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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6501.03

                 人   名   辞   典    《は》       編集:獨  澄旻

-------- は ----------------------------------------------------
ばいてい きんが
	梅亭 金鵞
	1821(文政 4. 3.30)
	1893. 6.30(明治26)
	◇江戸後期〜明治の滑稽本・人情本作者。本名は瓜生政和(ウリウ・
	マサヤス)、旧姓は吉田、通称は熊三郎、別号は梅亭蕩人。江戸両
	国生れ。父は柳剛流の剣客吉田勝之丞。
	 少年時代、父から修業を受け江戸若手剣客の雄とうたわれる
	が、瓜生家の養子となってから戯作界に入り戯作者松亭金水に
	師事。明治維新後は「団団珍聞(マルマルチンブン)」の主筆。
	(10)本名瓜生政和(ウリウマサヤス)、……。
	(11)本名瓜生政和(ウリュウマサヤス)。
はいの しょうへい
	灰野 庄平
	1887. 4.14(明治20)
	1931. 4.26(昭和 6)
	◇演劇評論家・劇作家・演劇研究家。新潟県刈羽郡中通村生れ。
	 柏崎中学校・第二高等学校を経て、1911(明治44)東京帝国大
	学哲学科卒業。1912(明治45)ミツワ石鹸の丸見屋商店に入社。
	1914. 2.(大正 3)三木露風(ミキ・ロフウ)・柳沢健らと季刊雑誌「未
	来」を創刊(第2輯で終る)。
	 急性肺炎で死去。
はが やいち
	芳賀 矢一
	1867(慶応 3. 5.14)
	1927. 2. 6(昭和 2)
	◇明治・大正期の国文学者。越前国生れ。父真咲(マサキ)は神官
	で橘曙覧(タチバナノアケミ)の門の歌人。評論家芳賀檀(マユミ)の父。
	 1889(明治22)東京帝国大学文科大学入学、1892(明治25)卒業
	し大学院に進み小中村清矩(コナカムラ・キヨノリ)の指導を受ける。1898
	(明治31)同大助教授。1899(明治32)ドイツ留学し、1902(明治
	35)帰国して教授に昇進。1903(明治36)文学博士。1915(大正 4)
	帝国学士院会員。のち国学院大学長。
はぎの よしゆき
	萩野 由之
	1860(万延元. 4.17)
	1924. 2. 1(大正13)
	◇明治・大正期の国史・国文学者・歌論家。幼名は平作、号は
	和莽(ワモウ)・和庵。佐渡国相川生れ。
	 1886(明治19)東京帝国大学文学部古典講習科卒業。直ちに元
	老院書記生。1892(明治25)学習院教授。1896(明治29)東京高等
	師範・東京女子高等師範両校教授。1899(明治32)東京帝国大学
	講師、のち教授、1923(大正12)退官。
はぎわら おとひこ
	萩原 乙彦
	1826(文政 9)
	1886. 2.29(明治19)
	◇江戸幕末・明治初期の俳人・戯作者。本名は森語一郎、別戯
	作号は梅暮里谷峨(二世)・能六斎・鈴亭主人・対梅宇乙彦・
	二酉精舎・隆興堂、モダーン乙彦と呼ばれる。江戸生れ。幕府
	小普請方500石の旗本御家人森宗兵衛の次男。
	(2)(生)江戸下谷二長町。通称語一郎,……。
	(10)没日は二八日説あり。本名森語一郎、……。江戸根津宮永
	町三浦坂下の……生れた。
はぎわら きょうじろう
	萩原 恭次郎
	1899. 5.23(明治32)
	1938.11.22(昭和13)
	◇大正・昭和期の詩人。本姓は金井、旧姓は萩原、号は葉歌
	(短歌)。群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現:前橋市日輪寺)生れ。
	農業萩原森三郎・「だい」の三男。
	 10歳のとき父の叔母金井ソウの養子となる。1918(大正 7)前
	橋中学校卒業。1921(大正10)銀行をやめて上京。1928(昭和 3)
	帰郷。
	 溶血性貧血で死去。
	(2)群馬銀行に勤めたが……。
	(10)没日は11.22。上毛銀行細ヶ沢支店に勤めていたが……。
	(13)没日は11.19。
はぎわら さくたろう《はぎはら さくたらう》
	萩原 朔太郎
	1886.11. 1(明治19)
	1942. 5.11(昭和17)
	◇大正・昭和期の詩人。習作時代の号は野守・美棹(ミサオ)・
	咲二(サクジ)。群馬県東群馬郡(現:前橋市)北曲輪町69番地生れ。
	父密蔵(開業医)・母ケイの長子、作家萩原葉子の父。
	 県立前橋中学校を経て、1907(明治40)第五高等学校に入学、
	翌年第六高等学校に転校するがチフスで中退。1910(明治43)・
	1911(明治44)2度慶応義塾大学に入学するがともに短期間で退
	学。
	 1919. 5.(大正 8)上田稲子と結婚、長女葉子・次女明子をも
	うけるが、1929. 6.(昭和 4)離別。1938. 4.(昭和13)大谷美津
	子と再婚するが、一年余で離別。
	 急性肺炎で死去。
	 口語詩の完成者。
	◆朔太郎忌[ 5.11]。
	[五月第二日曜日]萩原朔太郎研究会と前橋市立図書館の主催で
	追悼会が催される。
	(11)県立前橋中の三年生のころから「野守」という回覧雑誌を編
	集して短歌を発表した。
はぎわら ばくそう
	萩原 麦草
	1894. 6.29(明治27)
	1965. 1. 3(昭和40)
	◇俳人。本名は三郎。静岡県伊豆長岡町生れ。
	 小学校高等科卒業。
はぎわら ひろみち《はぎはら ひろみち》
	萩原 広道
	1815(文化12)
	1863(文久 3)
	◇江戸末期の国学者。号は蒜園(ニラゾノ)。岡山藩士藤原某の次
	男。
	 壮年大坂に出て萩原広道と改名し、国学を教授する。
	 本居宣長に私淑。野之口隆正(ノノグチ・タカマサ)に師事し、源氏物
	語に精通。
	 著書は『源氏物語評釈』・『本学提綱』・『蒜園文集』など。
はぎわら ようこ《はぎはら えふこ》
	萩原 葉子
	1920. 9. 4(大正 9)
	2005. 7. 1(平成17)
	◇作家。東京生れ。萩原朔太郎の長女。
	 1929. 6.(昭和 4)父母の離婚後、前橋市の祖母の許(モト)に預
	けられる。
	 1959(昭和34)『父・萩原朔太郎』を発表し、1960(昭和35)日
	本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
	 1966(昭和41)『天上の花』で田村俊子賞を受賞。
	 1976(昭和51)『蕁麻(イラクサ)の家』で女流文学賞を受賞。
	 1984(昭和59)『閉ざされた庭』(『蕁麻の家』の第二部)を発
	表。
	 1997(平成 9)『輪廻(リンネ)の暦』(『蕁麻の家』の第三部)を
	発表。
	 1999(平成11)『蕁麻の家』三部作で高橋元吉文化賞と毎日芸
	術賞を受賞。
はぎわら らげつ
	萩原 蘿月
	1884. 5. 5(明治17)
	1961. 2.17(昭和36)
	◇俳人・俳文学者。本名は芳之助(ヨシノスケ)。横浜市中区南仲通
	り三丁目生れ。
	 1901(明治34)独協中学校卒業。明治大学予科を経て、東京帝
	国大学国文科選科に入学、1910(明治43)卒業。各地の中学校・
	女学校の教師を経て、1920(大正 9)東京帝国大学文学部副手。
	1929(昭和 4)二松学舎専門学校教授。
はぎわらのいん
	萩原院
	⇒はなぞの てんのう(花園 天皇)
はくがのさんみ
	博雅 三位
	⇒みなもとのひろまさ(源 博雅)
はざま いのすけ
	硲 伊之助
	1895.11.14(明治28)
	1977(昭和52)
	◇大正・昭和期の洋画家・挿絵画家。号は三彩亭。東京生れ。
	 1911(明治44)木下藤次郎の日本水彩画研究所に入る。翌年、
	最年少でフュウザン会の結成に参加。1921〜1929(大正10〜昭
	和 4)滞仏。1933〜1935(昭和 8〜昭和10)渡欧。1937(昭和12)
	一水会の結成に参加、創立会員。
	 晩年は三彩亭と号して陶芸に専念。
	(2)1912(大正 1)フューザン会に最年少で参加。
	(10)翌年、フュウザン会の結成に参加。
はざま きへえ《はざま きへゑ》
	間 喜兵衛
	⇒はざま みつのぶ(間 光延)
はざま じゅうじろう
	間 十次郎
	⇒はざき みつおき(間 光興)
はざま しんろくろう
	間 新六郎
	⇒はざま みつかぜ(間 光風)
はざま みつおき
	間 光興
	1678(延宝 6)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は十次郎(ジュウジロウ)、戒
	名は刃沢蔵剣信士。吉良家の探索中の変名は杣庄十次郎(ソマショウ
	・ジュウジロウ)。間喜兵衛(キベエ)光延(ミツノブ)の長男、間新六郎(シン
	ロクロウ)光風(ミツカゼ)の実兄。
	 吉良家討ち入りでは表門隊。炭小屋に隠れていた吉良上野介
	(コウズケノスケ)義央への一番槍が光興、一番太刀が武林唯七(タダシチ)
	隆重(タカシゲ)であった。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の江戸中
	屋敷に預けられ、翌年、青山武助(タケスケ)の介錯(カイシャク)で切腹。
はざま みつかぜ
	間 光風
	1680(延宝 8)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は新六郎(シンロクロウ)、戒名
	は刃模唯剣信士。間喜兵衛(キベエ)光延(ミツノブ)の次男、間十次
	郎(ジュウジロウ)光興(ミツオキ)の実弟。喜兵衛の従弟で赤穂藩舟奉行
	里村津右衛門(ツエモン)の養子。
	 津右衛門と折り合いが悪く出奔し、姉の嫁ぎ先の秋元(アキモト)
	但馬守の家臣中堂又助(チュウドウ・マタスケ)に居候。浅野内匠頭(タクミノ
	カミ)長矩(ナガノリ)の刃傷(ニンジョウ)事件を知り、堀部安兵衛(ホリベ・
	ヤスベエ)武庸(タケツネ)を通じて盟約に加わる。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
	屋敷に預けられ、翌年、介錯(カイシャク)なく切腹。遺骸は中堂又
	助がもらい受け、築地(ツキジ)本願寺(ホンガンジ)に埋葬。
はざま みつのぶ
	間 光延
	1635(寛永12)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、勝手方吟味役、禄高100石。
	通称は喜兵衛(キヘエ)、戒名は刃泉如剣信士。吉良家の探索中の
	変名は杣庄喜斎(ソマショウ・キサイ)。父は山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)の高弟
	間左兵衛(サヘエ)。同じ浪士の間十次郎(ジュウジロウ)光興(ミツオキ)・
	間新六郎(シンロクロウ)光風(ミツカゼ)の父。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、
	翌年、粟屋平右衛門(アワヤ・ヘイエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
	 辞世の句は「草枕むすぶ仮ねの夢さめて/常世にかへる春の
	あけぼの」。
はじ せいじ
	土師 清二
	1893. 9.14(明治26)
	1977. 2. 4(昭和52)
	◇小説家。本名は赤松静太、一度柏龍太郎の筆名を使う、劇評
	の筆名は善知鳥。岡山県邑久郡国府村(現:長船町)生れ。父久
	五郎・母津喜の長男。
	 父を亡くし、小学校高等科を一年で退学。呉服屋の丁稚奉公
	をふりだしに苦学する。
	 時代物の大衆作家。文芸家協会理事・捕物作家クラブ副会長
	・日本演劇家協会役員。
ぱじぇす
	パジェス
	1814(文化11)
	1886(明治19)
	◇フランスの外交官・東洋学者。本名は Leon Pages。
	 1847〜1851(弘化 4〜嘉永 4)フランスの中国公使館付となり
	中国に滞在、キリシタン史の研究に志す。のち日本の歴史研究
	に着手。
	 著書は『日本関係図書目録』・『日本二十六聖人殉教記』・
	『日本切支丹宗門史』など。他に『日葡辞書』の仏訳『日仏辞
	典』など。
はしおか きゅうたろう《はしをか きうたらう》
	橋岡 久太郎
	1884(明治17)
	1963(昭和38)
	◇能楽師・観世流シテ方。本姓は乃村。橋岡久馬の父。高松生れ。
	 23世宗家観世清廉(キヨカド)に師事。
	◎観世華雪(カセツ)とともに観世流の双璧をなす。
はしかわ ぶんぞう
	橋川 文三
	1922. 1. 1(大正11)
	1983.12.17(昭和58)
	◇思想史家・評論家。
はしぐち ごよう
	橋口 五葉
	1880.12.21(明治13)
	1921. 2.25(大正10)
	◇明治・大正期の洋画家・版画家・装幀家。本名は清。鹿児島
	市生れ。
	 はじめ橋本雅邦に日本画を師事。1905(明治38)東京美術学校
	(現:東京芸術大学)西洋画卒業。在学中、白馬会に出品。
はしずめ けん
	橋爪 健
	⇒はしづめ けん(橋爪 健)
はしだ とうせい
	橋田 東声(橋田 東聲)
	1886.12.20(明治19)
	1930.12. 2(昭和 5)
	◇大正・昭和期の歌人。本名は丑吾(ウシゴ)、初号は濤声。高知
	県生れ。
	 第七高等学校を経て東京大学法科卒業。東京日日新聞社勤務。
	腸チフスで死去。
	 一時、北見志保子の夫。
はしづめ けん
	橋爪 健
	1900. 2.20(明治33)
	1964. 8.20(昭和39)
	◇詩人・評論家・小説家。長野県松本生れ。
	 沼津中学校・第一高等学校を経て東京大学法科に入学し文科
	中退。
はしば ひでつぐ
	羽柴 秀次
	⇒とよとみ ひでつぐ(豊臣 秀次)
はしば ひでなが
	羽柴 秀長
	1541(天文10)
	1591(天正19. 1.22)
	◇安土桃山時代の武将。幼名は小竹、のち小一郎・長秀・秀長
	と改める。豊臣秀吉の異父弟。
	 四国征伐には秀吉の名代として、1585(天正13. 6.)長宗我部
	元親(チョウソカベ・モトチカ)を降伏させる。
はしば ひでよし
	羽柴 秀吉
	⇒とよとみ ひでよし(豊臣 秀吉)
はしもと いちめい
	橋本 一明
	1927. 1. 1(昭和 2)
	1969. 1.29(昭和44)
	◇フランス文学者。群馬県碓氷郡生れ。父景吉・母松枝の長男。
	 第一高等学校理科を経て東京大学仏文科に進む。1963(昭和
	38)会恵美子と結婚。病没。
はしもと えいきち
	橋本 英吉
	1898.11. 1(明治31)
	1978. 4.20(昭和53)
	◇小説家。本名は白石亀吉、旧姓は橋本。福岡県築上郡吉富町
	生れ。橋本周右衛門の次男。
	 1913(大正 2)高等小学校卒業。翌年、三井田川鉱業所の支柱
	夫。1922(大正11)進学のため上京。翌年関東大震災に遭い、同
	じ空き地に非難した看護婦桐沢キネと結婚。
	 1924(大正13)博文館印刷(現:共同印刷)にモノタイプ工とし
	て入社。1927(昭和 2)文芸春秋社に入社。
	 1928(昭和 3)前衛芸術家同盟に加入。同年3月ナップ(全日
	本無産者芸術連盟)に加入。1931. 6.(昭和 6)日本共産党に入
	党。1932. 5.(昭和 7)検挙されたが転向し、起訴猶予で釈放。
はしもと がほう《はしもと がはう》
	橋本 雅邦
	1835(天保 6. 7.27)
	1908. 1.13(明治41)
	◇明治時代の日本画家。幼名は千太郎のち長郷、号は秋園。江
	戸幕府の絵所狩野家の邸内で生れる。
	 1847(弘化 4)狩野勝川院雅信に入門。勝園雅邦(タダクニ)と号
	し、同門の狩野芳崖(ホウガイ)とともにその英才を謳(ウタ)われ、
	1854年勝川塾の塾頭となる。
	 明治維新で伝統芸術が顧みられなくなり、生活苦から一時は
	三味線の駒を作るほどであった。
	 1882(明治15)内国絵画共進会に出品。1884(明治17)内国絵画
	共進会でフェノロサ・岡倉天心に見出され、芳崖とともに日本
	画の復興に努力。
	 1871(明治 4)海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)に勤務。
	 1889(明治22)東京美術学校に勤務、1890(明治23)同校教授。
	同年、第3回内国勧業博覧会に審査官として『白雲紅樹図』を
	出品、1等妙技賞を受賞。帝室技芸員・各種展覧会の審査員を
	務める。1895(明治28)第4回内国勧業博覧会に『竜虎図屏風』
	(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)を出品。
	 1898(明治31)岡倉天心とともに辞職。同年、日本美術院の主
	幹、横山大観・下村観山・菱田春草らを指導。
	 1900(明治33)パリ万国博覧会第二部(美術部門)に『竜虎図屏
	風』を出品、銀牌を受賞。
	 他の作品は『秋景山水』・『瀟湘八景』など。
	(4)名は長郷。
	(16)名は長卿,号は秋園。
	(19)名は長郷。
	(*)1854(嘉永 7,安政元)。
はしもと かんせつ《はしもと くわんせつ》
	橋本 関雪
	1883.11.10(明治16)
	1945. 2.26(昭和20)
	◇大正・昭和期の画家。幼名は成常、本名は関一。神戸市坂本
	村生れ。父は明石藩の儒者海関。
	 はじめ四条派の片岡広曠に学び、1901(明治34)竹内栖鳳(セイホ
	ウ)の竹杖会に参加。のち神戸絵画研精会を結成。
	 1913(大正 2)中国を旅行。帝国美術院展覧会(帝展)第1回よ
	り審査員となる。1921(大正10)・1927(昭和 2)渡欧。1940(昭
	和15)京都建仁寺本堂の襖絵60面を描く。
	 中国の古典や古画を研究し、四条派に文人画を加味した独自
	の格調ある画風を開く。自尊心の強い非妥協的性格から画壇で
	孤立したが、新古典主義を代表する関西日本画壇の重鎮をなし
	た。
	 また父の影響を受け、詩・書にも優れていた。
	 作品は『玄猿』・『琵琶行』・『長恨歌』・『木蘭詩』・
	『寒山拾得』など。
	(2)1903(明治36)竹内栖鳳の門に入る。
	(10)明治三四年竹内栖鳳に師事した。
はしもと きんごろう《はしもと きんごらう》
	橋本 欣五郎
	1890. 2.19(明治23)
	1957. 6.29(昭和32)
	◇昭和期の陸軍軍人(砲兵大佐)。岡山県生れ
	 陸軍大学校、卒業。トルコ駐在武官などを歴任。
	 1930. 5.(昭和 5)軍部による国家改造・対外武力進出を唱え
	て桜会結成の発起人となる。1931(昭和 6)の三月事件・十月事
	件のクーデター未遂事件の首謀者で待命となる。
	 1933(昭和 8)野戦重砲第二連隊長。1936(昭和11)二・二六事
	件の後、粛軍により退役。同年、国家主義運動を推進しようと
	して大日本青年党を結成。1940(昭和15)大日本赤成会に改組。
	 1944(昭和19)衆議院議員、翼賛政治会代議士副会長。
	 第二次世界大戦後、A級戦犯として終身禁錮刑に処せられる。
はしもと くにすけ
	橋本 邦助
	1884. 1. 2(明治17)
	1953. 1. 7(昭和28)
	◇画家。栃木県生れ。東京美術学校西洋画科卒業。
はしもと くにひこ
	橋本 国彦
	1904(明治37)
	1949(昭和24)
	◇昭和期の作曲家。東京生れ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)
	本科・研究科卒業。同校作曲科教授。
はしもと ごろう
	橋本 五郎
	1903. 5. 1(明治36)
	1948. 5.29(昭和23)
	◇小説家。本名は荒木猛。岡山県牛窓町生れ。日本大学美学科
	中退。別の筆名は荒木十三郎・女銭外二。
はしもと さない
	橋本 左内
	1834(天保 5. 3.)
	1859(安政 6.10. 7)
	◇江戸幕末の志士。名は綱紀・弘道、号は景岳(ケイガク)。越前
	福井藩医彦也(奥外科医)の子。
	 15歳で緒方洪庵の適々斎塾に入門し医学・洋学を学ぶ。父の
	後18歳で藩医となる。
	 1854〜1855(嘉永 7〜安政 2)江戸に遊学し杉田成卿(玄白の
	孫)に学び、藤田東湖・西郷隆盛らと交遊。
	 松平慶永(ヨシナガ)(春岳)に認められ、御書院番に抜擢(バッテキ)。
	らに藩校明道館学監となり、1857(安政 4)由利公正らと藩政革
	に当る。
	 将軍継承問題で、一橋慶喜の擁立に尽力。反対派井伊大老に
	より安政の大獄で斬首。
	 著書は『啓発録』など。
	◆墓は東京都荒川区南千住の回向院。
	◎号の「景岳」は宋の忠臣岳飛にあやかったもの。
はしもと しんきち
	橋本 進吉
	1882(明治15)
	1945(昭和20)
	◇国語学者。福井県敦賀市生れ。
	 著書『国語音韻の研究』など。
はしもと せいう
	橋本 青雨
	1878. 9.(明治11)
	没年不詳
	◇翻訳家。本名は忠夫。宮城県生れ。
	 1904. 7.(明治37)東京帝国大学独文科卒業。第三高等学校・
	中央大学教授。
はしもと たかこ
	橋本 多佳子
	1899. 1.15(明治32)
	1963. 5.29(昭和38)
	◇俳人。本名は多満(タマ)、旧姓は山谷(ヤマタニ)。東京市本郷区龍
	岡町生れ。菊坂女子美術学校中退。
	 1917(大正 6)橋本豊次郎と結婚、1937(昭和12)夫と死別。
	◆多佳子忌[ 5.29]。
はしもと ちかのぶ
	橋本 周延
	1838(天保 9. 8. 8)
	1912. 9.29(大正元)
	◇江戸幕末〜明治時代の浮世絵師。名は直義、号は二世芳鶴・
	楊洲。
	 歌川国芳と三代豊国(歌川国貞)の門人。
はしもと むどう
	橋本 夢道
	1903. 4.11(明治36)
	1974.10. 9(昭和49)
	◇俳人。本名は淳一。
はしもと ようとう
	橋本 蓉塘
	生年不詳
	没年不詳
	◇明治初期の漢詩人。名は寧(ネイ)、字は静甫(セイホ)、号は蓉塘。
ばしょう《ばせう,ばせを》
	芭蕉
	⇒まつお ばしょう(松尾 芭蕉)
はすだ いちごろう
	蓮田 市五郎
	1833(天保 4)
	1861(文久元)
	◇江戸幕末の水戸藩士。名は正実、通称は市五郎。
	 桜田門事件に参加し負傷。静神社の神官斎藤監物らと伊予大
	洲(オオズ)藩邸に自首し、熊本藩邸・膳所(ゼゼ)藩邸に監禁。の
	ち斬刑。
はすだ ぜんめい
	蓮田 善明
	1904. 7.28(明治37)
	1945. 8.20(昭和20)
	◇国文学者。陸軍中尉としてマレー半島で終戦を迎え、翌日ピ
	ストル自裁。
	(10)没日は 8.19。
はずみ つねお
	筈見 恒夫
	1908.12.18(明治41)
	1958. 6. 6(昭和33)
	◇映画評論家。本名は松本英一。
はせ けん
	長谷 健
	1904.10.17(明治37)
	1957.12.21(昭和32)
	◇小説家・児童文学者。本名は藤田正俊(マサトシ)、旧姓は堤。福
	岡生れ。福岡師範学校卒業。交通事故により死去。
	(10)没日は12.21。
	(11)没日は11.28。
はせがわ おさむ
	長谷川 修
	1926. 3. 8(大正15)
	1979. 5. 1(昭和54)
	◇小説家。
はせがわ かくぎょう
	長谷川 角行
	1541(天文10)
	1646(正保 3)?
	◇戦国末期〜江戸初期の富士講の指導者。長崎の人。
	 富士の神仙元大日(センゲンダイニチ)を創造神とする教義を展開。
	(6)没年は1646。
	 105歳で富士山麓の人穴で入定したと伝える。
はせがわ かずお《はせがは かずを》
	長谷川 一夫
	1908(明治41)
	1984(昭和59)
	◇映画俳優。芸名は初め林長二郎。京都生れ。
	 初世中村鴈治郎門下で歌舞伎役者。のち林長二郎の名で映画
	に転じ、時代劇スターとなる。
	 1937(昭和12)松竹から東宝への移籍で暴漢に襲われ顔に傷を
	受け、復帰後は長谷川一夫を名乗る。
	 NHK大河ドラマ『赤穂浪士』に主演。
はせがわ かなじょ
	長谷川 かな女
	1887.10.22(明治20)
	1969. 9.22(昭和44)
	◇俳人。本名は「かな」。東京市日本橋区本石町生れ。1913. 3.
	(大正 2)富田諧三(長谷川零余子<レイヨシ>)と結婚。
	(10)本名は「カな」。
	(11)本名は「カナ」。
	(13)本名は「かな」。
[1]はせがわ かんべえ
	長谷川 勘兵衛(初代)
	生年不詳
	1659(万治 2)
	◇日本橋橘町の大工の棟梁。
[2]はせがわ かんべえ
	長谷川 勘兵衛(11代)
	1781
	1841(天保12)
	◇歌舞伎舞台装置の大工。
	 せり出し・せり上げ・蛇の目回しなどを考案。
	 『四谷怪談』では戸板返し・提灯抜けの仕掛けを作る。
	(*)1781(安永10,天明元)。
はせがわ きゅうぞう
	長谷川 久蔵
	1568(永禄11)
	1593(文禄 2)
	◇安土桃山時代の絵師。長谷川等伯の子。
はせがわ きよし《はせがは きよし》
	長谷川 潔
	1891(明治24)
	1980(昭和55)
	◇版画家。横浜生れ。
はせがわ ぎんさく
	長谷川 銀作
	1894. 2.11(明治27)
	1970.10.13(昭和45)
	◇歌人。静岡市生れ。1918(大正 7)若山喜志子(牧水夫人)の妹
	潮(ウシオ)みどりと結婚。
はせがわ こうえん
	長谷川 幸延
	1904. 2.11(明治37)
	1977. 6.27(昭和52)
	◇小説家・劇作家。
はせがわ さぶろう《はせがは さぶらう》
	長谷川 三郎
	1906(明治39)
	1957(昭和32)
	◇洋画家。山口県生れ。
	 東京大学文学部卒業。
	 自由美術家協会を結成。
はせがわ しぐれ《はせがは しぐれ》
	長谷川 時雨
	1879.10. 1(明治12)
	1941. 8.22(昭和16)
	◇明治・大正期の女流劇作家・小説家。東京日本橋生れ。
	 三上於菟吉(ミカミ・オトキチ)の妻(再婚)、長谷川春子の姉。
	 1905(明治38)新聞の懸賞に戯曲『海潮音』が入選。
	 「女人芸術」を主宰。
	(1)誕生日は12.10、本名はヤス。
	(2)誕生日記載なし、本名は「やす」。
	(3)誕生日は10. 1、本名は康子。
	(5)誕生日は10. 1、本名はヤス。
	(10)誕生日は10. 1、本名はヤス。
	(11)誕生日は10. 1、本名はヤス。
	(13)誕生日は10. 2、本名は康子。
はせがわ しゅんそう
	長谷川 春草
	1889. 8.19(明治22)
	1934. 7.11(昭和 9)
	◇俳人。本名は金太郎、通称は金之助。
はせがわ しろう
	長谷川 四郎
	1909. 6. 7(明治42)
	1987. 4.19(昭和62)
	◇小説家。牧逸馬(マキ・イツマ)の弟。1944(昭和19)応召、1945(昭
	和20)ソ連の捕虜となり5年間捕虜生活を経験。
はせがわ しん《はせがは しん》
	長谷川 伸
	1884. 3.15(明治17)
	1963. 6.11(昭和38)
	◇小説家・劇作家。本名は伸二郎のち戸籍も伸と改名。横浜生
	れ。心臓衰弱により東京聖路加病院で死去。
	 股旅物の創始者と呼ばれる。代表作『沓掛時次郎』・『瞼の
	母』・『一本刀土俵入』など。
	(1)誕生日は 3.15。
	(3)誕生日は 3.15。
	(5)誕生日は 7.15。
	(10)誕生日は 3.15。
	(11)誕生日は 7.15。
	(13)誕生日は 3.15。
はせがわ せったん《はせがは せつたん》
	長谷川 雪旦
	1778(安永 7)
	1843(天保14)
	◇江戸後期の画家。名は宗秀、別号は巌岳斎・一陽庵。江戸生
	れ。
はせがわ せんし《はせがは せんし》
	長谷川 千四
	1689(元禄 2)
	1733(享保18)
	◇浄瑠璃作者。大和の人。長谷寺の僧侶の出。
はせがわ そせい
	長谷川 素逝
	1907. 2. 2(明治40)
	1946.10.10(昭和21)
	◇俳人。本名は直次郎。大阪生れ。津中学校・第三高等学校を
	経て京都大学文科卒業。肺結核により死去。
	◆素逝忌[10.10]。
はせがわ てる
	長谷川 テル
	1912. 3. 7(明治45)
	1947. 1.10(昭和22)
	◇エスペランチスト。筆名は緑川英子、ヴェルダ・マーヨ。
はせがわ てんけい《はせがは てんけい》
	長谷川 天渓
	1876.11.26(明治 9)
	1940. 8.30(昭和15)
	◇評論家・英文学者。本名は誠也(セイヤ)。新潟県生れ。1894(明
	治27)東京専門学校(現:早稲田大学)文学科入学、1897. 7.(明
	治30)卒業。
	(16)誕生日は12/3。
はせがわ とうはく
	長谷川 等伯
	1539(天文 8)
	1610(慶長15. 2.24)
	◇桃山時代の画家。長谷川派の祖。名は又四郎。奥村文之丞の
	子、長谷川道浄の養子、久蔵(キュウゾウ)の父。能登国七尾生れ。
	 初め信春と号して仏画や肖像画を制作。のち1571(元亀 2)上
	洛し狩野派や雪舟を学び、「雪舟五代」を自称。雪舟三世を称す
	る雲谷等顔(ウンコク・トウガン)と争う。
	 金碧(キンペキ)障壁画と水墨画の両分野に独自の画風を創造す
	る。
はせがわ としゆき《はせがは としゆき》
	長谷川 利行
	1891. 7. 9(明治24)
	1940.10.12(昭和15)
	◇大正・昭和期の洋画家。京都府山科生れ。1921(大正10)東京
	に出て、下町(貧民街)を転々としながら制作、おもに二科展に
	出品。後年、新宿界隈を放浪、貧困と孤独のうちに東京市板橋
	養育院で没した。
	 宇野浩二『水すまし』のモデル。
はせがわ にょぜかん《はせがは によぜかん》
	長谷川 如是閑
	1875.11.30(明治 8)
	1969.11.11(昭和44)
	◇明治〜昭和期の評論家・ジャーナリスト。本名は万次郎、旧
	姓は山本、曾祖母の養子となる、号は如是閑叟・如是閑・閑叟。
	東京深川生れ。
	 東京英語学校を経て東京法学院(現:中央大学法科)に入学す
	るが病気で退学、のち再び編入し、1898(明治31)卒業。
	 1902(明治35)陸羯南(クガ・カツナン)の新聞「日本」の記者になる。
	1906(明治39)雑誌「日本及日本人」を経て、1908(明治41)大阪朝
	日新聞社に入社。1918(大正 7)米騒動の「白虹筆禍事件」で鳥居
	素川・大山郁夫らとともに退社。大山郁夫・河上肇(ハジメ)と雑
	誌「我等」を主宰。1946(昭和21)文化勲章を受章。
	 父は浅草花屋敷の創設者山本金蔵。山本笑月(ショウゲツ)の実弟、
	画家大野静方(シズカタ)の実兄。
はせがわ はるこ
	長谷川 春子
	1895. 2.28(明治28)
	1967. 5. 7(昭和42)
	◇画家。長谷川時雨(シグレ)の妹。
はせがわ ひろし
	長谷川 寛
	1782(天明 2)
	1838(天保 9.11.12)
	◇江戸後期の和算家。
はせがわ へいぞう《はせがは へいざう》
	長谷川 平蔵
	1745(延享 2)
	1795. 6.26(寛政 7. 5.10)
	◇江戸中期の幕臣・火付盗賊改役。幼名は銕三郎のち宣以(ノブ
	タメ)、通称は平蔵。長谷川宣雄の子。
	 1774(安永 3)西ノ丸書院番士。1784(天明 4)西ノ丸徒頭、一
	千石。1786(天明 6)西ノ丸御先手弓頭。1787(天明 7)火付盗賊
	改を兼務。のち人足寄場(職業訓練所・監獄)の設立を建議し、
	1790(寛政 2)老中松平定信の命で石川島人足寄場を創設、人足
	寄場取扱を兼務。1792(寛政 4)人足寄場取扱を罷免され、火付
	盗賊改に専念。
	(19)一七八六年(天明六)火付盗賊改加役。
	(?)1787(天明 7)火付盗賊改を兼務。
	◎若年の頃、吉原などによく通い「本所の銕」と呼ばれ、江戸下
	町の下情に通じていた。
	◎都営新宿線菊川駅A3出入口に住居跡の立て札がある。
	◎江戸を荒らしまわった盗賊、葵小僧(大松五郎)を捕らえる。
	◎東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。
はせがわ まちこ《はせがは まちこ》
	長谷川 町子
	1920. 1.30(大正 9)
	1992. 5.27(平成 4)
	◇漫画家。佐賀県多久市生れ。
	 父勇吉の事業で福岡市春吉に転居。
	 1932(昭和 7)春吉小学校を卒業。
	 1934(昭和 9)福岡県立福岡高等女学校(現:福岡中央高等学校)
	2年生で、漫画家を志して上京し山脇高等女学校(現:山脇学園
	高等学校)に転校。在学中に田河水泡(タガワ・スイホウ)に師事。
	 1936(昭和11)山脇高等女学校を卒業。
	 1944(昭和19)福岡市百道に疎開。
	 1946. 4.22(昭和21)九州の「夕刊フクニチ」に『サザエさん』
	を連載。
	 1949.12. 1(昭和24)『サザエさん』の連載を「朝日新聞(夕刊)」
	に移す。
	 1951. 4.16(昭和26)『サザエさん』の連載を「朝日新聞(朝刊)」
	に移す。
	 1962(昭和37)文芸春秋漫画賞、受賞。
	 1982(昭和57)文化功労者。
	 1985(昭和60)長谷川町子美術館、開館。
	 没後、1992(平成 4)国民栄誉賞を受賞。
	 作品は『似たもの一家』・『仲よし手帳』・『エプロンおば
	さん』・『意地悪ばあさん』など。
	◎姉が主宰する姉妹社から全作品が出版されている。
はせがわ みのきち
	長谷川 巳之吉
	1893.12.28(明治26)
	1973.10.11(昭和48)
	◇演劇評論家・詩人・出版人。第一書房を創業、営利を目的と
	せず採算を度外視し、不遇の作家・学者などの出版を行う。出
	版一代論をとなえ全盛中に廃業。
はせがわ よしみち
	長谷川 好道
	1850(嘉永 3)
	1924(大正13)
	◇明治時代の陸軍軍人(元帥)。長州藩士長谷川藤次郎の長男。
	 1914(大正 3)元帥。1915(大正 4)参謀総長を免ぜられる。
	 1916(大正 8)第2代朝鮮総督。1919(大正 8)朝鮮最大の三・
	一独立運動(万歳事件)により朝鮮総督を辞任。
はせがわ れいよし
	長谷川 零余子(長谷川 零餘子)
	1886. 5.23(明治19)
	1928. 7.27(昭和 3)
	◇俳人。本名は諧三(カイゾウ)、旧姓は富田、初号は翠邨(スイソン)。
	群馬県鬼石町生れ。1913. 3.(大正 2)長谷川かな女と結婚。腸
	チフスで死去。
	(10)没日は 7.27。
	(13)没日は 7. 2。
はせがわ ろか
	長谷川 路可
	1897(明治30)
	1967(昭和42)
	◇日本画家。本名は竜三。
	 東京美術学校日本画科卒業。
はせくら つねなが
	支倉 常長
	1571(元亀 2)
	1622(元和 8. 7. 7)
	◇江戸前期の武将・仙台藩士。幼名は与市・六右衛門、洗礼名
	はドン・フィリッポ・フランシスコ。山口常成の子、[2]伊達
	政宗(ダイ・マサムネ)の家臣支倉時正の養子。
	 政宗の命を受け、1613(慶長18)通称交渉を目的に、イスパニ
	アの宣教師ルイス・ソテロを正使に立て、自分は副使となり遣
	欧使節として日本を出発。太平洋を横断し、メキシコ、イスパ
	ニアを経てローマに至る。1614(慶長19)ローマ法王パウロ5世、
	イスパニア国王フェリペ3世に謁見するが通称交渉は成功せず、
	1620(元和 6)帰国。
はせくら ろくえもん
	支倉 六右衛門
	⇒はせくら つねなが(支倉 常長)
はせべ たかし
	長谷部 孝
	1896.10.29(明治29)
	没年不詳
	◇劇作家。
はた いちろう
	秦 一郎
	1901. 1.28(明治34)
	1969. 5. 7(昭和44)
	◇フランス文学者。
はた こういち
	畑 耕一
	1890(明治23)
	1957(昭和32)
	◇小説家。広島県生れ。
	 東京大学英文科卒業。東京日日新聞社学芸課勤務。退社後、
	松竹キネマ企画部長。
	 作品は、1925(大正14)刊『怪異草紙』・『笑いきれぬ話』な
	ど。
はた こういち
	秦 耕一	?
	1896. 5.10(明治29)
	1957.10. 6(昭和32)
	◇小説家・評論家・劇作家。
はた さはちろう《はた さはちらう》
	秦 佐八郎
	1873. 3.(明治 6)
	1938.11.22(昭和13)
	◇明治〜昭和前期の細菌学者。本姓は山根。島根県生れ。
	 1895(明治28)第三高等学校医学部(岡山)卒業。軍務に服す。
	 1898(明治31)伝染病研究所で北里柴三郎に師事。
	 1907(明治40)ドイツに留学し、フランクフルト・アム・マイ
	ンの国立実験研究所ででエールリヒに協力し、1910(明治43)梅
	毒の特効薬サルバルサンを発見。
	 帰国後、北里研究所員・慶応大学教授・北里研究所副所長・
	大日本私立衛生会理事・日本結核予防協会理事などを歴任。
	 学士院会員。
はた しゅんろく
	秦 俊六
	1879(明治12)
	1962(昭和37)
	◇陸軍軍人。
	 東京裁判で終身禁錮刑。
はた とよきち
	秦 豊吉(秦 豐吉)
	1892. 1.14(明治25)
	1956. 7. 5(昭和31)
	◇随筆家・翻訳家・劇場経営者。筆名は丸木砂土(随筆)。東京
	日本橋生れ。第一高等学校を経て東京大学法科卒業。1933(昭
	和 8)東宝に入社。戦後、新宿の帝都座で日本最初のストリッ
	プ「額ぶちショー」を始めた。晩年は帝国劇場社長。
はたけやま くにきよ
	畠山 国清
	生年不詳
	1363(<南>正平18,<北>貞治 2)
	◇南北朝時代の武将。法名は道誓。畠山家国の子、義深の兄。
はたけやま しげただ
	畠山 重忠
	1164(長寛 2)
	1205(元久 2. 6.22)
	◇鎌倉初期の武将。幼名は氏王丸、通称は荘司次郎。武蔵国男
	衾郡(オブスマグン)畠山荘の荘司畠山重能(シゲヨシ)の子、母は三浦
	義明の娘、重保の父。
	 1180(治承 4)源頼朝が伊豆に挙兵した当初、京都にいた父が
	平氏の人質となったため勧誘に応ずることができず平氏に属し、
	大庭景親の頼朝追討軍に出陣する。三浦義澄・和田義盛を金江
	川に破り、ついで義父三浦義明の衣笠城を陥落。
	 頼朝の帰属を思い、頼朝軍が武蔵に入ると長井渡に赴き服属。
	源義経に属して木曾義仲追討、平氏追討と戦功をあげる。1189
	(文治 5)奥州征伐では先鋒となって藤原泰衡を討ち、戦功によ
	り葛岡郡を与えられる。
	 頼朝の信頼が厚く、三浦義澄・梶原景時とともに有力御家人
	の一人となる。頼朝の遺託を受けて1199(建久10. 1.)頼朝の死
	後、頼家を補佐。
	 のち執権の北条時政と対立。1204年、重忠の長子重保が時政
	の後妻牧ノ方の娘婿平賀朝政(トモマサ)と争い、都築郡鶴峰で誘殺
	される。
	 重忠も疑われ、1205(元久 2)北条義時(時政の子)の追討軍を
	武蔵二俣川に迎え撃って敗死。
	(4)荘司二郎と称。
	(16)荘司次郎と称した.
	(19)荘司二郎と称。
	(*)1204(建仁 4,元久元)。
	◎北条時政は1205(元久 2)牧ノ方の陰謀により、第3代将軍実
	朝(サネトモ)を廃し女婿平賀朝政を将軍にしようとして失敗し出家
	している。
	◎埼玉県比企郡(ヒキグン)嵐山町(ランザンマチ)に重忠が館を構えた菅
	谷館(スガヤヤカタ)跡がある。
はたけやま しげよし
	畠山 重能
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の武将。秩父重弘の長子、畠山重忠(シゲタダ)の父。
	 武蔵国男衾郡(オブスマグン)畠山荘の荘司となり畠山氏を称する。
はたけやま たねなが
	畠山 稙長
	生年不詳
	1545(天文14)
	◇室町後期の武将。畠山尚順(ヒサノブ)の子、政国の父。
はたけやま ひさのぶ
	畠山 尚順
	1475(文明 7)
	1522(大永 2)
	◇室町後期時代の武将。畠山政長(マサナガ)の子、稙長(タネナガ)の
	父。
はたけやま まさなが
	畠山 政長
	1442(嘉吉 2)
	1493(明応 2.閏4.25)
	◇室町中期の武将・管領。畠山持国(モチクニ)の弟持富の子、尚順
	(ヒサノブ)の父、持国の養子。
	 伯父持国の養子となったが、持国に妾腹の実子義就(ヨシナリ)が
	生れたのち追放。細川勝元・山名宗全の援助を受けて家督を継
	いで管領となる。
	 のち義就は宗全と結び政長を攻め、畠山一族を二分して抗争
	し、応仁・文明の乱の発端をつくった。
	 乱後、細川政元らと対立。1493(明応 2)義就の子義豊が河内
	(カワチ)誉田城に挙兵すると将軍足利義稙(ヨシタネ)と出陣、細川・
	山名・一色・桃井・京極の諸将に正覚寺城を囲まれて自刃。
はたけやま みついえ
	畠山 満家
	1372
	1433(永享 5)
	◇室町前期の武将。法名は真観寺殿真源道端。畠山基国(モトクニ)
	の長子、持国・持富の父、満則(ミツノリ)の兄。
	 1399(応永 6)大内義弘の乱に活躍。
	 1406(応永13)基国の没後、満家は将軍足利義満に疎まれてい
	たため、弟満則が家督を継ぐ。1408(応永15)義満が没すると、
	家督を満則から受け継ぎ山城・紀伊・河内・越中の守護となる。
	 将軍足利義持の代に斯波義淳・細川満元・三宝院満済(マンサイ)
	とともに幕政にあたり、1410(応永17)・1421(応永28)二度、管
	領となる。
	 義持の死に際して満済と謀り、石清水八幡にくじを引き、青
	蓮院義円(のちの義教)を擁立し将軍に迎える。
	(*)1372(<南>建徳 3,<南>文中元,<北>応安 5)。
はたけやま みつのり
	畠山 満則
	生年不詳
	1432(永享 4)
	◇室町前期の武将。畠山基国(モトクニ)の次男、満家(ミツイエ)の弟。
	能登畠山氏の祖。
	 1406(応永13)基国の没後、兄満家は将軍足利義満に疎まれて
	いたため、満則が家督を継ぐ。1408(応永15)義満が没すると、
	家督を満家に譲り能登一国の守護となる。
はたけやま もちくに
	畠山 持国
	1398(応永 5)
	1455(享徳 4. 3.26)
	◇室町時代の武将。満家(ミツイエ)の子、義就(ヨシナリ)の実父、政長
	(マサナガ)の養父。持富の兄。
はたけやま もとくに
	畠山 基国
	1352
	1406(応永13)
	◇室町初期の武将。畠山義深の子、満家(ミツイエ)・満則(ミツノリ)の
	父。
	(*)1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文和元)。
はたけやま よしなり
	畠山 義就
	生年不詳
	1490(延徳 2.12.18)
	◇室町中期の武将。初名は義夏。管領畠山持国(モチクニ)の実子、
	義豊の父。
	 持国は甥の政長を養子としたが、のち妾腹の義就に家督を与
	えようとしたため、一族が二分して争う。義就は一時政長に追
	われ吉野に敗走したが、のち山名宗全の支援を得て日野富子を
	頼って入京。管領政長は細川勝元に頼って激しく争い、応仁・
	文明の乱の発端をつくった。
	 乱後、河内(カワチ)主要部をほぼ平定。
はたけやま よしはる
	畠山 義春
	生年不詳
	1643(寛永20)
	◇安土桃山・江戸前期の武将。畠山義隆の子。
はたけやま よしむね
	畠山 義統
	生年不詳
	1525(大永 5)
	◇室町後期の武将。能登の畠山政国の子。
はたなか しょうは
	畑中 蓼坡
	1877(明治10)
	1959. 3. 1(昭和34)
	◇俳優。本名は畠中作吉。
はたの せいいち
	波多野 精一
	1877. 7.21(明治10)
	1950. 1.17(昭和25)
	◇宗教哲学者。長野県生れ。
	 東京帝国大学でケーベルに師事。同大哲学科を卒業。
	 1904〜1906(明治37〜明治39)ドイツ留学。
	 東京専門学校(現:早稲田大学)・東京帝国大学講師、1917(大
	正 6)京都帝国大学宗教学教授、1937(昭和12)玉川学園教授、
	玉川大学学長などを歴任。
	 カントの批判哲学の立場から宗教学を講じ、宗教哲学の基礎
	を築く。
	 著書は『西洋哲学史要』(1901)・『基督教の起源』(1908)・
	『西洋宗教思想史』(第1巻:1921)・『宗教哲学』(1935)・
	『宗教哲学序論』(1940)・『時と永遠』(1943)など。
はたの つるきち
	波多野 鶴吉
	1858(安政 5)
	1918(大正 7)
	◇実業家。京都生れ。
	 9歳の時、波多野家の養子となる。
	 1896(明治29)郡是(グンゼ)製糸株式会社を設立。
	◎郡是製糸は片倉製糸とともに蚕糸業界の二大製糸会社。
はたの でんざぶろう
	波多野 伝三郎
	1856(安政 3)
	1907(明治40)
	◇新聞記者・改進党系の民権活動家。長岡出身。
はたの とりひこ
	旗野 十一郎
	1851(嘉永 4. 1.23)
	1908. 6.16(明治41)
	◇国文学者。
はたのかわかつ《はたのかはかつ》
	秦 河勝
	生年不詳
	没年不詳
	◇飛鳥時代の山背国(山城国)の富豪・推古朝の官人。山城国葛
	野(カドノ)の秦氏の後裔。
	 聖徳太子に仕え、冠位十二階の大仁位を与えられる。
	  603[推古11.11.]太子から仏像を受けて葛野郡(現:京都市太
	秦<ウズマサ>)に蜂岡寺(現:広隆寺)を建てる。
	  644[皇極 3. 7.]富士川のほとりで大生部多が蚕(カイコ)に似
	た虫を常世神(トコヨノカミ)として祀(マツ)らせ民衆を惑(マド)わせて
	いたので、河勝はこれを討つ。
	◎蜂岡寺の創建は聖徳太子の没後、 622[推古30]河勝の発願で
	起工され、翌年に新羅の使者が伝えた仏像一具を安置したとも
	いう。
はたのさけのきみ
	秦 酒公
	生年不詳
	没年不詳
	◇大和時代の渡来人。3世紀末百済から渡来した弓月君(ユヅキノ
	キミ)(融通王)の孫、普洞王の子。
	 一族が分散することを憂い、雄略天皇の詔を受けて秦の民を
	受けて首長となる。養蚕・絹織に励み、庸調として献納した絹
	布が山積みになったため、その賞として太秦(ウヅマサ)の姓を賜
	る。
はたや まさお
	幡谷 正雄
	1897. 1.20(明治30)
	1933. 6.17(昭和 8)
	◇英文学者。
はちすか いえまさ
	蜂須賀 家政
	1558
	1638(寛永15)
	◇安土桃山時代の武将。号は蓬庵。小六の子、至鎮の父。
	 父小六とともに織田信長に仕え、羽柴(豊臣)秀吉に属する。
	山崎の弔合戦・根来(ネゴロ)一揆征伐・朝鮮征伐・四国征伐に従
	軍。
	 1585(天正13)阿波一国の徳島城主。
	 1600(慶長 5)関ヶ原の戦には出陣せず、子至鎮が徳川方の東
	軍に属する。
	(*)1558(弘治 4,永禄元)。
はちすか ころく
	蜂須賀 小六
	1526(大永 6)
	1586(天正14. 5.)
	◇安土桃山時代の武将。名は正勝(マサカツ)。尾張国海東郡蜂須賀
	郷の小土豪。家政(イエマサ)の父。
	 はじめ美濃の斎藤道三、のち尾張守護代の岩倉城主織田信賢
	・尾張犬山城主織田信清に仕える。清信が織田信長に攻められ
	て没落後、郷里に雌伏。
	 1560(永禄 3)信長に属して桶狭間(オケハザマ)の戦で功名を立て
	る。
	 美濃の墨股(スノマタ)築城を機に羽柴(豊臣)秀吉に仕える。各地
	を転戦し、1580(天正 8)播磨国龍野城主。
	 1582(天正10)本能寺の変の際、秀吉の備中高松城攻めに従軍
	していたが、信長の死を隠したまま毛利軍と和平を結ぶ。その
	後、黒田官兵衛(カンベエ)とともに毛利氏との領界決定に尽力。
	◎三河岡崎の矢矧橋(ヤハギバシ)で寝ていた日吉丸(秀吉)を足蹴
	にした武士団の頭の小六が丁寧に詫びた逸話があるが、当時橋
	はなかった。
はつい しずえ
	初井 しづ枝
	⇒はつい しづえ(初井 しづ枝)
はつい しづえ
	初井 しづ枝
	1900.10.29(明治33)
	1976. 2.15(昭和51)
	◇歌人。
はった とものり
	八田 知紀
	1799(寛政11. 9.15)
	1873. 9. 1(明治 6)
	◇歌人。幼名は彦太郎、通称は喜左衛門、号は桃岡(トウコウ)。薩
	摩国鹿児島郡西田村生れ。京都の藩蔵役人、1872(明治 5)宮中
	歌道御用掛。
	(1)没年は1783. 9. 1(明治16)(滅茶苦茶)。
	(3)没年は1873. 9. 1(明治 6)。
	(5)没年は1873. 9. 2(明治 6)。
	(10)没年は1873. 9. 1(明治 6)。
	(11)没年は1873. 9. 2(明治 6)。
	(13)没年は1873. 9. 2(明治 6)。
はった なおゆき
	八田 尚之
	1905.12. 2(明治38)
	1964. 8.25(昭和39)
	◇シナリオ作家・劇作家・放送作家。
はった もとお《はつた もとを》
	八田 元夫
	1903.11.13(明治36)
	1976. 9.17(昭和51)
	◇演出家・劇作家。
はった よいち
	八田 与一(八田 與一)
	1886(明治19)
	1942. 5. 8(昭和17)
	◇土木技師。石川県金沢生れ。夫人は外代樹(トヨキ)。
	 東京帝国大学で土木工学を学ぶ。
	 1910(明治43)台湾総督府の土木部技手として赴任。
	 1930(昭和 5)烏山頭ダムと嘉南平野(Chianan Plain)に農業
	用水路を完成。
	 フィリピンに向かう途中、船が撃沈されて死亡。
はっとり かこう
	服部 嘉香
	1886. 4. 4(明治19)
	1975. 5.10(昭和50)
	◇詩人・歌人・詩論家・国語学者。本名は嘉香(ヨシカ)、幼名は
	浜二郎、初号は楠山。東京市日本橋区浜町久松伯爵(旧藩主)邸
	内で生れる。松山中学校を経て、1908(明治41)早稲田大学英文
	科卒業。
はっとり しそう
	服部 之総
	1901. 9.24(明治34)
	1956. 3. 4(昭和31)
	◇歴史学者。
はっとり しろう《はつとり しらう》
	服部 四郎
	1908. 5.28(明治41)
	1995. 1.29(平成 7)
	◇言語学者。三重県生れ。
	 1931(昭和 6)東京帝国大学文学部言語学科卒業。
	 1949(昭和24)東京大学教授。
はっとり たつ
	服部 達
	1922. 2.13(大正11)
	1956. 1. 1(昭和31)
	◇評論家。
	 1956. 1. 1(昭和31)に雪の八ヶ岳で遺書を残し消息を断つ。
はっとり たんぷう
	服部 担風
	1867(慶応 3.11.16)
	1964. 5.27(昭和39)
	◇漢詩人。名は粂之丞、諱は轍、字は子雲、号は担雲・藍亭。
はっとり どほう
	服部 土芳
	1657(明暦 3)
	1730(享保15. 1.18)
	◇江戸中期の俳人。本名は保英(ヤスヒデ)、通称は半左衛門、旧
	姓は木津(キヅ)、初号は蘆馬(芦馬)(ロバ)、1689(元禄 2)以降は
	土芳、別号は蓑虫庵(ミノムシアン)・些中庵。伊賀国上野生れ。木津
	三郎兵衛保向の三男、服部氏の養子。松尾芭蕉に師事。
	 墓は伊賀上野の西蓮寺。
	(2)服部 土芳(はっとり どほう)。
	(4)服部 土芳(はっとり とほう)。
	(5)服部 土芳(はっとり どほう)。
	(11)服部 土芳(はっとり とほう)。
はっとり なおと
	服部 直人
	1907. 4.20(明治40)
	1979. 1. 4(昭和54)
	◇歌人・国文学者。服部躬治(モトハル)の三男。
はっとり なんかく《はつとり なんくわく》
	服部 南郭
	1683(天和 3. 9.24)
	1759(宝暦 9. 6.21)
	◇江戸中期の漢学者(古学)・漢詩人。初名は元孝のち元喬(モトタ
	カ)、字は子遷、通称は小右衛門、別号は芙(「草」冠+「渠」)館(フキョ
	カン)、画号は周雪・観翁。京都生れ。
	 1696(元禄 9)江戸に出て、柳沢吉保に仕えたが、1716年致仕。
	荻生徂徠(オギュウ・ソライ)の高弟。
	(2)別号を芙蓉館。
	(*)1716(正徳 6,享保元)。
	◎高野蘭亭(タカノ・ランテイ)の詩は南郭と並び称された。
はっとり はんぞう
	服部 半蔵
	1542(天文11)
	1596(慶長元.11.14)
	◇江戸時代の武将。本名は正成(マサナリ)、法号は西念。通称は
	半蔵・半三・槍の半蔵。正就(マサナリ)(二代目半蔵)の父。
	 徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人。
	 1572(元亀 3)三方ヶ原の戦い、1582(天正10)本能寺の変の際
	の家康の伊賀の山越えの警護、1590(天正18)小田原攻めで功を
	あげ知行八千石を賜る。同年、家康の江戸入府後は江戸城西門
	(後の半蔵門)近く麹町清水谷に居を構え城の警備などにあたる。
	◎1579(天正 7)家康の長男岡崎三郎信康(ノブヤス)が切腹する際
	の介錯をつとめた。晩年、信康の菩提を弔(トムラ)うため麹町清
	水谷(シミズダニ)に庵(イオリ)を建てて信康の遺髪を埋め、西念と号
	して仏門に帰依した。1593(文禄 2)家康から寺院を建立するよ
	うに内命を受け出家するがが果たせずに没する。没後に西念寺
	が完成したが、1634(寛永11)江戸城の外堀拡張・新設の際に現
	在地(新宿区若葉)に移転した。
	◎伊賀者の指導者でもあった。
	◆墓は東京都新宿区若葉の安養院西念寺。
	 ちなみに「西念」とはありふれた凡僧を呼ぶ通名でもある。
はっとり ぶしょう
	服部 撫松
	1841(天保12. 2.15)
	1908. 8.15(明治41)
	◇明治前期の戯文家。本名は誠一。庵号は吸霞楼(キュウカロウ)。奥
	州二本松生れ。1896(明治29)より宮城県で小学校の作文の教師
	を勤める。
	(1)生年は1841(天保12)。
	(2)生年は1842(天保13)。
	(3)生年は1842(天保13)。
	(5)生年は1841(天保12)。
	(10)生年は1841(天保12)。
	(11)生年は1841(天保12)。
	(13)生年は1842(天保13)。
はっとり まさなり
	服部 正成
	⇒はっとり はんぞう(服部 半蔵)
はっとり まさなり
	服部 正就
	生年調査中
	1615(元和元. 5.)?
	◇江戸初期の幕府隠密頭。二代目半蔵。服部半蔵の子。
	 1605(慶長10. 6.10)組下の隠密同志二百余名が半蔵(二代目)
	の罷免と待遇改善をかかげて新宿の笹寺に籠もり、代表二名が
	筆頭老中本多正純に訴え出る。審問の結果、正就は罷免され、
	隠密は主席老中の支配下となる。
	 のち首謀者に酷似した町人を市中で切ったことから、改易と
	なり四国松山の久松松平家に永蟄居。
	 1615(元和元. 5.)大坂夏の陣の際、松平家の陣借り侍として
	出陣中、行方不明。
はっとり もとはる
	服部 躬治
	1875. 3.28(明治 8)
	1925. 3. 6(大正14)
	◇歌人・国文学者。福島県須賀川町生れ。
	 服部直人の父、水野仙子(センコ)の実兄。
はっとり よしか
	服部 嘉香
	⇒はっとり かこう(服部 嘉香)
はっとり らんせつ
	服部 嵐雪
	1654(承応 3)
	1707(宝永 4.10.13)
	◇江戸中期の俳人。本名は治助(ハルスケ)、通称は孫之丞(マゴノリ゙ョ
	ウ)のち彦兵衛、別号は嵐亭・雪中庵・玄峰堂・寒蓼堂(カンリョウド
	ウ)・黄落庵(コウラクアン)。江戸湯島生れ。長い武家奉公を経て松尾
	芭蕉の門に入り、宝井其角(キカク)とともに古参の高弟で蕉門の
	桜桃と称された。蕉門十哲の一人、江戸雪門の祖。
	◆嵐雪忌[旧暦10.13]。
はっとり りょういち
	服部 良一
	1907(明治40)
	1993. 1.30(平成 5)
	◇作曲家。大阪生れ。
はつやま しげる
	初山 滋
	1897. 7.10(明治30)
	1973. 2.12(昭和48)
	◇挿絵画家。本名は繁蔵、別名は初山田之助。東京浅草生れ。
	 狩野探令・井川洗(「涯」-「三水」:補助2039)に日本画を学ぶ。
	 1946(昭和21)武井武雄・村山知義らと日本童画会を結成。
はとやま いちろう
	鳩山 一郎
	1883(明治16)
	1959(昭和34)
	◇政治家。和夫の長男、鳩山秀夫の兄。東京出身。東京大学卒
	業。
	 1946(昭和21)公職追放。
	 1954(昭和29)日本民主党を結成し、首相となる。
	 1955(昭和30)自由党と保守合同し自由民主党総裁となる。
はとやま はるこ
	鳩山 春子
	1863(文久 3)
	1938(昭和13)
	◇明治〜昭和初期の女子教育家。松山藩士多賀努の娘、鳩山和
	夫の妻、鳩山一郎・秀夫の母。
	 1875(明治 8)開校したばかりの東京女子師範(お茶の水女子
	大)に入学、1881(明治14)優秀な成績で卒業し、母校の教師と
	なる。同年、鳩山和夫と結婚。
	 1886(明治19)共立女子職業学校(共立女子大)の設立に参画、
	1922(大正11)同校6代目校長。
はとやま ひでお
	鳩山 秀夫
	1884(明治17)
	1946(昭和21)
	◇民法学者。鳩山一郎の弟。東京出身。
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