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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6023.02

                 人   名   辞   典   《いさ》      編集:獨  澄旻

-------- いさ --------------------------------------------------
いさか ばいせつ
	井坂 梅雪
	1872(明治 5. 1.17)
	1949. 7. 4(昭和24)
	◇演劇評論家。本名は国太郎。
いざわ しゅうじ《いざは しうじ》
	伊沢 修二
	1851(嘉永 4. 6. 2)
	1917. 5. 3(大正 6)
	◇音楽家・教育家。信濃国高遠藩士。伊沢多喜男の兄。
	 大学南校に学び、教育制度研究のため米国ハーバード大学に
	留学。帰国後、文部省編輯局長・東京音楽学校・東京聾唖学校
	・東京高等師範学校の校長を歴任。台湾総督府学務部長。
	 国定小学読本の編集・植民地教育の定型化・国家教育社の設
	立などに従事。楽石社を設立、吃音矯正に尽力。
いざわ じゅん
	井沢 淳
	1916. 1.25(大正 5)
	1976. 3.15(昭和51)
	◇映画評論家。
いざわ たきお
	伊沢 多喜男
	1869(明治 2)
	1949(昭和24)
	◇革新官僚。民政党の黒幕。
いざわ らんけん
	伊沢 蘭軒
	1777(安永 6)
	1829(文政12)
	◇江戸後期の儒者・医者。名は信恬。備後国福山藩医。
	◎森鴎外の作品に『伊沢蘭軒』がある。
いざわ らんじゃ
	伊沢 蘭奢
	1889(明治22)
	1928. 6. 8(昭和 3)
	◇新劇・映画女優。伊藤佐喜雄の実母。
いしい きくじろう《いしゐ きくじらう》
	石井 菊次郎
	1866(慶応 2)
	1945(昭和20)
	◇外交官・政治家。
	 東京大学卒業後、外務省に入る。フランス・アメリカ大使。
	 1915(大正 4)第2次大隈重信内閣の外務大臣となり、対華積
	極外交を推進。1917.11.(大正 6)特命全権大使として渡米、石
	井・ランシング協定(中国に関する覚書)を締結。1927(昭和 2)
	ジュネーブ軍縮会議全権。1933(昭和 8)ロンドン経済会議全権。
	 貴族院議員・枢密顧問官。
いしい けんどう
	石井 研堂
	1865(慶応元. 6.23)
	1943.12. 6(昭和18)
	◇明治・大正期の編集者・明治文化研究家。本名は民司。郡山
	の人。
	 雑誌「小国民」を編集。1924(大正13)尾佐竹猛らと明治文化研
	究会を興す。
	 著書1926(大正15)『明治事物起源』。
いしい じゅうじ《いしゐ じふじ》
	石井 十次
	1865
	1914(大正 3)
	◇キリスト教社会事業家。日向国上江村(宮崎県高鍋町)生れ。
	 岡山甲種医学校に在学中、英国孤児院院長G.ミュラーの講
	演に感動する。退学して、1887(明治20)岡山に日本最初の孤児
	院孤児教育会(のち岡山孤児院)を創立。大阪に友愛社を設立し
	て貧民の子の保育教育事業に尽力。
	(*)1865(元治 2,慶応元)。
いしい しろう《いしゐ しらう》
	石井 四郎
	1892. 6.25(明治25)
	1959.10. 9(昭和34)
	◇陸軍中将。千葉県生れ。
	 1916(大正 5)京都帝国大学医学部入学、1921(大正10)卒業。
	陸軍軍医となり、1924〜1926(大正13〜大正15)京都帝国大学で
	細菌学・衛生学・病理学を研究し、博士号を取得。1928〜1930
	(昭和 3〜昭和 5)ヨーロッパ派遣。帰国後、軍医学校教官。
	 1931(昭和 6)細菌戦部隊創設を提唱。1932(昭和7)兵器本廠
	付。
	 1933(昭和 8)軍医学校部員、ハルビンに関東軍防疫給水部本
	部(満州第七三一部隊)を創設。1936(昭和11)関東軍防疫部長・
	1940(昭和15)関東軍防疫給水部長・第731部隊長・1942(昭和17)
	軍医学校付。
	 1945. 3.(昭和20)軍医中将。5月、第731部隊長に再度就任。
	8月、ソ連軍が満州に侵攻する中、ハルビンを脱出し帰国。
	 新宿区若松町で陸軍が使用していた建物を利用して旅館を経
	営。極東国際軍事裁判では戦犯容疑を受けるが訴追を免れる。
いしい つるぞう《いしゐ つるざう》
	石井 鶴三
	1887. 6. 5(明治20)
	1973(昭和48. 3.17)
	◇彫刻家・洋画家(挿絵で著名)・版画家。石井柏亭の実弟。岡
	山県生れ。
	 小山正太郎に洋画を、加藤景雲に彫刻を学ぶ。東京美術学校
	彫刻科選科卒業。1916(大正 5)日本美術院同人。1944(昭和19)
	東京美術学校教授。
	 代表的な挿絵は中里介山作『大菩薩峠』・子母沢寛作『国定
	忠治』・吉川英治作『宮本武蔵』など。
	(6)東京生れ。
	(19)東京生れ。
	(20)東京生れ。
いしい てるお《いしゐ てるを》
	石井 輝男
	1924. 1. 1(大正13)
	2005. 8.12(平成17)
	◇映画監督。本名は北川輝男(キタガワ・テルオ)。東京都出身。
	 東宝を経て、1947(昭和22)新東宝に入社。
	 1957(昭和32)『リングの王者・栄光の世界』で監督デビュー。
	 1961(昭和36)東映に移籍。
	 肺ガンにより死去。
	 作品は『網走番外地』シリーズ、『ゲンセンカン主人』・
	『ねじ式』・『地獄』・『盲獣vs一寸法師』など。
いしい なおざぶろう
	石井 直三郎
	1890. 7.18(明治23)
	1936. 4.23(昭和11)
	◇歌人。初期の筆名は青木小四郎。岡山県生れ。1914(大正 3)
	東京帝国大学国文科卒業。国文・美術の著も多い。
いしい なんきょう
	石井 南橋
	1831(天保 2. 8. 2)
	1887. 7.25(明治20)
	◇狂詩家。本名は隆驤(リュウジョウ)、通称は滝治(タキジ)。
いしい ばく《いしゐ ばく》
	石井 漠
	1887(明治20)
	1962(昭和37)
	◇舞踊家。本名は忠純。秋田県生れ。
	 帝国劇場歌劇第1期生。帝劇歌劇・浅草オペラなどで活躍。
	1922〜1925(大正11〜大正14)欧米をまわり研究。
	(4)生年は1890。
	(6)生年は1887。
いしい はくてい《いしゐ はくてい》
	石井 柏亭
	1882. 3.28(明治15)
	1958.12.29(昭和33)
	◇洋画家・詩人。本名は満吉。東京下谷生れ。日本画家石井鼎
	湖の子、石井鶴三(ツルゾウ)の長兄。
	 父に日本画を学び、のち浅井忠・中村不折に師事し洋画を学
	ぶ。さらに東京美術学校に学ぶ。1910(明治43)渡欧。二科会の
	結成に参加。のち一水会を設立。
いしい りょういち《いしゐ りやういち》
	石井 亮一
	1867(慶応 3)
	1937(昭和12)
	◇精神薄弱教育の先駆者。佐賀の人。
	 築地立教学校に学び、在学中に受洗してクリスチャンとなる。
	 1891(明治24)濃尾地震の際の孤児を引き取り孤女学院(のち
	滝野川学園)を創立。
	 アメリカに留学。
いしい ろげつ
	石井 露月
	1873. 5.17(明治 6)
	1928. 9.18(昭和 3)
	◇俳人。本名は祐治。秋田県生れ。秋田中学校を中退し、上京。
	雑誌「俳星」を創刊。
	◆露月忌[ 9.18]。
いしがや さだきよ
	石谷 貞清
	1594(文禄 3)
	1672(寛文12)
	◇江戸前期の江戸町奉行。初名は十蔵。石川清定の三男、母は
	今川氏の家臣久嶋与平の娘。
	 1609(慶長14)徳川秀忠に十六歳で大番として出仕。大坂夏の
	陣に従い300石。1618(元和 4)相摸国愛甲郡に200石加増。1637
	(寛永14)島原の乱では板倉重昌の副使として出陣、負傷。1651
	(慶安 4)江戸南町奉行・左近衛将監となる。同年、慶安の乱で
	は丸橋忠弥(マルバシ・チュウヤ)を捕縛。1657(明暦 3. 1.)明暦の大火
	の際、伝馬町牢屋敷の囚人を放った逸話は有名。
	(2)没年は1672(寛文12)。
	(16)没年は1673(延宝元)。
いしかわ いわお
	石川 巌
	1878. 6. 5(明治11)
	1947. 4.20(昭和22)
	◇書誌研究家。号は詩仙洞主人・質々迂人。
いしかわ きんいち
	石川 欣一
	1895. 3.17(明治28)
	1959. 8. 4(昭和34)
	◇米文学者・翻訳家・評論家。東京生れ。プリンストン大学卒
	業。
いしかわ けいろう
	石川 桂郎
	1909. 8. 6(明治42)
	1975.11. 6(昭和50)
	◇俳人・小説家・随筆家。本名は一雄(カズオ)。東京生れ。
	◆桂郎忌[11. 6]。
いしかわ こうめい
	石川 光明
	1852(嘉永 5)
	1913(大正 2)
	◇彫刻家。江戸浅草生の宮彫(ミヤボリ)師の家に生れる。
	 狩野寿信に絵を、根付(ネツケ)師菊川正光に牙彫(ゲチョウ)を学ぶ。
	1890(明治23)東京美術学校教授。
いしかわ ごえもん《いしかは ごゑもん》
	石川 五右衛門
	1558
	1594(文禄 3)
	◇安土桃山時代の大盗賊。
	 1594(文禄 3)捕われて、京都三条河原で釜煎(カマユデ)の刑に
	されたというが、史実不詳。
	(*)1558(弘治 4,永禄元)。
いしかわ さいさぶろう
	石川 宰三郎
	1891.11.19(明治24)
	1947. 3.26(昭和22)
	◇美術評論家。
いしかわ さんしろう《いしかは さんしらう》
	石川 三四郎
	1876. 5.23(明治 9)
	1956.11.28(昭和31)
	◇社会主義評論家。号は旭山(キョクザン)。埼玉県生れ。東京法学
	院卒業。
	 1902(明治35)万朝報記者を経て、平民社に入り、1903(明治
	36)週刊「平民新聞」の創刊に参加。1905(明治38)「新紀元」を創
	刊。のち日刊「平民新聞」を編集。1913〜1920(大正 2〜大正 9)
	欧州などを放浪。帰国後、無政府主義者(アナーキスト)となる。
	(4)大正二年より九年間ヨーロッパを放浪。
	(6)13〜20年欧州などを放浪。
いしかわ しゅんだい
	石川 舜台
	1842(天保13)
	1931(昭和 6)
	◇僧侶。
いしかわ じょうざん《いしかは ぢやうざん》
	石川 丈山
	1583(天正11)
	1672(寛文12. 5.23)
	◇江戸前期の漢詩人。名は重之のち凹(オウ)、字は丈山、号は
	六々山人・四明山人・凹凸窩(オウトツカ)・詩仙堂。三河の人。
	 徳川家譜代の臣であったが、大坂夏の陣で抜け駆けをし浪人
	となる。藤原惺窩(セイカ)に学ぶ。1636(寛永13)以降、京都一乗
	寺に詩仙堂を築いて閑居。
	◆丈山忌[旧暦 5.23]。
いしかわ ぜんすけ
	石川 善助
	1901. 5.16(明治34)
	1932. 6.27(昭和 7)
	◇詩人。仙台市生れ。仙台商業卒業。泥酔し電車から墜ちて死
	去。
いしかわ たくぼく《いしかは たくぼく》
	石川 啄木
	1886. 2.20(明治19)
	1912. 4.13(明治45)
	◇明治時代の詩人・歌人・評論家。本名は一(ハジメ)、習作時代
	の号は翠江(スイコウ)・麦羊(バクヨウ)・白蘋(ハクヒン)。岩手県南岩手
	郡日戸(ヒノト)村の僧家生れ。夫人堀合節子の妹は宮崎郁雨(イクウ)
	の妻。
	 渋民村(シブタミムラ)で成長。
	 盛岡中学校、中退。
	 東京朝日新聞の記者。
	 肺結核により死去。
	 代表作は小説『雲は天才である』、歌集『一握の砂』・『悲
	しき玩具』、評論『時代閉塞の現状』など。
	(4)生年は1885。
	(6)生年は1886。
	(13)誕生日は1885.10.28(明治18)、戸籍上は明治19。岩手県玉
	山村の常光寺に生れる。
	◆啄木忌[ 4.13]岩手県岩手郡玉山村(タマヤマムラ)渋民の石川啄木
	記念館で啄木祭が行われる。
	◎北海道函館市日乃出町(ヒノデチョウ)に哀愁テーマパーク啄木浪
	漫館がある。
	◎日戸村も渋民村も現在は玉山村の地名、日戸・渋民。
いしかわ たけよし《いしかは たけよし》
	石川 武美
	1887.10.13(明治20)
	1961. 1. 5(昭和36)
	◇主婦の友社の創業者。大分県人。
	 婦人雑誌記者を経て、1916(大正 5)東京家政研究会を創立。
	 1917(大正 6)「主婦之友」を創刊。
	 1921(大正10)東京家政研究会、主婦之友社と改称。
	 1954(昭和29)「主婦の友」と改称。
いしかわ たつぞう
	石川 達三
	1905. 7. 2(明治38)
	1985. 1.31(昭和60)
	◇小説家。秋田県横手町に生れ、岡山県高梁町に移り中学を卒
	業。早稲田大学英文科を学資不足で一年で中退。
	 南米移民をテーマにした『蒼氓(ソウボウ)』でデビュー。代表
	作は『人間の壁』・『金環蝕』など。
いしかわ ちよまつ《いしかは ちよまつ》
	石川 千代松
	1861
	1935(昭和10)
	◇動物学者。江戸生れ。
	 東京大学生物科卒業。ドイツに留学し、ワイズマンに師事。
	帝国大学農科大学教授。
	 ワイスマンの進化論の紹介、生物学・進化論の普及に尽力。
	 魚類学・細胞学を研究。山椒魚を研究し、アユの放流・淡水
	魚養殖事業の創案。
	(4)生年は1860。
	(*)1861(万延 2,文久元)。
いしかわ とよのぶ《いしかは とよのぶ》
	石川 豊信
	1711
	1785(天明 5)
	◇江戸中期の浮世絵師。俗称は孫三郎、号は秀葩、一時西村重
	信と称する、宿屋の主人で、糠屋七兵衛。石川雅望(マサモチ)の父。
	西村重長の門人。
	(*)1711(宝永 8,正徳元)。
いしかわ とらじ
	石川 寅治
	1875. 4. 5(明治 8)
	1964. 8. 1(昭和39)
	◇画家。
いしかわ のぶお
	石川 信雄
	1908. 6.16(明治41)
	1964. 7. 9(昭和39)
	◇歌人。
いしかわ はんざん
	石川 半山
	1872(明治 5. 8.17)
	1925.11.12(大正14)
	◇新聞記者。本名は安次郎。
いしかわ まさもち《いしかは まさもち》
	石川 雅望
	1753(宝暦 3.12.14)
	1830(文政13.閏3.24)
	◇江戸後期の狂歌師・国学者。通称は五郎兵衛、狂名は
	宿屋飯盛(ヤドヤノメシモリ)、別号は六樹園・五老・五老翁。石川豊
	信の末子。一時、江戸所払いとなる。
	(4)日本橋馬喰町の宿屋の主人。
	(6)日本橋小伝馬町の宿屋の主人。
いしかわ みちお
	石川 道雄
	1900.10.23(明治33)
	1959. 2.25(昭和34)
	◇詩人・ドイツ文学者。
いしかわ みつお
	石川 光男
	1918. 8.19(大正 7)
	1981. 4.10(昭和56)
	◇児童文学作家。東京生れ。立正大学を病気で中退。
いしかわ ゆう《いしかは ゆう》
	石川 湧
	1906.11.10(明治39)
	1976.10.31(昭和51)
	◇フランス文学者。
いしかわ りきのすけ《いしかは りきのすけ》
	石川 理紀之助
	1845(弘化 2)
	1915. 9.(大正 4)
	◇明治期最後の老農。羽後の人。
	 秋田県勧業部で稲の品種改良などに努め、また県下の小作調
	停で農業問題の権威となる。
	 1882(明治15)退官。
	 1895(明治28)九州を遊説。
いしかわ りんしろう《いしかは りんしらう》
	石川 林四郎
	1879(明治12)
	1939(昭和14)
	◇英語学者。栃木県生れ。
いしくれ ちまた
	石槫 千亦
	1869(明治 2. 8.26)
	1942. 8.22(昭和17)
	◇歌人。本名は辻五郎(ツジ・ゴロウ)、旧姓は横井。伊予国生れ。
	1895(明治28)石槫利八の養子となる。子息(三男)の五島茂の妻
	は五島美代子。
	(13)石槫 千亦(いしぐれ ちまた)。愛媛県新居郡橘村に横井
	良三郎の次男として生まる。
いしぐろ けいしち
	石黒 敬七
	1897. 8.10(明治30)
	1974.10. 1(昭和49)
	◇随筆家・タレント。
	 戦後のNHKラジオ番組「とんち教室」のレギュラー出演者。
いしぐろ こうへい
	石黒 行平
	1864(文久 4)
	1931. 5. 7(昭和 6)
	◇作詞者。
いしぐろ ただあつ
	石黒 忠篤
	1884(明治17)
	1960(昭和35)
	◇農政官僚。「農政の大御所」といわれる。陸軍軍医総監石黒忠
	悳(タダノリ)の長男。東京生れ。東京大学卒業。
	 農商務省に勤務。小作争議調停法・自作農創設維持政策を推
	進、石黒農政と呼ばれる。
いしぐろ ただのり
	石黒 忠悳
	1845(弘化 2)
	1941(昭和16)
	◇陸軍軍医総監。石黒忠篤(タダアツ)の父。
いしぐろ むねまろ
	石黒 宗麿
	1893(明治26)
	1968(昭和43)
	◇陶芸家。富山県新湊の出身。
	 1955(昭和30)人間国宝に指定。
いしざか ようじろう
	石坂 洋次郎
	1900. 1.25(明治33)
	1986.10. 7(昭和61)
	◇小説家。青森県弘前(ヒロサキ)市田代町生れ。1925(大正14)慶応
	義塾大学文学部国文科卒業。
	(1)誕生日は 7. 2。
	(3)誕生日は 1.25。
	(5)誕生日は 7.25。
	(8)誕生日は戸籍上 7.25、実際は 1.25。
	(11)誕生日は 7.25。
	(13)誕生日は 6. 2。
いしざか ようへい
	石坂 養平
	1885.11.26(明治18)
	1969. 8.16(昭和44)
	◇評論家。別号は二松堂。埼玉県生れ。1913(大正 2)東京大学
	哲学科卒業、美学専攻。1928(昭和 3)以降、三回衆議院議員に
	当選。
いしじま きじろう
	石島 雉子郎
	1887. 8.26(明治20)
	1941. 4.18(昭和16)
	◇俳人。本名は亀次郎(キジロウ)。埼玉県生れ。
いしずか たつまろ
	石塚 竜麿
	⇒いしづか たつまろ(石塚 竜麿)
いしずか ともじ
	石塚 友二
	⇒いしづか ともじ(石塚 友二)
いしだ さんじ
	石田 三治
	1890. 2.18(明治23)
	1919.10.20(大正 8)
	◇評論家。
いしだ とうりょう
	石田 東陵
	1865(慶応元. 1.26)
	1934.12. 6(昭和 9)
	◇漢学者・漢詩人。名は羊一郎、号は東陵。
いしだ ばいがん
	石田 梅岩
	1685(貞享 2. 9.15)
	1744
	◇江戸中期の思想家・石門(セキモン)心学の祖。名は興長、通称は
	勘平、号は梅岩。丹波国桑田郡の農家に生れる。
	 8歳で京都の商家に奉公。23歳で商家黒柳家に奉公。
	 京都の小栗了雲に師事。1729(享保14)45歳で自宅に講席を開
	く。
	(*)1744(寛保 4,延享元)。
いしだ はきょう《いしだ はきやう》
	石田 波郷
	1913. 3.18(大正 2)
	1969.11.21(昭和44)
	◇俳人。本名は哲大(テツオ)。愛媛県松山市生れ。
	 明治大学中退。
	 水原秋桜子(シュウオウシ)に師事。俳誌「馬酔木(アシビ)」の同人。
	 1937(昭和12)「鶴」を創刊主宰。
	 作品は句集『鶴の眼』・『風切』・『惜命(シャクミョウ)』など。
	◆波郷忌(惜命忌)[11.21]句集『惜命』から。
いしだ みきのすけ
	石田 幹之助
	1891.12.28(明治24)
	1974. 5.25(昭和49)
	◇歴史学者。
いしだ みつなり
	石田 三成
	1560(永禄 3)
	1600(慶長 5.10. 1)
	◇安土桃山時代の武将。幼名は佐吉、本名は宗成、別名は三也、
	通称は治部少輔。近江国坂田郡北郷村字石田生れ。隠岐守(地
	頭)石田正継の子。
	 近郊の観音寺で勉学中、豊臣秀吉に見出され、1572(元亀 3)
	13歳で豊臣秀吉に仕える。1583(天正11)賤ヶ岳(シズガタケ)の戦
	で軍功をたてる。
	 1585(天正13)秀吉が関白に任じられた時、従五位下・治部少
	輔となり三成と改名、奉行になる。三成は五奉行の一人で太閤
	検地など経済面に活躍。
	 1587(天正15)九州征伐に従軍。1590(天正18)小田原征伐に従
	い館林・忍(オシ)両城を攻める。文禄・慶長の役では朝鮮に渡り、
	軍需品の輸送(兵站)などに活躍。1595(文禄 4)佐和山城主に封
	ぜられる。
	 1598(慶長 3)秀吉の没後、加藤清正・黒田長政らに弾劾され、
	佐和山城に蟄居。1600(慶長 5)徳川家康の上杉征伐の出陣に当
	り、会津の上杉景勝(カゲカツ)や毛利輝元(テルモト)・宇喜多秀家(ウキ
	タ・ヒデイエ)ら西国大名と謀り、豊臣秀頼(ヒデヨリ)(秀吉の子)を擁
	して挙兵、1600(慶長 5. 9.15)関ヶ原に敗れ(関ヶ原の戦)、捕
	われて京都六条河原で斬首(ザンシュ)。
	◎秀吉に見出されたときの逸話。長浜城主の羽柴秀吉が狩姿で
	寺を訪れ茶を所望した。接待に当った三成は、はじめ大きい茶
	碗にぬるめの茶を七分目ほど入れ、二服目にはやや熱つくして
	半分ほどにし、三服目は小さい茶碗に換えて熱い茶を献じた。
	この気配りに秀吉は感心し、近侍に取り立てたという。
	 また、関ヶ原で逃れて捕われ、浅野幸長(ヨシナガ)や本多正純
	(マサズミ)らに生き恥をさらしたと罵(ノノシ)られたとき、三成は命
	さえあれば家康を討つ機会があるからだと言い放ったという。
	(2)'95(文禄 4)年近江国佐和山城主となり19万4千石を領す。
	(4)佐和山一八万石の城主。
	(6)95年近江(オウミ)佐和山城主として20万余石を領する。
	(16)ついで佐和山城18万6千石を封ぜられた.
	 七条河原で斬られた.
	(17)近江佐和山十九万四千石に封ぜられた。
いしだ みとく
	石田 未得
	1578(天正 6)
	1669(寛文 9)
	◇江戸前期の俳人・狂歌師。江戸の人。松永貞徳の門人。
いじち すすむ《いぢち すすむ》
	井地知 進
	1904. 4.30(明治37)
	1966.11.26(昭和41)
	◇小説家。本名は秋葉三郎。
いしづか えいぞう
	石塚 英蔵
	1866. 9. 1(慶応 2. 7.23)
	1942. 7.28(昭和17)
	◇明治〜昭和前期の官僚。会津藩士の子。
	 1898(明治31)台湾総督府参事官長に就任。のち関東都督民政
	長官・朝鮮総督府農商工部長官。1916(大正 5)東洋拓殖会社総
	裁・同年貴族院議員。
	 浜口内閣により1929 7.30(昭和 4)第13代台湾総督となり、
	1930.10.(昭和 5)霧社事件(台湾少数民族の高砂<タカサゴ>族によ
	る抗日武装蜂起)の責任を取って1931(昭和 6)辞任。
	 1934(昭和 9)より枢密顧問官。
	◎第4代台湾総督児玉源太郎(陸軍)(1898〜1906)は「後藤(新平)
	は民政、石塚は法制、我輩は軍政」と評価した。
いしづか くにやす
	石塚 国保
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の機業家。下野国那須郡興野(キョウノ)村生れ。
	 1750(寛延 3)京都西陣に赴き織布の技術を学び、数年後に郷
	里で織布業を創業。
いしづか じゅうへい
	石塚 重平
	1855.11.19(安政 2.10.10)
	1907. 8.12(明治40)
	◇明治時代の政治家。
いしづか たつまろ
	石塚 竜麿
	1764
	1823. 7.20(文政 6. 6.13)
	◇江戸中期の国語学者。遠江の人。上代特殊仮名遣を発見。
	(*)1764(宝暦14,明和元)。
いしづか ともじ
	石塚 友二
	1906. 9.20(明治39)
	1986. 2. 8(昭和61)
	◇俳人・小説家。新潟県生れ。笹岡高等小学校卒業。
いしづか ほうかいし
	石塚 豊芥子
	1799(寛政11)
	1862. 1.14(文久元.12.15)
	◇江戸後期の雑学者。名は重兵衛、通称は鎌倉屋十兵衛。
	 山東京伝・柳亭種彦・木村黙老らと交流。
	◎神田豊島町で鎌倉屋という芥子を粉にする業を営む。
いじのあざまろ《いぢのあざまろ》
	伊治 砦麻呂
	⇒これはるのきみ あざまろ(伊治公 砦麻呂)
いじのきみ あざまろ《いぢのきみ あざまろ》
	伊治公 砦麻呂
	⇒これはるのきみ あざまろ(伊治公 砦麻呂)
いしのもり しょうたろう《いしのもり しやうたらう》
	石ノ森 章太郎
	1938(昭和13)
	1998. 1.28(平成10)
	◇漫画家。本名は小野寺章太郎、ペンネームは初め石森章太郎。
	宮城県登米郡石森(イシノモリ)町(現:中田町)生れ。
	 小学生の時から「毎日中学生新聞」に四コマ漫画の投稿。県立
	佐沼高校卒業すると上京し豊島区のトキワ荘で漫画生活に入る。
	 1986. 7.(昭和61)漫画家生活30周年を機に石森から石ノ森へ
	改名。
	 代表作は『サイボーグ009』・『009ノ1』・『仮面ラ
	イダー』・『佐武と市捕物控』など。
	◆墓は東京都豊島区池袋3丁目の祥雲寺。
いしばし しあん
	石橋 思案
	1867(慶応 3. 6. 2)
	1927. 1.28(昭和 2)
	◇小説家・編集者。本名は助三郎、別号は雨香・自劣亭(都々
	逸<ドドイツ>)。横浜弁天町生れ。父はオランダ通弁。
	 東京帝国大学予科(法科)に入学、のち文科に移り、のち退学。
	尾崎紅葉らと硯友社を興す。我楽多文庫を創刊。のち博文館に
	入社。
	 脳溢血により死去。
いしばし しょうじろう《いしばし しやうじらう》
	石橋 正二郎
	1889. 2.25(明治22. 1. 2)
	1976. 9.11(昭和51)
	◇実業家・ブリヂストンの創業者。福岡県久留米市生れ。仕立
	屋の子。
	 1906(明治39)久留米商業学校、卒業。
	 1914(大正 3)家業「志まやたび」からアサヒ足袋に改称。
	 1918. 6.(大正 7)日本足袋会社を設立。
	 1923(大正12)実用新案アサヒ地下足袋を発売。
	 1931(昭和 6)ブリッヂストンタイヤを設立。
	 富士精密社長、経済団体連合会・日本経営者団体連盟の常任
	理事を歴任。
	 美術品のコレクターで、1952. 1. 8(昭和27)東京・京橋にブ
	リヂストン美術館を開館。
	◎名前は旧暦の正月二日生れから。
いしばし たつのすけ
	石橋 辰之助
	1909. 5. 2(明治42)
	1948. 8.21(昭和23)
	◇俳人。旧号は竹秋子(チクシュウシ)。東京市下谷区生れ。
	 安田工業学校電機科卒業。
いしばし たんざん
	石橋 湛山
	1884. 9.25(明治17)
	1973. 4.25(昭和48)
	◇経済評論家・政治家。幼名は省三、中学時代の筆名は坐忘。
	東京生れ。早稲田大学哲学科卒業。
	 東洋経済新報の経済評論家、1939(昭和14)社長。
	 第1次吉田茂内閣・第1〜3次鳩山一郎内閣の経済閣僚。
	1956〜1957(昭和31〜昭和32)自由民主党総裁・組閣。病気に倒
	れ総辞職。
	 首相就任:1956.12.23(昭和31)、総辞職:1957. 2.25(昭和32)。
いしばし にんげつ
	石橋 忍月
	1865(慶応元.11. 2)
	1926. 2. 1(大正15)
	◇文芸評論家・小説家・弁護士。本名は友吉、別号は萩の門(ハ
	ギノト)・福洲学人・筑水漁夫(チクスイギョフ)・忍岡隠士・懐郷人・
	嵐山人。山本健吉(石橋貞吉)の父。筑後国上妻郡豊岡村生れ。
	 1891(明治24)東京大学独法科卒業。
	(1)誕生日は 9. 1。
	(3)誕生日は11. 2。
	(5)誕生日は11. 2。別号は福州学人。
	(8)誕生日は 9. 1。
	(11)誕生日は11. 2。別号は福州学人。
	(13)誕生日は11. 2。福岡県八女郡豊岡村湯辺田に生まる。
いしばし ひでの
	石橋 秀野
	1909. 2.19(明治42)
	1947. 9.26(昭和22)
	◇俳人。本名も秀野、旧姓は藪(ヤブ)。奈良県生れ。1929(昭和
	 4)山本健吉(石橋貞吉)と結婚。
	◆秀野忌[ 9.26]。
いしはま きんさく
	石浜 金作(石濱 金作)
	1899. 2.28(明治32)
	1968.11.21(昭和43)
	◇小説家。東京生れ。1924(大正13)東京帝国大学英文科卒業。
いしはら あつし
	石原 純
	1881. 1.15(明治14)
	1947. 1.19(昭和22)
	◇理論物理学者・歌人。号は阿都志(アツシ)、物理学者としては
	純(ジュン)と称した。東京本郷の牧師の家に生れる。石原忍(シノブ)
	の弟、謙(ケン)の兄。
	 東京大学物理学科卒業。1914(大正 3)東北大学教授。1917
	(大正 6)帝国学士院恩賜賞。
	 歌人原阿佐緒(アサオ)との恋愛が社会的反響をよび、1921(大正
	10)東北大学の教授を辞職。
いしはら かんじ《いしはら くわんじ》
	石原 莞爾
	1889(明治22)
	1949(昭和24)
	◇陸軍軍人。陸軍中将。鶴岡市の人。
	 関東軍作戦参謀として板垣征四郎とともに1931(昭和 6)満州
	事変を計画・実行。1936. 6.(昭和11)参謀本部戦争指導課長。
	対中国戦争の反対・対ソ戦争準備を主張、東条秀機と対立する。
	1939(昭和14)右翼団体東亜連盟を設立・指導。東条の策謀によ
	り、1941(昭和16)京都第16師団長をはずされ、予備隊に編入。
	 著書、『世界最終戦争論』など。
	◎『満州国ニ関スル要望』のなかで「戦争準備ノ為満州ニ於ケ
	ル産業ノ飛躍的発展ヲ要望ス」と述べている。
いしはら けん
	石原 謙
	1882(明治15)
	1976(昭和51)
	◇キリスト教史学者。東京生れ。石原忍(シノブ)・純(アツシ)の弟。
	 東京帝国大学卒業。
	 東北大教授・東京女子大学長。
	 著書は『キリスト教の源流』など。
いしはら しのぶ
	石原 忍
	1879(明治12)
	1963(昭和38)
	◇医学者。東京生れ。石原謙(ケン)・純(アツシ)の兄。
	 1905(明治38)東京大学卒業。陸軍軍医となり外科のち眼科を
	専攻。1910(明治43)軍医学校教官・1922〜1940(大正11〜昭和
	15)東京大学医学部の眼科学教授・東京大学名誉教授。
	 石原式視力表・石原式色盲表・視野測定器などを開発。
いしはら しゅうげつ
	石原 舟月
	1892. 3. 7(明治25)
	1984.10.13(昭和59)
	◇俳人。本名は起三郎。山梨県生れ。慶応義塾大学経済学部卒
	業。
	(1)本名は起三郎。
	(5)本名は起之郎(キシロウ)。
いしはら じゅん
	石原 純
	⇒いしはら あつし(石原 純)
いしはら てつろう
	石原 徹郎
	1888. 8.18(明治21)
	1945. 7.30(昭和20)
	◇国文学者。
いしはら ひろいちろう
	石原 広一郎
	1890(明治23)
	1970(昭和45)
	◇実業家。京都府の出身。立命館大学卒業。
	 マライ半島で鉄鉱山を開発、1925(大正14)石原鉱業を設立。
	満州事変以降、海運など事業を拡大、石原コンツェルンを形成。
	神武会・明倫会など右翼を後援。
	 1949(昭和24)追放解除後、石原産業社長に復帰。
いしはら まさあきら
	石原 正明
	1760(宝暦10)
	1821(文政 4)
	◇江戸後期の国学者・歌人。号は蓬堂。尾張の人。
	 本居宣長・塙保己一(ハナワ・ホキイチ)の門に学ぶ。
いしはら ゆうじろう《いしはら ゆうじらう》
	石原 裕次郎
	1934.12.28(昭和 9)
	1987. 7.17(昭和62)
	◇俳優。兵庫県神戸市生れ。政治家石原慎太郎の弟。
	◆墓は神奈川県横浜市鶴見区の総持寺。
いしはら よしろう
	石原 吉郎
	1915.11.11(大正 4)
	1977.11.14(昭和52)
	◇詩人。静岡県生れ。東京外語貿易科卒業。関東軍情報部に配
	属され、戦後はシベリアに抑留。
	(1)没日は11.14。
	(5)没日は11.13。
いしまる きせこ
	石丸 喜世子
	1891. 2.21(明治24)
	1965. 8.19(昭和40)
	◇評論家。本名はキセ。石丸梧平(ゴヘイ)の妻。
いしまる ごへい
	石丸 梧平
	1886. 4. 5(明治19)
	1969. 4. 8(昭和44)
	◇小説家・文芸評論家。大阪府生れ。早稲田大学卒業。
	石丸喜世子(キセコ)の夫。
いしみつ まきよ
	石光 真清
	1868(慶応 4. 8.31)
	1942. 5.15(昭和17)
	◇軍人・諜報活動家。一生の多くを満州・シベリアなどでの諜
	報活動に費やし、厖大な自筆記録を残した。
いしもと みしお
	石本 巳四雄
	1891(明治24)
	1940(昭和15)
	◇地震学者。東京大学実験物理学科卒業。
	 三菱造船に勤務。1925(大正14)地震研究所創設とともに所員
	となる。1928(昭和 3)東京大学教授。1933(昭和 8)地震研究所
	長。
いしもり しょうたろう《いしもり しやうたらう》
	石森 章太郎
	⇒いしのもり しょうたろう(石ノ森 章太郎)
いしもり のぶお
	石森 延男
	1897. 6.16(明治30)
	1987. 8.14(昭和62)
	◇児童文学作家・国語教育学者。札幌市生れ。東京高等師範卒
	業。
	 満州で補充国語読本の編纂や作文雑誌の編集に従事。戦中・
	戦後、国定教科書を編纂。
	 児童文学作品として『花咲く少年群』・『コタンの口笛』な
	ど。
いしやま てつろう
	石山 徹郎
	1888. 8.18(明治21)
	1945. 7.30(昭和20)
	◇国文学者。
いしゅういん ひとし
	伊集院 斉
	1895. 8. 4(明治28)
	1976. 8.21(昭和51)
	◇美学者・小説家・評論家。本名は相良徳蔵(サガラ・トクゾウ)。
いしわら わさぶろう
	石原 和三郎
	1865(慶応元)
	1922. 1.14(大正11)
	◇童謡詩人。号は万岳。
いしわり まつたろう
	石割 松太郎
	1881. 1.24(明治14)
	1936. 6.29(昭和11)
	◇演劇研究家・演劇評論家。
いずのちょうはち《いづのちやうはち》
	伊豆 長八
	1815(文化12)
	1889(明治22)
	◇江戸幕末・明治前期の鏝絵(コテエ)の名工。本名は入江長八。
	伊豆松崎生れ。
	 1826(文政 9)郷里で左官となる。
	 1838(天保 9)江戸の左官源太郎のもとで技術を磨く。傍らで
	狩野派の技法を学び、漆喰(シックイ)による鏝絵の技法を生み出す。
	(19)生年は1815。
	(+)橋戸稲荷神社の立て札によれば、生年は1805(文化 2)。
	◎関東・東海などにあった多数の作品の多くは関東大震災や太
	平洋戦争の戦災で焼失した。
	◎東京都足立区千住橋戸町の橋戸稲荷神社の拝殿前扉に、1863
	(文久 3)制作の夫婦の白狐の彫刻が現存。
いずみ きょうか《いづみ きやうくわ》
	泉 鏡花
	1873.11. 4(明治 6)
	1939. 9. 7(昭和14)
	◇明治〜昭和期の小説家。本名は鏡太郎、別号は畠芋之助(ハタケ
	イモノスケ)。泉斜汀(イズミ・シャテイ)の兄。石川県石川郡金沢町生れ。
	 尾崎紅葉に師事。1899. 1.(明治32)神楽坂<カグラザカ>の芸妓
	桃太郎(伊藤すず)を識る。
	 神秘感が漂う作風で、代表作は『外科室』・『高野聖(コウヤヒジ
	リ)』・『婦系図(オンナケイズ)』など。
いずみ しきぶ《いづみ しきぶ》
	和泉 式部
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の歌人・日記作者。一説に生年 979(天元 2)。父は
	越前守大江雅致(マサムネ)、母は越中守平保衡(ヤスヒラ)の娘。和泉守
	橘道貞(ミチサダ)と結婚し、「和泉式部」と呼ばれる。二人の間に
	小式部内侍(コシキブノナイシ)が生れるが、式部の恋愛事件により道
	貞と離別。再び藤原保昌(ヤスマサ)に嫁す。藤原道長に「うかれめ」
	と揶揄(ヤユ)されている。
	 歌で赤染衛門(アカゾメ・エモン)と並び称される。
	◆和泉式部忌[ 3.21]京都市中京区新京極の誠心院。
いずみ しゃてい
	泉 斜汀
	1880. 1.31(明治13)
	1933. 3.30(昭和 8)
	◇小説家。本名は豊春。金沢生れ。泉鏡花(イズミ・キョウカ)の弟。
	(3)誕生日は 1.30。
	(5)誕生日は 1.31。
	(8)誕生日は 1.31。
	(11)誕生日は 1.?。
いずみ てんろう
	泉 天郎
	1887. 1.22(明治20)
	1948. 2. 4(昭和23)
	◇俳人。
いずみ みつる
	泉 充
	1908. 5.29(明治41)
	1947.10.30(昭和22)
	◇批評家。
いずみの せいいち
	五十公野 清一
	1902. 2.26(明治35)
	1966. 6.25(昭和41)
	◇小説家。
いずみもと みき
	泉本 三樹
	1904. 6.15(明治37)
	1970.10.21(昭和45)
	◇小説家・児童文学者。
いずもじ のぶなお
	出雲路 信直
	1650(慶安 3. 3. 2)
	1703(元禄16)
	◇江戸中期の神道家(垂加)。通称は民部。神号は八塩道翁。
いずものおくに《いづものおくに》
	出雲 阿国
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の阿国歌舞伎の創始者・歌舞伎芝居の祖。名は
	国(クニ)。
	 もと出雲大社の巫女(ミコ)と称し一座を組織。1601(慶長 6)女
	院御所で「ややこ踊り」を踊る。1603(慶長 8)京都北野神社・加
	茂河原で念仏踊を興行し人気を集めた。この年、阿国の愛人の
	名古屋山三郎が喧嘩で死亡。
	 1604(慶長 9)伊勢桑名に、1607(慶長12)江戸城中で興行。
	 その後消息を絶ち、1612(慶長17)北野に現れ、山三郎の亡霊
	を登場させる構成で話題になる。のち再び消息を絶つ。
	 やがて全国の遊女がこれをまね、女歌舞伎の全盛を招いたが、
	1629(寛永 6)禁止。
	◆阿国忌[ 4.15]
	(2)生没年不詳。出身地は不詳である。
	(4)生年記載なし。没年は一六○七年(慶長一一)以後。
	(6)生没年不詳。
	(16)生年は1572(元亀 3)、没年不詳。
	 松江の鍛冶職中村三右衛門の女。
	(17)生没年不詳。天正元年(一五七三)ごろに生まれ、……。
	 出自に関しても、(1)出雲(出雲大社の巫女あるいは大社の鍛
	冶職の娘)、(2)大和興福寺に隷属する声聞師のアルキ巫女、(3)
	京出雲路の幸神(サイノカミ)社に属する時衆の鑿打聖(カヌチヒジリ)の娘
	などの説があるが定説はない。
いせ
	伊勢
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安前期の歌人。小野小町と双璧。伊勢守藤原継蔭(ツギカゲ)
	の娘。伊勢の御(イセノゴ)と称した。
いせ さだたけ
	伊勢 貞丈
	1717(享保 2)
	1784(天明 4. 6. 5)
	◇江戸中期の幕臣・故実家。貞丈(テイジョウ)とも、通称は平蔵、
	号は安斎。伊勢流礼法家貞益の子。江戸の人。
	 10歳で家督を継ぐ。
	 大塚嘉樹(ヨシキ)(蒼梧<ソウゴ>)と並び称される。
	(2)生年は1717(享保 2)。
	(4)生年は1717。
	(6)生年は1717。
	(16)生年は1715(正徳 5)。
いせ さだつぐ
	伊勢 貞継
	1309(延慶 2)
	1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)
	◇室町前期の幕府政所(マンドコロ)執事。法名は照禅。伊勢盛継の
	子。
	 1379年、伊勢氏最初の政所執事となり、以後世襲化。
	(*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)
いせ しんくろう
	伊勢 新九郎
	⇒ほうじょう そううん(北条 早雲)
いせ ていじょう
	伊勢 貞丈
	⇒いせ さだたけ(伊勢 貞丈)
いせ ながうじ
	伊勢 長氏
	⇒ほうじょう そううん(北条 早雲)
いせのたいふ
	伊勢 大輔
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安中期の歌人。神祇伯(ジンギハク)祭主大中臣輔親(オオナカトミノス
	ケチカ)の娘。
いそ ひょうすい
	磯 萍水
	1880. 1.15(明治13)
	1967.11.25(昭和42)
	◇小説家。本名は清。
いそがい うんぽう
	磯貝 雲峯
	1865(慶応元. 6.)
	1897.11.11(明治30)
	◇詩人。本名は由太郎、旧姓は内田、磯貝は母方の姓。上野国
	九十九(ツクモ)村、現在の群馬県松井田町内の生れ。1889(明治22)
	同志社大学卒業。
	(13)群馬県碓氷九十九村大字下増田字百石に生まれ、……。
いそがい じゅうろうざえもん《いそがひ じふらうさゑもん》
	磯貝 十郎左衛門
	⇒いそがい まさひさ(磯貝 正久)
いそがい まさひさ《いそがひ まさひさ》
	磯貝 正久
	1679(延宝 7)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。新参の赤穂藩士、物頭・側用人、禄高
	150石。幼名は門六(モンロク)、通称は十郎左衛門(ジュウロウザエモン)、
	戒名は刃周求剣信士。江戸生れ。
	 父権左衛門(ゴンザエモン)と懇意であった堀部弥兵衛(ホリベ・ヤヘエ)
	の推挙で赤穂城主浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)の小姓とな
	る。1701(元禄14. 3.14)の刃傷事件の後、死を覚悟して国許に
	行ったが、開城と決まり江戸に立ち帰る。芝の源助(ゲンスケ)町
	に母方の姓を使い内藤十郎左衛門と名乗って仇討ちの機会を狙
	う。その後、吉田忠左衛門(ヨシダ・チュウザエモン)の仲介で片岡源五
	右衛門(ゲンゴエモン)高房(タカフサ)とともに盟約に加わり同志たちと
	行動を共にする。
	 討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、
	吉富五左衛門(ヨシトミ・ゴザエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
いそだ こういち
	磯田 光一
	1931. 1.18(昭和 6)
	1987. 2. 5(昭和62)
	◇文芸評論家。横浜生れ。東京大学英文科卒業。
いそだ こりゅうさい
	磯田 湖竜斎
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の浮世絵師。名は正勝、俗称は庄兵衛、鈴木春信と
	親交して強く影響を受け一時春広と号する。
	 18世紀後半の明和・安永期に制作。美人画や役者絵の版画を
	作り、晩年は肉筆画に専念。
いその しゅうしょ
	磯野 秋渚
	1862(文久 2. 8.20)
	1933. 1.23(昭和 8)
	◇漢詩人・書家。名は惟秋、字は秋卿、通称は於菟介(オトスケ)、
	号は秋渚。
いその とくさぶろう
	磯野 徳三郎
	1857(安政 4. 2.24)
	1904. 8.11(明治37)
	◇評論家・翻訳家。号は依緑軒(イリョクケン)主人・無腸道人・竹翠。
	筑後国生れ。東京大学理学部卒業。
いそのかみ つゆこ
	石上 露子
	1882. 6.11(明治15)
	1959.10. 8(昭和34)
	◇歌人。本名は杉山孝子(戸籍はタカ)。筆名に「ふゆちどり」が
	ある。
いそのかみのまろ
	石上 麻呂
	 640[舒明12]
	 717(霊亀 3)
	◇奈良初期の廷臣。大連物部目(ノノノベノメ)の子孫。左大臣正二
	位。
いそのかみのやかつぐ
	石上 宅嗣
	 729
	 781(天応元. 6.24)
	◇奈良時代の貴族・漢学者。石上乙麻呂(オトマロ)の子、石上麻呂
	の孫、石上氏の始祖。
	 藤原仲麻呂を除こうとして失脚、のち復官する。 780(宝亀
	11)大納言正三位。
	 文人として淡海三船(オウミノミフネ)と並び称される。
	 晩年、旧宅を阿(「閃」の下に「从」:補助7011)寺(アシュクジ)に改
	築、寺内に日本最初の図書館である芸亭(ウンテイ)院を設置。
	(*) 729(神亀 6,天平元)。
いそり こうたろう
	五十里 幸太郎
	1896. 4.13(明治29)
	1959. 5.25(昭和34)
	◇小説家・評論家。
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