32)有罪が確定。
著書は『小説の方法』・『日本文壇史』、小説『鳴海仙吉』
・『火の鳥』など。
(1)誕生日は 1.16。
(3)誕生日は 1.25。
(5)誕生日は 1.16。
(8)誕生日は 1.16。
(11)誕生日は 1.16。
(13)誕生日は 1.25。北海道松前郡白神村に一二子長男として
生。
いとう せいいち
伊藤 整一
1890(明治23)
1945(昭和20)
◇昭和前期の海軍軍人。福岡県生れ。
1945(昭和20)沖縄へ大和で突入をはかり戦死、大将に昇進。
いとう せんぞう
伊東 専三
1850(嘉永 3)
1914.10.16(大正 3)
◇新聞記者・戯作者。別称は橋塘(キョウトウ)。江戸生れ。
いとう そうじゅうろう
伊藤 宗十郎
生年不詳
没年不詳
◇戦国末・安土桃山時代の豪商。伊藤松坂屋の祖。
1572(元亀 3)織田信長から朱印状を与えられる。
いとう だいすけ
伊藤 大輔
1898.10.13(明治31)
1981. 7.19(昭和56)
◇大正・昭和時代の映画脚本家・監督。愛媛県宇和島生れ。
松山中学中退。
1920(大正 9)松竹キネマ俳優学校に入学し、のち松竹蒲田撮
影所に入社して脚本部員。1922(大正11)『山の線路番』・1923
(大正12)『女と海賊』などの脚本を執筆。
1923(大正12)帝国キネマ演芸に移り、1924(大正13)『酒中日
記』で初監督。
1926(大正15)日活に移籍。
日本映画草創期から主に時代劇の大岡政談(オオオカセイダン)や丹
下左膳(タンゲ・サゼン)のシリーズなどを大衆娯楽映画を量産する。
代表作1927(昭和 2)『忠次旅日記』三部作・1927(昭和 2)
『下郎』・1929(昭和 4)『斬人斬馬剣(ザンジンザンバケン)』・
1948(昭和23)『王将』・1955(昭和30)『下郎の首』・1961(昭
和36)『反逆児』・1965(昭和40)『徳川家康』など。
いとう たかまろ
伊藤 高麿
1893. 9. 5(明治26)
1967.10.30(昭和42)
◇小説家・児童文学者・翻訳家。
[1]いとう たけお
伊藤 武雄
1895. 4. 9(明治28)
1971. 2.24(昭和46)
◇ドイツ文学者。
(*)同名で同じドイツ文学者(1909. 1.11〜)がいる。
[2]いとう たけお
伊藤 武雄
1895(明治28)
1984(昭和59)
◇大正・昭和時代の中国研究家。愛媛県生れ。東京大学卒業。
1920(大正 9)満鉄に入社。1943(昭和18)満鉄事件で憲兵隊に
留置される。
日中友好協会副会長・中国研究所理事長。
いとう たんあん
伊藤 坦庵
1623(元和 9)
1708(宝永 5)
◇江戸初期の儒学(朱子学)者。名は宗恕、字は元務。京都の人。
伊藤龍洲の養父。
初め曲直瀬玄朔(マナセ・ゲンサク)に学び医学を修め、のち那波活
所に朱子学を学ぶ。越前国福井藩主松平光通に仕える。
師の江村専斎の談話を筆記した『老人雑話』は、近世社会の
様相を伝えている。
いとう ちゆう《いとう ちいう》
伊藤 痴遊(初代)
1867(慶応 3. 2.15)
1938. 9.25(昭和13)
◇明治〜昭和初期の政治家・講釈師。本名は仁太郎(ニタロウ)、号
は双木舎痴遊。横浜生れ。
15歳で自由党に入党。1883(明治16)政治演説の禁止令が出た
ため政治活動の手段として政治講談を始める。1892(明治25)双
木舎痴遊と名乗り、「新講談」と称して政界の裏面に通じた政治
講談で活躍。
1928(昭和 3)第1回普通選挙より当選2回。
収集した蔵書・新聞資料は「痴遊文庫」としてNHKに移管さ
れている。
いとう ちゅうた
伊東 忠太
1867(慶応 3)
1954(昭和29)
◇明治〜昭和前期の建築学者。米沢市生れ。東京大学建築学科
卒業。
日本・東洋の古来の建築を研究。雲崗石窟を紹介。東京帝国
大学・早稲田大学教授。1943(昭和18)文化勲章を受章。
平安神宮・明治神宮神殿・震災記念堂・筑地本願寺などを設
計。
著書は『法隆寺建築論』・『伊東忠太建築文献』など。
いとう ちゅうべえ
伊藤 忠兵衛
1842(天保13)
1903(明治36)
◇明治時代の実業家。伊藤忠・丸紅の祖。近江(滋賀県)生れ。
いとう ていすけ
伊藤 貞助
1901. 9.30(明治34)
1947. 3. 7(昭和22)
◇劇作家。筆名に佐分武(サブ・タケシ)がある。茨城県生れ。東洋
大学文学科卒業。長塚節(タカシ)の従弟。
いとう でんしち
伊藤 伝七
1853(嘉永 6)
1924(大正13)
◇明治・大正時代の実業家。
1916(大正 5)東洋紡績社長。
いとう とうがい
伊藤 東涯
1670(寛文10)
1736(元文元. 7.17)
◇江戸中期の漢学(古学)者。名は長胤(ナガタネ)、字は原蔵、別
号は慥々斎、諡(オクリナ)は紹述先生。伊藤仁斎(ジンサイ)の長子、
母は浅野氏の医官緒方元安の娘嘉那。伊藤梅宇(バイウ)の異母兄
・伊藤蘭嵎(ラングウ)の兄。京都の人。
中国の語学や経済・故実・制度に精通し、古義堂を継ぎ家業
を継承発展せしめ、仁斎の学問を大成した。
著書は『制度通』・『操觚字訣』・『古今学変』など。
(2)(名)長胤,源蔵,別号は慥々斎。
いとう ながたね
伊藤 長胤
⇒いとう とうがい(伊藤 東涯)
いとう のえ
伊藤 野枝
1895. 1.21(明治28)
1923. 9.16(大正12)
◇社会運動家・評論家。本名はノヱ。福岡県生れ。上野女学校
卒業。
17歳で青踏社員となり、1913(大正 2)20歳で「平塚らいてう」
のあとを引き継ぎ「青踏」の主幹。末松福太郎つぎに辻潤を経て、
のち1916(大正 5)大杉栄と同棲、無政府主義の思想運動の支柱
となる。
1923(大正12)関東大震災に際して大杉栄らとともに憲兵大尉
甘粕(アマカス)正彦に虐殺される。
(1)本名は「ノエ」。
(3)本名は「ヤエ」。
(5)本名は「ノヱ」。
(9)本名は「ノヱ」。
(11)本名は「ヤエ」。
いとう ばいう
伊藤 梅宇
1683(天和 3)
1736
◇江戸中期の儒学者。名は長英、字は重蔵。伊藤仁斎(ジンサイ)
の次子、伊藤東涯(トウガイ)の異母弟・伊藤蘭嵎(ラングウ)兄。福
山侯の臣。
著書は『見聞談叢』など。
(19)没年は1745。
(*)1736(享保21,元文元)。
いとう ひこぞう《いとう ひこざう》
伊藤 彦造
1904(明治37)
2004. 9. 9(平成16)
◇昭和期の挿絵画家。大分県生れ。
少年雑誌の連載時代劇小説のヒーローなどを描く。
◎剣豪伊藤一刀斎の末裔。
いとう ひとし
伊藤 整
⇒いとう せい(伊藤 整)
いとう ひろぶみ
伊藤 博文
1841(天保12. 9. 2)
1909.10.26(明治42)
◇明治時代の政治家。初名は利助のち俊輔、諱は博文、号は
春畝(シュンポ)(俊輔と同音)・滄浪閣(ソウロウカク)主人、今太閤と呼
ばれる。周防の人。公爵。
萩に移り松下村塾に学び、討幕運動に参加。
明治維新後、次第に藩閥政権の中心となる。
帝国憲法の立案者。内閣制度を設置して1885.12.(明治18)初
代内閣総理大臣(四度組閣)。枢密院を設置して1888. 4.(明治
21)初代枢密院議長。1905(明治38)初代韓国統監。日清戦争の
講和全権大使。1907. 8. 1(明治40)韓国軍が日本軍と衝突、西
園寺内閣に経費増加要求。
初代貴族院議長・立憲政友会総裁を歴任。
ハルビン駅頭で朝鮮独立運動家の安重根に狙撃され死去。
第1次組閣:1885.12.22(明治18)、総辞職:1888. 4.30(明治21)、
第2次組閣:1892. 8. 8(明治25)、総辞職:1896. 9.18(明治29)、
第3次組閣:1898. 1.12(明治31)、総辞職:1898. 6.30(明治31)、
第4次組閣:1900.10.19(明治33)、総辞職:1901. 6. 2(明治34)。
◎博文は当初、日韓併合によって韓国の負債を引き受け、かつ
巨額の経費を用いて統治することより、韓国の産業を隆盛させ
て国力をつけさせ、韓国人の国防によって日本の安全を図ろう
としていた。
◎安重根は、1910. 2.26(明治43)旅順監獄(刑務所)で処刑。
日露戦争宣戦の詔勅に「韓国の独立を守る」とあることから、
安重根は「日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義を尽くす」た
め殺害に及んだと述べている。
いとう まさたけ
伊藤 政武
1676(延宝 4)
1757(宝暦 7.10. 2)
◇江戸中期の園芸家。四代目伊兵衛、号は樹仙(ジュセン)。武州
染井村(現:豊島区駒込6〜7丁目)生れ。伊藤三之丞の子。
将軍徳川吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理。
深山楓(ミヤマカエデ)に舶来の楓の接ぎ木に成功。
著書『草花絵前集』・『増補地錦抄(ジキンショウ)』・『広益地
錦抄』・『地錦抄附録』。
◆墓は東京都豊島区駒込6丁目の西福寺。
◎伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、染井村近くの伊勢津藩藤堂家
下屋敷の出入り植木屋から江戸第一の種苗商になり、その種苗
目録を『地錦抄』いった。
いとう まつお
伊藤 松雄
1895. 1.13(明治28)
1947. 8. 5(昭和22)
◇劇作家・小説家・演出家。
いとう まんしょ
伊東 マンショ(Mancio)
1570頃
1612.11.13(慶長17.10.21)
◇安土桃山時代のキリスト教徒。天正遣欧使節の首席・正使。
名は祐益(スケマス)、洗礼名はマンショ(満所)。日向国主伊東義祐
の娘と伊東祐青との子、大友宗鱗の甥。
1578(天正 6)島津氏が日向に侵攻し、伊東一族が豊後に亡命
した時に両親と別れて孤児同様の身となる。イエズス会(耶蘇
会)司祭に引き取られ受洗、有馬セミナリヨに入学。
遣欧使節に際し、大友宗鱗と縁続きであったため宗鱗の名代
とされ、1582(天正10)副使中浦ジュリアンや千々岩ミゲル(清
左衛門)らと渡欧。終始首席として振る舞い、スペイン国王フェ
リーペ2世・教皇グレゴリウス13世らと拝謁。
1590(天正18)帰国。聚楽第において豊臣秀吉に拝謁。
1601(慶長 6)中浦ジュリアンとともにマカオにおもむき、3
年近く修道士として研鑚をつみ、1604(慶長 9)夏、長崎に戻り
九州各地で布教に従事し、長崎のイエズス会学院で病死。
(*)1570(永禄13,元亀元)。
◎大友宗麟の姪孫とも。
いとう まんしょ
伊東 満所
⇒いとう まんしょ(伊東 マンショ)
いとう みちお
伊藤 道郎
1893(明治26)
1934(昭和 9)
◇舞踊家。伊藤熹朔(キサク)・千田是也(コレヤ)の兄。
いとう みよじ《いとう みよぢ》
伊東 巳代治
1857(安政 4. 5.)
1934 1.19(昭和 9.)
◇明治〜昭和期の政治家。長崎生れ。長崎町年寄伊藤善平の子。
伯爵。
1871(明治 4)上京して電信技術を修め、電信寮に入る。1873
(明治 6)兵庫県六等訳官。1876(明治 9)上京、伊藤博文に認め
られる。1877(明治10)工部省。1881(明治14)参事院議官補。
1882(明治15)伊藤に随行してドイツ・オーストリアで憲法調査
を行い、翌年帰国して内閣制度の改革・帝国憲法制定に参画。
1885(明治18)第1次伊藤内閣の首相秘書官。1888(明治21)伊藤
が枢密院議長になるに従い枢密院書記官長。1892(明治25)第2
次伊藤内閣の書記官長。1898(明治31)第3次伊藤内閣の農商務
相。1899(明治32)山県有朋の推挙で枢密顧問官。1901〜1904
(明治34〜明治37)東京日々新聞社長。
晩年は政友会を通じて幣原外交を非難、若槻礼次郎内閣を崩
壊させる。
いとう やすし
伊藤 靖
1893. 8.(明治26)
没年不詳
◇小説家。
いとう やわら
伊藤 和
1904(明治37)
1965. 4. 4(昭和40)
◇詩人。
いとう らんぐう
伊藤 蘭嵎
1693(元禄 6)
1778(安永 7)
◇江戸中期の儒学(古学)者。伊藤仁斎(ジンサイ)の第5子、伊藤
東涯(トウガイ)・伊藤梅宇(バイウ)の弟。
幼くして父仁斎を亡くし、兄東涯に養われる。1731(享保16)
紀伊藩儒として仕官、東涯の没後に致仕して古義堂を継ぐ。
著書は『紹衣稿』・『易憲章』・『詩経古言』・『大学是正』
・『中庸古言』など。
(2)生年は1694。
(19)生年は1694。
いとう りょうしゅう
伊藤 龍洲
1683(天和 3)
1755(宝暦 5)
◇江戸中期の儒学者。清田氏の出で福井藩儒官伊藤坦庵の養子、
伊藤錦里・江村北海(エムラ・ホッカイ)・清田(「人偏」+「膽」-「月」)叟の
父。
いとう ろくろうべえ
伊藤 六郎兵衛
1829(文政12. 7.15)
1894. 3.30(明治27)
◇明治前期の宗教家(丸山教)。武蔵稲田登戸の地主。
24歳の時、伊藤家の養子となる。
富士信仰に独自の解釈を加えた丸山教を1873(明治 6)開教。
「登戸の生き神行者」と呼ばれたが、呪術的治病・祈祷のため禁
圧を受け苦境に陥る。1875(明治 8)宍野半(シシノ・ナカバ)の勧めで
富士一山講社と合同して扶桑教(フソウキョウ)を形成。1884(明治17)
宍野の死後に扶桑教を離脱し、1885(明治18)神道本局に所属。
(26)武蔵(ムサシ)国橘樹(タチバナ)郡登戸村(現、川崎市多摩区)に清
宮源六の次男として生まれた。
いな ただつぐ
伊奈 忠次
1550(天文19)
1610(慶長15)
◇江戸初期の幕臣。備前守。父は忠家。
徳川家康に仕え、関東郡代として関八州検地を行う。
いなおか ぬのすけ
稲岡 奴之助
1873. 1.(明治 6)
没年不詳
◇小説家。本名は正文、別号は蓼花・桜庵。
いながき たつろう
稲垣 達郎
1901.10.21(明治34)
1986. 8.13(昭和61)
◇近代文学研究者・評論家。筆名にイナガキ・タルホ。福井県
生れ。1927(昭和 2)早稲田大学国文科卒業。
いながき たるほ
稲垣 足穂
1900.12.26(明治33)
1977.10.25(昭和52)
◇小説家・詩人。大阪市船場(センバ)生れ。関西学院中学部卒業。
いながき ちかい
稲垣 千穎
生年不詳
没年不詳
◇国文学者・歌人。1880. 4.21(明治13)に音楽取調掛となり
「唱歌」の作詞をする。
いなかろうじん ただのじじい
田舎老人 多田爺
生年不詳
没年不詳
◇江戸後期の洒落本作者。書肆丹波屋利兵衛とされる。
いなげ そふう
稲毛 詛風
1887. 6. 5(明治20)
1946. 3.14(昭和21)
◇評論家。本名は金七。
いなずま らいごろう《いなづま らいごらう》
稲妻 雷五郎
⇒いなづま らいごろう(稲妻 雷五郎)
いなだ りゅうきち
稲田 竜吉
1874(明治 7)
1950(昭和25)
◇細菌学者。名古屋生れ。
1900(明治33)東京大学卒業。ドイツ留学。1905(明治38)九州
大学教授。1918〜1934(大正 7〜昭和 9)東京大学教授。
1944(昭和19)文化勲章を受章。
(4)大正一三年ワイル病の病原体発見。
(6)ワイル病の研究に専念,病原体の検出に成功し15年学会に
発表した。(*)この本の年号は西暦。
いなづま らいごろう《いなづま らいごらう》
稲妻 雷五郎
1798(寛政10)
1877(明治10)
◇七代横綱。常陸(ヒタチ)国の人。
雲州松江藩お抱え。
いなの としつね
稲野 年恒
1858(安政 5)
1907. 5.27(明治40)
◇浮世絵師。本姓は武部、通称は孝之、別号は贏斎・北梅・
可雅賤人。
いなば いってつ
稲葉 一鉄
1516(永正13)
1588(天正16)
◇安土桃山時代の武将。名は長通・良通。美濃の人。
斎藤氏のち織田氏に属する。姉川の戦で浅井氏の軍を破る。
剃髪し一鉄仙斎と号する。織田信長の死後は豊臣秀吉に仕える。
いなば まさくに
稲葉 正邦
1834(天保 5. 5.26)
1898. 7.(明治31)
◇明治時代の宗教家。旧淀藩主・子爵。岩代国二本松藩主丹羽
長富の次男。
山城国淀藩主稲葉正誼の養子となり、1848年家督を相続。京
都所司代、老中を勤める。
1869(明治 2)淀藩知事。教部省祠官を経て静岡県三島神社
(現:三嶋神社)宮司・大教院大教正。1875(明治 8)神道事務局
を設立、翌年第三部管長。1884(明治17)神道界の有力者として
神道本局の初代管長となる。
(*)1848(弘化 5,嘉永元)。
いなば まさやす
稲葉 正休
1640(寛永17)
1684(貞享元. 8.28)
◇江戸初期の幕臣・譜代大名。通称は権佐。
小姓組番頭を経て1682(天和 2)若年寄に昇進し、美濃国青野
藩1万2千石の藩主。
1684(貞享元)江戸城中で従兄にあたる堀田正俊を刺殺し、自
分もその場で殺される。
◆墓は東京都杉並区堀ノ内3丁目の宗延寺。
◎原因は不祥であるが、正休の治水工事の失敗の隠蔽に関して
正俊の同意が得られなかったいわれている。
しかし、正俊が将軍綱吉擁立の功に誇り、また剛直な性格か
ら将軍や側近から反感をかい、むしろ正休に同情が多かったと
いう。
これ以後、老中らの権威は振るわず側用人の勢力が盛んとなっ
た。
いなむら さんぱく
稲村 三伯
1758(宝暦 8)
1811(文化 8)
◇江戸後期の蘭学者。鳥取藩医。
1792(寛政 4)江戸に出て大槻玄沢に蘭学を学ぶ。苦心の末、
1796(寛政 8)蘭日対訳辞書『ハルマ和解(ワゲ)』を刊行。
のち実弟の不始末から脱藩、名を海上随鴎(ウナガミ・ズイオウ)と
改め、下総に隠棲。晩年、京都で蘭学を教授。
(4)生年は1759。
(6)生年は1758。
いなもり そうたろう
稲森 宗太郎
1901. 7.12(明治34)
1930. 4.15(昭和 5)
◇歌人。結核で夭折。
いなわしろ けんさい
猪苗代 兼載
1452(享徳元)
1510(永正 7. 6. 6)
◇室町中期の連歌師。名は宗春(ソウシュウ)、号は相園坊・耕閑。
会津の人。
いぬい なおえ
乾 直恵
1901. 6.19(明治34)
1958. 1.13(昭和33)
◇詩人。
いぬかい たける
犬養 健
1896. 7.28(明治29)
1961. 8.28(昭和36)
◇小説家・政治家。犬養毅(ツヨシ)の子、犬養道子の父。東京生
れ。
学習院中等科・高等科を経て東京大学哲学科中退。
1916(大正 5)千家元麿・倉田百三(ヒャクゾウ)らと同人雑誌「生
命の川」を発刊。
1930. 2.(昭和 5)衆議院総選挙に当選。
(1)没年は1961(昭和36)。
(3)没年は1960(昭和35)。
(5)没年は1961(昭和36)。
(6)「犬養毅」の項:没年は1960。
(8)没年は1961(昭和36)。
(11)没年は1961(昭和36)。
(13)没年は1960(昭和35)。
いぬかい つよし《いぬかひ つよし》
犬養 毅
1855(安政 2. 4.20)
1932. 5.15(昭和 7)
◇明治〜昭和初期の政治家。号は木堂(ボクドウ)。犬養健(タケル)
の父、犬養道子の祖父。備中(岡山県)庭瀬藩郷士の子。
慶応義塾に学ぶ。在学中、西南戦争に戦地探偵員(従軍記者)
になる。義塾を中退し、雑誌「東海経済新報」を発刊。
1881(明治14)明治十四年の政変で大隈重信に従い下野。1882
(明治15)立憲改進党の結成に参加。1890(明治23)第一回選挙か
ら衆議院議員連続当選17回。1898(明治31)大隈重信内閣の文部
大臣。のち憲政本党・立憲国民党。1910(明治43)大石正巳・河
野広中らと立憲国民党を結成し党首。
大正政変の際、藩閥官僚の排除をはかる交詢社(コウジュンシャ)に
政友会の尾崎行雄(ユキオ)とともに担ぎ出され、三井の軍資金を
得て「閥族打破憲政擁護」運動の中心となる。
1922(大正11)立憲国民党を解散し、革新倶楽部を結成。1923
(大正12)第2次山本内閣の逓信大臣。
1929(昭和 4)政友会総裁。1931(昭和 6)政友会組閣、満州事
変阻止に尽力し、1932(昭和 7)五・一五事件で暗殺されて総辞
職。
組閣:1931.12.13(昭和 6)〜総辞職:1932. 5.16(昭和 7)。
(4)犬養毅。
(6)犬養毅。
(16)犬養毅。
(?)犬飼毅。
◎暗殺の時、「話せばわかる」と言ったが「問答無用」と射殺され
たという。
◎犬養内閣後、政治の主導権は軍部に移行した。
◆墓は東京都港区の青山霊園。
いぬかみのみたすき
犬上 御田鍬
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の官人・最初の遣唐使。
614[推古22]最後の遣隋使として隋に渡航し、翌年帰国。
630[舒明 2]舒明天皇の命で最初の遣唐使として唐に赴(オモム)
き、 632[舒明 4]僧旻(ミン)らと帰国。
◎僧旻は 608[推古16]小野妹子らと隋に渡航。
いぬがみのみたすき
犬上 御田鍬
⇒いぬかみのみたすき(犬上 御田鍬)
いぬた しげる
犬田 卯
1891. 8.23(明治24)
1957. 7.21(昭和32)
◇小説家・評論家・農民運動家。茨城県の農家生れ。二五歳ま
で農業に従事。住井すゑ(スミイ・スエ)の夫。
いのう じゃくすい《いなふ じやくすい》
稲生 若水
1655
1715(正徳 5)
◇江戸中期の本草学者・医師。名は宣義。恒軒の子。江戸生れ。
1693(元禄 6)加賀藩主前田綱紀に仕え、稲(トウ)若水と称する。
(4)生年は1655。
(6)生年は1667。
(*)1655(承応 4,明暦元)。
いのう ただたか
伊能 忠敬
1745(延享 2)
1818(文化15. 4.18)
◇地理学者。名は三治郎、通称は三郎右衛門のち勘解由(カゲユ)、
号は東河。父は神保貞恒。上総(カズサ)国生れ。
18歳のとき、下総(シモウサ)国佐原の酒屋の伊能家の養子となる。
衰えていた家産を立直し、1794(寛政 6)50歳で家を子に譲り隠
居。
1795(寛政 7)江戸に出て高橋至時(ヨシトキ)(東岡<トウコウ>)に天文
学・西洋暦法を学ぶ。1800(寛政12)幕府に願い出て沿海測量の
許可を得、蝦夷(エゾ)南東海岸を私費をもって測量。
日本全図の作成中に病死。遺言により至時の墓の脇に葬られ
る。
◆墓は東京都台東区の東上野6丁目の源空寺。
◎弟子たちが業を継いで、1821(文政 4)『大日本沿海輿地全図
(ヨチゼンズ)』(大中小の三種)を作成し、幕府に献上する。のち
シーボルトが国外に持ち出す。
いのう ひでのり
伊能 頴則
1805(文化 2)
1877. 7.11(明治10)
◇江戸幕末・明治維新期の神道家・歌人・国学者。別名は三右
衛門・三造・外記など、号は蒿村・梅宇。下総国香取郡佐原村
生れ。
いのうえ ああ
井上 唖々
1878. 1.30(明治11)
1923. 7.11(大正12)
◇小説家・俳人。本名は精一、別号は九穂(キュウスイ)・玉山。名
古屋生れ。
[1]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(1世)
1605(慶長10)
1673
◇囲碁棋士。本名は井上玄覚。山城国生れ。
古因碩。
(*)1673(寛文13,延宝元)。
(*)kosato。
[2]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(2世)
1651(慶安 4)
1696(元禄 9)
◇囲碁棋士。本名は山崎道砂、幼名は山崎千松。石見国大田郡
馬路村生れ。本因坊道策の弟。
(*)kosato。
[3]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(3世)
1646(正保 3)
1719(享保 4)
◇囲碁棋士。本名は桑原道節。美濃国大垣生れ。
名人碁所。
『囲碁発陽論』を出版。
(*)kosato。
[4]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(4世)
1672(寛文12)
1735(享保20)
◇囲碁棋士。本名は三崎策雲。越前国生れ。
(*)kosato。
[5]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(5世)
1707(宝永 4)
1772
◇囲碁棋士。本名は伊藤春碩。江戸生れ。
準名人。
(*)1772(明和 9,安永元)。
(*)kosato。
[6]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(6世)
1746(延享 3)
1805(文化 2)
◇囲碁棋士。本名は岡田春達。江戸生れ。
(*)kosato。
[7]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(7世)
1746(延享 3) ???
1805(文化 2) ???6世と同じ
◇囲碁棋士。本名は佐藤春策、幼名は佐藤知夫。備後国深津郡
市村生れ。
(*)kosato。
[8]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(8世)
1774(安永 3)
1810(文化 7)
◇囲碁棋士。本名は佐藤春策、幼名は佐藤知夫。備後国深津郡
市村生れ。
(*)kosato。
[9]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(9世)
1784(天明 4)
1829(文政12)
◇囲碁棋士。石見国大田郡馬路村生れ。
(*)kosato。
[10]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(10世,11世)
1798(寛政10)
1859(安政 6)
◇囲碁棋士。本名は橋本安節(幻庵)。江戸生れ。
準名人。
(*)kosato。
[11]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(12世)
1820(文政 3)
1856(安政 3)
◇囲碁棋士。本名は戸田順策(秀徹)。江戸生れ。本因坊丈和の
子。
(*)kosato。
[12]いのうえ いんせき《ゐのうへ いんせき》
井上因碩(13世)
1831(天保 2)
1919(大正 8)
◇囲碁棋士。本名は松本錦四郎。江戸生れ。
(*)kosato。
いのうえ えいぞう
井上 英三
1902.10.28(明治35)
1947.10. 4(昭和22)
◇フランス文学者・翻訳家。
いのうえ えんりょう《ゐのうへ ゑんれう》
井上 円了
1858(安政 5. 2. 4)
1919. 6. 2(大正 8)
◇哲学者。号は甫水(ホスイ)・不思議庵・妖怪窟・非僧非俗道人
・四聖堂。越後国の真宗大谷派の東本願寺末刹(マッサツ)に生れる。
1885(明治18)東京大学哲学科卒業。西洋哲学で仏教を解釈し
ようと試みる。また妖怪の学問的研究を創始。1887(明治20)哲
学館を創設、1906(明治39)東洋大学と改称。
東京中野に哲学堂を建立。
著書は『妖怪学講義』など。
(3)誕生日は 3.18、没日は 6. 6。
(5)誕生日は 2. 4、没日は 6. 2。
(8)誕生日は 2. 4、没日は 6. 2。
(11)誕生日は 2. 4、没日は 6. 2。
いのうえ かおる《ゐのうへ かをる》
井上 馨
1835(天保 6)
1915(大正 4)
◇明治期の政治家。幼名は勇吉のち聞多(モンタ)、号は世外。一
時養子となり志道(シジ)聞多と称するがのち井上に復帰。三井
との関係が深く「三井の番頭」と呼ばれる。長州藩士の家に生れ
る。
松下村塾に学ぶ。尊攘討幕運動に加わる。
明治維新後、1871(明治 4)大蔵大輔。地租改正・秩禄処分を
推進。政府財政を批判して辞職、のち大阪会議を機に復帰。
1879(明治12)伊藤博文内閣の外相。農商務相・内相・蔵相など
を歴任。1898(明治31)元老。
(4)生年は1835。
(6)生年は1835/36。
◎岩倉具視(トモミ)ら欧米視察大使一行の送別会の席上で、西郷
隆盛は井上馨を「三井の番頭さん」と呼ばわりしている。尾去沢
銅山の疑獄によるものである。
三井の大番頭は益田孝(マスダ・タカシ)。
いのうえ きんが《ゐのうへ きんが》
井上 金峨
1732(享保17)
1784(天明 4)
◇江戸中期の漢学(折衷学)者。江戸の人。折衷学の祖。
著書は『弁偽録』など。
いのうえ くさかえ
井上 草加江
1912. 2. 8(明治45)
1973. 3. 8(昭和48)
◇俳人。本名は音一(オトカズ)、晩年の別号は鯉屋伊兵衛。
いのうえ けんかぼう
井上 剣花坊
1870(明治 3. 6. 3)
1934. 9.11(昭和 9)
◇川柳作家。本名は幸一。長州萩生れ。
1903(明治36)新聞「日本」に入社。1905(明治38)「川柳」を創刊。
いのうえ こうじろう
井上 幸次郎
1902. 9.25(明治35)
1946. 8.22(昭和21)
◇小説家・批評家。
いのうえ こうばい
井上 紅梅
生年不詳
没年不詳
◇中国文学者。本名は井上進。
(8)一説に1881(明治14)〜1949. 5.(昭和24)。
いのうえ こわし《ゐのうへ こはし》
井上 毅
1843(天保14.12.18)
1895. 3.17(明治28)
◇江戸幕末・明治期の官僚政治家。号は梧陰。熊本藩士。藩家
老長岡監物家臣飯田権五兵衛の3男。
1866(慶応 2)長岡家中の井上茂三郎の養子。藩校時習館を経
て、1867(慶応 3)江戸遊学。
1870(明治 3)大学南校中舎長を経て、1871(明治 4)司法省十
等出仕。1877(明治10)太政官大書記官・1881(明治14)参事院議
官・1884(明治17)兼宮内省図書頭・1888(明治21)法制局長官・
同年兼枢密院書記官長・1890(明治23)枢密顧問官・1893(明治
26)伊藤博文内閣の文部大臣。1895(明治28)子爵。
大日本帝国憲法・皇室典範・軍人勅諭・教育勅語などの起草
に参画。
(4)生年は1843。
(6)生年は1844。
いのうえ しげよし《ゐのうへ しげよし》
井上 成美
1889(明治22)
1975.12.15(昭和50)
◇海軍軍人・大将。妻は富士子。宮城県生れ。
水雷学校普通科卒。海軍兵学校37期生。
軍務局長・第四艦隊長官・海軍次官などを歴任。
米内光政らと日独伊三国同盟に反対。大艦巨砲主義を批判、
また海軍の空軍化を力説し海軍大臣及川古志郎大将に『新軍備
計画論』を提出。
江田島の海軍兵学校校長。
1945. 5.15(昭和20)大将昇進。
◎名前は『論語』顔淵篇「子曰ク、君子ハ人ノ美ヲ成シ、人ノ
悪ヲ成サズ」から。
最期の海軍大将。
いのうえ じゅうきち《ゐのうへ じふきち》
井上 十吉
1862(文久 2)
1929(昭和 4)
◇英語学者。徳島藩士。
いのうえ じゅんのすけ《ゐのうへ じゆんのすけ》
井上 準之助
1869(明治 2)
1932. 2. 9(昭和 7)
◇銀行家・財政家。大分県人。東京大学卒業。
1913(大正 2)正金銀行総裁。1919(大正 8)日本銀行総裁。第
一次世界大戦後の恐慌に対処、台湾銀行・横浜正金銀行に久原
(クハラ)商事への融資を斡旋するなど財界に力を得、金融界の顔
役となる。1923. 9.(大正12)第2次山本権兵衛内閣の大蔵大臣、
関東大震災の善後処理を行う。1927(昭和 2)金融恐慌の際の短
期間、日本銀行総裁に再任。のち財界の世話役を行う。
突如民政党員となり、1929. 7.(昭和 4)浜口雄幸(オサチ)内閣
の大蔵大臣として、1930. 1.11(昭和 5)金解禁を断行。1931.
4.(昭和 6)第2次若槻礼次郎内閣の大蔵大臣。
1932. 2. 9(昭和 7)民政党駒井重次(ジュウジ)の応援演説のた
め、夕方8時、本郷追分の駒本(コマモト)小学校に着いたところを
血盟団員小沼正(コヌマ・タダシ)にピストルで暗殺。
いのうえ しろう《ゐのうへ しらう》
井上 士朗
1742(寛保 2)
1812(文化 9)
◇江戸後期の俳人・産科医。別号は枇杷園。名古屋の人。
加藤暁台に俳諧を、本居宣長に国学を、范古に絵画を学ぶ。
いのうえ しんかい《ゐのうへ しんかい》
井上 真改
生年不詳
1682(天和 2)
◇江戸初期の刀工。日向国の人。
大坂に出て初代国貞(クニサダ)の養子となり二代和泉守国貞と
称する。のち井上真改と改名。
◎鎌倉時代の岡崎正宗(マサムネ)に対して新刀正宗・大坂正宗と呼
ばれる。
いのうえ せいげつ《ゐのうへ せいげつ》
井上 井月
1822(文政 5)
1887. 3.10(明治20)
◇俳人。本名は勝造(克三)あるいは勝之進。「乞食(コジキ)井月」
と呼ばれる。越後国生れ。
(11)「乞食井月」の項:生年は1823(文政 5):誤。
いのうえ せいび《ゐのうへ せいび》
井上 成美
⇒いのうえ しげよし(井上 成美)
いのうえ たつお
井上 立士
1912(明治45)
1943. 9.17(昭和18)
◇小説家。粟粒(ゾクリュウ)結核で急逝。
いのうえ つう《ゐのうへ つう》
井上 通
1660(万治 3)
1738(元文 3)
◇江戸中期の女流歌人。丸亀藩士井上本固の娘、三田宗寿の妻。
いのうえ つとむ
井上 勤
1850(嘉永 3. 9.15)
1928.10.22(昭和 3)
◇翻訳家・洋学者。号は春泉。阿波国徳島生れ。明治初期の翻
訳文学の第一人者。妻は内田魯庵(ロアン)の伯母。
(13)没日は11.21、神戸に没す。
いのうえ てつじろう《ゐのうへ てつじらう》
井上 哲次郎
1855(安政 2.12.25)
1944.12. 7(昭和19)
◇哲学者・詩人。本姓は富田のち船越(父の姓)のち井上(養子)、
号は巽軒(ソンケン)。筑前国太宰府の医家の生れ。
1880(明治13)東京大学文学部哲学科卒業。1882(明治15)東京
大学で哲学を講義。1884〜1890(明治17〜明治23)ドイツに留学。
1923(大正12)東京大学教授を退官。
従来の英仏系哲学に対して新たにドイツ系哲学(観念論)を移
植、哲学界の大御所となる。また、国家主義を唱道し、教育勅
語をもとにキリスト教を攻撃する。
いのうえ でん《ゐのうへ でん》
井上 伝
1788(天明 8)
1869(明治 2)
◇江戸末期の久留米絣(クルメガスリ)の創始者。久留米の婦人。
(4)井上でん。
(6)井上伝。
いのうえ にっしょう《ゐのうへ にちせう》
井上 日召
1886(明治19)
1967(昭和42)
◇日蓮宗僧侶で国家主義者。本名は昭(アキラ)。群馬県生れ。
明治末に南満州鉄道に入り渡満、支那浪人となる。1920(大
正 9)帰国し、仏門に入り、1924(大正13)まで修業。1928(昭和
3)護国堂を開設、青年の教育にあたる。
1930(昭和 5)海軍の藤井斉(ヒトシ)と知り会い、王師会と提携。
右翼団体血盟団を組織、一人一殺を唱えテロ活動を指導。
1932. 1.28(昭和 7)上海事変が起こり、藤井らが出征したの
で、民間のみで国家改造に着手。
1932. 2. 9(昭和 7)小沼正(コヌマ・タダシ)が井上順之助(民政党
幹部・前蔵相)を、 3. 5菱沼五郎が団琢磨(ダン・タクマ)(三井合名
理事)を相次いで暗殺。1932. 3.11(昭和 7)自首。
◎血盟団の特別弁護人は今泉定助。
◎のち、日召と関係のあった海軍将校は橘孝三郎を引き入れて
同年五・一五事件を起す。
いのうえ はくぶんじ
井上 白文地
1904. 2.(明治37)
1946. 5.(昭和21)
◇俳人。本名は隆証。満州で戦病死と推定されている。
いのうえ はりまのじょう《ゐのうへ はりまのじよう》
井上 播磨掾
1632(寛永 9)
1685(貞享 2)
◇江戸初期の浄瑠璃太夫。京都の人。
(6)没年は一説に1676(延宝 4)。
いのうえ ふみお《ゐのうへ ふみを》
井上 文雄
1800(寛政12)
1871(明治 4.11.18)
◇江戸末期の歌人・国学者。通称は元真、号は歌堂・柯堂・
調鶴。江戸の人。
岸本由豆流(ユズル)に和歌を学ぶ。
(8)名は元真。 ????
いのうえ まさお《ゐのうへ まさを》
井上 正夫
1881. 6.15(明治14)
1950. 2. 7(昭和25)
◇新派の俳優。本名は小坂勇一、芸名は初め小坂幸二のち井上
政夫。愛媛県砥部町大南生れ。小坂春吉とタイの長男。
1892(明治25)砥部尋常小学校卒業。
1897(明治30)伊井蓉峰(イイ・ヨウホウ)一座に加わり、のち幹部。
1902(明治35)井上正夫に改名。
1904(明治37)松本けいと結婚。
1910(明治43)新時代劇協会を組織。
1919(大正 8)第1回国民文芸会賞を受賞。1920(大正 9)国際
活動映画株式会社に入社。1921(大正10)松竹映画に入社。
1936(昭和11)「中間演劇」を提唱し、山口俊雄・岡田嘉子らを
一座に加えて井上演劇道場を開設。
1946(昭和21)井上演劇道場を解散し、新協劇団に合流。
(4)生年は1883。
(6)生年は1881。
いのうえ まさかね《ゐのうへ まさかね》
井上 正鉄
1790(寛政 2. 8. 4)
1849(嘉永 2. 2.18)
◇江戸幕末の神道家・国学者。上野国館林藩士の安藤真鉄(マカネ)
と千代子の次男。母方の縁者の富田家の養子となり、井上姓を
名乗る。
国学・易を学び、感通術(呪術的医療)を行った。
1840(天保11)江戸郊外の足立郡の梅田神明宮の神職。
1840(天保11)江戸で白川神道系の独自の神道を唱えて布教を
開始する。幕府の滅亡を予見し民衆の救済を説いたため、1842
(天保13)三宅島に流され、在島7年で病死。
◎明治維新後、門人坂田安治(ヤスハル)らによって禊(ミソギ)教とな
る。
(26)結局天保十四年、三宅島に配流となった。
いのうえ まさなり
井上 正就
1577(天正 5)
1628(寛永 5. 8.10)
◇江戸初期の幕府老職。父は清秀(キヨヒデ)。
1622(元和 8)老職。遠江横須賀城主。
西の丸殿中にて目付豊島明重(アキシゲ)の刃傷により絶命。
◎豊島明重は正就の息子の縁談を世話し、大坂町奉行島田直時
(タダトキ)の娘と縁組みし仲人を務める手筈になっていた。しか
し、正就は春日の局から上意として出羽山形城主鳥居忠政の娘
と縁組みするように申し渡され、明重の話を破棄。これを怨み
に刃傷に及んだもの。
刃傷の直後、明重は自分の腹に刀を突き立て、うしろから止
めに入った番士青木忠精(タダカズ)ともに絶命。明重の嫡子継重
(ツグシゲ)は切腹を命ぜられ、豊島家は断絶。
いのうえ みちやす《ゐのうへ みちやす》
井上 通泰
1866(慶応 2.12.21)
1941. 8.15(昭和16)
◇歌人・国文学者・医師。号は南天荘、旧姓は松岡。播磨国姫
路生れ。柳田国男・松岡映丘(エイキュウ)・松岡静雄の兄。
1890(明治23)東京帝国大学医科卒業、眼科専攻。1904(明治
37)医学博士。1907(明治40)御歌所勅任寄人(ヨリウド)。1920(大
正 9)宮中顧問官。1926(大正15)以降医業を廃して古典の研究
に専心。
(13)没日は 7.14。
いのうえ みちる
井上 満
1900.12.16(明治33)
1959. 5.14(昭和34)
◇ロシア文学者。
いのうえ やすし
井上 靖
1907. 5. 6(明治40)
1991. 1.29(平成 3)
◇小説家。初期の筆名は井上泰。北海道旭川生れで、郷里は伊
豆湯ヶ島。父は軍医。
1930(昭和 5)九州帝国大学文科に入学、のち1932(昭和 7)京
都帝国大学哲学科に再入学、1936(昭和11)卒業。1937(昭和12)
日華事変に応召、北支方面に駐屯し、翌年4月に病気除隊。
毎日新聞の記者。1949(昭和24)『闘牛』が芥川賞を受け、作
家生活に入る。
いのうえ やすじ
井上 安治
1864(元治元)
1889. 9.14(明治22)
◇明治前期の錦絵師。俗称は安次郎。
小林清親(キヨチカ)の門人。
作品は『東京真画名所図解』など。
(8)号の安治はヤスハルとよむ説がある。
いのうえ やすぶみ
井上 康文
1897. 6.20(明治30)
1973. 4.18(昭和48)
◇詩人。本名は康治。神奈川県生れ。東京薬学校卒業。
いのうえ やちよ
井上 八千代(三世)
1838(天保 9)
1938(昭和13)
◇日本舞踊家。井上流の家元。祇園(ギオン)で都踊を創始する。
いのうえ よりくに《ゐのうへ よりくに》
井上 頼圀
1839(天保10. 2.18)
1914. 7. 4(大正 3)
◇江戸幕末・明治時代の歌人・国学者・皇漢医・文学博士。号
は白随・厚載、通称は肥後・鉄直。江戸神田松下町生れ。父は
高家横瀬貞篤(サダアツ)の医師。
平田篤胤の門下平田銕胤(カネタネ)に師事。
修史館に出仕。皇典講究所・国学院の設立に当る。宮内省御
用掛。国学院・学習院教授。『古事類苑』の編纂に参与。
著書は『越州考』・『皇統略記』など。
いのうえ らんだい
井上 蘭台
1705(宝永 2)
1761(宝暦11)
◇江戸中期の儒学者。
岡山藩に籍を置き、読書一徹で通し、生涯女性を近づけなかっ
た。
いのくち ありや
井口 在屋
1856(安政 3)
1923(大正12)
◇明治・大正期の機械工学者。金沢生れ。
1882(明治15)東京大学機械科卒業。1896(明治29)東京大学教
授。
井口式タービンポンプを発明。機械学会を創立。
◎1912(明治45,大正元)創業のいのくち式機械事務所は現在の
荏原製作所。
いのまた つなお《ゐのまた つなを》
猪俣 津南雄
1889. 4.23(明治22)
1942. 1.19(昭和17)
◇評論家・マルクス経済学者。号は鹿語。新潟市の出身。
早稲田大学に学び、のち母校の講師。1922(大正11)日本共産
党の結成に参加。1923(大正12)第1次共産党事件に連座。
著書『帝国主義研究』・『現代日本研究』・『金の経済学』
など。
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