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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6037.02

                 人   名   辞   典    《いは》     編集:獨  澄旻

-------- いは --------------------------------------------------
いば そうたろう
	伊庭 想太郎
	1851(嘉永 4)
	1903(明治36)
	◇明治後期の剣客。江戸生れ。幕府講武所剣術指南伊庭軍兵衛
	の次男、八郎の弟。
	 私塾文友館を開く。のち東京農学校の校長。日本貯蓄銀行の
	設立に参与。
	 1901. 6.21(明治34)東京市役所において星亨(トオル)を刺殺。
	無期徒刑となり小菅監獄で病没。
いば たかし
	伊庭 孝
	1887.12. 1(明治20)
	1937. 2.25(昭和12)
	◇演出家・劇作家・音楽評論家。東京生れ。同志社中退。
いば ていごう
	伊庭 貞剛
	1847. 2.19(弘化 4. 1. 5)
	1926.10.23(大正15)
	◇明治時代の実業家。近江国蒲生郡武佐村(現:滋賀県近江八幡
	市)生れ。住友家筆頭番頭の広瀬宰平(サイヘイ)の甥。
	 1900〜1904(明治33〜明治37)総理事。
いば はちろう
	伊庭 八郎
	1843(天保14)
	1869(明治 2. 5.12)
	◇江戸幕末・維新期の幕臣。江戸下谷御徒町生れ。幕府講武所
	剣術指南伊庭軍兵衛の長男、想太郎の兄。
	 1843(天保14)新設の遊撃隊士に編入され、1868(慶応 4)鳥羽
	・伏見の戦で奮戦、負傷して江戸に帰る。人見勝太郎ら同志と
	海路真鶴に渡り、箱根に出て官軍の背後を衝くが、敗れて左腕
	を失う。彰義隊に加わり敗れて、箱館の榎本武揚軍に合流。翌
	年 4. 9肩と腹に銃傷を受ける。
	◎伊庭の小天狗と呼ばれた。
	 辞世の句は「まてよ君迷途も友と思ひしにしばしおくるるめ
	身こそつらけれ」。
いは ふゆう
	伊波 普猷
	1876(明治 9)
	1947(昭和22)
	◇言語学者。沖縄那覇の人。東京大学国文科卒業。
	 1910(明治43)沖縄県立図書館の初代館長。1925(大正14)上京
	し、琉球語・沖縄史・沖縄の歌謡(おもろ)を研究。
いばの とくぞう
	井葉野 篤三
	1902.10.11(明治35)
	1946. 3.10(昭和21)
	◇小説家。本名は徳造。
いはら さいかく《ゐはら さいかく》
	井原 西鶴
	1642(寛永19)
	1693(元禄 6. 8.10)
	◇江戸前期の俳諧師・浮世草子作者。本名は平山藤五、別号は
	鶴永・四千翁・二万翁・二万堂・西鵬(サイホウ)。軒号は松風軒の
	ち松寿軒。オランダ西鶴と異名される。大坂の町人の家に生れ
	る。
	 はじめ松永貞徳(テイトク)を祖とする貞門派に入り、鶴永と号す
	る。31歳の時、西山宗因(ソウイン)の談林派に転じ、宗因の別号西
	翁(サイオウ)から一字をもらい西鶴と号し、俳人として活躍。俳諧
	を多作する「矢数(ヤカズ)俳諧」を始める。
	 1675(延宝 3. 4. 3)妻が25歳でなくなり3人の子が残される。
	 1681年、『難波の皃(カオ)は伊勢の白粉』を出版。1682(天和
	 2)『好色一代男』など、浮世草子を勢力的に出版。
	 1684年、住吉神社で矢数俳諧を興行して23,500を独吟し、二
	万翁と称する。
	 他の代表作は『好色一代女』・『好色五人女』・『武道伝来
	記』・『日本永代蔵』・『世間胸算用』『本朝二十不孝』など。
	◆西鶴忌[旧暦 8.10]。
	 大阪誓願寺に没日を記した日月牌が残されている。
	(11)井原は母の姓か。
	(*)1681(延宝 9,天和元)、1684(天和 4,貞享元)。
いはら せいせいえん《いはら せいせいゑん》
	伊原 青々園
	1870(明治 3. 4.24)
	1941. 7.26(昭和16)
	◇演劇評論家・劇作家・小説家。本名は敏郎。出雲国松江生れ。
	 上京し第一高等学校に入学・中退。新聞記者。1900(明治33)
	三木竹二と雑誌「歌舞伎」を創刊・編集。
	 著書は脚本『出雲の阿国』や『日本演劇史』・『近世日本演
	劇史』・『明治演劇史』など。
いばらぎ いのきち
	茨木 猪之吉
	1888. 5. 1(明治21)
	1944.10. 2(昭和19)
	◇画家。旧姓は影山伊之吉、一時、不仙と号す。山岳画家とし
	て著名。没日は穂高に向かい消息を絶った日。
いぶか かじのすけ
	井深 梶之助
	1854
	1940(昭和15)
	◇プロテスタントの教育家。会津藩校学頭の井深宅右衛門の長
	男。
	 S.R.ブラウンの東京一致神学校(のち明治学院)卒業。1890
	(明治23)米国留学。1891(明治24)明治学院の総理。
	 山県有朋(ヤマガタ・アリトモ)内閣の宗教教育抑圧に抵抗。
	(*)1854(嘉永 7,安政元)。
いぶき しん
	伊吹 震
	1888. 8. 3(明治21)
	1961. 3.31(昭和36)
	◇昭和期の実業家。長崎県生れ。藤山雷太の養子先の実子、藤
	山愛一郎の異母兄。
	 1910(明治43)東京大学工科に入学、経済科に転じて、1915
	(大正 4)卒業。
	 三井物産に入社。のち甜菜(テンサイ)糖業の開発に志し朝鮮製糖
	創立に参画し役員となり、1918(大正 7)同社の合併先大日本製
	糖(社長は父雷太)の取締役、1922(大正11)常務取締役、1933
	(昭和 8)社長、1934(昭和 9)社長職を弟愛一郎に譲る。
	 鮎川義介系の日産火災・日産生命保険の各社長を歴任、日産
	コンツェルンの中心的存在となる。
	 太平洋戦争後、公職追放解除後に神港製粉社長。
いぶき とおる《いぶき とほる》
	伊吹 とおる
	1919. 1. 5(大正 8)
	2002.11.14(平成14)
	◇作詞家。本名は唐崎正春(カラサキ・マサル)。
いふくべ たかてる
	伊福部 隆輝
	1898. 5.21(明治31)
	1968. 1.10(昭和43)
	◇詩人・評論家・宗教研究家(老子)。別名は伊福部隆彦。
いぶせ ますじ
	井伏 鱒二
	1898(明治31)
	1993(平成 5)
	◇昭和期の小説家。本名は満寿二。
	 早稲田大学在学中から小説を書きはじめ、中退。
	 太平洋戦争中、報道班員としてシンガポール(昭南市)へ行く。
	昭南日本学園で日本歴史を講義。
	 1966(昭和41)文化勲章受賞。
	◎1941(昭和16)『ドリトル先生アフリカ行』(白林少年館)は、
	ドリトル先生シリーズの日本初訳。
いぶり いぞう
	飯降 伊蔵
	1813(文化10)
	1907(明治40)
	◇明治時代の宗教家(天理教)。大工出身。
いま はるべ
	伊馬 春部
	1908. 5.30(明治41)
	1984. 3.17(昭和59)
	◇劇作家・小説家。本名は高崎英雄、筆名は伊馬鵜平(ウヘイ)、
	戦後は春部と改名。福岡県生れ。国学院大学卒業。
いまい くにこ
	今井 邦子
	1890. 5.31(明治23)
	1948. 7.15(昭和23)
	◇歌人。本名は「くにえ」、旧姓は山田。徳島市生れ。父は山田
	邦彦で長野県下諏訪の人。三歳で下諏訪に移住、諏訪高等女学
	校卒業。1911(明治44)今井健彦と結婚。
いまい けいしょう《いまゐ けいしよう》
	今井 慶松
	1871(明治 4)
	1947(昭和22)
	◇箏曲(ソウキョク)演奏家・作曲家。本名は新太郎。横浜生れ。
	 山勢松韻に師事。東京音楽学校教授・日本三曲協会会長・山
	田流箏曲協会会長。
いまい じかん《いまゐ じかん》
	今井 似閑
	1657(明暦 3)
	1723(享保 8)
	◇江戸中期の国学者。酒商で大文字屋市兵衛という。京都の人。
	 下河辺長流・契沖に学ぶ。
いまい そうきゅう《いまゐ そうきう》
	今井 宗久
	1520(永正17)
	1593(文禄 2)
	◇安土桃山時代の茶人。
	 初め大和今井に住む。堺の武野紹鴎(タケノ・ジョウオウ)に茶を学び、
	娘婿となる。第9代将軍足利義尚(ヨシヒサ)に仕え、大蔵卿と称す
	る。のち織田信長に仕え、千利休(センノリキュウ)・津田宗及(ソウキュウ)
	とともに茶頭(サジュウ)となる(三大宗匠)。豊臣秀吉にも仕え、
	1587(天正15.10.1)秀吉主催の北野大茶会を後見。
いまい としき
	今井 登志喜
	1886(明治19)
	1949(昭和24)
	◇西洋史学者。長野の人。東京大学教授。
いまい はくよう
	今井 白楊
	1889.12. 3(明治22)
	1917. 8. 2(大正 6)
	◇詩人。本名は国三(クニゾウ)、別号は太原冬夜(タハラトウヤ)、夏明。
	鹿児島県生れ。早稲田大学英文科卒業。犬吠崎(イヌボウザキ)君ヶ
	浜で遊泳中、友人三富朽葉(ミトミ・クチハ)と溺死。
いまい ふくじろう
	今井 福治郎
	1901. 7. 2(明治34)
	1968. 1.23(昭和43)
	◇歌人。号は白水。
いまいずみ いっぴょう
	今泉 一瓢
	生年不詳
	1901(明治34)
	◇明治の錦絵師。福沢諭吉の姉の長男。1884(明治17)諭吉のア
	イデアによる錦絵漫画『北京夢枕』を描く。同年、慶応義塾卒
	業。1885(明治18)から1889(明治22)まで渡米、貿易業のかたわ
	ら絵を修業。帰国後、時事新報社に入社。
いまいずみ かいちろう
	今泉 嘉一郎
	1867(慶応 3)
	1941(昭和16)
	◇製鉄技術者。群馬県生れ。
	 1892(明治25)東京大学卒業。八幡製鉄所・日本鋼管の建設を
	指導。
いまいずみ さだすけ
	今泉 定助
	1863(文久 3. 2. 9)
	1944. 9.11(昭和19)
	◇明治〜昭和前期の教育家・神道家。
	 1934(昭和 9)血盟団の特別弁護人。
いまがわ うじざね
	今川 氏真
	1538(天文 7)
	1614(慶長19.12.28)
	◇戦国時代の武将。上総介。今川義元(ヨシモト)の嫡子、母は武田
	信虎(ノブトラ)の娘。
	 1560(永禄 3)桶狭間(オケハザマ)の戦で父義元が敗死し家督を相
	続。松平元康(モトヤス)(徳川家康)が離反し、三河(ミカワ)を制圧さ
	れる。
	 1568(永禄11)末、武田信玄(シンゲン)が駿河(スルガ)に、徳川家
	康が遠江(トオトウミ)に侵攻、北条氏を頼り駿東(スントウ)郡戸倉(トクラ)
	に移る。
	 のち家康を頼り武蔵品川に屋敷を与えられる。
いまがわ さだよ
	今川 貞世
	⇒いまがわ りょうしゅん(今川 了俊)
いまがわ のりただ
	今川 範忠
	生年不詳
	1455
	◇室町前期の武将。幼名は彦五郎、通称は民部大輔。今川範政
	(ノリマサ)の長男、弥五郎(範勝)・千代秋丸の兄。
	 1432(永享 4)病床の範政は正室の子千代秋丸に家督を譲ろう
	とするが幕府が退け、彦五郎(範忠)は弥五郎・千代秋丸と国人
	層を巻き込み争う。翌年範政が亡くなると、将軍足利義教(ヨシノ
	リ)が範忠に家督を認め民部大輔に任じる。駿河守護として入国
	し一族の長老今川貞秋と協力し、範忠擁立に反対した有力国人
	の狩野・富士らを討伐、領国を固める。
	 1438(永享10)義教の命により小笠原政康とともに上杉憲実(ノ
	リザネ)援助の名目で鎌倉公方足利持氏討伐に出兵(永享の乱)。
	1439(永享11)持氏の遺党による結城合戦には斯波持種の幕府軍
	に協力。
	 1455年の持氏の子氏成の挙兵には鎌倉を攻めて氏成を古河に
	追う。
	(*)1455(享徳 4,康正元)。
いまがわ よしもと《いまがは よしもと》
	今川 義元
	1519(永正16)
	1560(永禄 3. 5.19)
	◇戦国時代の大名。法名は承芳。今川氏親の三男、氏真(ウジザ
	ネ)の父。
	 はじめ出家していたが、兄氏輝が没すると、還俗して家督を
	継ぎ駿河守となる。
	 駿河・遠江(トオトウミ)さらに1549(天文18)三河地方を加え勢力
	を振う。武田信玄・北条氏康と和睦して東方を固める。
	 1560(永禄)織田信長を討ち京都に向おうとする途中、桶狭間
	(オケハザマ)で信長の急襲を受け敗死。
	 検地・1553(天文22)法度(ハット)の追加(『今川仮名目録』)な
	ど内政を整備。
いまがわ りょうしゅん《いまがは れうしゆん》
	今川 了俊
	1325(正中 2)
	1420(応永27. 8.)
	◇室町前期の守護・歌人。名は源金吾・貞世(サダヨ)、法号は
	椙月徳翁了俊(リョウシュン)。今川範国(ノリクニ)の次男、仲秋の兄。
	 第2代将軍足利義詮(ヨシアキラ)・第3代義満(ヨシミツ)に仕え、遠
	江守護。1370(<南>建徳元,<北>応安 3)九州探題に任命され、
	翌年九州に赴き、九州の豪族を制圧。和寇(ワコウ)の取締りにも
	努力。1395(応永 2)義満に召還され駿河守護。召還理由は謀反
	の疑いといわれる。
	(2)生年は1325(正中 2)。
	(4)生年は1325。
	(6)生年は1326。
	(16)生没年不詳。
	◎仲秋を訓戒するために書いた家訓は、江戸時代『今川帖』と
	呼ばれ子供の手習本・修身書として盛んに用いられた。
いまきた こうせん
	今北 洪川
	1816(文化13. 7.10)
	1892. 1.16(明治25)
	◇幕末・明治前期の禅僧(臨済宗)。名は真三郎、諱は宗温、字
	は洪川、号は蒼龍窟・虚舟。大阪生れ。
	◎釈宗演(シャク・ソウエン)の師。
いまきのあやひと みん
	新漢人 旻
	⇒みん(旻)
いまだ きんご
	今田 謹吾
	1897. 2.20(明治30)
	1972.11.16(昭和47)
	◇児童文学者・劇作家・画家。旧姓は津田、母方をつぐ。
いまなか ふうけい
	今中 楓溪
	1883. 4.20(明治16)
	1963. 8.17(昭和38)
	◇歌人。本名は保次朗。民謡『野崎小唄』を作る。
いまにし りゅう
	今西 竜
	1875(明治 8)
	1931(昭和 6)
	◇歴史学者。岐阜県の人。朝鮮古代史を専攻。
	 京都大学教授・京城大学教授。
いまの けんぞう
	今野 賢三
	1893. 8.26(明治26)
	1969.10.18(昭和44)
	◇小説家。本名は賢蔵。秋田県土崎生れ。活動写真の弁士をす
	る。
いまむら あきつね
	今村 明恒
	1870(明治 3)
	1947(昭和22)
	◇地震学者。鹿児島県生れ。
	 1894(明治27)東京大学卒業。のち東京大学教授。東京大学地
	震学科教室主任・地震研究所所員・1929(昭和 4)地震学会初代
	会長。
いまむら しこう
	今村 紫紅
	1880(明治13)
	1916(大正 5)
	◇日本画家。本名は寿三郎。横浜市生れ。
	 1895(明治28)ころ山田馬介に英国風水彩画を学び、1897(明
	治30)松本楓湖(フウコ)に師事。1901(明治34)安田靫彦(ユキヒコ)らと
	紫紅会(のち紅児会)を組織。1914(大正 3)院展再興(日本美術
	院)の同人。
	 代表作は『近江八景』・『熱国の巻』など。
いよのくめべ おだて
	伊与来目部 小楯
	生年不詳
	没年不詳
	◇5世紀後半の播磨国司。名は山部小楯・磐楯。
	  481(清寧天皇 2)針間国宰(ハリマノクニノミコトモチ)として新嘗祭の供
	料を徴収に播磨国に下る。供応の席で弘計王(オケオウ)が歌に託し
	て素性を明らかにし、磐坂市辺押磐(イワサカノイチノヘノオシワ)王子の遺
	児億計王(オケオウ)・弘計王を発見。
	  485年、顕宗天皇(弘計王)から山部連を授かる。
いらこ すずしろ
	伊良子 清白
	1877.10. 4(明治10)
	1946. 1.10(昭和21)
	◇詩人・医師。本名は暉造(テルゾウ)、別号は「すずしろのや」・
	蘿月、清白(セイハク)とも。鳥取県八頭(ヤズ)郡八上(ヤカミ)村(現:河
	原町曳田<ヒケタ>)生れ。京都府立医学校卒業。
	 三重県鳥羽町で医業のかたわら詩作。文庫派の詩人。作品は
	『孔雀船』(1906<明治39>刊)など。
いらこ せいはく
	伊良子 清白
	⇒いらこ すずしろ(伊良子 清白)
いりえ くいち
	入江 九一
	1837. 5. 9(天保 8. 4. 5)
	1864. 8.20(元治元. 7.19)
	◇江戸幕末の尊王攘夷運動の志士。本名は弘致・弘毅(ヒロタケ)、
	字(アザナ)は子遠、通称は万吉・喜一・杉蔵・九一、雅号は松白、
	変名は河島小太郎。長門国萩土原村生れ。萩藩足軽入江嘉伝次
	の長男、母は村上与三右衛門の長女満智、野村靖(ヤスシ)(和作)
	の兄。
	 13歳のころ藩の下役に就く。
	 1856(安政 3. 7.14)父が死去し、1857(安政 4. 3.)江戸藩邸
	の下働きをしながら学問に励(ハゲ)む。
	 1857(安政 4)江戸から飛脚として帰郷した際、吉田松陰(ショウ
	イン)を知り、1858(安政 5. 7.)松下村塾に入門。江戸に出て、
	老中間部詮勝(マナベ・アキカツ)の暗殺計画に加わるが失敗し未遂。
	 1861(文久元. 2.)藩命により水戸藩内で天狗党の動向を探索。
	 1859(安政 6)獄中の松陰の指示で尊王攘夷運動に奔走し、幕
	吏に探知されて藩により投獄。
	 1863(文久 3. 1.)尊王攘夷に転じた藩により地方組足軽から
	終身士雇(一代無給通士)に昇格。
	 1863(文久 3. 2.)杉山松助・山県小輔(有朋)らと上京。
	 1863(文久 3. 3.)中山忠光の京都脱走に従い、萩に帰郷。
	 1863(文久 3. 6.)高杉晋作の奇兵隊創設に下関で尽力。
	 1864(元治元)上京し京坂地方に潜伏して探索。七月の蛤御門
	(ハマグリ)の変で久坂玄瑞(クサカ・ゲンズイ)に従い山崎の天王山に陣
	取り、浪士隊参謀として鷹司邸内で奮戦。久坂の戦死に際し、
	被弾して重傷を負いその場で切腹。
	◎久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿(トシマロ)とともに前原一誠(マエバ
	ラ・イッセイ)に換えて「四天王」とも呼ばれる。
	◆墓は山口県萩市北古萩の長寿寺。
	 首塚は京都府京都市上京区北鞍馬口の上善寺(越前藩の菩提
	寺)。
[1]いわい はんしろう《いはゐ はんしらう》
	岩井 半四郎(初世)
	1652
	1699(元禄12)
	◇歌舞伎俳優。大坂の座元・立役(タチヤク)。
	(*)1652(慶安 5,承応元)。
[2]いわい はんしろう《いはゐ はんしらう》
	岩井 半四郎(四世)
	1747(延享 4)
	1800(寛政12)
	◇歌舞伎俳優。女方(オンナガタ)。屋号は大和屋。
	 江戸に移り、お多福半四郎と呼ばれる。
[3]いわい はんしろう《いはゐ はんしらう》
	岩井 半四郎(五世)
	1776(安永 5)
	1847(弘化 4)
	◇歌舞伎俳優。女方(オンナガタ)。初め粂三郎。屋号は大和屋。四
	世の子。
	 鶴屋南北の世話物を得意とし、美貌から目千両(メセンリョウ)と呼
	ばれる。晩年は杜若(トジャク)と名乗る。
いわがみ じゅんいち
	岩上 順一
	1907. 1. 2(明治40)
	1958. 8.14(昭和33)
	◇文芸評論家・翻訳家。本姓は野村。山口県生れ。
	 1929(昭和 4)早稲田大学英文科に入学したが、左傾し非合法
	活動に従事し、中退。1934(昭和 9)三度目の検挙、翌年転向し
	て出所。この間に岩上家に移籍される。1940(昭和15)東京外語
	学校ロシア語科専修科卒業。
	(2)岩上 順一(いわがみ じゅんいち)。
	(5)岩上 順一(いわかみ じゅんいち)。
	(11)岩上 順一(いわかみ じゅんいち)。
	(13)岩上 順一(いわがみ じゅんいち)。
いわき じゅんたろう
	岩城 準太郎
	1878. 3.12(明治11)
	1957. 4. 9(昭和32)
	◇国文学者。
	(8)誕生日は 3.11。
いわき つつじ
	岩木 躑躅
	1881. 7.26(明治14)
	1971.11. 4(昭和46)
	◇俳人・接骨医。本名は喜市、別号は「つつじ」。
いわくら ともみ《いはくら ともみ》
	岩倉 具視
	1825(文政 8. 9.15)
	1883. 7.20(明治16)
	◇明治維新の功臣・公家政治家。公家堀川康親の二子。岩倉具
	慶の養子、具定(トモサダ)の父。京都の人。
	 1857(安政 4)孝明天皇の侍従。1858(安政 5. 1.)老中堀田正
	睦(マサヨシ)が日米修好通商条約の勅許を求めて自ら上京、公卿が
	結束して反対し失敗させる。
	 はじめ孝明天皇の妹和宮(カズノミヤ)内親王の徳川家降嫁など公
	武合体に尽力。尊攘派から弾劾され、洛北の岩倉村に謹慎。こ
	のとき土佐藩士坂本竜馬・中岡慎太郎が薩長連合の計画をもっ
	て訪ねている。のち討幕の中心となり、1867(慶応 3)大久保利
	通らと王政復古のクーデターを行う。12. 8蟄居が許され参朝
	を命ぜられる。
	 維新後、参与・右大臣に就任。条約改正の準備のため、1871
	(明治 4.11.12)横浜を発ち欧米に渡り、1873. 9.13(明治 6)帰
	国。西郷隆盛らの征韓論を阻止し、民権運動に対して井上毅(コ
	ワシ)に欽定憲法を起草させるなど、内政の強化充実・近代天皇
	制の確立に努める。
	 国葬。
	(6)1854年孝明天皇の侍従。
	◎1874. 1.14(明治 7)夜、右大臣岩倉具視が征韓論を支持する
	旧土佐(高知県)士族に襲われて負傷(赤坂喰違の変)。
いわぐろ ひでお
	岩畔 豪雄
	1897(明治30)
	1970(昭和45)
	◇昭和前期の陸軍少将。広島県生れ。陸軍大学校第30期卒業。
	1932(昭和 7)関東軍参謀、以後、参謀本部員・対満事務局事務
	官・陸軍省兵務局課員、1938(昭和13)陸軍省軍事課の高級課員、
	1939(昭和14)より1941. 2.(昭和16)まで軍事課長。同年三月、
	日米開戦前に戦争を回避するため、民間人井川忠雄と渡米、野
	村吉三郎駐米大使の特別補佐官として交渉に陸軍の意向を反映
	させる。帰国後、近衛歩兵第五連隊長、1942(昭和17)インド独
	立協力機関長、1943(昭和18)陸軍少将・第25軍参謀副長兼軍政
	監部総務部長、1944(昭和19)第28軍参謀長を歴任。
	◎井川忠雄(いかわ ただお)、元大蔵省財務官として滞米七年、
	当時は産業組合中央金庫理事。
いわさ かつもち
	岩佐 勝以
	1578(天正 6)
	1650(慶安 3)
	◇江戸初期の画家。別名は又兵衛、浮世又兵衛と渾名(オダナ)さ
	れる。伊丹城主荒木村重(ムラシゲ)の末子。
	 1578(天正 6)織田信長に一族は伊丹城を追われる。又兵衛は
	母方の越前岩佐氏に養われる。織田信雄の小姓を勤めながら絵
	を学ぶ。1637(寛永14)幕府に招かれ江戸に下り、川越東照宮に
	歌仙絵額を制作。江戸で没する。
いわさ さくたろう
	岩佐 作太郎
	1879. 9.25(明治12)
	1967. 2.12(昭和42)
	◇アナーキスト。
いわさ とういちろう
	岩佐 東一郎
	1905. 3. 8(明治38)
	1974. 5.31(昭和49)
	◇詩人・随筆家。東京生れ。法政大学仏文科卒業。
	(1)没日は 5.11。
	(5)没日は 5.31。
	(8)没日は 5.31。
いわさ またべえ《いはさ またべゑ》
	岩佐 又兵衛
	⇒いわさ かつもち(岩佐 勝以)
いわさき あきら
	岩崎 昶
	1903.11.18(明治36)
	1981. 9.16(昭和56)
	◇映画評論家。東京生れ。1927(昭和 2)東京帝国大学独文科卒
	業。
	 1929(昭和 4)日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)に加入。
	1939(昭和14)治安維持法違反で逮捕され、出獄後は満州映画協
	会嘱託。
	 1946(昭和21)日本映画社(日映)の局長となり、亀井文夫らと
	製作した『日本の悲劇』がGHQにより公開禁止となる。
いわさき こやた
	岩崎 小弥太
	1879. 8. 3(明治12)
	1945.12. 2(昭和20)
	◇実業家・三菱財閥の主宰者(4代目)。岩崎弥之助の長男。東
	京神田生れ。学習院・第一高等学校を経て東京大学法科中退。
	1905(明治38)ケンブリッジ大学卒業。
	 従兄岩崎久弥(ヒサヤ)の跡を継ぎ、1916(大正 5)三菱合資会社
	副社長から社長に就任。1917(大正 6)造船部を独立、三菱造船
	を設立(1934<昭和 9>三菱重工業と改称)。1918(大正 7)営業部
	を独立、三菱商事を設立。1932(昭和 7)資料課を独立、三菱経
	済研究所を設立。1937(昭和12)地所部を独立、三菱地所を設立。
いわさき しゅんか
	岩崎 蕣花
	1864(元治元)
	1923(大正12)
	◇小説脚色家。
いわさき じゅんこう
	岩崎 純孝
	1901. 4. 9(明治34)
	1971. 2.27(昭和46)
	◇翻訳家・児童文学者。本名は純孝(ヨシタカ)。
いわさき ちひろ《いはさき ちひろ》
	いわさき ちひろ
	1918.12.15(大正 7)
	1974. 8. 8(昭和49)
	◇絵本作家。本名は松本知弘、旧姓岩崎。福井県武生市生れ。
いわさき ひさや
	岩崎 久弥
	1865.10.14(慶応元. 8.25)
	1955.12. 2(昭和30)
	◇実業家・三菱財閥の主宰者(3代目)。岩崎弥太郎の長男。慶
	応義塾普通部を経て、1891(明治24)ペンシルベニア大学卒業。
	 姉婿は加藤高明(タカアキ)、妹婿は幣原喜重郎(シデハラ・キジュウロウ)。
	 1894(明治27)三菱合資会社を設立し社長に就任。1896(明治
	29)男爵。1916(大正 5)従弟岩崎小弥太(コヤタ)に社長を譲渡。
いわさき やたろう《いはさき やたらう》
	岩崎 弥太郎
	1834(天保 5.12.)
	1885. 2. 7(明治18)
	◇実業家・三菱財閥の創始者。名は寛、号は東山。土佐藩安芸
	郡井ノ口村一ノ宮に住む地下(ジゲ)浪人(*1)弥次郎の子、弥之
	助の兄。
	 加藤高明(タカアキ)・幣原喜重郎(シデハラ・キジュウロウ)は娘婿。
	 1853(嘉永 6)江戸に出て安積艮斎に学び、帰郷後、吉田東洋
	の門下生となり後藤象二郎の知遇を得て、藩の貨殖局下役さら
	に長崎勘定役に抜擢。1870(明治 3)土佐藩主山内家が土佐開成
	商社(九十九<ツクモ>商会)を創業、経営を一任され藩の海運の全
	権を握る。
	 廃藩置県を前に九十九商会を解散、藩船その他の払い下げを
	受ける。翌1871(明治 4)に三川商会を経て三菱商会と社名を変
	更。
	 1874(明治 7)西郷従道(ツグミチ)の征台の役で、政府が買い入
	れた13隻の汽船の依託を受け軍事輸送を行い、政府の保護を得
	てただ同然の汽船払い下げ・洋銀80万ドルの低利補助金交付な
	どを受ける。1875(明治 8)郵便汽船三菱会社(三菱会社)と改称。
	1886(明治19)江華島事件、さらに1877(明治10)西南の役で政府
	御用の海運業者として70万ドルの補助を受け巨利を得、為替・
	海上保険・鉱山業・造船業にも進出。
	 1881(明治14)三菱の保護政策をとっていた大隈重信が失脚、
	政府(井上馨)は1883(明治16)新たに三井の資本をバックに共同
	運輸会社を創設して保護、激しい競争となる。結局、1885(明
	治18)両社が合併することになるが、日本郵船会社の創設前に
	病死。三菱の事業は弟の弥之助が次ぐこととなる。
	 死後、1903(明治36)末娘が幣原喜重郎と結婚。
	(2)生年は1834。
	(4)生年は1834。
	 明治七年三菱商会を起し……。
	(6)生年は1834/35。
	(16)生年は1834(天保 5.12.)。
	 翌1871(明治 4)社名を三菱商会とあらため……。
	(*1)地下浪人とは40年以上郷士職にあった者がその郷士株を売
	却した場合をいう。
いわさき やのすけ
	1851(嘉永 4. 1. 8)
	1908. 3.25(明治41)
	◇実業家。岩崎弥太郎の弟。土佐生れ。三菱財閥の基礎を確立。
	 1872(明治 5)米国に留学。帰国後副社長。
	 1885(明治18)兄の死により郵便汽船三菱会社の社長に就任、
	間もなく共同運輸会社と合併し日本郵船会社が設立され社長は
	郵船設立委員長の森岡昌純(マサズミ)(三井系)が就任。彼は郵船
	の大株主となって実質支配権を保持し海運から退く。
	 1886(明治19)三菱社を創設して鉱山・造船・海上保険を発展
	させる。1887(明治20)長崎造船所の払い下げを受ける。
	 1893(明治26)三菱合資会社を設立。
	 1896(明治29)長男の久弥に社長を譲り、日本銀行総裁に就任。
いわさき りょうぞう
	岩崎 良三
	1908. 2.16(明治41)
	1976. 3. 4(昭和51)
	◇英文学者。
いわした しゅんさく
	岩下 俊作
	1906.11.16(明治39)
	1980. 1.30(昭和55)
	◇小説家。本名は八田秀吉(ハッタ・ヒデキチ)。福岡県生れ。小倉工
	業卒業。
いわした そういち《いはした さういち》
	岩下 壮一
	1889(明治22)
	1940(昭和15)
	◇カトリック司祭・哲学者。静岡県生れ。
	 東京大学哲学科卒業。欧米に留学。
	 救癩(キュウライ)事業に献身し、1930(昭和 5)富士山麓の神山復
	生病院院長。
	(4)生年は1887。
	(6)生年は1889。
いわせ きょうでん《いはせ きやうでん》
	岩瀬 京伝
	⇒さんとう きょうでん(山東 京伝)
いわせ ただなり《いはせ ただなり》
	岩瀬 忠震
	1818
	1861(文久元. 7.)
	◇江戸幕末の外国奉行。幼名は篤三郎のち忠震、通称は伊賀守
	・肥後守。江戸生れ。旗本設楽貞丈(サダトモ)の三男、母は大学
	頭林述斎の娘。
	 1834(天保 5)旗本800石の岩瀬忠正の養子となる。1854(嘉永
	 7. 1.)老中阿部正弘に抜擢され、目付となる。
	 1856(安政 3. 7.)下田奉行とともに下田に着任した米国総領
	事ハリスを応接。1857(安政 4)8月に日蘭追加条約に調印、9
	月にプチャーチンと日露追加条約に調印、12月には井上清直と
	ともにハリスと日米修好通商条約の草案を審議。1858(安政 5)
	6月に日米修好通商条約を調印、7月から9月にオランダ・ロ
	シア・イギリス・フランスと相次いで修好通商条約を締結。外
	国奉行に昇進。
	 1859(安政 6)将軍の世継問題で一橋慶喜を推し、徳川慶福(ヨ
	シトミ)(将軍家茂)を推す大老井伊直弼(イイ・ナオスケ)に疎まれて作事
	奉行に左遷される。
	(*)1818(文化15,文政元)。
いわた うざん
	岩田 烏山
	1874(明治 7)
	没年不詳
	◇小説家。本名は千克。大正期から活動していない。
いわた きよし
	岩田 潔
	1911. 7. 3(明治44)
	1962. 2.24(昭和37)
	◇俳人。
いわた じゅんいち
	岩田 準一
	1900(明治33)
	1945(昭和20)
	◇挿絵画家。鳥羽生れ。
いわた せんたろう
	岩田 専太郎
	1901. 6. 8(明治34)
	1974. 2.19(昭和49)
	◇画家。東京生れ。
	 伊東深水に師事。志村立美(タツミ)・小林秀恒(ヒデツネ)とともに
	挿絵界の三羽烏と呼ばれた。
いわた とよお
	岩田豊雄
	⇒しし ぶんろく(獅子 文六)
いわた りょうと《いはた りやうと》
	岩田 涼菟
	1661
	1717(享保 2)
	◇江戸中期の俳人。別号は団友・神風館三世。伊勢山田の神官。
	伊勢風の祖。
	(*)1661(万治 4,寛文元)。
いわたに しょうせん
	岩溪 裳川
	1855(安政 2)
	1943. 3.27(昭和18)
	◇漢詩人。名は晋(ススム)、字は子譲、号は裳川。
いわなが ゆたか
	岩永 胖
	1906. 8.25(明治39)
	1970. 4.17(昭和45)
	◇評論家・近代文学研究家。
いわなみ しげお《いはなみ しげを》
	岩波 茂雄
	1881. 8.27(明治14)
	1946. 4.25(昭和21)
	◇岩波書店の創業者。長野県諏訪生れ。
	 1908(明治41)東京大学哲学科選科卒業。1913(大正 2)古本屋
	岩波書店を開業、1914(大正 3)出版を開始。1940(昭和15)津田
	左右吉の筆禍事件に連座、免訴となる。
	 貴族院議員。1946(昭和21)文化勲章を受章。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
いわの きよこ
	岩野 清子
	1882. 2.11(明治15)
	1920.12.18(大正 9)
	◇小説家・評論家。本名は遠藤清子。
いわの ほうめい《いはの はうめい》
	岩野 泡鳴
	1873. 1.20(明治 6)
	1920. 5. 9(大正 9)
	◇詩人・小説家・劇作家・評論家。本名は美衛(ヨシエ)、初期の
	筆名は白滴子・阿波寺鳴門左衛門。兵庫県津名郡洲本(スモト)町
	(淡路島)生れ。明治学院を一年で退学。1920. 4.(大正 9)スペ
	イン風邪に罹り、急性腹膜炎により死去。
	 自然主義作家で、作者と主人公の一元描写論を提唱。
	(1)没日は 5. 8。
	(3)没日は 5. 9。
	(5)没日は 5. 9。
	(8)没日は 5. 9。
	(11)没日は 5. 9。
	(13)没日は 5. 9。
いわまつ すけざえもん
	岩松 助佐衛門
	1804
	1872(明治 5)
	◇江戸幕末の灯台設計者。豊前国小倉の人。小倉藩海上御用掛。
	 海難防止のために関門海峡西口の白洲灯台建設を決意、義金
	を募る。1872(明治 5)私築禁止の令により、事業は政府の手に
	移り、完成を待たずに死去。
	(*)1804(享和 4,文化元)。
いわみ じゅうたろう《いはみ ぢゆうたらう》
	岩見 重太郎
	生年不詳
	1615
	◇桃山時代の伝説的豪傑。読本・講談・歌舞伎などで有名。筑
	前小早川家の臣で、諸国を武者修行し狒狒(ヒヒ)退治・大蛇退治
	などで勇名を挙げ、天の橋立で父の仇広瀬軍蔵らを討ち、やが
	て豊臣秀吉に仕え、薄田隼人(ススキダ・ハヤト)(兼相<カネスケ>)となっ
	たとされる。
	(*)1615(慶長20,元和元)。
いわむら かずお《いはむら かずを》
	岩村 和雄
	1902. 3. 3(明治35)
	1932.11.29(昭和 7)
	◇舞踊家。
いわむら とおる《いはむら とほる》
	岩村 透
	1870(明治 3. 1.25)
	1917. 8.17(大正 6)
	◇美術評論家。号は芋洗・迂遷・観堂。東京生れ。
	 東京美術学校で西洋美術史を講義。白馬会・国民美術協会の
	設立に参加。
いわむら のぼる《いはむら のぼる》
	岩村 昇
	1927. 5.26(昭和 2)
	2005.11.27(平成17)
	◇医者。愛媛県宇和島市で生れ。
	 広島で被爆。
	 1962(昭和37)鳥取大学助教授を辞めて妻とネパールに渡り、
	18年間結核医療や識字教育・孤児の養育などに尽力し、「ネパ
	ールの父」・「ネパールの赤ひげ」と呼ばれる。
	 1973(昭和48)吉川英治文化賞を受賞。
	 1981(昭和56)財団法人PHD協会を神戸市に設立。
	 1985(昭和60)NGO国際人材開発機構を設立。
	 1993(平成 5)マグサイサイ賞を受賞。
	 急性呼吸不全で死去。
いわもと しゅうぞう《いはもと しうざう》
	岩本 修蔵
	1908. 9.10(明治41)
	1979. 3. 9(昭和54)
	◇詩人。三重県生れ。
	(5)誕生日は 9.10。
	(8)誕生日は 9. 1。
	(11)誕生日は 9.10。
いわもと ぜんじ《いはもと ぜんぢ》
	巌本 善治
	⇒いわもと よしはる(巌本 善治)
いわもと そはく
	岩本 素白
	1883. 8.17(明治16)
	1961.10. 2(昭和36)
	◇国文学者・随筆家。本名は堅一(ケンイチ)。東京生れ。早稲田大
	学卒業。
いわもと てい
	岩本 禎
	1869(明治 2. 5. 3)
	1941. 7.14(昭和16)
	◇哲学者。蔵書は鹿児島大学図書館に寄贈され、岩本文庫とな
	る。
いわもと まり
	巌本 真理
	1926
	1979. 5.11(昭和54)
	◇バイオリニスト。巌本善治(イワモト・ヨシハル)の孫。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
いわもと よしはる
	巌本 善治(巖本 善治)
	1863(文久 3. 6.15)
	1942.10. 6(昭和17)
	◇評論家・キリスト教女子教育家。旧姓は井上、号は井上次郎
	・月の舎しのぶ・山下石翁・撫象子・如雲・みどり。若松賎子
	(シズコ)の夫、提琴家巌本真理の祖父。但馬国出石町の商家に生
	れる。
	 幼少にして母方の叔父で漢詩人の巌本琴城の養子となる。
	1876(明治 9)上京。1885(明治18)木村熊二・木村鐙(トウ)が明治
	女学校を創設し、その教頭となる(のち第二代校長)。
	 1889(明治22)若松賤子(シズコ)と結婚。
	 「女学雑誌」を編集(第24号以降)、婦人解放論を唱える。
	(1)巌本 善治(いわもと よしはる)。
	(3)巌本 善治(いわもと ぜんじ)。
	(4)巌本 善治(いわもと ぜんじ)。
	(5)巌本 善治(いわもと よしはる)。
	(8)巌本 善治(いわもと よしはる)。
	(11)巌本 善治(いわもと よしはる)。
	(13)巖本 善治(いわもと ぜんじ)、没日は1943.10. 5(昭和
	18)。
いわや いちろく《いはや いちろく》
	巌谷 一六
	1834(天保 5. 2.)
	1905. 7.12(明治38)
	◇江戸幕末・明治期の書家・漢詩人・医者。名は修、号は一六
	・一六居士・古梅・金粟道人。近江水口(ミナクチ)藩藩医。巌谷小
	波(サザナミ)の父。
	 初め巻菱湖に書風を学び、のち清国の楊守敬と交わる。
	 のち貴族院議員。
	◎明治四大書家の一人。
いわや えいじ
	巌谷 栄二
	1909. 9.21(明治42)
	1969.11.23(昭和44)
	◇児童文学研究者。巌谷小波(サザナミ)の次男。
いわや くちなし
	巌谷 山梔子
	1883. 1.30(明治16)
	1944. 1. 4(昭和19)
	◇俳人。名は健治。
いわや さざなみ《いはや さざなみ》
	巌谷 小波(巖谷 小波)
	1870(明治 3. 6. 6)
	1933. 9. 5(昭和 8)
	◇小説家・童話作家・俳人。本名は季雄(スエオ)、別号は楽天居
	(俳句)・漣山人(サザナミサンジン)・大江小波・隔恋坊。東京麹町(コ
	ウジマチ)平河町(ヒラカワチョウ)五丁目生れ。巌谷一六(イチロク)の子、巌
	谷槇一(シンイチ)・巌谷栄二(エイジ)・巌谷大四(ダイシ)の父。
	 尾崎紅葉・川上眉山らと硯友社を設立。
	 1925(大正14)アンデルセンの祖国デンマーク国王よりダンネ
	ブロウB二等文化勲章を受ける。
いわや しんいち
	巌谷 槇一
	1900. 9.12(明治33)
	1975.10. 6(昭和50)
	◇劇作家・演出家。本名は三一。巌谷小波(サザナミ)の長男。
いわや ばくあい
	岩谷 莫哀
	1888. 4.18(明治21)
	1927.11.20(昭和 2)
	◇歌人。本名は禎次(テイジ)。鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田生れ。
	1914(大正 3)東京帝国大学経済科卒業。
	(3)本名は禎次(テイジ)。
	(5)本名は禎二。
	(8)本名は禎次。
	(11)本名は禎二。
	(13)本名は禎次(テイジ)。
いわや まつへい《いはや まつへい》
	岩谷 松平
	1849(嘉永 2)
	1920(大正 9)
	◇実業家。薩摩の人。
	 上京し岩谷商会を設立。
	 1877(明治10)国分(コクブ)葉を原料とした国産初の紙巻タバコ
	天狗煙草(テングタバコ)を発売。
	 のち衆議院議員。
いんかく
	院覚
	生年未詳
	没年未詳
	◇平安後期の木仏師。定朝の孫の院助(インジョ)の子といわれる。
	 院助の創始した院派七条大宮仏所の仏師で、宮廷関係の造仏
	をほとんど手がけ法眼に叙せられる。
いんぎょう てんのう《いんぎよう てんわう》
	允恭 天皇
	生年不詳
	没年不詳
	◇第19代の天皇。名は雄朝津間稚子宿禰尊(オアサヅマワクゴノスクネノミコ
	ト)。仁徳天皇の第4皇子、母は磐之媛命。第18代反正(ハンゼイ)
	天皇の同母弟。皇后は忍坂大中媛(オサカノオオナカツヒメ)(応神天皇の孫)、
	木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)・第20代安康(アンコウ)天皇・第21代雄略
	(ユウリャク)天皇・軽大娘皇女(カルノオオイラツメノヒメミコ)の父。
	 反正天皇に継いで即位、大和の遠飛鳥宮(トオツアスカノミヤ)を都と
	する。
	 皇后の妹[1]衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)(弟姫)を寵愛、皇后の嫉妬
	をさけるため河内の茅渟宮(ヌチノミヤ)に住まわせ、姫のため諸国
	に藤原部を定める。
	 皇太子木梨軽皇子と同母妹軽大娘皇女とが相愛の仲となり、
	天皇の御膳の汁が凍ったことから露見して皇女を伊予国に流し、
	皇太子は赦(ユル)す。
	 在位: 412(壬子.12.)〜 453(癸巳. 1.14)。
	◎『宋書』倭国伝の「済」に比定される。
	 氏姓の混乱を正すため諸氏を味橿丘(ウマカシノオカ)(奈良県高市郡
	明日香村)に集めて盟神探湯(クガダチ)を行ったという。
	(2)味橿丘(ウマカシノオカ)(奈良県高市郡明日香村)で……。
	(16)味橿智に会して…….
いんげん
	隠元
	1592<万暦20>
	1673<康煕12>
	◇江戸前期の帰化僧。臨済宗の一派日本黄檗宗(オウバクシュウ)の開
	祖。名は隆(「玉」偏+「奇」:補助4411)、諡号は大光普照国師。明
	国の福建省福州府の人。
	 1654(承応 3)渡来。将軍徳川家綱に請い、1661年山城国宇治
	に黄檗山万福寺を建立。
	(*)1592(天正20,文禄元)、1661(万治 4,寛文元)、1673(寛文13,
	延宝元)。
いんじょ
	院助
	生年不詳
	1108
	◇平安時代の院派(インパ)の木仏師。定朝の孫。
	(*)1108(嘉承 3,天仁元)。
いんそん
	院尊
	1120
	1198(建久 9)
	◇平安後期の院派(インパ)の木仏師。院覚(インカク)の子、または弟
	子。
	(*)1120(元永 3,保安元)。
いんべのひろなり
	斎部 広成
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安初期の廷臣。
	 斎部氏が中臣氏に押されていたため、正史に漏れた記事も含
	み祖先の功業を記し、 807(大同 2)『古語拾遺(コゴシュウイ)』が
	完成。
いんべのまさみち
	忌部 正通
	生年不詳
	没年不詳
	◇南北朝時代(室町)の神道家。
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