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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6511.02

                 人   名   辞   典   《はな》      編集:獨  澄旻

-------- はな --------------------------------------------------
はな さんじん
	鼻 山人
	1790(寛政 2)
	1858(安政 5. 3.25)
	◇江戸後期の洒落本・人情本作者。本名は細川浪次郎(ナミジロウ)、
	号は鼻山人(洒落本・人情本)・東里山人(トウリサンジン)(読本<ヨミホン>
	・滑稽本・合巻<ゴウカン>)・九陽亭(クヨウテイ)・布山。もと麻布三軒
	家に住む幕府の与力。山東京伝の門人。
はなおか けんじ
	花岡 謙二
	1887. 2. 9(明治20)
	1968. 5. 7(昭和43)
	◇詩人・歌人。東京生れ。
はなおか せいしゅう《はなをか せいしう》
	華岡 青洲
	1760(宝暦10.10.23)
	1835(天保 6.10. 2)
	◇江戸後期の外科医。紀伊国平山村の人。名は震(フルウ)、字(アザ
	ナ)は伯行、通称は随賢、号は青洲。医業の家に生れ、祖父は雲
	仙、父は尚道。
	 1782(天明 2)京都で桃谷華洲・山田静斎と交わり、古医方
	(血気水学)を修める。また大和見立とともに蘭医方を学び、漢
	医方なども斟酌(シンシャク)する。
	 1785(天明 5)帰郷し、診療に従事。
	 麻沸散と呼ぶ麻酔剤を案出し、1804(文化元.10.13)世界で初
	めて全身麻酔による乳癌(ニュウガン)摘出手術に成功。
	◎和歌山県那賀郡(ナガグン)那賀町(ナガチョウ)の「青洲の里」に住居
	兼診療所「春林軒」が保存されている。
はなか きょうじろう
	花香 恭次郎
	1856(安政 3)
	1890(明治23)
	◇明治初期のジャーナリスト。旗本戸田伊豆守氏栄の5男。香
	取出身。
	 「福島新聞」創刊者の一人。福島事件で逮捕・投獄される。
はながさ ぶんきょう
	花笠 文京
	1857(安政 4)
	1926(大正15)
	◇戯作者。本名は渡辺義方、別号は湾白童子・京文舎文京。
はなぞの かねさだ
	花園 兼定
	1886. 2.13(明治19)
	1944.12. 2(昭和19)
	◇英語学者。号は緑人。
はなぞの てんのう《はなぞの てんわう》
	花園 天皇
	1297(永仁 5. 7.25)
	1348(貞和 4.11.11)
	◇鎌倉後期の第95代天皇。名は富仁(トミヒト)、萩原院(ハギワラノイン)、
	法名は遍行(ヘンギョウ)。
	 1308(延慶元)即位、当時は両統迭立(テツリツ)時代で、持明院統
	の彼は在位十年で1318(文保 2)大覚寺統の後醍醐天皇に譲位。
	1335(建武 2)出家。
	 伏見天皇の第二子で後伏見天皇の弟。
	(2)伏見天皇の第3子,……。
	(4)伏見天皇の第四皇子。
	(11)伏見天皇の第二子で後伏見天皇の弟であり……。
はなだ きよてる
	花田 清輝
	1909. 3.29(明治42)
	1974. 9.23(昭和49)
	◇文芸評論家・小説家・劇作家。福岡市生れ。京都大学英文科
	卒業。
	(2)生年は1909(明治42)。
	(10)誕生日は1909. 3.29(明治42)。福岡市東公園生れ。
	(11)誕生日は1910. 1. 1(明治43)。
	(13)誕生日は1909. 3.29(明治42)。福岡県博多市に生まれた。
はなだ せだい
	花田 世大
	生年不詳
	没年不詳
	◇大正後期の歌人。本名は経信。
はなだ ひろし
	花田 比露思
	1882. 3.11(明治15)
	1967. 7.26(昭和42)
	◇歌人。本名は大五郎。
はなのもと きんしゃ
	花の本 芹舎
	1805(文化 2)
	1890. 1.23(明治23)
	◇俳諧師。本姓は八木、号は(三水+「半」)水園。
はなびし あちゃこ
	花菱 アチャコ
	1897. 2.14(明治30)
	1974. 7.25(昭和49)
	◇昭和期の漫才師。本名は藤木徳朗。大阪生れ。
	 関西新派山田九州男一座の役者としてスタートし、いくつ
	かの座を転々とする。
	 1915(大正 4)漫才師に転向。
	 1930(昭和 5)吉本興業で横山エンタツとコンビを組み、関
	西シャベクリ漫才の代表となった。
	 1934(昭和 9)エンタツとのコンビを解消するが、その後も
	映画などでは共演した。
	 「無茶苦茶でござりまするがな」のセリフが有名。
はなぶさ りゅうがい
	花房 柳外
	1872(明治 5.11.24)
	1906. 4.30(明治39)
	◇新派劇作家。本名は卓三、はじめ三世河竹新七の門弟で
	竹柴作造となのる。結核により死去。
はなもり やすじ
	花森 安治
	1911.10.25(明治44)
	1978. 1.14(昭和53)
	◇評論家・編集者(「暮しの手帖」)。戦時中の標語「欲しがりま
	せん勝つまでは」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などは花森
	の創案といわれている。
はなやぎ じゅすけ
	花柳 寿輔(初代)
	1821(文政 4)
	1903(明治36)
	◇江戸幕末・明治時代の日本舞踊の花柳流家元。江戸の人。2
	代寿輔の父。
	 6歳で四世西川扇蔵に入門して舞踊を習う。市川団十郎の歌
	舞伎振付師として活躍。転じて、1849(嘉永 2)花柳流を創始。
はなやぎ じゅすけ
	花柳 寿輔(2代)
	1893(明治26)
	1970(昭和45)
	◇日本舞踊の花柳流家元。初代の子。
	 1918(大正 7)寿輔を襲名。1924(大正13)花柳舞踊研究会を創
	設し、日本舞踊最大の流派に育てる。
はなやぎ しょうたろう《はなやぎ しやうたらう》
	花柳 章太郎
	1894. 5.24(明治27)
	1965. 1. 6(昭和40)
	◇新派俳優(女形)。本姓は青山。東京日本橋生れ。
	 1908(明治41)喜多村緑郎に入門。
	 1921(大正10)新劇座、1939(昭和14)新生新派を組織。
	◎当り役は『婦系図(オンナケイズ)』のお蔦など。
	 「花柳十種」を設定。
はなわ ほきいち《はなは ほきいち》
	塙 保己一
	1746(延享 3. 5. 5)
	1821(文政 4. 9.12)
	◇江戸中期の国文学者・古典学者。本姓は荻野(オギノ)、幼名は
	辰之助、号は水母子(スイモシ)。堂号は温故堂。武蔵国保木野村
	(埼玉県児玉郡保木野村)の農家に生れる。
	 5歳で病に罹り7歳で失明。13歳の時に江戸に出て雨富検校
	須賀一(スカイチ)(本姓、塙)に入門。のち賀茂真淵(マブチ)らの門に
	入り、国学・儒学・神道・医学を学び、抜群の記憶力により和
	漢の学に通暁。
	 1783(天明 3)検校となる。
	 1793(寛政 5)幕府に願い、和学講談所を設立し、屋代弘賢(ヤ
	シロ・ヒロカタ)らを育成した。
	 1819(文政 2)『群書類従』を完成。
	 1821(文政 4)総検校となるが、『続群書類従』の編集途上で
	没した。ほかに『武家名目抄』・『蛍蠅抄』など。
	(2)7歳で失明,……。
	(11)五歳で失明。
	(19)武蔵児玉の人。五歳で失明、……。
	◆保己一忌[旧暦 9.12]。墓は四谷安楽院にあったが、1898(明
	治31)廃寺となったため東京都新宿区若葉の愛染院に移された。
	◎『群書類従』刊行当時の版木が渋谷区の温故学館に保存され
	ている。
はに ごろう《はに ごらふ》
	羽仁 五郎
	1901. 3.29(明治34)
	1983. 6. 8(昭和58)
	◇昭和期の歴史家・評論家・教育家。旧姓は森。群馬県桐生市
	生れ。
	 1926(大正15)羽仁説子と結婚、改姓。
はに しんご
	羽仁 新五
	1908. 8. 2(明治41)
	1948. 8.11(昭和23)
	◇国文学者。
はに せつこ
	羽仁 説子
	1903. 4. 2(明治36)
	1987. 7.10(昭和62)
	◇社会運動家。羽仁もと子・吉一の娘、羽仁五郎の妻。
	 1926(大正15)森五郎と結婚。
はに もとこ
	羽仁 もと子
	1873. 9. 8(明治 6)
	1957. 4. 7(昭和32)
	◇大正・昭和期の教育思想家・日本最初の婦人記者。旧姓は松
	岡もと。青森県八戸の人。娘の説子は羽仁五郎の妻。
	 東京府立第一高等女学校のときに受洗。卒業後、明治女学校
	に学ぶ。教師生活を経て上京。報知新聞の婦人記者第1号とな
	る。
	 1898(明治31)同社の羽仁吉一と結婚。夫とともに1903(明治
	36)雑誌「家庭之友」(1908<明治41>「婦人之友」と改題)を創刊。
	 1921. 4.15(大正10)東京・雑司ヶ谷に自由学園を設立、園長。
ばば こちょう
	馬場 孤蝶
	1869(明治 2.11. 8)
	1940. 6.22(昭和15)
	◇翻訳家・随筆家・英文学者。本名は勝弥。土佐国高知市の生
	れ。馬場辰猪(タツイ)の弟、野崎左文の従兄弟。
	 1889(明治22)明治学院二年に入学、卒業。
	 トルストイの『戦争と平和』などを翻訳紹介。
ばば さじゅうろう
	馬場 佐十郎
	1787(天明 7)
	1822(文政 5)
	◇オランダ通詞。佐十郎は通称で、本名は貞由、幼名は千之助、
	字は職夫、号は轂里。
ばば せいろう
	馬場 静浪
	1888. 1.30(明治21)
	没年不詳
	◇歌人。
ばば たつい
	馬場 辰猪
	1850(嘉永 3. 5.15)
	1888.11. 1(明治21)
	◇政治家・思想家。土佐国生れで、旧土佐藩士。馬場孤蝶(コチョ
	ウ)の実兄、野崎左文の従兄弟。
	 自由党の結成に参画するが板垣退助と対立し離党。朝野新聞
	で自由民権運動を啓蒙。
	 渡米しフィラデルフィアで肺を病み客死。
ばば つねご
	馬場 恒吾
	1875. 7.18(明治 8)
	1956. 4. 5(昭和31)
	◇政治評論家。岡山県生れ。
	 ニューヨークで「オリエンタルレビュー」の主筆。
	 帰国して、ジャパンタイムズ・国民新聞の編集局長を歴任。
	 1941. 2.26(昭和16)内閣情報局の内示により執筆を禁止され
	る。
	 1945.10. 1(昭和20)芦田均・安部磯雄・賀川豊彦・有沢広巳
	らと自由懇話会結成式。
	 読売新聞社長・新聞協会会長。
	(10)誕生日は 7.13。
	(11)誕生日は 7.18。
ばーぶ さたけ
	バーブ 佐竹
	1935. 2. 7(昭和10)
	2003.12. 5(平成15)
	◇歌手。本名は佐武豊(サタケ・ユタカ)。北海道釧路市生れ。
	 ヒット曲は1964(昭和39)『女心の唄』・『ネオン川』・『お
	とこ酒』・『ててご橋』など。
はまお しろう《はまを しらう》
	浜尾 四郎
	1896. 4.24(明治29)
	1935.10.29(昭和10)
	◇小説家・弁護士。浜尾家は子爵で養子襲爵、旧姓は加藤(男
	爵家)。古川緑波(ロッパ)の実兄。
はまぐち おさち《はまぐち さちを》
	浜口 雄幸
	1870(明治 3. 4. 1)
	1931. 8.26(昭和 6)
	◇大正・昭和期の政治家。高知県生まれ。東京大学卒業。
	 大蔵省に入り、専売局長官・逓信次官などを歴任。
	 1913(大正 2)立憲同志会に参加。1915(大正 4)衆議院議員。
	憲政会幹部。1924(大正13)加藤高明護憲三派内閣の大蔵大臣。
	1926(大正15)若槻内閣の内務大臣。1927(昭和 2)立憲民政党を
	結成し初代総裁就任。
	 1929. 7.(昭和 4)組閣し緊縮財政・産業合理化・金解禁・協
	調外交を実施。1930. 1.(昭和 5)ロンドン軍縮条約会議が行わ
	れ、軍部・右翼から条約調印は「統帥権干犯」であると非難され
	たが、反対を押し切って調印・批准する。
	 1930.11.14(昭和 5)陸軍特別大演習視察のため、東京駅で特
	急燕(ツバメ)に乗車しようとしたところを右翼の愛国社員佐郷屋
	留男にピストルで狙撃され重傷を負う。翌年4月総辞職し、夏
	その傷がもとで死去。
	 組閣:1929. 7. 2(昭和 4)、総辞職:1931. 4.14(昭和 6)。
	◆墓は東京都港区の青山霊園。
はまだ せいりょう
	浜田 青陵
	1881. 2.22(明治14)
	1938. 7.25(昭和13)
	◇考古学者。本名は耕作。
はまだ はやお
	浜田 隼雄
	1909. 1.16(明治42)
	1973. 3.26(昭和48)
	◇小説家。
はまだ ひろすけ
	浜田 広介
	1893. 5.25(明治26)
	1973.11.17(昭和48)
	◇小説家・童話作家。本名は広助。山形県屋代村生れ。早稲田
	大学英文科卒業。
はまだ やひょうえ《はまだ やひやうゑ》
	浜田 弥兵衛
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸初期の長崎の貿易商。末次平蔵の朱印船の船長。
	 1625(寛永 2)長崎代官末次平蔵(スエツグ・ヘイゾウ)の命で台湾に
	渡航。1624(寛永元)に台湾を占拠していたオランダ人は朱印船
	貿易の抑圧を図って妨害し、交易は失敗。台湾の住民を連れ帰
	り幕府に訴える。
	 その後、台湾の新長官となったヌイツ(Pieter Nuijts)が大
	使となって来日し事情説明をしたが目的を果たせなかった。
	 1628(寛永 5)交易強行のため武装した470名の乗組員を率い
	て台湾に渡る。台湾の小島ゼーランディア(Fort Zeelandia)で
	末次船2隻は出港を差し止められて抑留(ヨクリュウ)。機略をもっ
	て弥兵衛は部下とゼーランディア城に入り、台湾長官ヌイツを
	人質に謝罪させ、7月に長崎に帰る。
	◎幕府も来日していたオランダ船を抑留し、交易を禁止する。
	 オランダ商館長カロン(F.Caron)の尽力により、1630(寛永 7)
	ヌイツが人質として平戸に来日してオランダ側が謝罪。
	 1632(寛永 9)幕府はヌイツを釈放し、日蘭貿易は再開した。
	◎1633(寛永10)幕府、第一次鎖国令を出す。
	 ゼーランディア城は1661(寛文元)鄭成功(テイ・セイコウ)軍が攻略
	し、安平鎮(アンピンチン)と改称。
はまの おさむ
	浜野 修
	1897. 1.15(明治30)
	1957. 6.23(昭和32)
	◇翻訳家。
はまむら よねぞう
	浜村 米蔵
	1890. 3.12(明治23)
	1978.12.20(昭和53)
	◇演劇評論家。東京下谷の寄席(ヨセ)浜村亭の子に生れる。
はまもと ひろし
	浜本 浩(濱本 浩)
	1890. 8.14(明治23)
	1959. 3.12(昭和34)
	◇小説家。戸籍上の誕生日は1891. 4.20(明治24)。高知市生れ。
	同志社普通学校卒業。心臓マヒで死去。
	(10)誕生日は1891. 8.14(明治24)。
	(11)誕生日は1891. 4.20(明治24)。
	(13)誕生日は1891. 4.20(明治24)。
はやかわ こうたろう
	早川 孝太郎
	1889.12.20(明治22)
	1956.12.23(昭和31)
	◇民俗学者。
はやかわ せっしゅう
	早川 雪洲
	1889(明治22)
	1973(昭和48)
	◇映画俳優。千葉県安房郡七浦村(現:千倉町)生れ。
	 1909(明治42)渡米しシカゴ大学に入学。ロスの常磐正劇団に
	加わる。ハリウッドで活躍。
	 出演映画は1949(昭和24)『戦場にかける橋』など。
はやかわ みよじ
	早川 三代治
	1895. 6.22(明治28)
	1962. 8.28(昭和37)
	◇小説家・経済学者。
はやし がほう
	林 鵞峯
	1618(元和 4)
	1680(延宝 8)
	◇江戸前期の漢学者(朱子学派)。名は恕・春勝、字は子和、号
	は桜峰、僧号は春斎。林羅山(ラザン)の第三子、鳳岡(ホウコウ)の父。
	京都の人。
	 父羅山・那波活所・松永貞徳に師事。17歳で江戸に下る。剃
	髪。
	 3代将軍徳川家光に仕え、儒学を講じる。礼制の制定、訴訟
	・外交の諮問にあずかる。
	 幕府の命を受け、父羅山とともに『諸家系図伝』・『本朝通
	鑑(ツガン)』の編纂に従事。
	 1663(寛文 3)徳川家より弘文館学士の称を受け、上野忍ヶ岡
	(シノブガオカ)の私塾を弘文館と改称。
	 著書は『鵞峰全集』・『日本王代一覧』・『国史実録』など。
はやし けんたろう《はやし けんたらう》
	林 健太郎
	1913. 1. 2(大正 2)
	2004. 8.10(平成16)
	◇西洋史学者(近代ドイツ史)・政治家。東京生れ。
	 東京帝国大学西洋史学科、卒業。
	 1944(昭和19)召集され、一等水兵として敗戦を迎える。
	 東京大学助教授・1954(昭和29)東京大学教授・1968(昭和43)
	東京大学文学部長。
	 1973〜1977(昭和48〜昭和52)第20代東京大学学長。
	 日本育英会会長・国際交流基金理事長を歴任。
	 1983(昭和58)自民党から参議院選挙に立候補して当選、1期
	6年務める。
	 1990(平成 2)勲一等瑞宝章、受章。
	 著書は『ワイマル共和国』・『両大戦間の世界』・『ドイツ
	革命史1848・49』、随筆集『赤門うちそと』など。
はやし こけい
	林 古渓(林 古溪)
	1875. 7.15(明治 8)
	1947. 2.20(昭和22)
	◇歌人・漢詩人・国漢文学者。名は竹次郎、号は古渓。
はやし しずえ
	林 倭衛
	1895. 6. 1(明治28)
	1945. 1.26(昭和20)
	◇大正・昭和前期の洋画家。
	 1907(明治40)画家を目指して上京。
	 1916(大正 5)二科展で入選、1917(大正 6)樗牛賞を受賞、
	1918(大正 7)二科賞を受賞。
	 1919(大正 8)大杉栄を描いた「出獄の日のO氏」が治安紊乱と
	して撤回させられる。
はやし じっこう
	林 十江
	1777(安永 6)
	1813.10.12(文化10. 9.19)
	◇江戸後期の南画家。
はやし しへい
	林 子平
	1738. 8. 6(元文 3. 6.21)
	1793. 7.28(寛政 5. 6.21)
	◇江戸中期の経世家。名は友直、晩年の号は六無斎。幕臣岡村
	良通の次子。江戸生れ。仙台藩士。寛政三奇人の一人。
	 1740(元文 5)父が罪を得て士籍を削られ、叔父の町医者林従
	吾に育てられる。
	 姉なおが仙台藩主伊達宗村の側室になり、1756(宝暦 6)兄が
	仙台藩に仕えたため、1757(宝暦 7)19歳のときに仙台に移る。
	 1767(明和 4)以来しばしば江戸へ遊学、大槻玄沢(オオツキ・ゲンタ
	ク)・宇田川玄随・桂川甫周(ホシュウ)ら蘭学者と交遊。終生無禄厄
	介の身であったが、仙台藩に経済・教育政策などを進言。
	 1775(安永 4)・1778(安永 7)長崎に遊学、オランダ商館長
	(甲比丹)アーレント・フェイトについてロシアの南下政策など
	海外事情を学ぶ。蝦夷の各地を探検。
	 1785(天明 5)『三国通覧図説』を著す。1786(天明 6)『海国
	兵談』を脱稿し、1791(寛政 3)仙台で自費出版。1792(寛政 4)
	幕府の忌諱に触れ版木は没収され仙台に禁錮。ラスクマンのロ
	シア艦隊が根室に来航する半年前に没。
	◆墓は仙台市北八番丁の龍雲院。戒名は六無斎友直居士。
	(2)兄友諒が仙台藩に召しかかえられたので……。
	(23)兄嘉膳が仙台藩に仕えたため……。
	◎「りん しへい」とも呼ぶ。
	 晩年の「六無斎」号は、弾圧に際し詠んだ和歌「親もなく妻な
	く子なく版木なし金もなけれど死にたくもなし」から。
	◎『三国通覧図説』は朝鮮・琉球・蝦夷の地理・民俗を述べて
	いる。
	 『海国兵談』では「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀<オランダ>迄境
	なしの水路」であると海防の急務を説いている。
はやし じゅっさい
	林 述斎
	1768. 8. 5(明和 5. 6.23)
	1841. 8.30(天保12. 7.14)
	◇江戸後期の儒学者。名ははじめ乗衡(ノリタイラ)のち衡(タイラ)、通
	称は大内記、幼名は熊蔵、字は徳詮・叔(「糸」偏+「沈」-「三水」:
	補助5153)(シュクタン)、号は述斎・蕉軒・天瀑山上。美濃岩村城主
	松平乗蘊(ノリモリ)の3男。江戸鍛冶橋の藩邸生れ。
	 林家7代信敬が早世して林羅山の血統が絶えたので、1793
	(寛政 5)幕府の命により林家を相続し、8代大学頭となる。私
	学であった聖堂学問所を、1797(寛政 9)昌平坂学問所と改称し
	て幕府の学問所となり、1799(寛政11)学舎を増築。
	 松平定信の寛政の改革で幕府の封建教学再編成の一端をに
	なう。
	 1811(文化 8)朝鮮通信使来日では、従来は京都や江戸で迎
	えていたが、慣例を改めて対馬で応接。
	◎林家の中興といわれた。
はやし しゅんさい
	林 春斎
	⇒はやし がほう(林 鵞峯)
はやし じょうじ
	林 譲治
	1889(明治22)
	1960(昭和35)
	◇昭和期の政治家。
	◎益谷秀次・大野伴睦とともに「吉田茂の御三家」と呼ばれた。
はやし しんいち
	林 信一
	1894.12. 5(明治27)
	1964.10.26(昭和39)
	◇詩人・歌人。
はやし じんのじょう
	林 甚之丞
	1885(明治18)
	1960(昭和35)
	◇昭和期の実業家。
	 1944(昭和19)鋼管鉱業・武蔵野石灰・日鋼満俺<マンガン>・日
	東満俺を合併して日本鋼管鉱業が設立し、社長に就任。
はやし せんじゅうろう《はやし せんじふらう》
	林 銑十郎
	1876(明治 9)
	1943(昭和18)
	◇大正・昭和前期の陸軍軍人(大将)。石川県出身。
	 陸軍士官学校8期・陸軍大学校卒業。
	 1910(明治43)韓国駐屯軍司令部付き。
	 1930(昭和 5)朝鮮軍司令官。
	 1934(昭和 9)斎藤・岡田両内閣の陸軍大臣。
	 1937(昭和12)組閣を命ぜられ、政党を除外した内閣を組閣。
	施政方針に「祭政一致」を掲げたり、日ソ危機を強調して臨戦体
	制を提唱。「食い逃げ解散」後の総選挙で親軍政党をつくろうと
	したが、露骨なファッショ化により国民の不満が高まり、政府
	支持派の昭和会などが惨敗し、わずか組閣後4ヶ月で総辞職。
	 内閣参議・大日本興亜同盟総裁。
はやし そうじ
	林 宗二
	⇒まんじゅうや そうじ(饅頭屋 宗二(初代))
はやし たけし
	林 武
	1896.12.10(明治29)
	1975. 6.23(昭和50)
	◇画家。本名は武臣(タケオミ)。東京生れ。
	 1920(大正 9)日本美術学校に入学し、同年中退。
	 1921(大正10)二科展で樗牛賞を受賞。1926(大正15)二科会会
	友、同年「1930年協会」会員。1930(昭和 5)二科会を去り独立美
	術協会の創立に参加。1933〜1935(昭和 8〜昭和10)パリ滞在。
	 1949(昭和24)第1回毎日美術賞を受賞。1952〜1963(昭和27〜
	昭和38)東京芸術大学教授。1967(昭和42)文化勲章を受賞。
	 晩年、国語学者の父甕臣(ミカオミ)の遺志を受け継ぎ、国語問題
	協議会会長となる。
	 力強い具象画を描き、代表作は『梳(クシケズ)る女』・『立て
	る舞妓』・『石廊崎』など。
はやし ただいち
	林 唯一
	1895. 1.27(明治28)
	1972.12.27(昭和47)
	◇挿絵画家。香川県高松市生れ。
	 松永三五郎・徳永仁臣に洋画を学ぶ。
はやし ただす
	林 董
	1850. 4.11(嘉永 3. 2.29)
	1913. 7.10(大正 2)
	◇明治時代の政治家・外交官。幼名は信五郎、養子に出て菫三
	郎のち菫。佐倉藩の蘭医佐藤泰然(タイゼン)の5男、母はたき子、
	幕府御殿医林洞海(ドウカイ)(姉ツルの夫)の養子。下総国(現:千
	葉県)佐倉本町(現:佐倉市)生れ。
	 1862(文久 2)ヘボン塾で英語を学ぶ。
	 1866(慶応 2)幕府派遣留学生として中村正直(マサナオ)(敬宇)・
	外山正一・菊池大麓らと渡英。
	 1868(慶応 4. 6.)帰国し榎本武揚軍に入り、箱館戦争に従軍。
	榎本軍敗北により捕えられ、1870(明治 3. 5.)釈放され、兄松
	本順の紹介で陸奥宗光を頼り和歌山に行く。
	 1871(明治 4)新政府に出仕し、岩倉大使欧米巡行随員・工部
	大書記官・逓信大書記官・太政官大書記官・香川県知事・兵庫
	県知事などを歴任。
	 1891(明治24)榎本武揚外務大臣・陸奥宗光外務大臣の外務次
	官となり、1904(明治37)不平等条約の改正外交や、1905(明治
	38)下関条約の締結に活躍。
	 駐露公使を経て、1900(明治33)駐英公使となって日英同盟の
	締結に尽力し、1902(明治35)日英同盟締結に成功。
	 1906(明治39)第1次西園寺内閣の外務大臣となり、日仏協約
	・日露協約・第三次日韓協約(保護条約)を締結し、伯爵に昇叙。
	 1911(明治44)第2次西園寺内閣の逓信大臣となり、翌年辞任。
	◎父佐藤泰然は順天堂の創立者。
はやし ただたか
	林 忠祟
	1848. 8.26(嘉永元. 7.28)
	1941. 1.22(昭和16)
	◇江戸幕末の上総請西(ジョウザイ)藩主。
	 1867(慶応 3. 8.)家督を継ぎ、翌年4月藩士・旧幕府遊撃隊
	の人見勝太郎・伊庭(イバ)八郎を率い、木更津を出立して海路
	真鶴に上陸するが小田原藩と協同に失敗。同年5月新政府軍・
	小田原藩兵と交戦し敗北し熱海から館山を経て咸臨丸により奥
	州小名浜に上陸して奥羽越列藩同盟に参軍。同年10月徳川の家
	名存続を知り降伏。東京の唐津藩邸に禁錮となり、1872(明治
	 5)釈放。
はやし ただひろ
	林 忠恕
	1835(天保 6)
	1893. 3.21(明治26)
	◇江戸幕末・明治初期の建築技師。伊勢生れ。
	 はじめ鍛冶屋となり、のち木挽きを経て大工となる。横浜で
	居留民の洋風建築に従事し、米人建築家ブリジェンスから西洋
	建築法を学ぶ。
	 1871(明治 4)大蔵省営繕寮に雇われ、1874(明治 7)工部省、
	1886(明治19)内務省、海軍省に勤め、官庁の疑似西洋建築を手
	がける。
	(23)はやし ただよし。
はやし ただふさ
	林 忠英
	1765(明和 2. 4.)
	1845. 6.12(弘化 2. 5. 8)
	◇江戸後期の幕府若年寄。
	 老中水野忠邦と対立し天保改革の実施を妨げる。
はやし ただまさ
	林 忠正
	1853.12. 7(嘉永 6.11. 7)
	1906. 4.10(明治39)
	◇明治時代の美術商。越中高岡生れ。長崎言定の次男。
	 1870(明治 3)富山藩士林太仲の養子。同年、富山藩の貢進生
	となり上京して大学南校に学ぶが、中退。
	 1878(明治11)パリ万博の出品会社、起立工商会社雇員として
	フランスに渡る。
	 1884(明治17)パリに美術商を開業。浮世絵など日本・東洋美
	術品を扱い、ヨーロッパやアメリカに販売。パリを中心にゴン
	クール兄弟やモネ・ドガなど印象派の画家たちと広く交友。当
	時ヨーロッパに流行したジャポニズムに、また日本に印象派の
	絵を紹介など重要な役割を果たした。
	 1902(明治35)商店を閉じる。1906(明治39)帰国し、東京で没。
	(2)生年は1851(嘉永 6):誤り。
	(23)生年は嘉永6.11.7(1853.12.7)。
はやし ただよし
	林 忠恕
	⇒はやし ただひろ(林 忠恕)
はやし たつお《はやし たつを》
	林 達夫
	1896.11.20(明治29)
	1984. 4.25(昭和59)
	◇昭和期の思想評論家・翻訳家。東京生れ。
	 京都大学卒業。
	 東洋大学教授・法政大学予科講師などを経て、1927(昭和 2)
	雑誌「思想」の編集長。1932(昭和 7)唯物論研究会の結成ととも
	に幹事。
	 1945.10.(昭和20)中央公論社出版局長。1946(昭和21)鎌倉ア
	カデミア講師。1951(昭和26)平凡社に入社し、『世界大百科事
	典』の編集長。1956(昭和31)明治大学文学部教授。
	 著書は『歴史の暮方』・『思想の運命』・『共産主義的人間』など。
はやし つるいち
	林 鶴一
	1873(明治 6)
	1935(昭和10)
	◇明治・大正時代の数学者。徳島県出身。
	 1911(明治44)東北帝国大学理学部設立に際しその主任教授。
	「東北数学雑誌」を発刊。1929(昭和 4)退官。
	 和算の研究家として知られる。
	 著書は『和算研究集録』など。
はやし どうえい
	林 道栄
	1640(寛永17)
	1709. 2. 1(宝永 5.12.22)
	◇江戸前期の漢学者。名は応宰。父は中国からの帰化人林時亮。
	長崎の人。
	 1675(延宝 3)大通事。1699(元禄12)長崎奉行に林忠和が下向
	すると姓を号の官梅(カンバイ)とする。
はやし どうかい
	林 洞海
	1813. 4. 3(文化10. 3. 3)
	1895. 2. 2(明治28)
	◇江戸幕末・明治維新期の医者。名は彊、字は健卿、号は冬皐
	・梅仙、学号は存誠斎。研海(ケンカイ)の父、董(タダス)(佐藤泰然
	の5男)の養父。
	豊前国小倉篠崎村(現:北九州市小倉北区)の生れ。
	 1832(天保 3)江戸に出て蘭方医足立長雋(チョウシュン)ついで佐藤
	泰然に学ぶ。1835(天保 6)など二度長崎に遊学し、蘭医ニュー
	マンに学ぶ。佐藤泰然が佐倉に移ると旧宅を譲り受け、泰然の
	娘ツルと結婚して開業。1850(嘉永 3)小倉藩医員。1860(万延
	元)幕府二の丸製薬所に出仕、奥医師・法眼。
	 明治維新後、静岡藩沼津病院副長を経て、大学中博士・大阪
	医学校長・権大典医・皇太后付・四等侍医。
	 東京で没。
	◆墓は東京都文京区駒込の吉祥寺(キッショウジ)。
はやし とうざえもん
	林 藤左衛門
	1621(元和 7)
	1697.12.24(元禄10.11.12)
	◇江戸前期の人吉藩士。名は正盛。
	 日本三急流の一つに数えられる球磨川の舟運を創始。
	◎鎌倉時代に球磨川の楫取りがいた記録がある。
はやし とうしゅう《はやし とうしう》
	林 東舟
	1585(天正13)
	1638(寛永15)
	◇江戸前期の儒学者。名は信澄、通称は弥一郎、のち剃髪(テイハ
	ツ)して永喜。林信時の子、林羅山の弟。
	 1585(天正13)駿府で徳川家康に拝謁。
	 1629(寛永 6)家督を継ぐ。
	◆墓は東京都新宿区市ヶ谷の林家墓地。
はやし どうしゅん《はやし だうかい》
	林 道春
	⇒はやし らざん(林 羅山)
はやし とうめい
	林 東溟
	1708(宝永 5)
	1780(安永 9)
	◇江戸中期の儒学者。名は義卿、字は周父、通称は周介。長門
	生れ。
	 萩藩儒者山県周南に学ぶ。
	◎弟子鍋島公明の偽作『徂徠国字牘(トク)』を信じて序文を書き、
	服部南郭(ナンカク)らから非難を受ける。
はやし のぶあつ
	林 信篤
	⇒はやし ほうこう(林 鳳岡)
はやし ひさお
	林 久男
	1882. 5.19(明治15)
	1934.12. 2(昭和 9)
	◇ドイツ文学研究家。号は鴎南(「鴎」:「區」+「鳥」)。
はやし ひろもり
	林 広守
	1831(天保 2)
	1896(明治29)
	◇雅楽家。大坂の人。
	 大阪天王寺の楽人で、笙と右舞を学ぶ。のち宮内省に出仕し、
	雅楽局大伶人、のち伶人長。
	 1880(明治13)国歌制定委員となり、1893. 8.(明治26)『君が
	代』制作の名義上の代表者となり、文部省が儀式用唱歌として
	制定・公示。
	◎『君が代』の実際の作曲者は奥好義(オク・ヨシイサ)。
はやし ふさお《はやし ふさを》
	林 房雄
	1903. 5.30(明治36)
	1975.10. 9(昭和50)
	◇小説家。本名は後藤寿夫(トシオ)、戦後の一時期の筆名は
	白井明。大分市生れ。
	 第五高等学校を経て東京帝国大学法科中退。
	 プロレタリア作家・論客として活動。
	 1930. 2.20(昭和 5)共産党への資金提供による治安維持法違
	反で検挙。のち起訴され、豊多摩刑務所に入り、1932(昭和 7)
	転向して出所。
	 1933.10.〜1944. 4.(昭和 8〜昭和19)川端康成・武田麟太郎
	・小林秀雄らと「文学界」を発刊。
	 1937. 7.17(昭和12)松本学・中河与一・佐藤春夫らと新日本
	文化の会を結成。
	 1941. 3.(昭和16)「文学界」に横浜湘風会機関誌「湘風」から
	『転向について』を転載。
	 1963. 9.〜1965. 6.(昭和38〜昭和40)「中央公論」に評論『大
	東亜戦争肯定論』を連載。
	 著書は小説『都会双曲線』・『青年』・『息子の青春』など。
はやし ふぼう
	林 不忘
	⇒まき いつま(牧 逸馬)
はやし ふみこ
	林 芙美子
	1903.12.31(明治36)
	1951. 6.28(昭和26)
	◇昭和期の小説家。本名はフミコ。山口県下関市田中町のブリ
	キ屋槇野敬吉方の二階で生れた。父は愛媛県周桑郡出身の行商
	人宮田麻太郎で、母は鹿児島県東桜島故里(フルサト)温泉の自炊宿
	林新左衛門の長女キク。
	 1922(大正11)尾道市立女学校卒業。同年上京し、さまざまな
	仕事を転々とする。
	 狭心症で急死。
	 作品は『放浪記』・『晩菊』・『浮雲』など。
	(1)生年は1904(明治37)。
	(2)生年は1903(明治36)。
	(3)生年は1903(明治36)。
	(4)生年は1904。
	(5)生年は1903(明治36)、付録の「文学行事ごよみ」では1904。
	(10)生年は1903(明治36)、没日は 6. 2。出生時は五月説があ
	る。
	(11)生年は1903(明治36)、没日は 6.28。
	(13)生年は1904(明治37)。実父宮田浅次郎は伊予の紙商人だっ
	たが、その父は教職にあって漢詩を作り読書家。母菊は桜島の
	自炊温泉宿の養女で宮田とは再婚。しかし、八歳の芙美子をつ
	れて母が家出、後一行商人と結婚する。
	(16)生年は1903(明治36)、没日は 6.29。
	◆芙美子忌[ 6.28]。
	◆墓は東京都中野区の万昌院。
はやし ほうこう《はやし ほうかう》
	林 鳳岡
	1644(寛永21.12.14)
	1732(享保17. 6. 1)
	◇江戸前・中期の儒学者(朱子学派)。名は春常・信篤(ノブアツ)、
	字は直民、別号を整宇。江戸生れ。林鵞峰(ガホウ)の次男、林羅
	山(ラザン)の孫。
	 兄春信の早世により、1680(延宝 8)父の死により家督を継ぎ、
	大蔵卿法印・弘文院学士。1691(元禄 4)将軍徳川綱吉の命によ
	り、上野忍ヶ岡の孔子廟を湯島台に移し聖堂を完成。同年、蓄
	髪して任官し従五位下大学頭・聖堂の祭主となる。徳川家綱か
	ら吉宗までの5代の将軍に仕える。家宣の時、新井白石が登用
	され衰えたが、吉宗では重用される。
	◆墓は東京都新宿区市ヶ谷の林家墓地。
	(2)'91(元禄4)将軍徳川綱吉の命により上野忍ヶ岡の孔子廟を
	湯島に移し聖堂を完成。
	(4)「林鳳岡」の項。一六九一年羅山建てた学問所及び聖堂を湯
	島に移した。
	 「聖堂」の項。一六九○年将軍綱吉が林羅山の学問所であった
	忍ヶ岡の先聖殿を湯島に遷して建立。
	(16)'90(元禄3)年将軍綱吉の命を奉じて湯島台に孔子廟を移し、
	大成殿親筆を得た.
	(*)正保元は12.16から。
はやし まさき
	林 柾木
	1900. 1. 2(明治33)
	1948. 4.29(昭和23)
	◇小説家。
はやし みかおみ
	林 甕臣
	1845(弘化 2. 2. 3)
	1922. 1. 8(大正11)
	◇歌人・国語学者。江戸生れ。林武(ハヤシ・タケシ)の父、本居宣長
	(モトオリ・ノリナガ)の高弟の林国男の孫。
	(3)生年は1845(弘化 2)。
	(5)生年は1846(弘化 3)。
	(10)生年は1845(弘化 2)。
	(11)生年は1846(弘化 3)。
はやし やわら
	林 和
	1887. 8.28(明治20)
	1954. 5. 5(昭和29)
	◇劇作家。
はやし よういちろう
	林 容一郎
	1902.11.10(明治35)
	1962. 3.23(昭和37)
	◇詩人・小説家。本名は平沢哲男。
はやし らざん
	林 羅山
	1583(天正11)
	1657(明暦 3. 1.23)
	◇江戸前期の漢学者(朱子学派)、林家の祖。名は忠・信勝、通
	称は又三郎、のち剃髪(テイハツ)して道春(ドウシュン)、字は子信、別
	号は羅浮山・浮山・羅洞・長胡・瓢庵・尊経堂・梅花村・
	夕顔庵。京都四条新町に富裕な町人の子として生れる。林信時
	の子、林東舟の兄。鵞峰(ガホウ)の父、鳳岡(ホウコウ)の祖父。
	 13歳で建仁寺に入り仏教・儒教を学び、22歳で還俗(ゲンゾク)
	して藤原惺窩(セイカ)の門下となり朱子学を学ぶ
	 1605(慶長10)惺窩の推薦により徳川家康に仕え、秀忠・家光
	・家綱までの4代将軍の侍講となる。儀式・典礼・法令の調査
	制定に当たり、文書の起草を行い儒教的封建教学を樹立。
	 1630(寛永 7)上野忍ヶ岡に宅地を賜り、私塾聖堂(のち弘文
	館)と先聖殿を創建。
	 多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。
	 著書は『本朝編年録』(のち本朝通鑑<ホンチョウツガン>)・『本朝
	神社考』、林鵞峰編『羅山文集』75巻など。
	◎崇伝(スウデン)とともに豊臣家滅亡を策する。
	◆墓は東京都新宿区市ヶ谷の林家墓地。
はやしだ しゅんちょう
	林田 春潮
	1874. 9.29(明治 7)
	1922. 7.14(大正11)
	◇美術評論家。本名は源太郎。
はやしだ ためたろう
	林田 亀太郎
	1863(文久 3)
	1927(昭和 2)
	◇明治・大正時代の政治家。熊本藩士林田俊太郎の長男。
	 1897(明治30)衆議院書記官長。1920(大正 9)衆議院議員当選。
はやしばら らいせい
	林原 耒井
	1887.12. 6(明治20)
	1975. 4.23(昭和50)
	◇俳人・英文学者。本名は耕三、旧姓は岡田。
はやしや さんぺい
	林家 三平
	1925.11.30(大正14)
	1980. 9.20(昭和55)
	◇落語家。本名は海老名泰一郎。7代林家正蔵(ショウゾウ)の長男。
	東京根岸生れ。
	 明治中学校、卒業。
	 1958(昭和33)真打(シンウチ)となる。
	 古典落語に伸び悩み、寄席(ヨセ)からテレビに進出しタレント
	化して大衆に受ける。
はやしや しょうぞう《はやしや しやうざう》
	林屋 正蔵(初代)
	1780(安永 9)
	1842(天保13)
	◇江戸後期の噺家。戯作者名は二代鹿野武左衛門。
	 初代三笑亭可楽の門に入り、怪談咄(バナシ)を得意とし、文化
	年間に道具入り怪談を創案。
	(4)生年は1781。
	(6)生年は1780。
	◎林家の祖で、4代までは「林屋」と書いた。
はやしや しょうぞう《はやしや しやうざう》
	林屋 正蔵(2代)
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸後期の噺家。前身は托善という禅僧。
はやしや しょうぞう《はやしや しやうざう》
	林屋 正蔵(4代)
	生年不詳
	1879(明治12)
	◇噺家。
はやしや しょうぞう《はやしや しやうざう》
	林家 正蔵(5代)
	1882(明治15)頃
	1923(大正12)
	◇噺家。
はやしや しょうぞう《はやしや しやうざう》
	林家 正蔵(6代)
	1888(明治21)
	1929(昭和 4)
	◇噺家。
はやしや しょうぞう《はやしや しやうざう》
	林家 正蔵(7代)
	1894(明治27)
	1949(昭和24)
	◇噺家。本名は海老名竹三郎。林家三平(サンペイ)の父。
はやしや ひころく
	林家 彦六
	1895(明治28)
	1982. 1.29(昭和57)
	◇落語家。
はやふね ちよ
	早船 ちよ
	1914. 7.25(大正 3)
	2005.10. 8(平成17)
	◇児童文学者。夫は井野川潔(教育運動史研究者)。
	 作品は1961(昭和36)『キューポラのある街』など。
はやま よしき
	葉山 嘉樹
	1894. 3.13(明治27)
	1945.10.18(昭和20)
	◇小説家。本名は嘉重(ヨシシゲ)。福岡県京都郡(ミヤコグン)富津村
	生れ。父は郡長の荒太郎、母は「とみ」(またトミ)で、長男。
	 豊津中学校を経て早稲田大学文科中退。水夫見習い・三等船
	員などの生活を送り、1917(大正 6)労働運動に加わる。雑業を
	転々とし、三度刑務所に入る。1943(昭和18)満州の開拓村に移
	住したが、終戦になり帰国の途中、列車内で脳溢血をおこし客
	死。遺体はハルビン・長春間近傍に埋葬。
	(1)誕生日は 3.13。
	(3)誕生日は 3.13。
	(5)誕生日は 3.12。
	(10)誕生日は 3.12。
	(11)誕生日は 3.12。
	(13)誕生日は 3.12。
はやみ とうざえもん《はやみ とうざゑもん》
	早水 藤左衛門
	⇒はやみ みつたか(早水 満堯)
はやみ みつたか
	早水 満尭(早水 満堯)
	1664(寛文 4)
	1703(元禄16)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻役、禄高150石。通称
	は藤左衛門(トウザエモン)、戒名は刃破了剣信士、吉良家の探索中
	の変名は曽我金助(サガ・キンスケ)。備前西大寺(サイダイジ)の郷士山
	口弥右衛門(ヤエモン)の三男、赤穂藩士早水四郎兵衛(シロウベエ)の養
	子。
	 江戸にいて藩主浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が江戸城中
	で刃傷(ニンジョウ)に及んだことを聞き、萱野三平(カヤノ・サンペイ)重
	実(シゲザネ)と共に直ちに早駕籠で赤穂へ変を知らせた。
	 吉良家討ち入りでは表門隊。神崎与五郎(カンザキ・ヨゴロウ)則休
	(ノリヤス)とともに屋根にのぼり、敵に矢を射立てた。江戸高輪の
	細川家に預けられ、翌年、魚住惣右衛門(ウオズミ・ソウエモン)の介錯
	(カイシャク)で切腹。
	 辞世の句は「地水火風空のうちより出し身の/たどらで帰る
	元の住かに」。
はら あさお
	原 阿佐緒
	1888. 6. 1(明治21)
	1969. 2.21(昭和44)
	◇歌人。宮城県黒川郡宮床村(現:大和町宮床)生れ。古い商家
	の一人娘。宮城県立高等女学校中退。
	 1904(明治37)上京し圭文女子美術学校日本画科に入学。1909
	(明治42)「女子文壇」に投稿した一首が与謝野晶子に認められて
	新詩社に入る。1913(大正 2)「アララギ」に参加。
	 2度目の離婚後、1921(大正10)石原純(アツシ)との恋愛が新聞
	をにぎわし、清算後はマネキンガール・女優・酒場のマダムな
	どをし歌壇に復帰しなかった。
	(1)誕生日は 6. 1、本名は「あさを」。
	(3)誕生日は 4.18。
	(5)誕生日は 6.21、本名は浅尾(アサオ)。
	(10)誕生日は 6. 1、本名は「あさを」。
	(11)誕生日は 6.21、本名は浅尾(アサオ)。
	(13)誕生日は 4.18。
はら かがい
	原 霞外
	1880(明治13)
	1926.11.21(大正15)
	◇労働演芸家。本名は真一郎。
はら げっしゅう
	原 月舟
	1889. 5.24(明治22)
	1920.11.14(大正 9)
	◇俳人。本名は清。東京生れ。
	(3)生年は1889(明治22)。
	(5)生年は1890(明治23)。
	(10)生年は1889(明治22)。
	(11)生年は1890(明治23)。
はら せきてい
	原 石鼎
	1886. 3.19(明治19)
	1951.12.20(昭和26)
	◇俳人。本名は鼎(カナエ)、初号は鉄鼎。戸籍上の誕生日は 6. 1。
	島根県簸川郡塩屋村生れ。県立第三中学校を経て、京都医科専
	中退。
	(10)誕生日は 3.19。
	(11)誕生日は 6. 1。
	(13)誕生日は 6. 1。
	◆石鼎忌[12.20]。
はら そうえもん《はら そうゑもん》
	原 惣右衛門
	⇒はら もととき(原 元辰)
はら たかし
	原 敬
	1856(安政 3. 2. 9)
	1921.11. 4(大正10)
	◇政治家。
	 政友会京都支部大会に出席するため、東京駅の丸の内南口改
	札口に歩いていたところを、紺がすりを来た19歳の青年に襲わ
	れ、短刀で右胸を刺されて即死した。
	◎平民宰相と呼ばれたが、社会者義者堺利彦・山川均からは金
	持内閣といわれている。原首相は古河財閥を代表し、野田卯太
	郎逓信大臣は福岡を地盤として三井財閥など炭坑・紡績資本の
	代表し、中橋徳五郎文部大臣は大阪商船の前社長で藤田など大
	阪財界を代表している。高橋是清大蔵大臣・山本達雄農商務大
	臣は財界の出身であった。
はら たくや
	原 卓也
	1930(昭和 5)
	2004.10.26(平成16)
	◇ロシア文学者・翻訳家。父は原久一郎(ヒサイチロウ)。
	 東京外国語大学を卒業。
	 1973(昭和48)東京外国語大学の教授。
	 1989〜1995(平成元〜平成 7)東京外国語大学の学長。
はら たけただ
	原 健忠
	1905. 4.14(明治38)
	1974. 4.23(昭和49)
	◇ドイツ文学者。筆名は波良健。
はら たみき
	原 民喜
	1905.11.15(明治38)
	1951. 3.13(昭和26)
	◇被爆作家・詩人。広島市生れ。
	 1924(大正13)慶応義塾予科入学、1932(昭和 7)慶応義塾大学
	英文科卒業。
	 1933. 2.(昭和 8)永井貞恵と結婚。
	 1935(昭和10)コント集『焔』を出版。
	 1944. 9.(昭和19)妻が死亡。
	 1945. 8. 6(昭和20)疎開先の広島でアメリカ軍が投下した原
	子爆弾で被爆。
	 1947(昭和22)被爆体験を描いた『夏の花』が進駐軍(アメリ
	カ軍)の検閲を受ける。
	 1950. 6.25(昭和25)朝鮮戦争の勃発に衝撃を受け、1951. 3.
	12(昭和26)『心願の国』を書き上げ、翌日午後11時31分、吉祥
	寺(キチジョウジ)駅と西荻窪(ニシオキクボ)駅の間で鉄道自殺。
	 他の作品は1947(昭和22)『廃虚から』など。
	◎作品の最後に「私は歩み去ろう/今こそ消え去って行きたい
	のだ/透明のなかに/永遠のかなたに」とある。
はら たんざん
	原 坦山
	1819(文政 2.10.18)
	1892. 7.25(明治25)
	◇明治初期の曹洞宗の僧・仏教学者。名は良作、諱(イミナ)は
	覚仙、号は鶴巣。磐城国平(現:いわき市)の人。平藩士新井勇
	輔の長男。
	 1833(天保 4)江戸の昌平坂学問所で儒学を修める。
	 1840(天保11)多紀安叔の塾に入って医術を学ぶ。
	 20歳のとき出家し浅草総泉寺の栄禅の弟子となり、のち京都
	白川心照寺の住職・
	 1872(明治 5)教部省の教導職少教正となるが、出版法違反で
	免職・僧籍も剥奪。
	 1879(明治12)東京大学に印度哲学の講座が新設され初代講師
	となり、『大乗起信論』の講義を開く。
	 1880(明治13)僧籍復帰し、小田原最乗寺の住職。
	 1885(明治18)学士院会員。
	 1891(明治24)曹洞宗大学林(現:駒澤大学)総監。
	 1892(明治25)曹洞宗管長事務取扱。
	 著書は『大乗起信論両訳勝義』・『無明論』・『心性実験録』
	や、西洋医学の知識による『心識論』など。
はら とらたね
	原 虎胤
	1497(明応 6)
	1564(永禄 7)
	◇戦国時代の武将。通称は美濃守・鬼美濃。隆胤の孫、友胤の
	子。
	 はじめ武田信虎に仕え、のち1553(天文22)北条氏康に仕える。
はら どんまるちの
	原 鈍丸知野
	⇒はら まるちの(原 マルチノ)
はら ひさいちろう《はら ひさいちらう》
	原 久一郎
	1890. 4.10(明治23)
	1971.10.19(昭和46)
	◇翻訳家。初期の筆名は原白光。原卓也(タクヤ)の父。
はら ひさこ
	原 ひさ子
	1909. 8. 6(明治42)
	2005.12. 4(平成17)
	◇女優。本名は石島久(イシジマ・ヒサ)。
	 1933(昭和 8)初舞台。
	 TV・映画など出演多数。
	 心不全で死去。
はら ほういつあん
	原 抱一庵
	1866(慶応 2.11.14)
	1904. 8.23(明治37)
	◇小説家・翻訳家。本名は余三郎。岩代国郡山町生れ。
	 上海に渡るが間もなく帰国し札幌農学校に入学。
	 酒乱となり東京巣鴨の癲狂院(テンキョウイン)で死去。
はら ほうきん
	原 抱琴
	1883. 2. 5(明治16)
	1912. 1.17(明治45)
	◇俳人。本名は達、別号は迂人・夏子。原敬の甥。
はら まさたね
	原 昌胤
	生年不詳
	1575(天正 3)
	◇戦国時代の武将。名は隼人祐・昌勝。原昌俊(マサトシ)の子。
	 武田信玄・勝頼に仕え、陣馬奉行。戦死。
はら まさとし
	原 昌俊
	生年不詳
	1549(天文18)
	◇戦国時代の武将。名は国房・胤元、通称は加賀守。原昌胤(マ
	サタネ)の父。
	 武田信虎・信玄に仕え、陣馬奉行。
	◎原虎胤(トラタネ)(鬼美濃)とは別系。
はら まるちの
	原 マルチノ(原 丸知野)
	1569(永禄12)頃
	1629.10.23(寛永 6. 9. 7)
	◇安土桃山時代のキリシタン・イエズス会司祭。天正遣欧使節
	の副使。本名は不詳、洗礼名はマルチノ(Don Martino Fara)。
	原中務の子。肥前国波佐見の出身。
	 有馬セミナリヨに在学中、遣欧使節の副使に選ばれる。
	 1590(天正18)帰国後、豊臣秀吉に謁見。使節4人の中で一番
	語学に堪能で、長崎で布教や通訳などに活躍、キリシタン版の
	刊行に貢献。
	 1592(天正20)天草のイエズス会修練会に入りイルマン(修道
	士)となる。
	 1608(慶長13)司祭に叙階。
	 のちキリシタン禁制で1614(慶長19)追放されて1616(元和 2)
	マカオに至り、同地で死去。
	(19)生年は、1568?。
	◎ラテン語の学力も一番であったためか、他の使節たちに比べ
	健康に優れ、帰途インドのゴアで1587. 6. 3(天正15)首席の伊
	東マンショにかわって、巡察使ヴァリニァーノに対しラテン語
	による謝辞を述べており、『原マルチノの演説』として印刷物
	になって現存。
はら もととき
	原 元辰
	1648
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、足軽頭、禄高300石。
	通称は惣右衛門(ソウウエモン)、戒名は刃峰毛剣信士。吉良家の探索
	中の変名は医者和田元真(モトザネ)(和田は母方の姓)・前田善蔵
	岡島八十右衛門(ヤソエモン)常樹(ツネキ)の実兄。
	 1701(元禄14. 3.14)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が刃傷
	事件を起した深夜、長矩切腹の第二の急使として、大石瀬左衛
	門(セザエモン)信清(ノブキヨ)と早駕籠(ハヤカゴ)で江戸を立つ。
	 吉良家の討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、
	翌年、増田貞右衛門(マスダ・サダウエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
	 辞世の句は「かねてより君と母とにしらせんと/人よりいそ
	ぐ死出の山みち」。
	(*)1648(正保 5,慶安元)。
はらぐち とうぞう
	原口 統三
	1927. 1.14(昭和 2)
	1946.10.25(昭和21)
	◇詩人。逗子の海に入水自殺。
はらだ かい
	原田 甲斐
	1619(元和 5)
	1671(寛文11. 3.27)
	◇江戸前期の仙台藩の重臣。名は宗輔(ムネスケ)。「伊達騒動」の中
	心人物。
	 国老片倉景勝・伊達宗重らが幕府に、酒色に溺れた藩主綱宗
	の隠居を請い、1660(万治 3)幕命により21歳の綱宗が蟄居、綱
	宗の世子2歳の亀千代丸(綱村)が襲封。このため叔父伊達兵部
	宗勝が実権を握り、田村宗良・原田甲斐とともに兵部が家督を
	継げるように画策。しかし老臣伊達安芸宗重の訴えで、甲斐は
	大老酒井忠清の屋敷で宗重と対決し、不意に宗重を斬り斃し、
	自らも斬られて死亡。
	◎歌舞伎『伽羅先代萩(メイボクセンダイハギ)』などでは仁木弾正(ニッ
	キ・ダンジョウ)左衛門直則。
	(6)伊達安芸(アキ)を大老酒井忠清邸で斬殺,その場で殺された。
	(16)伊達安芸宗重に訴えられて大老酒井忠勝邸で対決……。
	(*)酒井忠勝は1662(寛文 2. 7.12)没。
はらだ じょうじ
	原田 譲二
	1885. 3.26(明治18)
	1964. 2.10(昭和39)
	◇詩人・新聞記者。筆名は「ゆずる」。
はらだ たかたね
	原田 隆種
	生年不詳
	没年不詳
	◇戦国時代の武将・筑前高祖城主。
	 毛利元就の筑前進出の際、大友方を離れて毛利方につく。
	1569(永禄12)毛利家の撤退後も大友方と戦い、1579(天正 7)筑
	前国西部の柑子岳城を陥落させる。
	 のち龍造寺家に属する。
はらだ なおじろう《はらだ なほじらう》
	原田 直次郎
	1863(文久 3. 8.30)
	1899.12.26(明治32)
	◇明治前期の洋画家。江戸生れ。
	 東京外語大学を卒業。高橋由一に洋画を学び、ドイツに留学。
	本郷に画塾鐘美館をつくる。
	 1889(明治22)明治美術会創立に参加。
	 代表作は『靴屋のおやじ』・『騎竜観音』など。
はらだ のぶたね
	原田 信種
	生年不詳
	1598(慶長 3)
	◇戦国時代の武将。通称は下野守。
	 原田隆種に嗣子がなく死亡したため、草野家から養子として
	家督を継ぐ。
	 はじめ龍造寺家に従い大友家と戦い、のち島津家に降る。豊
	臣秀吉により筑後に転封、佐々成正の旗下に入る。朝鮮の役に
	蔚山合戦で戦死。
はらだ ばいねん
	原田 梅年
	1826(文政 9)
	1905. 1.12(明治38)
	◇俳人。本名は幸次郎、のち服部氏、別号は八世雪中庵・
	不白軒。
はらだ ひんじん
	原田 浜人
	1884. 1. 1(明治17)
	1972. 8. 4(昭和47)
	◇俳人。本名は八郎。
はらだ まごしちろう《はらだ まごしちらう》
	原田 孫七郎
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の貿易商。
	 1592年、豊臣秀吉の親書を携えマニラに至り入貢を求め、イ
	スパニアの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニアスは憤慨するが、
	オランダと緊張関係にあったため宣教師ファン・コボス(Juan 
	Cobos)を日本に送る。
	(6)一五九二年には豊臣秀吉の親書を……。
	(16)1512(文禄 1)年彼をフィリピンに派遣し……:年号の誤り。
	(*)1512(永正 9)、1592(天正20,文禄元)。
はらだ みのる
	原田 実
	1890. 4. 8(明治23)
	1975. 1. 6(昭和50)
	◇教育評論家・教育学者。
はらだ むねとき
	原田 宗時
	1565(永禄 8)
	1593(文禄 2)
	◇戦国時代の伊達家の重臣。旧名は山嶺虎駒、通称は左馬助。
	山嶺源一郎の子、原田大蔵宗政の弟。
	 1582(天正10)兄宗政が戦死し、嗣子がないため宗時が家督を
	継ぐ。
	 朝鮮の役で病を得、帰国の途中対馬で病死。
はらだ よしと
	原田 淑人
	1885. 4. 5(明治18)
	1974.12.23(昭和49)
	◇東洋考古学者。東京生れ。
	 東京大学教授。
はらだ よしと
	原田 義人
	1918. 8. 5(大正 7)
	1960. 8. 1(昭和35)
	◇ドイツ文学者。東京生れ。
はりす
	ハリス
	1804.10. 3(文化元)
	1878. 2.25(明治11)
	◇江戸幕末のアメリカの外交官。名はタウンゼント・ハリス
	(Townsend Harris)。
	 中国(清朝)・オランダ領インドシナ・イギリス領インドなど
	で商人として旅行。その知識と経験から初代駐日総領事に任命
	される。
	 1856(安政 3. 7.)軍艦サン・ジャシント号に乗って伊豆下田
	に着任、柿崎(カキザキ)の玉泉寺(ギョクセンジ)を総領事館とする。
	 幕府を説得し1857(安政 4. 5.)下田条約(日米約定)9箇条を
	締結。10月第13代将軍徳川家定に拝謁し、当時、アロー戦争で
	英仏連合軍が中国軍に大勝した報せを利用し、英・仏などの諸
	国が武力で通商を要求する危険があるので平和的にアメリカと
	条約を結んでいれば前例となると説得。幕府が相手にしないの
	で、実際には権限がないにもかかわらず兵を動かす覚悟あると
	通達し、勅許を得ずに1858. 7.20(安政 5. 6.16)軍艦ポーハタ
	ン号艦上で下田奉行井上清直(キヨナオ)・目付岩瀬忠震(タダナリ)と
	の間で日米修好通商条約14箇条・貿易章程7則(不平等条約)の
	締結に成功。
	 その功績から1859(安政 6)全権公使に昇任、神奈川本覚寺に
	公使館を置き、同年6月8日江戸麻布(アザブ)善福寺(ゼンプクジ)
	へ移設。
	 1862(文久 2)辞任し、帰国。
	 ニューヨーク市教育局長としてニューヨーク市立大学を創設。
	ニューヨークで死去。生涯、独身であった。
	 著書は日記『日本滞在記』。
	◎東京都港区元麻布(モトアザブ)の善福寺に1936(昭和11)建立の
	ハリスの肖像がついた記念碑がある。
	◎ハリスに従い来日した通訳はヒュースケン。
	 1857(安政 4)幕吏のはからいで下田奉行の命により大工の娘
	(斎藤きち)はハリスの看護のため玉泉寺に送られ、妾(メカケ)と
	なる(唐人お吉)。
はりま ゆうきち
	播磨 楢吉
	1883(明治16)
	1952(昭和27)
	◇翻訳家。
はるおうまる
	春王丸
	⇒あしかが はるおう(足利 春王)
はるのみや よしひと
	明宮 嘉仁
	⇒たいしょう てんのう(大正 天皇)
ばん しんじ
	番 伸二
	1908.11. 3(明治41)
	1949.11. 5(昭和24)
	◇小説家。本名は古川真治。
ばん のぶとも
	伴 信友
	1773(安永 2. 2.25)
	1846(弘化 3.10.14)	????
	◇江戸後期の国学者。通称は鋭(オノ)のち州五郎・惟徳、号は特
	(コトヒ)・事負(コトヒ)。若狭国小浜藩士山岸次郎太夫惟智の四男と
	して生れ、一四歳に同藩伴平右衛門信当の養子となる。
	 藩主酒井忠貫・忠進に仕え、江戸・京都に勤仕。1821(文政
	 4)致仕して学問に専念。本居宣長(モトオリ・ノリナガ)に私淑し、村
	田春門を介したが、宣長の生前に会えなかった。
	(2)没日記載なし。(名)通称鋭(オノ),……。
	(16)没日は10.15。幼名は鋭五郎,……。
ばん まさおみ
	阪 正臣
	1855(安政 2. 3.23)
	1931. 8.25(昭和 6)
	◇歌人。本姓は坂、号は樅園・茅田(書)。
はんがや さぶろう
	半谷 三郎
	1902. 9.27(明治35)
	1944. 3.24(昭和19)
	◇詩人。本名は悌三郎。
ばんしょうや えいいち
	番匠谷 英一
	1895. 8.14(明治28)
	1966. 6.17(昭和41)
	◇劇作家・ドイツ文学者。
ばんずいいん ちょうべえ《ばんずいゐん ちやうべゑ》
	幡随院 長兵衛
	1622(元和 8)
	1657(明暦 3. 7.18)
	◇江戸前期の侠客(キョウカク)。本名は塚本伊太郎。父は鶴田因幡
	守の家臣塚本伊織。肥前唐津の人。
	 江戸で武家奉公をしていて喧嘩で殺人を犯し、死罪になると
	ころを幡随院の和尚向導の助命で助けられる。浅草の花川戸で
	人夫の口入れ稼業の割元をしながら、町奴の顔役となる。旗本
	との争いから水野十郎左衛門に殺される。
	◆墓は東京都台東区の東上野6丁目の源空寺。
	◎講談・歌舞伎などでは町奴白柄組を率い、旗本奴神祇組と対
	抗、単身敵方の首領十郎左衛門の邸に乗り込み、湯殿で殺され
	たことになっている。
	◎1930(昭和 5)佐賀県相知町に唐津藩最後の藩主小笠原長生の
	筆による「幡随院長兵衛誕生地」の石碑が建てられた。
	◎幡随院は浄土宗知恩院の末寺で、1940(昭和15)ころ自家焼失
	し小金井市に移転。
	(2)生年不詳、没年は1650(慶安 3)(異)57。(生)肥後。(名)塚
	本常平。
	(4)生年記載なし、没年は慶安三年(一六五○)とも明暦三年(一
	六五七)ともいう。本名記載なし。肥後唐津の士。
	(6)生年は1622、没年は1657。本名・出身とも記載なし。
	(16)生年は1622(元和 8)、没年は1657(明暦 3. 7.18)。本名は
	塚本伊太郎.肥前の人.
	(+)源空寺にある台東区教育委員会の立札では、1650(慶安 3.
	 4.13)没。
はんだ よしゆき
	半田 義之
	1911. 7. 2(明治44)
	1970. 8. 1(昭和45)
	◇小説家。
はんだ りょうへい
	半田 良平
	1887. 9.10(明治20)
	1945. 5.19(昭和20)
	◇歌人。初号は暁声。栃木県上都賀郡北犬飼村の旧家に生れる。
	県立宇都宮中学校・第二高等学校を経て、1912(大正元)東京大
	学英文科卒業。結核にたおれ東京空襲中に病没。
ばんどう みつお
	板東 三百
	1906. 9. 1(明治39)
	1946.10.15(昭和21)
	◇小説家。旧姓は赤坂。
はんむら りょう《はんむら りやう》
	半村 良
	1933.10.27(昭和 8)
	2002. 3. 4(平成14)
	◇小説家。本名は清野平太郎(キヨノ・ヘイタロウ)。東京生れ。
	 都立両国高等学校、卒業。事務員・バーテンダー・コピーラ
	イターなど30以上の職業を転々とする。
	 1962(昭和37)『収穫』、第2回SFマガジン・コンテストに
	佳作入選。
	 1971(昭和46)『石の血脈』で伝奇SFのジャンルを開拓。
	 1973(昭和48)『産霊山秘録(ムスビノヤマヒロク)』で第1回泉鏡花賞
	を受賞。
	 1974.11.(昭和49)「オール読物」の『雨やどり』で、1975(昭
	和50)第72回直木賞を受賞。
	 1975〜1993(昭和50〜平成 5)シリーズ『妖星伝』。
	 自衛隊の一部隊が戦国時代にタイムスリップする『戦国自衛
	隊』、漫画化。1979(昭和54)映画化。
	 1988(昭和63)「毎日新聞」連載の『岬一郎の抵抗』で第9回日
	本SF大賞を受賞。
	 1991〜1992(平成 3〜平成 4)「読売新聞」連載の時代小説『か
	かし長屋』で、1993(平成 5)第6回柴田錬三郎賞を受賞。
	 作品は『黄金伝説』・『太陽の世界』・『すべて辛抱』など。
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