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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6581.03

                 人   名   辞   典    《ほ》       編集:獨  澄旻

-------- ほ ----------------------------------------------------
ほあし ばんり
	帆足 万里
	1778(安永 7)
	1852(嘉永 5)
	◇江戸後期の儒学者・蘭学者。字は鵬卿、号は愚亭。豊後日出
	藩(ヒジハン)家老の家の生れ。
	 著書は『窮理通』・『東潜夫論』・『医学啓蒙』・『入学新
	論』など。
	 郷土の先覚三浦梅園(ミウラ・バイエン)の条理学を基礎とし、オラ
	ンダの科学書を研究。
	 藩校教授、のち家老となり藩政を改革。
	◎三浦梅園・広瀬淡窓(ヒロセ・タンソウ)とともに豊後三賢の一人。
ほうじょう あきとき《ほうでう あきとき》
	北条 顕時
	1248(宝治 2)
	1301(正安 3. 3.28)
	◇鎌倉後期の武将。金沢(カネザワ)氏を称し金沢顕時とも呼ぶ。
	通称は越路四郎時方、法名は慧日。実時(サネトキ)の子、実政(サネマ
	サ)の兄弟。
	 1257年、元服し越路四郎時方と称する。
	 引付衆・1278年評定衆・1280(弘安 3)越後守・1281(弘安 4)
	引付頭人を歴任。1285(弘安 8)安達泰盛の霜月騒動に連坐し下
	総に移されるが、1293年に召還。
	 学を好み、清原教隆・僧大休正念について儒学・禅を学ぶ。
	父実時の志を継ぎ書籍を蒐集・書写し金沢文庫を隆盛にする。
	(*)1257(康元 2,正嘉元),1278(建治 4,弘安元),1293(正応 6,
	永仁元)。
ほうじょう うじかつ《ほうでう うぢかつ》
	北条 氏勝
	1559(永禄 2)
	1611(慶長16)
	◇戦国時代の武将・相摸玉縄城主。名は左衛門大夫。北条綱成
	(ツナシゲ)の孫、氏繁(ウジシゲ)の子、氏舜の弟。
ほうじょう うじくに《ほうでう うぢくに》
	北条 氏邦
	1541(天文10)
	1597(慶長 2)
	◇戦国時代の武将・鉢形城(ハチガタジョウ)の城主。幼名は乙千代・
	虎寿丸のち新太郎・氏吉、通称は安房守。北条氏康(ウジヤス)の
	3男、北条氏政(ウジマサ)・氏照(ウジテル)・氏規(ウジノリ)の弟。
	 1560(永禄 3)鉢形城に入城。
	 1590(天正18)小田原征伐の際に前田利家ら5万の大軍に包囲
	され、 6.14落城。
ほうじょう うじしげ《ほうでう うぢしげ》
	北条 氏繁
	1536(天文 5)
	1578(天正 6)
	◇戦国時代の武将・相摸玉縄城主のち武蔵岩槻城主のち下総飯
	沼城主。幼名は善九郎のち左衛門大夫・康成、通称は常陸介。
	北条綱成(ツナシゲ)の子、氏舜・氏勝(ウジカツ)の父。
	 下総飯沼城で病死。
ほうじょう うじつな《ほうでう うぢつな》
	北条 氏綱
	1486(文明18)
	1541(天文10. 7.19)
	◇戦国時代の武将・伊豆韮山城主のち相摸小田原城主。幼名は
	千代丸のち新九郎、通称は左京大夫。北条早雲(ソウウン)の嫡子、
	母は小笠原氏の娘、北条幻庵の兄、北条氏康(ウジヤス)の父。
	 1518(永正15)父早雲より家督を譲られ後北条家二代目当主と
	なる。1519(永正16)早雲が没し、箱根湯本に早雲寺を建立。
	 1524(大永 4)江戸城に出陣し、上杉朝興(トモオキ)を河越(カワゴエ)
	城に敗走させ、伊勢姓を北条に改姓。河越城をたびたび攻める
	が成功せず、古河公方足利高基の子晴氏に娘(芳春院)を嫁がせ
	る約束をして、同盟関係を樹立。
	 1525(大永 5)鎌倉に侵攻した里見義弘(ヨシヒロ)を鶴岡で迎えて
	破る。
	 1532年、前関白近衛尚道の娘を後妻にする。1535(天文 4)今
	川氏輝を援けて武田信虎と戦う。
	 1537(天文 6)上杉朝興が没し子の朝定が跡を継ぐと、河越城
	を討ち破る。
	 同年、後奈良天皇が践祚しても即位の儀が行われないのを見
	て、その費用5万疋を献じ従五位下・左京大夫に任じられる。
	 ついで足利高基の弟義明(ヨシアキ)が下総御弓に拠って氏綱と争
	い、翌1538(天文 7)足利晴氏とともに義明の援軍里見義弘を破っ
	て義明を斬刑に処す。
	 1541(天文10)病没。
	(4)生年は1486。
	(6)生年は1487:北条氏康の項。
	(16)生年は1486(文明18)。
	(19)生年は1486。
	(*)1532(享禄 5,天文元)。
	◆墓は箱根湯本の早雲寺。
	◎鉄砲を用いる。
	◎元人の子孫で、日本に帰化した陳外郎を招き、薬種を作らせ
	ている。
ほうじょう うじてる《ほうでう うぢてる》
	北条 氏照
	1540(天文 9)
	1590(天正18)
	◇戦国時代の武将・八王子城主。氏輝とも。幼名は藤菊丸のち
	大石源三氏明・由井源三、通称は陸奥守。北条氏康(ウジヤス)の
	次男、北条氏政(ウジマサ)の弟、氏邦(ウジクニ)・氏規(ウジノリ)の兄。
	 武蔵国八王子城に住み、下野国の榎本・小山、下総の古河・
	栗橋の諸城を支配。
	 1569(永禄12)甲斐の武田信玄の来襲を防御。
	 1590(天正18)小田原征伐の際、小田原に籠城して竹浦口を守
	る。八王子城は留守武将狩野一庵・横地監物(ケンモツ)らが防戦し
	たが、 6.23秀吉軍の総攻撃により本丸を占拠され落城。
	 小田原城が降伏し開城するに至り、秀吉の命により兄氏政と
	ともに城下の田村安斎宅で自刃。
ほうじょう うじてる《ほうでう うぢてる》
	北条 氏輝
	⇒ほうじょう うじてる(北条 氏照)
ほうじょう うじなお《ほうでう うぢなほ》
	北条 氏直
	1562(永禄 5)
	1591(天正19.11. 4)
	◇戦国時代の武将・後北条氏第5代当主・相摸小田原城主。幼
	名は国王丸のち新九郎。北条氏政の長子(嫡男)、母は武田信玄
	の娘、徳川家康の女婿。
	 1573(元亀 4)父氏政より当主を譲り受け、小田原城に住む。
	里見義弘・佐竹義重らと和睦。
	 1579(天正 7)織田信長・徳川家康と通じて武田勝頼に勝つ。
	 1582(天正10)本能寺の凶報で上洛しようとする滝川一益を、
	この機に上野を併合しようとして破る。甲斐・信濃にも侵攻を
	企てるが家康と対立して果たせず、和睦して家康の娘を娶る。
	 1585(天正13)豊臣秀吉に上洛を促されるが応えず、また違約
	などにより秀吉の怒りを買う。1590(天正18)秀吉の小田原征伐
	の時、小田原城に籠城するが、支城がつぎつぎに攻略され、降
	伏して開城。家康の女婿であったため助命されて、高野山に籠
	居。
	 のち河内国天野に移され、赦されて1万石を与えられ大坂城
	に出仕。
ほうじょう うじなが《ほうでう うぢなが》
	北条 氏長
	1609(慶長14)
	1670(寛文10)
	◇江戸前期の幕吏・軍学者・北条流の祖。幼名は梅千代・新蔵
	のち氏永・氏長さらに正房、通称は安房守。新左衛門尉繁広の
	子。
	 軍学を小幡景憲に学ぶ。大目付など幕吏を歴任。
	 1657(明暦 3)宗門改役となり、寛文年間(1661〜1673)の弾圧
	を行なう。
	 砲術をオランダ人シェーデルに、測量術を金沢刑部に学ぶ。
	 江戸を測量して『寛文江戸図絵』の製作に貢献。
	 著書は『契利斯督記』など。
	◎戦国大名北条氏の出身。
ほうじょう うじのり
	北条 氏規
	1545(天文14)
	1600(慶長 5)
	◇戦国時代の武将・韮山城主。初名は助五郎、法名は一睡。北
	条氏康(ウジヤス)の4男、母は今川氏親の娘、北条氏政(ウジマサ)・
	氏照(ウジテル)・氏邦(ウジクニ)の弟、氏盛(ウジモリ)の父。
	 1582(天正10)兄氏政の子氏直が甲斐の若神子で家康と対陣し
	た時、家康の陣に赴き和議をととのえる。
	 1585(天正13)氏直が豊臣秀吉に上洛を促されて応えなかった
	ときも、家康の家臣榊原康政と会談し秀吉との一時的和議を成
	立させる。
	 1590(天正18)小田原征伐の際、北条氏の主な支城が落城して
	いたため、 6.24徳川家康の降伏勧告を受け、開城。秀吉は氏
	規の介錯による氏政・氏照に死を命じ、氏規はともに死ぬ決意
	をしたが制せられる。
	 氏政の遺児氏直に従い配流先の高野山に赴き出家。
ほうじょう うじまさ《ほうでう うぢまさ》
	北条 氏政
	1538(天文 7)
	1590(天正18. 7.11)
	◇戦国時代の武将・相摸小田原城主。幼名は乙千代丸、通称は
	左京大夫・相摸守。北条氏康(ウジヤス)の長男・嫡子、母は今川
	氏親の娘、北条氏照(ウジテル)・氏邦(ウジクニ)・氏規(ウジノリ)・[2]
	上杉景虎(カゲトラ)の兄、氏直の父。
	 1559(永禄 2)父氏康より家督を譲られる。1562(永禄 5)父氏
	康に従い武田信玄と戦う。1564(永禄 7)里見義弘(ヨシヒロ)に国府
	台(コウノダイ)で、父とともに勝利。
	 1569(永禄12)上杉謙信と和睦し、弟景虎を越後に養子として
	送る。同年、武田信玄の出城、駿河の三枚橋・興国寺などを攻
	略し信玄と数度交戦。
	 1571(元亀 2)常陸(ヒタチ)佐竹義重(ヨシシゲ)を攻めるが、父が病
	没。
	 1573(元亀 4)当主を氏直に譲る。
	 1575(天正 3)武田信玄と和睦し、上杉謙信とは断絶。
	 1582(天正10)織田・徳川両氏とともに武田勝頼を滅ぼす。
	 1590(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐の時、小田原城に籠城す
	るが、支城がつぎつぎに攻略され、降伏して開城するにいたり、
	秀吉の命により弟氏照とともに城下の田村安斎宅で自刃。
	(16)1560(永禄3)家を継ぎ…….
	◎小田原開城後、子の氏直は徳川家康の女婿であったため助命
	されて、高野山に籠居。
ほうじょう うじもり《ほうでう うぢもり》
	北条 氏盛
	1577(天正 5)
	1608(慶長13)
	◇戦国時代の武将・狭山城主。幼名は助五郎。北条氏規(ウジノリ)
	の子、母は北条綱成の娘。
	 遺領河内国丹南・河内の2郡6,980石を継き、狭山城(現:大
	阪狭山市)に拠る。
	 1590(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐の後、徳川家康に出仕を
	命ぜられる。1591(天正19.11.)北条氏直の死後、秀吉より下野
	国の旧領のうち4千石を与えられ秀吉の家臣となる。文禄・慶
	長の役に従軍。
	 1598(慶長 3)秀吉の死後、家康に属する。
ほうじょう うじやす《ほうでう うぢやす》
	北条 氏康
	1515(永正12)
	1571(元亀 2.10. 3)
	◇戦国時代の武将・相摸小田原城主。幼名は伊豆千代丸のち
	新九郎、通称は左京大夫・相摸守。北条氏綱の嫡男、母は伊豆
	の地侍朝倉氏の娘。北条氏政・氏照(ウジテル)・氏邦(ウジクニ)・[2]
	上杉景虎(カゲトラ)の父。
	 1541(天文10)父氏綱が没し、家督を継ぎ小田原城に拠る。同
	年、扇谷(オウギガヤツ)上杉朝政に攻められ、かろうじて撃退。
	1544(天文13)安房の里見氏が敵対し安房に出陣。1545(天文14)
	今川義元(ヨシモト)と今井狐橋で合戦、義元に武田信玄(シンゲン)が
	味方する。10月には味方であった古河公方北条晴氏も上杉朝政
	と連合して城代福島(北条)綱成が守る3千の河越城を総勢8万
	余騎の大軍で包囲する(河越の戦い)。このとき、信玄が氏康と
	義元の仲介の労をとり、氏康に富士川以東を今川氏へ返還させ
	る。今川氏と和睦した氏康は、翌年 4.20援軍を率い上杉(扇谷
	・山内)と北条晴氏との連合軍を夜襲して撃退(河越の夜討)。
	 1552(天文21)上杉憲政を上野国平井城に攻め、上杉氏の所領
	を併合。
	 1554(天文23)駿河国善徳寺で武田信玄・今川義元と会し、三
	氏同盟が成立。子の氏政を信玄の娘婿とし、氏康の娘を義元の
	子氏真の嫁にすることを約束。同年、下総の古河城を攻略し、
	古河公方北条晴氏を相模の波多野に放逐。
	 1556(弘治 2)安房の里見義弘が海路、相摸に進軍し城ヶ島で
	迎え撃つ。
	 1559(永禄 2)嫡子氏政に家督を譲る。
	 1560(永禄 3)上杉憲政から関東管領を譲られた上杉謙信が関
	東に出陣して、1561(永禄 4)小田原城を攻めるが戦わずに軍を
	引くのを待ち、補給に苦しむ謙信は鎌倉八幡宮で関東管領の就
	任の儀式を行っただけで敗走。
	 1562(永禄 5)信玄とともに太田資正(スケマサ)の居城松山城を陥
	落させる。資正と合流した里見義弘を1564(永禄 7)国府台で戦
	い勝利。
	 1569(永禄12)謙信と和議を結び、7男景虎を養子として越後
	に送る。
	 1571(元亀 2)氏政を常陸の佐竹義重(ヨシシゲ)に出陣させるが、
	病没。
	◎足利学校の復興を援助する。
ほうじょう おうしょ
	北条 鴎所(鴎:「區」偏+「鳥」)
	1866(慶応 2. 9.20)
	1903. 7.16(明治36)
	◇漢詩人。名は直方、字は方丈、別号は石鴎。病没。
ほうじょう かてい《ほうでう かてい》
	北条 霞亭
	1780(安永 9)
	1823(文政 6)
	◇江戸後期の漢詩人・儒者。名は譲、通称は譲四郎、号は霞亭
	・天放生。志摩の人。
	 1797(寛政 9)京都で医学を、また皆川淇園に儒学を学ぶ。江
	戸で亀田鵬斎に学び、諸国を遊歴して帰国し、伊勢神宮内宮の
	林崎文庫長となる。
	 1810(文化 7)辞して京都に移る。備後国福山藩神辺(カンナベ)
	の菅茶山の廉塾の都講を経て藩主阿部氏に召されて江戸に移り、
	大目付格儒官となる。
	 著書は『霞亭渉筆』・『嵯峨樵歌』・『杜詩挿註』・『霞亭
	摘藁』など。
ほうじょう きよかず《ほうでう きよかず》
	北條 清一
	⇒ほうじょう もとかず(北条 元一)
ほうじょう さだあき《ほうでう さだあき》
	北条 貞顕
	1278
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)
	◇鎌倉末期の武将。金沢(カネザワ)氏を称し、金沢貞顕とも呼ぶ。
	顕時(アキトキ)の3子。
	 1294(永仁 2)左衛門尉・東二条院蔵人、のち南六波羅探題の
	左近衛将監。1311年、武蔵守。
	 1315(正和 4)鎌倉に帰り連署、1326年一時高時に代わり執権
	となったが間もなく辞する。
	(*)1278(建治 4,弘安元),1311(延慶 4,応長元),1326(正中 3,
	嘉暦元)。
	◎学問を好み、清原教隆の子直隆に儒学を学ぶ。
ほうじょう さだとき《ほうでう さだとき》
	北条 貞時
	1271(文永 8)
	1311(応長元.10.26)
	◇鎌倉幕府の第9代執権。名は幸寿、通称は最勝寺殿。時宗の
	長男、母は安達泰盛の娘、高時の父。
	 1284(弘安 7)執権・1285(弘安 8)相模守。
	 1285(弘安 8)内管領平頼綱(ヨリツナ)の讒言により、外戚安達泰
	盛・宗景父子一族を滅ぼす(霜月騒動,秋田城介の乱)。頼綱が
	その子安房守を将軍にしようとする陰謀を知り両人を殺す。
	 1289(正応 2)将軍惟康親王を廃し久明親王を将軍とする。
	 1292(正応 5)元の使者で高麗の金有成が入貢勧告書を持参す
	ると抑留。
	 1301(正安 3)両統迭立(テイリツ)の策を立てて執権を辞し出家。
	 僧衣をまとい約3年、諸国を巡歴。
	◆神奈川県鎌倉市山ノ内の円覚寺仏日庵(ブツニチアン)に像が安置
	されている。
ほうじょう さねとき《ほうでう さねとき》
	北条 実時
	1224
	1276(建治 2.10.23)
	◇鎌倉中期の武将・金沢文庫の創立者。金沢実時とも呼ばれる。
	法名は称名寺、通称は称名寺殿。義時の孫、実泰の子、顕時(ア
	キトキ)・実政(サネマサ)の父。
	 学問を好み、京都から下向した清原教隆に学ぶ。
	 1234年小侍所別当・1238年掃部助・1252(建長 4)引付衆・
	1253(建長 5)評定衆・1264年引付頭を歴任し、執権経時(ツネトキ)
	・時頼を補佐。
	 多くの書物を収集・書写して、1264年武蔵国久良岐郡金沢郷
	六浦庄(現:横浜市金沢区)に称名寺を建立し、境内に文庫(のち
	の金沢文庫)を設ける。
	(*)1224(貞応 3,元仁元),1234(天福 2,文暦元),1238(嘉禎 4,
	暦仁元),1264(弘長 4,文永元)。
ほうじょう さねまさ《ほうでう さねまさ》
	北条 実政
	1248(宝治 2)
	1302
	◇鎌倉時代の武将。実時の子、顕時(アキトキ)の兄弟。
	 1275年九州探題として下向。1281(弘安 4)弘安の役で活躍。
	のち長門警固。
	 1301(正安 3)出家。
	(*)1275(文永12,建治元),1302(正安 4,乾元元)。
ほうじょう しげとき《ほうでう しげとき》
	北条 重時
	1198(建久 9)
	1261
	◇鎌倉中期の武将。通称は極楽寺殿、法名は観覚。義時の3男、
	母は比企藤内朝宗の娘、泰時・朝時の弟、政村・実泰の兄、
	長時の父。
	 兄泰時を補佐して幕府の要職を歴任。
	 1230(寛喜 2)六波羅探題として上洛。
	 1247年、三浦氏の乱の後、執権時頼に招かれて鎌倉に帰り連
	署となる。
	 極楽寺を創設。
	 藤原定家と親しく、和歌にも長じていた。
	(*)1247(寛元 5,宝治元),1261(文応 2,弘長元)。
	◎家訓『六波羅殿御家訓』・『極楽寺殿御消息』は公家家訓を
	武家家訓に移したもので、のちの武家家訓の基として有名。
ほうじょう そううん《ほうでう さううん》
	北条 早雲
	1432(永享 4)
	1519(永正16. 8.15)
	◇戦国時代の武将。後北条(ゴホウジョウ)氏の祖。名は長氏(ナガウジ)
	(異説は氏茂<ウジシゲ>・長茂)、初名は伊勢新九郎(イセ・シンクロウ)
	盛時。法号は早雲庵宗瑞(ソウズイ)・伊勢宗瑞。出自は不明。
	 応仁の乱のころ、伊勢にいる。妹(または姉)が駿河守今川義
	忠(ヨシタダ)の室(北川殿)となって竜王丸(今川氏親<ウジチカ>)を生
	み、今川氏の外戚となる。
	 1476(文明 8)義忠が国人の蜂起による流れ矢に当り、その不
	慮の死から、家臣が竜王丸と義忠の従兄弟小鹿範満とに別れて
	争う。この内紛を、関東から赴いた太田道灌(ドウカン)とともに
	収拾、竜王丸が成人するまで範満が家督を仮相続する。
	 1487年、小鹿範満を自害させ、氏親を今川家の家督とし、駿
	河国興国寺(コウコクジ)城主となる。
	 1491(延徳 3)堀越公方足利政知(マサトモ)の子茶々丸を滅ぼし、
	興国寺城を今川家に返還し伊豆韮山(ニラヤマ)城に拠る。当時の年
	貢が6公4民から8公2民であったのを4公6民として伊豆の
	民心を安定させ、近隣の民にまで早雲の統治を望む者がでる。
	 扇谷(オウギガヤツ)上杉定正(サダマサ)(太田道灌の主君)と結び山
	内上杉顕定と対抗し、1494(明応 3)武蔵国高見原で敗戦。1495
	(明応 4. 4.)城主大森藤頼(フジヨリ)と内通し上杉氏の小田原城
	を奪取。
	 1504年、顕定と上杉朝良が武蔵国立河原で戦い、今川氏親と
	ともに朝良に味方する。1509(永正 6)顕定が越後に出兵中、武
	蔵国権現山で両上杉軍に敗れる。1512(永正 9. 8.)上杉氏の重
	臣三浦義同(ヨシアツ)の相摸岡崎城・東郡大庭城を陥し、鎌倉に入
	り玉縄城を築く。1516(永正13. 7.)義同・義意(ヨシオキ)父子を三
	浦半島の新井城に討ち滅ぼし、相摸を平定。
	 1518(永正15)家督を長男氏綱(ウジツナ)に譲り、翌年韮山城で
	病没。
	 『早雲寺殿二十一箇条』をつくる。
	◎北条に改姓は氏綱の代からで、北条早雲は俗称。
	 松永久秀(ヒサヒデ)・斎藤道三(ドウサン)とともに戦国の三梟雄(サ
	ンキョウユウ)と呼ばれる。
	(2)伊豆堀輿公方方家の内紛に乗じて足利茶々丸を殺し……。
	(4)堀越御所足利政知を滅ぼして伊豆を併せ、……。
	(6)堀越公方足利政知の子茶々丸を攻めて敗死させた。
	(16)足利茶々丸がその父堀越公方足利政知を殺して内乱が起こっ
	たのに乗じ、兵を伊豆に出してこれを滅ぼし,…….
	(*)1487(文明19,長享元)、1504(文亀 4,永正元)。
ほうじょう たかとき《ほうでう たかとき》
	北条 高時
	1303
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5.22)
	◇鎌倉幕府の第14代執権。幼名は成寿丸、法名は崇鑑。貞時の
	子、母は大宝泰宗(ダイホウ・ヤスムネ)の娘。
	 1316(正和 5)14歳で執権となるが、実権は母の父秋田時顕や
	内管領長崎高綱(円喜)・高資(タカスケ)父子らに握られ、闘犬・田
	楽・飲酒にふけり政務を顧みなかったため、幕政は乱れ民心を
	失う。
	 政治の混乱と元寇後の社会的動揺の中で、1324(正中元)後醍
	醐天皇の北条氏討伐の計画が漏れ(正中の変)たが、天皇の釈明
	を受け入れ日野資朝(スケトモ)・俊基(トシトモ)を捕え、資朝を佐渡に
	配流したにすぎず、朝廷方に乗ずる機会を与えた。
	 1326年入道して執権を金沢貞顕に譲り、崇鑑と号する。
	 ついで1331(元弘元)元弘の変がおこり、後醍醐天皇を隠岐に
	配流し光厳天皇を擁立するが、これを機に各地に反北条の軍が
	起り、部下の足利尊氏は叛旗を挙げ、上野(コウズケ)に挙兵した
	新田義貞らには鎌倉を攻められる。金沢貞将・長崎高重らを派
	遣して防戦したが、1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)鎌倉を包囲
	され、東勝寺で一族とともに自刃。
	 執権在位:1316(正和 5)〜1326。
	◆神奈川県鎌倉市山ノ内の円覚寺仏日庵(ブツニチアン)に像が安置
	されている。
	(*)1303(乾元 2,嘉元元),1326(正中 3,嘉暦元)。
ほうじょう たみお《ほうでう たみを》
	北条 民雄(北條 民雄)
	1914. 9.22(大正 3)
	1937.12. 5(昭和12)
	◇小説家。筆名は秩父号一で、本名は不明。四国の農村出身。
	 1929(昭和 4)上京、種々の職業につく。1933(昭和 8)ハンセ
	ン病(癩病)を発病。1934(昭和 9)東京・東村山の全生病院に入
	院。
	 院内の雑誌「山桜」に作品を発表。1935. 4.(昭和10)作品を川
	端康成に送り、その後も康成を通して発表する。
	 1937(昭和12)ハンセン病は軽症であったが腸結核を併発し死
	去。
	 代表作は『間木老人』・『いのちの初夜』・『癩院受胎』・
	『癩家族』など。
ほうじょう だんすい《ほうじやう だんすい》
	鳳城 団水(鳳城 團水)
	⇒ほうじょう だんすい(北条 団水)
ほうじょう だんすい《ほうでう だんすい》
	北条 団水
	1663(寛文 3)
	1711(宝永 8. 1. 4)
	◇江戸前期の俳人・浮世草子作者。「鳳城団水」とも書く。別号
	は白眼居士・滑稽堂・西鶴庵。京都の人。
	 井原西鶴の門人。西鶴の没後、大坂に移り西鶴庵二代目とな
	り西鶴の遺稿を編纂し、『西鶴置土産』・『西鶴織留』などを
	刊行。
	 のち京都に帰り、東洞院に住む。
	 著書は『団袋』や浮世草子『昼夜用心記』・『日本新永代蔵』
	・『武道張合大鑑』など。
ほうじょう つなしげ《ほうでう つなしげ》
	北条 綱成
	1515(永正12)
	1587(天正15)
	◇戦国時代の武将・武蔵川越城主のち相摸玉縄城主。幼名は勝
	千代のち孫九郎・福島綱成、法名は道感。今川家家臣の遠江土
	方城主福島正成の子、北条為昌の養子、妻は北条氏綱の娘。北
	条氏繁(ウジシゲ)の父。
	 7歳の時に父が甲斐で討死にし、御北条氏を頼る。
	 北条氏綱の娘を娶り、北条氏を名乗る。
	 相模国甘縄城主のち武蔵国河越城主。
	 1546(天文15)上杉朝定(トモサダ)・上杉憲政(ノリマサ)(関東管領)・
	足利晴氏(ハルウジ)(古河公方)らの大軍に包囲(河越の戦)される
	が耐えて、翌年北条氏康の援軍を得て破る。
ほうじょう つねとき《ほうでう つねとき》
	北条 経時
	1224
	1246(寛元 4)
	◇鎌倉中期の第4代執権。法名は安楽・蓮華院。北条泰時の孫、
	時氏の子、母は松下禅尼(ゼンニ)(安達景盛の娘)、時頼・為時の
	兄。
	 1242(仁治 3. 6.)執権泰時が没し、嫡孫としてあとを継ぐ。
	 1244(寛元 2)将軍九条(藤原)頼経を廃して頼経の子頼嗣を立
	てる。
	 1246(寛元 4)病により執権を弟時頼に譲り、出家。
	(*)1224(貞応 3,元仁元)。
ほうじょう ときすけ《ほうでう ときすけ》
	北条 時輔
	1247
	1272(文永 9. 2.)
	◇鎌倉時代の武将。幼名は宝寿丸、元服して相模三郎時利。北
	条時頼の長子、母は将軍家讃岐、時宗・宗政の異母兄。
	 1266(文永 3)時宗暗殺の陰謀が発覚して将軍宗尊(ムネタカ)親王
	が廃されると、公家と交渉して宗尊親王の子惟康王(のち親王)
	の擁立に成功。
	 1268(文永 5)時宗が執権に就任すると時宗と対立。1272(文
	永 9. 2.15)時宗は時輔に反逆の意図があるとして北六波羅探
	題の北条義宗(ヨシムネ)に襲撃させ、南六波羅探題の時輔は応戦し
	て殺される(二月騒動)。
	(*)1247(寛元 5,宝治元)。
ほうじょう ときふさ《ほうでう とくふさ》
	北条 時房
	1175
	1240(延応 2. 1.24)
	◇鎌倉前期の武将。初名は時連、号は大仏、法名は称念。時政
	の子、義時の弟、泰時の叔父。
	 1189(文治 5)奥州征伐・1205(元久 2)畠山重忠の討滅。1207
	年、武蔵守。1213年、和田義盛の乱鎮圧などに従う。
	 1221(承久 3)承久の乱に泰時とともに幕府軍を率いて上洛。
	鎮撫の後、泰時とともに初代六波羅探題となる。
	 1224年、兄義時の死により鎌倉に帰り、泰時が執権を継ぐと
	連署となり幕政を補佐。
	(*)1175(承安 5,安元元),1213(建暦 3,建保元),1207(建永 2,
	承元元),1224(貞応 3,元仁元)。
ほうじょう ときまさ《ほうでう ときまさ》
	北条 時政
	1138(保延 4)
	1215(建保 3. 1. 6)
	◇鎌倉幕府の初代執権。通称は北条四郎、法名は明盛、遠江守。
	時方の子、母は伊豆掾伴為房の娘、北条政子(源頼朝の妻)・
	北条義時・北条時房の父。伊豆北条の人。
	 源頼朝が伊豆に流されその監視役となる。頼朝と親交を結び、
	娘政子を配する。
	 1180(治承 4. 8.)以仁王(モチヒトオウ)の令旨(リョウジ)を奉じて頼
	朝が挙兵するとこれを助け、伊豆目代平兼隆を討たせ、頼朝と
	ともに石橋山(小田原市片浦)で大庭景親(オオバ・カゲチカ)に敗れて
	海路安房に逃れる。その後、甲斐に赴き武田氏の援助を得る。
	 幕府が創立されると重用され、頼朝の外戚として勢力をふる
	う。
	 頼朝の没後、大江広元・仁本元常とともに比企能員(ヒキ・ヨシカズ)
	を謀殺。第2代将軍頼家の長男一幡(イチマン)をも殺し、頼家を修
	善寺で謀殺して源実朝を擁立、初代執権となり幕府政治の実権
	を握る。
	 1205(元久 2)畠山重忠父子を攻めて殺す。同年、後妻牧ノ方
	の陰謀により、実朝を廃し女婿平賀朝政(トモマサ)を将軍にしよう
	として失敗し、出家して明盛と号する。
	 執権在位:1203(建仁 3)〜1205(元久 2)。
	◎比企能員の娘若狭局(ワカサノツボネ)は頼家の妻で一幡の母。
ほうじょう ときむね《ほうでう ときむね》
	北条 時宗
	1251(建長 3)
	1284(弘安 7. 4. 4)
	◇鎌倉幕府第8代執権。幼名は正寿、通称は相模太郎(サガミ・タロ
	ウ)、法名は道杲。時頼の子、母は北条重時の娘、時輔(トキスケ)の
	異母弟、妻は覚山尼(カクサンニ)。
	 7歳の時に将軍宗尊(ムネタカ)親王から時宗の名を賜る。
	 1261年左馬権頭・但馬権頭・1264連署・1265(文永 2)相模守
	に任じられる。1266(文永 3)宗尊親王の近臣による時宗暗殺の
	陰謀が発覚すると宗尊親王を廃して子の惟康王(のち親王)を立
	てる。
	 1268(文永 5)18歳で執権となり、北条政村を連署とする。
	 これを不満とする兄時輔を1272(文永 9. 2.)時宗は反逆の意
	図があるとして北六波羅探題の北条義宗(ヨシムネ)に襲撃させ、南
	六波羅探題の時輔を殺害(二月騒動)。
	 蒙古の使者(元使)に応ぜず西国の防備を固める。1274(文永
	11)文永の役で蒙古軍の侵略を防御。翌年の元使を鎌倉で斬り、
	北条実政を筑紫探題とし北九州沿岸に防塁を築き元の来寇に備
	える。1281(弘安 4)弘安の役でも宇都宮貞綱(サダツナ)を派遣し、
	台風(神風)も遭って元軍を撃退。
	 国内政治的には得宗(トクソウ)専制の動きを見せる。
	 禅に帰依し、1282(弘安 5)鎌倉に宋僧無学祖元(ムガク・ソゲン)
	を招き円覚寺(エンガクジ)を建立。
	 執権在位:1268(文永 5)〜1284(弘安 7)。
	◆廟所は神奈川県鎌倉市山ノ内の円覚寺仏日庵(ブツニチアン)。
	(*)1261(文応 2,弘長元),1264(弘長 4,文永元)。
ほうじょう ときむら《ほうでう ときむら》
	北条 時村
	1242(仁治 3)
	1305(嘉元 3. 3.)
	◇鎌倉末期の武将。第7代執権北条政村の子、母は三浦重澄の
	娘。
	 1301(正安 3)執権北条師時(モロトキ)のもとで連署となる。
	 1305(嘉元 3)侍所代官の北条宗方(ムネカタ)に殺される。
ほうじょう ときゆき《ほうでう ときゆき》
	北条 時行
	生年不詳
	1353(<南>正平 8,<北>文和 2. 5.20)
	◇鎌倉末・南北朝時代の武将。幼名は勝長寿丸、通称は
	相模二郎。高時の第2子。
	 鎌倉幕府滅亡の時、信濃国に逃れ諏訪頼重のもとに潜んでい
	たが、1335(<南>建武 2,<北>建武 2)京都の西園寺公宗(キンムネ)
	とはかって建武政権に反抗。足利直義(タダヨシ)の軍を破って鎌
	倉を占領するが、足利尊氏の朝廷軍の反撃に敗れる(中先代の
	乱)。
	 1337(<南>延元 2,<北>建武 4)吉野に遷幸(センコウ)した後醍醐
	天皇へ使者を派遣し尊氏・直義兄弟を討つことを誓い謝罪する。
	これより北畠顕家に従い転戦し、和泉で高師直(コウノモロナオ)と戦
	い敗れて顕家は戦死。1338年、宗良親王に従って海路遠江に至
	り匹馬駅で今川範氏を破る。1340年、高師泰(モロヤス)に井伊谷城
	に敗れ、東国に逃れる。
	 のち1352年、南朝の新田義興に従い鎌倉で足利基氏を破るが、
	間もなく義興は敗れる。時行は相模に逃れて兵を挙げようと図っ
	たが、翌年捕われて竜ノ口(鎌倉幕府の刑場)で斬られる。
	(*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元),1340(<南>延元 5,
	<南>興国元,<北>暦応 3),1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文
	和元)。
ほうじょう ときより《ほうでう ときより》
	北条 時頼
	1227
	1263(弘長 3.11.22)
	◇鎌倉幕府第5代執権。幼名は戒寿、通称は五郎、法名は最明
	寺殿崇公大禅定門、法号は覚了坊道崇、最明寺殿と呼ばれる。
	泰時の孫、時氏の次男、母は松下禅尼(ゼンニ)(安達景盛の娘)、
	経時の弟、為時の兄、時輔(トキスケ)・時宗・宗政の父。
	 1237(嘉禎 3)元服。左兵衛少将・左近衛将監となり、従五位
	上に叙位。
	 1246(寛元 4)兄経時に代わり執権就任の直後、前将軍九条頼
	経と名越光時(ナゴヤ・ミツトキ)の陰謀を防ぎ、1247(宝治元)三浦氏
	の乱で三浦泰村を滅ぼす(宝治合戦)。1249年相模守。同年、引
	付衆を設置し裁判の迅速公平をはかる。
	 1252(建長 4)摂家将軍九条(藤原)頼嗣(ヨリツグ)を廃して後嵯
	峨天皇の皇子で10歳の宗尊(ムネタカ)親王を鎌倉に征夷大将軍(宮
	将軍)として迎える。
	 禅宗を信仰し、1253(建長 5)鎌倉に蘭溪道隆(ランケイ・ドウリュウ)
	(大覚禅師)を開山として建長寺を創建。
	 1256年、病を得て出家し最明寺に住し、執権を長時に譲る。
	 執権在位:1246(寛元 4)〜1256。
	(*)1227(嘉禄 3,安貞元),1249(宝治 3,建長元),1256(建長 8,
	康元元)。
	◎出家後はひそかに諸国を巡視したと伝えられ、「鉢の木」など
	の伝説がある。
	 しかし、出家して最明寺殿と呼ばれたのちも幕政に参与し、
	治政民情に意を用いたが、伝説は史実ではない。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の明月院、時頼公廟所。
	◎遺偈(辞世の句)
	 業鏡高懸 三十七年
	 一槌打碎 大道担然
ほうじょう ながうじ《ほうでう ながうぢ》
	北条 長氏
	⇒ほうじょう そううん(北条 早雲)
ほうじょう なかとき《ほうでう なかとき》
	北条 仲時
	1306
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5. 9)
	◇鎌倉末期の武将。基時の子。
	 1330(元徳 2)北条時益(トキマス)とともに六波羅を鎮定。
	 足利尊氏勢と激しく戦うが形勢不利となる。
	 南北六波羅探題の仲時・時益は、北朝の光厳天皇と後伏見・
	花園両上皇を奉じて再起のため東国に赴く。山科四宮(シノミヤ)河
	原あたりで時益は落人の矢に首を射抜かれる。近江の番場(バン
	バ)で山賊・野武士に道をふさがれ、一向堂(イッコウドウ)(現:蓮華
	寺)で仲時ら六波羅の軍兵430余名は自刃。
	(*)1306(嘉元 4,徳治元)。
	◎光厳天皇と後伏見・花園両上皇は後醍醐天皇方の武士に捕え
	られ京都に帰る。
ほうじょう ながとき《ほうでう ながとき》
	北条 長時
	1229
	1264(文永元. 8.21)
	◇鎌倉幕府第6代執権。道号は専阿。北条重時の長子、母は平
	時親の娘。
	 1247年六波羅探題、1256年鎌倉に帰り武蔵守・評定衆・執権
	となり侍所別当を兼任。
	 1264(文永元)辞して出家し、泉ヶ谷の浄光寺で没。
	(*)1229(安貞 3,寛喜元),1247(寛元 5,宝治元),1256(建長 8,
	康元元)。
ほうじょう ひでとき
	北条 英時
	⇒あかばし ひでとき(赤橋 英時)
ほうじょう まこと
	北条 誠(北條 誠)
	1918. 1. 5(大正 7)
	1976.11.18(昭和51)
	◇小説家・脚本家。東京銀座生れ。東京府立第一中学校を経て
	早稲田大学国文科に進む。
ほうじょう まさこ《ほうでう まさこ》
	北条 政子
	1157(保元 2)
	1225(嘉禄元. 7.11)
	◇鎌倉前期の政治家。名は平政子(タイラノマサコ)、通称は二位尼・
	尼将軍。源頼朝(ヨリトモ)(鎌倉幕府初代将軍)の室(妻)、頼家(ヨリイ
	エ)(第2代将軍)・実朝(サネトモ)(第3代将軍)の母。北条時政(トキマ
	サ)の長女。
	 伊豆の豪族北条氏に生れる。1175年、父時政の命により伊豆
	国代平兼隆(カネタカ)に嫁したが、1177年逃れて配流中の頼朝に嫁
	す。
	 1186(文治 2)頼朝・政子が鶴岡八幡宮に詣でた際、静御前(シ
	ズカゴゼン)が夫妻の求めで、工藤祐経の鼓と畠山重忠の銅拍子
	で舞いを演じ、義経への慕情の歌をうたった話は有名。
	 頼朝の死後は剃髪し、次第に幕政に参画。1203(建仁 3)頼家
	の長男一幡(イチマン)の外戚比企能員(ヒキ・ヨシカズ)を倒して頼家を修
	善寺に幽閉し、千幡(実朝)を将軍に立て時政を執権とする。
	1204(元久元. 7.18)頼家は時政に殺される。時政の後妻牧ノ方
	が娘婿平賀朝雅(トモマサ)を将軍にしようとしたため、1205(元久
	 2)時政を隠退させて朝雅を討ち、弟義時(ヨシトキ)や大江広元と
	ともに実権を握る。
	 1218(建保 6)実朝の後継者を求めて自ら上洛、従二位に叙せ
	られる。1219(建保 7. 1.27)実朝が公暁(クギョウ)(頼朝の次男)
	により横死。京都から頼朝の遠縁の藤原(九条)頼経(ヨリツネ)を迎
	え、自ら後見人となり尼将軍と称される。1221(承久 3)承久の
	変では御家人の動揺を抑え、三浦氏の乱を未然に防ぎ、伊賀氏
	の乱を鎮圧する。
	(2)生年は1157(保元 2)。
	(4)生年は1156。
	(6)生年は1157(保元 2)。
	(16)生年は1157(保元 2)。
	(17)生年は1157(保元 2)。
	(*)1175(承安 5,安元元)、1177(安元 3,治承元)。
	◆墓所は神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。
	◎政子の没後、1226(嘉禄 2)頼経が第4代将軍に就任。
	◎日本でも戦国時代ころまでは、女性は結婚しても夫の姓を名
	乗っていなかった。
ほうじょう まさむら《ほうでう まさむら》
	北条 政村
	1205(元久 2)
	1273(文永10. 5.27)
	◇鎌倉幕府第7代執権。通称は四郎、法号は覚崇。義時の子、
	母は伊賀朝光の娘、泰時の異母弟、時村の父。
	 母伊賀氏と謀(ハカ)り、娘婿の藤原実雅を将軍に擁立し実権掌
	握を企てるが失敗、泰時の計(ハカ)らいで事なきを得る。
	 評定衆・引付衆・1256年連署を経て、1264年、執権となる。
	 1268(文永 5)北条時宗(時頼の子)に執権を譲り再び連署。時
	宗を補佐し、元への服属を拒否。
	 執権在位:1264〜1268(文永 5)。
	(*)1256(建長 8,康元元),1264(弘長 4,文永元)。
	◎和歌にすぐれ、作品は『新勅撰和歌集』・『続千載和歌集』
	などに収められている。
ほうじょう みつとき《ほうでう みつとき》
	北条 光時
	⇒なごや みつとき(名越 光時)
ほうじょう もとかず《ほうでう もとかず》
	北条 元一(北條 元一)
	1912(明治45)
	2005.12.25(平成17)
	◇ドイツ文学者。本名は北條清一(キヨカズ)。
	 東京工業大名誉教授。
ほうじょう もりとき
	北条 守時
	⇒あかばし もりとき(赤橋 守時)
ほうじょう やすとき《ほうでう やすとき》
	北条 泰時
	1183(寿永 2)
	1242(仁治 3. 6.15)
	◇鎌倉幕府第3代執権。幼名は金剛、通称は江馬太郎・常楽寺
	殿、法名は観阿。義時の長子。
	 1211年、修理亮、ついで駿河守・武蔵守に任官。
	 1221(承久 3)承久の乱が起ると幕府軍を率いて京都に攻め上
	る。鎮撫の後、京都六波羅の北に居館をかまえ駐在し、南の居
	館の叔父時房とともに初代六波羅探題となり、戦後の処理にあ
	たる。
	 1224年、父義時が没し、執権に就任し、連署を置いて時房を
	就任。1225年、評定衆を設置し合議体制にする。
	 1232(貞永元)三善康連らと計り『御成敗式目』を制定し、武
	家政権を確立。
	 執権在位:1224〜1242(仁治 3)。
	(*)1211(承元 5,建暦元),1224(貞応 3,元仁元),1225(元仁 2,
	嘉禄元)。
	◎武家政権確立に努め、その治世は北畠親房『神皇正統記』な
	ど公武双方から後代まで名政治家として評価された。
ほうじょう よしとき《ほうでう よしとき》
	北条 義時
	1163
	1224(貞応 3. 6.13)
	◇鎌倉幕府第2代執権。通称は江馬小四郎、号は得宗(徳宗)。
	北条時政の次子(嫡子)、泰時・朝時・重時・政村・実泰(サネヤス)
	の父。
	 頼朝挙兵のときから幕府創業を助け、父と共に各地に転戦。
	1204年、相模守。1205(元久 2)父時政の後妻牧ノ方の陰謀事件
	で父を隠退させ、執権。1213(建暦 3)北条氏の政敵の侍所別当
	和田義盛を滅ぼして(和田合戦)、侍所別当を兼任。
	 1219(建保 7. 1.27)将軍源実朝が暗殺された後は、姉政子と
	はかって九条頼経を摂家将軍に迎えて、政子とともに幕政の実
	権を握る。
	 1221(承久 3)承久の乱では軍勢を上洛させて朝廷・公家方を
	制圧し、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流。幕府政権を確
	実なものとし、同時に執権政治の基礎を築く。
	 執権在位:1205(元久 2)〜1224。
	(16)江間小四郎と称し…….
	(19)通称、江馬小四郎。
	(*)1163(応保 3,長寛元),1204(建仁 4,元久元)。
	◎承久の乱で公家や武士から没収した所領に、御家人を新補地
	頭として任命した。
ほうせいどう きさんじ
	朋誠堂 喜三二
	1735(享保20)
	1813(文化10. 5.20)
	◇江戸後期の洒落本(シャレボン)・黄表紙作者。名は常富(ツネマサ)、
	通称は平沢平格、号は亀山人(キサンジン)。
	 江戸生れで、秋田藩士平沢家の養子となり、四九歳に留守居
	本役に昇り、藩の渉外を担当。
ほうねん《ほふねん》
	法然
	1133(長承 2)
	1212(建暦 2. 1.25)
	◇鎌倉前期の僧。浄土宗の開祖。幼名は勢至丸、諱(イミナ)は
	源空(ゲンクウ)、勅諡(チョクシ)は円光大師、法然房源空・黒谷上人
	(クロダニショウニン)とも。美作(ミマサカ)国久米郡南条稲岡庄(岡山県久
	米郡久米南町)の豪族で押領使(オウリョウシ)の漆間(ウルマ)時国の子。
	 9歳の時、稲岡庄の預所明石定明との私闘で父が殺され、一
	家は没落する。
	 1145(天養 2)比叡山の源光に天台を学び、1147(久安 3)皇円
	について出家。
	 僧兵が集団をつくり争うなどに疑問を感じ、1150(久安 6)西
	塔黒谷の慈眼房叡空の許に隠棲、法然房源空と称する。ここで
	唐の善導の『観経疏』により、ひたすら南無阿弥陀仏(ナムアミダブ
	ツ)を唱える専修念仏(センジュネンブツ)を悟る。
	 比叡山を下り、東山吉水に草庵を結ぶ。末法到来の危機意識
	の中で専修念仏の信者は増大し、行法を重んじる天台・真言と
	対立、南都北嶺の迫害を受ける。大原勝林院に南都北嶺の僧
	(天台の顕真ら)と会して法門を論じる(大原談義)。
	 女官の出家を契機に1207(承元元)俗名を付されて讃岐へ配流
	され(承元法難)、同年免されるが入京は許されず、1211(建暦
	元.11.)帰洛。
	◆法然御忌[旧暦 1.25]。後柏原天皇の勅命で始まったので御
	忌(ギョキ)と呼ばれる。
	[ 4.11〜 4.15]東京の大本山増上寺で法要。智恩院と日付をず
	らしている。
	[ 4.19〜 4.25]京都の総本山智恩院で法要。墓がある。
	(4)讃岐に流されたが、……。東山吉水(ヨシミズ)に草庵を結んだ。
	(6)1147年比叡山で源光の門に入り,……。のち,東山の吉水
	に草庵を結び,……。土佐(実は讃岐<サヌキ>)に配流された。
	(17)天養二年(一一四五)に比叡山に登り源光の弟子となる。二
	年後に出家した。京都東山の大谷の草庵に住み、……。土佐に
	配流された。
	 「親鸞」の項。源空は土佐(実は讃岐)へ、親鸞は越後へ……。
ほうりん じょうしょう
	鳳林 承章
	生年不詳
	1668(寛文 8)
	◇臨済宗相国寺派の住持。
ほくさい
	北斎
	⇒かつしか ほくさい(葛飾 北斎)
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