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人 名 辞 典 《い》 編集:獨 澄旻
-------- い ----------------------------------------------------
い ふきゅう《い ふきう》
伊 孚九
生年不詳
没年不詳
◇清代中期の貿易商・画家。名は海、字は孚九(桴鳩)、号は
(「艸」冠+「辛」:補助5611)野・匯川(カイセン)・成堂。浙江省呉興の
人。
1720(享保 5)長崎に来航、のち再三来日して商売のかたわら
南宗派の山水画を伝え、池大雅や桑山玉洲らに影響を与える。
いい なおすけ《ゐい なほすけ》
井伊 直弼
1815(文化12)
1860(安政 7. 3. 3)
◇江戸後期の大老。幼名は鉄之助、のち鉄三郎、号は埋木舎・
无根水・柳王舎。第11代彦根城主井伊直中の14男。
部屋住であったが、1846(弘化 3)藩主の兄直亮(ナオアキ)に子が
なく養子となり、従四位下侍従玄番頭。1849(嘉永 2)右近衛権
少将。1850(嘉永 3)直亮の死により、彦根藩主35万石・掃部頭
(カモンノカミ)。1858(安政 5)大老。水戸藩主徳川斉昭ら(一橋派)を
退け、紀州藩主徳川慶福(ヨシトミ)を第14代将軍家茂(イエシゲ)とし
て迎える。同年、勅許を得ず日米修好通商条約など諸外国と不
平等条約を結び(安政仮条約)、反対派の斉昭らを弾圧(安政の
大獄)。
1860(安政 7. 3. 3)上巳の節供の登城の途中、大雪の早朝、
辰の上刻(午前8時)水戸脱藩17人と薩摩藩士1人の18人に襲わ
れ首を持ち去られる(桜田門外の変)。
◆墓は東京都世田谷区の豪徳寺。
◎直弼の首をあげたのは薩摩藩士の有村治左衛門で、自身も重
傷を負い、和田倉門の向かいの遠藤但馬守屋敷前で自刃した。
いい なおたか《ゐい なほたか》
井伊 直孝
1590(天正18)
1659(万治 2)
◇江戸初期の武将。井伊直政(ナオマサ)の次子。
徳川秀忠・家光・家綱の3代に仕える。
いい なおまさ《ゐい なほまさ》
井伊 直政
1561(永禄 4)
1602(慶長 7)
◇安土桃山時代の武将。幼名は虎松・万千代、通称は兵部少輔。
遠江井伊谷城主井伊直親の子、母は奥山因幡守親朝の娘、井伊
直孝(ナオタカ)の父。徳川家康の四天王・十六神将の一人。
関ヶ原の戦で島津義弘と戦い負傷。近江佐和山(彦根市)に移
封。
いい ようほう《いゐ ようほう》
伊井 蓉峰
1871(明治 4. 8.16)
1932. 8.15(昭和 7)
◇明治・大正期の新派俳優。本名は北庭申三郎、俳号は白峰・
十千里園楽舎。写真師北庭筑波の子。東京生れ。
銀行員から川上音二郎一座に入る。男女合同改良演劇済美館
(セイビカン)を組織。佐藤歳三・水野好美と伊佐水(イサミ)演劇を興
す。1909(明治42)新派大合同の際、座長となる。河合武雄とと
もに新富座に進出。
いいお そうぎ《いひを そうぎ》
飯尾 宗祇
⇒そうぎ(宗祇)
いいおかのすけごろう《いひをかのすげごらう》
飯岡 助五郎
1792(寛政 4)
1859(安政 6)
◇江戸後期の侠客。本姓は石渡。相模(サガミ)生れ。
下総国(シモウサノクニ)飯岡に移り網元(アミモト)となる。二束(ニソク)の
草鞋(ワラジ)で博徒(バクト)・岡っ引きとしても活動し、笹川の繁
蔵(シゲゾウ)と勢力を争う。
◎『天保水滸伝』などの講談・浪曲に脚色。
いいじま いさお
飯島 魁
1861
1921(大正10)
◇動物学者。浜松生れ。
ドイツ留学後、東京大学教授。
(*)1861(万延 2,文久元)。
いいずか ……《いひづか ……》
飯塚 ……
⇒いいづか ……(飯塚 ……)
いいだ きけん
飯田 旗軒
1866(慶応 2. 5. 2)
1938. 4.14(昭和13) ????
◇フランス文学者。本名は旗郎、号は梅廼舎(ウメノヤ)文江・
聴雨居士・眼花道人。江戸東両国生れ。
(5)没日は 4.24。
(8)没日は 4.24。
(11)没日は 4.24。
いいだ たけさと《いひだ たけさと》
飯田 武郷
1828(文政11.12. 6)
1901. 8.26(明治34)
◇江戸幕末・明治の歌人・国学者。通称は守人(モリト)。
平田篤胤の門人。
信濃高島藩士、気比・浅間などの宮司、東京大学・国学院な
どの教授。
(4)没年は1900。
(8)新暦の誕生日は1829. 1.11。
(26)誕生日は文政十年十二月六日(1827)。没日は明治三十三年
八月二十六日(1900)。
いいだ だこつ《いひだ だこつ》
飯田 蛇笏
1885. 4.26(明治18)
1962.10. 3(昭和37)
◇俳人。本名は武治、号は山廬(サンロ)。山梨県東八代(ヒガシヤツシロ)
郡境川村に苗字帯刀の地主の長男として生れる。
19歳に早稲田大学文科に入学、24歳に退学し郷里に帰り家業
を継ぐ。
1918(大正 7)から俳誌「雲母(ウンモ)」を主宰発行。
脳軟化症により死去。
◆蛇笏忌(山廬忌)[10. 3]。
いいだ ただひこ《いひだ ただひこ》
飯田 忠彦
1798(寛政10)
1860
◇江戸幕末の史家・勤皇家。周防徳山の人。
勅書を水戸に賜うことに奔走、罪せられて自刃。
(*)1860(安政 7,万延元)
いいだ とくたろう
飯田 徳太郎
1903(明治36)
1933.10.22(昭和 8)
◇社会主義者。十月、谷川岳で遭難、22日遺体発見。
いいだ としひら
飯田 年平
1820(文政 3. 8. 6)
1886. 6.28(明治19)
◇歌人・国学者。幼名は足穂、通称は七郎、号は石園。
いいづか こうじ《いひづか かうじ》
飯塚 浩二
1906(明治39)
1970(昭和45)
◇人文地理学者。東京生れ。
東京大学卒業。
東大東洋文化研究所長。
著書は『地理学批判』・『世界史における東洋社会』など。
いいづか とうよう《いひづか たうえふ》
飯塚 桃葉
生年不詳
没年不詳
◇江戸中期の印籠蒔絵(インロウマキエ)師。通称は源六、号は観松斎。
蜂須賀重喜に召し抱えられ、江戸に在住。
いいづか ともいちろう《いひづか ともいちらう》
飯塚 友一郎
1894.11.11(明治27)
1983. 4.21(昭和58)
◇演劇研究家。東京生れ。坪内逍遥(ショウヨウ)の女婿(ムスメムコ)。
1919(大正 8)東京大学法学部卒後、十年間弁護士を開業。の
ち演劇研究に専念。日本大学・二松学舎大学の教授。
いいとよ てんのう《いひとよ てんわう》
飯豊 天皇
⇒いいとよあおのひめみこ(飯豊青皇女)
いいどよ てんのう《いひどよ てんわう》
飯豊 天皇
⇒いいとよあおのひめみこ(飯豊青皇女)
いいとよあおのひめみこ《いひとよあをのひめみこ》
飯豊青皇女
生年不詳
没年不詳
◇5世紀後半の女王。市辺押磐皇子(イチノベノオシワノミコ)の娘(また
は妹)、履中(リチュウ)天皇の皇孫(または娘)。
病弱な第22代清寧(セイネイ)天皇に嗣子(シシ)がなく、皇統が絶え
ようとしたとき、播磨国(ハリマノクニ;兵庫県)縮見(シジミ)屯倉に隠
れていた億計王(オケノミコ;第24代仁賢天皇)と弘計王(ヲケノミコ;第23
代顕宗天皇)兄弟が召し出された。清寧天皇が崩御(ホウギョ)する
と、兄弟は互いに皇位を譲り合い、空位になったので兄弟の姉
(『古事記』では叔母)が皇位を預り、忍海(オシミ)の角刺(ツノサシ)
宮で政(マツリゴト)をとったという。
◎歴代天皇に数えられていないが、飯豊天皇との記録もある。
忍海の角刺宮伝承地の北にある飯豊青皇女の墓とされる前方後
円墳を、宮内庁では飯豊天皇陵と称している。
参照⇒『百科辞書』きたはなうちおおつかこふん(北花内大
塚古墳)
◎「いいとよ」は「フクロウ」の古称。
◎初代の女帝は第33代推古(スイコ)天皇とされる。
いいどよあおのひめみこ《いひどよあをのひめみこ》
飯豊青皇女
⇒いいとよあおのひめみこ(飯豊青皇女)
いいぬま まさあき
飯沼 正明
1912
1941(昭和16)
◇飛行士。長野県の出身。
朝日新聞航空部員として機関士塚越賢爾ととにも神風号に乗
り、1937(昭和12)東京〜ロンドン間の飛行に成功。
太平洋戦争中、サイゴンで事故死。
(*)1912(明治45,大正元)。
いいぬま よくさい《いひぬま よくさい》
飯沼 慾斎
1783(天明 3)
1865(慶応元. 5. 5)
◇江戸後期の本草学者。名は長順、字は竜夫(龍夫)。子の興斎
は宇田川榕庵(ヨウアン)の養子。
美濃国大垣の飯沼長顕に医学を学ぶ。京都に出て小野蘭山に
本草学を、福井丹波守に医学を、のち江戸で宇田川榕庵(ヨウアン)
・藤井芳亭に蘭学(博物学)を学ぶ。
50歳で隠退、慾斎と号し、大垣で西洋植物学を講義。
(2)生年は1783(天明 3)。(系)伊勢国亀山の豪士西村信左衛門
の次男。(名)長順・龍夫。
(4)生年は1782。字は竜天。
(6)生年は1783。
(16)生年は1783(天明 3)。西村新右衛門の子で大垣の医家飯沼
家を嗣ぐ.竜夫と称した.
いえなが さぶろう《いえなが さぶらう》
家永 三郎
1913. 9. 3(大正 2)
2002.11.29(平成14)
◇歴史学者。名古屋生れ。
1937(昭和12)東京帝国大学文学部史学科、卒業。
新潟高等学校・東京高等師範学校(のち東京教育大学)で講義。
1949(昭和24)東京教育大学(現:筑波大学)教授。のち中央大
学教授。
1952(昭和27)高校教科書『新日本史』を執筆。1962(昭和37)
年度の検定で323ヶ所が文部省から不適当と指摘を受ける。
1965. 6.12(昭和40)第一次教科書裁判を提訴。
1967(昭和42)第二次教科書裁判を提訴。
1984(昭和59)第三次教科書裁判を提訴。
1997. 8.(平成 9)第三次教科書裁判の一部(南京大虐殺・7
31部隊など)、勝訴。
著書は『日本思想史に於ける宗教的自然観の展開』・『太平
洋戦争』・『日本の歴史』・『戦争責任』など。
◎蔵書約4万冊のうち東京都町田市が購入した約1,000点が市
立自由民権資料館で2004(平成16) 4.29〜 7. 4公開。
いおき ひょうてい
五百木 飄亭
1870(明治 3.12.14)
1937. 6.14(昭和12)
◇俳人。本名は良三(リョウゾウ)、号は若隠居・犬骨坊。伊予国生
れ。
(1)五百木 飄亭(いおぎ ひょうてい)。
(5)五百木 飄亭(いおき ひょうてい)。
(8)五百木 飄亭(いおき ひょうてい)。
(11)五百木 飄亭(いおぎ ひょうてい)。
(13)五百木 飄亭(いおき ひょうてい)。
いがい けいしょ《ゐがひ けいしよ》
猪狩 敬所
1761(宝暦11)
1845(弘化 2)
◇江戸後期の儒学者。名は彦博、字は希文。
巌垣竜渓に儒学を学ぶ。
(4)いがい けいしょ。折衷学派。京都の人。
(6)いかい けいしょ。漢学(古学)者。近江(オウミ)の人。
いかざき こきょう
五十崎 古郷
1896. 1.20(明治29)
1935. 9. 5(昭和10)
◇俳人。本名は修(オサム)。愛媛県生れ。
いかだい かいち
筏井 嘉一
1899.12.28(明治32)
1971. 4.21(昭和46)
◇歌人。富山県生れ。筏井竹の門(イカダイ・タケノモン)の一人息子。
(5)俳人竹の門(タケノカド)の長男として生れた。
いかだい たけのもん ????
筏井 竹の門
1871(明治 4.10.16)
1925. 3.29(大正14)
◇俳人。本名は虎次郎、旧姓は向田、別号は此君・四石・
雪の村人。筏井嘉一(イカダイ・カイチ)の父。
(5)筏井 竹の門(いかだい たけのかど)、「筏井嘉一」の項。
いがのみこ
伊賀 皇子
⇒おおとものみこ(大友 皇子)
いがみ ぼんこつ
伊上 凡骨
1875. 5.21(明治 8)
1933. 1.29(昭和 8)
◇木版師。本名は純蔵。
いがやま しょうぞう
伊賀山 昌三
1900. 3.25(明治33)
1956. 5.12(昭和31)
◇劇作家。筆名は精三。秋田県生れ。専修大学付属商卒業。
いがらし ちから
五十嵐 力
1874.11.12(明治 7)
1947. 1.11(昭和22)
◇大正・昭和期の国文学者。号は巴千(ハセン)・甲鳥主人。山形
県生れ。1895(明治28)東京専門学校(現:早稲田大学)卒業。
(2)五十嵐 力(いがらし ちから)、誕生日記載なし。号を甲
鳥。
(5)五十嵐 力(いがらし ちから)、誕生日は11.12。甲鳥園主
人とも号した。
(8)五十嵐 力(いからし ちから)、誕生日は11.22。
(11)五十嵐 力(いがらし ちから)、誕生日は11.12。号は甲
鳥園主人。
いがらし どうほ
五十嵐 道甫(3代)
生年不詳
1678(延宝 6)
◇蒔絵師。
天正年間(1573〜1592)京都で営む。寛永年間(1624〜1644)前
田利家に招かれ金沢に赴き、加賀蒔絵の祖となる。
いかり しざん
猪狩 史山
1873.12. 5(明治 6)
1938.12.13(昭和13)
◇漢学者・教育者。名は又蔵、号は史山。
いかり みつなお
潴狩 満直 ????(1)
1898. 5. 9(明治31)
1938. 4.16(昭和13)
◇詩人。
(1)没日の16の漢数字の「一」が縦(?)。
(8)猪狩 満直。
いかりや ちょうすけ《いかりや ちやうすけ》
いかりや 長介
1931.11. 1(昭和 6)
2004. 3.20(平成16)
◇コメディアン・俳優。本名は碇矢長一(イカリヤ・チョウイチ)。東京市
本所区生れ。
吉永高校を中退。
勤め先の工場の仲間とハワイアンバンドを結成
1961(昭和36)ウエスタンバンドの「ジミー時田とマウンテン
・プレイボーイズ」にベース奏者として参加。
1962(昭和37)コミックバンドの「桜井輝夫とザ・ドリフター
ズ」に参加。
1964(昭和39)荒井注(チュウ)・高木ブー・仲本工事(コウジ)・加
藤茶(チャ)をメンバーにコミックバンド「ザ・ドリフターズ」を結
成。
1969.10.〜1985. 9.(昭和44〜昭和60)TBS系生番組「8時
だヨ!全員集合」に出演。
のち、テレビ・映画の俳優として活躍。
ガンにより死去。
いかわ しげし
井川 滋
1888. 2. 2(明治21)
1925.12.19(大正14)
◇小説家・評論家。
いがわ せんがい
井川 洗(「崖」-「山」)
1876. 5. 1(明治 9)
1961.10.13(昭和36)
◇画家。本名は常三郎。岐阜市生れ。
富岡永洗に師事。1906(明治39)都新聞に入社。中里介山作の
新聞小説『大菩薩峠』の挿絵を担当。挿絵専業画家の先達。
いくしま しんごろう《いくしま しんごらう》
生島 新五郎
1671(寛文11)
1743(寛保 3)
◇江戸中期の歌舞伎役者。
大奥の奥女中江島(絵島)(エジマ)との情事が、1714(正徳 4)露
顕し三宅島に、江島は信濃国高遠に流刑。
いくた きざん
生田 葵山
1876. 4.14(明治 9)
1945.12.31(昭和20)
◇小説家・劇作家。本名は盈五郎(エイゴロウ)、別号は葵(アオイ)。
京都市御幸橋々畔の酒商の家に生れる。一七歳の時に一家死に
絶える。播磨灘(ハリマナダ)に投身自殺。 ????春月の間違い
(3)誕生日は 4.14。
(5)誕生日は 4.14。
(7)誕生日は 5.。
(8)誕生日は 4.14。
(11)誕生日は 4.14。
(13)誕生日は 5.。
いくた けんぎょう《いくた けんげう》
生田 検校
1656(明暦 2)
1715(正徳 5. 6.14)
◇江戸中期の箏曲(ソウキョク)家。生田流の創始者。
北島検校の門人。
(4)生年は1656。
(6)「生田流」の項:生年は1655。
(16)生年は1656(明暦 2)。
いくた しゅんげつ
生田 春月
1892. 3.12(明治25) ????
1930. 5.19(昭和 5)
◇大正期の詩人・翻訳家。本名は清平。鳥取県西伯郡米子町生
れ。生田花世(イクタ・ハナヨ)の夫。
独学でドイツ語を学ぶ。瀬戸内海に投身自殺。
(13)誕生日は 3.16。
いくた ちょうこう《いくた ちやうかう》
生田 長江
1882. 4.21(明治15)
1936. 1.11(昭和11)
◇明治・大正期の評論家・小説家・戯曲家・翻訳家。本名は
弘治(コウジ)、号は星郊。鳥取県日野郡根雨町生れ。
1898(明治31)キリスト教に入信。1904(明治37)上田敏らが創
刊した「芸苑」の同人となる。1906(明治39)東京大学哲学科美学
科卒業。
1911(明治44)ニーチェ著『ツァラトゥストラはかく語りき』
を日本初訳。
(1)誕生日は 3.21。
(3)誕生日は 3.27。
(5)誕生日は 4.21。
(8)誕生日は 4.21、大方の 3.21は誤り。
(11)誕生日は 3.21。
(13)誕生日は 3.27。
いくた ちょうすけ
生田 蝶介
1889. 5.26(明治22)
1976. 5. 3(昭和51)
◇歌人・小説家。本名は調介。山口県生れ。早稲田大学英文科
中退。
(5)生田 蝶介(いくた ちょうすけ)。
(11)生田 蝶介(いくだ ちょうすけ)。
いくた のぎじ
生田 乃木次
生年調査中
2002. 2.22(平成14)
◇海軍軍人。
第一次上海事変の大尉のとき、1932. 2.22(昭和 7)蘇州上空
でアメリカ人義勇飛行士のロバート・ショート中尉が操縦する
ボーイング戦闘機1機を撃墜。日本軍史上初めての敵機撃墜だっ
た。海軍内で激しくねたまれて嫌気がさし、同年12月退役。
太平洋戦争で軍籍に戻り、終戦時は少佐。
享年97歳。
いくた はなよ
生田 花世
1888.10.15(明治21)
1970.12. 8(昭和45)
◇小説家。旧姓は西崎。生田春月(イクタ・シュンゲツ)の妻。
いくた よろず《いくた よろづ》
生田 万(生田 萬)
1801
1837(天保 8. 6.)
◇江戸後期の国学者。名は国秀、号は大中道人。別名は生田首
道麿(ミチマロ)・菅原道満(ミチマロ)。上野国館林藩士生田信勝の子。
平田篤胤に学ぶ。1828(文政11)藩政改革を建議して追放。許
されても帰藩せず、1836(天保 7)越後の柏崎(カシワザキ)に移住し
私塾桜園塾を開く。
天保飢饉(キキン)の際に代官・米商人の不正に憤り、1837(天保
8. 2.)大塩平八郎の乱に影響を受け、6月救民のため柏崎陣
屋を襲って失敗、負傷して自刃(生田万の乱)。
(*)1801(寛政13,享和元)。
いぐち さよこ《ゐぐち さよこ》
井口 小夜子
1914(大正 3)
2003.11. 9(平成15)
◇歌手。本名は田沼とみ子。東京出身。
1928(昭和 3)童謡歌手としてデビュー。
東洋音楽学校を中退。
歌は『みかんの花咲く丘』など。
いけ こううろう
池 皐雨郎
1873. 6.22(明治 6)
1954. 3.28(昭和29)
◇詩人。本名は亨吉(コウキチ)、号は暗光・断水楼主人・天舟。高
知市生れ。
いけ たいが
池 大雅
1723(享保 8)
1776(安永 5)
◇江戸中期の南画家。通称は菱屋嘉左衛門、号は九霞山樵・
大雅堂・竹居。妻は女流画家玉瀾(ギョクラン)。京都の人。
清国人伊孚九(フキュウ)に私淑。
(4)名は無名(アリナ)。
(6)名は勤……。
◎画家として与謝蕪村(ヨサ・ブソン)と並び称される。
『十便十宜帖』は蕪村との合作。
いけうち ひろし
池内 宏
1879(明治12)
1952(昭和27)
◇東洋史学者。東京の人。
東京大学教授。
いけがい しょうたろう
池貝 庄太郎
1869(明治 2)
1934(昭和 9)
◇工作機械工業の先駆者。安房の人。
東京の田中製作所(芝浦製作所の前身)などの職工を経て、
1889(明治22)東京芝金杉に池貝工場を開業し、国産初の旋盤を
製作。
日露戦争で海軍関係の各種工作機械を製造。1906(明治39)池
貝鉄工所を設立。
いけじま しんぺい
池島 信平
1909.12.22(明治42)
1973. 2.13(昭和48)
◇ジャーナリスト。
いけだ かつみ
池田 克巳
1912. 5.29(明治45)
1953. 2.13(昭和28)
◇詩人。
(8)誕生日は 5.27。
いけだ きかん
池田 亀鑑
1896.12. 9(明治29)
1956.12.19(昭和31)
◇国文学者・小説家。鳥取県の人。東京大学教授。
いけだ きくなえ《いけだ きくなへ》
池田 菊苗
1864
1936(昭和11)
◇化学者。京都生れ。東京大学卒業。
桜井錠二に師事。1899(明治32)ドイツに留学。1901(明治34)
東京大学教授。1923(大正12)東京大学名誉教授。
味の素の発明が有名。
(*)1864(文久 4,元治元)。
いけだ こぎく
池田 小菊
1892. 3.15(明治25)
1967. 3. 9(昭和42)
◇小説家。和歌山県生れ。和歌山女子師範卒業。
いけだ しげあき
池田 成彬
1867(慶応 3)
1950(昭和25)
◇実業家のち政治家。米沢の人。中上川彦次郎(ナカミガワ・ヒコジロウ)
の女婿。娘敏子は岩崎隆弥(三菱本社3代目社長久弥の次男)の
嫁。
慶応義塾・ハーバード大学に学ぶ。
時事新報から中上川彦次郎時代の三井銀行に転じ、筆頭常務
を経て、1932. 3.(昭和 7)団琢磨(ダン・タクマ)の横死により三井
合名会社常務理事。「三井の大番頭」と呼ばれる。
1927(昭和 2)大蔵省の反対を押し切り、台湾銀行に対して短
期融資(コール)の引き上げを行ない、台湾銀行を破綻に追い込
む。
また、三井報恩会を設立し表向きは社会事業に寄付を行ない、
一方では北一輝を通じて右翼・軍部に多額の献金を行う。1936
(昭和11)二・二六事件の際は反乱軍に資金を提供したかどで調
べられるが、不起訴となる。
陸軍参謀本部第二課長石原莞爾(カンジ)大佐らの「軍財抱合(グ
ンザイホウゴウ)」構想により、1937(昭和12)「祭政一致」を掲げる林
銑十郎内閣の日本銀行総裁。第一次近衛内閣蔵相兼商工相・枢
密顧問官を歴任。
◎池田成彬のことば「三井という名は社会公共事業・慈善事業
といった方面にのみ使えばよい。平たくいえば銭設けの方では
三井の名を使わず、銭を散ずる方だけ三井の名を出せばよい」
(持株会社整理委員会『財閥の解体』)。
いけだ ずいせん
池田 瑞仙
1734(享保19)
1816(文化13)
◇江戸後期の幕府医師。周防国岩国の人。
いけだ せいひん
池田 成彬
⇒いけだ しげあき(池田 成彬)
いけだ そうたん
池田 宗旦
1636(寛永13)
1693(元禄 6)
◇江戸中期の俳人。通称は俵屋吉兵衛、別号は兀翁。摂津国伊
丹(イタミ)の人。伊丹風の祖。
いけだ だいご
池田 大伍
1885. 9. 6(明治18)
1942. 1. 8(昭和17)
◇劇作家・演出家。本名は銀次郎。東京生れ。1907(明治40)早
稲田大学英文科卒業。池田弥三郎(ヤサブロウ)の叔父。
(3)池田 大伍(いけだ だいご)。
(5)池田 大伍(いけだ たいご)、没日は 1. 7。
(8)池田 大伍(いけだ だいご)。
(11)池田 大伍(いけだ たいご)、没日は 1. 7。
(13)池田 大伍(いけだ だいご)、没日は 1. 8。
いけだ たいしん
池田 泰真
1825(文政 8)
1903(明治36)
◇漆芸家。江戸生れ。
11歳で柴田是真に蒔絵を学ぶ。1859(安政 6)独立して一家を
なす。
いけだ ただお
池田 忠雄
1905. 2. 5(明治38)
1964. 5.12(昭和39)
◇シナリオ作家。
いけだ てるまさ
池田 輝政
1564(永禄 7)
1613(慶長18)
◇安土桃山時代の武将。
織田信長のち豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦では徳川家康に
属し、播磨(ハリマ)52万石を与えられ姫路を居城とする。のち備
前・淡路を得る。
いけだ としお
池田 敏雄
1916(大正 5)
1981(昭和56)
◇編集者・民俗学者。
日本統治下の台湾で日本語教育に携わり、かたわら『民俗台
湾』などを編集。
いけだ はやと
池田 勇人
1899(明治32)
1965(昭和40)
◇政治家。広島県生れ。
1925(大正14)京都大学法学部卒業。大蔵次官。
吉田茂に知られ自由党に入党。1949(昭和24)第3次吉田内閣
の大蔵大臣。大蔵・通産大臣を経て、1960(昭和35)安保問題で
退陣した岸信介の後、3度組閣。1964(昭和39)病気により総辞
職。
第1次就任:1960. 7.19(昭和35)〜1960.12. 8(昭和35)、第
2次就任:1960.12. 8(昭和35)〜1963.12. 9(昭和38)、第3次
就任:1963.12. 9(昭和38)、総辞職:1964.11. 9(昭和39)。
◆墓は東京都港区の青山霊園。
いけだ ひさお
池田 寿夫
1906. 8.15(明治39)
1944.11. 9(昭和19)
◇評論家。本名は横山敏男。
いけだ みさき
池田 岬
1914. 4. 6(大正 3)
1977. 1.29(昭和52)
◇小説家。
いけだ みつまさ
池田 光政
1609(慶長14)
1682(天和 2. 5.22)
◇江戸前期の外様大名。幼名は幸隆(ヨシタカ)、通称は新太郎、左
近衛権少将を賜り池田新太郎少将という、諡は芳烈公。父は姫
路城主池田武蔵守利隆、母は榊原康政の娘鶴子(徳川秀忠の養
女)、妻は本多忠刻(タダトキ)・千姫(天樹院,秀忠の娘)の娘勝子。
備前国岡山生れ。
1616(元和 2)父利隆が没し、播磨国42万石を継ぐが、翌年幼
少を理由に因幡・伯耆32万石に減封され鳥取城に移る。
1628(寛永 5)勝子を妻とする。
1632(寛永 9)叔父の岡山城主池田忠雄が没し、嗣子光仲が幼
少のため幕命で因伯両国と備前との国替えとなり、備前岡山31
万5千石に入封。
1672(寛文12)致仕。
熊沢蕃山(バンザン)を登用する。藩校閑谷(シズタニ)学校の設立
・治水事業・産業振興など名君と称される。
いけだ やさぶろう
池田 弥三郎
1914.12.21(大正 3)
1982. 7. 5(昭和57)
◇国文学者・民俗学者。東京生れ。慶応義塾大学国文科卒業。
池田大伍(ダイゴ)の甥。
いけだ よしのぶ
池田 義信
1892. 3.10(明治25)
1973. 9. 1(昭和48)
◇映画監督。
いけだ らんこ
池田 蘭子
1893. 9.19(明治26)
1976. 1. 4(昭和51)
◇小説家。旧姓は山田。
いけたに しんざぶろう
池谷 信三郎
1900.10.15(明治33)
1933.12.21(昭和 8)
◇小説家・劇作家。東京市京橋区船松町生れ。1922(大正11)東
京大学法学部入学、六月に休学してベルリン大学法科に入学。
1923(大正12)関東大震災で実家が焼失したため帰国。
新聞の懸賞小説に『望郷』が当選。
(4)池谷 信三郎(いけのや しんざぶろう)。
(13)池谷 信三郎(いけのや しんざぶろう)。
いけなが たいちゅう
池永 大虫
生年不詳
1870(明治 3.12.20)
◇俳人。通称は量平、号は藻魚庵・無絃・無絃琴。
いけにし ごんすい
池西 言水
1650(慶安 3)
1722(享保 7. 9.24)
◇江戸中期の俳人。名は則好、別号は紫藤軒・洛下童。「木枯
の果てはありけり海の音」から「木枯の言水」といわれた。奈良
の人。松江重頼(シゲヨリ)(維舟)の門人。
◆言水忌[旧暦 9.24]。
いけの せいいちろう《いけの せいいちらう》
池野 成一郎
1866(慶応 2)
1943(昭和18)
◇植物細胞学者・遺伝学者。東京生れ。
東京大学植物学科卒業。東京大学教授。1896(明治29)蘇鉄(ソ
テツ)の精子を発見。
(4)明治三一年ソテツの精子を発見……。
(6)ソテツの精子を発見し(1896)……。
いけのうち たけし
池内 たけし
1889. 1.21(明治22)
1974.12.25(昭和49)
◇俳人。本名は洸(タケシ)。愛媛県松山市湊町生れ。東洋協会殖
民専門学校(現:拓殖大学)に入学、三年に朝鮮京城の分校に学
んだが中途退学。高浜虚子の甥(高浜虚子の中兄池内信嘉<ノブヨ
シ>の長子)。
いけのぜんに
池 禅尼
生年不詳
没年不詳
◇平安末期の平忠盛の後妻。別名は池ノ尼。平清盛の継母、平
頼盛の実母。
名前は六波羅の池殿にいたから、また池殿は頼盛の通称でも
ある。
いけのたいが
池 大雅
⇒いけ たいが(池 大雅)
いけのだいなごん
池 大納言
⇒たいらのよりもり(平 頼盛)
いけのや しんざぶろう
池谷 信三郎
⇒いけのや しんざぶろう(池谷 信三郎)
いけぶくろ きよかぜ
池袋 清風
1847(弘化 4. 4.)
1900. 7.20(明治33)
◇歌人。幼名は宗允(ムネカズ)、号は夢山、屋号は案山子廼舎・
松濤窟。日向(ヒウガ)国(現:宮崎県)都城(ミヤコノジョウ)生れ。
(5)屋号は案山子廼舎(カカシノヤ)、松濤窟(ショウトウクツ)。
(11)家号は案山子廼家。
(13)家号は案山子乃舎。
いけべ さんざん
池辺 三山
1864(文久 4. 2. 5)
1912. 2.28(明治45)
◇新聞記者。本名は吉太郎、字は任道、諱は重遠、別号は
鉄崑崙・無字庵主人・木生・(草冠+「函」)(草冠+「陷」-阜偏)主
人。肥後国熊本生れ。慶応義塾卒業。
1893(明治26)渡仏、鉄崑崙の筆名で「巴里通信」を「日本新聞」
に送る。大阪朝日新聞・東京朝日新聞の主筆を歴任。
(1)生年は1864(元治元):誤。
(2)生年は1865(慶応元)。
(3)生年は1864(元治元):誤。
(5)生年は1864(文久 4):正、 2. 5はまだ文久。
(6)生年は1864。
(8)生年は1864(元治元):誤。
(11)生年は1864(元治元):誤。
いけべ ひとし
池部 鈞
1886. 3. 3(明治19)
1969.12.17(昭和44)
◇画家。旧姓は山下。
いけべ よしかた
池辺 義象
1861(文久元.10. 3)
1823. 3. 6(大正12)
◇国文学者・歌人。号は藤園・知旦。小中村清矩(コナカムラ・キヨノリ)
の養子で、のち1897(明治30)本姓池辺に復した。肥後国(熊本
県)生れ。
1886(明治19)東京大学古典講習科卒業。1898(明治31)フラン
スに留学。第一高等学校教授。1914(大正 3)御歌所寄人兼臨時
帝室編修局編修官。
東洋学会を設立。
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