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人 名 辞 典 《ほさ》 編集:獨 澄旻
-------- ほさ --------------------------------------------------
ほし せんと
星 セント
1948. 1.16(昭和23)
2004. 7.22(平成16)
◇漫才師。本名は村山袈裟夫(ケサオ)。長野市出身。
1972(昭和47)星ルイスと漫才コンビのセント・ルイスを結成。
2003(平成15)コンビを解消。
肺ガンで死去。
◎「田園調布に家が建つ」のフレーズで知られる。
ほし とおる
星 亨
1850(嘉永 3. 4.)
1901. 6.21(明治34)
◇明治時代の政治家。父は左官屋徳兵衛、母はマツ。
陸奥宗光(ムネミツ)の引き立てにより1872(明治 5)大蔵省に入り、
英国に留学し日本人で始めて英国法廷弁護士の資格を得る。
1882(明治15)自由党に入党。
剣客伊庭想太郎(イバ ソウタロウ)に東京市役所で刺され死亡。
ほし るいす
星 ルイス
1950.11.17(昭和25)
2005. 3.10(平成17)
◇漫才師。本名は藤江充夫(ミツオ)。東京都出身。
1972(昭和47)星セントと漫才コンビのセント・ルイスを結成。
2003(平成15)コンビを解消。
肺ガンで死去。
◎「田園調布に家が建つ」のフレーズで知られる。
ほし れいこ
星 玲子
1915(大正 4)
2003.11.24(平成15)
◇女優・歌手。本名は多田琴子(タダ・コトコ)。東京出身。マキノ
光雄の妻。
1932(昭和 7)日活に入社。
1935(昭和10)『のぞかれた花嫁』に杉狂児と主演し、ディッ
ク・ミネとのデュエットした主題歌『二人は若い』がヒット。
ほしな こういち
保科 孝一
1872(明治 5)
1955(昭和30)
◇国語学者。
著書は『大東亜共栄圏と国語政策』など。
ほしな まさとし
保科 正俊
1509(永正 6)
1593(文禄 2)
◇安土桃山時代の武将。名は弾正忠、通称は槍弾正。保科甚四
郎正則の子、正直(マサナオ)の父。
武田信玄のち徳川家康に仕え、信濃高遠3万石城主。
ほしな まさなお
保科 正直
1542(天文11)
1601.10.24(慶長 6. 9.29)
◇安土桃山時代の武将。通称は甚四郎、越前守・弾正忠(ダンノジョ
ウ)。正俊(マサトシ)の子、正光の父。
ほしな まさゆき
保科 正之
1611. 6.17(慶長16. 5. 7)
1673. 2. 4(寛文12.12.18)
◇江戸前期の大名・会津藩藩祖。幼名は幸松丸のち正之。第2
代将軍徳川秀忠の第3子、母は神尾氏お静の方。家光の異母弟。
1617(元和 3)保科正光の継嗣となり、1631(寛永 8)遺領を継
ぎ信濃高遠城主。1643(寛永20)会津若松23万石城主。
1651(慶安 4)第3代将軍家光の死後、その遺命により新将軍
家綱の後見として幕政を担当。
ほしの すいり
星野 水裏
1881(明治14)
1937. 5. 4(昭和12)
◇詩人。本名は久、変名は水野うら子・淡路しま子・白頭・白桃。
ほしの せきえい
星野 夕影
1869(明治 2.11. 8)
1924. 3.19(大正13)
◇建築家。本名は男三郎、別号は夕軒。星野天知(テンチ)の弟。
ほしの たつお
保篠 龍緒
1892.11. 6(明治25)
1968. 6. 4(昭和43)
◇翻訳家・小説家。本名は辰男。
ほしの たつこ
星野 立子
1903.11.15(明治36)
1984. 3. 3(昭和59)
◇俳人。東京市麹町区生れ。東京女子大学卒業。高浜虚子(キョシ)
の次女。1925(大正14)星野吉人(ヨシト)(天知の子)と結婚。
ほしの てんち
星野 天知
1862(文久 2. 1.10)
1950. 9.17(昭和25)
◇評論家・小説家。幼名は新之助、本名は慎之輔、別号は
天為居士(テンイコジ)・暗光廬主・暗光子・蓮花庵・天地坊・
破蓮坊。江戸日本橋本町の商家に生れた。農科大学に学ぶ。
星野夕影(セキエイ)(夕軒)の兄、星野立子(タツコ)の義父。
(10)誕生日は 1.15。
(11)誕生日は 1.10。
(13)誕生日は 1.10。
ほしの ばくじん
星野 麦人
1877. 4.13(明治10)
1965. 3.12(昭和40)
◇俳人。本名は仙吉(センキチ)。東京牛込生れ。
(3)没日は 3.12。
(5)没日は 3.13。
(10)没日は 3.12。
(11)没日は 3.13。
(13)没日は 3.12。
ほずみ ……《ほづみ ……》
穂積 ……
⇒ほづみ ……(穂積 ……)
ほそい ぎょたい
細井 魚袋
1889. 1. 2(明治22)
1962.11. 2(昭和37)
◇歌人。本名は子之助(ネノスケ)。
ほそい わきぞう
細井 和喜蔵
1897. 5. 9(明治30)
1925. 8.18(大正14)
◇小説家。京都府生れ。代表作『女工哀史』。
ほそかわ かつもと《ほそかは かつもと》
細川 勝元
1430(永享 2)
1473(文明 5)
◇室町中期の武将。
1445(文安 2)以来3度、管領となる。
将軍足利義政の継嗣、畠山・斯波(シバ)氏らの内紛にからん
で、1467(文正 2,応仁元)応仁の乱を起こし、東軍の主将とし
て将軍足利義政を擁し、山名宗全(持豊)を主将とする西軍と争っ
たが、乱中に病死。
禅に帰依し、1450(宝徳 2)竜安寺を創建。
ほそかわ がらしや《ほそかは がらしや》
細川 ガラシヤ
1564(永禄 7)
1600(慶長 5)
◇安土・桃山時代、細川忠興(タダオキ)の妻・明智光秀の娘。本
名は玉(たま)、熱心なキリシタン信者でガラシヤは洗礼名。細
川忠利(タダトシ)の母。
織田信長の命により、1578(天正 6)忠興に嫁ぎ、3子を出産。
本能寺の変により離縁されたが、豊臣秀吉のはからいで復縁。
関ヶ原の戦の直前、石田三成に大坂方の人質として大坂城入
城を強要されたが、それを拒み邸宅を囲まれて自殺(殉節)。
(*)「大坂」は当時の記法。
ほそかわ たけこ
細川 武子
1892. 6.16(明治25)
1956. 9.28(昭和31)
◇児童文学者。
ほそかわ ただおき
細川 忠興
1563(永禄 6)
1645(正保 2.12. 2)
◇安土桃山時代の武将・茶人。初名は与一郎。1620(元和 6)剃
髪して三斎宗立と号した。細川ガラシヤの夫、細川幽斎(ユウサイ)
(藤孝)の子、忠利(タダトシ)の父。
初め室町幕府に、滅亡後は父とともに織田信長に仕え、1577
(天正 5)紀伊の雑賀一揆の討伐に加わり、1578(天正 6)丹後宮
津城を与えられる。
1582(天正10)本能寺の変には明智光秀(ガラシヤの父)の招き
に応ぜず、ガラシアを丹波三戸野に幽閉し、豊臣秀吉に味方す
る。
(4)生年は1564(永禄 7)。関ヶ原の戦には徳川方に力を致し、
豊前・豊後三○万石に封。
(6)生年は1563(永禄 6)。関ヶ原の戦で徳川方に属し豊前(ブゼ
ン)中津三九万石を受けた。
(11)「細川 幽斎」の項。秀吉の死後は徳川家に属し、忠興が豊
前・中津四○万石の大名になるや……。
ほそかわ ただとし
細川 忠利
1586(天正14)
1641(寛永18)
◇江戸前期の大名。初名は光のち第2代将軍徳川秀忠の一字を
与えられ忠利と改名、字は内記、通称は越中守。細川忠興(タダ
オキ)の3男、母は細川ガラシア、忠尚の父。
1600(慶長 5)関ヶ原の戦いに徳川家康の軍として出陣。1609
(慶長14)秀忠の養女千代姫を妻とする。1620(元和 6)家督を継
ぎ豊前国小倉藩39万9千石の藩主。1632(寛永 9)肥後国熊本藩
54万石に移封。1637(寛永14)島原の乱に出陣。
◎森鴎外の『阿部一族』は、この忠利への殉死に関する話であ
る。
ほそかわ ふじたか
細川 藤孝
⇒ほそかわ ゆうさい(細川 幽斎)
ほそかわ もりさだ《ほそかは もりさだ》
細川 護貞
1912. 7.17(明治45)
2005.10. 3(平成17)
◇肥後藩主細川家第17代当主。先妻は近衛文麿の娘温子、細川
護熙(モリヒロ)・近衛忠Wの父。
1940(昭和15)近衛文麿首相の秘書官に就任。
1943〜1945(昭和18〜昭和20)高松宮宣仁親王の秘書役。
ほそかわ ゆうさい《ほそかは いうさい》
細川 幽斎
1534(天文 3. 4.22)
1610(慶長15. 8.20)
◇安土桃山時代の武将・古典学者・歌人。幼名は万吉・万一郎、
諱(イミナ)は藤孝(フジタカ)、晩年剃髪し法号は玄旨(ゲンシ)幽斎。通
称は兵部大輔・二位法印。
足利幕臣三淵晴員(ハルカズ)の次男として生れ、幕臣細川元常
(モトツネ)の養嗣子となり、後年長岡氏を称した。京都・岡崎生れ。
1572(元亀 3)三乗西実枝(サネキ)から古今伝授を受け、近世歌学
の祖と称された。
将軍足利義晴(ヨシハル)・義輝(ヨシテル)に仕え、義輝殺害のあと義
輝の弟義昭(ヨシアキ)を保護し、1568(永禄11)織田信長を説得し義
昭を将軍にする。丹後23万石の田辺城主となり、1582(天正10)
本能寺の変後、明智光秀(子忠興<タダオキ>の岳父)の招きに応ぜ
ず、山崎の戦いで光秀を討ち滅ぼす。のち豊臣秀吉に仕え、秀
吉の死後は徳川家に属する。関ヶ原の戦の直前、石田三成の1
万5千余の大軍で田辺城を包囲されたとき、500に満たない手兵
で防戦、60余日籠城(ロウジョウ)する。この際し死を決意、古今伝
授が自分の死とともに杜絶することを憂慮し、使者をつかわし
てその秘事を八条宮智仁(トシヒト)親王に伝授した。
ほそかわ よしのすけ
細川 芳之助
1881. 7.23(明治14)
1964. 1.23(昭和39)
◇印刷・出版人。本名は景正、別号は花紅。細川活版所を興し
た叔父芳之助の養嗣子となり、相続襲名した。
ほそきばら せいき
細木原 青起
1885. 5.15(明治18)
1958. 1.27(昭和33)
◇漫画家・挿絵画家。本名は辰江、別号は静岐。岡山県生れ。
黒崎修斎らに版画を学び、日本美術院卒業。
ほそごえ かそん
細越 夏村
1884. 5.25(明治17)
1929. 1.15(昭和 4)
◇詩人・小説家。本名は省一。盛岡市生れ。早稲田大学文科卒
業。
(13)ほそごし かそん(細越 夏村)。
ほそだ げんきち
細田 源吉
1891. 6. 1(明治24)
1974. 8. 9(昭和49)
◇小説家。旧姓は池田。東京麻布生れ。埼玉川越町の細田丑太
郎の養子となり、一五歳で上京、商家の徒弟や外人のボーイな
どになる。文学に志し、1915(大正 4)早稲田大学英文科卒業。
ほそだ たみき
細田 民樹
1892. 1.27(明治25)
1972.10. 5(昭和47)
◇小説家。東京・南葛飾(カツシカ)郡瑞穂(ミズホ)村生れ。七歳の時
から1911(明治44)県立第一中学校卒業まで父の郷里広島県壬生
町で過ごす。1915(大正 4)早稲田大学英文科卒業。その後、騎
兵第五連隊に入営。
ほその こうじろう
細野 孝二郎
1901.12.18(明治34)
1977. 2. 1(昭和52)
◇小説家。
ほそや げんじ
細谷 源二
1906. 9. 2(明治39) ????
1970.10.12(昭和45)
◇俳人。本名は源太郎、旧号は碧葉。
(10)誕生日は10.10。
ぼたんか しょうはく
牡丹花 肖柏
1443(嘉吉 3)
1527(大永 7. 4. 4)
◇室町後期の連歌師。牡丹花(ぼたんげ)とも。号は牡丹花・
弄花軒・夢庵。中院通淳の子、牧羊軒亭雲の父、半井卜養(ナカラ
イ・ボクヨウ)の祖父。和泉の人。
飯尾宗祇(ソウギ)から古今伝授を受け(堺伝授)、さらに奈良饅
頭屋宗二に伝授(奈良伝授)。
ぼたんげ しょうはく
牡丹花 肖柏
⇒ぼたんか しょうはく(牡丹花 肖柏)
ほった まさとし
堀田 正俊
1634(寛永11)
1684(貞享元. 8.28)
◇江戸前期の政治家・下総古河藩主・大老。
若年寄の稲葉正休(マサヤス)に刺殺される。
ほった まさよし
堀田 正睦
1810(文化 7)
1864(元治元. 3.21)
◇江戸幕末の老中首座。一橋慶喜(ヨシノブ)の擁立に失敗。井伊
直弼(イイ・ナオスケ)の大老就任後、老中を罷免されて蟄居(チッキョ)。
ほづみ きよし
穂積 忠
1901. 3.17(明治34)
1954. 2.27(昭和29)
◇歌人。静岡県伊豆田方郡田中村生れ。1923(大正12)国学院大
学卒業。三島高等学校長。
ほづみ しげとお《ほづみ しげとほ》
穂積 重遠
1883(明治16. 4.11)
1951(昭和26. 7.29)
◇明治〜昭和期の法学者。東京生れ。穂積陳重(ノブシゲ)の子。
身分法の樹立者。東京大学卒業。
東京大学講師、1910(明治43)助教授。1912年、独・仏・英に
留学、1916(大正 5)帰国。1920(大正 9)東京大学教授、東京大
学法学部長、1943(昭和18)定年退職。1944(昭和19)貴族院議員。
東宮大夫兼東宮侍従長・1949(昭和24)最高裁判所判事などを歴
任。
(2)没年は1951(昭和26)。
(4)没年は1950。
(6)没年は1951。
(16)没日は1951(昭和26. 7.29)。
(*)1912(明治45,大正元)。
ほづみ のぶしげ
穂積 陳重
1856(安政 3. 7.11)
1926(大正15. 4. 8)
◇明治・大正期の法学者。伊予国(愛媛県)宇和島藩士穂積重樹
の次男、穂積八束(ヤツカ)の兄、重遠(シゲトオ)の父。
藩校明倫館で学び、開成学校に入る。大学南校卒業。1876
(明治 9)文部省から派遣され英独に留学。1881(明治14)帰国。
1882(明治15)から明治末年まで東京大学教授。1888(明治21)日
本初の法学博士となる。1890(明治23)貴族院議員。旧民法公布
に当っては日本古来の家族制度を破壊するものとして反対する。
1893(明治26)法典調査会主査委員となり、富井政章・梅謙次郎
(ウメ・ケンジロウ)らと明治民法を起草。1912年、帝国学士院会員。
1919(大正 8)臨時法制審議会総裁。1925(大正14)帝国学士院長。
(2)1876(明治 9)文部省から……。'15枢密顧問官,ついで議長。
(16)1876(明治 7)年文部省の……:誤。1916(大正 5)枢密顧問,
のち議長.
(*)1874(明治 7)、1876(明治 9)、1912(明治45,大正元)。
ほづみ やつか
穂積 八束
1860
1912(大正元.10. 5)
◇明治時代の憲法学者。伊予国(愛媛県)生れ。穂積陳重(ノブシゲ)
の弟。東京大学卒業。
1884(明治17)ドイツに留学、1888(明治21)帰国。東京大学教
授。君権絶対主義の立場に立ち「穂積憲法」を唱える。1890(明
治23)フランスの影響を受けた自由主義的な旧民法公布に際し、
「民法出デテ忠孝亡ブ」と題する批判を発表、フランス学派とイ
ギリス学派が論争(民法典論争)、施行を止め明治民法を施行さ
れる。1899(明治32)貴族院議員。1908(明治41)宮中顧問官。国
定教科書調査委員。
1912年に始まる美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃。
(*)1860(安政 7,万延元)、1912(明治45,大正元)。
ほり しざん
堀 紫山
1863(文久 3)
1940. 3.16(昭和15)
◇新聞人。本名は成之(ナリユキ)。堺利彦の妻美知子の兄、大杉栄
の妻保子の兄。
ほり じろう
堀 次郎
⇒あかし じろう(明石 次郎)
ほり たつお《ほり たつを》
堀 辰雄
1904.12.28(明治37)
1953. 5.28(昭和28)
◇小説家。東京麹町平河町生れ。
府立第三中学校四年修了、1921. 4.(大正10)第一高等学校理
科乙に入学し、神西清を知り文学を志す。1925(大正14)東京大
学国文科入学。
1926(大正15)中野重治・窪川鶴次郎らと同人雑誌「驢馬(ロバ)」
を創刊し同人。「山繭」・「文学」の同人。芥川竜之介・室生犀星
に師事。
1930(昭和 5)病に倒れ、1931(昭和 6)4月から夏まで信州富
士見のサナトリウムに入る。
三好達治・丸山薫・立原道造らと「四季」を創刊。
1944. 3.(昭和19)信州追分で病臥生活する。
作品は『聖家族』・『美しい村』・『風立ちぬ』・『幼年時
代』・『菜穂子』・『かげろふの日記』など。
◆辰雄忌[ 5.28]。
ほり たつのすけ
堀 達之助
1823(文政 6)
1894(明治27)
◇オランダ通詞。肥前の人。
1862(文久 2)日本最初の英語辞典『英和対訳袖珍(シュウチン)辞
典』を発行。
ほり ばくすい
堀 麦水
1718(享保 3)
1783(天明 3.10.14)
◇江戸中期の俳人。別号は樗庵(チョアン)。加賀(カガ)国生れ。
ほり ひでまさ
堀 秀政
1553(天文22)
1590(天正18)
◇戦国時代の武将・近江佐和山城主のち越前北ノ庄城主。初名
は久太郎、通称は従四位下侍従・左衛門督。美濃の土豪堀秀重
の子。
ほりうち しんせん
堀内 新泉
1873.11.(明治 6)
没年不詳
◇小説家・詩人。
ほりうち みちたか
堀内 通孝
1904. 1. 1(明治37)
1959. 4. 7(昭和34)
◇歌人。
ほりえ さく
堀江 朔
1891. 2. 1(明治24)
1939. 2.10(昭和14)
◇評論家。正淳と改名。
ほりぐち くまいち
堀口 九万一
1865(慶応元. 1.28)
1945.10.30(昭和20)
◇外交官・随筆家。号は長城。堀口大学の父。
ほりぐち すてみ
堀口 捨己
1895(明治28)
1984(昭和59)
◇建築家。岐阜県生れ。
1920(大正 9)東京帝国大学建築学科卒業。同年、分離派建築
会の創立に参加。
1923. 7.(大正12)〜1924. 1.(大正13)渡欧。
作品は1925. 6.(大正14)小出邸・1926(大正15)紫烟荘(焼失)
など。
著書は1924(大正13)『現代オランダ建築』・『利休の茶室』
・『住宅と庭園』・『桂離宮』など。
◎小出邸は東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築され現
存。
茶室建築の権威としても知られる。
ほりぐち だいがく
堀口 大学(堀口 大學)
1892. 1. 8(明治25)
1981. 3. 1(昭和56)
◇詩人・翻訳家。雅号は十三日月(トミカヅキ)。東京市本郷区森川
町生れ。外交官堀口九万一(クマイチ)の長男。慶応義塾大学に入学
するが、中退して父の外遊に従い、1925(大正14)帰国。
(3)没日は 3. 1。
(5)没日は 3.15。
ほりべ あきざね
堀部 金丸
1627(寛永 4)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士(最年長)。赤穂藩士、江戸留守居役。通
称は弥兵衛(ヤヘエ)、戒名は刃毛知剣信士。堀部安兵衛(ヤスベエ)武
庸(タケツネ)の養父。妻は「わか」、娘は「おほり」。浅野長直(ナガナオ)
・長友(ナガトモ)・長矩(ナガノリ)の三代に仕える。
吉良家討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、
翌年、米良市右衛門(メラ・イチエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
(2)浅野長直に仕えて300石,浅野長矩のとき江戸留守居と
なる。中山安兵衛を養子として隠居,隠居料20石。
(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
成美堂出版 昭和56年11月 1日初版発行
監修:尾崎秀樹 昭和57年 1月10日四刷発行
三百二十石。
ほりべ たけつね
堀部 武庸
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻兼祐筆役、禄高200石。
通称は安兵衛(ヤスベエ)、戒名は刃雲輝剣信士。吉良家の探索中
の変名は長江長左衛門(ナガエ・チョウザエモン)。父は中山弥次右衛門
(ヤジエモン)、元越後新発田溝口(ミゾグチ)家の家臣、馬廻役、禄高
200石。
父弥次右衛門が過って城中隅櫓(スミヤグラ)で火を出し、その罪
で浪人。安兵衛は中山家再興を願っていたが、堀部弥兵衛(ヤヘエ)
金丸(アキザネ)の懇望により入婿する。
吉良家の屋敷の絵図を、前住者の松平登之助(ノボリノスケ)のと
きのものを入手する。
吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、荒川十太夫(アラカワ・ジュウダユウ)
の介錯(カイシャク)で切腹。
◎講談の「高田馬場の十八番斬り」で有名。伯父菅野六郎左衛門
(スガノ・ロクロウザエモン)の助太刀に駆け付けた安兵衛に、襷(タスキ)に
する緋縮緬(ヒチリメン)の腰紐を渡したのが弥兵衛の娘「おほり」で
ある。
後年、妙海尼(ミョウカイニ)が弥兵衛の娘・安兵衛の妻として名乗
り出ている。
ほりべ やすべえ
堀部 安兵衛
⇒ほりべ たけつね(堀部 武庸)
ほりべ やへえ《ほりべ やへゑ》
堀部 弥兵衛
⇒ほりべ あきざね(堀部 金丸)
ほんあみ こうえつ《ほんあみ くわうえつ》
本阿弥 光悦
1558
1637(寛永14. 2. 3)
◇桃山〜江戸初期の芸術家。「ほんなみ こうえつ(本阿弥 光
悦)」とも呼ぶ。
刀剣の鑑定・研摩を業とする本阿弥家の分家に生れた。家業
のほかに書道(青蓮院流)は寛永三筆の一人といわれ、蒔絵は斬
新な意匠を考案し、楽焼に秀で、茶道を嗜んだ。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
◆光悦忌[旧暦 2. 3]。
◆光悦忌茶会[11.10〜11.13]京都市北区高ヶ峰の光悦寺。
ほんいんぼう さんさ《ほんいんばう さんさ》
本因坊 算砂
1559(永禄 2)
1623(元和 9)
◇囲碁棋士。京都寂光寺本因坊の僧日海。本因坊の祖(初世)。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
ほんじょう むつお
本庄 陸男
1906. 2.20(明治39)
1939. 7.23(昭和14)
◇小説家。筆名は岩木喬・江藤三郎。北海道石狩川のほとりの
別当(ベットウ)村生れ。1921(大正10)母方の叔父を頼って上京、
青山師範に入学、1925(大正14)卒業。小学校教員となるが、
1928(昭和 3)ナップに参加して教職を退く。肺結核で死去。
(1)生年は1905(明治38)。
(2)生年は1905(明治38)。
(3)生年は1906(明治39)。
(5)生年は1906(明治39)。
(10)生年は1905(明治38)。
(11)生年は1906(明治39)。
(13)生年は1905(明治38)。
ほんだ あうい
本田 あふひ
1875.12.17(明治 8)
1939. 4. 2(昭和14)
◇俳人。本名は伊万子。
ほんだ あきら
本田 顕彰
1898.10. 7(明治31)
1978. 6.30(昭和53)
◇文芸評論家・英文学者・翻訳家。愛知県名古屋市生れ。東京
大学英文科卒業。法政大学教授。
ほんだ いちろう
本多 市郎
1895(明治28)
1959(昭和34)
◇昭和期の政治家。長崎県生れ。
ほんだ きよじ
本田 喜代治
1896.10.15(明治29)
1972.10.22(昭和47)
◇社会学者・評論家。
ほんだ きんきちろう
本多 錦吉郎
1850(嘉永 3)
1921(大正10)
◇明治の漫画家。江戸生れ。日本で初めてペンで漫画を描いた。
ほんだ くまたろう
本多 熊太郎
1874(明治 7)
1948(昭和23)
◇明治〜昭和前期の外交官。
ほんだ こうたろう《ほんだ くわうたらう》
本多 光太郎
1870(明治 3)
1954(昭和29)
◇物理学者・冶金学者。愛知県生れ。
1897(明治30)東京大学物理学科卒業。1907〜1911(明治40〜
明治44)独・仏・英に留学。
1911(明治44)東北大学教授。長岡半太郎の指導を受け、磁気
の研究を始める。1916(大正 5)強力な磁気を帯びるKS鋼を発
明。1922(大正11)東北大学に金属材料研究所を創立し所長とな
る。
1931(昭和 6)東北大学の総長に就任。1933(昭和 8)さらに強
力なNKS鋼を発明。1937(昭和12)日本金属学会初代会長、第
1回文化勲章を受章。1940(昭和15)東北大学の総長を退任。
(4)独・仏・伊に留学。
(6)1907〜11年欧州留学……。
(19)独・仏・英国に留学。
ほんだ しげつぐ
本多 重次
1529(享禄 2)
1596
◇徳川家康の家臣。通称は作左衛門・鬼作左。
◎妻にあてた「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥(コ)
やせ」の手紙で有名。
(*)1596(文禄 5,慶長元)。
ほんだ しゅちく
本田 種竹
1863(文久 3)
1907. 9.29(明治40)
◇漢詩人。本名は幸之助、諱は秀、字は実郷。徳島生れ。
(10)生年は1862(文久 2)。名は秀(シュウ)、字は実卿(ジッケイ)、
通称は幸之助。
(13)生年は1863(文久 3)。名は幸之助、諱は秀、字は実郷。種
竹はその号。
ほんだ せいいち
本多 精一
1871(明治 4)
1920(大正 9)
◇明治・大正期のジャーナリスト。
ほんだ せいろく
本多 静六
1866(慶応 2)
1952(昭和27)
◇林学者。国立公園のために尽力。大日本山林会会長。
ほんだ ただかず
本多 忠籌
1739(元文 4)
1812(文化 9)
◇江戸後期の老中。
ほんだ ただかつ
本多 忠勝
1548(天文17)
1610(慶長15.10.18)
◇安土桃山・江戸初期の大名。幼名は鍋之助、通称は平八郎(ヘ
イハチロウ)・中務大輔。三河の人。本多忠高の長男、母は植村新六
郎氏義の娘。忠政(タダマサ)の父、忠刻(タダトキ)の祖父。徳川家康
四天王の一人。
徳川家康に仕える。1566(永禄 9)家康の旗本。1585(天正13)
侍大将。1601(慶長 6. 1.)伊勢国桑名15万石を与えられる。
ほんだ ただつぐ
本多 忠次
1547(天文16)
1612(慶長17)
◇安土桃山・江戸初期の武士。
ほんだ ただとき
本多 忠刻
1596
1626(寛永 3)
◇江戸前期の大名。初名は忠為、通称は平八郎。忠政(タダマサ)
の子、忠勝(タダカツ)の孫。
1615(慶長20. 5.)大坂夏の陣に従軍。豊臣秀頼(ヒデヨリ)に嫁
ぎ夏の陣で救出された徳川家康の孫千姫(センヒメ)と1616(元和 2)
結婚。1617(元和 3)播磨10万石を与えられる。姫路で死去。
(*)1596(文禄 5,慶長元)。
ほんだ ただとし
本多 忠利
1635(寛永12)
1700(元禄13)
◇江戸前・中期の大名。
ほんだ ただまさ
本多 忠政
1575(天正 3)
1631(寛永 8)
◇江戸前期の大名。通称は平八郎・美濃守。三河の人。忠勝(タ
ダカツ)(平八郎)の子、母は阿知和右衛門の娘。忠刻(タダトキ)の父、
妻は徳川信康(ノブヤス)の娘熊姫(クマヒメ)。
徳川家康に仕える。
1617(元和 3)播磨国姫路15万石を与えられる。
ほんだ ていきち
本多 貞吉
1766(明和 3)
1819(文政 2)
◇江戸後期の陶工。
ほんだ としあき
本多 利明
1743(寛保 3)
1820(文政 3.12.22)
◇江戸末期の経世家・和算家。幼名は長五郎のち繁八、通称は
三郎右衛門、号は北夷・魯鈍斎・北夷先生、江戸音羽に住み音
羽先生と呼ばれる。本多伊兵衛の子。越後国蒲原郡村山の生れ。
18歳で江戸に出て関流の和算を今井兼廷に、天文・暦学を千
葉歳胤に、剣を山県大弐に学ぶ。
24歳の時、音羽に算学の塾を開き、かたわら蘭学を学び、
開国・貿易・北防を説く。蘭書に地理を学び、1801年蝦夷地に
渡航。1808(文化 5)幕府から蝦夷地案内役に召されるが、辞退
して門弟最上徳内(モガミ・トクナイ)を派遣。
1809(文化 6)加賀藩に出仕、のち江戸に帰る。
(2)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没
年は1820(異)21(文政 3)。本田とも記す。算学を今井兼庭に…
…。1809(文化 6)加賀藩に20人扶持で1年半ほど仕官したほか
は……。
'08幕府から蝦夷地案内役に召されたが,自らは辞退して門
弟最上徳内を推した。
「最上徳内」の項:1786(天明 6)幕命により利明に代って蝦夷
地探検に赴き……。
(4)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1821。
(6)ほんだ としあきら(本多 利明)。生年は1743、没年は
1820か21。今井兼廷に関流の和算……。晩年は招かれて加賀藩
に出仕した。
(15)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没
年は1820(文政 3)。
(16)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1820。
算学を今井兼延・建部賢弘に学び…….1809(文化 6)加賀藩主
に招聘されたが,半年にして江戸に帰る.
(*)1801(寛政13,享和元)。
ほんだ としなが
本多 利長
1635(寛永12)
1692(元禄 5)
◇江戸前・中期の大名。
ほんだ びぜん
本田 美禅
1868(慶応 4. 5.20)
1946. 3.29(昭和21)
◇小説家。本名は浜太郎。
(*)明治元年は 9. 8から。
ほんだ へいはちろう
本多 平八郎
⇒ほんだ ただかつ(本多 忠勝)
ほんだ まさき
本多 政材
1889(明治22)
1964(昭和39)
◇昭和期の陸軍軍人(中将)。
ほんだ まさずみ
本多 正純
1565(永禄 8)
1637(寛永14. 3.)
◇江戸初期の大名・徳川家康の家臣。通称は八郎、上野介。宇
都宮城主。本多正信(マサノブ)の子。
1601(慶長 6)従五位下上野介。日光東照宮造営奉行。
1619(元和 5)下野国宇都宮15万5千石。
1622(元和 8)第2代将軍徳川秀忠(ヒデタダ)の勘気を受けて出
羽(秋田県)由利(ユリ)5万5千石に移封を辞退、翌年出羽国大沢1
千石。のち秋田藩佐竹氏に預けられ横手に配流、同地で没。
◎秀忠が日光東照宮参拝の帰り立ち寄るはずだった宇都宮城に
釣り天井があるとして改易を受けたものだが、秀忠側近の井上
正就(マサナリ)らが城中を調べたが怪しい点は発見されなかった。
ほんだ まさのぶ
本多 正信
1538(天文 7)
1616(元和 2. 4.17)
◇江戸初期の大名・徳川家康の重臣。幼名は弥八郎(弥八)のち
正保・正行、通称は佐渡守。三河の人。本多俊正の子、正純(マ
サズミ)の父。本多忠勝と同族。
大久保忠世の斡旋で徳川家康に帰参、家康の関東入りととも
に相摸玉縄城主。第2代将軍秀忠に仕え江戸の重臣となる。
『本佐録(ホンサロク)』の著者とされる。
◎徳川家康とは親友のように接したという。
ほんだ みなこ
本田 美奈子
1967. 7.31(昭和42)
2005.11. 6(平成17)
◇歌手・女優。本名は工藤美奈子。
1985(昭和60)『殺意のバカンス』で歌手デビュー。
1986. 2.(昭和61)『1986年のマリリン』。
急性骨髄性白血病で死去。
ほんだ やすはる
本田 靖春
1933. 3.21(昭和 8)
2004.12. 4(平成16)
◇ノンフィクション作家。朝鮮京城(ソウル)生れ。
1955(昭和30)読売新聞社に入社。
1971(昭和46)読売新聞社を退社し、フリーのノンフィクショ
ン作家となる。
多臓器不全で死去。
ほんだ よういち
本多 庸一
1848
1912
◇明治時代のキリスト教指導者。
(*)1848(弘化 5,嘉永元)、1912(明治45,大正元)。
ぼんとうあん
梵燈庵
1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)
1417(応永24)
⇒あさやま ぼんとうあん(朝山 梵燈庵)
ほんなみ こうえつ《ほんあみ くわうえつ》
本阿弥 光悦
⇒ほんあみ こうえつ(本阿弥 光悦)
ほんま ひさお
本間 久雄
1886.10.11(明治19)
1981. 6.11(昭和56)
◇評論家・英文学者・明治文学研究家。山形県米沢生れ。米沢
中学校を経て、1909(明治42)早稲田大学英文科卒業。1928(昭
和 3)早稲田大学海外留学生として渡英。1931(昭和 6)早稲田
大学教授。
ほんま ひさし
本間 久
生年不詳
没年不詳
◇明治末期の小説家・批評家。
ほんま ゆいいち ????
本間 唯一
1909.11.13(明治42)
1959. 4. 2(昭和34)
◇文芸評論家。
(3)誕生日は11. 3。
(10)本間 唯一(ほんま ゆういち)。誕生日は11. 3。
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