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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6521.03

                 人   名   辞   典    《ひ》       編集:獨  澄旻

-------- ひ ----------------------------------------------------
ひがし くめ
	東 くめ
	1877. 6.30(明治10)
	1969. 3. 5(昭和44)
	◇教育家・作詞家。和歌山県生れ。
	 滝廉太郎と協力し『幼稚園唱歌』を編集。
	 『お正月(もういくつねるとお正月)』・『はとポッポ』など
	を作詞。
ひがし そうすい
	東 草水
	1882. 1. 4(明治15)
	1916.10.15(大正 5)
	◇詩人。本名は俊造。
ひがしくぜ みちとみ
	東久世 通禧
	1833(天保 4.11.22)
	1912. 1. 4(明治45)
	◇江戸幕末の公卿。号は竹亭・古帆軒。京都生れ。
	 1863(文久 3)国事参政となり、急進派として尊王攘夷を唱え、
	討幕計画をたてるが失敗し三条実美らとともに長州に西走(七
	卿落ち)。
	 明治維新後、錦旗奉行となり征討将軍嘉彰親王に従う。
	 ついで、外国事務総督・外国官副知事など外交に参画。
	 さらに、神奈川府知事・開拓長官を歴任し、1871(明治 4)侍
	従長となる。
	 1877(明治10)元老院議官・1888(明治21)枢密院問官、貴族院
	副議長・枢密院議長などを歴任。
	 書も能くした。
ひがしくに なるひこ
	東久邇 稔彦
	1887.12. 3(明治20)
	1990(平成 2)
	◇皇族・陸軍軍人。久邇宮朝彦(アサヒコ)親王の第九王子。
	 1906(明治39)東久邇宮家を創立。
	 1908(明治41)陸軍士官学校、卒業。
	 1914(大正 3)陸軍大学、卒業。
	 1920〜1927(大正 9〜昭和 2)フランス留学。
	 1933(昭和 8)陸軍中将。
	 第二師団長・第四師団長・航空本部長・防衛司令長官を歴任。
	 1945. 8.17〜1945.10. 5(昭和20〜昭和20)第二次世界大戦後
	最初の首相(陸軍大臣を兼務)。敗戦処理を任務としたが、経済
	再建に無策で、民主化政策の遂行も怠ったため、GHQから政
	治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書を付きつれ
	られ、実行できないとして総辞職。
	 1947(昭和22)臣籍降下。
ひがしやま ちえこ
	東山 千栄子
	1890(明治23)
	1980. 5. 8(昭和55)
	◇女優。本名は河野せん。千葉県生れ。
	 築地小劇場に参加、のち俳優座などに所属。
	 主演作品は新劇『桜の園』(ラネーフスカヤ夫人役)、映画
	『東京物語』など。
ひきだ ぶんごろう《ひきだ ぶんごらう》
	疋田 文五郎
	1537(天文 6)ころ
	1605(慶長10)
	◇戦国時代の剣術家。名は景兼、通称は文五郎・豊五郎。
	 新陰流を創始した上泉秀綱(カミイズミ・ヒデツナ)の高弟で、天正・
	文禄年間(1573〜1596)のころに疋田陰流を興す。
	 豊臣秀次のち細川幽斎に仕える。
ひぐち いちよう《ひぐち いつえふ》
	樋口 一葉
	1872. 5. 2(明治 5. 3.25)
	1896.11.23(明治29)
	◇小説家・歌人。本名は奈津(ナツ)、夏子・「なつ」・ひな子・
	落葉も使ったが、歌人としては夏子、作家としては一葉、新聞
	小説の戯号は浅香のぬま子・春日野(カスガノ)しか子。
	 東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内長屋(官舎)に生
	れる。父則義(ノリヨシ)は元八丁堀同心、一葉誕生当時は東京府の
	下級官吏。妹は邦子。
	 15歳の時、小さい店を開き家計が苦しいながら中島歌子の萩
	の舎塾に入門。18歳の時、父が死亡し生活のため筆をとる決心
	をして半井(ナカライ)桃水に師事し、小説『うもれ木』を書き認め
	られる。馬場孤蝶ら「文学界」同人と親交、「文学界」にも寄稿。
	 明治の下積みの庶民や女の哀感を込めて写実的に描く。
	 肺結核により数え年25歳で死去。
	 作品は『にごりえ』・『十三夜』・『たけくらべ』・『大つ
	もごり』など。
	◆墓は築地本願寺別院、のち杉並区和泉に移された。戒名は知
	相院釈妙葉信女。
	◆一葉忌[11.23]一葉記念館で講演・作品朗読など。
	◆文京区本郷の法真寺で法要。
	◎1960(昭和35)東京都台東区竜泉(リュウセン)に区立一葉記念館が
	開館。
	 2004(平成16)新発行の五千円札の肖像に採用。
	(2)本名奈津(夏子)。
	(3)本名はなつ(変体がな)。
	(5)本名は奈津(ナツ)。
	(8)本名なつ。
	(10)本名はなつ(戸籍面は奈津)。夏子とも書いた。
	(11)本名は奈津(ナツ)。
	(13)本名奈津。別名夏子、落葉。東京麹町内幸町一丁目東京府
	庁構内長屋に生まれる。
ひぐち どうぎゅう
	樋口 銅牛
	1865(慶応元.12.20)
	1932. 1.15(昭和 7)
	◇俳人。本名は勇夫、旧号は得川・東涯。
ひぐち りゅうきょう
	樋口 竜峡(樋口 龍峽)
	1875. 5.14(明治 8)
	1929. 6. 6(昭和 4)
	◇社会学者・評論家・政治家。本名は秀雄。長野県生れ。東京
	大学哲学科卒業、専攻社会学。1915(大正 4)衆議院議員に当選、
	のち民政党総務。
	 日夏耿之介(ヒナツ・コウノスケ)の叔父。
びごー
	G・ビゴー
	1860. 4. 7(万延元)
	1927(昭和 2)
	◇フランスの挿絵画家。名はジョルジュ・フェルナン(Georges 
	Fernand Bigot)。パリ生れ。
	 1882(明治15)来日し十八年間滞日。陸軍士官学校の画学教授。
	1887. 2.(明治20)時局風刺雑誌「トバエ(TOBAE)」創刊、1888. 6.
	(明治21)終刊。
	 1893(明治26)黒田清輝の「朝妝」の展示会場の風景を風刺した
	絵が有名。
	(2)1881(明治14)来日。
	(10)明治一五年(1882)来日。
ひこさか もとまさ
	彦坂 元正
	生年不詳
	1634(寛永11)
	◇江戸初期、徳川家康の代官職。父は今川義元の家臣彦坂光景。
ひさいた えいじろう
	久板 栄二郎(久板 榮二郎)
	1898. 7. 3(明治31)
	1976. 6. 9(昭和51)
	◇劇作家・シナリオ・ライター。宮城県名取郡岩沼町生れ。第
	二高等学校を経て、1927(昭和 2)東京大学国文科卒業。
ひさお じゅうらん
	久生 十蘭
	1902. 4. 6(明治35)
	1957.10. 6(昭和32)
	◇小説家。本名は阿部正雄、筆名は谷川早。北海道函館市生れ。
	 函館日日新聞の記者。上京して岸田国士に師事。
	 演劇研究のためフランスに渡り、4年後に帰国。
ひさまつ せんいち
	久松 潜一
	1894.12.16(明治27)
	1976. 3. 2(昭和51)
	◇国文学者。愛知県知多郡藤江村生れ。妻は佐佐木信綱の長女
	三枝子。
	 東京大学・慶応義塾大学教授。
	 著書は『日本文学評論史』・『日本歌論史の研究』など。
ひさまつ よしのり
	久松 義典
	1855(安政 2.10.)
	1905. 6. 2(明治38)
	◇教育家・政治家・新聞記者・翻訳家・小説家。幼名は芳次郎、
	号は狷堂(ケンドウ)・黒林処士。江戸の桑名藩藩邸に生れる。
ひじかた かつひさ
	土方 雄久
	1553(天文22)
	1608(慶長13)
	◇安土桃山時代の大名。信治の子。尾張生れ。
	 織田信雄(ノブカツ)(織田信長の次男)に仕え、犬山4万5千石。
	信雄の改易後、豊臣秀吉に仕え、1599(慶長 4)徳川家康の暗殺
	を企てて失敗、常陸の佐竹義重に預けられる。
	 許されて関ヶ原の戦では前田利長に従い加賀を鎮定、越中国
	野々市1万石。
ひじかた たつみ《ひぢかた たつみ》
	土方 巽
	1928(昭和 3)
	1986. 1.21(昭和61)
	◇舞踏家。本名は米山九日夫(クニオ)、のち元藤姓となる。秋田
	市生れ。
	 秋田工業学校卒業。上京して江口隆哉(タカヤ)・大野一雄らに
	師事。
	 1959(昭和34)全日本芸術舞踊協会新人公演で三島由紀夫の作
	品による倒錯的な『禁色』を上演し、非難を受ける。
	 「暗黒舞踏」を提唱。また、日本人の民俗的身振りに着目。
	 著書は1976(昭和51)『犬の血管に嫉妬することから』など。
ひじかた ていいち《ひぢかた ていいち》
	土方 定一
	1904.12.25(明治37)
	1980.12.23(昭和55)
	◇美術史家・評論家(文芸・美術)。岐阜県大垣市生れ。
	 東京帝国大学卒業。
	 神奈川県立近代美術館館長。
	 著書は『近代日本洋画史』・『ブリューゲル』など。
ひじかた としぞう《ひぢかた としざう》
	土方 歳三
	1835(天保 6)
	1869(明治 2. 5.11)
	◇幕末の剣客。武蔵国多摩郡石田村生れ。豪農の4男。
	 1863(文久 3)幕府の浪士隊に応募し、京都に上る。芹沢鴨(カ
	モ)・近藤勇らと新撰組を組織し、京都市中の警護に当る。初代
	組長芹沢が暗殺された後、近藤は組長、土方は副長となる。
	 1868. 1.27(慶応 4. 1. 3)鳥羽伏見の戦いに敗れた後、小山
	・宇都宮・会津と東下しながら官軍と戦う。仙台より奥羽の脱
	藩者とともに箱館に逃れ、榎本武揚(タケアキ)の軍に加わる。海軍
	奉行となり、翌年、箱館の五稜郭(ゴリョウカク)で背後からの流弾
	により戦死(戊辰戦争)。
	◆墓は東京都日野市石田の石田寺。
	 近くに生家跡地に有料の土方歳三資料館がある。開館日は毎
	月第3日曜日。
	 日野市高幡(タカハタ)の高幡不動尊には歳三の銅像がある。
	◆新撰組隊士供養塔(碑銘は近藤勇宣昌<逆になっている>・土
	方歳三義豊之墓)は東京都北区滝野川(板橋駅前)の寿徳寺の飛
	び地にある。
	◎2003. 3.15(平成15)北海道函館市日乃出町(ヒノデチョウ)の哀愁
	テーマパーク啄木浪漫館1階に土方歳三函館記念館が開館。
	 2003.12. 1(平成15)函館市の五稜郭公園近くの五稜郭タワー
	で土方歳三の銅像の除幕新が行われる。
	◎近藤勇(イサミ)と同郷。
ひじかた ひさもと《ひぢかた ひさもと》
	土方 久元
	1833(天保 4)
	1918(大正 7)
	◇江戸幕末の志士・明治時代の政治家。通称は楠左衛門、号は
	泰山。江戸生れ。土佐藩士土方久用の子、土方与志(ヨシ)の祖父。
	 尊皇攘夷運動に加わり、1863(文久 3)藩命で三条実美(サネトミ)
	らの七卿落に従い、長州・太宰府に移る。
	 維新後は徴士・江戸府判事・東京府判事・鎮将府弁事。1871
	(明治 4)太政官に出仕。元老院議官・宮中顧問官・枢密院顧問
	官。
	(*)三条実美の母は土佐藩主山内豊策の3女。
ひじかた よし《ひぢかた よし》
	土方 与志
	1898. 4.16(明治31)
	1959. 6. 4(昭和34)
	◇昭和期の演出家。本名は久敬(ヒサヨシ)。東京生れ。土方久元(ヒ
	サモト)の孫、妻は三島章道(ショウドウ)の妹。
	 1921(大正10)東京大学国文科を中退し、小山内薫(オサナイ・カオル)
	に師事し、その助手。
	 1922(大正11)演劇研究のため渡欧、1923(大正12)関東大震災
	の報せを聞いて帰国。
	 1924(大正13)私財を投じて小山内薫とともに築地小劇場を起
	こす。分裂後、新築地劇団を結成。
	 1933(昭和 8)日本プロレタリア演劇同盟の代表として訪ソ、
	その後1941(昭和16)まで欧州・ソ連に亡命。戦時中は投獄。
	 戦後、新劇再興に尽くす。
	 1957(昭和32)新劇代表団の一員として訪中。
	 著書は『なすの夜ばなし』。
ひしかわ もろのぶ《ひしかは もろのぶ》
	菱川 師宣
	1618(元和 4)
	1694(元禄 7)
	◇江戸前・中期の浮世絵師。名は吉兵衛、晩年は剃髪(テイハツ)し
	て竹友と号する。安房国保田生れ。
	 縫箔刺繍業の家に生れ、幼時から刺繍の上絵描きなどの修業
	をする。万治年間に江戸に出て、狩野派・土佐派・長谷川派な
	どの画風を学ぶ。吉原の遊女や歌舞伎役者など民間の風俗を墨
	一色の木版画で生き生きと描いた。さらに色刷りの版画・肉筆
	画・版本の挿絵などを製作。「浮世絵の祖」といわれる。
	 代表作『見返り美人図』など。
	(2)1618〜94(元和4〜元禄7)。
	(4)生年不詳、没年1695頃。
	(6)生年1618ころ,没年1694ころ。
	(15)?〜1694(?〜元禄 7)。
ひしだ しゅんそう
	菱田 春草
	1874(明治 7)
	1911. 9.15(明治44)
	◇明治期の日本画家。本名は三男治。長野県飯田生れ。
	 1895(明治28)東京美術学校(現:東京芸術大学)第1回卒業生。
	翌年、母校の嘱託。1898(明治31)岡倉天心らとともに辞職し、
	横山大観・下村観山らと日本美術院を創設に参加。1903(明治
	36)大観とインドに旅行。1904〜1905(明治37〜明治38)天心・
	大観らと欧米を遊歴。1908(明治41)ころから網膜炎のため視力
	障害がおこる。1910(明治43)文展審査員。
ひしやま しゅうぞう
	菱山 修三
	1909. 8.28(明治42)
	1967. 8. 7(昭和42)
	◇詩人・フランス文学者。本名は本居雷章(モトオリ・ライショウ)。東京
	生れ。東京外国語学校仏語科卒業。
ひだか しんろくろう
	日高 信六郎
	1893. 4.10(明治26)
	1976. 6.18(昭和51)
	◇外交官・登山家。
ひだか ただいち
	日高 只一
	1879. 3.23(明治12)
	1955. 1.12(昭和30)
	◇英文学者。号は未徹。
ひたちやま たにえもん《ひたちやま たにゑもん》
	常陸山 谷右衛門
	1874(明治 7)
	1922(大正11)
	◇明治後期・大正初期の力士・第19代横綱。本名は市毛谷右衛
	門。茨城県水戸の人。
	 1891(明治24)出羽海部屋に入門、御西山の名で初土俵。1894
	(明治27)師名をつぎ常陸山を襲名。1903(明治36)横綱。好敵手
	梅ケ谷とともに明治の相撲黄金時代を現出。優勝七回。
	 1914(大正 3)引退。年寄出羽海を襲名し、出羽海部屋を開設。
びだつ てんのう《びだつ てんわう》
	敏達 天皇
	 538
	 585
	◇第30代天皇。名は訳語田渟中倉太珠敷(オサダノヌナクラノフトタマシキ)。
	欽明天皇の第2皇子、押坂彦人(オシサカノヒコヒトノ)大兄皇子の父。
	 在位: 572〜 585。
ひだり さちこ
	左 幸子
	1930. 6.29(昭和 5)
	2001.11. 7(平成13)
	◇映画女優・監督。本名は額村幸子。羽仁未央の母。
	 教職を経て、俳優座委託生となる。
	 1952(昭和27)『若き日のあやまち』の主役で映画デビュー。
	 1959(昭和34)映画監督羽仁進(ハニ・ススム)と結婚。
	 1977(昭和52)離婚。
	 出演作品は『思春の泉』・『女中っ子』・『神阪四郎の犯罪』
	・1957(昭和32)『暖流』・1963(昭和38)『彼女と彼』・1963
	(昭和38)『にっぽん昆虫記』・1964(昭和39)『飢餓海峡』・
	1977(昭和52)『遠い一本の道』(監督作品)・1986(昭和61)『春
	駒のうた』・1993(平成 5)『お墓と離婚』など。
ひだり じんごろう
	左 甚五郎
	1594(文禄 3)
	1651(慶安 4)
	◇江戸前期の建築・彫刻の名工。名は利勝、幼名は刀禰松(トネマツ)、
	号は宗恵。播磨国明石(アカシ)生れ。父は足利義輝(ヨシテル)の家臣
	伊丹左近尉(サコンノジョウ)正利。
	 父の死後、飛騨高山藩主金森可重(ヨシシゲ)の家臣で伯父の河
	合忠左衛門のもとに寄寓。13歳のとき禁裏大工棟梁の遊左法橋
	(ユサ・ホウキョウ)与平次に弟子入りする。
	 1619(元和 5)日光東照宮・芝の台徳院廟・上野寛永寺に棟梁
	あるいは彫刻師として造営に加わる。
	 のち禁裏大工棟梁の法橋の官位を得る。
	◎現存では日光東照宮の「眠り猫」が有名。
びとう にしゅう《びとう にしう》
	尾藤 二洲
	1745(延享 2)
	1813(文化10.12.14)
	◇江戸後期の朱子学者。名は孝肇、字は志尹、通称は良佐。伊
	予国生れ。寛政三博士の一人。片山北海に復古学を学び、頼春
	水に朱子学を受け、昌平黌(ショウヘイコウ)の教官を勤めた。
	(2)尾藤 二洲(びとう じしゅう)。
	(4)尾藤 二洲(びとう にしゅう)。
	(6)尾藤 二洲(びとう じしゅう)。
ひとつばし いえなり
	一橋 家斉
	⇒とくがわ いえなり(徳川 家斉)
ひとつばし つねこ
	一橋 直子
	⇒とくしんいん つねこ(徳信院 直子)
ひとつばし むねただ
	一橋 宗尹
	1721(享保 6)
	1764(明和元.12.22)
	◇江戸中期の大名・一橋家の祖。第8代徳川吉宗の三男。
	(2)吉宗の4男。「徳川家重」の項:3男宗尹(一橋)……。
	(6)「御三卿」の項:第4子宗尹……。
	(15)「御三卿」の項:3男宗尹は……。
ひとつばし よしのぶ
	一橋 慶喜
	⇒とくがわ よしのぶ(徳川 慶喜)
ひとみ いちたろう
	人見 一太郎
	1865(慶応元.11.11)
	1924. 9.29(大正13)
	◇明治前半の評論家・実業家。筆名に呑牛・的面生・鬼的面。
	熊本県生れ。後藤新平の導きで実業界に転じる。
ひとみ きぬえ
	人見 絹枝
	1907. 1.(明治40)
	1931. 8. 2(昭和 6)
	◇女子陸上競技選手。岡山県出身。身長170cm、体重56kg。
	 1926. 8.27(大正15)スウェーデンのエーテボリでの第2回国
	際女子陸上競技大会で走り幅跳び・立ち幅跳びと個人総合に優
	勝。1929. 7.28(昭和 4)第9回アムステルダム・オリンピック
	大会で女子800メートル第2位(女子最初のメダル)になる。
	 7種目に世界新記録を作る。
	 過労による肺結核で病死。
	◎女子競技界に貢献、プラーグに記念碑がある。
ひとみ とうめい
	人見 東明
	1883. 1.16(明治16)
	1974. 2. 4(昭和49)
	◇詩人・近代文学研究家。本名は円吉、別号は清浦明人。岡山
	県生れ。
	 早稲田大学英文科卒業。
	 1909(明治42)加藤介春・三富朽葉らと自由詩社を結成。
	 1920(大正 9. 9.)加治いつ・松本赳・坂本由五郎らと日本女
	子高等学院(現:昭和女子大学)を設立。
	 1949(昭和24. 4.)昭和女子大学を設立。
	 昭和女子大学教授。
	◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。
ひなつ こうのすけ
	日夏 耿之介
	1890. 2.22(明治23)
	1971. 6.13(昭和46)
	◇詩人・英文学者。本名は樋口圀登(ヒグチ・クニト)(戸籍は国登)、
	別号は黄眠(コウミン)・黄眠洞主人・黄眠堂主人・黄眠道人・
	黄眠散人・黄眠酔人・夏黄眠・雛津之介・溝五位(ミゾノゴイ)・
	石上好古(イソノカミ・ヨシフル)・恭仁鳥(キョウニンチョウ)・聴雪廬(チョウセツロ)主
	人。長野県伊那郡(イナグン)飯田町生れ。樋口龍峡(リュウキョウ)の甥。
	 京北中学校を経て、1914(大正 3)早稲田大学英文科卒業。
	(1)誕生日は 2. 2。
	(3)誕生日は 2.22。
	(5)誕生日は 2.22。
	(10)誕生日は 2.22。
	(11)誕生日は 2.22。
	(13)誕生日は 2.22。
ひぬま りんたろう
	日沼 倫太郎
	1925. 7. 3(大正14)
	1968. 7.14(昭和43)
	◇評論家。本名は生沼(オイヌマ)正三。栃木県生れ。
ひの あしへい
	火野 葦平
	1906.12. 3(明治39)
	1960. 1.24(昭和35)
	◇小説家。本名は玉井勝則(カツノリ)。戸籍上の誕生日は1907. 1.
	25(明治40)。福岡県若松市生れ。1928(昭和 3)早稲田大学英文
	科在学中に入営、退営とともに廃学。
	 『麦と兵隊』や軍報道班員などにより戦争協力者として1948
	(昭和23. 5)文筆家追放指定をうけ、1950(昭和25.10.)追放解
	除。睡眠薬自殺。
	◎兵隊三部作は『麦と兵隊』・『土と兵隊』・『花と兵隊』を
	いう。
	 上田広(ヒロシ)・日比野士朗とともにいわゆる「兵隊作家」。
	(10)誕生日は1907. 1.25(明治40)。
	(11)誕生日は1907. 1.25(明治40)。
	(13)誕生日は1907. 1.25(明治40)。
	(14)生年は1907(明治40)。
	(16)誕生日は1907. 1.25(明治40)。
	(24)生年は1907。
	(?)誕生日は1906.12. 3(明治39)。
ひの うちみつ
	日野 内光
	1489
	1527(大永 7)
	◇室町末期の公家。太政大臣実淳の第2子、母は公胤の娘。
	 第12代将軍足利義晴に属し細川高国と戦い討死。
	(*)1489(長享 3,延徳元)。
ひの かつみつ
	日野 勝光
	1429
	1476(文明 8. 6.15)
	◇室町中期の公家。蔵人右少弁日野重政の子、日野富子の兄。
	(*)1429(正長 2,永享元)。
ひの しげこ
	日野 重子
	1411(応永18)
	1463(寛正 4)
	◇室町幕府第6代将軍足利義教(ヨシノリ)の室。裏松重子ともいう。
	通称は大方殿、法号は勝智院。裏松重光の娘、第7代将軍足利
	義勝(ヨシカツ)・第8代将軍足利義政(ヨシマサ)の母。宗子(観智院)の
	妹、栄子の姪。
	 1441(嘉吉元. 6.)夫の第6代将軍義教が赤松満祐に刺殺され、
	翌1442(嘉吉 2.11.)子の義勝が第7代将軍となるが、1443(嘉
	吉 3. 7.)赤痢で早逝。
	 1449(文安 6. 4.)子の義成(義政)が第8代将軍となる。義政
	の女官今参局と対立。
	 従一位。
ひの そうじょう
	日野 草城
	1901. 7.18(明治34)
	1956. 1.29(昭和31)
	◇俳人。本名は克修(ヨシノブ)、中学時代の筆名は翠峰・
	「くさまる」、初号は芋秋。東京下谷生れで、父に従い朝鮮に渡
	り京城<ソウル>で小・中学校時代を過ごす。第三高等学校を経て京
	都大学法学部卒業。
	◆草城忌[ 1.29]。
ひの つとむ
	日野 強
	1865
	1920(大正 9)
	◇明治・大正期の陸軍軍人(大佐)。伊予(愛媛県)生れ。
	 日露戦争には第1司令部付。
	 1906(明治39)中国・インドに派遣され、伊犂(イリ;中国新彊省)
	からヒマラヤを越えインドに達する。1912年、再び中国に派遣
	され革命派を援助、李烈鈞の日本亡命も助ける。
	 中国で実業に従事後、大本教の幹部となる。
	(*)1865(元治 2,慶応元)、1912(明治45,大正元)。
ひの とみこ
	日野 富子
	1440(永享12)
	1496(明応 5. 5.20)
	◇室町幕府第8代将軍足利義政の室。蔵人右少弁日野重政の娘、
	第9代将軍義尚(ヨシヒサ)の母、第10代将軍義稙(ヨシタネ)の伯母、日
	野勝光(カツミツ)の妹。
	 義政の女官今参局を謀殺。山名宗全の力を背景に、義政の弟
	義視(ヨシミ)の保護者細川勝元と対立。1468(応仁 2)義視を追う。
	1473(文明 5)義政を隠居させ、義尚に将軍職を譲らせる。1489
	(長享 3. 3.26)義尚が近江国鈎(マガリ)(勾里)の陣中で病没。義
	政が再び政務をとるが翌年死去。1490(延徳 2)富子の妹と義視
	との子義稙を将軍とするが、義視が大御所として政務をとる。
	1491(延徳 3. 1. 7)義視が死去。1494(明応 3.12.25)義稙を廃
	して、12.27義澄(ヨシズミ)(義政の養子)を第11代将軍にする。
ひの やすこ
	日野 康子
	1369(<南>正平24,<北>応安 2)
	1419(応永26)
	◇室町幕府第3代将軍足利義満(ヨシミツ)の後妻(室)。通称は北山
	院。権大納言日野資康の娘。
	 北山第南御所に住する。
	 1406(応永13)准三宮(ジュサングウ)(後小松天皇の准母)となる。
	1407(応永14)院号の宣下を受ける。これは天皇・皇族の後宮以
	外では唯一である。
	 1408(応永15. 5. 6)義満が病死する。
ひのはら むげん
	日原 無限
	1885. 1. 1(明治18)
	1930. 5. 3(昭和 5)
	◇歌人。本名は文造。
ひびの しろう
	日比野 士朗
	1903. 4.29(明治36)
	1975. 9.10(昭和50)
	◇小説家。東京生れ。上田広(ヒロシ)・火野葦平(アシヘイ)とともに
	いわゆる「兵隊作家」。
	 1934(昭和 9)河北新報社に入社。1937(昭和12)応召して上海
	戦線で負傷し帰還。1942(昭和17)大政翼賛会文化部副部長にな
	るが、戦後は文筆活動をしていない。
びふくもんいん
	美福門院
	1117(永久 5)
	1160(永暦元.11.)
	◇鳥羽天皇の皇后。名は藤原得子、法号は真性定。中納言藤原
	長実(ナガザネ)の娘、母は左大臣源俊房の娘、近衛天皇の母。
	 鳥羽上皇の後宮に入り、1139(保延 5)第9皇子体仁(ナリヒト)親
	王を生む。親王は誕生3ヶ月で立太子、1141(永治元)鳥羽上皇
	は出家して法皇になり、強制的に崇徳天皇を譲位させ、3歳の
	親王を近衛天皇に即位させる。1155(久寿 2)近衛天皇が夭折す
	ると崇徳上皇の子重仁(シゲヒト)親王をさしおき、崇徳の弟雅仁
	(マサヒト)親王を後白河天皇に即位させる。翌1156(保元元. 7. 2)
	法皇が没すると、まもなく 7.11保元(ホウゲン)の乱となり、美福
	門院は平清盛を召し出し勝利する。
ひみこ
	卑弥呼
	生年不詳
	 247頃
	◇3世紀前半ころの邪馬台国(ヤマタイコク)の女王。
	 魏に使者を遣わし、 239<景初 3>明帝より「親魏倭王」の称号
	を与えられる。 240<正始元>魏の代理使節が邪馬台国に赴く。
	内乱の後、卑弥呼が共立され30余国を支配、「鬼道を事とし、
	能(ヨ)く衆を惑わ」し、弟が政治を補佐し、人前に姿を見せない
	と『魏志倭人伝』に記録されている。
	  243<正始 4>魏へ使節を派遣。 247<正始 8>魏より使節が渡
	来。死後に男王が立ったが治まらず、娘の台与(トヨ)が立ちよう
	やく治まる。
	(*) 247<正始 8>。
ひめこ
	卑弥呼
	⇒ひみこ(卑弥呼)
ひゅーすけん
	ヒュースケン
	1832(天保 3)
	1861. 1.16(文久元.12. 6)
	◇江戸幕末の駐日アメリカ公使館通訳官として活躍したオラン
	ダ人。名はヘンリー・ヒュースケン(Henry C.J.Heusken)。ア
	ムステルダムの商人の家に生れる。
	 21歳の時にアメリカに移住し、ハリスの書記兼通訳に応募。
	 1856(安政 3. 7.)アメリカ総領事ハリスに従い伊豆下田に着
	任。蘭・英・独・仏語に通じ、日米修好通商条約交渉などでハ
	リスを補佐。イギリス使節エルジンやプロシア使節オイレンブ
	ルグ(Eulenburg)の対日条約締結に際しても通訳をつとめる。
	 1861. 1.15(文久元.12. 5)夜9時ころプロシア使節宿舎であっ
	た芝赤羽接遇所(港区三田)からアメリカ公使館のある麻布(アザ
	ブ)善福寺(ゼンプクジ)への帰途、芝薪(マキ)河岸の「中の橋」付近
	で攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平(イムタ・ショウヘイ)・樋渡八兵衛(ヒワタリ
	・ハチベエ)らに襲われ、翌日死亡。
	 著書は『Memoires de Voyage』。
	◎幕府はヒュースケンの母に1万ドルを贈り、事件を落着させ
	た。
ひょう ぎょくしょう《ひよう ぎよくしやう》
	馮 玉祥
	⇒ふう ぎょくしょう(馮 玉祥)
ひょうもと よしのり
	兵本 善矩
	1906.11. 3(明治39)
	1967. 2.21(昭和42)
	◇小説家。
ひらい ごんぱち
	平井 権八
	生年不詳
	1679(延宝 7)
	◇江戸前期の浪人。鳥取藩主池田光仲の家臣平井正右衛門(六
	百石)の長男。
	 17歳で一家の奥儀を極める。
	 1672(寛文12)秋の末、父の同僚本庄助太夫(あるいは須藤助
	太夫)を殺傷したため、脱藩して江戸に逐電。浅草日本堤で通
	行人から金銭を奪い吉原に通い、三浦屋の遊女小紫(コムラサキ)と
	深い仲となる。
	 ある時、目黒不動そばの普化宗東昌寺の住僧随川にかくまわ
	れ、尺八を習い改心。両親に一目会いたいと虚無僧となって郷
	里に帰ったが両親はすでに他界していたため、観念して江戸に
	戻り自首。
	 鈴ヶ森刑場に晒される。
	◆東京都目黒区の目黒不動の近く(東昌寺跡)に、後追い自殺し
	た小紫との比翼塚がある。
	◎歌舞伎狂言では「白井権八」の名で知られる。
	◎父の同僚を殺傷した原因は犬の喧嘩からと言われている。
	 ある時、城中で父正右衛門が同僚に「畜類などを鍾愛(ショウアイ)
	するのはよろしくない」と語ったことを聞いた助太夫は、自分
	の犬好きを暗に悪口したと思い立腹。そこで自分の犬をけしか
	けて正右衛門の犬と喧嘩させると、正右衛門の犬が負けて尾を
	尻の間に挟んで逃げてしまった。助太夫は「犬猫などは飼い主
	に似る」と高言したが、還暦を過ぎて世間の苦楽を知っている
	正右衛門は事を荒立てず、「拙宅の犬は手許不如意のため、飼
	料も不十分であるし、かつは老年頽齢の拙者のことなれば、犬
	も勇気が失せるでござろう」と言い、退出の時刻になったから
	と他の同僚を促して帰宅した。
	 この話を友達から聞いた権八は、助太夫の家に押し掛け、一
	刀の下(モト)に助太夫を仆(タオ)したと言われている。
ひらい ていいち
	平井 呈一
	1902. 6.16(明治35)
	1976. 5.19(昭和51)
	◇英文学者・翻訳家。本名は程一。東京生れ。
	 早稲田大学英文科中退。
	 『小泉八雲全集』を全訳し、日本翻訳者協会賞を受賞。
ひらい はじめ
	平井 肇
	1896. 5.17(明治29)
	1946. 7. 7(昭和21)
	◇翻訳家。ゴーゴリの作品をほとんど訳出。ハルビンで病没。
ひらい ばんそん
	平井 晩村
	1884. 5.13(明治17)
	1919. 9. 2(大正 8)
	◇民謡詩人・歌人・小説家。本名は駒次郎(コマジロウ)。群馬県前
	橋生れ。早稲田大学高等師範部国漢科卒業。
	 前橋公園に『落葉』の民謡碑がある。
	(3)誕生日は 5.17。
	(5)誕生日は 5.13。
	(10)誕生日は 5.13。
	(11)誕生日は 5.17。
	(13)生年は1883(明治16)、誕生日の記載なし。明治一六年群馬
	県前橋に生まる。没日は 9. 3。
ひらいし ときみつ
	1696(元禄 9)
	1771(明和 8)
	◇彦根藩士。通称は久平次(クヘイジ)。
	 1732(享保17)新製陸舟車(ペタル式の三輪自転車)を完成。
	◎滋賀県彦根市立図書館所蔵『新製陸舟奔車之記』に記載。
ひらいで しゅう
	平出 修
	1878. 4. 3(明治11)
	1914. 3.17(大正 3)
	◇歌人・小説家・評論家・弁護士。本名は禾(ヒイズ)、旧姓は児
	玉、平出ライと結婚して入籍、号は露花(ロカ)・黒瞳子(コクドウシ)。
	新潟県中蒲原郡生れ。
	 小学校教員を経て明治法律学校(現:明治大学)卒業、1905(明
	治38)弁護士を開業する。
	 1910(明治43.11.)与謝野寛の依頼で幸徳秋水事件の弁護を引
	き受け、森鴎外の教示により社会主義文献を読破。
	 社会小説『逆徒』は大逆事件を扱ったもの。
	(1)平出 修(ひらいで おさむ)。
	(2)平出 修(ひらいで しゅう)。
	(3)平出 修(ひらいで しゅう)。
	(5)平出 修(ひらいで しゅう)。
	(7)平出 修(ひらいで おさむ)。
	(10)平出 修(ひらいで しゅう)。
	(11)平出 修(ひらいで しゅう)。
	(13)平出 修(ひらいで おさむ)。
ひらいのやすまさ《ひらゐのやすまさ》
	平井 保昌
	⇒ふじわらのやすまさ(藤原 保昌)
ひらお ふこ
	平尾 不孤
	1874. 4.(明治 7)
	1905. 5.28(明治38)
	◇小説家。本名は徳五郎。
ひらおか こうたろう
	平岡 浩太郎
	1851(嘉永 4)
	1906(明治39)
	◇明治期の国家主義的政治家。
	◎1901(明治34)黒龍会・1931(昭和 6)大日本生産党を創立した
	右翼指導者内田良平(リョウヘイ)は甥。
ひらおか じゅん
	平岡 潤
	生年不詳
	没年不詳
	◇詩人・画家・陸軍将校。1942(昭和17)ごろ活躍。
ひらおか とくよし《ひらをか とくよし》
	平岡 篤頼
	1929. 5. 2(昭和 4)
	2005. 5.18(平成17)
	◇フランス文学者・作家。
	 早稲田大学名誉教授。
	 1976(昭和51)発行人となり文芸雑誌「早稲田文学」を再刊(第
	8次)。
	 作品は日本文学評論『変容と試行』、小説『消えた煙突』な
	ど。
ひらが げんない
	平賀 源内
	1729(享保14)頃
	1779(安永 8.12.18)
	◇江戸中期の蘭学者・本草学者・戯作者・浄瑠璃作者。本名は
	国倫(クニトモ)、号は鳩渓(キュウケイ)・風来山人・天竺浪人(テンジクロウニ
	ン)・森羅万象・福内鬼外(フクウチキガイ)、通称は源内。讃岐(サヌキ)
	国(香川県)志度浦生れ。
	 本草学者田村藍水(ランスイ)に師事。
	 1778(安永 7)二人を殺傷し、翌年獄死。
	(2)生年は1728(享保13)。
	(4)生年は1726。
	(5)生年は1728(享保13)。
	(6)生年は1729か。
	(11)生年は1728(享保13)。福内鬼外(フクチキガイ)などと号す。
	◆源内まつり[ 3.25](出身地)香川県大川郡志度町(シドチョウ)の
	慰霊祭。
ひらが これよし
	平賀 惟義
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉前期の武将。通称は大内冠者・大内惟義。平賀義信の子。
ひらが しゅんこう
	平賀 春郊
	1882. 6.26(明治15)
	1952. 5.25(昭和27)
	◇小説家。本名は財蔵。
ひらが もとよし
	平賀 元義
	1800(寛政12. 7. 3)
	1865(慶応元.12.28)
	◇江戸後期の国学者・歌人。初名は直元・義元、通称は吾妹子
	先生。備前国岡山藩の中老池田家の老臣平尾長春の嫡子に生れ、
	21歳の時に家督を弟に譲り、興津(オキツ)氏(一時犬丸氏とも)称
	した。
	 14歳の時に黒住教の祖黒住宗忠の講話に接し国学を志す。
	1832(天保 3)弟が主家を捨てたので、彼も藩籍を脱して岡山を
	離れ、以後平賀左衛門源元義と名乗り中国地方を流浪した。
	◎黒住宗忠は岡山藩士に積極的に布教した。
ひらが ゆずる
	平賀 譲
	1878(明治11. 3. 8)
	1943(昭和18. 2.17)
	◇大正・昭和期の軍艦設計者。旧広島藩士平賀百左衛門の子。
	東京大学卒業。
	 英国グリニッチ海軍大学に留学。
	 造船大監・海軍技術研究所長などを経て、1926(大正15)造船
	中将。戦艦長門・陸奥など八八艦隊主力艦を設計。ワシントン
	軍縮会議後は、強力な火器を装備した古鷹型重巡洋艦・夕張型
	軽巡洋艦などを設計。
	 1931(昭和 6)予備後、東大教授。1938(昭和13)から没年まで
	東京大学総長。河合栄治郎の筆禍による経済学部の対立から、
	河合・土方成美両教授を休職させて「平賀粛学」を行い(河合栄
	治郎事件)、教授会の自治を無視したとして多くの辞職者を出
	させる。
ひらかわ こしん
	平川 虎臣
	1903.10.25(明治36)
	1969. 5. 2(昭和44)
	◇小説家。
ひらかわ へき
	平川 へき
	1869(明治 2. 3. 6)
	1915. 5. 3(大正 4)
	◇俳人。本名は竹治、別号は木蓮寺・呵雲窟、旧号は碧。
ひらき にろく
	平木 二六
	1903.11.26(明治36)
	1984. 7.23(昭和59)
	◇昭和期の詩人・童謡・童話作家。旧筆名は平木じろう。東京
	生れ。東京府立三中卒業。
	(2)平木 二六(ひらき にろく)。
	(10)平木 二六(ひらき じろう)。
	(11)平木 二六(ひらき にろく)。
ひらき はくせい
	平木 白星
	1876. 3. 2(明治 9)
	1915.12.20(大正 4)
	◇詩人・戯曲家。本名は照雄(テルオ)。千葉県市原郡姉ヵ崎村生
	れ。東京英語学校卒業。晩年は郵便局長。
ひらくし でんちゅう
	平櫛 田中
	1872(明治 5)
	1979.12.30(昭和54)
	◇彫刻家。本名は倬太郎。岡山県生れ。
	 高村光雲に師事。岡倉天心の指導で日本彫刻会を起こす。
	 1914(大正 3)日本美術院の再興に参加。
	 日本美術院同人・東京美術学校(現:東京芸術大学)教授。
	 文化勲章、受章。
	 作品は『転生』・『鏡獅子』など。
ひらさわ かたろう
	平沢 嘉太郎
	1864
	1932(昭和 7)
	◇事業家・木材商。
	 金沢市郊外の粟ヶ崎(アワガサキ)海水浴場を開発。
	 1924(大正13)粟ヶ崎遊園を併設。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
ひらさわ けいしち
	平沢 計七
	1889. 7.14(明治22)
	1923. 9. 3(大正12)
	◇労働運動家・小説家・劇作家。号は紫魂、初期の筆名は潮態。
	新潟県生れ。
	 関東大震災のとき、いわゆる亀戸(カメイド)事件の中心人物と
	して捕えられ、亀戸署中庭において習志野騎兵第13連隊の将校
	の手により刺殺された。
	(1)没日は 9. 3。
	(3)没日は 9. 4。
	(5)没日は 9.14。
	(10)没日は 9. 3。
	(11)没日は 9. 3。
ひらさわ とらぞう
	平沢 虎造
	1899(明治32)
	1964(昭和39)
	◇浪曲師。
ひらた あつたね
	平田 篤胤
	1776(安永 5. 8.24)
	1843(天保14.閏9.11)
	◇江戸後期の国学者。秋田藩士大和田祚胤(トシタネ)の第四子で幼
	名は正吉のち正吉胤行、平田家の養子となり半兵衛篤胤、号は
	大角(ダイカク)・大壑(ダイカク)・気吹舎(イブキノヤ)・伊吹廼舎(イブキノ
	ヤ)。
	 20歳に無一文で脱藩し江戸に出て苦学する。25歳に備中国松
	山藩士平田篤穏(アツヤス)の養嗣子となり、藩主板倉家に仕える。
	◎荷田春満(カダノアズママロ)・賀茂真淵(カモノマブチ)・本居宣長(モトオリ
	ノリナガ)とともに国学四大人(シタイジン)の一人。
ひらた けんぞう
	平田 兼三
	1894. 3. 4(明治27)
	1976.10. 1(昭和51)
	◇劇作家。本名は兼三郎、歌舞伎座にいたときは竹柴兼三と名
	乗る。
ひらた ころく
	平田 小六
	1903.11. 1(明治36)
	1976. 5.18(昭和51)
	◇小説家・評論家。
ひらた しんさく
	平田 晋策
	1904. 3. 6(明治37)
	1936. 1.28(昭和11)
	◇軍事問題評論家・児童文学者。交通事故死。
ひらた とくぼく
	平田 禿木
	1873. 2.10(明治 6)
	1943. 3.13(昭和18)
	◇英文学者・翻訳家・随筆家。本名は喜一郎、通称は喜一、別
	号は鬱孤洞主(ウツコドウシュ)・風潭(フウタン)・松茶庵・荒川(アラカワ)
	漁郎・雲丸・無名氏。東京日本橋伊勢町生れ。
	 1890(明治23)第一高等中学校入学、1894(明治27)中退。1895
	(明治28)東京高等師範学校英語専修科入学、1898(明治31)卒業。
	1903〜1906(明治36〜明治39)オックスフォード大学に留学。
	(1)本名は喜一郎。
	(2)没日記載なし、本名は喜一。
	(3)本名は喜一郎、通称は喜一。
	(5)没日は 3.11、本名は喜一郎、通称は喜一。
	(10)没日は 3.13、本名は喜一郎、通称は喜一、別号は
	欝孤洞主。
	(11)没日は 3.11、本名は喜一郎、通称は喜一、別号は
	欝孤洞主。
	(13)没日は 3.13、本名は喜一。
ひらた はるいち
	平田 春一
	1894.11.28(明治27)
	1973.12. 7(昭和48)
	◇歌人。
ひらた ひさし
	平田 久
	1871(明治 4. 9.)
	1923. 9. 1(大正12)
	◇新聞記者。
ひらつか あつし
	平塚 篤
	1884. 9.(明治16)
	没年不詳
	◇新聞記者。
ひらつか たけじ
	平塚 武二
	1904. 7.24(明治37)
	1971. 3. 1(昭和46)
	◇児童文学作家。
ひらつか らいちょう
	平塚 らいてう
	1886. 2.10(明治19)
	1971. 5.24(昭和46)
	◇評論家。本名は奥村明(ハル)、旧姓は平塚、筆名は「らいてう」
	・平塚らいてう・平塚明。東京生れ。日本女子大学家政科卒業。
	 1908. 3.(明治41)閨秀大学講座の講師だった森田草平(ソウヘイ)
	と塩原尾花峠に情死行をくわだて追っ手にとらえられる。
	 1911. 9.(明治44)青踏社を創立し「青踏(セイトウ)」を創刊、創
	刊号に「元始女性は太陽であつた」を掲げる。1918(大正 7)奥村
	と結婚。1920. 3.(大正 9)新婦人協会を結成。
	(2)本名明(ハル)。'20市川房枝・奥むめおらと新婦人協会を結成
	し、……。
	(10)本名奥村明(ハル)。日本女子大家政科に入学。翌九年……三
	月新婦人協会結成。
	(13)本名は奥村明子。日本女子大学家政学部卒業。大正八年
	「新婦人協会」を結成して……。
ひらと れんきち
	平戸 廉吉
	1893.12. 9(明治26)
	1922. 7.20(大正11)
	◇詩人・美術評論家。本名は川畑正一(カワハタ・ショウイチ)。大阪生れ。
	上智大学中退。
	(1)生年は1893(明治26)。
	(2)平戸 廉吉(ひらと れんきち)、生年は1893(明治26)。
	(3)生年は1893(明治26)。
	(5)生年は1894(明治27)。
	(10)平戸 廉吉(ひらと れんきち)、生年は1893(明治26)。
	(11)平戸 廉吉(ひらど れんきち)、生年は1893(明治26)。
	(13)平戸 廉吉(ひらど れんきち)、生年は1893(明治26)。
ひらぬま きいちろう
	平沼 騏一郎
	1867(慶応 3. 9.28)
	1952. 8.22(昭和27)
	◇明治〜昭和期の司法官僚・政治家。号は機外。美作国(岡山
	県)津山藩士平沼晋の子。
	 東京大学卒業。1888(明治21)司法省に入り、判事・1905(明
	治38)大審院検事・1906(明治39)民刑局長を兼任・司法次官・
	1912(明治45)検事総長・1921(大正10)大審院長を歴任。
	 1923(大正12)第2次山本権兵衛内閣の司法大臣。1924(大正
	13)退官して国家主義団体の国本社を結成し総裁となり、同年
	貴族院議員ついで枢密顧問官、日本大学総長も兼任。1925(大
	正14)枢密院副議長。1926(大正15)男爵。1936(昭和11)枢密院
	議長、国本社総裁を辞任。
	 1939(昭和14)首相。1940(昭和15)第2次近衛文麿内閣の内務
	大臣・副総理。1941(昭和16)第2次近衛内閣の国務大臣。1945
	(昭和20)枢密院議長に再度就任。
	 戦後、A級戦犯となり終身禁錮刑で服役中、1952(昭和27)病
	気のため仮出獄中に病没。
ひらの あいこ
	平野 愛子
	1919. 1. 4(大正 8)
	1981.11.22(昭和56)
	◇歌手。東京市牛込区生れ。平野淑子の母。
	 1946(昭和21)ビクターの試験で優勝・合格。
	 1947(昭和22)『港が見える丘』でデビュー。
	 1948(昭和23)『君待てども』をヒット。
	 1950(昭和25)『白い船のいる港』。同年、作曲家東辰三(アズ
	マ・タツゾウ)の急逝からはヒットに恵まれなかった。
ひらの きんか
	平野 金華
	1688
	1732(享保17. 7.23)
	◇江戸中期の儒者。
	(*)1688(貞享 5,元禄元)。
ひらの くにおみ
	平野 国臣
	1828(文政11. 3.29)
	1864(元治元. 7.20)
	◇江戸幕末の志士。
ひらの けん
	平野 謙
	1907.10.30(明治40)
	1978. 4. 3(昭和53)
	◇戦後の文芸評論家・現代日本文学研究家。本名は朗(アキラ)。
	京都生れ。母は小林秀雄の母と従姉妹同士。
	 1926(大正15)第八高等学校(現:名古屋大学)文科乙類に入学。
	1930(昭和 5)東京帝国大学文学部入学。
	 戦後、中野重治(シゲハル)と「政治と文学」を論争する。
	(2)(生)岐阜県。(学)東大。
	(10)京都市上京区の京都帝大付属病院で生れ、東京で育ち、小
	学校入学に当って本籍地の岐阜に帰った。昭和五年、東京帝大
	文学部に入学、……。
	(13)岐阜県に生まる。東大美学科卒業。
ひらの げんりょう
	平野 元良
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸末期の医者。
ひらの とみじ
	平野 富二
	1846(弘化 3. 8.14)
	1892.12. 3(明治25)
	◇企業家・技術者。長崎生れ。
	 3歳で父を亡くし、苦学する。
	 1861(文久元)長崎製鉄所の機関手見習いとして、本木昌造(ショ
	ウゾウ)に師事し、蒸気機関の取り扱いに成功。また、造船・製
	鉄・活字を学び、日本最初の鋳造活字を製作。
	 明治維新後、本木の後をうけて長崎製鉄所の所長となるが、
	工部省へ移管に際し辞職。
	 1872(明治 5)長崎から東京に進出。翌年、神田佐久間町に工
	場をかまえ本木活字の大量生産を始め活版印刷を普及させる
	(のち築地に移転し築地活版所)。
	 1876(明治 9)海軍省から石川島修船所を借り受け、日本最初
	の民間造船所である石川島平野造船所を建設(石川島播磨重工
	の前身)。
	 海運・土木など幅広い事業を行い、日本最初の鉄橋吾妻橋を
	架橋。
	 坂本龍馬・勝海舟・榎本武揚・福沢諭吉・井上勝・渋沢栄一
	らと交流。
	 贈従五位。
	◆墓は東京都台東区の谷中霊園。
	◎文献(当館未参照)『本木昌造・平野富二詳伝』。
ひらの はくいん
	平野 柏蔭
	1872(明治 5. 9. 2)
	1944. 1.19(昭和19)
	◇文芸評論家。本名は履道。
ひらの ばんり
	平野 万里(平野 萬里)
	1885. 5.25(明治18)
	1947. 2.10(昭和22)
	◇歌人。本名は久保(ヒサヨシ)。埼玉県北足立郡遊馬村生れ。1908
	(明治41)東京帝国大学工学部応用化学科卒業。玉野花子の夫。
	森鴎外の離婚問題にからんで鴎外の子の於菟(オト)と乳兄弟にな
	る。
	(13)昭和二二年七月死去。
ひらの りゅういち
	平野 龍一
	1920(大正 9)
	2004. 7.16(平成16)
	◇刑事法学者。熊本市生れ。
	 東京大学卒業。
	 1957(昭和32)東京大学教授。
	 1981〜1985(昭和56〜昭和60)第22代東京大学学長。
	 1985(昭和60)退官し、東京大学名誉教授。
	 著書は『刑事訴訟法の基礎理論』など。
ひらの れいじ
	平野 零児
	1897. 2. 6(明治30)
	1961. 8.26(昭和36)
	◇小説家。本名は嶺夫、零二とも記す。
ひらばやし たいこ
	平林 たい子
	1905.10. 3(明治38)
	1972. 2.17(昭和47)
	◇小説家。本名はタイ。長野県諏訪郡中洲村に代々名主の家に
	生れるが、父の代で没落。
	 幾多の同棲後、1927(昭和 2)小堀甚二(コボリ・ジンジ)と結婚、
	入籍は1931(昭和 6)。1937.12.(昭和12)人民戦線事件で小堀と
	ともに捕えられる。1955(昭和30)小堀に裏切られて離婚。
ひらばやし はつのすけ
	平林 初之輔
	1892.11. 8(明治25)
	1931. 6.15(昭和 6)
	◇文芸評論家。京都府竹野郡深田村生れ。1910(明治43)京都師
	範学校に入学し卒業間際に退学。1913. 9.(大正 2)早稲田大学
	英文科入学、1917(大正 6)卒業。1926(大正15)「太陽」編集主幹。
	1931. 2.(昭和 6)早稲田大学留学生として渡仏、五月パリで開
	かれた第一回文芸家協会大会に日本文芸家協会代表として出席
	したのち、出血性膵臓炎でパリに客死。
	(10)早大英文科へ入学した。
	(13)早稲田大学仏文科に入学、……。
ひらばやし ひょうご
	平林 彪吾
	1903. 9. 1(明治36)
	1939. 4.28(昭和14)
	◇小説家。本名は松元実。鹿児島県生れ。日大高等工学校建築
	科を経て日本大学社会学科卒業。
	(1)没日は 4.21。
	(3)没日は 4.28。
	(5)没日は 4.28。
	(10)没日は 4.28。
	(11)没日は 4.28。
ひらばやし ほうじ
	平林 鳳二
	生年不詳
	1927.10. 5(昭和 2)
	◇俳人。本名は縫治、別号は巨城。
ひらふく ひゃくすい
	平福 百穂
	1877.12.28(明治10)
	1933.10.30(昭和 8)
	◇歌人・日本画家。本名は貞蔵。秋田県角館生れ。東京美術学
	校日本画選科卒業。帝国美術院会員・東京美術学校教授。
ひらやま せいさい
	平山 省斎
	1815(文化12)
	1890(明治23)
	◇明治初期の宗教家。平山威信の父。
	 江戸幕府の外国奉行を務める。
	 明治維新後、氷川神社宮司となり、禊・淘宮(トウキュウ)・天学・
	蓮門・儒教・心学など雑多な民間の講社を結集し大成教を創始。
	 御岳教の別派独立の際はその管長を兼ねる。
ひらやま ためのすけ
	平山 為之助
	1874(明治 7)
	1960(昭和35)
	◇昭和前半期の実業家。青森県北郡栄村(現:五所川原市)生れ。
	 慶応義塾、中退。
	 1928〜1947(昭和 3〜昭和22)津軽鉄道株式会社の初代社長。
	 五所川原銀行頭取。
ひらやま ろこう
	平山 蘆江
	1882.11.15(明治15)
	1953. 4.18(昭和28)
	◇小説家・随筆家。本名は壮太郎。神戸生れ。
	 実父の死後、長崎の酒店平山家に引き取られる。
	 東京府立四中を中退。日露戦争中に満州に渡り放浪。
	 帰国後、都新聞・読売新聞の花柳演芸欄を担当。
	 作品は『唐人船』・『西南戦争』・『熊本籠城』、随筆『日
	本の芸談』・『東京おぼえ帖』・『きもの帖』など。
ひれざき えいほう
	鰭崎 英朋
	1881. 8.25(明治14)
	1910(明治43)
	◇挿絵画家。本名は太郎、別号は晋司・絢堂。東京浅草生れ。
	 1901(明治34)鈴木清方・山中古洞らと烏合会を結成。
	 明治後期、挿絵家として活躍。
ひろえ やえざくら
	広江 八重桜
	1879. 3.11(明治12)
	1945.10. 8(昭和20)
	◇俳人。本名は直治(ナオハル)、庵号は八重桜庵・蚕頭庵(サントウアン)。
	島根県生れ。
[1]ひろおか きゅうえもん
	広岡 久右衛門(8代)
	1806(文化 3)
	1869(明治 2)
	◇江戸幕末の大坂の豪商。名は正饒、屋号は加島屋。9代目の
	父。
[2]ひろおか きゅうえもん
	広岡 久右衛門(9代)
	1844
	1909(明治42)
	◇明治時代の大阪の豪商。名は正秋、屋号は加島屋。8代目の
	3男。
	 1888(明治21)一族の出資で加島銀行を設立し頭取となる。
	1899(明治32)朝日生命の重役を兼任。1902(明治35)護国生命・
	北海生命を合併し大同生命保険会社の初代社長に就任。
	(*)1844(天保15,弘化元)。
ひろかわ まつごろう
	広川 松五郎
	1889(明治22)
	1952.11 2(昭和27)
	◇画家。
ひろさわ さねおみ《ひろさは 》
	広沢 真臣(広澤 真臣)
	1833(天保 4)
	1871(明治 4)
	◇江戸幕末・維新期の政治家。
	◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。
ひろさわ とらぞう《ひろさは とらざう》
	広沢 虎造(広澤 虎造)
	1899(明治32)
	1964(昭和39)
	◇昭和時代の浪曲師。本名は山田信一。東京生れ。
	 関西の広沢虎吉の門に入り、1922(大正11)真打広沢虎造となっ
	て東京に帰る。
ひろせ さいへい
	広瀬 宰平
	1828(文政11)
	1914(大正 3)
	◇実業家・住友の筆頭番頭(住友家初代総理事)。滋賀県近江八
	幡市生れ。
	 11歳で別子銅山勘定場の給仕となる。
	 明治維新の際、別子銅山を新政府の没収から守る。
	 別子の近代化・伸銅場設置・製鋼所買収・電線製造や炭坑な
	どを図り、住友財閥発展の基礎を築く。
	 五代友厚(ゴダイ・トモアツ)らと大阪商法会議所(現:大阪商工会議
	所)・1878. 6.(明治11)大阪株式取引所などを創設。1880(明治
	13)大坂商業講習所(現:大阪市立大学)・1884(明治17)大阪商船
	会社などを設立。
ひろせ そうきち
	広瀬 操吉
	1895.10.30(明治28)
	1968.12.17(昭和43)
	◇詩人。
ひろせ たけお《ひろせ たけを》
	広瀬 武夫
	1868
	1904(明治37)
	◇明治時代の海軍軍人(中佐)。豊後(大分県)竹田生れ。
	 ロシア駐在武官。1897(明治30)〜1902(明治35)滞欧。
	 日露戦争中、旅順港閉塞作戦で自沈船の福井丸を指揮。退船
	の際、行方不明の杉野孫七上等兵曹を探索したが発見できず、
	引揚げるボート上で被弾戦死。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
	◎軍神として軍歌や文部省唱歌にも歌われた。
	◎銅像が神田須田町交差点にあったが、交差点が日本橋寄りに
	移動して万世橋駅(マンセイバシエキ)前に残された。のち神田橋の公
	園に移転。
ひろせ ただし
	広瀬 正
	1924. 9.30(大正13)
	1972. 3. 9(昭和47)
	◇SF作家。
ひろせ たんそう《ひろせ たんさう》
	広瀬 淡窓
	1782(天明 2. 4.11)
	1856(安政 3.11. 1)
	◇江戸後期の漢詩人・漢学者。名は建、字は子基、号は淡窓・
	遠思楼主人。豊後国(大分県)日田(ニッタ)生れ。
	 筑前(福岡県)の亀井塾(亀井南溟<ナンメイ>・昭陽父子)に学ぶ。
	 郷里に桂林荘(ケイリンソウ)という塾を開く。
	 門人は高野長英(チョウエイ)・大村益次郎(マスジロウ)・長三洲(チョウ・
	サンシュウ)など。
	 著書は『遠思楼詩鈔(エンシロウシショウ)』・『淡窓詩話』など。
	◎三浦梅園(ミウラ・バイエン)・帆足万里(ホアシ・バンリ)とともに豊後三
	賢の一人。
ひろせ てつし
	広瀬 哲士		????????
	1883. 9. 9(明治16)
	1952. 7.26(昭和27)
	◇フランス文学者。岡山県津山市外生れ。東京大学仏文科卒業。
	 1910(明治43)慶応義塾大学教授、1934(昭和 9)退職。
	 1934(昭和 9)実業界に転じたが晩年は不遇。
	(*)(10)に記載。多分、下記と同一人物。
ひろせ てつし
	広瀬 哲士
	1883. 9.22(明治16)
	没年不詳
	◇翻訳家・評論家。
ひろた こうき
	広田 弘毅
	1878(明治11)
	1948(昭和23)
	◇大正・昭和期の外交官・政治家。幼名は丈太郎(ジョウタロウ)。
	 太平洋戦争後、A級戦犯として東京巣鴨で絞首刑。
	◎極東軍事裁判で1937(昭和12)南京大虐殺の外交責任をとらさ
	れ、A級戦犯として絞首刑を言い渡された唯一の文官。
ひろた たつ
	広田 多津
	1904(明治37)
	1990(平成 2)
	◇女流日本画家。
ひろた りゅうたろう
	弘田 龍太郎
	1892. 6.30(明治25)
	1952.11.17(昭和27)
	◇作曲家。鹿島鳴秋『浜千鳥』・清水かつら『雀の学校』など
	の童謡曲を作曲。
ひろつ かずお
	広津 和郎(廣津 和郎)
	1891.12. 5(明治24)
	1968. 9.21(昭和43)
	◇小説家・評論家。広津柳浪(リュウロウ)の次男。戸籍上の誕生日
	は12.31。東京牛込生れ。
	 麻布中学校を経て、1913(大正 2)早稲田大学英文科卒業。
	 松川事件と取り組み、被告を無罪に導く。
	◆広津和郎忌[ 9.21]。
ひろつ りゅうろう
	広津 柳浪(廣津 柳浪)
	1861. 7.15(文久元. 6. 8)
	1928.10.15(昭和 3)
	◇小説家。本名は直人(ナオト)、幼名は金次郎、別号は蒼々園(ソウ
	ソウエン)。備前国長崎材木町に久留米藩士の次男として生れる。
	広津和郎(カズオ)の父。
	 麹町番長小学校に入学、1877(明治10)医者を志して大学医学
	部予備門に入り、翌年廃学。1881〜1885(明治14〜明治18)農商
	務省に勤務。
ひろの さぶろう
	広野 三郎
	1897. 4.10(明治30)
	1968. 4. 4(昭和43)
	◇歌人。
ひろひと しんのう《ひろひと しんわう》
	裕仁 親王
	⇒しょうわ てんのう(昭和 天皇)
びんひ
	閔妃
	⇒びんび(閔妃)
びんび
	閔妃
	1851(嘉永 4)
	1895(明治28)
	◇朝鮮李朝末期の政治家。朝鮮王第26代李太王煕(高宗)の妃、
	諡号(シゴウ)は明成王后。「びんぴ」,「みんび(Min-bi)」とも呼ぶ。
	 1866(慶応 2. 3.20)王妃となる。
	 1873.12.(明治 6)高宗・閔妃一派は高宗の父大院君を引退さ
	せ政権をとる。1882. 7.(明治15)軍制を不満とした軍の暴動
	(壬午の変)に乗じた大院君が王宮(昌徳宮)に迎えられ、閔妃は
	忠清北道忠州に逃れる。同年 8.26清国軍により大院君が拉致
	幽閉され、閔妃は王宮に帰る。
	 清国に従属する事大主義をとり(事大党)、親日派の独立党に
	対抗。1884.12.(明治17)「高宗21」独立党のクーデタが失敗(甲
	申の変)してから事大党の全盛期を迎える。日清戦争後一時失
	脚するが、三国干渉ののち台頭し反日親露政策をとったため、
	日本公使三浦梧楼(ゴロウ)指揮下で安達謙蔵・国友重章(シゲアキ)
	ら日本壮士にソウル(京城)の王宮(景福宮)内で暗殺された(乙
	未<イツビ>政変)。
	◎開化派で日本人教官による近代的軍隊を創設するなど初めは
	親日派であったが、壬午の変の時に進駐した清国軍に日本が有
	効に対抗できないのを見て、清国に依存する「事大党」と呼ばれ
	るようになる。
びんぴ
	閔妃
	⇒びんび(閔妃)
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