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人 名 辞 典 《ふしわ》 編集:獨 澄旻
-------- ふしわ ------------------------------------------------
ふじわら ぎんじろう《ふぢはら ぎんじらう》
藤原 銀次郎
1869(明治 2)
1960(昭和35)
◇実業家・三井財閥の有力者・政治家。信州(現:長野県)生れ。
慶応義塾大学卒業。三井銀行に入社。中上川彦次郎(ナカミガワ・
ヒコジロウ)に見出され、富岡製糸場支配人。
三井物産を経て、1911(明治44)王子製紙の再建に尽力し、
1920(大正 9)社長に就任。1933(昭和 8)王子製紙・富士製紙・
樺太工業の3社を合同させて製紙トラストをつくり上げ、製紙
王と呼ばれる。
藤原工業大学を設立、のち慶応大学に寄付(現:理工学部)。
太平洋戦争中、商工大臣・軍需大臣に就任。
ふじわら さくへい《ふぢはら さくへい》
藤原 咲平
1884(明治17)
1950(昭和25)
◇気象学者。長野県諏訪市生れ。
東京帝国大学卒業。中央気象台に入り気象技監を経て、第5
代中央気象台長。のち東大教授を兼任。
渦動論を研究し、低気圧論を導入。「音の異常伝播の研究」に
より学士院賞。諏訪湖の氷結の史料から気候変動を研究。
著書は『渦巻の実験』・『日本気象学史』・『群渦』・『雲』
・『雲を掴む話』など。
ふじわら しんじ
藤原 審爾
1921. 3.30(大正10)
1984.12.20(昭和59)
◇小説家。東京生れで、岡山県片上町の父の生家で祖母に育て
られる。女優藤真利子の父。
青山学院高等商業部に入学するが、肺結核で倒れ中退。
(3)誕生日は 3.31。
(5)誕生日は 3.30。
(10)誕生日は 3.30。
(11)誕生日は 3. 7。
(21)誕生日は 3. 7。戸籍上は30日生まれ。
ふじわら せいか《ふぢはら せいくわ》
藤原 惺窩
1561(永禄 4)
1619(元和 5. 9.12)
◇安土桃山〜江戸前期の漢学者・近世儒学の祖。名は粛(シュク)、
字(アザナ)は斂夫(レンプ)、別号は北肉山人・妙寿院。冷泉為純の
子、藤原定家の12代の孫。播磨(ハリマ)細川庄生れ。
幼く京都相国寺(ショウコクジ)に入り、五山の禅や博士家の儒学
を学び朱子学に傾倒。明に渡航を企て薩摩まで行ったが果たせ
ず、朝鮮役の捕虜姜(「三水」+「亢」)(キョウコウ)と交わり学問を深め
る。
のち僧籍を離れ、徳川家康に進講して招かれるが林羅山(ハヤシ
・ラザン)を推薦して辞退。
京学をおこし近世儒学興隆の祖といわれる。
著書は『惺窩文集』・『寸鉄録』など。
◎朱子学を主として陸王(陸象山と王陽明)の学を排せず、老荘
や仏教を融和させる包容力のある学風であった。
◎門人は林羅山・松永尺五(セキゴ)・堀杏庵(キョウアン)・那波活所
(ナワ・カッショ)(以上、藤門四家<トウモンシカ>)など。
ふじわら よしえ
藤原 義江
1898(明治31)
1976(昭和51)
◇流行歌手・テノール歌手。浅草オペラでデビューし、のちイ
タリアに留学。1934(昭和 9)藤原歌劇団を創設。
ふじわらのあきこ
藤原 彰子
988(永延 2)
1074
◇一条天皇の中宮。院号は上東門院。父は藤原道長、母は源雅
信の娘倫子(リンシ)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の母。
天皇の外戚の地位を望む父道長の期待をにない 999(長保元.
11. 1)入内(ジュダイ)し6日後に一条天皇の女御となり、一条天
皇に皇后藤原定子(テイシ)がいるにもかかわらず、翌年皇后に冊
立。
1008(寛弘 5)敦成(アツヒラ)親王(第68代後一条天皇)を、1009
(寛弘 6)敦良(アツナガ)親王(第69代後朱雀天皇)を出産。1011
(寛弘 8. 6.22)一条天皇が死去し、1012年皇太后となる。1016
(長和 5)後一条天皇が即位し、1018(寛仁 2)太皇太后となる。
1026(万寿 3)落飾して尼となり院号宣下を受ける。
(*)1012(寛弘 9,長和元)、1074(延久 6,承保元)。
◎定子皇后には清少納言がいたので、道長は彰子の女房として
紫式部・和泉(イズミ)式部・赤染衛門(アカゾメエモン)らを揃(ソロ)えた。
ふじわらのあきすえ
藤原 顕季
1055(天喜 3)
1123(保安 4. 9. 6)
◇平安後期の歌人・歌学者。父は春宮大進(トウグウダイジン)藤原
隆経、母は白河天皇の乳母(メノト)従二位親子で、顕季は白河天
皇と乳兄弟(メノトゴ)。藤原顕輔(アキスケ)の父、清輔(キヨスケ)の祖父。
藤原実季の猶子(ユウシ)となる。
ふじわらのあきすけ《ふぢはらのあきすけ》
藤原 顕輔
1090(寛治 4)
1155(久寿 2)
◇平安末期の歌人。顕季(アキスエ)の子、清輔(キヨスケ)の父、顕昭の
義父。
三位左京大夫に至る。
優麗温雅な六条家流の歌道を確立。崇徳院の院宣により『詞
花和歌集』を撰進。
著書は『久安百首』・家集『左京大夫顕輔集』など。
ふじわらのあきひら《ふぢはらのあきひら》
藤原 明衡
989(永祚元)
1066(治暦 2.10.18)
◇平安後期の官僚・学者・漢詩文作者。明衡は「めいごう」とも
読む、字は耆莱(キライ)・安蘭(アンラン)。文章道(モンジョウドウ)におけ
る藤原式家の祖。敦信の子、敦光の父。
文章博士(ハカセ)・大学頭などを歴任。
『本朝文粋』・『明衡往来(メイゴウオウライ)(雲州消息)』・『新
猿楽記』を編纂。
ふじわらのあきらけいこ《ふぢはらのあきらけいこ》
藤原 明子
829(天長 6)
900(昌泰 3)
◇藤原良房(ヨシフサ)の娘・文徳天皇の女御。染殿后(ソメドノノキサキ)
とも呼ぶ。
文徳天皇の東宮時代に入内(ジュダイ)し、清和天皇を生む。
清和・陽成天皇よりそれぞれ皇太后・太皇太后の尊号を受け
る。
◎『今昔物語』に、物の怪(ケ)に悩まされる話や、加持祈祷に
来た金剛山の僧との狂乱の話がある。
(4)染殿后。五条后。
「五条の后」の項では「仁明天皇の女御、藤原順子。冬嗣の女
(ムスメ)。文徳天皇の母。」。
(19)染殿后。五条后。
「五条の后」の項では「仁明天皇の女御。藤原順子。冬嗣の女
(ムスメ)。文徳天皇の母。」。
(*)「順子」は「のぶこ」。
ふじわらのいえたか
藤原 家隆
1158(保元 3)
1237(嘉禎 3. 4. 9)
◇鎌倉前期の歌人。初名は雅隆(マサタカ)、法名は仏性(ブッショウ)、
壬生二品(ミブノニホン)とも称する。藤原光隆の子(*1)、寂蓮(ジャク
レン)の婿。
藤原俊成の門人。後鳥羽上皇に寵愛され和歌所寄人、『新古
今集』の撰者の一人となる。従二位宮内卿。
1236(嘉禎 2.12.)79歳のとき病気のため出家。
(*1)「尊卑分脈」では3男、「公卿補任」では次男。
ふじわらのかねざね《ふぢはらのかねざね》
藤原 兼実
⇒くじょう かねざね(九条 兼実)
ふじわらのかまたり《ふぢはらのかまたり》
藤原 鎌足
614[推古22]
669[天智 8.10.16]
◇藤原氏の祖。初名は中臣(ナカトミ)鎌子のち鎌足、字は仲郎。大
倭国高市郡の人。父は中臣御食子(ケミコ)、母は大伴夫人。
645年、中大兄(ナカノオオエ)皇子(のち天智天皇)と謀って蘇我入
鹿(イルカ)を大極殿に誅殺し(乙巳の変)、大化の改新の大功をた
て、政治の中核となる。孝徳天皇は即位の日、鎌足に大錦冠を
授け内臣(ウチノオミ)に任ずる。 654(白雉 5)紫冠を、のち大紫冠
を授けられる。
臨終に際し、 669[天智 8.10.10]天智天皇は鎌足の私第に行
幸。同15日、弟の大海人皇子(のち天武天皇)を鎌足第に遣わし、
大織冠(タイショクカン)を授け内大臣に任じ、藤原の姓(カバネ)を賜る。
(*) 645[皇極 4](大化元)。
ふじわらのきよすけ
藤原 清輔
1104(長治元)
1177(安元 3. 6.20)
◇平安後期の歌人・歌学者。藤原顕輔(アキスケ)の第二子、藤原顕
季(アキスエ)の孫、藤原家重(イエシゲ)・顕昭(ケンショウ)・季経(スエツネ)の
兄。
ふじわらのきよひら《ふぢはらのきよひら》
藤原 清衡
1056(天喜 4)
1128(大治 3. 7.13)
◇平安後期の陸奥の豪族。父藤原経清の死後、母(結有)が清原
武貞に再婚したので清原清衡ともいう。清原家衡の異父兄・安
倍頼良の外孫。
家衡と結んで清原家の正嫡である真衡と争った。真衡の死後
は後三年の役で源義家に味方して清原家衡・武衡を滅ぼし、陸
奥・出羽両国の押領使(オウリョウシ)となり、鎮守府将軍を兼ね、奥
州藤原氏の基を開いた。
平泉に中尊寺(チュウソンジ)を建立する。遺体は中尊寺金色堂に
現存。
(*)清原武貞は清原武則(タケノリ)の子。
ふじわらのきんつね《ふぢはらのきんつね》
藤原 公経
⇒さいおんじ きんつね(西園寺 公経)
ふじわらのきんとう《ふぢはらのきんたふ》
藤原 公任
966(康保 3)
1041(長久 2. 1. 1)
◇平安中期の歌人。通称は四条大納言。四納言・中古三十六歌
仙の一。
父は関白太政大臣頼忠(ヨリタダ)、母は醍醐天皇の孫の厳子(ゲ
ンシ)女王。同母の姉遵子(ジュンシ)は円融天皇の皇后、妹(「言」偏+
「是」)子(テイシ)は花山天皇の女御。
ふじわらのこうぜい《ふぢはらのかうぜい》
藤原 行成
⇒ふじわらのゆきなり(藤原 行成)
ふじわらのこれちか《ふぢはらのこれちか》
藤原 伊周
973
1010(寛弘 7)
◇平安中期の官僚。通称は帥内大臣・儀同三司。関白藤原道隆
の子、母は高階成忠(タカシナノナリタダ)の娘貴子(タカコ)、一条天皇の
皇后定子(テイシ)・藤原隆家の兄。
994(正暦 5)内大臣。 995年、父道隆が死にあたり伊周を内
覧(摂政)にと請うが、道隆の弟道兼が反対し関白となる。しか
し道兼は在職7日で死亡。さらに一条天皇の母詮子が弟藤原道
長を強く推し、道長に「内覧の宣旨」が下った。
道長のため 996(長徳 2. 1.)従者があやまって花山法皇を弓
で射、弟隆家と謀ったとされ、伊周は大宰権帥(ダザイノゴンノソチ)
に、隆家は出雲権守に左遷。道長により伊周の勢力が完全に除
かれた後、 997(長徳 3)官符をもって召還され帰京。
妹定子のもうけた敦康親王の即位を望むが、これも道長に妨
げられ実現しなかった。
(*) 973(天禄 4,天延元)、 995(正暦 6,長徳元)。
ふじわらのさだいえ
藤原 定家
1162(応保 2)
1241(仁治 2. 8.20)
◇鎌倉前期の歌人。「ていか」とも読む。幼名は光季・季光、法
名は明静。藤原俊成(トシナリ)の二男、母は藤原親忠(チカタダ)の娘。
藤原為家(タメイエ)の父。
1166(仁安元.11.)5歳で従五位下となり、光季から季光と改
名。1167(仁安 2.12.)紀伊守となり、定家と改名。1183(寿永
2.12.)正五位下。
1185(文治元)24歳のとき殿上で源雅行(マサユキ)と喧嘩し脂燭(シ
ショク)で打擲(チョウチャク)し除籍された。1186(文治 2)25歳のとき九
条家の家人(ケニン)となる。
1189(文治 5.11.)左近衛権少将。1214(建保 2. 2.)参議。
1218(建保 6. 7.)民部卿。1227(嘉禄 3.11.)正二位。1232(寛
喜 4. 1.)権中納言勅授帯剱。
1233(天福元.11.)72歳で出家、以後京極中納言と号する。
墓所は京都市上京区相国寺普広院。
『新古今和歌集』・『新勅撰和歌集』の撰者。
◆定家忌[旧暦 8.20]。
◆かるた忌[五月第四日曜日]京都市右京区嵯峨の二尊院で。
ふじわらのさねよし
藤原 実能
⇒とくだいじ さねよし(徳大寺 実能)
ふじわらのしゅんぜい《ふじはらのしゆんぜい》
藤原 俊成
⇒ふじわらのとしなり(藤原 俊成)
ふじわらのしょうし《ふじはらのしやうし》
藤原 彰子
⇒ふじわらのあきこ(藤原 彰子)
ふじわらのしょうし《ふじはらのしやうし》
藤原 璋子
⇒たいけんもんいん しょうし(待賢門院 璋子)
ふじわらのしんぜい
藤原 信西
⇒ふじわらのみちのり(藤原 通憲)
ふじわらのたかいえ
藤原 隆家
979(天元 2)
1044
◇平安中期の官僚。幼名は阿古、通称は大炊帥。関白藤原道隆
の4男、母は高階成忠(タカシナノナリタダ)の娘貴子(タカコ)、内大臣藤
原伊周(コレチカ)・一条天皇の皇后定子(テイシ)の弟。
995年、権中納言を経て中納言に至る。藤原道長のため 996
(長徳 2. 1.)従者があやまって花山法皇を弓で射、兄伊周と謀っ
たとされ、伊周は大宰権帥(ダザイノゴンノソチ)に、隆家は出雲権守
に左遷。道長により伊周の勢力が完全に除かれた後、 997(長
徳 3)官符をもって召還され帰京。
のち眼を患い、九州に宋の名医が来航したことを聞き治療の
ため望んで、1014(長和 3)大宰権帥に着任。生来の剛直な性格
により大宰府官僚・豪族を掌握。在任中、1019(寛仁 3)刀伊(ト
イ)の来襲の際に的確な指揮により大蔵種材(タネキ)らと撃退(刀伊
の入冦)。
(*) 995(正暦 6,長徳元)、1044(長久 5,寛徳元)。
ふじわらのたかいこ
藤原 高子
842(承和 9)
910(延喜10)
◇清和天皇の女御。藤原長良(ナガラ)の娘、母は藤原乙春。
ふじわらのためいえ
藤原 為家
1198(建久 9)
1275(建治元. 5. 1)
◇鎌倉前期の歌人。法名は融覚(ユウカク)、中院(ナカノイン)禅門・民
部卿入道と呼ばれた。藤原定家(サダイエ)の嫡男で、母は内大臣
藤原実宗(サネムネ)の娘。二条為氏(タメウジ)・京極為教・冷泉為相
(レイゼイ・タメスケ)の父。阿仏尼(アブツニ)は側室で為相の母。
歌道に精進し、御子左家(ミコヒダリケ)を確立する。
ふじわらのためうじ
藤原 為氏
⇒にじょう ためうじ(二条 為氏)
ふじわらのためすけ
藤原 為相
⇒れいぜい ためすけ(冷泉 為相)
ふじわらのていか
藤原 定家
⇒ふじわらのさだいえ(藤原 定家)
ふじわらのていし
藤原 定子
977(貞元 2)
1000(長保 2.12.16)
◇一条天皇の皇后。父は中関白家藤原道隆(ミチタカ)、母は高階成
忠(タカシナノナリタダ)の娘貴子(タカコ)。敦康(アツヤス)親王の母。
990年14歳で入内し4歳年下の一条天皇の中宮となる。 996
(長徳 2)父道隆が死去し、藤原道長によって兄の伊周(コレチカ)・
弟隆家は失脚する。定子は出家するが、のち宮中に呼び戻され
還俗し、敦康親王を出産。
この間に道長が娘彰子(ショウシ)を皇后(中宮)にし、1000(長保
2)史上初めて2人の皇后がたった。皇女を出産して間もなく
死去。
(*) 990(永祚 2,正暦元)。
◎定子に清少納言、彰子に紫式部が仕え、対立したことは有名。
ふじわらのとしなり
藤原 俊成
1114(永久 2)
1204(元久元.11.30)
◇平安後期〜鎌倉前期の歌人。「しゅんぜい」とも読む、名は
顕広(アキヒロ)のち俊成、法名は釈阿(シャクア)。京都・五条室町の住
居と正三位にちなみ五条三位(ゴジョウノサンミ)とも呼ばれた。
1167. 1.(仁安 2)正三位となり、一二月俊成と改名。1176.
9.(安元 2)重病にかかり出家。
藤原定家(サダイエ)の父。
ふじわらのとしなりのむすめ
藤原俊成女
生年不詳
没年不詳
◇鎌倉前期の歌人。嵯峨善尼(サガノゼンニ)・越部善尼(コシベノゼンニ)
とも呼ばれた。藤原俊成(トシナリ)に養われ、実父は藤原盛頼(モリヨ
リ)、母は八条院三条(俊成の娘)。
(11)実父は尾張守少将盛頼(ナリヨリ)(大納言藤原成親<ナリチカ>の弟)。
ふじわらのなかまろ
藤原 仲麻呂
706(慶雲 3)
764(天平宝字 8)
◇奈良後期の政治家。武智麻呂(ムチマロ)の子。
光明皇后・孝謙天皇(従妹)の信任を得て、橘諸兄の勢力を抑
え、紫微中台(シビチュウダイ)(皇后宮職)の長官となり権力を握る。
娘婿の大炊(オオイ)王(淳仁天皇)を擁立して皇太子にする。
757年、仲麻呂を除こうとする橘奈良麻呂の反乱計画を抑え、
淳仁天皇が即位して、右大臣(太保)となり恵美押勝(エミノオシカツ)
の名を賜る。 760(天平宝字 4)正一位太政大臣(大師,太師)と
なる。
孝謙上皇が道鏡(ドウキョウ)を寵愛したため、 764(天平宝字 8.
9.11)道鏡を除こうとして挙兵して敗れ(藤原仲麻呂の乱)、近
江で斬られる。淳仁天皇は廃されて淡路島へ流される。
(*) 757(天平勝宝 9,天平宝字元)。
ふじわらののぶこ《ふぢはら のぶこ》
藤原 順子
⇒ごじょうのきさき(五条 后)
ふじわらののぶふさ《ふぢはらののぶふさ》
藤原 宣房
1258(正嘉 2)
1348(<南>正平 3,<北>貞和 4)
◇鎌倉後期(南北朝時代)の廷臣・公卿。大納言。資通の子、藤
原藤房(フジフサ)。家名は万里小路(マデノコウジ)。
後二条天皇に仕え、天皇の没後退官。
後醍醐天皇の即位後、権中納言に任ぜられる。1324(正中元)
正中の変では鎌倉に赴き事件を落着させる。1331(元弘元)元弘
の変で後醍醐天皇笠置潜幸の時に北条氏に捕えられ、官位を奪
われる。
建武新政で復官。のち出家。
有職故実に通じ、『万一記(マンイッキ)』がある。
◎吉田定房(サダフサ)・北畠親房(チカフサ)とともに「後(ノチ)の三房」
の一人。
ふじわらのひでさと《ふぢはらのひでさと》
藤原 秀郷
生年不詳
没年不詳
◇平安中期の下野(シモツケ)の豪族・鎮守府将軍。俗称は俵藤太(タ
ワラ・トウダ/トウタ)・田原藤太。
◎滋賀県の三上山の百足(ムカデ)退治伝説で知られる。
ふじわらのひでひら《ふぢはらのひでひら》
藤原 秀衡
生年不詳
1187(文治 3)
◇平安末期の武将。基衡(モトヒラ)の子、泰衡(ヤスヒラ)の父。
奥州の豪族で、出羽押領使・1170(嘉応 2)鎮守府将軍・陸奥
守。平氏の源頼朝(ヨリトモ)討伐に加わらなかった。
平氏滅亡後、源義経(ヨシツネ)を庇護して頼朝と対抗するが、義
経を泰衡に託して没する。
無量光院を建立する。遺体は中尊寺金色堂に現存。
(?)生年は1122(保安 3)。
ふじわらのひろつぐ《ふぢはらのひろつぐ》
藤原 広嗣
生年不詳
740(天平12.11. 1)
◇奈良初期の廷臣。藤原式家宇合(ウマカイ)の長子、母は石上麻呂
の娘、百川(モモカワ)の兄。
737(天平 9)従五位下に叙せられる。同年、不比等の子4人
の没後、橘諸兄(モロエ)は僧玄(「日」偏+「方」)(ゲンボウ)・吉備真備
(キビノマキビ)らと結び新興勢力となる。 738(天平10)広嗣は大養
徳守(オオヤマトノカミ)兼式部少輔に任じられるが、翌年には大宰少弐
に左遷される。
藤原氏の勢力を挽回しようとして、 740(天平12. 8.)玄ボウ
と吉備真備を除こうとして上表するが受け入れられず、北九州
の大宰府の兵ら5千を動員・挙兵、東上を開始。聖武天皇は大
野東人(アズマビト)を持節大将軍として1万7千の追討軍を西下
させ、九州各地で激戦。
筑紫国板櫃河畔で広嗣は敗れ、肥前国値駕島(現:五島列島)
から耽羅島(現:朝鮮の済州島)へ脱出しようとして肥前国松浦
郡で阿部黒麻呂によって逮捕。11月初め肥前で斬殺される。
◎『万葉集』に1首ある。
◎藤原広嗣の乱は、武力により律令国家に対抗した最初とされ
る。
また、恭仁京(クニキョウ)・紫香楽宮(シガラキノミヤ)への遷都の原因
や、天然痘流行とあいまって国分寺・東大寺建立の動機となっ
た。
◎この後、藤原式家は衰退。
◎東京都板橋区赤塚4丁目の氷川神社に「藤原広継」として祀ら
れている。
ふじわらのふひと《ふぢはらのふひと》
藤原 不比等
659[斉明 5]
720(養老 4. 8. 3)
◇奈良前期の高官。名は史・文忠公・淡海公。中臣鎌足の次子、
母は車持国子君の娘与志古娘。
山科の田辺史大隅らの家に養われ、史(フヒト)と名付けられる。
665[天智 4]鎌足の長子(法号定恵<ジョウエ>)が死去し、後嗣と
なる。 689[持統 3]藤原の姓を直径の不比等のみが継ぐことに
なる。 701(大宝元)正三位に叙せられ、大納言となる。 708
(和銅元)右大臣となり、のち正二位に叙せられる。
刑部親王を補佐して大宝律令の撰定に加わり律令制度を確立
させ、奈良遷都(平城京)を推進。養老律令の制定に着手したが、
完成をみずして病没。
娘宮子(ミヤコ)を文武天皇の夫人にし、首(オビト)皇子(聖武天皇)
が生れる。後妻橘三千代との娘光明子(安宿媛<アスカベヒメ>)を皇
太子首皇子の妃とし、のち皇后となり人臣皇后の先例になるな
ど、藤原氏隆盛の基礎を築いた。
子供の武智麻呂(ムチマロ)(南家)・房前(フササキ)(北家)・宇合(ウマカ
イ)(式家)・麻呂(マロ)(京家)はそれぞれ藤原四氏の祖となる。娘
宮子は文武天皇妃、娘光明子(コウミョウシ)は聖武天皇の皇后。
(2)異説の生年は658。
(17)斉明天皇四年(六五八)あるいは同五年に生まれる。
(*)娘宮子は養女で伊勢の海女だったという伝承がある。
ふじわらのふゆつぐ《ふぢはらのふゆつぐ》
藤原 冬嗣
775(宝亀 6)
826(天長 3. 7.24)
◇平安初期の廷臣。通称は閑院左大臣。北家の右大臣藤原内麻
呂の第二子、母は飛鳥部奈止麻呂の娘、文徳天皇の生母順子の
父。
左右衛士尉・従五位春宮亮となり侍従を兼ねる。
嵯峨天皇の信任を受け、 810(大同 5. 3.)蔵人所(クロウドドコロ)
が新設されると巨勢野足(コセノノタリ)共に蔵人頭(クロウドノトウ)となり、
ついで造宮使・左衛士督・春宮大夫・式部大輔・美作守などを
拝命し、従四位上となる。 811(弘仁 2)参議となり山城国乙訓
郡の地4町を賜る。 813(弘仁 4)従三位に昇進。
817(弘仁 8)権中納言兼陸奥出羽按察使・中納言・ 818(弘
仁 9)大納言・ 821(弘仁12)正二位右大臣・ 825(天長 2)左大
臣と昇進。
娘順子を皇太子正良親王(仁明<ニンミョウ>天皇)の妃に入れ皇室
と血縁を深めるなど、藤原北家による摂関政治の基礎を築く。
『弘仁格式(コウニンキャクシキ)』・『内裏式』・『日本後紀』を編
纂(ヘンサン)。
施薬院を復興し、 821(弘仁12)一族子弟のために勧学院(カン
ガクイン)を設け、興福寺南円堂を建立。
◆死去二日後に正一位を追贈され、山城国愛宕郡深草山に葬ら
れる。
850(嘉祥 3)文徳天皇の即位の際、太政大臣を追贈。
◎漢詩が『文華秀麗集』・『経国集』に収められている。
ふじわらのまさつね
藤原 雅経
⇒あすかい まさつね(飛鳥井 雅経)
ふじわらのみちつなのはは
藤原道綱母
生年不詳
没年不詳
◇平安中期の日記作者。本名は不明。藤原兼家の妻妾の一人。
『蜻蛉日記』の作者。
(17)没年は 995(長徳元. 5. 2)。
ふじわらのみちとし
藤原 道俊
1047(永承 2)
1099(承徳 3. 8.16)
◇平安後期の歌人。1094(嘉保元)正三位の治部卿権中納言に至っ
たので礼部納言(レイブナゴン)と呼ばれた。
ふじわらのみちなが《ふぢはらのみちなが》
藤原 道長
966(康保 3)
1027(万寿 4.12. 4)
◇平安中期の廷臣。御堂関白(ミドウカンパク)・法成寺入道前関白
太政大臣と称する。兼家の第5子、兄は道隆・道綱・道兼・道
義ら。
987源雅信の娘倫子(頼通・彰子らの母)と結婚、 988(永延
2)源高明の娘明子(頼宗・能信・寛子らの母)と結婚。 991(正
暦 2)権大納言となる。 995年右大臣となる。
996(長徳 2)兄関白道隆の子伊周(コレチカ)・隆家兄弟が不祥事
件で失脚し太宰権帥に左遷させられる。同年、兄弟の左遷で一
条天皇の中宮定子(テイシ)は一時出家、その間に娘の彰子を皇后
にする。出家を取り消した定子と二后並立となるが、12月定子
は死亡。
彰子に1008(寛弘 5)敦成親王(後一条)が、1009(寛弘 6)敦良
親王(後朱雀)が誕生。1011(寛弘 8)一条天皇が譲位し三条天皇
が即位、敦成が皇太子になる。1016(長和 5)三条天皇が譲位、
9歳の後一条天皇が即位し、道長が摂政となる。
1017年、子頼通(ヨリミチ)に摂政を譲り、太政大臣となる。1019
(寛仁 3)出家。法成寺を造営する。
娘を入内(ジュダイ)させ、三代の天皇の外戚として藤原氏全盛
を現出させる。長女彰子は第66代一条天皇の皇后で第68代後一
条・第69代後朱雀両天皇の母。次女研子は第67代三条天皇の皇
后。三女威子は後一条天皇の皇后。四女嬉子は後朱雀東宮の妃。
(*) 987(寛和 3,永延元)、 995(正暦 6,長徳元)、1017(長和 6,
寛仁元)。
ふじわらのみちのり
藤原 通憲
1106
1159
◇平安末期の貴族。出家して信西(シンゼイ)と称する。実兼の子。
妻の縁で後白河天皇に重用される。博学をもって聞えたが、
少納言にとどまる。
保元の乱後、藤原信頼(ノブヨリ)と争い、平清盛と結ぶ。
平治の乱に源義朝と結んだ信頼に斬られる。
(2)平治の乱で殺され都大路に梟首された。
(4)生年不詳。平治の乱に自刃。
(6)生年は1106。平治の乱で斬られた。
(*)1106(長治 3,嘉承元)、1159(保元 4,平治元)。
ふじわらのみつなが《ふぢはらのみつなが》
藤原 光長
⇒ときわ みつなが(常盤 光長)
ふじわらのめいごう《ふぢはらのめいがう》
藤原 明衡
⇒ふじわらのあきひら(藤原 明衡)
ふじわらのもといえ《ふぢはらのもといへ》
藤原 基家
1203(建仁 3)
1280(弘安 3)
◇鎌倉中期の歌人・廷臣。良経の子。鶴殿と称される。
正二位内大臣に至る。
『続古今和歌集』の撰者の一人。『続後撰和歌集』以下の勅
撰集に79首入っている。
ふじわらのもとつね《ふぢはらのもとつね》
藤原 基経
836(承和3)
891(寛平 3. 1.16)
◇平安前期の廷臣。堀河太政大臣・藤原手古と称される、諡号
は昭宣公。藤原長良(ナガラ)の子、母は藤原乙春、叔父藤原良房
の養子。
873(貞観15)陽成天皇の摂政、ついで 880(元慶 4)太政大臣。
884(元慶 8)陽成(ヨウゼイ)天皇を廃して仁明天皇の皇子時康(トキ
ヤス)親王(光孝天皇)を即位させ事実上の関白となる。 887(仁和
3)光孝天皇が没し、宇多天皇が即位して正式に臣下で始めて
関白の称号を得る。
阿衡(アコウ)事件によって藤原氏の権威を天皇に認めさせ、藤
原政権を確立した。
『日本文徳天皇実録』の撰修を主宰。
ふじわらのもととし《ふぢはらのもととし》
藤原 基俊
1060(康平 3)
1142(康治元)
◇平安後期の歌人・歌学者。法号は覚舜(カクシュン)。右大臣俊家
の子。没年は1143(康治 2. 1.18)とも。
従五位上左衛門佐に至る。
1138(保延 4)出家し、法号は覚舜。
編著『新撰朗詠集』・家集『基俊集』など。
(19)生年不詳。
◎保守的な作風で、相対する源俊頼と並び称される。
◎万葉集に次点(訓点)を加えた一人。
◎晩年、藤原俊成に古今集の訓釈を伝えたのが「古今伝授」の初
めとされる。
ふじわらのもとなが《ふぢはらのもとなが》
藤原 元命
生年不詳
没年不詳
◇平安中期の受領(ズリョウ)。経臣(ツネオミ)の子。
尾張(オワリ)の国司在任中、郡司・百姓から『尾張国郡司百姓
等解文』(31ヶ条)によって官物の横領や重税などの非政を訴え
られ、 990年解任される。
(*) 990(永祚 2,正暦元)。
ふじわらのもとひら《ふぢはらのもとひら》
藤原 基衡
生年不詳
没年不詳
◇平安末期の武将。清衡(キヨヒラ)の子、秀衡(ヒデヒラ)の父。
陸奥(ムツ)の豪族で、父の後を継いで陸奥・出羽の押領使とな
る。平泉を本拠地として陸奥六郡を30年余支配。
京都の文化を移入し、毛越寺(モウツウジ)を建立、中尊寺を増築
・修理。
奥州藤原3代の全盛を築く。
◎遺体は中尊寺金色堂に現存。
ふじわらのもとふさ《ふぢはらのもとふさ》
藤原 基房
1144
1231(寛喜 3)
◇平安末・鎌倉初期の公卿。松殿と称される。関白藤原忠通(タ
ダミチ)の子、基実の弟、僧慈円(ジエン)の異母兄。
平清盛と対立、失脚して備前に配流。
平氏西走後、復帰を図るが、失敗。
(*)1144(康治 3,天養元)。
ふじわらのももかわ《ふぢはらのももかは》
藤原 百川
732(天平 4)
779(宝亀10)
◇奈良時代の廷臣。初名は雄田麻呂。藤原式家宇合(ウマカイ)の第
8子、広嗣(ヒロツグ)の弟。
770年称徳天皇の没後、道鏡(ドウキョウ)排斥運動を進め、吉備
真備(キビノマキビ)の反対を抑えて道鏡を追放し、北家の藤原永手
(ナガテ)らとともに光仁天皇を擁立。
773(宝亀 4)山部親王(桓武天皇)を皇太子に立てる。
藤原一族の勢力回復に貢献。
(*) 770(神護景雲 4,宝亀元)。
ふじわらのもろすけ《ふぢはらのもろすけ》
藤原 師輔
908(延喜 8)
960(天徳 4)
◇平安中期の廷臣。通称は九条殿。忠平の第2子、母は右大臣
能有の娘。実頼の弟、兼通・兼家・安子(アンシ)(村上天皇の皇后)
の父、道長の祖父。
父忠平の関白職は兄実頼が継ぎ、師輔は右大臣に至る。
娘安子が村上天皇の皇后となって冷泉・円融両天皇を生んで
勢力が兄を越え、兼通・兼家・道長にわたる摂関家の祖となる。
また、朝儀に精通し有職故実の九条流の祖となる。
著書は『九条年中行事』・『九条殿遺誡』・歌集『九条右丞
相集』・日記『九暦(キュウレキ)』など。
◎死後、太政大臣を贈られる。
ふじわらのもろみち《ふぢはらのもろみち》
藤原 師通
1062(康平 5)
1099
◇平安末期の廷臣。通称は後二条殿・後二条関白。師実の子、
母は源師房の娘麗子。
1094年、関白となる。
白河院政と対立、延暦寺の僧兵の横暴を武力で制圧・有能の
士を挙用するなど政治の粛清に努める。
日記『後二条師通記』がある。
(*)1094(寛治 8,嘉保元),1099(承徳 3,康和元)。
ふじわらのもろみつ《ふぢはらのもろみつ》
藤原 師光
⇒さいこう(西光)
ふじわらのやすひら《ふぢはらのやすひら》
1155(久寿 2)
1189(文治 5)
◇平安末期の奥州の豪族。秀衡(ヒデヒラ)の子。
陸奥・出羽の押領使。父の遺命により源義経(ヨシツネ)をかくまっ
たが、源頼朝(ヨリトモ)の圧力に屈して1189(文治 5.閏4.)衣川館
の義経を攻めて自刃させる。しかし、頼朝に攻撃され、逃走中
に部下に殺害される。
(4)生年不詳
(6)生年は1155。
◎頭部のミイラは中尊寺金色堂に現存。
ふじわらのやすまさ
藤原 保昌
958(天徳 2)
1036(長元 9. 9.)
◇平安中期の官僚。摂津国平井に住み、平井保昌(ホウショウ)と名
乗る。和泉式部の夫。父は右京大夫藤原致忠、母は元明親王の
娘。藤原元方(モトカタ)の孫。源頼光は甥。
ふじわらのゆきなり《ふぢはらのゆきなり》
藤原 行成
972(天禄 3)
1027(万寿 4)
◇平安中期の書家。「こうぜい」とも読む。
ふじわらのよしつね《ふぢはらのよしつね》
藤原 良経
1169(嘉応元)
1206(元久 3. 3. 7)
◇鎌倉前期の公卿・歌人・書家。号は式部史生・秋篠月清(アキシ
ノゲツセイ)・南海漁夫・西洞隠士(セイトウインシ)、後京極(ゴキョウゴク)摂
政・中御門殿(ナカノミカドドノ)とも呼ばれた。
摂政関白従一位にまでなった九条(藤原)兼実(カネザネ)の次男、
母は従三位中宮亮藤原季行(スエユキ)の娘。
34歳で摂政、36歳で太政大臣従一位になる。38歳で頓死(トンシ)、
政敵による暗殺説が伝わっている。
ふじわらのよしふさ《ふぢはらのよしふさ》
藤原 良房
804(延暦23)
872(貞観14)
◇平安前期の廷臣・高官。通称は白河殿・染殿大臣(ソメイドノノオト
ド)、諡号(シゴウ)は忠仁公。冬嗣(フユツグ)の次男、母は阿波守真
作の娘美都子、室は嵯峨天皇の皇女潔姫、仁明天皇の女御(の
ち皇后)順子の兄、明子(アキラケイコ)の父、基経(モトツネ)の養父。
842(承和 9)承和の変で大伴氏・橘氏の勢力に打撃を与え、
妹順子の子の道康(ミチヤス)親王を皇太子とし、のち娘明子をその
妃とする。大納言・右大臣。
850(嘉祥 3)道康親王が文徳天皇として即位後、外戚として
勢力を得、娘明子の生んだ惟仁親王を皇太子にする。 857(天
安元)人臣として初めて太政大臣となる。
858(天安 2)9歳の惟仁親王が清和天皇として即位し、実質
的な摂政となる。 866(貞観 8)応天門の変で大伴氏(伴善男)・
紀氏(紀夏井)らを失脚させて混乱に乗じ、人臣として初めて公
的に摂政の詔を得、藤原氏による摂関政治の基礎を確立させる。
『続日本後紀』の撰修に参加。
◎死後、美濃公に封ぜられ、忠仁公の諡号を賜る。
ふじわらのよしもと《ふぢはらのよしもと》
藤原 良基
⇒にじょう よしもと(二条 良基)
ふじわらのよりつぐ《ふぢはらのよりつぐ》
藤原 頼嗣
⇒くじょう よりつぐ(九条 頼嗣)
ふじわらのよりつね《ふぢはらのよりつね》
藤原 頼経
⇒くじょう よりつね(九条 頼経)
ふじわらのよりみち《ふぢはらのよりみち》
藤原 頼通
992(正暦 3)
1074(延久 6. 2. 2)
◇平安中期の廷臣。道長の長子。通称は宇治関白・宇治殿。
後一条・後朱雀(ゴスザク)・後冷泉(ゴレイゼイ)の摂政・関白。
のち太政大臣・准三宮。父道長と並んで藤原氏全盛期を現出し
た。
1053(天喜元)宇治の別荘を寺に改め、平等院鳳凰堂を建立。
ふせ たつじ《ふせ たつぢ》
布施 辰治
1880.11.13(明治13)
1953. 9.13(昭和28)
◇弁護士・社会運動家。宮城県蛇田村(現:石巻市)生れ。
明治法律学校(現:明治大学)卒業。
検事代理から弁護士に転身。
1917(大正 6)米騒動の弁護を担当。
1919(大正 8)三・一独立運動に加わった朝鮮人留学生らの弁
護に奔走。
1921(大正10)山崎今朝弥(ケサヤ)らと自由法曹団を創設。
1923(大正12)亀戸事件・朴烈事件、1928(昭和 3)三・一五事
件などの弁護を担当。
戦後の三鷹事件の弁護を担当。
◎朝鮮の独立運動家の弁護を無償で多数引き受けたことから、
韓国では「日本版シンドラー(Oscar Schindler)」とも呼ばれる。
2004.10.12(平成16)韓国政府、建国勲章の授与を決定し、12.
21東京の韓国大使館で授与。
ふせ のぶお
布施 延雄
1892. 2. 2(明治25)
没年不詳
◇翻訳家。
ふせ もりお
布施 杜生
1914. 5.25(大正 3)
1944. 2. 4(昭和19)
◇革命運動家。京都拘置所で死去。
ふそう かん
総生 寛
1841(天保12)
1894.10. 9(明治27)
◇戯作者。本姓は岩橋(一説に加藤)だが総生と改姓、別称は
七杉子(ミスギヨスギ)・哲径道人・天保銭人。仮名垣魯文の友人で、
『西洋道中膝栗毛』の第一二〜一五編をひきついで執筆した。
ふたがわ しょういん
二川 松陰
1767(明和 4)
1836(天保 7)
◇江戸後期の儒学者。福岡藩士。
亀井南冥(ナンメイ)に師事。
(2)(名)助近,通称幸之進。門人に歌人大隈言道(コトミチ)がいる。
「大隈言道」の項:二川相近(フタガワ・スケチカ)に和歌と書を……。
(16)「大隈言道」の項:藩士二川相近に若・書道を…….
ふたがわ すけちか
二川 相近
⇒ふたがわ しょういん(二川 松陰)
ふたばてい しめい
二葉亭 四迷
1864. 4. 4(元治元. 2.28)
1909. 5.10(明治42)
◇小説家・翻訳家。本名は長谷川辰之助(タツノスケ)、別号は
冷々亭杏雨(レイレイテイキョウウ)・二葉亭・二葉亭主人・四明。生年は
1864(文久 4. 2. 3)の説もあり、流布している自筆履歴書は
1862(文久 2.10. 8)であるが、官立学校受験のためサバヨミさ
れている。
江戸の尾州屋敷で生れる。三度陸軍士官学校を受験したが、
視力不足で不合格となる。1881(明治14)東京外国語学校露語学
部に入学したが、1886. 1(明治19)同校を合併してできた東京
商業学校語学部に入らず退学。1908. 6.(明治41)朝日新聞社ロ
シア特派員として渡露し、病気で帰国の途中、インド洋で客死。
◆四迷忌[ 5.10]。
ふちがみ もうせん
淵上 毛銭
1915. 1.13(大正 4)
1950. 3. 9(昭和25)
◇詩人。本名は喬(タカシ)。熊本県生れ。
ぶってつ
仏哲
⇒『百科辞書』ぶってつ(仏哲,仏徹)
ぶってつ
仏徹
⇒『百科辞書』ぶってつ(仏哲,仏徹)
ふなき しげお
舟木 重雄
1884.12.25(明治17)
1951. 6.28(昭和26)
◇小説家。舟木重信(シゲノブ)の兄。
ふなき しげのぶ
舟木 重信
1893. 7.27(明治26)
1975. 4.29(昭和50)
◇小説家・ドイツ文学者。舟木重雄(シゲオ)の弟。
ふなき しろう
船木 枳郎
1903. 6.20(明治36)
1973.12.26(昭和48)
◇児童文学評論家。本名は藤一。
ふなはし せいいち
舟橋 聖一
1904.12.25(明治37)
1976. 1.13(昭和51)
◇小説家・劇作家。クリスマスに生れた長子で「聖一」と命名。
東京・本所横綱町生れ。母さわ子は、1897(明治30)足尾銅山の
鉱毒事件のときの経営側の中心人物であった古河合名会社理事
長近藤三郎の長女。水戸高校を経て東京大学国文科卒業。
(1)舟橋 聖一(ふなばし せいいち)。
(2)舟橋 聖一(ふなはし せいいち)。
(3)舟橋 聖一(ふなばし せいいち)。
(5)舟橋 聖一(ふなはし せいいち)。
(10)舟橋 聖一(ふなはし せいいち)。
(11)舟橋 聖一(ふなはし せいいち)。
(13)舟橋 聖一(ふなばし せいいち)。
ふなやま かおる
船山 馨
1914. 3.31(大正 3)
1981. 8. 5(昭和56)
◇小説家。札幌市生れ。明治大学商学部中退。
ふるおや まさと《ふるをや まさと》
古尾谷 雅人
1957. 5.14(昭和32)
2003. 3.25(平成15)
◇俳優。本名は古尾谷康雅。神奈川県川崎市生れ。
高校卒業後に劇団ひまわりに入団。
1977(昭和52)日活ロマンポルノ『女教師』映画デビュー。
のち、テレビドラマなどでも活躍。
首吊り自殺。
ふるかわ かいらい
古川 魁蕾
1854(安政元)
1908. 8.20(明治41)
◇戯作者・新聞記者。本名は精一、号は古江山人・鬼斗生・
竹のや雀。江戸生れ。
ふるかわ ろうせん
古河 老川
1871(明治 4. 6. 3)
1899.11.15(明治32)
◇評論家。本名は勇。結核により死去。
ふるかわ ろっぱ
古川 緑波
1903. 8.13(明治36)
1961. 1.16(昭和36)
◇俳優。本名は郁郎。
ふるさわ げん
古沢 元
1908.12.(明治41)
1946. 5. 3(昭和21)
◇小説家。本名は玉次郎。モンゴル共和国で没。
ふるた あきら
古田 晁
1906. 1.13(明治39)
1973.10.30(昭和48)
◇筑摩書房の創業者。
ふるた おりべ
古田 織部
1543(天文12)
1615(慶長20. 6.11)
◇安土桃山・江戸初期の大名・茶人(茶道織部流の祖)。名は
重然(シゲナリ)、通称は左介(サスケ)、号は印斎・織部正(オリベノカミ)。
美濃の人。
初め織田信長に仕え、のち勘阿弥と称して豊臣秀吉に仕え、
京都付近の西岡に3万5千石を与えられ、同朋(ドウボウ)となる。
千利休の高弟で、利休の死後一派をなす。秀吉の死後隠居し
て茶道三昧の生活に入り、茶匠としての名声があがる。
関ヶ原の戦では徳川方に属し功をあげて大名に復した。徳川
家の茶道師範と称され、徳川秀忠はじめ諸大名に点茶を伝授。
陶芸では織部焼の名を後世に残す。
大坂夏の陣で豊臣方に内通したとの疑いを受け、自刃を命ぜ
られた。
『茶事百ヶ条』を著す。
(4)生年は1543。
(6)生年は1544。
(16)生年は1543。
(19)生年は1543。
◎千利休の高弟七哲人の一人。
本阿弥光悦(コウエツ)・小堀遠州(エンシュウ)らの師。
ふるた だいじろう《ふるた だいじらう》
古田 大次郎
1900. 1. 1(明治33)
1925.10.15(大正14)
◇無政府主義者。東京生れ。
1920(大正 9)建設者同盟に加盟。のち中浜哲らと小作人社、
ギロチン社など無政府主義結社を組織する。1923. 9.(大正12)
テロの運動資金を強奪するため、大阪の北浜銀行小坂支店の銀
行員を襲撃し誤って刺殺、東京市ヶ谷刑務所で死刑。
ふるはた たねもと
古畑 種基
1891(明治24)
1975(昭和50)
◇大正・昭和期の法医学者・血清学者。三重県生れ。
東京大学教授。
1960〜1972(昭和35〜昭和47)警視庁科学警察研究所長。
帝銀事件・下山事件などの鑑定にあたる。
ふるみ ただゆき
古海 忠之
1900(明治33)
没年調査中
◇満州国の日本人官僚。
総務庁人事処長、岸信介(ノブスケ)の部下。
国務院総務庁次長。
熱河省のアヘンを上海・香港で密売するルートを取り仕切っ
ていた。
ふるや つなたけ
古谷 綱武
1908. 5. 5(明治41)
1984. 2.12(昭和59)
◇評論家。愛媛県生れ。成城高校中退。
ふるやま このお《ふるやま こまを》
古山 高麗雄
1920(大正 9)
2002. 3.14(平成14)
◇作家。朝鮮新義州(北朝鮮)生れ。
1942(昭和17)召集され、東南アジア各地や中国を転戦。
1947(昭和22)復員。
雑誌「季刊芸術」の編集長を務める。
1969(昭和44)『墓地で』で作家デビュー。
1970(昭和45)サイゴン戦犯刑務所での体験を描いた『プレオ
ー8の夜明け』で芥川賞を受賞。
主な作品は『小さな市街図』(芸術選奨文部大臣新人賞)・
1994(平成 6)『セミの追憶』(川端康成文学賞)や、戦争文学3
部作『断作戦』・『龍陵会戦』・『フーコン戦記』など。
ふろいす
フロイス
1532
1597(慶長 2)
◇ポルトガルのイエズス(ヤソ)会士。本名はルイス・フロイス
(Luis Frois)。リスボン生れ。
1548(天文17)イエズス会に入る。東インドに派遣されゴアに
着き、聖パウロ学院に入学する。日本人最初の神学生パウロ・
アンジローと知り合い、またザビエルから日本の事情を聞く。
1554(天文23)司祭になり学院長・管区長の秘書を勤める。
1562(永禄 5)日本伝道の命を受け、1563(永禄 6)横瀬浦に入
港。フェルナンデスに付き日本語を修め、協力して『日本文典』
を編纂する。1565(永禄 8)上洛、第13代将軍足利義輝(ヨシテル)に
謁見。1569(永禄12)織田信長と謁見、ロレンソとともに席上で
日蓮僧朝山日乗(アサヤマ・ニチジョウ)を論破し、延暦寺や石山本願寺
などの対抗策として信長の保護を受け、近畿伝道の成果を収め
る。のち『日本史』の編纂を委嘱される。1586(天正14)クエリ
ヨの日本全市教地巡錫に随行、九州各地や近畿地方を歴訪し、
長崎に帰る。
1587(天正15)豊臣秀吉が追放令を発すると加津佐や長崎に行
き、1592年バリニアーノに随ってマカオに赴くが、再び長崎に
来たり、1597(慶長 2)長崎で日本二十六聖人の殉教を目撃。
同年長崎で亡くなる。
滞日中、ローマのイエズス会本部へ140余通の報告をしてい
る。『日本史』の草稿が1925(大正14)発見され、翌年刊行され
る。
(4)没年は1597。
「日本二十六聖人」の項。六九年(慶長一)長崎の丘上で……。
(6)没年は1596/97。
(16)没年は1597(慶長 2)。
'97(慶長 2)26聖人の殉教をまのあたりに見て,……。
(*)1532(享禄 5,天文元)、1592(天正20,文禄元)。
1576(天正 4)吉利支丹(キリトタン)の信徒19万、寺院200に及ぶ。
ふわ かずえもん
不破 数右衛門
⇒ふわ まさたね(不破 正種)
ふわ まさたね
不破 正種
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。元赤穂藩士、馬廻兼浜辺奉行・普請奉
行。通称は数右衛門(カズエモン)、戒名は刃観祖剣信士。吉良家を
探索中の変名は八左衛門(ヤザエモン)(大阪)・松井仁太夫(ジンダユウ)
(江戸)。父は元赤穂藩士岡野治太夫(ジダユウ)、浅野家譜代の家
臣不破家の養子。
据物斬りなどで主君の怒りにふれ浪人する。
吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、荒川十太夫(ジュウダユウ)の介
錯(カイシャク)で切腹。
(2)母は長沢六郎右衛門の娘。(名)正僅。200石を禄す。
(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
成美堂出版 昭和56年11月 1日初版発行
監修:尾崎秀樹 昭和57年 1月10日四刷発行
不破数右衛門(フワ・カズエモン)正種(マサタネ)。元百石。母は、赤穂
浅野家の臣長沢六右衛門(ナガサワロクエモン)の娘で……。
ふんが けいげん
文雅 慶彦
1621(元和 7)
1698(元禄11)
◇臨済宗相国寺派の住持。
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